京都四条妙顕寺(具足山妙顕寺・日蓮宗大本山妙顕寺)

京都四条妙顕寺五重塔/日像上人略伝

四条妙顕寺概要

具足山と号する。現在は日蓮宗一致派大本山。本尊:十界曼荼羅。
日像上人の開基。日像上人は日蓮上人没後、永和2年(1294)上洛し、綾小路大宮に法華堂を構え法華経流布を開始。
3度の洛内追放の後、元亨元年(1321)ついに布教の勅許(後醍醐天皇)を得て、法華堂を今小路に移転、
後醍醐天皇の綸旨で勅願寺となる。同時に、このことは日蓮法華宗の独立を朝廷が認めたことを意味し、その後の長く続く叡山を筆頭とする他宗派との争いの発端となる。
2世は大覚大僧正:主として備前・備中・備後方面に布教し、山陽筋を基盤とする。 3世は朗源、4世は日霽と受け継ぐ。
 ※「日蓮宗寺院大鑑では開祖は日蓮、2祖は日朗、3世日像、4世大覚大僧正、5世朗源、・・・・13世龍華院日紹・・・とする。
  開祖を日像とする場合と比べ、2世分世代が大きくなる。三具足山(妙顕寺、妙覚寺、立本寺)とも同じことである。
正平7年(1352)比叡山衆徒は法華堂を破壊、その後再興。
永和4年(1378)日霽上人代、日実上人が妙覚寺を分立。
嘉慶元年(1387)再度、山門の衆徒により破却。日霽上人は若狭小浜に遁れる。
明徳4年(1393)足利義満の斡旋により、四条櫛笥に寺院を再興・妙本寺と改称する。
応永20年(1413)またも比叡山衆徒により破却。5世月明上人は丹波に逃れる。
応永23年法弟の日実上人らが四条櫛笥の旧地に本応寺を建立するも、
その後月明上人が帰洛、五条大宮に妙本寺(永正16年<1519>寺号を妙顕寺に復号する)を建立して対立。
そのため、本応寺は叡山の末寺という体裁をとり、立本寺と改称し分立する。
天文5年(1536)天文法華の法難で比叡山衆徒により破却され、堺の末寺妙法寺に退避する。
天文11年(1542)帰洛が直許され、天文17年二条西洞院の旧地に再建。
文禄2年(1593)秀吉の命により、現在地(寺ノ内)に移転。
文禄4年大仏殿千僧供養への出座を廻る論争を経て、元和元年(1615)受不施派日饒上人が第13代化主に就任。
天明8年(1788)の大火で焼亡。 →天明の大火
現伽藍はその後の再建。

2016/01/20追加:
■日像上人:
文永6年(1269) - 康永元年/興国3年(1342)幼名は経一丸。房号は肥後房。
下総平賀の平賀忠晴(日朗の高弟)の子息。 →平賀本土寺
建治元年(1275)日蓮の弟子で叔父の日朗に師事し、その後、日蓮の弟子となり、経一丸の名を授与され、玄旨伝法本尊と呼ばれる曼荼羅本尊を授けられる。
永仁元年(1293)日蓮の遺命により、京都での布教に出立する。
小湊・清澄・小松原・龍口・伊東・身延から佐渡・能登・加賀・越中・越中・越前を経て、近江に入り、終に永仁2年(1294)に京都に入る。
 その間、能登では真言僧満蔵(後の滝谷妙成寺祖日乗)を論伏、日乗の弟妙文僧都及び乗純は西馬場に本土寺を、越前今宿に妙勧寺を、大道に妙泰寺を建立する。さらに敦賀の覚円は敦賀妙顕寺(敦賀の諸寺中)を、若狭小浜の禅僧素■(虫編に頁と書く漢字)信伏し名を日禅と改め、その地に妙興寺を建てる。近江では今宿に本像寺などの化跡(近江の諸寺中)を残す。
上洛して間もなく、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い柳屋(酒屋)仲興、室町の大覚妙実(後の大覚大僧正)らから帰依を受ける。
徳治元年(1306)洛北松ヶ崎に布教し、全村悉く改宗し、村人喜び踊り、本尊を村社の神体となすに至る。
 (→松ヶ崎妙泉寺(廃寺)
徳治2年(1307)延暦寺、東寺、仁和寺、南禅寺、相国寺、知恩寺などの諸大寺から諸宗を謗るとして、朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を受ける。日像は鶏冠井にあって、真言寺実賢、深草極楽寺良桂と三昼夜に渡り問答し、論伏する。真言寺は改宗し、真経寺と改名し、極楽寺は後の深草宝塔寺である。
延慶2年(1309)赦免され、京都へ戻る。
延慶3年(1310)諸大寺から再び合訴され、京都から追放する院宣を受ける。
延慶4年(1311)赦免され、京都へ戻る。日像の京での樹下石上の説法はますます盛んになる。
元亨元年(1321)諸大寺から合訴され、三度目の京都から追放する院宣を受けるも、同年、直ぐに許される。
以上が日像の三黜三赦(さんちつさんしや)の法難と云う。
 2017/03/06追加:
 ◇三黜三赦の法難
 「日像門下分散由来記」の「像師御留罪ノ地ノ事」として
  一、四国のトサノハタ当寺の末寺アリ、一、紀ノ國師子の背、一、備後ノヲノミチ
 とある。
 なお、紀ノ國師子の背とは現在の日高町鹿瀬(ししがせ)であり、
 それは熊野街道沿いの山中にあり、古城跡亦法華壇というところである。
  <「紀州地方における日蓮教団の展開」植田観龍(「日蓮教学研究所紀要 32」87-94, 2005-03-10 所収)より>

その後、後醍醐天皇より今小路(大宮通上長者町安居院)を賜り、坊を構え、妙顕寺と号する。
建武元年(1334)後醍醐天皇より綸旨を賜り、勅願寺となる。
暦応4年(1341)四条櫛笥の地・方一町を朝廷から拝領し、この地に妙顕寺を移転する。

2017/09/26追加
「岡山市史 巻2」岡山市役所編、昭和11年 所収の
「第41章 蓮昌寺と日像上人:[附]日像上人」 より転載(但し一部省略、一部表現を修正)
また ※印の項は本人(s_minaga)の追加した部分である。
なお、本日像上人伝は「蓮昌寺史」平成14年 中の 第一編概説:第五章日像聖人と大覚大僧正:第一節開山日像聖人 に「岡山市史」(昭和11年刊)に見る日像上人伝 として転載されている。
日 像 上 人 略 伝
新羅三郎義光(源義光)の第三子(第4子)四郎盛義、下野國葛飾郡平賀村を領す。因って之(平賀)を姓となす。
文永6年(1269) 日像上人生誕。父は盛義5世の孫平賀忠晴、母は千葉氏の女。萬壽麿と名く。
父母は日蓮上人の信徒にして、翌年第宅を捨てて日蓮上人に施し、長谷山本土寺を建立す。
 ※ →平賀本土寺
建治元年(1275) 2月7歳にして日朗の室に投じ、11月携えられて身延山に登り、日蓮に謁し、経一麿といふ。
 ※ →身延山
建治2年(1276) 弟の亀王丸(後の日輪)も登山し、日像とともに日蓮上人に師事す。
建治3年(1277) 父卒す。
弘安元年(1278) 母亡父の追善の為鎌倉に一寺を建立すといふ。
弘安5年(1282) 日蓮上人池上に赴く時、日像は随侍し、10月11日日蓮上人は日像に京都弘法の命を嘱し13日池上に入寂す。日像は鎌倉比企谷に往きて日朗に従ふ。
 ※ →池上本門寺、 →比企谷妙本寺
弘安6年(1283) 平賀に帰り母を省し、本土寺に寓す。
弘安7年(1284) 本土寺に於いて4月8日日朗を拝して手度(得度か)を受け、名を日像と云ひ肥後坊と号す。
弘安8年(1285) 鎌倉に帰り、後殆ど総相模間を往復し母及び日朗に奉事す。
正應3年(1290) 法華経全部を写経す。
正應5年(1292) 諸説の異同を比較して秘蔵集3巻を著す。
自ら云へらく京師に入りて妙法を弘通せん・・ため・・機鋒の鋭なるもあらずば、(成就せず。)と。
10月26日より100日を期し、昼は比企谷に一室にて法華経を写し、夜は由井の海水に入りて壽量品を唱ふこと100回、朝日をみるに及びて帰る。
永仁元年(1293)

