★江戸名所図會:池上本門寺
新訂 江戸名所図会(ちくま学芸文庫版:市古夏生・鈴木健一校訂から
巻之2:長栄山本門寺
その2(門前・仁王門・五重塔等)
その3(祖師堂-今は大堂という-等伽藍中心部)
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☆上図の合体(部分)および拡大図☆
2003/5/17
◆江戸図池上部分図:寛永10−11年頃の描画と推定
2013/08/22追加:
江戸名所圖會:長栄山本門寺(絵図全図)
2024/06/17追加: ●江戸圖屏風:徳川幕府創成期の景観
江戸図屏風は江戸期初頭(徳川幕府創成期である家光の頃)の江戸を描いた貴重な江戸圖とされる。 国立歴史民俗博物館>江戸図屏風 より転載 池上本門寺・碑文谷法華寺:右叟・右上に描かれる。
碑文谷法華寺は檜物屋法花寺と表記される。(碑文谷の地名発祥には諸説ある。)
★池上本門寺五重塔
◎池上本門寺五重塔古写真
2011/05/02追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
なお、五重塔古写真に鼓楼が写るケースが多いが、
この鼓楼は雑司谷鼠山感応寺鼓楼として天保7年(1836)頃建立、天保12年雑司谷感応寺廃寺取壊、鼓楼・水屋のみ直ちに池上に移建されたものと思われる。昭和20年今次大戦の空襲で焼失する。
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明治6年撮影:「The Far East」より、池上本門寺蔵
池上本門寺鼓楼・五重塔01
左端は水屋で、大黒堂はその奥に写る。
※何れも鼠山感応寺の遺構である。
「The Far East」vol.V g]]U より
明治中期の撮影と推定;長崎大学付属図書館蔵
池上本門寺鼓楼・五重塔02:左図拡大図
右に人物が写るが、それとの比較でこの鼓楼が大建築であったと分かる。
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2003/03/31追加:
明治初頭の池上本門寺
◎池上本門寺五重塔・鼓楼:
2006/07/22追加:
「ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真、マーケーザ号の日本旅行」より
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第2回目の日本旅行(明治15年10月から翌年1月末まで)の撮影
◎大本山池上本門寺:左図拡大図:
前項の図と同一の構図であるが、本図の方が鮮明。 |
2007/07/13追加:
「日文研」より(明治初期の撮影と思われる。)
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
2012/09/28追加:
池上本門寺絵葉書五重塔1 池上本門寺絵葉書五重塔2:何れも撮影時期不明
◎池上本門寺五重塔
◆池上本門寺五重塔:池上本門寺ご提供画像:
(左の画像:2000/12/09、右の画像:2001/01/10ご提供)
○2003/01/26追加:解体修理完工。
○池上本門寺五重塔 「X」氏2003/01/初旬・撮影画像
2003/04/11追加:
立教開宗750年慶賛事業の一つとして、五重塔解体大修理が行われる、2003年4月落慶。
※五重塔および解体大修理の様子などは「池上本門寺五重塔解体大修理」のページで公開される。
(但し、現在、上記の解体大修理のページは削除される。)
◆池上本門寺五重塔:2003/03/26撮影画像
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慶長12年(1607)<慶長13年>正心院日幸尼(将軍秀忠乳母)の発願で建立される。
※当初の塔建立位置:大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置という。
※慶長2年(1597)二代将軍徳川秀忠の疱瘡平癒を乳母の岡部氏(正心院日幸)が
祈願し、同13年(1608)池上本門寺に五重塔を寄進する。
慶長19年(1614)慶長19年の地震により被災(傾斜)・修理
元禄16年(1702)徳川綱吉の命で、祖師堂前から現在地に移築。
※慶長19年大地震で傾斜し、そのため移築修復されるとも云う。
宝暦3年(1753)修理
文政元年(1818)修理
嘉永7年(1854)修理、屋根葺替、3・4重を瓦棒銅板葺に変更
明治19年 屋根葺替
大正12年 関東大震災により傾斜
昭和9年 基壇石を補加
昭和33年 屋根葺替、避雷針設置
平成13年 平成9年からの解体修理完工一辺4.85cm、高さ29.5m。(あるいは31.8m)
軒廻:初重は和様、2−5重は唐様を用いる。
斗栱は三手先、軒は初重平行垂木、2−5重扇垂木を使用。
中備は初重各間に蟇股(十二支の彫刻入)を置く。
屋根は初−2重:本瓦葺、3−5重:瓦棒銅板葺。
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池上本門寺五重塔1
同 2
同 3
同 4
同 5:上図拡大図
同 6
同 7
同 8
同 9
同 10
同 11
同 12
同 13
2009/10/23追加:「建造物修理アーカイブ」 より
平成9〜14年解体修理:
現在、屋根は初重と二重が本瓦葺、三重以上が瓦棒銅板葺となるが、当初はすべて本瓦葺であった。
しかし、今回修理では当初の姿である本瓦葺へ変更を断念する。それは現状以上に屋根に荷重がかかるのは構造耐力上適切を欠くと判断であった。
初重の十二支の蟇股は位置が入れ替わっていたので当初の位置に復旧する。
池上本門寺五重塔竣工内部
2010/05/28追加:「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
慶長13年竣工、設計は鈴木近江守長次。
池上本門寺立面図 池上本門寺断面図:何れも五重塔
2013/08/22追加
「本門寺五重塔保存修理完成記念 一般公開資料」池上本門寺・大田区教委、平成14年(2002) より
池上本門寺五重塔立面図 池上本門寺五重塔断面図
2011/02/19撮影:
池上本門寺五重塔41 池上本門寺五重塔42 池上本門寺五重塔43 池上本門寺五重塔44
池上本門寺五重塔45 池上本門寺五重塔46 池上本門寺五重塔47 池上本門寺五重塔48
池上本門寺五重塔49 池上本門寺五重塔50 池上本門寺五重塔51 池上本門寺五重塔52
池上本門寺五重塔53 池上本門寺五重塔54 池上本門寺五重塔55 池上本門寺五重塔56
池上本門寺五重塔57 池上本門寺五重塔58 池上本門寺五重塔59 池上本門寺五重塔60
池上本門寺五重塔61 池上本門寺五重塔62
2013/08/22追加:
「霊寳殿 池上本門寺の御霊宝と文化遺産」池上本門寺霊宝殿、平成21年 より
初重奉安一塔両尊像:江戸初期、中央題目宝塔、向かって右多宝如来、左釈迦如来。
露盤・伏鉢・請花:複製。慶長12年(1607)
五重塔構造模型:解体修理の時、構造補強の検討のため製作されたと云う。
2023/05/25撮影:
★池上本門寺宝塔
2013/08/22追加:
○「池上本門寺多寳塔:平成の大修理」池上本門寺霊宝殿編、2010 より
◇現在の宝塔を建立する直前の池上本門寺
弘安5年(1282)日蓮上人池上宗仲邸(現在の大坊本行寺)にて入滅する。
遺骸は現在の宝塔の地に遷され、荼毘に付される。
遺骨は遺言により身延山に遷され、残った遺灰は池上に残り、廟所が建てられる。
池上長栄山本門寺略圖:文政7年(1824)
宝塔は文政8年に着手されるので、宝塔建立直前の絵図である。
現宝塔の位置には「祖師御火葬所」とあり、石造と推定される宝塔が描かれる。その手前には「多宝塔」が描かれるが、実際には翌年の文政8年から着手されて、宝塔は完成してはいないが、完成時の想定であろう。
祖師御火葬所/多宝塔:絵図部分
図の上中央左には祖師御明が描かれる。祖師御廟は石造と思われる宝塔が建ち、これも石造であろうか六角形の柵で囲まれる。
祖師御廟:絵図部分
2011/01/31追加:
「東京都指定有形文化財池上本門寺宝塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編著、2010 より
○「池上長栄山本門寺誌」明治29年発行
高祖日蓮大士荼毘所
客殿の西山際にあり 今其當蹟に一基の塔を建て多宝塔と云ふ 此直径三間の圓塔なり 天保元年(1830/文政13年)江戸茅場町永岡恭重再建す 當山四十七祖日教上人の代
2009/12/09追加:
○池上本門寺古図:
池上本門寺宝塔スケッチ:
被写体 : 池上(イケガニ)の聖域/Santuario d'Jkegani.
