− 興津 〜 由比 −
由比は由比町として静岡や清水と融合せずに独自の道を歩んで来たから昔の佇まいが随所に残っている。
第一次産業中心の町なのだ。
興津駅から薩った峠を抜けて由比までの8kmの行程。ルートによっては10km程度の行程になる。
[興津宿一里塚]
興津駅から由比へ向かうと間もなく出会う一里塚をスタート地点とします。
街道の民家の片隅にある道標だけが一里塚があったことを教えてくれる。
[身延道]
「江尻〜興津」のページはこの身延道を小島まで入って終了している。
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[興津宿]
身延道の出会いから300mで出会う国道52号線(現在の身延道)を越えると国道1号線も旧道とバイパスへつながる道と分岐する。
もちろん旧道を進む。
[興津宿]
国道52号線から500mほどで興津川に架かる橋を渡る。
[興津川]
興津川を渡っていると3両編成のJR211系とすれ違う。
東海道線の電車はあっと言う間に興津川を渡って行く。
[薩った峠への道1]
興津川の橋を渡ると街道はバイパスに合流してしまう。
合流地点に山側に入る小道があり、ここが「薩った峠」への近道となる。
旧東海道になるのかどうかは疑問があるが雰囲気はある。
「薩った」の「た」は「土」辺に「垂」という字だが使える字でないのでひらがな表記とします。
[薩った峠への道1]
小道を入るとJR線にぶつかる。
踏切もなく歩道もない。「危険ですから近くの踏切を通行して下さい」「よい子はせんろに入らない!」との看板がある。
[薩った峠への道1]
渡って良いのか躊躇するが踏み跡があるし、「よい子」でもないのでバラストを踏みしめ線路を跨いで渡る。
渡った後は線路脇を進む。
[薩った峠への道1]
個人宅に入ってしまうかのような道が続く。
[薩った峠への道1]
先へ行けるのか不安になりながら、怒られる覚悟で前へ進むと道路として利用されていて薩った峠への近道らしい。
[薩った峠入口海岸寺]
道は急坂となり、民家から離れしばらく進むと地蔵さんが並んでいる。
説明書きを読んでみる。
百体観世音は、観音山海岸寺に祭られ、開山は田重甫大和尚、元禄9年6月14日で境内156坪、建立は不詳、延宝年中宗徳院7世田外の法孫秀鉄より尼僧となる。かつては海岸庵として阿弥陀如来を祭ったが天明期火災によって焼失。
駿河国百地蔵86番、東海88ケ所49番の札所で昭和17年仏堂海岸庵を今合寺名とした。
大正4年5年の台風には打ち寄せる大波にこの部落は全滅。それにもかかわらず1人の犠牲者も出なかった事は、波除け如来、百体観世音の御利益ではないかと今でも云い伝えられている。
金色に輝く百体観世音は本堂の波除け如来を中心に左右50体づつ祭られ、境内からは駿河湾、遠くには伊豆半島を望む風光明美の場所にあり、近くには親不知子不知で知られる薩った峠がある。
[白髭神社]
海岸寺のすぐ東側を登った所に白髭神社がある。
[白髭神社]
白髭神社の社殿。
[薩った峠への道2]
薩った峠への近道は観音山海岸寺を通り過ぎ150m坂道を登ると平坦路になり、北側のルートと出会うのだ。
ここでは、海岸寺から興津川の橋まで400mほど今来た道を戻り、北側のルートを進んでみます。
興津川の橋からはJRのガードをくぐり、川の左岸に沿った道を上流へ向かう。
[薩った峠への道2]
300m程進むと「土地改良の碑」が立っている。
薩った峠まで2.3kmの道標も並んで立っている。
[薩った峠への道2]
さらに200m進むと赤いポストの脇に峠へ向かう道標が立っている。
矢印に従い右に入る。
[薩った峠への道2]
200mほど入ると「端泉寺」と書かれた石の道標がある。右に入ればすぐに寺がある。
日蓮宗の「龍光山 瑞泉寺」
[薩った峠への道2]
さらに150mほどで分岐点に出会う。どちらへ行ってもOKのようだ。
[薩った峠への道2]
真っ直ぐ進むと道は突当り、カーブミラーに道案内板が付いている。
[薩った峠への道2]
道には秋葉山の常夜灯も立っている。どこの秋葉山なのかな?
