− 宇津ノ谷 −
宇津ノ谷は丸子宿と岡部宿の間にある峠道。江戸時代には山賊が出ることで難所とされていたらしい。
[宇津ノ谷]
国道は山に向っていく。先に見える道の駅の看板が宇津ノ谷へ入ったことを教えてくれる。
国道1号線の両側から山が迫って、旧東海道は国道に置き換わっているようだ。
[宇津ノ谷道の駅]
トンネルが見える手前に宇津ノ谷道の駅の入口がある。
駅には地元の特産物なども売っているようだ。
[宇津ノ谷道の駅]
宇津ノ谷の道の駅への入口を過ぎると宇津ノ谷の集落へ入る看板が出ている。
正面に見える立体交差の橋を渡って宇津ノ谷へ向かう。
[宇津ノ谷トンネル(昭和・平成)]
国道は山へと突当り、トンネルへ吸い込まれていく。
旧東海道は右の宇津ノ谷集落へと入る。
国道1号線のトンネルは下り線が平成トンネル、上り線が昭和トンネルと呼ばれている。
[宇津ノ谷道の駅]
国道はトンネルに入るが、その手前を左に折れると立体交差して宇津ノ谷の集落に入る。振り返って道の駅が見える。
[宇津ノ谷]
宇津ノ谷は古い建物が今も残り、懐古趣味の旅人を集めている。
[宇津ノ谷]
静岡では珍しく古い建物が並ぶ地域だ。
[宇津ノ谷]
道は2つに別れ、右は50年ほど前まで国道一号線だった方面で、左は旧東海道となる。
案内看板が立っている。
看板を読む。
<蔦の細道>
古代・中世(約700年〜1590年頃)の東海道です。
古くは「宇津の山越え」とか「蔦の下道」と呼ばれ平安時代の歌人在原業平が「伊勢物語」にこの峠道の事を書きしるしてから全国的に名前が知られるようになりました。
<明治のトンネル>
明治・大正時代(1876年〜1930年)の東海道です。
今見られる「レンガのトンネル」は明治29年に照明用カンデラの失火によって新たに造りかえたもので現在は、国の登録文化財に認定されています。
最初のトンネルは日本ではじめて通行料を取ったので「銭取りトンネル」と言われていました。
<慶龍寺(宇津山)>
慶龍寺は天正6年(1578)歓昌院第4世宗旭和尚が開いた曹洞宗の寺で、当山の鎮守として延命地蔵(弘法大師作)が祀られており、本尊は十一面観世音菩薩である。
当寺は、室町時代から伝わる「十団子」が有名で、毎年8月23・24日の両日催される縁日の際に、この「十団子」が売られている。
<旧東海道>
天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原征伐のときに大軍を通すために開拓されたものと言われています。
江戸時代に入り正式の。東海道として参勤交代の大名をはじめ、オランダ商館長、朝鮮通信使、琉球使節や一般の旅人が明治初期まで通行しており、当時はたいへん国際色豊かな街道としてにぎわっておりました。
[宇津ノ谷]
宇津ノ谷は江戸・明治・大正・昭和・平成と時代ごとに新しい道が整備されている。
看板に見どころが描いてある。今日は一気に巡ってみよう。
[宇津ノ谷]
旧東海道は石畳のように整備された道を進む。
タイムトンネルを進むようだ。
[宇津ノ谷]
宇津ノ谷の住民たちが力を合わせて町並みを作っている。
[宇津ノ谷]
町並みは続く。
歴史がかおるまち丸子へGO!と書かれた看板が下げてあったので読んでみる。
(1)明治のトンネル
明治9年に開通した日本初の有料トンネル。国の登録有形文化財で、現在は無料。
(2)お羽織屋と宇津ノ谷のまち並み
石畳の美しい道の両側に、昔ながらの屋号の看板を軒先に掲げた家々が並び、当時をしのばせる。
(3)慶龍寺
8月23・24日の縁日だけ、室町時代から伝わる魔よけの十団子が販売されている。
(4)道の駅宇津ノ谷
宿場町をイメージする和風の建物で、畳の休憩スペースもある。売店や軽食コーナーには、新鮮な旬の味や地元で取れた農産物、加工品などもあり、毎週日曜日には朝市を開催する。
(5)つたの細道・在原業平の歌碑
