− 清水区内 −

清水の主な街道に沿っていない見どころを巡る。
一度に巡ることは難しいので、スポットでの訪問になる。
先ずは府中宿から江尻宿へ向う「北街道」の副道だったかもしれない道から訪ねる。


images/8094kusunoki1.JPG [楠]
 巴川と長尾川が出会って「葵区瀬名川」と「清水区楠」の間をしばらく平行した後合流して清水へ向う。
 現在の北街道は「瀬名」から「鳥坂」へと通っているが、北街道の古いルートは「瀬名川」で巴川と長尾川に突当り消滅している。
 巴川と長尾川の間の土手からこれから訪ねる清水の吉川へ向う道を見る。 

images/8094kusunoki3.JPG [楠]
 400m上流の橋を渡り、土手沿いに対岸まで戻る。
 「清水区楠」から「清水区吉川」へ向う道の入口。巴川沿いの土手から始まる。

images/8094kusunoki6.JPG [楠]
 若宮白髭神社が巴川脇にある。
 大雨の時には洪水の常習地区なので神に祈る。

images/8095koufukuji.JPG [楠]
 200m程で国道1号からの道に出会い、交差点に曹洞宗「保寿山 興福寺」がある。


images/8094kusunoki5.JPG [楠]
 興福寺から先は整備された道路が「清水区長崎」に向けて真っ直ぐに伸びる。


images/8098nagasaki.JPG [長崎]
 興福寺から約1kmでバイパスの長崎ICと国道1号線を結ぶ4車線の道に交差する。


images/8096kyofukuji.JPG [長崎]
 4車線の道に交差する手前の路地を北に入ると曹洞宗「長崎山 教福寺」がある。

images/8098tomyoji.JPG [長崎]
 4車線の道との交差点の南側に臨済宗妙心寺派「延命山 東明寺」がある。
 新しい本堂だが、今は無住の寺のようだ。

images/8100nagasaki1.JPG [長崎]
 4車線の道との交差点を越えて東へ進むとすぐに長崎神社がある。由緒書きの看板を読む。

<長崎神社の由来>
祭神  素戔鳴命
創建  天和3年(1683)
    享保8年(1723)再建
合祀
 天神社   菅原道真
 白山神社  白山比当ス
 もともとは、牛頭神社といわれていたが、明治5年、長崎神社と改称同8年2月、村社に列した。
 合祀の2社は、元村内に鎮座されていたものを、明治18年8月25日、当神社に合祀したもの。

 合祀 天神社
 元矢崎橋の下にあった社を、巴川改修に伴い長崎神社に合祀した。
 その由緒は、梶原景時討ち死の時、景時は梶原山に逃げ登った時に始まる。山は険しく馬も後ずさり登ったというほどで、景時は馬を放ち去らせようとしたが、馬は主人のそばを離れようとしなかった。景時は馬具を遠くへ投げ飛ばしたその落ちた所に、後の人々が社を建て祀った。
 【鞍】は瀬名村に落ちて[登鞍明神]に、
 【鎧】は鳥坂村に落ちて[浅間社・天王社]の両社となり、
 【轡(くつわ)】は長崎村に落ちて[天神社]に祀られたという。
   平成20年10月吉日


images/8100nagasaki2.JPG [長崎]
 長崎神社は2階建ての2階にある。


images/8096saguti.JPG [長崎新田]
 長崎神社から300mほど進んだ所の路地を左に入ると佐口神社がある。
 神社の境内には保存樹林に指定されている楠の古木がある。

images/8112horigome.JPG [堀込]
 吉川に向って道を進む。


images/8112horigome1.JPG [堀込]
 若宮神社前に信号がある。
 古道は斜めに細い道へ向う。

images/8112wakamiya3.JPG [堀込]
 若宮八幡神社。


images/8112wakamiya2.JPG [堀込]
 若宮八幡神社の本殿。


images/8112wakamiya5.JPG [堀込]
 若宮八幡神社の境内社。
 大地主大神という若宮八幡宮を守る境内地を護る土地の守護神」と書かれた看板が立っていた。

images/8112horigome2.JPG [堀込]
 吉川へ向う狭い道を進む。


images/8113kikkawa2.JPG [吉川]
 「清水区吉川」に入るとすぐ、吉川墓が道路脇にある。
 看板を読みます。

「吉川氏の墳墓」
 昭和18年、吉川子爵家が第1代吉川経義の750年祭を記念して築造したのがこの墳墓である。
 ここ吉川の地は、鎌倉武士として、また、戦国の世で活躍した吉川氏発祥の地であり、その由来は、吉川八幡神社の鳥居に詳しく記されている。
 吉川氏の墳墓は、古くからオコリポタと称され、この付近に住む人々にとって神聖視され、入ることの許されない禁制の場所であった。4代にわたる墳墓が分散していたことから、一個所に統合したものである。
 第一代経義は寿永2年(1183)源頼朝から吉川の地を安堵され、第二代友兼は、梶原一族を狐が崎の合戦(1200)で討った功績によって、第三代朝経に播磨国福井庄(兵庫県姫路市)を賜り、第四代経光は、承久の乱(1221)の戦功によって、安芸国大朝庄(広島県山県郡大朝町)の地頭職に任命された。
 第五代経高は、ここ吉川の地よりそれぞれの地方を支配したが、正和2年(1313)この地を離れて大朝庄に移住した。
 戦国末期、毛利元就次男元春は吉川家を継ぎ、小早川氏と共に毛利家の支柱となり、「3本の矢」の逸話はあまりにも有名である。その子広家は関ヶ原の合戦(1600)で東、西軍の間で苦心折衝、その功によって、徳川家康より周防国岩国6万石の城主に任じられた。
 岩国藩第三代藩主吉川広嘉は、名勝「錦帯橋」を築造し、今では全国から数多くの見学者が訪れている。
 ちなみに、吉川友兼が梶原景茂と清水市のこの地の戦いで使用した青江為次作の名刀「狐ヶ崎丸」は、国宝として岩国市の吉川資料館に展示、公開されている。
   平成13年(2001)3月     岩国吉川家 第16代当主 吉川重幹
                     有度まちづくり推進委員会
                     吉川自治会
                     清水西ロータリークラブ