[薩った峠への道が合流]
橋から1km余の行程を進んでやっと先ほどの海岸寺経由の近道と出会う。
近道は500m程の距離なのでずいぶん遠回りになる。
江戸時代には興津川には橋が架かっていなかったので、渡しで渡るとこちらの方が近道だったのかも知れません。
[薩った峠遊歩道入口]
山に向かって緩やかな坂を登ると墓地がある。
ここが薩った峠遊歩道の起点になる。墓地の間を道が貫いている。
[薩った峠遊歩道入口]
墓地の手前の駐車場に面し、四阿が建っていて、遊歩道の説明看板が立っている。
薩った峠は、万葉の時代から岩城山と呼ばれていましたが、文治元年(1185)近くの海中から地蔵菩薩の石像が引き揚げられ、人々はこれを山に祭りました。
山の名も菩薩と同じ意味の「薩った」と呼び変えられたと伝えられていました。
薩った峠越えは、東の箱根越え、西の鈴鹿越えと並ぶ道中の難所でした。
薩った峠を越える道は江戸時代には三つありましたが、明暦元年(1655)、朝鮮通信使のために山肌を切り開いて街道としたのが「中の道」(現在地)です。
[薩った峠遊歩道]
東海自然歩道の道標。
薩った峠 0.9km 28分
JR興津駅 3.3km 60分
と書かれている。
[薩った峠遊歩道]
墓地の間を抜けると遊歩道は階段状になっていて、しばらく直登となる。
50mほどの高度を稼いだあたりで登りは終わる。
[薩った峠遊歩道]
登り終わった所に道標がある。
「清水市指定名勝 薩った峠」
「由比宿まで一里15町」
「興津宿まで17町」
[薩った峠遊歩道]
看板を読んでみます。
<薩った峠の歴史>
鎌倉時代に由比倉沢の海中から網にかかって引揚げられた薩った地蔵をこの山上にお祀りしたので、それ以後薩った山と呼ぶ。上代には岩城山と称し万葉集にも詠まれている。
(岩城山ただ超え来ませ磯崎の不来海(こぬみ)の浜にわれ立ち待たむ)
ここに道が開かれたのは1655(明暦元)年朝鮮使節の来朝を迎えるためで、それまでの東海道は、崖下の海岸を波の寄せ退く間合いを見て岩伝いに駆け抜ける「親しらず子しらず」の難所であった。
この道は大名行列も通ったので道幅は4m以上はあった。畑の奥にいまも石積みの跡がみられ、そこまでが江戸時代の道路である。
今のように海岸が通れるようになったのは、安政の大地震(1854年)で地盤が隆起し陸地が生じた結果である。
<薩った山の合戦>
薩った山は京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点で、たびたび古戦場となっている。
1351年(観応の騒乱)に足利尊氏はここに陣を張り、弟足利直義の大軍を撃破した「太平記」に見える陣場山、桜野などの地名はこれより北方の峰続きに存在する。
降って戦国時代の1568年12月、武田信玄の駿河進攻の時、今川氏真はこの山に迎え討って敗退した。その翌年の春には、今川救援のため出兵した小田原の北条氏と武田軍が3ヶ月余も対陣したが決定的な戦果はなくて武田方が軍を引いた。
[薩った峠遊歩道]
モニュメント状の案内道標。
[薩った峠遊歩道]
富士と山と海、素晴らしい富士のビューポイントだ。
外国人のカメラマンが好場所に陣取っていた。
[薩った峠遊歩道]
遊歩道は平坦になって等高線をたどる。
[薩った峠遊歩道]
フェンスが設置され整備が行き届いている。
[薩った峠遊歩道]
並木道を進む。
[薩った峠遊歩道]
「牛房坂」という石碑がある。
[薩った峠遊歩道]
薩った峠の説明案内碑が立っている。
[薩った峠遊歩道]
富士の景勝地。展望台が設置されていた。
有数のビューポイント。
[薩った峠遊歩道]
遊歩道はもう少しで終了する。
[薩った峠展望台]
700mほど駿河湾や伊豆を眺めながら進み最後に坂を登ると展望台に出る。
展望台に遊歩道を説明する大きな看板がある。
<現在地周辺について>
左手・駿河湾を望む歩道を西に進むと、眼下に由比の町、彼方に富士を望む展望台があります。
更に進めば、興津川を渡り興津駅に向かいます。
右手にある舗装道の三叉路を東に下ると、びわ畑が続く山道を下った先には、重厚な構えを残す東海道名主の館「小池邸」がある倉沢・寺尾地区です。
旧東海道の風情を残す通りを抜け、由比駅に向かいます。
3叉路を北に登れば、浜石岳に向かいます。みかん畑が続く舗装道から杉林の険しい遊歩道が続きますが、このコースは坂道も多いため、誘導標識に注意しながら進んでください。杉林の合間から見える立花池も見どころのひとつです。
浜石岳では、晴天時には広大な大パノラマをお楽しみいただけます。
