冨  士  門  流  三  鳥  派  ・  細  草  檀  林

冨士門流三鳥派(三超派)・細草檀林

始めに

 今般、冨士門流でもなくまた反門流でもないいわば中立の立場から、
法華宗富士門流(日興門流)大石寺檀越敬台院(織田信長/徳川家康の曾孫)と冨士門流・日精との「相互依存」及び「その後の軋轢」並びにいわゆる「三鳥院日秀」について論じたブログ (Webサイト:「平成談林」)が公開される。

 本ページトでは、従来のなんとなく模糊とした通説に拘泥せず、種々の新しい見解が示される。
そこで当ページでは本サイトの要約(サイト:「平成談林」が出版予定稿の要約であるので、要約の要約になる)を掲載するものである。

 即ち、標記サイトの「三鳥派と細谷檀林」において、上総細草檀林成立の根本原因は敬台院と日精との間の「軋轢」にあることが論証される。
さらに、その「軋轢」は富士大石寺に澱のように沈殿し、およそ半世紀後にいわゆる「三鳥派」事件として意外な展開をみせる。この事件では「三鳥院」なる架空の人物が創造されたのである。
また江戸後期に至っても、大石寺内では「三鳥院日秀」なる人物が創作し直され、現在の通説につながるいわば「捏造」がなされたのである。

まず、「平成談林」の要約の前に「基本的な智識」として、敬台院、日精、いわゆる「三鳥派」などについて平均的な概括をして見よう。

敬台院、日精上人などについての概括(通説)

敬台院略歴・関連情報

敬台院:文禄元年(1592) - 寛文6年(1666)
実父は下総古河小笠原秀政、実母は登久(岡崎信康長女、母は織田信長娘徳姫)。幼名は万姫、お虎。養父は徳川家康。
 (敬台院はつまりは織田信長と徳川家康の直系の曾孫である。)
慶長5年(1600)阿波徳島蜂須賀至鎮に嫁す。子女は蜂須賀忠英、三保姫(池田忠雄室)、正徳院(水野成貞室)。
 (三保姫の息に勝五郎<池田光仲>、勝三郎<池田仲政>があり孫にあたる。)
 蜂須賀家(元来富士門流の京都要法寺の信徒)に嫁した後、大石寺日精に深く帰依するとされる。
元和9年(1623)江戸鳥越法詔寺を建立
寛永9年(1632)大石寺御影堂寄進(但し鳥越法詔寺本堂を移建との言い伝えもあると云う。)
 → 富士大石寺
寛永14年(1637)日精の江戸登城の乗輿の免許に尽力、大石寺への朱印状認可を願い出て許可
寛永19年(1642)細草檀林を建立・供養
正保2年(1645)自ら建立した江戸鳥越法詔寺を阿波に移し、心連山敬台寺を建立・供養
 → 阿波徳島寺町>敬台寺
そのほか正法寺、本玄寺を建立・供養と云う。

○寛永年中前後の大石寺歴代
 16世 日就:住職は慶長12年(1607) - 慶長16年(1611)、再登座元和8年(1622) - 寛永9年(1632)  寛永9年遷化(数え66歳)
 17世 日精:住職は寛永9年(1632) - 寛永10年(1633)、再登座寛永14年(1637) - 正保2年(1645)  天和3年(1683)遷化(数え84歳)
 18世 日盈:寛永10年(1633) - 寛永14年(1637) 寛永15年(1638)遷化(数え45歳)

○寛永年中前後の年表 サイト;関連年表  等より 要約
元和9年(1623)敬台院、法詔寺建立、翌年法詔寺に仏像安置(『富士宗学要集』第9巻69頁)
 ※寛永7年(1630)身池対論、池上日樹など追放。
寛永8年(1631)新寺建立の禁止 以後度々発令される。富士大石寺が焼失する。
寛永9年1632)第17世日精登座、本末帳の作成(本末制度) 以後何度も実施。
寛永10年(1633)第18世日盈登座
寛永12年(1635)寺社奉行設置
寛永14年(1637)春 日精、江戸より帰山(再登座)、日精、敬台院の推挙により公儀の年賀に乗輿を免許せらる。
寛永15年(1638)日精上人、隠居して江戸に出、常在寺を再建(『新版仏教大辞典』初版)
寛永17年(1640)この頃、日精と敬台院の間に隙(げき)が生じる(『続家中抄』)。幕府、宗門改役を設置、寺請制度が発足。
寛永19年(1642)細草檀林を創設
正保2年(1645)第19世日舜登座。(日精は敬台院の訴えに敗訴、寺社奉行が退座を指示か)法詔寺を阿波徳島に移し敬台寺を創建。
寛文6年(1666)敬台院殿妙法日詔卒
天和3年(1683)日精遷化
 