本項は
darkgreen
で示す文が
地の文である。
2月7日霊験を感したりと云ふ。この時に朝日の中に、南無妙法蓮華経の7文字を感見し、以降日像は自ら模して書風をなしたりと云ふ。
茲に於いて京師の地に遊化せんと欲し、まず池上に至りて日朗に其の意を述べ、塔中並座の本尊並びに宗祖手刻の像及び舎利を付せらる。
中旬平賀に帰り、母に別を告げ、安房に赴きて誕生寺・清澄寺を巡錫し、小松原を過りて鎌倉に来たり、龍口に詣て伊豆に至りて日蓮謫居の故蹟を観、次て身延山に登りて祖塔を拝すること17日、越後寺泊に至りて石川吉廣の家に遇す、此処より佐渡に渡りて日蓮の霊蹟を礼し日満等と相語る。
 ※ →小湊誕生寺
 ※ →佐渡法華宗諸山
能登に赴かんとして、その船中に苦行者あり。苦行者の論難を日像循々として之を伏す。また日像は折からの暴風を妙法の誦唱により鎮む。苦行者は帰信し、曰く吾は泰澄の法孫にて石動山の學存房といふものなり、日像が巡化を乞ふと、船七尾に着し、共に福善寺村某の家に至る。家の主人帰信す。依って本尊を付す。
 ※ →能登七尾成蓮寺(能登の日蓮宗諸寺中)
石動山に登りて妙法を演説す。衆徒騒擾して日像を害せんとするに至る。加賀太郎北左衛門兄弟日像を救いて難に死す。日像遁れて西馬場村に赴き、石に踞して妙法を説く信毀相半す。後、郷人加賀兄弟の為に本土寺を創して其の志を紹くという。
 ※ →能登石動五社権現
 ※ →能登西馬場本土寺(能登の日蓮宗諸寺中)
日像難を避け、瀧谷に往く。學存之に従ふ。甲斐(?)に入り白山廊下の一景勝地に至り、携えるところの杖を岩間に倒立し學存に謂ふ、吾誓うところあり、この杖根を生ぜば就きて一寺を営めと。而して相別る。幾ならずしてその杖芽を生ず、即ち槐樹なり。學存歓喜して資財を募り、芝原某資を捨てて寺を建つ。金榮山妙成寺と號す。
 ※ここでは、妙成寺開基を學存房とするが、通説では、石動山天平寺の座首満蔵法印(乗微)とする。
 通説でいう満蔵法印(乗微)と略伝でいう學存房とは別の人物と思われ、學存房とはどのような人物
 なのであろうか。
 
※瀧谷妙成寺の創建については、通常、ここでポップアップされる「吹出」のように云われる。 永仁2年(1294)日像は、佐渡から七尾へ渡る船中、石動山天平寺座首満蔵法印(乗微)と法輪を交わす。満蔵法師は法華経に感銘を受け、石動山に日像を招き、全山衆徒の前で法華の教えを説かしむる。
ところが、衆徒は日像の説法に罵言を吐き、暴徒化し二人を襲う。二人は急いで下山し、命からがら滝谷へと逃げ延びる。
日像は鎌倉より携えていた槐の杖を地面に挿し、「この杖より根が生ずるなら、汝この地に法華の寺を建立すべし」と満蔵法印に言い残して京都に向う。 まもなく杖より根が生え始めたので、満蔵法印は日乗と名を改め、叔父の滝谷領主柴原法光の助力を得、開山を日像、自らを第二祖として妙成寺を建立する。

 ※ →瀧谷妙成寺
日像今濱村に往きて某の家に宿す。家主は真言宗なりしが、日像の説を聞きて帰信し、尋で麦生法輪寺の哲源亦日像に帰信す。依って名を日源と改め、本尊を改めて妙字を与え妙法輪寺と號す。
 ※ →麦生妙法輪寺(能登の日蓮宗諸寺中)
加賀に往き河原市松妙珍、薬師村の乗蓮、直江谷村主井家荘太郎などと云へる者皆日像に帰信す。井家氏寺を建てて日像を待つ。日像寺を妙珍に与えて實乗寺と號す。
 ※河原市村、薬師村、直江谷村は河北郡に属し、現在の金沢市の北東部にあたり、
 森下川を中心とした谷に沿い展開する村である。
 ※ →河北郡河原市村円城寺
 ※ →河北郡薬師村本興寺
 ※ →河北郡車村實乗寺(以上いずれも加賀の日蓮宗諸寺中)
 ※ 直江谷村主井家荘太郎とは不詳
倉谷に往きて崖を登り一々巨石を求めて題目を書す。
 
※倉谷とは不詳であるが、 倉谷とは不詳であるが、石川郡犀川村(現在は金沢市に編入)の犀川最上流域に倉谷があるので、犀川村の倉谷であろうか。
倉谷は倉谷鉱山(金銀銅鉛を産出)があったことで知られるが採掘され始めたのは近世初頭であり、日像の時代に著名であったとか日像が分け入る必然性があったのかどうかは不明である。

 ※ここに云う日像の倉谷に題目を書すという事績は不詳。
大野村に至りて尚玄阿闍梨を化し、順次成村を過ぎて
 ※大野村:石川郡、現在は金澤市北西部に位置し、犀川右岸と河口左岸(普正寺地域)の村である。
 ※大野村妙正寺は金澤夘辰に移転し、現存する。 →金澤夘辰妙正寺
 ※成村:現在は白山市となるが、旧松任市(旧松任町)の市街地の北西部分に位置した。
 明治22年成村、北安田村、平木村、竹松村が合併し、石川郡出城村が成立する。
 昭和29年出城村は松任町と合併する。
越前に入り、安保村、埴生村、今宿村、大道村等を経、行々道を布き人を化し、寺を建て、小野より河野に出、舟路敦賀に入る。
 ※安保村:現福井市安保町である。 →安保村報恩寺<越前の日蓮宗諸寺中>
 
※埴生村とは不詳であるが、越前府中附近と思われる。 埴生村とは不詳であるが、埴生とは丹生と解すれば、明治22年に丹生郡大虫村が高森村、上四目村、下四目村、上大虫村、下大虫村、上太田村、新村、小松村、太田新保村、下太田村、北山村、丹生郷村、横根村、三ツ俣村と合併し成立している。
その大虫村とは旧武生市街の西寄りの地である。
であるならば、埴生村とは府中(旧武生市)附近と推測される。

 ※越前府中には日像の教化とする次の寺院が知られる。
  →越前家久聞法寺<越前府中の諸寺中>
  →越前府中妙智寺<越前府中の諸寺中>
  →越前府中本行寺<越前府中の諸寺中>
  →越前沢妙行寺<越前府中の諸寺中>
  越前府中妙布山立像寺は前田利長に随従し、小松玉樹山立像寺、高岡妙法山立像寺、
  富山妙法山立像寺、金澤河原町妙布山立像寺と遷移する、現在は金澤野田寺町に現存する。
   →金澤野田寺町立像寺<金澤寺町の諸寺中>
  →越前府中経王寺<越前府中の諸寺中>
    :寺伝では日像開山というも疑問、舊傳には別の由来があり。
 
※「福井県史 通史編2 中世」ではここでポップアップされる「吹出」のように云う。 「福井県史 通史編2 中世」第六章・第二節・四 法華宗の動き/越前での日像の足跡 の項より。
(安保村)よりのちには今立郡周辺を布教したものか、現在の鯖江市大正寺町には疫病の祓いや旱魃の雨乞などで奇瑞を現わしたとの伝承があって(「日像菩薩伝記」)、文殊山麓の榎ノ木坂の大岩には日像の刻んだ法華題目が残るという。
さらに南条郡今宿(武生市)では全村が法華宗に帰依したといい、ここにはのちに妙勧寺が建立されている。
同じく南条郡大道(南条町)にもその波及があって全村が改宗したらしい。南条町西大道には「北陸身延山」といわれる妙泰寺があり、日像自筆の「曼荼羅本尊」(十界大曼荼羅)が今に伝承されている。

