備 前 津 島 妙 善 寺

備前鷲林山妙善寺

備前津島妙善寺概要

 北朝・正慶5年(1336)<南朝・延元元年>大覚大僧正この地に巡錫、真言宗福輪寺住職良遊を論破、
良遊は大覺大僧正に帰依、日蓮宗に改宗し寺号を妙善寺と改号するのが始まりと云う。
寛文5年(1665)寛文の惣滅(不受不施派弾圧)により妙善寺は無住となり、宝永5年(1708)一切の堂宇を廃棄する。

 ※備前妙善寺の詳細については次の「正之」氏のサイトを参照すべし。
   →備前妙善寺の歴代と由来

   →大覚大僧正と妙善寺あれこれ

2019/07/15追加:
〇「京山物語」郷土史「京山物語」編集委員 高原忠敏、平成15年(2003) より
山号鷲林山。もとは真言宗福輪寺と称した寺院であったが、南北朝期大覚大僧正がこの地に弘教、福輪寺住持と法論の結果、日蓮宗に改宗、妙善寺と改称する。その後中世を通じ備前法華の大寺の一つとして栄えるも、寛文6年(1666)光政の不受不施派弾圧によって、住持日精は追放、末寺である福居浄圓寺とともに廃寺となる。
 明治9年不受不施派再興、翌年津島唯紫庵を中心として津島教会所設立、明治23年同教会所新築、明治30年妙善寺の寺号を公称する。大正14年現在の本堂を建立する。
門前には現岡山大学農学部附近の座主川沿いにあった大覚大僧正の腰掛け石や衣掛け石が移設されている。
 妙善寺・常圓寺跡付近図
妙善寺付近には法凉寺や十乗坊谷の地名が、福居の字常円寺との間には勧行院、奥坂には寺屋敷の地名が残る。
字常円寺には東西40間、南北20間の段形があり、常圓寺(浄圓寺)跡と考えられる。その南には番神、南東には番神東の地名が残り、番神堂の存在を強く示唆する。これらはかっての巨刹妙善寺を彷彿とさせる。
---「京山物語」end---
2019/07/15追加:
〇「撮要録」 より
津島村
鷲林山妙善寺 日蓮宗
下寺福居浄圓寺
 住持寺家下寺共出家儘立退
 本堂寺家下寺本尊共御拂
 惣屋敷畑1町7反7畝15歩半除地
  内 8反12歩延宝9年発畑年貢地ト成 残畝は山林畑は村作  ※延宝9年は1681年
※下寺として福居浄圓寺があり、寺家(寺中)もあったと推定される。上記「京山物語」には法凉寺や十乗坊・勧行院・奥坂の坊などが地名として挙げられ、それらの寺家があったものと思われる。

