★大覚大僧正開基寺院
大覚大僧正開基寺院<三備(備前・備中・備後)、三備以外>、大覚大僧正自筆題目石<備前和気法泉寺、備前曹源寺寺中大光院、備中西辛川大覚堂、備中軽部大覚寺>、その他
→ 大覚大僧正開基寺院
★美作の諸寺
◇鯰随縁寺:美作市鯰
不変山と号する。京都妙覚寺末。近年に本堂・山門などの堂宇が造替されたようである。
以上の他に情報は皆無である。
2015/09/15追加:「備北・美作地域の寺」川端定三郎、2002 より
寛永18年(1642)江見休夢居士の建立なり、それより以前江見氏鳥越城在城の折、持仏堂法泉坊堂宇を現地に移し、寺号に改め檀越となる。江戸末期日正が在寺という。
なお、清正公像ありという。
2022/09/22追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より
寛永19年(1642)創立、開山恕雲院日輭(ニチナン)、開基檀越江見与左衛門秀綱、京都妙覚寺末、奠師法縁。
弘治元年(1555)鯰村鳥越山城内に法泉坊という堂あり。寛永19年法泉坊を現在地に移転。
2015/04/18撮影;
随縁寺全容 随縁寺山門 随縁寺本堂1 随縁寺本堂2 随縁寺本堂3
随縁寺鐘楼 随縁寺庫裡 随縁寺庫裡2 随縁寺堂宇:堂宇の名称の確認をせず、堂宇名不明。
津山林田は森氏が津山城築城の時、城東に設けた寺町で往時は10ヶ寺あり、現在では6ヶ寺残る。その参道が寺下通りで、通称「東寺町」といわれる。※戦前に妙津寺の前身が成立し、これを加えれば7ヶ寺となる。
◇津山林田妙津寺:本門佛立宗:大阪清風寺末、大坂清風寺が京都宥清寺末とすれば、宥清寺孫末ということになる。
現住の祖母が大阪で出家し、岡山へ来住、信者が現在地の土地を寄進し、岡山より当地へ移る。
昭和9年7月仮親会場設立、昭和26年現本堂建立というも良く分からない。
要するに、昭和初期の成立であり、江戸期から寺下通りに寺地を構えた寺院ではないことは確かであろう。
内陣には日蓮、日隆、日扇各上人を祀る。
2015/04/18撮影;
妙津寺本堂 妙津寺庫裡 妙津寺納骨堂上題目碑
◇津山林田蓮光寺:京都妙覚寺末
中世には林田郷と呼ばれ、津山日蓮宗の発祥の地である。
慶長8年、森忠政津山入部、慶長15年(1610)本光院日秀、この地に明星山蓮光寺を開山する。開基檀越は金谷佐大夫夫妻と伝える。
寛文年中、徳川幕府の不受不施への禁圧、所謂寛文の法難により、衰微する。
延宝年中、第5世是音院日厳の入寺により再興される。
天保末年、本堂を焼失、嘉永元年(1848)第25世浄真院日誠により本堂再建。
昭和62年新本堂落慶。 2022/09/22追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より 京都妙覚寺末、奠師法縁。
寛永元年(1624)創立、開山本光院日秀、開基檀越は金谷佐大夫。 「大観」には5世是音院日厳が再興とある。
※1世本光院日秀は寛永11年(1634)寂、歴代の2世から4世の記載はなく、飛んで5世是音院日厳と歴代は続く。是音院日厳は元禄3年(1690)寂である。以上から推察するに、蓮光寺は寛文年中の弾圧法難で歴代などの記録を失い、元禄年中受派として5世是音院日厳により再興されたのであろう。
2015/04/18撮影;
蓮光寺全景1 蓮光寺全景2 蓮光寺題目碑 蓮光寺山門1 蓮光寺山門2
蓮光寺本堂1 蓮光寺本堂2 蓮光寺鐘楼? 蓮光寺庫裡
◇津山林田本蓮寺:京都妙満寺末
開創は慶長19年(1614)本光院日證によると伝える。
明治9年児玉日容上人本蓮寺に赴任、明治19年この地に津山顕本講(津山弘通所)を開設する。
日容上人は明治23年遷化。
明治31年日蓮宗妙満寺派が独立、日容上人の指定により顕本講の名を採って顕本法華宗と宗名公称する。
日容上人の墓所は当地にある。
2015/04/18撮影;
本蓮寺山門 本蓮寺本堂1 本蓮寺本堂2 本蓮寺庫裡・客殿
日容上人墓碑
なお、本多日生(聖応院)は児玉日容の直弟子であり、日容の宗門改革を継承する。 本多日生は東舞鶴法光寺開山(→丹後の諸寺中)である。
◇津山西寺町妙法寺
長昌山と号する。京都妙覚寺末。
永享12年(1440)頃、山名忠政が鶴山柳の段に福聚山妙王院を創建することに始まるという。
元亀元年(1570)頃、法恩院(法音院)日充上人中興し、妙法寺と改称する。
慶長8年(1603)森忠政が美作入部、築城地を鶴山に決定する。
これに伴い妙法寺を南新座へ移す。その後、南新座は武家地となり、元和3年(1617)西寺町の現在地に移る。
安永年中(1772〜81)、山号を長昌山と改号する。
また境内は広大な規模を誇る。
本堂は桁行5間、梁間6間、向拝1間付きで、入母屋造本瓦葺。
建築年代は板御本尊墨書および鬼瓦銘により、承応2年(1653)と推定される。
正面奥行2間を三方吹放しの札堂、その奥を内陣とし、境には高敷居を入れる。内陣後方に四天柱を立て、唐様須弥壇を置く。
多くの建築彫刻(実見せず)を施し、江戸前期大型日蓮宗本堂建築である。 2018/09/15追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より 嘉吉元年(1441)の創立。 開山法音院日充。開基檀越森忠政。奠師法縁。
森忠政が鶴山に明王院を建立、慶長8年鶴山城築城につき、寺を新座に移転、妙法寺と改称。 ○末寺: 福聚山無量寺(岡山県苫田郡鏡野町入) →下に掲載
妙法山經王寺(津山市下野田)
2015/04/19撮影;
妙法寺山門1 妙法寺山門2 妙法寺山門3 山門前題目碑 妙法寺裏門1 妙法寺裏門2
妙法寺本堂1 妙法寺本堂2 妙法寺本堂3 妙法寺本堂4 妙法寺本堂5 本堂前題目碑
妙法寺客殿庫裡 妙法寺客殿 妙法寺庫裡
妙法寺鐘楼 妙法寺三十番神 妙法寺祠(堂名不明)
◇津山西寺町本行寺
延寿山と号する。美作地方における日蓮宗興隆の一拠点であった。京都妙覚寺末。
《以下、「津山瓦版」>「美作本行寺」》 より
文明年中(1469〜87)、関東から守兵部保重、堅田浄作入道頼国、その子新左エ門為頼等の武人が美作に来たりて、林田郷に牢居する。<※意味が不明であるが、3人は何かの罪を犯し、美作で「牢居」の罰を受けたという意味であろうか。>
3人はいずれも法華宗の信者であり、当時美作には法華宗寺院が無く、京都妙覚寺第12世日寮上人に請いて一寺を建てんことを計るという。
日寮上人は、照知院日立上人を下らしめ、弘教にあたらせ、多くの信者を得て、遂に堂宇を林田丹後山の麓に創建し、延寿山本行寺と称することとなる。
以来、宗風作州のうちに普及するに至る。しかし第5世日誉上人、永禄4年(1561)寂して法嗣なく、消滅の危機に瀕する。
この時苫西郡入村久塚山無量寺(現鏡野町入・西寺町妙法寺末<無量寺は下の項で掲載>)の法音院日繕上人、本行寺の廃滅せんことを憂慮し、備前金川妙国寺日繕上人を招請して本行寺の中興となす。
<※本行寺日繕は善峰院<元和5年(1619)寂>と号し、本行寺第6世である。<「日蓮宗寺院大鑑」>
従って、招聘された金川妙国寺日繕とは善峰院日繕であろう。
一方、無量寺法音院日繕上人とはおそらく誤りで、無量寺開山の法音院日充であろう。
日充は無量寺を文禄元年(1562)に建立後、津山妙法寺を元亀元年(1570)頃に建立(中興)、後無量寺に隠居と伝える。
本行寺第5世日誉は永禄4年(1561)寂して法嗣なく、その9年後の元亀元年(1570)頃に津山妙法寺を中興し、
さらに元亀元年以降に無量寿に隠居した法音院日充が金川妙国寺日繕を招聘したという事であろう。> 日繕上人には帰依するものが多く、美作地方における法華宗の総導師となる。
慶長9年(1604)南新座に移り、元和2年(1616)現在の西寺町に移る。
第8世日栄上人の時に至って、寛文の大法難に際会し、日栄上人は宗義を持して出寺し、堂宇もまた法難の犠牲になって破滅するに至る。
2019/09/19追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
寛文の法難で、受不施派に接取され、破却される。
およそ200年後の文政5年(1822)第19世日運上人の時に現在の本堂・庫裡を再建する。
また第23世日浄上人の時には表門を再建し、右わきの「一字一石」の宝塔を造立する。
昭和60年、本堂・庫裡・鐘堂・外塀等の大修理が竣工。 ○末寺: 玄好山万福寺(津山市高野本郷) 秀養山法光寺(津山市西中)
岩谷山妙福寺(津山市中北上)
2015/04/19撮影;
本行寺山門 本行寺伽藍 本行寺本堂 本行寺鐘楼 本行寺庫裡
◇津山西寺町妙勝寺
法光山と号する。京都妙覚寺末。
元は院庄(神戸村)にあり金剛寺と称する真言宗寺院であったというも、日勝により改宗する。
津山藩主森氏の意向により、三世日厳の時南新座に移り日蓮宗妙勝寺と称する。
慶長9年(1604)あるいは元和3年(1617)現在地の西寺町に移転する。 2022/09/20追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より
明治3年備中高松最上稲荷の作州分院として稲荷堂を建立。 昭和50年に本堂・稲荷堂を新築、山門は宝暦4年の建立。 2015/04/19撮影;
妙勝寺鐘楼門1 妙勝寺鐘楼門2 妙勝寺題目碑 妙勝寺本堂 妙勝寺庫裡 妙勝寺稲荷
妙勝寺鐘楼門・本堂
参考:
日蓮宗ではないが、西寺町に本源寺がある。5棟の重文建築を備えるので、それを取り上げよう。
津山寺町本源寺:臨済宗妙心寺派である。東海山と号する。
慶長8年(1603)森忠政、美作一国186,500石を拝領、美作(院庄)に入部する。
慶長9年に院庄を出て鶴山に築城を開始する。
同年、西々条郡神戸村(現津山市神戸)にあった安国寺を菩提所と為し、寺を小田中村に移し、海晏禅師を迎えて安国寺中興の祖とす。開基は森忠政である。
慶長12年安国寺を西今町の北(現在地)に移し「萬松山龍雲寺」と改号する。
天和3年(1683)忠政の50遠年忌に当たり戒名「本源院殿前作州太守先翁宗進大居士」から、寺名を「龍雲寺」から「本源寺」に改める。
元禄10年(1697)4代長成が死去し、末期養子として2代長継の第24子で家臣となっていた関衆利が末期養子と認められるも、発狂し、跡目相続不能となり、津山藩森家は改易となる。
改易後、森家は長継が備中西江原藩(2万石)、長俊が播磨三日月藩(1万5000石)、関長治が備中新見藩(1万8000石)として立藩する。
以後は本源寺は森家・津山藩松平家両家の庇護を受ける。
平成25年本堂、庫裡、霊屋、霊屋表門、中門の5棟が重文指定を受ける。本堂は慶長12年上棟。
森家御霊屋(方四間):寛永16年(1639)二代長継の建立。
忠政、二代長継、三代長武、四代長成、父可成、兄長可、乱丸、坊丸、力丸、忠政内室、子息、息女など、森家と関家と松平家、全29の霊碑を安置するという。
2015/04/19撮影;
本源寺惣門 本源寺中門:総門から中門までの参道両側は蓮池や松林のある庭であったと云う。
本源寺本堂1 本源寺本堂2 本源寺庫裡
本源寺霊屋表門1 本源寺霊屋表門2 本源寺霊屋表門3 本源寺霊屋表門4 本源寺霊屋表門5
本源寺霊屋表門6 本源寺霊屋表門7 本源寺霊屋表門8 本源寺霊屋 本源寺鐘楼
◇美作での法難(備忘)
〇「不受不施派殉教の歴史」 より
・寛文年中?津山城下延壽山本行寺、受派により接収・破却される。本行寺が美作妙覚寺末流8ヶ寺の導師格であった。
・久米南郡川口村妙泉庵を拠点にしていた日船は逐われ、福渡村山根の江田氏邸土壌に潜伏中寂し、炭火によって荼毘に付す。
(日船は岡山蓮昌寺23世、津島妙善寺9世) ・如法院蓮久の神目の断食
・法立院日秀の津山二階町での自害(寛文9年7月7日)
・浄信院日久の兼田磧で刑死(年月不詳)、日久は日浣の法弟。日久供養塔が津山市古林田山根の丘上に建てられるが、その西15間程の所も上人塚と呼ばれる場所がある。ここに刑死後の日久の首級を密葬したと里称されている。(古林田山根とは不明であるが、林田山根公民館がある付近であろうか。)。
・久米南郡弓削村寶泉寺壇徒で大庄屋瓦善右衛門ら10人の磔刑(貞享2年4月29日)
・寶歴3年の「寶歴法難」で、津山城下内信僧慈善院日是が捕縛・入牢、のちに牢死(寶歴7年3月9日寂)、内信者大庭九右衛門ほか29名が追放、闕所などの刑を受ける。
◇美作福田・福田五人衆墓所
→ 福田五人衆の詳細については「備前法華の系譜」>「美作福田五人衆」 を参照
2024/05/10撮影:
福田五人衆関係石塔1 福田五人衆関係石塔2
福田五人衆・日勢聖人石塔:正面「福田五人衆」「堅住院日勢聖人」と刻む。
福田五人衆歌碑:判読し難いが、上に掲載の<「不受不施派殉教の歴史」 より>に解説がある。
推定墓塔(不明):南無妙法蓮華経と刻むと思われるも、その他は判読できず。
福田比丘尼塚1 福田比丘尼塚2 福田比丘尼塚3 福田比丘尼塚4
福田比丘尼塚供養塔
日像・大覺石塔:南無妙法蓮華経/判読不能/日像𦬇大覺和尚
浄信院日久聖人:南無妙法蓮華経/日浣聖人高弟/浄信院日久聖人
日久聖人については〇拙ページ「備前法華の系譜」中に下記のようにあるので、転載する。 2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より 津山市林田 浄信院日久墓:
日久は日浣のあとを継いで本行寺の住職になったおり、寛文法難にあい津山兼田川原の刑場で斬首された。
※「聖」によれば、美作でも犠牲が出る。林田に日久の墓がある。(写真掲載) 美作林田日久墓
※日浣とは玉造檀林5世、津山顕性寺歴代である。上記には本行寺とあるが顕性寺であろう。
※美作津山顯性寺とは不詳であるが、おそらく寛文の法難で廃寺となったものと思われる。 2024/09/25追加:
美作での法難(備忘) ・・・上に掲載・・・ より:
浄信院日久、兼田磧で刑死(年月不詳)、日久は日浣の法弟。日久供養塔が津山市古林田山根の丘上に建てられるが、その西15間程の所も上人塚と呼ばれる場所がある。ここに刑死後の日久の首級を密葬したと里称されている。(古林田山根とは不明であるが、林田山根公民館がある付近であろうか。)
◇美作鏡野無量寺:苫田郡鏡野町入
2018/09/15追加:
「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より 福聚山と号す、津山妙法寺末。→妙法寺は上の項に掲載
文禄元年(1562)の創立、開山開基法音院日充。開基檀越越葛下城主中村大炊佐頼宗。(墓碑あり。)
(大観には永正13年(1516)とある。) 律宗の寺を改宗、日充は当寺を建立後、津山妙法寺を建立、後当寺に隠居と伝える。
無住時代がかなり長い期間ある。(「日蓮宗寺院大鑑」に歴代の記載なし。)
◇美作久米南条郡福渡村
美作に属するも、現在は備前岡山市に属する。美作最南部にあり、旭川を渡岸すれば、備前建部である。
◇美作福渡妙福寺
2018/10/15追加:
○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より 本寺は京都妙覚寺。
(創建当初から、不受不施は空気のごときものとして存在したと推測する。)
「西作誌」によれば、宇喜多氏家臣沼本与太郎久家・日笠次郎兵衛頼房が京都妙覚寺日典の弟子日存に帰依し、 天正元年(1573)壽福院日存を開山として建立するという。
寛永10年(1633)京都妙覚寺が幕府に提出した妙覚寺日亮の「上京妙覚寺諸末寺覚」(国立公文書館)には美作の末寺として末寺8ヶ寺があり、その内に「福渡 妙福寺」「同 壱ヶ寺」とあるという。「同 壱ヶ寺」とは川口村妙泉寺と思われる。
しかし両寺とも「違背」と記され、当時は不受不施であったと分かる。 元禄4年(1691)京都妙覚寺との本末関係が回復される。
(両寺とも受派に転じたということであろう。ここは岡山藩領ではなく、過酷な池田光政の弾圧の範囲外だったと思われるも、不受不施は禁制となり、受派に転じたということであろうか。) なお、近世を通じ、福渡村八幡社の別當であった。慶應4年(1869)神仏判然令の布告で志呂明神神主と八幡社の支配を巡り、争いとなるも、当住21世日晋は志呂明神神主に破れ、妙福寺の支配権は比定され、八幡社の社役は志呂明神神主日野氏の兼職となる。 末寺: 川口村妙泉寺
○下弓削村蓮久寺 →美作弓削廃寺心礎が蓮休寺門前に置かれる。但し、心礎のみ見学し、山門内には立ち入らず。
下二ヶ宮地村善眞寺 上神目村龍泉寺 2022/05/20追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
天正元年(1573)創立、開山壽福院日存、開基檀越沼本与太郎久家。京都妙覚寺末、生師法縁、
永禄年中に真言宗毘守山多聞寺住職大永坊は多門寺を捨て妙福寺に合併。
本堂・仁王門・三十番神・祖師堂などを建立、鐘楼は備前金川城主松田左近道連が正保年中に建立。 中本寺として末寺85ヶ寺を有する。(※「本寺違背」についての言及はなし。)
寺宝として、伏見宮常子内親王筆「大毘沙門天王」を蔵する。
2024/04/11撮影:
福渡妙福寺仁王門 仁王門前題目石:明和8年(1771)銘 仁王門安置仁王像
石階下題目石:日蓮大菩薩/四百五十遠忌/備御報恩■■ ※日蓮450遠忌は享保16年(1731)
福渡妙福寺石階
福渡妙福寺本堂1 福渡妙福寺本堂2 福渡妙福寺本堂3 福渡妙福寺本堂4
福渡妙福寺客殿1 福渡妙福寺客殿2:向かって右は庫裡
福渡妙福寺番神堂1 福渡妙福寺番神堂2 福渡妙福寺番神堂3 福渡妙福寺帝釈天堂
福渡妙福寺祖師堂 福渡妙福寺鐘楼
日蓮大菩薩宝塔
大覺大僧正ほか宝塔:大覺大僧正/日親大聖人/日朝大聖人 ※どう云った組み合わせかは不明、日朝とは身延11世・行學院とすれば、身延中興と云われる故か。
大覺大僧正宝塔
村雲日榮門跡宝塔:京都瑞竜寺門跡村雲日榮尼(伏見宮邦家親王の第八王女)の揮毫、日本各地を巡教という。
福渡にも巡教(明治31年福渡駅開業の時?)と聞いた記憶がある。村雲日榮尼は安政2年〜大正9年3月22日。
なお、下総方田法光寺に瑞龍院殿日栄の墓塔がある。 方田法光寺は下総常盤村>川島・方田・坂中にあり。
◇美作福渡化城院・日城聖人供養塔
所在地:緯度経度:34.86741693798235, 133.90666167751348 にあり。
福渡の山根に化城院という堂がある。中には、かつてこの地に滞在していた日城上人の碑が祀られる。
碑文では現在の岡山市御津の生、金川の松田氏の建立した妙国寺の住職をつとめ元和4年(1618)寂とあるという。
また、化城院は霊験あらたかで殊に雨乞いや雷除けを祈るために遠方からの参者もあるという。 →化城院日城は備前金川妙國寺8世である。
→備中上房郡吉川村>日城聖人の項には事績の口碑及び供養塔がある。
2024/10/16追加: 〇「岡山県の地名 日本歴史地名体系34」平凡社 に次の記事がある。
備前吉田村(現建部町吉田)熊野神社
p483
『慶長14年(1609)妙國寺日城の筆になる棟札があり、「吉田村八幡宮 氏子武保」とある。元来は八幡紳を祀っていたものと思われる。』
以上によれば、建部熊野権現に日城筆の棟札が残るようである。 更に 備前中田龍淵寺に5世化城院日城の供養塔が残存する。
加えて 「日蓮宗寺院大鑑」の龍淵じの項で、「寺寶として当山5世の曼荼羅とある」ので、化城院日城の曼荼羅を所蔵と思われる。
(→備前中田龍淵寺) 2024/04/11撮影:
美作福渡化城院1 美作福渡化城院2 美作福渡化城院3
美作福渡化城院4 美作福渡化城院5
福渡化城院石灯籠:南庄西村とある。南庄西村は福渡から北西方向、相当に距離がある美作誕生寺の南すぐにある。
化城院日城廟所1 化城院日城廟所2
化城院日城供養塔1 化城院日城供養塔2
化城院日城供養塔3:南無妙法蓮華経 妙國寺化城院日城 と刻する。
化城院日城供養塔4:上記と同一写真、妙國寺化城院日城 とある。
◇美作福渡日船上人墓所
福渡字山根(現新町)の路傍に墓がある。
→本壽院日船上人中
◇美作落合垂水本覚寺:真庭市落合垂水
随縁山と号する。京都妙覚寺末。
「大覚大僧正と三備開基寺院」原田智詮(仏乗寺住職)著、昭和49年 本覚寺縁起の項 より
延文5年(1360)大覚大僧正来錫の砌、当郷下市瀬に法華堂という草庵あり。その草庵にて大覚大僧正逗留説法17日余演説をなし随縁山本覚寺と号す。その後中絶に及び200余年を過ぎ、今はその處、法華家舗という田地の字呼伝えたり。
その後天正2年(1574)心性院日悟上人当地引地中興相成る。
開基大覚大僧正、二祖心性院日悟上人、中興祖、万治2年(1659)化 2022/09/22追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より
京都妙覚寺末、奠師法縁。 正平15年(1360)創立、開山大覚妙實、天正2年心性院日悟上、垂水池尻より現在地に移転、中興す。
正意殿は明治初年建立で町の文化財である。 ※正意殿とは、下の掲載の本殿とも思わえるが、不明。
2015/04/19撮影;
本覚寺下題目碑:側面に日蓮上人五百年遠忌と刻む、五百遠忌正当は天明元年(1781)であるからその頃の建立であろう。
本覚寺参道 本覚寺遠望:本覚寺は崖状の山腹にある。
本覚寺本堂1 本覚寺本堂2 本覚寺本堂3 本覚寺本堂4 本堂前題目碑1 本堂前題目碑2
本覚寺庫裡 本覚寺鐘楼 本覚寺梵鐘
拝殿・本殿の堂名は不明、おそらくは三十番神堂であろう。
拝殿・本殿・宝庫 本覚寺拝殿
本覚寺本殿1 本覚寺本殿2 本覚寺本殿3 本覚寺本殿4 本覚寺本殿5
本覚寺本殿6 本覚寺本殿7
本覚寺放置梵鐘:本殿前に梵鐘が放置されるも、その理由は分からない。
本覚寺歴代墓碑:本堂裏をさらに登と歴代墓所が整備されている。中央に日蓮・大覚大僧正・日悟上人の墓碑が並ぶ。
日蓮・大覚・日悟墓碑:大覚大僧正墓碑は新しいもので、急造したものである。
◇美作久世興善寺:真庭市久世
正法山と号する。京都妙覚寺末。
由緒、開基、年紀など全く情報がないため、一切が不明。
北方の山中数Km入ったところに奥之院(お滝さま)があり、ここには拝所?があるという。(未見)
2015/09/15追加:「備北・美作地域の寺」川端定三郎、2002 より
慶長8年(1603)の建立。文化12年(1815)当地代官重田又兵衛本堂再建、大正12年本堂山門間に鉄道が敷設される。
2022/09/22追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より 京都妙覚寺末、奠師法縁。
慶長13年(1608)創立、開山開基自性院日元。開基檀越塚谷屋杉山三郎右衛門。
勝山妙円寺16世日元の草庵を元和9年(1623)に久世井手端より現在地に移転。
寛政2年(1790)山門を残して堂宇全焼、山門(楼門)は貞享4年(1687)建立、仁王像は寛延元年(1748)に安置。
全焼後、文化年中に堂宇再建。 妙見堂は昭和5年に寄進される。
奥之院は2世徳行院日春が開き、不動明王が鎮座する瀧で「お瀧さま」と称される。久世より小谷川沿いに3km北上したところにある。 2015/04/19撮影;
興善寺仁王門1 興善寺仁王門2 興善寺仁王門3 興善寺中門と姫新線
興善寺題目碑1 興善寺題目碑2 興善寺本堂1 興善寺本堂2 興善寺庫裡
興善寺妙見大菩薩1 興善寺妙見大菩薩2 興善寺妙見大菩薩3 興善寺妙見大菩薩4
◇美作大庭法光寺
2022/09/22追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和57年 より
福裕山と号す。京都妙覚寺末、奠師法縁。 明応3年(1494)創立。開山教林院日従、菊亭大納言の先祖法光院に因んで寺号とする。
天正2年(1574)江原兵庫親次の室が諸堂を建立。のち金田七郎衛門弘矩により再建改造。宝暦14年(1764)三度目の建立。
※江原兵庫は篠向(ささぶき)山城主。
◇美作大庭廃妙蓮寺
2022/09/22追加: 妙蓮寺は既に廃寺であり、殆ど資料がなく、詳細は不明。
しかし
○「第650遠忌記念 大覚大僧正」京都像門本山会、平成25年(2013)、
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 ○GoogleMapに掲載の「大庭妙蓮寺跡」「妙蓮寺蘭塔」の写真 などの僅かな資料を総合すると次のようなことが辛うじて分かる。
1.山号は有経山、京都妙覚寺末、所在は真庭郡大庭村であった。 (創立・開山・開基・歴代・寺歴などは不明)
なお、蘭塔の1基には天正13年(1585)の年紀が刻まれているというから、その頃には創建されていたのであろう。
2.昭和17年、鵜飼妙宗(智教院日妙)が備中都窪郡三因に真庭郡川東村(大庭村)妙蓮寺より寺号を移し、
三因に堂宇を建立、備中三因妙蓮寺を再興する。
(少なくとも、昭和17年には荒廃・廃寺と化していたのであろう。)
3.GoogleMapに掲載される「大庭妙蓮寺跡」「妙蓮寺蘭塔」の写真より、現況は次と知れる。
<なお、妙蓮寺の北に接し、京都妙覚寺末大庭法光寺(上に掲載)がある。> 以下、GoogleMapより 転載。
廃妙蓮寺航空写真:出雲街道の東に妙蓮寺、法光寺(北)と並び、妙蓮寺跡ははっきりと残る。画像は2022年。
以下2021/06〜11月画像。
廃妙蓮寺跡1:法光寺から撮影、中央が蘭塔覆屋、その向かって右・手前は廃妙蓮寺記念堂であろうか。
