− 安倍川西岸周辺 −

駿府の中心地は度重なる大火によって文化財と呼べるものはほとんど焼失してしまっている。
安倍川の西岸は空襲の影響も少なく要所に旧跡が残っている。
狩野橋から始まって旧東海道あたりまで巡る。
街道歩きとは違って見どころが点在しているので30km近い距離となる。


images/6010kano01.JPG [狩野橋]
 先ずは安倍川の西岸を北から順に巡ってみることにする。
 浅間神社を右に見ながら安倍街道を上り、籠上から美和街道へと向かうと静岡駅から5km足らずで狩野橋を渡る。
 写真は東岸から見た狩野橋。橋の向こうの上に見える山が城山と呼ばれ、かつて安倍城があった。  橋を渡り、旧美和村へ入った所が「安倍口新田」「西ケ谷」という町名となる。
 安倍口の先に遠藤新田、足久保へと続き、さらに江戸時代には峠を越えて栃沢、大川村へと続く主要道だった。
 13世紀に栃沢に生れた聖一国師が中国から持ち帰った茶の実を足久保で栽培したのが、静岡茶の起源とされている。

<美和村>  昭和30年に静岡市へ合併するまで美和村と呼ばれていた。
 美和村は平安時代から南朝方の領地で、南北朝時代には南朝方の狩野氏の拠点となり北朝勢力と争った当時の美和郷に由来する。



images/6020undo00.JPG [西ケ谷総合運動場]
 狩野橋を渡るとすぐに市立の総合運動場がある。
 屋内プール、陸上競技場、テニスコート、グランドゴルフなど様々なスポーツが楽しめる。

images/6020kyujo.JPG [西ケ谷球場]
 西ケ谷総合運動場と並んで西ヶ谷球場があり、その向こうに清掃工場が見える。

images/6110ketusyo2.JPG [内牧・結成寺]
 西ケ谷球場を過ぎて第2東名の下をくぐる。このあたりは「内牧」という町名になる。
 第2東名の下をくぐってすぐの左へ曲る路地を入った所に臨済宗妙心寺派の「亀谷山 結成寺」がある。

<内牧>  鎌倉時代に軍用馬の牧場があったことに由来するといわれる。
 南北朝の時代にここを拠点としていた狩野氏の館がこの近くの丘にあった。

 

images/6110ketusyo3.JPG [内牧・結成寺]
 門前に石碑があり、年代物の杉の木が生えている。


images/6110ketusyo6.JPG images/6110ketusyo7.JPG [内牧・結成寺]
 山門には仁王(金剛力士)が立っている。開口している方が阿吽の阿形(あぎょう)口を結んだ方が吽形(うんぎょう)。

images/6110ketusyo9.JPG [内牧・結成寺]
 林の中に静かに寺がたたずんでいる。
 境内には戦前戦後に歌壇で活躍し、芸術院会員だった「川田 順」の歌碑が建っている。
 「首山堡」は日露戦争の主戦場だった所なので、その戦争を偲んだ歌なのだろう。

<歌碑> 狩野介の菩提寺の山 蟲鳴きて 首山堡は死に志 兵の坐あ里   川田 順



images/6110ketusyo4.JPG [内牧・結成寺]
 鐘楼もあり伝統のある寺だということがうかがえる。


images/6110ketusyo1.JPG [内牧・結成寺]
 ここ結成寺は鎌倉時代の初めに藤原南家の流れを汲む工藤氏の一族で鎌倉幕府御家人工藤祐経の開基とされる。
 南北朝時代に活躍した狩野氏の菩提寺であった。

images/6105utimaki.JPG [内牧・内牧城]
 結成寺の前から南を見ると第2東名が聳えていてその橋げたを支えるような小山があるが、ここに城が建っていた時期があった。


images/6106utimaki.JPG [内牧・内牧城]
 小山を登ってみると茶畑の中に石碑が立てられている。
 謂れが彫られているので読みます。

内牧城の由来
 内牧城は南北朝時代(1336〜1392)の安倍城であると考えられていたが調査の結果安倍城主狩野貞長の居館であることが判明した。
 またこの内牧城には後醍醐天皇の皇子である宇良親王も滞在した由緒ある城址として末永く保存したい
   平成4壬申年8月吉日

