− 伝馬町〜長沼一里塚 −

伝馬町は江戸時代には本陣や旅籠がひしめいている所だったらしい。
今でも静岡駅とバスターミナルに挟まれた所だ。
旅籠を後にして江戸へ向い長沼の一里塚まで寄り道をせずに歩くと4km弱の行程。


images/0001egawa.JPG [江川町交差点]
 伝馬町通りの基点の江川町は御幸通り、北街道、江川町通りの交差する変形5差路の交差点。
 江川町は御幸通りが出来た頃無くなったが交差点の名前で残されています。
 写真正面のビルは再開発された「ベガサート」。その建物の南側の一方通行が伝馬町通り。
 「静岡中心街」の出発点と同じ江川町交差点から伝馬町通りを東に向って出発してみよう。

 この江川町から西の呉服町方面へ向かうページへはこちらをクリック。


images/0005saigo.JPG [西郷山岡]
 幕末の重要な史跡。
 碑が立っている。謂われを読んでみる。

静岡市指定文化財(史跡)
西郷・山岡会見之地
 慶応四年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮熾仁(ありすがわみやたるひと)親王を大総督とする東征軍の参謀伝馬町の西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ松崎屋源兵衛宅で行われた。
 この会見において、徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどが合意され、5日後の3月14日、江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現した。
 明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置づけられるものである。

 ここは慶応4年3月9日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鉄太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります。



images/0041yasuda.JPG [西郷山岡]
 ペガサートの隣にシティオというビルがある。
 下がブティックなどの店が並び、上階にホテルが入っている。
 以前は安田屋旅館があった場所。ビルの前に看板が立っている。

 維新の歴史を変えた街「西郷・山岡の静岡会見」  慶應4年(1866年)2月12日、慶喜が江戸城を出て上野・寛永寺で謹慎した直後に追悼軍が江戸に到着した。官軍の江戸総攻撃は目前に迫り、一部では慶喜の処刑と大江戸大決戦がささやかれた。
 そんな重苦しい空気のなかで、勝らは大きな賭けに出た。勝は山岡鉄太郎(鉄舟)を使者として官軍参謀の西郷隆盛のいる静岡に派遣し、江戸城無血開城と慶喜の助命嘆願の予備交渉に当らせた。
 山岡は江戸から静岡まで官軍兵士の居並ぶなか、「朝敵徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎、大総督府に参る」と叫びつつ、早馬を走らせた。東海道を疾走する山岡の早馬の図は有名な錦絵になっている。
 山岡は西郷の宿舎だった伝馬町の松崎屋源兵衛方を訪ね、3月9日、西郷・山岡の会見が実現した。
 両者は一面識もなかったが、互いに胸襟を開いて折衝した。その結果を、西郷から駿府城代屋敷を御座所として静岡に滞在していた熾仁親王に伺を立てると、宮から七カ条の内論書を得た。
 最終的には14日、江戸での西郷と勝の会見で決着するのだが、実質的な交渉は静岡会見で行われ、江戸の会見はセレモニーにすぎない。
 歴史の転換期で静岡は重要な舞台となっていたのです。   (文責 黒沢 脩)



images/0040tenma.JPG [伝馬町通り]
 伝馬町通りを行く。
 静岡にも109がある。正面の建物がそれだ。

 伝馬町は古くから東海道の駅が置かれた。江戸時代には、駿府伝馬宿、府中宿などと呼ばれた。
 本陣二軒のほか、脇本陣、問屋会所、荷物の貫目改所、旅籠屋、木賃宿があった。
 伝馬とは旅客や貨物の輸送用の馬や人足のことで各地に残る伝馬町はその拠点である。



images/0046tenmayurai.JPG [伝馬町の由来]
 109の前に伝馬町の由来が書かれた石碑が建っている。
 読んでみる。

 伝馬町の歴史は慶長14年(1609)に家康公が駿府を町割して、東海道53次の宿(しゅく)と定めたことに始まる。宿には本陣や脇本陣が置かれ旅宿や商家が軒を連ね、街道を往来する大名行列や旅人により賑わいを呈した。
 明治以後も静岡宿といったが、明治22年市制が布かれ、静岡市伝馬町の誕生となった。以来、況不況の波を克服し、或いは静岡大火、空襲の災禍にもめげず、人々は手を携えて住みよい街づくりに努力、県都の玄関口として今日の繁栄を見るに至った。
 ここに近代的な市街地再開発事業の竣工に当たり先人苦心の跡を偲び、併せて未来への発展と、ゆかりの人々の多幸を念願して祈念のしるしとする。



images/0030tenma-tizu.JPG [府中宿の鳥瞰図]
 府中宿の鳥瞰図があった。
 絵図なのでリアル性はないがイメージがよくわかる。
 赤い線が旧東海道。曲がりながら進んでいる。

images/0034tenma-tizu.JPG [住宅地図]
 当時の住宅地図。

 この看板は江戸時代当時の住宅地図に説明文が次のように書かれていました。
 「府中宿」は安倍川に近い新通り川越町から人宿町・七間町・呉服町・江川町、そして伝馬町を通って横田町に至る東海道を軸にした駿府の城下町全体を指していました。
 府中宿は東海道の中でも最大級の宿場の一つでした。その府中宿の、宿場の役割を担っていたのが「伝馬町」で宿場の公の施設である荷物貫目改め所や問屋会所をはじめ、上と下の伝馬町にそれぞれ本陣と脇本陣、それに、43軒の旅籠が立ち並び賑わいを見せていました。
 徳川幕府による参勤交代の制度が確立されるのに伴い、勅使や大名等の宿泊場として各宿場に「本陣」と「脇本陣」が設けられていました。府中宿には、上伝馬町と下伝馬町に本陣と脇本陣がそれぞれ一軒ずつ設けられていました。上伝馬町の本陣は上本陣と呼ばれた望月家、脇本陣は松崎家でした。



