− 江川町〜呉服町〜七間町〜新通り〜弥勒 −
静岡の市街地は1キロ四方の程度の狭いところに凝縮された街並みが形成されている。
中心街の呉服町通りは一部が旧東海道だった。地方都市には珍しく人通りが多い。
江川町から弥勒まで寄り道をしなければ3km弱の行程
これから昔を探して巡ってみよう−懐かしい風景を思い描いて
[江川町から呉服町方面を望む]
先ずは江川町を出発して江川町通りに沿って150メートル南西に行き呉服町を通って七間町通り、人宿町、新通りを抜けて弥勒へと向ってみよう。このルートが西へ向かう旧東海道だ。
この江川町は御幸通り、北街道、伝馬町通りがぶつかる変形5差路の交差点。
江川町は御幸通りが出来た頃無くなってしまいましたが交差点の名前で残されています。
「江川町」の由来については、いろいろな説があって定かでないが伊豆国韮山代官を勤めた江川太郎左衛門の先祖が住んでいたという説や古く川が流れていたことにちなむという説などがある。
江川町には駿府の有力商人が多く住んでいたらしいが今では紺屋町・呉服町・常磐町・両替町・御幸町などの一部になっている。
[江川町交差点]
江川町交差点を一回り見渡してみます。
正面に見える「P」のマークのビルはパーキングではなく静岡駅と一体の「パルシェ」というショッピングビル。
[江川町交差点]
駅からのこの道は「御幸通り」と呼ばれ、かつて天皇陛下が来静した際に整備された道だ。
[江川町交差点]
江川町交差点の東側に再開発ビルのベガサートがそびえている。終戦後の仮設建物が残っていたような地区であったが2005年にやっと整備された。
この建物の南を走る一方通行の道が伝馬町通りと呼ばれ、東京方面へ向かう旧東海道だ。
伝馬町は江戸時代に本陣があった宿泊地の中心。伝馬町については別に巡ってみます。
この江川町から東の伝馬町方面へ向かうページへは
こちらをクリック。
[江川町交差点]
江川町交差点の西側はNTTの「通称電電ビル」。
[呉服町スクランブル交差点]
江川町を南西へと150メートル進むとスクランブル交差点がある。ここを右に曲がって呉服町通りを行く。
呉服町はこの交差点から本通までの500メートル続く静岡の中心となる商店街。
昔は、本通方面から1ブロックずつ丁目が変わり、6ブロック目が6丁目になり、最後がこのスクランブル交差点になる。
呉服町6丁目ということで「呉6」と呼んでいた。今、呉服町を大きく2つに分けていて一丁目と二丁目だけになっているが、愛称として「呉6商店街」と呼ばれて残っている。
[早朝の呉服町]
早朝なので人通りは少ない。呉服町通りに入った所から振り返って紺屋町方面を望む。
正面突き当りが静岡駅だ。
「紺屋町」
町名は慶長年間に駿府の町割りの際に、染物師の町として整備されたことによるとされている。
読み方は「こうやまち」と呼んでいる。
[呉服町]
スクランブル交差点を再び戻って渡り、紺屋町から呉服町方面を望む写真を撮ってみた。
「呉服町」
呉服町の命名は徳川家康が駿府在城の時に、呉服商人がこの地に住んで城中の呉服の御用を勤めたことよる。
そのころから駿府城下町の中心として富豪、豪商が軒を並べていたとのこと。
[休日の呉服町]
地方都市には少ない人通りの多い中心商店街。以前に撮った写真を載せてみました。
ここの商店街も昔からの店が店主の高齢化に伴って、世代交代しつつある。
[休日の呉服町2]
呉服町通りと青葉通りの交差する場所。ここは市役所から続く公園で憩いの場となっている。
[呉服町]
市役所から呉服町商店街を見下ろしてみます。
この商店街は静岡の大火や空襲による大火の反省から昭和30年頃に戦災復興の耐火建築として3階建ての連続したビルとして整備された。
当時は再開発の先駆けとして注目を浴びた。今ではそれが足かせとなって新しい建築物への移行が進みにくい商店街となっている。
個人的には好みの商店街。人通りが落ちない理由のひとつなのかも??