 

images/6100abejo-21.JPG [安倍城跡]
 安倍城は結成寺、増善寺、建穂寺、洞慶院に囲まれた山頂にあった。
 城山とも呼ばれるこの山は435mの高さがあるので思いつきでは登れない。別の機会に登ってみました。
 城跡へ登るにはルートが幾つかあるが、西ヶ谷の運動場と清掃工場の間から入るのがわかりやすい。

 安倍城跡へのページはこちらをクリック。


images/6120zozenji12.JPG [慈悲尾・増善寺]
 まずは広い駐車場がある。
 脇に寺の謂れが書かれた看板が立てられている。

増善寺(慈悲山増善寺)
 増善寺は、白鳳21年(681)に法相宗の始祖道照法師が開いた真言宗の寺で、「慈悲寺」と呼ばれていた。明応9年(1500)曹洞宗に関心の深かった駿河の国守、今川氏親(今川7代目)は辰応性寅禅師(しんおうしょうえんぜんじ)に帰依し、性寅(しょうえん)を開山として七堂伽濫を整えて、再興し、曹洞宗に改め、今川家官寺増善寺となった
 大永6年(1526)6月、今川家中興の祖と呼ばれた今川氏親が亡くなると、この寺で盛大な葬儀が営まれた。寺には、苔むした氏親公の墓とともに460年前に造られた等身大の木像が安置されている。
 寺宝として、今川家古文書をはじめ、徳川家康寄進の天目茶碗・扇・硯などがあるが、これらは静岡市文化財資料館(浅間神社境内)に展示されている。
 寺の裏山に南北朝期の安倍城跡がある。一大城塞網の拠点としての安倍城主狩野貞長との戦乱において多大な年月と戦乱の末、間もなく、今川氏は根拠地を駿府に移し、守護大名として、東海に君臨するようになった。
 その後、度重なる内紛が起こり、その渦中で幼少を過ごした氏親にとって、安倍城をひかえた自然の要塞の地「慈悲尾」に今川家の菩提寺として自らの安息の地を求めたのはけっして偶然のことではない。
    昭和58年10月  静岡市



images/6120zozenji38.JPG [慈悲尾・増善寺]
 境内にはいくつかの説明看板がある。
 この写真は山門。


徳川家康公と増善寺
 増善寺は、天武帝白鳳21年(682)法相宗祖道昭法師の草創で保檀院と称した、後文明12年(1480)辰応性寅禅師保檀院のすたるを起こし、時の駿・遠・三の大守今川氏親公の帰依により大伽藍を建立す。
 「日本屍上聯燈録第10」によれば、等膳和尚が当山に掛易し、大衆の教化にあたっていた。その頃今川家の人質(天文18年〜永禄3年)となっていた家康(竹千代)は、当山にしばしば鷹狩のため遊びに来た。
 これを見つけた等膳和尚はこの地は殺生禁断の聖地であることを少年(竹千代)に悟した。少年は三州の将種であり、父、広忠の墓参りをしたい旨相談された。師は人質の身である竹千代を葛駕篭にいれ、背負い清水港より篠島に送った。それより岡崎城に入り、目的を達し駿府に帰る。後家康が出世し、浜松城(天正11年)に入ると師を可睡斎藤に住せしめ、駿・遠・三、豆の国の大僧録司に任命し、旧恩にむくいるため、朝廷に申し出て、等膳和尚に「鳳山仙麟禅師」の号を下賜した。時に等膳天正18年(1590)5月21日示寂が開いた真言宗の寺で、「慈悲寺」と呼ばれていた。
 明応9年(1500)曹洞宗に関心の深かった駿河の国守、今川氏親(今川7代目)は辰応性寅禅



images/6120zozenji20.JPG [慈悲尾・増善寺]
 観音堂が本堂脇に建てられている。
 

images/6120zozenji30.JPG [慈悲尾・増善寺]
 石碑も多く建てられている。
 

images/6120zozenji28.JPG [慈悲尾・増善寺]
 高僧道昭法師の遺跡と彫られた石碑がある。
 

images/6120zozenji34.JPG [慈悲尾・増善寺]
 寿桂尼の歌や今川を讃える歌碑が建てられている。


碑文
戦国の華と栄えていくくに
誉れ妙なり
   寿桂尼 大方

碑文
釈教の心を   今川氏親
いかかえむ四十あまりの年のをに
 とかぬ所の法のまことを
      志貴昌澄 書

歌の意味
 私は年も四十歳を過ぎたが仏の教えがいまだ会得できないでいる
 どのようにしたら会得できるであろうかまだまだ努力しなければならない
 氏親公が自己反省の気持ちを和歌にたくしたもの。
 八代将軍徳川吉宗の頃の駿府の国学者である志貴昌澄翁が書いた珠流河久佐からとったものである
   昭和50年4月13日  今川氏顕彰会



