− 久能寺観音道 −

清水の狐が崎から鉄舟寺(旧久能寺)まで約3km程度の散歩道。
久能山東照宮へ向う久能街道と合流する駒越まで2kmを加えて約5kmの行程となる。


images/1120kuno01.JPG [旧東海道]
 旧東海道の狐が崎にあるイオンショッピングセンター横の交差点に久能寺観音道がここから始まるという道標が有る。


images/1120kuno03.JPG [久能寺観音道]
 久能寺観音道の道標前に説明看板があるので読む。 

<久能寺観音道>
 この道標は、安永7年(1778)に妙音寺村の若者の寄進により造立されたものである。ここに書かれている久能寺観音道は、この平川地から有東坂・今泉・船越・矢部・妙音寺・鉄舟寺(久能寺)に至る有度山麓を通る道のことである。
 久能寺はもと久能山にあったが、甲斐の武田信玄が駿河の国主今川義元攻略のため久能城を築城、そのため天正3年(1575)現在の位置に移築されたものである。
 明治維新となり廃寺、その後、明治16年(1883)山岡鉄舟が再興、久能寺を鉄舟寺と改め現在に至っている。



images/1120kuno04.JPG [久能寺観音道]
 谷津沢川の脇の自動車の通れない狭い道を進む。

images/1120kuno05.JPG [久能寺観音道]
 道幅はやや広くなるが、相変わらず狭い道だ。
 このあたりは「平川地」という町名

images/1120kuno06.JPG [久能寺観音道]
 南幹線の下を抜ける。

images/1120kuno07.JPG [久能寺観音道]
 「有東坂」という町名に変わり、入り組んだ道を進む。

images/1120kuno08.JPG [誓願禅寺]
 南幹線から200mほど進むと右に寺が見える。

images/1120kuno09.JPG [誓願禅寺]
 「延命山 誓願禅寺」という曹洞宗の寺

images/1120kuno10.JPG [誓願禅寺]
 入口に寺の名を標した石柱が立っている。

images/1120kuno15.JPG [誓願禅寺]
 誓願寺は小さな丘陵地の麓にあり、東斜面に誓願寺の墓地が並んでいる。
 その丘陵地の西側に回り込むともう一つ墓地がある。珍しいキリスト教墓地だ。

images/1120kuno13.JPG [キリスト教墓地]
 キリスト教墓地は洒落た墓が並んでいる。

images/1120kuno19.JPG [久能寺観音道]
 観音道まで戻り進む。

images/1120kuno20.JPG [久能寺観音道]
 観音道は山の麓を進む。
 階段が所々に見られる。

images/1120kuno21.JPG [久能寺観音道]
 観音道はこの先の路地を左に曲り、自転車もすれ違えないほどの路地を進む。
 この路地を曲らずに200mほど坂を上ると楞厳院があるので寄ってみます。

