★大覚大僧正妙實
大覺、諱は妙實、少名は月光、摂政近衛経忠の子である。初め嵯峨大覚寺に入り、金剛界(真言密教)を受ける。
ある日京に出た時に日像の法莚に邂逅し、欣然として加わり聞くこと七日になる。その徒(智覚、正覚、祐存ら)も日々に相従い、皆信服してたちまち密乗を捨てる。(時に年17歳)日像に親炙して精微を究むる。
延文3年(1358)天下に大旱(ひでり)があり、諸宗が雨乞いの法を修したが、験が現れず。大覚は詔を奉じ、桂川の畔に至って「法華経」を読誦す。未だ1軸に充たない中に、甘雨が降り注ぎ数日降り止まず。
勅して、願うことはないか、と言うので、師は日蓮・日朗・日像の菩薩号を請う。上(後光厳天皇か)はそこで三師に菩薩号を贈られ、大覚を大僧正とす。将軍足利尊氏は三荘を割いて寄附す。貞治3年(1364)4月逝去する。寿68。
---以上「和漢三才」---
大覚大僧正の生系には二説あり、摂政近衛経忠の子とするものと後醍醐天皇第三皇子恒性親王とするものとがある。
三備開基寺院の各々の縁起も両説が唱えられ、どちらとも決められないのが実情であるが、何れにせよ所謂「高貴の出」であることは確かなことのようである。
妙實は、また、四条妙顕寺、京都小川妙覚寺、京都内野立本寺、本門法華宗大本山妙蓮寺それぞれの第二世であり、備前金川祖山妙覚寺第四世でもある。
○2012/11/08撮影:深草宝塔寺在四条妙顕寺歴代上人墓所
日蓮日朗日像墓碑;向かって左から2番目は日像上人、その右一番高い碑は日蓮上人、さらに右は日朗上人、
その右/右から2番目は大覚大僧正碑:◎大覚大僧正墓碑
2014/03/20撮影:大覚大僧正墓碑2
○2012/11/15撮影:四条妙顕寺境内「三菩薩宝篋印塔」
正面は日蓮大菩薩、両側面に日朗菩薩、日像菩薩、背面に大覚大僧正と刻む。
三菩薩宝篋印塔1☆ 三菩薩宝篋印塔2☆ 三菩薩宝篋印塔3☆
○2012/11/15撮影:四条妙顕寺境内「妙顕寺八房龍神」
正平13年()大覚大僧正、勅命により桂川辺にて祈雨、そのとき八大龍王の使者八房龍神が示現、この龍王は日像菩薩の守護神である。この龍神はいまなお妙顕寺に止住し、妙顕寺を守護すると伝える。
妙顕寺八房龍神1☆ 妙顕寺八房龍神2☆
2017/10/20追加:
○「第650年遠忌記念 大覚大僧正」京都像門本山会、平成25年 より
本項の大部は標記の著作に依る。(特に「ことわり・注釈」のない場合は、本著に依る。) 2017/10/23追加:
○「岡山市史 巻2」岡山市役所編、昭和11年 所収の 「第42章 大覺大僧正妙實上人」 より転載(但し一部省略、一部表現を修正)
なお、本章は編集の時代を反映し、所謂皇国史観に彩られているが、その色彩は中和して記述する。 また、文中 ※印の項は本人(s_minaga)の追加した部分である。
2019/09/15追加: ○「備前法華の由来」沼田頼輔、明治41年(「岡山市史 巻2」昭和11年 所収) より |
大 覚 大 僧 正 略 伝 |
◇大覚大僧正の伝記: 近世には
「日像門家分散由来記」妙顯寺、元亀・天正頃 「妙蓮寺祖師記」妙蓮寺、慶長11年(1606)
「歴代略伝」妙顯寺学頭本乗院明伝、元和2年(1616)
「龍華歴代師承伝」元政上人、明暦元年(1681)など多くの著述がある。 近世の寺院の縁起類として
「菩提所妙皇寺縁起」慶長10年、 「備前浜野村松壽寺由来書」天和3年、 「備前牛窓本蓮寺来歴ノ事」元禄16年、
「備前浜野村松壽寺縁起」享保年中、 「金原山妙圓寺蘭若旧記」元和元年 などがあり、開山としての大覚大僧正の伝記がある。 近代には
「覺師年譜」妙顯寺河合日辰/明治45年、 「大覚大僧正」花房日秀/大正2年、 「大覚大僧正・上巻」下村宏之/大正6年、
「児島高徳皇子論」豊田稔/昭和11年(本著は児島高徳と大覚大僧正の同人説を説く)、 「大覚」渡辺知水/昭和30年、
「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮/昭和47年 などがある。 その他「日本仏教史」辻善之助、 「日蓮教団全史」などには大覚大僧正について多くのページが割かれる。 |
永仁5年(1297) |
生誕(没年より逆算)。 |
出自: 「妙蓮寺祖師記」、「龍華歴代師承伝」などでは、大覚大僧正は近衛経忠の子息で、幼名を月光丸と称したという。
しかし経忠(従一位関白左大臣、堀川関白と称される)は観応3年(1352)51歳で薨じている。つまり経忠は大覚大僧正の5歳年少で親子関係は成り立たない。さらに経忠の男子は嫡子経家と興福寺一乗院門跡となった實玄があるのみである。従って、近年では大覚は経忠の養子であったが、誤って子と伝えられたのであろうという解釈もなされている。
さらに、「覺師年譜」、「大覚大僧正」花房では大覚と實玄を同一人物とする。
一方、三備地方の「菩提所妙皇寺縁起」、「備前浜野村松壽寺縁起」、「吉備前鑑」では後醍醐天皇の皇子であるとする。しかしこれも大覚生誕の時、後醍醐天皇は10歳でありこれも親子関係は成り立たない。そこで實は大覚は後醍醐天皇の弟であるが養子となったという説もなされている(菩提所妙皇寺縁起)。なお、備中ではあるが「金原山妙圓寺蘭若旧記」は父は近衛経忠とする。
さらに、古い「妙蓮寺祖師記」では「堀河大納言具親の公達」と記す。
結局、大覚の出自は不明とせざるを得ないが、後の栄達から見て、相当な貴顕の家の出であることは間違いないであろう。 ※※→備前濱野松壽寺
2019/07/17追加:
〇「京山物語」郷土史「京山物語」編集委員 高原忠敏、平成15年(2003) より
日蓮宗内では関白近衛経忠の子息と伝えるも、経忠は大覺の5歳年下で、この説は根拠がない。
但し、正徳元年(1711)四条妙顕寺からの問い合わせに対して、近衛家が大覺が経忠の末子であることを認めているので、近衛家にも同じような所伝があったものと思われ、大覺は近衛家と何らかの関係があったとも考えられる。
一方大覺を後醍醐天皇の子息とする説も後醍醐天皇10歳の時の子となり、これも無理であろう。
後醍醐天皇の子息に恒性(恒勝)皇子がある。恒性は大覚寺門跡で、元弘の乱で挙兵し(詳しくは本著を参照)云々という。大覺の後醍醐天皇皇子説は、元大覚寺の僧であった大覺と後醍醐天皇皇子で大覚寺門跡であった恒性皇子の事績が、南北朝の時代背景と重なりあって生まれたように思われる。 |
「第42章 大覺大僧正妙實上人」 より
吉備前鑑、寺社奉行書上、法蓮寺縁起(本蓮寺縁起であろう)等大覚上人を以って後醍醐天皇の皇子大覚寺宮とせり。
即ち、本蓮寺蔵「元禄16年(1703)折本縁起」では大覚を後醍醐天皇第三宮大覚寺殿とする。
同じく、本蓮寺蔵「経王山略志」では後醍醐天皇第三の皇子にして近衛左大臣経忠の猶子とする。
「皇胤紹運録」によれば、僧恒性(母亀山天皇皇女)とあり、後醍醐天皇第三皇子である。
更に「龍門跡譜」「南方紀傳南朝皇胤譜」「南朝紹運図」等によれば「大覚和尚と申すは後醍醐天皇第三宮恒性法親王に御座します」とある。但し異本に第六皇子僧恒性とも云う。
而して、龍華伝、仏祖統記以下は近衛摂政藤原経忠の子とす、或は皇子にして経忠の猶子となり給ふという。 ※→備前牛窓本蓮寺 |
延慶2年(1309) |
日像(37歳)より伝授状を受ける。(妙顕寺古文書5) →日像については日像上人略伝を参照
|
妙實上人への日像伝授状: 延慶2年7月8日の日像の「妙實上人」宛「伝授状」が妙顕寺に伝来する。
「伝授状」の「妙實上人」が大覚妙實のことであれば、大覚は13歳の時のことで、正和2年の項で述べる「17歳の時、北野で日像に邂逅し帰依する」という諸記録と矛盾する。勿論、大覚=後醍醐天皇皇子とも矛盾する。さらに13歳で日像に入門となれば、大覚は大覚寺門跡という伝承も疑わしくなる。
この「伝授状」に注目しているのは河合日辰「覺師年譜」で、正和2年の前に大覚が日像所持の経を写経していた形跡があることを指摘している。
この論に立てば、正和2年入門や大覚寺門跡のまつり込みあるいは後醍醐天皇皇子説は後世の南朝正統論の中で生まれた伝承ということになる。尤も僅か13歳で「上人」と称され、「伝授状」を受け取るということも違例ではある。そこで「児島高徳皇子論」では「妙實上人」と大覚は別人という見方も出てくる。
「出自」と同様「日像へ入門」の時期・経緯も慎重に判断する必要がある。 |
日像の命にて宗祖日蓮上人坐像を造る。(児島高徳皇子論) 日蓮上人坐像の造立:
「児島高徳皇子論」に備前辛川大覚堂(現大覚寺)日蓮上人坐像が図版とともに紹介されている。像高は21cm。 本著には、本像の胎内には「南無妙法蓮華経/于時延慶2年己酉7月下旬/承師命奉造立者也/妙實・花押」とあるという。しかし、今般「第650年遠忌記念 大覚大僧正」の編集委員が改めて本像を実見したところ、胎内銘文は「南無妙法蓮華経」は判読可能であるが、他の銘文(墨書)は痕跡ばかりで全く判読できないという状態であった。もし、「児島高徳皇子論」の豊田氏のいう通りであれば、大覚は僅か13歳でこの彫刻をなし、花押を記したこととなる。 尤も豊田氏は花押の違いから、像の作者の妙實と大覚とは別人であるとする。
※この事の真偽は確かめようもないが、「第650年遠忌記念 大覚大僧正」にも本像の図版が岡山市大覚寺所蔵として掲載されていて、大覚寺に坐像が安置されているのは確かであろう。
※→備前辛川大覚堂 |
日像第1回目の花洛追却を放免される。 |
延慶4年(1311) |
日像第2回目の花洛追却を放免される。 |
正和2年(1313) |
嵯峨大覚寺より出洛の折、日像の法筵に邂逅し、7日間聴聞して弟子となると伝える。(龍華歴代師承伝) |
日像へ入門:
「妙蓮寺祖師記」、「歴代略伝」、「金原山妙圓寺蘭若旧記」、「龍華歴代師承伝」等では大覚は初め真言僧で、嵯峨大覚寺門跡であったとする。正和2年17歳の時、北野で辻説法する日像に邂逅し、7日間聴聞の末、日像の門に下ったという。
一方「吉備前鑑」、「備前浜野村松壽寺縁起」では、大覚は後醍醐天皇第3皇子の大覚寺宮であり、元亨の乱に際し大覚寺を出て戦い、山崎に退避したとき日像と出会うとする。
下村「大覚大僧正・上巻」では大覚寺宮を37代門跡恒性法親王に比定する。「児島高徳皇子論」では左記と同一とし、法親王は後醍醐天皇の養子であり、実は後宇多天皇の皇子であるとする。しかし、大覚=恒性法親王説では35歳の壮年にして、日像門下に入ったことになる。 |
正和3年(1314) |
この年より元応元年(1319)に至る六年間、鎌倉日朗を12回見舞うと伝える。(龍華歴代師承伝など) |
関東日朗との関係: 正和3年より元応元年(1319)迄の6年間毎年春秋両度、計12回日朗上人を見舞うという。
さらに元応2年には日像に代り喪に臨み、元亨2年の3回忌にも追放中の日像に代り廟参すると伝える。
もとより、大覚の関東下向を証する同時代資料はない。しかし日朗の日像宛の書状、日輪と大覚との書状が多く残り、大覚と関東とは親密な関係があったことが分かり、おそらくは交流があったものと推測される。 |