掲載書名 :Il Giappone moderno : viaggio di Giovanni de Riseis
/近代日本:ジョヴァンニ・デ・リセーイスの旅行
編著者名 : Riseis, Giovanni de /リセーイス(リセイス)
2007/06/13追加:
○池上本門寺古図:
「外人の見た幕末・明治初期日本図会 文化・景観篇」池田政敏編、春秋社、1955 より
池上本門寺宝塔:Netto?、時期不詳
2011/01/31追加:
池上本門寺古図及び古写真:
○「東京都指定有形文化財池上本門寺宝塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編著、2010 より
池上本門寺寳塔木版画:
作成時期不詳なれど
、宝塔建立に際して版行された摺物と云うので、宝塔建立の文政期のものであろうか、横溝家蔵
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
明治43年頃宝塔:大田区立郷土博物館蔵
中央に「多宝塔拝殿建設予定地」の木標が立つ。
拝殿は明治43年に拝殿工事が始まるが、工事は遅れ、大正6年には中止されると云う。
2012/06/10追加:「Y」氏ご提供画像
宗祖御荼毘所ノ跡多宝塔:絵葉書、大正7年〜昭和7年頃(「Y」氏推定)
2008/06/27追加:
◆「府下に於ける佛塔建築」東京府 , 昭和7年(1932) より
「江戸名所圖會」には当宝塔の記載はない。
本塔は高い方形石造基壇(正面に突出部あり)の上に、更に高い石造連弁形の固定台座を設置しその上に建立される。
建築は平面円形で方形屋根を架ける。軸部は側柱を8本円形に配置し、内部には四天柱を建てる。床は板張り。
軸部上部は饅頭形の曲面となり、その上にまた8本の柱を円形に建て円形軸部を形成し、その上に方形屋根を架する。
方形基壇一辺は30尺1寸、同高さは2尺8寸、平面直径は17尺1寸、四天柱間は6尺9寸。
なお、現在軸部は四方の開口を除く全部を鉄板張・朱色ペンキ塗りとするが、当初は側柱を出した構造ではなかったかと思う。
軸部上部の饅頭形の上には斗栱の替わりに彩色雲形彫刻を配する。その彫刻の上には円形の廻縁を廻し勾欄を付設する。
上重円形の軸部は12本の丸柱を立て、頭長押・内法長押・切目長押等があり、柱間には小さい花頭窓を付ける。
これ等は全て朱漆塗であるが、内法長押と勾欄は黒漆塗とする。
斗栱は三手先で、尾垂木は極彩色の龍の彫刻を彫り突出する。垂木は二重扇垂木とする。飛簷垂木の先には金具を嵌める。
軒隅には風鐸を吊る。屋根は銅板瓦棒葺となっている。
内部装飾は善美を尽したものとなる。
四天柱は金色で、上部には極彩色の金襴巻を描く、床・内法長押・柱は主塗、四天柱と側柱とは雲形の盛上極彩色繋ぎ虹梁を架す。
内法長押には金鍍金の菊花釘隠しを打ち、頭長押は雲文の盛上極彩色となる。
また長押上の小壁の部分には彩色装飾を施し中央には極彩色の蟇股を置く。
外陣の天井は金箔押しの鏡天井、内陣は折上格天井で、格縁は黒漆塗・細朱色抜き、格間は金箔押・彩画される。
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池上本門寺宝塔基壇
池上本門寺宝塔扉・基壇
池上本門寺宝塔軒廻
池上本門寺棟札:左図拡大図:なおこの棟札は現在は亡失(存在しない)と思われる。
宝塔内部・宝塔内陣宝塔文政11年(1828)棟札(3尺5寸5分×7寸5分)
<表>
文政十一戊子歳
本願主江戸芝口講中一結
妙法蓮華経序品第一王舎大城
十一月十三日
長興長栄両山四十七世
工匠 当所小木新七藤原信盛、小木卯之助藤原清仲、(以下略)
<裏>
「南無妙法蓮華経」曼荼羅を記す。
「得意記」(歴代住職の日記)の記録から
文政11年11月多宝塔(宝塔)上棟、願主は芝口講中、本願は前犬山城主成瀬候(家老は浅野蔀殿)などと記録される。
また
嘉永4年(1851)多宝塔(宝塔)修復成就につき供養される。 |
●池上本門寺宝塔
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日蓮上人荼毘所と伝えられる場所に建つ。かっては「灰堂」があったと云う。
棟札(現在所在不明)によると、文政11年(1828)尾張藩家老成瀬氏によって、日蓮上人550年遠忌として再興されたと伝える。
※落慶は天保元年(文政13年・1830)と云う。
総高17.5m。身舎の径5.5m。嘉永4年(1851)修理。
基壇上に石製蓮華座をつくり、その上に宝塔が建つ。
内部には四天柱を立て、その中に木造宝塔1基(小宝塔)を安置する。
組物等には江戸風な装飾がなされる。2003/03/26撮影:平成の修理前の写真となる。
池上本門寺宝塔1
同 2:左図拡大図
同 3
同 4
2011/01/31追加:
「東京都指定有形文化財池上本門寺宝塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編著、2010 より
池上宝塔修理前外観
2013/08/22追加:
○「池上本門寺多寳塔:平成の大修理」池上本門寺霊宝殿編、2010 より
池上宝塔修理前全景 |
2008/06/27追加:池上本門寺サイト より
○宝塔大修復
宝塔は東京都有形文化財。宝塔修復事業に着手、費用全額は篤信者の奉納による。
工事の内容:外部塗装塗替、内部彩色剥落止と一部復原、屋根銅板葺替、床下補修と床張直、内部小宝塔解体修理など。
工期は平成19年12月より平成21年11月を予定。
○宝塔(日蓮聖人御荼毘所)
この地にかっては御灰堂(2×3間)があり、当初、池上宗仲が宝塔を作り、聖人の御余灰を中に盛って奉安したと伝える。(「新編武蔵風土記稿」など)現在は、北側に石造宗祖第五百遠忌報恩塔が建つ(第33世日謙上人造立・天明元年・1781)。
現宝塔は、棟札(現存せず)抄により、文政11年(1828)、前犬山城主成瀬侯・家老浅野蔀を大本願人とし、飯田町福田長次郎を世話人として再建されると知れる。大工棟梁(工匠)は小木新七藤原信盛ほか
と記する。
なおこの宝塔は、越中本法寺所蔵の法華曼荼羅図(重文)に見える多宝仏塔に近似する。
<附の宝塔は、四天柱の内に安置され、10体の亀を配した迦葉座以外は、ほぼ大宝塔に類似する。>
〔備考〕「長栄山池上本門寺誌」(明治29年)に「天保元年(1830)茅場町永岡恭重再建」とある。(上に掲載)
2011/01/31追加:
「東京都指定有形文化財池上本門寺宝塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編著、2010 より
池上宝塔竣工正面 池上宝塔竣工見上 池上宝塔竣工内部
池上宝塔立面図 池上宝塔断面図 池上宝塔平面図 池上宝塔見上図
2013/08/22追加:
○「池上本門寺多寳塔:平成の大修理」池上本門寺霊宝殿編、2010 より
池上宝塔内部:四天柱、繋虹梁、格子戸、鏝絵
池上宝塔立断面図:解説
2011/02/19撮影:
2023/05/25撮影:
★池上本門寺小宝塔(:池上宝塔に安置)
池上本門寺宝塔内陣には宝塔と類似する意匠意匠の小宝塔を安置する。高さ7尺余。
製作時期は不詳なるも、宝塔とほぼ同一時期<文政11年(1828)>の造営と考えられる。
2007/06/13追加:
「日蓮宗各本山名所図絵」石倉重継、博文館、明治36年(1903) より
池上本門寺宝塔内陣宝塔
2008/06/27追加:
「府下に於ける佛塔建築」東京府 , 昭和7年(1932) より
宝塔内部・宝塔内陣宝塔:上の項で既出
2011/01/31追加:
「東京都指定有形文化財池上本門寺宝塔保存修理工事報告書」文化財建造物保存技術協会編著、2010 より
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池上宝塔内陣四天柱内中央には小宝塔ならびに木製蓮華座が安置される。
小宝塔内には八角形の春日厨子を置き、その中には舎利容器を置く。
舎利容器内には近年まで日蓮上人眞骨が奉安されていたが、現在眞骨は廟所に遷座し、その代わりに日蓮上人所持水晶製念珠を奉安する。
今般の解体修理で、木製蓮華座の蓮弁墨書に文政13年(1830)とあることが判明し、其頃の造立であると判断される。
池上修理前小宝塔
池上竣工小宝塔:左図拡大図
池上小宝塔立面断面図
池上小宝塔平面見上図
池上小宝塔内八角厨子 |
小宝塔は対面径3尺2寸の八角形の基壇上に建つ。
下層軸部は8本の丸柱が建ち、対面する柱芯の径は2尺1寸を測る。
上重の対面する柱芯の径は1尺1寸とする。
組物は和様三手先組、軒は三軒平行垂木を用いる。 2023/05/04追加: 池上本門寺宝塔内小宝塔:池上本門寺公式サイト から転載
2011/01/31追加:
「池上本門寺多寳塔:平成の大修理」池上本門寺霊宝殿編、2010 より
2013/08/22画像入替:
○池上小宝塔構造図 ○池上小宝塔蓮弁墨書:文政13年の墨書がある。
2013/08/22追加:
小宝塔内部構造と名称 小宝塔細部
★池上本門寺清正公堂・再興 (→清正公信仰)
清正公堂は文政4年(1824年)一重の堂宇として建立されるも、今次大戦の空襲により焼失する。
加藤清正生誕460年を記念し、木造三重塔で再建されることとなる。 施行は有限会社大和田社寺工務店、2021/05月地鎮祭が厳修される。
再建位置は経蔵の北側である。 ◆再興施工中の清正公堂 ○諸ウエブサイト より
立面図・完成様相図
清正公堂立面図:初重正面には軒唐破風の向拝を設ける、意匠には一部唐様を用いるようである。
清正公堂完成予想図:現地のタテカン
2023/05/25撮影: 再興池上清正公堂1:建築中 再興池上清正公堂2:相輪 再興池上清正公堂3:組物
○ブログ:Dogwoodの池上日記>清正公堂が完成間近!(2024-04-21) より転載 2024/04/21頃の竣工直前の池上清正公堂
再興池上清正公堂4 再興池上清正公堂5 再興池上清正公堂6 再興池上清正公堂7
◆旧清正公堂 2013/08/22追加: ○「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
○戦前清正公銅像/清正公堂
戦前清正公銅像:明治42-43年か、池上本門寺蔵ネガ。
開眼供養は明治45年であるが、垂れ幕の年紀及び写真中央に写る日亀上人(明治44年遷化)から判断して、鋳造の終った開眼供養前の明治42-43年の写真と推定される。
戦前清正公堂:明治36年頃、「日蓮宗各本山名所図絵」石庫重継、博文館、明治36年所収
2021/11/09追加: ○「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より 戦前の伽藍配置・清正公堂・清正公銅像
戦前の伽藍配置:釈迦堂(本堂)に向かって左に清正公堂及び清正公銅像が配置されていた。
釈迦堂(本堂)と清正公銅像 釈迦堂と清正公堂:手前左端が清正公堂
はっきりとは分からないが、上記の写真で判断すれば、清正公堂は正面3間・側面2間?の入母屋造屋根銅板葺の堂宇であったと推定される。
2024/05/06追加: ◆加藤清正供養塔 移設か・・・未見 霊宝殿裏の墓地中に所在。山内最大級の宝篋印塔である。総高411cm。
この供養塔は加藤清正息女瑤林院(紀州頼宣室)が清正満38年忌にあたる慶安2年(1649)に造立する。 ○GoogleMaopより転載
加藤清正供養塔1 加藤清正供養塔2:浄池院殿日乗合霊、慶長16年の命日を刻する。
解体された清正供養塔:2023年2月頃と思われるが、重機が入り、清正供養塔は分解解体されたようである。
供養塔の調査ということとは思われず、おそらく、清正公堂の再建の竣工が迫ってきており、再興される清正公堂周辺に移建されるのでないかと推測するが、果たしてどうであろうか。
★近年取壊塔婆
◆池上本門寺奉安塔:2007/06/13追加
奉安塔:
「日蓮宗の本山めぐり」昭和46年より
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※池上本門寺奉安塔略歴
昭和23年仮祖師堂背後に建立
昭和37年現在の霊宝殿の地に移建
平成8年解体、平成13年奉安塔宝輪が再興。
奉安塔の形式:
◆篋
塔と思われる。下掲載の「池上本門寺百年史」を参照。
中西亨「日本の塔総観」:「方形の平面を持つ宝塔」 とある。
奉安塔:仮祖師堂に奉安殿として設計、RC製、宗祖の御真骨・真蹟・所持品などを奉安する。
昭和20年池上本門寺大堂(祖師堂・享保8年1723再興堂)
空襲により焼失。
昭和23年大堂跡に、仮祖師堂(大堂)と宗祖奉安塔を建立。
昭和37年大堂再建起工。
1)経蔵を北側に移動
2)移動させた経蔵南隣に宗祖奉安塔を移築(現在の霊宝殿の位置)
3)仮祖師堂は取壊
昭和39年現在の大堂再建。
平成8年霊宝殿新築のため奉安塔解体。
平成13年霊宝殿完成。
平成15年奉安塔記念として宝輪だけを奉安塔跡地に建てる。 |
2013/08/22追加:
◆「霊寳殿 池上本門寺の御霊宝と文化遺産」池上本門寺霊宝殿、平成21年 より
○昭和28年池上本門寺航空写真:【部分図】:写真中央の祖師堂跡に仮大堂及びその背後に奉安塔が建立されている様が写る。
左端上は焼失を免れた経蔵であるが、戦後直後に仮仏殿として向拝が増建築され、その様子が写る。
◆昭和28年池上本門寺航空写真:
【全図】:上は仮大堂・奉安塔付近の部分図
昭和27年頃までに長栄堂、日朝堂、清正公堂、事務所、信徒休憩所などが再興されると云うも、
仁王門跡西が日朝堂、東南が長栄堂であろう、清正公堂は良く分からない。
◆サイト:馬込と大田区の歴史を保存する会>大田区梅田小学校 より
○池上本門寺奉安塔(昭和37年池上本門寺航空写真):下図の広域写真
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昭和37年北部から撮影。
大田区立梅田小学校の運動会を撮影した航空写真の池上本門寺部分を切出。
中央が奉安塔・仮祖師堂、
右手(西)手前(北)から経蔵(経蔵は戦後直後に仮仏殿として向拝が増建築される)、やや離れて鐘楼(昭和32年再興)が見える。
昭和37年経蔵南に隣接して、奉安塔が移転される。
平成8年霊宝殿新築のため奉安塔取壊、平成15年奉安塔記念宝輪建立。 |
○2007/07/13追加:
「池上本門寺百年史」新倉善之、池上本門寺、昭和56年11月 より
昭和56年(宗祖700年遠忌)直前の池上本門寺
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昭和56年直前
池上本門寺主要伽藍【部分図】:左図拡大図
画面中央右が仁王門・大堂(画面下から)
仁王門・大堂の西(左)の緑青の屋根が奉安塔と経蔵
※奉安塔は移転後の姿である。
昭和56年直前
池上本門寺伽藍【全図】:下に掲載あり |
移転する奉安塔
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建設中の奉安塔:平面四角であることが見て取れる。 昭和29年奉安塔の外観が完工(内部荘厳は未完)
外観完工の奉安塔:中央は移建中の書院
昭和37年祖師堂再興に着手
移転する奉安塔:左図拡大図
経蔵南に移動中の写真であるが、引屋で移動している様が写る。
構造については、下重は方形で上重は円形・一重の方形屋根を載せ、相輪を建てる形式「篋塔」であったことが良く分かる。
但し、宝蔵あるいは廻廊のように見える付属建物があったと思われる。 |
2007/12/10追加:.
