− 最古の東海道 −
宇津ノ谷峠越えの東海道が整備される以前は、
「手児の呼坂」「井尻峠」「日本坂」を越えて焼津へと向かうルートだった。
ここでは手越の徳願寺の南にある「手児の呼坂」から「日本坂」を越えてみよう。
[牧ケ谷]
葵区の牧ケ谷から南藁科街道を下ると駿河区の向敷地へと町名が変わる。
街道も長田街道と名前を変える。
街道が川沿いになった所の河川敷きに舟山がある。
[舟山]
葵区と駿河区の境のあたりの安倍川河川敷きに小さな森があり舟山と言う。
東海道が整備される以前の藁科川は安倍川とは別の独立河川だったので、2本の河川を渡らなければならなかった。
舟山あたりで藁科川を渡り、その先の安倍川を渡って安西へと向っていたらしい。
[手越・伊勢神明宮]
駿河区に入って間もなく長田北小学校の前から山の麓へと向かう。
少し登った所にある神社。
鳥居の脇に戦争犠牲者の忠霊塔が建てられている。
こういった忠霊塔は地域の中心となる神社や寺でよく見かける。
[徳願寺]
伊勢神明宮のすぐ近くの農道のT字路に徳願寺の道しるべが立てられている。
徳願寺へ向かうにはこの農道を登るか、100m程の南に参道があって階段状の山道を登る。
[徳願寺]
農道を登るとしばらくして「大門段」と書かれた看板が立っているので読んでみます。
徳願寺が大段に建てられて居た当時に、此の付近に山門が建てられて居たため、この場所が「大門段」の地名で後世に言い伝えられている。
[丸山見晴し台]
農道を登って行くと途中に丸山という小さな丘があって、見晴台が造られている。
富士山はもとより南アルプス、安倍川、静岡市全体が見渡せる。(この写真は別の日に撮ったものです。)
建設のいきさつの書かれた看板が立っていたので読んでみます。
<円山花木園>
農地・環境・景観の保全活動を目的に、向敷地里山保全協議会が設立された記念に、耕作地の土地所有者の皆さんのご協力により地域の皆さんと協働して霊峰富士を仰ぎ静岡市内を一望できる円山花木園を開設しました。
どうぞ、静岡一番の展望をお楽しみ下さい。
平成19年4月 向敷地里山保全協議会 向敷地町内会 向敷地部農会
[徳願寺]
農道を麓から100m程の標高を稼ぐと徳願寺が見える。
山門の脇にお堂が建てられている。
この建物が駿河七観音を祀る観音堂なのだろうか。
[徳願寺]
寺の正面入口は少し回り込んだ所にある。
由緒書きがあったので読む。
徳願寺
平成6年夏 徳願幻住32世天記
境内地 2400余坪
御本寺 慈眼寺(福井県南条郡今庄町小倉谷)
示寂 明応8年3月23日(1499)
開祖 天叟祖寅大和尚
開基 徳願寺殿慈雲妙愛姉(北川殿)今川家7代 氏親の母
本尊 千手千眼観世音菩薩(行基作)安倍七観音の一体
創立 長録2年(1457)曹洞宗
創建 養老年間(717)真言宗
曹洞宗 徳願寺
[徳願寺]
参道は木に覆われて静寂の中にある。
この参道はほとんど使われていないようだ。
[徳願寺]
「大窪山 徳願寺」の本堂がある。境内には歴史が書かれている。
徳願寺山(静岡市向敷地)
静岡の市街地や富士山を遠望することができる徳願寺山一帯は、縄文時代から中世・近世にいたる先人たちの足跡が残された貴重な歴史の宝庫といえる。
中でも近年注目されているのが、徳願寺山頂の掘切りを伴う曲輪状の山城の遺構である。「大窪山徳願寺」は、山頂に祀ってあった千手観音を降ろして現在の寺がここに開かれたとの伝承がある。
このため徳願寺の前身は、安倍7観音の一つである「大窪寺(だいあじ)」に関連した遺骨の可能性が考えられる。大窪寺(だいあじ)が、山岳仏教寺院として栄えていたことは鎌倉初期の「久能寺大般若経」(静岡県文化財)の奥書に寺名がしばしば登場することからも理解できる。
現在の徳願寺は戦国時代に今川家7代氏親の生母で北川殿(北条早雲の妹)が曹洞宗に改宗し今日に至る古刹である。
寺には北川殿の古文書などが残されている。
[徳願寺]
今川家の7代当主氏親の母、9代当主義元の祖母である北川殿の墓がある。
北川殿が徳願寺の開基となっている。
[徳願寺]
池の畔に鴨とアヒルが遊んでいた。
人に慣れていて餌が欲しいのか近寄って来た。
[手児の呼坂]
山の中腹にある徳願寺から南下すると農道は二股に分かれる。
右へ行くと農道は北丸子へ出る。真っ直ぐ行くと「手児の呼坂」の入口へと向う。
[手児の呼坂]
二股から坂を登りしばらく行くと「手児の呼坂」と書かれた道しるべが階段を登った所に立っている。
「最古の東海道」とされるこの道はこの坂を越えて丸子へ出て井尻峠、小坂、日本坂へと向かう。
[手児の呼坂]
「手児の呼坂」の看板の近くに「最古の東海道」「万葉の道」と書かれた看板も朽ちかけていた。
