19先師 |
事蹟 |
慈眼院日有 |
伊豆大島配流。元禄6年(1693)寂。50歳。自證寺日庭弟子。江戸赤坂田町居住。武蔵の生。 |
自性院日冨 |
伊豆大島配流。元禄13年(1700)寂。伊豆大正寺出寺僧。江戸南本庄番場小右衛門店に居住。 |
浄眼院日實 |
伊豆大島配流。元禄16年(1703)寂。江戸南本庄番場小右衛門店に居住。武蔵の生。浄源院とも。 |
圓融院日勝 |
伊豆大島配流。宝永元年(1704)寂。雑司が谷日了弟子。青山居住。武蔵の生。 |
長遠院日起 |
伊豆大島配流。宝永5年(1709)寂。64(61)歳。青山自證寺出寺僧。日庭弟子。南本所居住。相模の生。 |
乗如院日成 |
八丈島配流。享保元年(1716)寂。72歳。元禄4年流罪。江戸の人。江戸青山に住。在島57年。 |
立雪院日浄 |
八丈島配流。享保3年(1718)寂。75歳。日庭の資。備前野々口の人。筑土南飯田町に住。元禄4年(1691)配流。在島28年。 |
學圓院日秀 |
伊豆大島配流。享保11(1726)年寂。江戸青山居住。備前の生。受生院とも。 |
善行院日清 |
祖山妙覚寺歴代26世。三宅島配流。享保14年(1729)寂。71歳。享保法難(行川法難)日源の弟子。大樹庵8世。享保3年(1718)経行院日要・大智院日浄と共に出訴。同年流罪。 |
常壽院日顯 |
八丈島配流。寛保元年(1741)寂。68歳。元禄4年流罪。江戸の人。江戸青山に住。在島51年。 |
經行院日要 |
祖山妙覚寺歴代27世。三宅島配流。寛延3年(1750)寂。69歳。享保法難(行川法難)日清の弟子。享保3年流罪。在島32年。島には日要建立の宗祖報恩塔(享保16年銘)がある。 |
慈恩院日憶 |
祖山妙覚寺歴代28世。八丈島配流。明和2年(1765)寂。74歳。備前金川難波氏の出。享保法難(行川法難)に連座。長老の命により日助とともに自訴はせず。享保10年(1725)流罪。三宅島で日清・日要の世話を愛く。翌年八丈に着島。墓碑は樫立村向里の山上にあり。在島40年。 |
慈念院日助 |
祖山妙覚寺歴代29世。八丈島配流。明和7年(1770)寂。享保10年流罪。江戸の人。享保法難(行川法難)に連座。違墨、日憶との連署の消息文多数あり。墓碑は樫立村向里の山上にあり。在島45年。 |
應智院日縁 |
御蔵島配流。寛政9年(1797)寂。71歳。備前御津郡津町下田大教庵住。三宅島に1年在島、のち御蔵島へ在島42年。宝暦3年(1753)師の久遠院日然とともに江戸に出訴諫曉するも、入牢、翌4年日然(30歳)は牢死、同年三宅島に、翌5年御蔵島に配流。
日縁は御蔵島にありながら、三宅島の日珠を指導し、かつ内地の内信も指導する。内信からは多くの物資が集まり、それを三宅島に転送し、同島の流僧の支援を行うと云う。
島の高台には「日縁上人」碑が建つと云う。
祖山妙覚寺32世 →祖山妙覚寺、M我が家のご本尊について |
本妙院日珠 |
祖山妙覚寺歴代33世。三宅島配流。文化14年(1817)寂。56歳。備前矢原本妙庵6世。寛政5年(1793)「法華真正行」をもって諫曉。同年流罪。同年「天下安全抄」をもって再諫曉せんとするも果たせず。在島26年、島の住居には島の内信者が集まり、指導をすると云う。備前赤坂斗有村の生。
墓は常勝庵墓所にあり、日要・日清・日曉・日遼と並んである。配所伊ヶ谷には日珠建立の供養塔(文化14年銘・自筆花押あり)が残る。
→祖山妙覚寺、M我が家のご本尊について
2024/06/29追加: →備前赤坂郡矢原中に本妙院日珠略伝あり。 |
本學院日進 |
八丈島配流。文政8年(1825)寂。41歳。文化12年(1815)流罪。備前佐伯武田氏の出。勇行院日長の資。日長上人「正報護国論」を捧げて諫曉し獄死する。遺命により出訴、即日入牢。同年流罪。途中三宅島で日珠の草庵に止宿。墓碑は樫立村向里の山上にあり。在島10年。 |
寿量院日巡 |
八丈島配流。天保10年(1839)寂。享和3年(1803)流罪。備前矢田部村延原氏の出。本妙院日珠の資。享和2年備中惣爪(板倉)に法難あり。日巡他7名江戸(惣爪7僧)に護送、6名は獄死。享和3年三宅島日珠の草庵に憩う。遺墨・消息多数残存。墓碑は八丈島樫立村向里の山上にあり。在島38年。 |
了性院日因 |
体運日因、享保3年(1718)行川法難で伊豆大島へ流罪となる。 |
恕宣院日融 |
享保法難(行川法難)で自訴、牢死する。 |
不染院日然 |
悦心日然、享保3年(1718)行川法難で伊豆大島へ流罪となる。大島に墓碑が現存。 |