廃妙蓮寺跡2
廃妙蓮寺跡3:廃妙蓮寺記念堂(推測である、本尊・仏具など安置か)・蘭塔・さらに背後に墓碑(推測)3基が並ぶ。
廃妙蓮寺蘭塔群1 廃妙蓮寺蘭塔群2 廃妙蓮寺蘭塔群3:昭和57年真庭市指定文化財となる。
廃妙蓮寺蘭塔群4 廃妙蓮寺墓碑:蘭塔群中に2基?の墓碑が残るが、判読不能。
蘭塔群7基説明板
※蘭塔は、卵塔とは全く異ったもので、家形の墓碑である。岡山や香川に分布する。 家型の屋根をもち、その下は四角な箱型にくりとった身舎をおき、前面には観音開きの扉があり、身舎には五輪塔、石仏、位牌などを収納する。
★備前の諸寺(備前東部・備前北部)
◇備前佐伯妙泉寺
富榮山妙泉寺縁起:現地石碑による、ただし、大意。
当寺は日蓮宗不受不施派に属し、現在の境内地は元和5年(1619)日奥上人が備前巡錫の時、宿泊せし金谷新兵衛尉の住居跡という。
寛文6年池田光政の不受不施派弾圧により宗堂村妙泉寺は廃寺となる。住僧春雄院日雅は出寺し、この地に妙泉庵を開基し、爾来佐伯地方不受不施派内信の需要拠点となる。
明治9年不受不施派再興がなり、龍華教院(祖山)佐伯教会となり、昭和22年富榮山妙泉寺と改称する。
(妙泉寺18世眞行院日随)
妙泉寺は妙泉庵の後身・系譜を継ぐ。
よって、次に「妙泉庵系譜」を転載ずる。(「日蓮宗不受不施派読史年表」)
◇妙泉庵歴代:佐伯、系譜7
開基 春雄院日雅:松壽庵開基、貞享元年10.6 ※開基日雅に「ついては、直下に記載あり。
2世 寂照院日玄:松壽庵2世・生前庵開基、貞享元年12.14 ・・・
3世 法照院日學、元禄15.8.2、字休(久)月 4世 法周院日饒、享保15.8.21、字隆照 ・・・
5世 法輪院日照、宝暦4.2.13、字隆存 ━ 照月日在、延享2.10.12 ・・・
6世 教住院日出、享和2.8.29、字隆照 常在庵 ・・・ 7世 法住院日道、享和2.9.30、字通山
━ 實相院日善、寛政9.7.1、字通觀|了應院日山(眞善庵・大教庵)、寛政3.6.2|
8世 常住院日照、文化14.11.15、通山 |法玄院日秀、天明4.2.1、字隆山|久月院日永、寛政11.10.5
・・・ 9世 本珠院日近、文政13.5.19、字義山 ━ 一心院日福、文政12.8.28、字深達|義浄日求
・・・ 10世 勇猛院日進、天保9.3.23、字是精 ━ 了恵院日義 (※11世の記載なし) ・・・
12世 圓妙院日亮(大樹庵24世宣妙院日正弟子)、慶應3.8.11、字自覺 ----------
妙泉寺13世 速成院日解:祖山36世、大正13.4.5 妙泉寺14世 詮量院日壽:祖山37世、益原、昭和12.8.3
妙泉寺15世 宣正院日學:祖山38世・40世、矢田部、昭和53.1.13 妙泉寺16世 妙泉寺17世
妙泉寺18世 眞行院日随
◇春雄院日雅上人 備前宗堂妙泉寺(備前磐梨郡宗堂村中)出寺、佐伯妙泉庵・備前平井松壽庵の開基
備前法華の系譜>不受不施派の分裂と動向>「導師派(堯了派、日指派、堯門派)と不導師派(講門派、津寺派)とに分裂」 にあり
要約: 寛文の法難以降、美作久世では春雄院日雅の妙泉庵の影響下の内信組織が活動していたと思われる。
当然、美作久世の内信組織・看経講には日雅の本尊が授与されていた。ところが日雅の本尊は内信・清者を列名にして授与していた本尊であった。
天和2年(1682)岡山城下で法立宗順が内信の看經の導師をしたことが発覚、法立宗順が導師を務めたことは別に問題ではないが、この問題の追及の過程で、日雅の本尊が問題視され、つまり内信を巡る清濁の問題に発展する。
また日雅に加えて、讃岐流僧日堯も内信・清者を列名にした本尊を授与していたことにも発覚する。
ことは寛文の法難以降に生じた内信の根本に係る問題であるから、さらに問題は拡大し、清濁を巡り、日指庵の覚隆院日通と津寺庵の覚照院日隆を中心とする二者の異義となって争う抗争に発展する。
さらに、この抗争は当時の不受不施派の指導者も二分する事態となる。
即ち、日堯・日了・関東の長遠寺日庭は日指庵日通を支援し、日向の日講・京に潜伏の岡山蓮昌寺出寺日相・佐渡阿仏房出寺の最勝院日養は津寺庵日隆を支持という構図となる。
現在に続く、日指派・津寺派の異議分裂の端緒となる。
2024/04/12撮影:
備前佐伯妙泉寺1 備前佐伯妙泉寺2
佐伯妙泉寺本堂1 佐伯妙泉寺本堂2 佐伯妙泉寺客殿・庫裡
妙泉庵・妙宣寺墓所:向かって左が妙宣庵、正面が墓所
妙泉庵: 妙宣庵の扁額と納骨堂の木札を掲げる。推測するに、この堂宇はおそらく明治9年不受不施派が再興され、佐伯教会が設立された時の建物で現在は納骨堂として使われているであろう。(推測)
佐伯妙泉寺妙宣庵1 佐伯妙泉寺妙宣庵2 佐伯妙泉寺妙宣庵3
妙泉寺墓所
佐伯妙泉寺墓所:南から望む、西面、北面、東面の3面に例題墓塔が並ぶ。
妙泉寺墓所西面 妙泉寺墓所西面・文字入れ:日正聖人・日蓮大菩薩・大覺大僧正・日奥聖人と並ぶ。
妙泉寺墓所北面 妙泉寺墓所北面・文字入れ
妙泉寺墓所東面 妙泉寺墓所東面・文字入れ
墓所西面
日正大聖人供養塔 日蓮・日朗・日像三菩薩 大覺大僧正供養塔:大僧正大覺和尚 日奥大聖人供養塔
墓所北面
未判読墓塔1:「妙法 雲?■院・・・」
看經三千部成就宝塔:「南無妙法蓮華経 看經/三千部/成就」
未判読墓塔2:「妙法/■覺?院日閑?・・・・・・/■■院日■・・・・・・・」
※「■覺?院日閑?」は矢田部六人衆の一人である「妙覺院日閑」と推定される。「■■院日■」は不明。
※日閑:佐伯本久寺出寺僧で、矢田部(佐伯)六人衆の一人である。。
開基・日雅聖人墓塔:「南無妙法蓮華経 日雅聖人」:妙泉庵開基春雄院日雅の墓塔
四世・法周院日饒墓塔:「妙法 法周院日饒位」:日饒は妙泉院4世
五世・日照并七世日道墓塔:「妙法/法輪院日照/法住院日道」:日照は5世、日道は7世
漸讀妙經一萬郶成就宝塔:「南無妙法蓮華経 奉漸讀妙經 萬郶」
六世・教住院日出墓塔:「一如 教住院日出 位」
慈念日久法師墓塔:「妙法 慈念日久法師」:日久については不詳、祖山妙覚寺不受不施派法中供養塔(覺位/法師)に刻銘がある。
勇猛院日義聖人墓塔:「妙法 勇猛院日義聖人」:「備前法華の系譜」>「日献と日徳」の項より転載。
文久2年(1862)和宮が将軍家茂に降嫁、大赦の噂が広まる。大坂にいた日正は備前に帰り、精力的な諌暁を企図する。 諌暁の要点は不受不施派公許と施王院日妙の赦免である。
京都では関白近衛忠熙に対して純妙院日献が、江戸では老中板倉勝静に対して十妙院日徳が出願する
元治元年4月、日徳の供であった勇猛院日義は備前に帰り、藩主池田茂政に直訴を敢行する。 日義は入牢し、拷問の果てに落命する。
日義は平井の住民によって葬られ、藩吏によって埋葬された遺体は密かに発掘され、正式な不受不施葬が行われたという。
墓所東面
未判読墓塔3:全く判読できない。
一妙院日徳聖人墓塔:「南無妙法蓮華経 一妙院日徳聖人」:十妙院日徳については上の日義聖人墓塔中に記事があるが、一妙院日徳と同一の僧侶であるかどうかは示寂日が不明ではっきり分からない。(別の僧侶と思われる。)
智慶院日賀徳位墓塔:「南無妙法蓮華経 智慶院日賀徳位」:祖山妙覚寺不受不施派法中供養塔(徳位)に刻銘がある。
智順院日随徳位墓塔:「南無妙法蓮華経 智順院日随徳位」:祖山妙覚寺不受不施派法中供養塔(徳位)に刻銘がある。
常照院日玄覺位墓塔:「南無妙法蓮華経 常照院日玄覺位」:祖山妙覚寺不受不施派法中供養塔(覺位/法師)に刻銘がある。
體周院日詮法師墓塔:「南無妙法蓮華経 體周院日詮法師」:祖山妙覚寺不受不施派法中供養塔(覺位/法師)に刻銘がある。
浄光院法恵日修覺位墓塔:「南無妙法蓮華経 浄光院法恵日修覺位」
慈圓院智徳日満法師墓塔:「妙法 慈圓院智徳日満法師」
妙泉寺歴代墓塔・正面
妙泉寺歴代墓塔・側面1 速成院日解聖人:祖山36世、妙泉寺13世、矢田部、大正13.4.5
詮量院日壽聖人:祖山37世、妙泉寺14世、益原、昭和12.8.3
宣正院日學聖人:祖山38世・40世、妙泉寺15世、矢田部、昭和53.1.13 裏面は未確認
妙泉寺歴代墓塔・側面2
眞行院日随聖人:妙泉寺18世、岡山出石町、平成10.2.17
当山先師之霊石塔:妙泉寺歴代法務係の僧侶の法名が刻まれる。裏面は未確認。
妙泉寺蘭石塔2基:妙泉寺墓所入口付近に2基の古い蘭塔に石塔を載せた蘭石塔がある。
しかし、2基とも刻銘が判読出来ず、被葬者は不明である。
妙泉寺蘭石塔その1 妙泉寺蘭石塔その2
◇備前佐伯本久寺:和気郡寺山村
2018/10/10追加 ○平凡社「日本歴史地名大系 34 岡山県の地名」 より
大王山と号する。かって大王山の八合目付近に真言宗蜜言(厳)寺(みつごん)という寺院があった、後に山麓に遷り正善寺と称する。その後、宇喜多土佐守忠家(直家実弟)が当地方を領した時、日蓮宗に改宗し、本久寺と改称したという。忠家は熱心な日蓮宗徒であり、一族の庇護のもと、寺院は繁栄するという。
寛文6年(1666)池田光政の不受不施派弾圧により、寺中の5坊は還俗し、残る5坊の住僧は立退きとなり、廃寺となる。(寛文年中古寺趾書上帳)
しかし当地は不受不施信仰の強固なところで、禁制後も多数の内信者が存在した。
矢田部六人衆の中心妙覚院日閑及び作州福田五人衆の中心堅住院日勢は当寺出寺僧である。
→備前矢田部法難:矢田部六人衆
貞享4年(1687)還俗していた元住職の一雨院日宝の嘆願により再興される。(寛文年中古寺趾書上帳) 当寺は安房小湊誕生寺末であったので、再興後は悲田不受不施派に属し、元禄4年(1691)同派の禁制後は受布施となる。そのため表向き当寺の檀徒となっている内信者との間で対立紛争がしばしば発生する。
※再興時に小湊誕生寺末となったと思われるも未確認。
境内に蜜厳寺の塔であったという九重石塔(元亨2年/1322銘)と五重石塔(元亨4年銘)がある。 本堂は天正11年(1583)の建築で慶安4年(1651)修理の桃山建築である。(棟札)
※和気郡矢田部村:寺山村の西に位置する。
当村は河本一族を中心に不受不施内信者が多く、本久寺出寺僧日閑も潜伏する。 寛文8年日閑及び河本五兵衛などいわゆる矢田部六人衆は柳原刑場で処刑され、一族は追放される。六人衆の墓・殉教碑がある。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
天正年中(1573-92)の創立、開基華光院日東、開基檀越宇喜多忠家、松ヶ崎法縁、小湊誕生寺末。
天正年中に真言宗蜜厳寺を改宗、大王山中腹より現在地に移転。
寛文年中に藩主光政の弾圧を受け、22年間無住であったが、本山の変更、松ヶ崎檀林出身の受け入れ等で復興が許される。
歴代は以下である。(一部)
開基檀越宇喜多忠家 1世 華光院日東:慶長16.10.2 ・・・
4世 慈雲院日元:貞享5.3.2:中興開基、墓塔あり 5世 一雨院日寶:貞享5.4.23 ・・・
6世 覺雄院日宣大徳:元禄6.10.13、墓塔あり(写真の掲載せず) 7世 常修院日觀大徳位:墓塔あり(写真の掲載せず)
8世 本立院日融大徳:墓塔あり(写真の掲載せず) ・・・・・・・ ○宇喜多土佐守忠家:
宇喜多直家実弟であり、兄の直家を補助し、宇喜多家の隆盛に意を尽くすと云われる。
直家の死後、直家の嫡子秀家の後見を果たし、その後隠居して安心と号し、晩年は秀吉との縁で大坂に居住する。
大阪の夏の陣の坂崎出羽守直盛は、忠家の子息である。
忠家は備前にある頃から日蓮宗に深く帰依し、天神山城攻略の後、直家から佐伯のこの地を与えられると、太王山にあった真言宗密巌寺に日蓮宗への改宗を迫る。しかし密巌寺に拒まれると寺を破却し、天正11年(1583)その一部を移築、自らの居城跡にこの本久寺を創建する。
慶長14年(1609)2月15日没。法名は了心院殿道益日得大居士。
内室は法光院妙壽と号し、本堂に天正11年(1583)施主・法光院妙壽と記した棟札が残るという。(「岡山の建築)」)
○「岡山の門」岡山文庫136、小出公大、日本文教出版、昭和63年 より ●本久寺仁王門:
寛文6年(1666)岡山藩の寺院淘汰により廃絶するも、貞享4年(1687)還俗していた元住職の一雨院日宝の嘆願により再興される
仁王門は正面6m(通路巾2.3m)側面3.7m、入母屋造本瓦葺の八脚門(三間一戸)で江戸中期・18世紀中葉の建築と見られる。
※なお、廃絶理由及び時期はWebで調査するも情報なし。 ◎ありし日の本久寺仁王門:
仁王門は現在(2024/04/12)退転し、礎石呑みが残る。
本久寺仁王門1:ブログ「2019-12-16 和気町 本久寺」 より転載
本久寺仁王門2:ブログ「岡山のお出掛け日記 和気郡和気町 『法泉寺〜本久寺』」 より転載
本久寺仁王門3:「岡山の門」 から転載
2024/12/06追加:ページ「<岡山県備前市>妙圀寺・宝鏡寺<岡山県和気郡和気町>本久寺・本成寺・実成寺・法泉寺・長泉寺<岡山県岡山市>実教寺」 より転載
本久寺仁王門4 本久寺仁王門5 ○「岡山の建築」岡山文庫13、昭和42年 より ●本堂:
基壇の上に亀腹を設け、南面して建つ。 入母屋造、本瓦葺。5間(45尺)×6間(64尺)の大建築である。軒は二重繁垂木。
粽つきの円柱を用い、組物の間には人物・花鳥の彫刻を入れた蟇股を置く。四面に縁を巡らせ、正面・背後に1間の向拝を付設する。
この本堂には土佐守内室法光院妙壽が施主となって建立した天正11年(1583)の棟札があり、慶安4年(1651)建立の棟札も残る。
建築自体は天正11年の建立を裏打ちする特色が多いが、天正以前の室町期の古材も使われ、さらに江戸初頭と思われる意匠も見られる。
おそらくは大王山から移した古材を使いながら天正期に日蓮宗本堂を建立し、慶安期に大修理したものと思われる。 ○日閑日清
寛文の殉教者、本久寺で修行する。(「現地案内板」より) ただし、日清については情報がなく、全く不明。
日閑について:本久寺出寺僧で、日閑聖人供養塔(推定)が佐伯妙泉寺にある。
2024/04/12撮影:
本久寺山麓題目碑 本久寺仁王門下寺号碑
本久寺仁王門跡1 本久寺仁王門跡2:在りし日の写真は上に掲載。
本久寺本堂1 本久寺本堂2 本久寺本堂3 本久寺本堂4 本久寺本堂5
本久寺本堂6 本久寺本堂7 本久寺本堂扁額
本久寺本堂細部1 本久寺本堂細部2 本久寺本堂細部3 本久寺本堂細部4
本久寺本堂細部5 本久寺本堂細部6 本久寺本堂細部7 本久寺本堂細部8
本久寺本堂細部9 本久寺本堂細部10 本久寺本堂細部11
本久寺鐘楼1 本久寺鐘楼2 本久寺鎮守:三十番神?
本久寺客殿・書院1 本久寺客殿・書院2 本久寺客殿・書院3 本久寺大玄関
本久寺築地塀1 本久寺築地塀2 本久寺推定坊舎跡1 本久寺推定坊舎跡2
本堂前題目石その1:花押は日蓮か 本堂前開堂四百年記念碑 本堂前題目石その2
旧密厳寺五重石塔
天明4年(1784)大王山から移築。元亨4年(1324)銘があり、初重塔身に四方仏が彫られる。
旧密厳寺五重石塔11 旧密厳寺五重石塔12 旧密厳寺五重石塔13
旧密厳寺五重石塔14 旧密厳寺五重石塔15
旧密厳寺九重石塔 大正2年大王山密厳寺跡から現在地へ移築。高さ6.75m。花崗岩製で、塔身、笠はともに一つの材を加工して造る。
側面に「元享二(1322)年壬戌八月六日」の銘が刻まれるという。また、背面に「備前国佐伯庄太王山密厳寺」と刻すという。
初層塔身に四方仏を彫るのは上記の五重石塔と同じ。相輪は欠失し、宝篋印塔を載せる。
旧密厳寺九重石塔11 旧密厳寺九重石塔12 旧密厳寺九重石塔13
本久寺歴代墓所:次のような墓塔及び歴代墓塔も比較的多く残る。
本久寺歴代墓所1:右端(向かって)が日蓮500遠忌報恩塔、その左は日像500遠忌報恩塔
本久寺歴代墓所2:右端は開基宇喜多忠家墓塔
日蓮500遠忌報恩塔:側面「為五百年紀報恩謝恩也」、天明元年(1781)である。
日像500遠忌報恩塔:正面「日像菩薩五百遠忌報恩謝徳」、天保12年(1841)である。
開基宇喜多忠家墓塔:正面「當山開基了心院殿道益日得大居士」、慶長14年(1609)2月15日没。
當山中興開基慈雲院日元墓塔:正面「當山中興開基慈雲院日元覺位」とある、本久寺は貞享4年中興なるが、4世日元が中興上人であろう。
◇備前佐伯六人衆・二十八人衆墓所(矢田部法難・六人衆)
備前矢田部法難:矢田部六人衆の詳細は>備前法華の系譜>備前矢田部法難:矢田部六人衆 を参照
及び 正之氏サイト(拙サイトに組入)M寛文の法難と矢田部六人衆 を参照
〇「禁制不受不施派の研究」宮崎英修 より 和気佐伯六人衆墓地
「南無」とだけ刻む供養塔がある。その下には寛文七庚牛年三月十日の日付が2段に分けて刻まれる。これは日奥の寂年月日である。
○矢田部六人衆(佐伯六人衆)とは以下をいう。 1、妙覚院日閑 佐伯本久寺出寺僧。 寛文八年六月十九日寂。二十八歳。
2、河本仁兵衛 〔蓮通院日達〕寛文八年六月十九日寂。日閑兄 三十一歳とも。
3、河本五兵衛 〔蓮光院日長〕 寛文八年六月十九日寂。日閑父 六十五歳。
4、河本喜右衛門〔通円院日教〕 寛文八年六月十九日寂。 三十九歳。
5、松田五郎衛門〔清覚院日有〕 寛文八年六月十九日寂。 二十七歳。
6、花房七太夫 〔法雲院日祐〕 寛文八年六月十九日寂。 三十一歳。
※日閑:本久寺出寺僧で、日閑聖人供養塔(推定)が佐伯妙泉寺にある。
◎矢田部六人衆墓所 2024/04/12撮影:
矢田部六人衆案内石碑:南方500mにある。
墓所殉教六人衆石碑:矢田部六人衆墓所にある。昭和25年3月上澣建立。
矢田部六人衆墓所・墓塔
矢田部六人衆など墓塔1:全容
矢田部六人衆など墓塔2:全容・文字入れ
六人衆・廿八人衆・日學石塔1 六人衆・廿八人衆・日學石塔2:六人衆・二十八人衆・日學聖人供養塔の3基
推定「南無」「日奥」・三菩薩・日理・日香石塔:南無推定日奥。日蓮日朗日像三菩薩・日理墓塔・日香墓塔の4基
矢田部六人衆墓塔
矢田部六人衆供養塔1:写るのは鞘塔 矢田部六人衆供養塔2
矢田部六人衆供養塔3:鞘塔内部に六人衆の墓塔がある構造と思われる。
矢田部廿八人衆墓塔
寛文法難廿八人衆霊位石塔1 寛文法難廿八人衆霊位石塔2:正面:妙法寛文法難殉教者廿八人衆霊位
廿八人衆霊位石塔・左側面 廿八人衆霊位石塔・裏面 廿八人衆霊位石塔・右側面
日學聖人墓塔
日學聖人石塔:日學とは、祖山38・40世宣正院日學であろう、宣正院は矢田部岡崎家二男で当地矢田部の産である。
「南無 推定日奥」供養塔
推定「南無」「日奥」供養塔1
推定「南無」「日奥」供養塔2:ほとんど読めないが、中央上部には「■無」(南無)とあり、向かって左下には「日」とある。
推定するに、上記の「禁制不受不施派の研究」でいう「南無」「日奥寂年月日」を刻む供養塔であろう。
日蓮日朗日像三菩薩(推定大覺」石塔:備前法華
日蓮日朗日像三菩薩(推定大覺」石塔
日蓮日朗日像三菩薩(推定大覺」石塔2:正面下部には「(南無妙法蓮華経)日蓮大菩薩/弘安五(壬午)/十月十三(日)」と刻む。
弘安五(壬午)/十月十三(日)は日蓮の寂年月日
日蓮日朗日像三菩薩(推定大覺」・右側面:「南無妙法蓮華経 日像菩薩/康永元壬午(年)/十一月十三日」とあり、
年紀は日像の寂年月日である。
日蓮日朗日像三菩薩(推定大覺」・左側面:「(南無妙法蓮華経)日朗菩(薩)/元應二(庚申)/正月(廿一日)」とあち、
元應二(庚申)/正月(廿一日)は日朗の寂年月日
※正面・判読不能石塔の背面は未確認であるが、三面の刻銘と備前法華の石塔建立の通例から判断すれば、 背面は大覺大僧正とその寂年を刻するものであろう。
本城院日理墓塔
本城院日理墓塔:正面:「南無妙法蓮華経 ・・本城院日理徳位」読み取り難いが本城院日理であsろう、
日理は「祖山妙覚寺:不受不施派法中供養塔(徳位)」に刻銘がある。
本城院日理墓塔・右側面:「日正弟子字即中享年四十又六」 本城院日理墓塔・左側面:「明治二十五年壬辰九月十一日」
本浄院日香墓塔
本浄院日香墓塔:正面「南無妙法蓮華経 本浄院日香聖人」:日香は「祖山妙覚寺:不受不施派法中供養塔(聖人)」に刻銘がある。
本浄院日香墓塔・右側面:「日解弟子字春海祖山能化法泉寺/三十一世一等中座玉谷裕平三男」
本浄院日香墓塔・左側面:「昭和十五年十月六日/四十五才迂化」 矢田部六人衆墓所詰所
◇備前父井妙浄様
※父井妙浄様(妙浄尼祠)の所在は把握出来ず(未見)。 ○正之氏ページ「矢田部六人衆」 より
寛文六年(1666年)には池田光政の暴政に対する抗議が続いていた。 備前父々井村では「真如院妙浄日能」尼が断食入定する。
○「不受不施派殉教の歴史」 より
佐伯町父井原には妙浄尼の断食死の跡には小祠が立つ。
○「ブログ:第268回 旧佐伯町東半分の磐座・社寺を訪ねて」 より転載
真妙院妙浄日能尼御霊地(父井) 不受不施信仰弾圧で断食入定地。
寛文六年(1666)のこと。 因みに断食は50日前後続くもの。(建部田淵家に殉教者の記録あり)
真妙院妙浄日能尼祠
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より 父井村妙浄尼墓
◇備前矢田北向穴観音
○現地案内板 より
矢田の北向き穴観音由来:(意訳・要旨)
日蓮宗不受不施派における内信とは、徳川幕府の禁教法度の下、表面は他宗の檀家となるも、心中では、不受不施の道念を堅持して護法を続ける執念をいう。
勿論、不受不施信仰の中心は曼荼羅に尽きる。であるならば、観音が不受不施信徒によって祭祀されたのは奇異に映る。
しかしながら、苛酷な不受不施派禁制の下にあった当時の信者たちは、苛烈な法度の眼を潜るいわば手段として、観音の慈眼を隠れ蓑として内信を厳修し、この観音洞穴を道念堅固の道場としたのである。
2024/04/12撮影:
穴観音参道中半の石灯籠:この石灯籠は山麓から観音洞穴の参道道中半に建つ。
明治9年丙子4月12日建立と刻する。この日は釈日正、教部省へ出頭・公許の申渡を受けた記念日である。
内信信者の熱気が伝わる刻銘であろう。
矢田穴観音参道石階 矢田穴観音石灯籠 矢田穴観音手水
矢田穴観音洞穴1 矢田穴観音洞穴2 矢田穴観音洞穴3
矢田穴観音・観音祠:厨子あるいは宮殿
日蓮・大覺・日奥供養塔1
日蓮・大覺・日奥供養塔2:「南無妙法蓮華経 南無日蓮大菩薩/南無大覺大僧正/南無日奥大聖人」と刻す。
慈眼視衆生石塔:観音菩薩の慈しみの眼が衆生を視守るという意であろう。
題目碑・観音菩薩:「南無妙法蓮華経 観音菩薩」と刻する珍しい題目塔である。
善妙院日眞・法輪院日照墓塔:
善妙院日眞墓塔は「妙法 善妙院日眞徳位」と刻む、日眞は大樹庵25世、宣妙院日正弟子、明治4.10.8、祖山妙覚寺「不受不施派法中供養塔(徳位)」に刻銘がある。
法輪院日照墓塔は「實相 法輪院日照徳位」と刻む、日照の事績は不詳。
2024/11/05追加:
◇備前和気郡天瀬村番神社
所在:34.84065631617705,
134.12598661910832、天神山(城跡)の西麓に位置する。
明治8年天瀬村は川本村と合併し岩戸村となり、佐伯町岩戸を経て、現在は和気町岩戸である。
江戸末期家数48軒、うち45軒は和気本成寺檀家、残り3軒は矢田の(天台宗)杉沢山長楽寺圓了院檀家。
番神についてのWeb情報は皆無、GoogleMapの写真のみで天瀬の番神を知る。 ○GoogleMap より
天瀬番神堂:2015/04撮影、中央上方に拝殿が写る、手前の片上鉄道廃線跡から撮影
天瀬番神堂拝殿:2024/01撮影
天瀬番神堂拝殿前石標:2024/05撮影、「番神様境内地岩戸三五一・・・」とある。
天瀬番神堂手水・常夜灯:2024/01撮影
天瀬番神堂拝殿・本殿:2024/05撮影、拝殿の後ろに写るのは本殿であろう。
天瀬番神本殿1:2024/01撮影 天瀬番神本殿2:2024/05撮影
天瀬番神・不明社殿:2024/05撮影、本殿と同じ形式の社殿であるが位置が不明である。
傍らには「南無妙法蓮華経 奉口唱玄号壱千部成就」の石碑及びその後に説明板(内容読めない)、さらに石塔がある。
玄号とあるのが気がかりであるが、題目が刻まれているので、法華経一千部の意味であろう。
上記石碑及びこの地域の信仰分布から「石塔」にも「題目」が刻まれている可能性が高いと思われる。
◇備前天瀬屋敷跡・墓碑:詳細は全く不明
天瀬駅跡東すぐにある。ただし、何らかの屋敷跡及び墓所と思われるが、全く不明である。単なる個人の屋敷跡及び墓所であるかも知れない。
2024/04/12撮影:
天瀬不明屋敷跡1 天瀬不明屋敷跡2 天瀬屋敷跡前墓所
天瀬屋敷跡墓塔:正面「妙法 地主/行者 灵 / 九月朔日」とあるが、側面など未確認で時代などは不明。地主行者とはおそらく尊敬すべき修行僧がいて、土地の守り神として、ここに祀られたものとも思われる。
天瀬屋敷跡墓塔その2:妙法とあり、また江戸中後期の年号が読み取れるので、日蓮宗の信徒の墓塔と推定される。
◇備前益原法泉寺・大樹庵
益原法泉寺は大樹山と号する。日蓮宗不受不施派に属する。元は不受不施派であった岡山蓮昌寺末。
寛文6年(1666)寺中本行坊は還俗、善正坊は他国を徘徊し行方不明となり、廃寺と成る。(寛文年中古寺趾書上帳)
禁制下、益原はほぼ全村が不受不施派内信であり、大樹庵が設けられる。
不受不施派再興後、明治11年益原教会所が設立され、本堂が建立される。明治36年法泉寺の寺号公称を公称。 →詳細は「和気大樹山法泉寺」を参照
境内に大覺大僧正真筆と伝える康永元年(1342)銘の題目石がある。 →詳細は「大覚大僧正自筆題目石」を参照
