上 條 大 石 寺 五 重 塔

上條大石寺五重塔

2020/05/22撮影:上條大石寺附近からの富士山
大石寺付近からの富士山

 上條大石寺附近からの富士山1:上図拡大図     上條大石寺附近からの富士山2     上條大石寺附近からの富士山3
2004/08/01撮影:
          ◎富士山遠望


大石寺五重塔

2004/08/01撮影:  

寛延2年(1749)完成。6.36m四面・高さ33m。

徳川6代将軍室天英院の発願による。(26世日寛上人代)
31世日因上人が諸国に勧化し、伊勢亀山城主板倉勝澄の寄進により完成。


 上條大石寺五重塔01
 上條大石寺五重塔02
 上條大石寺五重塔03
 上條大石寺五重塔04(左図拡大図)
 上條大石寺五重塔05
 上條大石寺五重塔06
 上條大石寺五重塔07
 上條大石寺五重塔08
 上條大石寺五重塔09
 上條大石寺五重塔10
 上條大石寺五重塔11
 上條大石寺五重塔12
 上條大石寺五重塔13

2020/05/22撮影:
大石寺伽藍は三門―御影堂の線を中軸として、右手奥に五重塔がある。
○現地説明板(大意) より
 五重塔は徳川家宣室天英院(26世日寛代)が建立を発願し、その後歴代上人もその志を継ぎ、31世日因代駿河・江戸・加賀の信徒及び備中松山藩主板倉勝澄の浄財を得て、総工費4000両を以って寛延2年(1749)竣工する。
平成29年平成の修理が為される。
間口6.4m、高さ34.3m。(と記載)
 ※板倉勝澄は延享元年(1744)伊勢亀山藩主から備中松山藩に移封される。
○屋根銅板葺
心柱は、この時代の塔としては珍しく、心礎から建つという。
初重から四重は二軒の平行垂木であるが、五重目は扇垂木とする。
初重中央間蟇股の内部は徳川家家紋三葉葵を入れ、両脇間の蟇股内部は寶相華を用いる。支輪は菱格子。
軒隅下には邪気の彫刻が入る。二重目から上の中備えは間斗束を使用する。
昭和42年、平成29年に修理。
大石寺五重塔11
大石寺五重塔12
大石寺五重塔13
大石寺五重塔14
大石寺五重塔15
大石寺五重塔16
大石寺五重塔17
大石寺五重塔18
大石寺五重塔19
大石寺五重塔20
大石寺五重塔21
大石寺五重塔22
大石寺五重塔23
大石寺五重塔24
大石寺五重塔25
大石寺五重塔26:左図拡大図
大石寺五重塔27
大石寺五重塔28
大石寺五重塔29
大石寺五重塔30
大石寺五重塔31
大石寺五重塔32
大石寺五重塔33
大石寺五重塔34
大石寺五重塔35
大石寺五重塔36
大石寺五重塔37
大石寺五重塔38
大石寺五重塔39
大石寺五重塔40
大石寺五重塔41
大石寺五重塔42
大石寺五重塔43
大石寺五重塔44
大石寺五重塔45
大石寺五重塔46
大石寺五重塔47:左図拡大図
大石寺五重塔48
大石寺五重塔49
大石寺五重塔50
大石寺五重塔51
大石寺五重塔52
大石寺五重塔53
大石寺五重塔54
大石寺五重塔55
大石寺五重塔56
大石寺五重塔57
大石寺五重塔58
大石寺五重塔59
大石寺五重塔60
大石寺五重塔61
大石寺五重塔62
大石寺五重塔63
大石寺五重塔64
大石寺五重塔65
大石寺五重塔66
大石寺五重塔67
大石寺五重塔相輪

天英院五輪塔:五重塔脇にある。天英院は徳川家宣正室で、近衛熙子である。寛文6年(1666)- 寛保元年(1741)。父は近衛基熙。
戸田城聖墓碑:創価学会2代会長、法号は大宣院法護日城大居士。 創価学会破門の後にも存在する。