○サイト【造仏は敬台院の意向】 より 要約
・蜂須賀家に嫁いだ敬台院は、蜂須賀至鎮の父・家政が要法寺22代・大雄院日恩に帰依しており、その縁から要法寺の信徒となる。
 (『日宗年表』の元和5年(1619)の記事に、「此頃前阿波太守蜂庵入道大雄院日恩を崇敬東山に隠居寮を建て之を寄す」(『日宗年表』171頁))
 日精は、日昌、日就についで、要法寺から晋山した3代目の法主である。
当時の江戸における富士門流寺院には、日就上人開基の常在寺があった。常在寺の開基檀那は細井治良左衛門であるが、日精の父、法号・通達院乗玄も常在寺の大施主であったことが知られる。・・・敬台院も法詔寺が建立されるまでは常在寺に参詣していたと考えられる。
・元和9年(1623)敬台院、母峯高院の17回忌に当り、菩提の為、江戸鳥越の徳島藩邸内に鏡台山法詔寺建立。日精が初代開基住職である。(『日蓮正宗 心蓮山 敬台寺』開創360年記念出版)
・敬台山法詔寺建立の翌年(元和10年)、仏像を造立す。(第17世日精上人著『随宜論』)
・日精 敬台院殿日詔の推挙により公儀の年賀に乗輿を免許せらる(寛永14年)
 ※この頃はまだ、日精上人と敬台院の関係は良好だったことが伺える。
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敬台院と日精の軋轢は、最初の登座から8年後、法詔寺造仏の15年以上後のことである。だから、軋轢の原因が造仏にあったとは考えられない。もし、造仏問題であったとすれば、法詔寺で許された仏像を、敬台院が大石寺にも寄進しようとして日精に拒否され、感情的になったと考えられる。「精師の山持ぶりに慊たらず」とは、まさに本山における日精の振る舞い(化儀)に対するものであろう。
1.法詔寺が建立された時点では仏像がなかった。
2.法詔寺において仏像が安置されて以降も、敬台院は日精を信頼していた。
3.日精上人と敬台院との間にヒビが入ったのは、寛永17年(1640年)頃であり、日精上人御登座より8年後、法詔寺造仏より約15年後のことである。
 ●法詔寺の住持は日詔にて候(敬台院日詔状・寛永17年頃『富士宗学要集』第8巻58頁)
  ※敬台院の慢心が文面に表れている。
 ●我等持仏堂には開山様の曼荼羅を掛け置申し候、此(精師筆)曼陀羅は見申す度毎に悪心も増し候まゝ衆中の内に帰し申し候
  (敬台院状・寛永17年『富士宗学要集』第8巻58頁)
4.日精上人時代の大石寺には、造仏や一部修行、色袈裟などの形跡がまったくない。
5.敬台院以外に、日精上人を批判する者がいない。
6.敬台院は、もともとは要法寺の信徒であった。
★以上のことから推測するに、造仏は、敬台院の意向によるものである。末寺においては例外的に容認した日精も、大石寺においては化儀の原則を貫く。そのために、敬台院との間に隙が生じたものと考えられる。しかも、敬台院が曼荼羅を拝んでいた事実から考えて、仏像は、中央曼荼羅の脇士であったことが分かる。

○常在寺:霊鷲山と号する。現在は豊島区南池袋に所在、日蓮正宗。
◇霊鷲山縁起:「夫れ当寺起立の濫觴は、本山16世常在院日就上人慶長10年(1605)頃、東叡山上草に庵を結び居住し給う処、百性細井治良左衛門と申す人、折節教戒を蒙り、本門下種の大法を信じ、帰依渇仰の思い日々弥よ増し、終に持ち分の屋敷を以って之れを寄附し、則ち是を常在院と号す。
その後、元和5年(1619)己未、東叡山御用地に付き上野庵地を召し上げられ、今に下谷村に於て替え地を下し置かれ畢ぬ。
此に於て元和の頃、一宇の精舎を営む也。而して寛永元年(1624)甲子本山より補任せられ院号を改め即ち霊鷲山常在寺と号す。
時に日就上人一宇起立の功成る。病身に成り給う故、冨士に引籠し、当寺に留守居を置き給う。
当寺の檀越僅か両三の輩、法燈立て難し。本山の合力を得て、寺役相勤むと雖も、追日、庫裏客殿大破に及び、之れに依って本山18世日精上人深く此の事を悲しみ、当地に諸縁ある故、本山を退院し、当寺に閑居す。昼夜に本門の要法を弘通し、爰を以って道俗は袖を列ねて帰依し、渇仰の男女は歩みを運び、終に受法得道し、各檀越と成り畢ぬ。然れば則ち精師の高徳に依って、絶を興し、廃を補い給う。仏法日々に威光を増し、法燈夜々に冥暗を照らす。」
大正7年下谷から雑司が谷に移転、空襲で焼失、戦後区画整理で現在地に移転。
 2011/10/29撮影:
  南池袋常在寺:偶然に門前を通過、たまたま撮影したものである。 写真に写る扁額には霊鷲山とある。

細草檀林の概要

 → 近世日蓮宗檀林>細草檀林 の項を参照


敬台院と日精上人及び細草檀林の成立:サイト「平成談林」 よりの要約
   (ページ:三鳥派と細草檀林 5〜8 の要約)

以下はサイト「平成談林」 よりの要約である。
 ※但し、本サイトの各ページの記載は出版予定稿「「三鳥派と細草壇林」のダイジェストであるため、要点のみが掲載される。
そのため、部外者である私(s_minaga)などには多少唐突な論点も出現し、理解不能な文面もあるのも事実である。
しかしながら、勿論、出版予定稿「「三鳥派と細草壇林」は諸史料に基づき厳密な考証が行われている骨太の力作に間違いはない。
それは要点のみの掲載と云えども処々に豊富な史料とその読み込みの深さを垣間見ることができるからである。
 (ページ:三鳥派と細草檀林 5〜8)

(1)サイト:「平成談林」>「三鳥派と細草壇林 5 日穏書の三鳥」 最終更新 2012/07/04 では以下のように述べる。

「日穏書」と称すべき文書が存在する。
この書は細草檀林成立の真の事情を解明する鍵となる文書と評価される。
 ※日穏は享保16年(1731)に細草に入壇、宝暦8年(1758)に細草52代の化主に就く。
 明和2年(1765)大石寺の35世貫主となる。明和7年(1770)退座。安永3年(1774)遷化(59歳)。
 ※「日穏書」は「三居院」(沼津市明治資料館が2000年に発行、原資は大石寺文書と云う)所収、
 但し大石寺の参考文献目録・歴代法主全書にはその記載がない。蓋し大石寺には不都合文書なのであろうか。
 「山居院」は三鳥伝説を追った研究誌・三鳥の史跡調査であると云う。
「日穏書」の抜粋は以下の通り。(「三居院」p23-24の記載を転用)
  ※雑誌「三居院」は明和7年(1770)頃の文書として紹介。
 「此外に三鳥宗門といえるあり、此宗門は内證事(ないしょごと)にて表立たざる邪法なり (中略)
 日秀沼田談林にて能化を勤め三朝院(さんちょういん)と云ふ。
 かくて談林万事相すみ一時に改宗して大石寺に帰入す。
 兼て精師(日精)も 其約束也(そのやくそくなり)。
 尓(しか)るに精師大石寺現住の折から三朝院を歴代にもなすべきかの思召あれども
 盈師(日盈)も得心し玉はず、又役者も壇頭(だんとう)も合点せず叶はず重なり、
 故に能化浪人にて住居に難儀し、江戸へ出て借宅して己情(こじょう)の邪義を弘通して
 大石寺の一大事の金口(きんく)は日精より我相伝せりなりと云て妄語を構へ日蓮の名字(みょうじ)を汚せり」
以上であるが、この書からは多くのことが判明する。
 即ち
三鳥派は邪法である。日秀大沼田檀林能化で三朝院と号す。その後日秀は大石寺に帰入する。
日精との約束事があり、大石寺歴代に推挙するも、日盈などの不同意で実現せず。能化浪人となった日秀は江戸に出、邪義を弘通する。
日秀は日精から大石寺相承を受けたと主張する。