images/613siino.JPG [椎之尾神社]
 増善寺から100mほど安倍川へ戻った路地を北へ入ると椎之尾神社があります。ここの町名「慈悲尾」は「椎之尾」の字があてられていたとの話もある。
 この神社の脇から安倍城址へ向う増善寺口の登山道がある。

images/6200takyoji10.JPG [建穂神社]
 慈悲尾から約3km南下し、途中「千代」「山崎」を通って「羽鳥」へ向かう。
 羽鳥小学校辺りから山側に入ると「建穂」(たきょう)という町名になり、山の麓に町名の由来となる建穂神社がある。


建穂寺の歴史(静岡市建穂)
 建穂寺は、白鳳13年(662)法相宗の道昭が草創し、養老7年(723)に行基が再興したと伝えられる。
 創立年代には疑問が残るが、県内屈指の古寺として、天平7年(735)の「寺領寄進」の記録が寺の古さを特徴づけている。
 平安中期の『延喜式神名帳』に、建穂神社の名がみえ、「神仏混淆」の寺であった。安倍七観音の霊場でもあり、観音堂には珍しい稚児舞が伝わっていた。(現在は浅間神社廿日会祭に受け継がれ静岡県無形民俗文化財に指定)
 鎌倉時代の高僧南浦紹明は、幼年期を建穂寺で修行した。
 学問を目的とした建穂寺は、弘法大師の意志を継ぎ、今川 徳川両家に保護されたが、明治初期に経営が困難となり廃寺となった。
 文化財の一部は、観音堂内に保存されている。
平成7年2月
 今川文化クローズアップ推進実行委員会(静岡市教育委員会監修)



images/6200takyoji16.JPG [建穂神社]
 建穂神社に建穂寺の説明看板があったが、神社のいわれが書かれていない。
 以前は建穂寺を中心とする神仏混淆の場だったが、明治の神仏分離や火災などのために廃寺となり神社となった。
 寺の歴史が深い。神社は寺に付属していた施設だった。 

images/6200takyoji24.JPG [建穂神社]
 上の写真が拝殿。この写真が本殿でしょうか。


images/6210takyoji32.JPG [建穂寺観音堂]
 建穂神社から500mほど離れて公民館の裏に観音堂が建てられている。
 看板を読みます。


建穂寺(瑞祥山建穂寺)
 建穂寺は、白鳳年間(654〜669)に道昭法師によって開基された真言宗の古寺である。
 奈良時代に僧行基が聖武天皇の病気回復を願って彫った観世音菩薩を納めた寺として知られている。その後鎌倉時代以後、久能寺と共に駿河文化の中心として大いに栄え、今川氏の時代や江戸時代には、保護が厚く、徳川家康から480石の朱印を受けたといわれている。
 しかし、かくも栄えた当寺も明治維新により徳川氏の保護を失うとともに、明治政府による神仏分離の宗教政策などにより多くの院坊も壊され、跡だけが残っている。また、明治3年の火災により、ほとんどが焼失してしまい、現在は再建された観音堂に納められている多くの仏像によって往時を偲ぶのみである。
 4月1日から始まる浅間神社の廿日祭に奉納されている稚児舞は古くから建穂寺の舞として伝えられているもので、家康が駿府在城の頃、建穂寺に参詣した折、稚児舞を見て大変気に入り、崇敬厚い浅間神社へ奉納するように言われたことから始まり、今日まで伝承されている。
   昭和60年1月    静岡市



images/6210takyoji36.JPG images/6210takyoji38.JPG [建穂寺観音堂]
 小さなお堂には釣り合わない仁王(金剛力士)が立っている。  仁王のためのお堂のように見える。

images/6210takyoji41.JPG [建穂寺観音堂]
 昔の建穂寺は駿府を代表するほど栄えた寺だったそうだ。
 お堂の隙間から中を覗いてみると様々な仏像が並んでいる。


