− 北街道周辺 −
江川町交差点から鷹匠町を通って清水へ向かう街道。
葵区と清水区の境まで約7km。
清水寺や愛宕神社、梶原山まで足を延ばして13km程の行程になる。
[江川町から北街道]
北街道はこの江川町の交差点から始まる。
江川町交差点は旧東海道の府中宿の中心的な位置にあった。
今は交差点としてだけ町名が残っている。
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[外堀]
江川町のペガサートの直ぐ北側から駿府城外堀が続く。
ここは南端の角になる。外堀は暗渠部分もあり1周つながっていない。
この先に見える城代橋から駿府城址へ入る事が出来る。
駿府城址を巡るにはこちらをクリック。
[駿府城外堀]
外堀南端から北街道方面を見る。
ここから北街道沿いに外堀があったが今はほとんど暗渠となって鷹匠町商店街が続いている。
[ペガサート前石碑]
道路脇に石柱が立っている。
何かを記念する物だろうが変体仮名で擦れているのもあって解らない。
「くがたはし」??
[一加番稲荷神社]
静鉄電車の新静岡駅の裏に神社がある。城を警衛する武士の詰所を加番といい、稲荷神社が当時の名残りを残している。
当神社の御祭神は、保食大神、御別名を豊宇気比売神、又、食稲霊神と申し上げ、稲、5穀の精霊神と尊まれ、衣食住の神、商売繁昌、厄除開運、無病息災、延命長寿の守護神として広く信仰されているかみである。
当社鎮座の由来は、寛永8年(1631年)駿府城主駿河大納言忠長卿(2代将軍秀忠公の第3子)が将軍の勘気受けて甲斐に蟄居の後は、幕府は駿河を直轄領とし、城主を置かず重臣の内から駿府城代を任命して庶政を綜理せしめ、城代を輔けて城外の守衛に当たらせる為に在番1年の役として加番を勤番させる事とし、紺屋町に一加番屋敷を設けた。(これを紺屋町加番或いは町口加番屋敷という)
初代一加番に信州飯田城主5万5千石脇坂淡路守安元が寛永9年(1632年)12月に仰せ付けられ着任した。この加番開設にあたり3200余坪の屋敷内の浄地を選び社殿を建て寛永10年(1633年)山城国伏見稲荷神社の分霊を勧請し、駿府一加晩の守護神として鎮斎したのが当社の創祠と伝えられている。
[一加番稲荷神社]
稲荷神社は裏通りからも小さな鳥居があって参拝できる。
[鷹匠1丁目]
北街道へ戻り、街道沿いに発展した鷹匠町商店街を歩く。通りの右が鷹匠一丁目、左の城側が駿府町。
<鷹匠町>
鷹匠は一丁目から三丁目と東鷹匠町からなる。江戸時代に侍屋敷が多くあった町だった。
鷹匠と呼ばれる鷹狩りの世話役が住んでいたから付けられた町名とも言われている。
<駿府町>
元は追手町の一部だったが昭和41年の住居表示で分かれた。明治に外堀を埋めて師範学校を建てた場所が中心となる。
戦前は堀の名残りとなる城濠用水が流れていたが暗渠にして、その上に商店街が形成されている。
[鷹匠2丁目]
江川町交差点から500mほど進んだ信号を駿府城址の方向へ入ると市民文化会館が立っている。
その信号前から今来た市街地方面を振り返る。
[松木屋のうさぎ餅]
市民文化会館前の信号のあたりは「安倍川もち」の松伯堂や松木屋などの和菓子の老舗がある。松木屋は古庄の伝統的な銘菓「兎餅」を伝承している。
当時とは幾分意匠が変更しているらしいが結構おいしい。包み紙に由来が書いてありました。
東海名物 うさぎ餅の由来
耳長に 聞き伝えきし 兎餅
月もよいから あがれ名物
江戸時代に東海道を往来した大田蜀山人がその味の良さに詠んだ古庄名物「うさぎ餅」。
月があがるに、餅のつきがよいので召しあがれと、かけあわせた狂歌で有名になり旅をする人びとに賞味されました。
「うさぎ餅」の名は、店先に飼っていた兎から名づけたと言われ薄皮の餅に餡をくるみ、満月の焼印を押して販売されました。
前島家から吉田家へ伝わり、街道の名物であった。「うさぎ餅」を、創業100余年の老舗松木屋さんの協力を得て、その幻の味を再現してみました。
古庄に兎餅の看板が立っている。そのページへはこちらをクリック。
[鷹匠2丁目]
交番のある交差点が外堀の東端になる。ここから堀は復活して西に向かって半周続く。
水落の交差点から北街道を振り返る。
[水落町]
今は無きナショナル会館が水落交差点に面して建っていた。
ナショナルの拠点だったこの建物は、1階と2階がモデルルームだった。
今は時代と共に役割を終え除却され、隣接していた常葉学園へ売却した。
[外堀・水落]
交番裏に外堀の流れ出しがある。堀はここから横内川へ水を落として巴川へ合流して清水へと流れていた。
横内川は今は暗渠となって北街道の下を流れている。
<水落町>
江戸時代に駿府城築城のために造られた横内川という運河へ駿府城の堀の水を流れ落とす地として水落と呼ばれた。
明治以前までは武士の屋敷が多い地域だった。
[横内町・先宮神社]
水落の交差点から北街道を500m進んだ信号の路地を左に入ると先宮神社がある。
看板を読んでみます。
由緒
此のお社は、奈良時代宝亀9年9月 49代光仁天皇(西暦778年)の創建にて往古は足濯(あしすぎ)神社と称し足濯(現在の足洗)一円の農業の守護神、保食神を奉斎し、のち浅間神社の先宮として同神社の祭神、木花咲耶姫命と大山祗命の2柱の祭神を合祀し、のち先宮神社と改称された古き歴史を有する神社です。
現在の本殿は、浅間神社境内の山宮麓山神社改築に伴い下賜われた建物です。(徳川時代)
境内社
稲荷神社祭神 宇迦之御魂大神
濯澤神社祭神 市寸嶋比売命
金比羅神社祭神 大巳貴命
津島神社祭神 速須佐之男命
田村神社祭神 阿夜訶志泥命
猿田比古神
例祭日 夏越の大祓(6月30日)・秋季例祭(10月)
氏子区域 横内町・大田町・巴町・城東町
神職 宮司 大島千秋
[横内町・金刀比羅神社]
先宮神社の境内に金比羅さんもある。
御祭神 大国主命(大巳貴命)
福の神(恵比寿様の父神)をお祭りしてあります。
合祀 津島神社 御祭神 速須佐之男命
[横内町・来迎院]
先宮神社の隣に寺があり、「浄土宗 大用山 来迎院」 山門の脇に「本尊不動明王」と書いてある。本尊は聖徳太子作の阿弥陀如来との話を聞いていたので、アレ??って感じ。
後で調べたら由比正雪の門下になって仇討ちに成功した宮城野としのぶ姉妹が、正雪の菩提を弔うために建てて供養した十三仏堂があり、そこの本尊が不動明王らしい。
看板に説明書きがあったので読んでみます。
このお寺は慶長14年(1611)徳川家康公が創建されたもので正しくは大用山英長寺といいますが古くから横内の来迎院として親しまれて来ました浄土宗のお寺で本山は京都の知恩院です。
ご本尊の阿弥陀如来様は聖徳太子の作と伝えられております。開山の廓山上人は今川家の家臣中山城主の家に生れ長じて家康公の信任厚く駿府城に度々招かれて仏典を請じ世事百談のことをお話ししました。
以来法燈建綿として300有余年現住職は数えて実に21代目に当ります。創建当時の寺域は1900坪に及び門前には横内川の清流がながれ大方丈庫裡鐘楼などの伽藍は結構きわめました。