 ※上記の「福井県史」では「今立郡周辺を布教、大正寺町での奇瑞
 および同じ大正寺町の文殊山麓には日像刻の法華題目が残る」云々とある。
  →文殊山題目岩<越前鯖江の諸寺中>
  →題目岩は青野にも残存する。但し、刻んだのは日朗・日像・日修などと諸伝がある。
   青野題目岩:現在は青野妙祐寺:丹生郡越前町青野15-55に移設という。<越前鯖江の諸寺中>
  →越前五分市功徳寺(元は今立郡庄田村)<越前府中の諸寺中>
 ※今宿村 →越前今宿村妙勧寺<越前府中の諸寺中>
 ※大道村 →越前脇本妙泰寺<南越前の諸寺中>
 ※小野:現在の越前市小野町であろう。
  →越前小野日像染筆岩題目<越前府中の諸寺中>
     (現在は越前府中本行寺<越前府中の諸寺中>に移設。)
 ※河野:南条郡河野村
真言宗の僧學圓と対論して之を伏し、その寺を改めて妙顕寺と云ふ。その他、日禪、日善等皆日像に伏す。
永仁2年(1294) 4月日禪と共に丹波知伊村を経て13日京都に達す。此に於いて日禪を帰らしむ。
 ※丹波知見正法寺、丹波知井心蓮寺  →いずれも丹波の諸寺
京都の道俗日像の日蓮の徒なるを知りて一宿も許すものなし。
石清水に詣づるに、神官・・延(まね)きて遇せしむ。賈人某神託受けて日像の教に帰して檀越となる。
日像比叡山・三井寺等、宗祖の舊蹟を巡礼す。
真廣法印といふ者、東寺の法華堂に住し、日像と相見て機縁相和す。
 ※東寺の法華堂 →島原法華寺(洛陽十二支妙見中未<ひつじ>法華寺の項)
28日御所の東門にて、終日妙法を説く。
5月13日十字街頭に立ち大衆に説き・・・続ける。・・・人以って狂愚となし、石を投して去る。日像益々声高に説きて止まず。21日に至りて、・・・偶々京師の北・将軍邑の人々帰信するものあり。遂に草堂を結びて日像を待つ。日像甫て十如是を講じ十如是堂と號す。
 ※十如是:『法華経』方便品に説かれる因果律をいう。
 ※ →北野十如寺
松崎歓喜寺實眼僧都、日像の説法中屡々来たりて論難するも、日像皆撃破す。
8月13日越前の檀越に書を送り、日蓮の13回忌法筵を張る。
永仁3年(1295) 實眼・實典等弟子となる。室町の小野某、五条の中興某等亦帰信す。
1日松崎に至り帰路下賀茂を過るに優婆夷(信女)あり、その家に請す。妙法を説き、井上氏の親族子院を起こし講筵に侍す。後に大妙寺と號す。
 ※下賀茂大妙寺(廃寺か) →山城の日蓮宗寺院
濱土の日昭手書の本尊を贈りて日像の教化の盛を賀す。
永仁4年(1296) 春奈良に往き、日蓮歴遊の諸寺を巡拝し、帰路宇治の金持久弘の家を過り、久弘夫妻を化す。久弘草庵を結びて日像を延く。・・・これを微妙房に付し、後直行寺と改む。
 →宇治直行寺
徳治元年(1306) 松崎の實眼寂す、日像實眼の門徒の請に応じ7月14日より16日迄大いに妙法を説く、與村帰依して妙題を唱へて他経を棄て、寺を改めて妙泉寺といふ。
 →松ヶ崎妙泉寺(廃寺)
徳治2年(1307) 叡山及び諸寺の僧徒日像を悪みて官に訴ふ。5月20日朝廷大納宣房に命じて京師の地を駆擯(くひん/放逐)せしむ。日像上表してその罪を問ひ、京を出て西国に遊ぶ。向日明神の傍に止まりて日夜教化を力む鶏冠井村に至るに三郎四郎というものあり・・・四郎帰伏して、淹留を請ひ・・・。
真言寺の實賢、深草の良桂等来りて対論し皆日像の説に伏す。
 ※真言寺の實賢 →鶏冠井(北真経寺・南真経寺・興隆寺・石塔寺)
 ※深草の良桂   →深草宝塔寺
延慶元年(1308) 母妙朗尼、日像を見んと欲し、人をして日像に告けしむ。・・・身逐迫にあるを以って自ら小像を刻して贈る。
8月28日官日像を許して妙法を弘通せしむ。
小野氏妙覺寺を興し、中興氏妙蓮寺を興し、皆日像に施す。
 ※ →小川妙覺寺、 →妙蓮寺
延慶3年(1310) 諸寺また朝廷に訴ふ。3月8日朝廷再び中納言定資に命じて日像を駆擯せしめ、眞廣等にも及ぶ。・・・13日母の喪を聞くも赴くこと能わず。鶏冠井眞経寺に留まる。日範関東より来たりて相會す。既にして日範丹波に行きて法幢を建つ。・・・6月19日堂舎を舊邸主に賜ふ。
應長元年(1311) 皇太子不豫(病気)あり、人流言して法華持者を逐ふの故なりと。朝廷議して3月7日日像の京師に入るを許す。
日像、一日嘆して曰く、吾法の為に日朗師を見ざること21年・・遂に錫を飛ばして鎌倉扇谷に赴き、日朗に謁す。・・・一寺を創して薬王寺といふ。
 ※ →鎌倉扇ヶ谷薬王寺
平賀に帰り室を以って精舎となし、妙泉院と號す。亡母の像を刻して法筵を設く日傳日輪等に會して還る。
この行路を横川にとり、まず浄光院(定光院)の廟塔を拝し、堅田より木濱(守山)に至る。船中に彦左といふ者ありて日像を請す。乃ち今濱に至り妙法を説く、帰信するもの夥し、日像本尊を授け、石工をして題目の7文字を方塔に彫刻せしむ、石工日像に帰信して岩倉の家に請す、後、守山の本像寺。岩倉の妙感寺、今濱の法華堂等を興す。
 ※守山本像寺 →守山具足山本像寺(近江の日蓮宗諸寺中)
 ※岩倉妙感寺 →岩倉具足山妙感寺(     同上     )
 ※今濱法華堂 →今浜具足山法華寺(     同上     )
駿河の興津に宿る時、主人教を受け、地を捨てて寺となし。高光山石塔寺と號す。
 ※興津石塔寺は明治期に廃寺という。(詳細不詳) →興津石塔寺(駿河の日蓮宗諸寺中)
亦府中の某も寺を建て妙像寺と號す。
日像の同胞日如尼遠江端場、金原左近の家に客居せり。よって之を省問す、左近日像に説を請ひ、地を捨て寺となし妙恩寺と號す。
 ※金原法橋は父親の姉が日蓮聖人の生母・妙蓮(梅菊御前)といわれる。ちなみに、兄は曽谷教信という。
 ※日像の同胞日如尼とは日像の姉(妹という説もある)の妙恩尼のことであろうか。
 ※ →端場妙恩寺(遠江の日蓮宗諸寺中)、端場は「はしわ」か。
正和元年(1312) 12月2日、日朗、日像に書を寄せて日蓮手書の本尊并に法語二帖を贈り来る。
正和2年(1313) 嵯峨大覚寺の妙實及び其の法弟宥覺、正覺、祐存等帰信す。
法華宗旨問答鈔を著す。
正和3年(1314) 三原に本妙寺を開く。是檀越本妙居士の寄付による。
 →三原本妙寺:三原は備後とすれば、本妙寺とは不詳。
文保2年(1318) 正月13日日蓮の祈祷鈔を註し諸弟子に授く。
10月23日日朗、宗祖所傳の本迹勝劣の口決を著して日像に贈る。
元應2年(1320) 日朗比企ヶ谷に寂す。
元亨元年(1321) 正月鎌倉に往きて日朗の忌筵に列し、幾もなく西帰す。
この夏大いに旱し天下餓に苦しむ。日像は末法の致すところとなし諸宗を誹謗す。諸宗日像を朝廷に訴ふ。10月25日朝廷官房に命じて日像を京師に地より逐はんとす。時に宮中に怪奇多し、これに於いてか勅して日野大納言をして日像を召し玉ふ。12月御溝側に安吾院を賜ひて日像の徳を賞す。
元亨2年(1322) 日像法弟日禪、鎌倉より来たりて錫を留め檀越某寶國寺を創して日禪を待つ。
元亨3年(1323) 春、日像、法華講式を作り毎月13日・・宗祖の恩徳を謝せしむ。爾来定例となる。
正中元年(1324) 11月、手づから大黒天の像を刻す。
元弘元年(1331) 天下に変異多し、日像上表して、・・速に妙法を弘通して其の災を避けんことを請ふ。・・・
建武元年(1334) 勅して妙顯寺を勅願寺とし給ふ。足利尊氏軍を起すに及び日像その請を受けて祈祷し、屡々光明天皇の勅を拝して祈祷し賞を賜う。
歴應4年(1341) 7月14日清規六章を定め、法嗣を選びて六上首を定む。
康永元年(1342) 日蓮示寂の甲子(年紀の一巡:60年)に丁(あた)れり。依って日像東行して身延山に登り祖塔を拝す、又鎌倉比企ヶ谷を経て武蔵池上を過ぎ、故郷平賀に帰りて父母の墓を拝す。秋京師に帰る。
11月8日一期のことを挙げて大覺に嘱し諸弟を誡め12日大曼荼羅を懸け香を焚き経を誦して夜を徹し13日未明に寂す。壽74。臘五十九、深草山下に闍維(とい:囲いの意か)す。
 ※深草山 →深草宝塔寺
延文3年(1358) 勅して菩薩號を賜ふ。

近世妙顕寺伽藍

2007/10/11追加:
○「近世京都日蓮宗妙顕寺,妙覚寺,要法寺の伽藍配置」丹羽,博亨(日本建築学会計画系論文報告集 第402号 所収)
・第13代日饒上人代:仏殿・祖師堂・方丈・庫裏・鐘楼の存在が知られる。元和元年〜
・万治2年(1659)日莚上人代、五重宝塔落慶(寿福院寄進)
・延宝3年(1675)より伽藍の営繕に着手
○「新編法華霊場記」享保3年(1686)刊:寺ノ内の伽藍
 ◆妙顕寺伽藍絵図
 楼門(仁王門)の中軸線上に釈迦堂(南面)、前方右に祖師堂(西面)、同じく左に五重塔(東面)が配される。
 「新編法華霊場記」:大谷大学図書館に蔵本あり。2022/01〜02月「大谷大学博物館2021年冬季企画展 京都社寺参詣」にて展示される。
 2022/06/29追加:
 法華霊場記解説:
 「新編」とある意は不明、貞享3年(1686)頃の刊行とすべきか。
 次の14ヶ寺の沿革などを編述する。挿圖は全て寺院境内の景なりという。
 基本的には天明8年(1788)の大火以前の景観を示す。
  六条本國寺、四条妙顯寺、日像門流妙覺寺、日像門流立本寺、日眞門流本隆寺、日什門流妙満寺、
  松ヶ崎妙泉寺、日什門流寂光寺、日尊門流要法寺、中山門流本法寺、中山門流頂妙寺、六条門流本満寺、
  日陣門流本禪寺、身延門流妙傳寺

○元禄5年(1692)の寺院帳では
 支院35ケ院、堂宇は本堂・祖師堂・五重塔・番神堂・七面堂・刹堂・丈六釈迦堂・鐘楼・経蔵・仁王門・大客殿
 庫裏・大小書院・大奥・庫蔵・霊宝殿ナリ
○「山州名跡志」元禄15年(1702)では
 楼門は南面、祖師堂は仏殿の東にあり西向、番神社は祖師堂の東南にあり西向
 七面明神社は右の社の前池の中にあり西向、五重塔は祖師堂の西にあり東向

京洛細見図の妙顕寺;寶永版
 本堂・祖師堂・五重塔・仁王門・番神堂・同拝殿・七面大明神・鐘楼が描かれる。
京城勝覧の妙顕寺:宝永3年(1706)
 本堂・祖師堂・五重塔・仁王門・鬼子母神堂など描かれる。

