卯 木 山 本 能 寺
法華宗本門流大本山本能寺
★「都名所圖會」に見る本能寺
近世、天明の大火以前には三重塔が存在する。
しかし、この塔及び伽藍は天明8年の大火で類焼し、その後三重塔は再興されず。 →天明の大火
この後、復興がなされるも、元治の火災でまたもや伽藍が焼失する。 →元治の大火
さらに明治維新後市街地化等で境内は縮小される。
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天明年間刊「都名所圖會」巻1の本能寺から
本能寺伽藍図:左図拡大図
「両山暦譜」には、「元和7年(1621)山口本国寺ノ塔ヲ引移ス」とある。この塔が天明年中まで存在したと推定される。
→山口本国寺は未調査。法華宗本圀寺は現存する。
なお図中の「鬼子母神」とあるのは、番神社拝殿の誤認であろう。 (※本能寺に鬼子母神が建立された記録はない。) |
2009/06/19追加:
「近世京都日蓮宗本能寺の伽藍配置」魚谷佳史、丹羽博亨
(「研究報告集. 計画系 (66)」社団法人日本建築学会、1996 所収) より
○天明の大火以前の本能寺伽藍図:
やや不鮮明であるが、おおよその配置は分かる。 ※天明の大火は天明8年(1788)
○寛政7年本能寺再興願の附図;
下に掲載図(2010/12/19追加の画像)が鮮明である。
寛政7年(1795)の再興願いは天明の大火以前とほぼ同一の伽藍配置であるが、規模を縮小したものとなる。
本堂は梁行12間桁行13間の所取縮め梁行11間桁行12間小棟造、祖師堂は梁行9間桁行10間の所取縮め梁行8間桁行8間入母屋造、番神社は間数の如く3間四方、同拝殿は6間半四方の所取縮め6間四方、開山堂は梁行9間桁行12間の所取縮め梁行6間桁行9間半、大方丈(客殿)は梁行10間半桁行15間の所取縮め梁行10間桁行14間、小方丈は間数の如く梁行5間半桁行8間、庫裏は間数の如く梁行7間桁行10間 ・・・に再興する。
○寛政11年本能寺伽藍図:
図は不鮮明であるが、凡そ26院が再興されたと分かる。
この図では(不鮮明なため)三重塔の消息は良く分からない。(三重塔の再興は、確証はないが、成されずと推定される。)
2010/12/19追加:
「本能寺史料 本山篇(下)」藤井学・波多野郁夫、思文閣出版、1999
◇正徳6年文書添付絵図:
正徳6年(1716)本能寺が奉行所に東北に溜池普請の願書に添付の境内図、役者は慈眼院及び本樹院
正徳6年本能寺境内図:寺町移転後、三重塔引移、祖師堂再興、鐘楼建立、開山堂建立後の本能寺境内である。
◇安永4年文書添付絵図:
安永4年(1775)高楼・北辻小門などの修理願に添付の境内図
安永4年本能寺境内図:堂宇はほぼ同上、都名所圖會に描く境内図とほぼ同一であろう。
いずれにせよ、天明の大火以前の本能寺伽藍図である。
◇寛政7年文書添付絵図:
天明8年の大火により諸堂宇焼失し、寛政7年(1795)本能寺再興願が提出されるが、それに添付の絵図面である。
寛政7年再興願書絵図面1:上掲と同一の絵図面
寛政7年再興願書絵図面2:天明8年の火災で類焼、仮建築であったが、梁間延、建物間数取縮して「再建仕度奉願」と云う。
基本的に堂塔の配置は天明の大火による焼失以前を踏襲する。
本堂(12間×13間を11間×12間に縮小)、祖師堂(9間×10間を8間×8間に縮小)、番神社(元のまま3間四方)、同拝殿(6間半四方を6間四方に縮小)、開山堂(9間×12間を6間×9間半に縮小)、大方丈(10間半×15間を10間×12間に縮小)、唐門、小方丈、庫裏、藥医門、井戸屋形、鐘楼堂、「間数如元3間四方之三重塔」、皷楼、茶所、浴室、物置小屋、外練塀
