− 江尻〜興津 −
江尻の宿から興津の宿。
江尻では江尻城と小芝八幡宮を巡った後に旧東海道を進み、
興津では興津川を上った所にある横山城址・小島陣屋址までの10km強の行程。
[清水銀座西入口]
旧東海道は稚児橋を渡ると江尻へと入り、清水銀座通りへ曲って江戸へ向かう。
江尻周辺を一回り散策してから旧東海道へ向かうことにする。このあたりは江尻城を偲ぶことができる所も多くある。
江戸時代に東海道が整備される前の東へ向かう街道は、清水銀座通りへは曲らず直進して秋葉神社方面へ向かっていったのだろうか?そちらの道沿いにも古い史跡が多くある。
[魚町稲荷神社]
この神社のあたりから江尻城だったらしい。
エスパルスが毎年出陣式をこの神社で行う。
神社の境内には大きなサッカーボールがオブジェとなっている。サッカーのお守りが有るらしい。
[魚町稲荷神社]
神社の脇に謂われが書かれていた。
魚町稲荷神社
永禄11年(1568)12月、駿河に攻め入った武田信玄は、翌年現在の江尻小学校の敷地に、江尻城を築き、その後天正6年(1578)当時の城将穴山信君(梅雪)は、城を大改築し本格的な城にした。
梅雪は1村1郷に鎮守あり、1家に氏神あり、どうして1城に鎮護の神がなかろうか言って、この地に社殿を造営したといわれている。(江尻町誌による)
近くは江尻宿の問屋場・高札場・本陣等があって東海道を往来する旅人でこの地魚町(上町)は賑わった。
祭神 宇賀地御魂命(うかじみたまのみこと)
例祭 8月3日
「明治天皇 東行御遺跡」の碑あり
大正6年2月稚児橋竣功の時の橋の親杭あり、「ちごばし」と刻まれている。
[江尻小学校]
小学校は江尻城の本丸があった。
校庭のどこかに記念碑があるらしいが不審者と間違われると困るので外からながめることにした。
[二の丸]
小学校の前の電信柱に二の丸町と看板が付いている。
町名のとおり二の丸があった場所だったらしい。
この他にも昔を歴史を感じる「江尻町」「小芝町」「大手町」などの町名がこのあたりに並んでいる。
[二の丸]
江尻小学校の正門脇に二の丸町の由来が書かれた看板が立っていた。
町名の由来「二の丸町」
武田信玄が、永禄12年(1569)東の北条、西の徳川に備え、江尻城を築いたが、天正10年(1582)江尻城は、徳川の手に渡り、後に廃城となった。
なかでも、二の丸の跡地は明治の頃より、独立した自治組織があり、城にちなみ「二の丸」とよばれ、現在に至っている。
また、二の丸には城の鬼門除けとして、二の丸稲荷神社が造られ、城の名残の石垣が江尻小学校校舎の南西にあったと、伝えられている。
江尻まちづくり推進委員会
[江尻城]
江尻小学校の校庭側に回って江尻城の名残りを探してみたが特別な特徴は見当たらなかった。
この写真は巴川の堤防から撮影している。巴川の流れは今と違っていて、水を取り込み堀にしていたらしい。
江尻小学校から200mほど北へ行くと小芝八幡宮があるので少し足を延ばしてみる。
その八幡宮の看板に城の図面が描かれていた。
[小芝八幡宮]
江尻小学校から100mほど北へ来ると小芝八幡宮がある。
神社の入口に神社の謂われと江尻城の謂われの看板が立っているので読んでみる。
江尻城は、永禄12年(1569)武田信玄が遠州の徳川家康に相対する橋頭堡(陣地)並びに補給基地として築城したものといわれる。
穴山信君(梅雪)は、元亀元年城将となり、天正6年(1578)江尻城の大改築を行ったが、天正10年(1582)家康に降伏し城を明け渡した。
慶長6年(1601)創城以来32年を経て廃城となったが、その間城将は10人を数え、城下には、初期的な城下町が形成された。
現在、二の丸、大手、鍛冶町、鋳物師町、紺屋町、魚町等の地名に、城下町特有の名が残っている。
[小芝八幡宮]
小じんまりした神社だが歴史の重みが見方を変えてくれる。
もったいない境内となっている。神社の謂われの看板を読む。
当小芝八幡宮は、嵯峨天皇弘仁2年(811)の創建といわれ、古称家尻(江尻)の里に建立された。
戦国の世、今川氏に代わった武田信玄が、永禄12年(1569)江尻城(小芝城)を築くにおよび、今までの廃れた祠を城内に移し、八幡宮を鎮守の神として祀り、武人の崇敬が厚かった。
慶長6年(1601)に廃城後、現在の地に移され、昭和8年本殿の造営なると共に、村社より郷社に昇格、旧東海道江尻宿九町の産土神として、人々の崇敬を集めている。
[小芝八幡宮]
社殿が静かだ。
神社の謂われの看板の続きを読む。
祭神 品陀和気命(ほんだわけのみこと)応神天皇
大雀命(おおささぎのみこと)仁徳天皇
武内宿弥(たけのうちのすくね)
年中行事 節分祭 二月節分の日
茅の輪祭(輪くぐり祭)6月30日
例大祭 10月8日 9日
宝物 「八幡宮」の額 寛政5癸丑
前中納言 藤原宗時 書
面鏡 清水丹後守藤原光正奉納
境内神社 事比羅神社 稲荷神社 金山神社
小芝城址の碑 明治42年3月建立
元本丸跡(江尻小学校)にあったのを当神社境内に移した。
手水鉢 寛保3年 天保6年 奉納
[小芝八幡宮]
誰の書なのだろうか。
「完遂」と書かれた石碑。
[小芝八幡宮]
小さな別殿がある。
地図に金山神社とあるのがこの神社なのだろうか。
稲荷神社とも見えるが?
[小芝八幡宮]
供養塔なのか石碑が建っている。
ここから1km弱ほど北へ行くと秋葉寺がある。裏山には古墳もある。そちらへ向かうページへは
こちらをクリック。
[清水銀座西入口]
清水銀座の西入口へ戻り、駅方面を見渡す。
旧東海道はここを進む。
地方都市の商店街を代表するように閑散としている。
かつてはかなり人出も多く栄えていたのだが・・・。
この先の信号を左に入った所に寺が並んでいる。「江浄寺」という寺には家康と妻「瀬名」との間の嫡男で、信長の命により切腹させられた松平信康の墓所があるらしい。
信康は岡崎に墓があるとの事なのだが、分骨でもしたのだろうか?
[清水銀座通り]
旧東海道は清水銀座通りを北に曲がるが、この辺りが江尻宿の中心だったらしい。
写真は振り返って西に向って今来た道を撮ったもの。
[清水銀座通り]
旧東海道は清水銀座通りを北に曲がり、その交差点の所にこんな店があった。まだやっているのかな?