「宝塔雑感」井関正敬、史迹と美術、64(9)、1994.11 では
高さ約15m、一辺6.15m、RC、屋根銅板葺と云う。
2009/10/23追加: |
2013/10/09追加:「Hayami」氏撮影画像
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池上本門寺奉安塔11:上図拡大図:
○現地の「説明板」 より 昭和20年空襲でほぼ伽藍全焼。戦後ただちに復興に着手。 最初に日蓮上人像及び御真骨を奉安する「奉安塔」建立に着手。
昭和29年奉安塔竣工、RC造。それは当時の仮本堂裏・現大堂内陣位置に建立される。
昭和37年現在の大堂建立のため、現霊宝殿の位置に移される。 平成11年開宗750年奉賛の「霊宝殿」建立のため、解体される。 |
昭和46年池上奉安塔12:オリジナル写真
昭和46年池上奉安塔13:奉安塔・経蔵部分図
:上図拡大図
昭和46年1月5日「Hayami」氏撮影、撮影日から判断して地表には積雪があるものと思われる。 |
●池上本門寺奉安塔宝輪
2013/08/22追加:
★昭和20年焼失屋内塔婆
◆戦前釈迦堂宮殿
宮殿は多宝塔形式であった。釈迦堂は宝永7年(1730)火災焼失、享保15年(1730)再建と云うので、恐らくは享保年中の建立であろう。昭和20年焼失。 →戦前釈迦堂の項を参照。
◆戦前御真骨堂宮殿
宮殿は多宝塔形式であったように見える。昭和9年千葉の仏師浅子氏製作。昭和20年焼失。
→戦前御真骨堂の項を参照。
★池上本門寺略歴
■池上本門寺略歴
2007/09/15修正:
弘安5年(1282)日蓮聖人、池上宗仲の館で寂し、荼毘に付される。(山内の大坊本行寺がその地とされる。)
遺骨は身延山に埋葬される。
この地は、日朗上人(鎌倉比企谷妙本寺兼帯)により、堂塔が整備される。
文保2年(1318)日朗、比企谷妙本寺・池上本門寺を日輪上人に譲る。
第4世日山上人代に「初めて御影堂を建立」する。
第12世日惺上人、徳川家康の命で、歴代比企谷常住であったが、池上に移住し、以降両山貫主は池上定住となる。
慶長13年(1608)徳川秀忠、五重塔・山門を寄進。
江戸期は徳川氏等の保護を受ける。(慶長3年徳川家康朱印100石を寄進)
寛永3年(1626)第16世日樹上人、大堂(祖師堂)を建立。
(加藤清正40間四面の祖師堂を寄進、桁行25間梁間23間の規模と云う) 寛永7年(1630)身池対論。 →M不受不施派「身池対論」、備前法華の系譜中
身池対論では身延勝利、池上敗北と評定される。 日樹は信濃伊那へ追放、池上は身延日遠に与えられる。(接収される)
日遠の入山に当たっては、 養珠院の要請により水戸徳川家が日遠の駕籠を警備し、百人の武士が抜刀のまま池上本門寺に入ったと伝えられる。
※日遠池上入山の絵があるので転載する。 身延日遠池上本門寺に入山:「絵で知る 日樹聖人伝記」 より
池上大坊の中妙院日観は池上を去り、下総野呂妙興寺に遁れ、ここに談所を開き子弟を教育せんとする。 これが、不受派の教育拠点となった野呂檀林である。
日樹の法弟・一如院日僧(日相)、仙国院日仙、華蔵院日由は抗議の自害、他の数名は出寺して姿を隠し不受不施義を堅守するという。
◆池上本門寺16世<復歴>日樹上人 → 日樹上人供養塔・備中法福寺・備中仏乗寺
→ 池上本門寺日樹上人五輪石塔・寿福院逆修十一重層塔・正応院逆修十一重層塔
寛永8年6月3日蓮乗院日東、身延日暹に身延の法理(受不施)に同心することを誓う。日東は池上17世。
宝永7年大火(五重塔・山門以外の諸堂が焼失)、徳川吉宗が再興。
享保7年(1722)祖師堂(桁行18間梁間17間に規模を縮小)再興、享保15年本堂再興。
明治34年本堂焼失。境内69,400坪を有する。
昭和20年の空襲にて、僅かに五重塔、宝塔、総門、経蔵などを残し、祖師堂以下大部を焼失す。
現況は、京洛の日蓮宗諸本山の凋落と比べて、今次大戦の焼亡からも復興し、今なお壮大な伽藍を誇る。
2009/12/09追加:
○池上本門寺景観:年代は不詳であるが、明治頃の池上本門寺の景観と思われる。本堂・祖師堂が並列する。
※天保12年(1841)頃取壊となった雑司谷感應寺鼓楼が移建され、仁王門の左右に鐘楼・鼓楼が並ぶ伽藍配置となる。
池上本門寺景観:
主題:Buddhist Temple of Ikegami.
説明:1. Sammon. 2. Ema-do. 3. Shoro. 4. Hondo. 5. Soshi-do. 6. Taho-to. 7. Rinzo.
8. Shoin. 9. Kyaku-den. 10. Hozo. 11. Daidokoro. 12. Chozu-bachi. 13. Koro. 14.
The pagoda. 15. Stone lanternes presented as offerings.
(1.三門.2.絵馬堂.3.鐘楼.4.本堂.5.祖師堂.6.多宝塔.7.輪蔵.8.書院.9.客殿.10.宝蔵.11.台所.12.手水鉢.13.鼓楼.14.塔.15.奉納された石灯籠)
掲載書名:A handbook for travellers in Japan<日本での旅行者の手引(日本旅行案内)>
著者:Chamberlain, Basil Hall, 1850-1935
2011/05/20追加:
○明治20年池上本門寺境内図
明治20年池上本門寺境内図:画像容量1.8MB:明治20年銅版画、
「大田区史 資料編 寺社1」東京都大田区史編纂委員会、1981 所収
明治中期頃の池上本門寺、昭和20年戦災で焼失する前の景観を良く伝える。
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
○昭和9年池上本門寺伽藍全景:富田弘子氏蔵
昭和9年池上本門寺伽藍全景:俯瞰写真
総門、此経難持坂、仁王門を経て祖師堂、釈迦堂が並び、背後に経蔵、大客殿、御真骨堂、西側には大坊ほかの諸坊舎、東には五重塔などが写る。総門、経蔵、五重塔、宝塔を残し、昭和20年焼失する。
■戦前の池上本門寺諸伽藍
2007/06/13追加:
○池上本門寺門前
「外人の見た幕末・明治初期日本図会 文化・景観篇」池田政敏編、春秋社、1955 より
戦前池上本門寺の門前:Preussische?、撮影時期不詳
2007/09/16追加:「T.K.」様ご教示:
「以上は写真ではなく」「幕末に来日したドイツ使節「オイレンブルグ遠征隊」の一員であった画家ハイネ(1827〜1885)が
描いたもの」とのご教示を頂きました。確認出来次第、その旨に訂正をする予定。(未だ未確認)
※「日本遠征記」オイレンブルグ著として邦訳がある。
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
戦前池上本門寺門前2:明治中期、長崎大学附属図書館蔵、霊山橋前より総門を望む
戦前池上本門寺門前3:大正3年頃、池上本門寺蔵、「帝都大本山池上本門寺真景」大正3年所収
山上から撮影した画像であり、向かって右手前が本成院、奥は中道院、左手前が本妙院、奥が常仙院
戦前池上総門/此経難持坂:大正8年-12年、池上本門寺蔵、絵葉書
総門は元禄年中(1688-)の建立、扁額「本門寺」は本阿弥光悦書、昭和20年の焼失を免れる。
なお、此経難持坂の名称の由来は「法華経」宝塔品の詩句96文字に因んで石段を96段とし、詩句の文頭の文字「此経難持」をとって坂名となすと云う。
2007/07/13追加:
「東京府名勝図絵」田山宗尭編、東京:ともゑ商会、明45年 より
池上本門寺山門前古写真
2007/09/15追加:「T.K.」様ご教示:此経難持坂:
「加藤清正が本門寺台地の南に石段を寄進するまでは、本行寺のある西側の方が、本門寺の正門になっていたとの事です。」
2003/03/31追加:
「保存版 古写真で見る江戸から明治へ」世界文化社、平成13年 より
○戦前仁王門
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山 門(慶長13年再興門):仁王門:左図拡大図
慶長13年(1608)徳川秀忠建立。旧国宝。2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
戦前仁王門:昭和12-19年、池上本門寺蔵、絵葉書
仁王門は天文年中(1532-)あるいは慶長13年(1609)の建立と伝える。扁額「長栄山」は本阿弥光悦筆。 |
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
○戦前鐘楼
戦前池上本門寺鐘楼:大正8年頃、池上本門寺蔵、「宗祖六百五十遠忌紀念写真帖」所収
鐘楼は天保10年(1839)再建、梵鐘は正徳4年(1714)紀伊徳川家奥方達の寄進、昭和20年被災し、現在は新鐘楼脇に安置される。
○戦前池上本門寺祖師堂/釈迦堂
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
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戦前祖師堂/釈迦堂1:明治43年以前絵葉書、池上本門寺蔵
左が釈迦堂でsる。中央に「清正公銅像建設予定地」とあり、写真が銅像建設着手前(明治45年建設)であることが分かる。
戦前祖師堂/釈迦堂2:左図拡大図
左釈迦童、明治43年、大田区郷土博物館蔵