上條大石寺略歴

多宝富士大日蓮華山と号する。
弘安5年(1282)日興上人、身延山久遠寺別当職に就く。
日興、地頭波木井実長の謗法(身延日向が後ろ盾)を諫止する。
正応2年(1289)日興、日向と袂を分かち、身延山を離山。
正応3年(1290)日興、南条時光の請いにより富士の地に移り、大石ヶ原の地に大石寺を開創。南条時光を大檀越とする。
第3祖は日目上人、第4世日道上人とする。
 ※近世の富士(日興)門流の一つの動向を示すものとして「冨士門流三鳥派(三超派)・細草檀林」のページを参照願う。
 ○○の正系といった表の顔とは違った裏の顔も垣間見えるのである。人間のつくる組織(宗教界もその一つ)の宿命であろうか。
明治維新後、
富士門流(日興門流)は本門宗を名乗り、八本山(富士大石寺・下条妙蓮寺<現日蓮正宗>・重須本門寺<現身延派>・京洛要法寺 <現日蓮本宗本山>・小泉久遠寺<現身延派>・保田妙本寺<現単立>・西山本門寺<現単立>・伊豆実成寺 <現身延派>)制を敷く。
しかしながら、多数は身延派に傾く中で 、明治33年(1900)本門宗から独立、1912年日蓮正宗を公称。
平成3年(1991)日蓮正宗は創価学会を破門。
 ※下司な推測をすれば、初期の頃大石寺と創価学会はお互いの勢力伸長のためには協力するほうが都合が良かったのでお互いが利用し合う関係で推移する。しかし派祖を日興とするドグマを背負う大石寺と谷口などが派祖である創価学会とはいずれ軋轢を生むのはいわば必然であったものと思われる。相互に誹謗中傷の果てに日蓮正宗(大石寺)は創価学会を破門し、無関係となる。

上條大石寺伽藍

日蓮正宗内での創価学会の台頭により、大石寺伽藍は新造建築が乱立し、その荘厳を減じたと思われる。
大石寺の創価学会破門の後、大石寺山内は閑散としているといわれる。
確かに、大石寺を訪れる人(登山)は減ったのであろう。しかし、創価学会の寄進で乱立した建築は一部は造替されながら、その位置を占めているままである。

2004/08/01撮影:
 上條大石寺御影堂1     上條大石寺御影堂2:寛永9年(1632)建立、阿波蜂須賀義鎮室敬台院の寄進による。
 上條大石寺三門:正徳3年(1713)に発願され、徳川家宣と室の天英院などの寄進により完成。
  近世の大寺の三門建築の一つ(例えば芝増上寺山門)で、雄大な規模を誇る。富士山を背景もこれは秀逸である。
 ※敬台院については「冨士門流三鳥派(三超派)・細草檀林」中の敬台院の項を参照。
2020/05/22撮影:
◆大石寺道(参道):
 大石寺道は大石寺三門から黒門を経て、南やや西に潤井川まで直線的に南下し、潤井川から西に右岸を坂下に至る道である。
その距離は三門から坂下迄約2300mを測る。但し大宮浅間社の西附近から渋沢を経て坂下に至る道も実質的には大石寺道であったかも知れない。
 その様子は富士五山の項に掲載した1/50000地図:明治29年大宮(部分) や 1/50000地図:昭和19年富士宮(部分)の地図にその姿をくっきりと残している。但し、1/50000地図:平成4年富士宮(部分)では三門側の参道は車道が開通し、道はほぼ破壊されたものと推測される。