images/1120kuno20-4.JPG [楞厳院]
 「補陀山 楞厳院」という曹洞宗の寺院

images/1120kuno20-5.JPG [楞厳院]
 楞厳院の門前にある「忠魂碑」

images/1120kuno22.JPG [白髭神社]
 観音道へ戻り、狭い道を進むと100mほどで白髭神社がある。

images/1120kuno23.JPG [白髭神社]
 林の間の参道の奥に社殿が見える。

images/1120kuno25.JPG [久能寺観音道]
 山の麓を観音道は進む。

images/1120kuno26.JPG [久能寺観音道]
 狭い道が続く。

images/1120kuno27.JPG [玉泉寺]
 山際に墓がある。
 玉泉寺の墓だ。

images/1120kuno28.JPG [玉泉寺]
 寺の境内とも観音道ともわからない道を進む。

images/1120kuno29.JPG [玉泉寺]
 道が墓の間に消える。

images/1120kuno30.JPG [玉泉寺]
 「普門山 玉泉寺」曹洞宗の寺だ。

images/1120kuno30d.JPG [玉泉寺]
 「普門山」の額が本堂にかかっている。

images/1120kuno31.JPG [玉泉寺]
 玉泉寺は墓のスペースが広い。

images/1120kuno32.JPG [久能寺観音道]
 観音道は相変わらず狭い道が続く。

images/1120kuno37.JPG [伊勢神明宮]
 伊勢神明宮がある。

images/1120kuno35.JPG [伊勢神明宮]
 伊勢神明宮の由緒が書かれた石碑が立っている。

<伊勢神明宮(船越町)>
伊勢神明宮祭神 天照皇大神
相殿多度社祭神 天津彦根命
相殿白髭社祭神 武内宿弥命
1.船越町伊勢神明宮は創建年月日不詳なれども桃園天皇2412年宝暦2年9月再建とあり、明治8年2月村社に列す。
1.相殿多度社は三重県多度本社より黒幣を戴いて雨乞祈願した時合祀せり。
1.相殿白髭社は船越町下の宮に祀りに在りしが時代の変革に伴い大正7年ここに合祀す。
1。船越の地名は元和2年・・・検地のとき船越と号せり。



images/1120kuno38.JPG [久能寺観音道]
 観音道は現在の道路と平行し、交差しながら進む。
 正確な位置はわからないまま進んでいく。

images/1120kuno39.JPG [船越堤]
 船越堤公園の脇を抜けていく。

images/1120kuno40.JPG images/1120kuno43.JPG [船越堤]
 桜で有名な船越堤。
 池の中に四阿が設置されている。

images/1120kuno44.JPG [船越堤]
 狭く車も通れない路地の多いこの地区に、ここ船越堤へは大型車が通れる道が整備されている。

images/1120kuno46.JPG [久能寺観音道]
 観音道は脇の小道へ向っていく。

images/1120kuno47.JPG [久能寺観音道]
 山裾を進む。

images/1120kuno48.JPG [北矢部]
 北矢部にも伊勢神明宮がある。

<北矢部伊勢神明宮>
1.十八祖社  正治(1200)の頃にこの辺りを領有していた豪族矢部小次郎家綱が矢部氏の十八祖大織冠藤原鎌足を斎祀った社にして古くからお十八祖と言われている。
2.御霊神社  矢部氏らによって不運の最後を遂げた鎌倉幕府の智将梶原景時・景季父子の霊を相祀る。3.伊勢神明宮 天照皇大神を江戸時代の中頃より伊勢信仰により勧請したものとされる。
4.津島神社 須佐之男命を祀る戦後新定院境内より移転合祀する
以上の諸柱をお祀りしているがこれらの神を総称して伊勢神明宮と呼称するようになった。
鎮座地 清水市北矢部字氏神神山1317番地外
境内敷地 2091坪
例祭日  2月11日〜10月17日近辺の日曜日



