− 久能道 −
清水の入江から久能山東照宮へ向かう道。
約10km程度の行程になる。
[旧東海道]
旧東海道の入江の変則交差点から始まる。
旧東海道へ戻るにはこちらをクリック。
[久能道]
旧東海道から久能道が始まる交差点の家の塀に「久能道」の説明書きが書かれていました。
<久能街道>
江尻宿における主な交通路といえば東海道であり、次はここより分岐している久能道でした。
この道は当時より牛車が自由に往復できるほどの道巾があり、道両側には民家や商家が軒を連ねて並び−入江南小路−と呼ばれていました。
この場所に追分の志みづ道と似た道標が建っていましたが戦後いつとわなく無くなってしまいました。
このたび下水道の工事でその台石がみつかったのをきっかけに、○○氏のご理解を得てここに再建されました。
昭和61年3月吉日
[久能道]
久能道は真っ直ぐ南へと向かう。
[久能道]
100mほど南下したあたり。
ちびまるこちゃんの作者「さくらももこ」の実家がこの辺りらしい。
[淡島神社]
淡島神社。
虚空蔵尊社の石柱も立っている。
[淡島神社]
狭い淡島神社の境内に大木が生えている。
「清水市指定文化財」「天然記念物」「大クス」と書かれた木柱が立っていた。
[油木地蔵尊]
淡島神社の裏を入った所に「油木地蔵尊」の堂宇がある。看板を読む。
今から百数十年前、この近くに無縁仏(家族の無い者)が祀られて居りました。
この近くの人達がお地蔵さんを建てて、毎月23日団子を作り、供えて供養してきました。
お地蔵様の高さは2mくらいあったそうです。境内に樹高6m位の油桐(毒荏)があったので誰言うとなく油木のお地蔵さんと呼ばれるようになりました。
昭和20年このあたり一帯は戦災にあい、焼けて壊れた地蔵さんはこの所に埋め無縁仏として祀られています。
油桐とは5、6月頃に花が咲き実を結びます。昔は照明用にこの実より油を搾って使う為、山原、伊佐布などの山間地の村々で広く作られて居りましたが、明治以降電気の普及と共に栽培されなくなりました。
駿河一国百地蔵の内、第78番札所
(御詠歌)たずねてきてこれがいりえのぢぞうそん
お慈悲の御手にたすけたまうぞ
入江まちづくり推進協議会
[入江岡]
静岡鉄道の入江岡駅はこの橋に入口がある。
[入江岡]
入江岡駅の橋は入江の丘ということで見晴しがいい。富士方面と新静岡駅方面の写真を撮ってみました。
この橋の下はJRと静岡鉄道の電車が隣り合わせて走る。
[久能道]
久能道は南幹線を横切り、南へと向かう。この道は県道75号線として整備されている。
[しみず道]
南幹線から200mほど南下すると西から「しみず道」が合流し、50m重複した後に、県道75号は「しみず道」と一緒にに東へ曲がる路地へと向かう
久能道は真っ直ぐ南へ向かう。
[志みづ道]
久能道から西を向いて、合流する「志みづ道」を覗いてみる。
志みづ道に行くにはこちらをクリック。
[上清水町]
久能道と志みづ道は50m合流して南下すると県道75号は志みづ道と一緒に東へ左折して狭い道に入る。
久能道はそのまま南へと向かう。
[慶雲寺]
志みづ道と別れて50m南へ進むと「大小山 慶雲寺」がある。
臨済宗妙心寺派の寺
かなり古くから栄え多くの修行僧がいた寺らしいが、度重なる火災で今は近代的な本堂が建てられていて伝統の面影はない。
[岡町]
慶雲寺から50mで県道197号を横切っても真っ直ぐ南下する。
ここは「岡町」と「下清水町」の町名境。このあたりから道は狭くなってくる。
[光明寺]
「下清水町」側の路地を入ると突当りが光明寺。
[光明寺]
境内から山門を振り返る。
山門脇に千体佛道が建てられている。
[光明寺]
仏様は千体はいないようだった。
[久能道]
久能道へ戻ってすぐの路地を東へ入ると先にこんもりとした森が見える。
[久能道]
神社の社叢だ。
[神社]
石垣で囲まれた立派な神社だ。
[住吉神社]
この神社の前まで海岸線か水路があって、海とつながり舟が出入りしていたとも言われ、保元の乱に敗れた源(鎮西八郎)為朝が伊豆大島に流刑される際、ここから船出した伝説が残されている。
