− 岡部〜藤枝・大手 −
宇津ノ谷を越えると岡部宿になる。
旧横内村をこえて藤枝宿へと続く。
藤枝宿の入口までの8km程度の行程になる。
[宇津ノ谷トンネル岡部側出口]
国道1号線を宇津ノ谷トンネルを抜けて岡部に出る。
このトンネルは上りを昭和トンネル、下りを平成トンネルと呼ぶ。
かつて宇津ノ谷の峠は、昼でも暗い峠道を、山賊に怯えながらやっと越えることができる難所でした。古代の「蔦の細道」から「旧東海道」「明治トンネル」「大正トンネル」と時代とともに移り変わっていく様子がおもしろい。
「宇津ノ谷」のページで散策ルートを巡っています。
ここから宇津ノ谷・丸子方面へ戻るにはこちらをクリック。
[坂下地蔵堂]
宇津ノ谷トンネルを抜けたところに坂下地蔵堂がある。
ここは「つたの細道」へ向かう道の入口で、宇津ノ谷峠へ向かう旧東海道の入口にもあたる。
昔、農夫が仕事帰りに牛が動かなくなり困っていたら、どこからともなく子供が現れ、牛の鼻を引いて助けてくれた。その子供がお地蔵様の化身だったと伝えられている。
そこで、「鼻取地蔵」とも呼ばれているとのことです。
[坂下地蔵堂]
地蔵さんが大勢で整列して出迎えてくれる。釣鐘堂もあって小さなお堂なのに信心の深さを感じる。
[坂下地蔵堂]
お堂の横に石碑がある。小屋のように囲まれていて大事にされている。横に説明書きがあった。
この石碑は、駿府代官であった羽倉簡堂が、宇津谷の古道を愛し、その消滅を恐れて文政13年、宇津谷の入口に立てたものである。碑文の内容はつたの細道の概要をよく伝えている。筆者である「市河米アン」は江戸末期一流の書家で、渡辺崋山と親交があったと言われる。
<碑文>
何の山か蔦、楓の径無けん、而して此の特に後世に著しきものあに、在五中将の詞藻の故を以てするに非ずや。按ずるに其の伝に曰く 中将体貌関麗、和歌を好む。其の勅を蒙り東下するや命じて曰く「歌枕を求めて還れ」と。而して勢語(ばいご)も亦載す。
既にして駿河の国に到り、将に宇都の山に入らんとす。道、幽昧にして細し、蔦、楓の翳密なり。其の和歌又、哀怨を寄託す勅して新古今集に采入せしむ。後人、艶称す。其の語を取り名づけて蔦の細道という。其の蘿径というのは、辞人の脩むる所しか言う。今、必ずしも改めざるなり。
山南の小路、即ち蘿径の口たり、北行すれば崎嶇。穴を穿たば一千余歩にして始めて嶺の左草橋に達せん。而うして山椒正に不尽の峯を東面に見る。即ち、僧宗祇の記する所に方に合す。
径は当時の官道。親王、宗尊、参議、稚経の諸公、皆佳什あり。然れども、豊公の相州を征するや、路、今の道に従う。即ち、古道の廃するや久し。
中将の東下、或は游賞(ゆうしょう)といい、或は貶謫(へんたく)という。その伝に依りていえば、蓋(けだ)し陰に之を謫(た)するなり。後説、是に近し。
今、ここに8月望前1日、公事有り。宇津の山を過ぐ、因て所謂、蘿径なる者を訪う。なげき有り。曰く
詞藻の微、猶よく古道を千歳の下に存す。いわんや、其れ、詞藻に大なる者をや。後のこの径を過ぎて、余とこの心を同じうする者、いずれか。すなわち、一石を樹てて以って、その口を表すという。
文政庚寅8月 簡堂羽倉天則用九撰
[坂下地蔵堂]
お堂の脇に急坂の小道があって登ると小さなお堂がある。
中にお地蔵さまがある。このお地蔵さまが本尊なのでしょうか。
[横添]
坂下地蔵を後にして500mほど進み、国道を渡ると横添地区へと入る。
宇津ノ谷峠を越えてすぐのところに山城(砦)があったらしい。ここの右の小山がその山城だったのだろうか。
[山城]
東海道を見守る出城がこのあたりにあったらしい。
多分この山かな?と思い、ちょっと探検してみる。
峠を見張る絶好のポジションであるが荒れ果てていて頂上までたどりつけない。
頂上周辺はかつて茶畑として耕作されていたようだが、今は大きなお茶の木に育っていて行く手を遮っていたので確認できず仕舞いだった。
[岡部川]
岡部川に沿って進む。
[岡部台入口]
岡部台という住宅団地の入口を過ぎると左側は工業団地として整備された地区がある。
このあたりに一里塚があったとの噂があるが確認できなかった。