祖師堂・釈迦堂2棟がほぼ完全に並んで写る写真は珍しいものである。 |
2003/03/31追加:
「保存版 古写真で見る江戸から明治へ」世界文化社、平成13年 より
祖師堂
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幕末-明治期の写真と推定
大 堂(享保8年再興堂):左図拡大図
先々代大堂は、慶長11年(1606)加藤清正寄進(生母七回忌追善供養)
加藤清正寄進のい祖師堂は桁行25間、梁間23間の大堂であったと伝える。
宝永7年(1710)焼失。
享保8年(1723)徳川吉宗の寄附を得て、規模を縮小し13間四方の堂として再興。
手前に写る水屋は鼠山感應寺から移建されたものである。 |
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
戦前祖師堂(大堂)2:上図
(「保存版 古写真で見る江戸から明治へ」)と同一写真である。こちらの写真が多少鮮明である。
2011/12/02追加:
「The Far East」vol.V g]]U より
明治6年撮影大堂:上の幕末-明治期の写真と並ぶ最古の祖師堂写真である。
こちらは明治6年と特定できる写真である。
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
戦前祖師堂前:明治中期、国際日本文化研究センター蔵
祖師堂大棟の穴には「井桁に橋」の紋がつけられるが、これは明治20年の大修理以降のことであろう。水屋屋根は桟瓦葺から銅板葺に変更される。なお水屋の奥に写るのは大黒堂である。
戦前祖師堂内陣:明治中期、手彩色、池上本門寺蔵、明治20年の大修理後の写真である。
戦前祖師堂宮殿:明治中期、手彩色、池上本門寺蔵
昭和6年祖師堂:昭和6年、「宗祖六百五十遠忌紀念写真帖」所収
戦前祖師堂3:昭和7年頃発行絵葉書、池上本門寺蔵
◎水屋:水屋は鼠山感應寺から移建されたものである。
戦前祖師堂前:お会式、右手に水屋が写る。明治44年頃、国立国会図書館蔵
戦前お会式:中央に水屋が写る。昭和6年(中央の立柱に年紀あり)、「宗祖六百五十年遠忌紀念写真帖」昭和6年 所収 |
2007/07/13追加:
「東京府名勝図絵」田山宗尭編、東京:ともゑ商会、明45年 より
池上本門寺祖師堂古写真 池上本門寺祖師堂内部古写真:享保8年(1723)建立
池上本門寺釈迦堂内陣古写真:屋内多宝塔、釈迦堂は享保15年(1730)建立
日蓮靠れかかりし柱:写真中央柱を「日蓮靠れかかりし柱」と称する。この柱は現存すると云う。
2007/09/15追加:「T.K.」様ご教示:
本山 大坊 池上本行寺→大坊本行寺縁起
(リンク切:現在は「ご臨終の間」に
移行か)には
『入滅になられたお部屋の跡に建てられたお堂を特に「ご臨終の間」とよび、・・・
堂内には立正安国論を御講義される時に寄り掛かられた「お寄り掛かりの柱」を始め、
中央に大聖人自ら鏡を見て御自刻された「自鏡満願の祖師像」並びに「池上宗仲公御夫婦像」等を奉安・・・』とある。
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
戦前釈迦童1:大正3年、絵葉書、池上本門寺蔵
戦前釈迦堂2:大正8-12年、絵葉書、池上本門寺蔵
宝永7年(1730)火災焼失、享保15年(1730)徳川吉宗の寄附により再建。桁行11間、梁間10間。
堂前には清正公銅像が写る。銅像は明治45年建立。銅像は戦時の金属供出で供出される。
同じく堂前には鉄製宝塔もある。この基礎石には「木挽町」の銘があると云い、江戸木挽町講中の建立であろう。
釈迦堂は昭和20年戦災で焼失、跡地には再興されず、現在は経蔵と霊宝館が建つ。昭和44年北方に本殿として再興される。
戦前釈迦堂内陣:明治44年頃、「明治写真帖」警眼社、明治44年 所収
釈迦堂宮殿は多宝塔形式であったと知れる。宮殿には釈迦如来と四菩薩を安置するも、今次大戦で焼失。
2011/05/02追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
○戦前皷楼/鼠山感応寺遺構
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明治中期の撮影と推定:池上本門寺蔵
池上本門寺鼓楼:左図拡大図
鼓楼は雑司谷鼠山感應寺鼓楼として天保7年(1836)頃建立、天保12年雑司谷感応寺廃寺取壊、鼓楼のみ直ちに池上に移建されたものと思われる。
昭和20年今次大戦の空襲で焼失。
→雑司ヶ谷鼠山感應寺写真左は大黒堂(日蓮上人作の大黒天を祀る)
写真右に写る層塔は寿福院逆修塔である。 |
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
○戦前経蔵
戦前経蔵:「古写真で見る江戸から東京へ」 所収
○戦前日蓮上人御廟所/御真骨堂
日蓮上人御廟所
戦前日蓮聖人御廟所:大正8年以前、池上本門寺蔵絵葉書、宝殿は明治14年600年遠忌紀念で建立。昭和20年焼失。
御真骨堂
戦前御真骨堂拝殿:昭和6年新築
戦前御真骨堂:明治34年火災焼失、昭和6年再興
戦前御真骨堂宮殿:宮殿は多宝塔形式と思われる。千葉県仏師浅子氏製作と云う。
以上何れも「宗祖六百五十年遠忌紀念写真帖」昭和6年 所収、昭和20年焼失。
■戦後の池上本門寺
2013/08/22追加:
「古写真集 撮された戦前の本門寺」池上本門寺霊宝館、2010 より
昭和21年池上本門寺全景:国土地理院蔵、米軍撮影航空写真
昭和21年池上本門寺全景:航空写真
2007/07/13追加:
○「池上本門寺百年史」新倉善之、池上本門寺、昭和56年11月 より
昭和20年4月15日、B29約200機による京浜西南地区空襲、大田区のほぼ全域が被災。
池上本門寺では祖師堂(大堂)、釈迦堂、仁王門、鐘楼、太皷堂、常唱堂、長栄堂、廻廊、方丈、庫裏、大書院、大客殿など56棟・約2500坪の建物を焼失。(総門、五重塔、経蔵、御廟所、宗学林、宝塔などは焼失を免れる)
※安立院・東之院が最初に被爆、本成院は焼失を免れる。
◎仮仏殿に経蔵を指定:被災後の緊急処置として、「経蔵を仮仏殿となし、三宝諸尊を安置、法務を執行す」。
仮仏殿(経蔵)の向拝立増建築は終戦直後に決定・施工される。
※諸堂の建立時期
七面堂(貞享9年1698建立)、祖師堂(享保8年1723建立)、釈迦堂(享保15年1730建立)、
大黒堂(天明8年1788建立)、常唱堂(寛政11年1828建立)、宝塔(寛政11年1828建立)、
長栄堂(天保元年1830建立)、大方丈(同左)、輪蔵(同左)、鐘楼(同左)、皷楼(同左)、額堂(同左)、仁王門(同左)、
供膳所(同左)、接待所(同左)、鬼子母神堂(嘉永5年1852建立)、清正堂(安政4年1857建立)
昭和22年仮本堂、祖廟の建築、奉安塔建立が決定される。
奉安塔は宗祖像(日蓮上人坐像・重文)、宗祖御真骨を格護するもので、永久的な建築としてRC製とする。
昭和23年仮祖師堂・祖廟が完成。
◎昭和23年再興池上本門寺仮祖師堂
昭和27年頃までに長栄堂、日朝堂、清正公堂、事務所、信徒休憩所などが再興される。
昭和28年池上本門寺伽藍
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昭和28年池上本門寺航空写真:
【全図】;左図拡大図
・・・・・・・・上に掲載済画像
なを、下に写るのは焼失した本院の瓦である。
仮大堂、その背後に奉安塔が建立され、仁王門付近に長栄堂、日朝堂と推定される堂宇が写る。 |
昭和56年(宗祖700年遠忌)直前の池上本門寺伽藍
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昭和56年直前
池上本門寺伽藍【部分図】:左図拡大図
中央上の大屋根が昭和39年再建祖師堂(大堂)、
大堂東端の木立の中に五重塔、
大堂西木立の中の方形屋根と相輪が宝塔、
大堂西南の方形屋根・相輪は奉安塔
昭和56年直前
池上本門寺主要伽藍【全図】:上に掲載済 |
■池上本門寺伽藍
2003/03/26撮影:現伽藍
池上本門寺仁王門 池上本門寺大堂 池上本門寺題目碑 池上本門寺長栄堂:長栄大威徳天を祀る。
2009/10/17撮影・現伽藍
池上本門寺門前題目 池上本門寺総門・此経難持坂:総門は元禄年中の建立、此経難持坂は加藤清正寄進
池上本門寺仁王門:昭和52年再建
池上本門寺大堂:昭和39年再建
池上本門寺日朝堂:常唱堂、題目堂
、昭和48年再建。
池上本門寺長栄堂:昭和28年再建。
池上本門寺鐘楼:梵鐘は正保4年(1647)
瑶林院(加藤清正娘、徳川頼宣正室)が鋳造する。
正徳4年(1714)天真院(紀州2代光貞正室)、寛徳院(徳川吉宗正室)、芳心院(頼宣娘、因幡池田光仲正室)、
円光院(吉宗姉、上杉綱憲正室)らの寄進によって改鋳される。昭和39年鐘楼再建。
池上本門寺経蔵 池上本門寺経蔵2:天明4年(1784)建立
池上本門寺本殿:昭和20年の空襲で焼失した釈迦堂を
昭和44年再建(旧位置は旧祖師堂の西隣)、
天正年中の再建堂は宝永7年(1710)焼失、享保15年(1730)徳川吉宗再建。
なお宝永7年焼失釈迦堂は、第16世(復暦)日樹聖人の寛永6年(1629)再興堂とも考えられる。
池上本門寺客殿・寺務所:昭和53年9月完成。地上2階、地下4階建、総面積は延べ1,780坪と云う大建築。RC。