この神社は八幡神社や住吉神社が祀られていて、船玉神社とも呼ばれていて、海上安全の神様でもある。
[八幡神社]
境内の本殿と社務所の間に神社の由緒が書かれた看板が立っている。
當社は元住吉大神を奉る天智天皇時代の創建と伝ふ。
民部図帳に住吉神領300束を賜わりと伝ふ。
文治年間梶原景時の勧請により八幡神社と改名、旧清水町の産土神にて崇敬者多く御殿地の金比羅神社は元禄10年鎮座して海上安全の守護神として船舶業者崇敬厚く、昭和31年4月當社に合祀。
宝物、文治年間 鎧、寛永年間の棟札。
例祭日4月9日、10日 秋祭10月16、17日
[烈祖殿址]
社務所の横に石碑が建っていて、隣に説明看板が立っている。
烈祖殿址の碑
慶長14年(1609年)に駿府城主、徳川頼宣が父家康のために下清水に造営した御浜御殿の址を後人が偲んで嘉永7年(1854年)8月に金比羅祠の側に建てたもので、昭和40年2月に隣接の岡町八幡神社に移転されたものである。
昭和49年3月 清水市教育委員会
[船玉神社]
船玉神社が境内社として鎮座している。
[久能道]
清水市指定文化財「天然記念物」「大楠」と書かれた標柱が立っている。
八幡神社の由緒看板の後ろにあった楠は平成23年9月の台風で倒れてしまった。その際、町内中に樟脳の香りが充満した。
[久能道]
ここにも清水市指定文化財「天然記念物」「大楠」と書かれた標柱が立っている。
[福嚴寺]
また八幡神社の南へ向うとすぐに浄土宗「九品山 蓮池院 福嚴寺」がある。
[福嚴寺]
本堂は建て替えられた近代的なものだった。
[笠森稲荷神社]
福嚴寺から西へ100mほど行くと「月見里(やまなし)笠森稲荷神社」がある。看板を読む。
<月見里笠森稲荷神社>
祭神 天宇受売命 宇迦能御魂命
相殿 猿田彦命 久那斗命 速佐須良比売命
由緒
駿河国有渡郡下清水(現清水区岡町)に鎮座する此の社の創建は約1570年前第19代允恭天皇の御代13年5月15日に此地清見潟の嶋の領主郷士善四郎忠村の遠都御祖が招請して天宇受売命を奉祀し更に同28年に宇迦能御魂命他3柱の大神等を配祀したものであります。
伝承品
保元・平治の乱(1159年〜1161年)後、源為朝は伊豆大島に配流される途次、此の嶋にて海路の日和と源氏の再興を祈願し形見の石の印章と頭領の編笠を奉献し尚遡っては弘法大師(空海)が830年代に済世修行中、参籠されて、手づから彫刻した弁財天の像を奉献され夫々今猶護り伝えられています。
祭典
月次祭 偶数月の朔日
例祭 5月15日(直前の日曜日)
勤労感謝祭(新嘗祭) 11月23日
境内社
厳島社 市貴嶋姫命
少彦名社 少彦名命
[笠森稲荷神社]
拝殿までが一般の参拝場所だ。塀に囲まれて本殿には入れない。拝殿前の看板を読む
<明治天皇御製>
神垣に朝詣りして祈るかな国と民との安らかむ余を
古しへの姿のままに改めぬ神の社で貴とかりける永久へに国護ります天地の神の祀りを粗そかにすな
[笠森稲荷神社]
境内を掃除をしている女性に声をかけると門を開けてくれたので本殿の前まで入らせてもらうことができた。
[岡町]
「月見里笠森稲荷神社」の北側の路地を西へぬけると久能道へ戻る。
南へ進む。
[岡町]
この辺りは「岡町」。
[梅が岡]
港橋へ通じる道と交差して、梅が岡と南岡町の間の路地を進む。
道はますます細くなってくる。
[久能道]
住宅の塀に「久能街道」の案内板が掲げてある。
[久能道]
街道は突き当たる。
左側へ90度曲って進む。
[久能道]
道幅は車がやっと通れる程度しかない。
[南岡町]
街道はまた、すぐに右へ曲る。
[久能道]
道幅は広くなったり狭くなったりしている。
[南岡町]
久能街道は細い道を真っ直ぐ進むが、左から突き当たる2車線の広い道を200mほど行くと「清水の次郎長」で有名な臨済宗妙心寺派「幽谷山 梅陰寺」がある。
[梅陰寺]
梅陰寺は豪華な大きなお寺。観光客も多く駐車場も大型バスに対応する。
[梅陰寺]
歴史を感じさせる門も残っている。