文保3年(1319) |
日像より曼荼羅本尊を授与される。(京都小川妙覚寺蔵) |
元応2年(1320) |
日朗、鎌倉に遷化(76歳)、日像に代り喪に臨む。 |
元亨元年(1321) |
日像の命にて、日蓮上人説法像を造立し胎内に木札を納める。(備前香雲寺蔵)
|
日蓮上人説法像の造立:
本像は寄木で玉眼を嵌める。像高18.7cm。元は和泉和気妙泉寺に伝わり、現在は備前御津國ヶ原の香雲寺にある。胎内の木札には「元亨元年/承師命/南無日蓮大菩薩/奉造立者也/妙實・花押」とある。
※→備前香雲寺(報恩大師建立) |
日像第3回目の花洛追却を許され、京都で最初の日蓮宗寺院妙顕寺を開創。 |
元徳2年(1330) |
日像より曼荼羅本尊を授与される。(京都妙蓮寺蔵) |
元弘3年(1333) |
西国弘通に赴く。この頃までに僧都に任官。
備前津島真言宗福輪寺を改宗させ妙善寺となし、富山城主松田氏の帰依を得て蓮昌寺を開くという。 ※→備前津島妙善寺、→備前妙善寺の歴代と由来、→大覚大僧正と妙善寺あれこれ
※→備前岡山蓮昌寺
※但し、上記の「備前妙善寺の歴史と由来」などでは、1336年(正慶5年、建武3年、南朝・延元元年)のことと 云う。 大和橿原今井町蓮妙寺を開くと伝える。
※→下に掲載の「三備(備前・備中・備後)以外の大覚大僧正開基寺院」中にあり。
大塔宮の令旨が下され、妙顕寺に備中穂井田(穂太庄)などの3か所の寺領が下される。 |
大覚大僧正西国弘通:
元弘3年以降建武・暦応・康永にかけて約10年間、備前津島・備中野山・備後鞆などを拠点に弘通し備前法華の礎を築く。大覚が備州を開教の地としたのは備中に妙顕寺の所領があったこと備中野山には日蓮上人日像上人に帰依していた伊達氏(野山殿)が居を構えていたなどの事情によるものかも知れない。
→ 備前津島での布教の様子については「M大覚大僧正と妙善寺あれこれ」を参照願う。
ここで改めて備前・美作、備中、備後の三備の開基寺院を調べると52ヶ寺が数えられる。
この52ヶ寺については、下に示す「三備に於ける大覚大僧正開基寺院」中のw唐赤字で示す寺院である。 就中、5.備前津島妙善寺(松田元澄開基)・6.備前岡山蓮昌寺(松田元喬建立)・11.備前金川道林寺(松田元方建立)は松田氏の開基であり、後に備前金川妙國寺(松田元成建立)を加え、備前四本寺と称される。なお、これら備前の有力寺院は日實が妙顕寺を退出し妙覚寺を別立したことより、京都妙覚寺の末寺となってゆく。
また、12.備前建部成就寺、菅野幸福寺、国ヶ原香雲寺、馬屋上村日應寺などは古代創建の古刹であったが、松田氏の強権で天台宗から日蓮宗に改宗し、今に至るものである。金山観音寺や備前一宮のように改宗を拒み焼討にされる寺院もあった。
備中野山妙本寺:野山氏は伊達陸奥守の子孫といい、北条氏の家臣伊達朝義は日蓮上人の龍口法難に立ち会って信者となり、備中賀陽郡野山庄に移り、18.妙本寺を開く。その子義光は日像上人に帰依し、その子義直の代になって大覚大僧正の来下を得たという。「備中野山妙本寺縁起」に説かれるところである。
※→備中野山妙本寺
備中箭田(矢田・八田)は妙顕寺寺領穂太庄の北に位置し、23.法華寺、24.慈源寺、22.本住寺があり、大覚がこの地に赴むいたことは確かであろう。なお、延文4年(1359)大覚は本尊を書し、備中八田村大覚山法華寺2世日善に授与する。
※→備中箭田法華寺、備中箭田慈源寺、備中服部本住寺
備中黒崎:19.備中黒崎妙立寺には延文元年(1356)の「授与之妙立寺日有律師」と書かれた本尊が現存する。
また備前浜野松壽寺に伝来する曼荼羅本尊は授与書が抹消されているが、もとは「授与之仏乗寺」と書かれていたという。これは21.備中黒崎佛乗寺ではないだろうか。両寺とも真言宗であったが大覚が改宗させると伝える。
※→備中黒崎妙立寺、備中法福寺、備中仏乗寺
題目石塔:42.備中軽部大覚寺、15.備前益原法泉寺、13..備前辛川大覚堂には歴応・康永の年紀が刻まれた題目石塔が現存し、大覚の布教の跡を物語る。
※→大覚大僧正題目石 |
「第42章 大覺大僧正妙實上人」 より 大覚大僧正は軈て備中に巡錫して穂太荘(四条妙顕寺領)に近き箭田村別府に大覚山法華寺を開創せり。
「備前法華の由来」(沼田頼輔著)によれば、大覚は暦應康永の頃、多田入道に会い、入道に日蓮宗を勧めて信じせしめ、御野郡濱野村に松壽寺を建てて之に居り、以って弘法に従う。多田の子孫である能勢氏は日蓮宗の信奉者で、二日市町妙勝寺、三番町の本行寺(瑞雲寺に繋がるというも、不確実)などは能勢氏の開創なり。
○「備前法華の由来」:建武の頃妙實は備前に来たり、御野郡濱野村なる多田入道を勧めて松壽寺を開かせる。 ※→浜野松寿寺、二日市妙勝寺・本行寺(瑞雲寺)・小原町妙恩寺(現妙福寺)は<旧岡山市内の諸寺中>
斯く大覚は初め濱野村において多田氏の帰依を得、後錫を津島村に移す。富山城主松田元喬大覚に帰伏し、岡山に蓮昌寺を建立す。子元奏も帰依し、金川に道林寺を建つるに至る。
是より以降、備前に於いて勢力並なき松田氏の帰依を得て世々その保護を受けしより漸次隆昌に赴き、当時は一州を挙げて殆どこの宗に属し、これ即ち大覚大僧正布教の結果なれば、即ち僧正を尊信して、恰も祖師の如く各所に石塔石碑を建てて之を祀るものなりとなす。
※→備前金川臥竜山城主松田左近将将監権頭元喬傳記の中に見ゆる当時他宗寺院に改宗を迫りし寺山
※→大覚大僧正外護の武将の建立に係る寺院の主たるもの |
建武元年(1334) |
建武の新政(後醍醐天皇親政)が始まる。 妙顕寺に勅願所の綸旨が下される。 |
北朝 建武3年(1336) 正慶5年 (1336) 南朝
延元元年 (1336) |
足利尊氏室町幕府を開設し、南北朝分立。 ※元弘2年(1332)後醍醐天皇隠岐に配流、光厳天皇即位、正慶と改号する。
※建武元年(1334)建武の新政、この年は正慶3年であるが、後醍醐天皇は正慶を否定する。
※南朝は建武3年に延元と改号、北朝の立場で云えば、この年は正慶3年である。
正慶を否定する立場で北朝の年号を表すとすれば、それは建武3年となる。
要するに、建武3年・正慶5年・延元元年は何れも西暦1336年を示す。
津島妙善寺は「第650遠忌 大覚大僧正」では元弘2年(1332)大覚大僧正が真言宗福輪寺を改宗するという。 一方では、備前妙善寺の歴代と由来などでは正慶5年(1336)大覚大僧正の巡錫があり、改宗するという。 |
暦応2年(1339) |
和泉和気妙泉寺を開く。 ※和泉和気妙泉寺は和泉の諸寺中にあり。
また和泉に三秋布教し、この間和泉佐野妙光寺を開くという。(龍華年譜) ※和泉佐野妙光寺は和泉の諸寺中にあり。 後醍醐天皇崩御。 |
暦応4年(1341) |
妙顕寺光厳上皇より四条櫛笥に1町の寺地を賜り移転する。 備前浜野松壽寺、備中笠岡妙乗寺、備中三村覚林寺を開くと伝える。
※→備前濱野松壽寺、備中笠岡妙乗寺<備中の諸寺中>、備中三村覚林寺は未見。
日像「禁制条々」を大覚に授与する。 (大覚に後事を託す意味があったのであろう。) |
康永元年(1342) |
備中軽部に題目石塔を建てる。一村が帰依して法華寺が開かれる。 ※→備中軽部大覚寺 備前二日市妙勝寺を開くと伝える。
※→備前二日市妙勝寺
備前益原に題目石塔を建てる。 ※→大覚大僧正自筆題目石中 日像より「譲状」(寺主上人宛)を賜り(妙顕寺古文書7)、妙顕寺2祖となる。「寺主上人」と称され、自らもそのように称する。
日像遷化(74歳)。 |
妙顯寺寺主となった大覚は、延文元年(1356)妙顕寺を朗源に譲るまで、内には弟子・檀家を教化し、曼荼羅本尊を授与し、外には足利将軍家や北朝後光厳天皇の祈祷の要請に応え寺門を維持発展させることに留意した。
また徳大寺殿・堀川殿などの公卿の帰依を得、さらには鎌倉妙本寺日輪、備前津島妙善寺日實らと緊密に連携し寺門経営に当たった。
◇日實:文保2年(1318)〜康暦元年(1379)
備前福輪寺(妙善寺)、蓮昌寺、妙勝寺、道林寺、成就寺、実教寺など大覚開基の寺院を受け継ぎ、新たに平井妙廣寺などを創建する。大覚の寂後は朗源に仕えるも、永和4年(1378)朗源没後の後継者争いから、俗弟日成と共に妙覺寺を別立する。(これを機に備前の妙善寺を初めとする有力寺院は妙覚寺に帰することとなる。)
◇日輪:文永9年(1272)〜延文4年(1359)
下総平賀の出身という。日朗を師とし、若干20歳で日朗の後継と認められる。文保2年(1318)日朗が池上に隠棲、比企谷妙本寺・池上本門寺両山の主となる。
法兄(俗兄ともいう)の日像と緊密であり、また大覚大僧正とも親しい交流があり、多くの書簡が残る。 |
康永2年(1343) |
越中今宿庵(妙勧寺)妙文に日像造立の祖師像を譲る。 ※→越前今宿村妙勧寺は越前府中の諸寺中にあり。
(以降、曼荼羅本尊の授与が多くあるが、寺院開基に無関係と思われる授与は省略する。) |
貞和元年(1345) |
備前辛川に題目石塔を建立する。 ※→備前辛川大覚堂 |
貞和3年(1347) |
摂津久遠寺を開くと伝える。 ※摂津久遠寺は未見 |
正平6年(1351) |
備前金川城三の丸道林寺を開くという。(道林寺縁起) 紀伊多田妙台寺を開くと伝える。(龍華年譜備考) ※→紀伊多田妙臺寺 |
文和2年(1352) |
曼荼羅本尊を書し、備中黒崎仏乗寺に授与する。 ※→備中法福寺、備中仏乗寺 |
文和3年(1354) |
摂津大鹿村で祈雨をなし妙泉寺を開くと伝える。 ※→摂津大鹿妙泉寺は摂津の諸寺中にあり。 |
延文元年(1356) |
妙顯寺を朗源に譲る。 備中黒崎妙立寺日有に曼荼羅本尊を授与する。 ※→備中黒崎妙立寺 |
延文2年(1357) |
勅定により雨を祈って功を現わし、宗祖に大菩薩号、日朗・日像に菩薩号を賜り、自らは僧正に任ぜられる。延文3年ともいう。(日輪書状、妙實書状、龍華秘録)
大覚大僧正が祈雨を行った桂川辺とは、桂川右岸(左岸であろう)の鍋ヶ渕実相寺がその旧跡とされ、実相寺には「龍華年譜」にいう点頭(うなづき)の祖師が伝えられる。
また大覚大僧正が祈雨に用いた曼荼羅本尊(京都妙蓮寺)、七条袈裟(京都妙覺寺)、雨傘(紀伊妙台寺)と称するものが諸寺に伝えられる。
※越前稲寄妙稲寺(越前府中の諸寺中)には大覚真筆「雨乞いの曼荼羅本尊」を伝えるというも、不詳。 |
延文3年(1358) |
和泉佐野村へ本尊を授与する。(和泉佐野妙光寺に伝来。) ※和泉佐野妙光寺は和泉の諸寺中にあり。 |
延文4年(1359) |
本尊を書し、備中八田村大覚山法華寺2世日善に授与する。 ※→備中箭田法華寺 この頃岡宮光寺日法書写「撰時抄下巻」を相伝する。(奥書)
(大覚大僧正はこの頃駿河国に逗留していたものと推定される。) |
貞治3年(1364) |
入寂、世壽68。 |
同時代資料(「師守記」公家中原師守の日記)に年紀・月日及び年齢68と記される。「妙蓮寺祖師記」以下も一致している。ひとり「歴代略伝」は63歳遷化と記する。これは単純な書き誤りか。