以上の再建願が提出される。三重塔の再建も計画に入る。
但し、三重塔の再興については、現在寛政7年の再興計画以降の史料が詳らかでなく、再興されたかどうかは不明である。
しかし、諸事情からついに再興されなかったものと思われる。
2011/04/29追加:
「洛中法華宗本山寺院の伽藍建築」丹羽博亨(「広島工業大学研究紀要 17 (21)」1983 所収) より
上掲の寛政7年再興願書絵図面1は天明8年の大火以前で、寛政7年再興願書絵図面2は堂宇の規模を縮小した再建願いであるが、天明の大火後の再興は堂宇の規模は縮小するも、その位置は同じところで再興される。
★本能寺略歴
卯木山と号する。法華宗(本門流)大本山(尼崎本興寺・岡宮光長寺・鷲巣鷲山寺)。本尊:十界大曼荼羅。
応永22年(1415)日隆上人、妙本寺(妙顕寺5世)月明上人と袂を分かち、油小路高辻・五条坊門間に堂舎を建立し、本応寺と号する。
応永25年(1418)本応寺、妙本寺月明により破却され、日隆は河内三井の里に逃れ、弘教する。
応永27年日隆、尼崎本興寺を建立する。
永享元年(1429)小袖屋宗句の帰依を受け、内野に本応寺を再興。
永享5年(1433)如意王丸から六角以南、四条以北、櫛笥以東、大宮以西の寄進を受け、ここに移建し、本能寺と改称する。
日隆上人は本勝迹劣の義を説き、本門法華宗を興し、北陸(敦賀本勝寺、本隆寺)・畿内(摂津顕本寺
、河内加納法華寺)・山陽道(備前本蓮寺)を伝道する。
弟子日典・日良上人は種子島・屋久島・永良部島まで伸ばし、末寺を建立する。
応仁の乱前後京洛は題目の巷と化し、法華宗21本山が繁栄を極め、(町衆・商人の帰依)法華宗諸本山は町衆の自治と自衛の中心となる。諸本山は次第に堀や土塀の防御施設を整え、武力を蓄える。
天文5年(1536)比叡山衆徒が法華衆徒を攻め、本山21寺は焼失する。(天文法華の法難)
本能寺も約2万の兵で四条口を固めるも、破れ、本能寺は灰燼に帰する。(堺の末寺顕本寺に逃れる)
本能寺は天文16〜17年頃帰洛し、四条西洞院に再興される。(8世日承上人代)この時寺中47ヶ坊を数える。
日承上人墓◆
天正10年(1582)当寺に宿泊中の織田信長は明智光秀の襲撃に遭い、本能寺も炎上する。
天正17年庫裏・番神堂再興、本堂上棟式当日に秀吉の命を受け現在地(寺町)に移転する。
※寺町移転前の本能寺の姿は上杉本「洛中洛外図屏風」に描かれる。
→2003/05/17:洛外洛中図(池田家本)、洛中洛外図・寛文年間(左本能寺・右誓願寺)
天正20年頃、新しい寺地寺町に本堂・大書院・客殿・祖師堂・開山堂・塔頭10数院が竣工する。
2009/06/19追加:
「近世京都日蓮宗本能寺の伽藍配置(建築歴史・意匠)」魚谷佳史、丹羽 博亨
「両山暦譜」には、
文禄元年(1592)本堂再建、その他番神堂・大坊・庫裏引移再建
日澄上人代、祖師堂建立
文禄4年(1695)方丈客殿新再建立
慶長13年(1608)惣門・唐音門建立
元和7年(1621)山口本国寺ノ塔ヲ引移ス(注:本国寺)
寛永10年(1633)鐘楼建立
寛永15年祖師堂回禄、同17年祖師堂再建
元禄4年(1691)開山堂建立 とある
天明8年(1788)の大火で伽藍を焼失、再建。
元治元年(1864)の兵火で灰燼に帰す。現伽藍は昭和3年の造営になる。
この間隆閑寺学室(大亀谷檀林)を移建し、仮本堂とする。
※大亀谷檀林は日蓮宗檀林のページを参照。
注:本国寺:山口市道場門前2丁目に本圀寺と称する寺院(本門法華宗)がある。本国寺とはこの本圀寺であろうか。