「これを書いた日穏が細草に滞在した頃は祖恵事件の後で、玄信・玄了事件が起きた時期だから、まだホットな三鳥事件や細草創建の経緯の噂も聴けたはず」である。
 (「祖恵事件」とは不明、「玄信・玄了事件」とは享保16年(1731)玄了なるもの武州吉祥寺・成宗・関・田畑各村の農家などに
 三鳥派の教えを勧めたことが発覚したために玄了は遠島となったと云う<「日蓮宗教団史概説」>ので、この享保の事件を云うのであろう。)
「日秀への相伝は59世日亨が述べた日精・日舜間に実際に起きた相丞のトラブルの話である。敬台院の怒りの書と日穏書のこの部分から、日秀への相承の事実はあったと考えられる 」とするのが妥当であろう。
 2012/07/15追加:サイト「平成談林」氏より:
祖恵事件とは享保3年(1718)の三鳥派事件で三超主義を唱えた事が月堂見聞集に書かれ、その内容は「日本仏教史」にある。三鳥が法義である事を庶民が知っていた証拠となるものである。

ところで、上に掲載の「敬台院略歴」「寛永年中前後の年表」などにさらに付け加えれば
 寛永期に敬台院は大石寺の壇越となり、多くを寄進、大石寺をほぼ手中にした訳であるが、当初、おそらくは敬台院が推挙したと推測される第17世日精とは いわば「蜜月」であったが、寛永17年頃には日精との間で「軋轢」を生ずるに至る。
寛永17年「日精、隠居して江戸に出」とは「敬台院は日精を大石寺から追い出した」ということであろう。
即ち日精は「日目上人を広宣流布の導師とする三超主義で宗勢拡張を狙」い、さらには「日精と私度僧のチームワークがあった」のであるが、「敬台院はそれを嫌って日精を大石寺から追い出した」のである。
「その後も、日精は敬台院の威光を利用して私度僧を使って違法に布教を」なす。
その上「日精は更にとんでもない事をして敬台院を怒らせ、敬台院はその尻拭いに細草に壇林を提供する羽目になるの」である。

上記の「とんでもないこと」とは、以下の「朱印」の処置のことである。
寛永14年、敬台院は大石寺石寺には初めての朱印を申請」するも、その名義は「勝五郎・勝三郎」であった。
 (勝五郎は池田光仲、勝三郎は池田仲政で何れも、父は池田忠雄・母は三保姫であり、要するに敬台院の孫である。)
これは大石寺を勝五郎・勝三郎の所有にするという異例なことであり、大石寺を自分の寺とし、日精を排斥する意思と推測される。
その後、
寛永18年「寺請制度の改正のために全国の寺を一斉に点検する事になり、順次朱印を改める事が発令され」る。 
常在寺に居た日精は表向きの住職のままだったため、敬台院より速く情報を得られ、この時とばかり大沼田で能化をしていた日秀を引き抜き、大石寺に据えて朱印を取って 」しまうと云う挙に出る。
つまり、これを機会に日精は大石寺を日秀に相伝する行動に出たと云う訳である。
 (上述の「日穏書」に記されている通りである。)
  → このことは、さらに下に掲載の(3)サイト:「平成談林」>「三鳥派と細草檀林 7  謎の解消  前編」 でも述べられる。

(2)サイト:「平成談林」>「ページ:三鳥派と細草檀林 6  謎」 最終更新2012-07-04 では以下のように述べる。

細草周辺には由来書が2書伝わると云う。
その内の要行寺のものには「敬台院はニッシュウに帰依し、日秀は後に細草に取り立てられた」とあると云う。(ここでは日精と日秀とが混同されている。)
 ※もう1書とは良く分からない。
あるいは
現地には大沼田の壇林の学僧の争いが細草壇林の創設となったと伝わり、争いの原因は教義の解釈の違いだろうと云われていると云う。
 2012/07/15追加:サイト「平成談林」氏より:
もう1書とは「富士宗学要集」に載っているものである。 → 細草檀林の項を参照

以上が通説であるとして、細草檀林の詳細を調査すると、「細草壇林の謎」とも云うべきことが浮かび上がってくる。
  l なぜ富士派の新檀林が、支える檀徒のいない、富士派が争っている相手の地、細草なのか、またそこに創れたのか。 
  l 教義解釈の違いが争いの種なら、その相手流派から初代能化を迎えた理由(わけ)、 
  l 創建時の功労者伝了(日崇)が二代にならず、(勇猛院)台雄日秀が能化に急抜擢された理由、
  l 大石寺貫主日精が壇林創設に一切関わらなかった理由、
  l 其れにも拘わらず、細草の本尊が日精書写であった理由、
  l 要行寺の壇林由来書が日精・日秀のエピソードを同一人物日宗として混乱した理由、
  l 廃壇の際に大石寺が権利を主張しなかった理由
    などである。
これ等は一体何を意味するのか、学僧の争いの背景に何があるのであろうか。
これ等の謎を解決するヒントは前項の「日穏書」にあるのである。
即ち
「寛政迄は大石寺に事実として伝わっていた日穏書だが、その『約束』の言葉には日秀引き抜きの要素が隠れていた。
日穏が書いたアウトラインを寛永の事績に照らし合わせると、一筋の矛盾のない流れとなり、源は細草迄遡った。」ということである。