[手児の呼坂]
由来看板も立っている。
手児の呼坂
我が国最古の東海道の大動脈だった東路は、日本坂を越えて手児の呼坂を通り、舟山を経て駿河の国府に通じていました。
平安朝の頃から宇津の山路が開けると、手児の呼坂は、丸子を経て手越・国府への道として、江戸初期東海道53次の街道が整備されるまで千余年の長い間、都と東国を結ぶ重要な官道でした。
東路の「手児の呼坂 越えかねて 山にかねむも 宿りはなしに」をはじめ、3首の万葉歌が残され、紫式部、連歌師宗長、大納言烏丸卿幾多の有名人によって多くの歌が詠まれた東路の歴史と高学を秘めた峠路でした。
[手児の呼坂]
峠のあたりに「史跡 手児の呼坂」の石碑が建っている。
[手児の呼坂]
丸子側からの登り口にも「手児の呼坂」の看板。
[手児の呼坂]
樹木のトンネルの坂を下る。
[手児の呼坂]
坂を下ると北丸子の市街地が見えてくる。
[手児の呼坂]
坂を下りきる手前に緑のトンネルが歴史の道から現実へとつなぐ出口のようだ。
[手児の呼坂]
北丸子の市街地から「手児の呼坂」を案内する看板
[北丸子]
最古の東海道は区画整理された街路となって、旧東海道方面へと進む。
[北丸子]
「最古の東海道」は「現在の東海道」の国道1号線と交差して「旧東海道」方面へと向かう。
[丸子]
旧東海道へと突当る。
正面は長田西小学校。
[丸子]
このあたりは旧東海道として長い間発展をとげていた区域なので最古の東海道はどこを通っていたのかわからない。
旧東海道のページへ進むにはこちらをクリック。
[丸子]
旧東海道の名残りを感じられる松の手前の路地を南へと向う。
[丸子]
丸子川に突き当たる。
[井尻橋]
丸子川の井尻橋と書かれた橋を渡る。
ここから井尻峠へと進む。
ここから最古の東海道が復活する。
[井尻橋]
橋の手すりに「小野寺」「朝鮮岩」「満願峰」と書かれた小さな案内看板がかけられていた。
[井尻峠入口]
井尻橋から小野薬師寺へと向かう。500mで坂が急になる。
「最古の東海道、井尻峠」と書かれた看板が立っている。
宇津ノ谷を通る「蔦の細道」や「旧東海道」が整備される以前には、ここから小坂へ向かい日本坂を通って焼津へと通じるこの道が主要道路だった。
[井尻峠]
井尻峠入口のすぐ横に八幡神社がある。
[小野薬師寺]
峠へ向かう前に小野薬師寺へ寄ってみます。
坂道を登ると「二丁目」と書かれた道標があった。
急峻の山道は荒れてはいるが部分的に舗装のような整備がされている。
お参りの人への配慮か路端に一丁目から順に八丁目?まで道標が立っている。
[小野薬師寺]
小野薬師寺はちょうど桜が満開で厳粛な雰囲気に色を添えている写真を載せておきます。
《富向山小野寺》 ふこうざんおのじ
丸子の井尻と呼ばれる山の中腹にある真言宗の寺。
昔は正月に男女が参詣し、「ひよどり踊り」を歌い踊って、妻を求めた。
今でも正月15日に「カッポ酒」という酒を振るまってくれるらしい。
本尊の薬師如来像は小野妹子の子孫で小野小町の父として有名な小野篁の念持仏と言われている。
[小野薬師寺]
富士が良く見える。
富士が見渡せるように木を除けて植えてある。
静岡市内にある中でも指折りの絶好の撮影ポイントだ。
[小野薬師寺]
寺の裏手に朝鮮岩、満願峰への道しるべがある。
ここは朝鮮岩経由で満観峰へ向かうハイキングコースになっている。
又の機会に挑戦してみようと思う。
[小野薬師寺]
小野薬師寺から少し戻った所から南側へ山道をしばらく登った所に墓がある。
檀家の墓ではなく住職の墓であろうか数基が並んでいるだけだった。
[最古の東海道]
先ほどの八幡神社脇にあった「最古の東海道」の道しるべまで戻って井尻峠を越えることにする。
[井尻峠]
踏み跡もほとんど見えない山道だ。
[井尻峠]
欝蒼とした藪の中へ向かうような山道だ。
[井尻峠]
クモの巣をかき分けて進む。
[井尻峠]
しばらく登ると山道は開けた段々畑へ出る。
[井尻峠]
ここからは静岡市街地がよく見える。
丸子の市街地が見渡せる。
遠くには富士が見えるはずだが曇っていて見えなかった。
[井尻峠]
峠を越える。
石垣が組まれている箇所があった。
道を保護するためのものか、かつて農地だったのだろうか。
[井尻峠]
道は下りに入る。
道が林で保護されている。
[井尻峠]
大和田へ向い下って行く。
[井尻峠]
大和田側の道は傷みが少なくて歩きやすい。
所々に石垣が組まれている。
[井尻峠]
道しるべの看板が掛けられている。
「大和田←→井尻」と書かれている。
[井尻峠]
荒れてはいるが所々に耕作のあとがある。
[井尻峠]
道は所々崩れた所がある。
[井尻峠]
舗装道路や作業小屋が見えると石垣で組まれた農地も散見される。