2011/02/19撮影: 池上本門寺仁王門202 池上本門寺大堂201
2023/05/25撮影:現伽藍
池上本門寺門前題目碑 池上本門寺総門
池上本門寺此経難持坂 池上本門寺此経難持坂銅灯篭 池上本門寺日蓮上人説法像
池上本門寺仁王門1 池上本門寺仁王門2 池上本門寺仁王門3 池上本門寺長栄堂:「長栄大威徳天」を祀る。 「長栄大威徳天」は日蓮上人が佐渡配流中、白髪の翁として現れ、日蓮の守護神となると誓い、日蓮が池上にて入滅の後は池上を守護する神となるという。
なお、長栄大威徳天は明治の神仏分離の愚行で、稲荷明神の部分は神として分離され、長栄稲荷として祭祀され、現在は本町稲荷(下に池上寺中の項にある本町稲荷を参照)として存続すると思われる。
池上本門寺日朝堂1 池上本門寺日朝堂2
行学院日朝を祀る。日朝は身延11世、応永29年1月5日(1422)〜明応9年6月25日(1500)。
池上本門寺手水舎
池上本門寺大堂1 池上本門寺大堂2 池上本門寺大堂3 池上本門寺鐘楼
池上本門寺旧梵鐘
正徳4年(1714)紀州粉河で改鋳されたもので、宝永7年(1710)の火災で旧鐘が破損した為改鋳してと伝える。この鐘には旧鐘の銘が再刻されていて、元々は正保4年(1647)瑤林院(徳川頼宣室、加藤清正子女)による寄進と知れる。昭和20年の空襲で一部損傷して現在は現役を退いている。
池上本門寺経蔵1 池上本門寺経蔵2 池上本門寺経蔵3 池上本門寺経蔵4
池上本門寺経蔵5 池上本門寺経蔵6 池上本門寺経蔵7 池上本門寺霊宝殿
池上本門寺本院 池上本門寺本院山門 池上本門寺本院本殿
池上本門寺本院寺務所 池上本門寺本院寺務所2
御廟所
中央廟屋内に宗祖日蓮聖人(弘安5〔1282〕年10月13日御遷化)、右廟屋内に第二祖日朗聖人(文応元〔1260〕年正月21日御遷化)、左廟屋内に第三祖日輪聖人(延文4〔1359〕年4月4日御遷化)の墓塔を奉安する。
池上本門寺日蓮廟所門 池上本門寺日蓮廟所石塔
池上本門寺日蓮廟所:向かって左は2祖日朗廟所、右は3祖日輪廟所
池上本門寺日蓮廟所2 池上本門寺日蓮廟所3 池上本門寺日蓮廟所4
なお、比企谷妙本寺・池上本門寺歴代: 開山は日蓮、二祖は日朗、三祖は日輪である。 日朗は比企谷・池上の両山を兼帯し、以降両山一首の制は昭和16年まで存続する。
池上本門寺歴代墓所1 池上本門寺歴代墓所2 池上本門寺歴代墓所3
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2007/06/13追加:
○池上本門寺寺中概要:池上本門寺概要図
以下無印の写真は2009/10/17撮影:△印の写真は2011/02/19撮影:□印は2023/05/25撮影
◇大坊本行寺: 日蓮上人入滅の地とする。
池上大坊山門 池上大坊本堂1 池上大坊本堂2 池上大坊御臨終の間 池上大坊諸堂 池上大坊妙法堂
□池上大坊山門前題目石:側面は南無日蓮大菩薩御臨終之御霊場と刻する。
□池上大坊山門2 □池上大坊境内1 □池上大坊境内2
□池上大坊本堂3 □池上大坊本堂4
□池上大坊御灰骨堂1 □池上大坊御灰骨堂2 □池上大坊旅着堂1 □池上大坊旅着堂2
□池上大坊鶴林殿1 □池上大坊鶴林殿2 □池上大坊御臨終之間2 □池上大坊御臨終之間3
□池上大坊境内題目塔群1 □池上大坊境内題目塔群2 □池上大坊境内題目塔群3
□池上大坊妙法堂2 □池上大坊門前法界回向塔
◇常仙院(常宣坊):天文18年(1549)本門寺9世東照院日純上人の隠棲所として開創、旧は「玉蔵坊」と称す。
天保13年(1842)雑司谷感応寺の廃寺に当り、住持妙沾院日詮は感応寺の居間を縮小して移築し、当寺に隠棲したと伝える。
今次大戦で南谷檀林山門と共に全焼する。
◇中道院:日頂上人庵室。もと南谷にあり、その後当地に移転。宝暦4年(1754)不二庵と合併。
△池上中道院1 △池上中道院2
□池上中道院7 □池上中道院3
◇鬼子母神
△池上鬼子母神
□池上鬼子母神2:寺中厳定院別院という。 □池上鬼子母神3
◇本成院:喜昇山、弘安五年(1282)佐渡阿闍梨日向上人庵室、池上宗仲が建立開基。旧は北谷にあった喜多院で、北の坊と称す。
一方東谷にあった本成坊が廃坊となり、北の坊と合併再興される。本成坊は中老僧日源の庵室であったと伝える。
宝永元年(1704)火災。享保元年(1716)現在地に再建、喜多院は本成院と改称する。
△池上本成院1 △池上本成院2 △池上本成院3
□池上本成院4 □池上本成院5 □池上本成院6 □池上本成院7
◇本妙院:日伝上人の庵室、旧「妙蔵坊」と称す、天正元年(1573)焼失、南谷外溝に移転、本妙院と改号。
元禄3年(1690)現在地に移転。
△池上本妙院
□池上本妙院2 □池上本妙院3
◇理境院:本門寺3院家の一院。正和元年(1321)本門寺3世日輪上人住坊、延宝元年(1673)理境院と改号。
慶応3年江戸城明け渡し時の官軍参謀西郷隆盛の宿舎となる。明治11年堂宇を小学校に充当する。
池上理境院 △池上理境院2
□池上理境院3:両山3世日輪上人草庵跡との石柱が建ち、その裏面には由緒が刻まれる。
□池上理境院4 □池上理境院5 □池上理境院6
◇本町稲荷社 この稲荷社については
1)池上本門寺仁王門横にある長栄堂の稲荷大威徳天を神と仏に分離して、神の稲荷大威徳天を神を長栄稲荷とし、大正9年近隣の玉造稲荷、田上稲荷と合祀して、当地に社殿を建立したという。
2)もと本門寺の南方俗に土手と呼ばれる場所に鎮座していたが、社殿が大破したので大正九年近くにあった長栄稲荷、玉造稲荷、田上稲荷の三社を合祀して現在の位置に移った。
3)創建の年代はわからない。 との記事がある。
以上を要約すれば、明治の神仏分離の愚行で、本門寺長栄堂の稲荷大威徳天を分離し、神の部分を(いつの時代か判然とはしないが))分離し、俗称「土手」の地に祀り長栄稲荷とする。その後、長栄稲荷社社殿は大破し、大正9年付近の玉造稲荷・田上稲荷を合わせ、現在の位置に本町稲荷として神社を創建したということであろう。
□池上本町稲荷明神1 □池上本町稲荷明神2
◇覚源院: 明徳4年(1393)開創、当初は西谷にあり蓮池院と称す、天文2年火災で東谷に移転、妙法坊と改号。
天正元年(1573)再び焼失、本門寺東に移転、元禄3年(1690)現在地に移動、宝暦元年(1751)覚源院と改号。
△池上覚源院1 △池上覚源院2
□池上覺源院山門 □池上覺源院本堂 □池上覺源院庫裡
◇南之院: 弘安5年(1282)日昭上人庵室として開創。江戸期狩野家の菩提寺となる。
狩野孝信(円大院孝信日養)の墓碑あり。
池上南之院 △池上南之院1 △池上南之院2
□池上南之院山門 □池上南之院本堂
◇厳定院: 正応2年(1289)日朗上人弟子日尊上人開創。天文5年(1536)成就坊と合併し現在地に移転。
△池上厳定院1 △池上厳定院2 本門寺総門前にある鬼子母神堂は嚴定院の別院という。
□池上嚴定院山門 □池上嚴定院本堂
◇西之院: 日興上人庵室として創建。日法上人開山。旧地は市野倉村で、後に当地に移転、
寛永元年(1624)宝樹坊と合併、「西の院」と改号。
△池上西之院1 △池上西之院2
◇真性寺: 日蓮宗、寛永2年(1625)以来麻布今井町にあったが、昭和27年に現地に移転。
△池上真性寺
◇実相寺: 日蓮宗、妙玄山。天文19年(1550)江戸馬喰町に開創、明暦3年(1657)振袖火事で焼失、浅草新寺町に移転。
寛保3年(1743)大丸寺と改称、大正12年現地の「妙玄庵」と合併、実相寺と改号して現地に移転。
△池上実相寺
◇照栄院: 朗慶山、本門寺3院家の一院。「南谷檀林立善講寺」あるいは「向林庵」と称す。日朗上人開基。
南谷檀林:元禄元年(1688)本門寺第22世日玄上人開創、明治維新で廃檀。
現在の池上小学校、池上会館、照栄院の一帯が南谷檀林であった。
講堂、方丈玄頭寮、板頭寮、首座寮、所化寮、玄文両談合場、食堂、総門、妙見堂などを具備。
板頭寮(天保7年<1836>再建)のみ照栄院書院として残存する。檀林鎮守妙見堂も坂上に現存する。 2023/05/28追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 朗慶山と号す、池上本門寺末、正応4年(1291)創建、開山日朗、開基日鏡、池上・柳島法縁。
日朗庵室の旧跡である。庵室は後に廃庵となるが、嘉吉年中(1441-4)日鏡によって再興される。 元禄2年(1689)比企谷宝篋堂檀林(鎌倉比企谷常栄寺中)をこの地に移し、池上南谷檀林と称し、朗慶山立善講寺と号す。
池上本門寺寺中三院家の一つ。檀林歴代は当寺の歴代を兼職す。 明治2年廃壇。
東の山上に妙見堂があり、寛文4年(1664)その本尊妙見菩薩は揺林院(加藤清正娘、徳川頼宣正室)が奉納する。
山門・本堂は昭和14年の再建、南谷檀林板頭寮の遺構は書院として残る。
歴代:開山日朗、2世(開基)日鏡、・・・・南谷檀林1世妙悟院日玄(池上22世、飯高17世)・・・ 2024/05/06追加:
その他照栄院日朗関係の遺跡として、池上会館の庭に「日朗菩薩草庵之地」の碑、その左手に「朗師坂」、朗師坂の上には「墓塔」がある。但し朗師坂上の「墓塔」は未見、写真で見ると正面「南無日朗菩薩」、側面「享保八年(1723)」の年紀を刻む。また、日蓮上人廟所の右廟(向かって左)には日朗の宝塔形式の墓塔(但し真墓ではなく後世の供養塔と推定されている)が安置されているようで、この由緒も不明である。
池上照栄院 池上照栄院本堂