(写真を撮った翌年には残念ながら新しい建物に変わっていた。)
[江浄寺]
清水銀座通りから曲って間もなく江浄寺がある。
[江浄寺]
清水銀座通りから曲って間もなく浄土宗「市中山 長光院 江浄寺」がある。
[妙泉寺]
江浄寺の北隣にも寺が並んでいる。日蓮宗「本応山 妙泉寺」だ。
奥にある建物は浄春寺。街道沿いには寺が多い。
[江尻宿]
江尻から旧東海道は北に向かい辻方面を臨む。
[末廣寿司]
国道1号線と交差する手前の信号を左に入ったところに有名な鮨屋の「末廣」ある。
[辻]
旧東海道は清水駅へ向かう国道1号線を横切り直進する。
[辻]
蔵を持つ旧家があった。
旧東海道を歩いているんだという気分にさせてくれる。
[辻]
このあたりは「辻」という町名。
ここも江尻宿になる。
[江尻宿東木戸跡]
江尻宿の東木戸がこのあたりにあったらしく看板が立っているので読んでみる。
江尻宿の東の出入口として、辻村と本郷の境に木戸(見付)があった。
この付近は道路が桝形ではないが「く」の字形に曲がり、外から宿内を見通すことができないように工夫してある。木戸の脇には番小屋も建っていたものと思われる。
[高札場跡]
高札場があったという看板が立っているので読んでみます。
高札は奉行所や代官所の命令・布告を書いた立て札で、街道筋など人の目につく場所に設置した。
辻村の高札場は西に向かって右手の一里塚前にあったことが絵図に記されている。
[一里塚跡]
このあたりに一里塚があったとさ。
<一里塚跡>
江戸時代、東海道には江戸日本橋を基点として一里塚が設置された。
塚は5間四方に盛土され、榎や松が植えられ旅人の里程の目安となっていた。
辻の一里塚は江戸より42番目にあたり、道の両側に向かいあって存在した。
[秋葉道入口]
「うおいそ」という料理屋の看板の脇に秋葉道入口という看板が立っていた。
東海道から秋葉山(寺)に通ずる参道があり秋葉道と呼ばれていた。
この入口には戦後まで「秋葉山5丁入」と刻まれた石の道標が建っていた。この道は「矢倉の辻」で北街道(中世東海道)に接続し、辻村の主要な道路であった。
この辺りには名物「松風せんべい」などを売る茶屋も3、4軒あり、東側は細井の松原に接していた。
[細井乃松原へ向う]
江尻宿を後にして、この先の細井乃松原を通り、先の興津宿へ向かう。
[細井乃松原]
国道1号線へ出る交差点に旧東海道の松原を記念して、整備されていた。看板を読む。
慶長6(1601年)、徳川家康は東海道53次の宿場を制定し江尻宿場が設置された。同9年(1604年)2代将軍秀忠は江戸へ通ずる主要街道の大改修を行い江戸防備と旅人に安らかな旅ができるよう樽屋藤右ヱ門、奈良屋市右ヱ門を工事奉行に任命して街道の両側に松の木を植えさせ同17年(1612年)に完成したと伝えられている。
元禄16年(1703年)駿府代官守屋助四郎の検地によると辻村戸数110戸松原の全長199間2尺(約360m)松の本数106本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶店があったと伝えられている。
当時の旅人は、夏にはこの松陰で涼み、冬には茶店で憩い旅の疲れを癒したりした。
ほそいの松原は太平洋戦争のとき松根油(航空機燃料)の原料として伐採されたので現在その後もない。
今の松は平成4年2月社団法人清水青年会議所から寄贈されたものである。
[細井乃松原無縁さん碑]
碑の脇の看板を読む。
<細井の松原無縁さんの碑>
辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。この並木は昭和19年松根油採取のため伐採されたが、この折多量の人骨が出土した。東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人々は寺に葬り、松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。
平成十三年、東海道四百周年を記念しこの石碑を建立した。
[細井乃松原から]
この細井乃松原から先は旧東海道の名残りは消え国道1号線を行く。
[庵原]
バイパスが1km程西に通っていて、東に500mに湾岸道路が通っているので、トラックの交通量は少なく割と空気がきれいだ。
[庵原]
庵原川にかかる橋を越えていく。
北街道(清水)のページも作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[横砂]
このあたりは、砂浜だったのだろうか「横砂」という地名。
山の上にお城が見える??
実は本物ではなくて浄水場の管理棟らしい。
[医王山東光寺]
左手に由緒のありそうな寺が立っていた。看板を読んでみる。
臨済宗妙心寺派の禅寺で、本尊の薬師如来(秘仏)は、行基作の伝。
天文年間(1532年・1554年)温仲和尚によって現在地より北方の地(寺西)に創建される。その後衰退して、慶長年間に、一輪和尚によって中興される。再び衰退するが宝暦年間に通天和尚により掌宇が再建され、安政年間には松洲和尚が庫裡を再建し盛衰を歴史に繰り返す。
清見寺 蓉嶺維禎禅師の法を継ぐ九代洪堂義範禅師(明治41年没)が法系開山となり寺門は一新する。文久4年(1864)書院を建設し、山門を瓦葺きに改め、その後本堂も再建する。書院は清見寺の旧書院の移築。山門は、勅使投宿のため急拵えした名残で門扉の形から格子門と呼ばれている。
現本堂は平成5年に再建された。
(以下略)
[横砂]
このあたりから旧東海道の雰囲気が徐々に出てきた。
東光寺から2本目の路地を山側に入って国道1号バイパスをくぐると神社がある。
[盧崎神社]
いほざきじんじゃと読むらしい。
廬崎神社は横砂の氏神様として古くは八王子天正、又は八王子大明神と称せられましたが、明治初年に廬崎神社と改称し、明治8年2月村社となりました。この神社は国狭槌尊(くにのさつちのみこと)をお祀りしており、神代7代の神といわれ神様の八徳表わすと信仰されております。
古い書物のほきの内伝によると八王子とは天照大神と須佐之男命がが誓約をされた時にお生れになった8人の王子であるとされています。
天王とは多くの場合、須佐之男命のことで駿河志料には祭神午頭天王八王子と記され、後世この8人の王子ということからして広い御神徳の内、特に安産守護の神ともされています。
この神社は文化10年江戸中期の棟札には浄見長者が大勧進をして官幣を奉納したと記録されており、既に天慶(平安中期)の年代から神社があったと伝えられています。
[横砂]
街道に戻り興津方面へ進む。
いい雰囲気の家がある。