[薩った峠展望台]
展望台にはいろいろな説明看板や碑が建っている。
トイレもあってのんびりハイキングができる。
[薩った峠展望台]
碑の一つは「薩った峠山之神遺跡」とある。どのような遺跡なのだろうか。
もう一つは「幸田文・文学碑」とある。
幸田文は吉永小百合の「おとうと」という映画の原作者だ。
彼女は全国各地の「崩壊地めぐり」の旅を続けたとのことで、由比地すべり管理センターがあるほど有名なこの地にも立寄ってメッセージを残している。
由比の家ある風景を見ると、その安らぎがあってほっとしたのだが、佇んで眺めていれば、ひとりでに家のうしろの傾斜面をみてしまう 草木のあるなんでもない山なのだ。
だが、そこを見ていると、なにかは知らず土よいつまでも平安であれ、と念じていた。
[薩った峠展望台]
ここからの富士は有名な富士。
素人でも絵になる写真が撮れる。
[薩った峠展望台]
展望台は駐車場を兼ねていて、興津から由比へ抜ける自動車道に接している。そこまで出ると東海自然歩道の道案内看板があり、その脇には地滑りの工事車両の注意看板も立っている。
その道の発祥は日本武尊にまで遡る。
日本武尊にゆかりの碑があるとのことなので、興津方面へ少し戻ってみる。
[駒の爪]
鬱蒼とした山の隙間を道は通っている。200mも行ったカーブにひっそりと碑があった。
日本武尊遺跡。駒の爪址。とある。
謂れの説明でもあるかな?と探したがどこにも見つからない。
ヤマトタケルが東征の際、険しい山道に馬の蹄が残ったと伝えられている。
[東勝院]
坂を600mほど興津川方面へ下って行った所に東勝院がある。
[東勝院]
薩った山東勝院の本堂。
[日本武尊遺跡]
東勝院から200m下ると石碑と祠が建っていて「日本武尊遺跡」と彫られている。
[日本武尊遺跡]
石碑の裏に謂れが彫られている。
日本武尊が東征の折 傳承によればここで馬の足を濕し沓を取替えたと云い沓掛明神社並びに井戸の跡である。
これより東に駒を進め峠の手前で踏みつけた岩に蹄が残った。困って「駒の爪」の名があり地名として今に傳えている。
峠を越えたところ鞍がずれ落ちたことから鞍佐理(鞍去り)明神社の跡である。
昭和55年 興津地区老人クラブ連合会建之
[薩った峠農道]
薩た峠の展望台まで戻り、農道のような旧道を下ると由比に出る。絵になるような富士は一時見納めになる。
この辺りは様々な果樹が生産されているので無人販売で時期の果物が楽しめる。
[由比西倉沢]
ここから農道のような旧道から普通の旧道に交わる。
街道沿いの民家が立ち並ぶ。
[西倉沢一里塚]
一里塚の跡を表す碑が立っている。
<一里塚(由比町西倉沢)>
江戸から数えて40番目の一里塚である。
江戸から凡そ160キロの距離になる。
ちなみに由比駅〜東京駅間は158.4キロである。
この一里塚は薩た峠東登り口に位置し、塚には榎が植えられていた。
<薩た峠の説明文>
戦国時代、足利尊氏が弟直義合戦せし古戦場として知られ、又東海道随一の難所「親知らず子知らず」の秘話が伝えられている。
峠は磐城山ともいい万葉集に「磐城山ただただ越えきませ磯崎のこぬみの浜にわれ立ちまたむ」と詠まれ江戸時代、安藤広重の東海道五十三次のうちここ薩た峠より見た富士山、駿河湾の景観を画いたものはあまりに有名です。
(山ノ神 薩た峠の風景は 三下り半にかきもつくせ 蜀山人)。
[由比西倉沢]
間の宿脇本陣の柏屋。
[由比西倉沢]
倉沢は旧東海道を味わえる家並みが続く。赤い郵便ポストが似合う家並み。
[西倉沢]
古い味のある建物が多い。
[宝積寺]
「ほうしゃくじ」と読むとか?。
古くからある寺のようだ。
曹洞宗「倉沢山 宝積寺」
[権現橋]
小さな沢をいくつか跨ぐ。
[鞍佐里神社]
街道脇に鳥居がある。神社は階段を登る。
説明看板を読む。
<鞍佐里神社くらさりじんじゃ>
「日本武尊が東征の途次賊の焼き打ちの野火に逢い、自ら鞍下に居して神明に念ず、其鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。依って鞍去の名あり」と伝えられ、鞍去が後に倉沢と転化したともいわれている。
鞍佐里神社は尊が野火にあった薩った峠の雲風か山中あたりに建てられていたが、後に現在地に移されたものと思われる。
神社拝殿の蟇股には尊が野火を払うところが見事に彫刻されている。
平成4年3月 由比町教育委員会
[鞍佐里神社]
街道から登った所に雰囲気のある神社が見える。
これが鞍佐里神社だろうか?