○「岡山・備前地区の寺」岡山文庫195、川端定三郎、1998 妙泉寺
元和元年(1615)1月、瀬戸町万富宗堂妙泉寺・雲哲日鏡が毒殺され、その弟子日雅が佐伯の豪族金谷の屋敷跡に庵を結ぶ。
これが、現妙泉寺の始まりである。(「妙泉寺文書」)
大樹庵であった頃の詳細な情報はないが、以下の【系譜】が知られる。 ○「日蓮宗不受不施派讀史年表」昭和53年 より
益原大樹庵【系譜】 大樹庵 開基:日尊:5.1
※寂年不明、日尊は禅宗法泉寺住持、日奥の教化で改宗、日蓮宗大樹山法泉寺の開基 2世:善正院日相:寛永17.8.4
3世:正覚院日儀:萬治元.11.30 4世:正覚院日了:延宝8.4.2 5世:持正院日縁:元禄10.1.26字理圓
6世:善受院日浄:元禄10.2.8字理順 ・・・ 自證庵開基:長遠院日庭
遠成院日源(日庭弟子):宝永3.2.24字清運 7世:本性院日學(遠成院日源弟子):享保8.6.21
8世:善行院日清(遠成院日源弟子):享保14.閏6.23字友善
9世:立圓院日信(遠成院日源弟子/唯紫庵3世):享保16.11.21字楚全
清順院日近(遠成院日源弟子):享保3.7.2 琢善院日検(遠成院日源弟子):宝永6.10.8
存益日周(遠成院日源弟子):宝永3.4.1 受清日修(遠成院日源弟子):宝永4.2.12
孝運院日得(遠成院日源弟子) 彫要院日光(遠成院日源弟子):元禄12.3.16
堅性院日臻(自證庵3世/日庭弟子):元禄16.1.2字理證
高遠院日達(9世日信弟子):享保2.10.25大坂喜平次こと
松壽院日珠(9世日信弟子):元文3.8.28字圓海
12世(10世):行法院日観(8世日清弟子):明和8.10.19字理然
11世:立行院日善(8世日清弟子):享保20.3.17字清立
自妙院日友(8世日清弟子):享保10.7.26字清友
経行院日要(8世日清弟子):寛延4.10.5字玄友
13世:久遠院日然(12世日観弟子):宝暦4.閏2.26字源清/玄精
観厚日静(13世日然弟子):宝暦2.8.19
14世(13世):正行院日遊(12世日観弟子):天明元.8.24字秀観
壽観日登(12世日観弟子):元文5.10.9
義聞院日理(11世日善弟子・2世日観弟子):元文2.7.15
10世:要行院日富(経行院日要弟子):享保12.7.12字幸清 ・・・
15世:孝行院日忠(14世日遊弟子):天明4.12.27字理観 榮成日秀(14世日遊弟子):宝暦9.6.4
16世:理山院日澄(正行庵5世/14世日遊弟子):天明5.7.12字理山 ・・・
本妙院日珠(本妙庵6世):文化14.12.15字了本
17世:浄光院日隆(本妙院日珠弟子):寛政5.10.17字本城/周山 18世:圓住院日壽:寛政7.8.17字了賢
19世:勇行院日長:文化12.2.21字源清 20世:如法院日来:文化12.8.25字自得
法泉院日勝(如法院日来弟子):文政3.8.3
21世:源浄院日學(22世とも/勇行院日長弟子):文政7.2.27字随法 ・・・
本光院日喜(本妙庵9世):文政2.3.10 22世:清浄院日諦(本光院日喜弟子):文政11.3.23字了辨
修乗院日解(本妙庵8世・勇行院日長弟子):文化3.4.9字可了
観正院日勲(勇行院日長弟子):文化6.6.5 智賢日恵(勇行院日長弟子):享和2.9.3
蓮入院日求(勇行院日長弟子):文化11.10.24字清友
法眼院日行(勇行院日長弟子):文化10.9.27字随順
聞随日喜(勇行院日長弟子):文化6.6.29 観厚日静(勇行院日長弟子)
観光院日宣(唯紫庵8世):享和2.11.1字了本
隆賀院日光(観光院日宣弟子・勇行院日長弟子):享和3.11.1
常修院日法(勇行院日長弟子):文化8.10.29字純正
常摂日心(勇行院日長弟子):文化9.11.2
浄顯院日義(勇行院日長弟子):文化5.6.15字随玄、大教庵 ・・・
23世:開悟院日清:文政12.6.11字友善 ・・・
照光院日恵(松壽庵13世・生前庵12世・唯紫庵11世):文久4.1.10字智諦
24世:宣妙院日正(照光院日恵弟子):明治40.1.6 25世:善妙院日眞:明治4.10.8
圓妙院日亮(妙泉庵12世・宣妙院日正弟子):慶應3.8.11字自覚
覺玄院日如(生前庵14世・宣妙院日正弟子・照光院日恵弟子):文久3.7.26字文雅
智寛院日等(宣妙院日正弟子):安政3.8.23 微妙院日浄(宣妙院日正弟子):安政7.2.4
智妙院日暢(宣妙院日正弟子):文久3.7.3 眞如院日是(宣妙院日正弟子):元治元.10.2
随聞院日淵(宣妙院日正弟子):慶應2.8.28 本立院日廣(宣妙院日正弟子):慶應2.9.16
幽玄院日就(宣妙院日正弟子):明治5.9.1
勇猛院日義(宣妙院日正弟子):元治元.10.19字清意
遠成院日解(宣妙院日正弟子・祖山36世):大正13.4.6
詮量院日壽(宣妙院日正弟子・祖山37世):昭和12.8.3 ━━━
益原法泉寺31世:本浄院日香(遠成院日解弟子):昭和十五年十月六日/四十五才迂化 益原法泉寺34世:眞行院日随
◇備前益原佛性院日奥供養塔(日奥隠し墓)
○所在:緯度・経度:34.8189322,134.1462472 日奥隠し墓所在地々図
日奥隠し墓所在地々図:法泉寺の東方・山裾に所在する。 日奥隠し墓道入口
日奥隠し墓道入口写真:GoogleMapより、獣避け柵があるが、開閉柵を開けて参拝可能。但し開閉柵は確実に施錠(針金)すること。
〇「禁制不受不施派の研究」宮崎英修 より 和気益原番神山日奥聖人隠し墓
安永8年5月10日に建立された供養塔には「南無 中開佛奥上」とある。 「中興開山日奥上人」の意であろう。
※禁制下であり、公になれば苛酷な弾圧が待つも、それでも全村が内信の村の信仰は揺るがず、抵抗の證として、日奥の供養塔が建立されたということであろう。 2024/04/12撮影:
佛性院日奥隠れ墓
佛性院日奥隠れ墓石塔1
向かって左から、曳■大自在天神石塔・常夜燈・日蓮大菩薩500遠忌石塔・題目石 法界・佛性院日奥隠れ墓と並ぶ。
佛性院日奥隠れ墓石塔2
曳■大自在天神石塔:「為■衆生■/南無曳■大自在天神/現無量神力」
※「曳■大自在天神」とは不明、一般的に大自在天は仏法守護紳とも云われ、法華経守護紳・衆生救済・・などのため、無量神力に縋る意味合いで建立差tれたのであろうか。
隠れ墓常夜燈
日蓮大菩薩500遠忌石塔正面:「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」
日蓮大菩薩500遠忌石塔右側面:「五百御遠諱」 日蓮大菩薩500遠忌石塔左側面:「安永十辛丑十月十三日」1781年
題目石・法界・正面:「南無妙法蓮華経 法界」
題目石・法界・右正面 題目石・法界・左正面:いずれも「草書」様で判読できず。
佛性院日奥供養塔
◇備前和気本成寺:日什門流
○本成寺発行「ルーフレット」 より 顯本法華宗・日什門流、豊昌山と号する。
天正2年(1574)和気村倉新右衛門、寺山の麓に草庵が建立される。 寺山の麓には字「坊」が3ケ所あるといい、そこに建てられてのであろう。この草庵が本成寺の前身という。
慶長元年(1596)和気村秋山道智(天神山城主浦上宗景家臣)現地に堂宇を再興し、和泉堺妙國寺より本行院日然を請じ、本成寺開基とする。
日然はその後、京都妙満寺27世常楽院日経上人に帰依し、慶長6年(1601)本山より日什門流本成寺の開山として補任される。
現在次の堂宇・石塔類などがある。
本堂:小規模ながら、桃山期<慶長6年>の建立であり、彫刻・彩色に桃山期の華やかさを残し、町文である。
※本堂は3間×3間、入母屋造本瓦葺、前後に一間の向拝を付設する。
仁王門:慶應2年(1866)再建、仁王像は元禄7年(1694)京仏師の造立である。 日蓮大菩薩石塔:安永7年(1778)建立
日什上人石塔:寛政元年(1789)建立
和気富士山麓の大題目岩:大題目岩建立には、本成寺檀信徒の協力があった経緯から、本成寺の所有である。
※大正3年大阪の商人・田中佐平次が本成寺檀信徒の仲介により永代供養と天下安寧を願い本成寺へ寄進するという。 2024/04/12撮影:
和気本成寺遠望1 和気本成寺遠望2
本成寺仁王門1 本成寺仁王門2 本成寺仁王立像1 本成寺仁王立像2
本成寺寺号碑 本成寺境内1 本成寺境内2 本成寺境内3 本成寺鐘楼
本成寺本堂1 本成寺本堂2 本成寺本堂3 本成寺本堂4 本成寺本堂5
本成寺本堂6 本成寺本堂7 本成寺本堂8 本成寺本堂9 本成寺本堂扁額
本成寺位牌堂 本成寺位牌堂内部
◇日蓮・日什宝塔場
日蓮・日什石塔1 日蓮・日什石塔2
日蓮大菩薩石塔:向かって左の石塔は「開基日然石塔」 日蓮大菩薩・開基日然石塔 開基日然上人石塔
日什上人石塔1 日什上人石塔2:向かって右は「日蓮供養塔」
日蓮・日什宝塔場/日蓮供養塔:花押は日蓮と推定される。
題目塔・為法界:延宝七己未(1679)の年紀がある。
題目塔・法界■灵供養:向かって右にも宝塔があるが、判読不能
◇歴代墓所
本成寺歴代墓塔1 本成寺歴代墓塔2 本成寺歴代墓塔3
本成寺歴代墓塔4
◇仁王門入正面宝塔
仁王門入正面宝塔1 仁王門入正面宝塔2:向かって右の2基は刻銘から俗人の墓塔と思われる。
仁王門入正面宝塔3:4基はその刻銘から俗人の墓塔と思われる。
唱満一千部成就宝塔:「南無妙法蓮華経 奉唱満一千部信・・」
題目塔・法界その1 題目塔・法界その2:「南無妙法蓮華経 法界」
題目塔・一千部法界供養:「南無妙法蓮華経 一千部法界供養/事一念三千・・/是好良薬・」 題目塔・日蓮
◇本成寺境内宝塔
題目石4基1 題目石4基2
題目塔・日久:正面:「南無妙法蓮華経 當山■■/日久」、但し日久とは不詳。
題目塔・日蓮:正面:「南無妙法蓮華経 日蓮」、側面:「安永八己亥年竜隼/春三月下旬建立」
※安永8年は1779年であるが、日蓮500遠忌は天明元年(1781)であるので、おそらく日蓮500遠忌報恩塔であろう。
題目塔・日什:正面:「南無妙法蓮華経 日什/在■」、側面:「奉口唱玄号一千部成就/為開山四百遠忌御報恩」
題目塔・一千五百部成就:「南無妙法蓮華経 一千五百部 法界」と刻む。
題目塔・日什600遠忌正面:正面:「南無妙法蓮華経 日忠(花押)」
題目塔・日什600遠忌側面:側面:「奉口唱玄号壱千部成就/為什祖六百遠忌遠報恩」
◆備前和気郡和気町(概ね第2次和気町)
◇備前吉田善正坊遺跡
○「現地説明板」和気町 より(大意) 善正坊日泉上人
善正坊日泉上人は吉田村慶運山妙久寺(注)の住僧であり、益原村法泉寺末寺(おそらく寺中)善正坊で修行する。
当時、金剛川はたびたび堤が決壊し、氾濫を繰り返してした。そのたびに修理を繰り返しても効果がなく、村は困窮していた。
この状態を見た善正坊日泉は築堤の難工事を救済すべく決心をし、堤の底に自ら人柱となる。
時は寛永11年(1634)頃の7初22日という。 堅い信仰心で村人と善正坊日泉上人は結びついていたというべきであろうか。
村人は感謝の念で、堤の下に「善正坊」の供養塔を建立し、毎年供養を続け今に続くという。 毎年8月21日が供養祭である。
供養塔は昭和41年和気町指定文化財となる。
なお、供養塔は現県道拡幅の時、現時点より東約20mに移設され、平成9年再度この地に移設される。
(注)吉田村慶運山妙久寺は寛文6年池田光政によって廃寺となる。 「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」中の284を参照。
<284 和気郡 吉田村 慶雲山 妙久寺 住僧還俗神職となる> ○Webサイト:「和気町文化財」>「史跡」 より
善正坊の碑 自然石に「南無妙法蓮華経」「日泉霊」「寛永十一年七月二十二日」と刻まれている。
慶運山妙久寺の僧・日泉の供養のために建てられた碑である。(補足)寛永11年(1634) 登録日 昭和41年4月1日
2024/04/12撮影: 3基の石塔と推定善正坊日泉上人廟(堂宇)がある。
善正坊顕彰遺跡1 善正坊顕彰遺跡2 善正坊顕彰遺跡3
善正坊日泉供養塔1 善正坊日泉供養塔2
善正坊日泉供養塔3:次が銘文である。 寛永十一年甲戌 ・・
南無妙法蓮華経 日泉灵 施主 ・・ 七月二十二日 ・・
と刻すが、施主云々は判読できない。
(誦経)妙典一千部成就石塔:次のような銘文と推認する。
判読し難く、誤読の可能性があるが、次のように読める。 ・・・・・・・ 奉・・・・妙典一千部成就
十月十三日
不明石塔・石塊
推定・善正坊日泉廟所 推定・善正坊座像日泉:堂内
◇備前藤野實成寺:和気郡和気町藤野348
○實成寺寺伝(HP) より この地には、天平時代から「藤野寺」という和気清麻呂の菩提寺があった。
しかしながら、源平合戦などの戦乱を経ることで、時の流れとともに荒廃し、塚と番神堂を残すのみとなる。
その址に、元和5年(1619)福昌山實成寺の基となる「福昌寺」が建立される。
池田藩の廃寺政策により、不受不施派に属する福昌寺は一度廃寺となるも、檀信徒の方々の大きな力によって、津高にあった「實成寺」を移し再興の運びとなる。
→ 「福昌寺」については備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧の原番286を参照
元禄3年(1690)福昌山實成寺として再興される。 ○「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
元和5年(1619)古代伽藍である藤野寺址に京照院日妙が法榮山福昌寺を建立する。
寛文6年(1666)福昌寺は不受不施派である故に、岡山藩主池田光政の不受不施派弾圧によって廃寺となる。
※福昌寺僧乗仙は不受不施弾圧に身をもって抗議するため、自ら薪を積み衆人環視の中で火定する。(Wikipedia)
元禄3年(1690)藤野村の篤信家である大里正万波籐右衛門によって福昌寺の再興が企てられるも、 当時は新寺建立が認められず、津高郡野々口駒井山實成寺の寺号を移し、再興される。
○「日蓮宗寺院大鑑」大本山池上本門寺、昭和56年(1981) より 「大観」には天正14年(1586)の創立。開山は實成院日典とある。 ※創立年・開基は野々口駒井山實成寺のそれである。
岡山蓮昌寺末
○平凡社「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より
廃寺となった野々口實城寺本堂は元禄3年(1690)城下蓮昌寺によって、和気郡藤野村の實成寺本堂として移築される。
→ 野々口實成寺については備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧の原番136〜141(實城寺)を参照
2024/04/12撮影:
藤野實成寺門前1 藤野實成寺門前2 藤野實成寺山門 藤野實成寺山内
藤野實成寺本堂 藤野實成寺鎮守:三十番神か 15+
藤野實成寺客殿 藤野實成寺庫裡1 藤野實成寺庫裡2
題目石・日蓮大菩薩
題目石など4基:題目石は3基 20
題目石など4基2:向かって左から、「奉勧請■藤大明王」・「題目塔・日蓮大菩薩」・「題目塔・日像菩薩」・「題目・宝篋印塔」
題目石・性格不明
和気氏経塚 實成寺大銀杏 實成寺歴代墓所
なお、この實成寺は古代藤野寺跡に建立されたということであるので、次に藤野寺について若干の記載をする。 ◇藤野廃寺
○「岡山県の地名」日本歴史地名体系34、平凡社 より 藤野廃寺:
金剛川と日笠川の合流地点の平野部の中心に廃寺は位置し、古代和気郡の中心であったと想定される。
礎石は知られていないが、六葉複弁蓮華文軒丸瓦・唐草文軒平瓦などが出土する。奈良前期の様式を示し、氏寺として奈良前期の創建された寺院跡とされる。
一般には「源平盛衰記」に記載されている藤野寺の跡とされている。 ○「現地案内板」 より
藤野寺は和気寺(現和気町稲坪の塔田)とともに奈良期に和気氏の氏寺として建立された寺院である。
現在は別寺院の日蓮宗福昌山實成寺が建てられているが、境内から奈良期の古瓦が出土している。
「源平盛衰記」には木曾義仲軍の倉光成澄が妹尾兼康に夜討されたのが、ここ藤野寺という。
◇備前藤野乗仙坊五輪塔
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和51年 より 藤野北村の實成寺の東に五輪塔がある。
※所在場所不明で、実見せず。
五輪塔のある場所は、寛文6年(1666)池田光政の不受不施派に対する備前313ヶ寺棄却、僧侶585人追放の弾圧に、藤野法榮山福昌寺乗仙坊(正善坊)はこれに悲憤し、自ら薪を積み衆人環視の中で、火定(焼身・自死)した場所である。
※乗仙坊に(正善坊)とカッコ書きがあるのは意味不明である。
なお、この場所は土地台帳にも乗仙坊と登録され、地元民もそう呼んでいるとのことである。 乗仙坊五輪塔
◇備前和気大題目岩
和気富士南面の岩に彫られる。「曽根の大題目岩」と称するという。
高さ17m42cmという。和気町文指定。顯本法華宗本成寺管理。
明治天皇の死去の追悼と法界の供養のために、強信の法華宗徒である大阪の商人・田中佐平治が本成寺に奉納するという。
大題目岩は大正3年に完成し、翌年落慶する。 近年文字の一部が崩落したが、平成29年に修復される。 ◇蚕霊之碑
大題目岩隣には「蚕霊之碑」がある。 底辺は8m 高さ8mの自然岩に彫られる。
表面「蚕霊之碑」、左面「昭和九年四月建立」、右面「発起者 和氣郡繭賣買業組合」とあるという。 2024/04/12撮影:
和気富士・大題目岩:中央が大題目岩
和気大題目岩1 和気大題目岩2 和気大題目岩3 和気大題目岩4 和気大題目岩5
和気蚕霊之碑
◇備前赤坂郡福田村
〇「岡山県の地名 日本歴史地名体系34」平凡社 より ※現赤磐市福田、周匝の南
川沿を倉敷往来・片上往来が通る。
村内に日蓮宗相応山覺乗院(「備陽国史」では真福寺)があったが寛文年中廃寺となり、跡地は池敷となる。
〇「寛文6年の廃寺一覧」 から
229 赤坂郡福田村 相應山覺城院 住僧還俗、弟子某還俗神職となる 寛文年中廃寺となり、跡地は池敷となる(寛文年中亡所仕古寺跡書上帳)
〇「備前法華の系譜」 から 明治9年の岡山県内の教会所12あり、 第11教会所:赤坂郡福田村 とある。
※この教会所が次の縁起にあるように、福縁山詮量寺と寺号を称したと考えられる。
◇備前福田詮量寺
詮量寺に関する情報はほぼ皆無であるが、唯一 〇「福縁山 詮量寺(赤磐市福田550)」 というページが存在する。
以下転載する。 本尊 十界曼荼羅 縁起 : もと庄屋の延原量平の居宅であったが、後に金川の不受不施派の教会所として使用していたのを、大正に至り、昇格して福縁山詮量寺と改称し、現在に至る。開基は祭壇の位牌により、正妙院日寂上人(大正五年十月十六日迂化、和気法泉寺26世)である。
※正妙院日寂は祖山妙覺寺の「不受不施派法中供養塔(聖人)刻銘」にその名を刻す。
檀徒は福田・周匝・高田・稲蒔・塩田等に散在している。
〇拙「備前法華の系譜」>◇釈日正の再興運動(明治以降(「岡山県史 第10巻 近代1」1986) より 第11教会所:赤坂郡福田村 とある。
2024/10/23日: ○「日蓮宗不受不施派讀史年表」 より 明治13年12月1日:
坂坂郡周匝村福田に一民家を買い入れ、福田教会を設立・公許される。 昭和22年6月28日:
福田教会を福田山詮量寺に改称。
2024/04/10撮影: 祖山妙覚寺jに属する。
備前福田詮量寺11 備前福田詮量寺12 備前福田詮量寺13:寺号碑
備前福田詮量寺14 備前福田詮量寺15 備前福田詮量寺16
備前福田詮量寺17:五輪塔:日蓮大菩薩/日奥大聖人/日正大聖人
◇備前磐梨郡稗田村
石蓮寺の南麓に位置し、稗田村の南には可真村が展開する。野間村は稗田村の西に位置する。
明治22年、町村制の施行により、磐梨郡可真下村、可真上村、弥上村、野間村、稗田村、石蓮寺村が合併して村制施行し、可真村が成立する。
〇「寛文6年の廃寺一覧」 によれば 264 磐梨郡可眞下村 圓成寺善行院 住僧還俗
265 磐梨郡可眞下村 圓福寺圓柳坊 住僧・弟子某還俗 釈迦多寶愛染不動鬼子母神十羅刹女次右衛門所持
266 磐梨郡可眞下村 高照寺教覺院 住僧還俗 267 磐梨郡可眞下村 道幸寺正林坊 住僧還俗
268 磐梨郡野間村 法花山大谷寺 住僧還俗 269 磐梨郡稗田村 法榮山妙光寺覺成寺 住僧還俗
270 磐梨郡可眞上村 妙圓寺仙林坊 住僧還俗 271 磐梨郡可眞上村 大高寺大藏坊 住僧還俗
272 磐梨郡可眞上村 慶運寺 住僧還俗 とあり、可真村を中心として、寛文年中に日蓮宗寺院が潰滅している。
「岡山県の地名」は何も語らないが、村の経済力から判断して、以上で示される日蓮宗の寺院数は過剰と思われる程多い。
つまり、この地方は、強固な日蓮宗不受不施派の基盤であったと推測できる。そして寛文の廃寺の後もこの地方には堅く不受不施信仰が根付き絶えることがなかったと推測する。
不受不施派である稗田正妙寺寺歴についてはまったく情報がないが、明治になり不受不施派が再興された時、この地方の宗徒が結集して、自らの信仰拠点として不受不施派正妙寺を建立したのであろうと推測する。
◇備前稗田正妙寺:不受不施派
赤磐市稗田にあり、正妙寺は自身のサイト「龍華山正妙寺」を開設している。
しかしながら、サイトには「日蓮宗不受不施派」の解説・由来についての掲載はあるが、寺歴の掲載は一切ない。 であるので、正妙寺の詳細は一切不明である。
〇サイト:「津島の名刹「妙善寺」 − トップページ」>「小山益太」 より
室町時代、足利義政の妻日野富子が移り住んだという(根拠は不明)赤磐市稗田に、代々名主を務める小山家があった。
不受不施信仰の篤い当主の子どもとして文久元年(1861)に生まれた益太(号は、楽山)は、園芸に強い関心を持っていた。
彼は、農業だけでなく、この地で果樹栽培を可能にしたいと考え、裏山を開墾し果樹を植え、創意工夫を重ね、ついに桃の新品種「金桃」「六水」を生み出した。
やがて、彼の評判は、大原孫三郎の知るところとなり、大正3年(財)大原奨農会農業研究所(現岡山大学資源生物科学研究所)招聘される。
研究所では、「水密桃」の栽培に成功し、今日の果物王国岡山の礎を築く。大正3年没。 ※小山益太の肖像は正妙寺にある。 2024/04/10撮影:
石灯籠の銘に「竣工記念/平成25年/神田講社・・・」とあるので、堂宇は平成25年に造替されたのであろう。
なお、神田とは可真上村の字に神田があるので、その地域の講社であろう。 備前稗田正妙寺11 備前稗田正妙寺12 備前稗田正妙寺13 備前稗田正妙寺14
備前稗田正妙寺15 備前稗田正妙寺16
◇備前赤坂郡斗有村
現赤磐市斗有 〇「岡山県の地名 日本歴史地名大系34」平凡社 から 村内を倉敷往来が通り、西に抜ければ、金川に至る。
寛文6年日蓮宗尾野岡山妙蓮寺(金川妙國寺末)が廃寺となる。 寛文6年の廃寺一覧: 194 赤坂郡 斗有村 尾野岡山
妙蓮寺林正坊 9)金川妙國寺末 住持出寺、弟子某還俗 9)小野岡山妙蓮寺が廃される。(撮要録)
なお、日蓮宗不受不施派中興の租と云われる日珠は斗有村の産である。 2024/09/22追加: ◆本妙院日珠略伝
→備前赤坂郡矢原中に本妙院日珠略伝あり。
〇サイト「岡山の街角から」>備前県民局エリアの地名の由来>赤磐市斗有 から
地名の由来 赤磐市の内、旧山陽町の北西部に斗有という地名がある。 読み方は「トアリ」という。
この変わった地名の由来については、赤磐郡誌に興味深い記述がある。 かつて斗有の土地は悪く、その為に税が免除されていた。
その事から不入斗(いりやまず)と呼ばれていた。
不入斗は関東地方で散見される地名で、寺領や荘園などの税が免除されている土地を指す。
後に土地改良の甲斐もあり年貢を納めることになり、そのため、斗有に改めたのだとか。
漢字は現在の斗有の他に、江戸時代には「戸有」の書き方も見られる。
◇備前斗有妙蓮寺
現在は赤磐市斗有、不受不施日蓮講門宗寺院である。 松光山妙蓮寺と号する。
※この山号寺号から判断すれば、山号松光山は斗有の隠れ庵室:松光庵に由来し、寺号妙蓮寺は寛文6年廃寺となった尾野岡山妙蓮寺に由来することは間違いないであろう。
松光庵は斗有にあったとされ、おそらく現在の妙蓮寺は庵室の跡あるいは妙蓮寺の跡であったののかも知れない。(推測) →備前法華の系譜>地下に潜った不受不施派中に禁制下の庵室一覧を掲載。
→尾野岡山妙蓮寺は上の斗有に掲載。
なお、西方に山越え(銭瓶峠)をすれば、大鹿圓立寺に至り、そこから國ヶ原光雲寺を経て、旭川を渡れば、そこは野々口である。
2024/04/10撮影: 妙蓮寺墓所には天保法難で殉教した大阪衆妙庵関係の法立(恵秀院日寛/恵察院日長/台山院日照/智元院日東)の墓塔(供養塔)が残るには特筆すべきことである。
備前斗有妙蓮寺1 備前斗有妙蓮寺2 備前斗有妙蓮寺3
備前斗有妙蓮寺4:不受不施日蓮講門宗/松光山妙蓮寺とある。
備前斗有妙蓮寺湧水
妙蓮寺供養塔11:向かって左から、講門派再興50年記念碑、日蓮大菩薩石塔、日朗・日像・大覺石塔、南無日蓮大菩薩石塔、
日寛・日長墓塔、日照・日東墓塔
妙蓮寺供養塔12:左から、日蓮大菩薩石塔、日朗・日像・大覺石塔、南無日蓮大菩薩石塔、日寛・日長墓塔、日照・日東墓塔、
不詳の石塔2基
妙蓮寺供養塔13:左端は南無日蓮大菩薩石塔、判読出来ない石塔が多い。
妙蓮寺供養塔14:左端は日蓮大菩薩石塔、判読出来ない石塔が多い。
妙蓮寺供養塔15:左端は「妙法 本・・・・」としか判読できない、側面は安政の年紀か?