参考:
「細草壇林由来書」要行寺蔵・・・・・ ※以下の掲載しかなく、詳細は不明
次の一節があると云う。
  「大沼田壇林学校において
  所化ども入交十八人流浪致し
  日宗日達沼田壇林に夫れ迄師範も致しに付、新壇林に取り立て 云」
ここで云う「日宗(ニッシュウ)は勇猛院日秀で、寛永18年に日精が彼宛に超三の法義を書いた物を、後に日精自身が私度僧の教科書にアレンジし直して私度僧達に与え、大くの信徒と3か所の寺院を市中に増や」す結果となる。その写し回しが巡り巡って宝永3年に捕えられた私度僧から押収されたので」ある。
 宝永の事件では
「私度僧らは捕縛当日『超三の法義僧』と呼ばれていた事が、中村雑記から解ってい」るのであるが、「三超法義が三鳥という架空の僧の名となり、70年後 (宝永の事件)にその三鳥に日秀の日号が結び付いたのは、その書の宛先が日秀だった事が原因で」あったのである。
「日精は他門流から引き抜いた日秀のために大石寺独自の法門を書きまとめたので」あるが、「その後それを写して私度僧の教科書にしたので」あった。
 さて「細草壇林由来書」には「日精、日秀、日崇の三人がミックスされて、すべてのエピソードが日宗(ニッシュウ)一人の名で伝」わる。
「それは 1つは 敬台院が日宗を法詔寺の住職にした事、  これは日精で」ある。
「2は 大沼田で師範をしたので細草2代に取り立てた事、   これが日秀で」ある。
「3に『日宗より敬台院様江申上げ奉り候処」と、壇林の創設に功をなした事を日宗と』する。 これは日崇が行なった事で」ある。
 「日崇はニッシュウとも読めるので日宗と書かれても不思議ではない」が、「日精のエピソードが日宗として混じるのは、日精・日秀が引き起こした大沼田の事件が細草創建の原因 」であるから、「日精の噂がどこかに入り込むのは当然の事で」あろう。 
「敬台院は当初は日精の後見でした。 その敬台院が細草の願主ですから、日精もニッシュウの一人としてミックスされたので」ある。
「日秀が細草2代に入らず、後付された謂れのように三鳥院となっていたら、決してこの由来書の内容は在り得」ないであろう。

(3)サイト:「平成談林」>「三鳥派と細草檀林 7 謎の解消  前編」 最終更新  2012/06/29 では以下のように述べる。

細草の謎のうち、「なぜ細草なのか」と「解釈で争う相手から、初代能化を迎えた事」や「日精が拘わらなかった事」等は原因が一つ」と云える。
「争いの原因として伝わっているのは学僧間の法義解釈の違いという事になって」いるが、「この時寛永18年初頭、日精は江戸の常在寺に居」る。それは大石寺壇越敬台院から嫌忌されていたからであることは前述の通りである。

「寛永8年(1631)大石寺が焼け、敬台院に救いを求め」る。
「敬台院は大石寺を自分の菩提寺にしようと決意し、自分の寺の本堂を焼けた大石寺に移設」する。
 (この文意は、敬台院寄進とされる大石寺御影堂は浅草鳥越法詔寺の本堂を移建との伝承があることに対応するのであろう。)
「寛永14年に敬台院は大石寺石寺には初めての朱印を申請」するもその名義は「勝五郎・勝三郎」であった。
 (勝五郎は池田光仲、勝三郎は池田仲政で何れも、父は池田忠雄母は三保姫であり、要するに敬台院の孫である。)
これは大石寺を勝五郎・勝三郎の所有にするという異例なことであり、大石寺を自分の寺とし、日精を排斥する意思と推測される。

「一方(常在寺)住職だった日精は鳥越法詔寺から移設した本堂に「本門戒壇本堂」と名付け、敬台院の威光を傘に私度僧達を使って当時は違法な宗教布教の活動を始め 」る。 
「それは敬台院の意向に遭わず」、このことも、敬台院をして日精を排斥させた原因の一つとなったのであろう。

そんな折、寛永18年「寺請制度の改正のために全国の寺を一斉に点検する事になり、順次朱印を改める事が発令され」る。 
常在寺に居た日精は表向きの住職のままだったため、敬台院より速く情報を得られ、この時とばかり大沼田で能化をしていた日秀を引き抜き、大石寺に据えて朱印を取ってしま」うと云う挙に出る。
 (上述の「日穏書」に記されている通りである。)
「敬台院は寺を盗られたので烈火のように怒」り、その様子は『富士宗学要集8巻』の手紙に良く表れてい」る。

「ともあれ一旦法詔寺後住、戌の刻、彼の仁(ひと)、この寺に下られ候ては世間の外聞も良く候らわん。成る成らず何もの、訴訟の通り仰せ越し候、(中略)ご公儀より一門の者共御手打ちになされ候とも覚悟に及ばざる事に候」
「彼の仁(人)が後住として、夜八時(人目の少ない時間帯)でも、この寺に入られては世間の外聞も良くない」、と「彼の人」の表現からは日精が許されない方法で日秀を引いた事が読み取れ(略)る。

一方「大沼田の日秀を引き抜いた事で大沼田が無住となり、廃寺にされる恐れが出て」くることとなる。
「そこで学僧たちに争が起き、富士派と日秀の妙蓮寺派の学僧達がいたたまれなくなって大沼田を出て、1キロ程南の細草に(略)いたところを、地元の儒者と百姓たちが救いの手を差し伸べたので」あった。

「当時新寺の建立は禁止で」あった。「また日精を排斥して」いたため日精を「関わらせること等は」出来なかったということであろう。
なおかつ
「細草には新たに本尊が必要で」あるが、「『日精の本尊など見る度に悪心が増す』と書いた敬台院で」あったから、「鎌倉の自寺、鏡台寺を細草に移動して遠霑寺としたので」ある。

かくして「遠霑寺は大沼田に代わる富士派、妙蓮寺派の壇林として鷲山寺に提供」されたのである。
そこで鷲山寺(鷲山寺18世)から初代智泉院日達が能化に入寺する。
なお
◇二世は妙蓮寺18世勇猛院日秀
◇三世は妙蓮寺20世信入院日崇 である。

(4)サイト:「平成談林」>「三鳥派と細草檀林 8 謎の解消  後編」 最終更新  2012-06-29 では以下のように述べる。

残る謎は以下である。
 l 創建時の功労者伝了(日崇)が二代にならず、(勇猛院)台雄日秀が能化に急抜擢された理由、
 l 要行寺の壇林由来書が日精・日秀のエピソードを同一人物日宗として混乱した理由、
 l 廃壇の際に大石寺が権利を主張しなかった理由