[岡部宿入口]
川沿いに店のようなたたずまいの建物があって「岡部宿」の看板が建っている。店は閉まっていた。
案内看板を読んでみます。
【岡部宿のあらまし】
岡部宿は東には宇津ノ谷峠、西には大井川という難所を控えていることから、平安時代後期より宿としての形を整え始めました。鎌倉・室町時代と発展を続け、慶長7年(1602)の宿の指定を受けました。
岡部宿は当初、川原町・本町・横町の3町で構成されていましたが、交通量の増加から寛永年間に内谷村が加わり、明治5年(1872)1月の伝馬所廃止を機に宿駅制度が急速に機能を失うまで、東海道の要衝として栄えました。
江戸時代の作家、十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」にも登場します。雨中の宇津ノ谷峠で滑って転んだ弥次さんと喜多さんが、増水のため大井川が川留めと聞いて岡部宿に投宿する際に一首「豆腐なるおかべの宿につきてげり足にできたる豆をつぶして」と交通の難所であった様子が描かれています。
【当時の宿場の様子】
天保14年(1843)の調べによると、約1500mの町並みの中に487戸・2322人が住み、宿場の両端には岡部宿の入口を示す枡形が設けられ常夜灯が置かれていました。また宿場内には幕府からの禁令などを掲示する高札場が置かれていました。
中心部には大名や公家が宿泊する本陣が2軒、本陣の予備の宿舎である脇本陣が2軒、人馬の継立などを行う問屋場、飛脚、一般の人々が宿泊する旅籠屋などが軒を連ね、その先には茶店や米屋などの店に交じって、職人や日雇稼、荷物の運搬役を行う人馬役の家、農家などがありました。町並みは街道沿いに広がり、裏には神社がありました。
[十石坂観音堂]
「岡部宿」の看板を過ぎるとお堂が山際に建っている。謂れの看板が2つ立っていたので読んでみます。
<十石坂観音堂(じっこくざか) 町指定文化財 昭和48年4月指定>
入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で内陣、外陣の境の格子は非常に細かい技巧が施されている。
江戸時代末期の作と思われ、この観音堂の中に二基の厨子が安置されている。
(厨子一)
中央にある厨子で、宮殿造り。屋根は入母屋造り、柿ぶき(こけらぶき)で二重垂木、妻入である。彩色がほどこされていて江戸もやや末期の作と思われる。
(厨子ニ)
観音堂の向かって右側にある。宝形、板ぶき屋根、黒漆塗りで簡素ではあるが品格の高いものである。
江戸も中期以降の作と思われる。
岡部町教育委員会
<河野孫園碑文>
河野孫園は、駿府町奉行服部久工門貞勝が駿府地誌の編さんを山梨稲川(とうせん・江戸時代の漢学者としてその名を知られた)に依頼したときに、岡部の属する益頭郡を担当した人である。岡部本町に住し(屋号・河野屋)、文化12年正月18日46歳で没した。
孫園の墓碑は、稲川の撰文と書が刻まれたものである。その撰文の要旨は、孫園の資性と業績が立派であったことを顕彰したものである。建碑については、孫園の友人で岡部宿駅の漢学者・杉山佐十、本間春策等の友情によって立石されたものである。(「孫」の字は草かんむりが付く)
[川原町]
かつての東海道は国道1号線へと姿を変え、今は県道になっている。
このあたりは川原町という。
[岡部橋]
左右の山がせまり、50mほどの間隔に岡部川と東海道が通る。
[立光山不動尊]
橋を渡った所に不動尊へ通ずる階段がある。登るとお堂が建っている。
[柏屋]
岡部橋を渡ると間もなく左手に旧家が見える。観光客を意識した店先となっている。
店の横に「登録有形文化財第22-0032号この構造物は貴重な国民的な財産です。」と書かれた道標が立っている。
[岡部宿本陣址]
柏屋の先の閉ざされた門の前に本陣址と書かれた道標が立っている。
[岡部宿公園]
本陣址の裏は公園として整備されている。広々としたスペースだ。
[問屋場跡]
公園からすぐの所に問屋場跡の看板が立っている。
