備 後 ・ 安 芸 ・ 周 防 の 日 蓮 宗 諸 寺

備後・安芸・周防の日蓮宗諸寺

備後の諸寺

備後新市本住寺:法華宗本門流
新市法華宗本住寺についてはほとんど情報がない。法華宗であり日隆門流であることは確かと思われるも、本能寺・本興寺に連なる寺院かどうかは不明である。
不明ではあるが、確率としては、八品派であることが最も高いと思われる。 →2016/11/02:本能寺末寺である。
2014/01/01撮影:
 新市本住寺門前     新市本住寺全容     新市本住寺山門1     新市本住寺山門2
 新市本住寺本堂1     新市本住寺本堂2
 新市本住寺堂宇:堂宇名不明、祖師堂か      新市本住寺堂宇内部
 新市本住寺日蓮・日隆碑     路傍の題目碑:本住寺北方路傍にある。日蓮大菩薩・日隆大聖人とある。年紀は不明。
2016/01/01追加:
備後には本門法華宗に属する以下の寺院がある。
 本行寺(福山市城見町2−2−14・・下に掲載)、大法寺(福山市本郷町761)、妙皇寺(福山市本郷町513)、
 妙得寺(尾道市原田町梶山田4291)、本成寺(三原市西町333)
さらに備後には法華宗(本門流)に属する以下の寺院がある。
 本安寺(福山市芦田町下有地1897)、本住寺(福山市新市町大字新市1126)、正瑞寺(福山市沼隈町能登原927)、
 立正寺(尾道市向東町彦の上911)、本覚寺(府中市中須町1407−1)、
 安芸立正寺(竹原市竹原町3157−1)、安芸立正教会(竹原市竹原町3692)※竹原は安芸であるが備後に接する。
以上のように、日隆門流に属する寺院がかなりの密度で分布する。
永享12年(1440)頃から、日隆上人は京畿、四国、中国各地を巡教・多くを感化したというので、おそらく備後の瀬戸内筋に日隆上人が巡教し、これらの感化の結果であろうと推測される。

備後府中晃永寺
大乗山と号す。本堂はRC造。巨大な自然石に刻む題目碑がある。
2019/04/30追加:
〇「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
昭和10年の創立、開山泰山院杉山日進(昭和37年寂)、開基瑞光院日晃(昭和39年寂)。
昭和25年名古屋法音寺に属し寺号を公称、同年10月日蓮宗府中教会として発足、昭和33年に晃永寺として、現在の地に確立する。
2011/12/10撮影:
 備後府中晃永寺本堂     備後府中晃永寺題目碑

備後福山実相寺
本堂は福山藩主水野家下屋敷を改築したもので、旧妙政寺本堂を移築という。また山門は神辺城城門を移築したものであり、境内西面には福山城東外堀石垣が移建されている。
法鏡山実相寺のサイトでは以下のように云う。(大意)
開山妙了院日達禅尼が「大黒尊天」を本尊とする庵をむすび、堂宇建立の誓願を立て諸国を勧進行脚する。途中、身延で無住の見照山實相寺を発見する。身延山参拝の折、第25世妙寂院日深上人に拝領を懇願し、許諾を得、備後吉津郷に寺号を持ち帰り、寛永10年(1633)堂宇を建立する。
その後、身延山より学禅院日逢上人を二世に迎える。
 現在の本堂は水野家下屋敷を改築したもので、妙政寺の旧本堂で、慶安5年(1652)の創建である。(棟札)
本堂は上田勘解由直定が實相寺を菩提寺とするにあたり、寛文6年(1666)今の地に移建する。なお、上田勘解由直定は開基檀越であるという。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
実相寺:見照山(元文の頃法鏡山と改む) 開山妙了院日達上人 身延山久遠寺
本堂 鐘楼 鐘銘 夫、備後國、深津郡、見照山、實相寺者、洛陽法鏡山妙傳寺末流也、・・・
三十番神  七面 題目堂
2016/01/01撮影:
 門前題目碑及び福山城東外堀石垣:題目碑は安永5年(1776)5月の年紀で、総高約3.3mの大型である。
 これは寛政10年(1798)水呑妙顕寺仁王門下に角柱法界石(総高約3.8m)が建立されるまで藩内最大のものであった。
 参道題目碑1     参道題目碑2     実相寺山門1     実相寺山門2
 境内題目碑     墓地題目碑     実相寺鐘楼門
 実相寺本堂1     実相寺本堂2     実相寺本堂3     実相寺本堂4
 実相寺庫裡客殿     実相寺庫裡     実相寺保育所入口
 実相寺七面堂1     実相寺七面堂2     実相寺手水舎     実相寺井戸舎