[八阪神社]
街道には神社が目につく。
[中峯神社]
さらに神社がある。看板を読む。先ほどの権現橋の所に看板があった。
寛政年間(230年位前)藤八という村人が他界し、後に天狗になって倉沢の火防守護をするといわれて藤八権現として祭られたといわれます。
安政5年6月(116年前)この辺りを襲った山津波により記録が流出し、由緒は不詳ですが、昔は富士浅間大菩薩といい、明治維新後、社殿が東・西・倉沢の中峰にあるので、中峰神社と改められました。
祭神 木花之開耶姫命
祭日 4月3・4日
戦争中は武運の神様として近郷近在からの参詣人で賑わいました。
[街道からの富士]
正面に富士が見える。
この先からは富士が見えなくなる。
[あかり博物館]
由比の寺尾地区に入ると「あかり博物館」と書かれた建物がある。
500円を出して元をとれるほど時間にゆとりがないので先を急ぐ。
この周辺は雰囲気がいいので、またの機会にのんびりと来たい。
[潮音寺]
「あかり博物館」の前の路地を山の方に入ると潮音寺の階段がある。
[潮音寺]
潮音寺は質素なお寺。
寺の建築物は無く住宅と併用の建物らしい。
[小池邸]
木の塀に囲まれた所に看板が立っていた。
(国の登録有形文化財)
小池邸
小池家は江戸時代には代々小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めていました。
名主は年貢の取立・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でももっとも重要な役割を担っていました。
この建物は、明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸・ナマコ壁・石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成10年に国の登録有形文化財に登録されました。
静岡市
[由比寺尾]
町並みは一旦途切れた後、寺尾という地区になる。
時計があしらわれた掲示板が立っていて、古い街並みになじんでいる。
[由比寺尾]
懐古調の町並みが続く。
[中の沢2号橋]
小さな沢が続き、小さな橋をいくつも渡る。
[讃徳寺]
山側の建物は日蓮宗「海上山 讃徳寺」。坂にへばり付くように建っている。
寺のまえに案内看板が立っている。
所在地 由比町寺尾上ノ屋敷549
当山は地元の長者河西六郎右衛門勝長が寛文9年(1669)自邸を提供して開基した。
開山は慈雲院日覚上人。本尊は一塔両尊四士曼荼羅
境内の七面堂には木彫極彩色の七面天女像が祀られており元禄3年(1690)阿闍梨本光坊日恕(当山5世)の背銘が記されている。当時悪疫防除のため、この地域で広く尊崇された。なお、平成6年町文化財(彫刻)に指定された。
また、正面石段をのぼり左手に谷口法悦が元禄4年に建立した大きな題目塔があり貴重である。
[宗像神社]
讃徳寺の山側へ入った所に宗像神社がある。
[由比寺尾]
旧東海道の面影が続く。
[由比寺尾]
さらに旧東海道の面影が続く。蔵も見かけることができる。
[由比寺尾]
この地区は丸のまま保存されていたみたいだ。
[由比寺尾]
旧東海道は国道1号線に合流し、寺尾と書かれた歩道橋を渡りJR由比駅へ向かう。
[由比国1]
JR由比駅へ向かう前に国道1号線を進んでみる。
[北野天満宮]
600mほど国道1号線を進むと山側に今宿の天神さんと呼ばれる神社がある。
このあたりは「今宿」という地名になっている。
[旧東海道]
先ほどの寺尾の歩道橋まで戻って由比駅へ向かうことにする。
[由比駅]
最近の標準的なローカル駅。
[由比駅]
「由比駅記念碑」と書かれた碑が立っていた。
ここに駅を作る際に多くの人の協力があったのだろう。
[由比駅]
駅前の観光看板を読む。
<由比本陣公園・東海道広重美術館>
由比宿は、お江戸日本橋を立ち、品川から数えて16番目の宿場で、本陣、脇本陣、旅籠が立ち並んでいた。
その本陣跡に江戸時代を代表する浮世絵師、歌川広重をメインテーマにした、日本でも初めての美術館を建設し、浮世絵と広重の画期的な世界を紹介。また、公園内には明治天皇御休憩の離れ「御幸亭」を再現している。 徒歩約30分(2.0km)
<浜石岳>
浜石岳の頂上は、グルッと360度の大パノラマ。目の前には雄大な富士山、駿河湾の向こうには、伊豆半島、右に清水港、三保半島、北を向けば遥か彼方に南アルプスの山麓が広がる。