※同時代の記録である「師守記」貞治3年4月3日条には、「今暁四条大宮法華堂長老入滅(年68)云々、昨日□殿御出彼寺□還御時自縁落損事遂入滅云々。とあり、また「常楽記」貞治3年4月条には、「大宮法華堂坊主頓滅。(大飲沈酔云々。)と見える。 |
★大覚大僧正自筆題目石
2005/12/22追加:
○大覚大僧正自筆題目石
大覚の自筆と伝える題目石が残存する。 備前和気法泉寺(康永元<1342>銘) →備前大樹山法泉寺
備前曹源寺寺中大光院(康永4年<1345>銘) →すぐ下に掲載。 備前西辛川大覚堂 →備前辛川蓮光寺
備中清音軽部大覚寺(暦応5年<1342>銘) →備中軽部大覚寺
である。
2016/08/15追加 ○「第650遠忌記念 大覚大僧正」 より 題目石塔:42.備中軽部大覚寺、15.備前益原法泉寺、13..備前辛川大覚堂には歴応・康永の年紀が刻まれた題目石塔が現存し、大覚の布教の跡を物語る。
但し、何れも大覚大僧正の署名・花押があるわけではないが、刻まれた年号は大覚の活動中の年号である。
元亀元年(1570)の「梁曼荼羅由来書」には「往古大覚大僧正、西国御弘通之節、益原村・辛川村・亦備中軽部村、右三ヶ所ニ題目石塔御建立被為遊・・・」とある。
2017/10/27追加: ◆備前曹源寺寺中大光院題目石 → 備前曹源寺、曹源寺寺中大光院は京洛妙覚寺末。
現在、大光院には二基の法華題目石塔(笠塔婆)がある。 一基は大覚大僧正真筆題目石という。康永4年(1345)の年紀を有する。
一基は比丘尼妙善題目石で、應永18年(1411)の年紀を有する。
この二基の題目石塔は造立年代不明の他の一基とともに、津高郡一宮村西辛川蓮光寺(東栄山妙蓮寺ともいう)にあったが、池田光政による寛文年中(1661-1672)の寺院整理(廃仏)によって、
蓮光寺は廃寺、大光院に移されるという。
明治9年、西辛川に大覚堂が建立され、三基のうち造立年代不明の四面題目石塔一基が移安され、現在大光院には二基が残存する。
なお、現地説明板では元あった場所を「西辛川の妙善寺」と記すが、「妙蓮寺」もしくは「蓮光寺」であろう。単純な誤りか、何かの錯誤であろう。 2019/12/18追加: ○辛川大覚寺現地説明板 より 辛川市場法華題目石:
辛川には本堂安置の題目石(市文)以外に、圓山大光院康永4年法華題目石(県文)、比丘尼妙善題目石(市文)
の計3基があったが、寛文7年備前藩の寺社整理の時、纏めて圓山曹源寺大光院に移される。
明治9年、本堂安置の題目石1基だけがこの地に戻され、大覺教会本堂に安置される。
2017/10/27追加:2019/08/25修正: ○備中辛川大覚寺本堂掲額の銘文には次のように云う。
元禄14年岡山藩主池田綱政、大覚大僧正真筆の宝塔の評判を聞き、本宝塔を蓮昌寺内大光院に移転安置し、続いて上道圓山の大光院に移す。
◆大光院康永四年法華題目石:大覚大僧正真筆という。
花崗岩製、総高180cm、(銘文)大沙門白妙聖霊一百ヶ日 康永四年(1345)各々三月十日敬白
2000/12/28撮影:
大覚大僧正題目石1:備前大光院(旧蓮光寺題目石)
大覚大僧正題目石2:1と2は同一写真である。西陽が当り不良な写真である。 2008/02/01撮影: 大光院康永四年法華題目石1 大光院康永四年法華題目石2
2022/05/06撮影:
大光院題目石立面図
大覚大僧正題目石3 大覚大僧正題目石4 大覚大僧正題目石5
大覚大僧正題目石6:左写真をセピア色変換したもの
◆大光院比丘尼妙善題目石:大光院大覚堂に安置
大理石製、総高123cm、(銘文)比丘尼 妙善 応永十八年(1411)九月十日 2022/05/06撮影:
大光院題目石立面図
比丘尼妙善題目石
2022/10/07追加: ○サイト:富山学区連合町内会 より
比丘尼妙善題目笠塔婆 寸法図:正面写真あり
◎大光院現況 山門 2008/02/01撮影: 備前大光院山門
2022/05/06撮影: 大光院山門2
本堂 2022/05/06撮影: 大光院本堂
大覚堂 2008/02/01撮影:
大光院大覚堂:大光院比丘尼妙善題目石を本尊とする。
大光院題目石絵:左が大光院康永四年法華題目石、右が大光院比丘尼妙善題目石
2022/05/06撮影:
大光院大覚堂 大光院大覚堂扁額
石塔類
2022/05/06撮影:
大光院題目石2基:日蓮大士及び日蓮
大光院歴代墓碑
2019/07/12追加: ◎大光院題目石に関する異説 何れも、大光院に移された3基(今は2基)は何れも西辛川から移されたとするが、違う金石文が存在する。
それは「備前久米下祖師堂跡/久米の御跡」ある文久3年(1863)銘の石塔(<再興大覺大僧正小宝塔>三面題目石)である。
→備前上久米御祖師様/上久米祖師堂跡/久米の御跡は<備前津高郡白石・久米・今保村中>にあり。 そこには、次のように記す。
大僧正大覺上人乃徃弘通此處為無庶會立小寶塔矣 中古此塔引移圓山中安置大光院是也 依而此地俗曰御跡
今年文久三癸亥覺上人正當五百回為御報恩 且欲令其遺跡永忘失新造小塔表其遊化地而已
(大覺大僧正この地に弘通し、もろもろの會(あつまり)が無きため、小寶塔立つ。
中古この塔圓山へ引き移し、そこに安置す、大光院が是なり。 よってこの地俗に御跡と云う。
今年文久3年(1863)大覺大僧正正當500遠忌報恩をなす。
かつ、その遺跡永く忘失せしめんと欲し、小塔を新造し、その遊化の地を表するのみ。)
※以上の金石文が示すことは、津高郡久米に大覺大僧正が弘通し、この地に小宝塔を建つ。その後、この小宝塔は中古圓山大光院に引き移される。時は移り、文久3年大覺大僧正500遠忌にあたり、この遺跡を忘れないために、小宝塔を再興し、且そのつ由来を刻するものである。
というものである。
この久米に残る金石文によれば、大光院引き移された小宝塔とは、圓山大光院にある「康永四年法華題目石」が該当する可能性は相当に高いと思われる。
2012/11/20作成:
★三備に於ける大覚大僧正開基寺院
○「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮、昭和49年 より
w桃侮嚥yび○印の寺院が、本著に示される三備における大覚大僧正開基寺院である。
なお、下表のw刀「印は「大覚大僧正と三備開基寺院」中に無い寺院である。
2016/08/15追加:
○「第650遠忌記念 大覚大僧正」京都像門本山会、平成25年 より
w赤字の寺院が、本著に示される備前・美作・備中・備後の大覚大僧正開基寺院である。
|
山号寺号 |
住所 |
参考 |
備考 |
1
6 |
備前仏住山蓮昌寺 岡山市田町
→備前蓮昌寺 |
2016/08/15追加「大覚大僧正」:
備前守護松田左近将監元喬(金川城主)の代、大覚大僧正が津島に来錫し、真言宗福輪寺住僧良遊と問答し、改宗をさせる。元喬は大覚を城内に召し、宗論させるも、逆に教化され、信徒となり、岡山に一宇を建立し、自らの法号(蓮昌院)に因んで蓮昌寺と名づくのが始まりという。京都妙覚寺末。 |
2
4 |
備前明光山妙勝寺 岡山市船頭町
→二日市妙勝寺 |
.大覚大僧正中国弘通の砌、多田頼定深く大僧正を尊信し家臣を大僧正に随従せしめ遂に家臣が館を転じて寺となす。これ妙勝寺なり。
天正10年(1582)能勢頼次が一時落ち延び、後に能勢の旧領を回復する。 →攝津能勢法華の能勢氏の項参照
2016/08/15追加「大覚大僧正」:
多田頼定家臣とは阿比六郎熊城という。
あるいは多田頼定が敗死した網浜の戦の諸霊を供養した法華堂が始まりともいう。
大覚大僧正筆三十番神大曼荼羅を蔵する。
京都妙覚寺末。 |
3
19 |
備中黒崎妙立寺
海雲山と号す
倉敷市玉島黒崎本村 |
元黒崎屋守にあり。真言宗なりしを延文元年(1356)改宗帰依する。 元和年中(1615-)現在地へ移転。
平成18年本堂客殿庫裏を造替。 (旧参道石階、旧本堂、旧庫裏が残存する可能性があるも、未確認)
海雲山と号する。:京都四条妙顕寺末。
末寺:備中玉島玉谷宣妙院がある。
2012/11/10撮影:
黒崎妙立寺全景 妙立寺本堂・清正公堂 黒崎妙立寺本堂
妙立寺清正公堂1
妙立寺清正公堂2:由緒不詳、堂前に明治40年年紀の「清正公」と刻んだ石燈籠がある。
黒崎妙立寺鐘楼
少なくとも3基の大覚大僧正報恩塔を見ることができる。
妙立寺門前題目碑1:大覚大僧正、年紀不明。側面には山号寺号を刻む。
妙立寺門前題目碑2:文政13年年紀。
妙立寺門前報恩碑:大覚大僧正五百遠忌、五百遠忌は文久3年(1863)頃であろう。
妙立寺境内題目碑1:天明元年(1781)年紀。
妙立寺境内題目碑2:大覚大僧正、延享5年(1748)年紀。
なお妙立寺とは直接の関係はないが、
妙立寺北側には天台宗安養院が建ち、安養院参道南(妙立寺北東)に普陀洛山蓮華院がある。
蓮華院は近年まで堂宇があったようであるが、今は更地である。慈覚大師の開山と伝え、本尊は千手観音という。
普陀洛山蓮華院:天台宗、現在堂宇を新築中とも云う。天台宗安養寺門前にある。 2016/08/15追加「大覚大僧正」:
「授与之妙立寺日有律師」と書かれた延文元年(1356)の大覚署名花押曼荼羅本尊が現存する。
|
4
21 |
備中龍雲山仏乗寺 |
倉敷市玉島黒崎屋守 |
→備中法福寺、備中仏乗寺 |
真言宗なりし文和元年(1352)改宗帰依する。
2016/08/15追加「大覚大僧正」:
浜野松寿寺伝来の曼荼羅本尊は授与書が消されているが、元は「授与之仏乗寺」とあったといい、この仏乗寺は備前津高郡の廃仏乗寺もしくはこの備中仏乗寺かであろう。
津高郡の廃仏乗寺の存在は明確ではなく、この備中仏乗寺とするのが妥当とも思われる。 (→浜野松寿寺参照)
四条妙顕寺末。 |
5
20 |
備中龍雲山法福寺 |
同上 |
元和年中法義に異論を唱え、仏乗寺より分立する。
四条妙顕寺末。 |
6
31 |
備中円明山法華寺 |
笠岡市神島
(小田郡) |
. |
真言宗円明山真言寺なりしを延文元年(1356)改宗帰依する。
住持本明(日正)は2祖となる。あるいは暦応4年(1341)創立ともいう。四条妙顕寺末。 |
7
25 |
備中大覚山妙乗寺 |
笠岡市笠岡
(小田郡笠岡) |
→笠岡妙乗寺 |
暦応5年(1341)開山。
四条妙顕寺末。 |
8
30 |
備中春日山乗福寺 |
笠岡市小平井
(小田郡小平井) |
. |
正平15年(1360)開山。または文和4年(1355)創立ともいう。四条妙顕寺末。 |
9
29 |
備中光応山円融寺 |
小田郡矢掛町小田 |
. |
興国9年(1348)開山。あるいは延文3年、暦応3年(1340)創立ともいう。四条妙顕寺末。安永5年日栄上人によって中興。 |
10
26 |
備中岸本山覚林寺 |
小田郡美星町三山 |
. |
暦応4年(1340)開山。
四条妙顕寺末。 |
27 |
備中獅子吼山法音寺 |
小田郡三山 |
. |
元真言宗で大覚大僧正の巡化により改宗という。創立年代不詳。四条妙顕寺末。都窪郡三和村山中より発見された大覚大僧正正作の祖師像を祀る。 |