平安時代の東海道を偲ばせる古道「つたの細道」には、伊勢物語の主人公・在原業平が東(あずま)下りの途中で詠んだ「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢わぬなりけり」の句碑がある。
(6)東海道宇津ノ谷峠
豊臣秀吉が小田原征伐の際に新たに作った道。江戸時代、峠越えとして街道の要所になった。
(7)誓願寺
源頼朝が創建し、戦火で類焼した後、武田信玄が再建したといわれる寺。境内には豊臣家の重臣・片桐且元夫妻の墓がある。池はモリアオガエル産卵で有名である。
(8)大鈩不動尊
不動明王堂と、丸子城で武田信玄の守り本尊となっていた愛宕山大権現のお堂がある。毎月28日は不動尊縁日。丸子の朝市が開かれ、参道は訪れる人で賑わう。
(9)日本紅茶の発祥の地
起木天満宮には、多田元吉がインドから持ち帰った紅茶の原種木と顕彰碑、ゆかりの碑文がある。
(10)駿府匠宿
静岡の伝統工芸を紹介するスポット。体験工房や展示ギャラリー、食事処もある。
(11)吐月峰柴屋寺
今川氏に仕えた連歌師宗長が草庵を結んだところ。京都銀閣寺を模した庭園は自然を取り入れた借景園で、枯山水の庭園とともに国の名勝史跡に指定。月の名所としても有名。
[宇津ノ谷]
明治天皇御小休所跡の看板。
[宇津ノ谷]
十団子の由来が書かれている。
昔一人の旅僧がここ宇津ノ谷の里を通りかかると鬼が人間の姿にかえて出てきた。
旅僧が「お前は誰だ」と問ふと「祥白童子だが坊さんはどこからきた」と言う「お前を成仏させようと遠くからやってきた。すみやかに本体を現せ」と言うと彼はたちまち6mの鬼の姿に変身した。
「なるほどお前の通力は大したものだ。今度はできるだけ小さなものに化けてわしの掌に上ってみよ」と言えば小さな玉となって僧の手に上った。それを杖で砕くと10粒の小玉となったので僧は一口に呑みこんでしまった。それから後は鬼の災いはなくなった。
この旅僧は弘法大師が刻んだ地蔵菩薩で宇津ノ谷の慶竜寺にまつられており砕けた玉は十団子として売られている。
[宇津ノ谷]
秀吉公のお羽織の由来が書かれている。
天正18年(1590)秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、宇津ノ谷(うつのや)に休息した。
その際、当家の祖先が馬の背を献上し、また戦陣の勝利を示すような縁起のよい話をしたので、帰りに立寄って与えたのが、当家所蔵のお羽織である。表は紙。裏は「カイキ」、後に家康もこの羽織を見て、記念に茶碗を与えたが、これも当家に所蔵されている。
東海道宇津谷 石川家
[宇津ノ谷]
この町並みは絵心をくすぐる。
腕前のほどはわからないが筆をふるっている老人の姿自体がまた絵になる。
話を聞いてみると先日団体でここを訪れて、気に入ったので改めて来たのだと言っていた。
[宇津ノ谷]
東海道をちょっとそれて一回りしてみる。
[諏訪神社]
道をそれて400mほど行くと諏訪神社があった。
[慶龍寺]
諏訪神社から200mほど坂を下ると「宇津山 慶龍寺」が見える。
[慶龍寺]
この寺は、室町時代から伝わる「十団子」が有名で、毎年8月23・24日の両日催される縁日の際に、この「十団子」が売られている。
[慶龍寺]
宇津山 慶龍寺は天正6年(1578)歓昌院第4世宗旭和尚が開いた曹洞宗の寺で、当山の鎮守として延命地蔵(弘法大師作)が祀られており、本尊は十一面観世音菩薩。
[宇津ノ谷]
慶龍寺から赤い欄干の橋を渡り、この路地を50m歩くと御羽織屋に戻る。
裏道のような所も整備されている。
[宇津ノ谷]
先ほど通った所へ出た。町並みを振り返って見る。
観光客は年配者が多い。
[宇津ノ谷]
ここから先は道も狭まり坂も急になる。
東海道は江戸の頃にどこを通っていたのかな?
この細い道を通ったのかな?