[横砂地蔵]
秋葉燈籠がある地蔵堂が建っている。
[横砂の旧道]
地蔵堂の前で国道から旧道が分岐する。
国道はJRを高架で跨ぐよう整備されている。
[横砂の旧道]
旧道は踏切でJRを横切る。
もともとは店があったと思われる建物が目につく。かつてはこの通りが主要道だったことが偲ばれる。
[横砂の旧道]
この先で道は細くなり街道が消滅し、波多打川に突き当たる。上をバイパスが通っている。
旧道がどこを通っていたかはわからないので国道1号線へ出ることにした。
[興津宿]
国道はJRを跨いだ後、興津へと入る。
このあたりは清見寺にちなんで興津清見寺町という町名。
[興津宿座漁荘]
興津に入って500mほど進むと「座漁荘」が右にある。
看板を読む。
静岡市座漁荘記念館 西園寺公望公別邸
興津座漁荘
西園寺公望公は嘉永2年(1849)10月、右大臣徳大寺公純の次男に生まれ、明治大正昭和3代を自由主義の政治家として貫き、昭和15年11月24日、91年の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人です。
座漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)に老後の静養の家として風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘で、命名は渡辺千冬子爵によります。
座漁荘は、時代の変遷で昭和46年3月18日から愛知県犬山市の明治村に移築され、現在、国の登録文化財として公開されています。
そしてこのたび、地元興津、そして経済界の皆様の座漁荘復元に向けての熱い思いが実を結び、また、財団法人明治村の全面的なご協力とご指導を仰ぎ、記念館として、かつてあったこの地に復元し、公開いたします。
平成16年4月
[興津宿座漁荘]
座漁荘に入るとと「座漁荘址」の石碑が建っている。
説明板を読む。
坐漁荘は、公爵西園寺公望の旧居、大正8年12月に建築された。
その敷地は1255.96平方メートル前庭をへだてて清見潟の波光る景勝の地であった。
建物総面積は469・27u、前庭をへだてて清見潟の波光る景勝の地であった。建物面積は460.27u、二階建、瀟洒雅到ただよう和風建築であり、洋間一室とテラスとが附属していた。
坐漁荘の名称は子爵渡辺千冬の撰にかかる。
周の文王が渭陽で呂尚(太公望)の坐漁するに会い、礼を厚くして迎えて軍師とした。
渡辺は中国のこの故事に因み、太公望を西園寺公望の名に通わせ、坐漁を前庭に海迫るこの地形に結びつけ、さらに元老として天皇補佐の重責を荷う西園寺公の地位を軍師呂尚のそれに対照させ、坐漁荘を命名した。
公はかねて国際間の平和とわが国立憲政の発達を念願してやまなかった。
しかし満州事変以後わが国政治の動向は公の所期と全く相反するものがあり公は破局的事態の到来をふかく危惧しこれを阻止せんがため元老として実に焦心苦慮を重ねた。
公が国の行末に限りなき憂いを抱きつつ細雨に煙るこの坐漁荘に92年の生涯を閉じたのは昭和15年11月24日、太平洋戦争開幕に先立つこと約1年であった。
近年坐漁荘周辺の景観は一変し且つ建物も損壊の惧れを生じたので、住友銀行頭取堀田庄三の発議により住友連系の各社の後援の下、財団法人明治村並びに清水市地元の協力を得て、昭和46年3月坐漁荘の主要部分を愛知県犬山市所在の明治村に移築し、この歴史的建物は永く同地に保存されることになった。
昭和46年8月
東京大学名誉教授 財団法人西園寺記念協会理事 岡 義武
[興津宿座漁荘]
落ち着いた和室から庭を見る。
入場した時にもらったリーフレットを読みながら施設見学する。
○西園寺公望(さいおんじきんもち)(1849〜1940)
西園寺公望公は、嘉永2年(1849)右大臣徳大寺公純の次男として生まれ、明治・大正・昭和の時代を自由主義の政治家として貫いた、我が国近代の元老の一人です。
また、現在の立命館大学の学祖であり、高い見識に裏打ちされた文人としても知られています。
○最後の元老
元老とは、近代日本特有の政治的存在で、重要施策(ことに後継内閣の推挙)について、天皇の諮問に応える強力な発言権を持つ重臣の呼び名のことです。
大正13年7月、松方公の死後、西園寺公は、ただ一人の元老として内閣首班の推挙や政変ごとの陛下のご下問への奉答をしてきました。
○「坐漁荘」とは
坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正8年(1919)、風光明媚な清見潟に臨む興津清見寺町に老後の静養の家として建てられた別荘です。
設計は住友本社の建築技師・則松幸十が行い、京都から大工を呼び寄せ建てられました。
坐漁荘の名は、子爵渡辺千冬の命名で、周の文王が呂尚(太公望)が坐漁する場に会い、礼厚く迎え軍師としたという中国の故事に因ります。
居間からは、遠くにかすむ伊豆天城の連峰、目前には三保の松原が見渡せ、砂浜の漁船や干し網の近景が庭越しに広がっていました。
しかし、実際の坐漁荘は「興津詣で」と称されたとおり、訪れる政府要人が後を絶ちませんでした。
[興津宿座漁荘]
洋室からも庭を眺めることが出来る。引き続きリーフレットを読む。
○西園寺公の死と、その後の坐漁荘
西園寺公は、昭和15年11月24日に坐漁荘で死去しました。12月5日、国葬が執り行われ、その後、世田谷の西園寺家墓地に葬られました。
「その後の坐漁荘は、高松宮殿下に献上されたが、終戦後徳川家を通じて西園寺公一(公の孫)に戻されました。公一氏は、事情があって豪州のバイヤーに売却しましたが、この話を聞いたイギリス大使館の参事官レッドマン氏が買い上げ、昭和26年、財団法人西園寺記念協会の設立になりました。〜」(増田荘平「坐漁荘秘録」より)
「昭和43年〜坐漁荘の建物は傷みが激しくなりました。同年11月、明治村への移転の話がまとまり〜跡地は公園にして記念碑を立て、地元が記念館を建設するときは相談にのることが合意されました。翌44年10月、家具や調度品が運び出された後、建物を測量、記号をつけて解体し、45年6月、明治村3号地に移転復元されたのです。』(清水市史第3巻より)
[興津宿座漁荘]
庭に出て建物を眺める。婦人が写生をしている姿があった。
明治時代にはこの庭の前に海が広がり三保や伊豆が正面に見えていたとのこと。看板を読む。
坐漁荘庭園より三保の松原を望む
「公は、常々「庭は清風荘(京都の別邸)がよいが、眺めはここが一番よい。三保も伊豆も庭の中に有るようなものだ。」
と大変お気に召され、ご自慢もされていた。」
(「坐漁荘秘録」増田壮平著より)