備後福山妙政寺
  及び末寺恵了坊・守妙院
○妙政寺のサイト「備後妙政寺の縁起」では以下のように云う。
備後福山藩二代藩主水野美作守勝俊公の菩提寺である。長久山と号する。
二代目藩主水野勝俊は大檀那となり、絶大なる外護をする。そのため備後三山(水呑妙顕寺、熊野常国寺)の一画を占め、隆盛する。
○PDF文書「長久山妙政寺史」では以下のようにいう。
福山城北の地吉津町にある。京都妙傳寺末である。
妙政寺は天正年中(1573-)三河刈屋にて、水野藩筆頭家老上田玄蕃の祖父 「上田無甚斉正勢大居士」(大乗院殿功徳無甚斉正勢道源日輪大居士)により創建される。
寛永5年(1628)恕正院日宥上人(開基、第一世、中興)代、三河より福山寺町の地に移転。
寛文6年(1666)水野家家老上田玄蕃が北吉津町(現在地)に寺地を拡張して移転。この時本堂は実相寺に移建される。
二代藩主水野勝俊は大檀越であり、大いなる外護を加える。
江戸期は62石15人扶持を受ける。
末寺は2ヶ寺あり。
 ●恵了坊:境内東側角地(現在は森田氏宅地)。上田玄蕃開基、恵明院日行上人開山。現在は妙政寺と合併するも、寺号は呉市法華寺として現存する。
 ●守妙院:かって福山市川口町1835にあり、現在は産業道路となり石碑がある。昭和46年妙政寺に合併、現在妙政寺内に守妙院の小宇が建てられている。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
妙政寺:京都妙傳寺末
本堂 勝俊公御霊屋(勝俊公位牌並殉死7人の位牌、釈迦の千体仏を安す。) 鎮守 三十番神
2019/04/30追加:
〇「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
江戸初期(1603-)の創立、開山恕正院日宥(寛文11年寂)。達師法縁。
2019/04/26追加:
〇仁王門前題目碑・・・写真は下に掲載
北吉津町妙政寺(福山二代城主水野勝俊の菩提寺)の山門前には総高約4.6mで、「文化丁丑夏(14年・1817)四月」と刻する題目碑がある。これは建立された当時、福山藩領では最大の角柱法界塔であった。
 (この妙政寺題目碑の建立前は、寛政10年(1798)水呑妙顕寺仁王門下に建立された角柱法界石(総高約3.8m)が福山藩領最大のものであった。)
なお、その後、天保2年(1831)山田常國寺が山田三ヶ村の檀家の総力を結集して、妙政寺の題目碑を凌ぐ題目碑(総高4.7m、高さ3.2m)を建立したため、その座は常國寺に移る。
 →以上の経緯は備後水呑浜題目碑(大法界)>題目石の大型化競争を参照。
2016/01/01撮影:
 仁王門前題目碑     妙政寺仁王門     妙政寺仁王像1     妙政寺仁王像2     妙政寺山門を望む
 妙政寺山門1     妙政寺山門2      妙政寺本堂1     妙政寺本堂2     妙政寺本堂3
 水野位牌堂1     水野位牌堂2: 水野勝俊御霊屋、背後に写る大屋根が位牌堂(釈迦堂)である。
 妙政寺鐘楼       妙政寺守妙院:観音堂と称する。      妙政寺庫裡書院

備後福山長正寺
高光山長正寺のサイトでは以下のように云う。(大意)
高光山と号す。六条本圀寺末。
慶長5年(1600)頃、播磨尼崎にて正行院日具上人により開山される。
承応元年(1652)妙了院日達比丘尼を再建の願主とし、福山藩水野家筆頭家老上田玄蕃直重の三男、当山開基檀越上田陣之丞(俊光院殿道智日照居士)により尼崎より現在地へ移転。
なお、昭和20年8月8日の福山大空襲の災禍を免れる。従って山門・妙見堂は江戸初期のものであるが、本堂は昭和54年造替する。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
長正寺:高光山 開山(記入欠く) 京都本圀寺末。
鐘 享保9年・・・
2016/01/01撮影:
 長正寺山門・題目碑     長正寺境内     長正寺本堂     長正寺妙見堂
 長正寺庫裡     長正寺五輪塔     長正寺三重石塔

