− 志みず道 −

旧東海道の追分から清水湊へ続く道を「志みず道」と呼んでいる。
 寄り道しないと約2km程度のお手軽行程。



images/1126oiwake2.JPG [旧東海道の追分]
 このあたりは追分と呼ばれる所。東海道と清水港へ向かう道との追分となっているのでそう呼ばれている。
 「追分の羊羹」として親しまれている羊羹屋の脇に「しみずみち」の入口がある。
 この羊羹はモチモチして甘さも抑えたくせになる味だ。


images/1130simizumiti10.JPG [しみずみち入口]
 しみずみち入口には石柱が立っていて「是より志みづ道」と書かれている。
 道は自動車が通るにはギリギリの広さ。

images/1130simizumiti12.JPG [志みづ道]
 志みづ道に入って100mほど直進し、小学校が左側に見えると水路に沿って左へ折れる。
 この小学校は清水入江小学校。「さくらももこ」の母校とのこと。まるちゃんはここがモデル?
 志みづ道から水路に沿って右へ向い路地を静鉄線路脇まで入った所に寺があるので少し寄ってみる。

images/1130tosenji1.JPG [東泉寺]
 静鉄線路脇に臨済宗妙心寺派「端陽山 東泉寺」がある。
 

images/1130tosenji4.JPG [東泉寺]
 東泉寺の本堂。
 

images/1130simizumiti14.JPG [追分]
 小学校のブロック塀と水路に挟まれた道を進む。


images/1130simizumiti16.JPG [静岡鉄道とJRの線路]
 鉄道の線路で志みづ道は分断されている。
 踏切を渡る前に桜橋駅の近くに大きな木が並んでいる神社が見えるので寄ってみる。

images/1130simizumiti18b.JPG [村松稲荷神社]
 鳥居の横に由緒の書かれた看板が立っている。

御祭神 宇気母智命 
由緒
 戦国時代武田勝頼の家臣穴山梅雪が江尻城のが廃城となりその際現在の場所に文殊を遷したと伝えられる。以後徳川家及び近郷の入江家が文殊稲荷神社として尊崇する事を厚かったと謂われる。
配祀
 思兼命 崇徳天皇 大巳命



images/1130simizumiti18c.JPG [村松稲荷神社]
 境内に入ると小さな木の脇に保存樹という看板が立てられている。
 この木が保存されているのだろうか。

保存樹
 この樹木は清水市みどり条例により保存樹林として指定されたものです。みんなで大切に守って下さい。
樹種名  くず
 指定番号 6号 
  指定年月日 昭和54年10月1日
                清水市



images/1130simizumiti18d.JPG [村松稲荷神社]
 この神社には大きな木が多く、古い年代から繁栄してきたことが伺うことができる。


images/1130simizumiti18f.JPG [愛宕神社]
 村松稲荷神社の境内に小さな社が建てられていて、由緒の書かれた看板が立っていた。


愛宕神社の由来
 愛宕神社はその昔、王城鎮護の神として洛西(京都市右京区)愛宕山頂に総本山が有り、全国に分散祭祀されている。
 この近くでは静岡市沓谷に徳川家康が駿府城の鬼門除けとして祭祀された愛宕神社は有名である。祭神は火之迦具突智命である。このお社はそこから分霊されたものと推定されるが、残念ながら日時等は定かでない。よって祭神は火の神でありお祈り下されば火についての安全は勿論、もろもろの日常生活についての安全は保障される。又、辰年、巳年の守り神でもある。
 平成12年弥生  文殊稲荷神社  氏子会



images/1130simizumiti18g.JPG [大樟]
 愛宕神社の横に大木があり、説明書きが立っている。

静岡市天然記念物 文殊稲荷神社 大樟
 「稲荷神社」は、大正2年刊行の「静岡県安倍郡誌」に記載されているが、神社の森や大樟については、文献に垣間見ることができない。
 茶畑の中に林立する大樟は、江戸時代に東海道を往来した人々の目を引くものであり、これまで地域の人々に大切に育てられてきた。
 樹高は、30.5m、目通り径は6mを測る。
  平成18年3月31日
            静岡市教育委員会 文殊稲荷神社