○まず伝了日崇(信入院日崇)について
日崇は江戸の出身、京妙蓮寺にて「日秀の後輩」で、年齢は「9歳下」である。
「大沼田壇林から日秀が突然抜けて騒動」となっていた時、「法詔(寺)に入っていた(顕寿院)日感を通じて敬台院を動かし、細草壇林創立の願主を引き受けてもら 」う動きをする。
「日崇は開談以来番頭を続けていましたが、日秀の後細草の3代能化を務め、京へ上って妙蓮寺20世となり、江戸に帰って、寛文二年(1662)吾妻橋清雄寺の寄進を受け、元禄2年に75歳で其処に没しました。 」
 なお、信入院日崇に縁の寺院として以下がある。
・江戸本所吾妻橋清雄寺:寛文2年(1662)創建。(但し、老中酒井忠勝が下屋敷内に建立、日崇上人に寄進とも云う。)覚英山。妙蓮寺末か。現在は本門佛立宗。
・江戸西久保
乗泉寺:元和年中の創建、妙蓮寺末。現在は本門佛立宗、妙証山。西久保から元禄の頃麻布へ移転し、戦後渋谷に移転する。

○勇猛院日秀について
細草檀林の創建の前後、日精は江戸に住居し、大石寺には住職として日秀がいたはずである。(「日穏書」の通り)
しかし、
「大石寺に入っていた大沼田檀林から来た日秀は、日精に翻弄されたのであって罪は」ない。
「よって日秀の行きどころとして細草の能化職が提供され、そこに就いた」のである。
勿論「これは当時讃岐に移った敬台院の了解なしに出来ることでは」ない。
 「その後日秀は後に京へ戻り、妙本寺を経て、数年間妙蓮寺歴代18世に就」く。
 (寛文3年(1663)日秀遷化。58歳。)

ところで、日秀が当時大石寺にいたことは駿河富士郡「半野村妙経寺に残る伝えが傍証」となるであろう。
「妙経寺は日シュウの指示で弟子日習が初代として創建した事に」なっている。
「妙経寺の伝承に、初代本立坊日習が、師ニッシュウの指示で正保元年四月に寺を開いたとある。(半野区誌)」
「妙経寺は隋宜論の帰伏寺院のリストに入って」いるので「仏像が祭られた事も」解る。
「帰伏寺院リストにある寺なら、時期的にも日精・日秀ラインの指示は疑いない。」 
「半野地区は、むかしから大石寺の影響下にあった。域内にあった唯一の寺は、大石寺末の半野山妙経寺(正保元年創建、明治28年愛知県へ移籍)で、村のほとんどが檀徒だった。 」
 この当時富士門流で「ニッシュウ」といえば、勇猛院日秀が該当する。しかも半野村は大石寺の影響下にある。
「(奉行所の)裁定の後、なかった事になった日秀の歴代就任だから、妙経寺創建の指示が、同じ読みの日就という事に話が変わって伝わった事は自然の流れである。 」
 (※日就という事に話が変ったとは意味が不明。)
 2012/07/15追加:サイト「平成談林」氏より:
 半野区誌には日就の指示となっていて、寺院建立は死後13年後の事であるから、ニッシュウは日秀であろうと推定される。
「その後、脱日精路線で妙経寺は仏像類の廃棄のみならず、本尊迄も日典の板本尊に換わっていたから、日秀の可能性はより高い。
檀家十戸で始まった半野妙経寺は正保二年の日舜への相承裁可で影響を受けたのだが、その後の三鳥派禁止の影響か、結局完全に廃れてしまった。」「その後、享保十一年に大石寺日詳が同じ村内に移転再興し明治まで残ったが、神仏分離令で無寺院の廃寺を逃れるため、寺蹟は愛知県に移転された。 」

以上で残りの謎は解決される。

参考:なお、妙経寺に関して次のようなWeb情報がある。
 かつて(半野村)妙経寺のあったところは、妙経寺移転の後に大石寺が「御影堂」を建てたが、いまは金毘羅神社になっている。金毘羅神社の中には、「向かって右から板曼荼羅をご安置したお厨子、日蓮大聖人の御影をご安置したお厨子、真ん中が社造りの小さな神社でそれが金毘羅さんだろう。そして左端のお厨子は戸が閉まっているが、なかに板曼荼羅がご安置してあるという。
 御厨子の中には、総本山大石寺第二十世日典上人と第五十一世日英上人の板曼荼羅が安置されているということだ。
 そしてこの「御影堂」の正面入り口にはしめなわが張ってある。また、毎年九月九日にはここで秋祭りがおこなわれる。
 この村には、「文殊堂」という三坪程度の小さな神社のような建物があるが、ここには大石寺第六十二世日恭上人の板曼荼羅が安置されており、八月の祭りのときは、この板曼荼羅の前に文殊菩薩の絵像を紐でひっかけて拝む。この堂の正面にもしめなわがかけられ、賽銭箱もある。
現所在地は小牧市小木4丁目14と云う。

「最期に明治の細草廃壇の時に大石寺が何も権利を主張しなかった事は、遠霑寺が敬台寺の移転で、最初から鎌倉鏡台寺が大石寺の末ではなかったから 」である。
「細草は、日精が起こした事件の穴埋めに鷲山寺に提供された談林で、敬台院の寺、法詔寺との共同経営であった事で、大石寺には一度も末寺登録もなく、元々権利は無かったの 」である。

(結語)
以上、サイト「平成談林」の「三鳥派と細谷檀林」の各ページでは細草檀林創建の事情を過程を敬台院と大石寺日精との軋轢の中に求め、それを論証している。
もう一つ
本「三鳥派と細谷檀林」ではいわゆる「日蓮宗三鳥派」について通説を覆す新説を論証する。
その新説とは、いわゆる三鳥派は三鳥院日秀が祖とされるも、その三鳥院は実在の人物ではないと云うものである。
三鳥院日秀とは実は細草檀林創建の契機となる敬台院と大石寺日精の軋轢に端を発し、後に宝永年中の三鳥派事件が発覚したときに冨士派(興門派)により「 創作」された人物であることを論証する。
 →この論証については、下に掲載の「三鳥院日秀に関する考察(三鳥派に関する通説批判、三鳥派に関する新説)」の項を参照。


三鳥派(三超派)などの一般的理解(通説)

○「日本佛教概史」宇井伯寿、昭和26年 では僅かに下記の1行のみの記述がある。
 宝永3年(1706)三鳥派を禁じ、享保3年(1718)三鳥派の祖恵遠を配流する。