 では、最新の地理院地図で確認すれば、次のように云える。
現地は踏査はしていないが、GoogleMapや航空写真などで判断すると、次のような様子と思われる。
 大石寺道は、大石寺道開始(坂下)から新道(2車線道路)に合流するまでは、潤井川右岸を屈折しながら残っているようである。この道には石灯篭・題目石(自然石)・笠塔婆(題目石か)が確認できる。
 しかし、この大石寺道は、新道(2車線道路)と合流する地点から大石寺至る間は、新道の開削で消滅したものと思われる。ただ、この新道(2車線道路)は黒門に近ずく手前から、東側にはずれて開削されたようで、従って、旧黒門の手前附近には旧道と思われる痕跡が残っていると思われる。特に航空写真などはその痕跡を見て取ることができると思われる。
◆黒門:
 少々経緯はややこしいが、次のように云われる。
 黒門(総門)は大永2年(1522)創建、寛永15年(1638)再建、現在の門は明治13年に再建されたものである。
創価学会が破門された後、平成10年三門から真南の現在の地へ移設される。
黒門は古来より黒塗といわれ、境内の最南端に位置し、大石寺の表玄関であった。「大石寺境内図」(江戸中期)に見られるように、黒門は三門から真南の位置になく、少し東寄りあり、それは大石寺参道が行き着くところであった。
 創価学会と蜜月の時代であった昭和47年RC造の総門(新総門)が三門から真南の場所に建立され、黒門は新総門の傍らに捨てられたようにあった。ところが創価学会が破門され、平成10年に新総門が解体され、黒門がその跡地に移建され、黒門は当所に位置からずれるも再び総門としての役割を担うこととなる。
 「大石寺」に掲載の昭和46年の境内図では総門の東に黒門が描かれ、参道の終端が取付いていたものと思われる。
また次のように記される。
「江戸時代にはこの門の南に参道が続いていました。・・・現在建築中の総門は黒門よりやや西よりの正面参道入口にある。」
 大石寺黒門:「大石寺」より
 大石寺黒門1     大石寺黒門2     黒門より三門を望む
◆三門:享保2年(1717)建立、徳川家宣から富士山の巨木70本の寄進を受け、また室天英院から黄金1200粒の寄進を受け、成る。
 大石寺三門11     大石寺三門12     大石寺三門13     大石寺三門14     大石寺三門15
 大石寺三門16     大石寺三門17     大石寺三門18     大石寺三門19     大石寺三門20
 大石寺三門21     大石寺三門22     大石寺三門23     大石寺三門24     大石寺三門25
◆大石寺諸伽藍
三門・五重塔・御影堂・鬼門(享保2年/1717)以外には古い建築はなく、左記の建物以外は何れも近年の造立・再建・造替のようである。
三門から二天門に至る参道両脇に表塔中(13坊)がある。
表塔中の西には西裏塔中(4坊)、二天門を東に入り、さらに左に入ると(御影堂東)に東裏塔中(6坊)がある。
近年には、総門と三門間の両側に、総一坊、総二坊、常灯坊、広布坊などの巨大施設が建立される。
なお
正本堂(昭和47建立)は創価学会破門後、平成10年に50億円の費用で解体、大客殿(昭和39建立)は平成7年、大化城(昭和35年建立)は昭和63年解体という。
平成10年客殿建立、平成14年正本堂跡に奉安堂(日蓮真筆「本門戒壇之大御本尊」を安置)建立。
その他大講堂、六壷などが入り乱れてある。
 大石寺二天門1     大石寺二天門2     大石寺二天門3     大石寺二天門4
 大石寺鼓楼        大石寺鐘楼
◇御影堂:寛永9年(1632)の再建、桁行7間・梁間7間、入母屋造、屋根本瓦形銅板葺、向拝は3間唐破風付き。
 大石寺御影堂11     大石寺御影堂12     大石寺御影堂13     大石寺御影堂14     大石寺御影堂15
 大石寺御影堂16     大石寺御影堂17     大石寺御影堂18     大石寺御影堂19     大石寺御影堂20
 大石寺御影堂21     大石寺御影堂22     大石寺御影堂23     大石寺御影堂24     大石寺御影堂25
 大石寺御影堂26     大石寺御影堂27
 大石寺表門     大石寺宗務院     大石寺大講堂
 大石寺鬼門     大石寺六壷・客殿     大石寺六壷1     大石寺六壷2
 大石寺不開門     大石寺客殿1     大石寺客殿2
 大石寺奉安堂1     奉安堂横の富士山     大石寺奉安堂2
◇六万塔:新旧の2基がある。旧六万塔は宝永元年(1704)の建立、新六万塔は平成6年の建立、高さは約6mという。
なお、この宝塔の西に熱原三烈士墓碑・敬台院墓碑があるが未見。
 大石寺新六万塔1     大石寺新六万塔2     大石寺旧六万塔


大石寺寺中

三門から二天門(寛永15年建立)に至る参道両脇に表塔中(蓮蔵坊を含めて13坊)がある。
 表塔中:蓮蔵坊(学頭寮)、浄蓮坊、理境坊、久成坊、百貫坊、蓮東坊、寂日坊、本住坊、観行坊、本境坊、蓮成坊、了性坊、南之坊
     何れも大石寺創建直後の創建と云う。
表塔中西には西裏塔中(4坊)、二天門を東に入り、さらに左に入ると(御影堂東)に東裏塔中(6坊)がある。
 西裏塔中:妙泉坊、妙住坊、妙遠坊、遠寿坊
 東裏塔中:報恩坊、遠信坊、東之坊、本種坊、石之坊、雪山坊
近年には、総門(黒門)を入った両側に、総一坊、総二坊、常灯坊、広布坊などの巨大施設が建立される。
以上は2004年当時の寺中であったが、現在では以下のように若干変動しているようである。(Wikipediaより)
 ※大石寺は戦後、法華講である創価学会に丸抱えとなり、堂宇は異様に膨張し、寺中も変貌する。
寺中はその数を増すが、宿屋と見間違う様相を呈し、古くからの寺中も全て画一的に造替され、表塔中の坊号碑を除き、古いものは全て姿を消し、愕然とする佇まいとなっているのが現状である。