images/1120kuno50.JPG [久能寺観音道]
 観音道は住宅街の中を通る。

images/1120kuno50b.JPG [東海寺]
 観音道の周辺には寺が多い。道から少し外れて東海寺がある。
 臨済宗妙心寺派の小さな寺だ。

images/1120kuno50a.JPG [能満寺]
 東海寺から200m程南に日蓮宗の「見海山 能満寺」がある。
 幼稚園が併設された寺だ。

images/1120kuno51.JPG [久能寺観音道]
 私道のような道へ入って行く。

images/1120kuno52.JPG [久能寺観音道]
 観音道は山裾を進む。

images/1120kuno53.JPG [久能寺観音道]
 車が通れない道だが、ちゃんと舗装してある。

images/1120kuno54.JPG [久能寺観音道]
 杉原山と書かれた道標がある。

images/1120kuno55.JPG [久能寺観音道]
 足を踏み外しそうな道

images/1120kuno56.JPG [久能寺観音道]
 史跡「徳富蘇峰顕彰の碑」と書かれた道標が立っている。

images/1120kuno58.JPG [虚空蔵堂]
 道から少し入った所にお堂が建っている。看板に説明書きがある。

<杉原山虚空蔵堂>
 このあたりは杉原山と言います。今から約500年前に創立された本能寺は村松1丁目のたたき取りの山であり、当時は杉原山全体が同寺の敷地境内でありました。現在、この仏堂の境内地は66平方メートル程であります。
 戦国時代、甲斐の武田信玄がまだ世に出なかった徳川家康を攻め窮地に陥れました。
 その時、家康を追いつめたのは信玄の家臣、今福丹波守主従7人であったといわれますが、ついに家康を探し出すことができず、ご主君に申しわけないと、この地で無念の自害をしたと伝えられています。
 後に村人たちはこの7人の悲運を哀れに思って「7代様」と呼んで供養してきました。
 7代様を虚空蔵菩薩としてお祭りするようになったのは、今から200年余り昔の明和8年(1771年)本能寺大8世遠寿院日問上人の時からであります。



images/1120kuno60.JPG [久能寺観音道]
 もちの木の脇に「保存樹木」の札が掲げられている。

images/1120kuno61.JPG [久能寺観音道]
 「いいなり地蔵」のお堂があり、祈願の札が数多く掛かっている。

images/1120kuno62.JPG [久能寺観音道]
 説明看板があるので読みます。

<言い成り地蔵尊の由来>
 時は元和2年夏(380年前)旅の老行者あり、この地にて病に臥す。
  村人は昼夜親切に看護す。
 「われ地蔵菩薩の化身なり逝きて後、この地に地蔵菩薩を建てよ、如何なる願いも叶う程に」と
 村人、地蔵菩薩を建て懇ろに供養する。いつしか「言い成りさん、いいなりさん」と信心厚き人々により詣でる線香の煙り絶えることなし
   平成8年3月吉日再建



images/1120kuno63.JPG [鉄舟寺]
 いよいよ「鉄舟寺」の近くまでやってきた。

images/1120kuno64.JPG [鉄舟寺]
 「鉄舟寺」の石積みの塀が建っている。

images/8400tessyu1.JPG [鉄舟寺]
 鉄舟寺が「久能寺観音道」の目的地。今は鉄舟寺と呼ばれているがかつては「久能寺」と呼ばれていた。
 まずは仁王門が迎えてくれる。門の脇に由来の看板が2つ立っていた。

<鉄舟寺の由来>  鉄舟寺はもと久能寺といい、今の久能山にあって、およそ一千三百年の昔、推古天皇の時代、国主久能忠仁公によって創立せられ、奈良朝の初期、行基菩薩が中興せられた。
 当時坊中三百六十、宗徒一千五百人もあり、豪勢をほこっていた。又鎌倉時代以後の貴重なる文献や、仏像、仏画、納経、什器等数々の宝物が今日まで寺に残されてある。
 降って武田信玄が今川氏を攻略し駿河に入るに及んで久能の嶮要に築城することとなり、天正三年(1575)現在の場所に移されたのである。後武田氏は滅ぼされたが、徳川幕府も古来からの名刹久能寺を愛護し御朱印地を賜った。
 世が改まり明治御一新となるや、その混乱の中で長く栄えた久能寺も次第に散乱し、住職もない廃寺となってしまったのである。
 幕末の俊傑、山岡鉄舟はこれを惜しみ、再興せんことを発願し、仮本堂に今川貞山師を迎えて開山とし、広く寄進を募ることにしたのである。
 明治十六年(1883)鉄舟四十八歳の時である。鉄舟は募金のために、沢山の書を揮毫して侠客清水次郎長に与えた。次郎長も大いに奔走した。
 この時次郎長のために書いた募金趣意書が、鉄舟の手控帳の中に記されている。
 「鉄舟寺庫裡建立墓縁山本長五郎簿」
 寺を建てても何もならぬ。親を大事にしてもなんにもならぬ。わが身を大事にしてもなんにもならぬ。なんにもならぬところを能く能く観ずれば、  又、何かあらん。山本長五郎御往時を考えここに尽力することあり、諸君なんにもならぬ事を諒察あらば多少の喜捨あるも又、  なんにもならぬ何かあるの一事也」
           明治二十一年二月    山岡鉄舟しるす