幕府の公用旅行者のためにつくられた施設で、人夫や馬を常備し、次の宿場まで、旅行者や荷物を無料で継ぎ送りました。しかし、公用の仕事がない時には、一般旅行者や荷物を有料で送りました。
岡部宿には、岡部本町と加宿内谷の2か所に問屋場がありました。
[佐護神社(おしゃもっつぁん)]
柏屋から200mの左側の山裾に神社がある。
立石神社例祭の御神輿の御旅所(御仮屋)の守護として古来より祀られています。
おしゃもっつぁんは、農耕の神、丈量(測量)の神または安産の神であったりと、さまざまな説があります。
現社殿は、昭和50年(1975年)に神神社より拝領し、移設されました。3っつに仕切られた内陣の中央には、天照皇大神、向かって右が佐護神社、左が小坂で祀る秋葉さんです。
例祭日 1月中旬日曜日
立石神社例祭 7月第3又は、第4土、日曜日「岡部史談 岡部のお宮さん」より
平成16年2月 おかべプロジェクト未来
[初亀酒造]
県道沿いに蔵のある建物がある。初亀酒造だ。
伝統がありそうな地酒が飲めそうだ。
[岡部宿旧道]
県道から分かれて旧道は石畳に整備された道へと進む。
宿場町の風情が残る。
[姿見の橋]
旧道を進むと水路が横切るところに謂れが書かれている。
小野小町は絶世の美人であり、歌人としても有名であった。晩年に東国へ下る途中この岡部宿に泊まったという。
小町はこの橋の上に立ち止まって、夕日に映える西山の景色の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには長旅で疲れ果てた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだという。
こんなことがあって、宿場の人たちはこの橋を「小野小町の姿見の橋」と名づけたという。
[岡部宿旧道]
旧道を進むと古い建物が目につく。
[正應院]
寺へ続く参道があるので入ってみると落ち着いた寺がだった。
[岡部宿旧道]
旧道をさらに進む。
[好光]
好光人形店がある。静岡駅南口にある好光人形店だ。
[岡部宿旧道]
旧道は岡部の中心区域に近づくと旧東海道の風情はなくなる。
[旧岡部役場前]
旧東海道は突当り右折すると旧の岡部町役場の前に出る。役場前の県道に出た所から藤枝方面へ向かう。
[五智如来公園]
県道へでてすぐの右側に公園があって、観光案内所が併設している。
[五智如来]
五智如来公園の奥に小屋が建っていて、お地蔵さん?がならんでいる。五智如来とあるので如来だろう。由緒が書かれているので読んでみます。
五智如来像
町指定文化財(昭和48年4月1日指定)
誓願寺の境内で街道に面して安置されていましたが、寺が移転したため現在の場所に移されました。
地元産の三輪石で作られ、石造りの五智如来像としては大きなもので2組あります。1組は宝永2年(1705)に陸奥棚倉城から駿府田中城に移られた内藤豊前守弌信の家老脇田次郎左衛門正明が同年に寄進したもの。もう一組は、明治の中頃、鬼島の森川重蔵と静岡市寺町の藤田権三郎が作ったものです。
宝永2年に田中城主となった内藤豊前守弌信には、上手く話のできないお姫様がいました。殿様と奥方にとっては、このことが大きな悩みとなっておりある日、静岡の宝台院で徳川家の奥方にこのことを話すと奥方は「岡部宿にある誓願寺の本尊である阿弥陀さまにお願いすると良い」と教えてくれました。
そこで早速、奥方は家老を連れてこの寺に参り願をかけました。お参りを続けた満願の日、お姫様は自由に口がきけるようになり、数年後には立派な大名の許へ嫁ぎました。
殿様はこのことにいたく感激し、誓願寺へ田畑を、家老の脇田次郎左衛門は五智如来像を寄進しました。
向かって右から
阿弥陀如来 釈迦如来 大日如来 阿しゅく(あしゅく)如来 宝生如来
岡部町教育委員会
[五智如来]
五智如来は奥にも小さな如来がいる。
[岡部旧道]
県道を進む。
[松並木]
松並木が旧東海道だったことを伝えている。
[石燈籠]
県道は国道1号線バイパスに交差する。
ここまでが岡部宿なのだろう。石灯籠の所に岡部宿の看板が立っている。
[岡部バイパス]
バイパスとの交差点の所から県道は国道1号線の称号を返上していない。