[宇津ノ谷]
宇津ノ谷の集落が途切れる所から振り返る。
[明治トンネル]
集落が途切れると明治トンネルに続く道に出る。
石畳状に整備されていて好い雰囲気だ。
[明治トンネル]
トンネル手前に駐車場があり、ここから先は車両進入禁止になっている。
ここにはあずまやがあって、一休みできる。その脇に観光案内が書かれている。
<地蔵堂と地蔵の話>
峠の地蔵は、東海道を往来する人々が道中の安全を祈り、また道しるべの役割も果たしていました。
地獄の入口で衆生(すべての生きもの)を救うという地蔵信仰は、江戸時代に庶民の間で盛んになりました。村境に地蔵を祀り信仰することによって村や村人を守る一つの形として、峠の地蔵信仰の流行します。
宇津ノ谷峠には静岡市側に峠の地蔵が、岡部町側には坂下の地蔵が祀られており、峠の両側に地蔵が祀られていたことがわかります。坂下の地蔵には寛文11年(1671)銘と元禄14年(1701)銘の石灯籠が奉納されていることから、江戸時代前期には坂下地蔵が信仰されていたことがわかります。
峠の地蔵堂跡で平成11年に実施した発掘調査では「東海道図屏風」に描かれている祠のものと思われる基壇(建物の下の石や土の壇)の跡と、18世紀末頃に建てられたと考えられる地蔵堂の雨落溝の一部、地蔵堂建設のために造成された石垣が確認されています、石造の地蔵像は明治42年(1909)に宇津ノ谷の慶龍寺に移されました。
<宇津ノ谷峠の構造>
東海道宇津ノ谷峠は、官道としての道幅2間(約3.6m)を基本としながらも。地形に合わせて変化しているのが特徴です。崩落しやすい地盤であるにもかかわらず、斜面を切り通して道を確保しております。両側あるいは片側に側溝が設けられ、深さ20cm程の掘り込みに直径5cm強の石を詰めた暗渠のような構造であったことが発掘調査によってわかりました。石畳は敷かれていなかったようです。峠では切り通した斜面の崩落を防ぐためと考えられる石垣が検出されています。
<東海道宇津ノ谷峠道周辺案内>
かつて宇津ノ谷の峠は、旅人の行く手を阻む難所でした。両側に迫る山々を縫うように通る東海道の昼なお暗い峠道を、ものの怪や山賊に怯えながら越えてくると、宇津ノ谷の、あるいは坂下の村がちらと見える。旅人はどれほどほっとした事でしょうか。平安時代の文学「伊勢物語」でその名を知られた宇津ノ谷峠には、古代から現代までの道が時代とともに移り変わっていく様子が残っています。それぞれの時代の知恵や土木技術を駆使して造られた峠越えの道を歩き比べてみましょう。
≪古代・中世の東海道≫
律令時代の官道として整備され、「伊勢物語」以来、数多くの文学作品に「蔦の細道」「蔦の下道」として登場する道です。道筋を確定することは難しいですが、この道が基本となって近世の東海道へと発展していったと考えられています。
≪近世の東海道≫
徳川家康が慶長6年(1601)に宿駅制度を定め、古代・中世んお道を改修整備した道です。
享和2年(1802)に刊行された十返舎一九の「東海道膝栗毛」や、歌舞伎「蔦紅葉宇津ノ谷峠」の舞台にもなっています。静岡市から岡部町までの峠道には、俳人雁山の墓、ひげ題目の碑、駿府代官羽倉簡堂の撰文による羅径記碑の跡があり、その道のりは約960mです。
≪明治のトンネル≫
明治9年(1876)に日本で初めての有料トンネルとして開通しました。煉瓦造りの今の姿は、改修されて明治37年(1904)に再開通したもので、明治時代の貴重な土木遺産として国の登録有形文化財になっています。長さ203m 高さ3.9m 幅4.0m
≪大正のトンネル≫
大正15年(1926)に着工し昭和5年(1930)に開通したこのトンネルは、自動車時代の到来により明治トンネルにかわって、東西を行き交う自動車交通の増大をっさえてきました。長さ227m 高さ4.3m 幅7.3m
≪昭和のトンネル≫