天明年間刊「都名所圖會」巻1の妙顕寺:下図拡大図
  天明の類焼以前の景観を描画したもの

現在、五重塔、仁王門・番神堂・七面社・拝殿等は退転。

妙顕寺五重塔部分図
下図拡大図

妙顕寺境内建物配置図

2003/8/3追加:
妙顕寺境内建物配置図(江戸後期・ 「天明8年類焼以前の記載」があるという。)・・・下図と同一図
  ※西側寺中の十乗院を十条院としているのは入力誤りである。
2007/10/11追加:
○「近世京都日蓮宗妙顕寺,妙覚寺,要法寺の伽藍配置」丹羽,博亨(日本建築学会計画系論文報告集 第402号 所収)
妙顕寺境内建物配置図(妙顕寺蔵)・・・上図と同一図、天明8年類焼以前の配置図
  ※西側寺中の十乗院を十条院としているのは入力誤りである。
本堂:桁行14間、梁行13間、前拝後拝付四方7尺縁四方上り段、高サ3間半、四方縁勾欄擬宝珠付
刹堂:3間四方、拝殿:桁行2間半、梁行2間、三宝縁勾欄擬宝珠付
祖師堂:桁行9間、梁行7間、前拝後拝付、四方縁勾欄擬宝珠付、高サ2間半、入母屋破風、三ツ掛魚
五重塔:3間四方、高サ15間、九輪迄18間、勾欄擬宝珠付
           (15間=27.3m、18間=32.8m)
寺中は
西側南から久本院、法宣院大妙寺華光院、十乗院、恵命院、常楽院千如院光条院、墓地
北側西から実成院、泉妙院、教法院、本妙院、北門
東側南から華陽院、・・・、法音院、正観院、本行院、善行院、智賢院、教林院、・・
などがある。
(なお大妙寺は平成3年西京区樫原百々ヶ池に移転。妙音山と号す。)

※「大妙寺」
妙音山と号する。暦応3年(1340)妙音阿闍梨日行(日朗門下の九老僧の一人)を開基として創建。
京洛法華宗21本山の一つとされる。天文法華の乱で悉く焼失。
豊臣秀吉の京都改造により、妙顕寺山内に再興。
本堂には、三宝荒神像(伝教大師作と伝える)を安置。

天明8年(1788)の類焼後
寛政3年(1791)客殿・庫裏、文化元年(1804)祖師堂、文化4年(1807)番神社・七面社、天保元年(1830)釈迦堂が元の位置に再興されるも、五重塔は再興に至らず。

2014/08/15追加;
◆寺地画図:

明治3年5月、上地令の準備として、京都府が作成を命じたもので、この命は寺社地を管理すべきものという太政官達を受けたものである。 明治初頭の四条妙顕寺を良く表すと思われる。
五重塔は五重塔跡として描かれる。

 妙顕寺寺地画圖:左図拡大図
 妙顕寺寺地画圖(文字)


妙顕寺五重塔

◇妙顕寺五重塔は寿福院の寄進と云う。
 壽福院は前田利家室・前田利常生母:妙顕寺本堂及び五重塔を建立と伝える。
  →壽福院
◇妙顕寺五重塔の建立は日莚上人代と云う。
日莚上人(隆源院):
京都生まれ。18歳で下総正東檀林に入る。30歳にて小西檀林11世化主となる。のち、正東檀林10世講主となる。
玉沢法華寺19世に転出。 ※正東檀林:中村檀林(正東山日本寺)と思われる。
明暦元年(1655)妙顕寺17世となる(48歳)。住山11年の間に五重塔・七面社などを造営。
寛文7年(1667)身延山に転住29世(59歳)。円光庵・丈六宝塔・常題目堂・奥之院・祖師堂などを造営。
寛文12年(1672)京都紫野に隠居(64歳)。
延宝7年(1679)出羽久保田藩主・佐竹義処にお預けとなる。<身延後継争いで敗訴>
         :「矢橋不動庵日莚尊師御廟所並庵室縁起」(久城寺蔵)「諸檀林並親師法縁録」「徳川実紀」
         :出羽久城寺のサイト より

妙顕寺境内図:「京都妙顕寺境内慶中稲荷社処分の件」神仏分離資料  所収
・図中の「コウトウ」とあるのが、納骨堂もしくは鐘真屈と思われる。
・表門入って左の「塔」が五重塔である。(この時は塔阯で、再興に至らず。)
 現状「塔」跡は消滅。現鐘楼の建っている場所が五重塔のあった場所と云う。
・なお図中の方丈前の「塔」とは巨大な石製十一重塔(寿福院塔)を指す。
・なお本資料の本題である慶中稲荷の処置については、はっきりしないが、妙顕寺のような大寺の境内にある小祀まで、しかも宮中が勧請した(逆にそれゆえに)社まで、神仏判然の対象になるとは意外である。
もっとも妙顕寺としては社は寺院境内にある故、囲いをして神仏を分離させることも不可能であるし、それ故、社は取り壊すなり、境外のしかるべき場所に合祀するなりして「好きなように取り計らうように」と開き直っているようにも思われる。

2007/07/09追加
妙顕寺五重塔跡:2007/07/03撮影
 大本山妙顕寺サイトに次の記載がある。
鐘楼は天明大災の焼失後に再建されたもので、大門の東隅に在ったのであるが、昭和四十年曽て五重塔があった現在地に移築されました。鐘は正徳3年の鋳造である。」
 妙顕寺五重塔跡1:中央が鐘楼(五重塔跡)
 妙顕寺五重塔跡2;鐘楼基壇はその形式や大きさから、五重塔基壇ではなく、鐘楼移建に際し、 新しく積んだものと思われる。

妙顕寺現伽藍 : 妙顕寺伽藍概要図

→無印画像は2001年5月25日撮影、※印は2001年6月10日撮影、☆印は2012/11/15撮影、▽印は2013/11/07撮影、
◆印は2014/12/18撮影:降雪、◇印は2022/02/09撮影

現在伽藍は衰徴するも、境内は駐車場化はせず、まだ巨大な伽藍が維持される。
 妙顕寺遠望:北側の妙覚寺から南方・妙顕寺裏側を撮影      妙顕寺遠望2
惣門
 総      門※      妙顕寺総門
 妙顯寺総門3◇     総門前題目石
小門:惣門の西にある。
 妙顕寺小門◆     本堂:桁行7間梁間7間の大堂である。天保元年(1830)上棟、天保10年(1839)頃再興か。

 1972年撮影本堂
 本     堂
 本堂側面※     本堂扁額
 妙顕寺型灯篭:本堂前に ある。
 妙顕寺本堂:2006/09/17撮影
 妙顕寺本堂:2007/07/03撮影
 妙顕寺本堂1☆    妙顕寺本堂2☆    妙顕寺本堂3
 妙顕寺本堂4
 
 妙顕寺本堂5▽    妙顕寺本堂6▽    妙顕寺本堂7▽    妙顕寺本堂8▽    妙顕寺本堂9
 妙顕寺本堂10◆   妙顕寺本堂11◆   妙顕寺本堂12◆:上図拡大図
 妙顯寺本堂13◇   妙顯寺本堂14◇   妙顯寺本堂15◇   妙顯寺本堂16◇   妙顯寺本堂17
 妙顯寺本堂18◇   妙顯寺本堂19◇   妙顯寺本堂20◇   妙顯寺本堂21

祖師堂:三菩薩堂(日蓮・日朗・日像三菩薩像を安置)
 ※三菩薩の由来は、二世大覚大僧正が、延文3年(1358)雨乞いの霊験を示現し、
 それにより日蓮上人に大菩薩、開山日像上人と日朗上人に菩薩号の勅賜を受けたことに基ずく。
 ※天明大災直後に仮本堂として再建されたと云う。

 三菩薩堂       三菩薩堂扁額
 妙顕寺祖師堂1☆      妙顕寺祖師堂2
 妙顕寺祖師堂3◆     妙顕寺祖師堂4
 妙顯寺祖師堂5◇     妙顯寺祖師堂6◇     妙顯寺祖師堂7
鬼子母神:(尊神堂)
 
