備 前 法 華 の 系 譜 |
備前法華の系譜
★備前法華の系譜 ◆日蓮の正系 【日蓮宗の宗規】 不受不施は日蓮宗の古来からの宗規である。 2019/09/10追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より 寛正2年(1461)京都の法華諸門流は共同して謗法の社寺参詣、謗法供養の二項につき、いわゆる「寛正の盟約」を結ぶ。 (盟約の1項に「謗法の社寺への参拝禁止と謗法不受を守ること」とある。) 明応元年(1492)足利義稙が不受不施の制法を許可する折紙を下す。 元亀3年(1572)には足利義昭が、天正5年(1577)には織田信長が、天正17年(1589)には豊臣秀吉が同じ趣旨の折紙を下す。 【日蓮】 2019/07/28追加: ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より 日蓮: 日蓮は法華経をどのように人々に提示したか。それは日蓮が法華経の中から、何よりも、実践を重く見て、それを抜き出したことであろう。 日蓮によれば、人間はまず前生で正法(法華経)を誹謗した者であり、あるいは他人の正法誹謗の罪を放置した者である。前生で犯したこの罪を強く意識する者のことを、日蓮は「法華経の行者」と呼んでいる。 罪を意識する存在−法華経の行者にとって、その自由とは固定静止したところに求められるのではない。逆に、法華経の行者であろうとすることを妨げる世間の誘惑や障害に対し、それを退けることのできる「ちから」なのだ。この「ちから」を絶えず保っており、保っていることを自他ともに確かめられる具体的な規律と心がまえ、それが不受不施ということであった。 法華経−この膨大な法華経、日蓮は実践者−法華経の行者−というただ一つの観点から、法華経を「我もの」としていったのではないか。 「従地湧出品第15」では上行菩薩を始めとする無数の地湧菩薩が大地から出現する。 日蓮が自分と法華経を固く結びつけたのは、この地涌の菩薩たちに自分をなぞらえるというやり方であった。法華経の地涌の菩薩が出現してくる場面は日蓮とその多くの正系の弟子たちの受難をまことによく暗示している。 日蓮が自分を上行菩薩になぞらえたのは、日蓮のよって立つ、時代の情況を鑑みると、それは至極当然であった。 そして、地涌の菩薩になぞらえられる法華経の行者、その資格を成立させる条件とはなにか、それが不受不施ということ、つまり正法(法華経)を誹謗するものに与せず、しかも謗法の罪をみても放置しないことである。 日蓮が主として示したのは対権力者との関係の際にはっきりと表れてくる。 --- 「忘れられた殉教者」終--- 2019/09/03追加: ○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) より 《日蓮聖人の不受不施》 日蓮法華宗における「不受不施」の教義は、日蓮聖人の守護国家論・立正安国論に説かれる留施、止施、不施に依っている。 不受は他宗の信徒や未信徒は謗法者であるため、これらの人々の供養、施物は受けない。不施は信徒の立場で言えば他宗謗法の僧に布施供養をしない事である。 立正安国論に 「釈迦の以前の仏教は其の(謗法)罪を斬るといえども、能仁の以後の経説は即ち其の施を止む」(止施) ※能仁とは釈尊のこと 「所詮、国土泰平天下安穏は一人より万民に至るまで好む所なり。楽(ねが)う所なり。早く一闡提の施を止め……」(止施)と、不施思想が見られる。 ※一闡提(いっせんだい):本来解脱の因を欠き、到底成仏できないものをいう。 ※不受不施とは、末法の世においては、折伏を第一とする祖師の行跡に従うものであるが、祖師の「立正安国論」では、折伏の手段として謗法の施を否定する 理論的根拠は「涅槃経」にを求める。 その根拠とした涅槃経の数句の要約(大意)は次の通りである。 一闡提(いつせんだん・極悪人)を除いて、その他一切に施すならば皆賛嘆してよい。一闡提とは麤悪(そあく)の言を以って正法を罵り、永く改悔の心を持たぬものを云う。 それは、不受不施思想により、法華信仰を守る根本理念である。 不受不施は大別すると、神社参拝の禁止(社参禁止)と謗法供養の禁止の二つがある。 天照・八幡をはじめ日本の神祇は久遠本仏の垂迹であるから、社参は差支えないが、その殆どが天台・真言僧に祭祀されている。 密教化した天台や真言では、正法の法味を嘗めず威力を失った諸神は「神天上」し、社殿には祭神不在である。善神は国を捨て、聖人所を辞している社参は無益である。 社殿に供物を献上することは、謗法の社僧に布施することとなり謗施である。 信仰の純粋性から社参を禁止したのである。 《日像上人》 日像は三度京の都を追放され、三回赦(ゆる)された「三黜三赦」の法難のあと、後醍醐天皇が帰依し「法華宗の公許」が公認され、日蓮教団が独立する。 元亨元年(1321)12月8日、後醍醐天皇より寺地を皇居御溝傍に拝領、妙顕寺が創建され、日蓮聖人滅後、40年にして「日蓮法華宗」が誕生する。 《公武(王侯)除外の不受不施》 元弘3年(1333)三月には、後醍醐天皇の還幸を祈り、その賞として尾張、備中に三ヶ所の地を賜う。 建武の新政になり建武元年(1334)4月、四海唱導の「綸旨」が下賜され、勅願所となり、同3年には将軍足利尊氏の祈願所となる。 日像の弟子大覚大僧正妙実は、延文3年(1358)祈雨の効験により朝廷(後光厳天皇)から日蓮聖人に大菩薩号、日朗・日像師に菩薩号の宣下を受け、自身は大僧正に任ぜられる。 このように日蓮教団初期は、朝廷より寺領、祈願所、僧位を受けることは不受不施の対象に考えられてはいなかった。 朝廷や幕府の公武からの布施は謗施と理解されていない。「公武(王侯)除外の不受不施」と言われる。 妙龍院日静は足利尊氏の外護を得て、京都六条堀川に鎌倉松葉ヶ谷の庵を移し本圀寺を建立する。 これも王侯除外の不受不施である。 《正当不受不施義》 しかし、皇室の勅願寺、将軍の祈願所となると、どうしても権威・権力側に阿る様になり、折伏精神が薄れ、摂受主義に片向く。 このような摂受主義の風潮に憤激した僧がいる。龍華院日実(1318-78)、明珠院日成(-1415)の兄弟である。 永和4年(1378)日實・日成は小野妙覚の外護のもと京都・妙覚寺を建て独立し、「妙覚寺式目九条」(応永20年/1413)を制定し、社参を謗供厳禁、強義折伏を主張し宗門に新風を送る。 そののち、久遠成院日親(応永14年(1407) - 長享2年(1488))は正当不受不施を主義し、「王侯除外」を更に純粋化し、諸山の寺領、祈願所は施主の信不によるものとし、王侯除外制を脱却する方向に醸成せしめる。 公武(朝廷・将軍等)の行う祈願・供養会には不出仕の免除を請う−不受不施の公許−の折紙を得る。明応元年(1492)6月、将軍足利義稙代の「本国寺広布録」にその記録が収められている。 室町中期には正当不受不施義が確立されたと考えられる。 ---「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」終--- 【備前備中備後の日蓮宗】 ○日像菩薩、鎌倉末期・南北朝初期にかけて、関東から都(京都)への布教の先駆を果たす。 →日像菩薩略伝 ○都のさらに西の三備(備前備中備後)等への弘通は日像の弟子・四条妙顯寺2世大覚大僧正の巡錫がその端緒を開いたものである。その時代は鎌倉末期から南北朝期のことである。 →大覚大僧正略伝並びに開基寺院 大覚大僧正は牛窓の武将石原氏、金川の武将松田氏を教化し、彼らは封建権力にかけて強力に日蓮宗の布教を援助する。 特に松田氏は備前の西部を押えた武将であるだけに、その強信と相まって、備前地方に大きな影響を及ぼし、後に備前法華といわれる信仰圏内を形成する力となる。 →備前金川妙国寺:京都妙覚寺末金川妙國寺は備前法華の最大の本山であった。 ※多くの日蓮宗寺院が建立あるいは他宗からの転宗があるが、就中、金川妙國寺が備前法華の中心的位置を占める。 妙國寺は寺中20坊、末寺120余寺を擁する巨刹となり、妙善寺・道林寺・蓮昌寺とともに四大本寺の一つと称される。 また、備中では野山の伊達氏、岡山南部の多田氏が有力な外護者であり、多田氏の場合はその子孫能勢氏に引き継がれる。 →備中野山妙本寺、備前二日市妙勝寺、摂津能勢法華 2019/07/28追加: ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より 日蓮の死後、そして日親の没後百年後に日奥が現れるが、その間、謗法者折伏・国主諌暁と云う法華宗の基本を絶やさずにつないだのは日親の功績であった。 →日親上人 ※日親について備前備中には稀にその石塔を見かける程度であるが、備後(特に山田)には若干の足跡が残る。 --- 「忘れられた殉教者」終--- ○安土桃山期から江戸初頭には京都妙覚寺の日奥がさらに強烈な宗風を吹き込み、日奥の説く宗義は日蓮の教えとして備前法華の中に浸透していく。 →日奥上人略伝 2018/11/27追加: 【備前法華の由来】------Start ○「岡山市史 巻2」昭和11年 の 第73章「備前法華の由来」沼田頼輔、明治41年 より 備前法華は宗教界の套語となっているが、統計上からは、備前の日蓮宗は天台真言の二宗に次ぎて、第三位であるから、備前法華はその實を失っている。現在ではその實を失うも、無論、この套語は、この宗旨が最も隆盛を極め一国を挙げて殆どこの宗旨に帰せしめたということから起こったことには相違ないのである。 ではなぜ、この宗旨が備前において隆盛を極めたかと云えば、その主原因は備前の諸大名が歴代熱心なる信仰者であったということである。 であるから、次に、日蓮宗が備前に伝来し、如何なる経緯を辿って、盛衰したかを記することとする。 備前に於ける日蓮宗伝播の嚆矢は日像であった。 元徳2年(1330)備中青ク吉次が化を受けて日像本尊を賜う、とある。 正慶2年(1333)備前の人に日像大曼荼羅を与ふ、とある。(いずれも「龍華年譜」) この日像の大曼荼羅は城下蓮昌寺に今に伝わる。 →日像菩薩略伝 ※備前蓮昌寺蔵日像大曼荼羅: 蓮昌寺においてはこの日像大曼荼羅が最も重要な本尊とされているという。 この本尊の由来については、「蓮昌寺史」第二章「蓮昌寺の本尊」の章(P.47-56)で各種の縁起や記録の掲載がある。 各種の霊験譚を除けば、次のような経緯で蓮昌寺に格護されたようである。 大曼荼羅は日像の真筆で信徒に授与され、後に津島妙善寺に治められる。 寛文6年妙善寺追放され大曼荼羅は岡山城に収納される。 延宝7年(1679)妙善寺の本寺である京都妙覚寺より使僧が来て、妙覚寺に下付を申し入れ、 寺社奉行は妙覚寺使僧に之を交付する。 然るに之を伝聞した蓮昌寺の檀信徒は憤慨し、騒乱に気配もあり、藩も妙覚寺使僧もそれを鑑み、 大曼荼羅に厳封の上、蓮昌寺に保管せしむ。 正徳元年(1711)蓮昌寺什宝とすべき藩命ありて、遂に蓮昌寺宝物となる。 今日でも備前備中では至る所の村落に大覺大僧正と題目を刻する石塔が建てられている。まさに、この大覚大僧正(妙實)こそが、特に、備前に日蓮宗を弘めた人物なのである。 →大覚大僧正略伝並びに開基寺院 建武年中、大覚大僧正備前に来たり、濱野の多田入道を勧めて、松壽寺を開山、さらに大覚大僧正自筆の題目石4基(備前益原法泉寺・備前西辛川妙蓮寺・備前曹源寺寺中大光院・備中軽部大覚寺)を残す。また信者の間には大覚大僧正自筆の曼荼羅が多く残る。なお、これらの年紀は暦応(1338-42)・康永(1342-45)のものが多い。 次に、多田入道に次いで勢力のある信者となったのが松田氏であった。 大覚大僧正は備前伊福真言宗福輪寺(後の妙善寺)を改宗させ、次に松田氏を薦めて改宗させる。 その後松田氏は代々日蓮宗を信奉し保護し、また自ら弘教していくこととなる。 岡山城下蓮昌寺、金川城中の道林寺、金川城下妙國寺などは皆松田氏の創建に与るものである。 特に、金川妙國寺は備前に於ける日蓮宗本山の如き勢いを有し、天正11年の妙國寺本末定判記に拠ると、備作2州に於いて120余ヶ寺の末寺を有することが記されている。 ただ松田氏末期になると、兵力に訴えて、謗法者を迫害するにいたり、領内の寺院に改宗を迫るなどし、兵備を疎かにする傾向となる。 そのため、ついに、永禄11年(1568)宇喜多直家によって、金川城が落城し、13代に渡り続いた松田氏は滅亡することとなる。 → 備前金川妙國寺 かくして、備前は宇喜多氏の治めるところとなるが、直家自身は日蓮宗の信者ではなかったが、その同族・家臣の多くが信者であった。 直家室阿鮮夫人は熱烈な信者であることで知られ、臣下の多くも日蓮宗の信者であった。 例えば、美作福渡妙福寺は、宇喜多氏家臣沼本与太郎久家・日笠次郎兵衛頼房が京都妙覚寺日典の弟子日存に帰依し、天正元年(1573)日存を開山として建立する(「作陽誌」)。 また、直家の弟土佐守忠家も熱心な信徒であり、宇喜多河内入道は家臣であったが、宇喜多氏より宇喜多の姓を賜り、その子もまた日蓮宗を信じ、金川妙國寺住持となり、妙國寺9世日欣というはこれである。 尤も直家自体は日蓮宗のみに固執したのではなかったが、その臣下の中には切支丹の信者も少なくなかったのである。 明石掃部、長船紀伊、中村二郎兵衛、浮田太郎右衛門などはこの宗旨に属し、けれどもその老臣には、戸川肥後守、浮田左京亮、岡越前守、花房志摩守の如き熱心な日蓮宗徒がいたのである。 次代の宇喜多秀家の時、日蓮宗徒の四家老は備前を退去する騒動が起ったのであるが、勿論家臣の権力闘争ではあったが、根底には切支丹と日蓮宗との宗派争いの側面もあったのである。 宇喜多秀家は関ヶ原の戦で敗れ、備前は小早川秀秋の所領となる。 秀秋は僅か1年有余であったが、熱心な日蓮宗の信者で、六条本圀寺の日ワ辮lに帰依し、日モフために嵯峨常寂光寺の伽藍整備に寄進を行う。備前では蓮昌寺を修理する。若年で没するが、墓前には日蓮宗本行寺が建立される。 秀秋が備前に封ぜられたと同事に、宇喜多氏の旧臣であった(備前を退去した)花房氏及び戸川氏も東軍に加わった功によって、何れも封を備中の南部に受けたのである。この二氏は何れも日蓮宗の信者であったので、日蓮宗はこの二氏の力を借り、備中南部に弘通せられたのである。 花房氏は領内の不帰依の寺院・人民に改宗を勧め、悉くの寺院を日蓮宗に改宗せしめた。 ※花房氏については備中高松近辺諸寺を参照。 ※備中高松星友寺、備中高松妙玄寺、備中和井元妙立寺、備中加茂蓮休寺、備中津寺宗蓮寺、備中山地受法寺、 備中日畑浄安寺など参照。 戸川氏も領内の改宗に力を用いる。特に達安(池上本門寺永壽院開基)は改宗を強要し、従わざるものは土地を退去せしめたという。殊に備中妹尾は「妹尾千軒皆法華」という諺が生じた地である。 ※戸川氏については庭瀬藩、戸川家系図を参照:戸川氏は撫川(本家)、妹尾、早島、帯江、中島と分家する。 ※撫川戸川氏は備中庭瀬近辺諸寺、妹尾戸川氏は備中妹尾、早島戸川氏は備中早島、帯江戸川氏は備中羽島村を参照。 かくして、花房・戸川両氏の日蓮宗信仰の結果、両氏の領土であった吉備郡南部や都窪郡には今も日蓮宗の信者が多い。 以上のように、中世後期・近世初期、備前では日蓮宗が全盛であったが、それ故か、名僧知識が輩出する。 以下にそれを紹介する。 日現: 天文の頃、池上本門寺及び京都本行寺の住持となる。備前より出で、碩徳の聞えが高かったが、その郷土は明らかでない。 ※池上本門寺歴代によれば、11世、佛壽院(現海)日現 永禄4年(1561)66歳寂、妙法房・但馬房とも。 ※京都本行寺とは不明。 日典: 備前宇垣村の人である。日奥の師。 → 日典上人 日存: 壽福院、日典の弟子、美作福渡妙福寺開山。 日惺: 備前邑久郡福岡生まれ、日典に学ぶ。 天正9年、32歳で比企谷妙本寺住持、池上本門寺住持(12世)となる。 天正18年秀吉東征の時、家康の為戦勝を祈り、後家康が江戸に入部に及んで、日惺の為に朗惺・善國・蓮久・正覚・蓮長の五ヶ寺を江戸市中に与える。 佛乗院、慶長3(1598)年寂49歳。 日奥対馬から妙覚寺に帰った時、不受派と受派との調停を試みる。 日全: 北陸に遊化し、越中高岡・越中富山・加賀金澤に何れも妙國寺を建立する。身命院。寛永元年寂。 日衍: 北陸に巡錫して、越前脇本妙泰寺を開山する。慶長16年寂。 ※但し「日蓮宗寺院大鑑」では8世とする。また妙泰寺開山は日像、開基は妙文とする。 北陸への弘教は日全と上記の日衍(にちえん)の二僧の力によるものである。 なお、この頃 文禄4年の東山大仏供養の出仕をめぐり、日蓮宗の中に受派と不受派との別を生じ、所謂備前法華も一大頓挫を生ずることとなる。 本ページなどで述べるところである。 日習: 事跡の言及なし。 ※日奧弟子、日講の師。 日紹: 備前金川の出、下総飯塚檀林で学び、備前蓮昌寺住持(19世)、四条妙顯寺12世となる。 慶長4年四条妙顯寺日紹と堺妙國寺(中山法華経寺兼務)日統らと連署して不受派を上訴する。五奉行の一人である家康は日奥と日紹らとを大坂城に召し対論をせしめる。(大阪城対論) 勿論、日紹も大変な碩学であったが、不幸にも日奥を弾劾する側に立ったのである。 慶長17年日奥赦免、元和元年再び妙覚寺に入寺、不受不施を堅固する立場は一層堅固となる。まず根拠を固めんがため、備前を巡錫する。 その後、日奥は再び京都に帰るが、その頃受派も先非を悔う態度もあったので、両派を調停するものが現れる。 最初の調停は池上本門寺日惺である。 次いで、日忠である。 日忠: 唯心院と号す。 備前の人である。歳19の時、父の仇を報ぜんが為、関東に下り、剣を学ぶも、日吏の戒を受けて発心し、出家する。黒田長政の尊信を受けて、筑前博多に居た時、日奥は対馬よりの帰途、日忠の寺に宿したので、日奥と面識となる。