− 蒲原城址 −
蒲原城址と御殿山を巡る。
[蒲原宿本陣]
蒲原宿の本陣から西へ進んですぐの信号を山側に入ると蒲原城址へと行ける。
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[蒲原宿]
この磯部家の撮影地点が信号のある交差点。この信号機から、蒲原城址や善福寺へと向かう。
信号から150mほどで東名高速道路をくぐる。城山配水場を大きく回り込みながら坂を登り、真っ直ぐとなる道を進む。
[蒲原城址]
城址の入口を探して真っ直ぐな道を進む。
わからずに通り過ぎてしばらくしてから通り過ぎたことに気が付く。
小さな駐車場がある所が入口だった。だんだん狭くなる道を不安になりながら登ると看板があって蒲原城へつながる道であることが確信できた。
[蒲原城の由来]
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市指定史跡 蒲原城址
由来
蒲原城は、蒲原丘陵から孤立した城山層を要塞化した山城で、築城時期は室町時代の前期の頃か。
築城者は今川氏が駿河守護として入国した後、その一族によって築城したものと思われる。
文献上には特定の城主はなく、戦乱の折城代、城番が置かれた。永享13年(1441)正月における牟禮但馬守範里、天文13年(1544)から同14年にかけての飯尾豊前守、永禄4年(1561)の佐竹又七郎、同雅楽助、永禄12年(1569)1月今川氏の盟友関東北条方の北条新三郎守城の折本郭を大改修したが、同年12月6日武田氏の攻撃にあい落城、蒲原城は武田方に移る。
その後、天正10年(1582)2月徳川勢による落城まで武田氏の治下にあって当地の土豪、地侍による「蒲原衆」を編成し、この地を治めたが、天正18年(1590)3月、小田原征伐の折徳川勢の着陣を最後に廃城となった。
現在小字名に残る城関係の地名には的場、狼煙場、橋台、陣出ケ谷、根古屋、柵がある。
[大空掘]
所々に城の名残りが見られ、標示板があったりする。
[八幡宮道]
「山城八幡宮道」と彫られた石碑が苔むしている。
城へ向かう道は八幡宮の参道となっている。
[鳥居]
頂上には八幡宮がある。
鳥居の脇には「史跡 蒲原城址」の石碑や「本郭 南曲輪」の標示板が立っていた。
[八幡宮]
広々した境内。踏み跡がほとんどない境内だ。
人の訪れは少ないのだろう。
城を建てるにはいいスペースだ。
[城山の布橋桜]
お宮の前に桜の説明書きがあった。
裏手にあると言われている桜がどこにあるのか私にはわからなかった。
蒲原城跡裏手の山肌にひっそり佇むこの桜は、幹周が胸高2.5m、樹高15m、推定年齢は200年。
蒲原で最も大きな桜と云われています。
永禄12年(西暦1569)城主、北條新三郎が武田軍の攻撃に遭い落城。その時対岸に掛けた布橋で人々は逃れようとし、谷底の川が地に染まったと語り継がれています。
歴史の変遷の中、風雨に耐えて生きてきたこの桜は、布橋桜と呼ばれるにふさわしい風格をそなえています。
[鳥居]
お宮の前から鳥居を見てみる。
どのような城が建っていたのかな。
[本郭]
本郭の周辺は1段下がった段が取り巻いている。
写真はお宮の西側から南方面を見たもの。
[本郭]
写真はお宮の西側から北方面を見たもの。
[八幡宮]
お宮は一段高い所にある。城が建っていたのがここなのだろうか。
[本殿]
本殿のはるか向こうに富士が見える。
[富士]
この城からも富士の見晴らしがいい。
多くの山城からは富士がよく見える。
[善福寺曲輪]
富士の手前の広場は善福寺曲輪。
のちほど巡ってみよう。
[本郭]
回りには平地部分が多い。
何かの施設が建っていたのか。
[本郭]
お宮の東側。
[本郭]
回りは急傾斜な地形。
転落の防止にトラロープが張ってある。
[本郭]
善福寺曲輪方面へも急傾斜で危険だ。
[本郭]
本郭の東側のあたりの状況。