門に札が多く貼られていて祈願する参拝者が多いことがうかがわれる。
[梅陰寺]
境内へは大人300円の拝観料が必要だ。
次郎長や子分達の墓も多く、墓石を欠いて持っていかないように注意書きが書かれている。
(梅蔭禅寺)参観規定
山内に於いて左の行為禁ずる
堂宇墓石を毀損すること、参観の方には維持冥加料として左の全員を申し受けます。
一般 高校生以上大人300円
小中学生 150円
団体(30名以上)高校生以上大人250円
小中学生 120円
参観時間 午前9時から午後4時30分
(入山は4時迄)
橋客清水次郎長及び子分の墓
お蝶弁天、銅像、遺物数十点
[新定院]
久能街道へ戻り南下するとすぐの西側に臨済宗妙心寺派「雲門山 新定院」がある。
建築中の建物も寺の施設のようだ。
[新定院]
新定院の本堂前に線香を建てる施設も立派だ。
[北矢部]
久能街道をさらに南下する。
このあたりは北矢部町という。
街道を南へ進む。また広い通りへ出るが、まだまだ直進する。
[久能道]
広い通りを見渡してみる。
この広い通りはこの先に「三光町」「八千代町」と小さな町名を通っていて300mほどで清水町に突き当たってしまう。
清水は幹線道路が突当りとなることが多い。
[村松原]
街道をまだまだ南下する。
[稲荷神社]
水路を越えた先に大きな木が生い茂っている。ここにも稲荷神社がある。
[稲荷神社]
鳥居前の由緒看板を読む
<稲荷神社>
祭神 稲倉王神
伊弉冉尊 外1柱 祭神不詳
由緒
成務天皇の時代(131年〜190年)に、一人の老人が稲をにない、この地にやってきて草庵を結び土地の人々に農業を教えました。村人はその恩に報いようと立派な家を作り、翌朝そろって住まいを訪れた所、老人はすでに立ち去って行くえがわかりませんでした。村人はいつまでも老人を敬い慕って、かつて老人が住んでいた草庵に稲倉玉という名を奉ってお祭りしました。(稲荷神社略縁起)
後宇多天皇の時代(1274年〜1287年)に、日蓮上人の弟子で海長寺を開いた日位上人が、時々この稲荷神社に参詣し、後に、社殿のうしろへ本妙庵という僧舎を建てて祭らせました。その後本妙寺が祭事を行ってきましたが、明治維新後の神佛分離によって本妙寺を離れ、別に神官を置いて祭ることになり、今日に至っています。
昭和60年1月 不二見地区まちづくり推進委員会 清水市立第四中学校郷土研究部
[久能道]
久能道は突き当たったように見えるが、細い道がさらに続く。
角に石碑が建っているが何も彫られていないので何の石碑かはわからない。
この交差点を右折し600mほど西進すると鉄舟寺がある。
鉄舟寺は久能寺が改名した寺で、この久能寺が久能山東照宮が建設される以前に久能山にあった。
今通って来た久能道は久能山へ向かうための道だった。
鉄舟寺へ行くにはこちらをクリック。
[本妙寺]
石碑のある交差点の角には寺がある。
日蓮宗の「遠因山 本妙寺」
[本妙寺]
本妙寺は民家のような質素な堂宇。清潔感があり好感が持てる。
[久能道]
本妙寺の横の細い道の先には清水不二見小学校の脇を通る。
この道が久能道かどうかはわからないが、一番近いように思う。
[久能道]
清水不二見小学校の横で道は突当ってしまうので、歩道橋の下をくぐって古くからある道にも見える細い道を行く。
[久能道]
道はまた突当る。久能道と推測する道は右へ曲り南進する。
南進する前に左へ曲り200mほど北進した所にある本能寺へ寄ってみる。
[本能寺]
本能寺は村松一丁目にある。
[本能寺]
格調高い雰囲気の寺。山門の正面にお堂がある。
[本能寺]
日蓮宗「東光山 本能寺」本堂は鉄筋の建物。
[本能寺]
山門を入ってすぐ右に新築の建物が建っている。窓もなく何の建物か不明。
[本能寺]
建物の片隅に手こぎの井戸がある。茶室なのだろうか。
[久能道]
先ほどの交差点まで戻り、南へ向うと200mほどで信号のある交差点を直進する。
ここを右に曲り800mで龍華寺へ突き当たる。
[海長寺]
交差点を越えるとすぐに海長寺の塀と本堂の屋根が見える。
[海長寺]
日蓮宗 本山「龍水山 海長寺」の山門