日忠は岡山蓮昌寺で日紹と面識があったので、そこで日忠は日紹を説くに、両派調停のことを以ってする。日紹は調停を受け入れ、受派諸寺を代表して、妙覚寺に至り、日奥に謁して、両派の和合を結ぶに至る。 しかし、再び死灰再燃したのである。即ち、寛永3年将軍秀忠室崇源院の喪あるに当たり、池上本門寺日樹が法施を受けなかったことから、再び池上と身延の間に争論が起ったのである。池上本門寺住持は日樹であった。 2019/09/10追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より 日忠は日奥の師日典と同様、備前の生まれで、俗性を斎藤氏と称し武勇の家に人となる。 19歳の時父の敵を討たんため関東に下向し公法を学ぶも、出家学道こそ真の孝養にあたると悟り仏門に入る。 後博多に行き、慶長8年(1603)切支丹と宗論し、之を破り、国主黒田長政から一寺を受け、問答山勝立寺とする。 元和2年(1616)博多の唯心院日忠の調停によって、大坂対論で破断した、受・不両派の和睦が成立する。 日忠の調停の前、池上日惺上洛し調停するも不調、次いで関白秀次の母瑞龍院、和睦に手を尽くすも不調であった。 ここで、博多の日忠が上洛し、四条妙顕寺に出入し、妙顕寺日紹に連々諌暁し、遂に日紹は改悔を為す。 日紹は妙覚寺に来臨し、両者に和睦が成立する。 日奥は対馬からの帰還中、両3日博多の勝立寺に滞在したという。要するに親しかったのであろう。 さらに、大坂対論の一方の当事者である妙顯寺日紹もまた備前の人で、三者とも備前に縁があり、そのような関係から、日忠が和睦の調停をすることは有るうることであろう。 日樹: 備中浅口郡黒崎の産である。 → 日樹上人略伝 日樹上人伝 日浣: 美作久米郡弓削の人である。(久米郡南町の武家の家に生まれる。) 津山顯性寺住職から玉造蓮華寺住持(5世)となる。寛文の法難で、下総野呂妙興寺住持日講らとともに流罪となり、肥後人吉に流される。(当時51歳) 今弓削村に日浣の供養塔がある。 日航: 事跡の言及なし。 ※金川妙國寺10世、慶安元年(1648)妙國寺を修理、その後金川を去って相模衣笠大明寺に移り、寛文3年(1663)同寺に没する。 日船: 事跡の言及なし。 → 本寿院日船上人 → 正之氏サイト(拙サイトに組入) M本寿院日船聖人の350遠忌に思う。 ※岡山蓮昌寺23世、妙覚寺日奥亡き後、妙覚寺に住すると思われる。しかし、妙覚寺を追われ、故郷美作福渡に帰り、そこで寂する。 寛文年中、岡山に入部した池田光政は不受不施宗門を壊滅させる。 岡山藩における日蓮宗寺院397ヶ寺中、実に348ヶ寺が破却され、残寺は僅かに49ヶ寺のみとなる。 日蓮宗に於いては、破却され、還俗・退去・追放された僧侶は全て不受不施の寺院・僧侶であった。 松田氏建立の蓮昌寺、妙善寺、道林寺、妙國寺は備前の四大寺であった。中でも妙國・妙善の2寺は備作の覇権を握っていたが、廃絶を逃れることは出来なかった。それだけではなく、大小幾多の末寺・寺中も運命を共にしたので、備前法華は表向きは壊滅したこととなる。 「備前法華の由来」-------END 2018/12/23追加: 【日蓮宗不受不施派】 ○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より 備前法華と京都妙覚寺 近世初頭の備前・美作・備中に於ける日蓮宗寺院の状況は「寛永年度日蓮宗末寺帳」(内閣文庫所蔵)で分かる。 ◇「寛永年度日蓮宗末寺帳」による日蓮宗本山別の国別末寺数 |
本 山 | 四条妙顕寺 | 京都妙覚寺 | 京都本能寺 | 京都妙満寺 | 京都本禅寺 | 六条本圀寺 | 合 計 |
備 前 | 3 | 21 | 3 | 2 | 2 | 4 | 35 |
備 中 | 33 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | 38 |
美 作 | 0 | 8 | 0 | 1 | 0 | 0 | 9 |
日像門流四条妙顕寺は備中を基盤にし、同じく日像門流京都妙覚寺は備前・美作を基盤にしていると、はっきりと二分されているのが分かる。 さらに、妙覚寺について特徴的なのは、次の「寛永10年(1633)京都妙覚寺末寺の分布」に示されるように、妙覚寺末寺の1/5は備前にあり、美作・備中を合わせると実に1/3が備前・美作・備中にあることが分かる。備前は京都妙覚寺の有力な勢力基盤であり、備前信徒と妙覚寺の深い繋がりを物語る。 ◇寛永10年(1633)京都妙覚寺末寺の分布 |
山城 | 大和 | 攝津 | 和泉 | 丹波 | 因幡 | 石見 | 播磨 | 紀伊 | 安房 | 能登 | 尾張 | 美濃 | 越前 |
8 | 2 | 4 | 3 | 1 | 2 | 2 | 2 | 5 | 1 | 1 | 1 | 1 | 3 |
越中 | 越後 | 佐渡 | 安芸 | 周防 | 長門 | 阿波 | 讃岐 | 筑前 | 対馬 | 美作 | 備中 | 備前 | |
2 | 9 | 9 | 3 | 2 | 1 | 1 | 2 | 1 | 1 | 8 | 4 | 21 |
近世初頭つまり全国統一政権ができた頃、宗教と政治とはどのように関わるかが問われる局面が出てくる。 このような時代の転換点で、謗法供養を厳しく禁ずる不受不施を唱えたのが京都妙覚寺19世日奥である。 不受不施とは信仰心のない者(謗法者)からの布施は受けず、また神社・他宗の寺院には参詣しないというもので、日蓮宗の古来よりの宗規である。それは、宗教の純粋性と自立性を守るための規範であり、唯一最高の教え法華経が仏法として絶対的権威を持つ。 そのため、世俗的権威(当時であれば秀吉や家康の政治的権威)の絶対性を容認できず、当然全国統一政権ができたときには、それと対立する宿命であった。 京都妙覚寺日奥は方広寺の千僧供養に出仕せず、その結果妙覚寺を追われ、その後慶長4年、家康と対峙し、家康によって対馬流罪とされる。 以上のように絶対的権力を持つ君主に決して妥協せず、日蓮宗の宗規を守ろうとした日奥を支援したのが備前の信徒であった。 備前の有力信徒には楢村監物・角南恕慶・戸川逵安等がいた。彼らはもと宇喜多秀家の重臣であり在地の土豪でもあった。しかし真に日奥を支えたのは彼らのもとに広範に存在する一般信徒であった。それはそれ以降の備前の不受不施派民衆の根強い抵抗の歴史を見ればあきらかであろう。 例えば、慶長4年(1599)岡山蓮昌寺大堂の建立に際し、巨大な大堂が1年に満たない期間で落成したのは一般信徒の熱烈な支援と勤労があったからであろう。 備前とは不受不施派京都妙覚寺の最大勢力基盤であったのである、この意味で「備前法華」とは「不受不施派法華」ともいえたのである。 ---「岡山県史 第6巻 近世1」終--- |
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【身池対論・寛永法難】 大坂城の対論の後、不受派と受派との対立は、一度は融和が図られるも、両派の対立は再び激化し、 寛永7年(1630)江戸城で対論が行われる。受派の代表格は身延山久遠寺であり、不受の代表格は池上本門寺である。 その結果、上意違反の罪で、池上本門寺日樹は流罪、中山法華経寺日賢ら5人は追放となる。 加えて、京都妙覚寺・池上本門寺は身延に接収される。 (幕命により妙覚寺住職は身延日乾が、池上本門寺住職は身延日遠が任命され、不受派本山は身延支配となる。) しかし、不受派本山を幕府権力で以って受派支配(身延支配)としても、本寺に背く末寺は多く、特に京都妙覚寺末寺の殆どは身延支配となった本寺から離脱することとなる。 参照:正之氏サイト(拙サイトに組入)M不受不施派「身池対論」 →◆長遠院日樹 ◆長遠院日樹上人伝 2019/07/28追加: ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より 身池対論と寛永法難: 日奥が対馬から帰った慶長17年(1612)から寛永7年(1630)までの18年間、これがいわば不受不施派の形成期である。 言い換えれば、千僧供養への出仕拒否という政治の次元での反抗が問題となる次元から、不受不施という法華信仰の根本思想への対立の次元という皮相から深部へと問題が鋭くなっていく過程であった。 日奥の主張に対し池上長遠院日樹、中山寂静院日賢、平賀了心院日弘が同調し、また飯高・中村・松崎・小西などの関東檀林はこぞって不受不施を唱えるようになる。 一方受不施派では身延の日乾・日遠・日深などが中心となって、日奥を非難し、法華信仰の篤い養壽院(家康側室)を抱き込んでいた。 受派・不受派の論争が深刻化するなか、将軍秀忠夫人(崇源院)の葬儀があり、これに出仕して供養を受けた身延は日樹などから厳しい非難を浴びる。 この劣勢を取り戻すべく、身延が仕組んだのは日樹等の弾劾訴訟であり、それは寛永7年の身池対論で決着される。 1)日奥の所論が誤りであることは彼が流罪になっていることで明らかである。 2)日樹の主張は国主の供養は謗法者の供養であるというが、日樹の池上の堂舎は国主の領地の上に営まれているのは矛盾である。 3)千僧供養が終り、両派は和睦した。然るに日樹は身延は謗法、池上は信と区別し、異議を唱え和睦を破ろうとしている。 以上の3点が訴訟の中心である。特に2)の点は口に出していってはならないことを口にしている。 それは、日蓮の不受不施思想の根幹を否定しかねず、日蓮宗の寺院・僧徒であれば云ってはならないことあろう、果たして、のちにこの点を突いて、身延及公儀は不受不施派を追い詰めることとなる。 2)に関しては、日奥の「宗義制法論」があり、ここでは「所領のこと・・世間の恩賞ならばこれを辞するに及ばず、佛事の供養ならば謗法となるべし、これを受くべからず・」と明確に述べ、日樹はこれで対論に勝てるとふんでいたふしがある。 寛永7年2月21日酒井雅樂頭邸で対論(身池対論)が開かれる。 身延側は身延日乾・日遠・日暹、藻原妙光寺日東、玉沢妙法華寺日遵、貞松蓮永寺日長の6名、池上側は池上日樹・中山日賢・平賀日弘(にちぐ)・小湊隠居/小西日領・碑文谷日進・中村日充の6名、判者として南光房天海・金地院崇傳ら6名、奉行衆6名の内に林羅山も加わっていた。 →池上本門寺 →中山法華経寺 →平賀本土寺 →碑文谷法華寺 →小西檀林・中村檀林は関東檀林中 池上側は負けと評決される。 負けというより、評決は対論の外で決しており、対論そのものは採決に形式を加えるためのものだったというのが適切である。 評決は謗施供養について、つまり法理には一切触れずに下された。家康によって不受不施論を咎められた日奥が、放免後も相変わらず不受不施を唱えていること、日樹以下はこれに同調したことを咎めるのが採決である。 日樹の主張した「寺領は世間の恩賞であって国主の佛事供養ではない」という点については、否定も肯定もされなかったということで、ここに大きな落し穴が潜んでいたのではないだろうか。 日樹は信州伊那へ、日賢は遠州横須賀、日弘は伊豆戸田、日領は佐渡から奥州中村、日充は奥州岩城平、日進は信州上田へそれぞれ追放となる。 ※ 日樹: →日樹上人供養塔・長遠院日樹上人伝・日樹上人墓 日進:修禅院日進 →上田妙光寺<信濃の日蓮宗諸寺中>に蟄居。 日充: ○いわき市図書館の日充上人のレファランスに次の一文がある。 多古町中地区中村檀林八世の能化(除歴)日充は、磐城平藩主内藤忠興(このころはまだ泉におって、磐城平藩主ではなかった) のもとに預けられたことは、不受不施派弾圧史上有名な事実ではあるが、いわき市ではあまり知られていない。 「忠興は窪田に寺屋敷地を与えて居住させ」(『日蓮宗宗学全書』第21巻)たとあるから、忠興は日充を多古の地に関係の深い 妹婿土方雄重(ひじかたかつしげ)に託したのではないかとも考えられる。 いずれにしても「窪田における日充上人の動静について」は今後の大きな研究課題であり、市民各位のご教示を得たい。」 (『いわき市史 第2巻 近世』>「第6章 神領と分領 第4節 多古分領」>p801) またに次のような記載があった。 「〜平藩内藤忠興公の時代、同派の日充上人が迫害を受けていわきに流され、窪田地区を中心になおも布教活動にしたがった〜」 (『いわき市史 付録4』(昭和50年8月)p8の「本藩視察」) 不受不施派ではこの事件を寛永法難と呼び、日樹ら6名を「前六(ぜんろく)聖人」と尊称する。 身池対論の頃、日奥は病床にあった。対論の4日後、日奥は死後の遺さるべき影像の図柄を指定する。「左手に御経、右手に金襴の袋、俵の上の坐すこと」と。 3月10日日奥は妙覚寺衆僧を集め読経し、本立院日要の膝に頭を横たわらせ寂する。 4月2日身池対論の評決が行こなわれ、日奥は再び対馬に流罪と断罪される。 →M不受不施派「身池対論」 下総の不受不施: 寛永法難で打撃を蒙ったのは、主として上総下総を拠点とする関東諸山であった。関西・京都諸山では妙覚寺などを除き、権力に対して攝受的になる傾向が顕著となるも、関東諸山では不受不施論・強烈な折伏主義が隆盛であった。 身池対論の採決で日奥の妙覚寺は日乾に、日樹の池上本門寺は日遠に与えられる。 下総香取郡多古町・栗源町は法華信仰の強い所である。その栗源町の岩部の旧家に日樹以下の「前六聖人」の署名と花押の記された畳1枚ほどの大曼荼羅がある。 これは大乗院日達が六聖人の追放地を順次訪れ、用意していた本尊に署名と花押を記してもらい、それを持ち帰り、岩部の信者に渡したものである。 この事が示すものは、追放された僧に対する新たな信仰の告白であり、僧はそれに対して確たる誓言を与えたということであろう。 不受不施の思想は信者の中に根付いているあるいは信者の中には、権力には容易には屈しない反骨精神が根付いていたということであろう。 →大乗院日達:備前蓮昌寺僧、各地で多くの寺院建立あるいは再興をする。 ◆日樹主筆曼荼羅本尊 2019/08/19追加: ○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より 連署の曼荼羅(P.82〜) 備前蓮昌寺の大乗院日達は前六聖人の配流先を次々と回り、師に会い、変わらぬ信仰を吐露して証を立てる。 六僧は日達の信仰を認め、1枚の大曼荼羅に連署して与える。日達はそれを下総に持って帰ってくる。下総の信徒はそれを見て、六僧との信仰の繋がりは断ち切られたのではなく続いていることを確認したことであろう。 この大曼荼羅は畳1枚は十分ある大きさで、下総香取郡栗原町岩部の石橋家にある。 ※本書に掲載された曼荼羅本尊は次の写真のように4枚に分かれているが、「栗源町文化財資料目録」の法量をもれば、各1幅が畳1枚分くらいの大きさであり、四枚では畳4畳分くらいの「大曼荼羅本尊」であると思われる。 前六聖人連署の大曼荼羅 ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より ※《矢田部28人衆》(P.94〜)に記載。 p.101では岩部の通称「武右衛門」と呼ぶ石橋源基房氏家に「日賢・日弘・日進3名連記ではあるが一紙の3名の独立した曼荼羅を書いたもの」と日領及び日充(と日樹)の各曼荼羅が所蔵される。(日樹の曼荼羅を含めると4幅である、) →大乗院日達(安芸國前寺中) --- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終--- 2024/08/03追加: ○「栗源町文化財資料目録」栗源町教育委員会、」1993 より 絹本曼陀羅:岩部 石橋洋一:上述の「前六聖人連署の大曼荼羅」中の2幅 絹本曼陀羅 社員に写るのは2幅(向かって右は日充、左は日樹)だけであるが、前六聖人を配所に尋ねた蓮昌寺大乗院日達の所望に応じた六上人が書いた曼荼羅4幅を岩部の信者に伝えたとある。 軸は縦208cm巾76cmとあるから、一幅が凡そ畳1枚分あると思われる。 2023/08/02追加: この「日樹主筆曼荼羅本尊」および日樹が飯田に謫居中授与した曼荼羅などについては →日樹上人略伝>日樹聖人真筆十界勧請曼荼羅>▶寛永7年5月16日年紀の曼荼羅 →日樹上人伝>8)謫居の日樹に遺る消息 に掲載があるので、参照を乞う。 六僧の一人である小西檀林能化である守玄院日領は不受の立場から、不受と受の相違を説く一篇のメモ(「受不帰論」という)を書いた。それは信者のあいだに回覧され、師が命を懸けた不受不施とはいかなるものかは浸透していったはずである。日領は追放され遂には帰ってこなかったので、それはそのまま信者たちへの「遺言」となった。 このメモは一冊現存し、それは信者の一人が筆写したものである。その信者とは信了院浄性という島地区のいわば「指導者」の立場にあった人で、筆写したのはおよそ百数十年後の宝暦5年(1755)であった。信仰は絶えず、脈々と信者の中に伝わったということであろう。 ちなみみ、香取郡多古町の島地区とは行商泣かせと云われ、迷路の集落であった。今でも全戸が不受不施である。寺院は正覚寺が構える。迷路が何の為だったかは「いわずもがな」であろう。 身池対論の後、採決に抗議して自害するものが少なくなかったという。小湊誕生寺の日税や日泉は自害僧であり、その名が伝わっているものは7名を数えるという。 2019/08/19追加: 小湊誕生寺祖師堂にて修善院日税は自刃する。(「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」より) --- 「忘れられた殉教者」終--- 2019/09/10追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より 《身池対論と新義・受不施派の発生》 慶長17年(1612)日奥は赦免され、対馬より帰還、元和2年(1616)唯心院日忠の斡旋によって受・不受派の和睦が成立し、秀忠より不受公許の折紙が下付される。