秋晴や三保の松原一文字 大野 伴睦
(句碑が、清見寺境内にあり)
[興津宿]
座漁荘を過ぎると蔵のある建物も有り、宿場へ入ったと感じられる。
[高山樗牛]
清見寺の少し手前の道路脇に石碑が建っている。
「たかやまちょぎゅう」と読む。石碑に刻まれた文字を読んでみる。
樗牛(ちょぎゅう)は清見潟の風景をこよなく愛し
明治30年中秋当處の三清館に假寓して清見寺の鐘声を聞いた
三清館の所在地より南方の20m付近にあった。
昭和44年10月 旧三清館経営者嗣守
山梨県 陽建之
[清見寺]
街道から見た臨済宗妙心寺派「巨鼇山 清見寺」。
有り難い雰囲気を持っている。
[清見寺]
門だけ単独で建っている。
この門の向こうにJRが通っていて、寺へは橋を渡って行くことになる。
[清見寺]
入口の門に案内看板があって、大人300円とある。
見学できます
名勝庭園 滝が流れ落ち池に注ぎ家康公が5木3石を配置
大方丈 朝鮮通信使偏額多数展示、家康公手習之間保存
書院 静岡市指定文化財、天皇陛下御宿泊玉座の間あり
潮音閣 眺望が素晴らしい、眼下に駿河湾と三保の青松
右に日本平、左に遠く伊豆の山々を望む
[清見寺]
本堂は立派な建物
[清見寺]
境内はよく整備されている。
鐘楼は江戸末期に再築されたが、麓鐘は秀吉のゆかりもあるとのこと。
鐘楼の前には家康お手植えと伝えられる梅もある。
[清見寺]
本堂脇の入口とその脇の蘇鉄。
[清見寺]
海會塔、石書心経、地蔵、観音様。
[清見寺]
海会塔が建っている横に菩提樹が植えられいる。
説明看板を読む。
<菩提樹>
お釈迦様が悟りをひらいた樹。赤や黄の実をつけます。どうぞお手を合せてください。 清山20世植樹
[清見寺]
大正天皇手植の木。
[清見寺]
由緒を書いた看板もある。
<由緒>
当山は臨済宗で、古来より景色の美しさで名高かった。寺の始めは古く奈良朝時代此地に関所が設けられ其の守護として傍に仏堂が建立せられたのが始めと伝えられる。
而し寺として基礎の固まったのは鎌倉時代(1264)後足利尊氏此の寺を再興(1342)徳川時代を経て今日に至った。その間幾度か戦禍を受けたるも、再建復興して来た。
境内概観
山門 慶安4年(1651)建立
仏殿 天保13年(1844)建立
大玄関 元和2年(1616)建立
大方丈 文政11年(1828)建立
鐘楼 文久3年(1862)建立
五百羅漢 天明8年(1788)建立
観音銅像 昭和13年(1938)建立
臥龍梅 徳川家康手接
名勝庭園 江戸初期作庭
[清見寺]
<山下清 清見寺スケッチの思い出>という看板
清見寺という名だな このお寺は古っぽいけど上等に見えるな お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどういうわけかな お寺より汽車の方が題字なのでお寺の人はそんしたな
お寺から見る海はうめたて工事であんまりきれいじゃないな お寺の人はよその人に自分のお寺なきれいと思われるのがいいか自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな
[清見寺]
碑が立っていて説明書きがある。
読めない所があります。
<高山樗牛「清見寺鐘の声」碑文>
鐘の音はわがおもひを追うて幾度かひびきぬ。
うるわしきかな、山や水や、偽りなく、そねみなく、憎みなく争ひなし。人は生死のちまたに迷ひ、世は興亡のわだちを廻る。山や、水や、かはるところなきなり。おもへば恥ずかしきわが身かな。ここに恨みある身の病を養へばとて、千年の齢、もとより保つべくもあらず。やがて哀れは夢のただちに消えて知る人もなき枯骨となりはてなむず。われは薄幸児。数ならぬ身の世にながらへてまた何の為すところぞ。さるに、をしむまきし命のなほ捨てがてに、ここに漂泊の日暮をかさぬるこそ、おろかにもまた哀れならずや。
鐘の音はまたいくたびかひびきわたりぬ、わがおもひいよいよ・・・・
[清見寺]
清見寺の横にもう一つ門があった。橋を通らず踏切で渡ることもできるのかな?
[大正天皇ゆかりの碑]
「大正天皇在東宮海水浴御成道」と書かれた碑が立っている。
かつては有名な海水浴場があったことがうかがわれる。
[興津宿看板]
清見寺の前に興津宿の名所看板があったので読んでみます。まずは右上から。
<興津の歴史>
興津は、江戸時代の東海道53次のうち17番目の宿場町として栄え、興津郷とも称されていました。現在興津と呼ばれている地名は「奥津」「息津」「沖津」とも呼ばれていました。
興津川の下流部にあり、東は興津川、薩った峠、西は清見寺山が駿河湾に迫る難所に位置することから、古代より清見山下の清見関は坂東(関東地方・諸説ある)への備えの役割を果たしました。
鎌倉時代以降には、興津氏が宿の長者として支配し、戦国時代には今川氏被官としてここに居館を構え、薩った山に警護関を設置しました。
慶長6年(1601)東海道の宿となり、以後宿場町として発展しました。興津からは身延、甲府へ通じる甲州往還(身延街道)が分岐、交通の要衝でした。
江戸時代中〜後期には興津川流域で生産される和紙の集散地として知られ、明治以降は明治の元勲の別荘が建ち避寒地として全国的にも知られています。
<東海道53次について>
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで天下の覇者になった徳川家康は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道など街道の整備を行いました。
中でも特に東海道は、朝廷のある京都と政治の拠点である江戸を結ぶ重要な幹線道で、家康は、ここに宿駅をもうけ、東海道伝馬制度を実施しました。駅宿の数は次第に増え、寛永元年(1624年)に53を数えるようになりました。
東海道53次の誕生です。
以来、東海道53次は、参勤交代制度の大名行列や庶民の旅、商人の通行などによって飛躍的な発展を遂げました。
<興津宿の規模>
東海道17番目の宿場ですが、東の由比宿には2里12町(9.2km)の距離があります。その過程に親知らず子知らずの難所「薩った峠」があり、西に至る旅人は峠を越えてほっとするのが興津宿であり、東に旅する旅人は興津宿で旅装を整え、峠の難所を越え由比宿に至ります。
また、西の江尻宿には1里2町(4.2km)ですが、川や山の難所とは異なり平地であることから通過の宿場として興津宿よりも繁華性は低いといわれています。
興津宿の宿内、町並みは東西に10町55間(1.2km)人馬経門屋場1ケ所、問屋2軒、年寄4人、帳附4人、馬指5人、人足差3人、宿立人馬100人100匹