[井尻峠]
大和田の登山口。
石垣が組まれて歩きやすい。
[井尻峠]
大和田へ向けて道路は舗装されている。
[井尻峠]
この舗装路は住宅?作業小屋?で突き当たる。
犬が放し飼いになっており、吠えながら近づいてきて、それを追って住人?が出てきたが抑えようともしない。
犬が興奮して足にまとわりつき、なんと噛みつかれてしまった。強く噛まれたわけではなかったが買ったばかりのズボンが破られた。
怪我は内出血程度だったが、子供なら傷になっていただろう。
[井尻峠]
舗装路を真っ直ぐ大和田の町内へ下りていく。
電信柱に「井尻峠への道」と書かれている。
[大和田]
大和田神社がある。
[大和田]
観音堂または地蔵堂が集落の中心となる交差点に建っている。
[大和田]
井尻峠へ案内する道しるべが掛けられている。
「東路(あずまじ)井尻峠←万葉の道大和田」と書かれていた。
[大和田]
小坂へ通じる城山中学校前の道へと向かう。
[大和田]
道は城山中学校の交差点へ出て、新巴川製紙から小坂へと向かう道に出る。
[小坂]
800m程で小坂川へ突き当たる。
[小坂]
小坂へは真っ直ぐ進むが、右への道へ入ってみる。
右への道が古い農家の間を縫うように通っていて旧道のようだ。
[小坂]
所々道が寸断されていてわからなくなるが、畑と山の際を進む。
[小坂]
道の山側の脇には石垣が組まれている。
[小坂]
ポケットパークのある交差点で小坂への道と交差する。
[小坂]
ポケットパークの塀に「最古の東海道(万葉の道)」の看板が掛けられている。
今通って来た道が最古の東海道ということらしい。
[小坂]
ポケットパークの向かえ側の角に「御所の前」がある。石柱が立っていて由緒書きが彫られていた。
<史跡 御所の前>
7世紀中期頃、大和朝廷は、西は九州、東は陸奥の一部を統一し、遣隋使、遣唐使の派遣により、大陸の先進文物制度を摂取し、中央集権国家の確立と、諸国に通ずる交通路の整備を図り、「大化」と初めて年号を制定した。世に言う大化の改新(645)である。
大和の都から遠く陸奥国に通ずる最古の東海道は、大化2年の駅伝制の詔により、駅馬、伝馬の制度が設けられるようになった。
万葉の道、駅馬の道とも言われ、野超え山越えの狭隘な道が延々と続いていた最古の東路が高草山の何処を通ったいたかについては、初倉駅−小河駅−日本坂−手児の呼坂−横田駅が考えられる。
海抜302mの日本坂超えの道は急峻であり、花沢から大崩海岸の平坦な通路も利用したものと思われる。この坂超えの道と大崩街道の合流点が、倭建命の伝承の地、小坂小字「御所の前」であり、往時の交通の交通の要衝の地であった。万葉人の苦難の旅路が今に偲ばれる貴重な史跡である。
[小坂]
「御所の前」の路地を入った所に満願寺という曹洞宗の寺がある。
住職のいない寺のようだ。
[瑞應禅寺]
「御所の前」まで戻り100mほどの路地を南に入ると臨済宗向嶽寺派の雲梯山 瑞應禅寺(うんていさん ずいおうぜんじ)という臨済宗向嶽寺派の寺がある。
路地への入口に案内の石柱が立っている。
[小坂]
ここ小坂には日本武尊に縁のある史跡が多くある。
瑞應禅寺にも伝説があって、開基は日本武尊とか。実は開基ではなく寺の前身となる館があり、その後、その地に寺が創建されたとされる。
またこの寺の開山が行基だったとの伝説もある。
山門は享保12年に改築され昭和30年に修復されたもの。
[瑞應禅寺]
山門の前に子安観音堂が建てられている。
昭和43年に新築されたものだそうだ。
[瑞應禅寺]
山門をくぐると鐘楼が目に付く。
嘉永4年(1851)に再建されたもの。
[瑞應禅寺]
本堂は安政4年に焼失し、明治23年に再建されたもの。
今は臨済宗向嶽寺派の寺として住職もいる寺なので手入れが行き届いている。
[瑞應禅寺]
金比羅宮があるとのことなので、どこにあるか探したら裏山に小さなお堂が建てられている。これが金比羅宮なのだろうか。
登っていいのかわからなかったので確認できませんでした。
[小坂の磐座]
小坂の通りへ戻り日本坂へ向かうとすぐに「小坂の磐座鎮祭」の案内板が家の木壁に貼り付けられていた。
ちょっと路地へ入ってみました。
[小坂の磐座]
民家の門を入った所に「御所の石」という「日本武尊の腰掛石」があり、日本武尊が腰を掛けて休んだという。
<坂の磐座(いわくら)の由緒>
縄文人も弥生人も通り日本武尊が坂越えしたと伝承される。
この峠路をいつしか尊の御名に因んで日本坂と呼ぶようになりました。この日本坂は都と東国を結ぶ最古の官道で万葉の道駅馬の道防人の道として世に知られています。