宗門は不受不施の制法に復帰し、宗門の紛乱に収束したかの状態を呈する。 しかし、一度凝固した日乾・日奥二者の感情的対立はなお解けず、日奥は身延を指して、ひとたび謗法者の施を受けたことによって、身延の法水は濁ったと嗟嘆し、それへの身延の反目は宗門内の暗流として流れていた。 池上日樹は日乾・日奥の間を調停し続けるも、なお収拾しえないことを知って、遂に日奥の主張を正当として、身延は一度の謗施収受によって汚れたりとして「身延無間」と難じたのである。 謗法の供養を受けた日乾が身延に住する故に、身延の法水はたちまち濁り、清浄の地忽ち変じて、不浄の地となれり。仍って身延の地には高祖上人は住み給わぬ。 それ故身延に参詣するものは地獄に堕る と。 これに対して身延日暹(セン)は怒って、寛永6年(1629)日樹を幕府に上訴する。 これにより幕府は両者の対論を命ずる。 ※寛永7年の「身池対論」であるが、詳細は重複するので、割愛する。 対論の記録は日樹の「身池対論記録」、受側の日達の「受不施決疑抄(金偏に少の字)」では全く正反対の事実を伝える。当日の対論を筆記した建部伝内の「東武実録」も存在するが、これとて、身延を自とし、池上を他とし、頻繁に「他閉口」と記している。将軍の「台覧」に入れられるもので、幕府と身延の関係を忖度したものとも思われ、必ずしも信を置くことはできない。 何れにせよ、池上側は破れた訳であるが、その採決理由は 「池上日樹今度申立候不受不施之儀者、先年権現様邪義ト聞召、日奥於遠島流罪ニ仰付候、然る処ニ唯今其御宰ニ違背申シ、不受不施之儀申出候事、不届ト思召・・・・」というものであった。 要するに、身延日暹の上訴の趣旨もそうであったが、この判決の判断理由は受・不受の優劣ではなく、不受不施の義は権現(東照大権現)様の御意向に違背し、それは天下の御政道に反し、不届である・・・という極めて政治的なものであった。 なお、日樹の対論記録によれば、代々の折紙(不受不施公許の)などは取りあえず預っておくということで、没収されたという。 勝訴した身延日暹は雀躍し、身延山諸末寺に次の回文を送付する。 「今般所論の法義に就いては、種々雑説風聞の由に候、然るに我山の法理は国主の御供養に於いては、常に受であるが異端ではなく候、但し平人の施は中古に於いて世の機嫌を息か為し(※解読できず・・・※息世譏嫌となす。<世間から譏り(謗り・そしり)嫌われる>)、我ら専ら今更之を改めず、隠居(日乾・日遠)と愚意と同心で候。池上日樹并徒党の者は、誤るに国主の御供養を受けず・・・」 つまり、国主の供養は受ける点では受不施であるが、平人の施は従来の通り不受不施であるとする。 さらに、日暹は池上・比企谷両山の院坊・大衆に全てに命令し、受不施の主張を教理的に肯定し、それに違背せぬ旨の連判の起請文を提出させたのである。 ここに来て、新たな新義・受不施が出現したというべきであろう。以前の国主から施を受ける意味は「国主の機嫌を損なわない」ための「方便」という意味合いが強かったが、遂に、今までの法華宗の法義を棄てて、新しい新義が発生したというべきであろう。 言葉を変えていえば、将軍家の供養に限りという条件付きで受不施となった訳である。 高祖日蓮以来の謗施否定を制法とする宗義は身延(日暹)によって、覆され、新たに受不施こそ正当なる宗制とされたのである。 少なくとも、日奥の時の日重は、権力者に阿り、一時的に宗制を枉げる便法としての受不施であったが、日暹は受不施が新しい宗制としたのであり、これは重罪である。 幕府は身池対論で不受不施は「新義」「邪義」として、これを罰する。しかしその内実は法華宗の宗制として、不受不施を罰した訳ではなく、現権様(東照大権現)の国内統治上の「不都合」つまり家康の意向から罰したということである。 現に、徳川氏は不受不施の制法実施(不受の実施)を許している。 1、慶長7年(1602)家康母堂・伝通院の葬儀では、池上日尊・関東の諸法華宗、小石川壽経寺に諷経して供養を受けざる也 1、慶長12年(1607)尾張松平忠吉(将軍秀忠舎弟)の葬儀では、池上日招等、三縁山増上寺にて諷経して供養を受けざる也 1、元和2年(1616)徳川家康の葬儀では、池上14世日詔、身延日遠、関東の諸法華宗、武蔵仙波北院に諷経して供養を受けざる也 1、寛永3年(1626)秀忠御台(家光御母)崇源院の葬儀では、池上日樹、身延日深、関東の諸寺諸山、京都諸寺代妙覚寺日饒、増上寺に諷経して供養を受けざる也 1、寛永7年(1632)秀忠四女初姫(興安院殿、京極忠高正室)の葬儀では、池上日樹、身延日暹、関東の諸寺諸山、伝通院に諷経して供養を受けざる也 そして、 元和2年(1616)秀忠は不受不施公許の折紙を下すということもあった。 上記の国主関係の葬儀の時、不受不施派とともに、身延側でも日遠・日深・日暹は施物を拒否していたのである。 これらの事例からみると、不受不施は制法として既定のものだったのである。 つまり、身池対論の時の問題は、受・不そのものの何れが制法かということではなく、受・不の対立を超えたところにあるのであろう。 ---end---
2023/06/11追加: |
《身池対論直後の両派》 ===以下は身池対論以降から寛文の惣滅に至る迄の、主として関東における不受派と受派(身延)の動向である。=== 2019/10/26追加:2024/05/27加筆: ○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より ◇00.身池対論 寛永7年(1630)2月12日、江戸城にて身池対論が仕組まれる。 寛永7年4月2日、幕府は身池対論を採決、池上日樹以下六師(日樹・日賢・日領・日弘・日充・日進)を流罪・追放の科罪に処す。 それを受け、身延日暹はすぐさま門末諸寺に勝利の回文を発し、対論の結末と以降の諸山の心構を諭告する。 即ち、不受不施の義は法華宗教団の旧規であり平人は固く遵守すべきである事は当然であるが、但しこれは国主を除外した上に成り立つもので、日樹らは国主をも平人同様に対象に置くという誤りを犯した故に、今回の対論が行われたという。 つまり、日暹の言わんとすることの意味するところは、不受不施なる義は決して邪義や新義や異端ではなく、慶長4年(1599)の大坂城対論での幕府により裁断された妙覚寺日奧の流れを汲んだ「日樹らの所論の誤り」は「権現様の御宰き(さばき)に違背」し「貴命に応じざる」こと故であるとするところにある。 ※但し、こういった身延派の論理の欺瞞は心ある人々を騙すことにはならなかった。この後の展開で、身延派は受不施派としての名称が定着したことがこれを証している。 ◇01.池上本門寺・京都妙覚寺の接取 寛永7年(1630)4月2日幕府は身池対論を裁決、池上日樹以下六僧を流罪・追放に処す。身延は勝利する。 勝利した身延は日暹の名にて、対論の終末と以後の諸山の心得を回文する。 この回文は上記 ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸 より の項<勝訴した身延日暹は雀躍し、身延山諸末寺に次の回文を送付する。>で述べる通りであるので割愛する。 加えて、京都妙覚寺・池上本門寺は身延に引き渡され、妙覚寺は日乾、池上は日遠が受領する。 身延日乾に接収された妙覚寺は日奥寂後、本壽院日船が岡山城下蓮昌寺より出て法灯を継ぐ。 日船は池上方の敗退によって来たるべき結末を予知していたのであろうが、日乾による接取を知り、一山の大衆30余名を率いて妙覚寺退出を決意し 一 時節到来するに於ては異体同心に、一間四面の草庵にても妙覚寺を取立て、不受不施の法水を 相守り像師御作の御影様を安置するの処、当門家(当門流)の本山と為すべき事、 右の条目違背するに於ては、法華経中一切三宝、日蓮薩埵(大菩薩)並に代々列祖の御罰を罷り蒙る べき者なり。 寛永7庚午(1630)六月十四日 日船 在判 大乗 在判 と同心、誓約連署し、→紫竹常徳寺(日奥上人中)に隠棲する。 関東の池上においては、日遠の入山後、寺家の反逆が見られる。 池上大坊の中妙院日観は池上を去り、下総野呂妙興寺に遁れ、ここに談所を開き子弟を教育せんとする。承応明暦(1650前後)から寛文5・6年頃不受派の教育拠点となった野呂檀林である。 また十如院日相・仙国院日仙・華蔵院日由が悲憤して自刃する。残った大衆も種々日遠に反撃する。諸末寺も池上の本寺権を否認し二季の仏事に出席せず云々という具合であった。日遠は本寺末寺の統制を行い異端者を整理し、貫主権を確立する意味で、比企谷・池上両山の院坊・同宿・小僧及び末寺の住持・院坊・同宿などに起請文の提出を求める。 これは、両山の院坊・同宿には一定の効果はあったが、末寺においてはその支配を及ぼすには至らなかったのである。 これは妙覚寺においても同様であった。 日乾は妙覚寺入山の翌年には摂津能勢に隠棲し、円通院日亮(玉澤妙法華寺17世・中興4世)が入山(妙覚寺23世)する。日亮は専心経営に当たるも、末寺はこぞって本寺に向背する。 寛永10年(1633)幕府は日蓮宗諸山に各本末の寺院数を答申させたが、この時日亮は100ヶ寺を登録するも、当時本寺に帰属した末寺は洛内1、尾張1、紀伊5の計7ヶ寺に過ぎず、残りの末寺の大部は「于今不参」「違背」と記録している。 京都妙覚寺及び池上を入手したはずの身延には大誤算の事態であった。 ※当時の京都妙覚寺末寺については本ページ中の「備前法華と京都妙覚寺」(2018/12/23追加:【日蓮宗不受不施派】○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より 備前法華と京都妙覚寺)を参照 ◇02.中山法華経寺・小湊誕生寺の帰伏 中山は佛心院日光b以来三山(京都本法寺・同頂妙寺・堺妙国寺)の三か年の輪番制であった。 当時は堺妙国寺日現の輪番であったが、中山院家は三山輪番を破棄し、中山の独立を回復しようと企図していた。当時の寂静院日賢、禅那院日忠等の不受論者を頂いてから、不受の論陣を張り、関西から支配を脱しようと日現の来山を拒んでいたのである。 ところが、日賢は身池対論で処断され、日忠は韜晦し、中山は再び三山の支配に入らざるを得なくなる。つまり帰伏したのである。 小湊は14世日領(小西談所)が処断され、16世可観院日延は自ら追放の列に加わり、これらに動揺した寺家は身延の恫喝に屈し、「違義に及ばざる旨」の起請文を出し、身延に帰伏する。 しかし、間もなく、あとで論ずるように、中山・小湊は身延に背くこととなる。 ◇03.中村・小西両談所の帰伏 身池対論で、奥州岩城へ追放となった遠寿院日充は中村檀林8世能化である。 中村は池上日樹(6世)中山日賢(7世)を能化に迎え、小西檀林とともに関東不受派の中心檀林であった。 また同じく奥州相馬に追放になった守玄院日領は、はじめ佐渡に追放となるが、相馬中村城主相馬氏の老臣である池田直尚によって相馬に預け替えとなるが、小松原鏡忍寺12世でもあり、小西檀林5世の能化であり、10世を再任する。 身延は小湊に続き、中村・小西両談所を支配下に置くべく、画策をなす。小西檀林に対しては、村民を扇動して、不受の学徒を追放する。中村檀林に対しては起請文を出させて、身延支配を強制し、これも不受の所化衆を多胡・玉造へ追放する。 かくして、身延は中村・小西檀林を支配下におく。 身延によれば、追放に値する不受僧は次のようであったと記録される。 即ち、既に幕府の裁可により追放された六師の他、日樹弟子長遠院日遵、日奥弟子住善院日定(両師とも身池対談時は上洛していた)、日奥、可観院日延(自ら追放に列する)の計10名であったと挙げられる。 ◇04.碑文谷法華寺・平賀本土寺の反撃 碑文谷日進は信州上田仙谷政俊に預けられ、その帰依を得て、妙光寺を創し、平賀日弘は伊豆戸田に預けられ長谷寺を創す。 身池対論の遺跡たる両寺とも他の諸寺と同じく、身延の脅迫にあう。 碑文谷法華寺は日進のあと守玄院日誠が稟(う)けるが、住職ではなく、看坊職(住職代理)として法華寺を薫する。 日誠は看坊職を長期にわたり、勤めていて、身延の圧力には屈することはなかったようである。 ※日誠:野呂17世、谷中感應寺11世、碑文谷法華寺12世。 平賀本土寺についても、身延は手を変え品を変えて支配下に入れようとするも、寺僧は本土寺が祖師在世の草創であることを楯に他門流の支配は受けぬと断固拒否する。 さらに、池上・妙覚寺と同じく本土寺にも公儀より御下知を蒙ったのであれば、その証拠(つまり朱印状)を示せと身延に反撃し、もしご朱印なくば、幾度督促されても、従うことは出来ないと通告する。身延としては打つ術がなく、引き下がるほかはなかった。 ◇05.勝劣派諸山への対策 身延は門末及び一致派諸山のみならず、勝劣派の諸山にも書を送り、身延の法理に同心するや否やを糾したようである。 富士五山については(この当時は西山本門寺日悟、上條大石寺日就、重須本門寺日賢、小泉久遠寺日珍、下條妙蓮寺日遵であった)身延より身延の法理に同心するや否や云々の高圧的物言いで申し入れがあった。富士五山側は曖昧に受け答えをなすも、重ねて、身延の法理(特に地子寺領について)の糾明がある。それでも、富士門流伝統の制法との整合性もあり、五山側は曖昧な態度であったが、さらに糾弾があり、遂には、五山側も身延の法理に賛意を示したようである。 しかし、その後身延の行動が不純であり、専横の行為であったことが一般に知られるようになり、また諸門流を身延一派に集めて、総本寺になろうとしているとの風評まで立つようになり、それを五山も察知し、加えて関東一般の情勢は身延は懼れるに足らずというような情勢も分かってきたので、富士五山は身延との関係を疎遠にし、次第に関係を持たないようになったようである。 八品門流(日隆門流)についても身延に同心するや否やの詰問状を送る。両山歴譜(京都本能寺・尼崎本興寺)によれば、身延に同調したように見受けられる。 日什門流(妙満寺派)にも身延は通牒を送り、同心を求める。このころ同門流の常楽院日経の流れが関東に伝播し、寛永4年上総横川方墳寺が破却され、僧俗5人が処刑され、同12年には下総野田本覚寺破却に伴い恕閑日浄など僧俗9名が土気十文字ヶ原で磔刑に処される。 →常楽院日経>日経の門流の頃を参照 日什門流は多難な時であったが、妙満寺養徳院日乗は身延の強圧に屈することなく、門流の見解に従い、身延の指図には依らぬ旨を返答する。但し、寺領供養は認める態度であった。 ◇06.小湊の離反:小湊誕生寺 身池対論の後、身延はこれを勝利とし、寺領供養を以って公儀裁可の法理であるとし、国主除外の不受不施を以って諸山・諸門流の同意を得ようとし、小西中村の両檀林を手中に収め、これにより支配下の飯高檀林を加えて自派の檀林を三檀林となす。 本寺は池上・京都妙覚寺に加え中山・小湊の本寺を進退(しだい/しんだい:思いどうりにする)し、余勢をかって碑文谷・平賀を収めようとするもこれは頓挫する。しかし、身延は関東においても屈指の大本寺を手中に収めたのである。 しかし、間もなく、小湊は離反する。 対論の頃、小湊は日領の後を継いだ日税が退き、可観院日延が住していた。しかし対決の時、日延はその場に出席はせず、これは病中であったとも対決の煩わしさに拘わりたくなかったからとも云う。しかし、いよいよ採決の申し渡しのとき、日延はともに罰せられるように請うたのである。 この申出のことは、日樹の書状や小湊日運の訴状にも触れられ、確かなことである(日樹書状・小泉日運書状)。 さらに身延の追放記録や身池対論記にも追放として記録されているので、追放も確かなことでもあろう。 しかしながら、小湊では追放ではなく、隠居と見解をとる。 その日延であるが、自ら進んで追放されたが、それに先立ち後住を議し、衆議をもって日遵を後住とする。 「追放」され、日延は5月初めに小湊を出、伊勢の一柳監物の知行所に赴くという。 しかしその後日延は伊勢から博多に赴き、寛永8年黒田忠之の帰依を得て、香正寺を創す。日延は自由に国内を歩いていたのである。 この点から見ると、日延の追放は追放された他の諸師とは違い、追放とは名ばかりで、小湊の云うように隠居したのであろうか。日雲は自信をもって、その訴状で隠居としている。 ともあれ、日延は寛永7年5月の初め小湊を出、伊勢に赴くも、後住である日遵は、下関(関東に下向)を目指すが、寛永10年(1633)3月13日まで京都頂妙寺に住していた。 日延追放後、小湊は支柱を失い、小湊長老・妙蓮寺や宿老成就院は身延の強圧的態度で動転し、身延帰伏の誓状を出したものであろう。 日遵は、対論の裁定では京都に住していた理由で同じく追放を免れた日奥弟子住善院(日定)とともに京都の同志を率いていたが、関東の多くの重鎮を失ったあと嘱望されて、関東に赴くこととなる。 寛永8年日遵は信州伊那に日樹を慰問しているが、日樹書状には、日樹から早く下関し子弟の教育にかかるように指示されたことが述べられている。 日遵は寛永8年にも下関する意向を示すが、下関は寛永10年にずれ込んだのである。 しかしともかく、日遵の下関により、身延は得ていたあるいは得たと思っていた小湊を失うこととなる。 さらに、得たと思っていたものが実は得ていなかったのに各本寺の末寺である。 関東における法華宗一般つまりは各本寺の末寺一般は国主除外の不受不施を正統とはみなしていなかったのである。 日樹をはじめとする諸師が身を捨てて守った態度にこそ真の宗制が守られていると見るから、日樹等が身延派を以って受不施派と蔑称した名称をその通り名とし、自派をして不受不施派と誇るようになったのである。