寺伝では文和2年(1353)大内弘世の創建。法華宗西国最初の道場と云う。
○京羽二重巻4(宝永版) より
本能寺・役者
蓮住院 長遠院 實教院 壽詮院 と記載あり
○大正5年「京都坊目誌」(上京第ニ十五學區之部)碓井小三郎編記事 より
天文5年(1536)山徒の為に焼れ、和泉の堺に遁る。天文14年僧、日承等帰京し、
更に六角四条坊門、油小路西西洞院の間に於いて、大いに伽藍を造営す。塔頭47。
殿堂全備し、甚だ盛大なりしが、天正10年(1582)織田信長の営となる。
6月2日明智光秀来たり攻む。遂に兵火に罹り烏有に帰す。同15年京極三条坊門、即ち今の地に移れり。・・・・
・・・天明8年悉く焼失し、後再建せしも旧形に及ばず。・・・・
元治元年(1864)又兵火に罹り、宝蔵と子院一宇僅かに免る々のみ。・・・・
旧境内8,218坪。維新に際し一宇を京都府に収め勧業場を設け、残地4,462坪となる。
明治43年自門経営上許可を得て、1800余坪を売却、今2,662坪。
末寺は全国に170ヶ寺あり。
旧塔頭27宇。今僅かに7院となる。
恵昇院・蓮承院・定性院・高俊院・本行院・源妙院・竜雲院(現在と変わらず。)
2010/12/19追加:
○「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
卯木山本能寺塔中:
遠樹院、竜雲院、久成院、慈眼院、恵昇院、本久院、昴本院、本法院、本光院、長遠院、妙行院、玄妙院、高俊院、真淨院、常照院、本証院、詮量院、吉祥院、円光院、光承院、蓮乗院、本行院、実教院、智顕院、信解院、源妙院 26ヶ院
花洛の末寺:伏見大かめ谷随閑寺(日蓮宗檀林中大亀谷壇林)
2011/08/21追加:
○日蓮宗本末一覧(明治3年11月作成、寺社掛、太政官達により京都府寺社掛が作成) より
本能寺寺中:
本行院、惠昇院、高俊院、慈眼院、蓮(乗)院、龍雲院、本法寺の7ヶ院が現存し
源妙院、定性院、真浄院、本樹院、遠寿院、長遠院、吉祥院、詮量院、実教院、円光院、久成院、本光院、(■)蔵院、晶本院、光(承)院、智顕院、妙行院
の17ヶ院は無住など寺籍のみ
※坊舎名の( )中の漢字は異字体と思われ判断できない。
2023/04/30追加: ◆明治初頭の本能寺伽藍
○「明治初年における京都【寺町】の景観とその変化 −『社寺録』『寺地画図』を資料として−」小林善仁(「佛教大学総合研究所紀要
第22号」2015年 所収) より
寺町一帯は元治元年(1864)年7月19日禁門の変の最中に発生した所謂元治の大火で焼失し、本能寺も焼失している。 ※元治の大火→寺町移転・宝永の大火・天明の大火・元治の大火中にあり。
それ故、寺地画図の作成された明治3年(1870)には本能寺も復興の最中であったと推定される。 本能寺寺地画図:本図は「寺地画図」から著者が書き起こしたものである。
図左下に「惣地坪数八千二百六十二坪八合五勺、内建坪朱引之分百三十八坪七合五勺」とあることから朱書きの箇所のみに建物が存在していたことになる。
この点を踏まえて塔頭を見直すと、塔頭名が24院分記載されているが、建物の存在していた塔頭は表門脇の高俊院・源妙院・定性院、西側の本行院・蓮承院、北側の慧昇院、南側の龍雲院の7院に過ぎず、再建の進んでいない当時の境内地の状況が読み取れる。
「本堂跡」「三重塔跡」の付近は朱書の破線で囲まれ、「朱カスミ引之内桑植付場所」と記されており、これは明治2年に京都府が発令した桑や茶などの栽培奨励웖웍웏웗による開墾地で、同様の事例は天龍寺など他の京都の寺院境内地でも確認されている。このように罹災塔頭の再建が進まない明治初年の本能寺では、方丈と焼失を免れた塔頭が存在するものの、外見上は空地の塔頭再建用地が広範囲に広がり、一部には桑が栽培されている状況であった。