images/1130simizumiti18i.JPG [大樟]
 立派な「くすのき」だ。


images/1130simizumiti18.JPG [桜橋]
 先ほどの歩行者用の踏切まで戻り、ここを渡る。
 志みず道は歩行者用なのだ。

images/1130simizumiti19.JPG [春日一丁目]
 踏切を渡って50mで南幹線へ出る。
 南幹線を渡ってから今来た道を振り返って見る。

images/1130simizumiti20.JPG [桜が丘町]
 相変わらず狭い道を100m進むと化粧舗装されているコミュニティ道路に出る。
 この道は清水商業高校から来る道だ。

images/1130simizumiti21.JPG [清水文化センター]
 清水文化センター前の北側の道。


images/1130simizumiti22.JPG [県道197]
 志みづ道は県道197号を横切る。


images/1130simizumiti23.JPG [入江岡町]
 狭い道に広い間口の塀の家が所々にある。
 江戸時代には往来が多かったことを想像しながら進む。

images/1130simizumiti48.JPG [入江岡町]
 来た道を振り返って見てみる。
 右は入江岡町、左が上清水町。

images/1130simizumiti50.JPG [入江岡町]
 マンション敷地の一角に祠があった。お地蔵さんらしい。
 軒下の看板に「交通安全」「子育地蔵」「御詠歌・・・」と書かれていて、きれいに手入れがいきとどいている。
 志みづ道はこの先で突き当たる。この道は旧東海道の江尻宿から来る県道75号(久能道)と合流する。

images/1130simizumiti49.JPG [志みづ道]
 今来た「志みづ道」を県道75号の交差点から振り返る。
 

images/1142kuno13.JPG [久能道]
 県道75号は旧東海道から「久能道」を整備したものだが、ここで「志みづ道」と合流。
 この50m先で左へ曲がる路地へと進む「志みづ道」が県道75号となる。
 「久能道」は県道から市道へと変わり真っ直ぐ進む。
 

 久能道に行くにはこちらをクリック。


images/1130simizumiti27.JPG [上清水町]
 県道となって「志みづ道」は狭い道を清水湊へと向かう。
 


images/1130simizumiti24.JPG [上清水町]
 「久能道」との交差点はかつて札の辻があったらしい。看板が設置されていたので読んでみます。

 <上清水村 札の辻跡>  上清水の旧家望月家には、徳川幕府に替って政治を行うことになった明治政府が、慶應4年(1868年、明治元年)3月、民衆の守るべきことがらを全国の町や村の「札の辻」(高札掲示場)に布告した立て札が残されています。  「壱の札」には、儒教の五倫の道(君に忠親に孝、夫に従い、目上の人を敬い、友と仲良く)という人間関係における道徳的なあり方を示し、また、身よりのない者や体の悪い者を哀れみ、人を殺したり、家を焼いたり、盗みをしてはならないなどと示しています。  「弐の札」は、久能道としみず道が交差し  人々の往来も激しかったところですから、おそらく旧幕府の時代から御触れを伝える「札の辻」のあった場所と思われます。



images/1130simizumiti28.JPG [八幡神社]
 札の辻のすぐ先に上清水八幡神社がある。
 この神社の創建は平安時代からともいわれている。

images/1130simizumiti52d.JPG [八幡神社]
 鳥居の脇に由緒書きがあった。

八幡神社の由緒
 上清水八幡神社は、堀河天皇の御代寛治元年今を巨る834年前源氏の頭領八幡太郎義家の勧請により建立せられ誉田別命応神天皇を祭神とし配社相殿に素盞鳴命を祀る八雲神社境内社として稲荷神社外3社を祀る。
 義家手植と伝えらるる大楠は欝叢として繁茂し、清水市文化財の指定を受けて居る。其の後社殿荒廃のため今を巨る295年前、御西天皇の寛文12年徳川4代将軍家綱の意を受け清水船手奉行細井左次右エ門が現存社殿を再建した。
 当時徳川家から奉納した葵定紋付の御簾は本殿に蔵置せられ細井奉行寄進の額面は拝殿正面に掲げられている。
 其の後天保年間大修理を加えたが100余年を経て破損甚しきため昭和40年8月氏子の寄付により拝殿の屋根替へ其の他の大修理を加え更に昭和46年9月氏子並崇敬者の特志寄付により燈籠こま犬階段表裏参道等を築造して境内を整備し荘厳なる社殿と緑滴る社叢は神社としての威容を誇り広く信仰崇敬の的となって居る。
    昭和46年10月  氏子総代拝記