images/8113kikkawa3.JPG [吉川]
 吉川墓の脇に石碑が建っている。
 石碑に書かれた文字を読みます。

吉川氏発祥の旧跡碑
 清水市吉川を中心とする一帯の地方は旧岩国藩主吉川氏の初代経義より友兼朝経経光経高に至る5代128年間の旧跡地である
   昭和33年6月    岩国市史編纂所長 文学博士 瀬川秀雄誌


images/8113kikkawa1.JPG [吉川]
 吉川墓の前からこれから進む先を見る。


images/8112genkoin.JPG [吉川]
 吉川墓から700mほど南に曹洞宗「對富山 源光院」がある。
 別の日に訪れた。

images/8113kikkawa.JPG [吉川]
 道はクランク状になっていて、吉川から能島へ向う。
 昔はこのあたり一帯を吉川家が治めていた。

images/8114nojima1.JPG [能島]
 50mほどで道は突当り左へ曲って100m北に能島八幡宮がある。


images/8114nojima2.JPG [能島]
 能島八幡宮の社殿。


images/8114nojima.JPG [吉川]
 少し南へ戻った交差点で東へ向う。
 道は水路脇を通っている。この水路のあたりに巴川の本流が流れていたこともあったそうだ。

images/8115kikkawa.JPG [吉川]
 水路脇に「吉川屋敷跡」を説明する看板が立っていたので読みます。

<吉川屋敷跡>
 吉川館は古宮を西北隅とし東西約180m(100間)南北約240m(130間)ぐらいの長方形と伝えられ現在の上の段がこれに当る当方の川流が谷津沢川の名残ではなかろうか?この時代の東海道は今の北街道であり、是より能島の地を通って巴川は、綱を手繰る繰舟を用いて渡ったと考えられ能島の八幡社を繰崎八幡と称しこの所を舟越と言った。
 尚、吉川の小字に繰崎舟戸の地名がある。昔は有渡へ渡る重要な幹線であったと考えられる。この所は初代経義が寿永2年源頼朝より賜り館を築き以後北朝年号康永4年、南朝年号興国5年(西暦1345年)まで約160年間居住したと考えられている。
(参考)
寿永2年は1183年で木曽義仲京都に入る年(参考文献)有度郷土誌旧有度村 静岡県の歴史中世編静岡新聞社による。
  昭和59年1月 有度まちづくり推進委員会
            有度公民館歴史クラブ 


images/8116kitawaki.JPG [吉川]
 「吉川屋敷跡」の看板を過ぎると道は路地ばかりになって昔に思いを寄せる道は消えてしまう。
 看板から200m程南西に曹洞宗「瑠璃光山 西照寺」がある。
 この辺りに「北脇城」があったとされているが遺構は見つけられなかった。 

images/8118sirahige.JPG [北脇新田]
 西照寺から北側に北脇新田となる。
 300mほど北に白髭神社がある。境内に看板が立っていたので読みます。

<疣(いぼ)宮の由来>
 この北脇の白髭神社は、境内にある石の溝に溜まった水を、疣につけると消えてなくなり、その効能で広く知られていた。そのため、北脇の地域にとどまらず、近くの村の人たちも、「疣宮さん」「北脇の疣石」と親しまれ、崇敬されてきた。今もなお、市内の多くのお年寄りの方々が、その伝承を知っている。
 いうまでもなく、疣は皮膚病の一種であり、特に、人の目に付きやすい顔、首、手、足等に出来、そのために、容姿にも関係深く、伝染するものであって、子どもにも若者にもお年寄りにも嫌悪されていた。
 かつては、この境内の南側に大きな山桃の木が自生しており、その木の葉や実、樹皮の中に効能があったと言い伝えられ、石の窪みに溜まる自然水との混合によって、より効果を発揮し、多くの人たちに感謝されたことと思われる。
 「疣宮さん」として愛された北脇のこの白髭神社は、医学の進展していなかった時代に生きた人々にとって、皮膚病の疣を治療し、恩恵を授けてくれたありがたい神社だったのである。
   平成10年3月  有度まちづくり推進委員会 有度ふるさとマップ委員会


images/8118jizo.JPG [北脇新田]
 また300mほど北に行った巴川の手前に地蔵堂が建っている。
 「河岸地蔵」と祠に書かれている。  隣に10基ほどの墓が建てられていた。

images/8120kongo3.JPG [渋川]
 南へ500mほど行くと新幹線が通っていて、ガードをくぐった先に臨済宗妙心寺派「瑞光山 金剛法寺」がある。


images/8120kongo4.JPG [渋川]
 南へ500mほど行くと新幹線が通っていて、ガードをくぐった先に「金剛法寺」がある。


images/8122sibukawa.JPG [渋川]
 金剛法寺のすぐ北の路地にある「渋川館」の跡という看板を読む。

渋川館跡
 昔、ここに入江の一族渋川氏の館があったと言われています。
 正治2年(1200年)梶原景時一行33人を入江一族が迎え討った時、渋川次郎某が4人を討ちとる武勇をあけたことが、「吾妻鏡」に記されています。以前この辺りに曲沢という沢があり、館の堀跡と伝えられていました。
 うしろの丘は往時の屋敷の名残であろうと思われます。
 1988年3月吉日  入江まちづくり推進協議会


