− 久能城址(久能山東照宮)−

東照宮は日光が有名だが久能山がルーツ
 久能城は現在久能山東照宮がある場所にあった城。
 建物は残っていないが天守台跡や石垣が残っている。



images/0080-50kuno3.JPG [久能山下]
 国道150号の新しい久能街道である海岸道路から久能山を見る。
 戦国時代には天然の要衝となっているのがわかる。攻め落とすのは難しかっただろう。
 久能屋と富久屋というお土産物屋が並んで観光客を迎えている。
 参道は土産物屋が並んでいる。

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images/0080-60kuno1.JPG [久能山下]
 土産物屋が終わる所に鳥居がある。  この鳥居の先から階段が始まる。


images/0080-60kuno02.JPG [入口]
 先ずはゆるい坂が始まる。


images/0080-60kuno04.JPG [案内板]
 鳥居をくぐった所に「久能山東照宮周辺のご案内」の看板。
 有度山周辺の地図に本殿や楼門の写真が載っており、「石段、1159段をお登り下さい」と書かれている。

images/0080-60kuno05.JPG [鳥瞰図]
 「久能山東照宮鳥瞰図」
 わかりやすい絵図が描かれている。

images/0080-60kuno06.JPG [説明板]
案内板や鳥瞰図に並んで「久能山東照宮」の説明板がありました。

 久能山には、推古天皇のころ(592年〜628年)、久能正仁が建立したと伝えられた久能寺があり、奈良時代の僧行基(ぎょうき)を始め、静岡茶の始祖といわれる聖一国師など、多くの名僧が往来し隆盛をきわめた。
 下って永禄11年(1568)、駿府へ進出した武田信玄は久能寺を清水市(今の鉄舟寺)に移し、この要害の地に久能城を築いたが、武田氏の滅亡とともに徳川氏の領有するところとなった。
 徳川家康は、大御所として駿府に在城当時「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いた語り、守りやすく攻め難い地の利の重要性を説いたといわれる。死後、その遺言によりここに葬られ、2代将軍秀忠によって社殿が造営された。日光東照宮へは、ここから御霊の一部を移したといわれている。
 権現造り総漆塗り極彩色の社殿は、国の重要文化財に指定されており、彫刻、模様組物等、桃山時代の文化の面影を残しながら、江戸初期の特徴を表している。そのほか、神庫、神楽殿、鼓楼等の建物も重要文化財に指定されている。
 みどころ  博物館、神廟、勘助井戸、石段等



images/0080-60kuno07.JPG [坂]
 灯籠がある所から階段が始まる。
 

images/0080-60kuno08.JPG [徳音院]
 家康公ゆかりの寺「久能山徳音院」が参道脇にある。
 「元三、慈眼 両大師堂」「本尊薬師瑠璃光如来」とある。

<久能山徳音院縁起>  徳音院は徳川家康をはじめ三代将軍に仕えた南光坊天海(慈眼大師)により開かれたお寺です。
 御本尊は徳川家康ゆかりの薬師如来で、そのほか不動明王、財福聖天、厄除開運の両大師をおまつりする駿河の霊場です。
 徳川家康は元和2年4月17日に亡くなり遺命により久能山へ納められました。
 家康を神様としてお祀りするにあたり、将軍秀忠は天海の主唱する山王一実神道で東照大権現の神号をいただき、元和3年4月には天海大僧正により日光に改葬されました。
 家光の代には久能山にも社殿及び寺院ができ、徳音院はその学頭として江戸時代は栄えておりました。ところが明治になって山上の寺院は取り壊されて、麓の徳音院だけが元三、慈眼両大師堂として残されました。



images/0080-60kuno10.JPG [徳音院]
[久能梅林]
 久能梅林を記念する碑が立っている。
 石垣いちご・章姫の記念碑もある。 

images/0080-60kuno12.JPG [駿河稲荷神社]
 階段を登り始めるとすぐに神社がある。

御祭神  稲荷大神 御例祭日  2月8日  当社は元久能山目代(代官)杉江家が伏見稲荷大社より勧請して家敷内に祀っていたものを昭和57年当所に移したものである。
 古来より稲荷大社は五穀豊穣商売繁盛の神として信仰されており2月の初午、二の午の日に参拝すると霊験あらたかである。
  久能山東照宮社務所