中山にしても池上にしても末寺は離れ、小西・中村を退檀した不受不施の学徒はじめ不受の諸師は身延の詐謀を暴き、しかも続々と新寺を建立し、弘教に力を尽くし、不受派の勢力は目覚ましいものがあった。 身延は自身の力では如何ともしがたく、ついに幕府の権力を借りて不受派を押えようとの策謀に頼ることになる。 →→ 長遠院日遵上人 ◇07.身延の訴訟 寛永8年2月26日身延日暹は「御朱印頂戴仕度条々」12ヶ条を以って幕府に提訴する。 1条:寺領・地子は国主の供養であることの決定 2条:池上・妙覺寺及び徒党5ヶ寺(小湊・碑文谷・平賀・小西・中村)の支配権 3条・4条:末寺・宗徒に対する本寺の支配権 5条:新地建立の許可権 6条・7条・8条:檀林の教育統制 9条:寺中の老僧の責務 10条:本寺の末寺支配 11条:奉加勧進の制限 この身延の訴状は何を物語るのか。 身延は身池対論で勝利したけれども、宗門の中で圧倒的地位を築けなかった。 一番の問題点は本寺である京・妙覺寺、池上、中山は手中に収めたが、末寺の拒否にあって本寺の機能を喪失したしまったことにあろう。 一向に身延の思惑のように宗門の支配が進まない現状を打開するために権力の強権発動に頼らざるを得ないという窮状に身延があったということであろう。 ◇08.両派の現況 寛永8年2月26日身延日暹は上記の「御朱印頂戴仕度条々」11ヶ条をもって幕府に訴訟する。 第1条は寺領・地子は国王の供養であることの決定、第2条は池上・京都妙覚寺及び徒党五ヶ寺の支配権、第3条・4条は末寺・衆徒に本寺の処罰権、第5条新地建立の許可制、第6条・7条・8条は勉学の方法と講義者の資格、第9条は寺中の老僧の資格、第10条は本寺の末寺支配、第11条は奉賀勧進の制限 である。 第1条は幕府権力を借りてでも、身延の寺領供養の義を推進する必要性があったということであろう。 第2条の五ヶ寺とは小湊・碑文谷・平賀・小西・中村を指すようである。池上・妙覚寺は既に身延に賜り、中山は三輪番制に復したから問題はない。 要するに、これらは、身延が法華守宗の総本寺としての地位を得るための策謀であり、その手段は上意下達の貫徹であり、幕府権力に寄生してでも達しようとする不純な意志であった。 この頃不受派が力を注いだのは教育であった。身延訴状によれば、この頃の不受派は松崎談所(顯實寺)、野呂談所(妙興寺)、山田談所の三談所であった。 松崎は少なくとも元和5,6年を中心として以降寂静院日賢、寿量院日遣、長遠院日遵が化主を勤め、この頃は円通院日調が化主として活躍していた時である。 野呂檀林は池上が身延支配となった時、大坊を退出した中妙院日観によって、野呂妙興寺に設けられた談所である。 山田は安養寺檀林のことであり、山武郡大和蔵王寺(廃寺)に設けられた談所で、碑文谷12世日晴が開き、14世日禪が第2祖となる。これは大和小西檀林が寛永8年に身延に接取され、不受の学徒は小西檀林を離散したが、これらの学徒を収用する為であった。 これらの談所はとみに活況を呈し、これらは碑文谷・小湊・平賀と連携し、池上・中山の末寺を傘下に収め、身延を攻撃する。 では、この頃の両派の勢力状況はどうだったのか、寛永10年の身延同心の諸寺の連署がある訴状で両派の勢力の大勢を知ることができる。 訴状では日樹の弟子共并徒党の寺々として谷中感應寺、鎌倉妙隆寺、下総松崎顯實寺、上総野呂談所、鷲津鷲山寺、山田談所を挙げ、新地として愛宕下大乗寺、下屋妙法寺、目黒前大坊などが挙げられる。而して身延同心の寺は藻原妙光寺、真間弘法寺、池上本門寺、中山法華経寺である。寛永7年の身池対論の時は藻原の日東、玉澤妙法華寺日遵、鶏冠井真経寺心了院日長でこれは皆身延直属の関係者である。なお心了院日長はこの頃貞松蓮永寺に住していた。 真間弘法寺は禪智院日感が住持していたが、寛永6年3月61歳をもって頓死(歴譜)する。日感は飯高檀林7世で、日樹に与する。 しかしその寂後に起った対論で池上が身延支配となるとともに、重縁のある真間はともに身延に接取されたのであろう。 当時の勢力図である。 身延は旧の 身延久遠寺・茂原妙光寺・玉澤妙法華寺・貞松蓮永寺(松野・三松)・飯高談所 に 新たに 池上本本門寺・中山法華経寺・真間弘法寺・小西談所・中村談所 を加えた7本寺・3談林となる。 旧池上派は 碑文谷末谷中感應寺・中山末鎌倉妙隆寺・日隆門流上総鷲山寺を地方の拠点とし、新地に愛宕下大乗寺、下屋妙法寺、目黒前大坊など多くの新寺を建て、あるいは在家に逗留し民衆を教化した。 加えて池上・中山などの旧末寺その信徒の支持も得、宗勢はむしろ身延を凌ぐものがあったという。 もっと言えば、身延方は完全に不受派に圧倒されている状況であったようである。 以上の状況に対し、劣勢の挽回策としては、幕府の強権を使って制圧する方法しか身延方には無かったとも言えるだろう。 日暹が繰り返し繰り返し訴訟をしているのはその劣勢を自覚している裏返しであり、幕府権力を借りる以外に方策がなかったことを物語る。 ◇09.不受派の伸長の状況 身池地論の幕府裁定による身延の画策によって、不受派は4本寺、2檀林を失う打撃を受ける打撃を受けるも、残る3本寺を守り法灯を継ぎ、末寺及び信徒大衆の支持によって、身延を孤立させその実質を奪い、受派を狼狽させたのである。 由来、身延一派の江戸開府に伴う進出は関西系の教学あるいは関西の重鎮・一如院日重門下の関東進出を意味し、いわば新勢力の関東進出の移住の意味が強い。 まず、当時の教界で行われた「山家・山外の観心論争」(※※)は池上・中山と身延の間で行われている。 ------------------------------------------------ (※※)「山家・山外の観心論争」 ここで云う「山家・山外の観心論争」は、一般大衆にとっては所謂「神学」論争で、管理人(s_minaga)の理解を超える。 例えば、「日蓮宗教学史」執行海秀、昭和60年、p.153〜 を見ても、そもそも天台教学からして理解を超える。 ただ、 「近世初頭における日蓮宗の山家・山外論争」小野文現(「印度學佛教學研究/29巻1号」1980 所収)から解りやすい部分を若干抜粋する。 「叡山を中心とする他宗派による京都21本山壊滅という1536年の天文法難以後、関西日蓮教団には、日蓮宗の宗義を固執する折伏一辺倒の在り方に修正を加える動きが顕著となり、その方向は、日蓮の教学の基盤となつた天台教学を教団の学問の中心に据えることによつて他宗との融和を試みんとした。」 「この傾向は織田信長の策謀による安土法難を難機に、強大な統一政権の支配が進行する中では中世的な伝道は許されなくなつたと認識した関西教団の指導者達によつて一層拍車がかけられ、日蓮の教学をひとまずおいて、天台教学の実相論・観心論を学ぶことによつて、三諦円融、絶対開会の摂受思想を打ち出す軌道修正が進められたのである。ところがこの関西日蓮教団の転換に対して、統一支配の時代進展から離れた関東はまだ中世の教風そのままが継承され、宗義重視の折伏思想が守られていた。この関東教団と関西教団の姿勢の相違が、豊臣秀吉・徳川家康の宗教統制によつて惹起した日蓮宗の不受不施事件となつて表面化したのである。」 「不受不施事件を契機に、家康という権力者を背景にして身延山を押え関東へ進出した日重・日乾・日遠の関西の指導者達は、安土 法難・不受不施事件を教訓に、支配政権の中で教団を維持形成せんと、寛容で柔軟な、時代に適応した摂受教学を先に述べた天台学の絶対円融論を基礎に樹立し、関東教団と対峙したが、この身延日遠系(日遠とその弟子達が受不施一致派という近世日蓮教団の中心となつた)の教学者と、不受不施派の祖である妙覚寺日奥を支持して伝統宗学を鼓吹した池上日樹系の関東教学者は、不受不施論争のさなか、天台学に対してもその見方を異にし、両者天台学の解釈について激しい論難の応酬をしているのである。」 ------------------------------------------------ 当時、「山家・山外の観心論争」は池上自證院日詔(小西檀林化主)・日詔の資である池上日樹・中山日賢などと心性院日遠・日遠門下法性院日勇・玉澤真應院日達などが論述を戦わせた。(「日蓮宗教学史」執行海秀、昭和60年、p.153〜) 以上のような論争は、「宗門の旧規である不受不施」に「王侯除外」を被せる京都系の進出が、両者の反目を助長したのである。 しかし、関東の不受派諸師が追放されたことは、一般大衆及び末寺の諸僧の心を流罪僧に直結させて、その法難に随喜し、その反動は身延派の諸山への抵抗に変ずる。以上の意味で、末寺離反は起るべくして起ったもので、日樹の攻撃した身延堕落論は大衆の耳底に残り続けたのである。 ◇10.中山の動揺 中山の浄光院・法宣院・安世院・本行院の寺中上座の四院家は三山輪番を破棄し、常時、関西の支配から脱しようとしていた。 第1には格式が違う。即ち3山は中山末寺に過ぎず、日蓮直弟子の開山である中山に対し、本法寺は法宣院3世日英の弟子日親の開山、頂妙寺もその頃の日薩の弟子日祝の開山、堺妙國寺に至っては日bの近年の開山でしかない。 第2には経済的に様々な不利益を被る、寺院経営に様々な不具合がある・・など利権が制限される云々と。 中山に輪番制が布かれたのは慶長2年(1597)、仏心院日b(中山12世、翌年日bは寂)の工作である。 ※中山の輪番制は慶長2年(1597)に布かれるとあるが、慶長2年は日bの次の13世頂妙寺日暁が輪番として 住持した時であり、日bが家康の名で中山住持したのが始まりとすれば、文禄3年(1594)である。 ※輪番制:中山輪番については →中村檀林>◆中山法華経寺・中山日俒・日b の項を参照 日bについては →堺妙國寺>日b略歴を参照 慶長16年日来は輪番として中山16世として入山した時、自ら常住する事を望み、次の輪番本法寺日因の入山を拒み、輪番を破ろうとした。日因は入山を強行しようとするも果たさず、屈辱で自刃したと伝える。 そこで、本法寺日慈は家康に訴え、日来を追放、輪番制を確保する。 しかし、元和から寛永の初年にかけて、寂静院日賢・禅那院日忠が相次いで中山に晋山し、賢・忠師らは関西系・身延派に対抗し、日遠らに不受派として対抗したから、受派である3山とは決別し、輪番は破綻する。 その後、身池対論で身延派が勝利、当時の輪番であった妙國寺日現が入寺し、輪番が復活し、不受派を押え、院家を制圧する。しかし不受派はすばやく対論の打撃から立ち直り、院家・寺中は押えられたが、末寺は不受派のままで、本寺の支配から離脱し、本寺に違背した。 その主導者は下総峯妙興寺・多古妙興(ママ)寺[多古妙光寺のこと]・島妙興(ママ)寺〔島妙光寺のこと<島正覚寺中>〕・武蔵島根安穏寺・古呉妙福寺・鎌倉妙隆寺・小田原蓮華寺であった。 ※小田原にも、当時不受を標榜する有力な中山末寺があったことに注目すべきである。 ※小田原千代蓮華寺に関連して、小田原に於ける江戸初期の中山に違背した末寺つまり不受派の動向は、若干ではあるが、 ○「江戸時代の小田原(小田原市立図書館叢書2)」に記述がある。 これに対し、本字違背を取り上げ、対決に持ち込んだのは妙國寺より入山した27世顕寿院日演である。 日演の訴状の原文が掲載されているが(原文は省略)、その訴状の中で、正中山の末寺は千ヶ寺あるが、その内関東中本寺に違背する末寺が百ヶ寺余あり、寺院経営に苦慮していることをのべるとともに、張本者として上記の違背7ヶ寺の寺名の記載がある。 これは、寺社奉行の取り上げるところとなり、本寺の理運を得たと日演は述べている。 正保2年には30世日俊が中山法式を制定して不受不施を標榜する。 どういうことか。つまり中山では末寺と妥協し、表向きは不受不施を主張し、末寺を刺激しないということの様で、現に日演も晋山の折は受不施を厳格に推進する予定であったが、中山内部の強い不受思想に押され不受派となり、輪番から京に帰ると受不施に立場を変えたという。 33世日延も身延・池上の受不施に同心(連署)しながら、日演と同様の中山法式を踏襲して不受不施をたてている。 これは当時の輪番諸師の傾向であったようである。貫主は入山すれば不受不施、出れば受不施になるという無原則であった。 ◇11.日遵の活動と玉作談林の開設 日遵は身池対論当時(寛永7年)京都頂妙寺にあり、住善院日定と共に日奥を助け、京都の同志の中心となっていた。 対論後(寛永7年末)日遵は日樹を信州伊那に見舞い、その時日樹より早期の関東下向と不受の学問も退転なきようにと促される。 日遵にとって下総は、日遵が下総中村及び松崎檀林に学び、松崎5世を経、多古・玉作の代官は日遵の受戒であり、土地感や百姓になじみもあり、さらにこの地は酒井山城守の知行地であり、日樹の関係から井上河内守正利・久世三四郎長宜からの便宜も期待出来る地であった。 それ故、日遵にとっては下総が談林開設の適地であった。 ※酒井山城守:酒井山城守重澄 「多古町史」では「下総生実(おゆみ)2万5000石の酒井山城守重澄が寛永十年に改易になるまで南玉造などを領有する」という。 ※井上河内守正利 遠江横須賀藩4万7500石2代藩主、明暦4年(1658)寺社奉行に任ぜられる。 ※久世三四郎長宜 おそらく、長宜の長子広宜の長子広当と思われる。広当であれば下総海上郡内を知行する。 日遵上人伝 上総宮谷檀林 寛永10年夏頃、日遵はやっと関東に下向する。おそらく小湊に入寺したと思われる。 次いで、念願の教育の分野に注力する。松崎談林能化となり、寛永13年身延支配となった中村を奪還すべく画策する。 しかし、これは頓挫する。 その原因は六条門流と四条門流(像門)との學生との諍があり、日遵は四条門流の学徒を引き連れて、玉作に出ざるを得なかったという。 ※但し、門流間の対立も中山日賢を慕う學生と新しい日遵との學生との対立ということは分かるとしても、六条門流と日賢、四条門流と日遵との関係性が釈然とはせず、またその出来事が中村なのか松崎(当時中村は無住状態であったようなので、おそらく松崎)なのかもはっきりせず、真相は闇の中である。 そもそも、中村は日樹−日賢−日充−日堯−日条と継ぎ、松崎は日樹−日賢ー寿量院日遣が継ぎ、日賢を慕う學生が多かったのは理解できるが、なぜ六条門流と像門との対立になるのはかは分からない。 おそらく日遵は談林の混乱の責任を採る形で、玉作蓮華寺に隠居したのであろう。 玉作蓮華寺は中老日位に帰伏した日實が真言宗を改宗して開山、その後廃絶、文明の頃平賀7世妙光院日意が再興、その後衰微、建永14年玉作に移り、酒井山城守の外護を得て、玉作談林を開壇する。この談林は不受派の談林の中で最も活躍する。 慶安4年(1651)日遵は小湊より市谷自證寺に転ずる。 四谷自證寺は自證院殿(高清日恵大姉、徳川家光側室、お振り、千代姫生母、寛永17年歿、享年16〜18歳と推定)の菩提寺で、始め榎町の日蓮宗法常寺に葬られた後、慶安5年(1652)富久町の自證寺に建てられた霊廟(現存する)に改葬される。自證寺は寛文年中円融寺自證院と改号され、元禄4年(1691)悲田宗禁制により廃寺となるが、東叡山公辨親王の願により天台宗として復興する。なお、自證院殿の天台宗の法名は「自證院光山暁柱大姉」となる。 自證院殿の息女が千代姫(徳川家光息女、尾張大納言光友室、尾張3代綱誠・松平義行生母、寛永14/1637年〜元禄11/1698年)である。千代姫が法常寺を四谷市谷に遷したのは尾張藩邸が市谷にあるという理由からであろう。 なお、四谷本源寺も千代姫の外護を受けているといわれ、身延訴状には「自證寺・本源寺は特別の取立があり、故に特別の配慮が必要」と述べているのは、そのあたりを云うのであろう。 身延方では自證寺後任について、天意を覆すよう画策するが、この動きを知った千代姫は若干15歳で登城し、父である大猷院殿から直々に自證寺貰い受け、小湊日遵に与えたという。(「破鳥鼠論」)これにより、日遵は、千代姫の意向により、慶安4年に住持を仰せつけられ、入山する。日遵60歳。 身延の訴状は悉く不受派の張本として日遵の名を挙げていて、日遵が当時の不受派の頭目であることを示している。 新寺建立停止令と不受派新寺の簇生 日遵の談林開設によって、不受派は関東に4壇林を擁することとなる。 即ち 松崎(顯實寺) 圓通院日調 野呂(妙興寺) 守玄院日誠(碑文谷12世?) 安養寺(蔵王寺) 日晴(碑文谷13世、12世とも) 玉作(蓮華寺) 日遵(小湊・自證寺) である。 上記の諸師は学徒を育成し、彼らは各寺庵に拠り、あるいは新地を建立して教線を拡大していったのである。 寺院の新地建立については幕府の規制が3回布告される。 元和8年と寛永8年と寛永12年である。 それは戦乱の終息に基ずく人々の宗教心の高揚による寺院建立の加熱を押えることと関東一円には身延方の受不施思想は受け入れがたい気分が溢れ、不受派において盛んに新寺建立が行われる事態となる。身延方はこれに押され、危機を抱き、幕府にその規制を求めた結果でもある。要は新寺建立は寺社奉行の許可が要ることとなる。 明暦・萬治頃(1660年前後)と推定される身延の訴状に添付された覚では、 「不受不施寺庵」として次のような「不受不施張本人の本寺」と「新地の不受不施寺院」とが記載されている。 不受不施寺庵覚 不受不施張本人 下総国 平賀 本土寺 安房国 小湊 誕生寺 武 州 碑文谷 法華寺 三田(新地) 大乗寺 青山(新地) 梅嶺寺 四谷 自證寺 四谷 本源寺 谷中 感應寺 雑司谷 法明寺 安房国 小松原 鏡忍寺 下総国 興津 妙覚寺(上総) 大野 法蓮寺 鷲巣 鷲山寺(上総) 佐 州 塚原 正教寺(根本寺) 御松 法性寺 阿佛房 妙泉寺 越後国 村田 妙法寺 備 前 妙善寺 ※妙善寺が記載されるが、この頃の張本人であれば、むしろ金川妙國寺であろう。 