また8合目には、青少年野外センターがあり、多くのキャンパーやハイキング者でにぎわう。徒歩約2時間30分(7.2km)
<薩った峠>
由比町と清水区との間、駿河湾に突き出した山の○にある峠で、昔は東海道の難所だった。
現在は、東海道本線、国道1号、東名高速道路が峠の南で重なり、富士山を背景とした写真撮影の名所として知られている。
歌川広重の東海道53次「由比」にも画かれており、当時そのままの風景を見ることができる。徒歩約45分(3.2km)
<由比漁港>
由比は、「日本一桜えびの町」。
明治27年望月平七氏と渡辺忠兵衛氏により桜えび漁法が発見され、平成6年に100周年を迎えた。これを記念し「桜えびモニュメント」が設置されている。
また、シラス漁や、アジ、ブリなどの定置網の水揚げも行われている。その他太公望に大人気の釣り場もある。徒歩約5分(0.5km)
<小池邸>
由比の西はずれの寺尾、倉沢は旧東海道の雰囲気を色濃く残している通りです。
東海道名主の館「小池邸」は、明治期に建てられたもので、当時のこの地域の街道沿いの民家の面影をよく残しています。徒歩約8分(0.8km)
<東海道由比宿交流館>
由比町の歴史に触れる場、観光の情報発信の場、また、地域や世代を越えてふれあう場として多目的に利用できる施設です。
館内には町の観光案内やミュージアムショップ、レストコーナーもあり、休憩のできる施設です。徒歩約30分(2.0km)
[駅前]
駅前といえども商店は少なく、人通りが少ないことがうかがわれる。
[最明寺]
由比駅から800m近くは標準的なローカルの町並みを進む。「町屋原」という地名になった所の路地を北へ400m入った所に最明寺がある。
看板が立っているので読みます。
<仏光山 最明寺 臨済宗妙心寺派>
所在地 由比町町屋原竹ノ尾213
鎌倉幕府執権、北条時頼の開基、寧一国師の開山とされ、寧一山は中国の生まれで、元の世祖が彼の才学を認め、密偵として西安元年(1299)日本に派遣されたが、見破られて捕えられ、伊豆修善寺へ幽閉された。のち許されて鎌倉円覚寺、建長寺を主宰した。
本尊は阿弥陀如来像で、宝冠、棟珱洛をつけた類例の少ない仏像で、鎌倉時代初期の決慶、若しくはその弟子の作と鑑定され、町文化財に指定されている。
裏の庭園は、自然美を生かした名園として知られ、庭の池には、以前は蟇蛙や森青蛙などが、交尾期になると何所からともなく無数に集まり、蛙合戦として有名であった。
平成5年3月 由比町5年3月 由比町教育委員会
[最明寺]
本堂。
本堂と観音堂の前に観世音菩薩とを説明した看板が立っているので読みます。
<南無観世音菩薩>
わたくし達が普段なにげなく、ご利益を求めて礼拝している観音さまとは、いったいどういう御方なのでしょうか。
菩薩さまであられる観音さまは「上求菩薩、下化衆生」
仏さまでありながら衆生救済のために衆生への慈悲のあまり汗と塵にまみれて現世に降りてこられる仏さまです。
観音さまのお力を必要とする人があればそれがどこであろうとお姿を、あらわされ「無垢清浄光、慧日破訪闇能伏災風火、善明照世間」そのお慈悲のけがれのない清浄な光は、あらゆる災禍をうちやぶり明るく世界を照らし出します。
私達もこの白寿観音さまのおこころに心を少しでも近付けるように努力して、いつも人々の中にいるようにして人の喜びや苦しみを自分のものとして感じ観音さまの神通力を自分自身の神通力として頂戴することができるようになります。
だれもみな平等に年をとります。差がでてくるのは、その年のとりかたです。
「知恵の長寿とは本来壱如」といいます。健康で幸せな毎日の為に心の曇り、心の「ぼけ」からまずとりのぞいていくことが大切です。心にいつも白寿観音様を念じお心を十分に理解しようと努め白寿観音さまのお心に自分自身の心を近付けていくように努力しようと発心することです。
心を澄ませて白寿観音さまの無垢洗浄のありがたい光を感得するつもりでおまいり下さい。
姿をかえられた白寿観音さまに必ずお会いになれます。
白寿観音さまにお願いして「ぼけ」を封じてもらいましょう。
合唱
<観音堂>
この観音堂は駿河の国観音霊場第24番の札所であり「物見山観音」と呼ばれており、お堂の中には明治初期に廃寺となった物見山慈眼院の(延命寺外仏堂)御本尊であった「宮殿型厨子入十一面観世音菩薩」が御本尊として祀られています。
御本尊の左側には文化11年(1814年)駿府の大仏師藤邑定慶の作で「善光寺型阿弥陀三尊」右側に「鎮守弁天財十二童子」が祀られています。