 ところが、鉄舟は明治二十一年七月五十三歳で惜しくも此の世を去り、鉄舟寺の完成を見ることが出来なかった。
 清水の魚商、柴野栄七翁は元来信仰の篤い人であったので、鉄舟の意志をつぎ、幾多の困難を乗り越え、明治四十三年三月十日鉄舟寺の完成を果たしたのである。
 かくて名刹久能寺は蘇り、清水の霊場鉄舟寺は永久に伝わることになったのである。


images/8400tessyu3.JPG [鉄舟寺]
 もう一つの看板を読む。

<国宝「久能寺経」装飾法華経嘱累品>
       平安時代後期
       永治元年(1141)
       鐡舟寺蔵
 装飾経の最高峰である「久能寺経」と「平家納経」は、平安貴族の法華経信仰の隆盛と写経の荘厳が極限に達した平安時代末期に出現している。
 それは、貴族佛教と王朝文化が融合した結晶ともいえるこの世に類のない紙工芸の傑作である。
 「久能寺経」は、平安宮廷の優雅典麗の雰囲気と高貴な気品を湛えている。
 また、その約20年後に完成した「平家納経」が、平清盛(1118〜1181)率いる一門の莫大な財力を背景に権勢を誇り、栄華をきわめた豪華絢爛たる趣好と対称をなしている。
 久能寺経は、栄治元年(1141)鳥羽上皇(1103〜1156)御出家の折、逆修(生前の供養)五十講が営まれ、この機会に写経された。
 そして、鳥羽上皇の離宮の一部にあった安楽寿院に置かれた。
 法華経28品を各28巻として、開経の「無量義経」と結経の「観普賢経」を加えた30巻の一品経である。
 巻末に結縁者として、中宮待賢門院(1101〜1145)、女御・美福門院(1117〜1160)をはじめ宮中の人々の名が、写経者とは別人によって書かれている。
 いつのころか、東海道の佛法布教の一大中心地として栄え、寺坊360余を擁する久能寺に京都より将来された。
 それより800年余、世の変遷の中、一部が流失して、とりわけ明治維新後の久能寺荒廃の折に8巻が散逸している。
 幸い明治16年(1883)、明治天皇侍従・山岡鐡舟(1836〜1888)が、名刹の廃れたのを惜しみ、鐡舟寺を再興し、残る久能寺経19巻は無事保存され、明治33年(1900)、国宝に指定された。
 この「嘱累品」は料紙に、金銀の切箔や砂子、銀の野毛を控え目に散らし、界線(行割の線)も銀泥で明るい色調である。
 上方には、五天女が軽やかに舞い飛び、経文の下には、水波を銀泥で表わした池に、蓮の花が、緑青、群青等で、こまやかにのびのびと描かれている。
 見返絵の山と霞を金銀で描いた絵は、明治34年の修理に際し添えられた。  合掌
    平成7年7月  鐡舟寺 住職 香村俊明 識


images/8400tessyu9.JPG images/8400tessyu-a.JPG [鉄舟寺]
 阿吽の仁王様

images/8400tessyu4.JPG [鉄舟寺]
 仁王門を入り階段を登る。階段の登り口に説明看板が立っている。

補陀洛山鉄舟禅寺
創建
 鉄舟寺はもと久能寺と云い、今の久能山にあって、およそ1400年の昔、推古天皇の時代、国主久能忠仁公によって創立。奈良朝の初期、行基菩薩が中興されました。
 開山 今川貞山師
 本尊 千手観音