images/6210takyoji42.JPG [建穂寺観音堂]
  文化財クラスの仏像を所蔵しているとのことだが、本当にこんなセキュリティの低い所にあるのだろうか。


images/6210takyoji43.JPG [建穂寺観音堂]
 由緒はわからないが、時代はありそうな仏像が多い。保管方法にも問題がありそうだ。

 増善寺から小さな峠を越えてこの建穂寺へ通じる道があったそうだ。今も道が残されているのだろうか。
 そのうち探索してみたいと思う。

images/6220sengen-1.JPG [羽鳥・浅間神社]
 建穂寺観音堂から西へ500m程の久住川を越えた所に浅間神社がある。
 静岡には浅間神社が多くある。


<羽鳥>
 「はとり」は静岡市へ合併編入されるまでの「服織村」の中心地。江戸時代以前から藁科郷服織庄と呼ばれていた。
 機織りを業とした「機織部(はたおりべ・はとりべ)」と呼ばれる人達がこの地に住んでいたことに因む。
 藁科川の少し上流に「富厚里(ふこおり)」という町名があるが、服を織ることに由来しているといわれている。



images/6220sengen-2.JPG [羽鳥・浅間神社]
 児童遊園を兼ねた明るい雰囲気の神社だ。


images/6240tokeiin10.JPG [羽鳥・洞慶院]
 浅間神社から久住川を上る。
 藁科街道から1km入った所に「久住山 洞慶院」がある。
 曹洞宗の主要なお寺で落ち着いた雰囲気を持っている。


images/6240tokeiin14.JPG [羽鳥・洞慶院]
 参道には年代物の杉林が並んでいる。
 説明看板を読む。

洞慶院の大スギ
樹高     40・00メートル
目通り周囲   4.20メートル
枝張      5・00メートル
 橋のたもとにあるこれらの大スギは、洞慶院の山門のかわりに植培されたものといわれ樹齢約310年にもなる巨樹として知られている。
 スギは日本の特産で全国各地に野生する常緑の高木である。材は柔らかで、ぬれても腐りにくいので建築材・器具材・船材などに使われている。
   昭和59年3月   静岡市



images/6240tokeiin20.JPG [羽鳥・洞慶院]
 大木を多く抱えた境内。
 時代を感じることができる。

images/6240tokeiin24.JPG [羽鳥・洞慶院]
 さすが名刹といった本堂。


洞慶院(久住山洞慶院)
 洞慶院は、はじめ馬喰大明神の社僧寺として真言宗に属し、喜慶院と称せられていたが、享徳元年(1452)守護福島伊賀守の懇願により、石叟円柱和尚が再建し、洞慶院と改め、曹洞宗とした。
 石叟は、恕仲天ァ禅師を開山と仰ぎ、自らは2世に居り、石叟の法弟大巌宗梅を3世とした。大巌は大いに宗風を昂揚し、賢窓・行之・回夫の三高足を生んだ。この三哲は輪住制を以て当山に住み、以後末派寺院が一年交代で輪番住職を勤めたが、明治の新政で輪番制から独住制に改まった。
 毎年7月19・20日に行われる開山忌には、無病息災、家内安全、夏病みなどの御祈祷が行われ、参詣者で賑う。この時、境内で売られる「おかんじゃけ」は、この地の代表的な郷土玩具で、行楽客に人気がある。
 また、この洞慶院は、梅園でも有名で、毎年3月上旬の開花期には市内はもちろん、市外から多くの花見客が訪れる。
   昭和60年1月  静岡市



images/6240tokeiin34.JPG [羽鳥・洞慶院]
 「梅花流発祥の地」の碑がある。
 洞慶院の先々代住職を務め、後に永平寺の貫主となった丹羽禅師が、親しみある御詠歌を広め、それが梅花流というらしい。

images/6240tokeiin36.JPG [羽鳥・洞慶院]
 「三界萬霊」の塔が立っている。
 三界とは欲界・色界・無色界
 萬霊とは、あらゆる世界、全ての生きもののやむことのない世界のこと。
 すべての霊に手を合せる場所である。


images/6240tokeiin38.JPG [羽鳥・洞慶院]
 洞慶院は梅の名所だ。
 梅園は一面に広がっている。

images/6250ryusinji-10.JPG [羽鳥龍津寺]
 羽鳥の浅間神社まで戻り、200mほどの所に「万年山 龍津寺」はある。
 看板があったので読んでみます。