妙善寺は廃寺、不受不施派は禁制となるも、信仰は決して潰えることはなかった。
禁制により不受不施派寺院の全てが棄却され、信仰を棄てなかった多くの僧侶が出寺し、また多くの信徒が出寺僧を中心にして密かに庵を構え、信仰を保持したのである。
現在では、これ等の庵の多くが明らかにされているが、備前津島にはそのような庵の一つ唯紫庵が構えられ拠点とされる。
 ※唯紫庵歴代譜(「
唯紫庵歴代刻名)では、開基覺隆院日適(元禄11年1698遷化)から12世の歴代を数える。
妙善寺は明治に入り、
唯紫庵を母体にして、再興される。
 2019/04/14追加:
 唯紫庵歴代:上記の「唯紫庵歴代刻銘」から転記及び加筆。
   開基 覺隆院日通 元禄11年(1698)化/妙善寺10世
   2世 高照院日意 正徳6年(1716)化/妙善寺11世
   3世 立圓院日信 享保16年(1731)化/妙善寺12世
     2019/08/19追加:
     ○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
     立圓院日信は大樹庵9世、行川法難の時大坂にいたが、自訴する。
      ※唯紫庵3世でもある。
     享保4年4月隠岐島に流される。享保16年(1731)日信寂。
     日信の身柄を預かったのは庄屋板屋横地六郎兵衛であるが、彼を始め日信に帰依した者が少なからずあったようで、
     日信の墓は彼らによって「祖神様」として祀られてきたという。この「祖神様」は近年日信の墓と判明する。
     なお、この墓碑のあるところより少し高い所に「唯紫庵」を結んだという空地がある。
     日信墓は隠岐島西郷町平にある。
      --- 「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終---
   4世 通性院日念 寛延4年(1751)化/妙善寺13世/北長瀬不受不施派祖師堂に日念題目碑あり
   5世 相如院日是 安永5年(1776)化/妙善寺14世/北長瀬不受不施派祖師堂に日是碑あり
   6世 深行院日量 天明8年(1788)化/妙善寺15世
   7世 教法院日明 寛政11年(1799)化/妙善寺16世
   8世 観光院日宣 享和2年(1802)化/妙善寺17世
   9世 無量院日至 文政4年(1821)化/妙善寺18世
  10世 友善院日護 文化13年(1816)化/妙善寺19世
  11世 照光院日恵 文久4年(1864)化/妙善寺20世
  12世 十妙院日徳 明治31年(1898)化/妙善寺21世/北長瀬不受不施派祖師堂に日正・日徳題目碑あり
        ※北長瀬不受不施派祖師堂は<備前御野郡高柳・野田・北長瀬村中>にあり
        ※平井村に接する妙覚寺墓地:不受不施派先師墓所(備前上道郡網浜村・湊村・平井村中)に日徳の墓碑あり。
        ※十妙院日徳については備前法華の系譜>不受不施派の再興中に記事あり。
 2016/04/14追加:
 妙善寺歴代:上記の「備前妙善寺の歴代と由来」から転記及び加筆。
  開   基 大覚大僧正
    第2世 龍華院(亀華院)日實/京都妙覚寺4世(実質の開山)
    第3世 正学院日厳
    第4世 日能
    第5世 日宗
    第6世 妙法院日應/下総岩部大乗寺開基
     2023/12/12追加:
     ○「房総禁制宗門史」加川治良、国書刊行会、昭和52年 より
       下総岩部大乗寺は備前津島妙善寺が本寺であり、妙善寺7世日應が開基である。
    第7世 日韻
    第8世 性如院日魏
    第9世 本寿院日船
   第10世 覚隆院日通/唯紫庵 開基
   第11世 高照院日意/唯紫庵 2世
   第12世 立円院日信/唯紫庵 3世/祖山妙覚寺28世、享保16年(ママ)化
   第13世 通性院日念/唯紫庵 4世/北長瀬不受不施派祖師堂に日念題目碑あり
   第14世 相如院日是/唯紫庵 5世/北長瀬不受不施派祖師堂に日是碑あり
   第15世 深行院日量/唯紫庵 6世
   第16世 教法院日明/唯紫庵 7世
   第17世 観光院日宣/唯紫庵 8世
   第18世 無量院日至/唯紫庵 9世
   第19世 友善院日護/唯紫庵10世
   第20世 照光院日恵/唯紫庵11世/祖山妙覚寺34世、文久4年(1864)化
   第21世 十妙院日徳/唯紫庵12世/北長瀬不受不施派祖師堂に日正・日徳題目碑あり
   第22世 宣妙院日正/祖山35世、明治41年化/北長瀬不受不施派祖師堂に日正・日徳題目碑あり/
          ・明治6年麻布本村町に自證庵(現若松寺)を再興。若松寺に日正聖人石塔あり。
          ・下総不受不施は正覚寺水戸教会(五反田・林・水戸・石成・千田・船越・牛尾中)の石塔中に
          日正供養塔<東2)日正上人供養塔>がある。
   第23世 遠成院日解/祖山妙覚寺36世、大正13年化
   第24世 詮量院日壽/祖山妙覚寺37世、昭和12年化
          ・明治40年日正の命を受け、伊豆7島の遺跡調査と整理を行う。(「忘れられた殉教者」p.202)
   第25世 学行院日秀
   第26世 真正院日高/祖山妙覚寺39世
   第27世 宣正院日学/祖山妙覚寺38・40世
   第28世 一樹院日行