 数多くの文化財を展覧
 山岡鉄舟に仁侠を認められ鉄舟寺建設に協力した清水次郎長まで 次郎長等身木像有り
 東海の名刹 鉄舟寺宝物殿 元鉄舟寺

<山岡鉄舟について>
 鉄舟は、1836〜1888年(天保7〜明治21年)江戸末期、明治の政治家、旗本小野家の5男として江戸に生れ鉄太郎といい、飛騨(岐阜県)で育った。
 22才のとき山岡氏を継いだが江戸で槍剣術を学び、剣の達人として無刀流剣法をあみ出した。剣の心としての禅に修養を積み、時々龍沢寺に参禅し星定和尚に教えを受けていた。
 明治御一新となるや、荒廃して廃寺となってしまった名刹久能寺惜しみ再興を図った。
 時に明治21年7月53歳の時、寺の再建の完成を待たずにこの世を去った。
 幕末の三舟の書  山岡鉄舟 勝海舟 高橋泥舟


images/8400tessyu7.JPG [鉄舟寺]
 門の裏に宝物殿の料金所がある。
 また時間がある時に入ってみよう。
 門の横に歴史が書かれた看板を読んでみる。

[補陀洛山 久能寺の歴史]
<旧久能寺から鉄舟禅寺>
 補陀洛山久能寺は、
 はじめ現久能山東照宮が鎮座する久能山頂にあって平安時代に建穂寺と駿河を2分する勢いであった。
 この久能寺は、推古天皇の時代に、秦河勝の次男秦尊良の子といわれる久能忠仁の創建になると「久能寺縁起」は伝えている。
 平安初期には天台宗の寺院として建立されたと考えられる。
 永禄12年(1569)までには、その久能山頂に武田氏が城を構え、久能寺は現鉄舟寺の村松に移され、真言宗に変わる。
 これ以前をここでは「旧久能寺」その後「久能寺」と呼び分けておきたい。
 やがて明治初めの廃仏毀釈の荒波を受けたが、明治16年(1883)に山岡鉄舟が臨済宗の寺院「鉄舟禅寺」として再興する。


<久能寺の創建と寺院>
@由来
 推古天皇の頃久能忠仁が杉の巨木中に5寸余りの金の千手観音を見つけ堂に祀ったこと、
 補陀洛からの老僧の夢告から補陀洛山と名付け、寺号も檀那の名に負うこと、
A行基の事績・駿河七観音寺との関わり
 堂塔ほか建物の整備のこと、
B源清の事柄
 源清の再来を通じての平泉とのかかわりと師忠の寄進のこと、
C星光坊見蓮の事績
 永久2年常行三味堂を建て、例式の勤行が始まること、
D康平5年寿勢僧都が法華八講を始めること、
 平治2年仁王講を始めること、
 天仁2年4月1日実朗上人が三十講を始めること
E為政者との関わり
 平家一門が久能寺経を納めたこと、
 頼朝の寄進、
 坊数360、宗徒1500人、奥座敷宗500余人を数えたこと、薄墨の笛のこと、
F堂社焼失
 嘉禄年中の大火以降勢いを失ったこと、
G伊豆との関わり
 願成院落慶の帰り、船が難破、舞楽関係の什物を失ったこと、
 などが述べられ、加えて寺の勢いが衰微したことが記されている。
 養老7年(723)に僧行基が入山し、7体の仏像を彫り、7寺を創建した、