鬼子母神1☆     鬼子母神2☆     鬼子母神3
 鬼子母神4◇     鬼子母神5◇     鬼子母神6
鐘真窟:(御真骨堂)日蓮・日朗・日像各上人<三菩薩>の遺骨を納める
 鐘真屈     妙顕寺鐘真窟
 納骨堂鐘真窟鬼子母神
 妙顕寺鐘真窟3◇    妙顕寺鐘真窟4◇    妙顕寺鐘真窟5
塔婆参考:御真骨堂(篋塔)
 祖師堂(三菩薩堂裏に鐘真屈があり、さらにその裏に御真骨堂がある。
 建築年代は不明である。平面方形の宝塔即ち篋塔である。建築として特に価値があるとは思われない。
 2003/06/26撮影:納骨堂1      納骨堂2      納骨堂3  
 2007/07/03撮影:京都妙顕寺納骨堂(篋塔)
 2012/11/15撮影:妙顕寺納骨堂4     妙顕寺納骨堂5     妙顕寺納骨堂6
 2022/02/09撮影:妙顯寺納骨堂7     妙顯寺納骨堂8     妙顯寺納骨堂9     妙顯寺納骨堂10
鐘楼:昭和40年大門東隅から、五重塔跡に移建されると云う。上掲載「妙顕寺五重塔」の項参照
 鐘    楼
 妙顕寺鐘楼1☆      妙顕寺鐘楼2☆     妙顕寺鐘楼3
 妙顯寺鐘楼4
庫裏・玄関
 庫    裏※     玄    関
 妙顕寺庫裏☆     妙顕寺玄関
 妙顯寺玄関客殿◇     妙顯寺庫裡3
客殿:
 妙顯寺勅使門◇     妙顯寺客殿
釈迦堂:墓地中にあり
 釈 迦 堂※     釈迦如来坐像と千躰佛
 妙顕寺釈迦堂1☆    妙顕寺釈迦堂2☆     妙顕寺釈迦堂
 妙顯寺釋迦堂4◇    釈迦如来坐像
寿福院塔:客殿(書院)の土塀前・勅使門横にある。寛永5年(1628)建立。
 前田利光卿石宝塔(寿福院塔)      妙顕寺寿福院塔:2007/07/03撮影
 妙顕寺壽福院塔1☆      妙顕寺壽福院塔2☆      妙顕寺壽福院塔3
  ※壽福院日榮預修:預修は逆修と同義
 勅使門客殿壽福院逆修塔◇    勅使門客殿壽福院逆修塔2
 逆修塔銘1◇:加越登三州太守御母堂     逆修塔銘2◇:壽福院日榮預修
 2024/05/10追加:
 壽福院廟所は能登滝谷妙成寺にある。
      →滝谷妙成寺壽福院
 逆修塔
  元和8年(1622) :池上本門寺壽福院逆修十一重層塔塔を建立、現存する。
  元和10年(1624):比企谷妙本寺に壽福院逆修五輪塔を建立、現存する。
  寛永5年(1628) :四条妙顯寺壽福院日榮預修十三重塔 (※預修は逆修と同義)を建立、現存する。

慶中大菩薩:妙顕寺鎮守、慶中稲荷とも称されるが、稲荷とする理由は不明。
 もとは御所鎮護の守護神であり、女官たちに尊崇されていたといい、後醍醐天皇が勅願寺として妙顕寺を建立した際に遷座するという。
社殿前には2基の鳥居があり、その背後土壇上に建つ。社は一間社流造で、覆屋に蔽われる。鳥居及び覆屋に「慶中大菩薩」の扁額を掲げる。
 慶中稲荷大菩薩1◇     慶中稲荷大菩薩2◇:覆屋左に1枚の絵馬が掲げられ、その絵柄は、”洪水で壊れ水中でおぼれる僧侶を救うため、雲上菩薩(多分慶中大菩薩)が出現する”と云ったものであろうと思われる。
 慶中稲荷大菩薩扁額◇     慶中稲荷大菩薩一字一石経塔
 2022/06/02撮影:
 慶中稲荷大菩薩祠     慶中稲荷大菩薩掲画:慶中大菩薩は稲荷大明神であるので、狐が救助にあたる。
妙見堂
 妙顯寺妙見堂
妙顕寺八房龍神:正平13年(1358)大覚大僧正、勅命により桂川辺にて祈雨、そのとき八大龍王の使者八房龍神が示現、この龍王は日像菩薩の守護神である。この龍神はいまなお妙顕寺に止住し、妙顕寺を守護すると伝える。
 妙顕寺八房龍神1☆    妙顕寺八房龍神2
 妙顯寺八房龍神3◇    妙顯寺八房龍神4
三菩薩宝篋印塔:正面は日蓮大菩薩、両側面に日朗菩薩、日像菩薩、背面に大覚大僧正と刻む。
 三菩薩宝篋印塔1☆    三菩薩宝篋印塔2☆    三菩薩宝篋印塔3
 2022/06/02撮影:
 妙顯寺先師供養塔1     妙顯寺先師供養塔2
 三菩薩宝篋印塔4     三菩薩宝篋印塔5     妙顯寺先師上人塔
日像上人荼毘所・妙顕寺歴代墓所:深草宝塔寺にある。
 日像上人荼毘所
2022/06/02撮影:
 妙顯寺題目塔:何処に所在するのか失念


妙顕寺寺中
妙顕寺は末寺300余を有し、往時は少なくとも20数院の寺中を有するも、漸次衰微する。
現存する寺中は實成院・教法院・善行院・法音院・本妙院・恵命院・十乗院・久本院・泉妙院の 9院程度に減ずる。
 西側塔頭※     東側塔頭※(ただし中央の大屋根は客殿)

◆京羽二重巻4(宝永版) より
妙顕寺・役者
大如院 本行院 興仙院 妙音院 延壽院 大蔵院
◆大正5年「京都坊目誌 (上京第二學區之部)」碓井小三郎編記事 より
元境内東西72間・南北133間(10,565坪)・今9,349坪
旧塔頭35院・今10院
大妙院・泉妙院・久本寺・十乗寺・恵命院・本妙院・實成院・教法院・善行院・法音院
2010/12/19追加:
◆「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863)
具足山妙顕寺塔中:
大如院(大妙寺といふ 寺領2石)、泉妙院(弘経寺といふ
久本院、常楽院、千如院、法泉院、光乗院、実成院、教法院、華光院、智賢院、教林院、十乗院、法音院、正観院、恵命院、本妙院、善行院、星陽院、本行院 20ヶ院
花洛の末寺として、深草山宝塔寺、深草瑞光寺<宝塔寺のページにあり)、紫竹村常徳寺鶏冠井村北真経寺・南真経寺、同所石塔寺などがある。
2012/11/07追加:
◆丹後における妙顕寺末寺
  →丹後における日蓮宗寺院に記載する。◇

◇久本院
 現在の久本院は「天明8年類焼以前の図」に描かれる久本院と法宣院の地を合わせた地を占めると思われる。
 2012/11/15撮影:
 寺中久本院1:この地は「天明8年類焼以前の図」にある法宣院の跡地であろうと思われる。
 寺中久本院2:幼稚園を経営、この地は「天明8年類焼以前の図」にある久本院の地であろうか。
◇大妙寺
 平成3年の移転後、現在跡地には表千家茶道会館が建つ。
◇十乗院
 2012/11/15撮影:寺中十乗院1     寺中十乗院2     寺中十乗院3
 2022/02/09撮影:寺中十乗院4     寺中十乗院5     寺中十乗院6
◇恵命院
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
永禄2年(1559)創立、開基乗詮院日尊、達師法縁。正観坊を合併す。
 2012/11/15撮影:西側寺中:左から十乗院勝手口、恵命院、本妙院      寺中恵命院1     寺中恵命院2
 2022/02/09撮影:寺中恵命院3     寺中恵命院4
◇本妙院
 「天明8年類焼以前の図」では、現在教法院のある場所を占めるが、現在は常楽院の位置付近にある。
 2012/11/15撮影:寺中本妙院1     寺中本妙院2
 2022/02/09撮影:寺中本妙院3     寺中本妙院4
◇實成院
 現在の占地から見ると、「天明8年類焼以前の図」に描かれる實成院と泉妙院の2区画を占めると思われる。
 2010/12/02撮影:寺中実成院
 2012/11/15撮影:寺中實成院
 2022/02/09撮影:寺中実成院3     寺中実成院4
◇教法院跡
 「天明8年類焼以前の図」ではこの地は寺中2区画(坊舎名は不明)分あり、この2区画に教法院があった。
いつの頃か、寺中2区画のうちの東の1区画とそのさらに東隣の本妙院跡を合わせた地に移転したものと思われる。
 2012/11/15撮影:寺中教法院跡:写真は寺中2区画のうちの西1区画分と思われるが、確証はない。
◇教法院
 文保二年(1318)微妙坊日祐上人により創建と伝え、妙顕寺より古い寺歴と云う。妙顕寺歴代の隠居坊であった。またその立地も合わせて「妙顯寺北之方丈」とも称される。
 2010/12/02撮影:寺中教法院
 2012/11/15撮影:寺中教法院1     寺中教法院2
 2022/02/09撮影:寺中教法院3     寺中教法院4
◇善行院
 現在の善行院は「天明8年類焼以前の図」では北隣にある智賢院または南隣にある本行院敷地の一部を合わせた区画を占めると思われる。
 2004/10/11撮影:寺中善行院妙見     寺中善行院題目碑     寺中善行院扁額
 2012/11/15撮影:寺中善行院1     寺中善行院2
 2022/02/09撮影:寺中善行院3     寺中善行院4     寺中善行院5    寺中善行院6
  寺中善行院7     寺中善行院8:妙見大菩薩     寺中善行院9:題目石
   → 洛陽十二支妙見
◇本行院
 ○「新撰京都名所圖會 巻3」昭和36年では
善行院の南隣に一域を画してある。墓は自然石台上にあり、表面に「長江軒青々光琳墓」と記し、右側に享保元年(1716)六月三日と没年を、左には文政2年(1819)酒井抱一が再建した旨を記す。
享保元年光琳は56歳で没し、塔頭本行院に葬られるも、院は廃止され墓のみが残る。
なお境内の総墓地内に尾形家一族の墓域があり、そこにも光琳の墓や父宗謙・弟乾山などの墓がある。
 2010/12/02撮影:寺中本行院跡1     寺中本行院跡2
 2012/11/15撮影:寺中本行院跡3     寺中本行院跡4
 ※下に掲載の泉妙院の項にあるように、総墓地の墓は泉妙院に移されるも、この本行院跡には酒井抱一の再建墓が残るものと思われる。上の写真の青の石には、「□□□ □□□眞跡 光琳忌」とある。おそらく、これは、光琳の眞跡などの文言から、
光琳の顕彰碑の類であろうか。再建墓が健在とするならば、この青の石に向かって右の積石がそれなのであろうか。
※酒井抱一の再建墓は今の泉妙院に建立されたと思われる。
 2022/02/09撮影:寺中本行院跡5
            寺中本行院跡6:尾形光琳顕彰碑:光琳300回忌記念、碑には光琳落款(法橋光琳)を刻む。
            寺中本行院跡7
◇正観院
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
恵命院に合併される。初代は正観院日恩應永元年(1394)寂。
 2012/11/15撮影:寺中正観院跡