images/8072sengen4.JPG [下野町]
 吉川・北脇・渋川と鎌倉以降に勢力を持った武家達がいた地域から離れて2kmほど北の旧飯田村方面へ向う。
 北街道と静清バイパスを越えた「下野町」に浅間神社がある。


images/8072sengen1.JPG [下野町]
 「浅間神社」の境内に神社のいわれが書かれている。

<浅間神社>
鎮座地 静岡県静岡市清水区下野町8番24番地
     (旧静岡縣庵原郡飯田村下野字前田九拾七番)
創建  創建年月日は、不詳なれど明暦年間の頃十二天と称する佛様が祀られていたと伝えられています。
    嘉永元戌申年9月吉日上棟再建との記録があり、明治初め頃までは十二天尊社と称していました。
祭神  木花開耶姫命(皇孫瓊瓊杵尊皇后)
祭礼  一月  歳旦祭
     二月  節分祭
     三月  十二天社祭
     六月  大祓祭
     十月  例大祭(秋祭り)
     十二月 除夜祭
<浅間神社の由来>
 この神社は元来、十二天尊社と称し、あまねく災いを除く十二の仏を守護としていました。
 明治維新に発布された神仏混合禁止令により、仏社の十二天社は、村役宅に預けられ新たに山原の関田神社より木花開耶姫命を祭神として分祠し、明治3年、社を下野浅間神社と改称し、同年2月村社に列せられました。
 それ以後、現在でも静岡並びに、富士宮の浅間神社と同じ御神体をお祀りしています。  御神徳は、国家安泰は勿論、氏子一家の幸運、家内安全無病息災、夫婦円満、生業繁栄を守護して下さる神様です。
 現在の本殿、拝殿は下野7町有志の御努力と氏子全員の御協力によって昭和47年(1972年)10月に建替えられました。
<十二天尊社の由来>
 往昔、鎌倉崇寿寺薬師如来と共に安置せるものなり。
 貞永年間兵火の為、同寺島有に帰し薬師如来、十二神を背って上洛の途、現今(下野)の神社前に休息せしに、いざ発たんとすれど寸毫も動き得ず、因って薬師如来は当地に御堂を建て如来を安置す、これ現在の崇寿寺なり、  それより十二神を当地の氏神として祭せるものなり。
 往昔より安産婦人病の守護神として崇拝者実に多かりき、明治初年より神仏混合禁止令に基づき、村役宅へ預けし後、災禍を受ける者多く是れ十二神の祟りなりとの説高まり村役及び住民の強い懇願により、浅間神社境内の神域に別棟を建立し奉祠せるなり。
 伝説に依る当地休息の日、即ち3月1日を以て御縁日と定め、盛大に祭祀を行い多数の崇拝者の参詣するに至れり。
 尚、同じ棟には水天宮、神明宮、三狐神が祀られており、厄除け、悪病除け、交通安全、五穀豊穣、事業開運などの守護神として古くから、多くの氏子に厚く信仰されています。
<記>
 昭和天皇陛下御在位60年記念として
 下野浅間神社総代会、下野敬神婦人会様にて昭和60年6月吉日建立しましたが20数年が経ち劣化が酷く危険の為、改めて建て替える事に成りました。
    平成20年12月吉日    下野浅間神社総代会、下野七町連絡協議会


images/8070sujuji.JPG [下野町]
 下野浅間神社から100mほど離れて下野浅間神社ゆかりの「医王山 崇寿寺」という臨済宗の寺がある。


images/8087gyuran1.JPG [梅ケ谷]
 下野の崇寿寺から2km弱ほど西の梅ケ谷にある臨済宗妙心寺派「神谷山 牛欄寺」。
 門前に看板があったが文字がかすれてよく読めなかった。

Fふるさとの路
牛欄寺
 西国88か寺 88番札所で聖観世音菩薩(鎌倉時代の作)を鷲とし、また葵の紋をいただく山門は駿府城のものと云われている。
 本堂裏には雄の牛頭石がある。
 住職により長い間寺子屋教育が行なわれた。
    高部まちづくりの会


images/8087gyuran5.JPG [梅ケ谷]
 牛欄寺の本堂。
 境内には牛の像が横たわっていた。

images/8086kofuku1.JPG [柏尾]
 牛欄寺から1km足らず北へ行った所に曹洞宗「大圓山 光福寺」がある。
 門前に看板がある。

Dふるさとの路
光福寺
 真珠院の末寺であったが、明治14年法地に寺格昇進した。
 現在の本堂は大正13年〜昭和2年にかけて日本最初の鉄筋の寺として完成した。
 明治4年の神仏分離令により熊野5社権現より掛け仏15面(市文化財)が移管されている。


images/8086kofuku8.JPG [柏尾]
 光福寺は素敵な建物だ。

静岡県指定有形文化財(建築物)  光福寺本堂
構造 鉄筋コンクリート造2階建陸屋根
規模 建築面積 124.27u
    延床面積 217.95u
    最高の高さ 13.00m
設計・施工者 桜井康弘
県指定 平成5年(1993)12月21日
大正13年から昭和2年にかけて建築された、鉄筋コンクリート造りの寺院本堂。