 この7寺が久能寺のほか、霊山寺、建穂寺、法明寺、徳願寺、増善寺、平澤寺と呼ばれる寺院である。
 いずれの寺院も行基を開山とし、千手観音を本尊としていて、江戸時代には参詣者を多く集めていた。
 また、こうした諸寺の関係は、県指定文化財の「大般若経」の奥書にも見え、霊山寺には江戸時代中期の久能寺銘を刻んだ浴油道具の杓が伝わっている。
 鉄舟寺過去帳にも、駿府清水寺、智本智院、などに並んで建穂寺、平澤寺見えていて関わりの強さを窺うことが出来る。
 中でも平澤寺は久能寺妙楽院との関わりが、永禄13年(1570年)以降の平澤所蔵文書で確認できる。
 室町時代の前期には、駿河国の密教寺院のネットワークが出来上がっていたであろう。
 さらには密教寺院ネットワークは、全国にも拡がっていた。
 一方屏風谷を挟んで日本平山頂と対峙する峰の頂に位置していた久能寺には、いくつかの参詣道が整備されていた。
 平澤寺も主要な参詣道を守護する寺院のひとつであり、草薙、矢部、村松などから久能寺を目指す参詣には守護のための寺院が設けられていた。
 あるいは永禄12年(1569)までに移されることになる妙音寺(現鉄舟寺)もそうした寺院のひとつであった。さらに鉄舟寺には「鎮守十二所権現勧請札」一面が知られている。
 康平5年(1062)に納快が勧請した十二所権現を、応保2年(1162)に星光坊見蓮が再興したときに、藤原教長に書写させた額がこれで、古代の神仏習合の一資料としても注目される資料である。
 教長は駿河守を任じていて、時の宰相入道であり、調停内部と久能寺が大きく関係をもっていたことが分かる。
 鉄舟寺蔵本「久能縁起」の異本である安永7年書写の「東照宮本」では、末尾に、「(朱書)当山鎮守十二所権現正躰の修理の事、弘辛酉8月長元年朔日、願主金剛峯子道尊、絵師沙弥入蓮矣。己上十二所権現正躰之像之壇之裏書也。人王八十九代、亀山、従弘長元年、至寛文3癸卯年9月11日為観音の芳宮修理供養開帳焉。同10月朔日閉結畢。」
 とあり、弘長元年(1261)に十二所権現の本尊(木造伝摩多羅神像)が修理されたことを伝えている。
 また、天台守護の「勧請札」「熊野三所権現」銘や、熊野「補陀洛寺」と「補陀洛山久能寺」の名銘から弱射ながらも熊野との関わりを窺うことができる。
 久能忠仁の名付けられる以前には、久能山は賤機山とも呼ばれていたと一書は伝えるが、山頂からの眺望のすばらしさと共に、まずは山号が「補陀洛山」であることに注意したい。
 補陀洛という言葉は既に「久能縁起」の中に見えていて、14世紀の前半には久能山が補陀洛の山と観念されていて、恐らくこの言葉は古代に遡るであろうと思われる。
 補陀洛とは、海上のかなたの理想郷のことであり、日光が然り、また、京の都における熊野がそうであったように、聖地あり浄土(理想郷)と考えられていた。入口に位置する寺が久能寺なのである。
 補陀洛渡海とは、久能寺においても、眼下の海岸から南の洋上に船出してその理想郷に往生することであった。
 このように久能寺は、密教の中核的な地方寺院のひとつであり、朝廷とも密接な関わりがあり、天台宗、真言宗や修験道を介して熊野とも繋がっていた場所であった。
  (まだ歴史は長いです調べて書きます・井上)


images/8400tessyu6.JPG [鉄舟寺]
 階段の上の宝物殿


images/8400tessyuf.JPG [鉄舟寺]
 宝物殿の横の鐘楼


images/8400tessyug.JPG [鉄舟寺]
 「熊野一二社」が祀られている。


images/8400tessyuh.JPG [鉄舟寺]
 本殿には葵の御門が使われている。


images/8400tessyui.JPG [鉄舟寺]
 観音堂は丘の頂上にある。
 階段の入口に石柱が立っている。

images/8400tessyuk.JPG images/8400tessyul.JPG [鉄舟寺]
 階段の両脇に観音様の石像が並んでいる。


images/8400tessyur.JPG [鉄舟寺]
 50mほどの高さを上った頂上の広場からは清水が見渡せる。
 雲がなければ富士が見える
 芭蕉句碑がある。「雲霧の暫時百景を尽しけり」 芭蕉翁

images/8400tessyup.JPG [鉄舟寺]
 観音堂の横にお堂が建っている。



images/8400tessyum.JPG [久能寺観音道]
 観音堂
 「久能観音道」はここで終点となる。
 鉄舟寺の前身「久能寺」はもともと今の「久能山東照宮」にあったというので久能街道まで行ってみます。

