(池上本門寺日樹関係石塔) 池上本門寺日樹五輪石塔・寿福院逆修十一重層塔・正応院逆修十一重層塔・浩妙院殿供養十一重石塔
1、十一層塔:元和8年建立 2、五輪塔:寛永3年閏4月3日建立 3、十一層塔:寛永3年7月5日建立 4、宝篋印塔:寛永6年正月4日建立
5、五輪塔(在比企谷妙本寺) 1〜4は池上本門寺、5は比企谷妙本寺にあり。 これらの石塔については、日樹上人伝>10)餘 録 に別途、解説あり。
◆日樹上人五輪塔(池上本門寺)
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
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日樹上人五輪塔/浩妙院供養塔:左図拡大図
明治中期、手彩色写真、池上本門寺蔵
戦前には清正公堂と鐘楼との間にあった。
戦後、「五輪塔」は現地に残るも、「浩妙院供養十一重塔」は五重塔北側に遷される。
五輪塔は、今次大戦で大きく損傷し、現在では五輪塔の銘は火輪背面(ちょうど中央の三角錐あるいは四角錐)の「日樹(花押)」と各部に奉加者の交名を残すのみであるが、写真では、「妙法蓮華経」の文字と「寛永(年は判読不能)」の年紀が見て取ることができる。
浩妙院殿は前田利常女・徳川秀忠養女・森忠広室である。
※従って、前田利常生母寿福院は浩妙院の祖母に当たる。
寛永3年(1626)森忠広室「亀鶴」は徳川秀忠の養女となって森忠政の嫡子忠広に嫁す。しかし寛永7年(1630)僅か18歳にして逝去する。
なお、浩妙院墓所は能登滝谷妙成寺に祖母壽福院墓所近くに並んである。
※※浩妙院殿供養塔十一重石塔については、本ページの下に掲載。 |
大堂の西南側端・霊宝殿の南に位置する。
寛文7年身延池上対論、同年日樹上人は信濃伊奈に配流される。上人は池上・比企谷両山より除歴。
その後,幕命により池上には身延日遠が入山、
池上本門寺は身延に接収される。
(身延に接収されるも、往時、五輪石塔を破棄するような蛮行は無かったものと推測される。)
しかし、五輪石塔は今次大戦で相当な損傷を受け、現姿となる。
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2009/10/17撮影:
五輪塔:総高約4mを測る。
五輪塔上3重:左図拡大図
上から3重目(火輪)斜面に日樹上人の花押が残されているという。
五輪塔2重:数百名の奉加者の名前が刻み込まれているとされる。
五輪塔初重:数百名の奉加者の名前が刻み込まれているとされる。
2007/10/23追加:
上から三段目の火輪斜面に「日樹(花押)」と刻まれると云う。
日樹五輪塔三重目:
「日樹(花押)」の刻が斜面にあるのかどうか不明。
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2023/05/25撮影:
日樹聖人五輪塔1 日樹聖人五輪塔2 日樹聖人五輪塔3 日樹聖人五輪塔4
日樹聖人五輪塔銘1 日樹聖人五輪塔銘2
日樹聖人五輪塔銘3 日樹聖人五輪塔銘4
○日樹聖人銘文層塔2基
「日樹聖人傳」より:
池上本門寺境内に2基の日樹聖人銘文層塔が残る。
池上本門寺貫主中ご建立の石塔:「絵で知る 日樹聖人伝記」著者花田一重画 より転載:
向かって左が「壽福院逆修十一重層塔」、右が「正応院逆修十一重層塔」を描く。
◆壽福院逆修十一重層塔:(前田利家室・前田利常生母)
○「日樹聖人傳」 より
元和8年(1622)建立、関東大震災にて倒壊・五層<六層>残存。
銘文正面:「斯十一層石塔起立、大願主加賀能登越中並領太守宰相卿御母逆修、法号曰寿福院殿日栄、即是道場高顯也」
右側:「開眼導首者両山第15世日樹欽誌之」
左側:「元和第8壬戌暦彌生十三日。天保4巳年十月修復之」 ※元和8年(1622)、天保4年(1833)
2009/10/23追加:
元和8年前田利家側室(前田利常生母)寿福院自身の逆修供養のために建立。天保4年(1833)は修復銘。
寿福院逆修十一重層塔 寿福院逆修十一重層塔初重1 寿福院逆修十一重層塔初重2
2023/08/01追加: ○「伊那郷土文化10 日樹上人の研究」山田居麓、山村書院版、昭和16年 より
今は下層六層のみ存するも、元来は高1丈8尺ほどなりしならん 2024/04/25追加: 壽福院廟所は能登滝谷妙成寺にある。
→壽福院については滝谷滝谷妙成寺>壽福院を参照
また、壽福院逆修塔は比企谷妙本寺、四条妙顯寺にもある。 元和8年(1622) :池上本門寺に壽福院逆修十一重層塔塔を建立、現存する。
元和10年(1624):比企谷妙本寺に壽福院逆修五輪塔を建立、現存する。