坂の東口、路傍の山の端に旅人の守護神として崇められ磐座が鎮祭されていました磐座とは古代人が信仰した神が宿る神聖な霊石のことです。
小坂からの坂越えの人達は旅の道中安全を祈願し花沢からの旅人は恙なく坂越えてきた感謝の祈りを捧げました。往昔の苦難の旅路。その語るこの磐座には多くの古代の人達の魂とロマンが秘められています。
この霊石は平成元年9月台風禍にて崩落し、地主成澤義行政江夫妻がこれを痛み畏れ、守護神として自邸に奉祭し旅人達の御霊安かれとお祀りしています。
[小坂]
通りへ戻り日本坂へ向かってすぐの角に「安養寺」を案内する石柱が立っている。
100mほど入ると「安養寺」が見える。
[小坂]
山門が建てられていて、門には「佛谷山 安養禅寺」と書かれている。
[小坂]
山門の脇に「下馬石」と書かれた看板があった。
馬で来た参拝者はここで馬を降りたのだろう。
[小坂]
門を入った左側に絵と字の描かれた看板が立っている。
家康公お手植えみかん
当地小坂安養寺裏山に徳川家康公駿府在城当時この地方に鷹狩にこられた折、お手植されたものであると言い伝えられている。由緒あるみかんの木があります。
尚駿府城内にも樹令350年を経る老樹が現存しております。
静岡市教育委員会
[小坂]
看板の脇に蜜柑の木が生えているが、これが徳川家康、お手植の蜜柑なのだろうか。
[小坂]
鐘楼も建てられている。
時代が感じられる建築だ。
[小坂]
曹洞宗の「仏谷山 安養寺」。本堂は比較的新しい建物だった。
[日枝神社]
寺を出た所に鳥居が立っている。
ちょっと入ってみます。
[日枝神社]
ひえ神社は比叡山にあったことから日枝神社とされる。
山岳信仰の神社。
[小坂]
安養寺から西へ200m余りで公民館があって、その向い側にバスの回転場所がある。
新しい地蔵尊が立てられていて銘盤に説明書きが彫られていた。
<小坂地蔵尊建立縁起>
当小坂は、遠く奈良朝の頃から佛教篤信の地で、住人は淳朴勤勉で多くの農耕を業としてきました。現在戸数、230戸町内和協して、誠に平和な恵まれた土地であります。
然るに、朝夕、子供に至るまで親しみ尊ぶ町内地蔵堂が腐杯破損して其形すらなく長い年月を過ごしてきました。古老の話によれば、明治17年9月15日の大暴風雨の時に古来の地蔵堂は崩潰したので、其後假に造築したものでありたとか、今日では、地蔵尊像すら原形を失して、詣うずる人々が甚だ憂うる処でありました。
今度、幸いにも町内各家挙げて、尊像建立の議を決す因縁が結ばれて、各自浄賊を寄進して、多年の宿願を成就することになりましたので、現在四囲の事情、境内用地の状況等を考慮して、尊像を製作し、露佛として安置を見るに至りました。
想ふに、地蔵菩薩は我等に最も親しみ深い佛様で、毎日六道に遊化して、我等の苦を抜き楽を與え給うの他、10種の福徳を授け、八大怖を除き、四生五行あらゆる面に変化して、能く我等を導き給う大願王尊であります。故に之の菩薩を恭敬し、供養する事に依って、福徳楽壽極まりなく後生善処の最大佛果を與え給う、實に不二摩訶行の佛様であります。
おんかかびさんまえいそわか
維時昭和36年9月26日
[小坂]
バスで訪れた人のためにだろうか、この地域の案内看板が掲げられていた。
見どころがわかりやすい絵地図に描かれている。
[小坂]
家康の手植え蜜柑の説明看板が通りに面して公民館の前に描かれていたが、安養寺にあった看板と全く同じものだ。
この看板にはどこにみかんの木があるのか書かれていなかった。ここだけ見た人は訳がわからないだろうな。
[小坂]
秋葉灯籠が道路脇にある。屋根付きの小屋の中に入っていて大事にされていることがわかる。
[小坂]
しばらく進むと日本坂の案内板があり、由来が書かれている。
日本坂の由来
日本坂は、奈良期の官道が初倉駅(島田市)、小川駅(焼津市)、横田(静岡市)を経由していたことから当時の東海道の峠道として使われていたと思われる。
「城超えて阿部の田の面に居る鶴(たず)の ともしき君は明日さえもがも」(万葉集)
にみえる坂は日本坂と思われ
「焼津辺にわれ行きしかば駿河なる 安倍の市道に逢ひし児らはも」万葉集
の歌でも、この峠が安倍の市との交易路として重要であったことがわかる。
平安末期以降は、東海道が宇津の谷峠越えとなり日本坂超えは衰退したが、地元では昭和10年頃まで花沢側で生産された繭が(日本坂越しに)運ばれるなど生活に密着した峠として用いられた。
坂名は、焼津の地名起源説話に影響されたと思われ日本武尊にちなむという。(駿河志料)
[小坂]
道が二手に分かれている。
真っ直ぐ進むと日本坂。
右に曲れば満願峰への道となる。
[小坂]
地図が描かれた看板があって、道案内されている。案内図が多く立てられている所を見ると迷う人が多いのだろうか。