[昼休みの呉服町]
この写真は平日の昼休み時間。青葉通りから呉服町通りを望む。。
[呉服町から市役所]
青葉通りの正面に市役所がそびえる。まるで市役所の庭のようだ。
ここから市役所と青葉通りの周辺を寄り道するページへは。こちらをクリック。
[呉服町札ノ辻]
この先の交差点が札ノ辻と呼ばれている。撮影地点は安心堂という静岡では有名な昔からある宝石店の前だ。なぜかこの呉服町通りには宝石店が多い。静岡人は宝石好き?
[呉服町札ノ辻]
昔このあたりに札の辻があった。このビルは札の辻ビルと称している。看板にこのビルに入っているメニューが被っている。
[呉服町札ノ辻]
看板は江戸のころの町が描かれている。説明文があるので、ちょっと読んでみよう。
「土佐光成筆 大和絵土佐派の宮廷絵師 この絵図は宝永5年(1708)頃に手越の徳願寺付近に立って、実際に駿府を一望して描かれたものと憶測されている。」
「札の辻(高札場)の由来 高札場は、幕府が法律・法度・掟書・犯罪人の罪状などを、各藩及び一般に知らしめるために建てられた。
参勤交代の折、大名や役人、又は行き交う旅人や一般町人等はこの高札により幕府の情報その他を得た。
城下町内を通る東海道の呉服町から七間町に入る辻に置かれたことから、この交差点は「札の辻」と呼ばれ、周辺を「札の辻町」といわれていた。」
[呉服町札ノ辻]
札ノ辻の看板の絵図を描いたと憶測されている手越の徳願寺付近から、今の駿府を一望してみました。
[呉服町札ノ辻の碑]
この札の辻の交差点を左に折れると七間町通り。伊勢丹側に札ノ辻の碑があった。
「七間町」は、今川時代の豪商伴野氏が七座の長として当地に屋敷を賜ったことにより、七座(七軒)の長の屋敷のある町という説と、通りの幅が七間あったという説がある。
読み方は「しちけんちょう」と呼んでいる。
[七間町通り]
札の辻にある伊勢丹前から七間町を臨む。
七間町はここから500メートル続き、映画館が並んだ所を過ぎると駒形通りに変わる。
この50m先の信号は両替町通りとの交差点。
「両替町」は、慶長13年徳川家康が京都の銀座を駿府に移し、4町を座人の宅地とし2町に銀座役所を建て金銀の両替屋を置いたことにはじまる。
その後、江戸に銀座は移された。
[七ブラ]
七間町をブラブラとウインドウショッピングをしながら映画を見に行くことを七ブラと言って人を集めようとしているが呉服町に比べると若干人通りが少ない。通りの名前も「七ブラシネマ通り」と呼んでもらいたいらしい。
写真は早朝なので人通りは少ない。日曜日には人通りも多く商店街としてのポテンシャルはまだまだ捨てがたい。
もちろん空き店舗は無い。
[七間町通りの東宝会館]
東宝会館は近代的な建物に生まれ変わって営業している。松竹もここで営業している。邦画が中心の映画館だ。
[七間町通りのピカデリーとミラノ]
オリオン座の向かいがピカデリーとミラノ。
映画館が軒を並べている。
ミラノの入り口にはかつて活躍した巨大な映写機が展示されている。
[七間町通りのオリオン座]
七間町は映画館通りとして頑張っている。斜陽となった映画館も静岡ではまだまだ客が入り、昔に比べて減ったものの健在だ。
このオリオン座は洋画を多く上映していて一番メジャーな映画館。
ただ、静岡のバスターミナルが建て替えのビルのなかにシネコンの併設が予定されていて今後の行方は不透明だ。
[七間町通りのピカデリーとミラノ]
オリオン座の向かいがピカデリーとミラノ。
映画館が軒を並べている。
駒形通りが見通せる。
[東海道は右折]
東海道は、映画館を過ぎて50mほど行ったこの交差点を右折する。このあたりはかつて寺町と称し、寺が集まっていた。昭和6年ころまではここに安立寺という寺があって七間町はここで突き当たりだった。
《寺町》
家康は駿府の町を造る際、市中に散在した寺の多くをこのあたりに集めた。そうしてできたのが寺町一〜四丁目、西寺町などである。いずれも区画整理で町名が消えてしまった。