備後福山本行寺:本門法華宗
本門法華宗というから、京都妙蓮寺に属すると思われる。(推測)
情報は全くなし。
2016/01/01撮影:
 本行寺全容:山門・本堂・庫裡が写る。      本行寺本堂
 

備後福山光政寺

福山市寺町。樹榮山と号する。
開山は智善院日凰上人。上人は水野勝成に従い、三河刈谷一乗寺から備後に入り、元和6年(1620)当寺を開く。
昭和20年8月8日、先の世界大戦による米軍大空襲で本堂庫裡など諸堂宇灰燼に帰す。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
樹榮山 開山 智善院日鳳上人 京都妙覚寺
日鳳は大念寺の大誉と碁の友にて・・大念寺の門内を借りて寺を建てしむ。故に寺内甚だ狭し。水野家臣上田玄蕃家来木村八太夫光政という者、大檀那となりて建立しける故、光政寺と号す。
本堂 祖師堂 鐘
2019/04/15追加:
 開基は福山初代藩主水野日向守勝成。開山は智善院日鳳聖人(寛永21年/1644遷化。)
もと三河刈谷の一乗寺であったが、元和6年(1620)水野家の家臣木村八太夫光政が日鳳を迎えて当地に移転建立する。
福山藩水野家筆頭家老上田玄蕃は北吉津の妙政寺を移建、さらに実相寺を開くが、木村八太夫光政はその上田氏の家臣であった。
第6世は覺隆院日通(元禄12年/1699寂)、青山喜八郎の外護を得て、伽藍を整備・中興する。
なお、日通は不受不施の禁制下、不受不施を貫く。備中日指庵主、備前唯紫庵開祖(備前妙善寺第10世)である。
 →備前妙善寺、唯紫庵系譜は左記の妙善寺中にあり。
 →日通については備前法華の系譜中に多数記述あり。(日通にて検索すべし)
昭和20年福山空襲で、祖師堂・本堂・庫裡などを全焼。
昭和21年仮本堂・庫裡を再建。
昭和35年加茂町粟根妙永寺本堂を受贈、移建(解体・再建)する。平成4年左記の木造本堂を改修。
平成13年、福山市深津高地にある法界碑(青山喜八郎が発揮人か)などを光政寺境内へ移設、歴代上人墓の整備、日通上人墓・青山喜八郎墓の移設を行う。
2019/04/15追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
戦災被災前は5坪ほどの祖師堂があった。
青山家の先祖宗祐院が霊夢を見、岡山に赴くと、仏具屋に日蓮日朗日像の三菩薩像があり、それを買い求め、祖師堂を建立して安置したという。三菩薩像は妙永寺に疎開していたため、被災を免れ、移建された妙永寺本堂(現光政寺本堂)に安置されている。
2025/01/03追加:
〇「Wikipedia」 より転載
 開山 智善院日鳳聖人 寛永20年10月26日寂、1643
 2世 了恵院日達大徳 正保4年1月15日寂、1647
 3世 秀山院日性大徳 明暦2年3月20日寂、1656
 4世 住信院日惠大徳 寛文2年5月25日寂、1662
 5世 哲道院日具大徳 寛文9年11月11日寂、1669
 6世 覺隆院日通大徳 元禄11年11月18日寂、1698、備中日指庵、備前唯紫庵開基、備前妙善寺10世
      当時の光政寺及び日通の動向は不明であるが、不受不施派が禁制とされる中で、
      おそらく日通は出寺し、備前・備中方面に潜伏したものと思われる。
 7世 本成院日舟聖人 宝永3年1月21日寂、1706
 8世 鏡智院日軫聖人 正徳元年12月7日寂、1711
 9世 心是院日輝聖人 元文4年9月25日寂、1739
10世 一乘院日傅聖人 享保19年1月8日寂、1734
11世 等澍院日注聖人 元文3年8月5日寂、1738
12世 智承院日照聖人 天明8年3月13日寂、1788
13世 定光院日完聖人 宝暦12年8月23日寂、1762
14世 唯誠院日辰聖人 文化2年7月13日寂、1805
15世 慈雲院日潤聖人 文政12年5月14日寂、1829
16世 自應院日光聖人 嘉永3年4月7日寂、1850
17世 泰量院日慇聖人 明治3年6月13日寂
18世 泰通院日巡聖人 明治40年6月12日寂
19世 妙信院日輝聖人 大正5年3月1日寂
20世 慈舟院日英聖人 大正6年4月3日寂
21世 本妙院日高聖人 昭和5年12月18日寂
22世 通玄院日長聖人 昭和28年1月23日寂
23世 泰享院日意聖人 平成13年12月1日寂
2016/01/01撮影:
 門前題目碑:天保2年(1831)年紀
 境内題目碑     光政寺本堂1     光政寺本堂2     光政寺庫裡
 