 大正12年(1923)関東大震災による木造の全焼や、煉瓦造り崩壊で反省され未来永劫残せるものとの考えから、かわって鉄筋コンクリート造りが、地方へ伝播してきた先駆的建物として貴重である。
 火灯窓(かとうまど)・懸魚(げぎょ)等伝統的寺院建築の手法を含めながらも、全国的に例をみない思い切った特異な意匠である。
 新しい技術やデザインに果敢に挑戦した先人の努力と、想像力の豊かさは近代建築として優れている。
   平成12年7月   静岡県教育委員会   光福寺保存顕彰会


images/8079suisya1.JPG images/8079suisya3.JPG [梅ケ谷]
 光福寺から山裾に沿って北へ1.5kmほど行くと水車小屋が目に入ってくる。
 


images/8079fudou.JPG [梅ケ谷]
 水車小屋から1km奥に入ると不動滝がある。


images/8079fudou2.JPG [梅ケ谷]
 岩盤の隙間から細い水が流れてくるが水量は少なく迫力はない。看板が立っているので読む。

<Cふるさとの路>
 滝の不動明王
 疫病消除のため延享元年(1743年真珠院18世和尚は、17日間この滝に打たれ大聖不動尊に祈願した。又、干ばつに当たり、雨乞い祈願をした。再三にわたり不動尊は住民の苦難を救った。このすぐ上に冷泉跡がある。
    高部まちづくりの会


images/8080sinju1.JPG [梅ケ谷]
 光福寺から北東へ800mほどの所に曹洞宗「鳳凰山 真珠院」がある。
 山門脇に説明看板が立っている。

真珠院山門  清水市指定文化財
        昭和55年6月25日市指定
 間口11尺奥行き10.6尺で禅宗様四脚門、切妻造り平入り、屋根は桟瓦葺である。
 享保4年(約260年前)以前のものであり、紅梁の袖切り木鼻の絵様破風の懸魚等に近世の作風を残している。
   平成10年11月吉日  清水市教育委員会


images/8080sinju3.JPG [梅ケ谷]
 真珠院の山門脇の祠があり、説明書きがある。

<當山鎮守白山権現由来>
 今川義忠公祖先の遺風を慕ひ旧址の再興を計り賢窓常俊禅師を開山に拝請し長禄3年鳳凰山真珠院と改称す
 当時白山権現は山門頭に祭られて居た。
 明治の初年に鹿島神社に祭祀されて今日に至る。
 今回境内に遷し當山の鎮守として佛法興隆山門繁栄を祈念するものなり。
 白山権現とは永年改組大師入宋の折影随じ一夜碧巌に助力した古事に倣いたるもの也
   昭和54年3月吉祥日    住持謹白
<花山天神由来>
 宝暦2年當山に初めて祭祀せらる
 昭和13年花山天神の御厨子入り御神体を水口一枝老師より拝戴し爾後當山の守護神とし祭り今日に至る。
 此の浄地に堂宇を新築し山門守護心願成就学業書道栄達交通家内安全を祈願し奉るものなり。
   昭和54年3月吉祥日    住持謹白


images/8080sinju6.JPG [梅ケ谷]
 真珠院の本堂。境内に由緒書きがあったので読みます。

<真珠院概況>
 当山は元、真言宗に属し、今川範国公の開創した国光寺で、当時は今川家の別荘があった処である。
 その後、今川義忠公は、1382年祖先の遺風を追慕して寺を再興し曹洞宗鳳凰山真珠院と改宗した。
 1452年、洞慶院3世大巌禅師の法嗣、賢窓常俊大和尚を開山に拝請した。
 師は大平山渓畔の石上に木食坐定し道誉は近郷に名高かかった。
 御本尊は、釈迦牟尼佛で運慶の腹ごもりの作と伝えられている。
 境内は2063坪あり曹洞宗の綿密な道場で禅風を宣揚している。
 境内には、青面金剛尊(年代不詳)秋葉3尺坊大権現(1696年)鎮守白山妙理大権現(1523年)花山天神(1745年)不動明王尊(1746年)を祭祀している。
 当山は今川家代々諸公の崇敬を戴いた。
 徳川家康は、朱印地を15石と改め寺領として下附された。又、駿府在城の時(1601年)住僧6世鳳巌全察和尚を召されて佛法を聴聞された。
 開山当時は、7堂伽藍の形態を整えていたが、文化9年(1813)明治9年(1876)と2度の火災を受け、殿堂、什宝等多くの文化財を失ったことは残念である。
 山門に掲げた鳳凰山の額(1744年)は、昭和55年清水市の文化財に指定された。
 山門側の梛(なぎ)は、昭和54年清水市の天然樹木に指定された。
 昭和の中期より鐘楼堂、位牌堂、玄関、庫裡等が建立され境内が整備された。
     昭和56年   高部まちづくりの会


images/8081tomyo.JPG [梅ケ谷]
 東明寺。
 長崎の同名の寺は別院なのだろうか。聞いてみたかったが住職は不在でした。

images/8085zenou7.JPG [蜂ケ谷]
 東明寺から東へ600mほど東に臨済宗妙心寺派「補陀山 善應寺」がある。


images/8085zenou6.JPG [蜂ケ谷]
 地蔵?が参拝者を出迎えてくれる。


images/8085zenou5.JPG [蜂ケ谷]
 百霊場巡拝塔が建っている。


images/8085zenou1.JPG [蜂ケ谷]
 善應寺の本堂。


images/8084hatiman.JPG [蜂ケ谷]
 善應寺から500m東へ行くと蜂ケ谷八幡宮がある。
 由緒看板が立っているので読む。

蜂ケ谷八幡宮
鎮座地  清水市蜂ケ谷806番地
大鷦寮鳥ノ尊(仁徳天皇)創建不詳なるも天暦元年(1034)前と伝うる古社
礼祭年間行事
      1月  元旦祭
      6月  大祓
      7月  天王祭
      10月 日待
      12月 しめ縄造り・煤払い
境内神社末社 浅間神社、山神社、天王神社、佐口神社
<蜂ケ谷八幡宮の由来>
 八幡宮の信仰は九州宇佐八幡宮の始まりで平安時代から皇室の信仰も厚く鎌倉時代には源氏の守護神として武の神を全国各地に広め又八幡菩薩として安産信仰の神佛混合の神でもある。
 足利時代(600〜650年)前の豪族は自分の所領を増すため各地に争を起し世相は非常に乱れていた蜂ヶ谷を領地としていた由比彦四郎清光は天下平安を祈り八幡宮の屋根ふき替えを行なった。
 「天下安泰国土寧五穀豊饒」と彦四郎自身の福寿を祈願した(541年)前の事である。  修理改築の棟札を保存されている。
 「上棟永享(12年)庚申歳2月初5日領主大宅代由比彦四郎清光は政所池谷七左衛門不見禰宜下野孫五郎並刑部尉」当時の駿河守護職は今川で地元の豪族は興津・庵原・狩野・朝比奈・岡部・由比の各代にあった。
    平成7年7月吉日   八幡宮氏子総代