妙蓮寺供養塔16:左端は「妙法 本・・・・」の石塔、他の石塔もほとんど判読できない。
妙蓮寺供養塔17:ほとんど判読できず。 妙蓮寺供養塔18:ほとんど判読できず。
妙蓮寺供養塔19:大徳と読める墓塔もあり、これらの石塔は僧侶のものと思われる。
妙蓮寺供養塔20:中央は連記「宗休■■■/要法院■■」とある。その右は「文化五戊辰・・(※文化5年は戊辰)」あり、
その右は「妙法 正流院■・・・」「天保四巳年(※天保4年は癸巳)」と読める。
妙蓮寺供養塔21:「妙法 持法院■■」などと読める石塔もある。
講門派再興50年記念碑
講門派再興50年記念碑・正面:
正面: 本宗再興第五十年記念
恵蓮院日心聖人 ※備前鹿瀬本覺寺36世 中興開祖佛生院日奥聖人
南無妙法蓮華経 派 租安國院日講聖人
本華院日心聖人 ※備前鹿瀬本覺寺38世
■■六年五月七日建之 ※■■は昭和、昭和6年は再興50周年
日蓮大菩薩石塔
日朗・日像・大覺石塔 日朗・日像・大覺石塔・正面:南無妙法蓮華経 日朗菩薩/日像菩薩/大覺大僧正
南無日蓮大菩薩石塔
◇恵秀院日寛/恵察院日長/台山院日照/智元院日東墓塔(供養塔) 日照・日東・日寛・日長聖人墓塔:2名連記で、2基並んで建つ。
恵秀院日寛/恵察院日長石塔1 恵秀院日寛/恵察院日長石塔2
いずれも、判読しずらいが、
妙法/恵秀院日寛/恵察院日長/霊(?) と思われる。 なお、台石正面は判読出来ない、塔身両側面・背面は未確認
台山院日照/智元院日東石塔1 台山院日照/智元院日東石塔2
これらも判読しずらいが、
妙法/台山院日照/智元院日東/■ であろう。
なお、台石正面は判読出来ない、塔身両側面・背面は未確認 ----------- 恵秀院日寛:
本山備前本覺寺32世、衆妙庵9世、天保9年(1838)7月河内北条光長寺で捕縛(天保法難)、入牢、牢死す。天保9年7月19日寂。
台山院日照:
本山備前本覺寺33世、衆妙庵10世、天保9年7月天保法難(高津町・町医者宅で捕縛)、入牢、牢死す。天保10(12)年7月20日寂。
智元院(東事院)日東: 本山備前本覺寺34世、
天保9年7月河内北条光長寺で捕縛(天保法難)、入牢、牢死す。天保9年7月19日寂。
恵察院日長: 天保法難、和泉より紀伊へ逃亡中寂す、天保9年7月29寂。 → 備前法華の系譜>天保法難中に記載あり。
→ 本山備前本覺寺・衆妙庵系譜
◇備前磐梨郡宗堂村
〇「岡山県の地名 日本歴史地名体系34」平凡社 より
日蓮宗妙泉寺は京都妙覚寺末であり、堅固な不受不施派であったため、備前藩池田光政から弾圧され、寛文6年廃寺となる。
住僧春雄院日雅雅(備前佐伯妙泉寺中)は出寺し、佐伯村に妙泉庵(松壽庵開基でもある)を営む。寺中自正院・城圓院・圓城坊がありしも、住僧が還俗させられ、廃される。
なお、参道の桜並木の桜は「弾圧」で花弁が縮み、花形が変わったと伝承する。(県天然記念物) 〇「寛文6年の廃寺一覧」 より
231 磐梨郡宗堂村 宗堂山 妙泉寺 京都妙覚寺末(金川妙國寺末)寛文6年住僧追放 釈迦多寶寺跡境内鎮守にあり、後身は佐伯村妙泉庵
232 磐梨郡宗堂村(宗堂山) 自正院 9)妙泉寺々中 住僧還俗 233 磐梨郡宗堂村(宗堂山) 城圓坊
9)妙泉寺々中 住僧還俗 234 磐梨郡宗堂村(宗堂山) 圓城坊 9)妙泉寺々中 住僧還俗 234 1
妙泉寺日雅は佐伯村に移住し、妙泉庵と称する。 234 2
日雅は久世看經講に本尊を授与するが、天和2年法立宗順が内信の看經の導師をしたことから、この本尊の是非について論争となる。この論争は導師派と不導師派との分裂の契機となる。(岡山市史、宗教教育編)
→ 備前法華の系譜>【不受不施派の分裂と動向】
○「日蓮宗不受不施派読史年表」昭和53年 より 寛文6年(1666)8月3日
備前磐梨郡大苅田村妙泉寺の住持教光坊、許可なく無住の同郡瀬戸村妙長寺に居住し、追放される。
同関係者の宗堂村妙泉寺・大苅田村妙泉寺・神田村知圓は追放され、瀬戸村庄屋平左衛門・頭百姓次郎兵衛は篭舎される。
(池田家文書「留帳」)
◇備前宗堂妙泉寺跡
〇サイト:「津島の名刹『妙善寺』 − トップページ」>「雲哲日鏡と宗堂桜」 より
寛永の頃、磐梨郡宗堂には、日蓮宗妙泉寺(不受不施派)があり、雲哲日鏡が住していた。
日鏡は若くして學徳を積み、法華経の弘教に勤め、地域で高僧との名声を得ていた。
さらに日鏡は、大変な花好きで、200mほどの参道の両側に数十本の八重桜を植え、花盛りにはそれは見事であったという。
しかし、日鏡は備前藩(池田氏)によって毒殺されるという。
当時の藩主池田光政は(反仏教・親儒教・親神道の思想であり)、「備前法華」の勢力を恐れ、ある日雲哲を後楽園の会食に招き、毒を盛る。
気付いた日鏡は、早籠で妙泉寺の桜並木まで帰り着いたが、そこで息絶えるという。(伝承)
以来、宗堂の桜は、花びらを開ききることがなく、また、他所に植えても決して育たないと云われているという。(伝承)
※寛文6年(1666)妙泉寺、備前藩の不受不施派弾圧で、廃寺となる。 〇その他のWeb情報
・妙泉寺の創建は永禄11年(1566)とされる。(※いかなる史料なのか?)
(※日蓮宗以外の寺があったのではないかとの推測であるが、永禄11年に日蓮宗に改宗とすれば、そうであろう。)
・雲哲は不受不施派の開祖といわれる日奥の弟子。(※確認がとれない。)
・現在妙泉寺跡には(おそらく鎮守であったであろう)スサノヲ神社と日鏡上人墓、題目石などが残る。
・岡山県神社庁では、スサノヲ社は寛文元年(1661)再建、創建年代・由緒は不明と記載している。
(※スサノヲという社名であるから一般論では明治維新までは牛頭天王であったと推定される、妙泉寺の鎮守かどうかは分からない。)
・拝殿の奥には三社の境内社が祀られるが、社名などは不明。
・「手洗い」は家形石棺の身で、その後ろにある「題目石」の石板は蓋である、という。
(材質・形状などから古墳の石棺の転用は有り得るだろう。) 2024/04/10撮影:
備前宗堂妙泉寺跡1 備前宗堂妙泉寺跡2:日鏡上人供養塔及び題目石
日鏡上人供養塔1 日鏡上人供養塔2 妙泉寺跡題目石 妙泉寺跡手水 妙泉寺跡小祠3宇:情報なし
スサノヲ神社拝殿 スサノヲ神社本殿1 スサノヲ神社本殿2
妙泉寺跡宗堂桜1 妙泉寺跡宗堂桜2 妙泉寺跡宗堂桜3
◇備前和気田原上妙應寺:和気郡和気町田原上1265
寺伝では、慶長8年(1603)田原上村西山城主宇喜多秀正の創立で、その子息秀景身延日乾上人に帰依し日秀と号す。 よって秀正西山城の麓に本寺を建立。身延末。時正山と号す。
なお、岡山「津倉稲荷」は本寺の別院(飛地)という。 →「津倉稲荷」については「備前御野郡上伊福村」中に掲載あり。
◇備前浦伊部妙圀寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より 浄光山と号す。六条本圀寺末、松ヶ崎法縁。
永長元年(1096)創立。隆明の草創に関わり大法院と称する。貞治5年(1366)天台宗多田山明国寺乗蓮が六条本圀寺5世日伝と法論に及び、敗れ改宗する。国守浄光院法誉源受大居士の寄進を受け伽藍を整備、末寺16、子院7院9坊を有する。
開山大円院(建立院)日伝。開基檀越多田満仲5世の孫下野守明国。
戦国期などに荒廃・焼失。天正・文禄・慶長の頃、伽藍の再建と子院の復興をなす。
12世究竟院日メi元和3年/1617/8月22日寂)は六条本圀寺から。13世顕寿院日演東山檀林開祖。
日伝、日ン凾フ曼陀羅本尊を有する。 ○「片上妙圀寺」サイト より
貞治5年六条本圀寺第5世大円院日伝(1342-1409)が西国布教の途中、浦伊部に立ち寄り、当時の住職乗蓮らと三昼夜に及ぶ法論を行い、寺は日蓮宗に改宗、その名も『浄光山妙圀寺』となる。
当時の住職乗蓮自身も改宗、日伝の弟子となり、名を久遠院日乗を改め、妙圀寺第二世となる。
天正年中、信徒浦伊部の来住法悦が諸堂復興を企て、六条本圀寺第16世究竟院日ヱm正を招請、再興を果たす。
○「岡山の日蓮法華」2019 より
天正年中(1573-93)当地の豪商来住法悦が六条六条本圀寺第16世日モ招き、復興が始まる。その後、方廣寺大仏の千僧供を巡り、不受・受の対立があり、日モヘ不受不施の立場を貫く。来住法悦と日モニの私信が現存する。
→究竟院日 →山城嵯峨常寂光寺
◇備前牛窓本蓮寺:
→備前牛窓本蓮寺
◇備前福岡妙興寺
教意山と号する。本寺については不明。
→2017/01/29追加:「KG氏」ご提供情報:本寺は小湊誕生寺である。
2018/12/23追加: 悲田不受不施派の時代があったようである。
→悲田不受不施派時代である天和3年(1683)には「悲田不受不施派岡山城下妙林寺法難」がある。 →上記の法難については初期内信法難の項を参照。
○「岡山の古寺巡礼」昭和59年 より;
応永10年(1403)播磨守護赤松氏の出である権大僧都日伝上人が父赤松右京大夫則興の菩提のため、建立と伝える。
※山号寺号は法号教意宗興に因む。(「岡山備前地域の寺」)
盛時には十数坊(10坊と1院という)があったという。寛文年中、池田光政の廃仏により、真浄坊、本住坊の2坊となり、この2坊も今は廃寺となる。(但し建物は現存する。)
享保元年(1716)堂宇を火災焼失、現在の本堂・客殿・庫裏は安永3年(1774)の再建と云う。その他西門および仁王門がある。
なお、黒田孝高(官兵衛/如水)の曽祖父・祖父の墓碑が残る。
また筑前博多の城下・福岡の名称は黒田長政(孝高の長子)が入府後に、この地福岡を偲んで命名と云う。 2018/12/23追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より 暦応元年(1338)大覚大僧正が福岡に巡錫。 永禄元年(1558)には寺域2町余に正林坊、蓮光坊、教泉坊、十妙坊、蓮成坊、林應坊、眞浄坊、正住坊、千光坊、千湯坊、自證坊を建立。寛文元年(1661)に妙興寺、眞浄坊、自證坊の1寺2坊となる。
寛文6年自證坊が本住坊と改号する。 ※寛文元年に寺中の整理が行われたようであるが、池田光政の関与があったのかどうかの言及はない。
2019/08/25追加: 〇「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より 本住院 永禄元年(1558)の創建、開基は大法院日堯(寛正2年/1461寂)、生師法縁。但し「大観」では康正元年(1544)創建という。
寛文元年(1661)寺中11坊が妙興寺・真浄院・本住院の三院に廃寺統合され、同6年にその一つの自證院が本住院となる。享保元年(1715)焼失、寛政2年(1790)再興される。
妙興寺々中本住院
真浄院 「大観」によれば、文明10年(1478)の創立という。
寛文元年(1661)寺中11坊が妙興寺・真浄坊・本住院の三院に廃寺統合される。
享保元年(1715)焼失、寛政2年(1790)再興され、その間元文元年(1736)真浄院と改称する。
妙興寺々中真浄院:既に昭和62年頃にも堂舎は退転していた模様である。
○2014/02/13追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/09/07撮影・ご提供:
備前福岡妙興寺本堂 妙興寺庫裡客殿本堂
福岡妙興寺仁王門庫裏:なお西門と仁王門の距離は極端に短いと云う。
○2017/01/01撮影:
往時からみて、衰微したのであろうが、それでも往時の風格を残す印象である。
備前福岡妙興寺山門 妙興寺門前題目碑 妙興寺山門仁王門
備前福岡妙興寺仁王門1:寛保元年(1741)建立。
備前福岡妙興寺仁王門2 備前福岡妙興寺仁王門3
備前福岡妙興寺鐘楼
備前福岡妙興寺本堂1 備前福岡妙興寺本堂2 備前福岡妙興寺本堂3
備前福岡妙興寺本堂4 備前福岡妙興寺本堂5
妙興寺客殿庫裏 備前福岡妙興寺客殿 備前福岡妙興寺庫裡1 備前福岡妙興寺庫裡2
備前福岡妙興寺拝殿 妙興寺拝殿本殿:残念ながらこの拝殿・本殿の名称は判明せず。
妙興寺上人堂?:堂内には袈裟姿の僧侶石像を祀る。
例えば日伝上人なのであろうか。堂の名称は判明せず。
妙興寺日蓮大菩薩碑1 妙興寺日蓮大菩薩碑2 妙興寺大覚大僧正碑
妙興寺日蓮上人遠忌碑:550年、600年、650年、700年遠忌など
かっての坊舎本住院は健在であるが、眞浄院堂舎は退転、寺門・庭などが残る。
寺中本住院
寺中眞浄院寺門:坊舎は退転するも、寺門のみ残る。
寺中眞浄院跡:坊舎は退転し、児童遊園となる。
寺中眞浄院庭園跡:遊園の中に辛うじて庭園の痕跡が残る。
戦国期の墓碑:
黒田高政墓碑:高政は永正8
年(1511)この地福岡に移住、大永3年(1522)この地に没す。その子重隆は大永5年播州に移住、重隆の子職隆は姫路城主となる。職隆の子が官兵衛孝高であり、さらに孝高の子が長政(筑前52万石福岡城主)である。
黒田家墓地か
宇喜多興家墓碑:興家は宇喜多直家の父
◇備前建部
〇「岡山県の地名 日本歴史地名体系34」平凡社 より
北側の旭川を渡岸すれば、美作福渡であり、建部・福渡は津山往来が南北に通る。 近世は岡山藩家老池田(森寺)氏の陣屋や置かれる。
建部新町は町建てがなされ、町屋が許された町であり、津山往来の宿場町でもあり、さらに岡山藩家老池田氏(初め四千石、後に一万石石)の陣屋町でもあった。
また、周囲を取り巻く村々には金川妙國寺末寺が多くあり、ほぼすべて寛文年中廃寺となる。
◇備前建部上題目碑
建部上村字願成寺の墓地下に5基の題目塔がある。
所在地:緯度経度:34.8626218208673, 133.90307913985154
この題目塔については、「建部町史」に掲載があるようであるが、「建部町史」未見につき、 〇サイト:津山往来・建部>八幡の渡近くの遺跡(願成寺の題目碑) のページより引用・転載する。(要約・大意) 大きな題目碑が三基。文字は比較的読みやすいが、字が多く、また右端の題目碑に刻まれた「清正大神祇」という文字が題目とどういう関係があるか分からなかった。その横に丸っこい自然石の碑。さらにその横に不思議な形の石碑。
この題目碑については「建部町史 地区史・資料編p338-340」に説明がある。 建部上村字願成寺の題目碑である。
1.清正大神祇題目塔 [正面] 南無妙法蓮華経清正大神祇
[右横] 一天静謐宝禄祝萬祈宮保松寿武運究千秋/円機正純■妙法流高低見聞觸真俗同共成菩提
注:■の文字は左側が「享」で右側が「月」の一字
[左横] 時維萬延肇元龍集庚申■林鐘念四/當子二百五拾年之忌景奉建立/金福山廿一世 日晉[花押]/ 應需謹書
注;■は左側が「ネ」で右側が「異」、示偏に「異」の祀るではないか、と思う。
(「祀」ではなく、禩/礼・禮の異字体であろう。)
[裏面] 発起 願主土州高智府市邑丑之助秦親忠/副司長州赤間関山田清左衛門方義
補助 里正當郡田地子邑行森源次郎正賢/伍長 當邑溝口儀三良弘近/ 同 戸田兼右衛門秀世 2.日蓮500遠忌報恩塔
[正面] 南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩 [裏面] 天明元年幸丑十月三日/五百遠忌 村中
元宝塔在建部上渡場八幡橋脚下宗祖村中 六百五十遠忌記念移転千(于)處也 村中
昭和五年五月吉日/石工福渡町山中義太カ 3.大覺大僧正題目塔
[正面] 南無妙法蓮華経 大覚大僧正、 [裏面] 文政九丙戌四月三日 4.堅牢地神
自然石の石碑であり、「津山往来氏」の読みでは「奉勧請堅牢大地神守」「衆人快楽」と刻む。、
ただし、末尾の[守]の意味が分からない。 5.建部上川渕の題目岩残欠 五基の石碑の左端は建部上の川渕にあった題目岩の破片であった(同前p340)。
不思議な石碑題目岩跡:福渡の町から八幡橋を渡り左折、少しばかり進むと急に幽すいな趣のある風景がある。 地元ではこの地を「お題目」と呼び、昔このあたりは岩が川縁まで迫って、人々は大井手の溝縁を伝って生活路としていた。
この難所では、多くの人や馬が倒れ、これを哀れんだ人々が浄財を募って、天保十一年(一八四〇)「南無妙法蓮華経」と 七字の題目を岩に刻んで、その冥福を祈ったという。
題目は妙福寺の日晉上人が書いたといわれ、その長さは約9m、岩に刻んだ一字には米が一斗五升も入ったといわれている。 この題目岩は昭和九年の大水害で崩れ落ちてしまって、今はその破片が祀られている。
(建部町史 地区史・資料編p331-332から引用) 「清正大神祇」の碑: 願主が高知(土州高智)の人であったり、副司が下関(赤間関)の人であることが興味をひく。
※高智とは現在の高知の地名のルーツであると思われる。 ※確かに、願主が土佐や長門の人物であるのは謎であるが、明治維新で土佐や長州の人間がこのあたりの「支配者」として、 赴任したのであろうか、またなぜ「清正公」なのかも謎である。
補助「里正」というのは庄屋や村長をいうこともあったようで(国語大辞典)行森さんは田地子村の村長か名主と考えて良いと思う。 岡山大学 池田家文庫 マイクロフィルム目録データベースの「払上申銭札之事」という項目の注記に「大庄屋 田地子村行森源次郎」という名前が出ている。同一人かどうかは不明だが、同じ家の人ではあろう。
田地子村は明治22年(1889)に上建部村になる(岡山県御津郡誌p70)。その時以降上建部村村長として行森猪太郎、同乾太の名がある(同前、p177)。
これらから推測して、願主「市邑」は、郡長かなとあたりをつけたが、市邑(あるいは「市村」)という苗字の人は同書p172の郡長の名簿にはなかった。県令でもない。とりあえずここでお手上げ。(補記:伍長というのは五人組頭であろうか?)