images/1130simizumiti52e.JPG [八幡神社]
 これが義家手植と伝えらるる大楠なのだろう。


images/1130simizumiti29.JPG [上清水町]
 神戸商店と言うお菓子屋さんがある。
 道はこの先でクランク状に曲っている。


images/1130simizumiti51.JPG [上清水町]
 菓子屋の前に高い塀に囲まれた家があって、脇に懐かしいゴミ箱の跡が残されていた。
 この脇の路地を入って行くと「チャンチャン井戸」と呼ばれる井戸があるらしいので行ってみる。

images/1130simizumiti51d.JPG [チャンチャン井戸]
 路地を50mほど進むと浜田小学校の校庭が見えてくる。


images/1130simizumiti51e.JPG [チャンチャン井戸]
 浜田小学校のグラウンド前の住宅の敷地内に井戸の跡があった。

チャンチャン井戸
 このあたり(旧上清水村)は、昔から水の少ないところで、掘井戸にしても、しぶみがあって飲み水には適しませんでした。
 今からおよそ800年ほど前に、この地に流れついたひとりの旅の僧が、疲労で倒れていたのを村人が助けました。僧は恩返しにとチャンチャンかねをたたき経を唱え、村人が困っている水を探し歩きました。
 ある日、僧が示した場所をみんなで掘ると、突然その穴から水がわき出しました。喜んだ村人はこれを「チャンチャン井戸」と呼ぶようになりました。この井戸の水は清く飲み水によいため、遠くからも水くみにきました。
 「清水」という地名も、これから起こったとも伝えられています。
  昭和58年3月  浜田地区町づくり推進委員会



images/1130simizumiti53.JPG [禅叢寺]
 臨済宗妙心寺派「白華山 禅叢寺」
 「志みづ道」は禅叢寺を避けるようにクランクする。
 湊からやって来ると正面に寺の門が向いている。
 この寺には「次郎長」「白隠禅師」「山本勘介」などとかかわりがあるらしい。

images/1130simizumiti53b.JPG [禅叢寺]
 手入れのいきとどいた落ち着いた境内。


images/1130simizumiti53c.JPG [禅叢寺]
 本堂の脇に寺の由緒が書かれた板があったので読んでみます。

禅叢寺の由緒書
 白華山禅叢寺は臨済宗妙心寺派で享禄4年(1531)岡部美濃守盛長公を開基とし鎌倉建長寺雪心和尚の開山として創建された。準開山(2代)九岩和尚は織田信長の3男神戸信孝(伊勢の武将神戸具盛の養子となる)の孫であると過去帳に記されている。
 九岩和尚の実弟は神戸元久と言い、この子孫は現在もつづいている。開基岡部美濃守は岸和田藩主岡部氏の先祖で岡部町の出身、当時この地方を領有して居たらしい。岡部公の墓は神戸元久の墓のすぐ前にある。
 禅叢寺の本尊は釈迦如来で年代は不詳である。
 薬師堂の薬師如来は鎌倉時代の作で明治維新前は当山塔頭法西寺の本尊で門前にあった。
 明治初年合寺して本尊薬師如来を禅叢寺に移した。
 薬師堂の向って右に馬頭観世音左に弘法大師を祀ってある。
 毎年1月8日の初薬師縁日には戦前まで善男善女で賑った。
 当山はその名が示すように竹藪があった。これは地震や津波の害に強く避難所としての役割を果たしていた。境内には良質の水が湧く井戸があり低湿地の上町、浜清水住民の飲料水や入港船への補給水として用いられ竹桶による通水も行われた。
 山本道鬼(勘助)陣中使用の鉄笏と食駕篭(三ツ巴紋)が保存されていた。(昭和20年焼失)岡部公が軍学の師として登用したとも考えられる。
 第9代千英和尚の当時白隠禅師19才で当山衆寮に掛塔し、千英和尚の講座を開くと白隠年譜に記されている。
 以来度々当山を訪れている。第16代月汀和尚は書を能くし次郎長幼年時代手習に通ったと伝記にある。現在の諸堂は山門を除き戦災後の建築である。
    平成3年3月吉日