 2018/11/15追加:
 ○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
 津島妙善寺は退転させられたが、幕末津島村(西坂)から坂本真楽(和平)などの熱烈な信者が出る。
 慶応2年(1866)真楽は津島の森幸蔵宅の裏に唯紫庵を建て大曼荼羅を安置。
 その翌年幸蔵は福山妙永寺で得度、寛孝と号する。
明治9年釈日正の請願により不受不施派は再興され、金川妙覚寺を建てて祖山とする。
 2018/11/15追加:
 ○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より

 明治10年津島教会所が公許され、この地に津島教会所が建立される。
 明治14年大覚大僧正木像の帰属についての大審院判決が出、津島村民が勝訴する。
  津倉妙林寺に安置の大覚大僧正木像はもと津島の寺に安置していたものだというので、その取り戻しを大審院に提訴、
  4年越しの審理の結果、津島村民の勝訴となり、木像が返ってくる。村では3日間に渡り開眼供養の法要を営むという。
 明治23年新築中の津島教会落成。
明治30年妙善寺を再興、旧地に客殿、庫裡、書院、宝蔵などを建立する。
 ※津島唯紫庵を妙善寺と改称許可されたのが
明治30年であろうか。
大正14年現在の地に本堂・客殿を建立する。この時旧本堂は客殿として転用か?。

2013/06/23撮影:
 備前妙善寺本堂1     備前妙善寺本堂2     備前妙善寺本堂3     備前妙善寺本堂4
 備前妙善寺堂宇:堂の名称不明       備前妙善寺鐘楼     備前妙善寺寺坊:庫裏・寺務所・客殿など
 備前妙善寺一實苑1     備前妙善寺一實苑2     備前妙善寺一實苑3     備前妙善寺一實苑4
  一實苑はおそらく納骨堂と思われる。(推定)
   RC造3層堂で屋上に基盤様の土台を設け少なくとも十一輪以上の相輪を建てる。
 不受不施派歴代碑所
 佛性院日奥上人碑 →日奥上人略伝
 不受不施派先師碑     不受不施派刻先師名
  次の先師が刻まれる。
   【前六聖人】池上日樹・中山日賢・平賀日弘・小西日領・碑文谷日進・中村日充 →不受不施派『身池対論』     
   【後六聖人】平賀(生知院)日述・玉造談林(明静院)日浣・野呂(安國院)日講・上総興津(義辧院)日尭・
          雑司が谷(智照院)日了・青山自證寺(長遠院)日庭
            →寛文の法難と矢田部六人衆寛文の法難の福田五人衆の遺跡雑司ヶ谷法明寺
            →日庭上人については江戸自證寺を参照。
  下段:次の19先師の名が刻される。
   寿量院日巡、本妙院日珠、了性院日因、學圓院日秀、恕宣院日融、自性院日冨、慈眼院日有、
   浄眼院日實、圓融院日勝、長遠院日起、立雪院日浄、常壽院日顯、乗如院日成、善行院日清、
   經行院日要、慈念院日助、應智院日縁、不染院日然、本學院日進
     →19先師の事蹟は下に掲載。
 歴代聖人碑
 日解聖人碑:妙善寺第23世遠成院日解聖人と推定
 日壽聖人碑:妙善寺第24世詮量院日壽聖人と推定
 學行院日秀聖人碑:妙善寺第25世学行院日秀聖人
 唯紫庵歴代刻名
2022/05/05撮影:
 備前妙善寺本堂5     備前妙善寺本堂6     備前妙善寺本堂7
 備前妙善寺一實苑5     備前妙善寺鐘楼2
 不受不施派先師墓所     先師墓所整備記念碑
 大覚大僧正袈裟懸けの岩と新九郎田の石1     そ  の  2
              → 大覚大僧正と妙善寺あれこれ に解説あり。

2013/07/04追加:
妙善寺「不受不施派先師碑」下段に刻まれる19先師の事蹟
 ※事蹟は「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大蔵出版、昭和51年 より抜粋。