天保14年(1843)宿内家数316軒、うち本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠34軒、人数1668人(男809人女859人)でした。
[興津宿看板のつづき]
看板の左側に目を移し、右上の「清見寺」から読んでみます。
<清見寺>
白鳳時代(7世紀)天武天皇のとき、鎮護の関寺として清見ケ関とともに仏堂が建立されたのが創建として伝えられ、東海道屈指の名刹です。
徳川家康が幼少の頃、今川の人質として預けられていました。清見寺には、家康が愛した清見寺庭園(江戸初期の)や、家康手植えの臥竜梅、宋版石林先生尚書伝、梵鐘、山門、紙本墨画達磨像、猿面硯、梵字見台など数多くの指定文化財があります。その他、五百羅漢は、それぞれ違った表情をしており、島崎藤村の「桜の実の熟する時」の一節にも登場します。
琉球王国の親善使節の一員だった琉球王子は駿府で急死し、当時外交的役割を果たしていた清見寺に葬られています。平成6年には境内全域が朝鮮通信使関係史蹟に指定されるなど、歴史の宝庫になっています。
[興津宿看板のつづき]
<座漁荘>
明治大正昭和3代にわたる大政治家西園寺公望公の晩年の別邸だった座漁荘は大正8年(1919)に建てられ、以来昭和15年(1940)92歳でなくなるまで22年間の住居として利用されました。その間、唯1人の元老として天皇の諮問に奉答しています。
座漁荘には、歴代の総理や重臣の往来が激しく「西園寺詣で」「興津詣で」の言葉が生まれたほどです。
清楚な建物は、現在明治村に移され、当時の姿を留めています。跡地には記念館が建てられ、地元の公民館として利用されています。
[興津宿看板のつづき]
<興津の海と明治元勲達の別荘地>
東海道線が静岡まで単線開通したのは明治22年のことで、この時、興津駅が開業しました。またこの年には、皇太子(大正天皇)が来清し、清見寺に滞在され興津の海(清見潟)で、海水浴を楽しまれたことで、興津は全国的に有名になりました。また、明治以降には、興津は元勲達の別荘地として賑わいました。興津からの海の眺めをこよなく愛し、しばしば水口屋に投宿したのが政治家、後藤象次郎でした。
この縁がきっかけで、伊藤博文、井上馨、松方正義が別荘を建て、興津はさながら「明治の元勲達の別荘地」の様相を呈するようになりました。
[興津宿看板のつづき]
<日本3大並木・プラタナス並木>
興津駅北側にある農林水産省果樹試験場には、日本3大並木の一つ、プラタナス並木(北海道大学のポプラ並木・東京大学のイチョウ並木)があります。また、アメリカのワシントン市のポトマック河畔に植えられた桜と兄弟のウスカンザクラ、桜のお礼に送られたアメリカヤマボウシなど、貴重な樹木が多くあります。それぞれ花の時期には一般に開放されます。
[興津宿看板のつづき]
<宗像神社>
海上航海の守護神である築紫の宗像神を勧請したもので平安中期の創建と推定されます。祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)の御子沖津島姫(みこおきつひめ)ら3女神ですが、江戸時代に弁天信仰と称しています。例祭は、7月31日に行われ、神事は深湯(くがたち)及び茅の輪くぐりがおこなわれています。
[西本陣跡]
西本陣があったことを標した道標が立っている。
手塚家が旅籠の主だった。
[不動尊]
波切不動尊へ向かう踏切。
鳥居に綱が張ってあり、階段は通行止めのようだ。
[不動尊]
不動滝。
鳥居の右の道に向うとお堂が建っていてその奥に滝がある。
[不動尊]
山道をしばらく登ると「興津山 不動院」がある。
日蓮宗の寺院らしい。
[不動尊]
不動院は小さな無住の寺だ。
[茨原神社]
不動院の先に茨原神社がある。看板を読む。
所在地 興津本町字滝ノ沢753
祭神 天照大御神
合祀 猿田毘古神 椿大社
大山祇神 山神社
品陀和気命 八幡社
木花佐久夜比女命 浅間社
建御名方命 諏訪社
菅原道真公 天神社
[脇本陣水口屋]
街道へ戻るとすぐ先に脇本陣跡がある。水口屋ギャラリーとして営業している。
「興津宿脇本陣水口屋跡」と「一碧楼水口屋跡」の碑が入口に立っている。
[脇本陣水口屋]
玄関前の庭に竹が生えていて、西園寺公の謂れが書いてありました。
明治の元勲のひとりである西園寺公望が1916(大正5)年より「一碧楼水口屋」を避寒のため数回滞在したことが記録に残っています。興津を気に入り、1919(大正8)年からは清見寺近くに別荘の「座漁荘」を建て常住するようになりました。終生西園寺の私設秘書と自認していた中川小十郎は、当時台湾銀行に頭取として赴任していたものの、しばしば西園寺を訪ね、「一碧楼水口屋」(現在の鈴与株式会社研修センター)を常宿としていました。この竹は小十郎が台湾から持ち帰ってもので、日本では珍しく、しかも移植しにくいとのことでしたが、現在も元気に根を張っています。
その後京都に「立命館」を創立した中川小十郎は、趣味に竹筆作りの優れた技術を持っていました。竹を好んだ西園寺にかつて丹精に作った竹筆を贈ったことから、「竹筆老兄」とよばれたことに因んで、自ら「竹筆老夫」の雅号も使用していました。
2002年7月、立命館大学の要請により、京都の立命館大学衣笠キャンパスへこの泰山竹の株を寄贈しましたが、西園寺公望と中川小十郎と「一碧楼水口屋」とのエピソードを伝える記念となりました。
[興津宿公園]
興津の交番の脇に公園ができている。
あずまやの手前に看板が立っている。
北緯 35度3分
東経 138度31分10秒
海抜 4.793m
東の由比宿に2里12町(8kmと120m)
西の江尻宿に2里2町(8kmと20m)
<由来>
東海道53次のうち17番目の宿場として栄えた興津は、興津郷と称されていた。
地名のいわれは「宗像神社」の興津宮を当地に勧請したことに由来する。
[興津宿公園]
公園の入り口に大きな案内板が立っている。裏に説明があったので読む。
慶長6年(1601)徳川幕府は、東海道に伝馬制度を設け、興津の百姓・年寄中に伝馬朱印状を与えられる。この興津宿は江戸から数えて17番目の宿である。
参勤交代の制度が確立した寛永時代、東本陣・西本陣の2軒のほか、脇本陣を置き、旅籠も24軒という賑やかな宿場となる。
ともあれ、東西の交通の最重要路であり、甲州を結ぶ身延道の起点でもあった。
なお、由比宿より山道で親知らず子知らずの難所「薩った峠」を越え、ほっと一息つける宿場であった。