家康公寄進の南蛮屏風は明治初年宮中に献上され美術史上に名高い神物になっています。
境内に繁茂する揚梅の木は家康公のお手植でこの木に朱印30石を賜わったのも珍しいことです。
また境内の13佛堂は、もと安倍川のほとりにあった正念寺から移したもので由井正雪をめぐる宮城野、信夫の物語を伝えています。
[筆塚]
来迎院の山門を入るとすぐの右側に筆塚と隷書で書かれた石碑が立っている。
書は「幽渓書」との落款がある。青木幽渓先生の略歴が書かれていた。
<主な受賞>
1972 県文化奨励賞
1975 県知事表彰
1977 勲五等瑞宝章
1978 総理大臣招待
1976 ワシントン州タコマ市名誉市民章
<主な履歴>
1943 大日本書道展特選
1948 日展入選
1982 毎日書道会参与
1978 獨立書団参与
1974 県、市書道会顧問
1974 市文化団体連合会会長
幽渓操 建之 発起人代表大石幽邦 硯石寄贈 三日月堂
[横内]
街道へ戻ったすぐ先の歩道脇に石柱と説明看板が立っている。
<北街道と横内川>
歴史とロマン漂う「北街道と横内川」の由来
北街道は中世以降、近代初期まで約750年間にわたって「東海道」の役割を担う街道でした。
鎌倉時代初め、京都〜鎌倉間を往還する「鎌倉街道」となり、近世初頭まで府中〜興津間はこの道が東海道として長い歴史を見つめてきました。慶長6年(1601)東海道53次が制定された以降も北街道として利用され、1200年余りの変遷を経て現在も市の中心部と清水を結ぶ重要な幹線道路となっています。
横内川は400年前、家康公の命により駿府城築城に際して造られた運河でした。水落町を起点に北街道沿いに巴川に至る延長1475間(約2950m)で、江尻湊から船荷を巴川畔の川合で横内川に積み替え、府中までの運搬水路として使われました。また近郊農村への灌漑用水や市民の生活用水としても大きな役割を果たしてきました。江戸時代から近代にかけて、北街道の家並みに沿って流れる横内川は駿府城下町の風物詩として人々に親しまれてきました。
しかし交通量の増加に伴い昭和の中頃全線暗渠となり、その姿は消え失せました。この度太田町誕生100周年を記念して、ここに昭和初期の街並みの写真を刻む石碑を建立し、往時をしのぶこととしました。
2008年10月1日 大田町誕生100周年記念会
[北街道]
来迎院から北街道に戻り清水(しみず)区方面を臨む。
ここから南西へ500mの所に清水寺があるのでそちらに寄ってみる。
「しみずでら」ではなく京都と同じ「きよみずでら」と呼ぶ。
<横内町>
駿府九十六ケ町の一町で、駿府城東辺の外濠に面する城門を横内門と称した。
駿府城の警衛にあたる武士の屋敷が多く、北街道に沿って繁栄した町であった。
[清水寺]
北街道から500mほど南に下ると音羽町という町名になり、道路脇の大きな松が寺の入口の目印になっている。
<音羽町>
音羽町の町名は「音羽山清水寺」から由来する。このあたりは府中宿ではなく旧豊田村南安東に属していた。
[清水寺]
谷津山の麓に「音羽山 清水寺」という高野山真言宗の寺がある。
まずは石段を登る。
[清水寺]
寺の入口に由緒が書かれた看板があった。
<音羽山清水寺>
清水寺は、永正年中(1504〜)、印隔法印が開いた壇林(学問所)の古地に、当時今川8代守護大名氏輝の遺命によって永禄2年(1559)家臣の朝比奈丹波の守元長が創建したものである。開山は、京都から迎えられた尊寿院大僧正道因と伝えられている。この地の眺望がすばらしく、京都の音羽山清水寺に似ていたので、その名がつけられた。
境内には、慶長7年(1602)徳川家康が建立した観音堂をはじめ、薬師堂・聖天堂・霊牌、金比羅神社、熊野神社などがある。観音堂の中には、同じ頃に建立されたと思われる禅宗様の宮殿型厨子が安置されている。いずれも安土桃山時代の建築様式を伝え、昭和31年5月に県の文化財に指定されている。
また、清水寺境内は文学碑の宝庫でもある。「初夏の駿河路や はなたちばなも 茶のにほひ」の句碑をはじめ、山村月巣、小林文母らの句碑が数多くある。樹木におおわれ、苔むした句碑が静寂な境内にひっそりとたてられており、いっそう歴史の重みを感じさせている。
なお、当時は規律の厳しい寺であるため、観音堂、薬師堂など、殿堂の一般公開はしていない。
昭和58年10月 静岡市
[清水寺]
清水寺は木に囲まれ静かな雰囲気をかもしだしている。
派手さはなく観光地化もされていない。
[清水寺]
いろいろな施設が寺のあちこちにあるが何を意味するのかはわからない。
[清水寺]
境内には至る所に句碑がある。
「駿河路や はなたちばなも 茶のにおい」 芭蕉
[清水寺]
句碑はいろいろな形をしている。
「雪の旅 杖一本の 命かな」 詩三
[清水寺]
鐘楼も立派なものだ。
<清水寺の梵鐘>
清水寺の梵鐘は寛永12年に鋳造されて両替町三丁目に設置された分時鐘に由来する。
二度の改鋳を経て明治44年清水寺が譲り受け、同年10月に改鋳された際に、梵鐘の来歴を新たに徳川慶喜公による「聲徹海嶽 常報晨昏」と徳川家達公の「奘勵民業 永紀國恩」の双句を掲げた。
大正8年12月には鐘楼が完成し、梵鐘の音を再び響き伝えることができるようになった。
その梵鐘は戦争のために供出され、現在の梵鐘は昭和25年に復元したものである。
[清水寺]
朱塗りの建物がある。猫が厳かなふるまいでゆっくり歩いていた。建物の前に清水寺の説明看板が立っている。
(音羽山清水寺)
この寺は、永禄2年(1559)今川氏第8代氏輝の遺命を受けて、家臣朝比奈丹波守元長が創建した真言宗の寺である。
本尊は、千手観音菩薩であり、寺の名前は開山第一世の道因大僧正が京都清水寺から招かれて入寺したことから、故郷を偲んで、音羽山清水寺と名付けられたと伝えられる。
後に徳川家康公は、しばしば当寺へ参詣し、公地震の持念仏である千手観世音菩薩を納めたと伝えられる。
この観音堂は、木造瓦葺四柱造(寄棟造ともいわれる屋根形式で、奈良東大寺大仏殿などの重要建築物の屋根に多くみられる。)廻縁つきで、内部ははげ落ちているが極彩色であって、桃山時代の特徴がうかがわれる。
また、観音堂厨子は間口94cm、奥行73cmの木造瓦葺妻入宮殿造りで、昭和31年5月観音堂と共に、静岡県指定の重要文化財になっている。
なお、境内には明和7年(今から215年前)に建てられた江戸時代の俳人松尾芭蕉の句碑がたてられている。
「駿河路や はなたちばなも 茶のにほい」
昭和61年11月 静岡市
[清水寺]
句碑は山の斜面に点在している。
「名月や 心一つの 置きどころ」 月巣
[清水寺]
句碑を読む。
「はなすりの 端山を出たり 春の月」 文母
[清水寺]
散歩コースになっている。
「寝時分の 無いものならば 夏の月」 菅雅
[清水寺]
句碑の横には読み方の立て札が立っている。
「さむる時 野に何もなし 秋の蝶」 推陰
[清水寺]
ここはお堂なのか、お社なのだろうか?