11
34・35 |
備中光積山妙昭寺 |
小田郡美星町明治 |
. |
昭和17年、鳴石山妙光寺(34)と定長山妙積寺
(35)とが合併、現山号寺号に改める。
何れも四条妙顕寺末。妙光寺は康永3年(1344)大覚大僧正の開基であり、もとは日里村城平谷にあったという。 |
12
36 |
備中栄昌山妙泉寺 |
小田郡美星町黒忠 |
. |
延文3年(1358)開山。あるいは康安元年(1361)とも云う。四条妙顕寺末。 |
13
37 |
備中妙法山蓮華寺 |
井原市西江原 |
. |
延文年中(1356-61)の創建、ニ世は高松稲荷山妙教寺開基の妙智院日円上人。四条妙顕寺末。 |
14
39 |
備中金昌山妙善寺 |
後月郡芳井町築瀬 |
. |
康安5年(1365)開山。四条妙顕寺末。慶安3年(1651)圓住院日我大徳が中興。 |
15
41 |
備中永潤山長泉寺 |
後月郡芳井町花滝 |
. |
貞治元年(1362)開山。
開基(2世)は福泉院日満。貞治元年(1362)創立。もと領主九鳥左衛門尉景定の城跡で景定が大覚大僧正に帰依して一寺を建立という。康安元年(1361)の創立ともいう。四条妙顕寺末。 |
16
38 |
備中漆原山円信寺 |
後月郡芳井町川相 |
. |
真言宗胎蔵寺なりしを文和3年(1354)改宗帰依する。住職金剛院(日勇)は第2世となる。四条妙顕寺末。 |
17
40 |
備中高原山妙福寺 |
後月郡芳井町上鴫 |
. |
真言宗清滝山円妙寺なりしを文和3年(1354)改宗帰依する。
住職雲好坊は一乗院日賢と改め2世となる。大覚大僧正真筆の本尊(文和元年 大覚 とある)、及び大覚大僧正手彫りの題目碑を蔵する。四条妙顕寺末。 |
18
33 |
備中長命山長遠寺 |
川上郡備中町平川 |
→備中高梁川以西の諸寺中 |
文亀元年(1501)開山。四条妙顕寺末。 |
19
23 |
備中大覚山法華寺 |
吉備郡真備町箭田
(下道郡箭田) |
→箭田法華寺 |
延元元年(1336)創立。明治20年現在地へ移転改装。
四条妙顕寺末。 |
20
24 |
備中大覚山慈源寺 |
吉備郡真備町箭田
(下道郡箭田) |
→箭田慈源寺 |
建武2年(1335)建立。
四条妙顕寺末。 |
21
22 |
備中妙見山本住寺 |
吉備郡真備町服部
(下道郡穂井田) |
→服部本住寺 |
建武2年(1335)建立。四条妙顕寺末。
2016/08/15追加「大覚大僧正」:
穂井田は中世の穂太庄に該当し、穂太庄は元弘3年(1333)京都妙顕寺に寄進されるという。
箭田(中世は八田もしくは矢田)は穂太庄の北隣にあり、大覚の書状に「八田庄」「八田之草堂」などが見え、大覚は八田や穂太にも赴いたと推定される。 |
22
|
備中軽部大覚寺 : 都窪郡清音村軽部
略歴:
大覚大僧正が備中巡教の折、当地に法華堂を建立し、法華寺と号す。
暦応5年(1342)銘の大覚大僧正自筆彫刻の宝塔の法華題目石あり。(下掲載)
その後寛文年中廃寺となり、この宝塔も田圃の畦にあり、牛つなぎの用にせり。
明治30年篤信の瀬川是吉(日真上人)が宝塔再興を発願し、この地の山腹を開墾し、石を積み、堂宇を建立す。
大正10年この事業が成就す。多数の信徒の物心両面の協力があったという。
清音山と号す。開基:大覚大僧正、開山観是院日真上人。身延山末。
境内現状
2002/12/29撮影:
備中大覚寺1
備中大覚寺2
備中大覚寺3
2008/02/16追加:
○「大覚大僧正と三備開基寺院」より
大覚大僧正題目石:宝塔は高さ8尺、
正面及び両側面の三面に題目を刻むという。 背面には暦応5年(1342)の年紀がある。
大覚大僧正の直筆を印刻すると伝える。
2012/04/03追加:
○「総社市の歴史と文化財」総社市教育委員会、2007 より
大覚大僧正題目石2:総高234cm、正面と両脇面は題目を刻み、背面には暦応5年(1342)の年紀を刻む。
2016/06/09撮影:
軽部大覚寺全容見上 軽部大覚寺山門本堂 軽部大覚寺参道見下
軽部大覚寺遠望
軽部大覚寺山門 軽部大覚寺参道 軽部大覚寺本堂1 軽部大覚寺本堂2
軽部大覚寺本堂扁額:身延山83世、立正大学学長日謙筆
軽部大覚寺本堂内部
軽部大覚寺客殿1 軽部大覚寺客殿2
軽部大覚寺庫裡1 軽部大覚寺庫裡2 2017/10/23追加: ○「第42章 大覺大僧正妙實上人」(「岡山市史 巻2」岡山市役所編、昭和11年 所収) より
都窪郡清音村軽部、法華寺跡大覚塔にあり。 石灰岩製、全高7尺7寸、内柱4尺1寸5分、蓋2尺、臺1尺5寸5分
三面ともに七字の法華題目を刻し、背面に
右恉趣者、先考相當第七(十七カ)ヶ回忌景所造立也 乃至法界衆生平等利益歴應5年壬牛蕤賓 法花■ と刻せり。
因りに「蕤賓」はスイヒンと読み、十二律の一にして陰暦5月に配す。仍て5月の異名とす。 2017/10/23追加:
○「第650遠忌記念 大覚大僧正」 より 背面には歴応5年の年紀と「先考相当十七ケ廻」とあり、先考(亡父)17回忌供養のための建立と知れる。
備中清音村軽部は津島、辛川と同じく旧山陽道沿いにあり、軽部の西は高梁川で、その川を渡れば箭田・穂井田に通ずる。
野山の古老の口碑に「三か年を当妙本寺に暮らし玉ひ、当所より軽部に赴き玉へり」とあるといい、大覚は寂する前日まで軽部にいた、あるいは軽部で寂すという伝承もある。軽部は野山に次いで、大覚が多く滞在した地のようである。
2018/11/07追加: ○「清音村誌」昭和54年 より 大覚寺
開山は大覚大僧正。大覚大僧正は両備に伝道の為来たり、此の地に仮住したのに始まるという。
この地には大覚大僧正直筆と伝えられる題目碑(題目塔)があるが、その地は数十坪にすぎない狭隘の地であった。この宝塔の傍らには法華堂と称する堂宇が存在していたが寛文年中廃滅し、その後、間口3間半奥行2間の平屋の瓦葺の堂ができ、堂守の老人がいた時代もあったがこれもいなくなり、次第に荒廃する。
明治年間、一人の篤信家がこの荒廃を嘆き、法華信者のいないこの地に置くに忍びずとして、一策をたて、闇夜に紛れて、宝塔を何れかに持ち去る行動に出る。
村民はこのことを知り、八方探索の結果、西辛川大覚教会に移されていることを知る。
軽部村民は引取に行き、その帰りの沿道には奉拝人が山をなすという。ともあれ、その後村民は大覚大僧正の遷化日である陰暦4月3日には春祭を挙行するに至り、村民の縁者を始め、遠近から信者の行列が続き、露店は境内外を埋める盛況を呈するという。旧暦8月2、3日も縁日として相当の人出があったという。
当時は、狭隘な境内で参詣人の休息の場もない有様で、この状況を見た御野郡大野村の篤信者瀬川是吉が一念発起大誓願を決意、労力と財力を勧説するとともに、自らは明治30年頃より数里の道を草鞋脚絆に半纏姿で同行とともに大野村との間を往復し続けたという。
この一心不乱の精進に打たれ、協力者が相次ぐに至り、数十坪の土地より漸次寺域を拡張していった。
明治38年現在の庫裡を新築、現在の寺域二千二百坪を買収し、現在の客殿を上房郡の民家を譲り受け移築し、その下段に庫裡を移し、更に上段に本堂、拝殿、内陣の新築を薦めるべく、土地の造成を行い、数十段の石階を作り、間口5間の本堂・内陣・拝殿を新築し、山門を新築する。用材は軽部八幡社の大松の寄進を受け、その故に内陣背後に八幡大菩薩の厨子を安置し感謝の意を捧げるという。勿論内陣には雨露に晒られていた大覚大僧正の宝塔が移安されている。
本堂から下段の客殿庫裏には渡廊下で結ばれ、建築総面積は一千十六坪を数えるまでになる。僅か数十坪の堂守小屋に未であった大覚大僧正の遺跡は、ここに清音山大覚寺としての威容を整えるに至る。瀬川是吉の発願着工以来20数余年、遂に大正10年に本堂落慶の式を挙げることとなる。
ここに大覚寺歴代を記せば、
開基は大覚大僧正、初代は瀬川日進(是吉)、2代は吉田妙照、3代は秋山泰秋、4代若林栄静、5代は毛利慈昭(昭和51年晋山) である。
2022/09/24追加: 本大覚大僧正題目石塔は小屋の廃法華寺にあったものと思われる。 「大覚大僧正 上巻」大正5年では 「備中國清音村軽部の宝塔は、法華寺廃滅の後、これを田圃の畔に移して徒に牛繋の用に倣せり、然れども、又拝信の信者、拝詣する者、四時絶ゆる時なかりき。」という。
さらに、「大覚大僧正と三備開基寺院」では「備中誌」(当該「誌」に発見できす、孫引きになるが)に
※法華寺とは大覺大僧正開基であり、法華寺廃滅とは寛文6年の池田光政の廃仏という。
「大覚大僧正筆蹟の碑、軽部村山麓廃寺の蹟にあり。石塔の高さ8尺計にして、三方に南無妙法蓮華経を彫りつけてあり。この石塔を、近世愚昧の者等、参詣のたびに、砕き取る可惜事也」
※軽部村山麓廃寺とは正確にいえば小屋村(三因村)山麓廃寺ということ、つまり法華寺を指し、現在、大覚大僧正筆蹟の碑は軽部村大覚寺に安置されていることから、軽部村山麓廃寺の表現になっているものと思われる。 以上の文面から、現在輕部大覚寺安置の題目宝塔は、元は小屋の廃法華寺にあったものと推定される。
あるいは、軽部村にも大覚大僧正の教化による法華堂があり、ここにあった石塔かも知れない。 |
23
42 |
備中三因妙蓮寺 (旧三因法華寺) |
都窪郡清音村三因 |
→備中廃三因妙蓮寺/廃三因法華寺:(現・真言宗金剛寶座寺) |
大覚大僧正開基法華寺を前身とする。法華寺は備前藩の寛文の法難で破却さる。元禄年中信者が小堂を建立し大覚大僧正の遺品を密かに祭祀し、位牌堂と称す。昭和30年妙蓮寺と改むる。
京都妙覚寺末。 |
24
18 |
備中具足山妙本寺 |
上房郡賀陽町北 |
→野山妙本寺 |
開山は日像上人、2世は大覚大僧正。
四条妙顕寺末。 |
25
43 |
備中素南山巨福寺 |
高梁市寺町 |
→備中の諸寺中にあり |
文和4年(1355)大覚大僧正巡錫を契機とす。
松山村米山の難波4代目新左衛門夫婦が野山妙本寺に巡錫中の大覚大僧正を自宅に招き開創する。末寺1ヶ寺(妙源寺)を有する。四条妙顕寺末。 |
26
44 |
備中正木山妙源寺 |
上房郡北房町中津井 |
. |
貞治2年(1363)建立。素南山巨福寺末。
初め正木山にあり、正木山浄本寺と称した。後、松山村巨福寺11世写経院日源により、中興され、寺号を改め、巨福寺(上に掲載)の末寺となる。 |
27
17 |
美作随縁山本覚寺 |
真庭郡落合町垂水 |
.→西国諸国の諸寺>美作の諸寺中
にあり。 |
延文5年(1360)大覚大僧正来錫。
京都妙覚寺末。 |
28
16 |
美作金原山妙圓寺 |
真庭郡勝山町勝山且 |
. |
延文5年(1360)大覚大僧正来錫。
京都妙覚寺末。 |
29
12 |
備前藤田山成就寺 |
御津郡建部町富沢 |
→備前成就寺 |
天平勝宝年中報恩大師開基48ヶ寺の一寺にて、最後に成就した寺院なり。
延文3年(1358)領主松田左近将監、天台宗成就寺に法華宗を強制し、改宗す。その折大覚大僧正を請し中興開山とす。
京都妙覚寺末。 |
30
11 |
備前臥龍山道林寺 |