寺を一か所に集めた理由として、万一の際、外敵の侵入を阻止するための防衛線であっただろうと言われている。かつて寺町が駿府の西南端であり、ここから先は田畑が安倍川まで広がっていた。
城の追手門からまっすぐ伸びる七間町通りは安立寺という寺で行き止まりになっていた。また、それぞれの寺の境内は広く設けられていて、一旦事あるときには兵馬を駐屯させることもできた。
[東海道の案内]
この右折場所が分かりにくいので、この店でよく聞かれるのだろう。手製の道案内が貼ってあった。
ここを曲がると人宿町だ。
[人宿町通りを臨む]
七間町通りから人宿町通りを臨み、その先は梅屋町へと続く。
人宿町は、まさに読んで字の通り宿屋街であった。駿府には古くから横田、伝馬町が宿駅として発展し、江戸時代も本陣.脇本陣はそちらに置かれていて、人宿町の方は商人宿が多かった。はじめは三丁目まであったが、戦後の区画整理により一、二丁目に改められた。
[駒形通りから七間町]
人宿町方面へ曲がる前に駒形通りへ入ってみます。振り返り七間町を見通すと正面には県庁が見える。
ここまで来ると繁華街の喧騒はなくなる。
「駒形」の由来については、昭和7年に大字川辺の一部で新設された。当初は七丁目まであったが近年の区画整理で六丁目までとなった。
七間町通りの突き当たりだった安立寺が春日町に移転して、七間町通りと駒形通りとが一直線でつながった。町名の由来は町内に鎮座する駒形神社にちなんだものである。
[駒形神社]
映画館から300mほど駒形通りを行くと左側に駒形神社がある。駒形通りは駒形神社があることから呼ばれている。
この通りは、旧東海道の新通りと並行して弥勒町まで続く商店街。
この商店街は昔ながらの商店街で、この周辺の生活を支えている。スーパーマーケットなどに負けずに人情ある商売を続けてほしい。
「駒形神社」の由来が神社の横に次のようなことが書かれていた。
駒形神社の起源は旧国幣小社駒形神社(岩手県水沢市)栗駒山(1628m)の山頂に馬の形をした岩があり、農業神として信仰され、馬を保護しその病を癒すなど一般の信仰を集めていた。
この神社もこの事情、由緒に基づいて平安中期頃、「安倍の市」と呼ばれ安倍川の流れに沿う川のべ(川野辺)の開発発展の守護神としてお祭りしたのがその始めと思われ、今から430年前の天正年間に再建されたと伝えられている。
現在の本殿拝殿は昭和63年、氏子の浄財寄進により改築された。
[人宿町]
人宿町に戻って東海道を行く。
この通りは約200mのコミュニティ道路として整備されている。
東海道として意識した小さな看板が道路脇に立っている。一つずつ読んでいってみよう。
[静岡姉様の看板]
道路脇に立っている看板の一つ目は静岡姉様人形。
姉様人形で親しまれるこの人形は、代表的な静岡の郷土玩具として知られている。
粋な姉様姿の駿河美人は、時代が変わり、スタイルが変わっても健在である。
[駿河竹千筋細工の看板]
次は「駿河竹千筋細工」。
府中名物に様々な手工芸品があげられるが、竹細工は今日でもよく知られている。
武家の手内職としてつくられた竹細工は、当地区周辺のみやげものとして人気が高かった。
「鶯のうまれる竹の細工もの」絵狂人葛飾北斎描く東海道53次府中の画である。
[人宿町通りの看板]
次は「人宿町通り」。
かつては七間町通りに接続する東海道で縦七間町通りと呼ばれた事もあり、東海道府中宿の主要路である。
庶民の木賃宿の多い旅籠町として栄えた所である。なお、本陣をはじめ武士の泊る所は、紺屋町、伝馬町付近であったようである。
[梅屋町の看板]
次は「梅屋町」。
人宿町通りと新通りの交差点のあたりが梅屋町
町名の由来は旅籠「梅屋」からきており、人宿町と同様旅籠町であった。