images/8410ryugeji1.JPG [龍華寺]
 龍華寺は鉄舟寺から300m南にある。

<観富山龍華寺>
 当山は寛文10年(江戸時代初期)日蓮宗の高僧であった日近大僧都の開創で浄財の施主は紀伊頼宣と水戸頼房二卿である。
 時の帝、東山天皇は日近上人を崇拝せられ、この寺を皇室の祈願寺と定め、観富山龍華寺と御命名された。
一、内苑  観富園須弥山式庭園
      本堂  文化財
      祖師堂 120枚の天井画
一、外苑  龍潜園
一、天然記念物 大蘇鉄 大サボテン
一、明治の文豪 高山樗牛
一、樗牛館 樗牛の遺品、寺の重宝を展示
一、拝観時間 8時30分〜16時30分(年中無休)
一、拝観料  大人300円 子供100円(30名以上より割引)
     住職敬白


images/8410ryugeji2.JPG [龍華寺]
門前に絵地図があって見どころが画かれている。

<日蓮宗 観富山 龍華寺 参詣案内図>
天然記念物 大蘇鉄 大サボテン 
明治文豪 高山樗牛の墓
七面堂
槇柏
厄除不動尊
行啓門
東山天皇行幸橋
祖師堂
本堂
樗牛館
 

images/8410ryugeji4.JPG [龍華寺]
 拝観は有料だったので時間のある時にゆっくり、また来たいと思う。



images/8410ryugeji5.JPG [龍華寺]
 今では珍しい、茅葺き屋根の本堂が山門から見ることができる。

images/8415tennou6.JPG [天王山]
 龍華寺から県道198号を500mほど南に行くと東側に天王山遺跡がある。看板を読みます。

<天王山遺跡>
清水市指定史跡 天王山遺跡
 指定年月日 昭和44年7月1日
 天王山遺跡は、昭和26年から5回にわたって発掘調査が行われ、縄文時代晩期(今からおよそ3000年前)を中心とした遺跡であることがわかりました。
 この遺跡では住居址のほか集石墓・屋外炉・土器・各種の石器・耳輪・骨針・土偶などが発見されました。出土した土器から中部地方の縄文時代晩期の標識遺跡となっています。
   平成3年4月  清水市教育委員会


images/8415tennou2.JPG [天王山]
 遺跡跡には児童遊園として整備されている。もう一つ看板があるので読みます。

<筆捨の池>
 久能街道は、有度山の麓に沿って久能に至る道で昔は人々の往来がひんぱんな道でした。
 途中のここは不二の森(天王山神社)という小さな社があり、大きな松が1、2本植えられた小高い所でした。
 ここからの富士山、駿河湾、伊豆連山の眺めはすばらしく、諸国を行脚し、多くの名勝地を観賞した西行法師(西暦1118〜1190)も、あまりの絶景に「筆舌に尽くし難し」と感服し、筆をかたわらの池に捨てたといわれ、後にその池を筆捨の池と言い伝えられています。
 また、室町時代の山水画の大家、雪舟和尚は遣明使の随行として渡明し、明帝との謁見の折、日本第一の絶景地を問われ、この地の風景を推したといわれています。
 現在は、池を埋め立てたとはいえここでの景観は日本の各名勝地に比べて勝るとも劣らぬ郷土の誇りとして長くその名をとどめていきたいものです。
   昭和61年2月
     不二見地区まちづくり推進委員会
     南部公民館おもと大学ふるさと研究クラブ


images/8415tennou5.JPG [天王山]
 「天王山遺跡」と彫られた石碑が建っている。

images/8415tennou7.JPG [天王山]
 「天王山神社」が祀られている。

images/8417iseki.JPG [宮加三]
 天王山遺跡から有度山方面を見る
 この丘陵も遺跡だったのだろうか。古墳や出城の好ポイントに見える。

images/8418siritu-f.JPG [市立清水病院]
 市立病院も有度山の麓に建てられている。

images/8418siritu-a.JPG [市立清水病院]
 市立病院周辺に古墳があったそうだがどこなのだろう。

images/8418siritu-e.JPG [市立清水病院]
 市立病院の南側に散策道路が整備されているがこの丘に古墳はあったのだろうか。

images/8419tonozawa1.JPG [殿沢古墳]
 市立病院から200m南にも古墳があったらしい。
 日本平へ向うパークウエイを上るとすぐにガードレール脇に看板が立っている。