栄保大姉の辞世の歌は宮内庁書陵部所蔵の「今川為和集」に次のように載っています。
 「10月18日三条宰相中将母(仁齢栄保大姉)追善22日遠行彼辞世正形をは皆ことごとく返し捨てくもるかたなき有明の月如以侍しは彼位牌の前に一紙瓦礫」
 「夢にのみあるかとみれはなきかけの心の月や空にすむらん」
解説
 天文5年(1536)10月18日、当時最高の歌人冷泉(今川)為和は親友三条公兄の母、仁齢栄保大姉(竜津寺開基)の追善供養に参じました。
 すると、仏前に彼女の辞世の歌がありました。歌の意味は、この世の中で味わった喜怒哀楽のすべての感情を捨て去って、有明の月のように澄み切った心であの世に旅立ちます、というのです。この歌を詠んだ為和は、こんなにすばらしい歌に比べれば自分の歌など石ころみたいなものだと、感心したのです。
 そして、あなたとは夢の中でしか会えないと思っていましたが、あなたはあの澄みきった月の中にいらっしゃるのですね、と供養の歌を献じたのです。
                              撰文  宮本 勉
平成11年7月21日 
    発起人
龍津寺住職  浅井義賢 護持会役員一同
宮本 勉 武田久夫 兼高健吉 吉澤三義 武田脩一 吉澤弘治 前田正巳 仲原泰治



images/6250ryusinji-12.JPG [羽鳥龍津寺]
 本堂前にあるしだれ桜が見事だ。
 写真はまだ3分咲きでした。

images/6250ryusinji-20.JPG [羽鳥龍津寺]
 龍津寺の看板の前にある石碑。

辞世仁齢栄保大姉
人形をは 皆ことごとく返し捨て くもるかたなき有明の月
  平成11年7月吉日

 

images/6260naka-14.JPG [新間・中勘介]
 藁科街道へ出て清沢方面へ向かう。
 1kmほど進むと新間へと入り、右に中勘介記念館という市の施設がある。


中勘助と杓子庵
 昭和18年(1943)10月、樟ケ谷に天地療養にきた中勘助夫妻は羽鳥に移るまでの1年半この庵に住んでいました。
 はじめは、庵の下に見える粟畑にちなんで「粟穂庵」と名づけましたが、季節が移り杓子菜(おたま菜)の盛りになると「杓子庵」と変えました。
 中勘助はこの庵から藁科川を眺め月を仰ぎ野草を愛で鳥の声に耳を傾けながら静かに文筆生活を送っていました。俳句をはじめたのもこの庵であった。
 折からの厳しい戦局の中にあっても恵まれた村の自然に感謝し、新間の人々との素朴な触れ合いを喜びながら、その生活は随筆「樟ケ谷」の中に描かれています。
    平成7年6月1日  静岡市教育委員会



images/6260naka-12.JPG [新間・中勘介]
 記念館の裏にある茅葺屋根の小屋が杓子庵。ノスタルジーの雰囲気を醸しだしている。


images/6260naka-28.JPG [羽鳥・中勘介]
 記念館は古い建物が保存されたものだ。
 昭和初期の風俗が想像される。

images/6260naka-30.JPG [新間・中勘介]
 縁側の風景。
 天井が低い。

images/6270kensyoji-03.JPG [新間・見性寺]
 中勘介記念館のすぐ奥に曹洞宗「楠谷山 見性寺」がある。
 看板が立っているので読む。


曹洞宗 見性寺(案内)
創立 大永年間(1521〜26)
本尊 如意輪観世菩薩
開山 勅特賜厚覚禅師
開基 朝比奈弥一郎
(由緒)
 当山の草創は、寛仁元年(1017)真言密教に属し真光坊見昌寺と寺伝は伝えている。
 今の見性寺は、中世の最も安定した戦国大名、今川氏親の時代に大雄崇厚覚和尚を開山として、この地、藁科川の清流に洗われ四季を通じて恵まれた景勝の地に法燈が樹立されたことに始まる。
 開基、朝比奈弥一郎は、このころ深く禅に心を寄せ開山厚覚和尚に帰依し檀越(施主)となって見性寺を建立し曹洞禅の道場として開創した。
 以来、当山は、今川氏親・義元・氏真の保護の下に寺運に恵まれた。開山禅師以下、歴代住職の活躍はめざましく、藁科川一帯に広がる村落に末寺を建立し、この地方の曹洞宗の禅風の振作に貢献していることは重要である。
 徳川幕府の樹立と共に、当山は幕府より寺の由緒を重んじられ寺領(御朱印地)9石を拝領した。
 今日、当山に保存される今川氏、武田氏の御朱印、御判物および其の他の寺宝は、郷土研究の基礎資料として重視されている。
          昭和53年12月吉日    今川氏研究会