[海長寺]
広々した境内に本堂と大きな建物もある。
[海長寺]
鐘楼もある。
[久能道]
街道を進む。
[村松神社]
海長寺から200mほどで村松神社がある。
[村松神社]
ここ「村松」という町名の中心となる神社。
村松神社由緒
鎮座地 清水市村松4番地
1.祭神 手力雄命 誉田別命 応神天皇
2.祭典 例祭10月17日
3.境内地 約600坪
4.氏子 世帯 村松 南組400 中組500
5 由緒 村松神社は元の村社並みに村社中野神社を合併
1.八幡神社の創建は」天地天皇の御代であったころの民武図帳に見える所でこの古文書は約700年前に書かれた。
2.中野神社は総国風土記に直日神社と掲載されている神社で御穂神社、草薙神社の両明神間に位置したので中野明神と称したので古昔75石の朱印地を有したが火災により社殿其の他一切を焼失したが氏子ら宗敬者によって現在までに復興された。
宮一色、かわらけ、面等の地名は神主社人等の宅地跡が称せられて往昔の大社であったことを立証している。
3.大正4年両神社は合併して現在の名称となった。その后大東亜戦争の結果昭和28年6月2日宗教法人村松神社となり現在静岡県神社庁より10等級神社として認証されている。
昭和43年7月
[宮加三神社]
ここ「宮加三」という町名の中心となる神社。八幡神社が祀られている。
八幡神社由緒
鎮座地 清水市宮加三432番地
1.祭神 誉田別命(応神天皇)
相殿 乍宮司神社 猿田彦命
天神社 菅原道真
大棟梁神社 不詳
2.祭典 例祭10月17日
3.境内地 約10アール(壱反歩)
4.氏子 元三澤村元宮一色村100戸
5 由緒 創建は不詳なるも約800年前
豪族三澤小次郎建立と云い伝う
寛政2年9月再建
明治8年村社に列す
明治13年本殿新築
大正4年宮一色八幡神社を合併
相殿として移築
昭和58年拝殿改築本殿
昭和59年3月吉日
[宮加三神社]
神社の鳥居横にお堂と力石がある。
[久能道]
宮加三神社のすぐ先の交差点を横切る。
この交差点を右へ曲ると600mで天王山遺跡へ行くことが出来る。
[東向寺]
交差点を越えると間もなく左側に東向寺がある。
正面に見えるのは寿昌寺の本堂。
東向寺は手前を左に入ったところにある。
[東向寺]
「臨済宗妙心寺派東向寺」と彫られた石碑が立てられている。東向寺の山号は「陽澤山」
[東向寺]
静かなお寺。
[寿昌寺]
東向寺のすぐ南側に臨済宗妙心寺派の寿昌寺がある。
[寿昌寺]
久光山「寿昌寺」の本堂
[八幡神社]
寿昌寺のすぐ南に八幡神社がある。
[お堂]
八幡神社から100mも行かないうちにお堂が建っている。
久能道沿いには、手を合せる所が多くある。
[加茂神社]
200mも行くと加茂神社がある。
[久能道]
久能道は今しばらく南へ向う。
[久能道]
久能道は広くなり、狭くなって駒越に向う。
[久能道]
久能道は駒越小学校の西を通る。この先で薬局とスーパーの間を抜ける。
[駒越]
「こまごえスーパー」の前に小さなお堂が建っている。
久能道は直進するようだが、この角を右に曲って700mほど行くと迎山の忠霊塔公園へ出る。
[駒越]
お堂の横に説明看板があるので読む。
「二十三地蔵」
ここは金山通りで五軒屋路に入るところ、この地蔵様は「日切り地蔵」とも呼んで、日を限ってお祈りしました。毎月23日の夜、お念佛をとなえ、家内安全、無病息災、交通安全をお祈りした。
平成13年度 駒越まちづくり推進委員会
[駒越]
民家の前に「里程標」が立っている。
[駒越]
郵便局を右手に見た先に幹線道路に出る。
今は国道150号のバイパスが出来たので主要幹線はそちらに譲って、「いちごライン」と呼んでいる。
久能道はこの幹線道路を西進する。約4kmで久能山東照宮の入口となる。
東進すると久能道から離れて三保街道へ向う。
三保街道へ向かうにはこちらをクリック。
[久能道]
久能道はここから西へ向う。この道は国道150号。静岡の海岸沿いを浜松まで繋ぐ主要道路として今でも重要な役割を担っている。
[久能道]