寛永5年(1628) :四条妙顯寺壽福院日榮預修十三重塔 (※預修は逆修と同義)を建立、現存する。
2023/05/25撮影:
壽福院・正應院逆修塔:向かって右が壽福院、左が正應院塔 壽福院逆修十一重石塔2
壽福院逆修塔正面:なお裏面には銘はない。
壽福院逆修塔左側面:上記の「日樹聖人傳」では「開眼導首者両山第15世日樹欽誌之」と記すが、
正しくはこの写真の通りで「「開眼導首者/日樹欽誌之/天保4巳年十月修復之」である。 「両山15世」の刻銘はなく、天保4年の追刻はこの面にある。
壽福院逆修塔右側面:同じく上記の「日樹聖人傳」では「元和第8壬戌暦彌生十三日。天保4巳年十月修復之」と
記すが、正しくは「元和第8壬戌暦彌生十三日」で天保4年の追刻は上述のように左側面にある。
◆正応院逆修十一重層塔:(加藤清正室・加藤忠広生母)
○「日樹聖人傳」 より
寛永3年(1626)建立、関東大震災の際倒壊上部2層及び相輪を失う。
銘文正面:「斯十一層石塔、藤原氏加藤肥後太守清正嫡男加藤肥後守忠広御母公正應院殿祐真日倚、為使成正覺予柦 即是道場高顯也、寛永第3丙寅暦七月五日」 右:「開眼両山第15代日樹誌」 左:「慶安三庚寅年六月十七日薨」
2009/10/23追加:
寛永3年加藤清正室(加藤忠広生母)正応院が、逆修供養のため建立。日樹上人開眼。
慶安三年(1650)銘は、正応院の命日と云う。(慶安3年6月17日は追刻)
安山岩製、総高4.65m、塔高4.32m。
なお、正応院祐真日倚大姉は慶安4年逝去とも云う。加藤忠広は寛永9年出羽庄内鶴岡へ配流となり、正応院も同国丸岡で逝去し鶴岡本住寺に埋葬される。現在も本住寺に墓碑が残る。
2011/02/19撮影:
正応院逆修十一重層塔 正応院逆修十一重層塔初重1 正応院逆修十一重層塔初重2
2011/02/27追加:
◇正応院逆修十一重層塔には15代日樹とあり、池上復歴16世と云うこととに齟齬がある。
この齟齬については池上5世上行院日叡上人と身延との関係で発生したものと云う。
(詳細は後日調査予定:あるいは15世か16世かは宗祖日蓮を加えるか否かとも云う。) 2023/05/25撮影:
正應院逆修十一重層塔2 正應院逆修十一重層塔3 正應院逆修十一重層塔4
正應院逆修塔正面:背面は無銘である。
正應院逆修塔左側面:上記の「日樹聖人傳」の通り「開眼/両山第15代日樹誌」と刻す。
正應院逆修塔右側面:同じく上記の「日樹聖人傳」の通り「慶安三庚寅年/六月十七日薨」と刻す。正應院の命日である。
◆以上以外に
○「日樹聖人傳」では次の宝篋印塔などがあるという。
◇宝篋印塔: 寛永六年正月四日建之、関東大震災の際蓋石の上部を失う、台座に年号、銘「有島出雲守氏女、慧光院妙照禅尼」
外に、寛永5年8月10日等年号近似のもの、字体など日樹と思われるものがあり宝篋印塔計5基。(池上本門寺鈴木慈海師親書)
※但し、これらの宝篋印塔は位置不詳、未見。
◆浩妙院殿供養十一重石塔
現在、石塔は元地(日樹上人五輪塔の側)から、五重塔北側に移設され、現存する。
高さは8m超の池上山内最大の十一重石塔という。 2023/05/25撮影:
浩妙院殿供養塔
浩妙院殿供養塔・銘1 浩妙院殿供養塔・銘2:銘は次の通り
■・・・・・・・・ 南無多寶如来 南無妙法蓮華経 南無釈迦牟尼佛
寛永第七庚午八月■四■ ※寛永第七庚午年(1630)八月四日 なお、
浩妙院殿廟前燈籠が本院松濤園内に移設されて現存するという。 (通常松濤園は非公開、未見) サイト:森家史料調査会>浩妙院殿廟前燈籠では、次のような解説がある。
この石灯篭は浩妙院殿(前田利常女・森忠広室)供養塔の前に備えられた石燈籠である。
加賀藩主前田利常の生母寿福院(千代保)の建立による。もともと対であったもので1基は失われ、残った1基であろう。
森忠広室「亀鶴」は徳川秀忠の養女となり森忠政の嫡子忠広に寛永3年(1626)に嫁すが、寛永7年(1630)に18歳で死去する。
法名は「浩妙院殿天惣日真大姉」。
浩妙院の墓所は能登羽咋妙成寺に祖母壽福院の墓に並んで現存するが、池上本門寺にも供養塔として層塔が建てられる。本燈籠はこの前に建てられたものである。
燈籠は高さ約235cmで、宝珠は五輪等の風・空輪のため、これは当初のものではない。竿は竹型で江戸時代初期の形式である。 竿に銘文がある。
奉納石燈籠 浩妙院殿天惣日真大姉 寛永第七庚午年八月四日
願主壽福院日榮 敬白
参考ページ: →長遠院日樹上人
→池上本門寺
2006年以前作成:2024/05/10更新:ホームページ、日本の塔婆
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