◇法音院
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
大観には文和元年(1352)創立、開山大法院日生とある。

 現在寺門の屋根にはシートが懸けられ、門内は野放図に伸びた植木の蔽われ、門内にはこれまた屋根にシートが懸けられた建物が ある。  (Googleなどの航空写真で見ると建物はあるように写る。)
 2010/12/02撮影:寺中法音院    
 2012/11/15撮影:寺中法音院1     寺中法音院2
 2013/11/07撮影:
 妙顕寺GoogleMao▽:本堂東に法音院坊舎が写る。屋根にはビニールシートが架けられる。
 寺中法音院3:正觀院跡付近から法音院を撮影。中央樹木が茂る地が法音院である。
 寺中法音院4:北側の状況      寺中法音院5:法音院山門
 寺中法音院6:法音院山門南側の築地      寺中法音院7:南側の状況
 寺中法音院8:以下何れも山門の「破れ」から山門内を撮影。
 寺中法音院9     寺中法音院10     寺中法音院11
 2022/02/06撮影:
 寺中法音院は(多分正観院跡も含めて)樹木が伐採され、建物は撤去され更地となる。但し山門のみは残される。
 この跡地は今後どのような形になるのかは全く分からない。
 寺中法音院12     寺中法音院13     寺中法音院14
 GoogleStreetViewに2020年12月の写真が残るので次に転載する。
 寺中法音院15     寺中法音院16

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泉妙院及び尾形光琳墓

2022/11/21追加:
○泉妙院発行のルーフレット より
永和元年(1375)日縁が開基
23世の後、本山弘経寺に寓居す。
弘経寺は6世日健の時、天文法華の法難に遭い、絶えて天文11年(1542)泉妙院に寓居する。

この地には尾形家代々の寺、興善院があった。

享保元年(1716)尾形光琳59歳で没し、興善院に葬られる。
光琳は子息壽市郎を小西家へ養嗣子とした為興善院は、無住となり、その後小西家も困窮し、廃寺となり、本行院の管理するところとなる。
天明8年(1788)本行院は天明の大火で焼失し再建不能となる。
天保2年(1831)弘經寺の天徳院日法は泉妙院を興善院旧地に再建する。
天保8年(1837)泉妙院は、本行院の預かりたる光琳・乾山及び尾形家祖先の墓、その他30基の墓並びに光琳の位牌、本行院歴代の位牌を、本行院及び法類の各寺院の同意を得て管理することとなる。
爾来、泉妙院は尾形家の菩提寺として、先祖の伊春・道柏・宗甫・宗謙・光琳・乾山等一族の菩提を弔い今日に至る。
小西家よりの寄贈品「草花図屏風」(光琳画方祝印)、「小倉百人一首帖」(宗謙/光琳の父/書)、「楽」(宗甫/光琳の伯父/書)と光琳位牌が保管される。
 また三越は明治41年以降小西得太郎と共に施主となり、昭和22年頃小西家が絶えた後も、平成10年(1998)迄、光琳忌法要を営んでいた。
○三越と琳派
サイト:サライ>三越と琳派。その出会いの物語 〜「光琳遺品展覧会」で幕を開けた百貨店の文化事業
では三越と琳派との関わりが語られる。
 三越と琳派の関わりは、呉服店・越後屋を営んだ三井家が、元禄文化を代表する画家・意匠家の尾形光琳らを支援した江戸時代にまで遡る。両者の縁は、日本が近代化の道を進む明治以降も続いた。
明治末期、三越(当時は三井呉服店)は欧米の百貨店に範を取り、ガラス張りの陳列棚に商品を並べて新しい生活の具体的なあり方を提案するなど経営革新を進めた。
意匠部を創設し、市松模様などの着物、元禄櫛、元禄下駄など、様々な商品開発にも着手する。このとき尾形光琳ら琳派の担い手と三越との関わりに着目し、光琳模様を打ち出した。
こうした中、文化の発信に力を入れる三越は明治37年(1904)10月に、百貨店初の展覧会となる「光琳遺品展覧会」を開催する。
その後も琳派の展覧会は繰り返し行なわれ、こうした催しは、その後、美に敏い趣味人に向け、美術・工芸品の陳列販売にも発展した。
時代は下り、最近では、2015年に「琳派400年記念―箱根琳派≠フ誕生―岡田美術館所蔵 琳派名品展 〜知られざる名作初公開〜」が日本橋三越本店にて開催されている。
また
次のページでも詳しく語られる。
本の万華鏡>第20回 本でたどる琳派の周辺
2022/06/02撮影:
○尾形家の解説:妙泉院ルーフレット より
 緒形家の先祖は豊後大野郡緒形郷(大野郡緒形町)が発生の地であり、その5代惟義は緒形三郎と名乗る。
文亀3年(1503)緒形伊春生まれる。
初代:緒形伊春 足利義昭家臣
2代:尾片道伯 近江浅井家の家来筋の者、妻法秀は本阿弥光悦の姉。
3代:尾形宗伯 呉服商「雁金屋」を興す。「雁金屋」は東福門院(徳川秀忠5女和子・後水尾天皇中宮)御用達であった。
4代:尾形宗甫 光琳の伯父。
5代:尾形宗謙 光琳・乾山の父。
6代:尾形光琳 法橋位、「小形」を用ゆ。
   尾形乾山 光琳の弟、陶芸で名を馳せる。「小形」を用ゆ。江戸に歿す。
 泉妙院尾形家墓所1     泉妙院尾形家墓所2
 尾形光琳墓碑4     尾形光琳墓碑5     尾形光琳墓碑6     尾形家一族墓碑
 緒方氏之墓銘1:但し、篆字が分からないので、推定である、「緒方氏之」部分は推定。
 緒方氏之墓銘2     緒方氏之墓銘3:裏面
 天徳院日法墓碑:泉妙院中興開基
 光琳・乾山供養塔(宝塔)     尾形(小形)家ノ墓三基     その他の墓碑類
 写経埋経題目石:昭和48年建立
 泉妙院山門1     泉妙院山門2     泉妙院堂舎1     泉妙院堂舎2
○御室仁和寺「遼廓亭」・・・参考
 仁和寺「御所庭園」の発掘調査のプレス発表で、庭園中の「遼廓亭」と光琳・乾山との縁が語られる。
2022/11/20朝日新聞記事:仁和寺遼廓邸

○以下は泉妙院に関する旧記述である。
この地は尾形家菩提寺であった興善院のあったところであり、現在も尾形光琳ほか尾形一族の墓所がある。
 「天明8年類焼以前の図」では現在の實成院占地のうちの東半分の区画にある。
 ○妙顕寺のサイトでは泉妙院について以下のように述べる。
永和元年(1375)日縁上人の開基なり。
     
・・・(注)日縁は泉妙院の開基。弘経寺と泉妙院の開基は同一の年の開基であることになる。
天文法乱(天文5年(1536))後、京都五辻の本山弘経寺に寓居する。
天明の大火(天明8年(1788))後、本山弘経寺の天徳院日法上人、本行院と合併して興善院跡に泉妙院を再建す。興善院は尾形家一族の菩提寺にして光琳并に一族の埋葬地である。
光琳の血族の小西得太郎と共に株式会社三越が明治時代より施主となり泉妙院に於いて毎年光琳忌法要を営んでいる。
酒井抱一建立の供養碑并に株式会社三越建立の供養塔もある。

 ※弘経寺<永和元年(1375)日誉上人開基・京洛法華宗21ヶ本山>の寺籍を有すると云う。
上にある「泉妙院は天文法乱後、京都五辻の本山弘経字に寓居する」という文言から、永享元年(1429)に堺に移転する(「堺市史」)というのは誤伝であるのであろうか。あるいは、堺に移転するも、京都にも寺号を残したのであろうか。
あるいは、永享元年の堺移転は誤伝であり、天文法華の法難で堺に移転し、その後帰洛し、五辻に寺地を構えたのであろうか。
 泉妙院はもと北側(総墓地東)にあり(現在は實成院の東半分の敷地となる)、今は現在地(境内南東隅)に移転と云う。
泉妙院は永和元年日縁上人の開基と云う。
天文法乱後、京都五辻の本山弘経寺に寓居する。
 (これは何を意味するのか。この意味は上述のように解釈される。)
天明の大火後、本山弘経寺の天徳院日法上人、本行院と合併して興善院跡に泉妙院を再建す。
 (これは、天明の大火まで本山弘経寺は存続し 、弘経寺に奇遇する泉妙院が妙顕寺本行院寺籍を得て、興善院跡に泉妙院を再興したという意味なのであろうか。)
 ※興善院は尾形家一族の菩提寺であった。
 ※本山弘経寺についての追加情報は「弘経寺 宝国寺 学養寺 本覚寺 大妙寺」の弘経寺の項を参照。
2022/11/20追加;
上掲の○泉妙院発行のルーフレット では
永和元年(1375)宣妙院、日縁が開基する。
23世の後、本山弘経寺に寓居す。
弘経寺は6世日健の時、天文法華の法難に遭い、絶えて天文11年(1542)泉妙院に寓居する。
とあるので、このルーフレットを信頼すれば、
まず、泉妙院は本山弘経寺に寓居していた。
弘経寺は天文法華の法難に遭い、(おそらく堺に退避したのであろうが)、帰洛できず、泉妙院に寓居することとなる。
おそらく、泉妙院は京都にて(おそらく、妙顕寺の寺中として)、再興されていたのであろう。
なお、永享元年(1429)に堺に移転する(「堺市史」)という真偽は不明である。