「阿弥陀三尊」は長野の「善光寺本尊」を模して作られたもので、一つの光背に「阿弥陀如来」右に「聖観音」左に「勢至菩薩」を配し下部は男女の従者を置くもので例年8月に「観音まつり」が賑やかに催されます。
[和田碑]
街道に戻り200m東へ進んだ路地を北へ入る。
山側へ上ると直ぐに和田盛夫忠魂碑と書かれた碑が閉ざされた塀に囲まれてあったが、謂われはわからない。
公爵と刻まれており、由比の地元に貢献した人なのだろう。
[豊積神社]
さらに山側へ緩やかな坂を上ると由緒ある寺社である「豊積神社」がある。看板を読む。
<豊積神社由来>
延喜式神名帳に「駿河国蘆原郡豊積社」とあり、ここの地を町屋原と称するのは、古代において物々交換の市場が営まれたところで社伝によれば第40代天武天皇の白鳳年間ここに5穀の神「豊受姫」を祀る豊積神社が創建されたと伝えている。
平安時代に入り木花開耶姫を祀る浅間信仰が広く流布され、延暦10年(791)神主の夢想神託により木花開耶姫を祭神とし、豊受姫は稲荷社として境内社に遷宮された。
延暦16年、坂上田村丸が東征の途上、豊積神社に戦勝を祈願し、その帰路戦捷報告に立寄ったのが旧正月1日とあって、ここに戦勝祝賀の宴が盛大に催され、大太鼓をくり出し3日3晩夜を徹して町内をねり歩いた、これが今に伝えられるお太鼓祭りの起源とされている。
平成14年12月 由比町教育委員会 由比町文化財保護審議会
[豊積神社]
御神木がある。看板を読む
<御神木指定証>
静岡県神社庁ご神木
審査委員会の議を経て御神木に指定します
静岡県神社庁
[地持院]
豊積神社の東隣に地持院がある。
山門脇の説明看板を読む。
<臨済宗妙心寺派 地持院について>
当山は往古、地持院山の麓か西山寺にあったと思われるが、天正年間(1573〜92)暗室和尚により現在地に移転再興された。
爾来隣接の豊積神社の別当寺として神仏事を行ってきたが、明治初年の神仏分離策により、およそ現在の寺形になった。
木尊地蔵菩薩は鎌倉時代初期、慶派(運慶・快慶の流れ)仏師の作で静岡市文化財に指定されている。
他に江戸時代日照りに苦しむ農民を救ったと言われている伝説の「代かき地獄」等がある。
永代供養塔「永安廟」や四十四面の襖絵、枯山水「彼岸庭」の寺としても知られている。
本堂は大正10年、客殿庫裏は平成7年の建立。開山暗室和尚より現住職鮎川博道和尚で27代目。
[地持院]
臨済宗「北田山 地持院」の本堂。
[桃源寺]
地持院の南に桃源寺がある。
<金谷山 桃源寺 臨済宗妙心寺派>
開基は今川の被官矢田淡路守で、矢田砦を守り砦の麓、桃源の地に寺を造営したと伝えられ、正保2年(1645)中興の祖といわれる耽源和尚が、現在地に本堂、庫裏を建て移転した。
境内に端麗な7体の観音菩薩像の石仏が並んでいる。文化12年(1815)信州高遠山室、北原佐吉の作銘が刻まれている。向かって左から不空羂索、如意輪、准胝、十一面、馬頭、聖、千手の7体で、仏像の典拠にのっとって忠実に彫刻されたもので、駿河の石造美術の創始者といわれた高遠石工の代表的作品と評され、町文化財に指定されている。
境内の大いちょう(雌木)も町指定文化財であり、山門わきの双体道祖神は、富士川以西では珍しく、貴重な一体である。
平成5年3月 由比町教育委員会
[桃源寺]
桃源寺の本堂。
[桃源寺]
桃源寺の境内に大イチョウの木がある。
[静岡銀行]
街道へ戻ると静岡銀行がある。古い街並みを意識したデザイン。
[由比宿]
街道にはこのような造りの家が多い。
[妙栄寺]
JAがある路地に入ると日蓮宗「経塚山 妙栄寺」がある。
門前にある由緒書を読む。
<経塚山妙榮寺>
宗派 日蓮宗
本尊 一塔両尊四士
守護神 鬼子母大尊神
開山 江戸時代 蓮乗院日満上人
由緒沿革
天正12年(1584)12月に蓮乗院日満上人が当境内に大乗妙典を書写した経石数百個が埋没してあるのを知り、土地の有志と話し合って石塔と草堂を建立した。これを経塚山妙榮寺と号し、自ら開山となって、身延山窪之坊に属せしめたのが当時の起源である。
当時は3間4面の辻堂にして無檀無禄、住職は名義のみであったが、17世紀観静院日徳上人が再興を図ったものの間もなく清水市安穏寺24世に転じて果たさず、由比本光寺23世日順上人、正法寺19世日請上人等が兼務したが、後に荒廃に及んだ。
明治23年篤信家 望月与平氏が堂宇を修繕して題目修行の道場とした。