[清水寺]
清水寺の境内は斜面にある。
遊歩道が境内を縫って頂上へ続いている。清水山の頂上は平の部分が広がっている。
旧東海道のページの途中に谷津山の頂上へ立ち寄っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[清水寺]
清水山の頂上の広場の中央にある小山が谷津山古墳群のうちの4号墳らしい。
[清水寺]
谷津山4号墳には「護山碑」と彫られた石碑が立っている
探したが謂われを書かれたものはどこにも見つからなかった。
[清水寺]
頂上広場には南側から登って来たが、西側へ下りる道がある。
下りてすぐに展望台のような所がある。清水の舞台と呼んでいる。京都の清水寺を真似ている。
[清水寺]
舞台の下から滝が流れ出している。
清水公園の一角に滝壺がある。隣接する住宅街の憩いの空間だ。
[清水寺]
清水公園は多くの住民の憩いの広場になっている。
紙飛行機を飛ばしている人もいた。
[清水寺]
清水公園の片隅に木蔭で将棋を指すスペースが作られている。
特に老人がのんびりとできる広場だ。
[元長寺]
清水公園の北側の路地を入って行くと瓦場町という町名になり山の麓に「天叟山 元長寺」という曹洞宗の寺がある。
<瓦場町>
瓦場町は駿府城を築く際に集めた瓦職人が住んでいたことに由来する。
[長源院]
さらに谷津山の麓に沿った道を進むと「沓谷霊園」という市営墓地があり、墓地に沿って回り込むと曹洞宗「大森山 長源院」がある。門の看板を読む。
<山門龍のいわれ(長源寺)>
戦国時代に創建(長亨2年(1487)今からちょうど500年前)された長源院には、興味深い言い伝えが残されている。
寺伝によると・・
ある旅の僧(當山開山覚山見知大和尚)が、手越の里(當山末寺泉秀寺)でつえの倒れる方角に寺を建立することを決めた。すると、つえはしばらく立ったままだったが、突然、つえの先から蛇が現れ、やがて竜となって沓谷の方向に飛んでいった。旅の僧は、竜が舞い降りた谷津山の麓に寺を建てる決意をした。村人たちは僧を助け、山を削り、池を埋めた。
ところが、一ヶ所だけ池の水をくめどもくめども切れない。いたずらに人力を費やしていると、見なれぬ老人がやってきて人夫のひしゃくで一気に水をくみ干してしまった。そして老人は「我は福老人(當山鎮守毘沙門天萬福子聖権現)である」と言い残してこつ然と姿を消したという。
完成した寺が「長源院」である。以来毎年當山では大晦日に参詣者にひしゃくを出し、元日には「万福舞」というひしゃく踊りの習慣が残っていたと伝えられている。明治以降この習慣もいつのまにか消えてしまい現在では「万福舞」とはどのような踊りであるのか全くわからない。
[長源院]
本堂、鐘楼も有り整えられた境内だ。
<ふるさとの誇り(長源寺)>
大森山長源院は、戦国初期、今川氏親公の重臣、朝比奈左京亮泰以公が建立せしものなり。泰以公は、今川氏親公の命により、駿府城を修築し、又駿府の城下町を整備したる人なり。当時谷津山の山麓にありし、朝比奈屋敷の総てを寄進し、覚山見知大和尚禅師を請し当院を創建す。
寺伝に依れば、当院建築の際、山麓の池水一ヶ所容易に乾かず困窮の折、万福子の神、老翁となり救助すると言う。依りて杓子を持ち踊る万福踊りが行われたと今に伝う。
寺門愈々隆え、当山7世在川謙昨大和尚の時に至り、当時駿府城に在城せられたる徳川家康公、鷹狩の度、当院に立寄られ、和尚と極めて眤懇となり、種々下賜品等あるも、当院は3度の火災の厄に遭い、その総てを焼失するも、幸い当院の檀家中山田常賢に賜わりたる葵の紋章入りの印篭現存す。又和尚駿府城に招かれ登城に使用したる駕篭、長持ち等あり。
家康公没後、大位牌を本堂正面に安置し、祀られて今日に至るあり。公の寵臣彦坂九兵衛、慶長14年(1609)(今から384年前)公の命に依り、駿府町割を成し、今日の静岡市の基礎を築けり。九兵衛6世の孫三太夫一族と、当院の関係ある駿府城代及び与力、同心、幕末、江戸より駿府に移住したる旗本侍の方々の墓塔あり。
駿府城代 松平加賀守康次
松平内膳正
菅沼織部正
浅野中務少輔
駿府城重臣 土岐朝昌
駒井馬
与力、同心 今井・河野・田代家等
昭和年代に入り、北大寮歌の歌詞を作りたる横山芳介、社会党代議士下川儀太郎、等の墓塔を存し、「鐘声夜泊の庭」の前庭「渓泉抱石の庭」の裏庭が整い、書院には、福田半香のふすま絵の名画、柴田泰山の鶴のふすま絵も美しく、昭和63年12月より、5ケ年の歳月を費やして、念願の諸堂宇、寺域墓地等の修復整備も一段落し、祈りの聖地として、脈々流れる、永遠の生命の殿堂としての、長源院の存在意義を、再認識して頂ければ幸いなり。
平成5年4月吉日 (郷土史家村松圭三しるす)
[北街道]
長源院から東中学を横眼で見ながら北街道まで戻る。
このあたりは銭座町という町名になる。
徳川4代将軍家綱の頃この地で銭座を設け、寛永通宝(駿河銭と呼ばれた)を鋳造した。
そのことから字名が「銭座」となり、その後町名となった。
[北街道]
北街道は現在4車線となって清水方面へ向かうが沓谷2丁目の交差点で左に分離する道が旧道になる。
この交差点を北上する道が唐瀬街道という。千代田、竜南、上足洗、北安東、城北、池ケ谷、岳美を通りながら唐瀬へと通じる。
<沓谷><上足洗>の町名の由来
室町時代には既に「駿河国沓屋郷」と呼ばれていたことが記された書物が存在するとのこと。
伝説では「浅間様」又は「日本武尊」が今の上足洗の辺りに来たとき、沓を脱いで足を洗ったとされる。沓脱ぎが沓谷に変わり、足洗いが上足洗という地名になったという。
[蓮永寺]
沓谷2丁目の交差点、北街道沿いにに山門がある。蓮永寺だ。説明看板がある。
蓮永寺(貞松山蓮永寺・みまつさんれんえいじ)
蓮永寺は、はじめ庵原(いはら)郡松野村に建てられてあったが、元和元年(1615)、お万の方(の発願によって、駿府の鎮護とすべく、この地に再興されたものである。
お万の方は、上総国(千葉県)大滝城主正木左近太夫頼忠の娘で、後に伊豆河津の笹原城主蔭山氏の養女となり、徳川家康に仕えて2人の男子を産んだ。上の子は、家康の第10子頼宣(紀州家)で、下の子は、第11子頼房(水戸家)である。水戸黄門の名で知られる水戸光圀公はお万の方の孫に当るわけである。
お万の方は、熱心な法華経の信者で、特に身延山久遠寺日遠上人の帰依者であった。元和2年(1616)4月17日に、家康が駿府城で歿すると、剃を下して養珠院と号し、この蓮永寺にこもって、家康公の菩提を弔ったということである。晩年は、わが子頼宣のもとで平穏に暮らし、77歳でこの世を去った。
境内には、当時の権勢を誇るかのように、身の丈を越える立派な供養塔が建てられている。また近くには勝安房の母信子と妹じゅん(佐久間像山の妻)の墓がある。
寺宝 家康ゆかりの品が数多く保存されている。
静岡市
[蓮永寺]