□池上照栄院山門2 □池上照栄院本堂2 □池上照栄院本堂3 □池上照栄院玄関など
□本源院殿行圓日房居士:左記の戒名並びに父母の戒名を刻むが、本源院殿とは不明、先学のご教示を俟つ。
□池上照栄院久遠林
◇南谷檀林妙見堂: 寛文4年(1664)瑶林院(加藤清正娘・徳川頼宣室)が建立、慶応2年の再建。南谷檀林妙見堂。
妙見菩薩立像は寛文4年銘があり、南谷檀琳開設の時その守護として移管されたと云う。
池上妙見堂 瑶林院妙見菩薩立像
△池上妙見坂 △池上妙見堂1 △池上妙見堂2
□池上照栄院妙見坂2 □池上照栄院妙見堂3 □池上照栄院妙見堂4
□池上照栄院妙見堂庫裡
◇養源寺: 長荘山、慶安元年(1648)松平隆政母養源院殿の発願により、荏原郡浜竹村本成寺を当地に移転、養源寺と改号。
△池上養源寺1 △池上養源寺2
□池上養源寺3 □池上養源寺4 □池上養源寺5 □池上養源寺6
□池上養源寺7 □池上養源寺8
◇妙雲寺: 元和元年(1615)日正上人開創。若宮八幡社(堤方神社)別当。
△池上妙雲寺1 △池上妙雲寺2
□池上妙雲寺3 □池上妙雲寺4 □池上妙雲寺5 □池上妙雲寺6
◇永寿院
: 備中庭瀬藩戸川逵安が本門寺16世日遠に帰依、日遠の庵室に寄進、この地は戸川家下屋敷5000坪だったと云う。
山号は「不変山」と号するが。これは達安の法号に因る。
→ 備中庭瀬藩戸川逵安については備中庭瀬不変院を参照。
当初は「蓮乗院」(池上17世日東上人の法号)と号す。
芳心院(紀伊頼宣女、鳥取藩主池田光仲室)の帰依を受け、宝永5年(1708)芳心院の没後、永寿院と改号。
→ 池上本門寺永寿院:詳細な由来の記載がある。
2024/05/06追加: ○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
不変山と号す、開山は心性院日遠、開基檀越戸川肥後守逵安(法号:不変院覚如)。
備中庭瀬藩戸川逵安の下屋敷5000坪の寄進を受けた日遠は当所庵室の建立を弟子日東(両山17世)に託す。日東は堂宇を完成させ日東の院号に因み、蓮乗院と号する。
5世日秀の時、芳心院が帰依し、永寿院と改号する。 池上永寿院:2014/01/26画像入替
□池上永寿院2 □池上永寿院3 □池上永寿院4 ○永寿院芳心院墓所:万両塚
墓所は約600平方mの墓域を有し、周囲に二重の堀溝が構築されている。建設費が一万両に及と云われた。
宝塔背面の銘文には、芳心院の家系・人となり・信仰の深さと「逆修七分全得」と記される。
※逆修七分全得:逆修の善行を積み、七の功徳全てを得るとの意
2003年秋から万両塚の調査、改修工事が行われ、宝塔内部からは、法華経巻子本八巻と火葬骨の収められた青銅製の骨蔵器が発見される。
なお、この付近は弥生時代住居跡、堤方権現台古墳もあり、これらも発掘調査され、遺構が展示されている。 ○芳心院(芳心院妙英日春)
紀州藩祖徳川頼宣の第一女。名を茶々姫と云う。
※徳川家康の孫(万両塚の基礎背面銘や骨蔵器銘に「東照大神君令孫」と刻するという。)、養珠院の孫
母は加藤氏(瑶林院)、生母は側室中川氏(理真院)。 ※加藤清正の孫
※理真院(理真院妙尊日覚)は万治元年10月9日に没、紀州養珠寺に埋葬、明治8年に和歌山報恩寺に改葬される。(「南紀徳川史」第一冊)
寛永8年(1631)9月22日〜宝永5年(1708)戌子11月28日
正保2年(1645)鳥取藩主池田光仲に嫁し、同4年綱清(鳥取藩二代藩主)を、慶安3年(1650)仲澄(鳥取支藩新田藩祖)生む。
元禄6年(1693)国元にて光仲が歿すると、「池上本門寺の聖人」を芝の屋敷に招じて落飾。
※芳心院妙英日春の法号は、万治3年(1660)以前に授けられていることが確認できる。(「瑶林院芳心院願経」)
2024/05/10追加: ○「大田区の文化財 第36集 大田区の史跡名勝天然記念物」大田区教育委員会、2008年3月 より 芳心院墓所・実測図
○芳心院墓所現況 芳心院万両塚 弥生式住居跡:いずれも2014/01/26画像追加
□江戸名所圖繪・萬両塚:五重塔背後に萬両塚が描かれる。
□芳心院墓塔1 □芳心院墓塔2 □芳心院墓塔3 □芳心院墓塔4 □芳心院墓塔5
□芳心院墓塔6:(芳心院)妙英日春大姉尊靈/(宝永)五年戌子年/(十一)月(二十)八日
□芳心院墓塔7:墓所には御門・石柵・堀・土塀が設えられた遺構が残る。
□宝塔内部出土品:法華経巻子本八巻・青銅製骨蔵器(現地説明板より)
□芳心院侍女の墓塔供養塔1 □芳心院侍女の墓塔供養塔2 □芳心院侍女の墓塔供養塔3
□芳心院墓所石門:再建されてたもののようで、元来の位置は不詳のようである。
□堤方権現台古墳:6世紀前半築造と推定、この塚の北に旧堤方村熊野権現(現・堤方神社)があったという。
2024/05/06追加: ●永寿院戸川逵安の墓塔(戸川家墓所)・・・未見
永寿院墓地に戸川家墓所があり戸川逵安の墓塔がある。<未見> 戸川逵安略歴 父:戸川秀安、母:石川晴清娘
永禄10年(1567)〜寛永4年12月25日(1628/01/31)
法号:不変院覚如居士、従五位下・肥後守、墓所は池上永寿院と備中妹尾盛隆寺
※父:戸川秀安の法号は自任斎枋授友林居士。慶長2年9月6日(1597/10/16)没、墓所備前藤木の常山麓にある友林堂。 なを、
戸川家墓所について 永寿院のサイトでは、
戸川家墓所は初代戸川逹安公の宝篋印塔とその正室、一族の墓所で、平成18年の調査では、甕棺に収められた土葬骨と、手鏡や紅皿など女性の副葬品が多数確認される。埋葬後墓石が移動され、被葬者が誰であるか正確には確認できない。
またブログ「ぶらり歴史旅一期一会」では、 墓は永寿院開基でもある初代達安と2人の娘のものだそうです、とある。 ○GoogleMap より転載
戸川逵安墓塔
戸川逵安墓塔正面銘: 寛永第四丁卯年 ※寛永4年は1627年
前(?)/戸川肥後守 不變院覺如居士 ※逵安の法名「不変院殿覺如日真大居士」という。 息男土佐守/起之 十二月弐五日畢(?)
戸川家墓所:手前の大きな宝篋印塔が逵安墓塔、奥は下記の息女の墓塔と思われる。
戸川逵安息女墓塔:「戸川肥後守■女/正法院殿日性神靈/■■■■起之」「寛永2年(1625)7月4日入寂畢」とあるので、逵安の息女の墓塔と思われる。
----------永寿院 終----------
◇心浄院: 本門寺3世日輪上人開創建、「大泉坊」と称す。あるいは佐渡在住で、日朗上人教化の小木氏が移住し当院を創建とも云う。
△池上心浄院
□池上心浄院2 □池上心浄院3
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
大経山と号す、元亨3年(1323)の創建、開山は大経阿闍梨日輪(両山3世)、開基檀越は小木氏。小木氏は宗祖佐渡配流の時、佐渡で日朗に教化され追従し池上に移住した小木出身という。
両山3世日輪が初めて住した庵室で、大泉坊と称する。当院2世日徳が後稟在世中に再建し、心浄院と改称する。
元禄年中、碑文谷法華寺が取り潰された時、不受不施を貫いた檀家が当院の檀家になったと伝える。
◇旧堤方村堤方神社 □旧堤方村堤方神社1 □旧堤方村堤方神社2
池上法養寺・池上心浄院の東に隣接する。現在の住所表示は池上である。
江戸初期に創建されたと伝える若宮八幡社(別當は妙雲寺)が起源という。明治42年堤方村にあった三所神社(江戸期には熊野社であったという)、十二神社(江戸期には十二天社であったという)、稲荷明神、境内の稲荷社を合祀、明治43年堤方神社と改称したという。要するに、明治の神道の国家管理に弄ばれた無数にある典型の神社というべきことか。あるいは国家権力が宗教に介入した結果、歴史が失われ、民衆が国家に動員されたということか。
◇法養寺 :天正15年(1587)神田三河町で創建、慶長元年(1596)下谷稲荷町に移転、明治43年当地の妙教庵と合併、翌年当地に移転。
△池上法養寺
□池上法養寺2 □池上法養寺3
天正15〜16年(1587〜88)妙経院日等により神田三河町に開創。
慶長年中(1596〜1615)下谷稲荷町に移転。法養寺は江戸城西御丸と大奥の祈祷所であったという。
明治43年池上本門寺寺中妙教庵と合併、翌年当地へ移る。妙教庵は仮談所で僧侶教育を行うという。また妙教庵は当地にあった蓮光坊が荒廃し、9代将軍家重に仕えた妙教尼が享保3年(1743)に再興したという。
江戸初期の製作と思われる日蓮聖人坐像が伝来するが、これは法養寺が将軍家の祈願所の関係から、4代将軍家綱の正室高巌院が寄進したと日蓮坐像と推定される。
◇東之院: 蓮華山、日持上人の庵室と云う。弘安5年(1282)の開創。江戸末期に、本門寺玄理坊と合併。
△池上東之院1 △池上東之院2
□池上東之院3 □池上東之院4 □池上東之院5
◇安立院: 慈性山、日澄上人の庵室と云う。旧地は裏門前で「上之坊」と称す。
元治元年(1864)再興。
近世末期近接の自澄坊を合併する。
△池上安立院1 △池上安立院2 □池上安立院3 □池上安立院4
◇廃玄理坊:慶安元年(1684)の創建で辻之坊と称す。総門の外の本成院の向いにあった。江戸末期に、東之院に合併。
◇廃妙教庵:寛延元年(1748)9代将軍家重に仕えた妙教尼が再興という。明治43年法養寺に合併。
◇廃成就坊:不詳、天文5年(1536)厳定院に合併。
◇廃宝樹坊:寛永元年(1624)西之院に合併。
◇廃妙玄庵:本門寺24世日等上人の隠居所であった。大正1