※伍長は五人組の長をいう
「金福山廿一世 日晉」は、下記の題目岩の題目を書いた僧と同一人物だと思われる。なお、金福山妙福寺は、福渡にある日蓮宗のお寺である(建部町史 地区史・資料編p194)。
※「金福山廿一世 日晉」は福渡金福山妙福寺21世觀明院日晉、明治8.2.11示寂、59歳である、前住20世日遊は慶應3年示寂。
建立年に関しては、明治初頭と推測して良いのではないか?と思う。
2024/04/11撮影:
備前建部上題目碑1 備前建部上題目碑2:向かって左端に半分程写るのが川渕の題目石残欠である。
清正大神祇題目塔:「津山往来氏」の推測の通り、明治初頭の建立であろう。
清正大神祇題目塔・左面:右横、画像が不鮮明、■左側が「享」で右側が「月」の一字という。
清正大神祇題目塔・右面:左横 清正大神祇題目塔・裏面:
日蓮500遠忌報恩塔
日蓮500遠忌報恩塔・裏面:写真が悪くほとんど読めないが、「建部町史」の翻刻を読むと、
天明元年(1781)村の講中によって、日蓮500遠忌報恩塔が建部上の渡場の八幡橋橋脚下に建立される。
その後150年後の昭和5年日蓮650遠忌の記念として、(建部下村)講中によって、この場所に移転される。
裏面の銘の様子がはっきり分からないので断定はできないが、この石碑は文字どおり移設され、造替されたものではないと思われる。
大覺大僧正題目塔:文政9年(1826)
堅牢地神宝塔
建部上川渕の題目岩残欠:向かって左端が残欠である。この石の由来は訪問の後に知り、訪問時もは写真は撮影せず。
残欠ではあるが、題目を彫った書体の一部が残存し、この題目岩の巨大さが偲ばれるものである。
なお、この題目石の背後の上段には、蘭方医石坂桑亀墓所がある。
◇備前建部上の遺跡
上記の題目碑は字願成寺にあるが、「建部上遺跡地図」に「願成寺址」と示されるように、願成寺と称する寺院があったことに由来する。
願成寺:ほとんど情報がないが、地図に示す付近から古瓦を出土という。
建部上の五輪塔:願成寺址の東南すぐにあるようで、町指定文化財、「高1.0m、建部上願成寺跡付近に位置、豊島石製。主な時代・室町から江戸」とある。あるいは願成寺に関係する石塔かも知れない。因みにこの五輪塔は「建部上題目碑」のすぐ西側の丘上にある。
法寿山古墳群:●の記号で1から32の番号が振られているが、32基の古墳が存在する。
木船の題目碑:「主な時代:安土桃山」との情報のみで、詳細は全く不明。
◇備前建部上妙浄寺
〇「岡山県の地名 日本歴史地名体系34」平凡社 より 建部上妙浄寺 日蓮宗法住山妙浄寺蓮乗院(富小成就寺末)がある。 寛文6年(1666)妙浄寺々中忠正坊住職が還俗、廃寺となる。
※寛文6年廃寺になったのは忠正坊であり、蓮乗院は存続したのであろうか?、ただ、このあたりの事は不詳である。
〇「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より 法住山と号す、富沢成就寺末、奠師法縁。
永正年中(1504-21)の創建、開山自性院日仙。 七社八幡宮の宮寺であり、天台宗金山寺末であった、金川松田氏によって改宗。
昭和47年山崩れのため、本堂・庫裡を全壊す。 2024/04/11撮影:
この妙浄寺については、時間の関係で境内地には立ち入らず、遠望のみ撮影。
山門、鐘楼、本堂、客殿、庫裡、鎮守社(小祠)、題目塔(詳細不明)、五輪塔残欠、石仏などがある。
建部上妙浄寺寺号碑:題目を刻む。
建部上妙浄寺遠望1:中央が妙浄寺である。 建部上妙浄寺遠望2 建部上妙浄寺遠望3
◇備前建部新町界隈の題目塔【4箇所】
○サイト:「津山往来 4 厳島神社
〜 八幡の渡し」 より
★現地は全て未見。案内文は全て上記のサイトから転載(要約)、写真も全てGoogleMapから転載する。
◇備前建部新町お石塔様 台橋から5分ほど歩くと左手に「お石塔様」と呼ばれる石塔群がある。
所在:34.846201949582756, 133.9047106075095
お石塔さまは2基の題目塔と1基の石灯籠からなる。 向かって左は「日蓮500遠忌報恩塔」
高さ3.3m、「南無妙法蓮華経日蓮大菩薩 五百遠忌 大恩報謝 安永七戊戌歳 四月十五日」と刻する。
なお、調査報告2p14(P214か)には「この題目碑の北側面には黄色のペンキで昭和九年九月二十一日と昭和二十年九月十七日の二度の大洪水の際の冠水線が付けてある。」と書いている。
中央は「一石一字供養塔」 高さ約2.0m、「南無妙法蓮華経
文政四辛巳天八月十三日 奉漸写妙法蓮華経一部一石一字供養」と刻する。 左端は「耕整記念碑」
耕整とは耕地整理の意であろう、大正6年建立か。 常夜燈 「元治二年乙丑四月造立」とある。
○GoogleMapから転載:
建部新町お石塔様1 建部新町お石塔様2
◇備前建部新町妙見堂題目塔
所在:34.84279986011002, 133.90477609969648
新町通りに面して、公会堂のような建物がある。
妙見堂であるという。前は、もう少し北にあったが移転した由。今でも集会に使うらしく、北側の壁に祭壇があるという(地元の人談)。
その敷地内に日蓮500遠忌報恩塔と「秀ノ海の墓」がある。
日蓮500遠忌報恩塔:題目碑は自然石風の三角柱で、正面「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」、右面「天明元辛丑十月十三日 五百遠忌」とある。
秀ノ海の墓塔:「大阪枝川内 秀ノ海竹造墓」と刻まれ、明治34年とある。
○GoogleMapから転載:
建部新町妙見堂:背後は旭川右岸堤防である。 建部新町妙見堂石塔:妙見堂に石灯籠、秀ノ海墓塔、題目塔がある。
日蓮500遠忌報恩塔 建部新町妙見堂秀ノ海墓塔
◇建部新町旭川築堤題目塔
所在:概ね 34.8405063956031, 133.90392725841852
下ノ町の通りであるが、鍵の字の道の形以外に面影を偲ぶものはない。普通の住宅地である。前記古地図には、左側に大手惣門が書いてあるが、何も残っていない。侍屋敷地だったところは田になっている。
建部町史 地区編・史料編(p501)によると西岸に古市(川市)、玄内ノ市、大手ノ市など旧建部新町の舟着場があったようなので右手に入る路地を進んで土手に出たが、一面の草原で何も見えない。
土手の手前に小さな題目碑があった。
題目はかろうじて読めるが、題目の右側に年号だと思われる戌という字、左側に月らしい字が見えるくらいで、風化が著しい。
○GoogleMapから転載:
旭川築堤題目塔1 旭川築堤題目塔2
◇建部新町観音堂題目塔
所在:34.83947840185926, 133.9026718177694
曲がり角の広場にお堂と地面からの高さ3mを超える題目碑、下之町集会所がある。 この辺から建部の陣屋町が始まっていた。
題目碑は津山往来で見たなかでも大きい部類だと思う。
(正面)「南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩」(右側面)「五百遠忌御報恩建部一宗門」(左側面)「天明元年辛丑十月十三日」と刻まれている(一部建部町誌地区・資料編p512を参考)。
お堂は孤月山金輪寺と呼ばれる観音堂。
明和2年(1765)以前の建立と言われ、建部陣屋池田藩の家臣によって関ヶ原合戦で亡くなった身内、友人の菩提を弔うための寄進であり、堂内び位牌に慶長13年(1608)の記名があるものがあるという(建部町史地区・史料編)。(建部町史 通史編、「図20 建部陣屋及び建部新町の古地図」では岡山東林寺末寺禁輪寺という文字が見える)。
観音堂の隣りに小さな祠があり、地蔵が祀られる。
○GoogleMapから転載:
建部新町観音堂題目塔:中央が観音堂、その向かって左が題目塔
◇備前建部市場浄源寺:日蓮宗不受不施派
○「清凉山浄源寺」 より 御津郡建部町市場神力602に所在する。
縁起
寛文六年(1666)不受不施禁止の命により、※西原村にあった浄源寺は、廃寺となり住僧持城院日儀は他村に隠れ、密かに信仰を維持教化し、時には移動しながら不受不施の法灯を守る。
明治九年四月、不受不施再興の公許が下され、明治十一年当地の信徒は※教会所新設願書を提出し、公許を得て翌十二年市場村一六三番地に瓦葺き平屋建て一棟を建築する。
明治十八年日蓮宗不受不施派妙覚寺建部教会所と改称する。 昭和九年水害により大損害を被る。
そのため再度の水害を恐れて、同十二年現在地に移転する。
昭和二十二年寺号を公称し、寛文六年廃寺以来※浄源寺を再興し、今日に至る。 ※西原村:
村の東部分の北は旭川に接し、西部分の北は中田村、東は鹿瀬村、西は紙工3村に接する。南は山塊である。
日蓮宗清了山浄源寺があったが、寛文6年廃寺となる。(「岡山県の地名」) ※教会所:
明治9年の岡山県内の教会所として、 第3教会所:津高郡西原村(浄源庵)がある。
戸数:216、所管する講社の所在地:鹿瀬・土師方・太田・宮地・市場・中田・西原・中泉山空・下田
(f不受不施派殉教の歴史」) ※西原浄源寺:
149 津高郡 西原村 清了山 □□(浄源)寺 龍淵寺末寺 住僧還俗 寛文6年廃寺
妙国寺本末寺諸寺誓状(寛文元年)に西原浄源寺の花押あり。
また、中田(当時は市場)龍淵寺は京都妙覚寺末、末寺に櫻村妙要寺・西原村浄源寺・清久寺(不明)があるという。
それゆえ、当時、浄源寺は不受不施であった中田龍淵寺末であった。(「寛文6年廃寺一覧」) 2024/04/11撮影:
不受不施派浄源寺1 不受不施派浄源寺2 不受不施派浄源寺3
不受不施派浄源寺4 不受不施派浄源寺5
智誠院日悟覺位墓塔:
正面:妙法 二等大衆 智誠院日悟覺位 側面:明治十六年癸未八月十四日
他の側面及び裏面未確認のため、はっきり分からないが、おそらく明治11年当地に教会所を再興した上人と思われる。
→智誠院日悟は祖山妙覺寺の「不受不施派法中供養塔(覺位/法師)刻銘」にその名を刻する。
智光院宗富日圓徳位墓塔
墓塔に刻された銘文の大意は次の通りである。
俗名は富太郎、明治18年建部町宮地に生まれ、昭和12年得度、同14年祖山に入り、同15年妙善寺に転じ、16年稗田教会所主管に補任、22年・・・叙せられ、25年下総島正覺寺に赴き、27年再度稗田正妙寺に晋住、31年9月祖山に復帰、・・・宿病再発昭和31年11月11日寂す、行年72歳・・・・・昭和32年祖山日學(花押)
禪定院玄達日研墓塔
正面:妙法禪定院玄達日研沙彌位 裏面:明治丗八年十月三日寂/建部教會信徒中建之
日研の経歴は不明ながら、沙彌であること、明治38年示寂であること、建部教会信徒の建立であることから、日悟上人の後、建部教会を束ねた僧侶であったと推測される。
◇備前津高郡富澤村
〇「岡山県の地名 日本歴史地名体系34」平凡社 より
古は小山村という。近世には富澤村と藤田村があった。
村内には足守への道が通る。その足守への道沿いに室町初期の策と推定される富澤石地蔵(延命地蔵・腰折地蔵)があり、寛保年中には爆発的信仰を集めるという。村内(藤田)には成就寺がある。
◇備前津高郡富澤村題目塔
2024/04/11撮影: 所在:34.85658734721684,
133.89609057895612
建部市場や建部中田方面から田地子川を遡り、県道71号(建部大井線)に出会う一つ手前の道を右手(富澤神社<旧番紳宮という>方向)に入り、直ぐの角にある。
因みに建部大井線を左手に入ると、富澤成就寺の仁王門に至る。 現在の所、まったく情報がなく、詳細は不明である。
富澤題目塔全容 富澤題目塔・右 富澤題目塔・中央 富澤題目塔・左
富澤題目塔・不明1:表面:南無妙法蓮華経 百題■■■■■、解読できない。
安永8年富澤題目塔:
■■■■■■■■
正面:南無妙法蓮華経 漸唱千部供■ ※漸唱とは珍しい用語であるが、漸次法華経千部誦唱が成就といういう意味か。
■■■■ 二十人 側面:安永八己亥■■■■■ ※安永8年(1779)
寛政7年富澤題目塔: 寛政七乙卯天・・・・ ※寛政7年(1795)
正面:南無妙法蓮華経 千五百■■/願主■右衛門 三月建之
富澤題目塔地神
富澤題目塔・日蓮大菩薩:正面:南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩
富澤題目塔・唱題四千部成就: 奉唱■■■
正面:南無妙法蓮華経 四千部供養
日蓮・日像・大覺大僧正宝塔石塔:正面「南無妙法蓮華経/日蓮大菩薩/日像菩薩/大覺大僧正」
◇藤田成就寺仁王門前題目石など
富澤成就寺仁王門前に3基ある。 情報皆無で、詳細は不明。
2024/04/11撮影:
仁王門前題目石など
成就寺仁王門前畜魂碑:正面の左右にある文字は全く解読できず。牛馬の鎮魂碑であろう。
日蓮大菩薩題目塔・千ヶ寺往詣成就:
題目塔・千ヶ寺往詣成就・正面:南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩
題目塔・千ヶ寺往詣成就・側面:一千ヶ寺往詣供養/玄立信士 定行院妙善日■
成就寺仁王門前不明石碑:皆目判読できないが、3文字で「■■碑」とあるように見える。ただし「碑」にように見えるだけで、確信はない。
◇備前藤田成就寺
〇「岡山県の地名 日本歴史地名体系34」平凡社 より 備前藤田成就寺 藤田にあり、藤田山と号する。
報恩大師の創建と伝え、天台宗であったが、正平年中(1349-70)大覺大僧正によって、日蓮宗に改宗。
以降、金川の松田氏の庇護の下、栄える。
文禄4年(1595)「備前國48ヶ寺領并分國中大社領目録寫」(金山寺文書)では「藤田山 三拾石」とある。
慶安3年(1648)「妙國寺寄進帳」(妙國寺文書)では「藤田村成就寺」、「妙國寺本末寺檀連印状(妙覚寺文書)では「成就寺大乗坊・本乗坊・正信坊・蓮明坊・自仙坊・大蓮坊・中正坊」の名がある。
寛文元年(1661)「妙國寺本末諸寺誓状」では「成就寺寺家中合九人」、同5年「妙國寺諸末寺宗旨改証文」では成就寺々中として「成就院、寺中慈仙坊、大林坊、學乗坊、中之坊、末寺蓮乗院、正光院、湧圓坊、本住坊」の名が見える。
同6年、中之坊、自(慈)仙坊、學乗坊は住職還俗により廃寺となるも、「備陽記」では寺中大林坊の存続は確認できる。
※寛文6年不受不施を棄教しなかった寺中は還俗を強制され廃寺となるが、一部受派に転じた寺坊は受派として存続したということであろうか。
寛文法難以降、京都妙覚寺末寺となる。
→ 備前成就寺
◇備前中田龍淵寺:建部町、白玉山と号す。
○「岡山・備前地域の寺」 より;
永正2年(1505)松田氏の開基で、大乗院日香上人を開基とする。当初は市場(中田の北方)に建立される。
慶長2年(1597)火災焼失、慶安2年(1649)化城院日城上人が再建、現在地に移す。
○2014/02/08追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2010/04/06撮影/ご提供:
備前中田龍淵寺
2014/03/02追加: ○「第7回ふるさと探訪(文化財編)資料」 より:
永正2年(1505)金川城主松田元成の開基で、その弟である大聖院日香上人開山という。
市場の深い淵を臨む所に立地し、故に龍淵寺と称す。
第4世移住後無住となり、元亀3年(1572)松田氏滅亡、慶長3年(1598)火災で類焼す。
この時、宇垣郷佐波村妙国寺(金川妙國寺)8世化城院日城上人が入山(第5世)し、本坊、庫裡、塔中1坊を再建する。
慶安2年(1649)水害を避けて、高台の現在地に移転。
寛文6年(1666)11世日賢上人の時、池田光政の寺院淘汰により、不受不施の当山及び末寺浄源寺など3寺を破却する。
その後、廃寺となることを避ける為、受派に転じた京都妙覚寺末として再建する。
現本堂は昭和12年の再建、他に鐘楼、三十番神などがある。 2018/10/15追加:
○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」平凡社 より 永正2年(1505)金川の松田氏の創建と伝える。
慶安元年(1648)妙國寺寄進帳に「竹部村龍圓寺」とあり、寛永10年(1633)の京都妙覚寺末寺帳に「武部壱ヶ寺」あるのが、これに当たると思われる。
慶安年中と推定される「妙國寺本末寺檀連印状」では龍圓寺ノ本行坊・大圓坊とあり、寛文元年の「妙國寺本末諸寺檀連印状」には「建部龍淵寺」とある。また寛文5年の妙國寺諸末寺宗旨改證文では「建部龍淵寺守應院」と「上建部白玉山龍圓寺大乗院」が見える。(参照:金川妙覚寺古文書<妙覚寺文書>:金川妙國寺中)
寛文6年(1666)池田光政の寺院淘汰で廃寺となるが、延宝9年(1681)に中田村の現在地に再興される。 →備前藩寛文6年の廃寺:
148 津高郡 櫻村 南光山 妙養(要)寺 龍淵寺末寺 住僧還俗 清久寺 寛文6年廃寺 妙國寺文書.櫻村妙要寺の花押あり。
149 津高郡 西原村 清了山 □□(浄源)寺 龍淵寺末寺 住僧還俗 寛文6年廃寺 妙國寺文書.西原浄源寺の花押あり。
150 津高郡 中田村 松本山 光元寺 住僧還俗 寛文6年廃寺
151 津高郡 中田村 (白玉山) (龍淵寺)大乗院 龍淵寺々中 住僧還俗 日蓮像、龍淵寺預 寛文6年廃寺 151-1
中田(当時は市場)龍淵寺:不受不施派京都妙覚寺末、末寺に妙要寺・浄源寺・清久寺がある。妙要寺は櫻村、浄源寺は西原村であるが、清久寺は不明。妙國寺文書.龍淵寺清閑の花押あり。
※延宝9年龍淵寺は受派として再興される。
道林寺などと同じく、おそらくは禁制下で大量に生じたと推定される受派の日蓮宗宗徒の寺請などの必要性から再興されたものと思われる。ただし、受派に転じた日蓮宗徒を濁派として批判できるのは内信などの非転向であった信徒だけで、一般人の我々が批判できるものではない。 2018/10/15追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より 永正2年(1505)の創立、開山大乗院日香(松田元成の弟)、開基檀越松田元成、奠師法縁。
4世法華法印陽翁が野山妙本寺に転じ無住となるも、元亀3年(1573)金川妙國寺8世化城院日城により復興。
慶長3年全焼す。慶安2年9世日達の時市場から現在地に移転。
寛文6年池田光政の不受不施壊滅の政策により、当寺および末寺妙要寺・浄源寺・清久寺など破却される。
延宝9年(1681)に再興し、受派に転じた京都妙覚寺末となる。 5世化城院日城の墓碑、法華塔(寛政7年)、題目碑(享保16年)がある。
また、寺寶として当山5世の曼荼羅とあるので、化城院日城の曼荼羅を所蔵と思われる。
2024/04/11撮影:
龍淵寺入口題目石 龍淵寺山門前1 龍淵寺山門前2 中田龍淵寺山門
中田龍淵寺本堂1 中田龍淵寺本堂2 中田龍淵寺本堂3 中田龍淵寺玄関
中田龍淵寺客殿 中田龍淵寺庫裡 中田龍淵寺鐘楼
中田龍淵寺鎮守1 中田龍淵寺鎮守2:3祠があるが、おそらく妙見あるいは三十番神などであるのだろうが、祭神は不明。
本堂前題目石:日蓮大菩薩銘
龍淵寺境内法華塔:「大鑑」でいう「法華塔(寛政7年)」であろう。ただし年紀は未確認。
龍淵寺境内題目塔1:「大鑑」でいう題目碑(享保16年)に該当するものであろう。ただし年紀は未確認。
龍淵寺境内題目塔2:正面:南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩/日朗高(法座)/日像菩薩
三菩薩の題目塔であるが、日朗高の次が不鮮明で、「法座」のように見えるが確証はない。日朗に高法座とは類例がなく、分からない。
●化城院日城聖人供養塔
側面:元和四年戊午四月二日と刻す、これは日城の寂年である。(「日蓮宗不受不施派讀史年表」)
他の側面、背面には各面7行にわたり日城の履歴と思われる銘文があるが、文字が小さくかつ石の文様と混ざり、判読ができない。
この供養塔の建立年が不明であるが、元亀3年(1573)日城が再興した時の建立であるにしろ、受派に転じた延宝9年(1981)以降の建立であるにしても、受派に転じた龍淵寺に現在まで伝わるのは謎であり、その理由は分からない。
※化城院日城上人について 「日蓮宗寺院大鑑」では「5世 化城院日城 元和4.4.2(1618)とある。
これによれば、日城は徐歴とはされていないようである。 →日城聖人については金川妙國寺を参照:多数関連地があり。
日蓮大菩薩石柱2基:1基は700遠忌報恩塔である。 八大龍王(雨乞)題目塔
龍淵寺歴代墓塔1 龍淵寺歴代墓塔2 龍淵寺歴代墓塔3 龍淵寺歴代墓塔4
◆備前金川近辺諸寺
◇備前鹿瀬本覚寺
久遠山本覺寺:不受不施日蓮講門宗(講門派)本山である。
明治15年不受不施講門派再興後、
禁制下隠れ庵室であった鹿瀬妙宣庵を、鷲峰教院と改称、本覚寺と号したのが現在の本覚寺の始まりである。
→久遠山本覚寺
◇備前赤坂郡矢原
矢原宗祐寺・日朝さま・矢原本妙庵
矢原村:旭川左岸に位置し、対岸(西)は金川・草生村である。
日蓮宗法昌山宗祐寺があったが、寛文6年池田光政の弾圧で廃寺となる。 ◇日蓮宗宗祐寺 ○「岡山県の地名」平凡社 より
宗祐寺:金川妙國寺末寺
慶安元年(1648)妙國寺再興のため宗祐寺檀那衆65人が銀776匁の奉加を寄せる。(「妙國寺奉加縁起之事」妙覚寺文書)
寛文元年(1661)妙國寺本末120余寺とともに、不受不施義堅持の連判をする。(「本末諸寺異体同心掟状」妙覚寺文書)
寛文6年(1666)岡山藩による不受不施派弾圧で廃寺となる。(「寛文年中亡所仕古寺跡書上帳」池田家文書)
宗祐寺廃寺後も村内の壇信徒は内信となる。 (「矢原法難」)
文政4年(1821)法立日相・日義が枝村原の仗助宅で捕らえられ、牢死する。この時家主・組頭4名も投獄される。 ここには「日朝さま」と呼ぶ不受不施内信が祀っていた小祠がある。眼病の神ということであるが、内信者の集会の場となっていた。
○「御津町史」p.891 より 日朝さま
7月30日が日朝さまのお祭りである。表は眼病の神であるが、人目につかぬ奥の間では内信社が密かに集まった。不受不施派の地下活動である。近郷から内信の日人々は勿論一般の人も多く集まったという。
備前矢原日朝さま ○「不受不施派殉教の歴史」p.147 より 岡山市北区御津矢原に所在。
本妙庵の地にある本妙院日珠の作った日朝供養塔(「ニッチョウサマ」)は眼病の神となっている。
◇矢原本妙庵
矢原村には本妙庵があった。 備前矢原本妙庵:「不受不施派殉教の歴史」p.140 から転載 本妙庵は宇垣村生前山本明(本妙)寺の出寺僧の開基であり、この意味では宇垣本明寺の後身である。 寛文6年廃寺一覧では次のようにある。
131 津高郡(宇垣村)富谷 生前山 本明(本妙)寺 金川妙國寺末 住僧還俗 寛文6年廃寺(撮要録)、枝村本明寺は貞享3年富谷と改称。後身は赤坂郡矢原村本妙庵及び金川村生前庵。
132 津高郡(宇垣村)富谷 本明寺立玄坊 住僧還俗 寛文6年廃寺(撮要録)
133 津高郡(宇垣村)富谷 本明寺蓮行坊 住僧還俗 同上 134 津高郡(宇垣村)富谷 本明寺圓立坊 住僧還俗 同上
135 津高郡(宇垣村)富谷 本明寺大教坊 住僧還俗 同上 後身は赤坂郡矢原村もしくは大園村大教庵。 135 2
河内村の母谷・富谷・山条・原では内信組織があり、弘化3年(1848)には農民83人が内信として取調べを受ける。(板野文書) 〇「日蓮宗不受不施派讀史年表」昭和53年 より 本妙庵 系譜4 ・・・・・注:大部を省略、省略部分は上著の参照を請う。 地下に潜った不受不施派の項に不受不施派庵室の一覧あり。
開基 智照院日位、元禄10.12.27寂
2世 了學院日詣、寛保2.12.3寂、字清傳 3世 静雲院日来、正徳4.9.11寂、字隆清、生前庵
4世 覺源院日養、宝暦5.2.6寂、字了清、2世日詣弟子
深窓院日到、元文元.9.1寂、字清學、正行庵2世、2世日詣弟子
2世日詣弟子として本地院日限、心月院日傳、生善院日理 が列挙される。 同じく造竟院日理ー弟子圓祐院日因
同じく妙解院日如、宝永7.8.13寂、字授真、岡山妙福寺出寺、また日如は本是院日性の弟子
5世 普應院日恩、天明6.10.20寂、字了随、4世日養弟子
4世日養弟子として蔵性院日薫(2世日詣弟子)、深解院日範(通妙院日教弟子、真善庵)、清圓院日能ほか4僧 が列挙
5世日恩弟子として観如院日逞ほか2僧挙げられるがこの2僧は退去追放とある。
6世 本妙院日珠、文化14.12.15寂、字了本、5世日恩弟子、深解院日範弟子
※本妙院日珠については、寛政5年国主諫暁を行い、三宅島に流罪となる。
不受不施派が禁制下にある中で、多くの僧侶が流罪となるが、島にありながら、不受不施派を組織し、指導をする。
その面では、流僧の中では著名であるので、直下に「■本妙院日珠略伝」を記す。
7世 了智院日祇、天保2.7.14寂、字清傳、5世日恩弟子
5世日恩弟子として12僧が列記、その中には浄光院日隆(大樹庵17世)がいる。
8世 修乗院日解、文化3.4.9寂、字可了、勇行院日長(大樹庵19世)弟子
7世日祇弟子として瑞光院日審(真善庵9世)ほか8僧が列挙 9世 本光院日喜、文政2.3.10寂、字了随、8世日解弟子
8世日解弟子として諦了院日意ほか3僧が列挙 10世 明了院日相、文政4.11.5寂、字為信、9世日喜弟子
9世日喜として清浄院日諦(大樹庵22世)ほか2僧が列挙 11世 了本院日種、文政12.2.18寂、7世日祇弟子
◇大教庵 系譜8
赤坂郡矢原村 又は大園村 ※大園村とは不明(赤坂郡・津高郡にも該当する村がない)
〇「日蓮宗不受不施派讀史年表」昭和53年 より ◇教住院日住 ─ 是運院日秀、宝永4.10.22、本明寺大教坊出寺 ─ 清涼院日言、享保11.3.25、字養(要)傳【眞善庵】