images/1130simizumiti53h.JPG [禅叢寺]
 本堂の裏に手入れの行き届いた庭がある。


images/1130simizumiti53i.JPG [禅叢寺]
 山門を入った所に懐かしい手こぎポンプの井戸があった。
 使ってみたら簡単に水が出てきた。

images/1130simizumiti30.JPG [上一丁目]
 禅叢寺の先の交差点を越えると上一丁目に入る。


images/1130simizumiti31.JPG images/1130simizumiti64.JPG [専念寺]
 浄土真宗大谷派「堀江山 無量寿院 専念寺」。
 塀には「旧しみず道」の看板があった。

images/1130simizumiti32.JPG [しみず道]
 専念寺を過ぎてすぐの交差点で「志みず道」は右へ曲る。
 この先の萬世橋までちょっと寄り道をしてみます。
 最初はこの橋で「志みず道」は終点だと思っていた。

images/1130simizumiti33.JPG [しみずみち]
 橋が盛り上がって見える。
 この場所は標高0m地帯なのか?

images/1130simizumiti34.JPG [萬世橋]
 萬世橋は昔の規格の橋なので狭い。
 乗用車がやっと擦れ違うことができる程度だ。

images/1130simizumiti35.JPG [萬世橋]
 橋の脇に記念碑と説明書きがあった。

 明治の中頃、清水町と対岸向島との交通のため橋は、港橋と富士見橋の二橋しかありませんでした。
 このため、上一丁目の人たちは不便を感じ、たびたび望月萬太郎清水町長に橋を架けるよう陳情しました。
 その頃、東海道鉄道が開通した後で、清水町と江尻町との交通、交流は日に日に頻繁になってきた折であったので、望月町長は巴川沿いに両町を結ぶ新道を県費補助で建設し、併せてこの新道に架橋しようと策しました。
 新道と橋は明治29年6月28日に完成、上一丁目の人たちは待望の架橋完成を喜び、橋名を望月町長の名の一字「萬」をとり、萬世橋(よろずよばし)と命名明治30年6月橋のたもとに碑を建て、望月町長の功労を永く記念することとしました。
 その後新道は(しんみち)と呼ばれ、清水町と江尻町を結ぶ重要な道路となり、両町合併(清水市誕生)のきっかけになったといわれます。  現在の橋は昭和10年3月架け替えられました。



images/1130simizumiti63.JPG [八雲神社]
 萬世橋の50m上流側に八雲神社がある。


images/1130simizumiti67.JPG [上一丁目]
 専念寺から直ぐの交差点まで戻り「志みず道」を進む。
 曲ってすぐの上一丁目自治会の看板には「旧しみず道」の札が付いている。

images/1130simizumiti68.JPG [しみず道]
 「志みず道」は間もなく県道197号線を渡る。
 先ほど清水市民会館の前で横切って来た道が曲ってここへつながっている。

images/1130simizumiti69.JPG [しみずみち]
 「志みず道」はこの車両進入禁止を南下する。
 ここの「志みず道」は県道75号線なのに一方通行なのだ

images/1130simizumiti70.JPG [しみず道]
 住宅街を進む。
 提灯がぶら下がっていて居酒屋でもあるのかと思ったら、提灯を作っている所らしい。

images/1130simizumiti71.JPG [しみず道]
 道は突当り、曲ってすぐの民家の塀に「旧しみず道」の札が付いている。


images/1130simizumiti72.JPG [しみず道]
 「志みず道」は正面の橋へは向かわず、クランクするようにまた右へ曲る。
  昔からクランクしていたのだろうか?かつてはここを直進していたのかも知れないとも思う。