images/6270kensyoji-08.JPG [新間・見性寺]
 山の麓に静かにたたずむ本堂。
 本堂の前に梵鐘堂が建っていて説明書きが書かれている。 


大梵鐘
大梵鐘は「ぽっくりさん」にお詣りする方が打って下さい
打ち方の心得として1回100円
浄銭を賽銭箱に入れて、先づ大梵鐘に向って合掌礼拝して「南無ぽっくり往生佛」とおとなえし、念じて力いっぱい打って下さい。
大梵鐘の一打のご利益
礼佛一声延命天壽 合掌し礼拝した鐘の響は、あなたの健康を守り諸難を消除し厄除となります。
念佛一声安楽往生 「ぽっくりさん」を念じた鐘の響は安らかな清い心を得て明るい日々が送れます。



images/6270kensyoji-14.JPG [新間・見性寺]
 庫裡の横に池があり大きな鯉が所せましと泳いでいる。

天然黒鯉と緋鯉
 この池の大きな鯉は100年以上の年齢です。大きな湖水でとれたもので鯉の体調120cm体重25kgあります。なかなか泉水に慣れないものです 観賞されます お客様におねがいします。勝手に身近なエサを与えたり、小石などなげ入れないで下さい。
<鯉の年齢>
 日本で一番長生きした鯉として記録されている鯉は、岐阜県飛騨白川の越原郷の旧家で、越原家(現在名古屋女子大学々長)越原公明氏宅の庭池の鯉で、名前(花子)メス鯉で200年以上の年齢で、先年死んでしまいました。この鯉(花子)に関する古文書他多くの記録はいま残されています。
 淡水魚関係の学会では、長生きの鯉として大変有名になっています。



images/6330makigaya.JPG [牧ケ谷]
 羽鳥まで戻り牧ケ谷橋で藁科川を渡るとそこは牧ケ谷。
 変則交差点で南藁科街道を見る。


<牧ケ谷>
 馬の牧場が置かれていたことに由来するといわれている。



images/6332kosin.JPG [牧ケ谷・庚申堂]
 変則交差点を山側に入ると200mで分岐点があり、お堂が建っている。
 丸子からここ牧ヶ谷へ峠を越える道が存在したとのことだが今は整備されていない。建武2年(1335)手越河原の合戦で、新田義貞が奇襲の際にこの道を使ったとされている。

images/6334koun1.JPG [牧ケ谷・耕雲寺]
 分岐点を右に向い400m行くと山の麓に臨済宗妙心寺派の「牧谷山 耕雲寺」がある。


images/6334koun2.JPG [牧ケ谷・耕雲寺]
 茶畑脇の参道。


images/6334koun16.JPG [牧ケ谷・耕雲寺]
 境内の片隅に「戒名のない卵頭墓石」の看板がある。

この寺は増善二世虚廓僧の開闢洞家禅院なりしが
 何なる由かありけん済家に転じて宝泰寺に属せり(駿河志料)
 慶長十七年(一六一二)三月 徳川家康は切支丹禁教令を発し足下の駿府で 厳しい詮索と過酷な迫害を開始した 近侍の銃隊長原主水胤信は 信徒の故に捕らえられ 安陪川原に於て十指を切断 額に十字の火印を当てられ放遂された この惨劇を目撃した一人の仏僧は彼を救出、自寺に匿い庇護したことが露見し曲事として処罰された(徳川実記 駿府政事録)
 それは強大な権力にたちはだかり 自らの生命をかけひたすら 仏陀の教 慈悲の神髄を全うした義挙であった 以来幾星霜 一字の戒名一語の伝承もなく 今ここに眠る義僧の冥福を祈り深甚なる尊敬の念をもって この埋もれた事蹟を顕彰するものである
                 郷土史研究会