images/0036honjin.JPG [本陣・脇本陣跡]
 本陣・脇本陣跡の石碑があった。


images/0038futyu.JPG [府中宿の由来の看板]
 本陣・脇本陣跡の碑の横に府中宿の由来の看板がある。

 伝馬町界隈の歴史的な場所として徳川家康公の外祖母が眠る華陽院や、朝鮮通信使の休憩場所となった宝泰寺や法伝寺、新光明寺などの寺院や、怪力鬼彦の伝説が伝えられている珠賀美神社等があります。
 徳川幕府末期の動乱期に、15代将軍徳川慶喜公の処遇や江戸城の無血開城への道筋を決めた東征軍参謀西郷隆盛と勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄舟の会談が行われた松崎屋敷跡が市指定史跡「西郷山岡会見の地」となっています。



images/0050tenma.JPG [伝馬町通り]
 伝馬町通りは徐々に大きな建物が消えて市街地から離れていく。


images/0064honjin.JPG [伝馬町本陣]
 先ほどの本陣跡とは別の本陣の碑が立っている。
 大きな本陣が2か所あったらしい。当時の繁栄ぶりが偲ばれる。  伝馬町界隈の歴史的な場所として徳川家康公の外祖母が眠る華陽院や、朝鮮通信使の休憩場所となった宝泰寺や法伝寺、新光明寺などの寺院や、怪力鬼彦の伝説が伝えられている珠賀美神社等があります。
 また、古くから久能や高松など駿河湾沿岸の集落との交易の道であって、江戸時代徳川家康公が亡くなり久能山に葬られてからは、参勤交代で往き来する西国の大名が必ず東照宮参詣の為に通った「久能街道」が華陽院の門前近くの東海道から始まっています。



images/0083tamakami3.JPG [伝馬町・珠賀美神社]
 伝馬町通りの静岡銀行のある交差点を南に曲がると100mほどで珠賀美神社があり、「砥園さん」といわれ敬われている。
 謂われの看板を読んでみる。

 当神社は金剛山寶泰禅寺の鎮守。牛頭天王社として、慶長19年(1614年)6月、徳川幕府譜代の候でありました、京都所司代板倉伊賀守勝重の創建といわれ、宝暦8年(1758年)9月、現在地に移されたと云われています。明治3年12月、今の社号に改められ、昭和15年1月、静岡大火後、区画整理に伴い現在の社境になりました。
 御祭神の主神は健速須佐之男命(たてはやすさのおのみこと)で、誉田八幡大社と松尾大神とを併せて奉祀してあります。この誉田八幡大神は、現在の鷹匠町、旧誉田町華陽院境内に鎮守として、明治12年村社に列格しておりましたが、明示20年1月、相殿神の市杵島姫命(いつくしまひめのみこと)とともに当社の境内に合祀され、今日に及んでおります。
 球賀美神社は、武健康の神であります。
 誉田八幡神社は、破邪の神であります。
 松尾神社は、醸造の神であります。



images/0083tamakami5.JPG [珠賀美神社・石灯篭]
 これが「鬼彦伝説」の石灯籠。

 社前にある久能山東照宮の石灯籠は「鬼彦伝説」の石灯籠として知られ、駿府に鬼彦という怪力者がおり、久能山東照宮の石灯籠を天秤棒でかついできましたが、この地で折れてしまったので、当神社に奉納したと伝えられています。

 

images/0082hodai4.JPG [寶泰禅寺]
 珠賀美神社を西に入ると臨済宗妙心寺派「金剛山 寶泰禅寺」。
 入口に看板があった。

 当山は1381年(永徳元年)に開創される。山号を金剛山と号し、臨済宗に属する。後醍醐天皇の皇子無文元選を開山とし、雪峰禅師を中興とする。
 中興より妙心寺派となる。
 江戸時代、朝鮮通信使の正使服使従事上官等の休憩所に宛てられ、綺麗第一の名を得た。府中の臨済寺、興津の清見寺とともに駿河3刹と称せられている。寺内に今川家最後の勇将岡部正綱の墓、江戸後期の漢学者山梨稲川と儒医戸塚柳斎の碑などがある。
 また、わらべ地蔵の庭としても知られている。



images/0082hodai2.JPG [伝馬町・宝泰寺]
 門は普段は使われていない。
 庭はきれいに整備されている。

images/0082hodai3.JPG [宝泰寺・客殿]
 建物はさほど古くはないがビルの合間の落ち着いた空間。
 

images/0051tenma-mogu.JPG [伝馬町・艾屋]
 伝馬町通りへ戻り東へ。
 伝馬町にはかつて老舗が多かったが今は世代交代されているが、数少ない昔ながらの商売をやっている。
 今の時代に艾(もぐさ)屋で商売になるのか心配だが、続けていって欲しい気がする。

images/0054imoji.JPG [鋳物師町]
 今は無き旧の町名、鋳物師町を説明する碑が立っている。裏に説明があった。

 東海道府中宿の一画に位置し、町名は江戸時代のはじめに鋳物師が住んでいたことに由来します。
 「鋳物師町」の名は今はなく、現在は伝馬町・横田一丁目・日出町に分かれています。



images/0068keyoin.JPG [花陽院門前町]
 今は無き旧の町名、花陽院門前町の説明の碑。
 碑の裏に説明がある。

 「此町は元横田の内にて、寺門前なるによって然唱(しかりととな)へ、寺に隷(つ)くなり」と江戸時代の地誌「駿河志料」に記されています。町は伝馬町と鋳物師町とに挟まれ、東海道に面し府中宿の一画を構成しています。
 町名の華陽院は、明治5年(1692)「駿府数并家数人数覚帳」などによります。華陽院門前町は、明治5年誉田町と中八幡町となり、現在は伝馬町と鷹匠二丁目の一部となっています。
 町名の由来となった玉桂山華陽院は、元来智源院と呼ばれ、松平竹千代、後の徳川家康公が今川氏の人質時代に勉学に通った寺として知られています。
 駿府ででの竹千代の養育にあたった外祖母源応尼(家康公の生母お大の方の母)の法名に因み華陽院に名を改めました。華陽院には源応尼の墓と並んで家康の5女市姫の墓があります。