この付近一帯が興津と呼ばれたのは、の祭神(興津島姫命)がここに住居を定めたことからと言われている。また、平安末期から興津家一族(興津・小島地区を治めていた)が居住していたのでその名を地名としたとの説もある。
古代から呼び名は、奥津・沖津とも言われていた。
[宮様まんぢう]
興津宿公園の前に和菓子屋があって「宮様饅頭」が売っている。
試しに饅頭を購入し、食べてみた。くせもなくおいしくいただけました。添え書きに由来があったので読んでみます。
献上銘菓 「宮様まんぢう」の由来
東京の有名な店からお菓子をとりよせるのが、一番楽でしたのでしたが、陛下は、そういうものになれておられることが分かっていましたので、何か変わったものを差し上げたかったのです。初めの日には宮様饅頭という興津特産の小さなお菓子を差し上げました。50年程前に、或る宮様が清見寺にお泊りになった時に差し上げたもので、そのために宮様饅頭という名前ができたのです。宮様はこれが大変お気に召し、また幸い、陛下もお気に召されたのです。
創業明治30年 宮様まんじゅう本舗 潮屋
[興津宿駅]
宮様饅頭から300m進むと興津駅が左手に見える。
東海道線の典型的なローカル駅だ。
[興津宿一里塚]
駅を過ぎると間もなく、街道の民家の脇に一里塚の道標がある。
道標のほかにはなんにもない。
[身延道の碑]
身延山道の石碑。身延山は日蓮宗なので、石碑には「南無妙法蓮華経」と髭題目で書かれている。
「身延道入口」とある。
雑然と石碑が立っているので何でかな?と思っていて聞いた話によると、以前ここに「石塔寺」があって明治の初めに廃寺となり、境内の一角に寄せ集められたとのことでした。
ここから旧東海道から外れてみる。身延まで行くわけではないが、3km弱ほど身延道を進むと城跡があるというのでそこまで行ってこのセクションの到着とする。
由比に向かって東海道を進むページへはこちらをクリック。
[身延道の碑]
いろいろな古い石碑が置かれている。
解説の看板があったので読んでみる。
身延道は、身延山参詣の道であることにその名の由来があるが、もともとは駿河と甲斐を結ぶ交易路として発達してきた街道で、鎌倉期にはそのルートが開かれていたといわれている。
街道成立当初は、興津川沿いの村落を結ぶ程度の道でしかなかったものと思われるが、戦国時代になると駿河進攻をもくろむ武田信玄によって整備され、軍用路として重要な役割をはたすようになる。
また江戸時代初期には身延山参詣の道としても確立されるが、街道として最も賑わったのは幕府甲府勤番が設置され役人の往来も激しくなった江戸時代中頃からのことである。
[宗像神社]
身延道の碑から旧東海道を150mほど東に行った所に宗像神社の鳥居がある。
参道が100m続く。
[宗像神社]
神社の入口には由緒の書かれた看板が立っていた。
鎮座地 清水市興津中町554番地
祭神 奥津島比売命 狭依姫命 多岐津比売命
祭典 大祭7月31日 大祓特殊神事湯立式12月31日
歳旦祭正月元旦・祈年祭2月17日
節分祭2月3日・日待祭10月17日
看板には「御由緒」も書かれている。次の欄へ続きます。
[宗像神社]
落ち着いた社が建っている。看板の続きを読む。
御由緒
創建年代は不詳 一説に筑前(福岡県)より勧請したともいう。
昔よりの国碑に盧原(よばら)神社、俚俗(ぞく)に宗像神社とも言はれていた。当社は興津川の西にあり女体の森と言って舟人たちの灯台がわりとされていた。
興津川の水源は高瀬・西河内から出た名を浦田川と言っていたが、後に興津川と言うようになった。これは当社の祭神である奥津島姫命の名によって興津川になったとも伝えられている。また興津川の名の起こりも、大昔にこの祭神が八木に乗って大海原を渡り、この地に住居を定めたことから興津と言われるようになったとも言われている。
古くは境内も広く今の小学校新運動場一帯も社域であった。現在地は字宮の後と言うから昔の神社は東海道沿いにあったと思われ、多分高波を恐れて今の地に遷座したのであろう。
当社はもと弁才天宮・宗像弁才天・興津三女の宮・宗形大明神などど称していたが、明治元年より現社名に改称している。
祀官は代々宮川家が受け継いで明治初年に及んでいる。
当社の記録類は明治13年中宿町の大火により焼失している。
諸祈願 交通安全・商売繁盛・開運・家内安全・安産・病気平癒・学業成就・旅行安全・神前結婚式・赤ちゃん初宮詣・七五三祝・厄除・地鎮祭・新築家祓・その他諸祈願を執行します。
[宗像神社]
境内には興津の忠霊塔が建っている。
[宗像神社]
境内にはこんな社も建っています。
[宗像神社]
別の宗像神社の看板を読みます。
「ふる里の自然学習の森」
こんもりと茂るこの森は、昔、沖にこぎ出した船人たちから、よい目印としてたいせつにされたそうです。その頃は、海辺はもっと広々としてクロマツの葉が潮風にゆれていたのかも知れません。
今は道路や家並みに囲まれてしまいましたが、何本も並んで立っているクロマツは、「海辺のふる里の自然」を私たちに教えてくれているのです。
この森は、クロマツやクスノキのほかにも多くの樹木が茂っており、自然に親しむ最適の森で、「お宮の森・お寺の森百選」の一つに選ばれております。 静岡県
[身延道]
身延道に戻って、しばらく入ってみる。昭和に戻ったような商店が目につく。
今は閉じている店も多い。
[身延道]
JRの踏切の手前の路地を右に入るとすぐに「魚伊」という鮨屋があって昼食をとる。
ランチメニューの海鮮丼はコストパフォーマンスが高かった。
[身延道]
身延道へ戻り、JRの踏切を越える。
[果樹研究所]
JRの踏切を越えて線路沿いに左折したところに果樹研究所がある。以前は農林水産省果樹試験場だったが今は独立法人となっている。
ここには日本3大並木の一つ、プラタナス並木がある。
事務的な手入れしかしていないようで、北海道大学のポプラ並木や東京大学のイチョウ並木に比べて見劣りがする。
現地は立ち入り禁止になっていて、説明書きもなにもない。
観光客の訪問を拒んでいるようだ。
[身延道]
JRの踏切まで戻り身延道をしばらく真っ直ぐ北進する。
[身延道]
踏切から800mほどで東名高速のガードをくぐり、なお北進する。
[身延道]
東名高速のガードをくぐってから200mほどの路地を右に入った所に小さなお堂があって、その脇に身延道の道標があった。
以前はここが街道だったのだろうか。
[睦国神社]
今の街道に戻って間もなく左側に睦国神社がある。
[睦国神社]
睦国神社境内には立派な忠霊塔がある。
地元の遺族会が建てたと書かれている。
[身延道]
道はまだまだ真っ直ぐ続く。
なぜか「タクシーのりば」がある。どういう使い方があるのだろうか。近くに駅もバスのターミナルも見当たらない。