<御坂堂から登ろう!>
日本坂まで 40分 花沢の里まで1時間15分 満願峰まで 2時間20分
満願峰472m 農道から25分歩いて約1300歩 農道から40分歩いて約1800歩
自然の中で自分の宝物を見つけよう。
御坂堂から花沢まで約5000歩 御坂堂から満願峰まで約7300歩
歴史と自然あふれる小坂の里には珍しいクロマドホタルが生息しています。
日本武尊が「敵に追われ隠れた」と言い伝えられている穴。
いぼ地蔵、子育て地蔵とも言われており願い事をかなえてくれる。
[小坂]
この分岐点には御坂堂という小屋が建っていて日によっては農産物の直売所にもなっているようだ。
立札が立てられているので読む。
動機 成澤政江
作詞 春田鐡雄
日本坂のぼれ 東からのぼれ お日様とのぼれ
日本坂のぼろ 東からのぼろ 御坂堂からのぼろ
日本坂登りゃ 歴史の山が 駿河の海が 日本一の 富士山が
御坂堂は史跡「小坂」から出発しましたささやかなふもとの茶屋ですが地元小坂に眠る昔の人の生活を考えて見たいと思ったから(こんな山のすみにくらした人たちの信仰やら健康を考えたら)と店にならべたもの、朝市などこの考へから産み出したもので御利用頂きたく考えたものです。山へ上り下りの節おたちよりください。
[小坂]
日本坂へ進む前に観音堂へ寄ることにする。
御坂堂の脇にも案内板が立てられている。
[小坂]
「雲龍山 不動尊」がひすいの滝の前に建てられている。
[小坂]
観音堂が立てられている。三十三観音が並ぶ。
[日本坂]
分岐点まで戻り、日本坂へ向かう。
農道と山道がある。
しばらく登ると農道は突当り急な山道となる。
[日本坂]
山道とはいえ、石垣が組まれて整備されているところもあり、実用とされていた時期があったことがうかがわれる。
石垣の上は茶畑だったようにも見えるところもある。
[日本坂]
かつては馬での往来が可能だったと言われている。
[日本坂]
険しい場所もある。
山は手入れされていない林となっていて林業の後継者不足が垣間見える。
[日本坂]
農道から離れてから15分足らずで峠に出る。標高が302mとのこと。
右に尾根伝いに2.1kmで満願峰、左に800m上ると花沢山、正面へ下ると花沢の集落へ下りることが出来る。
[日本坂]
峠の直ぐ横に石組みの祠があって地蔵尊が祀られていた。「穴地蔵」と言われている。
これが日本武尊命が隠れたとされる岩穴だとか。
2000年近く前の話なので当時のままではないだろうと思うけれど思いをはせてみました。
[満願峰]
満願峰の頂上。標高は470m。
頂上には四阿も建てられていてハイキングの目的地としてよく整備されている。
[満願峰]
頂上広場の一角に木の生い茂った場所がある。
[満願峰]
密集した木に囲まれて祠があった。「高根白山神社」があると聞いているのでこのことなのだろう。
[満願峰]
晴れていれば静岡市街地の先に富士がきれいに見えるのだが頂上に着いたら麓が見えるのみだった。
ハイキングコースを描いた周辺地図と案内看板が四阿脇に立っていたので読んでみます。
東海自然歩道バイパスコース
470m ここは満願峰です
<現在地周辺について>
東南に下ると「日本坂峠」を経て「花沢山」にむかいます。花沢山へ向かう歩道はきつい登り下りが続く、上級者向きのコースです。途中休憩をとりながら、無理せず自分のペースで進んでください。
北西に進むと逆川沿いを下り、旧東海道の面影を感じさせる「宇津ノ谷」に向かいます。
また、周辺には上図のように多くのハイキングコースがあります。
[日本坂]
満願峰から日本坂まで戻り、焼津方面へ下りる。
下りはじめるとすぐに庚申塔が立っている。
この道沿いには庚申塔が多く見られるが、こんな高い所にもあるのだ。
[日本坂]
このような悪場もあって、崩落がたびたびあるのだろう。
このような所も馬で往来したのだろうか。
[日本坂]
年代物の杉も所々に見られる。長い年月ここを通る旅人を見守って来たのだろうか。
[日本坂]
花沢の農道からの登り口。
[日本坂]
農道を横切って街道を下りると石畳となっている場所もあった。
[花沢]
街道は「高草山 法華寺」の境内に出る。
[花沢]
仁王門が建てられていて仁王様が出迎えてくれる
入口にある寺にある文化財の説明看板に「仁王門」の説明が書かれていた。
焼津市指定有形文化財 仁王門 昭和42年12月4日指定
木造入母屋造り。銅版葺。間口7.36m(4間)、奥行4m(2間)、梁高4.11m(13尺6寸)、棟高7.50m(24尺6寸)の8脚門。
元禄16年(1703)12月、藤枝の大工伊左ヱ門によって建立されたもので、左右の全部に仁王尊(金剛力士像)がまつられている。仁王門とは仁王像を安置する門であり、伽藍を守護することを意味している。