images/0075keyoin.JPG [伝馬町華陽院]
 花陽院門前町の説明の碑のある路地を北に入るとすぐに保育園がある。浄土宗「玉桂山 華陽院 府中寺」に併設されている。
 ちょっと入らせてもらうと華陽院の謂われの説明看板があった。
 華陽院は、徳川家康の祖母・源応尼(げんのうに)の菩提寺で、はじめ知源院(ちげんいん)と呼ばれていた。源応尼は、天文20年(1551年)8月、当時今川家の人質となっていた竹千代(後の家康)の養育者として岡崎から招かれ、知源院の近くに寓居を構えた。
 源応尼の親身の愛情は、肉親と遠く離れて淋しく暮らしていた幼い竹千代の心を大いに和ませた。竹千代は源応尼の寓居と田んぼをはさんで隣り合ったこの寺へよく遊びに来たが、竹千代を慈愛を持って迎え、時には文筆の師となって訓育したのが、住職・知短(ちたん)だった。
 源応尼は永禄3年(1560年)5月6日、成人した徳川家康が、今川義元上洛の先陣として浜松にあるとき、駿府で逝去した。後年、大御所として駿府に引退した家康は、祖母のために盛大な法要を営んだ。「華陽院」の名は、その法要名から改められたものである。



images/0075itihime.JPG [市姫墓]
 市姫は家康の5女
 境内には、源応尼の墓と並んで、7歳で死んだ家康の5女市姫の墓があり、近くには側室のお久の方の墓もある。
 主な寺宝 団扇(家康が使ったもの)
      ひな屏風(市姫が使ったもの)

 

images/0075gennou.JPG [源応尼墓]
 源応尼は家康の竹千代時代の養育者。


images/0075ohisa.JPG [華陽院お久の方墓]
 徳川家康公の側室 お久の方の墓

他にもこんな人の墓がある。
 御定番 松平右近信之の墓
 御城代 安藤直之の墓
 御城代 安藤出雲守 藤原広栄の墓


images/0075kakejiku.JPG [華陽院掛軸]
 寺の玄関に旧駿府の絵図が掛軸にして架かっていた。
 僧正にに伺ったらコピーとのこと。

images/0074kunokaido.JPG [久能街道]
 久能山東照宮道。説明文を読む。

 東海道府中宿(静岡市伝馬町)から、久能山の麓に通じる久能街道はここから始まります。目の下に葵駿河湾、遠くに伊豆半島を見ることができる久能山の頂には、久能山東照宮があり、そこには300年にわたる平和な江戸時代を開いた徳川家康がまつられています。江戸時代、東海道を上り下りする大名たちは、ここで東海道を離れ、久能山にお参りに行きました。幕府に仕えた大名たちにとって、家康は神様と同じに考えられていたからです。
 昭和20年代まで、この場所には「久能山東照宮道」と記した石碑がたっていました。
 もともと久能街道は、久能海岸で作られた塩を始めとする海の産物を駿府に運び込むために、古代から使われてきた静岡でもっとも古い街道の一つで、駿府の町に北側から入ってくる安倍街道や藁科街道につながります。そして、町の中央には、東海道が東西に走っています。駿府の町は。南北から生活物資が運び込まれた久能街道や安倍街道と東西から人や情報が流れ込んだ東海道が交差するところに発展したことになります。久能街道は、はるか昔から駿府を支えてきた大切な道でした。


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images/0080tutuji.JPG [つつじ通りの碑]
 このつつじ通りは防火帯として作られた32m道路。
 静岡環状線の一部となっている。
 この碑はかつての市長「荻野」氏自筆で「和」と刻まれている。

images/0076tutuji.JPG [つつじ通り]
 つつじの咲く時期にはピンクの帯ができる。
 写真は秋なので紅葉している。

images/0862nisinomiya.JPG [西宮神社]
 静岡にも西宮神社がある。本場西宮と同じえびすさんを祀ってある。
 「おいべっさん」と呼ばれる。毎年10月19日と20日にはエビス講の縁日が行われ、「ご縁起」と呼ばれる祝鯛や千両箱、お福の面、小判などを吊るした飾りを買って帰る参拝者で賑わう。

images/0864daruma.JPG [だるま屋]
 西宮神社の前には縁起屋がある。
 

images/0870tenma.JPG [伝馬町通り]
 西宮神社とだるま屋前の伝馬町通り。
 このあたりは横田町。『和名抄』に載っている「横田郷」が由来の町名。
 律令制度の時代から駅として発展していた。

images/0870saruyatyo.JPG [猿屋町の由来]
 この辺りはかつて猿屋町と呼ばれた。

 町名は、猿引きの住む町であったことに由来します。
 猿引きとは、正月に家々を回り、猿に舞わせて一年の安泰を祈る芸能のことで、猿廻しとも呼ばれます。
 江戸時代の地誌「駿国雑志」には、この猿屋町の猿引きについて詳細な記述が見られます。それによれば、この地には、今川氏の時代から猿引きが住み、正月・5月・9月に駿府城内や城下の家々などに出向いて馬の病災除けや、子供の疱瘡除けを願い猿の舞を披露していました。猿は馬の守護神であるという古くからの信仰があり、そうした信仰に基づいて厩を回っていたようである。
 元禄5年(1692)の「駿府町数・家数・人数覚帳」によると、当時の猿屋町の家数は6軒、人数は54人でした猿屋町は大正4年下横田町へ編入されました。




images/0879tenma.JPG [伝馬町通り]
 伝馬町通りはきよみずさん通りと出会い、真っ直ぐに進む。
 この先150mで国道1号線に交差する。
 このあたりから、かつては下横田と呼ばれていた場所だ。