[身延道]
日蓮宗妙喜山法泉寺。
創建700年を越える歴史がある。300年くらい前に横山城あたりから現在の地に移って来たらしい。
いぼ取りの「いぼがみさん」で知られている。
[身延道]
法泉寺の本堂。
[身延道]
法泉寺の境内には鐘楼がある。
[身延道]
法泉寺の境内の立派な手入れの行き届いた松。
[身延道]
身延道はまだまだ真っ直ぐ進む。
このあたりになると住宅が多い。
[身延道]
東名高速道路からまた800mほどで新幹線に突き当たる。
身延道に入ってからずっと直進してきたがここで、くの字に曲がる。
新幹線の下をくぐるとすぐに国道52号線に合流する。
今は52号線が身延道と呼ばれている。
[消防学校]
新幹線の下をくぐって左に入ると消防学校がある。
学校の北側あたりを旧の身延道が通っていたとも思わせる。
[三和酒造]
旧の身延道を探しながら進むと古い塀に囲まれた建物があった。
三和酒造と書かれていた。今はやりの地酒があるのかも。
[蓮性寺]
三和酒造の南に蓮性寺がある。
[蓮性寺]
蓮性寺の本堂。
[横山城址]
蓮性寺から北上し、52号線に合流すると左手側にこんもりとした小山が見えてくる。横山城があった所だ。
400mほど国道を進んだあたりに山に向かう小道があるので入ってみると300mほどで山に突き当たる。
横山城址の看板があるので読んでみる。
この城は興津城とも呼ばれ、今川氏の重臣であった興津氏の居住した城である。興津氏は入江氏(藤原)の一族でその祖は維道(又は近綱)といわれ、「保元物語」に息津四郎「承久記」に興津左衛門の名があり、始めは興津郷の地頭、後に美作守氏清の時代には富士上方野郷の地頭も兼ねていたことが「大石寺文書」に見え、今川氏が駿河国守護として入部以来はその被官となった。
延文年間(1356〜61)興津美作守は興津館(興津本町字古御館)より本拠をここに移し、山上に城を築き、山麓に土塁を巡らせた居館を構えて城郭とした。連歌師の宗長は興津氏と親交がありしばしばこの城を訪れ、数首の歌が「宗長手記」に残されているが、大永5年(1525)の頃には「興津横山の城にて、春の雲のよこやましるしなみの上」と記されている。そして永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄の侵入により落城するまで興津氏代々の居城であった。
この城を奪った武田氏は直ちに改修に着手し、翌12年2月には完了して穴山梅雪に守らせた。そしてこの年正月今川氏真救援のため出兵した北条氏康の軍(「薩った山」に陣をとる)と、4月29日に撤退するまで90日余にわたり興津川を挟んで対戦し、武田軍に拠る横山城に北条勢が来襲したり、逆に武田勢が「薩った山」を攻めた記録も残されている。
その後武田氏は横山城に城番を置き、支城の一つとして重要視したというが、天正10年(1582)武田氏の滅亡とともに廃城となった。
[横山城址]
看板の横の方から城址へ向かう登り口がある。
[横山城址]
城を実感したくて登ってみましたが途中で道が藪に紛れてしまった。
[横山城址]
石積が所々にあったが当時のものかどうかはわからない。
[身延道]
旧の身延道はどこかがわからないが山の麓に沿って進んでみると「身延路」と書かれた道標の脇に古そうな「南無妙法蓮華経」と書かれた石碑があった。
ここが身延道だと思い先へ進むがどんどん尾根づたいに山を登っていく。
昔はどこかに下り口があったのだろうが見つからなかった。
[横山城址]
山を登ったことで奇しくも横山城址を見下ろすことができた。
国道52号線へ戻り「龍津禅寺」まで行ってみることにする。
[小島]
国道52号線に戻り横山城址の山を迂回すると小島に入ったと看板が教えてくれる。
看板を読んでみる。
この「小島」の地は、駿河と甲斐を結ぶ要路として発展し、江戸時代宝永元年(1704年)から明治元年(1867年)に至る163年間静岡県中東部唯一の大名であった小島藩(1万石 領地30カ村)の藩政をつかさどった。陣屋の所在地として重要な役割を果たして来ました。
史跡
・小島陣屋跡 北西へ約500m
・酒瓶神社 北西へ約500m
・小島藩主墓所(竜津寺)北へ約100m
・清水市指定天然記念物「ちりめんかえで」(小島小学校) 北へ約1km
この歴史にはぐくまれた伝統と、恵まれた自然を大切にして、「心豊かな住みよい郷土」にしたいと願っています。
[龍津禅寺]
臨済宗妙心寺派の古刹。
街道沿いに立派な塀に囲まれている。
[龍津禅寺]
山門は歴史のある建物。
山門に掛かっている扁額は白隠禅師の落款とのこと。
立派な寺で観光客用なのか駐車場が広い。
[龍津禅寺]
よく整備されていて気持ちがいい。
江戸時代には小島藩主の松平家の菩提寺として厚い庇護をうけた寺。
[龍津禅寺]
山号を知りたくて訪ねたら奥さんが「拈華山(ねんげざん)」と教えてくれた。
本堂の中を案内してくれた。本尊が鎮座している。
[龍津禅寺]
祭壇の上の棚に小島藩、歴代領主の位牌が並んでいる。
その両脇に閻魔像が祀られている。(以前は山門の脇に並んでいた)
13体あってそれぞれ役割が違う。
[龍津禅寺]
白隠禅師が使用したと伝えられる講台が展示してある。説明書きが置かれていたので読みます。
三四講台<清水市指定文化財>
木製 84.0×90.0×137.5
宝暦5年(1755)春に白隠は、龍津寺での開山200年遠忌に招かれ維摩会を講義するが、その際に使用したとされる講義用の椅子。
「白隠禅師使用の講台」
「宝暦5年(1755年)年初より4月末日まで当寺に滞在し維摩経を提唱せし時使用せり。参集せし者実に300名になる、と。時の小島藩主松平安房守昌信公毎日拝聴に来山せり。」
[龍津禅寺]
別室に「須弥山器(しゅみせんき)」と呼ばれる時計のようなものがあって、説明書きが添えられていた。
<須弥山器(しゅみせんき)>
この器は古代印度佛教にいうところの須弥山に型どった木製大型の組立て和時計の一種で時刻と共に天体の運行なども識り得るように製作されている。
文政7年(1824年)秋尾州野呂瀬主税介
6代隠士源直恭68歳の時の製作である。
初め駿府城にあり、後に宝台院に移り、明治10年当寺7世唐山和尚これを譲り受く。
須弥山とは仏教の世界観で世界の中心に聳え立つという高山である。妙高山、妙光山の意味で、水上が八万由句(1由句は40里)水中も8万由句という。無限大の山で、日、月がその周囲をめぐる。
7つの金山がこれを囲み、須弥山との間に7つの海を作る。7金山の外側に鹹海(カンカイ)(塩水を含める海)があり、その外周を鉄囲山という。須弥山は9山と8海とから成り建っている。