御津郡御津町中山
(金川、今は中山) |
→備前中山道林寺. |
応永元年(1394)創立される。
正和2年(1313)松田左近将監元国矢坂富山に遷居す。建武年中(1334-)2代元喬臥龍山に玉松城を築き、観応2年(1351)3代元恭大覚大僧正を請じ、造営の三ノ丸に仏殿祖廊を造営し、道林寺と号する。永禄11年(1568)玉松城落城。天正年中
(天正17年)松田家家臣現地(中山)に再興する。
寛文5年京都妙覚寺に属する。寛文の池田氏による法難で寺中及び末寺38ヶ寺悉く廃す。
2016/08/15追加「大覚大僧正」:
松田元泰(元喬息)金川城三の丸に大覚を招き遷仏供養を行い、その子元方(道林)により、道林寺が開かれる。 |
31
14 |
備前常照山法鏡寺 |
備前市東片上 |
. |
京都妙覚寺末。元西片上北の町にありしが、昭和16年現在の塩谷
の大庄屋藤原氏邸宅に移転する。文和元年(1352)もしくは康永年中(1342-45)創建と伝える。 |
○
3 |
備前濱野松寿寺
立石山と号す 法華宗(本門流) 岡山市浜野 |
2010/12/19追加:
「本能寺史料 西国末寺篇」藤井学・波多野郁夫、思文閣出版、1993 より
暦応4年(1341)多田源頼仲の創立で真言宗であった。
文和4年(1355)大覚大僧正開基、一宇建立あり、立石山松寿寺と号す。
寛文年中当寺衰微す。宝永年中第12世日通中興す。
境内991坪、塔中本性院あり。
本堂、表門、客殿、玄関、庫裏、土蔵、隠居所、頼定廟所、大覚堂などを有する。
浜野松寿寺境内図1 浜野松寿寺境内図2
2017/10/23追加: ○「第42章 大覺大僧正妙實上人」(「岡山市史 巻2」岡山市役所編、昭和11年 所収) より ◇吉備前鑑、御野郡濱野村、松壽院の条。
この寺多田入道の墓あり。多田入道備前御野郡を領知して同村に居城あり。 南北朝の大乱の時、南朝方都を退散し折、後醍醐天皇第6の皇子嵯峨大覚寺殿山崎に落ち、同所にて日像上人に邂逅し、日像によって真言なれども日蓮宗に帰依する。その後、7年間の修行を積み、大覺上人と改め、西国一見の為、備前に下り、多田入道に遭う。時に大覚、入道を勧めて日蓮宗に為し、浜野村に寺を建立して住する。今の松壽寺是なり。又二日市町妙勝寺も大覚の建立なり。この二ヶ寺備前日蓮の始りという。
康永2年多田入道は濱野村にて足利尊氏軍と干戈を交え、自害し、松壽寺に葬られる。その後入道の子供は足利に従い丹波能勢の荘を賜り、よって能勢と改む。今旗本の能勢一統この末なり。
◇天和3年(1683)本覺院日通より寺社奉行宛書上、松壽寺略縁起:
本山:本能寺・本興寺、当山開山:大覚和尚・是後醍醐天皇第三宮大覚寺殿御事也、
当寺草創之本願者:清和天皇14代の嫡孫能勢太郎判官頼仲公、建立年月:暦応4年(1341)の建立也 →攝津能勢法華・日蓮宗諸寺
2018/10/15追加: ○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より 立石山と号す。現在は法華宗本門流、京都本能寺末。
南朝方武将多田頼貞入道は康永2年(1343)この地で戦死し、嫡子能勢太郎判官頼仲がその菩提の為、父の廟堂と真言宗寺院を建立したことが始まりという。
文和4年(1355)大覚大僧正、当地に留錫、この時法華宗に改宗したという。
應仁年中(1467-69)尼崎本興寺貫首(両山6世・両山中興の祖)金剛院日与が当寺に留錫、本能・本興両山の末寺に転ずるという。
寛文年中、池田氏の寺院棄却で廃滅に及ぶというも、12世日通・18世正行院日全によって寺観を整備する。
本堂、大覚堂、入道廟堂、頼貞と従者の石塔が残る。
寺宝の大覺大僧上筆の十界本尊は文和2年4月2日付けのもので、今右下方の被授与者名を欠くが、文政6年の本興寺日英の極書のよると「大覚大僧正文和2年4月2日、佛乗寺授与之御本尊、御真筆無疑者也」とみえ、備中黒崎佛乗寺の本尊と思われる。
→備中法福寺、備中仏乗寺 2019/10/30撮影: 〇「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
興国2年(1341)多田頼貞の嫡子能勢太郎頼仲の発願により創建。大覚大僧正を開祖とする。
この地は南朝方多田頼貞の自刃の地であり、嫡子頼仲がこの戦跡の地に精舎を建て、これが松壽寺の草創である。
開基当初は一小刹なりしが、頼仲より寺領を得て、興隆する。その後大工寺(妙勝寺)との間に法難を醸し、僧徒7、8百人攻め来たる事態になるも、能勢修理之を制し、戸川肥後(達安)の仲介により事なきを得るという。
宇喜多直家岡山入城、大いに庇護を受け、伽藍・寺勢を広げるも、火災により焼失、更に寛文年中の池田光政の不受不施弾圧により衰滅の危機に瀕する。この時濱野のあった末寺殊力寺、舎量坊、善水寺など廃寺となり、住僧は出寺する。
→「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」のbP〜3参照
本堂は5間4面、文政8年落慶、入母屋造本瓦葺、ほかに客殿、庫裡、大覚堂、多田頼貞霊廟、鬼子母神堂、鐘楼、山門などがある。
※推測するに、近年境内の大幅な造替・整理が行われたようで、「本能寺史料 西国末寺篇」に掲載したような境内図とは様相をかなり変えているものと思われる。隠居所・本性院敷地・中門・その他幾つかの門は姿を消しているものと思われる。
濱野松壽寺山門
松壽寺山門々前:石像は平成29年造立の日蓮像である。 山門門前題目石
濱野松壽寺境内1 濱野松壽寺境内2 濱野松壽寺本堂 松壽寺本堂扁額
松壽寺本堂前槐
松壽寺玄関・客殿・庫裡 松壽寺玄関・客殿 松壽寺玄関
松壽寺庫裡1 松壽寺庫裡2
松壽寺鐘楼 松壽寺大覺堂 石造三重宝塔
多田頼貞霊廟 松壽寺納骨堂:おそらく納骨堂と推定される。
|
○
5 |
備前鷲林山妙善寺 岡山市津島
→備前津島妙善寺
→M妙善寺の歴代と由来
→M大覚大僧正と妙善寺あれこれ
|
日蓮宗不受不施派。
元弘元年(1331)真言宗福輪寺と大覚大僧正法論におよび、福輪寺論破する。福輪寺は転宗、妙善寺と改号する。
寛文6年(1666)寛文の法難により妙善寺は無住、宝永5年(1708)一切の堂宇を廃棄。
明治30年津島に再興される。
2016/08/15追加:「大覚大僧正」 より
津島福輪寺は大覚弟子日實上人が逗留し復興に務め、元方の孫元澄(法号妙善)の法号に因み、妙善寺と改号する。
なお、元澄の子元成(法号妙国)は舎弟日精上人を開祖として備前金川城下に妙國寺を建立する。
妙国寺は寺中20坊、末寺120余寺を擁する巨刹となり、妙善寺・道林寺・蓮昌寺とともに四大本寺と称される。
この四大本寺をはじめとする備前の有力寺院は日實上人が妙顕寺を退出し、妙覚寺を別立したことにより、京都妙覚寺の末寺となる。 |
○
1 |
備前経王山本蓮寺 |
邑久郡牛窓 |
→備前本連寺 |
法華宗(本門流) |
○
15 |
備前大樹山法泉寺
和気郡和気町益原 |
康永年中(1342-)大覚大僧正益原村に錫を枉げる。
大僧正は題目を石の三面に書し、弘教す。
この石は一時行方不明であったが明治中期に旧地に祀られる。これ岡山県下大覚大僧正直筆題目石碑三箇所の内の一つなり。 ※残り2基は軽部大覚寺、岡山丸山大寺寺中大光院にあり。
寛文6年(1666)不受不施派禁制、流罪死罪の極刑、僧は諸国を流離し、堂宇の荒廃當寺も同じ、檀徒亦止むを得ず外濁内浄地下に潜伏し、近隣の寺檀となり内々は密かに清僧を招じて草庵を結び大樹庵と稱、し益原法難寺經て忍受することに百餘年、明治9年春四月日布教公許に依り正妙院日寂聖人堂宇建立、萬年不濁唯此法泉の精舎也。
不受不施派。本堂は明治9年「第10番教会所」として洋風建築として再興される。 →大覚大僧正自筆題目石 2018/10/01追加:
○平凡社「「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より 大樹山と号する。日蓮宗不受不施派に属する。 元岡山蓮昌寺末。
和気郡誌では元禅宗というも、縁起では律宗ともいい、律宗の可能性が高い。
また「和気郡誌」では元和5年(1619)日奥がこの地を訪れた時、日蓮宗に改宗というも、天神山城主浦上宗景の時代にすでに日蓮宗であったといい、宗景も当寺を菩提寺とするという。また元和の頃、日奥は当寺で説法したともいう。
寛文6年(1666)寺中本行坊は還俗、善正坊は他国を徘徊し行方不明となり、廃寺と成る。(寛文年中古寺趾書上帳)
しかし、益原村の住民は殆どが信者で、禁制後は内信として続き、山号に因んだ大樹庵(内信組織と庵)が存在した。
※大樹庵は金川妙國寺末大樹山法泉寺を基とする。寛文6年池田光政の弾圧で廃寺となるも、僧及び信徒は地下に潜り、禁制後の弾圧も跳ね除け、内信を続け、明治9年の不受不施派公許を迎える。
→大樹庵は備前法華の系譜中にあり。
文政2年(1819)益原法難で当村民は捕縛される受難があった。 不受不施派再興後、明治11年益原教会所が設立され、本堂が建立される。
明治36年法泉寺の寺号公称が許可され、現在に至る。 境内に大覺大僧正真筆と伝える康永元年(1342)銘の題目石がある。
※本資料では大覚大僧正巡錫には言及しない。
2008/02/16追加:
○「大覚大僧正と三備開基寺院」 より 本著の口絵に次の写真と解説がある。
益原法泉寺題目石: 裏に大覚花押康永2年(1343)とある。益原法泉寺に建立。
※本題目石については現地未見につき詳細は不明、 特に本題目石は大覚自筆三面題目石とは違うものであり、どのような性格は不明。
2017/10/23追加: ○「第42章 大覺大僧正妙實上人」(「岡山市史 巻2」岡山市役所編、昭和11年 所収) より
和気郡和気町益原 大樹山法泉寺境内にあり、これも数十年前何れかにその影を失いしが、再び還りて今は、金網を張りたる堅固なる石龕中に安置せらる。石灰岩勢、全高3尺3分(1m)。
三面ともに七字の法華題目を刻し、背面に 右志者為養父妙念第三季追善並一切衆生平等利益 康永元年9月7日養子敬白 と刻したり。
2017/10/23追加: ○「第650遠忌記念 大覚大僧正」:
本石塔は花崗岩製で全高約1m、現状は法泉寺境内の石龕中にある。
年紀の他に「為養父妙念第三年追善」とあり、養父妙念の三回忌追善のため建立と知れる。
2019/02/09追加: ○「岡山県史 第8巻 近世3」1987 より
[不受不施信仰の変容] 大覚大僧正石碑
延享2年(1745)不受不施僧修玄院日要が備中より大覚大僧正の石碑を買い求めていた。和気郡益原村の信者たちの要請によってその石碑を同村に安置する。以降村民の信仰の対象となる。
「火難、水難、はやり疫病を遁れし事、その数知れず」(大樹山法泉寺縁起)という霊験であったという。
2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より 備前法泉寺内佛
益原法泉寺は大樹庵の後身であるが、内佛は江戸自證庵にあったものである。