久遠院日然、宝暦10.閏2.26【大樹庵13世】┓
◇顯性院日幽、宝暦10.9.2、字了縁 ━ 應智院日縁、寛政8.1.11字冠碩
┗ 恵聞院日秀、延享3.5.26
恵教院日運、元禄5.2.26【大教庵3世】 義運院日晋、元禄6.1.11、字是秀 是眞院日隆、元禄12.9.27
相性院日教、享保4.10.29、字通圓 法光院日盈、享保8.12.3、字教傳 求法院日頂、享保15.4.6、字是教
常性院日富、元文2.9.27、字了月 青山院日照、延享3.11.9 修学院日恵、宝暦12.1.2、字志賢
観秀院日経、安永7.9.19、字利湛 ─ 陵雲院日f、天明元8.9、字陵雲
浄光院日隆、寛政5.10.17、字本城・周山【大樹庵14世】 普明院日教、享和3.12.6
覺了院日悟、文化2.3.14、字蓮圓 浄顯院日義、文化5.6.15、字隋玄、勇行院日長弟子
観月院日明、文政元.8.26、了智院日祇弟子 光詮日曉、文政4.3.8
なお、この地(矢原)には不導師派(津寺派・講門派)東智庵(開基は不明)があった(「御津町史」と云うも、詳細は不明。
-----------------------------------------------------------
■本妙院日珠略伝
本妙院日珠:祖山妙覚寺33世である。 →備前妙善寺に事績の記載あり。
また、備前法華の系譜には本妙院日珠の情報多数あり。本妙院日珠でページ検索を願う。
2024/09/28追加: 日蓮宗不受不施派中興の租と云われる本妙院日珠は備前赤坂郡斗有村の産である。(「岡山県の地名」)
〇「不受不施派殉教の歴史」 より
本著では矢原本妙庵は開基本妙院日珠とある。(p.140)しかし、これは何かの錯誤であり、事実は本明寺出寺僧の開基であろう。
p.123〜 本妙院了本日珠
文化14.12.15(新暦文政元.1.21)寂、祖山妙覚寺33世、本妙庵6世、寛政5年(1793)2月1日「法華真正行」をもって諫暁、同5年9月23流罪。同8年再諫暁せんとして果たさず。
三宅島の流僧では本妙院日珠がとくに有名である。 備前赤坂郡斗有村の生まれ。 日珠の父は岡山藩池田氏の侍医の井上立庵で400石どりであった。
立庵は後、牢人して隆安と変名し、勤皇の志士と交わり、反幕府に傾いていった。
(親藩である水戸藩が幕府の禁制を犯して不受僧日耀を招請していたことも思い起こさせる。)
三宅島で、日珠の住居跡といわれている所は伊ヶ谷村原の広瀬初五郎氏宅の敷地の左方に隣接する狭小の土地であるが、住宅は焼失し敷地は崖崩れのため変貌しているという。
日珠は文政元年(1818)在島26年56歳で生涯を終える。墓は常勝庵の墓所にある。
常勝庵は日什門流日経の流れを汲む正統院日尚や行信日進の如き内証題目講の関係があるとみられる庵である。ここの墓所には前述の日珠のほか日腰(要)・日清・日暁・日遼の墓も並んで建つ。
なお伊ヶ谷村には日珠が恩師・祖父母・父母の為に建てた報恩塔も残る。高さ2尺6寸2分・幅9寸というものであるが、文化14年(1817)の年紀と日珠の自筆花押がある。
なお、三宅島の伊豆村(伊ヶ谷村の北に接する)には次の5基の供養塔があるという。
1.日蓮450遠忌報恩塔<経行院日腰(要)建立・享和16年10月13日>
2.正統院日尚供養塔<行信日進建立>・日進の両親の供養塔・日進逆修塔 3.先師16師併記供養塔<本正院日誓建立> である。
岬への小径を下り、小川(曽里川)に出会う付近に顕本法華宗(内証題目講)日尚の供養塔の他、8基の不受不施派流僧の墓がある。
※5基の供養塔という記述と日尚+8基の墓という記述が同じ墓碑について述べているのかそれとも違う墓碑を墓塔のことを述べているのか判然とはしないが、いずれにしろ、曽里川の墓所には「日尚+8基の墓」があるのは確かのようである。
〇 「聖」 より転載
三宅島曽里川の墓碑:本正院日誓が先師18名の供養のために建てた供養塔とあるが、
上記の3.では先師16師とあり、同じものであるならば、どちらかの数字が間違っていることになる。
〇GoogleMap より転載 上記の三宅島曽里川の墓所は次のように整備されたようである。
曽里川流僧の墓所1 曽里川流僧の墓所2
曽里川流僧の墓所3:残念ながら、写真の画質が粗く、墓銘は読み取りが不可である。 ---「不受不施派殉教の歴史」終---
〇「聖」 より
◇日珠諫暁書「法華真正行」副啓
寛政5年日珠が寺社奉行脇坂淡路守に諫暁出訴した時に持参した「法華真正行」に副えられた「副啓」 ◇日珠文化7年曼荼羅:備前益原杉本家蔵、文化7年(1810)であるから、お島(三宅島)から、益原杉本家にもたらされたものである。
益原杉本家には二階に隠し部屋を持つ土蔵がある。四壁は板張りであるが、西側の奥の1枚の板は取り外しが出来、ここが隠し部屋の出入口となる、広さは3帖程で、その一部は仏壇となり、本尊を祀っていたのであろう。
日珠は江戸での国主諫暁の前の一時期この部屋に隠れていたという。 ◎杉本家土蔵(隠し部屋):「不受不施派殉教の歴史」より転載
下の写真も同一の杉本家土蔵で、より鮮明である。 ◎2019/02/10「備前法華の系譜」のページに追加:
○「岡山の宗教」岡山文庫51、長光徳和、昭和48年 より ●和気郡益原に於ける隠れ家:(二階の白線の部分の部屋に潜んでいた。)これは杉本家の土蔵である。
なお、本写真の右下は「福田人衆の墓」の写真である。 ◇日珠お島状:祖山妙覚寺蔵、子四月とあるから文化元年か同13年の書状であろう。
◇本妙院日珠墓塔:三宅島伊ヶ谷にある。後方3基の墓塔が並ぶが、その中央が日珠の墓塔であろう。
本著では「伊ヶ谷の墓地:向かって右から、経行院日要(上総行川法難で出訴流罪)、本妙院日珠、善行院日清(行川法難、日要の師、大樹庵8世)、明静院日饒、心是院日遼」と記述される。
〇GoogleMap から転載
◇日珠など墓所:中央向かって左の丘上が墓所である。中央の宝形造の堂宇は常勝庵であろう。
ただし、「聖」p.144 では、「三宅島常勝庵:現在は受派・善陽寺に属する」とある。 ◇日珠など墓所石階:三宅島の説明板があるが、少々乱暴な説明である。
◇日珠など墓塔:「聖」掲載の写真とは異なっているが、近年?に改葬されたようである。
前列向かって左から、善行院日清・日珠・経行院日要の墓塔、 後列向かって左から、日遼聖人・明静院日饒・墓銘不明(新しい墓塔か)と並ぶ。 ---「聖」終---
〇「忘れられた殉教者」 より 日珠は備前本妙庵を主宰していた。日珠は諌暁決行前、20日間の断食をして備える。
寛政5年(1793)3月寺社奉行脇坂淡路守の役宅に諫暁を実行する。 白洲にて脇坂と対面、諫暁状を将軍に取り次ぐ様に依頼する。
脇坂は諫暁状の取り下げを勧める。もちろん日珠は肯じえないから「吟味中揚り屋入り」となる。
牢内は劣悪で日珠に従っていた蓮成院日徳は体力衰え、日珠の読経をききながら牢内で息を引き取る。
3月中に3度の取り調べがあり、遠島となる。 伊豆諸島への流人を送る船は春・秋の2回江戸を出帆する。日珠が三宅島に送られたのは9月の秋船であった。
流刑地からの内信指導
流僧は命を繋ぐだけでなく、本土の内信を指導し、法脈を正しく繋がなければならない使命がある。その流僧の生活を支えたのは本土の内信組織からの物資や回向料であり、それらと書簡の往復は内証便−輸送交信の秘密ルートに委ねられていた。
本妙院日珠は三宅島伊ヶ谷村に着船するた。当時三宅島には不受不施の流僧は一人もいなかったが、迎えてくれたのは、宝暦3年諌暁して御蔵島に流された應智院日縁の周到な配慮であった。事前に日珠の三宅島配流を知っていた日縁は御蔵島から、信頼のおける船頭の市右衛門と船主の弥平とを三宅島に派遣し、日珠の世話をさせたのである。
その彼らが内信かどうかは不明であるが、間違いなく信頼のおける人物で内証便の担い手であったのは確かであろう。
日珠の内信指導は、200余人の不受不施流僧の中で、特筆すべき働きを為す。
それは、日珠の指導は自分の主催する本妙庵だけでなく、不受不施教団の統一という観点から行われたからである。 日珠の指導によって形成され始めた統一教団の骨格は天保法難で損なわれるも、教団統一を志向する考えは宣妙院日正に引き継がれ、明治9年の不受不施派公許につながってゆく。
日珠は自らも諫暁僧である故、弟子たちの諫暁への熱意を積極的に認める。
日珠の「諫暁心得」とも言うべき文書が2通残る。・・・それは実に細やかな配慮のある心得であり・・・(省略)・・・
また、本土の信者からの流僧への「お島御状」(手紙)は焼き捨てられたらしく、1通も残らないが、その信者に対する返書は多く現存する。
それは日珠の指導者としての面目が躍如としたもである・・・・(省略)・・・
日珠の条目 日珠は教団の統一にはその基礎となる明確な条規が必要と考え、三種の条規を作成する。
寛政12年(1800)の「清者式目」、享和元年(1801)の「法中式目」、文化4年(1807)の「御条目」である。 (省略)
日珠は、流僧として在島でありながら、本土内信の組織化も計る。 組織は中央と地方とに2分する。そしてそれぞれに僧の位階を定める。
即ち、中央は一老、二老、三老、中座、惣席、小僧の6階級、一老は法燈職、地方は二老以下の5階級、二老は地方法燈職とする。
地方の位階の指名は地方の自主性に任せるが、
文化12年(1815)日珠は一老:了智院日祇、二老:空席、三老:通山日照 と指名を通告する。
更に、日珠は僧の死後の尊格を定式化する。
聖人は諫暁して流罪となった僧、大徳位は諫暁して牢死した僧侶または捕縛されて流罪となった僧侶、徳位は捕縛されて牢死した僧と定める。
八丈島でも三宅島でも「島中ぜんぶが不受不施派になった時期があったと云って良い時期があった」といわれている。
もちろん、流刑地では「当人勝手次第」といえども、不受不施派を島民に布教することが許されているはずはない。
日珠は島民の中に少なくても30人の内信を得ていたという。その日珠と信徒の様子は残された手紙に記されている。
享和2年(1802)備中惣爪法難が惹起する。
同年4月24日早朝、六庵が一斉に襲われ、僧13人、法立3人が捕縛される。彼らは江戸に送られ、吟味中に了高院日誠(22歳という)と法立助次郎が落命、ついで4名の僧が改派を誓約する。
改派した4人は人足寄せ場へ収用される。つまり不受不施僧の立場を放棄した者は無宿放浪者の扱いしか受けられなかったということである。そして、その後、8人が吟味中牢死、残る寿量院日巡と恵朝院日達の2名が遠島となる。その他惣爪村々民12名が過料などの罰を受ける。
享和3年正月、日達は流罪を待たず牢死、日巡一人が春の流人船で江戸を離れる。出帆の時、本妙院日珠が後継と考える了智院日祇が大胆にも船中まで暇乞いにいったという。
三宅島で日巡を迎えたのは本妙院日珠であった。日珠によって日巡は半年間、面倒を見てもらう。(八丈島流人は全て三宅島で半年間過ごし、それから八丈島へ移される。)
--- 「忘れられた殉教者」終---
◇備前津高郡草生村
〇「岡山県の地名 日本歴史地名体系34」平凡社 及び 〇「金川町史」昭和32年 及び
〇「御津町史」昭和60年 より 草生村(草生常蓮寺)
日蓮宗常蓮寺常光院・玉圓坊・是透坊・市乗坊・光仙坊の5ヶ寺があったが、寛文6年から7年にかけていずれも廃寺となる。
常蓮寺はその寺中とともに妙國寺との間の「本末諸寺異体同心掟状之事」に「不受不施堅固」の誓約をなす。(金川妙國寺末)
「撮要録二十九、廢寺社之部抄録」(寛文6年の廃寺一覧)では次のようにある。
188 津高郡草生村 常蓮寺常光□(院 )住僧出寺 寛文9年不受不施(書物を拒否)の故、衣を剥ぎ追放(岡山市史)
189 津高郡草生村 常蓮寺玉圓坊 住僧出寺 同上
190 津高郡草生村 常蓮寺是□(透)坊 住僧還俗 寛文6〜7年廃寺。(寛文年中亡所仕古寺跡書上帳)
191 津高郡草生村 常蓮寺市乗坊 住僧還俗 同上
192 津高郡草生村 常蓮寺光仙坊 住僧還俗 同上
常蓮寺跡地は寺山と云われ、今大銀杏が1本聳えていて、その下に室町期の宝篋印塔があり、鎌倉期の骨壺も多数出土している。
室町期の瓦が発掘され、松田元隆の頃常蓮寺が建てられたという。
二年前(昭和30年)大銀杏はまさに切られようとしたが、一部の人の尽力で残される。この付近は大部分戦後畑に開墾される。
草生村には「泉秀庵」が構えられたと伝える。 ◇泉秀庵系譜【系譜12】
是俊院日友、泉秀庵開基、宝永2.5.3 照明院日然、字智幸、寛政7.11.2
寶乗院日勇、泉秀庵主、字智清、止心院日順の弟子、文久元.6.15
◇備前津高郡金川村
〇「岡山県の地名 日本歴史地名体系34」平凡社 より
松田氏は初め御野郡富山城を本拠としていたが、文明12年(1480)頃、松田元成が臥龍山に金川城を築いて移り、法華宗の強信社であった元成は臥龍山東麓(現在の岡山市北区区役所御津支所)に妙國寺を創建する。
※現在の御津支所は妙國寺→日置氏金川陣屋→金川小学校→御津支所と変遷する。
※金川城は臥龍山山頂に築かれ、西南の尾根の道林寺丸には日蓮宗道林寺が建立される。
道林寺丸は大小11段の連郭からなり、石垣構築の中心郭には一辺10mの方形基壇が残る。
この基壇は元方(道林)が建立した道林寺本堂基壇という。
永禄11年(1568)松田氏滅亡、宇喜多氏が金川を領有、関ケ原の戦いで小早川秀秋が備前に封じられれも、小早川氏は改易される。
その後、外様であるが徳川家康に繋がる姫路の池田氏が備前と因幡・伯耆に入部、最終的には寛永9年(1632)池田光政が国替えで鳥取から岡山に入部、金川は池田氏家老日置忠俊の知行地(14000石→16000石)となる。
忠俊は知行地支配のため、妙國寺を宇甘川右岸の佐波の見谷に遷し、その跡地に陣屋(御茶屋)を構える。
※妙國寺は日置忠俊によって移転されるが、忠俊による陣屋の造営で、新たに石垣なども構築され、妙國寺を偲ぶ遺構は残っていないものと思われる。
なお、幕末の医者難波抱節は日置家の侍医であり、全国にその名を轟かせた名医であり、その思誠塾には延べ1500人の塾生が学んだという。
その思誠堂跡は明治15年日正が入手し、現在の不受不施派本山祖山妙覺寺となる。
題目塔 小字東塔(とうどう): 高等学校の運動場附近、妙国寺の塔が建っていたといわれる。
◇備前金川妙國寺:寛文6年廃寺
松田元成(法号妙国、生誕年は不明、文明16年/1484.2月逝去)は舎弟日精上人を開祖として金川城下に妙国寺を建立する。
元成は代々からの日蓮宗の強信者であり、領国を皆法華となす施策を押し進め、妙国寺は寺中20坊、末寺120余寺を擁する巨刹となる。
妙國寺は妙善寺・道林寺・蓮昌寺とともに備前四大本寺の一つと称される。
西国に日蓮宗を弘教した大覺大僧正の後を受けた妙顕寺日實上人は接受的に堕した妙顕寺を退出し、妙覺寺を別立する。 これに伴い、妙國寺を筆頭とする四大本寺をはじめとする備前の有力寺院は、京都妙覚寺の末寺となる。 もとより、日實は今でいう不受不施の法義は自明の理とする立場であった。
故に、妙国寺をはじめとする備前の諸寺は不受不施堅固の気風で一致する。
以上を象徴するものとして、後世の、慶安年中といわれる「妙國寺本末寺檀連印状」や寛文元年の「妙国寺本末寺諸寺誓状 (本末諸寺異体同心掟条)」が現存する。
→ 備前金川妙國寺
◇備前金川妙國院
2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より
昭和6年見谷より金川表町に移転する。日應寺に所属、草生・金川・宇垣の信徒約120戸。 「金川町史」では 見谷(けんだに):
慶安2年(1649)妙國寺が改修されたが、寛文6年廃寺となる。
天保14年(1843)妙國院が再建されたが、昭和6年表町に移転する。跡は墓地となる。 妙國院:
表町にある。天明年中(1781-89)200年遠忌と寛政10年(1798)にできた松田歴代の供養塔、芭蕉の句碑、 元和9年(1623)の供養塔もあるが、いずれも見谷から移されたものである。
という。 →備前金川妙國寺中の●地名考を参照。
2024/10/01追加: 〇「備前松田氏の足跡を訪ねて」大村祐章(玉松会) 及び 〇「金川町史」 より ◇松田氏歴代法名: 1 元國 蓮華院殿秀厳日法大居士 2 元喬 蓮昌院殿秀賢日妙大居士:岡山蓮昌寺建立
3 元泰 蓮光院殿燈明日經大居士 4 元房 蓮光院殿法泉日浄大居士
5 元方 恭罠院殿道林日覺大居士:金川道林寺建立 6 元運 寶相院殿現妙日行大居士
7 元澄 正覺院殿妙善日孝大居士:津島妙善寺建立 8 元成 華光院殿妙國日唱大居士:金川妙國寺建立
9 元勝 元勝院殿皓月日勇大居士 10 元保 安院殿蓮孝日猛大居士 11 元盛 成就院殿蓮盛日進大居士
12 元輝 聚要院殿蓮忠日解大居士 13 元賢 究意院殿浄榮日等大居士
ただし、「備前松田氏の足跡を訪ねて」には2〜3明らかに誤植と思われるものがあり、それは修正している。 2024/04/11撮影:
備前金川妙國院11 備前金川妙國院12:門の表札には「日応寺分院 妙國院」とある。
備前金川妙國院13 備前金川妙國院14
松田氏歴代の3基の供養塔:
本堂横に松田氏の3基の供養塔が並ぶ。 向かって左から、「松田氏代々城主大居士供養塔」、「華光院殿妙國日唱大居士供養塔」、「松田左近将監藤原元成代々墓」である。
「華光院殿妙國日唱大居士供養塔」は無縫塔で周囲には、元成以外の松田氏12名の法名を刻むという。
元成300遠忌である寛政10年(1798)に建立という。(「備前松田氏の足跡を訪ねて」)
この3基の供養塔・3基の供養塔前石灯籠・五輪塔・本堂前石灯籠・本堂下石灯籠はすべて見谷の妙國寺から遷されたものという。
妙國院松田氏供養塔1 妙國院松田氏供養塔2
華光院殿妙國日唱大居士供養塔1 華光院殿妙國日唱大居士供養塔2
この供養塔は無縫塔である。
正面:「妙法 華光院殿妙國日唱大居士」と刻み、左右には
初代の「蓮華院殿秀厳日法大居士」及び13代の「究意院殿浄榮日等大居士」と刻む。
因みに、「華光院殿妙國日唱大居士」松田元成の法名である。
華光院殿妙國日唱大居士供養塔・側面1 華光院殿妙國日唱大居士供養塔・側面2
刻銘されたすべての法名は未確認であるが、元成以外の松田氏12名の法名を刻むという。
松田氏代々城主大居士供養塔:少々画像が粗いが「妙法松田氏代々/城主大居士」と刻む。
松田左近将監藤原元成代々墓:一層画像が粗いが「松田左近将監藤原元成代々墓」と刻するように見える。
以上の3基の供養塔の前に石灯籠3基が建つ。
松田氏供養塔前石灯籠3基
3基のうち2基はそれぞれ「五百遠忌御寶前」「安永九庚子年(1780)」、「常夜燈」「享保三戊戌年」と刻む。残る1基は未確認。
※安永9年銘の500遠忌の灯籠は日蓮のものであろう。日蓮上人五百遠忌正当は天明元年(1781)であるので、
日蓮上人報恩のため、安永9年(1780)当時に見谷にあった妙國寺に建てられたものであろう。
妙國寺五輪塔:刻銘は判読できない。諸史料では次のようにいう。
高さ1.9m、見谷から遷されたもので、松田氏供養のため、元和2年(1616)に建立されたものと云われる。(「御津町史」)
元和2年左衛門盛明供養塔?、元泰500遠忌?・元輝・元賢300遠忌?(「備前松田氏の足跡を訪ねて」大村祐章)
※左衛門盛明:13代元賢の弟で元侑、讃岐松田家租である。元泰は3代、元輝は12代、元賢は13代。
また、不受不施派再興までは松田氏主従の末裔が7月7日夜、妙國院の燈明の明かりのもとに集まり供養した。 これは当然禁制下であったから非公然であった。不受不施派の再興によって公然と供養が可能となり、この行事は中止される。
(「備前松田氏の足跡を訪ねて」大村祐章)
本堂前石灯籠:文政4辛巳(1821)の年忌がある。
本堂下石灯籠:竿は欠失か、多分江戸期のものであり、見谷から遷したものであろうか。 参考文献: 「備前松田氏の足跡を訪ねて」大村祐章(玉松会)、2017 「御津のあけぼの」2004
◇祖山妙覚寺:備前金川妙覚寺
現在の日蓮宗不受不施派本山である。
→備前金川祖山妙覚寺
◇備前中泉題目石
2024/08/13追加:
題目石は日像と了達院日意の2基があり、何れも水難に関するものである。 今まで、存在を知らなかったので、未見。
○「御津町史」p.341〜 より 水難碑と日意上人
(御津町)中里日南(※中泉の小字か)に日像と了達院日意の題目塔がある。
この2基の題目石は明治26年の洪水で堤防が決壊し川底に埋まったが、昭和9年の大洪水で再び発見されたものである。
嘉永2年(1849)名主二宮万右衛門らが建立した日意上人題目塔の碑文は次の通りである。
宝暦天明中有洪水而斯地数損亡焉 寛政二歳庚戌之夏山代国久我満願寺当住了遠院日意上人弘化之刻 上人請土人為邑中安全 創立日像菩薩之石碑 一石一字書写法華経而納其下 上邑中泉両處之徒出会而修唱題一千万遍云
p.955〜 より 洪水(水防祈願)に関する供養塔は国ヶ原と中泉の2ヶ所にある。
国ヶ原には1基あり、正面「了達院日意聖人」、右面「寛政八年辰(1796)正月十七日」と刻む。
中泉には2基並んで建てられ、その1基は正面「南無妙法蓮華経 日像菩薩」、裏面「水難無障礙」と刻する。
もう一基は正面「了達院日意上人」、右面の銘は上記の「宝暦天明・・・・」の通りである。 →山城上久我満願寺
日像菩薩題目塔1:正面 日像菩薩題目塔2:裏面
了達院日意上人塔
◇備前津高郡紙工村 : 紙工常在庵・紙工浄源庵
○「岡山県の地名」平凡社 より
枝村に久保と天満がある。 寛文年中の不受不施派弾圧で、紙工村では全ての日蓮宗寺院が廃寺となる。 備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧(「寛文年中亡所仕古寺跡書上帳」) では
157 津高郡 (紙工村)天満 妙松山 □□□(法仙寺) 住僧還俗神職となる
158 津高郡 (紙工村)天満 永福寺 善行坊 住僧還俗
159 津高郡 (紙工村)久保 大徳寺 □□□(大乗坊) 住僧出寺、書物を拒否の故、衣を剥ぎ追放ともいう。
160 津高郡 (紙工村)久保 西岡寺 千乗坊 住僧出寺、書物を拒否の故、衣を剥ぎ追放ともいう。
161 津高郡 (紙工村)久保 國法寺 □□□(常仙坊) 無住 162 津高郡 紙工村 眞光寺 成光院
住僧還俗、日蓮像は中田村龍淵寺にあり 163 津高郡 紙工村 西光寺 □□(善行)院 住僧出寺
日蓮像、中田村龍淵寺預 163 2 妙国寺本末寺諸寺誓状(寛文元年/1661)では
紙工 西光寺、信(真)光寺、西岡寺、大徳寺、玉寶寺、永福寺、法泉寺、善如坊、眞乗院 の花押がある。
※「岡山県の地名」では紙工村7ヶ寺の廃寺は何れも不受不施派で、禁制後は地下に潜る。
天満には常在庵(開基通善院日圓)、久保には浄源庵(開基持城院日儀)が設けられ、不受不施の拠点となる。
いずれも金川妙國寺末であった7ヶ寺の廃寺を整理すると、 紙工村に西光寺善行院、真光院成光坊が、
久保には大徳寺大乗坊、西岡寺千乗坊、玉法寺常仙坊(國法寺は玉法寺の可能世があり原典で確認する要あり)が、
天満には妙松山法仙寺、永福寺善行坊があったが何れも寛文6年廃寺となる。 檀信徒は表向き日應寺や龍淵寺の檀家になったが、内信者が多く、出寺僧の指導に従った。
天満には常在庵(通善院日圓開基)、久保には浄源庵(持城院日儀開基)が存在した。
→この常在庵・浄源庵は不受不施派再興後、龍華教院第4号教会所・妙覚寺紙工教会所となり、昭和28年常在寺を公称する。
○ブログ「難波一族」>2019年 05月 15日 日蓮宗不受不施派 〜常在寺〜 より 鷲峰山常在寺【沿革】
元々は常在寺のある天満地区には、往時妙松法仙寺と永福寺のニつの不受不施派の寺がありましたが、寛文6年(1666)藩主池田光政による社寺淘汰の際に廃寺とされる。
その後、元禄13年(1700)までの間に、通善院日円が密かに天魔嘉休谷の山腹(現在の宇甘東大谷)に常在庵という庵を建てる。
しかし、当時は不受不施禁制の時代であり、厳しい幕府の弾圧を避けるために、その後、現在の常在寺から西へ六〇〇mくらい離れた宇甘西紙工天満の山中に常在庵を移し、信徒の信仰を維持する。
以来、不受不施禁制二百余年の間、時には備中に身を隠しながらよく不受不施の法灯を守り、明治初年には久保にあった浄源庵を合併するなどして密かに発展していく。
明治9年4月10日、釈日正が不受不施派再興の許可を得ると同時に、当時の法主・日正大聖人とその高弟・日燿聖人によって、明治14年6月9日に現在の地に「紙工教会所」として上棟される。
そして明治15年本堂を建築して、明治18年1月17日妙覚寺紙工教会所と改称し、昭和28年6月29日寺号公称を認証され、「常在寺」となる。 2024/08/30追加: ○「日蓮宗不受不施派読史年表」昭和53年 より ◆常在庵系譜:「読史年表」の系譜11
開基 通善院日圓、元禄13.4.5、出寺 ・・・ 2世 修玄院日善、享保11.9.3、字通賢
3世 教善日暉、享和元.1.13 4世 寶乗院日勇、文久6.6.15
5世 隋聞院日淵、慶応2.8.25、字通玄・・・浄源庵 隆意院日恕、元禄5.6.13、日通弟子
普現院日勝、寛政7.6.8、字立圓 − 通圓日解、天明5.1.27
◆浄源庵系譜:「読史年表」の系譜13 開基 持城院日儀、正徳元.9.25
性光院日城、明和4.9.22 高善院日能、天明6.10.9 ・・・
隋聞院日淵、慶応2.8.25、字通玄、宣命院日正の弟子・・・常在庵5世
◇備前紙工常在寺
2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より 日蓮宗不受不施派。鷲峰山と号す。