images/1130simizumiti72a.JPG [しみず道]
 橋まで行ってみる。
 「ふじみばし」と書いてある。かつては富士が見えたのだろうか。

images/1130simizumiti73.JPG [しみず道]
 クランクまで戻り進む。


images/1130simizumiti74.JPG [妙生寺]
 右に寺の入口がある。
 真宗の「恒河山 妙生寺」

images/1130simizumiti75.JPG [しみず道]
 「志みず道」は神谷生花店へ突き当たる。
 花屋の横が實相寺の参道になっているので、花屋が突当りではなく寺が突当りなのかもしれない。

images/1130simizumiti76.JPG [実相寺]
 神谷生花店の横に石柱が立っている。
 「浄土宗 忠高山 蓮座院 実相寺」と彫られている。


images/1130simizumiti77.JPG [実相寺]
 門をくぐった所にある石碑は「南無阿弥陀佛」と味のある筆致で書かれている。総本山知恩院の浄土宗門主による筆によるものらしい。

images/1130simizumiti78.JPG images/1130simizumiti79.JPG [実相寺]
 本堂はハイカラな近代建築だが、境内は落ち着いた手入れが見られる。。


images/1130simizumiti80.JPG [しみず道]
 神谷生花店前で左折するとすぐに出会う商店街は「次郎長通り」と呼ばれている。


images/1130simizumiti81.JPG [次郎長通り]
 この通りの先に、次郎長の生家がある。


images/1130simizumiti81-1.JPG [次郎長通り]
 次郎長通りへ入って100mほど行った所に寺へ向う路地がある。
 日蓮宗「円教山 妙慶寺」


images/1130simizumiti81-2.JPG [次郎長通り]
 妙慶寺の本堂。


images/1130simizumiti81-3.JPG [次郎長通り]
 梵鐘のいわれが書かれた石碑があった。

梵鐘の由来
 当山は大永年間(1521〜28)領主今川義元公が開基檀越となり、息女圓教院殿妙慶日慧大姉の菩提を弔う為創建された寺で、山寺号はその法謚による。
 永禄2年(1559)村松海長寺第十世蓮華院日存上人を迎え開山とす。爾来400有余年今日に至る。
 寛政7年(1795)に鋳造し奉納された当山の半鐘は第2次大戦中の昭和15年(1940)11月23日全国の寺院に倣い御国の為に献納。鐘楼も取り壊された。
 その後この半鐘は終戦直後米国海軍軽巡洋艦トピカ号の乗組員達により戦利品としてカンザス州トピカ市在住のミミ・シボー女史が「日本の元のあった場所へ返還すべきだ」と提唱。この運動を時のダグ・ライト市長が支持され、カンザス市在住沼田英夫日本領事ウイルソントピカ市に於いてフェルカー市長主催の盛大な返還式が開催され、当寺から第37世井水尭文上人ら5名の代表が渡米。深甚なる感謝と御礼を申し上げ返還された。
 同年10月3日半鐘は無事帰山し、壇信徒の丹精により平成3年(1991)4月26日半鐘建立。その落慶式には遥々米国トピカ市よりフェルカー市長夫妻が来日。外務省関係者、宮城島市長清水市長等を始め多数の来賓の臨席を賜り壇信徒200有余名が参列。極めて意義深い喜びの式典が奉公された。
 戦争のためとはいえこの半鐘は広大な太平洋を往復し、帰山するという誠に幸運な半鐘で当山の宝であるのでここにその史実を記し宗祖、日蓮大聖人のご遺徳を崇敬し祖霊の供養は勿論、日米両国戦没者の慰霊と世界平和日米友好親善を永遠に祈念するものである。
   平成3年4月26日  圓教山 妙慶寺