高度経済成長に伴うさらなる自動車交通の増大を予想し、日本最大の幅員を有するトンネルとして、昭和32年(1957)着工、同34年(1959)に開通しました。平成のトンネルにあわせて改修され現在のかたちとなりました。長さ844m 高さ6.6m 幅9.0m
≪平成のトンネル≫
交通量の増加は予想をはるかに越え、宇津ノ谷の慢性渋滞を解消するため昭和のトンネルに並行して建設されたこのトンネルは、平成2年(1990)に着工、平成7年開通した。長さ881m 高さ6.58m 幅11.25m
[案内図]
ここにも案内図。角度を変えて描かれていた。
<慶龍寺(宇津山)>
慶龍寺は天正6年(1578)歓昌院第4世宗旭和尚が開いた曹洞宗の寺で、当山の鎮守として延命地蔵(弘法大師作)が祀られており、本尊は十一面観世音菩薩である。
当寺は、室町時代から伝わる「十団子」が有名で、毎年8月23・24日の両日催される縁日の際に、この「十団子」が売られている。
<蔦の細道>
古代・中世(約700年〜1590年頃)の東海道です。
古くは「宇津の山越え」とか「蔦の下道」と呼ばれ平安時代の歌人在原業平が「伊勢物語」にこの峠道の事を書きしるしてから全国的に名前が知られるようになりました。
<旧東海道>
天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原征伐のときに大軍を通すために開拓されたものと言われています。
江戸時代に入り正式の。東海道として参勤交代の大名をはじめ、オランダ商館長、朝鮮通信使、琉球使節や一般の旅人が明治初期まで通行しており、当時はたいへん国際色豊かな街道としてにぎわっておりました。
[明治トンネル]
案内図の続きを読みます。
<明治のトンネル>
宇津ノ谷峠(旧東海道)は、江戸初期東海道の駅伝制が整備され官道となりました。
明治のトンネルは、旧東海道を通行する人たちのために、明治9年(1876)総工費24,800円で築造された日本最初の有料トンネルです。
当時は、測量技術が発達していなかったため、「く」の字型のトンネルになってしまい。見通しが悪いため照明用のカンデラを設置していました。
このトンネルの構造は、静岡口の約20mは青石造りでしたが、大部分が角材の合掌造りであったため、明治32年に照明用カンデラの失火により焼失崩壊し、廃道となりました。
現在の赤煉瓦トンネル(通称)は静岡口を直線に手直ししたため、長さ203mとなり、明治37年に施工しました。
[明治トンネル]
タイムトンネルのようだ。
このまま明治時代につながっているような気持ちになってくる。
[明治トンネル]
トンネルの中はレトロ調に整備されていた。
ここを抜けると明治時代ではなく藤枝市(岡部町)に出る。
[明治トンネル]
岡部側の出口。
こちら側は掃除が行き届いていないが、自然な雰囲気だ。
[明治トンネル]
季節は秋。
落ち葉の絨毯が人通りの少なさを物語っている。
もちろん車両進入禁止なのだ。
[明治トンネルから旧道へ]
明治トンネルの岡部側出口から100mほどで峠越えの旧東海道へ向かう道に出る。
旧東海道を岡部側から峠を越えてみよう。
年配のハイカーに時々出会う。
[明治トンネルから旧道]
いろいろな時代の道が交錯しているので迷子になる人が多いのだろう。あちらこちらに案内板が立てられている。
[旧東海道]
旧東海道はこの坂を登って行くとある。
宇津ノ谷から峠を越えて来るとこの場所に出ることになる。
この写真の場所から100m登ると岡部の坂下方面向かう道と出会う。
[旧東海道]
江戸時代の東海道。
写真の中心から左側へ坂を下ると岡部の坂下方面向かう。
写真の左側へ坂を登って行くと峠を越えて宇津ノ谷へと続く。
峠へ向かってみる。
[旧東海道]
200mほどで道路から分かれて山道となる。
旧道はここから登る。
みかん農家の車が出荷のために置いてあった。
[旧東海道]
人が一人やっと通れるほどのハイキングコースのようになっている。