国道150号を200m進んだあたりのJA集荷場前に幹の太いイチョウの木が生えている。
案内板を読む。
<大公孫樹(おおいちょう)>
静岡市指定天然記念物
大公孫樹1本
昭和37年9月17日指定
樹高 23.25m
根張 20.00m
枝廻り 4.24m
樹齢 約800年と推定される。
平成17年3月30日
清水農業協同組合
静岡市教育委員会
[久能道]
大イチョウのすぐ先に。こんもりとした小さな丘がある。
[駒越神社]
丘には神社が祀られている。鳥居脇の看板を読む。
≪駒越神社の由来≫
駒越の中浜砂には、古来、産土(うぶすな)の神(おぶつなさん)と呼ばれた宇迦能御魂神(うがのみたまのかみ)が祀られていた。
御神体は白蛇である。明治39年県条例に基き此の境内に村内の氏神5社を合併することによって神饌幣帛料供進の指定を受け、明治42年3月29日に合祀が完了した。
明治44年10月13日を以って村社駒越神社となる。
<氏神5社と御祭神>
元 殿澤2179番地の村社 天神社
祭神は菅原道真公で殿澤天満宮ともいい学問の神様である。「神階帳」には「船越天神」と記され、古代は国司郡領、戦国時代は今川、武田の尊信が厚かった。
元 北屋敷1560番地の村社 八幡神社
祭神は、15代応神天皇。幼名誉田別命。源頼朝の挙兵と共に武家の守護神となった。
元 中浜砂1181番地の無格社、宇賀神社
祭神は須佐男命の妻、豊受姫命で財宝の神、福の神とされ弁財天ともいわれ白蛇を祭る。「惣国風土記」に「高麗肥(こまごえ)の止由気(とゆけ)神社は泊瀬辺天皇(のち雄略天皇)2年巳酉7月初めて例幣を奉る」とある。
元 西浜砂1997番地の無格社、若宮神社
祭神は藤原氏の祖神で、奈良の春日神社の祭神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)の子、天押雲命(あめのおしくものみこと)である。武家の時代には武人の神となり若宮八幡大神ともいわれている。
元 別府2679番地の無格社、八幡神社
祭神は応神天皇。のち八幡大菩薩とも呼ばれる。瀬朝が別府の庄司を置き祭祀とした。
[駒越神社]
社殿。
[駒越]
小さな社も建っている。
[久能道]
駒越西のインターチェンジの様な高低差がある交差点。ここを右に曲ると鉄舟寺(旧久能寺)や龍華寺がある「久能路観音道」へ向う。
久能寺観音道へ行くにはこちらをクリック。
[駒越]
駒越西の交差点から清水市街が一望できる。
交差点は15mほどの標高があるが、清水市街のほとんどが10m以下の地域が広がっている。
[萬象寺]
臨済宗妙心寺派「冨春山 萬象寺」がある。
[萬象寺]
参道のわきに軍人の慰霊碑が並んでいる。
[萬象寺]
本堂。
[萬象寺]
六地蔵。
[萬象寺]
本堂の裏に祠があった。
[久能道]
国道150号を西へ向う。
[久能道]
久能と言えば「いちご狩り」だ。この「増」という地名の地域はいちごハウスだらけだ。
[久能道]
「増出荷組合」前というバス停の駅名。今は公民館として使用されているらしい。
[龍源寺]
通りに龍源寺と書かれた案内の石碑が立っている。
[龍源寺]
増井山(ぞうせいざん) 龍源寺という曹洞宗の寺。
和尚様から寺のいわれを聞いた。
この地は鎌倉時代のころ地元の漁師が金の観音様を海から引き揚げお堂を建てて祀っていた。
その後、江戸に入って寺を開山し、今日に至っている。ということでした。
[久能道]
旧道とバイパスの分岐点がある。左側へ行くとバイパス、海岸通りとなる。
[久能道]
旧道を選んで進むとすぐに清水区蛇塚から駿河区根古屋へ変わる。
[久能道]
間もなく久能山の参道入り口となる。
[久能道]
そこのビルを曲った所が参道。
[久能山下]
バイパスから久能山の参道を眺める。すっかり観光地の商店街が形成されている。
久能街道の静岡側へ向かうにはこちらをクリック。
東照宮をお参りするにはこちらをクリック。
−コメント−
久能街道は府中からと清水からの両方から参拝する道がある。
清水の人たちは信心が深いのか、神社と寺院と祠が至る所にあった。