images/1130simizumiti81-4.JPG [次郎長通り]
 妙慶寺の庫裡。


images/1130simizumiti81-5.JPG [次郎長通り]
 次郎長通りへ戻り50m南の路地に次郎長通り商店会の案内看板が掲けられていた。


images/1130simizumiti81-6.JPG [次郎長通り]
 この建物が次郎長の生家跡。


images/1130simizumiti81-8.JPG [次郎長通り]
 次郎長の生家跡と今来た次郎長通りを振り返る。
 生家跡には説明書きが書かれている。

<清水湊 次郎長生家博物館>
 山本長五郎は、1820年(文政3年正月元旦)この家に生れました。
 江戸時代の清水湊は、この付近の巴川河岸であり、ここ美濃輪町一帯には廻船宿30戸が軒を連ね、上流の上町、本町には廻船問屋が集まっていました。実父の木三右エ門は、自前の船で業を営む船持ち船頭でした。
 長五郎は8才で山本次郎八(米屋「甲田屋」を営む叔父)の養子となり、次郎八さんちの長五郎、つまり次郎長とあだ名されました。
 安政地震(1859年)の後に修繕したと伝えられるこの家は、表通りに面した帳場と住まい、中庭、船道具を置いた裏(屋敷)をぬけて中通りへ、さらに浜通りへと通じ、巴川を隔てた向岸には、咸臨丸壮士之墓があります。
 館内の、次郎長半生の偉業を記す資料など、清水湊の歴史の証人です。
 館長名 服部千恵子  商店名 次郎長生家
 平成11年7月 小さな博物館認定
 みなとまるごと博物館SHIMIZUの会 会長 杉山 満



images/1130simizumiti81-a.JPG [次郎長通り]
 「次郎長の生家跡」へ入ると生前の写真や道具などが展示してある。

<次郎長のあらまし>
 次郎長は当家、木三右エ門の次男として生まれたが、8才の時、母親の弟で、近所で米屋を営む山本治郎八の養子となった。治郎八のところの長五郎が「次郎長」のニックネームになり、渡世人になっては土地の名をつけて「清水次郎長」と呼ばれた。
 幼少の頃はワンパクが過ぎて持て余し者だったが、16才の時養父の訃にあい、家業に精を出すが、旅の僧に25才までの寿命と予言され常道からはみ出した。
 23才で米屋を実の姉夫婦に譲り旅に出て、その後の25年間は浪曲や映画で語られるアウトローの途を続けた。
 しかし、明治維新を機に、山岡鉄舟、榎本武揚、広瀬武夫大山陸軍大臣、小笠原長生等の偉人と交わってからは様々な社会事業に熱心に取組み、地域に多大な貢献をした。前半生は博徒であったとしても人の功罪は死して後に定まるとすれば信念をもって地域に尽くした人情家社会事業家としての晩年の次郎長は称賛に価するといえる。
 明治26年6月12日歿(1820〜1893)
 次郎長の歿後100年を記念して「次郎長翁を知る会」が結成されました。
 目的は、次郎長の後半生を探り、その有大な人間像を求め、残した功績を後の世代に語り継ごうというものです。
 会長には地元出身で長銀理事長の竹内 宏氏を迎え、市の経済界や多数の県内外の人々が入会しています。