仁王門が建っている。
[蓮永寺]
仁王門には文字どおり仁王さんが出迎えてくれる。阿吽の謂れを思い出す。口を開いた「阿」、口を結んだ「吽」。
[蓮永寺]
鐘楼も建っている。
長く繁栄してきた寺であることがうかがえる。
[蓮永寺]
元は教育施設だったような懐かしい気持ちにさせてくれる建物が建てられている。
[蓮永寺]
庫裡もなまこ壁も使った古い建物だ。
[蓮永寺]
柱や梁が素晴らしい。
老舗商店の大福帳を開く番頭さんが似合いそうな造りだ。
[蓮永寺]
古いしっかりした建物が建てられている。
[蓮永寺]
境内には緑も多く、落ち着く寺だ。
[蓮永寺]
駿府城の鬼門にあたる蓮永寺は、本堂の正面を駿府城に向け、城の安泰を祈ったという。
[蓮永寺]
徳川家康の側室(徳川光圀公の祖母)
お万の方供養塔
[蓮永寺]
勝海舟の母と妹の墓がある。
<勝 信子の墓>
榮正院殿妙壽日徳大姉は勝海舟の実母であり、勝甚三郎元良の娘で小吉惟寅の妻である。
風雅を嗜み、写字を能くし教養を積み内助の功あり明治3年3月25日
行年67歳静岡に於いて病歿せり。
慈海院殿妙香日順大姉は海舟の妹じゅんにして佐久間象山の妻なり。
明治41年1月3日寂行年73歳慈母のかたはら此処に葬る。
維時昭和49年5月18日
静岡東ロータリークラブ厚志によ里建之
[陸軍墓地]
蓮永寺の南側に陸軍墓地があって慰霊碑が並んでいる。
広場となった南側に陸軍の兵士たちの50基以上の墓地がある。
関谷銘次郎頌徳碑
(陸軍歩兵大佐)勲3等功3級関谷銘次郎君は地震学の泰斗と仰がれ東京大学教授理学博士関谷清景君の実弟にして其父は岐阜県士族関谷玄助翁なり、君は父の性格を享け幼より勇武の気に富み明治8年陸軍幼年学校に入り、10年士官学校に遷り12年少尉に任ぜられ累進して大佐に至る大尉の頃独逸に留学して戦術を研鑽し帰りて幼年学校士官学校に将校生徒を養成し征清の役第ニ軍参謀として帷幕に殊勲を建て尋て大隊長聯隊長に歴補し和魂洋才適くとして可ならさるはなく名声大いに聞ゆ明治37年征露の役起るや静陵の精鋭3000を率い普蘭店得利寺蓋平大石橋海域鞍山站の各地に連戦して毎に功あり就中得利寺における偉功は聯隊に感状を受けしめたりは月遼陽大会戦の初頭第3師団左翼隊の重任を受け首山堡南方高地に向へり抑も此高地は遼陽街道を扼する天然の関錀にして陣堅く備頗る精なり31日未明軍容粛々弦月の影を踏み軍旗中隊を核心として戦線を進め奇襲猛撃一挙に敵の第1第2塁を奪取す然るに果敢の奮進は却て孤立の難に陥り敵十字火の下に大隊長橘少佐奮戦して之に死し其他死傷千余人惨絶を極む此窮況に處し大佐は毅然として部下を督励し従容として軍旗の安全を図り終に敵弾に殆る何ふ夫れ壮なるや大佐陣歿してより茲に20有6年其功烈を追慕景仰する者益多し乃ち同感者胥り此像を建て以て木朽の亀鑑とす
昭和4年8月31日 静岡首山堡会撰
[千代田・市高]
北街道へ戻り、沓谷2丁目の交差点から唐瀬街道に入ると千代田という町名になる。
100mほど行ったショッピングセンターの東側に並木道があり、静岡市立高等学校の校門へと続く。
<千代田>の町名の由来
明治になって千代田村と命名された。かつて一面に水田に広がっていた。
むかし家康がこのあたりに広がる水田を見て「千代田」と称したといわれている。
[千代田・市高]
静岡市立高等学校の校門はかつて、田安門がここにあった。今は校門の内側に移築され近代的な門に改築されている。
この校門は普段閉ざされていて、唐瀬街道沿いの門が使われている。
[千代田・市高]
校庭にあるので、事務局に断って写真を撮らせてもらった。説明看板が立っている。
<田安門の由来>
この門は、当地に移築される以前、西草深町の浅間神社向かいに建っていたものである。この敷地には、江戸時代、浅間神社神主の役宅が置かれていたが、1869(明治2)年、徳川宗家16代徳川家達の屋敷となった。
田安家出身の徳川家達は、前年、駿府70万石の城主として駿府城に入城していたが、藩籍奉還により静岡藩知事に任命され、公私の別をつけるためここを私邸として移住したものである。この門はその遺構であり、徳川家達の出身に因んで「田安門」と通称されてきた。
徳川家達は、1871(明治4)年東京に移住するが、この門は現地に残され、1887(明治20)年、同地に静岡尋常中学校(現静高の前身)が校舎を新築してその正門となった。
1900(明治33)年には、静岡尋常中学校が移転し、同地は師範学校女子部に引き継がれた。そして1924(大正13)年女子師範学校(旧師範学校女子部)が移転し、同地は西草深児童公園地となったが、この門は残存し、その後の静岡大火や空襲でも難は及ばなかった。
その後、この門は1958(昭和33)年に本校の正門として現在の敷地に移築された。以来、本校生徒の向学のシンボルとなり、今日に及んでいる。
静岡市立高等学校
[千代田・白髭神社]
市高の唐瀬街道をはさんだ西に小さな神社がある。看板に由緒が書かれている。
祭神名 武内宿禰命
例祭日 歳旦祭(元旦)
大祓い(6月)
秋季大祭(10月17日)
由緒
創建年代は不詳。日本書紀巻第7
景行天皇の御代(第12代)にその名が見られる。実在の人物にて新撰姓氏録に王仁の孫(わにのひこ)と記載されています。
往古よりこの地に鎮座しており、明和6年(1770)9月再建となり現在に至る。
旧社格 明治8年12月村社に列せられる。
現在は 静岡県神社庁神社等級規定12等級社である。
境内社 12社
氏子区域 千代田1丁目から7丁目及び竜南地区
神職名 宮司 大島千秋
[北街道]
北街道へ戻り旧道の方を進む。
間もなく「でみぐら亭」というレストランがある路地を右に入る。
[須賀神社]
「でみぐら亭」を過ぎ4車線の北街道を渡ると谷津山の麓に「須賀神社」と書かれた鳥居が見える。
神社は階段を登る。
略記
須賀神社 静岡市沓谷鎮座
<御祭神>
建速須佐之男命
奇稲田姫命
<御神徳>
国家安穏、万民守護の神として崇拝せる。事業繁栄、家内安全、開運厄除、学業向上の守り神であり、当地が祇園信仰の盛んな頃、庄屋の山田常賀が沓谷郷の産土神と仰ぎ牛頭天王社と奉称。
明治8年3月政府の調の折り須賀神社と奉称。社格は村社に列せられた。
<社殿>
流造 鳥居 明神造
<境内社>
本社向右 福神社 祭神
本社向左 廣田神社 祭神 天照大神荒魂
稲荷神社 祭神 宇和之魂命
東端 祖霊社 祭神 沓谷郷の祖霊
神は緑の森厳の中に鎮座す流造の社殿群でこの地方の特筆すべきもの稲荷神社は上方造で一見に値する社殿
[須賀神社]
「須賀神社」の階段の途中に「平成稲荷」と書かれた鳥居がある。
神社は一段上の広場に並んでいるが、稲荷神社へはこの鳥居から続く左側の道が通じている。
[須賀神社]
「須賀神社」の社殿があり、隣に「平成稲荷」と書かれた社が並んでいた。
並んではいるが参道へ別ということらしい。
[龍雲寺]