慶安4年、討幕を企む由井正雪ら一味は、ここ、旅籠「梅屋」に立て籠もった。しかし、計画は事前に幕府に知られ、正雪は自害、クーデターは失敗に終わった。世に言う慶安の変である。庶民の町に起きた歴史の舞台にのぼった出来事であった。
[沢屋だるま店]
旧東海道らしい、昭和を感じさせるお店だ。だるまを昔ながらの工法でコツコツと黙々と作っている姿を想像させてくれる。
[新通りへと左折する]
東海道は、ここをまた折れ曲がる。
曲がったこの通りを新通りという。
[新通り]
人宿町通りとの交差点から新通りを臨む。
ここから1kmの直線の通りとなる。
新通という町名は、慶長14年駿府城下の町割りの際、従来の東海道筋であった本通り筋に対し新たに道幅5間の新通りが設けられ東海道の往還となったことに由来する。
1丁目は旅籠町、2丁目は新通大工町・新大工町、3・4丁目は馬喰(ばくろ)町、5・6丁目は笠屋町、7丁目は大鋸(おおが)町とも称された。
[新通り]
ここから新通1丁目となり道幅が広がる。
左から来る道は常磐公園につながる駿河町通りと言う。
[あなご屋]
あなご屋はウナギを食べさせてくれる料亭。
江戸時代の文久2年からやっていた料亭で、以前は能舞台もあって格調がある建物だったが改築して外から見る限りでは特徴のない店になってしまった。
[田尻屋]
田尻屋はわさび漬の元祖で、創業以来240年を数える老舗という。当時は、徳川9代将軍家重の時代で、初代田尻屋利助が始めたとのこと。
駿府城の中堀の脇に「駿府城わさびの碑」が建っている。
わさびは370年前わが国で始めて安倍川上流有東木で栽培された。わさび漬は今から200余年前駿府のわさび商人によって初めて考案され幾多の人に受け継がれて改良進歩した。
特に明治以後交通機関の発達により長足の発達を遂げたのである。
ここに明治百年を期し先覚者の偉業を偲び感謝の誠を捧げてこの碑を建つ。
[0362新通り・秋葉神社]
神社は2階にあって1階が有効利用されている。
この神社の交差点を北西方面に一里塚跡があるというので寄り道してみます。
80mほど行くと4車線の本通りへ出る。
本通り周辺は別ページを作っています。そちらへ向かうページへはこちらをクリック。
[一里塚]
仏壇屋の近くに隠れるように一里塚の碑が建っている。
内容を読んでみます。
一里塚は、江戸時代、徳川幕府が東海道をはじめ主要官道の里程を知らせるため、1里(約4キロ)ごとに直径7〜8メートルの土饅頭を盛り、榎などの記を植えて旅人の目印にしたものである。
慶長9年(1604)江戸(東京)の日本橋を 東海道、東山道(中部や関東の地方)、北陸道の3街道に一里塚を設けた。しかし、現在では、交通機関の発達や道路拡幅などによって大部分の一里塚が破壊され、残っているものは少ない。
一里塚は市内長沼、本通八丁目、丸子、宇津ノ谷の4か所に設置されたが、いずれも原形をとどめていない。
本通の一里塚はその位置を変え、ここに移動してきたものである。
現在、県内に残っている三島市錦田の一里塚は、日本橋から28里の地点に築かれたもので、大正11年、国の史跡に指定されているほどである。
[一里塚]
一里塚から本通りを見渡す。
本通は東海道の意味である。通町とも呼ばれた。現在十丁目まであり、八丁目には一里塚跡がある。
慶長14年(1609)の町割りで「新通」が設けられたため、本通は東海道の裏街道的存在となっていたが、昭和初期に安倍川橋に直結するよう路線変更がなされ、300年余りを経て再び「本通」的な機能をとりもどした。
[0364新通り・伏見稲荷]
新通りへ戻りしばらく行くと駿河伏見稲荷神社があります。その先の交差点を左折し静岡県地震防災センター横にある小さな稲荷神社へ寄り道してみます。
[双街の碑1]
しあわせ通りの交差点を左折して東海道から外れてちょっと寄り道。
新通りから100mほど行くと静岡県防災センターがある。静岡は昭和50年ころに東海地震が明日にでも起きるかもしれないと言われて防災に力を入れてきています。