この交差点はバイパスのインターになっていて内谷(うつたに)インターといい、ここからバイパスは「藤枝バイパス」と名前を変える。
旧東海道は国道1号線を進まず右の道へ入る。
[横内村]
パイパスの下をくぐったところに横内村を知らせる木の看板がある。擦れていて読むのが難しい。
[横内村]
今は静かな通りだが、かつては主要な通りだったことでしょう。
[傍示杭跡]
横内に入る所にチョットしたスペースがあって岩村藩領の傍示杭跡がある。
傍示杭は境界に建てられた標柱で、街道筋においては、宿場境や距離の基準点を示していた。
岩村藩領傍示杭
「従是西巖村領 横内」(是従り西岩村領)
この杭は、江戸時代享保20年(1735)より明治維新までの135年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。
岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が3万石の領地を持っていた。
駿河国に15ヶ村、5千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。
横内歴史研究会
[横内村案内板]
横内村傍示杭跡に案内が書かれていた。読んでみます。
横内歴史案内 9100 傍示杭の横に掲示
横内村は文禄3年(1594)、豊臣家臣池田孫次郎輝利が村人に河川改修を指導し、白髭神社を祀り、開村した。江戸初期は、岡部領(天領)で宝永年間(1704〜1710)から田中領となったが、享保20年(1735)から幕末まで美濃国岩村藩領となった。この135年間は岩村藩15ケ村の役所の陣屋が置かれていた。江戸時代石高470石、戸数90戸の農村であるが、東海道が村の中を通っていて、明治22年鉄道敷設までは日本の大動脈として1日数千人の人々がこの街道を往来した。横内村には職人が多くいて現在揚げてある屋号札は往時の仕事を示している。
[横内村]
街道沿いの家には、かつてのその家の職業を伝える看板が数多く立っていた。
見て回ると楽しそうだ。
[滋眼寺]
新しい立派な塀に囲まれている寺がある。
[滋眼寺]
建物も新しくて気持ちはいい。
古き良き時代を感じることはできない。
[横内村]
今と昔が混在する通り。
[代官屋敷・高札場]
街道は橋に向かって坂になる。江戸時代のこのあたりはいろいろな施設があって、栄えていたらしい。
民家の脇に標柱が2本立っている。
「西村小路 代官屋敷」「高札場跡」と書かれている。
[川会所]
橋の近くの民家の脇には「朝比奈川 川会所跡」と書かれた標柱がある。
[御陣屋小路]
橋の手前の路地を入ると「御陣屋小路」と書かれた標柱がある。
史跡でもないかな?と突当りまで行ってみると祠があった。昔からあるのかどうかはわからない。
[横内あげんだい]
橋の脇にあるスペースにある案内板の脇に竹の柱の上に籠のようなものが付いている。
[横内あげんだい]
「横内歴史案内板」という地図が描かれている。
案内板の脇に「横内あげんだい」と書かれている。
[横内橋]
横内橋で朝比奈川を渡る。
[横内村]
橋を渡った民家の塀に「東海道 横内村」と書かれた看板が立ててある。
しばらく街道は続き、橋から200mほどから松並木が始まる。
[横内村松並木]
県道と並行して旧道が一方通行となって松並木の間を進む。
旧道は国道1号線と交差する。交差点から斜めに旧道の雰囲気がある道へと入る。
[仮宿]
ここは仮宿。謂れはわからないが東海道らしい地名だ。
道は小さな橋を渡り、すぐに国道1号線に戻る。
[旧田中領]
「従是西田中領」と書かれた石柱が道路脇に立っていた。
これより西、田中領ということなのだろう。
[広幡交番]
道は国道と出会うが合流しないまま、また分かれる。
国道と旧東海道の三角地に交番が建っている。
[八幡]
このあたりは「広幡」という所で「八幡」「仮宿」「横内」「下当間」「鬼島」という地名が複雑に入り組んでいて境がよくわからない。
藤枝と合併する前は広幡村と呼ばれていた。
[鬼島一里塚]
通りに面した新築の住宅の脇に一里塚の標柱が立っている。