images/8083kanda1.JPG [山原]
 蜂ケ谷八幡宮のすぐ東隣に関田神社がある。
 由緒看板がある。

関田神社
鎮座地   清水市山原343番地
祭神     大山祇命
        木花開耶姫命
創建    不詳
祭礼    1月  元旦祭
       2月  祈念祭
       6月  大祓
       10月 大祭
由緒
 創建は、はっきりしていませんが、今から千年以上前に建てられたといわれています。
 創建当時は、山の上にあり、その後、現在の場所に移され、飯田地区で最も古く、由緒ある神社として、明治8年、村社の上にたつ郷社になりました。
 また、付近の山中より、曲玉、土器、刀剣の破片が発掘されたと伝えられています。
 境内にある2本の「クスの木」は、樹齢推定550年の老木で、清水市の保存樹木に指定されています。
 祭神の大山祇命は、伊邪岐命の子で「山の神・水の神・田の神」として信仰を集め、木花開耶姫命は、大山祇命の娘で「子孫繁栄・実りの神」であり、2神とも狩猟や農耕で生活をいとなむ人々に深く信仰され毎年秋には収穫に感謝する祭礼が行なわれています。
   平成10年(1998)10月吉日    関田神社氏子総代


images/8082chofuku2.JPG [山原]
 関田神社から500m東の山側に臨済宗妙心寺派「錦屏山 長福寺」がある。
 階段を上がった所に山門が建っている。

images/8082chofuku4.JPG [山原]
 長福寺の境内は明るい。
 参道の両脇に石造りの観音様が並んでいる。

images/8082chofuku6.JPG [山原]
 長福寺の本堂。


images/8650enoji1.JPG [庵原町]
 東名の清水インターの北側を通って山を回りこんだ所に臨済宗妙心寺派「日光山 円応寺」がある。
 質素な寺。檀家が多い豪華な寺より好感が持てる。
 住職さんに聞いてみると創建は弘治年間(1555〜1558)とのことだった。



images/8652fukusenji1.JPG [庵原町]
 円応寺の500m北に福泉寺がある。


images/8652fukusenji2.JPG [庵原町]
 臨済宗妙心寺派「碧雲山 福泉寺」の本堂。

images/8654toyoyuke1.JPG [庵原町]
 福泉寺の300m東に豊由気神社がある。由緒書を読む。

豊由気神社
郷社 豊由気神社御由緒
祭神 豊受姫命
相殿 村社一ノ宮 祭神 木花開耶姫命 明治8年12月25日村社に列セラル
社格 明治8年12月25日郷社に列セラル
社地 清水市庵原町宮ノ後
社域 426坪
氏子 清水市庵原町
祭日 10月17日
神饌幣帛料 庵原郡供進 明治40年6月21日指定セラル
(由緒)
 謹テ篤記ヲ按スルニ今ヨリ凡1863年ノ昔
 人皇第12代景行天皇ノ御宇皇子日本武尊御東征ノ砌
 蘆原郷ニ豊積神社式は止由気神社トシテ豊受大社ヲ祭ラセ給ヒ
 同時ニ安倍郡神倍神社ニ天照大神ヲ祭ラセ給フ
 即両宮ヲ蘆原安倍ノ国ニ祭リ給ヒシヲ以ツテ
 二ノ宮ト称セリ相殿一ノ宮ハ後ニ至リ勧請セシモノナリ
(境内社)
小里社 伊佐奈岐尊     山本社 御嶽大神
金谷社 金山彦命      新田社 保食命
小路社 保食命        八幡社 誉田別命
小外社 保食命        天神社 菅原道真
山梨社 大山祇命      天王社 素戔鳴命
中村社 保食命        大歳御祖社 御歳神
下川原社 保食命      大門社
  昭和48年10月17日
 清水市庵原町氏子奉賛会創立記念  会長 大多和由朗 謹書




images/8654toyoyuke6.JPG [庵原町]
 豊由気神社の本殿。
 境内の脇に保存樹林の説明があった。

<保存樹林>  この樹林は清水市みどり条例により保存樹林として指定されたものです。  にんなで大切に守っていきましょう。 樹種名 けやき・くす(代表木)
指定番号 第30号
指定年月日 昭和60年4月1日     清水市


images/8656itijoji1.JPG [庵原町]
 豊由気神社から300m東に曹洞宗「庵原山 一乗寺」がある。


images/8656itijoji2.JPG [庵原町]
 一乗寺の山門脇に由緒看板が立っている。

庵原山一乗寺(曹洞宗)
本尊 釈迦牟尼如来
開山 哉翁宗咄大和尚(天龍円鑑禅師)
開基 朝比奈駿河守信置公
創建 永禄12年(1569)
本寺 焼津市坂本 林叟院
 四季折々の花のたよりをつたえる通称花の寺といわれ庵原氏の内庵跡に建てられた。
 本堂を中心に羅漢堂一如庵などを擁し、一切経輪蔵(昭和40年4月)中興開山洞獄継宗お手植の蜜柑の古木(昭和53年8月)は共に市の文化財の指定を受けている。
 座禅会、ひな、筆供養などが行なわれ、毘沙門堂のお札は開運の御利益で知られている。
 境内庭園の一部に庵原氏の古墳がある。