images/0080-60kuno13.JPG [石段]
 石垣積みの参道。
 かなり急な坂を登る。

images/0080-60kuno14.JPG [石段]
 つづら折りの階段が延々と続く。
 トレーニングと思い頑張る。

images/0080-60kuno15.JPG [石段]
 ここで続いた石段はGOOL。
 もうひと踏ん張り。

images/0080-60kuno16.JPG [駿河湾]
 ここまで登ると駿河湾が一望できる。
 イチゴハウスがたくさん見える。

images/0080-60kuno19.JPG [一ノ門]
 門をくぐって東照宮に入る。
 正面に門衛所が建っている。説明書きを読む。

 江戸時代久能山の門を守る与力がいた番所で、ここで登拝者を制限した。
 今回老朽化のため復元解体修理を施し保存したもので、この種の建物は全国でも少なく貴重なものである。



images/0080-60kuno21.JPG [石垣]
 石垣が久能城と言われた時を思わせてくれる。

images/0080-60kuno22.JPG [勘介井戸]
 井戸があって、募金箱が設置されている。説明書きを読む。

 武田信玄の軍師山本勘介が掘ったと伝えられる。
 この井戸は、戦国時代に山本勘介が掘ったといわれ今から約400年前の久能山城を語る貴重な文化財である。
 深さ33m石垣積みで今回蓋を作り保存につとめると共に照明装置を施し、内部がよく見られるようにした。
 この協賛金は井戸保存費である



images/0080-60kuno24.JPG [石垣]
 要塞のような石垣が昔の空気を残している。脇に「史跡 久能山」の説明が書かれた看板があった。

1.指定年月日  昭和34年6月17日
1.指定理由
 久能山はおよそ7世紀の頃に開かれ久能忠仁の建立した久能寺。武田信玄の築城した久能山城。徳川二代将軍秀忠公の創設した東照宮とその時代時代の歴史の変遷の跡を見ることができる。
1.久能寺
 久能山縁起によれば七世紀の頃に秦氏の久能忠仁が一寺を建て補陀落山久能寺山を久能山と称したと伝えられる。その後平安時代から鎌倉時代にかけて隆昌を極めたが山麓の失火によりほとんど烏有に帰したが今川時代には相当復興した。
1.久能山城
 永禄11年12月(1568)武田信玄は当山が要害の地であることを知って寺院を清水市北矢部に移し城砦を築いて久能山城と称した。天正10年(1582)武田氏が滅亡したので徳川の所有となった。山上の勘介井戸、愛宕の曲輪等は当時を物語るものである。
1.東照宮
 徳川家康公は生前、久能山城を駿府要害の地なりとして重要視し且つ風向を愛せられた。元和2年(1616)4月17日家康公が駿府(静岡)に歿するとき遺言により、この地に葬られ2代将軍秀忠公は壮麗な権現作りの社殿を造営された。これが現在の東照宮で13棟が重要文化財に指定されている。



images/0080-60kuno31.JPG [博物館]
 久能山東照宮博物館。脇に「参拝の御案内」が書かれた看板があった。

●御祭神
  本殿       徳川家康公
  相殿(あいどの) 織田信長公 豊臣秀吉公
●御祭神
 江戸時代初期の代表的建造物で2代将軍秀忠公の命により元和2年(1616年)5月着工、同3年12月に落成(400余年前)全国東照宮の根源をなすものであり、権現造総漆塗極彩色で特に彫刻絵画等に優れ結構壮麗を極めている。
 御社殿・御廟所外諸建築物(13棟)は国の重要文化財に指定されている。
●御廟所
 ご遺言により埋葬された家康公の墓所
●博物館
 国内有数の歴史博物館で、家康公愛用の置時計
 鉛筆・メガネなどの遺品を始め歴代将軍の武具、甲冑刀剣類等、国宝・重要文化財270余点を含む2千余点が収蔵されています。



images/0080-60kuno34.JPG [ロープウェイ]
 ロープウェイのりばがある。階段を登るのが苦手の人は日本平からこれを使うと楽だ。

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images/0080-60kuno35.JPG [二の丸]
 ロープウェイのりばは二の丸があった場所だ。「国指定史跡 久能山」の看板がある。

<国指定史跡 久能山>
 指定年月日  昭和34年6月17日
<久能山の歴史>
「久能寺」
 久能山には、古く平安時代初期に開創された「補陀落山久能寺」(天台宗のち真言宗)があり、山の上には多くの僧坊が建てられていた。
 久能山は、周囲を断崖絶壁に囲まれた天然自然の要害の地をつくる孤立した丘陵となっており、南北朝時代の今川氏の内紛花蔵の乱(1536)などに際しては兵が立て籠もることがあり、次第に寺院城郭としての一面をもつに至った。
「久能山城」
 駿府に攻め入った武田信玄公は、永禄11年(1569)要害の地久能山にあった寺院を移し、本格的な山城を築いた。この久能山城は、武田氏の北条氏・徳川氏への備えの拠点として重要な役割をになった。
「久能山東照宮」
 元和2年(1616)4月、大御所徳川家康公が駿府城にて薨去。家康公の遺言により、御尊骸を久能山に埋葬。2代将軍秀忠公が山の上に本殿等諸建造物の造営を命じ、久能山城を廃して久能山東照宮を創設した。
 このように久能山は、寺院・城郭・神社という宗教、戦略上の重要な拠点として、歴史の表舞台に登場したのであった。



images/0080-60kuno40.JPG [東照宮]
 ここから東照宮に本格的に入る。
「久能山東照宮」の説明板を読む。山下の入口にあった看板と同文でした。

