− 安倍城址 −
安倍城という山城があった。
建物は残っていないが雰囲気は感じられる。
[安倍城]
安倍城へ行ってみよう。
この石碑は頂上の城のあった場所に立っている。
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[西ケ谷]
西ケ谷の総合運動場と清掃工場の間の道から登ってみる。
途中道が二又になっているが右を進む。
運動場から800mほど行くと突き当たりになる。
「慈悲尾」「羽鳥」「内牧」からの登り口があるが、ここが一番オーソドックスそうだ。
[登り口]
道の突当りの所に「安倍城址」との案内標示があって、そこから山道に入る。
[登山]
畑の間の細道を登る。
かなり急な道だ。まるで登山でも始めるかのようだ。
[みかん畑]
急峻な山肌にしがみつくようにみかんの木が植えてある。
途中で道を直しているハイカーがいた。
毎週のように安倍城に登るという常連さんとのこと。感謝をこめて直しているらしい。
[尾根]
約10分直登するようにつづれ折りの道を登ると尾根に出る。
案内標示の看板が道が間違えていなかったことを教えてくれる。
[尾根]
杉や檜の林に入ると道は緩やかな登りになる。
[案内標示]
4、5分歩くと分岐の標示があった。
ここは3叉路。今来た「西ヶ谷方面」。もう一つの登り口「内牧方面」。そしてこれから行く「安倍城址方面」だ。
[柱石]
登山道に柱石が立っている。
基準点の一つなのだろうか。
[案内]
切り株を削って案内板の柱にしてあった。
案内は手書きだった。有志の作か?
安倍城址がある頂上まで17分と書かれていた。
[空掘]
深くえぐられたような地形があった。
自然のものなのか、人工のものなのかはわからないが溝ができていた。
道と間違えて迷い込まないようにするためなのか、足を踏み入れることができないほど倒木等を積み上げてあった。
[空掘??]
ただ、間引いた木を捨て置いてあるだけなのだろうか。
[空掘??]
人為的な意図を感じる。
[道しるべ]
所々に案内が書かれている。
迷っていないことが確認できるので、ありがたい。
[道標]
こちらは本格的な道標。
今来た道が「内牧 西ケ谷」。「増善寺」は慈悲尾方面からの道だ。そして「安倍城址」。
[安倍城址]
これから進む道。
安倍城址方面へ向かう。
[尾根]
尾根伝いの山道を進む。
斜度は大きくないので疲労が取れてくる。
[尾根]
だんだん辺りが明るくなってきて頂上に近づいたことが感じられる。
[安倍城址]
安倍城址へ到着。
広場になっている山頂には石碑が立っていた。
ここに城があったのだろう。
[石碑]
「安倍城跡」書かれている。
息を切らしてこれを見にやってきたのだ。
時間が少ないことから登り始めから40分足らずと急いで登ったので非常にハードだった。
[石碑]
もう一つの石碑。
文字が擦れて読めない部分があった「芙蓉白雪放霊夫」と読めたが?違うかな?
[安倍城址]
頂上を逆側から撮影しました。
[崖]
回りはかなり急峻な崖になっている所が多い。
[洞慶院側]
洞慶院側の山道方面はこちら。
[洞慶院側]
少し下りてから頂上を見る。
[目印]
洞慶院側の下り口はわかりにくいのだろうか、ところどころに目印があった。
[石組]
所々に城の名残りが見られる。
ここは石を積んで崩れたような場所。
[山道]
道に檜の根がはびこっている。
[富士]
見晴らしは良く富士を見ることができる。
左の写真では分かりにくいのでトリミングしてみました。
[市内]
市内も一望できる。
遠く伊豆まで見晴らせる。
[安倍城]
山頂にあった石碑の裏に城の謂れが書かれていた。
鎌倉幕府滅亡後、全国を二分して争われた南北朝時代に、後醍醐天皇が率いる南朝方に加わった内牧を本拠地とする狩野介貞長一族が北朝方の駿府今川氏と相対していた。
狩野氏は広範囲に出城や砦を配置した城砦群を築いた。その本城が安倍城である。後醍醐天皇の皇子宗良親王をこの地に迎えるなど駿河南朝方の拠点として今川氏との攻防を繰り返してきたが14世紀中頃廃城となった。
平成7年11月 安倍城跡の会
−コメント−
時間が少ない中の登城。
日頃からの運動不足が祟っている。
明日の筋肉痛が恐怖だ。
次回はのんびりと登城したいと思う。