[花沢]
迫力のある仁王像が寺を守っている。
[花沢]
入口近くのお堂の脇に看板が建てられていた。
乳観音の由来
えと文 滝井ノボル
むかし、、、、高草山の隣村の嫁が乳の出がわるくて悩んでいた。毎日赤児を抱いて神仏に願かけして歩いたがが一向に効き目がない。
ある日のこと、赤児を背おい高草山を越えてみた。
ふもとの法華寺の門前で祈った。そのとき、、、、
とつぜん大木の幹から光を発し観音さまが現れた。
「そなたの願い叶えて進ぜましょう」とお告げをいただいた。
すると嫁の乳はその晩よりあふれるばかり出がよくなり赤児は目に見へて肥え太り村一番の元気な子になりました。
このことは近郷近在に知れわたり大評判となった。以来法華寺は乳観音をまつり、近郷近在の母子たちに喜び慕われて訪れる人が絶えないという。
法華寺のことを別称「ちちかんのん」と云っている。
[花沢]
境内にこの寺にある文化財を説明した看板が立っていた。
法華寺の文化財
静岡県指定有形文化財 木造聖観音立像 昭和33年4月15日指定
像高169.2cm 臂張46.6cm 裾張34cm 裾奥行 21.5cm
寄木造りで直立の等身大立像。桧材。ひだの彫りも、その線の流れも極めて優美であり、藤原期(平安時代後期)の作と思われる。
もとは彩色されたものらしく、漆箔がところどころに残っている。
天衣が裳の前で二段に平行に並び、それがさらに左右の手に懸り、裾脇でひるがえっているが、後補のようである。天冠、瓔珞など装飾の金具も多いが、後世のものである。
焼津市指定天然記念物 イチョウ 昭和42年12月4日指定
昭和58年8月7日指定 倒木のため
同年9月13日市指定解除
目通り5.54m、根廻り8.40m、樹高20m、枝張り21m、下垂気根10個(最長1.4m)
法華寺の山門前にあり、樹勢良好、雌樹で多量の実をつける。
イチョウは化石植物で、鎌倉時代にの中国から、我国に渡来したといはれている。火に強く、火災にあっても枯死しない性質がある。
昭和57年3月 静岡県教育委員会 焼津市教育委員会
[鞍掛峠]
法華寺から鞍掛峠までの道を散策してみます。
寺の山側に花沢の里の山小屋があってその脇を案内標に沿って登る。
[鞍掛峠]
小さな沢の脇に石組みされている坂道を登る。
馬や荷車を対象としたような幅のある道だ。
[鞍掛峠]
分岐点には迷子にならないように案内標が導いてくれる。
[鞍掛峠]
緑のトンネルを抜けると峠へ出る。
峠を通り過ぎて下ると岡部へ向かい宇津ノ谷の手前へ出る道だ。
峠から尾根伝いに登ると満願峰へ向かう山道になる。
[花沢]
花沢の里へ戻る
古い町並みが残る人気のある街道だ。
[花沢城]
花沢の里を沢に沿って下ると東名高速道路が見えてくる。
西を見て見るとこんもりとした山が見えるが、これがかつて花沢城があった山だろうか。
[石脇城]
東名のガード下をくぐり国道150号線を西へと向う。1kmほど進むと北側に小さな山がある。これが石脇城址だ。
国道に平行する農道に入ると城址のは入口に標柱が立てられている。
[石脇城]
城址へ向かう道が真っ直ぐ小山へと続く。
[石脇城]
山への入口に鳥居が建てられている。登り口の脇に説明看板が立っていた。
石脇城跡
この城は、北の高崎山から南へ枝分かれする尾根の先端の標高30mの「城山」に所在する。
15世紀(室町中期頃)の駿河守護職で後の戦国大名今川氏の属城(支城)と推定され、範囲は南北約220m、東西130mと考えられる。
山裾の西から南へ流れる堀川を外堀とし、山頂の第一曲輪(くるわ:頂上あるいは尾根の上の平坦化された区画)、中腹の第二曲輪、その第二曲輪を堀切で隔てた南端の外曲輪と、附属曲輪5〜6ヶ所からなると云われており、第一曲輪と考えられる山頂には土塁(どるい:城郭の防御のための土手)の痕跡が残っている。
城主については、記録がないが、江戸時代に編まれた地誌「駿河記」によると、文明年間(1469〜1486)に今川義忠が伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)を石脇に住まわせたとある。
伊勢新九郎盛時は、文明8(1476)年応仁の乱の影響で今川家の当主、上総介義忠が遠江(御前崎市川上)の塩買(替)坂での戦死により、時代をめぐる家督争い(内紛)が起きた際、嫡子龍王丸(後の今川上総介氏親)を助けて活躍した。伊勢新九郎は、この功績により富士下方12郷(富士市域)を与えられ、延徳3(1491)年以後伊豆平定にのりだし、やがて関東8ケ国を治めた戦国大名北条家(後北条)の基礎を築いた。