北街道へ戻って100m進んで又、谷津山の麓まで200m行った突当りに曹洞宗「洞谷山 龍雲寺」がある。
[龍雲寺]
竜雲寺は、守護大名今川7代の当主氏親の夫人龍雲寺殿峰林寿桂大禅定尼(寿桂尼)の菩提寺である。
寿桂尼は京都の中御門権大納言宣胤の女で、永正5年(1508)今川氏親に嫁して、3男4女を生んだ。
氏親は晩年、中風気味で自ら国政をとることが困難であったため、夫人の内助によるところが多かったと言われている。
大永6年(1526)氏親が56歳で亡くなると夫人は髪を切り、翠光院寿桂(後に長膳院)と号し、氏輝、義元、氏真3代約40年の永きにわたり政務を補佐し、守護大名今川氏の繁栄をもたらした。
ことに永禄3年(1560)5月、尾張国桶狭間における義元公の戦死は今川方にとって決定的打撃となったが、その間に処して沈着よく事をはこび兵をおさめて論功を行い、今川家の回復をはかり、外敵の進入を受けることなく国内の平静を保ったのは、尼の力に負うところが大きかった。
永禄11年(1568)駿府の館で没したが、遺命により、駿府の鬼門にあたる当寺に骨を埋め、永く今川館を護ろう念願したと伝えられている。
墓所は、寺の背後にあって、五輪二基のほか石塔があるが、そのいずれが尼公の墓であるのかさだかでない。
[龍雲寺]
寿桂尼の歌碑があった。
寿桂尼公今川家へ嫁するに当り、父八代権大納言中御門宣胤卿より賜わりし印形今川家決裁にこれを用う依ってここに永代に記念するものなり
歸(とつ)ぎ来し 駿河の国を 見守りて しづまりいます
寿桂尼大方
宜子 上
[愛宕神社]
谷津山に愛宕神社があり、かつては山城があった。
ここから登る。
愛宕城址のページを作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[北街道]
旧道まで戻り、東へ進む。
「羊羹屋マート」という菓子屋なのか食品店なのかわからない名称の店がある。
[北街道]
千代田小学校や千代田農協がある交差点がある。
ここを右に曲って愛宕霊園の方へ行ってみる。
[沓谷・愛宕]
市営霊園が広がっているがその霊園を背にして並んでいる寺を撮ってみました。
ここの寺街は戦後に駒形の辺りにあった旧寺町から集団移転してきたものだ。次の寺がある。
新光山 宗長寺 日蓮宗
法養山 妙像寺 日蓮宗
妙祐山 宗林寺 日蓮宗
竜華山 安南寺 臨済宗妙心寺派
正覚山 菩提樹院 臨済宗妙心寺派
蓮長寺 日蓮宗
勝地山 新善光寺 天台宗
長善山 浄祐寺 日蓮宗
萬嶽山 松龍禅院 臨済宗妙心寺派
自然山 真勝寺 真宗大谷派
[愛宕霊園・観音山]
霊園や寺の南に小さな山があって、観音山と言う。
この山も霊園の一部。
ここに寺が引っ越してくる前には谷津山と観音山とはつながっていたが切って通したとのことだ。
[愛宕霊園・観音山]
頂上には観音様が建っている。
ここの寺が共同して建築したとのこと。謂れが書かれた碑が立っている。
此の地は第二次世界大戦中計画されたる静岡聨隊の忠霊塔建設用地にして県下各種団体学徒等延十数万人に及ぶ銃後国民の清き汗の奉仕にて整地せる霊域なり。
然るに我が国は敗戦の止む無きに到り国土は荒廃し国民思想は混乱し200万の英霊地下に万斛の涙をのむの國情にて環の計画は水泡に帰せり。
我ら・に忠霊塔の代り戦病歿の英霊有縁無縁の戦災殉難者慰霊のため且つは世界平和と国民思想の差道を祈念して慰霊観世音菩薩の建立を発願し観音経中「八万四千衆生」の御文に因み溥く世人との結縁と喜捨を仰ぎ幸いにも2万5千有余人の資助を得更に旧34聨隊営庭の関谷聨隊長銅像台座を譲り受け昭和27年6月此処に移転翌28年静岡左官組合の献身的奉仕を得森田太津藏氏の手にて尊像完成す。
よりて同年10月18日開眼大法要を厳修し1900余人にて謹写せる観音経6巻と英霊法名を胎内に奉安し供養を営む。
冀は諸精霊位佛果を証して永久に安楽の菩提座に常住せられんことを維時
昭和28年10月吉辰 発願者 花園霊苑寺院一同
[愛宕霊園・観音山]
観音山の頂上からは愛宕霊園が一望できる。
[宗長寺]
新光山 宗長寺という日蓮宗の寺。
入口に看板が立てられている。
<連歌師「宗長」の旧跡>
室町時代の連歌師「宗長」の府中における屋敷「臨川庵」跡を寺院としたもので、当時は安倍川の畔にありました。
<宗長が臨川庵で詠んだ句>
河原ちかき宿所にて 夕すずみ身も日もさむし河原風
河辺の宿所にて すゑやみな川かみすめる春の水
<「宗長手記」より>
宗長が師匠の宗祀と詠んだ句
山ふかき里や嵐にをくるらん 宗長
<「水無瀬三吟」より>
なれぬすまひぞ寂しさもうき 宗祀
[沓谷・菩提樹院]
正覚山 菩提樹院は臨済宗妙心寺派の寺。由緒の看板が立っている。
<菩提樹院(正覚山菩提樹院)>
菩提樹院はもとは寺町4丁目(現在の常磐公園)にあったが区画整理によりここに移転した。
この寺には由比正雪の首塚である五輪の塔がある。由比正雪は幼名を久米之助といい、慶長15年(1610)駿府宮ケ崎、岡村弥右エ門の次男として生まれた。父は農業のかたわら紺屋を営んでいた。正雪は幼少の頃より軍書を愛読し後に江戸へ出て楠流軍学の師範となり、道場を開いたが門弟の数は数千人といわれた。
慶安4年(1651)3代将軍家光が没し、4代将軍家綱が11才で将軍となったが大名のとりつぶしなどで多数の浪人が出、社会は騒然とし、人心が動揺していた。正雪はこの不安を救い徳川幕府の政治を改革しようと計画し、慶安4年7月29日を期して江戸、駿府、京都、大阪の4ヶ所で、同時に兵(五千人と言われる)を挙げ、天下に号令しようとしたが、事前にこの計画が発覚し、正雪は駿府梅屋町の旅籠で、部下7名と共に自刃した。時に正雪は42才、その後首刑され、安倍川原でさらし首となっていたが縁者の女人がこれを盗み、早暁より門の開いていた当寺に葬り、五輪の塔を建て供養したものが、正雪の首塚である。
昭57・3 静岡市
[沓谷・菩提樹院]
由比正雪公首塚。説明看板を読む。
幼名を久米之助という慶長15年(1610)駿府宮ケ崎の紺屋に生れ、幼少より書を好み17才の時江戸へ出て、楠不伝に楠流軍学を学びその秘法を伝授され、牛込に道場を構え軍学を指南せり。
時に徳川幕府の悪政を改革せんと幕府転覆を計り自ら久能山に立籠り、東西の同志に号令せんとせしが事寸前に露見し、慶安4年(1651)7月26日梅屋町の旅籠梅屋勘兵衛に於て捕り方に包囲され辞世の句を残し同志9名と共に自刃せり。
時に正雪42才、同志と共に安倍川畔にさらし首にせられしを縁者の女人秘かに之を盗み去り寺町(現常磐公園)菩提樹院に葬りしが即ち首塚なり、因に正雪公首塚は都市計画により昭和21年当寺が現地に移転と同時に移転された。
[沓谷・菩提樹院]
本堂の脇に伝駿河国分寺の塔心礎と説明看板が立っている。
静岡市指定有形文化財(考古資料) 指定年月日 平成7年1月23日