写真は元自證庵仏壇で、江戸にあった内信組織から上総を経て備前益原へ運ばれる。 元自證庵仏壇布書
その当時の緊迫した事情を物語る布書が仏壇の中から発見される。 自證庵からは仏壇のほか多くの什物も運ばれる。 →江戸自證寺 --- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---
2020/06/12追加: ○和気町トップページ > 行政 > 文化財 > 建造物 のページ より 法泉寺題目石
備前(岡山)地方にはじめて日蓮宗(法華宗)を伝えた大覚大僧正が、依頼を受けて書いたものと伝えられている題目石である。花崗岩製、高さ約1m。
塔身の三方に、「南無妙法蓮華経」の文字をいわゆる髭題目の書体で、
背面に「右志者為養父妙念第三年追善並一切衆生平等利益 康永元(1342)年九月廿日 養子敬白」と刻まれている。
※法泉寺題目石の見学には紹介者が必要です。(本堂内部も同様) |
○
45 |
備後大覚山法宣寺 |
福山市鞆 |
. |
延文3年(1358)建立。
四条妙顕寺末。 →備後鞆の浦の諸寺中 |
47 |
備後水呑妙顕寺 |
沼隈郡水呑 |
水呑妙顕寺(備後の諸寺中) |
日像上人を開山とするも、大覚大僧正の弘教を基とする。
大覚大僧正は第2祖とする。
四条妙顕寺末。 |
○
52 |
備後長息山妙宣寺 |
尾道市長江 |
備後西部の日蓮宗諸寺中 |
正平14年(1359)開基。
あるいは文和4年(1355)の開創、前年大覚大僧正が法華堂を建立、百座説法をなす。開基(2世)は久成院日覚。
山号長息山は旧山号で現在は本覚山と号する。
四条妙顕寺末。 |
○
48 |
備後蓮長山妙永寺 |
深安郡加茂町粟根 |
. |
文和4年(1355)建立。
四条妙顕寺末。 |
○
49 |
備後漫延山妙楽寺 |
神石郡豊松村 |
. |
寛正2年(1461)真言宗法隆山円乗寺を改宗。開基は實乗律師。四条妙顕寺末。 |
△
32 |
2015/10/05追加:
備後大覚山一乗寺 |
備中小田郡神島
(備後深安郡へ移転) |
備中妙教寺(最上稲荷)奥之院 |
大覚大僧正開創という。
延享2年(1745)妙弘院日恵が備中小田郡より寺号移転してという。四条妙顕寺末。
但し、この寺号は備中高松村稲荷昭和17年「備中妙教寺(最上稲荷)奥之院」に移し、現在は妙教寺奥之院が寺号を引き継ぐ。 → 備前・備中・備後大覚山一乗寺>
備後箱山一乗寺(神辺)として掲載 |
△ |
2015/10/05追加:
備中妙法山蓮華寺 |
笹沖足高山南麓の道場で大覚大僧正の創立という。
寛永2年(1625)蓮華寺は倉敷村に移転し「長興山本榮寺」と改称し、本榮寺が開山という。 →長興山本榮寺
なお、笹沖に、池田光政による寛文の法難で寛文6年に廃寺となった蓮臺寺いう廃寺があるが、それとの関係が不明である。 →長興山本榮寺の次項である「備中笹沖蓮臺寺【廃寺】」を参照。 |
△
46 |
2016/02/01追加
備後沼隈本郷妙皇寺 福山市本郷町513
(沼隈郡本郷村)
|
本門法華宗(大本山京都妙蓮寺末
○サイト「備後沼隈本郷妙皇寺」の「妙皇寺沿革」では次のように云う。
(本門法華宗、大覚大僧正開基) →京都妙蓮寺末
文和3年(1354)大覚大僧正、 真言宗の寺を改宗し、自ら「鷲峰山妙皇寺」の寺山号を授与し、妙皇寺を開山する。
明応年中(1492-1501)第一中興開基日応僧正、近隣を教化、基礎を確立する。
正保元年(1644)第十三世日便上人、真浄山大法寺を開創する。
(大法寺とは福山市本郷町761に本門法華宗大法寺があるが、この大法寺であろう。)
寛文12年(1672)第二中興第十四世日正上人、本堂・三光堂を再建する。
延享2年(1745)第十九世日貞上人、祖師堂を建立する。
昭和32年 位牌堂を建立。
昭和50年 鐘楼を建立。
平成元年 書院新築、鐘楼再建(台風被害)
平成9年 鷲峰会館・庫裡の建造
現在は山門、鐘楼、本堂、祖師堂、三光堂、位牌堂、庫裡、書院、鷲峰会館などを具備す
|
2
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備前本住山實教寺 |
邑久郡福岡
(瀬戸へ移転) |
. |
暦応年中(1338-41)大覚大僧正が備前福岡に巡錫、説法の旧址に実教寺が建立されるという。
明治37年、現在地(瀬戸町鍛治屋)に移転する。本堂は文化10年(1810)の建立、大覚大僧正碑は嘉永2年(1849)の建立であるが、いずれも備前福岡からの移建という。大覚大僧正碑の台石は大覚の説法石でこの石に腰掛けて説法したという。
京都妙覚寺末。 |
7
|
備前妙恩寺 |
御野郡小原町
(備前岡山妙福寺) |
備前岡山妙福寺 <旧岡山市内の諸寺中> |
四条妙顕寺末。恵日山と号す。元妙恩寺と称し、南北朝期、大覚大僧正により内田郷小原町に建立。
慶長期、不受不施禁令によって取り壊去れる。 寛永9年、池田光政岡山入城の時、妙福寺として復興創建される。 |
8
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備前成就寺 |
御野郡番町
(瑞雲寺と改称) |
備前岡山瑞雲寺 <旧岡山市内の諸寺中> |
小湊誕生寺末。黄門山と号す。暦応年中(1338-42)大覚大僧正により開創。開基檀越は能勢太郎左衛門頼仲。
元願満山成就寺と称する。 慶長年中、小早川秀秋の菩提寺となり、寺号を改め復興する。 |
9
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備前太然寺 |
津高郡大野 |
→備前御野郡大安寺村中 |
京都妙覚寺末。
巌根山と号する。初め禅宗であったが、大覚大僧正の巡教により改宗、時の住職日堯が開山となる。 |
10
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備前常蓮寺 |
津高郡金川
(廃寺) |
. |
臥龍山北側の草生にあった。松田元喬が菩提寺として建立という。 |
13 |
備前辛川妙蓮寺
(辛川蓮光寺)
津高郡辛川
備前辛川大覚寺/辛川大覚堂
|
現在、臨済宗妙心寺派曹源寺寺中日蓮宗大光院には康永4年及び応永18年銘の法華題目石塔(笠塔婆)がある。
この2基は、もと西辛川の蓮光寺に建てられていたものという。 ※西辛川蓮光寺ではなく、西辛川妙蓮寺(「備前法華の由来」)ともいう。
※松田元喬は辛川に妙源寺を建立ともいう。(「岡山の宗教」岡山文庫) ※「岡山市史 社会編」1968 では西辛川妙善寺とするも、これは津島妙善寺と混同しているのではないかも思われる。
→現在大光院にある備前辛川題目石については、下に掲載の「備前曹源寺大光院」の項を参照。
寛文7年(1667)蓮光寺は備前藩池田光政の寺院破壊で廃寺となり、3基の題目石が大光院に移される。
明治9年、3基のうち1基は元地(西辛川)に戻され、題目石塔は現在辛川大覚堂に安置される。 ○「ふるさとを歩く 黒住秀雄の見た吉備」 より:
寛文7年廃寺とされた西唐川の蓮光寺跡は、地元では「おあと様」と呼ばれていた。なお辛川は中世には「唐皮」とも表記する。
蓮光寺の伝承は現在伝わらないが、松田氏3代の元泰の法名は「蓮光院殿燈明日経大居士」であり、この法名に関係する可能性はある。また元泰は金川臥龍山城三の丸に持仏堂を建てている。(後に道林寺となる。)
西辛川地籍図:(明治20年)中央上部に「字蓮光寺」とある。
2008/02/16追加:「ふるさとを歩く 黒住秀雄の見た吉備」より
西辛川大覚堂題目石:石の四面に題目を刻む。 2017/10/23追加:
上に掲載の「大覚大僧正略伝」に記載のように 延慶2年(1309)大覚大僧正は日像の命にて宗祖日蓮上人坐像を造る。(児島高徳皇子論)
とある。 即ち 「児島高徳皇子論」に備前辛川大覚堂(現大覚寺)日蓮上人坐像が図版とともに紹介されている。像高は21cm。 本著には、本像の胎内には「南無妙法蓮華経/于時延慶2年己酉7月下旬/承師命奉造立者也/妙實・花押」とあるという。しかし、今般「第650年遠忌記念 大覚大僧正」の編集委員が改めて本像を実見したところ、胎内銘文は「南無妙法蓮華経」は判読可能であるが、他の銘文(墨書)は痕跡ばかりで全く判読できないという状態であった。もし、「児島高徳皇子論」の豊田氏のいう通りであれば、大覚は僅か13歳でこの彫刻をなし、花押を記したこととなる。 尤も豊田氏は花押の違いから、像の作者の妙實と大覚とは別人であるとする。
※この事の真偽は確かめようもないが、「第650年遠忌記念 大覚大僧正」にも本像の図版が岡山市大覚寺所蔵として掲載されていて、大覚寺に坐像が安置されているのは確かであろう。
※辛川大覚堂(大覚寺)に安置の日蓮上人像について、現地での大覚大僧正作との信仰も見当たらず、またこのことに触れた文献やWebページも寡聞にして知らず、いよいよ事の真偽は不明である。
偶々、2014/02/16に、本尊大覚大僧正自筆題目石の後の須弥壇中央の厨子に坐する日蓮上人像を撮影しているので、次にその坐像を掲載する。 辛川大覚堂日蓮上人坐像:写真は少々不鮮明である。 ○「第42章 大覺大僧正妙實上人」(「岡山市史 巻2」岡山市役所編、昭和11年 所収) より
御津郡一宮村西辛川妙善寺 寛文7年この寺廃絶に帰し、国主池田氏之を没収し、上道郡富山村圓山曹源寺境内大光院に安置し、その後一時その影を失ひしが、近頃復同寺内に安置せらる是亦2基あり。
甲:大覚堂内安置のもの。石灰岩製、全高4尺5分 三面ともに七字の法華題目を刻し、背面に
比丘尼/妙善 應永18年9月10日 と刻む。 乙:大覚堂の東側にあり、花崗岩製、全高4尺9寸5分 三面ともに七字の法華題目を刻し、背面に 大沙門日妙聖霊百ケ日 康永4年/3月10日 各々/敬白 と刻せり。
※應永14年は1411年、康永4年は1345年。
※妙善寺とは不明、津高郡西辛川村にて、廃寺となった日蓮宗寺院は 東榮山妙蓮寺(金川妙國寺末)という。(撮要録)年次は寛文6年という。 ※「一時その影を失ひ」とは具体的にどのようなことなのかは資料がなく、不明。
2019/05/15追加: ○「第650遠忌記念 大覚大僧正」平成25年 より
この石塔は、もと備前西辛川の東榮山妙蓮寺(一説に蓮光寺)境内にあったが、寛文7年(1667)廃寺とされ、その時他の2基の石塔とともに、圓山曹源寺内の大光院に移転されたという。
他の2基の石塔は、一つは應永18年9月10日の年月日と比丘尼妙善の法号が刻まれたもので、今一つは年紀のない四面題目石塔である。
明治9年に妙蓮寺跡に大覚堂が建立されると四面題目の一基のみが旧地に戻され堂内に安置される。
※寛文年中に廃寺となり、その時大光院に移されたと解釈されるが、厳密にいえば、廃寺の後、池田綱政に代替わりし、備前池田家菩提寺として曹源寺が建立されたこ頃移されたものであろう。
※旧地に戻された題目石は、厳密にいえば、「四面題目」ではなく、康永4年の年紀の「三面題目」石であろう。 (中略)