加 賀 金澤 本覺寺 越 中 冨山 法華寺 奥 州 仙台(新地) 孝勝寺 顕本寺 山城国 白河(新地) 残育寺 不受不施新地之覚 谷中 法光寺 領玄寺 妙林寺 本立寺 本佛寺 圓立寺 福相寺 慈眼寺 蓮華寺 慈雲寺 妙養寺 妙法寺 長運寺 長久寺 妙善寺 浄眼寺 妙光寺 永立寺 通遠寺 本光寺 清立寺 清涼寺 長善寺 蓮昌寺 經王寺 供養院 ※:管理人(s_minaga)注:以下は煩雑に付、寺号は記載せず、地名と寺院数のみを記載する。 千駄木(3ヶ寺) 四谷(6ヶ寺) センダカ谷(9ヶ寺) 高田(7ヶ寺) 牛込(12ヶ寺) 日向半兵衛殿同心屋敷請地(7ヶ寺) 伊賀町(3ヶ寺) 青山宿(1ヶ寺) 西久保(13ヶ寺) 金杉(3ヶ寺) 柴町(12ヶ寺) 安佐布(5ヶ寺) 谷町(5ヶ寺) ヒカ久保(3ヶ寺) 三田(2ヶ寺) 目黒 大円寺 二本榎 圓真寺 赤坂(7ヶ寺) 下谷(10ヶ寺) 駒込(28ヶ寺) 深川猟師町(5ヶ寺) 田町(5ヶ寺) 鳥越(12ヶ寺) 浅草新寺町(20ヶ寺) 日輪寺屋敷(3ヶ寺) 右何茂本寺本寺御定与成、御仕置被 二 仰付 一 被 レ 下候者難 レ 有可 レ 奉 レ 存候 法華宗中(身延山文書) ここにほ実に<212ヶ寺>の不受不施寺院が新地の建立されていることが分かる。 身延は、これら新地(寺院)は平賀・小湊などが横領している故にまた池上・中山など末寺に居住し本寺に違背している故に、本寺を定められるように要求している訳である。 統計の取り方に少し問題はあるけれども、大正7年の「日蓮宗大観」によって、江戸(武蔵)の日蓮宗一致派の現存寺院の創建年代を拾うと、総数は303ヶ寺、内家康入府(天正18年)以前の創建寺院は123ヶ寺、寛文6年迄の創建寺院は139ヶ寺、それ以降は49ヶ寺となる。 所謂新地に該当する寺院は一致派全体で139ヶ寺であり、上記に挙げられた212ヶと比して余りにその数が少ない。 勿論、寛文の惣滅で廃寺になった不受寺院や天台宗に転宗した不受派寺院も多く、また焼失や災害などで廃寺になった寺院も数多あり、単純には比較できないが、不受派の江戸における新地(寺院)の増加は身延を震撼させるに十分な数であったと推測はできるだろう。 要するに、身延派(身延・真間・貞松・玉澤)の江戸におけるその実力は不受派に抗し得るものではなかったのは確かであろう。 慶安5年(1948)身延日暹寂する。 後を継いだ通心院日通は先師の宿意を果たさんと諸師を糾合し、起請をたてる。 曰「就不受不施対治之御仕置訴訟之儀一味同心連署」の起請文で、一味同心連署した面々の所属は藻原、玉澤、身延、真間、中山、池上、飯高、滝谷、貞松、中村の諸師である。 ここでは、今までは「日樹儀」とか「日樹徒党」といった呼称ではなく「不受不施」と言い切り、それに「対治する」としたことである。つまり、自らは「受不施」と定義し、対決姿勢を鮮明にしたことに注意すべきであろう。「不受不施」「受不施」の呼称が両派に定着する嚆矢とすべきであろう。 連署した関東本山は身延の他は、池上は実権を回復出来ず、中山は去就不安定であり、藻原、玉澤、真間、貞松は弱小本山でしかなく、不受派の優勢・受派の劣勢は明らかであった。 ◇12.身延の訴訟態度 身延日暹が提訴で訴えたことの眼目は、再度纏めると 1.法義の面では、地子と寺領は国主の御布施供養であるとの裁可の誤朱印の下付を得ること 2.実利の面では、平賀・小湊・碑文谷を支配すること 3.法制の面では、本寺・貫主権を認める日蓮宗法度の制定、新地建立の停止 であった。 日遵はこれに対し「威光を公儀に借りて今一宗の総本寺となり恣いままに寺庵を領押し僧侶を擯出せん」としているという批判を加えている。 受派が権威を頼んで高圧的にふるまったのに対し、不受派は民衆の中の入り強力な支持をうけた故に不受派教線の面で優勢になり、それに対し受派はいよいよ幕府に提訴し、政治権力を借りて劣勢を打破する以外に方法が無かったと云えるであろう。 日暹(26世)は身池対論後、引き続き江戸に留まり訴訟し、その後を継いだ日境(27世)は晩年の8年間をこれに注ぎ、萬治2年(1659)遷化すると、日奠(28世)晋山し、寛文元年(1661)江戸に詰め、訴訟する。 またその意を受けた瑞輪寺の日體は明暦2年(1656)入山し、以来日境・日奠の代理として一月3回、10年の間奉行所に出て訴願をつつけたという。 驚くべき執拗さというべきであろうが、でもこの身延の根気と執念は不受派の頭を押えることに寄与したのである。 不受不施対治の宣言 日境は慶安元年に身延に晋山し、暫くは身延山経営に専念するが、慶安5年(1652)不受不施訴訟に本腰を入れ始める。 日境の訴訟方針も、基本的には日暹の上記の意図を引き継ぐものであるが、池上系の不受不施を日樹が邪義あるいは日樹の徒党と呼んでいたものを「不受不施派」と言い切ったことである。即ち、自らを「受不施派」と理論化したことである。 養するに、これまでは一般庶民に対しては堅持した「不受不施の義」も放擲し、完全な「受不施」に堕したというべきであろう。 これには池上が江戸の自他宗を勧進して石檀を修営して顰蹙を買い、四条妙顯寺が同様の手段で塔を建てて「無問塔」とあざけられた(日講「破奠記」)りする教団の擁護のためであったことは疑いがない。 ※無問塔とは無問地獄のような塔という意味であろう。 ◇13.日遵への攻撃 身池対論からの不受派再建は小湊・平賀・碑文谷の3本寺の立て直しと江戸府内に新しく建立された感應寺・自證寺・本源寺の3ヶ寺の隆盛によって進展する。身延は長遠院日遵を不受派隆盛の頭目として没後までも攻撃の対象とした。 前述のように感應寺・自證寺・本源寺は何れも碑文谷の末寺である。感應寺は大猷院殿の立寄があり、自證・本源両寺は千代姫の並々ならぬ庇護下にあり、日境は日遵の批判と共に、この背後の千代姫の影響を排除することにも腐心する。それは、日遵は訴状の対象とするが、自證・本源両寺はひとまず対象から除外する戦術であった。除外することによって、かえって千代姫に存在を意識させるというものであったと思われる。 日境は萬治2年(1659)江戸に寂する。身延山主として12年、その終の8年は江戸に在府して、対不受不施訴訟に終始したのである。 これらの不受不施対治の身延の訴訟及びそれに対する不受派の陳状は寛文元年幕府の申し渡しで一区切りつくまで続く。 ◇14.不受派の対応 以上のような身延の幕府に対する運動は極めて鈍感であったが、幸いにして、公儀の方針は不拡大であり、身延の訴えは聞き届けられなかったし、多くの訴状は放置されたようである。 寛永13年日光東照宮の正遷宮の大祭が執行の運びとなり、その時大赦が噂され、日遵など不受派諸師はその斡旋を天海大僧正に誓願する。日遵や野呂妙興寺日観や三浦大妙寺日淳である。勿論これは、流僧の赦免と不受不施の公儀違背の罪の免除を得るにあったが、幕府は何の反応も示さなかった。 前述のように、不受派は自證・本源・谷中感應寺の3ヶ寺で幕府中枢に接触する。 自證寺は自證院菩提の為、将軍家光より寺領が寄せられる。 日遵への自證寺入寺にあたっては、家光より供養を受ければ謗施を国主から受けることになるが、日遵は信者である千代姫から供物を受け、清浄の供養に轉換してこれる受け、入寺した。 つまり幕府は供養に当たって施主を建てることを認めたことになる。 また感應寺は家光の下問に対し、不受不施立義の宗義を言上しそれを納受され、その為寺領も仁恩として下された。 さらに小湊は慶安元年御朱印を下される時、訴状を提出し、寺領は仁恩のため下されることを言上し、これが「聞し召しなされ、境内の御朱印を頂戴」している。 以上のことは不受派の従来の主張であり、身池対論で身延が池上を敗退させたとしていることで、この事態には身延は震撼する。 一方、不受派は家光が両派を公認したかの如く錯覚し、大勢は安堵したようで、身延に対する警戒が薄れ、大きな禍根を残す事となる。 身延日境は改めて不受不施対治を永代に渡り継続することを宣言し、実働に移る。 それでも、幕府は身延の訴状を5年間放置する。 それでも、日境は幕閣に猛運動を試みたようで、遂に寺社奉行松平出雲守勝隆の援助を得ることに成功したようである。 ※松平出雲守勝隆は上総佐貫15000石藩主、寛文6年(1666)歿。寛永12年(1635)〜萬治2年(1659)に自社奉行であった。 明暦2年(1656)の訴状では、1条の平賀などについては、旧来の通りであるが、2.3条においては、本寺に背いている諸末寺及び不受不施の新地は何れも本寺に帰伏し、あるいは本寺を定めること・本寺に違背しない手形を致せば処分をしないことなどの具体的手續を訴えていることは新しい展開であり、4、5条においてはこれも旧来のとおり不受不施の張本である自證・本源の両寺についてはこれも旧来のとおり「訴訟を延引」をするというものであった。 これには、寺社奉行の「松平出雲守勝隆殿の案紙」がついている。 つまり、身延の訴訟は寺社奉行の取り扱う案件になったということである。 ただし、平賀・小湊などを召喚し、これを糾したのは翌明暦3年で、これに対する不受派の陳述が残る。それは野呂妙興寺住持兼平賀及び碑文谷看坊貞山日誠の言上及び小湊住持三益日運の言上である。 日誠の陳状は、身延が平賀・碑文谷の住職の進退に関する権限を有するとの主張への反駁で、公儀より差し下された池上・妙覚寺の場合と事情が違うとの陳状、これは従来の陳状の繰り返しであった。 日運もまた小湊日延の出寺の経緯から始め、日延は元来公儀によって追放されたのではなく、自ら出寺した隠居であり、身延の主張は当たらない。また日延後住の日遵は慶安元年のは境内の朱印を頂戴致したき旨を言上し、「天下様之御朱印始而頂戴」し、翌年には将軍への「御目見」の光栄に浴し、のみならず慶安4年には自證寺入院を仰せ付けられ日遵が入院、その後住には日運が着任し身延が讒誣する筋合いはないというものであった。 勿論、これに対し日境は反訴している。 それ故、奉行は日誠・日運に再度問訊したようである。 萬治元年日運は目安を以ってこれに答える。次の3条である。 1.祖師の立義は不受不施である。 2.不受不施は御法度に非ざること。 即ち、日奧は対馬に配流されるも、後に放免され弘通の公許を得る、さらに慶長7年の伝通院(家康生母)逝去の折、池上日尊・関東諸寺は小石川壽経寺に諷経して供施を免許され、寛永3年崇源院殿(家光生母)の葬儀にも池上日樹などなど増上寺に諷経して供養を免ぜられている、不受不施は御法度に非ざることの証左である。 3.小湊・平賀・碑文谷3ヶ寺を拝領したという身延の主張は妄語であること。池上・妙覺寺は奉行の達の通り受領したのであろうが、三山は身延の妄語でしかない。 と。 日境は病を得て萬治2年寂し、同年松平出雲守も老齢の為職を退き、身延の企ても一時頓挫する形となる。 以上を総括すれば日境の活動は積極的であったが、不受派は受動的で身延の訴訟に対応するだけであった。 流僧の放免の運動、不受不施派の完全公許の訴えなどの能動的な動きが殆ど見られなかったことは悔やむべきことであろう。 自證寺・本源寺の背後の勢力に頼りきっていたきらいもあるとの指摘もある。 ◇15.本寺帰属令と不受不施公許 萬治3年日奠が身延に晋山、翌寛文元年(1661)3ヶ条の目安を掲げて訴訟に及ぶが、遂に幕府は同年裁定を下す。 御上意之趣 1.池上・中山・茂原・玉澤・本國寺・妙覺寺以上6ヶ寺違背の諸末寺、廿八年以前の古跡末寺、御公儀の本帳に付けたる分、 今程残らずくだされ候事 若し本寺に従はず候者は出寺仕り別に法義相守るべきの事 1.身延より数年不受不施法度の訴訟申し上げられ候と雖も還って諸国の真俗理りを以って御教化候事 1.国々の末寺下され候に付き、御蔵所は御代官、国々は国主、近所は御寺社より指紙を遣わされ、 その上双方共召しよせらせ仰渡され候事 1.平賀・小湊・碑文谷本末共に不受不施の法度相守るべきの事 寛文庚午八月廿七日 松平出雲守/阿部豊後守/稲葉美濃守/井上河内守/板倉阿波守 この条令は一般に身延の工作が不成功に終わったように捉えられているが、そうではない、身延は不受勢力の中堅寺院を奪い取ることに成功し、着実な前進を果たしたと見るべきであろう。 寛永7年以降上記6ヶ寺の諸末寺が本寺に違背し、身延側の経営が成り立たず、窮地に陥っていたことが解消されたからである。 これら6ヶ寺の違背した諸末寺は、正確な数は算出が難しいが、おそらく、関東周辺では数百ヶ寺に上るであろうと推定される。 ついでに言及すると、2・4条は特段に不受不施義が公忍されたわけではなく、不受不施の現状が追認されただけで、実態が変わるものではない。 この裁定をもって、身延日奠・池上日豊・藻原日然・中山日延はただちに諸寺と会合し、所定の目的に向かっての誓約をなす。 なお、この裁定の各門流への影響は明らかでないが、勝劣派日隆門流(八本派)は著しい反応を見せる。 本能寺は不受の旗幟を鮮明にして、京都の会本から離脱する旨を本圀寺に送る。六条本圀寺・四条妙顯寺はただちに京都所司代へ訴えるも所司代牧野佐渡守は受付なかった。そこで江戸の寺社奉行に訴えるも、井上河内守は「不受不施の義は心に任すべし、公儀に御支構これなし」と確言する。さらに本能寺は京都所司代に願書で懇請し、所司代より、尼崎本興寺・京本能寺・大阪五5ヶ寺に不受不施後免の書付を与えるという。 ===以上は身池対論以降から寛文の惣滅に至る迄の、主として関東における不受派と受派(身延)の動向である。=== ---「禁制不受不施派の研究」 終 --- |
【寛文法難】 【不受不施派の禁制】 受派(身延)は京都妙覚寺・池上本門寺などの本山を押えるも実質的に得るものは少なく、この情況を打開するため、 寛文5年(1665)身延の策謀によって、寺領朱印状を将軍よりの供養として受け取ることを画策、 寛文6年寺領を持たない寺院に対しても飲水行路も将軍よりの供養であるとして、朱印状広布を実施する。 【寛文法難】 朱印の受領を拒んだ野呂妙興寺日講ら6人は各地へお預けとなる。 【不受不施派の寺受を禁制】 寛文9年不受不施派の寺請を禁止。 →下総の寛文法難前後の状況は 旧下総香取郡栗源町界隈以下 を参照。 【悲田派禁制】 寛文5年の朱印状広布の際、寺領は将軍の悲田供養と一方的に解釈して受領の手形を出した一派があり、これを悲田派という。 元禄4年(1691)悲田派を禁制とする。 ※参照:伯耆河岡妙本寺(伯耆具足山妙本寺) ※なお、上記の河岡妙本寺以外に多くの悲田派の寺院がある。当時の悲田派寺院の一部として、拙ページには 小湊誕生寺、谷中感應寺(現天台宗谷中天王寺)、雑司ヶ谷法明寺、相模衣笠大明寺などがある。 碑文谷法華寺(現天台宗圓融寺)、廣島國前寺なども該当する。 2019/07/11追加: ---拙「谷中感應寺」のページから転載。--- ●悲田派の禁制 近世初頭から不受不施派と受不施派の対立は深刻であったが、幕府の権力安定化の方策と身延の日蓮宗内での覇権確立志向との利害が一致し、幕府及び受派身延勢力から、不受不施派は次第に禁教化の方向に陥れられる。 身池対論などの弾圧後も、不受不施派の勢いは衰えず、 寛文5年(1665)受派である身延日奠、池上日豐等は不受側を連訴、幕府は諸寺に対し寺領は国主の供養である旨の手形の提出を命ずる。 殆どの寺院は手形を提出すも、手形の提出を拒んだ京都妙満寺日英、京都上行寺日応、上総鷲山寺日乾・同日受、平賀本土寺日述、下総大野法蓮寺日完、上総興津妙覚寺日尭、雑司谷法明寺日了、青山自証寺日庭等(江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人中)は流罪となる。 ※妙満寺日英、上行寺日應:伊東祐実の預かりとなり、現在の日南市北郷町郷之原に配流となる。 日英は妙満寺38世、謫居の地に15年あり、その庵は妙満寺と称し、今は墓地である。 日應は京都上行寺2祖、配流の後2年ほどで寂すると云う。その庵跡は伝えられないが、集落名「常明寺」ではないであろうか。 上行寺はむしろ常行寺と綴り、常行寺が常明寺と転訛したのではないだろうか。(http://やまみや.com/menu1008.html) なお、研究書としては「寛文法難 京都妙満寺38世日英上人/妙法山上行寺2祖日應上人殉教」中村啓堂(柳川妙経寺住職)がある。 →上行寺は常楽院日経上人のページにあり。 ※大野法蓮寺日完は不受不施派の後六上人から外される。その事情は→江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人中を参照。 ※大野法蓮寺日完上人開眼日蓮上人像が市野倉長勝寺(武蔵市野倉長勝寺の項)に現存する。 寛文6年野呂檀林日講、玉造檀林日浣は寺領手形に関して幕府を苦諌、流罪に処せられる。この処置に対して各地で自首受刑あるいは多くの殉教者を出すこととなる。(不受不施は再び壊滅的な打撃を受ける。) 一方 小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅、谷中感應寺日純(小松原鏡忍寺、越後村田妙法寺、相模依智妙純寺)などは寺領は悲田供養として手形を提出する。(所謂悲田派が成立する。) しかしながら受派は更なる打撃を画策し、身延日脱、池上日現(日玄)は悲田派を邪義であると訴え、ついに 元禄4年(1691)幕府は悲田派を新義異流として禁ずる命を出す。 これにより、小湊は受不施に転じ、廃寺を免れるも、碑文谷・谷中は廃寺を命じられる。 ---転載終り--- 2018/11/15追加: ○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より 【恩田派・悲田派】 恩田不受不施とは公儀から寺領の朱印を寺院に交付する場合、その趣旨に供養と仁恩の二途を立てた、不受不施派の日述、日浣、日講らは供養は宗義として受けられないが、仁恩は頂戴すると回答する。