当時は大名行列も通ったのだから、もう少し整備されていたのだと思う。
[旧東海道]
昼なお暗い山道を登り始めると思いのほかすぐに峠となる。
[宇津ノ谷地蔵堂跡]
峠を下ると宇津ノ谷地蔵堂跡がある。
整備されていて説明書きがあるので読んでみる。
峠の地蔵は、東海道を往来する人々が道中の安全を祈り、また「道しるべ」の役割も果たしていました。
地獄の入口で衆生(全ての生き物)を救うという「地蔵信仰」は、江戸時代に庶民の間で盛んになりました。村境に地蔵を祀り、信仰することによって村や村人を守る一つの形として、峠の地蔵信仰も流行します。
宇津ノ谷峠には静岡市宇津ノ谷側に「峠の地蔵」、岡部町坂下に「坂下の地蔵(通称:鼻取地蔵)」があります。「峠の地蔵堂」も明暦2年(1656)に狩野探幽による「東海道地取図巻」に描かれています。このことから江戸時代初期にはすでに信仰されていたと考えられます。
また、坂下の地蔵堂には寛文11年(1671)銘と元禄14年(1701)銘の石灯籠が奉納されていることから、両地蔵は共に江戸時代の初期には既に信仰されていたことがわかります。
峠の地蔵は明治42年に慶龍寺に移されました。
<地蔵堂跡>
「峠の地蔵堂跡」は、平成12年度に実施された発掘調査の成果に基づいて整備されています。
発掘調査によって、この平地には、地蔵を祀っていた建物跡と考えられる痕跡が2箇所検出されました。
整備されている地蔵堂の位置は、谷側の石垣を築き、この平場を広くした時点で建てられた地蔵堂を示してあります。大きさは約5m四方だったことがわかりました。
整備された地蔵堂とは別に、約2m四方の建物跡(礎石)が検出されました。この建物跡は、山側に近く、規模も小さい建物であるため、石垣が築かれる前の宇津ノ谷での峠の地蔵信仰の初期に造られた祠の跡と考えられます。
<発掘調査前の地蔵堂跡>
検出された2つの地蔵堂跡は、小さい方が古く、平地が狭い時期に造られた地蔵堂の痕跡と考えられます。
大きい方は、谷側の石垣が築造され、新たに平場は拡幅された時期に造られた地蔵堂の痕跡と考えられます。
絵図は地蔵堂を描かれた時期により大きさや形が違うことがうかがえます。
(写真の解説)入口は狭く、日差しも入ってこない、暗く鬱蒼としている状態です。右側に覗く石垣もほとんど埋まっています。
<発掘調査によって検出された2つの地蔵堂跡>
(写真の解説)約2m四方の地蔵堂跡には、その範囲に石が並べられていた痕跡がうかがえます。約5m四方の地蔵堂跡には、その範囲に残る溝状の痕跡が一部確認できました。
[宇津ノ谷地蔵堂跡]
宇津ノ谷地蔵堂跡の看板を読む。。
この奥の空地は、もと延命地蔵堂のあったところで、礎石が散乱し、わずかに往時を偲ばせている。
江戸時代末期の歌舞伎脚本作家、河竹黙阿弥の作で、丸子宿と宇津ノ谷峠を舞台にした「蔦紅葉宇都谷峠」というお芝居がある。
盲目の文弥は、姉が彼の将来を憂いて京で座頭の位を得させるために身売りして用立てた百両を持って京に上る。
文弥は、同中、護摩の灰、堤婆の仁三に目をつけられながら丸子宿にたどり付く。
一方、伊丹屋十兵衛は、かつての主人の恩義で借りた百両の返済工面のため京の旧知を頼ったが目的を果たせず、失意のうちに江戸へ戻る途中、丸子に投宿する。
丸子宿の旅籠藤屋にこの三人が同宿したことが、文屋の百両をめぐる凄惨な結末への始まりとなる。
文弥の百両ほしさに十兵衛が宇都ノ谷峠で文弥を殺害してしまう芝居の山場「文弥殺し」の舞台がここ延命地蔵堂前である。
延命地蔵尊は、現在宇津ノ谷の慶龍寺に祀られており、縁日は、毎年8月23・24日である。
[雁山の墓]
下っていくと雁山の墓がある。説明を読む。
俳人雁山は、山口素堂に俳諧を学び、公布と駿河に庵を結んで自らの俳諧の地盤を固めました。享保12年(1727)頃旅に出て音信不通となったため、駿河の文人たちが、旅先で没したものと思いこの墓碑を建てたと伝えられています。