○「日蓮宗教団史概説」影山堯雄、1959 ではやや詳しく以下のように述べる。
 延宝8年(1680)大石寺19世日精隠退して江戸下谷常在寺に在住中、発心者入門して三鳥と称し習学4・5年、然るに法義違背のため破門せられ、三鳥院日秀と自称し、江戸並びに相・豆・駿各地に教を弘め る。
宝永3年(1706)幕府は新義異流として検挙し、翌年僧7人を遠島、18人を脱衣追放に処した。
享保16年(1731)玄了なるもの武州吉祥寺・成宗・関・田畑各村の農家などに 三鳥派の教えを勧めたことが発覚したために玄了は遠島となったが、異議の申立が容れられ、改宗の上、所払いに処せられ、外護者・組頭・名主など関係責任者を所払い・戸締め・過料などに処し、告訴した名主・組頭等を賞した。」

○サイト:「日蓮正宗入門」
当事者であった日蓮正宗のサイト:「日蓮正宗入門」> では、そのサイト中のページ「日蓮正宗の歴史 江戸時代」の「異流儀の派生」で、以下のように述べる。
 即ち
「富士門流の信仰は、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊を根本とし、大聖人・日興上人以来の歴代法主上人に師弟相対して信行に励むことを旨とします。しかしながら江戸時代において、この信仰の筋目から外れて異流義と化したものに「三鳥派」「堅樹派」があります。」
「三 鳥 派」
 「三鳥派」は、江戸時代初期の寛永年間(1630年代)に、三鳥日秀が起こした異流義の一派です。
日秀ははじめ、江戸常在寺において第十七世日精上人に帰伏し、数年の間は随順していましたが、後に大石寺の法義に違背して異流義を主張するようになりました。
 日秀の没後、三鳥派の一潮日浮は、自己を日蓮大聖人に匹敵させるのみならず、さらには大聖人を超克しようとし、自らを無辺行菩薩の再誕と名のりました。 (中略) この三鳥派は・・・独自の呼吸法と神秘的な利益を売り物にして、江戸後期には一時的に隆盛しましたが、幕府により禁制の不受不施派と同様であるとされ、中心者らは死罪等の刑に処せられて江戸末期に壊滅しました。」

○サイト:斧節【onobusi】>「仏教史」中>
「異端と正系」というような観点から見て、Webサイトにある以下の見解は極めて妥当なものと思われる。
サイト:「大石寺の「寺社奉行」的構造 江戸期にみる創価学会破門の源流 1」 では
「三鳥派は大石寺18世の了源日精(1600-83)の愛弟子だった三鳥院日秀を派祖とするグループだが、寛文年間(1661-73)に初めて邪法として <仕置>された。」
「いま、わたしの机の上に一冊の本がある。堀日亨/編『富士宗学要集・第9巻 資料類聚2』(創価学会、昭和53年12月刊)である。・・・そこには「上編 第十章 異流義」として、三鳥派と堅樹派のことが紹介されている。 (中略) ここで注目しなければならないのは、この本が大石寺法門の異端派を「異流義)」の名辞でよんでいることである。じつは、江戸時代、仏教各派の本山は自己の内なる異端の発生を、「新義異説」とか「異流義」として寺社奉行へ告発すれば、切支丹や不受不施や、三鳥派でなくても「遠島」にしてもらうことが可能であった、という事実である。」
同じく:「大石寺の「寺社奉行」的構造 江戸期にみる創価学会破門の源流 2」 では
「江戸時代、大石寺を含めた日蓮宗〈各派〉の本山は、おのれの反対派を異端として葬りたければ、幕府権力である寺社奉行にたいして、誰某は三鳥派であると告発すれば、反対派は〈異流義〉中の〈異流義〉として粛清されてしまうのだ。」
とある。


三鳥院日秀に関する考察(三鳥派に関する通説批判、三鳥派に関する新説)
    :サイト「平成談林」 よりの要約

       (ページ:三鳥派と細草檀林 1〜4及び9 の要約)

サイト「平成談林」では以下に要約するページで「三鳥派」の祖とされる「三鳥院日秀」は実在 しないことが論証される。

(5)サイト:「平成談林」>「三鳥派と細草檀林 1 三鳥院はいなかった」 では以下のように述べる。

 結論:三鳥院日秀は三鳥派の祖とされるも、実在の人物ではない。
つまり「その名前は徳川幕府の『柳営日次記』の『於評定所御仕置』に『三鳥』が初めて登場」するが、それは事件を政治的に処理する目的で、私度僧達の架空の師、 『三鳥』が創られ」たものである。 
 宝永3年(1706)10月18日、「三鳥派」僧七・八人が捕縛される。
これを伝えた「中村雑記」には チョウサン(鳥三・鳥山と記録)の法義僧と書かれていると云う。
 では「チョウサン」とは何か。
ここで云う「チョウサンの法義」とは 「大石寺三世日目は宗祖日蓮を超えた存在」とする法義であり、略して「超三」または「三超の法義」と呼ばれる。この「超三」の法義は大石寺18世日精が古い大石寺の謂れをアレンジしたものとも云う。
捕縛された僧侶らは、逮捕の当日「不受不施」ではなく、大石寺系の「超三の法義」を弘めている事を申し立て、古い日精の書を教科書にしていた物証(書籍)が在ったから「チョウサンの法義僧」と記録されたのであろう。
 「『於評定所御仕置』に現れた『三鳥』は人名で、三超の語呂合わせで創られた架空の人物」である。
「(三鳥)既に無くなった(故人)とされましたが、それは法義を不明とするための言い訳でもありました。」と云うわけである。
要するに、この「異流義」には深く大石寺が関係しているのである。
 ところで、当時の将軍は5代綱吉であったが実子がないため、甲府宰相綱豊(後の家宣)が次期将軍と決まっていた。その綱豊の正室天英院(近衛煕子)は日蓮正宗常泉寺の信徒であり、その後常泉寺住職が大石寺歴代に晋山したため、大石寺の大檀越となる。
 (大石寺の三門は天英院の寄進である。)
 (常泉寺は現存する。)
この宝永の「事件はその大石寺の日精の新義異流の書が関係していたので、事が天英院が檀越の大石寺に及ばないようにとの、政治的計らいから、寺社奉行は私度僧を直ぐに釈放したので」ある。
「そこで超三の法義から架空の僧三鳥を考え出し、その教義は僧三鳥の邪義だが、本人は既に死亡して不明であるとして、大石寺の関与を一切伏せる処置とな」ったのである。
以上が、「政治的処置」という所以である。
 さらに時代は降り、寛政3年(1791)7月「当時金沢で起きた隠れ三鳥派と見られていた大石寺系信徒の事件で、江戸の寺社奉行所が不受不施と三鳥派に関する質問を当時の日蓮宗触れ頭に問い」、「その質問に合わせて、初めて『三鳥院日秀』の物語が創られ、公に報告された」と云う。つまり三鳥は「日精に逆らって独自の邪義を布教し始めた事にして、だから大石寺は無関係だとしたので」ある。
 「更に54年後、弘化事件(1845)の際に大石寺隠居の日量によって話はリメイクされました。」ということになる。