次いで、本能寺の境外地を事例として、旧境内地の景観変化を周辺地域との関わりに注目して検討する。
本能寺の『社寺境内外区別図』(明治8年〜同18年作成)の中に「本能寺境内外区別実測六百分一ノ図」と題する図が伝存している。
同図は図中に「上京区第三拾組」とあり、明治15年8月に大破・撤去された自雲堂が記載されていることから上京区・下京区が編成された明治12年以降、明治15年夏までの間の作成と推定できるが、この図と『寺地画図』を比較すると大きな違いに気付く。
建物が建ち境内地として残されたはずの寺町通側の塔頭群と方丈や恵昇院の建つ境内地北部が「境外」となっている点である。
「本能寺境内外区別実測六百分一ノ図」によると、寺町通側の5院(北から蓮承院・本行院・定性院・高俊院・源妙院)は仮本堂東側(開山堂跡・祖師堂跡・拝殿跡)や南側(三重塔跡・池)に移転しており、北の離れた位置にあった恵昇院もこれらの塔頭の南へ移され、全体的に仮本堂の周辺へ塔頭が集約されている。
移転で生じた塔頭跡地のうち寺町通側の土地は、本能寺の申し出により明治6年に未再建の塔頭用地と合わせて「除地売却」が行われて民有地となった。
「除地」の記載から売却された土地が一度は「境内」と判断されたことが分かる。
また恵昇院のあった境内地北部は、同図に「荒蕪地弐千七拾七坪二合」「境外上地」とあり、塔頭用地の荒廃していた様子が知られると共に、これらの荒蕪地が境外として上地されたことが読み取れる。
上地された本能寺旧境内地には、明治6年(1873)に京都府勧業場栽培試験場が開設されている。
勧業場と栽培試験場は、新京極の開発を主導した槇村正直が東京奠都後の京都復興策として建設したものであり、勧業場は明治3年12月に河原町二条下ルの毛利家京都屋敷を借用して、翌年正月に開設されたものである。
同年には、理化学研究と教育を行う京都舎密局が旧有栖川宮家屋敷地に開かれており、近接する位置に勧業場は設けられたとみられる。
栽培試験場はこの勧業場の付属施設であり、勧業場西隣の本能寺境内地北部を上地して建設される。
2003/05/10追加:
仮本堂時代の本能寺本堂と思われる。
以下の明治後期のものと本堂の向きなどが違い、いつの時代の写真か不明。
2007/08/08追加:「京都府写真帖」京都府、明治41年 より
明治後期の本能寺:仮本堂と思われるも上記写真と本堂の正面(向拝)位置が異なると思われる。
2010/11/29追加:上記写真と当写真の仮本堂は、本堂向きが異なるにせよ、同一の建築と思われる。
(なぜ向きが異なるのかは不明)
いずれにせよ、この写真の(仮)本堂は隆閑寺学室講堂の遺構であることは間違いないであろう。
2010/11/29追加:「京都名勝写真帖」風月庄左衛門、風月堂、明治43
本能寺伽藍:基本的に上記の「明治後期の本能寺」と同一の本坊・本堂が写るものと思われる。右は仮本堂。
2012/07/15追加:「京都名勝鏡」山本勘次郎、大正5年 より
大正初期本能寺:右は仮本堂
2010/11/29追加:「本能寺」本能寺史編纂会、昭和46年
本能寺旧玄関及び本坊:
旧玄関及び本坊とあり、この図書の出版年から見て、現在のRC造の本坊・寺務所が建てられる前の建築であろうか。
つまり昭和5年新築の方丈玄関・寺務所庫裏であろうか。
2011/08/21追加:
○京都市明細図:昭和2年頃、「大日本聯合火災保険協会」が作成、昭和26年頃まで加筆・修正がなされる。
京都市明細図本能寺:下掲の「本能寺史料」昭和3年以前境内図にほぼ見合うものである。
なおこの図の北側の色付けされていない部分(疎開とある)は戦時中に建物疎開と称し、取壊された部分である。
明治維新前には当然本能寺の境内であった部分である。
2010/12/19追加:
「本能寺史料 古文書篇」藤井学・波多野郁夫、思文閣出版、2002 より
「両山暦譜」(日唱本):
・62世日盛上人;
大正11年晋山、大正12年本堂立柱式、
大正14年本堂上棟式、大正15年龍雲院、源妙院、本行院上棟式、昭和2年蓮承院、高俊院、恵昇院、定性院上棟式、
昭和3年宝物館、行者住宅上棟式、信長公廟所、納骨堂、歴代墓所移転、信長公廟所拝殿上棟式、
昭和3年本堂落慶式
昭和3年以前境内図
昭和3年以降境内図:寺中が現在の形に整理され、新本堂が建立され、現在の伽藍の原型が成立する。
・63世日晃上人;
昭和3年晋山、昭和5年宝蔵新築落慶、方丈大改築落慶、事務室・玄関・離れ書院取壊、直ちに書院・大玄関・寺務所改築に着手、落成。旧本堂を東北に1間移動。昭和6年新客殿落成、練塀・方丈庭園など整備。
※旧本堂の取壊、本能寺文化会館などの建築時期などの現在の景観については資料がなく、不詳。
2013/02/08追加:「京都府の歴史散歩 上」2011より
雲龍院は元治元年の兵火で唯一焼失を免れる。源妙、本行、高俊、定性、蓮承、恵昇の各院は大正7年から昭和3年に再建され、何れも間口6間の敷地で、正面4間半側面6間の建物を持つ。
★本能寺現況
◆現伽藍(概要図)
;概要図は目測をメモしたもので必ずしも正確ではない。
2012/07/15追加:
「法華宗宗門史」法華宗宗門史編纂委員会編、法華宗(本門流)宗務院、1988 より
京都本能寺俯瞰
Google
京都本能寺俯瞰2
無印は2001年5月25日撮影、※印は2001年6月10日撮影。◆印は2007/02/22撮影
、□印は2014/05/01撮影
繁華街の中(寺町)にあり、往時より相当寺地を狭められる。
総
門※ □本能寺総門2
本
堂(桁行7間梁間7間の大堂である) 本 堂◆
□本能寺本堂3 □本能寺本堂4 □本能寺本堂5 □本能寺本堂6
□本能寺本堂7 □本能寺本堂8
庫裏(御池通り南、鉄筋コンクリート4階建で内部を区切り庫裏寺務所として使用
大宝殿※:ごく近年建立・鉄筋コンクリート4階で5層に宝形堂を乗せる
信長本廟※ 信長供養塔※ □本能寺信長公廟拝殿
歴代墓と開山廟※ 開山廟※(左日隆上人、右日像上人)
開 山 廟◆
□本能寺開山廟2 □本能寺開山廟3
開山廟の中央及び右の供養塔の性格は不明、右の供養塔はおそらく日隆上人塔と思われるも、確認が取れない。
左の供養塔の銘は中央は題目、上段左右は日朗菩薩(六老僧)と日像菩薩(四条妙顕寺開祖)、
中段左右は大覚大僧正(妙実、四条妙顕寺二祖)と朗源和尚(四条妙顕寺三世)、
下段3行は日○聖人、日霽(四条妙顕寺四世)、日○聖人と刻む。
塔
頭※境内南側に北面し一列に恵昇院・蓮承院・定性院・高俊院・本行院・源妙院・竜雲院の7院が並ぶ。
□本能寺寺中2 □本能寺寺中3
恵昇院◆ □恵昇院2 □恵昇院3
蓮承院◆ □蓮承院2 □蓮承院3
定性院◆ □定性院2 □定性院3
高俊院◆ □高俊院2 □高俊院3
本行院◆ □本行院2 □本行院3
源妙院◆ □源妙院2 □源妙院3
竜雲院◆ □竜雲院2 □竜雲院3
現本堂は伸和建設の手になる。
「伸和建設資料集」より
正面図 側面図:モデルは河内観心寺金堂という。
