− 丸子城址 −
丸子城という山城があった。
建物は残っていないがかなり良い状態で当時の状態が残っている。
10分余りで頂上まで行ける。
[丸子城址の三角山]
丸子の二軒家からバイパスを越えて大鈩不動尊へ向かう途中の右側に三角山があり、丸子城址はこの山の頂上にあった。
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[丸子城址入口]
誓願寺のすぐ近くに静風苑という煎茶道場の脇に丸子の里自然歩道に通じる小道がある。
ここが丸子城への登り口だ。
[丸子城址入口]
丸子の里自然歩道入口に案内看板がある。
[丸子城址登り口]
登り口は階段になっている。
しばらくは整備されている遊歩道だが、徐々に山道になる。
[出曲輪]
頂上に近くなると城があった頃の遺構が目につくようになる。
[出曲輪]
丸子城址出曲輪を臨む。
[空堀]
敵の攻撃を弱めるための掘の跡が今も残る。
[本丸址]
頂上には本丸が建っていたのだろう。広い空間が広がる。
[馬出曲輪]
本丸の回りには曲輪が点在する。
[空堀]
堀も至るところに掘られている。
[物見曲輪]
この曲輪は見張り小屋があったのだろうか。
[大鈩曲輪]
大鈩曲輪(おおだたらくるわ)と読む。
大鈩方面を守る曲輪。
[空堀]
ここにも掘がある。
[喰い違い虎口]
看板があったが、何の施設か判らない。
[土塁]
土を盛り上げてある。
[土塁]
ここにも土塁がある。
どのような使われ方をしていたのだろう。
[堀]
施設と施設を結ぶ所に堀が築かれている。
[平虎口]
虎口は入り口があった所なのだろうか。。
[本丸址]
周辺をを巡った後に本丸址へもう一度戻る。
[泉ケ谷方面]
本丸から泉ケ谷方面。
急な斜面なのでここから攻められることはないだろう。
[板橋]
いろいろな名称の看板を立ててくれている。
どういう施設か判らない。
[堀切]
本丸二の丸との堀切。
この堀を越えると二の丸。
[武者走りの祠]
武者走りと書かれた道の脇に祠がある。
敵の攻撃があった時の連絡通路なのだろうか。
[丸子城址本丸址]
もう一度本丸へ戻る。
[本丸]
本丸跡と書かれた看板。
どのような建物だったのだろう。
[看板]
説明看板が立っている。
丸子城の概要
丸子城は室町期の初めから、戦国動乱の終わりまで約150年間、今から400〜550年前にかけての中世の山城で、京都と鎌倉を結ぶ東海道の大動脈だったこの地区を押え駿府の西の防衛拠点として要城でした。
別名を宇津ノ谷城、三角山城ともいわれ今川、武田両戦国大名によって標高136mの三角山を中心に尾根沿いに南北約500mにわたって多くの曲輪が階段状に築かれ、今川氏の北城と武田氏の南城を連結して武田流れの山城として完成したもので、天険を巧みに利用したこの城は当時の遺構がそのまま現存することでも有名で、その保存度は県内中世山城随一で、全国的にも余り例を見ない貴重な山城遺跡であるといえます。
[升形虎口]
ここにも虎口。
[二の曲輪]
山城の場合は二の丸ではなく、二の曲輪と言うのだろうか。
同じ意味なのか、別の場所なのかもよくわからない。
[二の曲輪]
今では檜林になっている。
[三の丸]
二の曲輪の先には三の丸があるので、そちらへ向かう。
[三の丸]
この先が三の丸。
[三の曲輪の堀]
三の曲輪の堀。
[北曲輪]
北曲輪へ向かうにも堀を越える。
[北曲輪]
堀から曲輪を見上げてみる。
回りは植林されている。
[北曲輪]
休憩場が設けられている。
[東曲輪]
ここが最後の東曲輪。
遊歩道はここを越えて泉ケ谷へ続く。
[竪堀]
竪堀と書かれた看板がある。
[竪堀]
竪堀とは?
こんな場所だ。
[堀]
堀へ下りてみる。
[堀切]
ここにも看板がある。堀切と書かれている。
[武者走]
本丸の方へ戻る。
本丸の南側に武者走と書かれた看板がある。
[武者走]
歩きやすい通路。ここから出発地点まで戻ろうと思う。
−コメント−
かなり実戦的な城だったようだ。
看板がたくさんあって名称はわかったが、どのような城だったのかは想像できなかった。
城のことを勉強してから、また訪れてみたい。