 当地はいほはら歴史をたずねる散策の終点の地となっていますのでごゆっくりふる里の昔に思をはせて下さい。


images/8656itijoji6.JPG [庵原町]
 一乗寺の本堂。


images/8656itijoji5.JPG [庵原町]
 一乗寺には茅葺きの建物が建っている。


images/8570kyujo.JPG [庵原町]
 一乗寺の裏山を登った所に庵原球場がある。

images/8570tosaku3.JPG [庵原町]
 庵原球場脇に塔作古墳が保存されている。


images/8570tosaku5.JPG [庵原町]
 塔作古墳の石棺を復元している。

古墳モニュメント(塔作8号墳)
塔作8号墳の移設
丸山の横穴式石室墳が造られていました。
まかでも、この塔作8号墳は、長さ3m程の数少ない古墳時代の終わり(8世紀前半)の古墳で、特に残存状態が良好であったので、移設して保存し後世に伝えることにいたしました。
5.3トンの古墳の保存には石室をウレタンで包み地面から切り離した後、コンクリートで石室の外側を固める工法を用い移設を行いました。


images/8570tosaku6.JPG [庵原町]
 清水庵原球場の脇のこの辺りに塔作古墳はあったらしいが、目印はなかった。


images/8670tokurin.JPG [伊佐布]
 庵原球場から1km余り北へ行ったところに「徳林禅寺」がある。
 徳林寺の山号を知りたかったが住職不在のため聞けなかった。通りかかった墓参りの女性に聞いてみたら「高部山」という山号と思うと言っていた。

images/8671anon4.JPG [伊佐布]
 「徳林禅寺」から1km足らず北に「安穏寺」がある。
 参道にいわれが書かれた看板があったので読んでみます。

<護国山安穏寺(日蓮宗)>
 寛永元年(1624)身延山24世日暹(にっせん)の開山で、小身延といわれた。現在28代。本堂は貞享5年(1688年)6月第3代め日観の時に廃院となった身延山講学院の栂の柱20本を譲り受けて建てた。
 現在の建物は、明治29年(1896年)大修繕したものである。
 七面堂、身延七面山の一木三体の古像のうち一体を第2代め日富がここに移しておまつりしてある。なおあとの二体は七面と京都にある。秘仏で丁巳の年に大開帳する。山上には梵鐘がありがあり、眺望もすばらしい。


images/8710yosiwara.JPG [吉原]
 「安穏寺」から北へ向いトンネルを抜けると吉原温泉と集落がある。
 県道沿いに吉原地区を案内する看板が建っていた。

images/8712yosiwara2.JPG [吉原]
 吉原地区の案内看板に導かれ「善原寺」へ行く。
 仁王門があって、脇に説明看板があったので読んでみます。

<大平山善原寺薬師堂>
 慶長14年(1609)までは如来は両河内大平山に在り、その頃駿府御在城の公の萬姫君御眼病のため祈願に吉原まで到着したが暮れとなり公は説外和尚に大願成就を依頼した。
 若し大願成就の上は大平山の如来をここに移すと約束し帰城された。その後姫の眼病は全壊したため同15年3月大平薬師を移し奉った。その際御召馬、馬具その他を拝領した。
<仁王像>
 霊像にして往古より彩色すべからずとあり明治20年修理の際彫刻年度を見、天文14年(1545)菊月27日大佛師越前麻呂 


images/8712yosiwara6.JPG [吉原]
 「善原寺」の本堂。

images/8712yosiwara5.JPG [吉原]
 「善原寺」仁王門からは階段を登ると鐘楼と薬師堂がある。

images/8570national.JPG [原]
 庵原球場まで戻り、庵原球場から1km弱東に清水ナショナルトレーニングセンターがある。

images/8570miike.JPG [原]
 ナショナルトレーニングセンターの直ぐ前に「三池平古墳」がある。


images/8572miike.JPG [原]
 「三池平古墳」の発掘された石を保存して見せてくれている。

  三池平古墳
 静岡県指定史跡三池平古墳は標高55mの丘陵上に位置する5世紀初頭の前方後円墳である。
 この古墳は昭和31年に発見され、昭和33年に発掘調査が行われた。
 墳丘は全長68mを測り、三段築成である。一段目の墳丘は丘陵の斜面が下る南西方向のみに設けられ、その上に2段目・3段目の墳丘が築造されている。主体部は板石を小口積にした竪穴式石室の中央にくり抜き式の割竹形石棺を納めたものである。石室内と石棺の内部には朱が塗られていた。
 主な出土遺物としては変形方格規矩四神鏡、四獣文鏡、筒形銅器、
 成人男子の骨や装身具類(石釧・小玉・管玉など)が、石棺外側には、鏡()・・武具・農具などがありました。この地方を治めていた有力豪族の墓であることが想像できます。現地では天井石を見ることが出来ます。
 出土遺物は静岡市埋蔵文化財センターで保管しており、一部展示しております。


images/8573miike.JPG [原]
 「三池平古墳」前方部分。


images/8574miike.JPG [原]
 「三池平古墳」から発掘された天井石だろうか。


images/8576miike.JPG [原]
 「三池平古墳」前方部分から後円部分を見る。


images/8620kyurinji2.JPG [原]
 三池平古墳を西へ下った所に臨済宗妙心寺派「望海山 久林寺」がある。


images/8620kyurinji4.JPG [原]
 久林寺の本堂。


images/8579toga.JPG [原]
 久林寺のすぐ南側に砥鹿神社がある。「三池平古墳」を護るように建っている。
 ほとんどの古墳に神社がセットのように付いてくる。