方丈玄関・寺務所庫裏・宝庫新築(昭和5年)新築、行者研修所新築(昭和45年)、位牌堂新築、築地塀修理(昭和46年)、信長公御廟拝殿修理(昭和51年)、霊廟新築・各所修理(昭和56年)、庫裏・講堂塀新築(昭和57年)、墓地手水舎など改修(昭和58年)、表門屋根葺替修理(昭和59年)、東門・塀改修(平成元年)、大宝殿新築(平成10年)、僧堂新築(平成13年)などは伸和建設の手になる。
2011/05/16追加(05/10撮影):京都本能寺より情報入手
○大亀谷檀林(隆閑寺)石碑
・隆閑寺は廃寺である。(廃寺の時期および位置は詳しいものが今不在で不詳)
・隆閑寺学室石碑は大本山本能寺に移設される。(現在浦上玉堂春琴廟所の向かって左隣にある。)
大亀谷檀林石碑1:
右は浦上玉堂春琴廟所、左の解説板は浦上玉堂の解説。
大亀谷檀林石碑2:隆閑寺學室とある。
大亀谷檀林石碑3:元禄□六□八月中□、背面の刻文も含め、一部判読不明、元禄6年に石碑建立か。
大亀谷檀林石碑4:妙亀山檀林とある。
2023/10/06撮影:
大亀谷檀林石碑正面:隆閑寺學室
大亀谷檀林石碑右面1 大亀谷檀林石碑右面2:元禄第六歳八月中旬(1693年)
大亀谷檀林石碑左面1 大亀谷檀林石碑左面2:妙亀山檀林
大亀谷檀林石碑後面1:後五百歳中/廣宣流布 法界万霊
大亀谷檀林石碑後面2:施主(施主名は判読できず)
南無妙法蓮華経 隆閑寺學室 元禄第六■八月中旬 (※■は2行に渡って4文字あるが判読できず) 妙亀山檀林
後五百歳中/廣宣流布 法界万霊 施主 ■ (※■は2行に渡って施主名があるが判読できず)
・本能寺明治仮本堂(隆閑寺講堂)は現在の本能寺大宝殿(講堂)の位置にあった。
本能寺大宝殿:この場所に隆閑寺講堂(本能寺仮本堂)があったという。
★日隆上人略伝:2017/08/16作成
○「讃岐国名勝図会」巻之10、江戸後期、松岡信正画(「日本名所風俗図会 14」角川書店、1979-1988 所収) など より
※讃岐宇多津本妙寺の項中から、日隆上人部分を抜粋
至徳2年(1385)桃井尚儀を父とし、管領斯波義将の娘を母として越中国射水郡浅井島村(現射水市)に生誕する。
応永3年(1396)浅井遠成寺の慶寿院日深を師として出家。名を深円と称す。
※遠成寺とは不詳。
応永9年(1402)妙本寺(現妙顕寺)4世日霽及び日存・日道に師事して修学。名を日隆と改める。
応永12年日霽遷化、貴族の出である月明が5世となる。月明は法華経に対し、本迹一致の法文をなす。
応永17年(1410)日隆は本迹勝劣を主張し、月明と対立。日存・日道とともに妙本寺を退出。
五条西洞院の像師堂(現妙蓮寺)で研鑚。
応永22年(1415)小袖屋宗句の寄進により、本応寺(現本能寺)を建立。これ最初の建立なり。日存上人を以って元祖となす。
応永23年生国浅井島村の地に元成寺を建立、桃井家菩提寺となす。老臣元成出家し日永と改めこれを守る。
(異説):越中桃井家において家老中村元助が反乱。敗れた家老中村元成は日隆を訪ね、日隆に請い、日隆画像を得て、反攻し反乱を鎮圧、その後自ら出家し、日乗と号し、桃井邸を寺とし元成寺と称する。
※元成寺は富山・高岡に移り本光寺となり、最終的には金澤卯辰本光寺<金澤卯辰山麓の諸寺中の本光寺参照>となる。
元成寺跡地は明治12年長隆山誕生寺となる。
応永25年(1418)妙本寺月明は日隆を憎み、本応寺を破却。月明の放つ6人の刺客に襲われるも、刺客は聖人に帰依する。聖人は6人と共に北河内三井村に赴き、村人の病気平癒を祈り「本厳寺」を建立する。