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images/0880tenma.JPG [伝馬町通り]
 きよみずさん通りを越えた所で今来た道を振り返る。
 江川町交差点から伝馬町通りを1km来たあたりだ。

images/0895yokota.JPG [下横田・東見附]
 国道を越えるとすぐにJR。
 昔はここに踏切があり、下横田の踏切と呼ばれていた。
 下横田には元禄年間に設けられた枡形もった東見附があった。今はどこにあったかわからないが駿府の町の入り口であった。
 西見附は新通りにあったので府中宿は4km近い広さがあったことになる。  東見附は枡形で、構成する石垣は高さ2尺の土手の上に3尺の石垣を積み、その頂部は屋根形、底部の幅は9尺であった。



images/0901yokota.JPG [下横田]
 今の旧東海道はJRの下をくぐる。
 この先の町々は静岡市に編入する前には豊田村南安東と呼ばれていた地域。 

images/0902toyohara.JPG [豊原町]
 JR在来線と新幹線の下を抜けると旧東海道は豊原町を通る。
 通りぬけた所から府中宿方面を振り返って見る。  豊原町は豊田村の入口になる。豊田村に入る原っぱだったのだろうか。



images/0904magari.JPG [曲金]
 JRのガード下を抜けてから100mほどの変則交差点を左側へ進み、また200mほど進んだ場所から東を臨む。
 このあたりは曲金と呼ばれる町名だ。
 ここから路地を南へ入ると軍神社がある。  曲金の町名の由来は2説あり、直角に曲った金尺のような区画された水田があったことから呼ばれるようになったという説と、『和名抄』にも載っている「真壁郷」がなまったともいわれている。付近一帯には奈良時代に区画した条里制の遺構がある。



images/0905gunjin1.JPG [軍神社]
 軍神社は楠の大木が数本。
 数百年の樹齢がこの神社の古さを物語っている。

images/0905gunjin5.JPG [軍神社]
 楠は皆ありがたさを感じるほどの生命観に満ちている。
 

images/0905gunjin8.JPG [軍神社]
 さほど立派でもない神社がたたずんでいた。
 祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、建御雷神とも表記する。
 雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されている。

 軍神社は日本武尊が東征の際に、戦勝を祈ったのがはじまりという伝説がある。律令時代に有渡郡の正倉と郡役所がこのあたりにあったといわれ、それを護る軍隊の軍神を祀ったともいわれている。



images/0905gunjin9.JPG [軍神社]
 意味がわからない記念碑が立っている。
 この神社には謂われを書いた説明はどこにもなかった。

images/0905hozoji.JPG [法蔵寺]
 曹洞宗「佛国山 法蔵禅寺」。本尊は聖観世音菩薩。
 この寺には
 法曹界の巨星 海野晋吉
 文部省唱歌の「背くらべ」や「おもちゃのマーチ」の作詞家 海野 厚
 などの墓がある。

images/0905hozoji8.JPG [法蔵寺]
 寺に入ると手入れがいきとどいた海野家の墓がある。
 説明の看板があったので読んでみる。

<郷土の生んだ 法曹界の巨星 海野晋吉先生>  海野晋吉先生は、大正、昭和の歴史的な思想・政治裁判に登場し、戦後も世間の注目を浴びた数多くの事件(松川、砂川裁判等)の弁護に立ち、法曹人の使命たる正義と人権擁護を旗印にかかげて、終始一貫在野の法曹人として精魂を傾けられ、選ばれて「日本弁護士連合会長」「全国選挙管理委員長」をはじめ数々の要職について、多彩な活動をされた先生である。
 片山哲元総理大臣は、石塔脇に自筆の墓誌を献じて、その功績を讃えている。
 (中略)
 先生は日頃「故郷忘じ難し」と申され、西豊田小学校時代に隣接の軍神社境内で遊んだ事や、静岡中学(現静岡高校)の頃、涼を求めて当寺の本堂脇の部屋で勉強した思い出を懐かしそうに話され、郷土曲金の地と人々をこよなく愛し、当寺の護持にも特に尽くされた暖かい人情をもった篤信の人で、わが郷土の生んだ偉人である。

 

images/0905kitunegasaki.JPG [狐が崎地蔵尊]
 地蔵さんの説明書き。

 狐が崎とは、寺の正面に見える谷津山の南麓曲金1丁目地先のこと、谷津山の尾崎で突出しているので「狐の鼻」のような地形
 往古「狐が崎の渡し」「梶原合戦古戦場」として史話に残っている。
 此處(勝田医院前辺)は昔、東海道を往来して府中に出入りする山脚の要所で、京都の清水寺と永観堂(禅林寺)の地形と駿府音羽の清水寺とこの地と相似していることから名付けられたという「永観堂」という堂宇が建ち、地蔵尊が祀られていた。




images/0905senniti.JPG [千日地蔵尊]
 もうひとつの地蔵さんの説明書き。

 今から凡そ300余年の昔、延宝4年(1676)のこと、この地方一帯に悪病流行して、多くの人々を苦しめた。
 折しも、村内に信仰厚き者あり、わが身を犠牲にして、病に苦しめる人々を救わんとして、曲金5丁目地先(済生会病院跡)に丈余の穴を堀てその中に入り、読経祈願すること幾数日、村人達は竹筒を通して聞こえるお経の声と鐘の音に手を合わせ感謝するも、遂に2月15日正午、その声途絶えて入定された。
 此の祈願と犠牲が佛天に通じ、一国七郡に蔓延した疫病悉く退散して、もとの平和な村にかえったので、村人たちはこの佛様の化身のような修験者の菩薩を弔うため堂宇を建立し地蔵尊を安置して、千日参詣の願をかけてお祀してそのご恩に報じたと伝えられてこれを「千日地蔵」といわれている。



images/0905bato2.JPG [馬頭観音]
 法蔵寺を出て西豊田小学校の外壁に沿って東へ向うとすぐの角に祠がある。
 馬頭観音の説明書きが立っている。