表塔中は日興、日目の弟子によって正応3年(1290)から延元2年(1337)の間に創建されたといわれる。
正應3年(1290)は大石寺創建の年であるが、この時創建されたのは蓮蔵坊、理境坊、久成坊、上蓮坊(今の百貫坊)、寂日坊、少輔坊(今の南之坊)の6ヶ坊であるという。
学頭坊である蓮蔵坊は宝永2年(1705)24世日永が再興したという。現在の建物は多宝蔵の北側にある。
なお、参道の敷石は昭和36年に拡張されたという。
 表塔中は次の13坊である。
蓮蔵坊 正応3年(1290)開創、1 浄蓮坊 元弘元年(1331)開創、2 理境坊 正応3年開創、3 久成坊 正応3年開創、4 百貫坊 (1290年)当初上蓮坊と号する。、5 蓮東坊 永仁2年開創、6 寂日坊 正応3年開創、7 本住坊 延元2年(1337)開創、8 観行坊 元応元年(1319)開創、9 本境坊 元亨元年(1321)開創、10 蓮成坊 正安元年(1299)開創、11 了性坊 永仁4年(1296)開創、当初蓮仙坊と号する。12 南之坊 正応3年(1290)開創、当初少輔坊と号する。
 表塔中参道1     表塔中参道2     表塔中参道3
 寺中蓮蔵坊1     寺中蓮蔵坊2     寺中蓮蔵坊3     寺中蓮蔵坊4:多宝蔵・平成2年創建     寺中蓮蔵坊5
 寺中浄蓮坊1     寺中浄蓮坊2     寺中浄蓮坊3
 寺中理境坊1     寺中理境坊2     寺中理境坊3
 寺中久成坊1     寺中久成坊2     寺中久成坊3
 寺中百貫坊1     寺中百貫坊2     寺中百貫坊3
 寺中蓮東坊1     寺中蓮東坊2     寺中蓮東坊3
 寺中寂日坊1     寺中寂日坊2     寺中寂日坊3:「代官坊」と称される。
寂日坊日華(下條妙蓮寺開山)の開山、大石寺寺中は山門並びに塀が黒漆であるのが基本であるが、寂日坊だけは朱塗とされてきた。これは日華上人が大石寺開山(日蓮正宗第二祖)日興をよく補佐し、代官を務めたことによるとされている。
 寺中本住坊1     寺中本住坊2     寺中本住坊3
 寺中観行坊1     寺中観行坊2     寺中観行坊3
 寺中本境坊1     寺中本境坊2     寺中本境坊3
 寺中蓮成坊1     寺中蓮成坊2     寺中蓮成坊3
 寺中了性坊1     寺中了性坊2     寺中了性坊3
 寺中南之坊1     寺中南之坊2     寺中南之坊3

西塔中
かつては妙遠坊もありしが、現在は東塔中に移り、その跡地に遠寿坊が移転新築される。
従って、現在西塔中は3坊である。
13 妙泉坊、14 妙住坊、15 遠寿坊
 寺中妙泉坊1     寺中妙泉坊2        寺中妙住坊        寺中遠寿坊

東塔中
16 妙遠坊、17 報恩坊 元文5年(1740)開創、18 遠信坊 元禄13年(1700)開創、19 東之坊 延享2年(1745)開創、20 本種坊の5坊のほか次の坊舎がある。
石之坊 享保9年(1724)開創、本堂は「常唱堂」と称する。また日興の「説法石」がある。
雪山坊、蓮葉庵(往古の寿命坊旧跡に創建)、富士見庵 元禄年中(1700年頃)の開創
 寺中妙遠坊      寺中妙遠坊裏
 寺中報恩坊1     寺中報恩坊2     寺中報恩坊裏
 寺中遠信坊1     寺中遠信坊2     寺中遠信坊裏
 寺中東之坊1     寺中東之坊2     寺中東之坊裏
 寺中本種坊1     寺中本種坊2     寺中本種坊裏
 寺中石之坊      石之坊常唱堂(本堂)     石之坊玄関庫裡
 寺中雪山坊山門     寺中雪山坊本堂     寺中雪山坊南側     寺中雪山坊裏
 寺中蓮葉庵     
 富士見庵は未見・写真なし。