images/8612daijo.JPG [草ケ谷]
 砥鹿神社の500mほど西に臨済宗妙心寺派「高部山 大乗禅寺」がある。


images/8614daijo.JPG [草ケ谷]
 大乗禅寺の参道にある看板を読む。
大乗寺遺跡
 標高約25mの舌状台地上に営まれた縄文時代の代表的な遺物は、諸磯式北白川下層式と呼ばれる関東関西系の縄文時代前期に属する土器を中心に、中期〜晩期にかけての縄文土器片が断続的に認められる。
 また、狩猟、漁撈、植物採集等縄文時代の生業に必要な打製石斧、石鋤、石鍬、石錐等多数の石器も発見されている。
 なお、忠霊塔裏の墓地内は大正中頃、我国の女子青年団(処女会)の創設指導に接身した天野藤男先生の墓標がある。


images/8590kusanagi.JPG [山切]
 大乗禅寺から北へ500m行くと東久佐奈岐神社がある。


images/8593kusanagi.JPG [山切]
 東久佐奈岐神社。


images/8594kusanagi.JPG [山切]
 東久佐奈岐神社。

式内久佐奈岐神社
鎮座地 清水市山切字宮平101番地
御祭神 大和武尊
合祀  弟橘媛命  吉備武彦命
    大伴武日連命  膳夫七掏胸脛命
<由緒>
 庵原川流域は古代には廬原の国と呼ばれ、その政治的中心となったのが、庵原古墳郡の立地する丘陵に囲まれたこの平野です。
 当社は人皇第12代景行天皇の時代(西暦110年、約1884年前)に詔勅により皇子日本武尊が東征の途中この地に本営を設けたとされる旧跡の地にあります。
 創立年代は古くして不詳ですが、東征の副将軍として活躍した、吉備武彦命が後に其の功績により、廬原の国を賜り、尊の縁り深いこの地に社殿を造営し日本武尊を祀ったのが創祀とされ、その後お供として東征に随行した姫、弟橘媛命を初め諸神を合したものと考えられております。
 文献上の記録では風土記に第13代雅足彦(政務天皇)の元年(西暦133年、約1861年前)に官幣を奉るとあり、異本類聚六国史に清和天皇、貞観元年(西暦859年、約1235年前)久佐奈岐神社従2位を授くとある。延喜式(平安時代初期の儀式や制度を定めた律令の施工細則)神名帳には廬原郡三座(久佐奈岐神社・御穂神社(三保)・豊積神社(由比))と記されており、式内社であります。
 昔は有度の草薙神社に対し、東久佐奈岐神社、あるいは東久佐奈岐大明神等と称えられたこともありましたが、明治6年郷社に列せられてからは、今の社名となっております。
<御神体>
 本殿に四柱の御神像が鎮座されており、これは朝廷より賜わった貴重なもので開披してはならないとの言伝があります。
  平成6年11月吉日


images/8596kusanagi.JPG [山切]
 東久佐奈岐神社には境内社が多く祀られている。

<境内社>
稲荷社  宇迦之御魂命
白髭社  武内宿弥
天満宮  菅原道真
雨之宮  天之水分神 国之水分神
津島社  須佐之男命 稲田比女命
金比羅社 金山彦命 大国主命
今宮社  素鳴命  稲田比女命
九万八千霊社  東征軍の御供の諸神
事比羅社  金山彦命  大物主命  少彦名命 
雨之宮社  志那都比古命  志那都比賣命


images/8597kusanagi.JPG [山切]
 東久佐奈岐神社の境内社。


images/8630syounji2.JPG [尾羽]
 東久佐奈岐神社の500mほど南へ行くと東名のジャンクションが整備されている。
 その東脇の若宮八幡神社の裏に臨済宗妙心寺派「龍吟山 松雲寺」がある。


images/8630syounji4.JPG [尾羽]
 松雲寺の本堂。


images/8632higasikama.JPG [尾羽]
 松雲寺の500mほど東に東山田窯跡と書かれた公園がある。

  東山田窯跡公園記念碑
 清水市庵原地区は古代「蘆原国(いほはらのくに)の中心でした。
 当地より北西約1kmに位置する三池平古墳に見られるように巨大な前方後円墳が存在することからも往時の国力を創造することができます。
 特に、ここ尾羽(おばね)地区には県内でも最古級といわれる尾羽廃寺跡があります。同寺は西暦663年白鳳時代の白村江(はくすきのえ)の戦いにおいて、隣国百済へ遣わされた援軍の将「蘆原の君臣(いおはらのきみおみ)」に深い関わりのある寺であると考えられています。
 また、奈良時代には寺院に隣接して、蘆原の「郡衙(ぐんが)」が整えられ、尾羽地区は行政と文化の中心地として繁栄していたようです。
 農地基盤整備事業に先立ち、平成10年から11年にかけての発掘調査では、古墳時代の陶器「須恵器(すえき)」を焼いた窯1基、瓦窯4基の計5基が発見され、大量に瓦が出土しました。
 なかでも保存状態が良好な3号窯跡については、型取りをして保存しました。これらの瓦を焼いた窯跡が「東山田古墳跡群」です。
 このたび関係者の理解と協力により、尾羽土地改良区が施行する農地基盤整備事業用地の一部を提供され、清水市土地開発公社が「FAZ事業用地」として、平成12年度〜平成13年度で造成したものです。
 駿河湾と清水港が一望できるこの土地で清水港の国際物流の拠点としてさらなる発展を図り、進出する企業の活躍により、地域の国際化、経済の活性化、文化の交流等、地域の発展がもたらされることを強く期待するものであります。
     平成14年3月  清水市長 宮城島 弘正


images/8635ikkei02.JPG [広瀬]
 東山田窯跡の坂を下りて通りに出た所を北へ向うとすぐにトンネルがあり、4kmほど奥に向うと山の中腹に一渓寺がある。
 苔むした質素な寺。落ち着いた静かな寺だ。



images/8635ikkei03.JPG [広瀬]
 本堂へ通じる道は狭いながら趣向を凝らしている。



images/8635ikkei12.JPG [広瀬]
 本堂の祭壇。



images/8635ikkei17.JPG [広瀬]
 住職の奥様に寺の歴史を伺ったところ、約700年前の鰐口が文化財に指定されているとのことなので拝見させていただいた。
 寺でいただいた「十一面観音菩薩開扉にあたって」作られた冊子に次のとおり書かれている。