[石脇城]
「城山八幡宮」という神社が建っている。
[石脇城]
石垣が組まれた箇所が所々にある。
城のあった時代からのものかどうかは不明だが、そうだったらいいなと思う。
[石脇城]
この城山は二瘤になっていて一つは城山八幡宮でもう一つは大日堂が建っている。説明書きがあるので読んでみました。
大日堂の文化財
<焼津市指定文化財 吉祥天立像(木喰五行上人作)>
吉祥天は、正しくは大吉祥天女といい、福徳を司るといわれ、種々の善根を施したので美しい顔になったといわれている。髪はふっさりと肩までかかり、親しみを感じるにこやかな童顔をしている。高さは94cm。
昭和42(1967)年12月4日指定
<焼津市指定文化財 不動明王像(木喰五行上人作)>
この像は吉祥天立像が完成した2日後に出来上がった。岩座の上に踏んばり、渦巻きとなって燃え上がる火炎の中に立ち、不動の気魄を十分に表わしながらも木喰仏らしい人間味がでている。高さは94cm。
昭和42(1967)年12月4日指定
<木喰五行上人と焼津>
木喰五行上人(1718〜1810年)は安永2(1773)年56歳の時に日本廻国と千体仏の願をおこし全国を廻り諸国に自刻の仏像を奉納した。現在全国で約500体の作品の存在が確認されている。
木喰上人が当地を訪れたのは寛政12(1800)年上人が83歳の時で、故郷である現在の山梨県へ戻る途中であった。現在焼津市には、この時作られた仏像が大日堂、勢岩寺(歴史民俗資料館で保管)、宝積寺に残っている。
[石脇城]
石脇城のある城山を西側からながめる。
塀で囲まれた大きな家が山の傍らにあったが、昔から屋敷があった場所なのだろうか。
[浅間神社]
城山の北側に回ると東名の脇に神社がある。
鳥居の脇に大きな岩が2つ並んでいて、岩を避けて舗装されている。
岩の上にはしめ縄が飾られていた。
[浅間神社]
岩の横に神社の由緒が書かれた看板が立っていた。
浅間神社由緒
鎮座地 焼津市石脇705番地
祭神 木之花咲耶姫命・品陀和気命
天照大御神
例祭日 10月10日
境内社 津島神社 境内地477坪
<由緒>
浅間神社登り口の右側に大きな岩が二つある。旗掛石又は鞍掛石という。
本来この二つの岩は、我国の古い信仰である神の依りつかれる磐座(いわくら)であった。
この浅間神社は、延徳3年9月天下の英雄徳川家康の三河時代からの家臣であった原川新三郎氏が郷里原川村から、浅間社を勧請してこの聖地の側に奉斎したものと伝えられ、明治8年2月村社に、同40年3月神饌幣帛料供進社に指定された。旧除地高は2石であった。
<旗掛石>
当時、岩の近くに原川新三郎氏の門前があり、家康が天下を取ってからしばしばこのあたりで鷹狩を催し、そのつど原川家を訪ね、その際家康の旗を建て掛け、馬の鞍を置いたのでこの名があるという。他にやきつべの小径、駒つなぎの松の名跡がある。又、氏子達で年2回大しめ飾りが行われる。
<災害>
昭和57年9月12日の本県を直撃した台風18号により境内の南側階段等東海氏多大の災害を蒙るも464名の氏子一丸となって懸命な努力を続け復旧に直進し同年10月吉日大鳥居を再建した。
[浅間神社]
神社境内に「石脇探訪絵図」が描かれていた。
[寶積寺]
東名の側道の道路脇に寶積寺の案内看板が立っていた。
宝積寺の文化財
<焼津市指定有形文化財 地蔵菩薩像>
昭和47年11月28日指定
像高77cm(2尺2寸5分)、内台座14cm(4寸6分)、木喰五行上人作
この地蔵は左手に宝珠を持ち、右手は袂をつかんでいる。木喰仏としては珍しく、材質が桜の木である。しかもまことに慎重で、一部丸ノミが使用され、足指の爪まで掘り出されている。製作は、寛政12年(1800)7月と推定される。
[寶積寺]
東名の側道を進むと寶積寺がある。
[寶積寺]
石造りの観音様が境内に並んでいる。
西國33番観世音菩薩由来
当山石脇寳積寺境内に安置まします西國33番観世音菩薩の御尊体は今を去る、180年前。人皇119代光格天皇の御宇享和元年辛酉5月及び7月吉日を選んで、当村並びに近郷の篤志家が先祖菩提の為、勧請建立されたものであり、斯様な33の御尊体を羅列配置してある霊場は全く稀であり其の感応霊験あらたかなることは世人の能く知るところであります。
[大崩]
最古の東海道は寶積寺までで引き返し海岸ルートの大崩を通り静岡まで向う。
海岸線を通る道は最古の東海道のルートの一つだったそうだが、どうやって通ったのだろうか。
断崖絶壁が続き、がけ崩れが日常的に発生する悪場が続く。
あまり知られていないがアワビやサザエの好漁場。ほとんど築地へ行ってしまうそうだ。
[大崩]
絶壁の向こうに駿河湾。静岡市街の先に富士山がそびえ絶好のビュースポットとなっている。