黒門・三門間の施設
総一坊、総ニ坊、広布坊、常灯坊などの巨大施設がある。
 黒門・三門間の坊1     黒門・三門間の坊2     黒門・三門間の坊3

◇大石寺寺中の盛衰は次のようである。(サイト:富士おさんぽ見聞録>大石寺 塔中 より)
その後、盛時には36か坊を数えたというが、江戸中期ごろから次第に数を減らしていく。
天明6年(1786)の「法華宗勝劣派大石寺派寺院本末帳」では塔頭30坊、末寺40寺。
江戸後期の「駿河記」は17坊、文政6年(1823)「富士大石寺明細誌」は16坊、幕末の「駿河志料」は18坊と載せている。
では『富士大石寺明細誌」には次の寺中が載る。
 学頭寮蓮蔵坊
 〔表西側房中〕理境坊、百貫坊、寂日坊、観行坊、蓮成坊、南之坊
 〔表東側坊中〕浄蓮坊、久成坊、蓮東坊、本住坊、本境坊、了性坊
 〔裏坊中〕石之坊、壽命坊、遠信坊
ほか、廃坊と思われる16か坊の名が列記されている。(報恩坊、竪樹坊、円因坊、宗順坊、慈雲坊、清光坊、東光坊、随本坊、行信坊、信解坊、順行坊、完川坊、実成坊、玄明坊、浄性坊、善立坊、本如坊、勇本坊、西山坊、本行坊、宗智坊)

大石寺下之坊
2020/05/22撮影:
大石寺の飛地である。南条時光下屋敷(持仏堂)を前身とする。本堂の他に三師塔、墓所、旧本堂などを有する。
正応2年(1289)大石寺2世日興の開山、開基檀那は南条時光。
元弘3年(1333)以降、大石寺3祖日目墓所が作られる。(Wikipedia より)
天明7年(1787)現在地に移転する。
 ※Wikipediaでは下之坊に日目墓が作られるというも、もし作られたとしたら、供養塔であろう。
日目は天奏(上京)の途中、美濃垂井で逝去する。日郷・日尊が同行していたが、垂井で荼毘に付し、京都の鳥辺野の延年寺に葬ったというのが真相であろう。現在は京都要法寺末鳥辺野(多寶山)實報寺に廟所がある。
 この付近の詳細な経緯はページ「大石寺偽墓の欺瞞を暴く(43)〜大石寺三祖日目の正墓は大石寺・下之坊になく京都要法寺末寺・鳥辺山實報寺にある2」及び、このページの前後にあるページに詳しい。
2020805/22撮影:
 寺中下之坊山門     寺中下之坊伽藍     寺中下之坊本堂1:中央右端は富士山山頂     寺中下之坊本堂2
 寺中下之坊本堂庫裡:中央は富士山山頂     寺中下之坊客殿庫裏:中央左端は富士山山頂     下之坊富士山山頂
本堂西に若干の堂宇があるが、門を構え本堂庫裡らしき建物があり、門前石灯篭の年紀は文化十五戊寅(1818)とあるので、おそらく新しい堂宇ができる前の下之坊伽藍と思われる。(推定)
 下之坊旧堂宇山門     下之坊旧堂宇石灯篭     下之坊旧堂宇本堂     下之坊旧堂宇庫裡
三師塔、墓所は未見。
○「大石寺」昭和46年 より
下之坊の写真掲載(昭和46年以前下之坊)がある。
この写真は上記の推測を裏付けるものである。手前に下之坊の坊号碑があり、そこから参道が続き、上記に掲載したと同じような山門、三画破風の堂、平屋の小宇が写る。上記の推測のように、旧堂宇がかつての下之坊堂宇に間違いないと思われる。
Wikipediaには
 昭和21年火災により焼失、再建される。
 昭和48年現本堂新築落成入仏式が行われる。
とあるから、この昭和46年以前の写真は昭和21年以降に再建された堂宇であろう。

日蓮正宗末寺:判明分
○会津若松実成寺:久遠山と号する。 →陸奥の諸寺
○鎌倉扇ヶ谷護国寺 →鎌倉日蓮宗諸寺
○駿河富士宮朝日町忠正寺:崇敬山と号す。下條妙蓮寺
○駿河富士宮淀平町要行寺:興栄山と号する
〇因幡鳥取日香寺:妙囿山と号する。 →因幡の諸寺


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