しかし、雁山はその後「有渡日記」や「駿河百韻」等を著し、明和4年(1767)、82才で甲府に没しました。
もとは今より山側にあった東海道の傍らに建てられていましたが、山崩れで流れ、この位置にうつされました。
[旧道から宇津ノ谷集落]
雁山の墓から少し下ると開けたところへ出る。
宇津ノ谷の集落を一望できる。西に峠なので冬は陽が陰るのが早い。
この景色はいつまでもこのままでいて欲しいと思う。
自分が住んでいないと言える言葉。
[大正トンネル]
このモーテルは今でもやっているのだろうか。
旧東海道と明治トンネルから下ってくるとここに出る。この舗装路は昭和トンネルが出来るまでは国道1号線だった。
ここは大正トンネルへ100m地点。
[大正トンネル]
明治トンネルより少し大きい。ここは明治トンネルと違って使われている道路。
昭和34年の昭和トンネル開通までは、藤枝行きのバスもこのトンネルを使っていた。
レトロな雰囲気はここでも感じることができる。
[大正トンネル]
岡部側へ出てからトンネルを撮って見ました。
[東海道]
大正トンネルからでて間もなく明治トンネルへ続く道に出会う。
タイル状に整備されている。綺麗に整備されているが平日なので観光客やハイカーはほとんど見かけなかった。
[旧東海道]
先ほど通った道に出る。再び登り、今度は坂下方面へ向かう。
坂下から「つたの細道」へと散策してみよう。
[東海道]
旧東海道は宇津ノ谷峠を越えて坂下方面へ向かっていたらしい。
明治トンネルへの道は整備されているのに坂下への旧東海道は荒れていて歩くにも注意が必要な状態だ。
[髭題目碑]
坂下に続く旧東海道に髭題目碑。
林の下草に埋もれるように碑が立っている。看板があったので読んでみる。
碑の正面に「南無妙法蓮華経」の題目が筆端を髭のようにはねて書く書体で刻まれている。側面には「為人馬安全」「天下太平五穀成就」と刻まれており、旅の安全と世の平和・豊作を願って建立されたことがわかる。
裏面には建立年月の「天保六年霜月再興」と「備前国(岡山県)木綿屋門平」をはじめ、清水市から島田市辺りまでの建立者達の名前が刻まれている。
このような髭題目碑は日蓮宗の信仰が盛んな県東部にはごく普通に見受けられるが、中部のこの辺りでは非常に珍しいものである。
[つたの細道]
ら径記碑跡。
碑に書かれた文章を読む。
蘿径記碑は文政13年(1830)、有名な儒学者でもあった駿府代官の羽倉外記(簡堂)が、蔦の細道の消滅をおそれ、末永く残すために建立した石碑です。
「蘿」は蔦を、「径」は小路を意味します。今は坂下地蔵堂の裏にあります。
[坂下地蔵堂]
つたの細道へ行く前に坂下地蔵堂へ寄ってみる。
[宇津ノ谷トンネル岡部側出口]
坂下地蔵堂の裏手に宇津ノ谷トンネル岡部側入口がある。
ここから岡部宿方面へ行くにはこちらをクリック。
[つたの細道]
「つたの細道公園」を右手に見ながら通り過ぎるとつたの細道の登り口まで200m。
昼間でも薄暗い渓流の支流に沿って細道が延びている。
登り口に看板が立っていた。
蔦の細道は宇津ノ谷峠越えの最も古い道で、峠は標高210m、勾配24度、道のり約1500mで、文学の名所として著名である。
「伊勢物語(第9段東下り)」の一節に「ゆきゆきて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗きに、蔦かへでは茂り、もの心細く、
(中略)
駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあわぬなりけり 藤の山を見れば、5月のつごもりに、雪いと白うふれり。
時しらぬ山は藤の嶺いつとてか 鹿子まだらに雪のふるらむ」とあるが、この文と歌が「蔦の細道」のいう名の起りといわれている。
[つたの細道]
登り口からしばらくは急な坂が続く。滑らないように石畳が敷き詰められている。
江戸時代の当時からのものだろうか?