images/6334kofun.JPG [牧ケ谷古墳]
 古墳の看板もある。

牧ケ谷古墳群
 耕雲寺の裏山には、6世紀末から7世紀中ごろにかけて造られた墓地があり、「牧ケ谷古墳群」と呼ばれています。
 牧ケ谷古墳群は昭和44年のみかん畑開墾の際に発見され、5基の古墳が確認され、そのうち4基については発掘調査が行われました。
 いずれも石を組み上げて造られた横穴式石室を持っています。石室は、幅約1.2〜1.5m、長さ約5〜7m、高さ2m程度の小規模なもので、石室内には遺体を埋葬するために石板を並べて造られた石棺が備え付けられていました。
 石棺の中やその周りには、土器、耳飾り、大刀、馬具などが副葬品として納められていました。
 各古墳とも、崩壊や破壊が進んでいましたが、最も残りの良かった2号墳については、消失した天井石のかわりにコンクリート製の蓋が載せられ、見学可能な横穴式石室として大切に保存されています。
         平成10年3月  静岡市教育委員会



images/6334kofun1.JPG [牧ケ谷古墳]
 1号墳があった場所はこの石垣の上あたりだったらしいが今は姿が見えない。

images/6334kofun2.JPG [牧ケ谷古墳]
 2号墳はもう少し上に保存されている。


images/6334kofun2b.JPG [牧ケ谷古墳]
 2号墳は整備されて石室が残されている。


images/6335sen-niji.JPG [牧ケ谷・洗耳寺]
 牧ケ谷の奥にもう一つの寺がある。「南水山 洗耳寺」という曹洞宗の寺だ。
 修験道場の施設もあった。

images/6300ubume-01.JPG [産女観音]
 南藁科街道まで戻り800m余り進むと、産女という町内だ。
 街道から200m入ると産女観音と呼ばれる「産女山 正信院」があり、安産、子授け、虫ふうじにご利益があるとされている。

images/6300ubume-05.JPG [産女観音]
 正信院の本堂。
永禄年間(1558〜70)武田氏の駿河侵攻で敗れた今川氏真の家臣牧野喜兵衛がこの地に落ちのびて、世を忍んでいたとき、その時懐妊中の妻が難産の末ついに死んだので、それを嘆き悲しみ、妻の墓所に堂宇を建てて、 子安観音を祀ったという。それ以来、「産女観音」(うぶめかんのん)といって安産祈願の参詣人が絶えることがない。

images/6310kogarasi-01.JPG [木枯神社]
 産女から牧ケ谷へ戻る途中、藁科川の河原にこんもりとした小山が見える。
 

images/6310kogarasi-09.JPG [木枯神社]
 下流側に階段があり、鳥居が見える。
 階段の脇に由緒が書かれている。


木枯森
静岡県指定名勝 木枯森
指定年月日 昭和29年1月30日
所在地   静岡市羽鳥大字森下
 藁科川の川中島であるこの森は、丸子から牧ケ谷に抜ける歓昌院坂を経て駿府に通じる古道のかたわらにあり、古くから歌枕としてその名を知られていた。
 平安時代の文人清少納言が枕草子の中で「森は・・・・こがらしの森」としるすなど、東国の美しい風景として数多くの歌によまれたのである。
 丘の頂上には八幡神社が祭られ、神社の横には江戸時代の国学者本居宣長(もとおりのぶなが)の撰文による「木枯森碑」や駿府の儒医であった花野井有年(はなのいありとし)の歌碑が建てられている。
      昭和63年3月31日  静岡市教育委員会 静岡県教育委員会



images/6310kogarasi-04.JPG [木枯神社]
 こじんまりとした神社が建っている。
 平安時代から度重なる洪水にもこの木枯の森は無事だったようだ。

images/0406-5tokuganji-22.JPG [徳願寺]
 藁科川沿いの道を下ると牧ケ谷から駿河区へと入り向敷地へと町名が変わる。
 向敷地の山の中腹にある徳願寺から始まる「最古の東海道」巡りを別の日に行っている。

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images/0428tegosi1.JPG [手越・東海道]
 徳願寺から1km南下すると旧東海道へ出る。
 

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−コメント−

藁科川の川中島にある「木枯森」で今回はゴールとする。