※元は真言宗本法寺と称する。住職は日隆に心酔し弟子となり、全てを献ずる。
日隆は本厳寺と改称し、そこに止宿する。近隣は日隆を慕い、三井村は全村法華宗となる。
但し、本厳寺は現在は四条妙顕寺末という。
更に尼崎の米屋次郎五郎宅に止宿して布教する。折しも管領細川右京大夫満元公は夫人の懐妊に際し、男子誕生の祈願を日隆に依頼、その結果嗣子持之が誕生し、細川満元は「本興寺」を建立し寄進する。
応永33年(1426)日隆は元成寺日乗の七回忌供養のため帰郷。帰途、水島沖で嵐のため色ヶ浜(敦賀)に座礁するも、村人の病気平癒を祈り「本隆寺」を建立する。近隣の禅寺「金泉庵」も改宗し「妙泉寺」と改める。
これを聞いた敦賀の商人、安田五郎右衛門は真言宗大正寺円海法印との法論を願い、これを破折。円海法印は日従と改め、寺を「本勝寺」<敦賀の諸寺中>と改める。
永享元年(1429)小袖屋宗句によって本応寺が再建される。「天台法華両宗勝劣抄」(四帖抄)を著わす。
永享5年(1433)如意王丸の寄進により、四条坊門北四丁の地に本応寺を移し、寺号を改め「本能寺」とする。
永享年(1439)日隆は母方斯波一族の菩提を弔うため南河内加納の地を訪ね、そこで斯波義盛と対面、当地の旱魃の為雨乞い祈願を修し、山腹より水が湧き出たことで、一村改宗し「法華寺」が建立される。
※法華寺は現在単立。
宝徳元年(1449)兵庫三川口の旅籠屋より海路牛窓に赴き、石原但馬守をはじめ多くの外護者を得、大覚大僧正開基「法華堂」を改め「本蓮寺」と公称する。
さらに備中新庄(山根)では川上道蓮、江本蓮光の帰依をうけ「備中山根本隆寺」<津宇郡津寺村・加茂村・惣爪村・新庄上村・新庄下村中>を建立する。
讃岐宇多津では、病気平癒の祈願により「讃岐宇多津本妙寺」<讃岐の諸寺中>を建立。
帰途再び兵庫の旅籠屋に着くと、聖人が出発の折に脱いだわらじを洗って差し出す宿主に聖人は「正直屋」の屋号を与え、宿主の菩提寺「久遠寺」は聖人に帰依する。
宝徳3年(1451)堺の錺屋、木屋の篤信者により「顕本寺」が建立され、日浄を開基とする。日浄は斯波義盛の実子である。
嘉吉2年(1442)淡路東浦(釜口)の大覚大僧正開基妙本寺末寺「妙勝寺」、享徳3年(1454)年には同じく淡路中村の大覚大僧正開基妙本寺末寺「妙京寺」が帰依する。<いずれも大覚大僧正開基寺院中>
享徳3年(1454)尼崎本興寺に勧学院を創立し、多くの門弟を育てる。
中でも当時天台僧であった日忠は後に妙蓮寺9世として「道輪寺学室」を造る。
日隆は水に縁深く、多くの民衆を救う。
射水誕生寺(元成寺)には聖人誕生の折に湧出したといわれる「誕生水」があり、加納の法華寺には旱魃の村を救った「筧の水」、尼崎本興寺には水の不自由な地に清水「金水」を掘り、讃岐宇多津本妙寺には「鳳凰水」がある。
寛正5年(1464)尼崎本興寺で入滅。享年81。
日隆は生涯に渡り、3千余帖(363巻)の著述を残し、16箇寺の寺院を建立するという。
◆本能寺末寺・・・・判明した部分のみを掲載。
西国の末寺については、京都本能寺・尼崎本興寺の両本山末とされる。
従って、尼崎本興寺末寺についてもこの項に記載する。
越中長隆山誕生寺(元成寺) △
【廃寺】長昌山妙久寺 →卯辰山麓の諸寺中
○加賀金沢卯辰鳳榮山本光寺 → 同上
○加賀金澤寺町興富山本因寺 →金沢寺町の諸寺中
○加賀金澤寺町本隆山承證寺 → 同上 〇越前鯖江吉江隆宝教会(題目堂) →越前鯖江の諸寺中
〇越前鯖江舟津妙正寺 → 同上 ○越前武生久成寺 →越前武生の諸寺中
○越前敦賀日照山本勝寺 →越前敦賀の諸寺中
越前敦賀浦底妙泉寺