しかし公儀は寺領の朱印はやはり供養であるから、不受不施の宗義とは別途に解釈して、その請書(書物)を出すように要求する。そこで、日述ら3人は供養である限り受けられないと書物の提出を拒否する。 一方、小湊の日明、碑文谷の日禪らは朱印に好意を示し、「此度御朱印頂戴仕候義難有御慈悲ニ御座候地子寺領悉御供と奉存候」と請書(書物)を提出する。これに対し、日述らは日明らの行為を論難し、不受不施内に深刻な対立を生ずることとなる。 前者が恩田派で後者が悲田派という。 寛文5年12月、幕府は恩田派の日述、日浣、日講らを流罪に処し、悲田派も慈悲に隠れて不受不施の宗義を弘通しているとの判断が下され、元禄4年不受不施並びに悲田宗を堅く禁制するという全面禁制を交付する。 元禄4年以降、宗門改めの書物は「日蓮宗之内不受不施悲田不受不施宗門之者」と不受不施悲田の文言を入れたものとなる。 2019/07/28追加: ○「忘れられた殉教者」奈良本辰也・高野澄、小学館、昭和47年 より 法華宗寺院法度制定: 身池対論の後、多くの僧が出寺する。日奥を失い、身延に接取された京都妙覚寺貫主日船は主たる僧30数名を連れて出寺する。 →本寿院日船上人 池上本門寺では大坊の中妙院日観が出寺し、上総野呂に走る。この野呂に日観は新しく檀林を開設する。 後に、安国院日講が能化となり、不受不施禁制直後に大きな指導性を発揮することとなる。 池上では残った衆僧も様々に抵抗し、多くの末寺も違背する姿勢を見せる。 京都妙覚寺においても、ほぼ全ての末寺が違背するという。 →上述の「2018/12/23追加:【日蓮宗不受不施派】○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 よりなどを参照。 身延は勝ったにも関わらず、池上本末や妙覚寺本末を掌握できず、劣勢に立たされる。 このような窮状を打開すべく、身延はまた訴訟攻撃を開始する。寛永8年(1631)から始まる訴訟は最後の目的である「法華宗寺院法度」が制定される寛文5年(1665)までの34年間絶えることなく執拗に続けられる。日体という僧は1ヶ月に3回、きちんと奉行所に出頭し訴状を出し、10年間その提出を欠かしたことはなかったという。 第1回目の訴状の第1条は次のように云う。 「御朱印頂戴仕りたき条々 一、法理の儀については、先年権現様御落着のところ、この度池上日樹ならびの徒党、かの邪義を救すけんがために上意に背き法義に違いしゆえ、重ねて対論仰せつけられ、邪義の族、すでに問答に屈せし間、御追放なされし上は、いよいよ寺領地子等国主の御布施供養と治定のこと」 ついに寺領地子の性格についての訴えがある。日樹らの寺領地子についての主張は「寺領は世間の恩賞であって仏事供養の類ではない。」であった。 ついに身延側は「寺領は国主の供養」との理屈を持ち出したのである。 幕府の統制については、他の仏教諸宗もほとんで抵抗することなく屈したが、この時の身延派のように権力の威を借り、阿り、統制と保護を願い出たものは他になかったのである。 30年に渡る熾烈な戦いであった。両者は諸門流・諸寺・諸檀林の獲得に競合したのである。 寛文3年(1663)前六聖人の最後一人、碑文谷法華寺修善院日進が配所信州上田にて寂する。 寛文5年(1665)身延の訴訟を無視し続けた幕府であったが、遂に法華宗「諸宗寺院法度」を制定し、ついで「此度御朱印を頂いた寺領地子は御供養と心得ます。このことは浮腫不施の問題とは別であります。」という意味の受取手形を出すよう命ずる。 手形を出さなければ、朱印状は取り消され、寺領は失い、その結果寺の存在そのものが失われることとなる。 ついに手形を提出しなかった四僧がまず流罪の宣告を受ける。 平賀本土寺日述・大野法蓮寺日完は伊予吉田へ、奥津妙覚寺日堯・雑司谷法明寺日了は讃岐丸亀へ流される。 今、奥津妙覚寺の歴代墓碑の一画があるが、そのなかに表面が削り取られた一基の墓碑がある。これが日堯の墓碑だといわれている。だとすれば、後に墓銘が削られたのである。過去帳には除歴のことが記入されているという。 →下総大野法蓮寺は下総の諸寺中 →雑司ヶ谷法明寺 寛文法難−後六聖人: 池上日樹を失ってからのちの不受不施論者を指導していたのは玉造檀林日浣、野呂檀林日講、江戸自證寺日庭などであった。 江戸青山自證寺日庭の場合は少し事情が違っていた。 自證寺は家光の側室(おふり、自證院)の菩提寺で、その娘の千代姫の帰依が篤かった。 →江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人 寺社奉行加賀爪も幾分遠慮したのであろうか、日庭に対しては出寺を勧告する策に出る。 追放された(出寺した)日庭は寺を持たぬ出寺僧として信徒の指導に専念する。この組織が非合法の「自證庵」につながってゆくこととなる。 追放後22年後、貞享4年(1687)日庭は佐渡流罪となる。 ※日庭が佐渡流罪となった経緯は情報がなく、不明。 →民家に構えていた仏壇が発見されたためだという記録があり、 奉行所へ呼び出されてからも不受不施の所論を述べ立てて流罪となるという。 注目すべきは後六聖人の内、日庭だけが追放・お預けではなく、流罪となったということである。 「預け」であれば、預けられた側も重要人物の扱いをし、それなりの配慮をするが、 流罪であれば、一般の刑法犯の扱いとなったということである。 ※日庭は佐渡相川で本敬寺に謫居したという。 檀林は学問師であるから寺院ではなく寺領を受けてはいなかった、その為、日浣・日講の処分は遅れていた。 だが幕府は寺領地子だけでなく、土水・行路の国主の供養として、土水・行路の受取手形を書けと強弁して迫る事態となる。 日講は土水・行路の受取手形の代わりに諌暁状「守正護国章」を提出する。 寛文6年(1666)5月、日講と日浣に追放の宣告が下される。 日講は日向佐土原へ、日浣は肥後人吉へ預けられる。 →野呂檀林・玉造檀林は関東檀林中 寛文5年の「寺領地子は国主の仏事供養」との手形発行を拒否して追放されて僧は7人になるが、 大野法蓮寺日完は次の事情により「聖人」の列から外され、日述・日浣・日講・日堯・日了・日庭が寛文法難殉教の「後六聖人」と尊称される。 法蓮寺日完は平賀本土寺の末寺であったため、日述と行動を共にしたところが多かったのであろうか。日述と同一に処せられ、追放は思いも及ばぬことだったかもしれない。何が目的であったのかは不明であるが、伊予吉田に追放されて7年後、日完は日述の居室に忍び込んで盗みを働きこれが発覚して死罪となったということである。 → 正之氏サイト(拙サイトに組入)M寛文の法難と矢田部六人衆 より 以下を抜粋 1、生知院日述(平賀本土寺二十一世)は伊予吉田伊達宮内少輔へお預け 2、義辧院日尭(上総興津妙覚寺歴代)は讃岐丸亀京極百助へお預け 3、智照院日了(雑司が谷法明寺十五世)は讃岐丸亀京極百助へお預け 4、明静院日浣(玉造談林五世・津山顕性寺歴代)は肥後人吉相良遠江守へお預け 5、長遠院日庭(江戸青山自證寺三世)は佐渡に流刑さる。 6、安國院日講(野呂妙興寺能化)は日向砂土原島津飛騨守へお預け。 2019/08/19追加: 〇「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」 より 日浣・日述・日講肖像画:備前恵教庵蔵 ※おそらく大坂衆妙庵からもたらされた什宝の一つであろう。 2023/09/18追加: 日述は下総正峰山妙興寺20世でもある。 中村(南中)正峰山妙興寺の歴代中 17世日運(松崎妙顕寺学室七世・小湊誕生寺十九世) 20世日述(野呂・松崎談林化主、中村檀林玄能、平賀十九世、祖山妙覚寺廿四世) 21世日逗(玉造蓮華寺四世) 39世日精(中村檀林122世) は、不受不施僧であったという。 悲田派の出現と寛文の惣滅: 寛文5年から6年に起こった大波乱は不受不施派の「寛文の惣滅」とよぶ。 この法難は「後六聖人」と1人(大野法蓮寺日完)の追放だけではなく、京都妙満寺日英などの8人の流刑者があり、さらに加えて自害・処刑・追放の犠牲は約60人にのぼる。 ○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959 より 寛文5年10月19日京都妙満寺日英并上行寺日應は日向小井に追放。 寛文5年10月22日鷲津鷲山寺隠居・当住は出羽新城に追放。 本源寺、梅嶺寺等破却。 日窓は天台宗に改宗を申し付けらる。 寛文5年12月10日平賀本土寺・大野法蓮寺・興津妙覚寺を身延へ下さる。 ---------- だが、これらの犠牲が「惣滅」だった訳ではない。これ以降、不受不施派の僧及び信者は公然と生きられなくなったというところにある。 勿論、このようなことに追いつめたのは幕府であり、そのように幕府に訴え続けた身延がいわば黒幕であるが、幕府にそのような策を採らせた大きな要因は寺領朱印受領の手形受領の問題をめぐって不受不施論者の中に生まれた「悲田派・悲田不受不施派」にある。 「悲田派」とは寺領が国主の仏事供養ということで寄進されるなら、それは宗義に背くことになるが、宗義に背かずに寺領を受け取ることを探った一派である。 寛文5年7月受領手形のことが伝えられ、ただちに江戸では会合が持たれ、日講・日述が主導して、そこでは手形提出拒否が決められる。 ところが勝劣派の約30ヶ寺が早々と手形を提出したことが伝わると、これに心を惹かれたものが出てくる。 碑文谷法華寺の日禅である。 その後、7月8月と何事もなく、日講らは野呂等に引き上げる。 この間、幕府の中にも不受不施に理解を示す者もいて、そういう情報も日講らに漏れ、難局を乗り越えられるという見込みもあったのかも知れない。 理解者とは井上河内守正利・老中酒井雅樂頭忠清・広島藩主浅野氏夫人(自昌院)・千代姫などであった。 →広島藩主浅野氏夫人(自昌院)は安芸國前寺中 ※千代姫:寛永14年/1637 - 元禄14年/1699、法号は霊仙院、3代将軍徳川家光長女、尾張藩主徳川光友の正室。母は側室の自證院。 そして、この間、碑文谷日禅・小湊日明・谷中感應寺日純が工作を始める。 不受不施を堅守しながら、寺領を確保する方法を編み出したのである。寺領は仏事行為として受けるのではなく、といって世間の恩賞としてでもなく、慈悲として下される「悲田」の名目で受ければよいのではという考えである。 日禅・日純らは表向きは手形拒否の態度であったから、その頃信徒たちは師の流罪を予感し、寺へ押しかけ、師の本尊を求め、日禅・日純らはそれに忙殺されたという。 しかし、どうも別の方法で幕府と交渉していることが信者たちに知れ、彼らは不忍池の路端に落首を書いた高札を立てて批判し、あるいは形見に書いてもらった本尊を引き裂いて感應寺や法華寺の本堂に投げ返してやるという行動に出たのである。彼らはおそらく新興の江戸町人が多かったと思われる。下総香取郡の信徒たちとは違う階層であった。彼らには自分の帰依する寺院が幕府の強制に簡単に屈服したことが許せなかったのであろう。江戸期の寺院はただの葬式仏教に成り下がり堕落したのは事実であろうが、しかし、堕落してゆく寺院や僧侶を容認せずこれを批判した精神は存在したという事であろう。 →碑文谷法華寺 →小湊誕生寺 →谷中感応寺 結局、不受不施派は最終局面で手形提出拒否と手形提出派「悲田派」とに分裂する。 寛文5年11月安房小湊鏡忍寺、越後村田妙法寺、江戸谷中感應寺(日純)、相模依智妙純寺、碑文谷法華寺(日禅)、小湊誕生寺(日明)の6ヶ寺は朱印受領手形を提出する。 「此度御朱印頂戴仕りし段、ありがたき御慈悲に御座候。地子寺領、悉く御供養と存じ奉り候」との文言であった。 こうして「悲田派」は公儀に公認されたが、厳しく非難される。 安住院日念(日講弟子)の「梅花鶯囀記」には次の2首の落首が紹介される。 「不受不施の理を曲げ物にすることも みなひもんや(屋)の細工なりけり」 「日明がおくびょう者の書き物は、手形がたがた足もがたがた」 かくして、江戸の悲田派の寺院の評判は地に落ち、手形を拒否した自證寺などはかえって参詣が増すという。 日禅らは窮地にたち、遂に幕府に日講らを訴えた。日講・日述らは「土水・行路の全てもことごとく国主供養として受領せよ」という強制に直面したのである。 これについては上述「寛文法然−後六聖人」の項で述べたとおりである。 悲田派日明らは不受不施派寺院を悲田派寺院として取り込むことに奔走する。一方身延は悲田派の3本寺以外の寺全てを受派寺院の末寺にするよう訴訟を起こす。つまり、不受不施派の寺院の大部分が消えていくこととなる。つまり惣滅である。 寛文9年「不受不施寺請禁止」令が公布される。不受不施思想及び切支丹信仰を持っていないことが証明されない限り、僧侶でも市民でもあり得なくなったということである。 --- 「忘れられた殉教者」終--- 2019/09/10追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より 《寛文法難》 大坂城対論で日奥を失い、身池対論の主軸であった日樹が没し、不受派の陣営がようやく荒涼たる時、第三の征矢が不受派に放たれる。 それはある意味、教団の致命傷であった。 寛文3年(1663)幕府は「自賛毀他禁止」(自宗を讃美し他宗を謗ることの禁止)を日蓮宗に対して布達する。 「・・・・自賛毀他はもはや法衰えの因、争論の縁を為す、堅く制止すべく事と御書出しの通り、此度日蓮宗へ、同前仰せ出さるの間、向後相守るべくその趣、もし違背の輩は罪科行われべく旨に候・・・・」 次いで、 寛文5年(1665)3月幕府は不受不施派寺院から(幕府の人民統治方法である)寺請の機能を剥奪した。 「公儀へ書物いたさざる、不受不施の日蓮宗寺請けに取るべからず・・・・」 つまり、不受不施派寺院の存在を否定する、その信徒と僧侶との関係を断ち切る、不受不施の信仰を棄てなければ人民として認めないという法令であった。 不受不施派にとっては公的な社会から抹殺されるという意味で、致命的な布達であった。 同年11月幕府は不受不施派の本寺を公儀に召しだし、強制的に寺領は御供養として有難く頂戴いたしますとの手形を書くべしと告げ、「飲水行路」もまた「国王の供養」との解釈を幕府自ら下す。 「此度御朱印頂戴仕候儀御供養と奉存候、不受不施の意得(こころえ)とは各別にて御座候」 これらの措置の裏面には受不施派(身延)の不受不施停止請願の裏工作があったことはいうまでもない。 手形提出を拒否した京都妙満寺日英は寛文6年10月に日向飫肥に、 雑司ヶ谷法明寺日了及び奥津妙覚寺日堯は讃岐丸亀へ、平賀本土寺日述及び大野法蓮寺日完は伊予吉田へ(いずれも寛文6年12月)それぞれ配流される。 また自證寺日庭は出寺し、地下に潜り、遅れて貞享4年(1687)佐渡に配流となる。 野呂檀林日講は「守正護国章」を提出するも、日向佐土原に寛文6年5月配流となる。同時に玉造檀林日浣は肥後人吉に配流される。 《悲田不受不施派の成立》 ところが、小湊誕生寺日明・碑文谷法華寺日禪・谷中感應寺日純の3者は「此度違背せしば、日本国中不受断絶」となりかねず「法灯相続の巧略はあるべからずや」と評議して、手形の「不受不施各別」の文言を除き「慈悲」の2文字を加えんことを訴訟して、許され、12月に「此度御朱印頂戴仕候儀、難有御慈悲に御座候、地子寺領悉く御供養と奉り存じ候」と手形して朱印を受ける。 越後村田妙法寺、安房小湊鏡忍寺、相模依智妙純寺も同一行動をとり、手形を受ける。 即ち、彼ら6ヶ寺は慈悲の文字を加えることによって、本来の敬田供養の意義を変じて、悲田供養に解釈して、これを受けようとしたものである。 本来の不受不施からは「新受」と指弾され、受派からは不受不施新義として攻撃され、信徒からは裏切りとされ、散々な評価であったが、教団をなんとか破滅から救おうと彼らなりの苦心があったことは確かである。 ここに悲田不受不施派が成立する。 《悲田派の禁制》 悲田派はその後、再び身延の上訴によって、名を悲田に仮りる不受不施派の偽装として、処分される。 元禄4年(1691)悲田派禁制が出され、大部は身延の末寺となり、受不施に転ずる。 谷中感應寺は天王寺、碑文谷法華寺は圓融寺と改号の上、天台宗に改宗が命ぜられ、さらに改宗せざる者は大量に伊豆諸島に流される結果となる。 こうして、悲田派は滅び去る。 「日蓮宗の内不受不施の儀はかねてより御禁制に候處、小湊誕生寺・碑文谷法華寺・谷中感應寺、悲田宗と号し、不受不施の邪義を相立て候に付、今後悲田宗堅く停止の旨仰せつけ、この宗旨相改め候、向後悲田宗の輩受不施になるとも又は他宗に成るとも心次第改め申す候以上、右の通り諸大名・諸番頭・諸物頭・諸役人そのほか支配之ある面々迄この旨相守り由、大目付御目付より告知するもの也」 この当時の「宗門檀那請合之掟」には、不受不施も悲田宗も切支丹も三宗とも一派であるといい、これを邪宗として禁圧しようとする時代の意識が窺える。 三鳥派: この後、更に三鳥派なる衆団が登場して、「三鳥派不受不施御仕置の事」が定められ、犯すものは遠島の旨が載せられている。 幕府はこれを不受不施派の異流として認識するも、事実は単に山鳥派と自称する日蓮宗系の新興教団であったようで、またそれほど有力ではなかったらしい。にも拘わらず、三鳥派は幕府や世人によって「不受不施」または「切支丹」的に扱われ、処刑されたらしい。 三鳥派は三鳥院日秀が富士大石寺離門後に唱えたもの。三超派とも三長派とも書くので、三島派は誤りであろう。 →冨士門流三鳥派(三超派)・細草檀林 :三鳥派は富士門流から派生したもので、不受不施とは無関係である。 ---「不受不施派殉教の歴史」 終 --- 2019/09/03追加: ○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収) ◎日蓮宗不受布施派への弾圧 《豊臣秀吉千僧供養》 文禄4年(1595)9月豊臣秀吉の京都東山方広寺における豊臣一門九族の菩提の千僧供養に法華宗は百名の出仕を招請される。 