その防災センターの裏に小さな稲荷神社があり、双街の碑が建てられています。
[双街の碑]
双街の碑の説明文がありましたので読んでみました。
双街の碑由来が書いてあったので読んでみます。
双街とは、2丁の街という意味である。
江戸時代の初期、長い戦国時代を経て住民の気持ちがすさんでいるころ、この駿府のまちでも男女野合の悪習が盛んに行われていた。
徳川家康は晩年大御所として駿府城で余生をおくったが、その頃の駿府は江戸に次ぐ都として繁栄を極めた。
家康は住民の気持ちを和らげ、またこの悪習を正すため揚屋町ほか、7ケ町にこれを区画し、京都、伏見から遊郭を誘致したが、元和元年間に5ケ町を江戸吉原に移した。
その後、この2町の遊郭は昭和の時代まで続き、昭和32年法律により廃止された。
この碑は、この街に働いた女性たちの労に思いをはせ、双街の由来を記すため明治27年11月に当時の静岡県知事小松原英太郎氏の題字により、地元の人達が建立したものである。
[新通りはこの先で終わり]
新通りへ戻って少し進むと川越町へ入る。
正面に弥勒が見えてきた。
[府中西見附]
新通りの川越町へ入ったところからいままで来た新通りを振り返る。
このあたりに府中宿の宿境となる府中西見附があった。東見附は横田にあった。
新通二丁目・川越町しんとおりかわごしちょう
江戸時代の新通り沿いには新通一〜七丁目と新通川越町とが順に並んでいた。
これらは明治22年市制施行時に市域となり、昭和41、45年の住居表示により、二か町になり、新通川越町も区域をやや変えてただの川越町となった。
現在の新通二丁目は旧の六、七丁目を母体にしている。
新通は徳川家康が駿府の街づくりをする際、新規に設けた本街道で、街道沿いの町々は職業本位で構成されていたと言われている。
川越町は安倍川の川越人足たちが住んだ町で、河原町などとも俗称した。
駿府の川越町は新通のほか、本通沿いに本通川越町、堤添川越町とあわせて三か町あり、安倍川渡河にいかに多くの人手を要したかを物語っている。
[高札場]
弥勒へ入ったところから駿府城方面を新通りを振り返る。
このあたりには高札場が立っていたらしい。
弥勒は、安倍川越えで駿府に出入りすみ際の出入り口である。慶安年間(1648〜1652)山伏の弥勒院という者があった。還俗して源右衛門と名乗り、安倍川の川岸で餅を売った。これが名物「安倍川餅」のはじめといい、店を「みろく茶屋」といった。のち源右衛門は駿府町奉行に願って、その付近を開発して弥勒町を設けたという。この弥勒町はのち大里村(昭和4年=1929、市に合併)に属して大字弥勒となり、昭和7年(1932)これを母体に大字安倍川、川辺の一部を加えて弥勒一〜二丁目を設けた。これが昭和41、2年(1966、7)の住居表示で整備されて現在の弥勒一、二丁目となった。
[弥勒川会所跡]
弥勒の交番の脇に川会所跡の説明看板が立っていた。
読んでみます。
江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがある。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。
川越人夫による渡しでは、小型川越えの興津川、中型川越えの安倍川、大型川越えの大井川などが、いずれも代表的な存在であった。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督する所が川会所であった。
安倍川にも両岸に川会所があった。ここには、毎日川役人が勤務して川越人夫を指示したり、川越えの賃銭の取扱いをするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当たっていた。
この川会所は、間口6間、奥行4間半であり、5人位の裃を着た役人が詰めていたとされている。