翌24年長田村広野(現静岡市広野)の富田とよ女子が当堂に来て仏祖三宝に給仕していたところ、27年4月海野久太郎氏が霊験を経て難病が平癒したので出家し、当山の法灯を継承した。
その後日豊法尼と18世日久上人の心願によって現堂宇が建立された。
本堂内には日蓮宗の開祖日蓮聖人尊像のほか法華経の守護神である鬼子母尊神が奉安され、霊験あらたかなところから参詣者が絶えない。
[由比支所]
由比町当時の役場。
今は静岡市と合併して由比支所となっている。
[由比川橋]
由比川にかかる橋。
[延命寺]
橋を渡って100mほどの路地を北へ入ると寺の山門が見える。
延命寺だ。山門脇に寺の説明が書かれています。
当寺の本堂内に3点の町指定文化財の仏像あり
拝観料無量。
玄関で申込をして下さい。御朱印もあります。延命寺住職
[延命寺]
延命寺の本堂。
<松石山延命寺(浄土宗)>
由比町由比北本町315
天正7年(1579)、由比本陣職岩辺郷右衛門と加宿問屋職由比太郎左衛門の開基、良公上人の開山とされる。
伝承によると、昔この地に真言宗の東方寺があり、 その伽藍の中の延命地蔵堂を改修したのが始まりといわれる。
本堂に祀られている町指定文化財の延命地蔵菩薩立像は、総高220cmの大型の寄木造の仏像で、円頂・彫眼・白豪相をあらわし、
納衣は通肩にかけ、左手に宝珠、右手に錫丈を持ち、両足を揃えて直立する。
後世の着色のため正確な製作年代は不詳だが寛文9年(1689)由比本陣職岩辺郷右衛門による修理銘の木札が胎内にある。
平成6年3月 由比町教育委員会
[和紙錦織の館]
街道に木板の壁の建物が立っている。
[正法寺]
錦織の館の脇の路地を入ると寺の山門が見える。
正法寺だ。しょうぼうじと読む。山門脇に句碑が建っている。
<正法寺・句碑>
残り田は 十代にすぎじ 明日はただ ゆひも望まで 早苗とりてん
光山 書
[正法寺]
正法寺の本堂。
<光栄山 正法寺(日蓮宗)>
所在地 由比町由比北本町300
太平洋戦争で供出された梵鐘に、文保元年(1317)浄円の草創であるとの銘記があり、この浄円は由比郷初代の領主「由比大五郎光高」の孫といわれ、現在の由比本陣、正法寺の位置に居館を構え、近郷を統治していた。
本堂別座の霊鷲山曼陀羅は、文化4年、京都の仏師林如水作で、霊鷲山型の懸崖に、仏菩薩像が宝塔を囲んで配置され、なかでも小像の大黒天、愛染明王の台座にネズミ、竜の極小彫刻が嵌めこまれている見事な作品で、町指定文化財である。
「慶長17年奥書木版法華経」(慶長文段経)が保存されている。身延山久遠寺22世日遠上人が、慶長17年(1612)に刊行されたものである。
参道の題目塔は、貞治元年(1362、北朝年号)建立のもので、町内最古の石碑である。
平成5年3月 由比町教育委員会
[郵便局舎]
街道へ戻った所におもしろ宿場館があり、横に明治の郵便局舎がある。
江戸時代、文書の送達は飛脚便によって行われ、由比宿では現在の由比薬局の位置で朝日麟一氏によってその業が行われ、飛脚屋と呼ばれていた。
明治4年3月、郵便制度の創設により、飛脚屋は由比郵便取扱役所となり、さらに明治8年1月由比郵便局と改称された。
明治39年5月、平野義命氏が局長となり自宅に洋風の局舎を新築し、明治41年1月より郵便局を移転した。この局舎は昭和2年まで使用され、現在は平野氏宅となっている。
[脇本陣]
明治の郵便局舎と由比正雪の生家?とされる紺屋との間が脇本陣だ。
脇本陣とは、副本陣という意味です。
由比宿には脇本陣を交代でつとめた家が3軒ありました。そのうち江戸時代後期になるころ、徳田屋に代わって、つとめたのがこの羽根ノ屋とおもわれます。
この羽根ノ屋は、江尻宿脇本陣羽根ノ屋の分家で、寛政5年(1793)幕府に脇本陣を願い出たことが史料にあります。
[本陣]
脇本陣の向かいには本陣がある。
馬の水呑み場
この横の長い水路状の濠、(幅1m、東西20m)は馬の水飲み場といって、むかし大名行列の馬に水を呑ませたり、身体を洗ったりしたところです。したがって水深も、もとは60cmもありました。
屋敷の前の道路にこのような施設があるのは、他の宿場の本陣にはあまり類例を見ない珍しいものです。
[本陣]
本陣は「由比本陣公園」として整備され、「東海道由比宿交流館」「広重美術館」が建てられている。
ここは由比宿の本陣跡で屋敷の広さは約1300坪もあり、そのまま今日に伝えられました。
大名等が休泊した母屋は、表門を入った正面にありましたが、明治初年に解体されました。