[八幡宮道]
本郭を後にして善福寺曲輪へと向かうことにした。
八幡宮道の途中から善福寺曲輪へ通じる道。
[善福寺曲輪]
櫓が正面に見える。
[善福寺曲輪]
櫓は最近の建築だが、雰囲気が感じられて楽しい。
[善福寺曲輪]
櫓の下の角には大きな石が転がっていた。
石積みが崩れたものだろうか。
本郭の急斜面と善福寺曲輪を分かつ「堀切」がはっきり残っている。
[善福寺曲輪]
善福寺曲輪も急傾斜面に囲まれている。
[善福寺曲輪]
櫓の近くに説明板があった。
善福寺曲輪について
この場所(曲輪)は、善福寺曲輪と呼ばれ本城(本曲輪)を守るための最後の曲輪として築かれたとされ、戦国時代の永禄12年12月には駿河今川氏の要請でこの城を守るために相模後北条氏より派遣された北条新三郎と駿河侵攻をねらう甲州武田氏の武田勝頼との間ではげしい戦いがあったとされる場所であります。
甲陽軍鑑より。
蒲原町は、この蒲原城址を整備するにあたり昭和63年と平成元年の2年間にわたり発掘調査を行い、その結果より想定される物見台、堀切、逆茂木、木柵など築造し、遠い戦国時代の戦の様子が容易に連想されるように善福寺曲輪を再現しました。
[善福寺曲輪]
善福寺曲輪から本郭を見上げてみる。
こちらから登る気にはならない。
[観音穴]
蒲原城を後にして、通りまで戻り、山側へ250mほど進むと善福寺の集落がある。
民家の玄関に「善福寺禅寺」と書かれているがこの家が善福寺なのだろうか。
そこを右に曲がり狼煙場へ向かう
坂を登って行くと石碑と看板が立っている。
[観音穴]
観音穴の説明看板を読む。
観音穴
観音穴は「カンカン穴」とも呼ばれています。
岩場を切り抜いたトンネルの入り口には寛文5年(1665)建立の「南無阿弥陀佛」という石碑があります。
トンネルの左手には三つの石窟とともに石仏が並んでいます。またトンネルの奥にも、同じように石窟があり、石仏があります。
山の登り口には、「奥の院これより5丁享保12丁未(1727)2月日建立」という道標があり、常楽寺の奥の院と考えられています。
[案内板]
車道と山道の分岐点に蒲原保健休養林案内図が立っていた。
休養林の案内図なのに道の案内ばかりで、どこがその林なのか分からなかった。
[御殿山遊歩道]
東海自然歩道バイパスコース(蒲原コース)
狼煙場の広場のトイレの前に遊歩道の案内看板がある。
[狼煙場]
この広場が狼煙場があった所だ。
説明看板があった。
狼煙場
この地は狼煙場と呼ばれ、昔より蒲原城の東北方面を補強するための物見台、危急を知らせる狼煙台が置かれたとされる伝承の地であります。
保健休養林整備事業の実施にあたり、この地に歴史的な背景を踏まえた物見台を築造しました。
この物見台に立つと蒲原城の全体が眼下に、遠く富士川河口から沼津、伊豆内浦方面、北は富士山麓一帯が展望でき、戦国時代に行われた戦の様子が容易に連想できます。
[物見台]
狼煙場に物見台が立っているので登ってみる。
富士川の河口がよく見える。
[物見台]
林の上から富士も覗いている。
木が育ったら物見台を高くしないとならないかな?
[御殿山広場]
狼煙場から少し下った所に広場がある。
この広場からも富士川の河口がよく見える。
広場から遊歩道がでていて桜の名所になっている。
[八坂神社]
御殿山遊歩道を下りていくと途中にアスレチック、すべり台、桜吊り橋があり、遊歩道は八坂神社へと向かうことができる。
桜の季節には花見客で賑わう。残念ながら訪れた時期は遅れて葉桜になった頃だった。
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−コメント−
蒲原宿本陣前を出て蒲原城と御殿山を巡り八坂神社まで戻るといった行程。
遊歩道が多いので距離はよくわからないが4kmほどの行程だ。
できたら桜の時期が楽しそうだが、人も多く賑やか過ぎるのかもしれない。。