天満には往時、妙松山法仙寺と永福寺の2ヶ寺があったが、寛文6年(1666)池田光政の不受不施派弾圧によって廃寺となる。
時に通善院日圓密かに天満嘉休谷の山腹に庵を結び、常在庵と号し信徒の信仰を維持して以来不受不施禁制中200余年の間、時には大谷の山中にあるいは備中に移動しながら不受不施の法灯を守り、明治初年久保にあった浄源庵を合併する。
※近世初頭、紙工村の7ヶ寺は何れも不受不施派であったが、寛文6年池田光政の不受不施弾圧により廃寺となり、
禁制後は地下に潜る。
天満には常在庵(開基通善院日圓)、久保には浄源庵(開基持城院日儀)が設けられ、不受不施派の拠点となる。
(平凡社「「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」)
明治9年釈日正は不受不施派再興の公許を得ると、天満に龍華教院第4号教会所を設置、明治15年本堂を建築、明治18年妙覚寺紙工教会所と改称、昭和28年寺号を公称する。
2024/04/10撮影:
備前紙工天満常在寺1 備前紙工天満常在寺2 常在寺本堂1 常在寺本堂2 常在寺庫裡
常在寺廟:信徒の廟所と思われる。本堂奥・向かって右にある。
常在寺先師墓所:中央正面が日蓮大菩薩石塔と五輪石塔である。
常在寺先師墓所1:西半分、當山先師霊、智賢院日教、恵教院日慈、教妙院日耀、開基通善院日圓、日奥・日正大聖人、五輪塔各石塔
常在寺先師墓所2:西半分の部分、智賢院日教〜日奥・日正大聖人各石塔
常在寺先師墓所3:西半分の部分、智賢院日教〜日奥・日正大聖人各石塔であることは同一
常在寺先師墓所4:東半分、大覺大僧正、■■院■■古墓塔、理照院日玄、高善院日能、寶乗院日勇、明治年紀墓塔、法華■院蓮信各石塔
常在寺先師墓所5:東半分の部分、日蓮大菩薩、大覺大僧正〜寶乗院日勇各石塔
當山先師霊石塔 當山先師霊石塔・裏面
智賢院日教覺位墓塔
恵教院日慈法師墓塔 ・・・・備前法華の系譜に日慈墓の記事あり、久保に恵教院日慈墓がある。(直下に掲載)
教妙院日耀聖人墓塔:側面には大正十二年十月廿六日寂と刻す。
開基通善院日圓聖人墓塔:側面には元禄13.3.13の寂年を刻す。ただし「日蓮宗不受不施派讀史年表」では元禄13年4月5日寂とある。
日奥大聖人・日正大聖人供養塔:側面には日奥の寂年を刻す、反対側面には日正の寂年を刻すと推測する。
五輪塔・不明:各輪には妙法蓮華経と刻む、地輪には「■永■二年/経 為日■/■月十四日」と刻む。日号と思われる文字が判読出来ず、また年紀は宝永か安永(嘉永)と思われるも、干支も判読できず、被葬者は不明である。ただ先師墓所の中央に位置し、日蓮と日奥・日正の石塔間に置かれるので、需要な墓塔と思われる。
日蓮大菩薩供養塔 大覺大僧正供養塔
■■院■■古墓塔:墓銘判読不能
理照院日玄:左記画像の中央墓塔
高善院日能法師:左記画像の右の墓塔
寶乗院日勇覺位
明治年紀墓塔:左の墓塔である、墓銘判読不能、側面に明治の年紀がある。
法華■院蓮信:左記画像の右の墓塔
◇紙工久保恵教院日慈墓
久保は紙工村の枝村である。
○「不受不施派殉教の歴史」 より 岡山市北区御津久保に所在。<位置特定できず>
日慈は嘉永4年12月16日処刑される。下の病気に霊験があるとされ、参詣人が多い。 → 備前法華の系譜中に記事あり。 ○「不受不施派殉教の歴史」p.147 より
恵教院日慈の墓
◇備前紙工松林寺
2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より
明治22年宇甘上村の上村庵と紙工村石原の虎渓庵が合併して松林院となり、昭和43年日應寺から独立して松林寺と改称する。
※虎渓庵はもと日應寺の出張所であり、上村庵とは明治10年合併という。 ○紙工松林院のサイト より
松林寺の沿革:安永四年以前の創立にして虎渓庵と号し、吉祥山(現在は勅命山)日應寺の出張所として、備前法華の最西北たり。明治十年、宇甘の上村庵と合併し松林庵と改称。昭和四十三年寺号公称し金子山 松林寺として独立。
2024/08/21追加: 紙工村(3村)には金川妙國寺末の7ヶ寺があったが寛文6年の不受不施派弾圧で廃寺となる。
紙工を始めとする近隣は不受不施の根拠地であり、不受不施派寺院は悉く廃寺となるも、檀信徒の多くは信仰を捨てず、表向き日應寺や龍淵寺の檀家になったが、内信者となり、出寺僧の指導に従った。
以上のような事情で、日應寺は多くの檀家を抱え、出先機関を作ったものと思われる。
因みに、明治20年頃の「日蓮宗寺院取調書」(京都妙覚寺蔵)の檀家数によれば上伊福妙林寺3000、日応寺村日應寺1500、菅野幸福寺600・・・とある。(都守基一「備宜法華の歴史(続)」所収)
2024/04/10撮影:
紙工松林寺玄関客殿1 紙工松林寺玄関客殿2
紙工松林寺本堂1 紙工松林寺本堂2 紙工松林寺本堂付設建物
白亜の三重宝塔がある。構造あるいは材質は不明、おそらく納骨堂ではないかと思われる。
松林寺三重宝塔1 松林寺三重宝塔2 松林寺三重宝塔3 松林寺三重宝塔4 松林寺三重宝塔5
◇備前大鹿圓立寺:現芳谷
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
妙見山と号する。岡山蓮昌寺末、生師法縁。 開山開基は淋光院日賀(寛文5年1665/9月23日寂)。
元明見山と号し妙見を祀り河運送の守護神として栄える。
元文元年(1736)妙見山と改号、同年7世本性院日清(※墓塔あり)の代に下大鹿より現在地に移転。
庫裡・書院は宝暦2年(1752)8世辨海院日道の代に建立。 ○「御津町史」 より
一説には天文年中の創造という。高瀬舟の守護神として妙見堂を大鹿の地に祀ったのを寺と改める。 2024/04/10撮影:
推定妙見堂1 推定妙見堂2:妙見堂と推定するが、確証はない。もしくは鎮守か。
法界萬靈題目塔:正面「寛文五年十月日(ママ)/南無妙法蓮華経 法界萬靈/大鹿村講中三十人」とあり、この石塔は備前藩で寛文の不受不施派弾圧の嵐の最中のもので、貴重なものであるが、どのような由来があるのかは不明である。奇しくも寛文5年は開山日賀の寂年である。向かって右の墓塔は明和4年(1767)の年紀で「讀師寛孝院日應大徳」と刻す。
本性院日清ほか墓塔:正面「當山七世中興開基本性院日清大徳」と刻す。日清は元文元年(1736)下大鹿より現在地に移転と「大艦」にある。他の墓塔は判読できない。
歴代墓所:左端が本性院日清墓塔
本堂・庫裏客殿新築工事1 本堂・庫裏客殿新築工事2 本堂・庫裏客殿は既に取り壊されて、新築工事中であるので、本堂などの旧観は他のサイトから転載する。 「御津町史」から転載
大鹿圓立寺
「GoogleMap」から転載
大鹿圓立寺本堂1:2018/06画像 大鹿圓立寺本堂2:2022/04画像
本堂・推定妙見堂:2022/04画像 圓立寺本堂・庫裏:2018/06画像 圓立寺推定妙見堂:2018/06画像
◇備前國ヶ原香雲寺
瑞雲山と号する。
報恩大師の建立と伝える。三論宗・天台宗を経て、大永7年(1527)日徳代、金川城主松田氏により日蓮宗に改宗。
(但し、香雲寺を報恩開基とする典拠は不明) 2017/10/27追加: ○「日蓮宗寺院の調査報告 :
岡山県香雲寺・日応寺、山梨県立正寺など」坂輪宣敬(「法華文化研究 29」、2003 所収) より
本寺には在銘の日蓮上人坐像を安置する。 香雲寺像:元亨元年(1321)の銘がある。
従って、現下では、像底に正応元年(1288)銘があるという池上本門寺日蓮上人坐像に次いで、2番目に古い日蓮上人像ということになる。
胎内には木製銘札が納入され、次のような刻銘(墨書ではない)があるという。
「元亨元年十一月二日/承師命/南無日蓮大菩薩/奉造立者也/妙實・花押」
そして、底面には「享保15庚戌年三月十三日/御臺座再興八世日通代」
まさしく、日像の命を受け、大覚大僧正が本像を刻んだことを示すものであろう。
香雲寺の創建は天平勝寶年中報恩大師の開山と云う。開基は瑞輪院日徳とし、天文年中天台宗日徳の代に領主松田氏によって改宗する。さらに徳川末期に願満祖師像を安置するともいう。
2024/04/10撮影: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
瑞輪山と号す、京都妙覚寺末(岡山蓮昌寺末)、開山報恩大師、開基瑞輪院日徳。
天文年中天台宗瑞輪院日徳の時、領主松田氏により、改宗。 2世は瑞輪院日徳 天文5.6.25(1536)寂
○「岡山県の地名 日本歴史地名大系34」平凡社 より 国ヶ原村>日蓮宗瑞輪山香雲寺
香雲寺本尊は釈迦如来、寺領は1石9斗余(「備陽紀」)、天文年中(1532-55)の創建と伝える(「備陽国誌」)。
当地には天正13年(1585)頃には日蓮宗真浄寺があり、京都妙覚寺18世日典が「國ヶ原真浄寺弟子中納言日利」に曼荼羅を授けていて、また元和年中(1615-24)妙覚寺19世日奧が妙覚寺修理の奉加を中山道林寺・野々口實成寺・眞浄寺などに呼び掛けている(「日奧書状」法泉寺蔵)。
寛文元年(1661)真浄寺々中本正坊が金川妙國寺本末寺院とともに不受不施堅持の誓約に連署(「本末諸寺異体同心掟条」)、同6年には本正坊住職が立ち退き、寺株田畑は菖蒲山村還俗人権之助に遣わされ、同人が國ヶ原村に移住し八幡宮神職となるも、貞享4年(1687)に追放となり、真浄寺の建物は取り壊され、寺屋敷は畑となる(「寛文年中亡所仕古寺跡書上帳」池田家文書)。
香雲寺は真浄寺跡地に間もなく受派の岡山蓮昌寺の末寺として再興されたもので、天文年中の創建というのは前身の真浄寺の創建のことと思われる。
※なお「御津町史」でも、皇雲寺の名称は寛文以降にしか文献に出ないと記述している。 2024/04/10撮影:
本堂背後の壇には、歴代墓塔と数基の題目塔があると思われるが、未見。 国ヶ原香雲寺山門1 国ヶ原香雲寺山門1 国ヶ原香雲寺本堂
国ヶ原香雲寺庫裡1 国ヶ原香雲寺庫裡2
妙見堂拝殿・観音堂
妙見堂拝殿と妙見堂:妙見堂手前の小祠は鎮守社 香雲寺妙見堂 香雲寺観音堂
日蓮大菩薩・大覺大僧正題目塔:日蓮大菩薩は六角宝塔で近年のものであろう、大覺大僧正題目塔は文化10年(1813)の銘がある。
日蓮大菩薩450遠忌報恩塔:享保16年(1730)の銘がある。
讀誦妙経六百餘部:正面「南無妙法蓮華経 讀誦妙経六百餘部 南無日蓮大菩薩」、基壇「寶暦三癸酉(1753)/常正院日龍大徳/九月十七日」と刻する。
日蓮大菩薩七百遠忌報恩塔:昭和56年の年紀あり 南無日蓮大菩薩石塔:詳細不詳
◎香雲寺参道入口に数基の題目塔がある。
写真を撮影は失念し、GoogleMapから転載する。 香雲寺入口題目塔:向かって右より、不詳題目塔・不明石塔・日像菩薩石塔・石灯篭の4基がある。
不詳題目塔は正面:「讀誦自■偈■?/南無妙法蓮華経 奉 成?(成就か)/■満御題目三千■」とあるので「題目三千部讀誦成就」記念碑か。不明石塔の正面の銘は消滅している。日像菩薩石塔の本体は新しく見えるので本体のみ再造したものか。
◇備前国ヶ原了達院日意石碑
2024/08/13追加: 了達院日意上人の石塔がある。 訪問後に存在を知ったので未見。 ○「御津町史」p.341〜 より
御津国ヶ原葛城橋の東詰にも了達院日意の碑があるが、寛政8年辰正月17日と刻まれ、これは没後一年後に建立されたものとなる。行僧様と崇められ正月11日、旧6月17日に祭が行われている。
p.955〜 より 洪水(水防祈願)に関する供養塔は国ヶ原と中泉の2ヶ所にある。
国ヶ原には1基あり、正面「了達院日意聖人」、右面「寛政八年辰(1796)正月十七日」と刻む。
中泉には2基並んで建てられ、その1基は正面「南無妙法蓮華経 日像菩薩」、裏面「水難無障礙」と刻する。
もう一基は正面「了達院日意上人」、右面は上記の「宝暦天明・・・・」の通りを刻す。 →山城上久我満願寺
了達院日意聖人塔
GoogleMap より
了達院日意聖人塔1 了達院日意聖人塔2 了達院日意聖人塔3 了達院日意聖人塔4
◇備前中牧十谷題目塔
この題目塔には題目と大覚大僧正と刻み、左には「弘化二乙巳年」の年紀がある。(弘化2年は1845年)
右には「家内安全五穀成就」と刻む。
備前のこの地は備前法華の中心の一つであり、十谷の集落あるいは十谷を中心とした集落の日蓮宗宗徒が世の中が騒がしくなった幕末の弘化2年、家内安全と五穀成就を願って建立したものであろうと推測される。
2016/04/12「A」氏(岡山模型店DAN)2010/09/07撮影・ご提供:
備前御津中牧十谷題目碑:背後の中央を左右に貫くのは築堤であるが、それはJR津山線の築堤である。
撮影場所・撮影された題目碑を機会があれば訪れたいが、その場所を奇しくも写した写真を掲載したページがあるので、その写真を転載する。題目碑のある場所は十谷の火の見櫓の傍らである。
十谷火の見櫓・題目碑:ページ「津山線 野々口−牧山」中より転載。
2024/04/10撮影: 十谷は中牧村の枝村である。また湯須も枝村である。 備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧によれば、
107 津高郡中牧村 宗林寺 中山道林寺末 住僧還俗 寛文6年廃寺(撮要録)
108 津高郡中牧村 寺中清住坊 中山道林寺末 住僧還俗 同上
109 津高郡中牧村 寺中法住坊 中山道林寺末 住僧還俗 同上
110 津高郡(中牧村)十谷 十谷山妙興寺 中山道林寺末 住僧還俗 同上 <妙興寺は妙行寺とも>
111 津高郡(中牧村)十谷 寺中清立坊 中山道林寺末 住僧還俗 同上
121 津高郡(中牧村)湯須 圓宅坊 十谷妙興寺末 無住 同上 以上の状況で、寛文6年、中牧本村・中牧十谷・中牧湯須の日蓮宗不受派の寺院は廃寺となる。
谷題目塔1 十谷題目塔2 十谷題目塔3 十谷地神水神石 十谷題目塔常夜燈
◇備前中牧十谷妙行院
2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より 中牧十谷
日應寺出張所、吉尾・野々口・中牧の信徒約158戸、創立不詳。 ※他に情報がなし、存在及び所在が確認できない。(未見)
◇備前野々口實成寺跡:受派の庵室
駒井山と号する。京都妙覚寺末(不受不施派)。
正行坊、(實藏坊)、乗圓坊、眞乗坊、正住坊の寺中があったと思われる。
寛文6年池田光政の不受不施派弾圧により廃寺となる。 → 備前に於ける寛文6年の不受不施派廃寺一覧 中の原番136〜141を参照(實城寺)
参考:→藤野實成寺
2024/08/14追加:
※「寛文年中亡所仕古寺書上帳」では「寛文2年の岡山藩の本寺帰順の命に従わざるを以って住職立退となる。」とあるので、
寛文6年の時には既に無住であり、実成寺は廃寺同様であった。
但し、寺中の正行坊・實藏坊・乗圓坊・眞乗坊・正住坊の5坊は住職還俗し、廃寺となる。 その後、
元禄3年(1690)藤野村に寺号が遷され、この地の本堂も移建されたというので、この時までは本堂は残されていたのであろう。
2019/02/27追加:2024/08/14修正: ○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より 實成寺跡には次のようなものが残る。
・公孫樹 樹齢推定400年、高さ約32m、目通り周5.9m。 ・一石五輪塔3基 高さ55cm。
日養霊 天文11年(1542)6月9日 慈父宗久尊位 天文17年(1548)
慈母妙久尊位 永禄3年(1560) ・蘭塔1基
※上記の「蘭塔」とはラントウ墓(藍塔墓・家型の墓)の意で、所謂卵塔・蘭塔ではない。蘭塔ではない。
豊島石製、高さ1.83m、間口1.19m、奥行87cmの大型で天正年中の建立と云われる。
塔内には3基の題目塔が置かれ、その中の1基は「弘安5年(1282)10月13日 大村彦右衛門尉法名盛栄施主敬白」というのがある。
・日典聖人供養塔:明和六年(1769)七月二五日造立大村忠左衛門盛喬 ・大覚大僧正題目塔:嘉永六年(1853)
・大覚大僧正題目塔:文久3年(1863)
注)題目石(題目塔)は五城地区を除いて小字単位程に多くある。五城地区は南無阿弥陀仏の石碑が見られる。 という注記もある。 なお、Googleの地図上では、手前の集落に一基の題目碑が存在する。(2024/08/14では発見できず。)
2023/09/04追加:
○GoogleMapに数枚の写真が掲載される。その掲載写真 より 現地案内板では次のように云う。
御津町指定史蹟・実成寺跡 実成寺は大永年中(1522-27)日養により、駒井山に開基と伝える。その後現地に移転。
※駒井山は実成庵や実成寺跡の東方にそびえる御椀形の山(222m)がそれと推定される。 享禄元年(1538)日典が吉尾に生まれ、9歳で実成寺日圓に入門師事する。
永禄9年(1566)日典京都妙覚寺20世貫主となる。21世日奥はその弟子である。
寛文6年(1666)池田光政の寺院整理は免れるも、寺運衰え、元禄3年(1690)寺籍は和気郡藤野へ移される。 石造美術
一石五輪塔 3基 日養霊 天文11年(1542) 慈父宗久尊位 天文17年(1548)
慈母妙久尊尼 永禄3年(1560) 蘭塔 天正年中建立と推定(1573〜92) 町天然記念物
公孫樹 樹齢推定400年 日典手植えとの口伝あり。 實成寺跡現況:GoogleMap より
野々口実成寺跡1 野々口実成寺跡2:小宇1、小堂1、築地、常夜燈などが残る。
実成寺跡石造物1:宝形小宇の両脇に題目石2、一石五輪塔3基、石螳螂残欠、向かって右に蘭塔がある。
一石五輪塔3基1 一石五輪塔3基2:「御津町史」より
実成寺跡石造物2:蘭塔とその向かって右に題目石2、石灯篭残欠がある。 蘭塔の中に3基の墓碑(題目碑)があるが、1基が上述の通りであるが、残りの2基は不明。 題目石4基も写真が不鮮明などで、銘が判読できず、詳細は不明。
実成寺跡小祠:一間社流造のような小祠があると思われる。番神堂などであろうか。
なお、「御津町史」p.125の「題目石」の項で写真の掲載がある。
タイトルは「吉尾の題目石(天正廿壬辰)」と「髭題目(曼荼羅)」で、それ以外の説明は何もない。 ここでは、その内の「髭題目(曼荼羅)」を取り上げる。
御津町史掲載・髭題目(曼荼羅)
花押は日奥と読めるが、確証はない。さらに 備州津高郡野々口 實成寺経?深院 ■教院
■■院? に授与、慶長七?年(■■/壬寅?)卯月三日 と読める。
おそらく、日奥が慶長7年?に野々口實成寺の三僧あるいは信徒に授与した曼荼羅本尊と推定される。 2023/09/14追加:
○「不受不施派殉教の歴史」p.147 より
日典の少年期の修行した場所、焼身自殺僧の「正善坊」の五輪塔の頭部はイボ神様となっていて、ここの小石を借りていき、平癒してからは歳の数だけの小石を返すことになっている。(2024/04/10では「「正善坊」の五輪塔」を特定できず。)
2024/04/10撮影:
野々口実成寺跡庵室1
野々口実成寺跡庵室2 野々口実成寺跡庵室3 野々口実成寺跡庵室4 野々口実成寺跡庵室5
実成寺跡石灯篭2基
実成寺跡石灯篭銘文:「天保12年(1841)/二百五十年」とある、日典の250年遠忌で建立されたものであろう。施主は「村中世話人」とある。日奥は文禄元年(1592)寂、250遠忌の正当は天保12年(1841)となる。
庵室後方石塔場1:日蓮・位牌堂・五輪塔3基・日典・蘭塔 庵室後方石塔場2:蘭塔・大覚妙實1・大覚妙實2
庵室後方石塔場3:日蓮・位牌堂・日典 庵室後方石塔場4:位牌堂・日典・蘭塔・大覚妙實1・大覚妙實2
庵室後方石塔場5:日典・蘭塔・大覚妙實1・大覚妙實2・小形石塔;右端の小形の石塔は未調査で不明。
日蓮大士題目塔1
日蓮大士題目塔2:南無妙法蓮華 日蓮大士/天保■年卯四月■■(※天保■年は卯とあるから天保2年であろう)/右端は判読できない。天保2年は日蓮550遠忌であるから、その報恩塔であるかも知れない。
石燈籠その他残欠:日蓮大士題目塔前にある。
位牌堂内部1 位牌堂内部2:實成院日典位牌
日典上人題目塔1 日典上人題目塔2
一石五輪塔と日典題目塔 一石五輪塔3基
蘭塔・題目塔3基1 蘭塔・題目塔3基2 蘭塔内題目塔2基
※題目塔3基は「慈父榮休尊位/實成寺開基日養/慈母妙久尊尼」(「備前松田氏の足跡を訪ねて」大村祐章(玉松会))と思われる。
上記の現地説明板「日養霊 天文11年(1542)/慈父宗久尊位 天文17年(1548)/慈母妙久尊尼 永禄3年(1560)」に
該当するものであろう。
大覚大僧正題目塔1:南無妙法蓮華経 大覚大僧正/五百遠御■/豈(?)文久三癸亥四月三■(1863
大覚大僧正題目塔2:殆ど銘が読めないが、嘉永六年の銘の大覚大僧正と推定する。
◇備前野々口實成庵:不受不施派庵室
本庵についてはほぼ情報がなく、不詳。 不受不施派に関係する庵とも、実成寺あるいは日典上人(実成院)に関係するとも思われるが、良く分からない。
次に掲載のGoogleMapからの写真で多少の推測は可能ではあるが。
○GoogleMapに数枚の写真が掲載される。その掲載写真 より
実成庵堂宇:入母屋造で妻入り、間口3間で奥行は5〜7間程あると思われる。
傍らに日典歌碑が写る。 正面には切妻の向拝付設、奥には練塀の囲いを設け、そこに日典・日奥の供養塔を安置する。
実成庵扁額:日學と甲辰とある。
日學とは祖山妙覚寺38世宣正院日学(明治9年〜昭和51年正月)であるならば、 明治37年日學28歳の時の揮毫であろう。
以上の推論が但しければ、実成庵はこの頃の成立であろうか。
日典・日奥供養塔1 日典・日奥供養塔2:日典聖人/文禄元年(1592)9月1日とある。
(但し、9月1日は文禄元年というより天正20年とすべきであろう)
実成庵日典歌碑:「御津町史」p.817では次のように解説する。
野々口講社、昭和52年12月建立。高さ1.47m、実成院境内。 見わたせば心の色もなかりけり柳桜の春のあけぼの
聖人自筆の短冊より写したもので、前書きに「安楽行品 観一切法空如実相」とあるが、法華経安楽品に、一切の法を観ずるに空なり、如実相なり・・・常に楽(ねが)いて是(かく)の如き法制を観ぜよとあり、永遠の実相の上に立って人の世を見よという悟りの世界が、37文字に表現されているのであろう。
御津町史掲載・日典歌碑:御津町史に掲載されているものであるが、刻歌は判読できない。
2024/08/14追加: ○「聖」昭和52年 より転載 野々口実成庵
野々口実成庵:
少なくとも昭和52年より前には、現在と同じ庵室(建物)が建っていたことが確認できる。 2024/04/10撮影:
実成庵の庵室自体は古い庵室ではなく、おそらく、不受不施派再興の後、野々口及び附近の不受不施派信徒が拠点として創建した庵室と推測される。
因みの明治9年の12の教会所にも野々口には教会所の設置はない。また庵室背後の日典供養塔には「明治卅九年丙午九月一日建立之/野々口講社中」とあるので、あるいはこの頃に庵室は創建されたのかも知れない。
東にある実成寺跡の庵室が受派の庵室として機能している以上、厳然と信仰を切り分けするような意味で不受派の庵室として設けたものと思われる。
地元民に庵のあり場所を尋ねると「不受はあっち(実成庵)、日蓮宗はこっち(実成寺跡庵室)」という強い口調で案内されたが、下総でも感じたことであるが、そういった深い分断を感じざるを得ない。
野々口実成庵:昭和52年の写真と比して、近年改装されているように思われる。
実成庵石灯篭 実成庵題目石:表面「題目」の左右や下に刻銘があるが、判読できない。 実成庵日典歌碑
日典/日奥・日樹供養塔
日典聖人供養塔1
日典聖人供養塔2:供養塔向かって右下に宝篋印塔(九輪欠)がある。これは「御津町史」に記載されている宝篋印塔であろう。
日典聖人供養塔3:明治卅九年丙午九月一日建立之/野々口講社中
日奥・日樹供養塔1:正面:判読し難いが、日奧聖人と思われる。台石は「施主 日饒(と思われる)」とある。
日奥・日樹供養塔2:左面:日樹聖人、背面:判読できない。右面は未確認(写真なし)で別の聖人の刻銘がある可能性がある。
◇備前吉尾日典上人産湯の井戸;日典生誕地
岡山市北区御津吉尾にあり。
日典産湯の井戸の位置図 八百屋お七の墓の東隣に隣接してある。
東方野々口の山中の溜池の下に實成庵および實成寺跡がある。 日典産湯の井戸:「令和元年度特別展 岡山の日蓮法華」 より
○「御津町史」p.125の「題目石」の項で写真の掲載がある。
タイトルは「吉尾の題目石(天正廿壬辰)」と「髭題目(曼荼羅)」で、それ以外の説明は何もない。
ここでは「吉尾の題目石(天正廿壬辰)」を取り上げる。 吉尾の題目石:上記の「日典産湯の井戸」に写る「題目石」のことであろう。
(天正廿壬辰)とあるから1592年の年紀があるのだろうが、これは建立の年代ではなく日典寂年の可能性が高い。
2023/09/14追加: ○「不受不施派殉教の歴史」 より
「題目石」はこの地では「オデンサマ」といい、日典の命日には餅を搗き、供票するという。 「オデンサマ」とは典師様の仮装である。
2024/08/12追加: ○「御津町史」p.911 より お典さま
日典聖人は天正20年(1592)7月25日寂する。聖人の徳を偲び、恩に報いるため、古くから毎月30日に受派と不受派別々に聖人の供養塔のある看経堂(かんきどう)に集まり、看経する。特に不受不施派は毎年9月1日の御祥当には遠近に信者が多数お参りし盛大に法要を営む。
※看経堂の所在場所は不明、受派・不受派で別々にあるのか、それとも1ヵ所しかなく時間を変えて個別に使用するのかも不明、両はで複数あるのかどうかも不明。
○「御津町史」p.951 より 日典産湯の井
吉尾字小坂谷134の船守和平の旧屋敷が日典生母の屋敷跡である。