[大崩]
JR東海道線は開設当時は今よりも海岸の近くに通っていて、廃トンネルが往時の風景を感じさせてくれる。
[大崩]
このトンネルのすぐ脇に波打ち際がある。
海が荒れる度に通行止めとなっていたらしい。
[城山烈士供養塔]
用宗駅の東へ200mに用宗公民館の前に「城山烈士供養塔」がある。
説明看板を読んでみます。
城山烈士供養塔
由来記
この供養塔の向背地の城山にあった持舟城は永禄元亀天正年間(1568年〜1582年)戦国争乱の最中に生れ、今川、武田、徳川など戦国大名の軍兵が互に攻防戦を繰り広げ数百の将兵が城と運命を共にしました。
ときの城将向井伊賀守正重ほか壮烈な散華を遂げた将士の霊よ安かれと祀ったのです。
[城山烈士供養塔]
供養塔に持舟城の説明も書かれていましたので読みます。
<持舟城趾由来略誌>
今川家は代々駿河国の守護大名として駿府に在り、周辺警備の出城として、関口刑部親長に持舟城を守らせていた。この関口の娘瀬名姫(後の築山殿)と徳川家康は弘治元年3月結婚。この政略結婚が後年家康の生涯にとって痛恨の惨事になるとは知る由もなかった。
永禄3年5月今川義元は桶狭間において織田信長の急襲に遭い敗死するや今川家の勢力は急速に退潮した。川中島で戈を収めた武田信玄は上洛の進路を東海道に求め、永禄11年末駿河に進行して持舟城を攻略、城主一宮出羽守は兵と共に討死、城は武田勢水軍の支配下に入った。
三河に勃興し遠州に勢力を拡大した徳川勢と度重なる攻防戦を繰り返し、なかでも天正7年9月の戦は最も残虐であった。それは織田信長に今川と結び謀反の疑いをかけられた家康が今川方の血を引く正室築山殿を自らの手の者に殺させ、また長子信康は二俣城中で自刃し果てた。我が妻子の無念を思う家康のやるところなきうっ憤の吐け場となり激闘壮絶を極め武田方の城将向井伊賀守正重、甥の兵庫叔父伊兵政綱長男政勝ら悉く悲惨な討死を遂げた。
後日家康は非を悔い向井叔父甥を興津清見寺に葬り、今も古式蒼然とした墓塔が同寺にあります。天正8年2月再び武田氏の領有となり朝比奈駿河守が城主となった。攻防戦の終盤は天正10年2月徳川家康は織田信長と共に甲州征伐を決して浜松城を進発し、遠州、駿河の各城を拔き持舟城に迫るや朝比奈駿河守は情勢不利とみて戦わずして城を明け渡し退却あっけない幕切れとなった。家康は間もなく廃城としたので戦国ロマンを秘めた持舟城の歴史的使命は終わった。
向井正重の次男正綱はたまたま城外に在って生き残り、本多作左エ門の手の者となり徳川家に仕えて船手頭となり、その4代目の子孫正興が長崎奉行勤番の折、城山の頂上に観音像を建立した。近年麓の大雲寺に安置されました。向井家は以後代々重臣として繁栄し、其の後裔は東京都新宿区に現住しておられます。
[用宗大雲寺]
用宗駅の東へ400m行った踏切を渡り、用宗駅の北側まで戻り、新幹線のガード下をくぐると持舟城址のある山の麓に曹洞宗「湘海山 大雲寺」がある。
羽鳥の久住山洞慶院から始まった「静岡梅花観音霊場」の一つ。大きな寺だ。
[用宗浅間神社]
用宗にも浅間神社がある。
祭神である木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は、霊峰富士を御神体として、火難消除・縁結び・安産・航海・漁業・農業の守護神として信仰されています。
神社の境内からは富士が見えないが、裏山を登ると持舟城址があり、そこからは素晴らしい富士が見える。
[用宗汐見坂]
浅間神社の脇の農道を登ると用宗汐見坂と書かれた道標があった。
この先には持舟城がかつてはあった事からこの坂は歴史があるのだろうか。
謂れはわからなかった。
[用宗持舟城址]
小山の頂上は持舟城趾なのだ。
用宗城は別のページを作っています。そちらへはこちらをクリック。
[手越河原古戦場跡]
用宗駅からJRに沿って1.5kmほど北にある「みずほ公園」に「手越河原古戦場跡」と彫られた石碑がある。
ここで「最古の東海道」とその周辺の散策を終了する。
手越河原古戦場跡
昔の長田は安倍川と藁科川が自由に流れていた広い河原であった。
鎌倉時代の末この河原で度々戦が展開された。中でも建武2年12月5日、新田義貞と足利直義の両郡合せて十万余の軍勢が正午から午後8時頃まで17回も激戦が繰返され直義軍は敗退したと言う。
この戦から650年に当るのを機会に戦に斃れた多数将兵の霊を慰め、戦を後世に伝える為にこの碑を建てる。
−コメント−
街道歩きと言うより、ハイキング、山歩きといったルートだった。
歴史以前、日本尊命の伝説の時代が始まりのルート。
山道が多く、距離がわからないが20kmを越えると思われる。