尾形光琳墓:2016/03/09加筆修正:
宝永5年(1706)光琳は嫡子を小西家に養嗣子に出し、尾形家の血脈を移す。
 ※以上の意味することは、次のようである。
 尾形家の血筋は小西家に受け継がれることとなる。
 しかし、このために、尾形一族から代々の住職を出していた興善院はその後無住となり、
 墓だけを残して建物も取り払われ、妙顕寺寺中本行院が管轄することとなる。
享保元年(1716)光琳寂、菩提寺である興善院に埋葬される。
 ※しかし、この後、尾形一族から住職を出していた興善院は無住となり、廃絶したことは既に述べた通りである。
 (興善院建物は取払い、墓は本行院の管理するところとなる。)
天明8年(1788)の大火で興繕院を管理していた本行院は類焼し、また小西家も没落していたため、改めて墓域を整備出来ず、文化2年(1805)光琳墓を総墓地に移すこととなる。
文政2年(1819/光琳没百年後)江戸琳派の酒井抱一が 光琳百回忌を企図するも、総墓地に移された光琳の墓を発見することができず、そこで、本行院跡地に新しく「長江軒青々光琳墓」と刻んだ墓石を建立する。
文政3年(1820)天明の大火で焼失した本行院は泉妙院と合併し、その泉妙院は元の尾形家菩提寺であった興善院跡に再建されることとなり、泉妙院が本行院 跡地の墓碑を管理することとなる。
 ※天明の大火以前の泉妙院及び本行院の位置は既出であるが、
 妙顕寺境内建物配置図(江戸後期・ 「天明8年類焼以前の記載」があるという。)
 及び
 妙顕寺境内建物配置図(妙顕寺蔵)・・・上図と同一図、天明8年類焼以前の配置図  で確認できる。
明治41年、尾形家の縁者小西家は代々尾形家の墓を守ってきたが、三越呉服本店(現・株式会社三越)が当時小西家当主の小西得太郎と共に、施主となって光琳忌法要を行うこととなる。
昭和22年頃、小西家は断絶するも、現在も三越が毎年光琳忌法要を営むという。
昭和34年、文化財専門審議会の琳派研究家が、妙顕寺総墓所へ移されていた光琳の墓石を元の場所へ戻すことを提案。
昭和37年、総墓地の光琳の墓碑を埋葬地の泉妙院に移設する。
なお、泉妙院は小西家の寄贈品や光琳とその一族の作、文献等を所蔵、一族の位牌を祀という。
 2010/12/02撮影:寺中泉妙院
 2012/11/15撮影:寺中泉妙院
 2022/02/09撮影:寺中泉妙院3     寺中泉妙院4     寺中泉妙院5
※なお、泉妙院は通常では門が閉ざされるも、門外から光琳墓などは見ることは可能と云う。
向かって左から、題目碑、酒井抱一が建てたと伝わる「長江軒青々光琳墓」と刻まれた墓碑、総墓地から移された尾形光琳や乾山等一族墓、右端は三越が建立した供養塔という。
2022/05/16追加:
※写真は「徘徊の記憶│泉妙院 その2」などより転載。
泉妙院
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
応永34年(1427)創立、柿木泉妙院日縁。筵師法縁。
旧21本山の一である。後23世日明の時、弘経寺に合併される。
その後も、天文の法難、天明の大火で焼失。
天保2年(1831)29世天徳院日法(中興開山)が再興する。
この間、尾形家菩提寺である興善院や本行院まどを合併している。
 泉妙院門前石碑
泉妙院 文政九戌年ヨリ/寓居■■旧迹/天保十一子年迄悲願成就 弘經寺
 ※寓居■■旧迹 は 寓居建立旧迹 か?
 ※文意が良く分からないが、文政9年、この旧迹たる泉妙院に弘經寺が寓居する・・という意味あいなのであろうか。
○尾形光琳の墓碑の遷移は諸情報を総合すると、以下のようである。
宝永5年(1706)光琳は嫡子を小西家に養嗣子に出す。(光琳の放蕩により困窮の故と思われる。)
享保元年(1716)光琳逝去、尾形家の墓所のあった興善院に葬られる。
なお、尾形家累代の墓は、光琳の時代に累代の法名を記すのみの寄墓(合葬墓)となる。
 ※尾形藤三郎、同市之亟(光琳)兄弟は並外れた放蕩児であり、屋産を喰い潰し、遂に、個々人の墓を建てることが出来なく寄墓としたのであろう。
その後、ほどなく尾形家は断絶し、尾形家より住職を出していた興善院は無住となり、興善院は取り払われ、墓のみ残る。墓は本行院の管理に委ねられる。
天明8年(1788)の天明の大火で、本行院は焼亡し、再興されず廃寺となる。
文化2年(1805)光琳墓を妙顯寺総墓地に移す。
文政2年(1819)光琳を私淑した酒井抱一は、光琳の慰霊のため京都に佐原菊鳴を遣わし、現存する「長江軒青々光琳墓」を新たに建立する。これは最初に建立された墓を発見することが出来なかったためという。
 墓碑表面には「長江軒青々光琳墓」と記し、右側面には「享保元年(1716)六月三日」とその没年(行年56歳)を、左側面には「文政2年(1819)画家酒井抱一再建」の旨を記す。
文政3年(1820)泉妙院は本行院と合併し興善院跡に再興される。ただ、小西家の子孫も盆暮に金十銭也の供養料を送ってくるのみで、光琳墓も無縁墓の有様であったという。
 ※上記の○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 では
 泉妙院は「天保2年(1831)29世天徳院日法(中興開山)が再興する。」とあるので、興善院跡に再興されたのは天保2年であるのであろう。
明治41年、三越呉服店(小西家・現三越)が光琳の墓を浄め、妙顕寺門前に「尾形光琳墓在此寺中」の碑を建てる。
昭和37年、妙顯寺総墓地に遷された尾形家墓を泉妙院に戻す。
昭和51年、三越は泉妙院に尾形光琳と乾山の菩提所であるという石碑を建立する。
 現在、泉妙院には、酒井抱一再建の光琳墓、昭和37年総墓地から遷された尾形家の古い墓、さらに昭和57年有志の人によって建立された光琳・乾山両人の供養塔(宝塔)があるようである。
さらに、左端は光琳の従兄弟、緒方維文(宗哲)の顕彰碑である。さらに、光琳の位牌が保管されるに至るという。
 泉妙院尾形家墓碑:向かって左から、扇形石造駒札、昭和48年題目石、光琳墓案内石碑、酒井抱一建立光琳墓碑、(不詳)、昭和37年総墓地から遷された尾形家の古墓2基、昭和57年建立光琳・乾山宝塔(供養碑・三越建立)
 泉妙院尾形家墓碑2
 酒井抱一建立光琳墓碑1     酒井抱一建立光琳墓碑2     酒井抱一建立光琳墓碑3
 尾形家古墓1:光琳法名を刻む
 尾形家古墓2:向かって右2基が尾形家古墓、3基目の石碑は不詳、左端は酒井抱一建立光琳墓碑
 扇形石造駒札:尾形家墓3基の石造駒札     昭和48年題目石:詳細不詳
 泉妙院尾形家墓碑3    泉妙院尾形家墓碑4    泉妙院尾形家墓碑5    泉妙院尾形家墓碑6
2022/06/29追加:
四条妙顕寺サイトに妙顯寺からのお知らせ」と題して次の掲載がある:
「平成27年には琳派400年、光琳300回忌を記念とし旧墓所に光琳顕彰碑を建立する。
それから毎年6月2日には光琳を偲ぶとともに、芸術に因み「芸道上達」の御祈祷法要を厳修する。」


四条妙顕寺末寺・・・・・末寺の一端を示す。

2016/03/06追加:K.G氏情報
「日蓮宗寺院大鑑」昭和56年などの資料から判明している現存する末寺(孫末寺なども含む)数は次の通りである。
身延山 915寺、京都六条本圀寺 559寺、京都四条妙顕寺 320寺、中山法華経寺 316寺、池上本門寺 273寺、小湊誕生寺 174寺