[龍津禅寺]
小島藩3代藩主の昌信公の墓所があるとのことで探してみたら山裾を少し登った所に松平と読める墓碑があった。
「従五位 楞伽院殿 圓入止観大居士」
裏には「源朝臣松平昌信行年四十三霜卒」と書かれている。
[小島陣屋跡]
龍津寺のちょっと先の小屋の壁に案内看板があった。
駿河中東部唯一の大名として庵原・有度・安倍の3郡にわたる30カ村を統治した小島藩1万石藩主瀧脇松平氏が、宝永元年(1704年)ここに陣屋を構築、以来160余年間、藩政の中心地であった。
陣屋は、小藩の城郭として古典的なものであったが、明治維新後、小島藩学問所の後身、包蒙舎小学校々舎として用いられ、昭和3年移転によりとりこわされた。
多くの歴史と誇りある伝統を秘めたこの陣屋跡がわたくしたちの精神的風土の一つとして末永く保存されることを願うものである。
[小島陣屋跡]
案内看板の絵図や道しるべ。
散策するのにわかりやすい。
[酒瓶神社]
陣屋跡へ行こうと案内看板の先の坂を登ると「酒瓶神社」の鳥居がある。
この神社の御祭神は大酒大神(大山祇神)、小酒大神(木花咲耶姫)「さかべじんじゃ」と読む。
当初は高根山頂の近くにあったが、火災にあい今の場所に遷宮したとのことです。
[小島陣屋跡]
陣屋跡の前にも案内看板がある。
看板にチラシが置いてあったのでもらって読んでみました。
<小島藩主>
(1)静岡県中東部唯一の大名
幕末における静岡県内の大名配置:西部(浜松、相良、掛川)中西部(横須賀、田中)中東部(小島)東部(沼津)
(2)徳川将軍家の一族
小島藩主瀧脇松平家は、将軍となり徳川を名乗った家康以前の三河松平家の分家(18松平家の一家)
(3)最小領有規模高の大名
「大名」とは、将軍から1万石以上拝領の武将。静岡市域の30ケ村1万石を領有した。因みに最大は加賀前田家102万2千石
<小島藩の家臣>(1)幕府の定めの半数の家臣
幕府の定めた「軍役令」では、1万石の大名の抱えるべき家臣数は235人。「安政分限帳記載の小島藩の家臣数」は、102人でこの半数に満たない。不足の一部は、百姓を武士(譜代足軽:普段は農事に従事、定期に陣屋に出仕)に取立て補った。
<藩政の本拠>
(1)小島陣屋
「陣屋」とは大名の居所・藩政の本拠であることは「城」と同義であるが、2万石以下の大名は、家格を無城主格とされ、「城」を構えることを許されず、居所は「陣屋」と称した。
宝永元年(1704)甲州への要路身延路沿いの小島村の西側台地に陣屋を構築し、明治維新までの174年間、藩政の本拠とした。
(2)国指定史跡
約5000坪の敷地に、「虎口」や「見事な石垣」など「城並みの縄張りの遺構」が良好な状態で残っている。
平成18年7月に、「江戸中期小大名の居所の在り方を解明するために、学術上重要である」との理由により「文化財保護法に基づく国史跡」に指定された。
<藩政の理念>(1)臨済の名僧白隠の教え
臨済宗の名僧「白隠慧鶴禅師」が、小島藩3代藩主松平安房守のために書いた善政指南の書「夜船閑話巻の下」を贈られ、著書に示された「治国安民の教え」を歴代藩主が治世の標(しるべ)として受け継いだ。
<百姓苦闘の歴史>(1)宝暦年間
宝暦年間(1764〜)に小島藩が実施した財政改革による増税は、百姓の生活を困窮させ、「惣百姓一揆」よ惹起、曲折の末、従前通りの貢率に戻された百姓苦闘の歴史がある。
<小島藩が育んだ文化>(1)小藩に育まれた文化
俳諧に長じ、江戸期の俳誌に記されている3代藩主と家臣団、わが国の国文学史上「黄表紙の祖」とされる100石取りの武士恋川春町(戯作者・浮世絵師、本名倉橋格)を排出するなど、小藩ながら特色ある文化が育まれた。
[小島陣屋跡]
さらに坂を登るとさきほどと同じ内容の看板が立っていて、その脇に「小島陣屋跡」の順路と書かれた案内板があった。
入ってみると開けた屋敷跡が当時の空気を感じさせてくれる。
[小島陣屋跡]
屋敷跡周辺には石垣が多く残っている。
[小島陣屋跡]
坂を石垣で区画して屋敷が並んでいたのだろう。
[小島陣屋跡]
かつての繁栄が感じられる。
[小島陣屋跡]
小島の集落が一望できる
見晴らしは良く興津川を通る人はここから監視できる。
[小島忠霊塔]
52号線を上ると但沼の交差点を越え、興津川を越える手前に小島に忠霊塔がある。
[小島忠霊塔]
小島村の戦没者を慰霊している。
説明看板を読む。
<戦没者慰霊の地>
この地は、日本が明治維新を成功させ欧米列国の脅威から、日本の自立独立を守りぬいた日清・日露の大戦さらに大東亜戦争(太平洋戦争)終結までに、国のために命を捧げた小島村(現清水区小島地区)出身者の慰霊の場所です。
美しい山河のある、ふる里小島に愛する父母を初め家族を残して、国のために命を捧げた多くの人々(276人)の上に私たちの「今」があることを永久に忘れずにこの地を大切に守り、感謝と慰霊の祈りを上げましょう。
記
御祭神 護国の神霊(小島地区の英霊)276柱
忠魂碑建立 昭和29年(庵原郡小島村)
平成18年3月吉日
清水小島地区遺族会 清水小島地区まちづくり推進委員会
[小島忠霊塔]
忠霊塔前に望月喜多司の像がある。
誰かは不明でした。
[小島忠霊塔]
「明治36年戦役記念碑」「戦役記念碑」が建っている。
[東寿院]
但沼の交差点の近くの路地を入った所に「多福山 東寿禅院」という臨済宗の寺院がある。
[東寿院]
東寿院の山門。
[東寿院]
東寿院の庫裡。
。
[東寿院]
東寿院のお堂。
。
[少林寺]
興津川の左岸を下ると立花に「百華山 少林禅寺」という臨済宗妙心寺派の寺院がある。
看板があったので読みます。
<魚籃観世音菩薩の由来>
昔から、衣食住の中で最も大切な食生活のために、数知れぬ多くの魚がその生命を人間に捧げてくれました。その魚の霊を救うと共に、人間の罪業消除してくれるのが、観音経に説かれている33観音の中の魚籃観音であります。
かつて日本人は人間に尽くしてくれたものに対して感謝する思いやりの心を持っておりました。その情操豊な心が、物のいのちを大切にする習慣を育てました。
ここに、漁業関係者を始め、趣旨に賛同された皆さんの援助により、毎日の食生活をささえている魚介類を始め、多くの鳥獣たちの霊も併せて供養し、社会の浄化を祈願して魚籃観音が建立されました。
平成2年6月3日 願主 少林寺 花園会 協賛 會見漁具製作所 興津川漁業協同組合 清水漁港振興会
[少林寺]
鐘楼もある落ち着いた寺
−コメント−
ゴールは東海道から外れて身延道を少しだけ覗いてみました。
入江城から横山城・小島陣屋までの10km強の行程でした。
室町から江戸の動乱の繁栄と爪跡が数多くありました。