<取材地 静岡市沓谷1344番地の4 菩提樹院>
この石の上面には、直径1m前後、高さ約20cmの柱座状の高まりがあり、そのほぼ中央部に直径46.52cm、短径35cmの楕円形の孔が掘られている。しかし、もとは直径34cmの円形であったことが孔を穿った鑿の痕跡からわかる。
本来は寺院の塔の心礎として用いられたもので、中央の孔は釈迦の骨を入れる舎利孔であったと考えられる。この舎利孔の大きさは、甲斐や伊豆の国分寺のものとほぼ同じである。
石に刻まれた銘文によれば、明和8年(1771)に、時の駿府城代武田越前守信村によって駿府城三ノ丸城代屋敷があった社の手水鉢として奉納されたものであることがわかる。その際に、水溜めにするため円形の溝を現在の楕円形の大きさに広げたようである。
昭和5年(1930)に、当時駿府城代にあった日本赤十字社静岡支部の庭(現在の県総合福祉会館所在地)にあるのが発見され、昭和28年駿河国分尼寺の後身という伝承をもつ菩提樹院へ寄進された。
直径2.2m 短径1.42m 全高約1m 材質 粗面岩(火山岩の一種)
平成10年3月 静岡市教育委員会
[北街道]
北街道の旧道へ戻る。この先の信号で交差する通称「流通どおり」と呼ぶ第2東名へ続く幹線道路を横切り清水の方向へ進む。
[北街道]
流通どおりから500m程進むと巴川を越え、川沿いの道に入った場所から今渡った北街道(旧道)の橋を撮影した。
水路状になったこの川は8kmほどで清水港へと流入するが、ここから数メートルしか高低差が無く大雨時には氾濫の危険をはらんでいる。
この辺りは「上土」「川合」という川に由来する地名が付いている。
「上土」
巴川は毎年のように流域に水害をもたらし土砂が河床を上げるため、川の流れる位置が安定せず新田の開発は巴川の川掘りと並行して行わねばならず、上土の地名も浚渫した土砂を積み上げたことに由来する。
[北街道]
巴川から500m程で上り坂となり長尾川を渡る。天井川になっているのだ。
北街道の橋の下流500mで巴川へ合流する。
「川合」
麻機から流れてくる巴川と龍爪の麓から流れてくる長尾川が出合い出来た中州状の地域であることから、江戸時代から川合新田と呼ばれていた。
[北街道]
長尾川橋からは瀬名方面を見渡せる。
長尾川よりかなり低い土地ということがよくわかる。
[北街道]
長尾川橋から下流方向を見てみる。
天井川となっていることから、水位は低く、渇水期になると伏流してしまい砂利の河原が続く涸れた河川となる。
ひとたび大雨に襲われると一気に水かさが上がり、土手の高さのみが頼りとなる。
長尾川は瀬名川(西奈川)のほか微雨川、竜爪川、大沢川とか、場所によって平山川、こりとり川と様々な呼び名を持っている。
[北街道]
橋を渡って土手を100mほど行くと寺がある。
大圓山 増福寺という曹洞宗の寺だ。
[北街道]
本堂には「大圓山」の額が掛かっている。
[北街道]
街道へ戻り東へ500mで北街道の旧道は4車線の新道と合流する。
この辺りは瀬名川という町名だ。
「瀬名川」
瀬名川という地名は、長尾川が平時には水がないため瀬無川(長尾川)とも呼ばれていることからついたといわれる。
建長5年(1253)に東国へ向かう藤原為家が「せな川のはや瀬に見えず行く水や いも恋いわたる涙なるらん」と詠んでいる。
[瀬名川]
北街道は4車線の新道と合流し、すぐの「瀬名川西交差点」を北へ入ると旧西奈村の「瀬名」「長尾」「平山」と続き、突当りが龍爪山の登山口となる。
その次の「瀬名川交差点」を南に曲ると国道1号線へと向かう。
「瀬名」
瀬名は西奈郷の中心地。西奈の読み方は「せな」だったが「にしな」といつしか呼ばれるようになった。明治に瀬名村、瀬名川村、長尾村、平山村の4か村が合併し西奈村となり、庵原郡に属していたが、昭和23年に静岡市へ編入された。
「長尾」
長尾新太郎定景という鎌倉幕府の御家人が落ちのびてきて、200年ほどこの地で長尾家は栄えたが、室町末期、今川の時代にこの地を追われたといわれている。
[鳥坂]
北街道を清水の方向へさらに進むと間もなくバイパスの下をくぐり、清水区の鳥坂地区へ向かう。
北街道の清水方面は別の日に譲ることにして、瀬名周辺を巡ることにする。先ずは北街道の新道を長尾川の手前まで戻る。
北街道(清水方面)を巡るにはこちらをクリック。
[旧北街道]
北街道の新道を長尾川の手前まで戻ると西奈南小学校があって、体育館の前のT字路で東へ向かう道が大昔の北街道だったらしい。
東海道が整備される以前は北街道が京から坂東へ向かう往還道路だったとのことだ。正確にこの道だったかは不明だが、この道の周辺には当時の名残りも見られることからこの辺りに街道があったのだろう。
巴川や長尾川がどのように流れていたのか?などとも昔を想像しながら進んでみる。
[旧北街道]
瀬名川5号橋と書かれた橋を渡り、さらに進む。
[旧北街道]
すれ違うのがやっとの道を進み、この交差点から若干道幅も広がる。
ちょうど懐かしいフォルクスワーゲンがやってきた。
[旧北街道・矢射タム橋]
この交差点に石碑が立っていて説明看板もあった。
「梶原景時と矢射タム橋」
鎌倉幕府は、正治元年(1199)源頼朝が死亡し、頼家が2代将軍となった。
幕府では、武将らの勢力争いが激しくなり、鎌倉幕府創立の立役者梶山景時はその争いにやぶれ、鎌倉を追われた。領地の相模一の宮(神奈川県寒川町)から脱出し、一族や家来をつれて上洛しようとした。
幕府方は景時一行を阻止しようとし、各地の豪族に討伐を指令した。まず清見ヶ関(興津)で戦いが始まり、高橋・大内方面(清水市)に戦場が移った。
景時もよく奮戦したが、長時間の戦いの疲れと、地形に慣れていないため、各地で家来の武士たちは討ちとられた。特に、豪勇無双と言われた三郎景茂が入江一族の吉川小次郎に討たれたことで、景時も覚悟をきめ、この瀬名の地で自害した。景時と共に源太景季・平次景高の親子3人が自刃したと伝えられている。
正治2年(1200)1月20日頃でした。
辞世
「もののふの 覚悟もかかる 時にこそ こころの知らぬ 名のみ惜しけれ」
「矢射タム橋」の由来は、この戦いのとき、このあたりで地元の侍らと矢を射りあったとの言い伝えによるものである。
静岡市観光課
[旧北街道]
街道は住宅街へと入って行く。
[旧北街道・浄界寺]
白壁に囲まれた寺は「浄界寺」。
無量山 浄界寺という曹洞宗の寺だ。
第56番 梅花観音霊場の看板が掲げられている。金毘羅大権現のお堂も建っている。
[旧北街道]
この辺りは旧道の雰囲気がある。
[旧北街道・世尊寺]
路地を南に入ると「世尊寺」がある。
寶集山 世尊寺という日蓮宗の寺で1474年の開山というので、街道が栄えていた頃からあったのだろうか。
[旧北街道]
街道は住宅街をさらに進む。
[旧北街道]
道は東名高速道路のガード下をくぐる。
[旧北街道]