19先師 事蹟
慈眼院日有 伊豆大島配流。元禄6年(1693)寂。50歳。自證寺日庭弟子。江戸赤坂田町居住。武蔵の生。
自性院日冨 伊豆大島配流。元禄13年(1700)寂。伊豆大正寺出寺僧。江戸南本庄番場小右衛門店に居住。
浄眼院日實 伊豆大島配流。元禄16年(1703)寂。江戸南本庄番場小右衛門店に居住。武蔵の生。浄源院とも。
圓融院日勝 伊豆大島配流。宝永元年(1704)寂。雑司が谷日了弟子。青山居住。武蔵の生。
長遠院日起 伊豆大島配流。宝永5年(1709)寂。64(61)歳。青山自證寺出寺僧。日庭弟子。南本所居住。相模の生。
乗如院日成 八丈島配流。享保元年(1716)寂。72歳。元禄4年流罪。江戸の人。江戸青山に住。在島57年。
立雪院日浄 八丈島配流。享保3年(1718)寂。75歳。日庭の資。備前野々口の人。筑土南飯田町に住。元禄4年(1691)配流。在島28年。
學圓院日秀 伊豆大島配流。享保11(1726)年寂。江戸青山居住。備前の生。受生院とも。
善行院日清 祖山妙覚寺歴代26世。三宅島配流。享保14年(1729)寂。71歳。享保法難(行川法難)日源の弟子。大樹庵8世。享保3年(1718)経行院日要・大智院日浄と共に出訴。同年流罪。
常壽院日顯 八丈島配流。寛保元年(1741)寂。68歳。元禄4年流罪。江戸の人。江戸青山に住。在島51年。
經行院日要 祖山妙覚寺歴代27世。三宅島配流。寛延3年(1750)寂。69歳。享保法難(行川法難)日清の弟子。享保3年流罪。在島32年。島には日要建立の宗祖報恩塔(享保16年銘)がある。
慈恩院日憶 祖山妙覚寺歴代28世。八丈島配流。明和2年(1765)寂。74歳。備前金川難波氏の出。享保法難(行川法難)に連座。長老の命により日助とともに自訴はせず。享保10年(1725)流罪。三宅島で日清・日要の世話を愛く。翌年八丈に着島。墓碑は樫立村向里の山上にあり。在島40年。
慈念院日助 祖山妙覚寺歴代29世。八丈島配流。明和7年(1770)寂。享保10年流罪。江戸の人。享保法難(行川法難)に連座。違墨、日憶との連署の消息文多数あり。墓碑は樫立村向里の山上にあり。在島45年。
應智院日縁 御蔵島配流。寛政9年(1797)寂。71歳。備前御津郡津町下田大教庵住。三宅島に1年在島、のち御蔵島へ在島42年。宝暦3年(1753)師の久遠院日然とともに江戸に出訴諫曉するも、入牢、翌4年日然(30歳)は牢死、同年三宅島に、翌5年御蔵島に配流。
日縁は御蔵島にありながら、三宅島の日珠を指導し、かつ内地の内信も指導する。内信からは多くの物資が集まり、それを三宅島に転送し、同島の流僧の支援を行うと云う。
島の高台には「日縁上人」碑が建つと云う。
祖山妙覚寺32世 →祖山妙覚寺M我が家のご本尊について
本妙院日珠 祖山妙覚寺歴代33世。三宅島配流。文化14年(1817)寂。56歳。備前矢原本妙庵6世。寛政5年(1793)「法華真正行」をもって諫曉。同年流罪。同年「天下安全抄」をもって再諫曉せんとするも果たせず。在島26年、島の住居には島の内信者が集まり、指導をすると云う。備前赤坂斗有村の生。
墓は常勝庵墓所にあり、日要・日清・日曉・日遼と並んである。配所伊ヶ谷には日珠建立の供養塔(文化14年銘・自筆花押あり)が残る。
 →祖山妙覚寺M我が家のご本尊について
 2024/06/29追加:
  →備前赤坂郡矢原中に本妙院日珠略伝あり。
本學院日進 八丈島配流。文政8年(1825)寂。41歳。文化12年(1815)流罪。備前佐伯武田氏の出。勇行院日長の資。日長上人「正報護国論」を捧げて諫曉し獄死する。遺命により出訴、即日入牢。同年流罪。途中三宅島で日珠の草庵に止宿。墓碑は樫立村向里の山上にあり。在島10年。
寿量院日巡 八丈島配流。天保10年(1839)寂。享和3年(1803)流罪。備前矢田部村延原氏の出。本妙院日珠の資。享和2年備中惣爪(板倉)に法難あり。日巡他7名江戸(惣爪7僧)に護送、6名は獄死。享和3年三宅島日珠の草庵に憩う。遺墨・消息多数残存。墓碑は八丈島樫立村向里の山上にあり。在島38年。
了性院日因 体運日因、享保3年(1718)行川法難で伊豆大島へ流罪となる。
恕宣院日融 享保法難(行川法難)で自訴、牢死する。
不染院日然 悦心日然、享保3年(1718)行川法難で伊豆大島へ流罪となる。大島に墓碑が現存。