向かって左手奥の日本建築は、明治天皇がご小休された離れ館を復元したもので、記念館「御幸亭」といいます。付属の庭園は「松榧園」といい、山岡鉄舟が命名したものです。
右手奥の洋館は広重美術館で、もとこの位置には土蔵が立ち並んでいました。
[本陣]
本陣公園には「御幸亭」が復元されている。
本陣記念館「御幸亭」
大名が止宿した本陣の主屋に対し、ここは離れ館で、明治天皇もご小休されましたので記念館「御幸亭」と命名しました。旧建物は老朽化しましたので出来るだけ当時の様式にのっとって復元しました。付設の茶屋は「結仁齋」と名づけました。
南側の池泉回遊式庭園は「松榧園」といい、由来は家康公お手植えの松 馬つなぎの榧があることから山岡鉄舟が命名しました。また北側の枯山水の築庭は、小堀遠州作といわれており当時の石組を修復・再整備し植木も補植して、遠州好みの趣きを伝えています。
[本陣]
「広重美術館」には多くの浮世絵が収蔵されていて期間ごとに入れ替えられている。
[由比正雪生家]
本陣前にある紺屋。由比正雪ゆかりの家だ。
由比正雪の生家は葵区宮ケ崎にあったともいわれている。
表に蔀戸を残すこの紺屋(染物屋)は、江戸時代初期より400年近く続くといわれ、屋内には土間に埋められた藍瓶等の染物用具や、天井に吊られた用心籠は火事等の時に貴重品を運び出すもので、昔の紺屋の様子を偲ぶことができる。
慶安事件で有名な由比正雪は、この紺屋の生まれといわれているところから、正雪紺屋の屋号がつけられている。
[大法寺]
広重美術館のすぐ裏にある寺。
こんもりとした木に包まれている。入口の看板を読む。
<八幡山 大法寺 臨済宗妙心寺派>
所在地 由比町由比字地景676
寺伝によれば天正13年(1585)由比助四郎光教の子光広の妻によって開創された。
開山は堅翁宗固和尚、本尊は如意輪観世音菩薩である。
ここは駿河一国33観音の25番札所、また駿河・伊豆両国33観音の横道22番札所になっている。
なお正面石段をのぼり左手には、海上安全を祈願する金毘羅堂があり、右手には、天保6年(1835)由比本陣岩邊郷衛門光端が先祖並びに両親菩提のために建立した貴重な宝きょう印塔がある。
平成19年10月 由比町教育委員会
[飯田八幡宮]
大法寺の東側に飯田八幡宮へ向う参道がある。
鳥居脇の看板を読む。
飯田八幡宮<由緒碑>
神社名 飯田八幡宮
鎮座地 静岡県庵原郡由比町由比671番地
御祭神 誉田別命(應神天皇)
相殿 山八幡大神
当社は由比氏に依り天正13年(1585)建立され祭祀されてきた。
その後下地景、矢崎、節井の八幡社が合併され更に明治4年今宿八幡平の山八幡社がここに遷座され五社八幡宮となる。
当社の創建は神護景雲2年(768)といわれ御神体の僧形八幡像は大永8歳由比出羽守光帳の子内膳大宅光教寄進の墨書がある。
正徳年間(1713)火災のため社殿と古記録を焼失す。
享保12年(1727)6月社殿を造営
明治33年(1900)5月由比習治氏は当社を村社として由比区に寄進
大正3年(1914)参道を開き石段を造成す
平成7年3月吉日建碑 由比区 氏子中
宮司 平岩 勉
[由比宿]
街道へ戻って本陣を振り返ってみる。
[由比宿]
本陣の周辺は伝統を感じさせる建物も多い。
[由比宿一里塚]
本陣から300mほど進むと左側の家の脇に一里塚の碑が立っている。
[由比宿一里塚]
碑の向い側に植樹された小さな一里塚があって案内看板が立っていたので読んでみます。
慶長9年(1604)江戸幕府により、行旅の便をはかるため、東海道・中山道・北陸道に設けられ、一里が36町、1町が60間と定められ、塚には榎や松の木が植えられた。
由比の新町の一里塚は江戸から39番目で松が植えられていたが、寛文年間(1661−71)山側の松が枯れたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺境外堂とした。
十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されている。
[由比宿]
一里塚を過ぎると由比宿も終わり、先に見える東名高速道路の下をくぐると蒲原に入る。
興津から由比の散策はここで終了する。
蒲原を散策するページへはこちらをクリック。
−コメント−
由比は旧東海道を満喫できる街道歩きができる。
多くの旅人と出会える。多くはリタイアした人たちが多いが、外国人にも何人か擦れ違った。
薩った峠で行ったり来たりしたので全10kmを越える行程となった。