 平安時代、波多打川の西岸、横砂の旧井上別荘付近に、浄見長者が栄華を誇り、近くには、長者が捨てた米ぬかによってできたと言う「米糠山」があった。
 長者は清見長者とか、横砂長者とも言われ、当時、興津付近の支配者だった興津氏の一族だったのではないかと言われている。
 又、一渓寺の由緒書きによると、浄見長者は、濁澤城の領主で(濁澤とは波多打川のこと)、鎌倉時代中期に没落し、その子息、茂畑の山荘に隠れ棲み、長子、行也が、厳松寺(後の一渓寺)に、鰐口を奉納したとある。約700年前、正安4年(1303年)である。
 鰐口は県指定文化財となっている。
 この厳松寺は天台宗であり、浄見長者の守り本尊であった十一面観音がおかれ、堂を再建し、中本山清見寺第2世、東谷大和尚を開山とし臨済宗となる。
 文禄3年(1594年)正月15日、東谷和尚が亡くなり、その位牌は一渓寺に現存している。
 山上ながら、観音に祈ると、一夜にして堂の傍らより清水湧き出し、村民は観音水という。以後観音平の水と言われている。
 十一面観音菩薩は、種々なる不思議な御霊験多く、除病、減罪、福をもとめる祈念仏とされている。
 霊場を巡礼すると、十徳の利益があり、三度巡礼すれば、観世音は影身に添ってその人を守護すると言われている。
 爾来33年目毎に本開帳を修行し、本年、正に厳修することになりました。
 尚、一渓寺の歴史を知る資料として写真を掲載致しました。まだまだ不明な点が残されておりますが、小さな寺ながら大きな歴史のあることを感謝致し、ここに開帳を修行いたします。
     一渓寺住職  大屋宗一   九拝



      ここから一気に移動して日本平へ向う。


images/8350nihondaira.JPG [村松]
 日本平運動公園(アウトソーシングスタジアム日本平)を見下ろしてみる。

images/8368nihondaira.JPG [村松]
 日本平へ向う旧道を登っていくと清水が見晴せる「金獄台」という石碑が道路脇に立っている。富士山のビューポイント。


images/8366nihondaira.JPG [村松]
 「金獄台」は富士山のビューポイント。


images/8396nihondaira.JPG [草薙]
 日本平からは静岡市の中心市街地が見渡せる場所。
 テレビ塔が並んでいる。

国指定名勝 日本平 指定年月日 昭和34年6月17日
「日本平」は、有度丘陵頂部一帯の平坦部を指し、四周の壮大な眺望にすぐれていることから、昭和34年に国指定名勝に指定されました。
 眼下に清水港、三保松原、清見潟、そして正面に秀麗な富士山を仰ぎ、晴れた日には伊豆半島や御前崎、さらに聖岳をはじめとする南アルプス連峰を遠望することができます。
 なお、岳陵南面は徳川家康公を祀る東照宮のある久能山との間に「屏風谷」と呼ばれる深い崖を形式しており、天下の奇観といわれています。
    平成16年3月  静岡市教育委員会


images/8376nihondaira.JPG [草薙]
 日本平。
 赤い靴

<童謡 赤い靴をはいていた女の子を訪ねて>
 野口雨情の詩になる童謡”赤い靴”をはいていた女の子にはモデルがありました。明治37年7月15日清水市宮加三(旧不二見村)に生まれた「岩崎きみ」がその子です。
 「きみ」とその母親「かよ」とは、故あって北海道にわたりますが、この地で母は、まだ2歳になったばかりのわが子を、アメリカ人宣教師ヒエット夫妻に、その養育を託すさだめとなりました。
 やがて宣教師夫妻には母国への帰国が命ぜられますが、このときすでに、「きみ」は不治の病におかされており、夫妻はやむなくこの幼な子を孤児院に残して旅立ちました。
 「きみ」はひとり、癒えることのない病の床にあって相見えることもかなわぬ母を慕いながら、わずか9歳の短い生涯を終えたのでした。
 いま、この女の子は、東京六本木にある鳥居坂教会の共同墓地に眠っております。私たちは、この幸せ薄い母と子のかなしみに思いを寄せ、母と子をふるさとの地、不二見村を見おろすこの日本平山頂に、再び相いあわせようと考えました。
 ここに全国数万人に及ぶ人々からの浄財を得て、この像の建立ができましたことに、人間の善意と尊厳に大きな感動と希望をおぼえるものであります。
  母と子よ、永遠に安らかなれ
            昭和61年3月31日   「赤い靴」の女の子母子像建設委員会
                          母子像製作 高橋 剛


images/8393nihondaira.JPG [草薙]
 日本平。
 ちゃっきり節民謡碑

「ちゃっきりぶし」 北原白秋
唄はちゃっきりぶし 男は次郎長
花はたちばな 夏はたちばな 茶のかをり
ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ
きゃあるが啼くんで 雨づらよ

さっさ、行こ行こ 茶山の原に
日本平の 山の平の お茶つみに
ちゃっきり ちゃっきり ちゃっきりよ
きゃあるが啼くんで 雨づらよ


images/8380nihondaira.JPG [草薙]
 日本平の頂上から見た富士山
 絶好のビューポイント。



−コメント−

清水には鎌倉以前の名所が多くある。
東海道や北街道沿い以外にも多くの街道があった。