<馬頭観音の由来>
 古来ここ曲金、谷津山南麓の地を「狐ケ崎」と称し「古戦場」として知られている。正治2年(1200)梶原景時は、鎌倉幕府の御家人として、源頼朝の寵臣であったが、その薨後、同輩に妬まれて遂に幕府に追われ、一族33騎は上洛の途中、駿河の国吉田、的場(一説には興津清見関)まで来て近郊の武士団に露見して弓矢を射かけられた。
 梶原主従は、ここ、狐ケ崎まで追い詰められ合戦川(今も春日町から曲金1丁目地先を流れる安倍川の支流)付近で返し合わせて大合戦を展開した。この戦いで敵矢に斃れた景時の「麿墨」をはじめ、一族郎党の愛馬を懇ろに葬るよう村人に頼み、反撃に転じて武士団を瀬名川、大内辺まで退却させたが新手が加わった為、遂に戦運利にあらずして力尽き、全員討死した。(今も大内の梶原堂に祀る)
 村人達は、堂塔を建てて供養し、又諸願を叶えて下さる「願かけ馬頭観音」としても、近在の信仰を集めていると、村の古老達によって語り継がれて来た。
   昭和51年10月  町内協賛者有志建之
   昭和62年4月   由来看板再建選文 法蔵寺住職
              同    施主 海野仏具店



images/0905kanajizo2.JPG [金地蔵]
 馬頭観音から南へ400m行った所にお堂が建っていて脇に説明書きが立っている。

<「金地蔵」由来記>
 今から凡そ300年程前「260年の天下泰平な世の中だ。」と言われた江戸時代。でも駿府に近い曲金の地にも、悪疫流行し、農民たちは土地の城代、町奉行、代官に依頼を重ねた。しかし防疫手段は後手後手になり一向に悪疫弱まらず、その上、延宝年間「1675年〜1676年」にかけては、コレラ病が蔓延し、農民たちは、「3日コロリ」と恐れその防疫に力を注ぐ。一方神仏に祈祷祈願を続ける。
 1853年嘉永年間には、またまた天候不順、干魃に見舞われ、農民挙って雨乞いを続けるも、その効無く、作物の枯死は見るに絶えぬ程無残でした。
 当時天災地変、災害の続く折りには、村の角地に地蔵尊を建立するならわしがあったと伝えられる。
 曲金5丁目「蔵屋敷」の字名は遠い昔、奈良時代に「正倉」のあった地で、古い水田址には条理性の遺構が巡っており整然とした水田、農道が開かれ、農民に便利さを与えていた。
 何時の頃からか、この農道の辻角に「金地蔵」が建立され、その脇地に庚申塔が建てられた。
 収穫の秋たわわに実る稲穂、作物の災害から見舞われぬよう台風シーズンを前に7月24日を金地蔵の祭日とし、この日は朝から自分の水田から収穫した米で、だんごを作り、地蔵尊にお供えし、念仏を唱えて、夜更けるまで焚火を囲んで語りあかしたと云う。村民たちは、生活を脅かす災害退散を祈願し、精出して働く事は、家族の喜びであり、そして子どもを産み育てる事はやがて、悪魔退散させる事につながるのだという考え方が、生まれるようになった。
 そして天地天変、悪疫流行もなく厳しい労働にも耐える健康な躰、黄金の波打つ稲田を見るにつけ、金地蔵尊の御守護を信じ、同時に健康な夫婦から生まれる子どもも、念ずれば丈夫で安産できると思うようになった。
 戦前は、金地蔵尊の前に一本の線香と花を添えて祈る若夫婦の姿がよく見受けられたと古老たちは語ってくれた。
   静岡市史編集専門委員 安本博 撰文
   曲金5丁目町内会

 それから現在に至るまで毎月24日を縁日として、老母たちが祠の美化、生花線香をあげて、ご詠歌を唱え、心の安らぎを語る憩いの祠ともなっている。
ご詠歌  ひとせきて ふたせにわかるる 金地蔵 おさんのひもを とくぞ うれしき
    平成4年7月吉日  町内 山本きよ編纂



images/0907magarikane.JPG [曲金道標]
 法蔵寺と軍神社に隣接して西豊田小学校があり、童謡「せいくらべ」の碑が立っているらしいが、不審者と間違えられると厭なので小学校へ入るのはやめて旧東海道に戻る。
 しばらく行くと道標が立っていた。

images/0909magarikane.JPG [曲金]
 道標から直ぐ先に「柚木の地下道」と交差する。
 このあたりから旧東海道はふたたびJRと交差する。  

images/0910magarikane.JPG [曲金]
 JRに旧東海道は寸断されている。
 この写真のあたりをJRの向こう側に見える谷津山方面へ向かっていたらしい。
 やむを得ず「柚木の地下道」をくぐって旧東海道を探す。

images/0922naganuma2.JPG [柚木]
 地下道を抜けると国道1号線に出る。
 出た辺りは柚木。東に進んだ信号の所が旧東海道との交差点。旧東海道がJRへぶつかる場所を確認する。

images/0922naganuma.JPG [柚木・国道]
 JRで寸断された所から改めて旧東海道を進むことにする。
 この先の信号で国道1号線を突っ切ることになる。

images/0918aikawa5.JPG images/0918aikawa7.JPG [相川鉄工]
 国道1号線の信号を渡る手前の東側に相川鉄工がある。
 懐かしい雰囲気を持った建物なので写真を撮らせてもらった。
 平成21年中に取り壊すのだそうだ。

images/0923naganuma.JPG [柚木]
  国道1号線を渡ってから振り返る。


images/0925gokoku.JPG [護国神社]
 東へ進むと旧東海道は静岡鉄道の線路に沿って進む。
 すぐ踏切があり、護国神社へ通じる。ちょっと寄り道をしてみる。

images/0925gokoku33.JPG [護国神社]
 護国神社の南の遺族会などが入っている「つつじ館」の前に軍刀を持った銅像が立っている。
 「工学士 市川紀元二像」と書かれている。像の前に植栽の謂れが書かれた看板があった。