邪魔だろうに立ててくれて有り難い。
街道を歩いているとこのような標示が楽しみなのだ。
[八幡橋]
旧東海道は葉梨川を渡る。
橋を八幡橋という。
街道は橋を渡ってすぐ左へ曲って進む。
橋を渡って真っ直ぐ進むと田中城へ徳川家康が出向くときに使った道で「御成り道」と呼ばれていて、今は途中で道が途切れていたりする。
[鬼島東海道碑]
八幡橋を渡った所の土手際に東海道を伝える道標が立っていた。
立っているというより埋もれていた。
[鬼島の建場]
燈籠と半鐘が道路脇にある。古い施設ではないが、燈籠の前に膝栗毛の一部が引用されて石に刻まれていた。
街道の松、枝を鳴らさず往来の旅人、互いに道をゆずり合い、泰平をうたふ。大井川の川留めが解けたので、岡部に滞留せし旅人・駕・馬と共に弥次郎兵衛、喜多八の2人も、そこそこに支度して、朝比奈かわをうち越え、八幡・鬼島に至る。
ここは宿場間のお休み処茶屋女「お茶まいるサア・お休みなさいマシ」と進められるまま、昼間ッからイッパイ昨日の鮪の肴、この酒半分水だペッペッ、ブツブツいいながら、鐙ケ縁にさしかかる「処もとは鞍の鐙ケ淵なれど、踏んまたがりて通られもせず」「街道の松の木の間に見えたるはこれむらさきの富士枝の宿」
十返舎一九・道中膝栗毛より
[青山八幡宮]
八幡橋から500mほど進むと右に「青山八幡宮」の石柱がある道を入ってみる。
細い橋を渡り、国道1号線を渡ると八幡神社がある。
旧東海道からの参道になっていた。
[青山八幡宮]
鬱蒼とした森の前に鳥居がある。社は山の上にある。説明書きを読むと由緒が立派だった。
祭神
誉田別命(ほんたわけのみこと) (第15代 応神天皇)
玉依姫命(たまよりひめのみこと) (応神天皇の后)
息長足姫命(おきながたらひめのみこと) (神功皇后 応神天皇の母)
例祭日
9月「敬老の日」の前日の日曜日
(3基の神輿が広幡地区内を渡御する)
由緒
社殿によれば当宮は山城国(京都)の男山、石清水八幡宮の別宮にして天喜・康平年間(1053〜1064年)源頼義・源義家(八幡太郎義家)が前9年の役で奥羽下向のとき東北征討祈願のため天皇の命により現神社地が石清水八幡宮の地形によく似ていたので御分霊を観請して奉斎した社で、源氏が5里ごとに八幡社を建てた5里八幡の1社という。
8月15日には放生会があり流鏑馬が行われ、
神輿3基は明治のはじめまで岡部若宮八幡宮また藤枝宿は瀬戸川の勝草橋まで渡御した。現在3年に1度盛大に行われている飽波神社の藤枝大祭は藤枝宿の屋台が青山八幡宮の神輿渡御の行列に付き従ったものが始まりとされる。
本殿は慶長18年(1613年)12月再建したものであったが、昭和55年9月8日焼失し、現在の本殿は昭和61年9月に再建された。
創立当時の神領は千石との言い伝えがあるが定かではない。豊臣秀吉公は170石5斗の神領を寄せられ、徳川幕府もまたこれにならった。武門の守護神、源氏の氏神として田中城主だった酒井・西尾・本多諸氏の崇敬篤く、神器具その他が寄進され、社務祭祀を監督した。明治6年3月には郷社に列した昭和28年7月8日国有境内地は無償譲与され、宗教法人として承認登記した。
境内社
・進雄神社(すさのおじんじゃ)「天王社」(祭神 進雄命)
・惣社(祭神 天神地祇八百萬の神)
[青山八幡宮]
鳥居の横に力石がある。
この神石は往古八幡山頂にあったが明治初年(西暦1867)神輿3基を東京より新調購入し渡御した時より葉梨川沿のお旅所に据え置き若者の力試し力石として伝えて来た。
猶病気平癒祈願の為には石を持ち上げることによって病気が平癒し石をさわることによって無病息災家内安全を祈って来た。特に戦時中は、信神詣りの参拝者がこの力石を抱戴して信仰した。昭和32年に国道一号線が参道を横断するに当り旧お旅所より移動して今回平成元年ここに神石の力石として奉据した。
[青山八幡宮]
井戸の跡にも「御供井戸」と書かれた説明があった。
遠い昔から八幡宮神社にお供えをする神撰は、すべてこの井戸によって清められ、進められたものであります。
天和2年(1682)300年前の古い記録によれば、神撰(お洗米)は38度もこの水で洗い清めて、山頂の御神前にお供えしたものとあります。