参考;常泉寺
「新編武蔵風土記稿」常泉寺縁起
法華宗駿河国富士郡上條村大石寺末、久遠山と号す。本尊は本山25世日宥の筆せし三宝の板本尊を安す。開山は六老僧日興上人にて、開基は仙樹院日是と称す。慶長元年当寺を創し元和 7年6月28日死す。(略)
正徳元年6月御本末御客御殿を賜て書院とし、同4年天英院殿思召を以本堂御造営及び客殿経佛具等一色寄附したまひ、同年又本堂建立のためとて金1500両を下し賜はり。宮殿経机四十部天蓋一色御造立ありしと云。(中略)
寺中:法種坊。本行坊(本行寺)。本住坊。壽法坊。啓遠坊。(以上「新編武蔵風土記稿」より)
日蓮正宗の中では古刹であり、末寺筆頭であり、近世では「末寺頭」と呼ばれる。
なお、常泉寺旧本堂は昭和36年、千葉市日蓮正宗清涼寺へ移築と云う。

(6)サイト:「平成談林」>「三鳥派と細草檀林 2 初期資料とポイント」 では以下のように述べる。

次の「初期資料」の例示とその「ポイント」の解説がある。
事件は九月から十二月迄の三カ月の出来事である。
○宝永3年(1706)九月下旬、身延山日亨と江戸日蓮宗触れ頭三か寺が連名で奉行に不受不施もどきの布教をする私度僧達を訴える。 
 (訴状の資料は残らず)
○10月5日付で大石寺末常在寺が富士派の簡単な流儀書を提出。(富士宗学要集 9−218)
○10月18日 チョウサンの法義僧7・8人が捕縛されるも、入獄は御免とる。(中村雑記)
○11月4日  大石寺日永が江戸の常在寺宛てに指示を出す。(与長遠坊主状)
 (日精の書物がつまり大石寺に関わることを認める。)
○日付のない一札 : 11月下旬〜12月初旬か、 (常在寺の一札 富士宗学要集 9−218) 
○12月19日  於評定所御仕置  (柳営日次記)  
 これには後日の追記があり、三鳥は追記部分に11回出てくるがここには院号はなく、三鳥は個人名であると断言できる。

(7)ページ:「三鳥派と細草檀林 3 初期資料の読み方」 では以下のように述べる。

再度、宝永の事件の史料の読み方の指針が示される。
 宝永の事件(いわゆる「三鳥派事件」)では大石寺日精の著した「超三の法義」書が明るみにされ、大石寺の大檀越が天英院であることから、事は大石寺と無関係であると云う政治的配慮がなされたことに留意する必要がある。
ところで、そもそも日精の著した「超三の法義」書とはどのようなものなのか。
事は寛永年中の敬台院と日精の「軋轢」に遡る必要がある。

寛永年中の敬台院と日精の「軋轢」は、日精による大沼田檀林所化の(勇猛院)日秀の引き抜き、さらに日秀を大石寺相伝として大石寺に登らせる日精の動きとなる。
この日精の企てが頓挫した結果として、細草檀林は創建される。

いわゆる「宝永の三鳥派事件」では評定所の仕置で「僧三鳥があらわれ、禁止宗派の三鳥派が」創り出される。
 (これが、江戸期を通じ「金沢の信徒」を苦しめ、かつ大石寺への荷重となっていく。)
この事件で押収された書は日秀に宛てた書だった事から、日穏の頃にはその勇猛院日秀が三朝院にされていた。
日穏の略歴は享保16年(1731)に細草に入壇、宝暦8年(1758)に細草52代の化主に就く、明和2年(1765)大石寺の35世貫主となる 、明和7年(1770)退座。安永3年(1774)遷化(59歳) というものであるから、宝永3年(1706)の三鳥派事件の後約半世紀後には日秀が「三朝院」とする「物語」が創られたようである。
 →詳細は上に掲載の(1)サイト:「平成談林」>「三鳥派と細草壇林 5  日穏書の三鳥」に記載の通りである。
 この書は日精と日秀との関係がほぼ脚色なく表されているものと判断される。

備忘:
・「処理のために八月の葬儀を想定して妙蓮寺を犠牲にしたが、まさか七十年程後に勇猛院日秀が引きあいに出されるとは想像もしなかっただろう。 」の八月の葬儀、(下條?)妙蓮寺を犠牲とは意味不明。
 2012/07/15追加:サイト「平成談林」氏より:
於評定所御仕置の妙蓮寺の罪状は三超の葬儀埋葬である。有りもしない葬儀埋葬で犠牲にされたので妙蓮寺日性は犠牲となる。三鳥は日付なしの(宝永三年)八月死亡とされる。

・「下条妙蓮寺の過去帳の宝永三年八月一日没のもう一人の日秀」あるいは「その日秀は、後に妙蓮寺は本学院日秀と書き直し、その後は過去帳から消えた。」 とは意味不明。
 2012/07/15追加:サイト「平成談林」氏より:
葬儀の罪に問われた下条妙蓮寺には宝永事件当時の過去帳はないが、日秀とだけ載ったその後の過去帳が2冊あり、3冊目の更新時に本学院日秀とされて、それ以降の更新過去帳からは(本学院)日秀は消えて、2度と表れない。