 久能山には、推古天皇のころ(592年〜628年)、久能正仁が建立したと伝えられた久能寺があり、奈良時代の僧行基(ぎょうき)を始め、静岡茶の始祖といわれる聖一国師など、多くの名僧が往来し隆盛をきわめた。
 下って永禄11年(1568)、駿府へ進出した武田信玄は久能寺を清水市(今の鉄舟寺)に移し、この要害の地に久能城を築いたが、武田氏の滅亡とともに徳川氏の領有するところとなった。
 徳川家康は、大御所として駿府に在城当時「久能城は駿府城の本丸と思う」と久能山の重要性を説いた語り、守りやすく攻め難い地の利の重要性を説いたといわれる。死後、その遺言によりここに葬られ、2代将軍秀忠によって社殿が造営された。日光東照宮へは、ここから御霊の一部を移したといわれている。
 権現造り総漆塗り極彩色の社殿は、国の重要文化財に指定されており、彫刻、模様組物等、桃山時代の文化の面影を残しながら、江戸初期の特徴を表している。そのほか、神庫、神楽殿、鼓楼等の建物も重要文化財に指定されている。
 みどころ  博物館、神廟、勘助井戸、石段等



images/0080-60kuno42.JPG [楼門]
 「東照大権現」と書かれた楼門。静岡浅間神社にも似た造り。
 表には神将。内側には獅子が守っている。

重要文化財
楼門
前面に後水尾天皇の御しん筆「東照大権現」の額が掲げてあるので勅額御門とも称する。
元和3年の建造である。
西暦1617年



images/0080-60kuno45.JPG [手形]
 楼門の獅子(狛犬?)はきらびやかだ。
 

images/0080-60kuno46.JPG [手形]
 楼門の前に「家康公御手形」のコピーがあった。
 「38歳、身長155cm、体重60kg」
 本物は授与所にあるとのことでした。

images/0080-60kuno54.JPG [久能稲荷神社]
 楼門のすぐ奥に稲荷神社と厳島神社がある。稲荷神社前の看板を読む。

久能稲荷神社
 祭神  保食神
 例祭  4月9日
厳島神社
 祭神  市杵島姫命
 例祭  6月17日

 

images/0080-60kuno54.JPG [鼓楼]
 これが鼓楼なのか、説明書きは見当たらないのでわからなかった。 

images/0080-60kuno50.JPG [家康梅]
 梅の木が柵で囲まれている。

家康梅
奉納者 丸子梅園 静岡市駿河区丸子
 徳川家康公は生前梅をこよなく愛され、中でもこの家康梅は水戸の初代藩主頼房公(家康公第11男)の出産を祝い無事成長を祈り家康公自らの手で植樹された。
 当初、浜松城内で栽培されていたが、後に水戸へ移されました。
 その後、静岡の丸子梅園にて接木を施し育成したものを由縁深き久能山東照宮に移されたものである。



images/0080-60kuno58.JPG [五重塔]
 ここに五重塔があった。礎石が真中に置かれている。説明板を読む。

 3代将軍家光公の建立
 高さ30m情奐美を極めたものである。
 明治3年神仏分離で取払われ現在は在りし日を偲ぶ礎石を残すのみ
 中央の朝鮮蘇鉄は駿府城本丸より移植したものです。

 

images/0080-60kuno56.JPG [東照宮]
 
 唐灯籠が並ぶ先に神饌所・神楽殿が左右にある。
 この先の正面に見える唐門の先に本殿がある。

images/0080-62kuno54.JPG [唐門]
 唐門への階段は通行止めになっている。
 右の日枝神社が通路になっている。

images/0080-62kuno56.JPG [日枝神社]
 日枝神社の前で神官が掃除をしている。
 ここには多くの神官が務めている。

images/0080-62kuno58.JPG [折戸ナス]
 日枝神社へ登る手前にナスの苗木が大事そうに植えてあった。
 ナスの前に「一富士、二鷹、三なすび 家康公が愛した三保の折戸茄子」と書かれた説明書きがある。