images/1130simizumiti81-h.JPG [次郎長通り]
 次郎長の時代の家具や調度品が展示してある。

<次郎長とは>
 文政3年(1820)〜明治26年(1893)を侠客として又国士として波乱の生涯(74才)を終えた人である。
 母方の叔父に当る米問屋、甲田屋、山本治郎八の養子となった。次郎長の通称は、次郎八のところの長五郎という意味である。
 若い頃は米屋家業に精を出したが、その後は遊侠に身を投じ清水港の親分となった。
 晩年は山岡鉄舟の知遇を受け国を思う国士というか、政治家というか、実業家というか、次に掲げる数々の事跡を残している。
(一、壮士の墓)
 明治元年(1868)清水港に漂着した幕府の「咸臨丸」が官軍に砲撃され死者多数を出し、その死骸が湊に浮遊し漁民稼業に困ったが官軍の前に誰も収容しようとしないのを次郎長は仏に賊も官軍もあるものかと遺体を葬った。これが山岡鉄舟、榎本武揚の目に留り、山岡鉄舟から「精神満腹」の書が贈られ、榎本武揚から墓碑銘揮毫が寄せられ知己の仲となった。
(二、清水港の発展に海運業を創設)
 これからの港は蒸気船を導入しての海運業が必要であることを説いて廻ると共に自らが静隆社を起し蒸気船を購入して清水−横浜間の海運業を始めた。
(三、英語塾の開設)
 海外に目を向け「これからの若い者は英語ができなきあだめだと日本で最初の英語塾を開いた。
(四、富士裾野の開墾)
 これには囚人の労働力を使い模範囚の保護活動の上に広い原野を耕し勤労の喜びと家族とのふれあいの下で更生の途を開く一石二鳥の有効利用をはかった。この開墾地に次郎長町という地名として残されている。
(五、伊勢神宮から分霊した「神道天照教」建設に協力)
 日本に国の教えを築くため幕末維新の勤王家であった徳田寛量に協力して富士裾野の開墾の上に「神道天照教」を高島嘉衛門と共に建設に努力した。この「天照教」と開墾の関連は目下調査中である。
(六、相良油田の開発)
 山岡鉄舟からの手紙により「石坂周造」と会い、その頼みを聞いて相良油田の開発に協力した。
 又、清水から株主を募集して油田開発の資金協力をした。
 この石油開発に日本で最も早いものと言われている。
(七、三保の開墾)
 三保に次郎長新田という地名が残されており、ここが次郎長の開墾したところである。
(八、徳川幕臣への援助)
 徳川家臣が幕府の互解により録を離れ、生活に困っていたところを次郎長が援助した。
(九、東海道線開通への協力)
 東海道線開通に当って人夫の供給を一日2000人動員したと言われている。
(十、清水港に問屋の育成)
 幕末ごろから盛田家が清酒、味噌、醤油醸造をし、中埜家に食酢の醸造をして千石船で江戸に販売していた。11代盛田久左エ門と4代中埜又左衛門が相謀って駿河に販路を開発せんとするとき次郎長が仲介して中泉現金店を発足させた。中泉の名前は中埜の中と盛田家(屋号の山泉)の泉を取ったものである。三井物産鰍ェ清水の支店を設けるときも次郎長へ御招待状が発せられている。 
            次郎長生家



images/1130simizumiti81-i.JPG [次郎長通り]
 次郎長の生家から100mほど南に「美濃輪稲荷神社」の鳥居がある。


images/1130simizumiti81-j.JPG [次郎長通り]
 鳥居をくぐった路地の先に「美濃輪稲荷神社」がある。


images/1130simizumiti81-k.JPG [次郎長通り]
 寄進された鳥居が並んでいる。


images/1130simizumiti81-n.JPG [次郎長通り]
 「美濃輪稲荷神社」の社殿。


images/1130simizumiti81-o.JPG [次郎長通り]
 萬霊塔碑が建っていて、説明看板があるので読みます。

<万霊塔碑>
 清水市指定文化財 万霊塔碑  昭和41年4月1日市指定
 徳川時代にこのあたりを新田開発した際多数の人骨がでたので霊を慰めるため、播磨屋作佐ヱ門が石野甚右ヱ門広江に撰文を依頼し天明2年(1782年)5月に建立したもので、和文で綴った優雅な碑である。
   昭和50年1月  清水市教育委員会



images/1130simizumiti82.JPG [しみず道]
 「次郎長通り」の入口へ戻り「港橋」を見る。
 橋の手前に蔵がある旧家はかつての繁栄を伝えり社殿が破壊された。現在の社殿は明治6年(1873年)に再建されたものである。



images/1130simizumiti88.JPG [清水港船宿記念館]
 港橋に戻り渡ると信号の向こうには、何やら古い建物がある。
 次郎長が清水の波止場で開業していた船宿「末廣」の材料を使用して平成13年に復元された建物だ。
 実際に末廣があったところはこの先の「日の出ふ頭」のあたりだったらしく石碑が建てられているそうだ。