ちなみに、安倍川の川越え賃は、脇下から乳通りまでは一人64文、へそ下は55文、へそまでは48文、へそ下は46文、股までは28文、股下は18文、ひざ下は16文であったといわれている。
[弥勒]
弥勒公園前から今来た新通りを振り返る。
[弥勒案内図]
この案内図は弥勒公園に立っている。
周辺には名所がひしめいているのがわかる。
[0389弥勒町由来]
江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で「正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を「安倍川餅」という。これが「弥勒町」の名の由来となった。」と記されている。
十返舎一九の「東海道膝栗毛」には「ほどなく弥勒といえるにいたる、ここは名におふ安べ川もちの名物にて、両側の茶屋いづれも綺麗に花やかなり」と著され「弥勒茶屋」と呼ばれた茶店の賑わい振りをうかがうことができます。
弥勒町は、駿府の城下町の西の見附の前面に位置し、駿府96ケ町に準じた扱いを受けていました。
近世の安倍川は、歩行渡(かちわたり)の川として川越のための川会所が設けられていました。しかし、明治4年の渡船と仮橋、明治7年の宮崎総五の手になる安水橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変わりと共に、弥勒の町も大きく変化を遂げてきました。
弥勒の町には、近世以降の歴史の中で「由井正雪墓址碑」、昭和初めの小学4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」、溺死や劔難者のための「慰霊碑」、幕末から明治にかけて広く社会に尽くした宮崎総五の篤行を称える「頌得の碑」と「安倍川架橋橋の碑」をはじめ、近世以降の弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。
[0389弥勒道標]
丸子宿の宿境まで16町(1.8km)
府中宿の宿境まで2町(0.2km)と書かれていた。
[明治天皇小休止跡]
明治天皇の来静の際にこちらで休まれた。
当時には大変な騒ぎになったんだろう。
[由比正雪墓]
《臨終山正念寺》
もと弥勒町にあった寺で、安倍川原の刑場で処刑された囚人を葬る寺で、慶安の変でさらし首となった由井(比)正雪の首塚もここにあった。その正雪に剣術を学んで親の仇を討ったという、宮城野・信夫の姉妹が正雪の菩提を弔うために奉納したといわれていた十三仏があったが、明治初年(1870頃)廃寺となったので、本寺である横内町の来迎院に移された。
また正雪の首塚は寺町の菩提樹院に移り、戦後その寺の移転に伴い、現在は沓谷花園町の同寺にある。
いま弥勒公園に「由井正雪公之墓趾」という石碑が建っているが、そこが正念寺の跡であろう。碑は昭和26年(1952)7月、静岡西部発展会の人々によって建てられた。
[0385カブキ門]
この冠木門は、静岡市制100周年記念事業として開催された静岡「葵」博覧会場に建てられたものです。
東海道宿駅制度400年を記念して、府中宿西の見附に近いこの場所に移築したものです。
冠木門は、寺社や宿場の出入口、関所などに広く用いられたものです。
[0382義夫の碑]
この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。
元文3年(1738)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金150両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。
しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津ノ谷で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。
旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落とし主に帰すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。
そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。
昭和4年(1929)、和歌山県と静岡県の学童や融資の人々の募金によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。
碑文 難に臨まずんば忠臣の志を知らず。(府臨難不見忠臣志)
宝に臨まずんば義士の心を知らず。(府臨財不知義士心)
[安倍川架橋の碑]
石碑の横の立て看板を読んでみます。
この石碑は、宮崎総五氏が社会事業のためと、明治7年に多額の私財を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治41年に建てられたものです。
[新通りと本通りが合流]
ここで東海道は新通りと本通りが合流して弥勒橋を渡ることになる。
[弥勒石部屋]
弥勒は安倍川餅の発祥の地。
石部屋は古くから営業している安倍川もち屋だ。
安倍川もちと言えば、きなこと砂糖でまぶした餅で美味しいが、この店で出してくれる「からみもち」が特に美味しい。
「からみ」は大根ではなく静岡名産のワサビでゆでた餅をからめて食べることから、お土産にできないのが残念だ。
[安倍川もち]
安倍川もちの土産物屋さんが何軒か並んでいる。
[弥勒橋]
安倍川橋、通称「みろくばし」として親しまれてきた。
《安倍川橋》
弥勒の素封家宮崎総五が明治7年(1874)に造った木橋安水橋がその前身で、幅2間(約4メートル)長さ280間(630メートル)の賃取橋であった。橋銭は一人4厘、馬車4銭5厘、工費7千円で償還後は無料にする予定であったが、出水による流失などでままならず、明治29年(1896)県に移管されてようやく無料となった。
県は明治36年(1903)に改築、さらに大正12年(1923)に鉄橋に改築し安倍川橋と改称した。これが現在の橋である(幅7.3メートル、長さ490メートル)。しかし、自動車交通量の増大に伴って、この橋だけではまかないきれなくなり、下流に駿河大橋を設けた。昭和35年(1960)開通。さらに近年、下流の南安倍川橋が拡幅された。
[弥勒橋]
交通量の多い通りを渡り弥勒二丁目方面をちょっと巡ってみます。
[本通りと新通り]
駿府方面を臨んでみる。正面の弥勒公園の左が本通。右が新通り。
かつて、川越えしてきた旅人はここで駿府の町を臨み、整然と整備された町の向こうに駿府城が建ち、そのはるか彼方に富士がそびえるのをながめた。
家康の威厳を誇示する景色を創設していたと言われている。
今では高い建物が邪魔になっているようだ。
[宮崎總五頌徳碑]
弥勒橋のたもとの土手にある碑
東宮殿下御成婚奉祝記念
篤行家宮崎總五頌徳碑
と書いてある。
《宮崎家》
安倍川渡し場に近く、亀屋と号して他の何軒かの茶屋と同様に安倍川餅を売っていた、このあたりきっての有力者で、主人宮崎総五は有度安倍郡長、貴族院議員などを務めた政治家で、安倍川架橋や宇津ノ谷トンネルの開削、私塾朝陽義塾の設立などを行った。
さて、東海道中で最も名高いといわれた名物安倍川餅は、黄粉をまぶして白砂糖をふりかけた一口餅で、砂糖を使っていたために一個五文と当時としては高く、「五文取り」などとも呼ばれた。
[安倍川の変遷の看板]
宮崎總五頌徳碑のすぐ脇に看板が立っている。
安倍川は川筋を時代ごとに変えながら静岡平野を扇状に造って来た。その変遷が地図とともに説明されている。