信濃妙法山蓮華寺:伊那市高遠町長藤
○尾張一宮心證寺    →尾張の諸寺
○尾張苅安賀妙栄寺   → 同 上
○尾張苅安賀蓮照寺   → 同 上
○尾張苅安賀國照寺   → 同 上
伊賀上野上行寺
○越中上市妙具山全勝寺 →越中の日蓮宗諸寺
加賀河原市村円城寺 →加賀の諸寺
加賀河北郡車村寶乗寺 →加賀の諸寺
○加賀金澤卯辰全性寺 →卯辰山麓の諸寺
○加賀金澤卯辰蓮覺寺 → 同 上
○加賀金澤卯辰蓮昌寺 → 同 上
○加賀小松東町妙圓寺 →加賀小松の諸寺
越前一乗山妙圓寺:福井市鮎川町
〇越前鯖江大正寺妙眞寺 → 越前鯖江の諸寺
〇越前鯖江神明妙法寺  → 同上
○越前塚町一乗寺 →越前府中の諸寺
○越前高木泉久寺  → 同 上
○越前稲寄妙稲寺  → 同 上
○越前家久聞法寺  → 同 上
○越前五分市定聚山功徳寺 → 同 上
○越前府中/金龍山妙国寺  → 同 上
○越前府中/廃一乗寺     → 同 上
○越前府中/華岳山経王寺  → 同 上
○越前府中/法栄山蓮尚寺  → 同 上
○越前府中/本境山妙智寺  → 同 上
○越前府中/長栄山本行寺  → 同 上
○越前大虫成福寺       → 同 上
越前沢町妙行寺         → 同 上
〇越前今宿村妙勧寺      → 同 上
〇越前平吹掟光寺       → 同 上
越前脇本妙泰寺 →南越前の諸寺
○越前敦賀具足山妙顕寺 →越前敦賀の諸寺
○近江逢坂妙光寺 →近江の諸寺
丹波知見山正法寺:京都府南丹市美山町知見小字家ノ上
 昭和35年地区内の本像寺と顕本法華宗本妙寺とを統合、知見山正法寺を創建する。この時両寺とも解散する。
                →衰滅した霊跡を参照<伯耆具足山妙本寺中> →
丹波知井心蓮寺 →丹波の諸寺
○山城愛宕郡紫竹村常徳寺 →佛性院日奥上人/紫竹常徳寺
○山城上京三會寺      →山城の日蓮宗諸寺
○山城西陣妙徳寺      → 同上
○山城京都出水西寺町華光寺 → 同上
○山城伏見泉経寺      → 同上
○山城鶏冠井北真経寺 →鶏冠井檀林
○山城鶏冠井南真経寺 →山城の日蓮宗諸寺
○山城鶏冠井興隆寺(廃寺) → 同上
○山城鶏冠井石塔寺     → 同上    ※但し、昭和29年単立し、本化日蓮宗本山と称する。
 石塔寺末:長栄山妙典寺:伊勢名張(名張市元町)
 石塔寺末:正覚山実光寺:山城上鳥羽(南区上鳥羽南中ノ坪町)
 石塔寺末:小泉山好堅寺:丹波東別院(亀岡市東別院町小泉大道)
 石塔寺末:栄長山妙勝寺:大和・田原本(奈良県磯城郡田原本町新町)
 石塔寺末:○恵雲山星友寺:備中高松(岡山市北区高松)・・・・・・・・・「西国諸国の諸寺/備中」にあり。
 石塔寺末:○清涼山妙立寺:備中高松・現和井元(岡山市北区和井元)・・・同上
 石塔寺末:○法意山蓮休寺:備中加茂(岡山市北区加茂)・・・・・・・・・・・・・同上
 石塔寺末:○都宇山宗蓮寺:備中津寺(岡山市北区津寺)・・・・・・・・・・・・・同上
 石塔寺末:○如意山呑海寺:備中簑島(岡山市南区箕島)・・・・・・・・・・・・・同上
 石塔寺末:○海母山正福寺;備中箕島(岡山市南区箕島)・・・・・・・・・・・・・同上
 石塔寺末:○寿永山妙法寺:備中早島(岡山県都窪郡早島町早島)・・・・・・同上
○山城植野法華寺(乙訓郡西岡植野村) →山城の日蓮宗諸寺
 法華寺末:○摂津加賀山乾性寺  →摂津の諸寺
○山城紀伊郡深草宝塔寺 →深草宝塔寺
 宝塔寺末:○瑞光寺(紀伊郡深草) →山城の日蓮宗諸寺
   瑞光寺末:養壽庵(紀伊郡深草)     →山城の日蓮宗諸寺中→深草瑞光寺末寺中
   瑞光寺末:浄妙庵(紀伊郡田中村)    →同 上
   瑞光寺末:○琳照庵(紀伊郡伏見東町)  →同 上(現在は宇治市に移転し琳聖寺と号する)
 宝塔寺末:常照庵(紀伊郡伏見畑中)
○山城伏見顕正寺 →山城の日蓮宗諸寺
○山城宇治寶乗山直行寺 →山城の日蓮宗諸寺
大和林小路町妙善寺 →大和の日蓮宗諸寺
 明治六年中「大和国各郡寺院調表」では四条妙顕寺末寺、無住とする。
 林小路町には現存せず。明治26年肥前彼杵郡功徳山妙善寺に寺号を移すという。実質は廃寺。
○紀伊吹上妙法寺 →紀伊の日蓮宗諸寺中にあり。
○丹後中舞鶴本告寺 →丹後の日蓮宗諸寺
○丹後西舞鶴妙法寺 → 同 上
○但馬九日市勝妙寺 →但馬の日蓮宗諸寺
○播磨林田宝塔寺:おそらく四条妙顕寺末であろうと推測する。 →播磨の諸寺
○播磨姫路常在山妙國寺 →播磨の諸寺
○播磨姫路妙光山大法寺 →播磨の諸寺
〇因幡鳥取芳心寺 →因幡の諸寺
 芳心寺末本(寺中)心院 →同上
 芳心寺末(寺中)完竜院 →同上
○伯耆米子久遠山実成寺(実城寺) →伯耆の諸寺
○伯耆米子本栄山妙善寺 →伯耆の諸寺
伯耆河岡妙本寺 →伯耆具足山妙本寺
○備前恵日山妙福寺(もと妙恩寺) →備前岡山城下の諸寺
○備前岡山正福寺(昭和47年四条妙顕寺末智光山正善福寺と京都妙覚寺末妙圓山宗善寺が合併し、宗善山正福寺となる。)
  →備前岡山城下の諸寺
○備中高松村稲荷一乗寺、明治初頭に荒廃・廃寺、あるいは昭和25年山火事で焼失。
 一乗寺の寺号は最上稲荷奥之院(龍王山一乗寺)が継承する。 →備前・備中・備後大覚山一乗寺
○備中高松妙教寺(最上稲荷)、平成21年日蓮宗に復帰。 →備中最上稲荷妙教寺
〇備中中島妙玄寺 →備中高松近辺諸寺
備中長命山長遠寺
備中光積山妙昭寺(旧備中鳴石山妙光寺と旧備中定長山妙積寺とが昭和17年合併)
備中素南山巨福寺
 巨福寺末:備中正木山妙源寺
○備中箭田大覚山法華寺 →備中箭田法華寺
○備中箭田大覚山慈源寺 →備中箭田慈源寺
○備中服部妙見山本住寺 →備中服部本住寺
備中小田郡三谷村横谷妙泉寺 →高梁川より西の諸寺
○備中海雲山妙立寺 → 備中黒崎妙立寺
○備中龍雲山法福寺 → 備中屋守仏乗寺
○備中龍雲山仏乗寺 → 備中屋守仏乗寺
備中光応山円融寺
備中獅子吼山法音寺
備中岸本山覚林寺
備中栄昌山妙泉寺
備中金昌山妙善寺
備中高原山妙福寺
備中永潤山長泉寺
備中漆原山円信寺
備中妙法山蓮華寺
備中大覚山妙乗寺
備中春日山乗福寺
備中円明山法華寺
備後箱山一乗寺(神辺):但し、現在は退転、廃寺に等しいと思われる。 →備前・備中・備後大覚山一乗寺
○備後水呑妙顕寺 →西国の日蓮宗諸寺(備後水呑・草戸・田尻など
 水呑妙顕寺末:○水呑玉泉寺 →西国の日蓮宗諸寺( 同  上 )
 水呑妙顕寺末:○水呑寿泉寺 →西国の日蓮宗諸寺( 同  上 )
 水呑妙顕寺末:○水呑玄祥寺 →西国の日蓮宗諸寺( 同  上 )
 水呑妙顕寺末:○水呑善住寺 →西国の日蓮宗諸寺( 同  上 )
 水呑妙顕寺末:山南本光寺
 水呑妙顕寺末:柳津妙蔵寺
 水呑妙顕寺末:郷分北辰庵:北辰庵は平ヶ峠(ひらがたお)の頂上にあったが、現在は日和神社の下にあって「北辰教会」
   と称する。なお北辰庵と称するから、基本的に妙見大菩薩を祀っているのであろう。
 水呑妙顕寺末:○水呑金鶏山 →妙見信仰・妙見大菩薩>備後水呑宝山妙見山(金鶏山妙見教会) の項
○備後水呑重顕寺 →西国の日蓮宗諸寺(備後水呑・草戸・田尻など
○備後田尻顯應寺 →西国の日蓮宗諸寺( 同  上 )
〇備後鞆妙蓮寺 →西国の日蓮宗諸寺(備後鞆の浦
〇備後鞆法宣寺 →西国の日蓮宗諸寺( 同  上 )
備後大覚山一乗寺
備後漫延山妙楽寺
備後金田山東福寺
備後豊饒山法音寺
○備後尾道長息山妙宣寺 →西国の日蓮宗諸寺(備後の諸寺
○備後三原妙正寺 → 同 上
○讃岐丸亀宗泉寺 →西国の日蓮宗諸寺(讃岐の諸寺

2017/07/25追加:
妙玄院:岡山県新見市大佐小阪部1796
明治10年、京都大本山妙顕寺塔頭 役者 役宅である妙玄院の寺號を備中刑部草庵に移籍。
しかし、肝心の妙顕寺の中に塔頭「妙玄院」の存在確認ができないのが現状である。
 →伯耆具足山妙本寺>寺跡移転と設立認可


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