京都諸山は、古来より堅守してきた不受不施義の原理主義と、国主の布施は格別で受くべきとする受不施義の現実主義が協議される。 長老の一如院日重(のち身延20世)の言により、本法寺日通、立本寺日抽、頂妙寺日暁など供養出仕に傾く。 妙顕寺日紹、本国寺日禎、本国寺求法檀林日乾は日奥の不受不施義による不出仕に讃意するが、日紹・日乾は日重の説諭に出仕を表明する。 大勢が出仕に傾き、日奥・日禎は本山を出寺し、秀吉に「法華宗諫状」を献じ、「法華宗奏上」を宗祖の「立正安国論」「災難興起由来記」を添えて後陽成天皇に進上する。 日奥:仏性院日奥(安国院、永禄8年(1565) - 寛永7年(1630)は京都妙覚寺19世に28歳で晋山した英才であった。 《大坂城の対論》 慶長3年(1598)8月、豊臣秀吉歿後も千僧供養は継続され、京都の僧俗は日奥・日禎の不受不施義を誉め、不出仕を支持する。 そこで日重・日乾等の摂受派は千僧供養の不出仕は公儀に背くものと徳川家康に訴える。 家康は大阪城内にて日乾・日紹らと日奥・日禎を出仕の当否につき対論を命ずる。 家康は一定の譲歩を示すも、日奥は所信を貫き家康の激怒を買い、慶長5年(1600)6月対島に配流される。 《慶長法難》 慶長13年(1608)常楽院日経らと浄土宗との宗論「慶長宗論」が仕組まれ、日経らは負けと判定され、日経ら「刵劓刑」に処せられ、追放される。 弟子一人はその場で落命する。 《日奥と京都諸山との和解》 慶長17年(1612)5月日奥は在島13年間の後、赦免され京都妙覚寺に帰山する。 元和2年(1616)5月19日、京都諸山を代表して妙顕寺日紹が日奥へ改悔し和融の義が成立する。 家康は日奥の宗制堅持を称え、不受不施公許を認める内心でいたが、同年4月17日、75歳で死去する。 家康の内意を得ていた所司代・板倉伊賀守勝重は元和9年(1622)10月13日、不受不施公許の折紙を出し、法華宗は再び不受不施の伝統的宗制が復活する。 《身池対論》 元和5年(1619)6月長遠院日樹が37歳にして池上本門寺16世に晋山する。 この頃、中山、平賀、小湊、碑文谷、中村檀林、小西檀林の関東諸山は不受不施、強義折伏を主張し、日奥・日樹に同調していた。 一方では、身延は関東進出を企図し、身延の風下に立った受不施義の関西学派を拒む関東諸山は、国主の施の受・不受をめぐって再び対立する。 寛永3年(1626)10月、将軍徳川秀忠の室・崇源院の追善法会が増上寺で行われ、諸宗に諷経(ふぎん)が命ぜられる。 池上日樹・中山日賢等は諷経して供養を受けず帰寺した。 この頃より再び「王侯除外」が問題となり、寺領・寺子(地子)は国主の供養の布施であるとする身延・関西諸山と、国主の仁恩による布施であるとする池上・中山等の関東諸山が対立が激化する。 対立の激化を受け、身延久遠寺日暹(隆恕)を代表とする受不施派と池上本門寺日樹を代表する不受不施派の対論が、寛永7年(1630)2月21日江戸城内酒井雅楽頭忠世の邸で行われる。 これが「身池対論」である。 これは一致団結の強い法華教団を、対立二分させる徳川幕府の宗教政策に嵌った可能性がある。身池対論の審判役・天海僧正の智恵かも知れない。 ともあり、4月1日に対論の採決が下るが、政治的判断により関東諸山は敗者となり、池上日樹、中山日賢、平賀日弘、小西檀林日領、碑文谷日進は各所に配流となり、加えてこの時既に遷化していた日奥は、再び対馬へ配流となる。 これに義憤した小湊日税は自刃する。 日樹は池上歴世から除籍、幕命により心性院日遠が身延から池上に4月22日晋山し、不受不施の牙城である日奥の妙覚寺は、身延先住の日乾が入る。養珠院の要請により水戸徳川家が日遠の駕籠を警備し、百人の武士が抜刀のまま池上本門寺に入ったと伝えられる。 ※日遠池上入山の絵があるので転載する。 身延日遠池上本門寺に入山:「絵で知る 日樹聖人伝記」 より 日樹の法弟・一如院日僧、仙国院日仙、華蔵院日由は抗議の自害、他の数名は出寺して姿を隠し不受不施義を堅守する。 《養珠院と壽福院》 この対立を大檀越の観点でみると、養珠院は身延山日遠に帰依し、日暹の後盾であり、寿福院は不受不施義の池上日樹に帰依していたのである。 養珠院:お万の方・満・徳川家康室・紀州頼宣、水戸頼房生母) → 紀伊養珠寺、墓所は甲斐本遠寺 壽福院:ちよ・前田利家室・前田利常生母 → 滝谷妙成寺、池上本門寺壽福院逆修十一重層塔 つまり、徳川宗家の側室と外様大名の加賀百万石側室との対立の側面もあったのである。 《自昌院(満姫)と自證院(振局)》 加賀前田家と徳川家とに法華信仰する同音の法号を有する二人の姫がいる。 寿福院ちよの孫娘自昌院(満姫)と祖心尼なあの孫娘・自證院(振局・徳川家光の室)である。 二人の「ジショウ院」たる満姫と振局は従姉妹(いとこ)同士であり、壽福院の不受不施の法華信仰を見て育つ。 《自昌院満姫》 身池対論の採決に抗議し、池上本門寺などの不受不施僧が自害する。 あるいは出寺し、地下で不受不施を堅守するなどの深刻な事態となるが、この出寺した不受不施僧を江戸において匿まい支援したのが、自昌院である。 自昌院の父は加賀三代藩主・前田利常、母は二代将軍徳川秀忠の二女・天徳院(珠姫)である。自昌院の法華信仰は、祖母寿福院の不受不施義の法華信仰を相続したのである。 自昌院:自昌院英心日妙大姉、満姫、壽福院ちよの孫娘、元和5年(1619) - 元禄13年(1700) 自昌院は大乗院日達、安国院日講に帰依し、特に日講が日向佐土原に配流の砌は、兄弟の契をした間柄と伝わる。 さらに、自昌院は浅野本家の広島二代藩主・浅野光晟に嫁し、安芸国前寺を菩提寺として諸堂を再興する。 しかし元禄4年(1691)徳川幕府は悲田不受不施を禁止し、これを国前寺覚雲院日憲が拒否したため、翌年には菩提所と寺領を召上られ身延の支配下となる。 →徳川・前田・浅野家関係図:壽福院・自證院(振姫)・千代姫・自昌院(満姫)・本妙院(充姫)系譜 →江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人 《不受不施の法義》 不受不施の法義は、守護国家論や立正安国論で説かれる他宗謗法者からの供養は「受けない」、「施さない」というこのである。 法華信仰を守るための理念である。留施・止施・不施は法華教団の発展に伴い解釈が拡大されてきた。 宗祖滅後、日像による京都妙顕寺、妙龍院日静による本国寺の勅願寺、祈願所になるのは後醍醐帝や将軍足利尊氏の公武の布施に よるものであるが、初期教団は朝廷・幕府による布施は除外と考えていた様である。「王侯除外の不受不施」である。 《不受と受派との抗争》 身池対論の28年前、対島より赦免された日奥は不受不施義を貫き身延山と対立、身延謗法・身延参詣堕獄を主張し、身延の後立 だてとなる養珠院を諫言する。寿福院は身延・池上の和解に奔走するも不成功に終る。 この当時、小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺を創設する。 すると養珠院は徳川頼宣の42厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院)を建て千駄谷に移す。開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永3年(1708)に移る。 →原宿 妙円寺 →千駄谷 仙寿院 宗門の学問所である中村檀林でも、受不施の諍論が起り学生が離散し、身延支配下になる。 寛永14年(1637)池上日樹の弟子である小湊誕生寺17世長遠院日遵は井上河内守正利、久世三四郎、酒井山城守等の外護を受け、中村近くの玉造に蓮華寺を再興し、不受派学徒養成の玉造檀林を創設する。 →下総中村檀林 →下総玉造檀林 ※なお、不受派の檀林として、下総野呂檀林、下総常葉檀林、上総山田檀林が知られる。 四条妙顕寺が大覚妙実より3世朗源、4世日霽の時代になると、折伏精神を忘れ摂受主義に陥る。この摂受主義を強く非難しが龍華院日実(13180-78)や明珠院日成(-1415)らであり、日實らは妙顕寺を出て妙覚寺を創立する。 時代が近世の中央集権の政治体制になると、信仰の純粋性を保持する「不受義」と、教団の維持を図る「受義」の立場が現れ、相争ったのが「身池対論」である。布施を福田に譬えて解釈されることになる。恩田、敬田、悲田の三田思想である。 1)恩田……父母・師匠など受けた恩に報いる布施、供え物すれば福を増す。 2)敬田……仏法僧の三宝に供養、布施すると福を増す。 3)悲田……貧苦者に対し慈悲の心を以て供養、布施すると福が生ず。 《寛文の惣滅》 「身池対論」から30年のち、寛文元年(1661)8月27日、幕府は「本寺帰属令」を出し、寺院の帰属系統を明示すれば、その門流は公認していた。この頃は不受不施派も公許されていたのである。 同5年には寺社領の朱印調査がなされ、遅れていた日蓮宗の対する「諸宗寺院法度」が定められる。寺社の朱印地は徳川家より寺社に供養として下賜されるから請書(手形)を出すよう命ぜられる。 平賀本土寺日述、上総妙覚寺日堯、雑司谷法明寺日了、野呂檀林日講、玉造檀林日浣らは宗義に反し御朱印を受け取ることが出来ないと手形提出を拒み流罪となる。 小湊誕生寺日明、碑文谷法華寺日禅、谷中感応寺、小松原鏡忍寺、村田妙法寺、真間弘法寺、中山法華経寺らは、御朱印は悲田(慈悲で戴いた寺領)として受取ると請書(手形)を出して朱印を受けた。日明・日禅らは悲田不受不施派と呼ばれる。悲田派の清立である。 禁制された日述、日浣、日講らは恩田不受不施派と呼ばれ、僧も信徒も「寺請」を停止され戸籍を失い、寺を出奔し地下に潜んだ。 不受不施派への弾圧により逃げ切れない僧俗、悲観した人々は自刃、入水、断食、流浪する者数知れず、捕った信徒は処刑される状況である。 手形提出を拒否した妙満寺日英、上行寺日応は日向に、鷲山寺日受は出羽に、野呂檀林の安国院日講は日向佐土原、玉造檀林日浣は肥後人吉に配流された。これが「寛文の惣滅」である。 ---「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」終--- 2018/12/23追加: 【日蓮宗不受不施派】 ○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より 身池対論と末寺の抵抗: 慶長17年(1612)日奥赦免、日奥対馬より帰還、不受不施派は勢力を盛り返し、受不施派の批判を繰り返し、信徒の身延山参詣を止める。 孤立した受派身延(日乾・日重・日暹ら)は池上日樹らの対論を再三願い出る。 その結果、寛永7年(1630)江戸城でいわゆる身池対論が行われる。しかし事前の受派による政治工作で勝敗は決まっていたのである。当然不受側は敗北し、日樹らは配流あるいは追放となる。 なお、この時の罪名は「上意違背」であって「不受不施禁制」ではなかった。つまり、寛文期まで不受不施派寺院は存続したのである。 幕府は身池対論の結末を京都妙覚寺と池上本門寺を身延に与える処置で決着を図る。 しかし、この結果に末寺や信徒はどのように対応したのか。 寛永10年の「寛永年度日蓮宗末寺帳」では、妙覚寺末寺100ヶ寺の内、93ヶ寺が本寺に「違背」「于今不参(いまにまいらず)」と記されていて、末寺の本寺離反をはっきりと示している。妙覚寺末寺の多い備前・美作・備中の末寺全てが「違背」であり(33ヶ寺)、しかもこれらは直末であり、さらにその下の孫末も全て本寺から離反している。以上のような状況であった。 一方、諸宗に対する幕府の宗教政策はといえば、寛永期から幕府は諸宗の本寺に末寺の書上げを命じ、寺社奉行-本寺-末寺の支配の枠組みを作る政策を採り、寛文期までにはその意図はほぼ完成する。しかし最後まで残ったのが日蓮宗であった。 寛文元年(1661)最後まで支配体制ができなかった日蓮宗に対し、本寺違背の末寺に本寺に従うよう、さらに従わざる末寺の僧侶は寺を出るべしと命ずる。 この指令は岡山藩にも翌年に届き、この時岡山藩領内の主な不受不施派寺院14ヶ寺「城下蓮昌寺、金川妙國寺、中山道林寺、津島妙善寺、邑久郡福岡實教寺、野々口實成寺、紙工大乗寺、赤坂郡矢原石井寺、和気郡片上法鏡寺、二日市妙勝寺、邑久郡福岡本興寺、北方神宮寺、東河原大林寺、下中野南光寺」は本寺に従うよう命じられる。(池田家文書「留帳」) ※岡山藩領内の主な不受不施派寺院14ヶ寺の概要 城下蓮昌寺:城下蓮昌寺 金川妙國寺:金川妙國寺、備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧 中の原番167〜177にあり 中山道林寺:中山道林寺 津島妙善寺:津島妙善寺、同上 中の原番58にあり 邑久郡福岡實教寺: 野々口實成寺:同上 中の原番136〜141にあり(實城寺) 紙工大乗寺: 赤坂郡矢原石井寺: 和気郡片上法鏡寺: 二日市妙勝寺:二日市妙勝寺 邑久郡福岡本興寺: 北方神宮寺:同上 中の原番62〜65にあり 東河原大林寺: 下中野南光寺:同上 中の原番29から30にあり こうした状況に、金川妙國寺はいち早く、いち早く反撃の手を打つ。 寛文元年(1661)閏8月の「本末諸寺異体同心掟状之事」<備前金川妙國寺→「妙国寺本末寺諸寺誓状」中>である。 これは妙國寺とその末寺100ヶ寺が連判し、どのような事態が発生しようとも不受不施を堅守する「誓い」を表明したものである。 寛文2年の岡山藩の違背寺院に対する本寺帰順せよとの命が下されるも、「寛文年中亡所仕古寺書上帳」によれば、違背14ヶ寺の内僅かに野々口實成寺だけが立ち退き無住となったのみである。金川妙國寺は住職のみ「寛文年中より以前に無住」と記され、やむなく出寺したものと思われるも、寺中10ヶ寺は寛文6年まで不受不施寺院として存続する。 その他12ヶ寺も妙國寺々中と同じく、不受不施を堅持し、本寺違背のままであった。 しかし、寛文6年(1666)岡山藩主池田光政の弾圧で、表から不受不施寺院は全て姿を消すこととなる。(廃寺とされる。) 【岡山藩の不受不施弾圧】 寛文4年(1664)から寛文5年にかけて、幕府は諸大名と寺社に朱印状を公布する。 この時受不施派(身延山)の策謀によって、寺領安堵の朱印状は将軍からの供養(敬田供養)であるとして手形を出すこととなる。 不受不施派では、寺領安堵の世間通用の仁恩の施(恩田供養)であって、信仰上の問題とは別のものであると主張するも、幕府はこれを許さず。従って、不受不施派寺院は手形提出を拒否することになる。(注:非田不受不施派) 手形提出を拒否した不受不施派寺院は全て本寺を失うこととなり、僧侶は出寺する。この時、不受不施派の主要指導者は次のように幕府から処分される。 即ち、平賀本土寺日述は伊予吉田へ、上総興津妙覚寺日堯及び雑司が谷法明寺日了は讃岐丸亀へ、下総玉造談林日浣は肥後人吉へ、下総野呂妙興寺日講は日向佐土原へそれぞれ「お預け」の身となる。また、江戸青山自證寺日は佐渡へ流刑となる。 あわせて、寛文4年切支丹宗旨人別改が制度化され、全ての人々はいずれかの寺院の檀徒となることが義務付けられる。勿論、寺を持たない不受不施派僧侶の寺請は出来ない訳である。 注:悲田不受不施派 しかし、不受不施派の内、朱印状の特権を喪失することを怖れた一派は将軍からの寺領安堵は慈悲の施(悲田供養)と解釈して 手形を提出したものがあった。これらは悲田不受不施派あるいは悲田宗と呼ばれ、正系からは「新受」と非難され、 受派からは不受不施と攻撃される。元禄4年(1691)悲田宗は異端として禁止され、以降消滅する。 寛文5年、諸宗寺院法度が出され、本寺の末寺支配が強化され、さらに在家での布教活動が禁止され、不受不施派の合法的手段での布教活動は一切できなくなる。 備前岡山藩では、寛文6年6月頃より池田光政が廃仏向儒策を展開し、領民は心学(儒教)を強要される。光政は宗門改の寺請に代り神道請を実施したのである。 かくして、廃仏向儒策の遂行により、寛文7年現在で、幕府に報告された「実績」では領内寺院数1,044ヶ寺の内563ヶ寺が廃寺となり、その内不受不施宗門故に廃寺とされて寺院は313ヶ寺と報告される。 光政にとって、諸宗寺院法度の制定と不受不施派への手形提出の強制の幕府政策は佛教弾圧の好機であった。 寛文6年8月、光政はまず、寺院法度に違反している寺院を取り潰す。咎は寺社奉行・郡奉行の許可なく無住の寺へ坊主を入れ、また弟子をとったということであった。瀬戸妙長寺住持教光坊、宗堂妙泉寺、大苅田妙泉寺、神田村知円ら4名を追放し、瀬戸村庄屋と頭百姓を籠舎する。妙長寺は廃寺、両妙泉寺及び神田村の寺は釘付けに処する。 次いで、光政は不受不施派寺院の手形拒否を捉え、事前に幕府の寺社奉行に不受不施僧についての取り扱いについて内意を窺い、手形拒否僧侶の追放はしてよいとの内諾を得て、不受不施弾圧を開始する。 寛文6年12月に津島妙善寺日精、城下蓮昌寺先住日相、赤坂郡矢原石井寺、福岡妙興寺ら4名が追放処分を申し渡される。 翌寛文7年春までに追放された不受不施僧は585人の多きにのぼる。 【不受不施派の分裂】 不受不施派禁制の後、不受不施派は非合法となり、地下に潜行する。 やがて、不受不施派内部で内信者の評価・取り扱いをめぐって論争・分裂が発生する。 儀辨院日堯・智照院日了を指導者とする導師派(堯了派・日指派)と安國院日講を派祖とする不導師派(講門派・津寺派)である。 ※参照:本ページ中:不受不施派の分裂と動向 【不受不施派の再興】 明治9年釈日正によって不受不施派公許が実現し、不受不施派が再興される。 明治13年本華院日心によって不受不施講門派が公許・再興される。 ※参照:本ページ中:不受不施派の再興 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○日蓮上人の正系 日蓮大菩薩 日像菩薩:日像菩薩略伝 大覚大僧正:大覚大僧正略伝並びに開基寺院 久遠成院日親上人:日親上人 佛性院日奥上人:日奥上人略伝 長遠院日樹上人:日樹上人伝 |