2018/11/15追加:
寛文の惣滅で廃寺となった妙善寺本末一覧
現在判明している寛文6年前後に廃寺となった津島妙善寺末寺一覧である。
備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧 より抽出

連番 原番 所在(郡・村) 山号寺号院号坊号 本寺  
  58 御野郡 津島村 鷲林山 妙善寺 10)京都妙覚寺末  
               
1 12 御野郡 西市村 新福寺 9)津島妙善寺末  
2 13 御野郡 西市村 是清坊       9)津島妙善寺末  
3 14 御野郡 西市村 立覺坊 9)津島妙善寺末  
4 28 御野郡 上中野村 榮壽山 萬福寺 9)津島妙善寺末
5 29 御野郡 下中野村 大名山 南光寺 9)津島妙善寺末
6 30 御野郡 下中野村 要行坊 9)津島妙善寺末  
7 40 御野郡 野田村 妙傳寺 9)津島妙善寺末  
8 41 御野郡 野田村 蓮昌院 9)津島妙善寺末  
9 42 御野郡 野田村 蓮昌坊 9)津島妙善寺末
10 43 御野郡 野田村 圓能坊 9)津島妙善寺末
11 47 御野郡 今村 仲道山 相雲寺 9)津島妙善寺末
12 48 御野郡 今村 善立坊 9)津島妙善寺末
13 49 御野郡 今村 南仙□ 9)津島妙善寺末  
14 55 御野郡 京殿村 常心寺 9)津島妙善寺末  
15 62 御野郡 北方村 妙法山 神宮寺 9)津島妙善寺末  
16 63 御野郡 北方村 (妙法山か)今藏坊 9)津島妙善寺末
17 64 御野郡 北方村 (妙法山か)圓住坊 9)津島妙善寺末  
18 65 御野郡 北方村 (妙法山か)法珠院 9)津島妙善寺末  
19 75 津高郡 尾上村  松田山 明光寺 9)津島妙善寺末
20 84 津高郡 佐山村  圓松山 法林寺 9)津島妙善寺末  
21 92 津高郡 横井上村 清光山 香仙寺 9)津島妙善寺末
22 94 津高郡 (横井上村)田中 日用山 圓久寺   9)横井上村香仙寺末
23 93 津高郡 横井上村 東大山 妙現寺 9)津島妙善寺末
24 98 津高郡 (中原村)東原 清眞山 浄本寺 9)津島妙善寺末  
25 99 津高郡 (中原村)東原 是心坊   9)中原村浄本寺末
26 100 津高郡 栢谷村 古屋山 安立寺 9)津島妙善寺末  
27 101 津高郡 栢谷村 受圓坊  9)栢谷村安立寺末
28 115 津高郡 西菅野村 大光山 妙福寺 9)津島妙善寺末
29 91  津高郡 深溺村 正林坊   9)菅野村妙福寺末
30 116 津高郡 西菅野村 圓立坊   9)菅野村妙福寺末
31 117 津高郡 西菅野村 正光坊   9)菅野村妙福寺末
32 118 津高郡 西菅野村 本乗坊 9)菅野村妙福寺末
33 119 津高郡 西菅野村  圓行坊 9)菅野村妙福寺末
34 120 津高郡 田原村 大圓坊 9)菅野村妙福寺末
35 126 津高郡 西菅野 受圓坊 9)菅野村妙福寺末


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