2年実相寺に合併。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
明治21年、寺中善講寺移転、朗慶山立善講寺として埼玉県志木市本町2−6−23に現存
明治11年、寺中妙寿院移転、鏡石山妙寿寺と称し岐阜県岐阜市加納八幡町22にありしも、近年廃寺となる。廃寺により本尊什宝類は岐阜県岐阜市加納伏見町16 法覚山妙泉寺に遷座。
明治36年、寺中坂本院移転、朗栄山本興寺として山口県宇部市西本町2−12−9に現存、明治開創の教会が、明治36年坂本院の寺号を移転、明治41年朗栄山本興寺と改称。
★池上本門寺紀伊徳川家墓所
2024/05/10追加: ○「大田区の文化財 第36集 大田区の史跡名勝天然記念物」大田区教育委員会、2008年3月 より
紀伊徳川家墓所立面図・平面図
紀伊徳川家墓所・立面図:向かって右から、1)松寿院宝篋印塔 から順次 8)霊岳院宝塔 までの墓塔である。
紀伊徳川家墓所・平面図
無印は2011/02/19撮影、□印は2023/05/25撮影 紀伊徳川家墓所 池上本門寺紀伊徳川家墓所
右から大型の石造宝塔が3基並ぶ。大型宝塔の向かって右から養珠院、中央が天真院、左が瑤林院の宝塔である。
養珠院左の一重塔が妙操院である。寛徳院および霊岳院宝塔は写真に写ってはいないが、写真左側にある。
池上本門寺宝塔北側の高台中段に紀伊徳川家墓所がある。
要するに紀伊徳川家江戸藩邸で逝去した婦人たちの墓所である。
□紀伊徳川家墓所1 □紀伊徳川家墓所2
向かって右から以下の8基の墓塔が並ぶ。
1)松寿院宝篋印塔;徳川頼宣息女松姫供養塔。延宝6年(1678)没。
「松寿院法栄日経大姉」 松平(鷹司)信平室。 寛永8年(1631)9月23日生。 □松寿院宝篋印塔1 □松寿院宝篋印塔2 □松寿院宝篋印塔3:「松寿院法栄日経大姉」
2)真空院宝篋印塔:徳川頼宣息、四歳で夭折。寛永13年(1636)没。 □真空院宝篋印塔1 □真空院宝篋印塔2 □真空院宝篋印塔3
3)養珠院宝塔:徳川頼宣生母(水戸徳川頼房生母、徳川家康側室)お万の方。蔭山殿。承応2年(1653)没。
「養珠院妙紹日心大姉」承応二癸巳暦(1653)八月二十一日。
※本墓は甲斐大野本遠寺(養珠院墓所の項を参照)にある。
※養珠院略歴、紀伊海禅院のページにも関係記事あり。
※紀伊養珠寺、水戸蓮華寺(現久昌寺)、玉澤妙法華寺などの檀越
養珠院宝塔1 養珠院宝塔2 養珠院宝塔3
□養珠院宝塔4 □養珠院宝塔5 □養珠院宝塔6 □養珠院宝塔7 □養珠院宝塔8
4)妙操院一重塔:徳川11代将軍家斉側室、六男斉順(のち紀伊11代)、峰姫(嶺寿院・水戸八代徳川斉脩正室)の生母。
お登勢の方。天保3年(1832)没。 □妙操院一重塔1 □妙操院一重塔2 □妙操院一重塔3: 「妙操院殿円譽性日良仁大姉」
5)天真院宝塔:紀伊徳川二代光貞側、伏見宮貞清親王姫・安宮。宝永4年(1707)没。83歳。
「天眞院殿妙仁日雅大姉(尊位)」両山23世日潤花押
天真院宝塔1 天真院宝塔2
□天真院宝塔3 □天真院宝塔4 □天真院宝塔5 □天真院宝塔6
6)瑤林院宝塔:徳川頼宣正室、加藤清正息女八十姫。寛文6年(1666)没。66歳。
瑤林院宝塔1 瑤林院宝塔2
※墓所:紀伊報恩寺(旧要行寺)
※瑤林院廟所がかっては京都本圀寺にあったが現存しない。 → 詳細は京都六条本圀寺を参照
□瑤林院宝塔3 □瑤林院宝塔4 □瑤林院宝塔5 □瑤林院宝塔6
7)寛徳院宝塔:徳川八代将軍吉宗室、伏見宮貞致親王姫・真宮。宝永7年(1710)没。 「寛徳院殿玄眞日中大姉尊靈」(文字剥落)
※本宝塔は瑤林院宝塔の左手奥にあり、見落としている。
8)霊岳院宝塔:紀伊徳川光貞三女、徳川吉宗姉・育姫。出羽久保田藩佐竹義苗室。元禄6年(1693)没。19歳。
「霊岳院殿日觀淨境大姉」 日玄花押
霊岳院宝塔1 霊岳院宝塔2
□霊岳院宝塔3 □霊岳院宝塔4
----------------------------------紀伊徳川家墓所・終---------
◎加藤忠廣供養塔・獻珠院墓塔 2012/01/21追加:
○『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2012 より
◇日乾上人授与瑤林院・身延日乾筆大曼荼羅:
身延日乾筆大曼荼羅:池上本門寺蔵、左端下に「瑤林院浄秀日芳」の法号が見える。
(「霊寳殿」池上本門寺、平成21年 より転載)
◇「亀姫」(獻珠院)墓所:
池上本門寺紀州徳川家墓所の下に「亀姫」(獻珠院)墓所があり、その脇には加藤忠廣供養墓がある。(未見)
おそらくこの設営は瑤林院の配慮であるのであろう。
※亀姫(獻珠院):加藤忠廣息女 2024/05/10追加:獻珠院墓所は確かに存在するようで、後日資料調査の上、更新する(↓)。
2024/05/18追加: ◎紀伊徳川家墓所下墓所(宝塔裏側墓所) >加藤忠廣供養塔・獻珠院墓塔・・・・・但し未見
池上本門寺紀州徳川家墓所の下、つまり日蓮荼毘所本門寺宝塔背後の墓地にある。この墓地は雑然と古墓が集積した墓地でこの中に「加藤忠廣供養塔・獻珠院墓塔」があるという。
獻珠院墓塔銘: 阿部四郎五郎政重氏女 南無妙法蓮華経 獻珠院玉寶日龍尼
寛文二壬寅六月二十二日 という。
池上獻珠院墓塔1 池上獻珠院墓塔銘1:以上の出典は『加藤清正「妻子」の研究』
池上獻珠院墓塔2 池上獻珠院墓塔銘2:以上の出典は「3Dモデル:献珠院(加藤忠広息女)の墓」 なお、この墓塔は福山水野家(家康の母方の家系)後裔で、加藤清正の研究家でもある水野勝之氏が”現代に”再発見するという。 参照:「加藤清正に妻子は何人」水野勝行<新聞記事であろうが、詳細は不明>
さらに、もう一つの発見がある。
(加藤清正一族及び宮本武蔵などの第一人者である)福田正秀氏が平成19年に再調査に訪れ、獻珠院墓塔の右手奥に左にやや傾き下部が土中に埋もれた、獻珠院墓塔より一回り小さい同形の墓塔に気付く。 墓銘を認知し加藤忠廣の墓塔(供養塔)であることを確認する。
この墓塔は娘・獻珠院を父が見守るように建つ。この様子から、この供養塔の建立者は不明ながら、紀州頼宣室・清正息女・瑶林院の配慮としか思えないのではないかという。
加藤忠廣供養塔銘: 承應二癸巳年 浄徳院殿最乗日原 閏六月八日
池上加藤忠廣供養塔1:出典「霊寶殿 池上本門寺の御霊宝と文化遺産」
池上加藤忠廣供養塔2:出典『加藤清正「妻子」の研究』、向かって右の写真が忠廣墓塔、
左の写真のタイトルは「獻珠院墓を見守るような忠廣墓」とあり、手前が獻珠院墓塔・奥が忠廣墓塔 ◇獻珠院:
加藤忠廣息女、母は法乗院(玉目氏)、亀姫、旗本阿部四郎五郎政重室 寛永9年(1632)生誕、父の改易に連座し、上野沼田に配流される。
明暦3年(1657)赦免される。25歳。
その後、阿部四郎五郎政重に嫁す。紀州徳川頼宣(正室は清正息女・瑶林院)重臣渡邊若狭守養女の身分で嫁す。 寛文2年(1662)歿、31歳。
◇加藤忠廣: 加藤清正息、母は正應院(玉目氏)、 慶長6年(1601)〜承応2年(1653)閏6月8日
※加藤忠廣供養塔・獻珠院墓塔及びその前提の加藤清正一族研究については次の3著(受贈図書中)が詳しい。
『加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2007
※加藤忠廣供養塔・獻珠院墓塔は第8章>3.獻珠院−父を慕いて にあり。
『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2012 ※加藤忠廣供養塔・獻珠院墓塔は第8章>6.忠廣の娘亀姫を救う にあり。 「加藤清正と忠廣」福田正秀、ブイツーソリューション、2019 ※加藤忠廣供養塔・獻珠院墓塔は第3章>11.公儀へ献金と赦免運動 にあり。
★池上本門寺墓所
◎車坂墓所
2024/05/18追加: ●白河阿部家墓所:浄光院墓塔/本浄院墓塔
車坂途中に星亨の墓塔があるが、その奥に白川阿部家墓所がある。 そして、この阿部家墓所に阿部正澄に嫁した清正息女古屋姫(本浄院)及び浄光院(加藤清正側室・古屋姫生母)の墓がある。
白河阿部家墓所: 白河阿部家墓所1 白河阿部家墓所2:
向かって左から3番目の笠塔婆が本浄院、4番目の宝篋印塔が浄光院墓塔である。 出典:ブログ:万遊歩撮>池上本門寺
境内墓地探訪 1 浄光院墓塔/本浄院墓塔 ◇浄光院墓塔銘 寛永第二乙丑年
肥後守九大妃 ※「九」は「旧」と解すべきか?、改易後の建立であり幕府に配慮か? 浄光院殿 日英俶神尼
六月廿二日 ◇本浄院墓塔銘:表面 阿部播磨守 南無妙法蓮華経 本浄院日昌神尼
大母碑誌也 本浄院墓塔銘:背面 先妃加藤氏者従四品肥後守清正之娘也嫁従五品阿部修理亮正純
以寛永四丁卯年八月十九日掩■命歳三十三回忌辰改築墳墓■表 寸丹 萬治二年巳亥八月十九日
孝子従五品阿部播磨守正能立
即ち、先の妃は加藤清正の娘であり、阿部正純に嫁し、寛永4年に歿し、33回忌である萬治2年阿部正能が墳墓を改築する。
墓塔の基壇下の石灯篭にも「先妃本浄院加藤氏法諱日昌」と刻する。
つまり、本浄院は清正の娘で(幕府老中を勤めた)阿部正能の生母であり、寛永4年(1627)に歿したことが判明する。
これを発見したのは水野勝之であるが、清正の娘・本浄院と清正の側室・浄光院の墓塔が相い並ぶ情景はこれは母子墓であること(浄光院は本浄院・あま姫の生母であること)を示している。