由緒深い井戸でありますので、お互いに清浄に心掛けて下さるようお願します。
[青山八幡宮]
山を登ると八幡宮がある。
[青山八幡宮]
神社の脇に石碑があり由緒が書かれている。
<青山八幡宮由緒>
御祭神 誉田別命(ほんたわけのみこと)玉依姫命(たまよりひめのみこと)息長足姫命(おきながたらひめのみこと)
当八幡宮は京都の男山に鎮座する石清水八幡宮の別宮として第70代御冷泉天皇の天喜、康平年間(1063年〜1065年)朝臣源頼義同義家が勅を奉じて奥州下向のとき奥羽征討祈願のため、現社地の山が男山と非常に似ているので御分霊を勧請して奉斎した神社である。
男山と同じ鳩ケ峯の地名も今に残っている。旧東海道の5里八幡の1社と伝えられ往古より稚女による座子舞と現山の下の神池は青山放生池として旧8月15日には厳粛な放生会と流鏑馬神事が行われた。
3基の神輿は明治維新までは岡部若宮八幡宮まで出御した。
現社殿は慶長18年(1617年)に再建され正徳年間(1711年〜1716年)に大修築が行はれた。
鎮座当時神領千石を有していたとの口碑があるが定かでない。豊臣秀吉公より170石5斗の神領を受けて徳川時代まで続いた。酒井、西尾、本多、代々の田中城主の守護神として崇敬が篤かった。
境内地5113坪(16,867平方メートル)あり例祭は9月15日に斎行され現在に至る。
昭和54年9月吉日 宮司 浅井 正
[須賀神社]
青山八幡宮から街道に戻って100m進むと大きな楠の神社が見える。
[須賀神社]
須賀神社の由緒は書かれていないが楠の説明書きがあったので読んでみます。
静岡県指定天然記念物 須賀神社のクス
所在地 静岡県藤枝市水守17番地
所有者 須賀神社
管理者 須賀神社
このクスは樹齢およそ500年で、県下でも有数の大きさを誇り、御神木として大切にされてきた大木です。旧東海道の脇にあって、古くから往来する人々を見守ってきました。近くには「東海道膝栗毛」などにも名所として登場する鐙ヶ渕など、東海道ゆかりの史跡があります。
樹高 23.7m 根廻 15.2m 目通 10.9m
枝張 東西 21.2m 南北 27.9m。
[鐙ケ淵と観音堂]
須賀神社と同居するように全居寺が立っている。その裏側の小山にお堂が立っていて謂れが書かれている。
史跡鐙ヶ渕(あぶみがふち)と観音堂
一.此処の広場は、元葉梨川の渕でその形が馬具の鐙に似ていたので古来より鐙ヶ渕と呼称されていた。
一.崖上の観音堂は通称山之堂と言われ人々に親しまれて来た。御本尊は蛇柳如意輪観世音菩薩と言いお腹篭りという珍しい尊像で胎内仏は平安時代中期の名僧で恵心僧都の御作と伝えられる。昔から子宝、安産等に霊験あり、婦人の参詣者が絶えなかったという。
一.昔、渕のかたわらに柳の大木が有りその木に触れたものは浄土往生の志を覚え渕に身を投げたという。人々はこれを「人取り柳」と呼び恐れて近づかなかった。後に聖僧のより切り取られ一体の観音像として鐙堂の御本尊となる。(鐙堂略縁起より)
一.伝説に依れば徳川家康は戦勝祈願の為、愛用の鐙を渕に沈めたという。(鐙堂略縁起より)
一.弥次喜多道中で有名な十辺舎一九は東海道中膝栗毛三編の中で鐙ヶ渕の歌を詠んでいる。
ここもとは 鞍のあぶみが 渕なれば 踏んまたがりて 通られもせず。
[水守]
旧東海道はホームセンターにぶつかり一時消滅する。
右折すると松並木の名残りが見える。街道は曲っていたのだろうか。
[国1・旧道]
街道は国道1号線と斜めに交差する。
車は旧東海道を真っ直ぐ進むことができないように交通規制されている。
国道を渡った所から振り返って今来た道を見る。
[藤岡団地入口]
国道から200mに信号がある。
藤岡団地へ入る道との交差点。
[藤枝宿東木戸]
天理教の教会の前に東木戸の標柱が立っている。ここから藤枝の宿が始まる。手前の自転車屋のあたりに番所があったとか。
藤枝宿方面へ進むにはこちらをクリック。
−コメント−
岡部から藤枝の入口までの行程。
随所に名所があって、旧東海道の雰囲気が感じられる所も多かった。