 ナスはまだ実を付けていない。
 折戸ナスは八百屋に並んでいるナスより小さな実を付ける。

images/0080-62kuno65.JPG [拝殿]
 拝殿。
 拝殿の奥に本殿がある。ここに久能城だった時の本丸があった。

images/0080-62kuno68.JPG [拝殿]
 拝殿は彩色、金箔、漆塗りなどを施されている。
 。

images/0080-62kuno71.JPG [拝殿]
 拝殿は豪華絢爛でまばゆく煌めいている。
 

images/0080-62kuno72.JPG [大蘇鉄]
 「樹齢650年幹の太さ2mよく実をつけます。」と書かれている。

images/0080-62kuno73.JPG [透塀]
 塀にも装飾が施されている。
 このあたりに「石の間」という施設があるようだがどれがそれか分らなかった。

images/0080-62kuno75.JPG [廟門]
 この先から家康の墓へと通じる。
 

images/0080-62kuno80.JPG [燈籠]
 道は石畳で整備されている。
 両側に灯籠が並んでいる。

images/0080-62kuno84.JPG [石垣]
 東照宮の為の石垣なのか。久能城だった頃からのものなのか美しい石垣が組まれている。
 石垣の説明があったので読んでみます。

<久能山東照宮における廟所の「添石垣」について>
 重要文化財久能山東照宮廟所の石垣は、元和3年(1617)の久能山東照宮造営時に築かれましたが、年を経て崩落の恐れが生じました。このため、天保4年(1833)、廟所宝壇西側の石垣の一部に「添石垣」を設けて、石垣を二重にし、当所の石垣の崩落を抑えてきました。
 この度の重要文化財久能山東照宮社殿等の修復事業にあたっては、廟所の石垣について創建当時の景観に復することとしました。後年築かれた「添石垣」は撤去するものの史跡久能山の歴史を知るうえで貴重な石垣遺構であり、その歴史的価値を後世に伝えるため現在地に移設しました。
   平成19年3月     久能山東照宮



images/0080-62kuno85.JPG [神廟]
 家康の墓。
 日光の東照宮にもこれに似た墓があった。
 久能城だった時代には「愛宕廓」と呼ばれる施設だった。

images/0080-62kuno86.JPG [神廟]
 説明書きを読む。

<重要文化財 神廟>
 家康公は元和2年(1616)4月17日に薨去せられ御遺命によってこの地に埋葬し奉った。
 廟に高さ6m、西向きになっている。



images/0080-62kuno88.JPG [金の成る木]
 「金の成る木」のいわれが書かれていました。

 御祭神徳川家康公にまつわる多くの遺話の中に「金の成る木」があります。
 これが左側の杉の大樹がふさわしいかと思われます。この杉は、3代将軍家光公当時に植樹されたものと言われ、約350余年を経ています。
 家康公が諸人たちに「金の成る木」を問わせられた。これには誰も知らず、公は自ら筆をとられて3本の木を描き「よろず程のよ木」「志ひふかき(慈悲深き)」「志やうぢ木(正直)」と書かれて、これを常々信用すれば必ず富貴を得られようと仰せられた。
 のち細川三斎忠興公がこれに左右の枝にとお添え遊ばしてはとなり「あさお木(朝起き)」「いさぎよ木」「志んぼうつよ木」「ゆだんな木」「ようじょうよ木」「かないむつまじ木」と
 左右の枝が繁昌するならば一段と富貴を得られよう、皆々この「金の成る木」を写し取って家内のものに教えるようにと命ぜられたという。
 これにちなみ誰とはいわず、このところの杉に願掛けとして硬貨をそなえるようになりました。
 ご神縁深き皆様方にも「金の成る木」にあやかれ毎日が心豊かで、すこやかな生活をされますよう祈念申し上げます。 

 

images/0080-62kuno89.JPG [愛馬の霊]
 「家康公愛馬之霊」という家康公の愛馬を埋めた所があった。
 

images/0080-62kuno90.JPG [神廟]
 きっちり組まれた石垣。
 

images/0080-62kuno92.JPG [久能山東照宮]
 後日、日本平へ行ったときにロープウエイ乗り場から東照宮を撮影してみました。
 一番高いところが家康の墓がある所。裏側は切り立った崖になっているのがわかる。

 日本平は「清水」のページへこちらをクリック。
 


−コメント−

階段を登り始めて、写真を撮りながらセッセと登ると家康公の墓まで30分くらいで到着しました。
ロープウエイで日本平から地獄谷を越えて来ることもできるが運動を兼ねての参拝となった。
1159段の階段を膝をかばいながらまた下りて帰ることにした。