<植栽趣意>
 過ぐる大戦において静岡聯隊最後の部隊である伊藤豪大佐以下三千有余名の将兵は昭和19年5月勇躍南方戦線に出陣した。
 然るに戦局回天の雄図空しくサイパン島およびその周辺海域に華と散った。
 現在の平和な生活を感謝し、その志と事実を永く憶えんがため、桜の若樹を植え記念とする。
 春ことに爛漫と咲きしって英魂を慰めよ
  昭和52年8月14日   遺族代表 伊藤小夜
           伊藤記隊付陸士第58期士官候補生一同



images/0925gokoku25.JPG [護国神社]
 「つつじ館」の前に建っている歩兵第118聯隊の慰霊碑。



images/0925gokoku35.JPG [護国神社]
 市川紀元二像の前に立っている石碑「殉国碑」。
 石碑の文と隣の由来碑を読む。

<殉国碑 泉第5316部隊之碑>
 泉第5316部隊ハ關東軍ニ屬セル獨立混成旅團トシテ支那事變ノ拡大トトモニ熱河ヨリ中國ニ進出
 長城線ヲ突破シ 昭和12年10月張家口ニ於テ第26師團獨立歩兵第13聯隊トシテ編成セラレ 内蒙古ニ進駐 同年11月26日軍旗ヲ奉ズ
 (以下省略)

<殉國碑の由来>
 去る太平洋戰争において 主として本縣出身者により編成された泉第5316部隊(獨立歩兵第13聯隊)は 内蒙古(モンゴル)の厚和(綏遠すいえん)に在って幾多の作戰警備に任じ 昭和19年7月フィリッピンに轉戰した
 途中 部隊の一部はバシー海峡において魚雷攻撃を受け軍旗とともに海歿
 残る主力はレイテ島の決戰に臨み死闘すること半歳 矢盡き刀折れレイテの地を朱に染め遂に全員玉砕した
 遠い異境の地に飢えと疲勞に耐えながら散華された我が勇士ゆかりの地に何かを遺し 永遠にこれを顕彰したい心が結集され 昭和33年2月泉五三一六會を結成し會員の一致協力により同年9月ここに念願の殉國碑を建立し 毎年秋分の日にこの碑の前で慰霊祭を行っている



images/0925gokoku26.JPG images/0925gokoku27.JPG [護国神社]
 「つつじ館」の前には長島銀蔵翁の寿像と西村直己先生顕彰像と書かれた像も建っている。



images/0925gokoku68.JPG [護国神社]
 8月13日からは「万灯みたま祭」が催されていて社務所も賑やかだった。



images/0925gokoku73.JPG [護国神社]
 「万灯みたま祭」の時は本殿、境内の周辺に提灯が並ぶ。



images/0925gokoku4.JPG [護国神社]
 普段の護国神社は非常に静かだ。
 歴史は古くないが広い境内に荘厳な雰囲気を持っている。
 終戦記念日には慰霊祭が盛大に行われ、8月22日から3日間、万灯みたま祭がおこなわれている。

 静岡県共祭招魂社が前身で北番町に跡地の碑が立っている。

 明治のころに静岡県共祭招魂社として北番町に創設し、国のため殉じて靖国神社に祀られた静岡県下の英霊を分祀したが、第2次世界大戦時に現在地の柚木へ移転した。
 また静岡護国神社と改称された。



images/0925gokoku77.JPG [護国神社]
 本殿広場の南には慰霊碑が立ち並ぶ。
 「愛の灯」という従軍看護婦の像が建っている。碑文を読みます。

<碑文>
 昭和12年以降の戦時事変等に際し赤十字の旗のもとに日本赤十字社静岡県支部救護員として応召し、国の内外において傷病者の救護に献身し、博愛と奉仕の使命に殉せられた方々の遺徳を偲び、その御霊のとこしえに安かれと祈ってこの碑を建立しました。
 平和のいしづえとして尊い命をささげられた私どもの同胞がこよなき誇りを抱きつつ愛の灯の偉大さをしのび、ふたたびこのような悲惨なことがないようにと念願し、これを後世に永く伝えようとするものであります。
  昭和50年10月吉日建之  日本赤十字社静岡県支部長 山本敬三郎
  日本赤十字社看護婦同人会静岡県支部長 小山シヅ
   殉職救護員芳名  23名の氏名



images/0925gokoku80.JPG [護国神社]
 「鎮魂」「比島派遣 独立歩兵第164大隊 元独立守備歩兵第32大隊」と書かれた碑が建っている。碑文を読む。