<殿沢古墳郡跡>
 今から1400年前(7世紀後半)この地域に住んでいた権力者の古墳跡。
 全部で6基発掘された。
   平成13年度 駒越まちづくり推進委員会
 

images/8419tonozawa2.JPG [殿沢古墳]
 看板の向かえ側には住宅街が建設されている。

images/8419tonozawa6.JPG [殿沢の渡し]
 パークウエイを下りた所の向かえ側の路地を入った所が「殿沢の渡し」だ。

images/8419tonozawa4.JPG [殿沢の渡し]
 この坂を下った所にかつては海岸があったという事のようだ。

images/8419tonozawa3.JPG [殿沢の渡し]
 下った所に看板が立っている。

<殿沢の渡し跡>
 狐ケ崎を出発点とする久能観音道は殿沢で二つに別れる。
 西に行くと久能山、東は舟で御穂が崎へ渡るところ。
    平成13年度 駒越まちづくり推進委員会
 

images/8420tyurei8.JPG [忠霊塔]
 忠霊塔公園には記念碑がいくつか並んでいる。



images/8420tyurei-k.JPG [忠霊塔]
 平和記念碑の横にある階段を登ると忠霊塔が建っている。

<平和祈念碑>
 すぐる太平洋戦争では多くの市民が戦地で、あるいは空襲により傷つき犠牲となりました。
 昭和20年8月15日の終戦から50年これら多くの御霊にあらためて深く思いをいたし不戦の誓いを新たにすることで世界恒久の平和を祈念するものであります。
   平成7年8月15日   清水市長  宮城島弘正


images/8420tyurei5.JPG [忠霊塔]
 階段を上ると見事な建造物が建っている。



images/8420tyurei1.JPG [忠霊塔]
 石碑も建てられている。



images/8420tyurei3.JPG [忠霊塔]
 ここも富士のビューポイントだ。

images/8420tyurei6.JPG [忠霊塔]
公園状に整備されているので少し足を延ばすとちょっとしたスペースがあって看板が立っている。

<信行社迎山草庵跡>
 幕末から明治の動乱の時、駒越の農民が信行社と称する京都の守本恵観先生を招き「先祖を厚く敬い慈善の志をつらぬき、人に対して謙譲の徳をもって接する」という教えを学んだところ。
   平成13年度 駒越まちづくり推進委員会


images/8422manzou1.JPG [旧萬象寺跡]
 水路脇の農地の前に説明看板が立っていたので読む。この水路が用冨川の名残りだろうか。
 現在は臨済宗妙心寺派の「冨春山 萬象寺」がここから400mほど南西に行った久能道沿いにある。

用冨山萬象寺跡
 嘉元元年(1303)に鎌倉建長寺の象外和尚が、ここ用冨川のほとりに観音堂を建てた。
 これが萬象寺の始まりです。
   平成13年度 駒越まちづくり推進委員会


images/1120kuno99.JPG [久能寺観音道]
県道198号へ戻り南下するとすぐに国道150号(久能街道)へ突き当たる。
ここで「久能寺観音街道」の散策は終了する。

 久能道へ行くにはこちらをクリック。
 旧東海道へ戻るにはこちらをクリック。



−コメント−

 久能寺観音道は鉄舟寺や龍華寺などの清水屈指の名刹が並んでいる。
 有度山の東山麓は古墳なども多く発掘されていて太古から栄えていたことがうかがわれた。