安倍川は、その昔静岡市付近が湿地帯であった時代には、藁科川流路を異にし、現静岡市中心部を流れて海に注ぎ、藁科川は安倍川の現流路を流れ海に注いでいた。
静岡市街地は安倍川の氾濫で流失された土砂によって形成されたもので、登呂遺跡は、この微高地上に発達したものです。
室町時代には今川氏が平野の高い部分に城を築こうとして、幾条にも流れていた安倍川を西へ追いやり、現在の流向となりました。
<薩摩土手>
17世紀はじめに徳川家康が駿府に移り住む際に洪水から駿府の町を守るため、薩摩藩に命じ堤防(薩摩土手)を築かせました。
その長さは4,100mにも及んでいます。薩摩土手の一部は現在も残っています。
[安倍川の変遷]
安倍川の変遷の看板の隅に安倍川の昔の流れ概略図が書かれている。
かつては曲金から大谷方面へ流れていたこともあった。また、巴川ともつながって清水へも流れたこともあったようだ。
[供養塔]
土手に沿ってちょっと行ってみると碑が立っている。関東震災横死者供養塔とある。
溺死剣難者慰霊碑も並んでいる。
[南田町の首地蔵]
本通りへ戻り、南田町の路地を県立静岡商業高校へ向かうと首地蔵がある。
[水神社]
首地蔵の脇の階段を下りると水神社がある。
この神社の裏手の土手が薩摩土手の始まり。そのまま南田町へ土手は続く。
《水神社》
弥勒二丁目に鎮座する。祭神は「瀬織津姫命」。安倍川の水害に対する守護神として、付近住民の崇敬を集めている。境内の自然石手水鉢に三川越町(本通、新通、堤添の川越町)、弥勒町、天明6年(1786)とある。
以前は境内に乞食が大勢住んでいて、気味がわるかったものである。
[薩摩土手]
薩摩土手は今ではこの南田町あたりに残るのみだ。
薩摩土手
静岡市は安倍川・藁科川が運んだ土砂の上に出来た町である。わずか数百年前までは、安倍川は今の浅間神社脇を流れ、今の市街地に幾筋かの支流をめぐらしていた。戦国大名今川氏がこの扇状地に居館を置き、そのあと徳川家康が隠居の地として選んだわけである。将軍職を秀忠に譲った家康は慶長21年(1607)駿府城の大拡張工事に着手した。
ここで問題になるのは安倍川による水害であった。城の北方に斜めの土手を築き、安倍川を西へ追いやって、藁科川と合流させることにした。この土手に用いた石材は九州薩摩藩の島津忠恒が国元から送ったもので、そのため完成した土手を薩摩土手という。
この土手は井宮町の妙見山下を起点に、今の水道町の北を通り、若松町の西方から南下して、中野新田に至る約4キロにわたって築かれ、さらに水道町のところから外側にもう一本土手を設けた。敷(下部)の幅22メートル、馬踏(うまふみ)(上部)の幅11メートル、高さ5.5メートルの大規模なものであった。
また、明治末年(1912)まで土手(安西四丁目〜弥勒)の上に野天火葬場があり、別名を火屋の土手、なまって「ひやん土手」と呼んだ。今も古くを知る人はこの俗称を用いる人がいる。田町一丁目から南田町までの部分は昭和32、3年(1957、8)に取り除かれて、幹線道路となった。これを昭和39年(1964)薩摩通りと命名した。
薩摩土手の完成によってそれまでの河川敷や荒蕪地であったところに新田が開発されていった。内側にできたのが安西内新田(いまの新富町一〜六丁目など)、外側の二本の土手に囲まれた部分にできたのが安西外新田(いまの柳町、田町一〜七丁目)である。
[キリシタン殉教碑]
本通りに戻ってキリシタン殉教碑を探すとひっそりと道路脇にたたずんでいた。
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−コメント−
[江川町〜弥勒]
ここで江川町から弥勒の探索は終了する
ここまで寄り道をしないで来ると3km弱の道のりだ。脇目も振らずに歩けば1時間もあれば着いてしまう。
見どころは紹介した所以外にもあるが、それは別の機会にしようと思う。