<部隊の略歴>
昭和17年2月13日  比島派遣独立守備歩兵第32大隊は静岡歩兵第34連隊補充隊に於て編成完結総員762名
同年3月23日     第10独立守備隊隷下部隊として比島攻略戦参加のため宇品出帆
同年4月3日      フィリピンルソン島リンガエンに上陸
同年4月20日     フィリピン中部ビサヤ諸島攻略のためセブ島に上陸爾後セブ、ボホール、レイテ島の戡定作戦竝に警備
昭和18年5月18日  第11独立守備隊隷下部隊と警備を交代ミンダナオ島カガヤンに転進
同年6月24日     F作戦のためミサミス州に上陸爾後ミサミス、ザンボアンガ、ラナオ各州の戡定作戦竝に警備
同年11月16日    第10独立守備隊は軍令により独立混成第30旅団に改編 大隊は独立歩兵第164大隊に改編
昭和19年4月10日  大隊主力はミンダナオ島東海岸リアンガ地区の戡定作戦竝に警備
同年6月15日     独立混成第30旅団は軍令により第100師団(據兵団)に改編 大隊は第75旅団隷下となる
同年9月3日      大隊はミサミスよりパガデアン、コタバトを経てサランガニ湾ダジヤンガスに転進
同年10月5日     師団集結のためダバオ地区に転進師団左翼隊となりダバオ河左岸インダガン、イシン地区に配備
昭和20年4月17日  米第10軍団はミンダナオ島コタバトに上陸 4月30日第24師団を主力とする米軍はダバオに進攻 大隊はダバオ市街北方5粁バガカ高地前面に進出せる米軍橋頭堡陣地に対し攻撃を敢行
同年5月11日     師団命令によりダバオ河右岸に転進 ウラ、キヤンガビヤオ地区に布陣 爾後タクナン、ミンダル、リビーの米軍拠点に対し特攻隊攻撃を続行
同年5月31日     師団命令により1ヶ中隊を海軍第32根拠地司令部指揮下に配属するためダバオ河左岸インダガンに派遣
同年6月1日      米軍主力はウラ、ギヤンガビヤオ所在の大隊陣地に対し連日猛攻を加え来たり死闘を展開す。
6月18日に至りベリサリオ、ラソン、ゴマラン地区に於て同月24日よりタモガン草原にて戦闘を続行、爾後ヌガンウピヤン地区に至る
。 海軍部隊配属中隊は左岸転進以来インダガン、マンドック、ドミンガに於て戦闘を続行、爾後奥の森方面に至る。大隊は米軍来攻以来4ヶ月間に渉り千二百有余名の兵力をもってこれを迎撃、善戦敢闘するもその大部を失う。
同年9月4日      第百師団の投降命令が発令され大隊は9月19日タモンガン草原に於て米軍に降り戦争終結となる。 大隊編成以来比島各地に転戦し其の間戦没せる将兵は990有余名に及べり。



images/0925gokoku82.JPG [護国神社]
 「ノモンハン事件」「慰霊碑」と書かれた碑が建っている。碑文を読む。。

<慰霊碑の由来>
この碑はノモンハン事件に従事して散華した戦友の慰霊のために建立したものである。
ノモンハン事件は昭和14年5月中旬、旧満州国興安北省ハイラル南方ノモンハンにおけるソ蒙軍の越境に端を発し、紛争が拡大して平原の砂丘を血に染め日満・ソ蒙両軍が激しい砲火を交えた日本戦史に特筆される事件である。
直接戦闘に参加した部隊はハイラルに駐屯の第23師団隷下の将兵であった。
この戦闘は関東軍の作戦予測に反しソ蒙軍の近代兵器を投入駆使しての猛攻を受け、寡兵肉弾をもってこれに応戦し悪戦苦闘の連続であった。
特にノロ高地、バルシヤガル高地、フイ高地における悽惨苛烈な死闘は後日の戦訓となるほどであった。
同年9月16日停戦協定が成立したが、この間実に1万1千124名の犠牲者を出したことは痛恨未だ極りないものがある。
ここに幾度かの死線を乗り越えて来た静岡県の生存者を中心に、広く関係者の賛同を得て宿願を達成することが出来関係者一同の感激もまた大である。
願わくは一身を顧みず祖国防衛の大任を全うし殉国散華された将兵の崇高な精神と武勲を後世に伝え以って平和への祈念としたい。

幾久し悲願実りてこの聖地
今ここに建つノモンハンの碑
昭和54年9月16日建立
ノモンハン事件従軍生存者有志一同
献歌 中村双葉
揮毫 渡邊墨仙



images/0925gokoku84.JPG [護国神社]
 「鎮」という碑がある。由来を読む。

 大東亜戦争厳烈なる昭和19年2月19日元満州遼陽に転変せる我が満州第574部隊(静岡県出身者)は風雲急を告げる南方諸島大宮島(グアム島)に転達しましたが同年7月21日連隊長末永大佐以下最後の突撃を敢行遂に玉砕しました。
 又、各地に転戦して護国の礎となられた幾多戦友の霊永しえに安かれと、ここに慰霊碑を建立しこの貴い武勲を永く後世に伝えるものであります。

  昭和51年10月吉日
     慰霊碑建設世話人会



images/0925gokoku86.JPG [護国神社]
 「内匠部隊之碑」由来の碑を読む。

 昭和17年3月20日内匠部隊長以下738名中部第36部隊にて編成
 3月20日宇品出港バターン半島に直行攻撃参加
 4月21日ミンダナオ島に転進、8月よりコタバト州警備戡定作戦参加
 12月20日第3部隊より充員更に18・19年現役兵入隊在留邦人現地入隊等最大兵力1800名となる
 19年9月10日部隊は米機約70機によりコタバト地区で爆撃さる
 数機をを撃墜し師団長より感状を受く
 以後サルナヤン、ミラヤ地区に転進
 20年4月17日、米8軍コタバト地区に上陸
 部隊はこれを迎撃奮戦し壊滅す
 英霊千数百名ここに祀る
<由来>
 終戦30年余を経た現在ミンダナオ島コタバト地区は、遺骨収集に対し厚生省の認可を得られず有志により再度の収集にて二十数体を収集したのみ、月日を経過するに従い地形の変化と風化により益々困難となる為、コタバト平和の塔の分骨をし茲に建立す