[つたの細道]
道幅が狭くなっても石畳はまだまだ続く。
歩きやすいような、歩きにくいような。
雨で道が流されないし、雨の後でもぬかるんだりしないので滑らずに歩けるだろう。
[猫石]
中腹まで来た所に「猫石」と書かれた岩がある。
猫が伏せているような形をしていると言う人や、ここに猫がいたからという説がある。
[つたの細道の峠]
峠の頂上には少し休める開けたスペースがある。
今登って来た山道を振り返る。
[つたの細道の峠]
遠くを見ると藤枝方面が見える。
[つたの細道の峠]
道に迷わないように表示板が立っている。
[つたの細道の峠]
静岡側の下り口。
この先は暗い湿った林の中を歩くことになる。
[つたの細道の峠]
林の中から峠方面を見る。
息を切らして暗い山道を登り続けると明るい光が射してきて、峠へ出た喜びを感じるシチュエーション。
[つたの細道]
だんだん暗い道へ入っていく。
[つたの細道]
頂上まで120mの看板が倒れて腐りかけている。
ここまで登って来てつらい気持ちを慰める看板。
もう少し下がった所に「蔦の細道の文学」を説明した看板も立っていたので読んでみる。
在原業平より約400年後(鎌倉時代1182〜1333)
藤原定家の子、為家の側室阿仏尼は鎌倉幕府への旅に出た。当時日本は元が来寇して来た。文永、弘安の両役の最中だった。物情騒然殺伐たる東海道での女旅。建治3年(1277)10月のことである。(出発日が16日だったので、この日記を十六夜日記という。
宇津の山越ゆる程にしても、阿闍梨の見知りたる山伏行きあひたり、夢にも人をなど眷をわざとまねびたらん心地して、いとめづらかにをかしくもあわれにもやさしくも覚ゆ。急ぐ道たりといえば文もあまた、え書かず、やんごとなき所一つにぞ、おとづれ聞こえる。
わが心 うつつともなし 宇津の山
夢にも遠き 都恋ふとて
つたかえで しぐれぬひまも うつの山
涙に袖ぞこがるる
こよひは手越という所にとどまる。なにがしの僧正のとかや上り給ふとて、いと人しげし宿かりかねたりつれど、さすがに人のなき宿もありけり。26日藁科川とかや渡りて興津の浜にうちいづ
[つたの細道]
このように沢に脇を道が続いている。
雨の後には歩きたくない場所だ。
[つたの細道]
植林された林の中を細道は続く。
当時はもっと雑林だったのだろう。
[つたの細道]
車で入ってこれる場所へ出た。
宇津ノ谷の道の駅方面へはもう一度細道へ入る。
[つたの細道]
草をかき分ける。
[つたの細道]
蔦の細道の静岡側の登り口は遊歩道のような場所から始まる。
[つたの細道]
入り口周辺は整備されていて道標も立っている。
[つたの細道]
宇津ノ谷の道の駅の脇から「蔦の細道」は始まる。
看板の説明を読んでみる。
<旧東海道(大名街道)>
この道は、駿河国の安倍郡と志太郡の境にある宇津ノ谷の一番低くなった鞍部にある峠道で、二つの峠越しがあった。
一つは、源頼朝以後に開発された東海道本筋の通っている宇津ノ谷峠で、もう一つは、それ以前の蔦の細道の峠である。
鎌倉幕府は部隊の行進ができない旧道を廃し、新道を開いたのが宇津ノ谷峠道である。上り下り八丁(約870m)の険路であった。
ここで鬼退治にからむ十団子の伝説が生まれたのも、難所であった証拠であろう。豊臣秀吉が天正一八年(1590)7月、小田原城を落とし、戦勝を誇り、蹄の音をこだまさせつつ通ったのも今は兵士共の夢のあとである。
慶長6年(1601)徳川家康が、五街道を設け、交通の便を図ってからこの街道は人や物資の往来がひんぱんとなり、殊に参勤交代の大名行列は豪華絢爛たるもので、20万石以上の大名は武将が20騎、足軽が120人から300年もあり、1万石の大名でも5、60人の共揃えで、その行列はこの峠をうめつくしたことであろう。
この道も明治9年(1876)トンネルの開通によってとざされたが、明治初期までは上り下りする旅人の難所であった。
−コメント−
宇津ノ谷周辺を巡って見ました。
逆から回っても1周して戻ってくるルートです。
山道が多いので正確な距離はわかりませんが6km程度の行程かと思います。
歴史を感じられる小さな旅を堪能できました。