辛川の題目石塔は、当地に宿泊した大覺大僧正が、足利直義による備中福山城合戦の戦死者を供養するために建立したものと考えられる。
因みに、明治20年の「備前國津高郡西辛川村地図」を見ると、現在大覚寺のある位置(西辛川1000)は「字蓮光寺」となっている。
「撮要録」では「西辛川村 東榮山 妙蓮寺」とあり、また宝永6年に著された「和気絹」には「辛川村妙蓮寺」とあり、「蓮光寺」との関係は明らかでない。
2019/11/07撮影: 備前辛川市場下の日蓮堂の現地説明板では次のようにいう。(要旨)
辛川は圓山大光院に伝わる題目石の旧地・俗に「御跡(おあと)」と称する寺跡も地名を蓮光寺と称し、備前松田氏3代元泰(法名・蓮光院殿燈明日経大居士)が生前から営んだものと云われる。但し、蓮光寺は早く金川の寺院に集合されたようで、寛文の廃寺の資料では西辛川村東榮山妙蓮寺となっている。妙蓮寺は山際地区にあったようである。
※備前辛川市場下の日蓮堂は備前津高郡辛川市場村・西辛川村・一宮村中にあり。
2014/02/16撮影:
大覚大僧正自筆題目石は辛川大覚堂(辛川大覚寺、辛川大覚教会)の本尊である。
大理石製。高さ125cm。(122cmとも)4面に題目を刻む。年紀はないが形態からは室町時代初期の造立と考えられる。
暦応年中(1338-1341)大覚大僧正が、備前・備中・備後地方に日蓮宗布教の途上、辛川に立ち寄る。その際に、大覚大僧正は南北朝の争乱による当地の死者を供養するために、自ら 題目を刻んだものと伝える。
この題目石は、もともと、辛川蓮光寺にあった題目碑3基の内の一基であり、その後3基とも大光院に移される。 明治9年大光院に移された3基の内から現地に1基戻されるが、その戻された1基が辛川大覚堂の題目石である。
辛川大覚堂への道標:
大覚大僧正道:是より北5町:小松橋の道標、高さ約138cm、幅約70cm×厚さ約30cm。
大覚大僧正道:是より北3町:辛川橋の道標、高さ約140cm、幅約55cm×厚さ約25cm。
2019/11/07撮影:大覚大僧正道:是より北3町2:向かって右は砂川である。
備中辛川大覚寺大覚堂:本堂
備中辛川大覚寺庫裏 大覚堂厨子・諸仏
2019/11/07追加: ○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より 上記の「大覚大僧正道:是より北5町」の道標(小松橋の道標)は、高さ約138cm、幅約70cm、厚さ約30cm、左端に「昭和7年8月施主三宅キ」と刻む。
上記の「大覚大僧正道:是より北3町」の道標(唐川橋の道標)は、高さ約140cm、幅約55cm、厚さ約25cm、左端に「昭和7年8月施主三宅キ」と刻む。
2019/11/07撮影: 辛川市場上の道標:<備前津高郡辛川市場村・西辛川村・一宮村中>
花崗岩製、水路の中に建てられる。水面からの高さ約189cm、25cm×23cmの角柱である。
正面には「大かく大そふじょうみち」と刻み、左右側面は手形である。
この三叉路を西進し約2町ほどで、辛川大覚堂(大覚寺)に至る。
辛川市場上の道標1 辛川市場上の道標2 辛川市場上の道標3
2019/11/07撮影: ○「学ぼう伝えよう、わたしたちのまち備前一宮」、「ビデオで伝える備前一宮」制作委員会、2009.7 より
辛川大覚堂前の大型常夜燈(地上部からの高さ高さ4m)、文化10年の年紀、東面は「450御遠忌報恩謝徳」と彫る。
大覚堂前常夜燈1 大覚堂前常夜燈2:文化10年(1813)
なお、辛川大覚堂横の大型常夜燈(地上部からの高さ2.7m)、西面は弘化三丙午年(1846)と彫る、があるというも、未見。
辛川大覚堂全容 辛川大覚堂門前題目石
本堂前常夜燈その1:文化5年年紀 本堂前常夜燈その2:文化元年年紀
辛川大覚堂本堂
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28 |
備中善勝寺 |
小田郡大倉 |
. |
. |
50 |
備後金田山東福寺 |
神石郡豊松 |
. |
開基は妙楽寺と同じ實乗律師。四条妙顕寺末。 |
51 |
備後豊饒山法音寺 |
芦品郡府中 |
. |
延文年中(1356-61)頃、真言宗寺院を改宗、もとは神石郡篠尾村にあり。四条妙顕寺末。 |
○「大覚大僧正と三備開基寺院」 より:
今日(昭和40年代)備前備中の日蓮宗寺院(身延派のみかどうか不明)は220余ヶ寺、備後には40余ヶ寺あり、この三備の内大覚大僧正開基寺院は40余ヶ寺を数える。
2016/08/15追加:
○「第650遠忌記念 大覚大僧正」 より:
「妙蓮寺祖師記」の大覚上人傳は「備州に於いては31ヶ寺を建立」と記すが、改めて調査すると三備(美作含)では52ヶ寺が数えられる。多くは寺傳によるのみであるが、同時代史料によって開創や開基檀越の存在を語ることのできる寺院もいくつかある。
★三備(備前・備中・備後)以外の大覚大僧正開基寺院
○「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮、昭和49年 より
◇山城上鳥羽実相寺
上鳥羽にあり。正覚山と号する。開基:大覚大僧正、京都妙覚寺末。
→ 山城の日蓮宗諸寺中 → 上鳥羽・下鳥羽の項。
◇摂津大鹿妙宣寺
大覚山と号する。大覚大僧正を開祖、享徳元年(1452)本能寺・本興寺末寺となり、明治42年尼崎本興寺末寺となる。
→摂津の日蓮宗諸寺中
◇和泉和気妙泉寺
和泉市和気町にあり。大覚山と号す。開基:大覚大僧正、京都妙覚寺末。
→和泉の日蓮宗諸寺中
◇和泉市場妙光寺
泉佐野市市場西にあり、本覚山と号す。延文3年(1358)大覚大僧正の開基。京都妙覚寺末。
大覚大僧正授与のご本尊を「傘の内曼荼羅」と称する。
→和泉の日蓮宗諸寺中
◇紀伊多田妙台寺
海南市多田(おおた)にあり。南照山と号す。
開基:大覚大僧正 本尊:高祖(日蓮)大僧正の作。
「紀伊国名所圖會」に境内絵図あり。 → 多田妙臺寺は紀伊の日蓮宗諸寺中にあり。
◇大和今井町蓮妙寺
橿原市今井町、慧生山(恵正山)と号す。
正慶2年(1333)の大覚大僧正の創建と伝える。
本堂は昭和60年再建、慶巳大善神及び妙見大菩薩も祀る。
また文禄3年(1594)銘日蓮上人坐像、鬼子母神立像を蔵する。
以上のほかに、備前(美作)・備中・備後以外の国では5ヶ寺現存、廃寺となるもの20余ヶ寺と云う。
○「大覚大僧正と三備開基寺院」に記載のない寺院
2016/04/24追加
◇播磨室津大聖寺:揖保郡室津
→室津大聖寺、→明石大聖寺を参照
文安3年(1446)10月揖保郡室津にて創建される。開基は大覚妙実上人(大覚大僧正)、開山は大要院日恵上人。
明治維新後、室津大聖寺は衰微し、明治40年明石在住の資産家三國茂三郎の発願により、室津大聖寺「移轉寺御願」が出され、明石に移転する。 2016/04/25追加:
明石大聖寺(室津より明治に移転)の寺伝では次のように云う。 →明石大聖寺
文安3年(1446)10月揖保郡室津に大聖寺が創建される。開基は大覚妙実上人(大覚大僧正)、開山は大要院日恵上人。
文安3年室津に寄港した大覚大僧正は海難被害者の慰霊と祈願のために「法華堂」を建立し、
それが基盤となり「備中大覚寺」より来山した日恵上人が寺院として創立する。
2017/07/25追加:
◇伯耆具足山妙本寺:「妙本寺誌」及び「妙本寺意外之誌」による
→伯耆河岡妙本寺/伯耆具足山妙本寺
当山開山:日像上人、開基:大覚大僧正といい、
当山は大覚大僧正の晩年在住僧坊であり、終焉の地が往古草庵の当山である。(いつ京洛妙顕寺を退居されたか、資料はない。) という。
2016/08/15追加:
○「第650遠忌記念 大覚大僧正」 に記載される寺院
◇信濃妙法山蓮華寺:伊那市高遠町長藤
四条妙顕寺末。 →信濃高遠蓮華寺:慶安年中に身延末から四条妙顯寺末になる。
諸資料には大覚が高遠に弘教した形跡が見当たらず、かつこの寺歴から判断すると、大覚大僧正開基とは形式だけであり、実質的に大覚大僧正の開基ではない。所謂「勧請開基」であろう。
◇越前一乗山妙圓寺:福井市鮎川町
京都妙覚寺末。
◇但馬九日市勝妙寺:豊岡 →但馬日蓮宗諸寺中:大覚大僧正の勧請開基という。
(◇但馬九日市妙經寺:豊岡) →但馬日蓮宗諸寺中:本寺は「第650遠忌記念 大覚大僧正」に記載がない。しかし住職談では大覚大僧正の開基という。
なお、本寺は真門流開祖日真大和尚の生誕地であり、現在は法華宗真門流である。おそらく大覚大僧正の勧請開基であろう。
◇山城北野法華寺
→山城北野法華寺
◇山城宇治直行寺
→山城の諸寺中
◇和泉堺妙行寺:奈良へ移転
→大和の諸寺中
◇摂津三川口久遠寺
霊鷲山と号する。法華宗本門流。
貞和3年(1347)大覚大僧正の巡化により真言宗から改宗と伝える。
◇近江長浜妙立寺
→近江の諸寺
◇淡路中村妙京寺
法華宗本門流。もと法相宗妙暁寺と称する。大覚大僧正淡路に来たり、住職智輝と問答し改宗させる。
住持は日通と改め、寺衆55人及び一村が改宗という。
享徳3年(1454)日隆上人により本門流に転ずる。
◇淡路釜口(東浦)妙勝寺
法華宗本門流。元真言宗、大覚大僧正により改宗する。
嘉吉2年(1442)日隆上人により本門流に転ずる。
◇周防山口本圀寺
本門法華宗。大内弘世が大覚大僧正を招き開いたと伝え、正平17年(1362)の創立とする。
◇備前青江妙泉寺大覚大僧正自刻八幡大菩薩像
備前岡山青江妙泉寺に大覚大僧正自刻八幡大菩薩像があったという。
寛文6年(1666)池田光政による寛文の寺院整理で、不受不施を固守した妙泉寺は廃寺となる。 廃寺の時、八幡大菩薩像は青江八幡宮に遷座する。
その後の消息は不明であるが、推測するに、八幡大菩薩像は明治維新まで伝えられるも、明治維新の神仏分離の処置で棄却されたものと思われる。
なお、青江八幡宮(現在は大正10年の合祀で天野八幡宮という)の南鳥居には題目が刻まれ、明治の神仏分離の処置で削り取られた形跡を残す。 また、大覚妙實手刻の八幡大菩薩像などとはありうるのか。 「大覚大僧正」では、疑問が残るとされるも、大覚妙實造立という日蓮上人坐像2躯が紹介されている。(P.16〜) また、大覚妙實の曼荼羅本尊では数多くの曼荼羅に八幡大菩薩が書かれている。(P.89〜、口絵) 以上のことから、大覚妙實造立の八幡大菩薩像もありうるものと思われる。
→備前青江天野八幡宮南鳥居題目/青江村日蓮宗妙泉寺八幡大菩薩像<備前旧岡山市内の諸寺中にあり>
◆三備における大覚大僧正題目石(三備に於ける代表例の例示)
※特に備前・備中の日蓮宗が盛隆した地域では、下記以外に多くの、大覚大僧正の題目石が祀られている。
こまめにその題目石を追求すれば、その数は増加し、本ページには掲載するのも煩雑である。 大覚大僧正題目石も 「山陽諸国の日蓮宗諸寺・祖師堂/題目石等」のページに網羅的に掲載しているので、参照を乞う。
○2014/02/15撮影:
備前蓮昌寺:大覚妙実供養塔
備前蓮昌寺寺中覚善院:覚善院大覚太僧正碑、2002/12/28撮影・・寺中覚善院