この先は巴川にぶつかる。
[旧北街道]
ここで巴川と長尾川へぶつかり道は消滅する。
この辺りは新しい道なので旧街道だったのかどうかはわからない。
この川は河川改修が繰返されているので、川筋が今とは違っていた。
もっと昔の太古には安倍川の流れも清水へ向っていたこともあるようです。
この川を渡った東側には清水へ向う古い道が繋がることから、多くの人に利用されていただろう。
この後は北街道から離れて瀬名方面へ北上してみる。
清水方面の古道へ向うにはこちらをクリック。
[弁天池]
「瀬名川西交差点」を北上して700mほど行った所に池がある。
<弁天池の新しいやくめ>
この池は、大雨の時、洪水が下流に一度に流れないように、川の水を一時的にためて、時間をかけて川を流してやり、下流でのはんらんを防ぐために、役立つようになっています。
(施設概要)
・事業名 昭和61年度雨水貯留事業駒形神社池貯留施設
・貯留量 4,000立方メートル
・貯留池面積 4,000平方メートル
・貯留水深 96cm
[弁天池]
弁天池へ隣接して「花みづき」という懐石料理屋がある。
かなり高級な価格設定なので寄ってみる勇気は無かった。
[弁天池]
落ち着いた空間が創造されている。
[弁天池]
池に中の島が造られていて、神社が祀られている。
<駒形神社>
田心比売命(多紀理比売命)
滝津比売命(多岐都比売命)
市杵嶋比売命(市寸嶋比売命)
宗像大神とたたえ申す、宗像三女神をまつる神社です。
貞享二年(西暦1685)地頭大久保紀伊の守の勧進と言う。元弁財天御社と称せしを、明治2年、今の社号に改む。
貞享年間、紀伊守大久保玄蕃の奥方が、一夜の夢枕に弁財天が現れて、江戸(東京)上野にある「不忍池に型とって造れよ」と教えたところより、池も島もその様に築造されたと言われる。
国家鎮護・海上交通・漁業守護の神としてあがめられますが、特に別名を、道主神ともいうところから、交通安全の信仰が盛んです。
池は昔から農家にとって、かかすことの出来ない農業用水として、尊ばれて来ました。
明治8年3月、宗教法人法により、宗教法人「駒形神社」となる。
[弁天池]
拝殿なのか舞殿の脇に忠魂碑が建っている。
[梶原一族いくさの跡の看板]
弁天池から300mほど北に光鏡院があり、入口の向かいに看板が立っている。
<梶原一族いくさの跡>
梶原一族について
1,180年(治承4年)、源頼朝は、平家討伐の旗あげをしたが、相模(神奈川県)の石橋山で敗れ、洞穴に隠れていた。そこを平家方の将で、大庭景親に従っていた梶原景時が密かに助けた話は有名である。
景時は、その後、頼朝に仕え平家討伐や鎌倉幕府の創立に功をたてたが、頼朝没後の勢力争いに敗れた。
1,200年(正治2年)一族と共に西国の所領に向かう途中、駿河国、清見ケ関から大内(清水市)あたりで鎌倉の命を受けたこの地の地侍の待ち伏せに遭い、戦いとなったが利あらず、梶原山に逃れ、一族共に自害して果てた。
梶原山の山頂には、梶原親子を供養した塚があり、地元では梶原塚という名でも親しまれている。
梶原景時 辞世
「もののふの 覚悟もかかる 時にこそ こころの知らぬ 名のみ惜しけれ」
2、庵原
当時は一面芦原の湿地帯の中であったので、月明かりをたよりに、両軍見えがくれながらの戦いとなる。
戦場はしだいに高橋、大内と西へ西への移動していく。
3、大内
ここで、梶原勢は、吉川小次郎を主力とする地侍と激突。
景時の3男、景茂と小次郎が一騎打ちとなり秘術をつくして戦い、力つきて景茂が討たれた。
また、負傷した小次郎も間もなく亡くなっている。
4、矢射タム橋
景時は西へ逃げ、瀬名川にさしかかった時、橋のたもとに待ち構えていた地侍が、いっせいに矢を射かけたので、「矢射タム橋」と言われるようになった。
5、矢崎
川合あたりまで進んだ景時は、更に行く手を地侍に阻まれ、「矢射タム橋」を逆戻りし、矢崎あたりで最後の死力をつくして戦ったがかなわず梶原山に逃れた。
6、梶原山頂
もはやこれまでとみた景時親子は、湧き水で鬢(びん)をなおして、山頂で自害して果てた。
[梶原山・一本松公園遊歩道案内]
「梶原一族いくさの跡」の看板の右半分に梶原山のハイキングコースの絵図と説明書きが描かれている。
図を参考に一回りハイキングコースを巡る。
<梶原山(夕日無山)>
標高279m、静岡・清水区境の山で、両市街はもちろん伊豆半島・南アルプスなどの眺望はすばらしい。
「梶原景時親子」がこの山頂で自害したことから、山の名もここからきている。
地元健全育成会と清水区鳥坂有志によりハイキングコースが整備され、あずまやの休憩所も作られている。
<びん(鬢)水>
山頂から50mほど下がった所にあり、梶原親子が自害する前に乱れた鬢(びん)を直し、のどの渇きをうるおしたといわれる湧き水あとをいう。
駿府城の石垣用に切り出されたと思われる石の一部も残っている。
<一本松公園(帆掛山)>
標高304m、むかし駿河湾を航海する船の目印とされた大きな松があった山で、清水港や、富士山の眺めは格別である。
清水区高部街づくりの会を中心に公園が整備され、大内の観音さまと共にハイキングコースとして親しまれている。
<瀬名古墳群>
5世紀〜7世紀代まで、瀬名地区一帯を治めた族長クラスの墳墓と見られ、すでに山の開発や農道建設で数基が発掘されたが、現在も尾根に3基がそのまま保存されている。
[光鏡院]
曹洞宗「清涼山 光鏡院」はまず仁王門が出迎えてくれる。
光鏡院は、今川陸奥守一秀の菩提寺で、長亨2年(1488)僧・恵雲が開山した曹洞宗の寺ある。
文明8年(1476)今川6代当主義忠が不慮の死をとげ、今川一族の間で竜王丸(今川氏親)派と小鹿範満派に分れて争いが起ると、一秀は竜王丸を補佐するため遠江から瀬名に移り住み、瀬名氏と改名した。以来、一秀は瀬名一族の祖となった。
通称「瀬名館」といわれる字大屋敷は、瀬名集落のほぼ中央にあって、瀬名一秀を祖として氏貞、氏俊、氏詮四代の居館跡であったことが「今川記」に記されている。今日、遺構は認められないが、今川直系を補佐する一族として瀬名氏の勢力は大きかった。
瀬名砦の所在は不明であるが、光鏡院の裏山と考えられ、永録11年(1568)武田信玄の駿河侵攻の際に落城したことが記録にみられる。
光鏡院をはさんで、2代今川氏貞の菩提寺である「松寿院」や3代今川氏俊婦人の菩提寺である「竜泉院」の一帯は、瀬名一族発祥の地であるので、今川一族研究のうえからも、きわめて意義深い土地柄である。
昭和58年10月 静岡市
[光鏡院]
一段高い所に本堂がある。手入れが行き届いた境内だ。
[光鏡院]
本堂の裏には1000基は下らなそうな墓地が広がっている。中でも今川一秀の墓が目を引く。説明看板がある。
今川一秀は永享4年(1432)遠州堀越(袋井市)城主今川陸奥守貞延(今川了俊より4代め義恵弟)の子として生まれたが仏門に入り、近くの海蔵寺で成人した。