images/1130funayado3.JPG [清水港船宿記念館]
 記念館の脇に説明看板があった。

<清水次郎長の船宿 末廣>
 この建物は、明治19年、清水次郎長(山本長五郎)」が、清水の波止場に開業して、明治時代の船宿の面影がしのばれるよう復元したものです。
入場無料
 開館時間:午前10時〜午後6時
 休館日 :月曜日 年末年始(12/29〜1/3)



images/1130funayado4.JPG [清水港船宿記念館]
 石碑が2つ立っているので読んでみます。

清水港の宿りにて      愚庵詠
 我が妹をおもふものから 妹が我をこひんこころも かくやとぞしる
     伏谷如水 子孫 鶴子合掌

<次郎長清水港警固之碑>
 明治元年(1868)次郎長は、大総督府駿府町差配役伏谷如水により清水港の警固を命ぜられた。この事実は、同年5月29日付の如水家中間野隆太より次郎長宛書簡により明らかである。維新動乱の渦中、次郎長はこの大役を見事に果し、後の清水港発展に結びつけた。後世に伝えるためここにその事績を誌す。
 田口英爾撰
 平成15年3月           次郎長翁を知る会会長竹内宏書



images/1130funayado7.JPG [清水港船宿記念館]
 中に入ると土産物の売店がある。売店の女性が「よかったら2階をご覧下さい」と言ってくれた。
 階段の登り口に多くのサイン入り色紙が並べてあった。
 主な有名人は「加藤剛」「ウド鈴木」「テツandトモ」「春風亭昇太」「岡本夏生」
 残念ながら有名なサインは少ない。

images/1130funayado8.JPG [清水港船宿記念館]
 2階に登ると「ドキッ!」とした。
 人が並んでいるかと思ったら人形だった。


images/1130funayadoa.JPG [清水港船宿記念館]
 いろいろな古民具が置いてある。次郎長の英語塾の説明書きがある。

 次郎長の英語塾で英語で英語を習った話がいくつも伝わっています。
 明治7年、旧幕臣の新井幹が成就院に明徳館(後の清水小学校)という私塾を作りましたが、次郎長はその一角で英語塾を開いたそうです。
 次郎長は、自らは無学でしたが、学問の大切さは理解していました。



images/1130funayado9.JPG [清水港船宿記念館]
 この窓は味があっていい。
 夏、ここに腰掛けて夕涼みは風情があるだろう。
 欄間に額が掛かっていて、港橋から巴川の土手沿いに200m余り行った所にある「壮士の墓」の説明が書かれていた。

 幕府の咸臨丸が清水港沖で難破し、乗組員の死体が海に浮かんでいても官軍のお咎めを恐れ誰も葬る人がなかった為に、次郎長が「死んだ仏には敵も味方もない」と言いこれをねんごろに葬った。この行為に対し、山岡鉄舟は次郎長に「精神満腹」の書を贈って、これを賞した。



images/1130simizumiti90.JPG [港橋]
 記念館から港橋を眺める。



images/1130sosi2.JPG [壮士の墓]
 「壮士の墓」は小じんまりとしたスペースに収まっている。
 説明看板を読む。

 明治元年8月品川湾を脱出した徳川幕府の榎本艦隊旗下の咸臨丸は台風のため難航をつづけようやく清水港に漂着し船体修理中を追跡して来た官軍の富士山武蔵飛龍3館の襲撃を受けて春山副官を始め多数の乗組員が戦没したのは9月18日のことであった。
 その死体が海に浮き沈みしているのをだれ一人かえり見るものもなかったのを清水港の仁侠人次郎長こと山本長五郎がひぞかに収拾して向島の松の根のもとに埋葬し一基の墓を建ててその菩提を弔った。
 剣禪一如の大偉人山岡鉄舟が次郎長の義挙に感激して雄渾の筆を揮ったのがこの壮士の墓である。
     静岡県知事 齋藤壽夫書



images/1130sosi8.JPG [壮士の墓]
 墓の後ろに小屋があり、地元の集会所を兼ねた資料館になっているようだったが閉まっていた。中は見えるので、ちょっと覗いてみたが残念でした。

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−コメント−

「志みず道」の周辺には寺や神社が多くあった。
今回紹介した寺社以外にも沢山ある。