(8)ページ:「三鳥派と細草檀林 4 日量のレトリック」 最終更新   2012/07/04

このページは少なくとも私(s_minaga)には難解である。

その理由は、ここで主題となっている大石寺日量の金沢信徒宛の手紙は未見であり、かつその概要や断片もほとんど分からないからである。
それに加えて、これ等のページはダイジェストであり、そのダイジェストの中に「日浮事件」「日浮」「円融院了達日梧」
「無辺行の本尊」「本因妙」「常在寺の返答書」「西山本門寺末の残したという同じ趣旨の質疑応答」「生田五郎兵衛、了達日悟、因果両妙」
「妙蓮寺を犠牲」「富士門八か寺の回し文」などなど、ダイジェストの文中に突如出現し、しばしば理解不能になる。
従って、本ページの要約は断念する。

細かい点は別にすれば、
「現在の日秀と三鳥派イメージは江戸に居た隠居日量を中心にリメイクされた虚像である事は読者に理解されただろう。」
とあるので、おそらくは日量によって、現在の通説である「三鳥派」あるいは「三鳥派は三鳥院日秀によって流布された異端」と云う通説が創られたというのがその結論であろう。
但し「三鳥派事件」は「法難」との位置づけにも変更を加えていると結論づける。
勿論、このページの要点は大石寺日量が金沢の信徒宛に書いた手紙(「富士宗学要集・9」219頁所収)の解釈であると思われるので、また別の意図があるのかも知れないがそれは良く分からない。

参考:大石寺48世日量略歴:
 明和9年(1771)富士上条にて生誕。
 寛政元年(1789)細草檀林に入檀。 寛政9年京九条住本寺住持。
 文化5年(1808)細草檀林80代化主。同年江戸下谷常在寺住職。文化12年大石寺学頭。
 文化14年大石寺48世として登座。文政3年(1820)退座。
 天保元年(1830)日量ふたたび登座。翌年退座。
 天保11年(1840)江戸常泉寺において天英院殿100回忌法要執行。
 嘉永4年(1851)遷化(80歳)。

参考:金沢法難
 加賀・能登・越中を領する金沢藩では、第五代前田綱紀の勧めにより、江戸屋敷(下谷常在寺の付近にあったと云う)の家臣が常在寺で日精の説法を聴聞し、家臣の中に教化されるものが出てくる。その後、大石寺に帰依する信者は領内にも弘まる。
享保8年(1723)前田吉徳が第6代を襲封すると、方針が転換され、幕府の宗教政策に従い、領内に末寺がない大石寺信仰は寺請制度に抵触するとされる。
 享保11年(1727)加賀の法華宗慈雲寺の了妙が富士門流に改宗、慈雲寺は寺社奉行に提訴し、その結果、大石寺への信仰は禁止・内信も停止される。(藩内の大石寺信徒は数千人に達 すると云う。)
 大石寺では寺院建立と解禁を度々金沢藩江戸屋敷に願い出るも、その都度却下される。一方では禁教の中でも弘教は続けられ、十数の講中が生れる。藩では、元文 5年(1740)、寛保2年(1743)、明和7年(1770)にも禁止令を発し、これに背いた理由で講中の多くの信徒が入牢・閉戸などの刑に処される。天明六年(1786) には大石寺信徒足軽小頭竹内八右衛門が牢死する。
この禁教は明治維新まで続けられる。
明治12年、二百数十年の後、金沢の地に妙喜寺が建立される。
なお、この法難は、能登妙成寺が、加賀藩に虚偽の答申をなしたことに起因するとの見解もある。

(9)サイト:「平成談林」>「三鳥派と細草檀林 9 日量が手紙で言いたかった事」 最終更新 2012-07/05  では以下のように述べる。

このページも少なくとも私(s_minaga)には難解である。

難解ではあるが、次に示す「文言」が印象に残る。

「日量の手紙に戻って、簡単に三鳥事件を総括します。」
「三超(鳥)派のイメージのスタンダードとして「富士宗学要集・9」219頁に 大石寺の日量が書いた金沢の信徒宛ての手紙というものが」ある。

「新装大石寺を本門戒壇寺として、本尊開帳を売りにすることに敬台院も積極的であったなら、日精とはゴールデンコンビになれたのだが、育ちも信仰のスタンスもまるで違う敬台院は日精の経営方 針を嫌って直ぐに日精を追い払った。
 門中放ちとなり、超三の己儀を弘めた三鳥、それに該当する者は、オーナー敬台院から大石寺・法詔寺を追われ、江戸で三超を弘めた日精しかいない。」
 
「実際に三鳥(超)派が日精派だった事は周知の事であった。調べれば調べるほど、三鳥院は日精のイメージそのものとなる。」

「日精に翻弄され、大沼田から来た日秀は大石寺を出なければならなくなりましたが、敬台院は彼を細草壇林の2代目の能化に就け、その心の大きさを見せています。」

 2012/07/15追加:サイト「平成談林」氏より:
日量の手紙の要は「三鳥派は大石寺法門の大事『本因妙』を弘めて法難に遭った」と云うところにある。ところが大石寺は日精を歴代としているので日秀を逆らった悪者にしたまま、大石寺の「本因妙法門」を弘めて法難に遭った正義の団体としなければならなかったのであろう。
なお、日量のこの手紙は 弘化の三鳥事件とされる一潮日浮事件で「本因妙」の説明を求められたという舞台設定で書かれているが、コ川禁令考後聚の日浮の事件では「本因妙」は話題にすらなっていない。この事と、その舞台設定の中の役寺本妙寺からの設問は、常在寺から仕向けられ、本因妙の質問は「本因妙」自体がでっち上げだろうとも推測される。

要するに「三鳥院はいなかった」ということが三鳥派に関する論考の結語である。
そして、
この論考は敬台院、大石寺日精、勇猛院日秀、細草檀林創建、異端「三鳥派」など の人物・事件が因果関係にあるということを考察したものであり、それはいわば近世の冨士門流の長大な歴史を構成する一要素であることを示すものなのである。


(10)サイト:「平成談林」>三鳥派と細草檀林 10 寛永の創価学会 最終改訂  2012/07/07

以上長い要約になるも、要約を終って見れば、上記(10)のページが掲載される。

当ページでは、拙い私の要約より、すっきりと簡明に要約されているので、このページを最初にご覧頂くことを願う。


2012/07/10作成:2012/07/15更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系