○2014/06/29撮影:
◇備中西花尻正法寺帝釈天大覚大僧正三重石塔
庚申山帝釈天堂脇の石階をさらに上ると土塀に囲まれた区画があり、ここに大覚大僧正三重石塔がある。
初重には大覚大僧正と刻み、二重には日蓮大菩薩を中央にして左に日朗菩薩、右に日像菩薩と刻む。日像門流の典型を示す。
三重の塔身は刳りぬかれ、恐らく木枠が嵌められ、扉もしくは格子が取り付けられ、何らかの什宝が収納されていたものと推測される。
正法寺大覚大僧正三重石塔1 正法寺大覚大僧正三重石塔2 正法寺大覚大僧正三重石塔3
正法寺大覚大僧正三重石塔4
正法寺大覚大僧正三重石塔5:日蓮大菩薩/日朗菩薩/日像菩薩と刻む。
正法寺大覚大僧正三重石塔6:正面は大覚大僧正、右面は當山開基/観達院日道、左面は宝暦13年(1763)の年紀を刻む。
◇備中西花尻題目碑群
左の地神は除き、左から大覚大僧正、題目碑、日蓮大菩薩題目碑の3基が並ぶ。
大覚大僧正碑の年紀は不明確であるが大正10年とも判読できる(であるならば新しいものである)。中央題目碑の年紀は宝暦13年(1763)と刻む。
備中西花尻題目碑群 備中西花尻大覚大僧正碑
◇備中平野妙見社東法界様
左から題目碑(側面は大覚大僧正碑、文政6年/1823年紀)、大覚大僧正碑(弘化2年/1845年紀)、日蓮大菩薩碑、題目碑(文化7年/1810年紀)、題目碑、日親上人/日朝上人碑の6基が並ぶ。
備中平野題目碑群 大覚大僧正碑 右端題目碑側面:大覚大僧正と刻む。
◇ 備中東花尻村題目碑東群:妙傳寺/立成寺東側の辻にある。
東花尻村東端に石塔婆群がある。囲柵の中に数基の題目碑と大覚大僧正碑がある。正面の最大の題目碑は145(高)×140(最大幅)×20-25(厚)cmを測り、天正19庚卯年
(1591)の年紀などを刻む。
石碑は4基あり、内1基は大覚大僧正碑で、3基は題目碑である。
東花尻村題目碑東群1:駒札の文字は消えかかり殆ど判読できない。 東花尻村題目碑東群2
題目碑東群大覚大僧正碑
題目碑東群題目碑:向かって左端は天明6年(1786)、右端は享保?年(1716〜)の年紀がある。
◇備中東花尻村題目碑西群:妙傳寺/立成寺西側の辻にある。
辻の北側に7基の石碑があり、左右の2基の性格は不明であるので除外するとして、5基の題目碑/大覚大僧正碑が並ぶ。
さらに辻の南に1基あり、合計6基の題目碑が立つ。何れの石碑も年紀は不明である。
東花尻村題目碑西群 題目碑西群大覚大僧正碑 題目碑西群題目碑 題目碑西群辻南題目碑
◇備中庭瀬中田題目碑群
庭瀬中田公民館裏に法華宝塔、題目碑、大覚大僧正碑の3基及び小祠がある。ここは公民館と民家に挟まれた狭隘な地であり、正面から全容を写真に撮ることは不可能である。
備中中田題目碑群:向かって左から、法華宝塔(一天四海皆帰妙法 末法萬年廣宣流布、元治元年/1864年紀)、石灯篭、小祠(祭神不明)、題目碑(文化8年/1811年紀)、大覚大僧正碑(年紀不明)が並ぶ。
備中中田大覚大僧正碑 備中庭瀬中田題目碑
◇備中山田浄泉寺石塔群
石塔群4基がある。向かって左から
大覚大僧正題目碑:
(正面)南無妙法蓮華経、(南面)天下泰平五穀盛就、(北面)大覚大僧正、(裏面)文政五壬天四月三日立(1822)
日蓮碑:
元祖日蓮大菩薩、 安永十辛丑歳十月十三日(1780)
題目碑:
是人於仏道 奉勧法千派真俗一千人/南無妙法蓮華経法界萬霊/決定有無疑 貞亨第二乙丑暦仲夏中旬三日(1685)
石塔;
奉納妙法蓮華経法師功徳品第十九(法華経第19品・法師功徳品の写経を埋めたものなのであろうか)
2014/06/29撮影:
山田浄泉寺石塔群 山田浄泉寺大覚大僧正碑
2018/12/27撮影: 備中庭瀬題目碑、備中平野庭瀬駅東踏切南題目碑、備中延友題目碑群、備中古新田金谷法界様、備中大福題目碑群、 備中大福外野題目碑、備中高尾切通東題目碑、備中高尾天城往来題目碑、備中大内田題目碑:塚山公園内
など庭瀬近辺にも多く見られる。
2019/05/15追加:
備前津高郡南部、備前御野郡、備中庭瀬附近、備中妹尾附近の各村々を訪ねると、江戸後期には村々にはまず例外なく祖師堂が建立されていたようである。これらの村々は寛文以前には不受不施派の基盤であった地であり、寛文以降もその伝統を引き継ぎ、またいわゆる日蓮宗の信徒の多い地域である、
そして、これらの祖師堂には基本的に題目石(日蓮大士・日蓮大菩薩)、大覚大僧正石、地神・水神(地水両神)などが祀られる。
つまり、大覺大僧正は高祖(日蓮)や地神水神と並ぶ祖師堂本尊であった。日蓮宗信仰と生活基盤である農耕が結びついていたと考えられるのである。
さらに祖師堂によっては、日蓮・日朗・日像の三菩薩宝塔、数は少ないが日親上人・日朝上人、また三十番神や牛馬神が祀られることも見受けられる。疫病の退散・防御を願ってであろうが、牛頭天王も祀られることもあった。
日蓮・日朗・日像・大覺は偉大な先師であり、日親はと云えばこの地方との関係性は良く分からないが、やはり偉大な先師もっと云えば不受不施の先師としての意味が込められていたのではないかとも思われる。日朝は眼病平癒の対象として祀られたのであろう。
地水両神・牛馬神・三十番神・牛頭天王などは当時の庶民の願望や共同体としての村の秩序維持の意思(豊穣の祈念とその感謝)が強く感じられるものである。
繰り返しになるが、宗祖日蓮上人とこの地方の教化の先駆としての大覚大僧正の信仰の念は篤く、また収穫の安定の願いと感謝から地神水神はほぼ例外なく祀られているのがこの地方の祖師堂の基本形であった。そして堂前後には常夜燈(石灯篭)も設置されていた。おそらく、常夜燈は部落の同じ信仰を持つものの連帯の象徴のようなものであったのであろうか。
但し、明治以降あるいは昭和20年以降の戦後、農村共同体が次第にあるいは急速に瓦解し、それに伴い多くの祖師堂が退転していったようである。しかし石塔類は腐朽することはなく、今に伝えられる。
冒頭に戻ると、備前津高郡南部、備前御野郡、備中庭瀬附近、備中妹尾附近の各村々を訪ねると、村々には必ずと云っても過言ではなく、祖師堂とそこに安置される石塔など及び祖師堂の流れを汲むと思われる石塔などに出会う。そしてこれらの石塔などは題目石・大覺大僧正・地神水神などで構成され、これらは村共同体を成立させる具体的な装置であったように思われる。
「大野村誌」(昭和31年)では次のように述べる。
即ち「かって大覚大僧正が中国地方を巡錫し、布教した時に第一に祖師堂の建立を奨励した。即ちその狙いは群集心理を捉えて祖師の前に之を結集すること、敬虔の態度で祭事供養を共同に営むこと、こうした形式から信仰心を高めようと考えたのであろう。又平素部落民が交互に堂内外を清掃し、香華を供える、これらの作業を通して祖師尊崇の精神を涵養し、民心を教化しようと考えたのであろう。」と。
かくして、備前南部、備中東南部では無数の「大覚大僧正」石が祀られ、今日に伝えられる。 その全容については、逐一このページに挙げきれるような数ではないので、「山陽諸国の日蓮宗諸寺」のページ中の「備前の諸寺」や「備中の諸寺」の個所の参照を願う。
2017/10/23追加: ○「第42章 大覺大僧正妙實上人」(「岡山市史 巻2」岡山市役所編、昭和11年 所収) より
●備前金川臥竜山城主松田左近将将監権頭元喬傳記の中に見ゆる当時他宗寺院に改宗を迫りし寺山は概ね次の如し。 |
御津郡建部村藤田 |
藤田山成就寺 |
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御津郡野谷村菅野 |
正保山幸福寺 |
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赤磐郡葛城村國ヶ原 |
瑞輪山香雲寺 |
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御津郡馬上村 |
勅命山日應寺 |
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赤磐郡五城村下伊田 |
蓮浄寺 |
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御津郡津島村 |
石井山■■寺 |
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御津郡金川町草生 |
浄蓮寺 |
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御津郡建部村 |
法住山妙浄寺 |
|
御津郡建部村 |
池本山孝徳寺 |
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御津郡栢谷村 |
姫居山光権寺 |
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久米郡福渡村 |
妙福寺 |
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●大覚大僧正外護の武将の中
多田頼貞は濱野に、石原佐渡は牛窓に、松田左近将監は金川に、石川左衛門佐は軽部に、伊達弾正は野山に、難波備前は金川富山に各々外護の力多きに居、その建立に係る寺院の主たるものは |
牛窓 |
法華堂 |
石原佐渡 |
後朗源之を本蓮寺とす |
伊福 |
福輪寺 |
松田十郎 |
津島 鷲林山妙善寺 |
伊福 |
|
難波備前 |
|
福岡 |
|
大富太郎 |
|
福岡 |
|
今木太郎 |
|
片上 |
法鏡寺 |
浦上宗隆 |
|
益原 |
法泉寺 |
|
|
軽部 |
大覚堂 |
石ヶ鼻 石川左衛門佐 |
「備中誌 窪屋郡巻之三」に石川左衛門の記事あり。 |
竹荘 |
妙本寺 |
伊達弾正 |
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野山 |
眞浄寺 |
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野山 |
妙音寺 |
|
|
野山 |
圓満寺 |
|
|
野山 |
本迹寺 |
|
|
野山 |
妙仙寺 |
|
|
野山 |
妙教寺 |
|
|
野山 |
和泉寺 |
|
|
網浜 |
妙勝寺 |
多田頼貞、多田頼吉 |
|
城下 |
蓮昌寺 |
|
|
津島 |
妙善寺 |
松田元喬 |
|
黒崎 |
佛乗寺 |
|
|
|
天満山寺 |
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金川 |
道林寺 |
|
|
金川 |
妙國寺:備前金川妙國寺 |
|
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金川 |
常蓮寺 |
|
|
金川 |
妙善寺 |
|
|
金川 |
藤田山 |
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