  昭和51年3月21日
     コタバト静岡県人会
      同  遺族会



images/0925gokoku74.JPG [護国神社]
 「あゝ拓魂」という比較的新しい碑。

 民族の悲劇に散った 満洲開拓の霊やすかれと祈りをこめて護国の英霊を祀る神域に拓魂の碑を立つ
 五族協和道義世界建設の理想のもとに永遠の平和を希がった君たちは国家と運命を共にし国策に殉じたのである
 かつて日本の生命線とまで叫ばれた赤い夕日の満洲に眠る君たちを憶うとき雄図空しく歴史の断層に斃れた非命に痛恨の涙はつきない
 日本人として この前に ぬかずくとき新たな民族の使命を感じ君たちの遺志を無にすることなく自由と平和の道を拓くことを誓うものである
 開拓精神は創造発展の真髄 真理探究の道である君たちの永遠の生命を信じ冥福を祈る

  昭和49年4月23日
   静岡県知事 竹山祐太郎



images/0925gokoku9.JPG [護国神社]
 本殿前の広場の西側に「平和への誓い」という記念碑が建っている。
 終戦50周年を記念して建てたとのこと。

<終戦50周年平和祈念事業改修記念碑>
平和への誓い
  平成7年4月  静岡県知事 石川嘉延 謹書

 この霊域は明治維新以来太平洋戦争に至る間に国のために命を捧げたもの及び戦禍のために倒れた人々の霊を慰めその迷芳を後世に伝えるために県民の総意によって構想せられたものである。
 ここに戦争によるあらゆる思出を収めこれに参するものに新らたな愛国の精神を振い起たせ平和日本興隆の象徴としたい念願である。
   昭和27年11月3日 財団法人静霊奉賛会長 静岡県知事齊藤寿夫誌



images/0925gokoku-a.JPG images/0925gokoku-c.JPG [護国神社]
 本殿前の広場を囲む林の切れ目から谷津山の頂上へ向かうハイキングコースの入り口になっている。
 まるで「トトロの森」に入って行くような雰囲気がある。
 ちょっと入ってみると泉が湧いていて保護している場所があった。

images/0924yatu40.JPG images/0924yatu42.JPG [谷津山浅間神社]
 護国神社から南東方向へ静岡県自動車学校を右に見ながら400mほど行くと東海大学短期大学部が見える山際に小さな鳥居が立っている。
 谷津山の頂上にある浅間神社への入り口だ。

images/0924yatu44.JPG images/0924yatu46.JPG [谷津山浅間神社]
 ハイキングコースのような参道を進む。
 約400段を越える階段を登ると頂上に到着する。

images/0924yatu48.JPG images/0924yatu19.JPG [谷津山浅間神社]
 頂上にも鳥居が立っている。
 神社といっても社殿は建っていない。

images/0924yatu17.JPG [古墳]
 浅間神社のある場所は実は古墳なのだ。
 北東方向に少し下りた所から全体を見てみる。自然の地形を生かした前方後円墳の円の部分。

 谷津山古墳(柚木山神古墳・ゆのき)
 静岡平野の中央に位置する標高108mの独立丘陵谷津山の山頂に築かれた「谷津山古墳」は、古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳です。
 この古墳は、静岡清水平野の古墳の中で最も古く、かつ最大(全長約110m・高さ10m以上)で後円部の中央に披葬者を埋葬した竪穴式石室がヘギ石を積み重ねてつくられていました。
 江戸時代の天保年間と明治時代に掘り起こされてしまい、その詳細は不明ですが、当時の様子を伝える記録から、大きな板石で覆われた長さ約3.5m竪穴式石室の中に、朱を塗った木棺が豊富な副葬品と共に納められていたことが推測できます。
 銅鏡6面をはじめ、銅鏃・鉄鏃・剣などの武器それに紡錘車・巻軸形石製品・砥石・石製鏃・管玉など披葬者の社会的地位の高さを示す副葬品が出土していますが、残念ながらそれらの多くは散逸してしまいました。
 古墳の形態・規模・副葬品の内容それに静岡清水の両平野を見渡すことができる立地条件から、谷津山古墳の披葬者は「旧事本紀」(平安時代に編纂されたとされる古代の史書)による廬原国(いほはらのくに・古代の駿河国の前身)の墳墓ということができます。



images/0924yatu18.JPG images/0924yatu52.JPG [古墳]
 周りを見ると石垣が組まれた所もある。
 南側の四阿の脇にも小さな円墳がある。説明はないが2号墳か?それならば前方後円墳なのだが?

 尾根伝いに歩くと10分足らずで音羽町の清水寺から登った広場まで行ける。

 清水寺へ向かうページへはこちらをクリック。
 

images/0927naganuma.JPG [長沼]
 護国神社まで戻り、旧東海道は静岡鉄道の線路に沿って進む。
 2006年に、長沼駅手前の線路の北側にバンダイのホビーセンターが建った。
 静岡は模型の町なので進出してきた??

images/0930naganuma.JPG [長沼]
 長沼駅には車庫があって古い車両も置いてある。
 この辺は高い建物がないので、天気の良い日には富士山も見ることができる。 

images/0932naganuma.JPG [長沼]
 長沼駅を越えると急に車の通りも減って静かになる。


images/0943kuoin.JPG [久應院]
 長沼駅から300mほどで曹洞宗「長沼山 久應院」という寺があり、その向いに一里塚があった。
 

images/0940itiri.JPG images/0942itiri.JPG [一里塚]
 久應院前の民家のわきに一里塚の碑が立っていた。
 

images/0944itiri.JPG images/0943itiri.JPG [一里塚]
 久應院前の民家のわきにあった一里塚の道標が無くなっていたので、どうしたかと探してみたら、長沼公民館の隣に移設されていました。
 (H27)


images/0948naganuma1.JPG [長沼]
 旧東海道は再び国道に出会う。


images/0948naganuma.JPG [長沼]
 今は旧東海道の正確な位置はわからない。
 

 この後、古庄〜谷田へと続く。






−コメント−

府中宿の中心となる伝馬町から東国へ向う。
旧東海道はJR東海道線を南に渡り、また北へ渡る。
短い行程だが見どころは多い。