越前敦賀色ヶ浜本隆寺 ○丹波亀山本門寺 →丹波の諸寺中
○山城伏見本成寺:紀伊郡伏見丹波橋 →伏見本成寺
山科大乗寺:愛宕郡川野三番町:現山科区北花山大峰町38-1
唱玄庵:愛宕郡聖護院村西ノ森
○東山東漸寺(廃寺) →山城廃東漸寺
○東山本住寺(廃寺) →山城廃東漸寺中にあり
○大亀谷隆閑寺(廃寺) →大亀谷檀林
○摂津藤井寺 →明治以降の三重塔中482 △
○摂津大鹿妙宣寺 △
大覚山と号する。大覚大僧正を開祖、享徳元年(1452)本能寺・本興寺末寺となり、明治42年尼崎本興寺末寺となる。
→摂津の日蓮宗諸寺中
○大和奈良西在家町本照寺 →大和の諸寺中 明治六年中「大和国各郡寺院調表」では京都本能寺・尼崎本興寺両末寺、無住とする。 西在家町の町自体の所在が不明、西新在家町は存在するも、当該町には現存せず。廃寺か。
○大和奈良下三条町本妙寺 →大和の諸寺中
明治六年中「大和国各郡寺院調表」では京都本能寺・尼崎本興寺両末寺とする。
現存する、現在は本門佛立宗に属する。 堺顕本寺
摂津久遠寺
淡路釜口妙勝寺
淡路中村妙京寺 ○因幡鳥取管能寺 →因幡の諸寺中
○備前牛窓本蓮寺:西国の八品派の一つの拠点である。 →備前牛窓本蓮寺
○備前岡山菅能寺 →備前旧岡山市内の諸寺中
○備前浜野松寿寺 →大覚大僧正開基寺院中 ○備中新庄上山根本隆寺(中本寺) →津宇郡津寺村・加茂村・惣爪村・新庄上村・新庄下村中
以下備中賀陽郡・窪屋郡諸末寺 → 同 上 妙徳寺 備中窪屋郡赤浜村(岡山県総社市赤浜984)
新福寺 備中賀陽郡田中村(岡山市北区高松田中317) 三仙寺(三井山) 備中賀陽郡下足守村(岡山市北区下足守2026)
乗典寺(瑞喜山) 備中賀陽郡上足守村(岡山市北区足守932) 東光寺(妙喜山) 備中賀陽郡上足守村(岡山市北区足守918)
善修寺(佛性山) 備中賀陽郡日近村(岡山市北区日近791) 覚乗寺 備中賀陽郡日近村(岡山市北区日近1220)
法昌寺(如意山) 備中賀陽郡粟井村(岡山市北区粟井1495−1) 本乗寺(道本山) 備中賀陽郡山内村(岡山市北区東山内1243)
妙円寺(浄泉山) 備中賀陽郡山内村(岡山市北区東山内1555、緯度・経度:34.783720, 133.788380)
妙本寺(浄慶山) 備中賀陽郡河原村(岡山市北区河原1355) 正福寺(正満山) 備中賀陽郡山の上村(岡山市北区山上3010)
以上備中賀陽郡・窪屋郡諸末寺
本安寺(福山市芦田町下有地1897)
備中新庄本隆寺
○備後新市法華宗本住寺
新市法華宗本住寺についてはほとんど情報がない。法華宗であり日隆門流であり、本能寺・本興寺に連なることは確かである。
→備後の日蓮宗諸寺中
正瑞寺(福山市沼隈町能登原927)
立正寺(尾道市向東町彦の上911)
本覚寺(府中市中須町1407−1)
○安芸立正寺(竹原市竹原町3157−1) →明治以降の三重塔452 △
安芸立正教会(竹原市竹原町3692) △ ○安芸安浦宣修寺(呉市安浦町中央7-1-11) →現存多宝塔:明治維新以降の789
○讃岐高松寺町大本寺 →讃岐の諸寺中:江戸後期には京都妙蓮寺末であったが、現在は法華宗(本門流)に属する。
○讃岐高松寺町本典寺 → 同 上 :江戸後期には京都妙蓮寺末であったが、現在は法華宗(本門流)に属する。
○讃岐高松寺町本覺寺 →讃岐の諸寺中
○讃岐宇多津本妙寺 → 同 上 〇讃岐丸亀本照寺 → 同 上
2006年以前作成:2024/10/29更新:ホームページ、日本の塔婆 、日蓮の正系
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