★備前に於ける寛文6年の惣滅 2018/09/30追加: ○「神仏分離」圭室文雄、教育社、昭和52年 より ・岡山藩における寺院整理 寛文6年(1666)岡山藩は寺院整理(日蓮宗では不受不施派の根絶)政策を断行する。この年池田光政は領内の半数を超える寺院を一挙に破却する。 その実態を延宝3年(1675)「備前備中御領寺院帳」(岡山大学池田家文庫所蔵)で纏めると次の通りである。 |
寺院数 | 割合% | 破却寺 | 残寺 | 破却率% | ||
真言宗 | 401 | 38.7 | 183 | 218 | 45.6 | |
日蓮宗 | 397 | 38.4 | 348 | 49 | 87.8 | |
天台宗 | 148 | 14.3 | 48 | 100 | 22.4 | |
禅 宗 | 54 | 5.2 | 13 | 41 | 24.1 | |
一向宗 | 20 | 1.9 | 4 | 16 | 30.0 | |
浄土宗 | 15 | 1.5 | 2 | 13 | 13.3 | |
合計 | 1035 | 100.0 | 598 | 437 | 57.8 |
まず、岡山藩の宗教状況はと云えば、それは真言及び天台の密教と日蓮宗の王国であったと読み取れる。そして、その中の日蓮宗はかっては松田氏の支配地であった西備前(御野郡・津高郡・赤坂郡・磐梨郡など)では他を圧倒する力を持っていたのである。それを端的に示すのが、次に掲げる「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」であるが、言い換えれば、日蓮宗は西備前に偏在していたともいえる。 次いで、寺院破却及び僧侶処分の傾向であるが、これは日蓮宗が狙い撃ちにされたと云える。 岡山藩における日蓮宗寺院397ヶ寺中、実に348ヶ寺が破却され、その破却率は87.8%を示す。 残寺は僅かに49ヶ寺のみなのである。 備前の日蓮宗はほぼ全てが不受不施であり、不受不施は「お上に盾突く危険な宗教」であったのであろう。そのような宗教は破却する対象であったのである。 池田光政はまさに日蓮宗不受不施派壊滅を目指した政策を封建領主の強権でもって遂行したのである。 ※そもそも松田氏は代々日蓮宗の熱心な信者で、松田氏自身が封建領主の強権でもって領内を法華化していった経緯を経る。その結果が、「備前法華」といわれる状況を作りり出し、しかも、この地に根付いた日蓮宗は不受不施の系統であったのである。 松田氏は封建領主の強権で西備前に法華の王国を作るも、松田氏から数代後の支配者池田光政は同じ封建領主の強権でもって、日蓮宗不受不施派を惣滅させようとしたのである。 ところで、寛文6年の処置について、岡山藩は詳細な追跡調査を行っている。即ち宝永4年(1707)領内各郡の肝煎に命じて、廃寺とした寺院が約40年後どのようになっているか徹底して調査をする。その調査報告書が「寛文6年亡所仕古寺書上帳」である。 2018/12/23追加: ○「岡山県史 第6巻 近世1」1984 より 備前に於ける日蓮宗寺院の廃寺について |
寺 院 名 | 末寺数 | 孫末寺数 | 計 | 合計 | |||
京都妙覚寺系 | 金川妙國寺 | 74 | 18 | 92 | |||
城下蓮昌寺 | 33 | 9 | 42 | ||||
津島妙善寺 | 24 | 22 | 46 | ||||
中山道林寺 | 19 | 4 | 23 | ||||
三門石井寺 | 7 | 0 | 7 | ||||
その他の妙覚寺末寺 | 14 | 33 | 47 | 257 | |||
小湊誕生寺系 | 5 | 16 | 21 | ||||
六条本圀寺系 | 0 | 5 | 5 | ||||
四条妙顕寺系 | 0 | 5 | 5 | ||||
京都本能寺系 | 0 | 4 | 4 | ||||
その他・不明 | 5 | 0 | 5 | 40 | |||
297 |
宝永4年(1707)の「寛文年中亡所古寺書上帳」より集計という。 上記の合計297ヶ寺は寛文年中の廃寺数313ヶ寺あるいは348ヶ寺とは合わないが、この理由については言及がない。 なお、本表と同じ表を「報恩大師建立備前48ヶ寺」中の「 3.吉乗山石井寺【廃寺】」の「寛文6年石井寺の廃寺」の項に 掲載しているので、参照のこと。(但し、「蓮昌寺」からの転載) |
備前における日蓮宗の勢力は、寛永10年(1633)京都妙覚寺が幕府に提出した妙覚寺日亮の「上京妙覚寺諸末寺覚」(国立公文書館)で、その一端が知れる。 2018/09/30追加: 次に掲載する「寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」は備前(岡山藩領であった備中の一部を含む)における日蓮宗のしかも最盛期と思われる寺院のほぼ全容を示したものと思われる。(「岡山県通史 下巻」永山卯三郎、昭和5年 所収) 2019/10/26追加: |
●不受不施派弾圧による備前尾上村の動向 ○「地域資料叢書1 村人が語る17世紀の村―岡山藩領備前国尾上村総合研究報告書―」東昇、服部英雄研究室(九州大学)、1997 より 尾上村は津高郡に属し、享保6年(1721)の「備陽記」によれば、石高は1680石余で津高郡2位、家数134軒・人口793人で郡内で第1位の大邑である。 1 寺と祠がつぶされる ―池田光政の廃寺と寄宮― 1.寛文6年の危機 廃寺と寄宮 寛文6年(1666)4月26日光政江戸を出立、5月10日岡山到着、同月18日の日記に次のように記す。 国中在々わけもなき小社共、五千石地ニ壱ヶ所ニあつめ、吉田殿へ申ふうじこめ、 其外大社又ハ所々之おふすな(産土)ハのこし置可申候哉と、三人代官頭申候、一段可然と申付候、 小社之書付大かた 壱萬千百余つふし候事 これが寄宮政策の始りである。光政は領国の大社・氏宮(601社)を除く「わけもなき小社」(淫祠)11100余(10527社)を整理し、5000石(代官所)単位で72社の寄宮を新しく建立した。これらの小社は、氏神などと違い、村人の個々の願いうぃ聞いてくれる、もっとも身近な神であった。その神をいきなり壊せと藩は命令したのである。 また同年、幕府より不受不施派禁制の法令が出され、備前法華の法華とは即ち不受不施派と同義であった岡山藩では不受不施派を中心とした僧侶の追放・還俗・寺院の破却を実施した。領内1044ヶ寺の内、563ヶ寺が破却、日蓮宗(当時の備前では不受不施派と同義)に限れば、397ヶ寺の内348ヶ寺が棄却される。これが「廃寺」である。 尾上村は「備前法華」の中にあり、殆どが日蓮宗の檀家であった。小社の破壊に続いて廃寺、村人たちは2重のショックを受け、それを大変な危機と感じたであろう。 前年の寛文5年より「切支丹宗宗門御改帳」の作成が始まっている。備前藩においては翌年の廃寺を視野に入れた「宗門改帳」の作成でもあったと考えられる。 2.村民の廃寺の対策 次の表は尾上村の宗旨変遷を軒数別に寛文5年から現在まで表したものである。
日蓮宗津島妙善寺末松田山明光寺(尾上妙光寺)、辛川市場元妙寺、白石圓住坊は寛文6年廃寺となる。 但し、一宮教壽院とは不明。備中花尻本立坊・備中花尻蓮正坊も不明、しかし花尻は資料中には備中とするが、そもそも花尻は備前であり、備中ではない。しかし、何れにせよ本立坊・蓮正坊とは不明である。 寛文12年には廃寺の影響で、村人全員が神職請(尾上八幡宮中山庄兵衛)となる。 それから8年後の延宝8年(1680)には寛文5年とほぼ同数の檀家が日蓮宗に復帰する。しかし、その旦那寺は備中の東花尻妙傳寺となる。 ※東花尻妙傳寺は庭瀬不変院末、備中に所在し、当時は幕府領後庭瀬藩領であり、弾圧を察知し、備前尾上から備中へ退避したともいわれ、現在でも檀家の殆どは尾上であるという。 →東花尻妙傳寺は備中東花尻中にあり。 尾上村の不受不施派の村民は寛文6年廃寺され神職請を強制されるも、神職請が延宝2年に緩和されると、すぐに隣接する他領の妙傳寺の旦那になったのである。これは岡山藩の支配の及ばないところで信仰を続けようとする村人の抵抗であったと云える。 それは文化8年(1811)妙傳寺の旦那であった尾上村111軒・一宮村21軒・辛川市場村4軒合計135軒の離旦争論からも推測できる。3村の旦那たちは妙傳寺が本山との出入により「旦家法用指支」(これは「檀家法要差支え」という意味か)になったので津高郡内の寺へ預旦那を願い出た。そして妙傳寺の出入が落着する文化14年までの6年間、離旦し続けたのである。そこには自分たちの信仰のために寺を随時変えていく村人たちの姿があった。廃寺されると他領に寺を変え、法要などができないとなると、また寺を変えて信仰を続けた。 その信仰を支えたのは何か。それは現在尾上村に存在する宗旨別の「講中」であろう。日蓮宗には集落を中心とした講が中石・畑・向山・久保谷・北浦講中の5つが存在する。その講中は次の3つの堂に分かれ活動している。 1)久保谷の堂(久保谷辻堂) 久保谷講中:日朝・大覺・題目石(日蓮)・地神・常夜燈が祀られ、すべて別々のお祭りを行う。 2)畑の堂(畑日蓮堂) 畑・中石・向山講中:大覺・題目石(日蓮)・笠塔婆・地神・常夜燈を祀り、全て一緒にお祭りを行う。 3)北浦の堂(北浦日蓮堂) 北浦講中:大覺・題目石(日蓮)・地神・常夜燈を祀り、大覺と題目は一緒に、地神は別のお祭り。 →久保谷辻堂、畑日蓮堂、北浦日蓮堂は備前津高郡野殿・尾上・花尻村中にあり。 これらの堂には題目石(日蓮)、大覺大僧正・地神はセットで祀られ、それらの年紀は江戸後期のものであり、近世から講は続いているものと思われる。また備中東花尻には天正19年(1591)銘の題目石が存在し、そこには「花尻村東西真俗一給仕」とあることから、講中は近世初頭から存在していることが伺える。現在も尾上の講中の人々が堂に集まり「日朝様」「大覺様」などと年に7〜1回のお祭りをしている。 →上記の東花尻の題目石は「備中東花尻おそっさま(御祖師様)題目碑」<備中東花尻中中のあり>を参照。 以上から近世にも同様に日蓮宗の信者は普段は堂を中心とした講中で祭を行い、葬式や法要を寺に依頼するという形で、廃寺政策を行う岡山藩や法事差支えの寺から自立して、自分たちの信仰を守り続けたといえる。 ※もちろん、これらの信仰は受不施に転向した日蓮宗信者の信仰で、不受不施を堅固した信者ではない。その意味で、より緩やかな抵抗であったと云える。しかし、緩やかな抵抗といえども、強靭な抵抗であり、そのしたたかさには瞠目するものがある。不受不施を堅固した信者は内信などとして別の苛酷な道を歩むこととなる。 3.祠の復活 次に寄宮された祠はその後どうなったのか。まず寄宮はどうなったのか。 寛文6年祠は72社に寄宮された。しかし、人為的な寄宮は村人とのつながりがなく、次第に荒廃していく。 藩は寄宮の修繕費用の捻出などの方策を打ち出すも、所詮氏子のいない寄宮の荒廃を止めることは出来ず、ついに正徳3年(1713)諸郡の寄宮66社を上道郡大多羅村に遷宮する法令が出される。諸寄宮の修繕費用を大多羅寄宮1ヶ所に集中するというもので、これは事実上の寄宮の終焉であった。 この大多羅寄宮は、元からあった句々迺馳(くぐのち)神社の境内を拡張するもので、現在は17間×9間という大きな基壇のみが残る。岡山藩は大多羅寄宮に毎年社殿の修理費と神供料を支給したが、廃藩置県後大多羅宮は荒廃し取り壊され、明治8年布勢神社へ合祀される。昭和2年近世創建の神社が初めて史跡指定される。 この寄宮の顛末は、村人の信仰なしには、寄宮は存続できなかったということであろう。 では、寄宮と比べて寛文6年に廃止されたはずの祠は本当に消滅したのであろうか。 貞享年中(1684-88)には「小社末社を建つるものあるを以って神社帳を製す」とあり、尾上村のその神社帳は現存しないが、かなりの小社が現存したことが推測される。 元禄4年(1691)小社は再び禁制となる。 元禄11年(1698)詳細に調査がなされ、驚くべきことが判明する。津高郡の121村に1649社もの膨大な小社・祠が存在していたのである。(則武家文書) 尾上村では 氏宮八幡宮、番神2社、大藏1社、神馬ノ神2社、さいの神2社、地主神4社、荒神2社、いぬ神1社、祝神3社の合計18社が存在していたのである。 これを聞取りによる現在と比較すると番神1(久保谷)、地主神4(久保谷・畑・北浦・南浦)、大藏1、さいの神1と7社確認できる。 尾上では元禄期に確認できる地主神4社が、現在でも存在し、先の日蓮宗講中などを中心にずっと祭を続けているのである。 祠は小さい神であるが、先にみた寄宮と違い藩の政策などでは消滅しない強い日常的な信仰が存在したと云えよう。 ※番神1(久保谷)は備前津高郡野殿・尾上・花尻村中にあり。 次項以降はトピックスをピックアップする。 2.移動する身分 -ある時は神職深井出雲、ある時は百姓伝兵衛 尾上村中石は殆どの家が天台宗一宮徳寿寺の檀家である。天台宗も日蓮宗と同じく部落中心の講が4つある。 向山・上中石・下中石・和田である。 →天台宗徳寿寺は 3.検地にいった藤次郎 -尾上村の村役人たち- 手習所とは岡山藩が寛文8年に平均5,6ヶ村に1ヶ所づつ設けた教育機関である。目的は先にみた寛文の寺院淘汰の結果、僧侶を師匠とする寺子屋で百姓が手習・算用を学ぶ機会が減少し、その代替策として造られたものであった。 しかし手習所は経営難に陥り、延宝2年(1674)14ヶ所に統合されたが、翌年には廃止された。これも寄宮政策と一緒で百姓の間の根付くことはなかった。 (以下略) ---「地域資料叢書1 村人が語る17世紀の村―岡山藩領備前国尾上村総合研究報告書―」end--- 2024/08/09追加: ●悲田派の禁制と悲田派寺院の動向 ○「備前法華の歴史(続)−江戸時代の状況」常圓寺日蓮仏教研究所主任/平井妙廣寺修徒・都守基一、平成28年 より ◇悲田派の禁制 元禄4年(1691)4月、幕府は悲田派(悲田宗)を禁制とす、同年5月21日備前藩の悲田派寺院、受不施に改派する。 改派したのは以下に列挙した寺院である。 これらの寺院は、基本的には寛文年中の備前藩の日蓮宗整理・弾圧の際、「朱印地を供養として受領する」手形は拒否するが、「慈悲として受領する」手形を出し、生き延びた(廃寺を免れた)寺院である。 但し、佐伯本久寺の場合は寛文6年一度廃寺となるも、後に嘆願により再興されという。 菅野幸福寺の場合は寛文6年(1666)7世日精(後除歴)のとき、国主池田新太郎は不受不施の廃滅を命じ、寺を取壊したが、寛文7年3月に庄屋坂野惣兵衛・仁兵衛の助力により再建がなる。(「日蓮宗寺院大鑑」)おそらくこの時、菅野幸福寺は悲田派に転宗し、小湊誕生寺末となったものと思われる。 ◇改派した寺院: (小湊誕生寺末) 岡山瑞雲寺、濱野妙法寺、岡山妙林寺(末寺2ヶ寺)、福岡妙興寺(末寺1ヶ寺)、菅野幸福寺、佐伯本久寺、 備中庭瀬不変院(末寺4ヶ寺)、同信成寺、備中妹尾盛隆寺(末寺4ヶ寺)、備中倉敷本栄寺(小湊誕生寺末攝津妙福寺末)、 備中片島妙任寺(同左) (鶏冠井石塔寺末) 備中箕島正福寺、備中中島星友寺、備中早島妙法寺、備中津寺宗蓮寺、備中中島妙隆寺(?)、備中和井元龍泉寺、 備中加茂蓮休寺、加茂千福寺(※不明)、備中箕島呑海寺、備中松山道源寺、西山光明寺(※不明) なお、この改派の時、磐梨郡稗田村の惣左衛門以下全村65家408人は、その旦那寺妙林寺とともに、改派したことの誓約書を提出し、その誓約書が残り、その紹介がある。。(「岡山県古文書集 弟三輯」妙国寺文書) 稗田村には金川妙国寺末法栄山妙光寺覚城坊があったが、寛文6年廃寺となる。 また、現在稗田には不受不施派龍華山正妙寺が建立されている。 |
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これらの導師派の庵については、寛文の惣滅によって廃寺となった山号寺号坊号を引き継ぐ場合、廃寺の僧が出寺・仮の還俗をして開基となる場合が多く、寛文以降非合法化で成立した庵であり、受派寺院とは敵対関係にある場合が多いことが分かる。 そしてこうした庵は内信者宅の秘密の部屋に設けられられた。内信地区ではこのような「隠れ部屋」は方々に存在していたが、家の改築等で取り潰され現存するものは僅かとなった。(これは昭和末期の話であるので、現在では、殆ど残らないのではないか。) 2019/02/10追加: ○「岡山の宗教」岡山文庫51、長光徳和、昭和48年 より ●和気郡益原に於ける隠れ家:(二階の白線の部分の部屋に潜んでいた。):下図拡大図 右下は「福田人衆の墓」の写真である。 |
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◎下総坂村の坂ガケラントウ墓地には庵主などの名を刻む板碑がある。 →下総常盤村>川島・方田・坂中にあり。 さて、地域の信仰・組織の拠点である庵は僧侶集団である法中組織に統括される。 ◇不受不施信仰の変容 |
2018/12/23追加: ◇備前矢田部法難:矢田部六人衆 2019/09/19追加: ◇福田五人衆 ◇備前に於ける捨身の抗議 ◇庭瀬三僧法難 2019/08/05追加: 2019/08/05追加: ◇享保法難(行川法難) ◇坂本和平(真楽)入牢・流刑 2019/08/19追加: 2019/09/19追加: |
2019/08/13追加: |