しかし父貞延が戦死したため還俗して城主に戻り、後、二俣城にも移り住んだが、駿府の今川義忠が塩買坂(今の小笠郡小笠町正林寺門前あたり)戦死するとその子の龍王丸(2歳)後の氏親−今川義忠の父−の後見役として瀬名に移った−何年かは不詳1480年ころか?−住居は大門町と西下町にまたがる「大屋敷」−リンク西奈あたり−と思われる。
長享2年(1487)僧慧雲に命じて光鏡院を建立開山した。文亀3年(1503)4月20日72才で没した。「瀬名殿」と呼ばれこの頃から「西奈(せな)」が「瀬名」になったと推察される。
3基の真中が当初の墓と思われ、向って左側の墓は宝暦2年4月、第11代(今川了俊よりの瀬名氏)の貞榮が一秀没後250年忌−平成9年9月−として建てたもので、当時22世岡田天介老師により平成4年9月台座が設置された。
文責 瀬名西下町 中川順一郎
建札製作 瀬名西下 串田正雄
板金工作 瀬名川町 大石角蔵
[光鏡院]
屋根付きの墓所もあり、看板が立っている。
中川本家初代(藤原鎌足末裔)
中川惣太夫之墓
法名 頓悟院不山宗智居士 延宝元年(1673)10月6日没。
[龍泉院]
光鏡院と並んで臨済宗妙心寺派の「大淵山 龍泉院」がある。
住職の奥さんに由緒が書かれたコピー。
<龍泉院開創由緒>
元亀2年秋9月今川了俊八世の孫今川伊予守氏俊の室今川氏親の2女
義元の妹なり
卒す法号を龍泉院殿光巌瑞圓大姉と去同3年氏俊一寺を創立し大淵山龍泉院と号し菩提所となし臨済寺4世鉄山和尚を請して開山始祖とす。
同年9月7日大姉の壱周忌に当たり今川陸奥守信輝寺領を寄付す宝暦10年7月祝融の災に遇い焼失す
同13年4月浙援和尚再建其後衰微せしを元治元年仁国和尚更に臨済寺貞山和尚の法を嗣て諸堂を修理す
境内3反2畝21歩
右誌す
準堤観世音菩薩木像 1体
右は夢窓国師の護持伝来の尊像なり二階堂羽州入道道蘊居士弐田入道信玄公柳澤吉保殿三公の念持佛也
[龍泉院]
本堂の裏の坂を登った所に今川義元の妹墓があって看板が立っている。
龍泉院殿光巌瑞圓大姉之墓
瀬名氏3代 今川伊予守氏俊の室 (今川義元の妹)
龍泉院殿光巌瑞圓大姉之墓
[瀬名古墳]
光鏡院の前の農道を登って梶原山へ向う途中に古墳があった。
今はどこが古墳かわからなかったけど、道路脇に看板が立っていました。
<瀬名古墳群>
5世紀〜7世紀代まで、西奈地区を治めた豪族の墓と考えられ、前方後円墳3基・円墳3基・方墳1基以上で構成されています。
<瀬名3号墳>
昭和60年の発掘調査の結果、一辺が約12m程の方墳で内部に横穴式石室が築かれ、副葬された須恵器、土師器、大刀、刀子、鉄鏃、金環、玉類が発見されました。
これらから、3号墳は6世紀後半に造られ、7世紀前半にかけて数回追葬が行われたことがわかりました。
ここにある石は、横穴式石室に使用された石の一部です。
静岡市教育委員会
[梶原山]
梶原山の頂上には「梶原平三景時終焉の地」「梶原景時親子供供養塔」と彫られた石碑と説明看板が建っている。
<梶原平三景時終焉の地>
鎌倉幕府を開いた源頼朝の家臣として勢力を振るった梶原景時も、頼朝が死ぬと北条氏や他の有力家臣と対立し、正治2年(1200)一族を率いて鎌倉を後にして西国へと向かったのです。しかし駿河地方には景時脱出の触れが回っており、一行が清見関(興津清見寺町)にさしかかった時、駿河武士団の吉香小次郎、渋河次郎、 船越三郎、飯田五郎、矢部小次郎と合戦になりました。戦いは高橋、飯田、高部地区にかけて激しく行われました。
景時の一族・家臣33人は次第に討ち取られ、中でも豪者といわれた梶原景茂(3男)はこれも駿河第一の豪者吉香小次郎と相打ちになり果てました。戦いの様子を見ていた景季(長男)は父にむかい「もはや、かない候まじき、敵の名もなき下郎の手にかからんより、速やかに御自害あるべし」と言うのでした。景時も今はこれまでと思い、景季、景高(2男)と親子3人で鳥坂に程近い牛ケ谷の山(梶原山)に入って行きました。
途中岩間から清水が湧きだしていたので、髪を洗い整えたと伝えられています。その場所は今「鬢水」と呼ばれています。
山頂の草の上に座を占めた景時は「もののふのかくこ(覚悟)もかかるときにこそ 心の知らぬ 名のみお(惜)しけれ」と辞世の句をのこし3人ともこの地で自害しました。時に景時61歳、景季39歳、景高36歳でした。
[梶原山]
梶原山から富士山と静岡市内が一望できる。まずは富士から望む。残念ながらこの日は頭を雲がおおっていた。
光鏡院前にあったハイキングコースの看板を改めて読む。
梶原山(夕日無山)
標高279m、静岡・清水区境の山で、両市街はもちろん伊豆半島・南アルプスなどの眺望はすばらしい。
「梶原景時親子」がこの山頂で自害したことから、山の名もここからきている。
地元健全育成会と清水区鳥坂有志によりハイキングコースが整備され、あずまやの休憩所も作られている。
[梶原山]
富士山から右回りに写真を撮ってみました。
清水港方面を望むと駿河湾の先に伊豆半島が見える。
[梶原山]
三保半島が清水港を形成する。
[梶原山]
梶原山の頂上は広場になっている。
有度山が駿河区と清水区を分断する。
日本尊命の草薙伝説から日本平と呼ばれている。
[梶原山]
安倍川の扇状地に市街地が広がる。ここから見ると平野の中心に谷津山が存在する。
谷津山の左に東静岡の高層ビルが、右に静岡駅周辺の高層ビルの塊が見える。
ずっと先に焼津市との境となる大崩や日本坂、高草山が見え、遠くに御前崎まで見渡せる。
この梶原山公園から5分ほど下った所に「びん(鬢)水」と言われる湧き水跡がある。
びん(鬢)水
山頂から50mほど下がった所にあり、梶原親子が自害する前に乱れた鬢(びん)を直し、のどの渇きをうるおしたといわれる湧き水あとをいう。
駿府城の石垣用に切り出されたと思われる石の一部も残っている。
[一本松公園]
梶原山公園から10分ほど歩くと一本松公園がある。
一本松公園の石碑と2代目の一本松の石碑が立てられている。
光鏡院前にあったハイキングコースの看板を改めて読みかえす。
一本松公園(帆掛山)
標高304m、むかし駿河湾を航海する船の目印とされた大きな松があった山で、清水港や、富士山の眺めは格別である。
清水区高部街づくりの会を中心に公園が整備され、大内の観音さまと共にハイキングコースとして親しまれている。
[一本松公園]
富士山の雲は晴れないので裾野しか見えないが梶原山よりよく見える。
清水方面の見晴らしも素晴らしい。
北街道(清水方面)を巡るにはこちらをクリック。
−コメント−
北街道は東海道が整備される以前には東西を繋ぐ幹線道路だった。
東海道が出来てからは主要道路では無くなったことから古い名所は少ないかったが。
随所にかつての繁栄をうかがわせてくれるところもあった。
この先は清水区へ入るので別の機会に巡る。