※外に、清正側室・竹之丸殿は浄光院で本浄院(その名はあま姫)である強力な新史料も発見され、この経緯は本著の第1部:加藤清正の妻子>第1章:清正の息女・名前の謎 で論じられている。
本浄院・浄光院墓塔:向かって右から、浄光院墓塔、本浄院墓塔、圓光院(↓)逆修塔、出典:「加藤清正と忠廣」
浄光院墓塔銘:出典:「加藤清正と忠廣」
本浄院墓塔銘:出典:『加藤清正「妻子」の研究』
本浄院等墓前石灯篭銘:出典:『続・加藤清正「妻子」の研究』
浄光院放置墓塔(↓):出典:『加藤清正「妻子」の研究』
なお、 圓光院墓塔:小さな逆修塔であるが、碑文の意味するところから、本浄院の乳母でなないかと思われるという。
銘については『加藤清正「妻子」の研究』>第5章:浄光院(菊池氏)と古屋姫(本浄院)を参照のこと。 最後に「解釈し難い」不思議な事実が一つある。
あと一つ別の「浄光院」墓塔(おそらく笠塔婆の身の部分)が、墓地の外れ(約10mほど)に放置されている。 銘は
寛永第二乙丑年 為浄光院殿日英俶靈尼 六月廿二日 である。
現墓塔との違いは「神尼」が「靈尼」であることと「肥後守大妃」などの肩書がないことである。
おそらくは、正能の改築前古屋姫が建てた元の墓塔と考えられるが、なぜ放置された状態であるのかは不明でsる。
※浄光院墓塔/本浄院墓塔及びその前提の加藤清正一族研究については次の3著(受贈図書中)が詳しい。
『加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2007
※浄光院墓塔/本浄院墓塔は第5章:浄光院(菊池氏)と古屋姫(本浄院) にあり。
『続・加藤清正「妻子」の研究』水野勝之・福田正秀、ブイツーソリューション、2012
※浄光院墓塔/本浄院墓塔は第3章:竹之丸殿(浄光院)とあま姫(こや」) にあり。
「加藤清正と忠廣」福田正秀、ブイツーソリューション、2019 ※浄光院墓塔/本浄院墓塔は第3章>12.放免と名誉回復 にあり。
◎五重塔北の墓所
●高松松平家・永昌院殿宝塔
永徳院:讃岐守6代高松藩主松平頼真正室、紀伊徳川宗直息女、薫姫、息・息女は授からず?。天明5年(1785)没。 「永昌院殿妙壽日量大禪尼」
2023/05/25撮影:
永昌院殿宝塔1 永昌院殿宝塔2 永昌院殿宝塔3 永昌院殿宝塔4
●徳川吉宗側室・本徳院殿宝塔
本徳院:8代将軍徳川吉宗の側室。古牟(こん)。 田安徳川家初代当主・徳川宗武生母、 「本徳院妙亮日秀大姉」元禄9年(1696)〜享保8年(1723)2月21日、28歳。 2023/05/25撮影:
本徳院殿宝塔1 本徳院殿宝塔2
●紀伊吉宗側室・深徳院宝塔 深徳院:紀州藩第5代徳川吉宗(後・江戸幕府8代将軍)側室、須磨(須摩)、9代将軍徳川家重生母。
「深徳院妙順日喜大姉」26歳、元禄元年(1688年)〜正徳3年(1713)10月24日。 2023/05/25撮影:
深徳院宝塔1 深徳院宝塔2 深徳院宝塔3 深徳院宝塔4
◎2003年頃五重塔の修復が行われ、その一環としての五重塔の周辺整備に伴い、出羽米澤藩上杉家・圓光院殿日仙榮寿大姉と肥後熊本藩細川家・清高院殿・高正院殿の墓所は調査が行われる。一部は墓所の移動も行われたようである。
●米沢上杉家・圓光院殿宝塔: 宝塔と思われるが、屋根・相輪もしくは笠は失われたものと思われる。
圓光院:紀伊2代徳川光貞息女、禰為姫、後栄姫、米沢藩4代上杉綱憲正室、
万治3年(1660)7月10日〜宝永2年(1705)閏4月26日。46歳。 「圓光院殿日仙榮寿大姉」
位牌は紀伊報恩寺と、上杉家菩提所・曹洞宗米沢林泉寺に安置。 2023/05/25撮影:
圓光院殿宝塔1 圓光院殿宝塔2 圓光院殿宝塔3
圓光院殿宝塔4:墓塔に前立する墓石であるが、その性格は不明。 圓光院殿宝塔5
●肥後細川家・高正院殿宝塔
高正院:熊本新田藩初代細川利重側室、肥後熊本藩細川氏5代宣紀生母、享保6年(1721)没。69歳。 「高正院妙泉日流大姉」
高正院は、当初、承教寺(本門寺末、港区高輪)に葬られ、明治43年に現在の清高院殿墓の西に改葬される。 2023/05/25撮影:
高正院宝塔1:向かって左の石積基壇は細川家・清高院殿墓塔基壇 高正院宝塔2
●肥後細川家・清高院殿宝塔
清高院:肥後熊本藩細川氏3代光尚の側室、4代綱利及び新田藩祖細川利重生母、宝永7年(1710)没。94歳。 「清高院日圓大姉」
2023/05/25撮影: 清高院と池上との関係を窺わせる興味深い記事(記録)あるので、参照を乞う。 【肥後高麗門正立寺中に記載しているが、
記事とは”ブログ:津々堂のたわごと日録>正立寺と清高院殿のページ”である。】
清高院殿宝塔1 清高院殿宝塔2:向かって左の墓塔は高正院殿宝塔 清高院殿宝塔3
●浩妙院殿十一重石塔
→池上本門寺日樹関係石塔中に掲載・・・但し、この石塔と日樹とは直接の関係はない。
◎五重塔西南の墓所
●因幡鳥取池田家・長源院殿宝塔 長源院:池田綱清正室。
○永寿院のサイト>「長源院の逝去と葬送」(http://www.eijuin.jp/News/view/13/253)には、次の解説がある。
元禄11年(1698)9月9日長源院没、世寿50歳。 長源院は鳥取藩2代藩主池田綱清正室、盛岡藩主南部重信の第一女、式姫。
※池田綱清は紀伊頼宣息女・鳥取藩主池田光仲室である芳心院第一子である。 ※長源院は南部重信とその正室・大智院の長女である。
長源院は品川本光寺に帰依し、毎年本光寺へ十人扶持の寄進を行う。 しかし、鳥取池田家では、墓所を本光寺とは別門流である池上本門寺に定める。
※この間の事情については鳥取藩藩政日誌『控帳』に次のようにあるという。
長源院逝去の時、藩主綱清は国元に在り、16日に長源院の逝去を知ると、翌17日には「奥様(長源院)御法事之儀、芳心院様、壱州様(池田仲澄)御伺御意次第仕様」にとの指示を送る。
その後、20日に江戸より「奥様(長源院)御寺之儀、兼池上本門寺御宗旨ニ候へ共、芳心院様思召寄付、従 若殿様、南部大膳様、同隼人様嘉村弥二郎ヲ以被 仰進候処、芳心院様思召次第ニ被成候様ニと御返答故、弥本門寺ニ相究リ、去ル十三日於本門寺御葬礼御執行之筈」と申し送りがある。
つまり、長源院の葬儀は国元にいる藩主の指示を待たず、江戸よりの使者が国元に到着する以前の13日に、「芳心院様思召」により、既に執り行われていたことになる。
その後、墓所管理は万両塚と同じく塔頭永寿院の管理に与るという。
さらに、この墓所には、後に長源院息女の遊姫(慶春院)も葬送され、芳心院の「万両塚」に対して、俗に「千両塚」と呼ばれる。
また、注目すべき事は長源院の墓塔は、万両塚と同じく本門寺山内では紀州徳川家関係者のみに用いられた石造宝塔の形式であることであろう。
2023/05/25撮影:
長源院殿宝塔1 長源院殿宝塔2
長源院殿宝塔3:「長源院殿日秀妙■(性か)大姉 元禄十一戌寅年(1698) 季秋上澣九蓂」
※上澣は上旬、九蓂は9日の意
●因幡鳥取池田家・慶春院殿宝塔
五重塔参道のなかば右側に位置し、「長源院」と娘「慶惷院」の宝塔が並ぶ。 慶春院:池田家4代(因幡池田家2代)綱清とその正室長源院息女。
※鳥取池田家初代光仲は3才の幼少で岡山藩31万5千石を受け継ぐが、山陽の拠点岡山は重荷であろうと、因幡鳥取32万石池田光政が岡山へ、光仲は鳥取へと領地替えになる。
2023/05/25撮影:
慶春院殿宝塔1 慶春院殿宝塔2:「慶惷院殿妙長日壽大師 正徳二壬辰年(1712) 六月二十二日」
◎五重塔西の墓所
●出雲母里松平家・本空院殿笠塔婆 本空院:松平直丘正室、細川綱利息女。「妙法 本空院殿日周高照大姉 元禄六癸酉年(1693) 三月二十日」 ※松平直丘(なおたか)は出雲母里藩2代藩主
※細川綱利は肥後熊本藩3代藩主 2023/05/25撮影: 笠塔婆高およそ4m
本空院殿笠塔婆1 本空院殿笠塔婆2
●西条松平家・法輪院殿笠塔婆
法輪院:伊予西条藩松平頼純の世嗣頼路正室、細川綱利息女。 「妙法 法輪院殿妙諦日深大姉 享保十四龍集己酉(1729) 四月十七日」
※伊予西条藩:寛文10年(1670)紀伊徳川頼宣の三男の松平頼純が、和歌山藩の支藩として、伊予西条に3万石で入封し、立藩する。明治維新まで存続。
※松平頼路:伊予西条初代藩主松平頼純の次男(正室の子・世嗣)として誕生。正室は細川綱利娘(法輪院)。
延宝3年(1675)に叙任するも、家督相続前の元禄11年(1698)に早世する。 2023/05/25撮影: 笠塔婆高およそ3.5m
法輪院殿笠塔婆1 法輪院殿笠塔婆2 法輪院殿笠塔婆3
★池上本門寺末寺
2016/03/06追加:K.G氏情報
「日蓮宗寺院大鑑」昭和56年などの資料から判明している、現存する末寺(孫末寺なども含む)数は次の通りである。
身延山 915寺、京都六条本圀寺 559寺、京都四条妙顕寺 320寺、中山法華経寺 316寺、池上本門寺 273寺、小湊誕生寺 174寺
その一端を示す。
○陸奥相馬中村仏立寺:小湊16世不受不施僧日領の建立。 →陸奥相馬中村仏立寺
○武蔵芝日本榎承教寺 →武蔵芝日本榎承教寺、池上門末触頭
○武蔵芝日本榎妙福寺:日本榎承教寺末、武蔵の諸寺中 ○武蔵下高井戸覺蔵寺 →<明治以降の多宝塔中799にあり>、武蔵の諸寺中 ○駿河府中妙像寺 →駿府附近の諸寺中
○山城北野法華寺 →山城の日蓮宗諸寺中 ○肥後高麗門正立寺 →肥後高麗門正立寺
2006年以前作成:2024/06/17更新:ホームページ、日本の塔婆
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