屋敷裏に1間四面で三段ほどの石階のついた、俗にいう汲井戸で、ごく浅く、柄杓で水を汲む井戸があった。
大正13年の旱魃の時、丸枠を嵌め、掘り抜き井戸にして原形を留めていなかったが、この井戸が日典産湯の井と昔から伝えられてきた。
昭和50年不受不施派の人たちは、この由緒地を後世に伝えるため、屋敷の一部を購入し、この場所に昔通りに産湯の井を復元した。
2024/04/10日撮影:
日典生誕地・日典供養塔1 日典生誕地・日典供養塔2
日典上人供養塔 日典上人供養塔・地水神 日典産湯之井戸1 日典産湯之井戸2
◇山中家墓所日典供養塔
墓所は、日典産湯之井戸の裏側の南に八百屋お七の墓に参る(上る)道があるが、その口にある。
その山中家墓所には日典上人供養塔が建立されている。
山中家墓所日典上人供養塔1 山中家墓所日典上人供養塔2
供養塔左側面には「文禄元年(1592)壬辰九月十日」<天正20年12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日):文禄に改元>とある。
おそらく日典の寂年を記載と思われるが、九月十日が何を根拠にしているのかは不明。
※ちなみに「日蓮宗寺院大鑑」では、具足山(京都)妙覚寺20世実成院日典:文禄1・7・25(1592)、龍華山(祖山)妙覚寺20世実成院日典:天正20・7・25(1592) とある。
右側面には「■■■■■戊戌九月建立之/吉尾信徒中/施主山中久米太郎」とある。
年号が読み取れないが、「戊戌」年が近代であれば明治31年(1898)、昭和33年(1958)、平成30年(2018)であるが、昭和33年が妥当ではないかと推測する。
→日典の略歴については 日典上人 を参照。
◇備前吉尾八百屋お七の墓
○「御津町史」p.1013 より
年表>天和2年(1682)の条: 「八百屋お七の墓の伝承がある。後、日蓮宗不受不施講門派信者が祀ったといわれる。」
※講門派信者が祀ったとの伝承があり、
もしそれが事実ならば、この墓は不受不施派信仰のいわゆる「隠れ信仰」、いわば「仮託」であったかも知れない。 ○Facebook「八百屋お七の里」 及び ○現地で入手したルーフレット「八百屋お七の里」 より
※Facebookでは「御津町史より」とある。(・・・p.942〜に記載される。) (大意)
江戸駒込も八百屋太郎兵衛の娘がお七である。
火災により、郎兵衛の家が焼失。一家は太郎兵衛の弟が住職をしている小石川の円乗寺に身を寄せる。
その円乗寺に旗本の次男の山田佐兵衛がいた。山田佐兵衛はお七は恋仲となる。
ところが、お七の実家が再建され、二人は逢瀬を重ねることが不可能になり、お七は病臥する。
この話を伝え聞いた吉三郎という者が、お七に「どうしても佐兵衛に会いたければ、もう一度家が焼ければまた円乗寺を頼ることになる。そうなったら佐兵衛にも会える。」と言葉巧みに放火を教唆する。
お七は吉三郎の言葉に乗り、自家に放火する。火は大火となる。
放火を疑われた吉三郎は、八百屋の娘お七であると奉行所に申し立てる。 お七は市中を引き回しの上、火刑となる。
吉三郎は前非を悔い発心して名を「志誠」と改め、お七の分骨を持って諸国を行脚し、いつしか野々口の地に留まり、後に小山村で没しする。村人はお七の遺骨と共に小坂(こざこ)(※吉尾の小字)へ手厚く葬ったと伝えられている。
なお、野々口の大村家に、「吉三郎志誠院日実」と書いた曼荼羅がある。 ○お七の墓堂内の「現地説明板」 より 天和3年(1683)品川鈴ヶ森で火刑となる。
元禄12年(1699)お七の両親は江戸深川回向院に出開帳中の美作誕生寺15世通誉にその位牌と振袖を託し供養を依頼する。
全国行脚中の吉三郎は誕生寺を訪れた後、当地の吉尾佛生山法道寺で没する。 村人は二人の霊を祀り、墓を建てたのである。
※佛生山法道寺は寛文6年(1666)廃寺となったので、辻褄は合わない。 ○Wikipeedia「八百屋お七」 より
八百屋お七は寛文8年〈1668年〉?〜天和3年3月28日、但し諸説あり。 お七の生涯については伝記・作品によって諸説ある。
比較的信憑性が高いとされる『天和笑委集』(天和3年の数年後に出版)では、お七の家は天和2年の大火(天和の大火)で焼け出され、お七は親とともに正仙院に避難する。
寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払うが、お七の庄之介への想いは募るばかり。そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火する。火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまるも、お七は放火の罪で鈴ヶ森刑場で火あぶりにされる。
お七処刑の3年後の貞享3年(1686)井原西鶴が『好色五人女』で八百屋お七の物語を取り上げる。
西鶴によって広く知られることになったお七の物語はその後、浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、さらに後年、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、漫画、歌謡曲等さまざまな形で取り上げられている。
よく知られているにもかかわらず、お七に関する史実の詳細は不明であり、ほぼ唯一の歴史史料である戸田茂睡の『御当代記』で語られているのは「お七という名前の娘が放火し処刑されたこと」だけである。
古来よりお七の実説(実話)として『天和笑委集』と馬場文耕の『近世江戸著聞集』があげられ「恋のために放火し火あぶりにされた八百屋の娘」お七が伝えられてはいるが、お七の史実は殆ど分からない。
数多ある残余の伝記や創作などについては、Wikipeedia「八百屋お七」の参照を請う。 墓所については、次のように云う。
円乗寺のお七の墓は、元々は天和3年3月29日に亡くなった法名妙栄禅尼の墓である。これがお七の墓とされて、後年に歌舞伎役者の五代目岩井半四郎がお七の墓として墓石を追加している。しかし、江戸時代に放火犯の墓を建てるという行為をなすことは有り得ないという。
円乗寺の他にも千葉八千代の長妙寺にもお七のゆかりの話と墓があり、鈴ヶ森刑場に程近い真言宗密厳院には、刑死したお七が埋葬されたとの伝承や、お七が住んでいた小石川村の百万遍念仏講が造立(貞享2年(1685年))したと伝わるお七地藏があるほか、岡山市にもお七の物とされる墓がある。
岡山のお七の墓ではお七の両親が美作国誕生寺の第十五代通誉上人に位牌と振袖を託し供養を頼んだのだと言う。
さらに吉三郎の物とされる墓は、目黒大円寺や東海道島田宿、そのほかにも北は岩手から西は島根まで全国各地にある。また、お七と吉三郎を共に祭る比翼塚も目黒大円寺や駒込吉祥寺などにある。
○お七の墓路傍の「現地案内板」 より 左側の三角形のものがお七、右側の長方形のものが吉三朗のものである。
2024/04/10撮影:
吉尾お七の墓覆堂 吉尾お七の墓覆堂内部:向かって左がお七、右は吉三朗
八百屋お七の墓塔:「妙法花月妙禮信女」と刻む 吉三郎の墓塔:刻銘は判読できず
覆堂背後の石塔:6基以上あり、蘭塔、題目塔?、墓塔3基(江戸後期か)、五輪塔残欠、その他が並べられているが、由来を語る資料がなく、不明である。
◇備前吉尾法道寺跡
2024/08/13追加: 吉尾法道寺は寛文2年廃寺となる。 「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」では
112 津高郡吉尾村 佛生山 法道寺 中山道林寺末 住僧還俗神職と成る 寛文2年廃寺
113 津高郡吉尾村 學乗坊 中山道林寺末 住僧還俗 ※おそらく法道寺々中か とある
※法道寺跡の特定ができず。 ○「岡山県の地名」平凡社 より
吉尾法道寺跡には天正20年(1592)銘の題目石、永禄2年(1559)銘ほか2基の一石五輪塔がある。
○「御津郡史」p.801 より 法道寺宝篋印塔の写真の掲載がある。(九輪は欠)・・・画像の転載はせず。
p.803 より ※上記の「永禄2年(1559)銘ほか2基の一石五輪塔」とは次の3基の一石五輪塔であろう。
吉尾松山一石五輪塔
吉尾松山一石五輪塔:向かって左奥に三角形の石碑があるが、上記でいう「天正20年(1592)銘の題目石」かも知れない。
一石五輪塔は各々次のような銘があると思われる。
慈母妙浄尊尼 永禄二年己未八月已尅(1559)(注 日典生母)
為妙玉尊儀 永禄六年癸亥卯月八日(1563)(注 右行こと彦左衛門逆修)
為妙意尊尼 永禄六年癸亥卯月八日(1563)
◇備前中山道林寺
2018/10/10追加: ○平凡社「日本歴史地名大系 34 岡山県の地名」 より 臥竜山と号する。もと京都妙覚寺末。
開基は松田左近将監元方、開山は大覚大僧正。
金川の金川城内道林寺丸にあったが、永禄11年(1568)金川城落城が落城し、大檀越の松田氏が滅亡した後、現在地に再興される。 往時は末寺38ヶ寺を有するも、寛文年中(1661-73)備前岡山藩池田光政の寺院淘汰によって末寺は全て廃寺となる。
元禄11年(1698)には城下蓮昌寺末となる。
なお、本堂の脇檀に妙見大菩薩を祀る。この妙見は元大坪村の金山山頂に祀られていたが、宝暦元年(1751)盗難に遭い、城下丸亀町の道具屋に売られていたのを、当寺に戻したもので、以降当寺の鎮守として祀られるという。
妙見大菩薩は金山山頂の金山寺村境に妙見社があり、大坪村講持ちであったが、妙見大菩薩像を盗まれ、、社殿が破損したため、寛政5年(1793)廃社とする。跡地には妙見社旧跡、津高・御野両郡境の石柱を建てている。
また、松田元方の墳墓と伝える宝篋印塔がある。 現存する仁王門は天明8年(1788)の再建(棟札)。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
応永元年(1394)の創立、開山大覚大僧正、開基檀越備前玉松城主松田左近将監元喬、生師法縁、京都妙覚寺末。
備前松田氏5代目元方が遁世し、玉松城三の丸に仏殿を建立、感応2年に大覺大僧正を請じて開堂供養を行い、本方の法号に因んで恭愍院道林寺と公称する。
永禄11年宇喜多氏により落城、天正年中に現在地に移転再建、寛文6年頃焼討に遭う。
もとは備前四個の本寺と称せられ、寺中・末寺38ヶ寺もあったが、寛文の焼討の時に之を廃する。この頃京都本山妙覚寺末となる。
大観には開基は松田元方、天正17年に松田家没落と共に寺もまた兵火に罹る。同年現在地に移転再興する。
2018/10/30追加: ○「大覚大僧正と三備開基寺院」 より
松田13世元賢、永禄11年(1568)宇喜多氏の為に落城す。
爾来天正年中(1573-1592)松田家の家臣大村出雲の長男甚左衛門、松田家13代祖先供養のため、中山の地に移し奉る。
往古備前4箇の本山と称せられ第二の寺なり。後寛文5年、京都本山妙覚寺に属しその末寺となる。
又寛文年中に寺中院々末寺38ヶ寺悉く廃す。 主たる末寺は次の如し。 寺中林乗坊、寺中大林坊
吉尾村法道寺、同学乗坊、中野村東光坊、中牧村宗林寺、同東光院、法住坊、十谷村妙行寺、同清立坊、同圓乗坊、
大坪村山名寺、同壽圓坊、下牧村長福寺、同大圓寺、湯須村常住坊、大月村本行寺、面室村妙雲寺、牟佐村眞藏坊
2019/02/27追加 ○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より
金川の城郭の中に道林寺・妙國寺の2大本山が建てられていたが、金川落城後に道林寺は中山に移される。
元禄11年(1698)には蓮昌寺支配となり、創建や移転についても諸説がある。
寛文6年の光政による法難では38ヶ寺の末寺が全て廃寺となる。
さて、次は最近調査された道林寺関係の曼荼羅本尊である。
日扇:天文廿一壬子(1552)・・・、・・・備前國金川道林寺住侶大弐公・・・・
日現:天文廿一壬子(1552)・・・、備前國金川道林寺住侶大弐公・・・・
日典:天正十一年(1583)、道林寺住僧声明院日玄人
日典:天正十五年(1587)・・・、備州中山道林寺住僧林乗房日徳授典
日船:寛永11甲戌(1634)・・・、中山道林寺勧持院日漸授典
日扇の曼荼羅について「天文の頃、道林寺の尚金川に在りしを知らば・・・」(備前日蓮宗沿革史)とある。上記の曼荼羅で天正10年頃には道林寺は中山に移されていることが分かる。
2024/04/10撮影: ○「岡山県の地名」平凡社 より
元禄11年(1698)道林寺、城下蓮昌寺の配下となる。 墓所にある宝篋印塔は松田元方の墓塔と伝える。
鎮守妙見大菩薩は元大坪村の金山山上に祀られていたが、盗難に遭い、城下丸亀町の古道具屋に売られていたのを、当寺に移したものでそれ以来、鎮守として祀られる。
○「御津町史」p.800 より ◇道林寺宝篋印塔:松田元方の墓塔と推定される。 高さ1.8m
石塔としての形は整っているが、部品の石材が異なっている。九輪の石材は石英の多い花崗岩、塔身のそれは石灰岩、その他備品は長石の多い花崗岩というように異なる石材からなる。
この宝篋印塔の隣に下記の「板碑」が建ち、その碑文から本宝篋印塔が松田元方の墓塔と推定される。
◇大村官右衛門建立板碑 高さ1.5m、銘文は下記の通り。
大村官右衛門建立板碑
※宝篋印塔及び板碑の写真は撮り忘れのため、GoogleMapから転載ずる。
宝篋印塔及び板碑1 宝篋印塔及び板碑2
板碑裏面銘:板碑の建立は享和元年(1801)江戸後期の建立であることに留意。
○仁王門前「現地説明板」 より
明治30年の「仁王尊縁起」では、松田元隆、京都所司代及び高辻宮法華堂妙覚寺俗別當の時、大永年中(1521-46)造立し、妙覚寺14世日賞に開眼供養をしてもらったもので、後に玉松浄三ノ丸の道林寺に遷すという。
永禄11年(1568)玉松城は落城、天正年中道林寺は現地に再興され、仁王像もこの地に遷されたものと判断される。
その根拠は仁王像には後世の補修が多くみられ、原形を損ねている個所も多いが、全体像は古様を留め、古い技法も見られ、大永年中と見るのに矛盾はないと評価できるという。
中山道林寺仁王門1 中山道林寺仁王門2
仁王門前題目塔1 仁王門前題目塔2:日蓮550遠忌報恩:天保2年(1831)
中山道林寺堂宇 中山道林寺中門 中山道林寺本堂1 中山道林寺本堂2:本堂前に題目塔がある。
中山道林寺鐘楼1 中山道林寺鐘楼2 中山道林寺庫裡 庫裡客殿前題目塔
妙見堂拝殿 中山道林寺妙見堂1 中山道林寺妙見堂2
道林寺例題墓塔1 道林寺例題墓塔2 道林寺例題墓塔3 道林寺例題墓塔4
◇備前東菅野祖師堂:推定
菅野幸福寺から東へ2、3町下った所、吉宗川右岸にある。
緯度経度:34.745763816568015, 133.90188018088412 に所在。
現状は祖師堂はないが、かつては祖師堂があったとも思われる。(確証はない) 2024/04/10撮影:
東菅野推定祖師堂跡 東菅野推定祖師堂題目塔
日蓮大菩薩題目塔 大覚大僧正題目塔 地水神石塔
◇備前菅野幸福寺
正保山と号する。小湊誕生寺末。※菅野(すがの)
天平勝宝4年(752)創立、開山報恩大師。開基自雲院日満。 元は報恩大師建立48ヶ寺の一つで菅野山菅野寺と号する三論宗であった。 仁和年中に天台宗に改宗、その後永禄2年(1559)松田氏により、日蓮宗に改宗。
寛永17年から正保3年の間に堂宇を再建、寺号を正保山幸福寺に改称する。
寛文6年(1666)池田光政不受不施の廃滅を命じ、寺を取壊すも、翌7年3月に庄屋坂野惣兵衛・仁兵衛により再建がなる。
※※ 詳細及び訪問写真などは →備前48ヶ寺菅野山(日蓮宗正保山幸福寺)を参照。
◇備前二軒茶屋祖師堂
津高郡栢谷(かいだに)村二軒茶屋にある。(緯度・経度:34.720877, 133.909001)
栢谷村:横井上村の北に位置する。笹ヶ瀬川沿いに津山往来が通り、二軒茶屋には茶屋があった。 寛永時の村高は782石余。
寛文6年、津島妙善善寺末古屋山安立寺(100)と安立寺末受圓坊(101)は廃寺となる。受圓坊本尊釈迦如来は菅野幸福寺に預けられるという。
bヘ「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」中の番号に対応する。 ○「歴史の道調査報告書 津山往来」岡山県教育委員会、1992 より
道は再び、山裾に沿って北にのび、二軒茶屋の集落に入る。200mほど進むと道端右側に祖師堂が建つが、年代・由来については不明である。
2020/01/03追加: ○GoogleMap より
二軒茶屋祖師堂1 二軒茶屋祖師堂2
○ページ「津山往来2・御野幼稚園(倉敷往来分岐)から辛香峠まで」 より
看板なども見当たらず詳細は不明であるが、お堂の背後に3基の題目碑と1基の地水神がある。日蓮宗関係のお堂であろう。真ん中の題目碑には昭和六年の銘があった。
二軒茶屋祖師堂題目石等
2024/04/10撮影:
栢谷二軒茶屋祖師堂1 栢谷二軒茶屋祖師堂2 二軒茶屋祖師堂内部:堂裏に題目塔など4基を祀る。
二軒茶屋題目塔など:大覚大僧正・日蓮大菩薩・日朗/日像菩薩・地水神の4基である。
大覚大僧正450遠忌塔:大覚450遠忌報恩謝徳とある。450遠忌は天保11年頃である。
日蓮大菩薩題目塔 日朗.日像菩薩題目塔 二軒茶屋祖師堂地水神
◇岡山市北区横井上日講寺:本化日宗本山日講寺
岡山市北区横井上1811−2に所在する。 日講寺は本化日宗本山と称するも、現在は不受不施講門派(日蓮講門宗)に実質的に復帰しているようである。
2024/08/05追加: 津高郡横井上村は津島村の北にあり。寛永の頃、枝村を含む横井村の石高は2163石余という。
寛文6年、本村の日蓮宗津島妙善寺末清光山香仙寺(92)、同妙善寺末東大山妙現寺(93)、田中の香仙寺末日用山圓久寺(94)は廃寺となる。香仙寺は立退、妙現寺・圓久寺は還俗とある。
bヘ「備前における寛文6年の日蓮宗廃寺一覧」中の番号に対応する。
なお、「岡山県史 近代 巻10」p.380 では「龍華教院(現祖山妙覚寺)第5教会所」が津高郡横井上村に設けられていたことになっているが、その詳細は不明である。
◇日講寺の概要は次の通りである。(2024/08/05本山鹿瀬本覚寺様談)
戦後”法理”を巡り、(おそらく)本國院日行が講門派(あるいは本化正宗か)から分立、本化日宗を称する。
その後、復帰・合同の動きがあり、日蓮講門宗と本化日宗は合同に合意するも、宗教法人上の諸手続きやその他の問題もあり、宗教法人上は未だ別法人のままである。
即ち、現状、日蓮講門宗とは形式上別法人ではあるが、実質の宗教活動は日蓮講門宗と一体化して活動している。
日講寺3世(と思われる)は日照で、昭和62年か63年に高齢により隠居、平成2年寂。
日照隠居後、日講寺の実際の運営は僧侶2名が担当し、現在もその形である。(住職は本覚寺現住日昭上人が兼帯)
ネット上に散見する「単立」、「不受不施講門派」との文言は厳密にいえば、正しいものではない ◇日講寺概観
日講寺のある谷筋から少し西側を南北に走る「岡山(津山)街道」の「番人土手」と称する交差点角に「本化日宗本山日講寺参道」と刻する石柱がある。
境内には、本堂、御経堂、納骨堂?、石燈籠があり、さらに本堂裏の丘には日講以下の講門派歴代供養塔と本化日宗初祖・二祖の墓塔がある。
◇講門派歴代供養塔:次の12基がある、日講から十世日寛は講門派本山本覚寺の歴代である。 安国院日講:本化日宗からすれば、日講が初祖ということであろう。
二世圓應院日珠、正徳3年12月8日寂:本山本覚寺24世、日講の弟子となり、大坂東高津村に庵(衆妙庵)を構える。
後にこの衆妙庵は日講の伝統を伝え、講門派の中心となり、法灯を継いでいくことになる。
三世恵鑑院日照、宝暦4年2月16日寂:本山本覚寺25世 四世恵皎院日鑑、宝暦11年11月12日寂:本山本覚寺26世
五世恵穂院日順、明和8年9月29日寂:本山本覚寺27世 六世恵順院日鋭、寛政11年2月16日寂:本山本覚寺28世
七世恵哲院日鏡、文化10年3月15日寂:本山本覚寺29世 八世恵洞院日達、文政4年2月5日寂:本山本覚寺30世
九世恵仁院日讓、文政2年9月1日寂:本山本覚寺31世
十世恵秀院日寛、天保9年7月19日寂:本山本覚寺32世、天保9年(1838)7月天保法難で捕縛、入牢、牢死す。
本化日宗初祖・二祖墓塔 本國院日行:法華経山本化日宗本山日講寺開祖、昭和40年10月29日寂、84歳
本祥院日晴:法華経山本化日宗本山日講寺二世、平成元年7月31日寂、90歳 ○「GoogleMap」 より
本化日宗本山日講寺参道石柱1:日講寺は背後の丘の向うの谷筋に所在する。
本化日宗本山日講寺参道石柱2
2024/04/10撮影
日講寺本堂1 日講寺本堂2 日講寺本堂3 日講寺本堂4
日講寺御経堂1 日講寺御経堂2
歴代廟所供養塔
歴代廟所供養塔2:向かって左から第4世、3世、2世、日講、日行、日晴、10世、9世、8世、7世と並ぶ。
歴代廟所供養塔2:向かって右から納骨堂?、第5世、6世・・・と並ぶ。最右端は納骨堂?。
安國院日講聖人供養塔
第2世供養塔 第3世供養塔 第4世供養塔 第5世供養塔
第6世供養塔 第7世供養塔 第8世供養塔 第9世供養塔 第十世供養塔
本國院日行聖人墓塔:日講寺開祖 本祥院日晴聖人墓塔:日講寺二祖
◇備前日應寺
○「岡山・備前地域の寺」、「岡山の神社仏閣」 「岡山の門」 より
養老2年(718)報恩大師の建立と伝え、応永山法華経寺と号し、三論宗であったと伝える。
また備前津高郡波河村(芳賀顕本寺)に生まれたとされる報恩が入寺したと伝える。
後に報恩が備前48ヶ寺を建立した時、その根本道場となし、勅命山日應寺と改号するという。
なお、山号の「勅命山」を含め、寺内と付近には、「勅使堂」、「勅使道」、「王御膳所」の旧跡などを残す。これは報恩大師が桓武天皇の病気平癒を祈祷し、平癒の霊験が見え、勅使が来たりてこれを謝したという言い伝えによるものである。
要するに中世以前に創建された寺院であることを示すのであろう。
永禄2年(1559)金川城主松田将監元賢によって天台宗から日蓮宗に強制改宗させられ、備前法華の一翼となる。
この時、吉祥山と山号を改号する。
明治31年勅命山と復号する。 ○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」平凡社、昭和63年 より
江戸初頭は金川妙國寺末、寛文6年(1666)池田光政の不受不施弾圧によって、寺中恵性院、新藏坊、泉林坊が廃寺となる。
番神堂に安置する木造毘沙門天立像・木造不動明王立像(いずれも重文)は大和子島寺の旧佛と伝えられる。 2019/03/10追加:
※金川妙國寺末であった日應寺は、寛文6年の法難では廃寺とならず、寺中恵性院、新藏坊、泉林坊のみが廃寺となる。
本寺である日應寺が廃寺を免れた理由は不明であるが、おそらく、いち早く受派に転じたのであろうと推測される。
※受派に転じてからの日應寺は上伊福妙林寺・浦伊部妙國寺などとともに、江戸期は内信への讒訴を繰り返し、
多くの不受不施派法難の端緒を作る。 また、明治維新後の信教の自由が認められた後も、不受不施派再興運動の弾圧・妨害を繰り返すという
今は過去のことであるが、寺歴を持つ。
→ 備前法華の系譜を参照。
◎日應寺現況
現在は、仁王門・鐘楼門・本堂・番神堂・客殿・太鼓堂・庫裡・位牌堂・堂名不詳の新築堂・収蔵庫などがある。
◇印は2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2008/02/12撮影・ご提供画像、無印は2015/08/23撮影
◇備前日應寺遠望
○仁王門:三間一戸の八脚門、正面7.1m、側面4.1m、本堂よりやや早い18世紀末頃の建立であろう。(「岡山の門」)
平成9年解体修理という。
◇備前日應寺仁王門
日應寺仁王門11 日應寺仁王門12 日應寺仁王門13 日應寺仁王門14
日應寺仁王門15 日應寺仁王門16 日應寺仁王門17 日應寺仁王門18
日應寺仁王門19 日應寺仁王門20
○鐘楼門:建築年代を含め詳細不明
◇日應寺鐘楼門前
日應寺鐘楼門2 日應寺鐘楼門3
○本堂:5間×4間、入母屋造・屋根茅葺(現在は銅板葺)。はっきりした建築年代は不明(江戸後期の建築)。
◇備前日應寺本堂
日應寺本堂11 日應寺本堂12 日應寺本堂13 日應寺本堂14 日應寺本堂15
日應寺本堂16 日應寺本堂17 日應寺本堂18 日應寺本堂19 日應寺本堂20
日應寺本堂21 日應寺本堂22 日應寺本堂23
本堂は天保年中の建立ともいい、天井絵は屋内外に約400枚があるという。 2022/09/19追加; 天井画は横山春篤筆という。
横山春篤は→備中国分寺五重塔初重天井画を描く。(2022/05/05撮影写真中>横山春篤筆天井画)
日應寺手水舎
○収蔵庫:以前は番神堂に安置していた毘沙門天立像、不動明王立像(鎌倉期、重文)を蔵す。
日應寺収蔵庫
○客殿・庫裡
日應寺客殿/庫裡1 日應寺客殿/庫裡2
日應寺客殿(推定)
日應寺庫裡(推定)1 日應寺庫裡(推定)2 日應寺太鼓堂
○番神堂
:桃山期もしくは江戸初期の建立か、3間×3間、入母屋造、向拝を付設し前1間は吹き放し、但し当初から番神堂であったかどうかは不明という。昭和57年解体修理する。
日應寺位牌堂:推定
日應寺新築堂宇:本堂横手の堂宇は新築であり、堂宇名は不明、本堂背後は推定位牌堂
日應寺稲荷明神
日應寺勅使堂:勅使が滞在したという旧跡といい、今堂を建て勅使明王として祭祀する。
日應寺歴代墓碑
なお、永和3年(1377)年紀の梵鐘を有するという(未見)。この梵鐘は児島湾から引き揚げられ、妹尾盛隆寺にあり、日応寺に移したものという。
|