備後福山妙法寺
福山城築城以前は野上(福山市)にありしが、元和6年(1620)城下南側(神島町)に移されたという。神島町では安楽寺が対面にあったという。承応年中(1652-55)に城下南東に移されたという。
 ※水呑妙顕寺の末寺と確認できないので、おそらく京都四条妙顕寺末であろうか。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
 妙法寺:本性山、開山;本性日乗法師
往古、水呑村法華一乗兄弟のもの、日像師の教誨によりて、兄一乗、水呑村に一宇を造立して妙顕寺と号し、弟日乗野上村に一宇を建立して妙法寺と号す。当時三迫氏の屋敷より石橋迄の間、昔の寺跡なり。当城成就の後本迹院日意、此所に移す。本性より日意までの間は道心者など住して定まりたる住僧なかりしと。今の寺地の邊は民家も無く渺々たる平田なり。宗休公眺望し給ひて・・・(中略)・・・市中の寺とハなり侍り。
鐘楼 鐘 銘なし。奉寄進 備後國福山 意雲山妙法寺云々 とあり、この時まで意雲山といひけるか。・・(本性が開基であることを證とするため)本性山と改め、柳津妙蔵寺に山号を譲りて、意雲山妙蔵寺と号す。
本堂 三十番神 七面・鬼子母神・大黒
○藤川武子氏回想(続福山空襲の記録に収録)では次のようにいう。
 母は「妙法寺が燃えた時は、ものすごくきれいな火で燃えた。あんなのは今まで見た事もなかった。」と話したこともありました。妙法寺さんも、お寺の門だけは焼け残った様でした。
2016/01/01撮影:
 妙法寺全容     妙法寺山門:被災を免れた山門と思われる。
 妙法寺本堂1     妙法寺本堂2     妙法寺本堂3     妙法寺本堂4     妙法寺本堂5     妙法寺本堂6
 本堂前三尊像     妙法寺庫裡
 2019/04/25追加(撮影は2016/01/01)
  妙法寺には、北吉津実相寺と同じ総高(3.3m)で、年紀は「亨和三大戴癸亥(1803)七月二日」の題目碑(角柱塔)がある。
  当日、妙法寺は山門を閉じ、境内に入ることができず、題目碑そのものを対象にした写真はなし。
  妙法寺題目碑1     妙法寺題目碑2

備後最上稲荷山福山支院(最上講社 福山明照庵)
福山支院縁起では次のように云う。
備後福山藩阿部氏家臣に最上位経王菩薩を信仰する一団があり、最上武士団と称せられたという。
その最上位経王菩薩を祀る社殿は藩士佐野氏の屋敷内にあったが、幕末の頃佐野氏当主が逝去した折、その嗣子は幼少であった爲、武士団は協議の上、社殿を佐野氏邸から佐藤嘉衛門の屋敷内に移すことを決する。これが現在の福山支院のある地である。
明治維新後は武士団(士族)だけでなく、一般市民の信者も得て、田畑なども寄進され、隆盛となる。
昭和20年戦災で社殿は焼失、農地解放や戦災都市計画で境内は縮小され、小詞が石の上にあるだけの廃墟となる。
昭和38年復興の機運が高まり、社殿の再興と最上稲荷教総本山妙教寺の傘下に入る事を議し、昭和41年社殿を再興し、最上稲荷教総本山妙教寺福山支院となる。
妙教寺では「最上講社福山明照庵」と登録がある。
 ※最上稲荷教は平成21年身延山に復帰する。現在は最上稲荷宣師会に衣替えをし、組織化されているようであるので、現在では最上稲荷宣師会の講社ということであろうか。
 ※なお、備後福山藩の藩主は以下のよう変遷する。
元和5年(1619)福島正則改易、水野勝成が10万石で備後福山に入封される。
元禄11年(1698)水野家無嗣断絶、一時天領となる。
元禄13年(1700)松平忠雅が10万石で福山に入封。
宝永7年(1710)松平忠雅は転封、阿部正邦が10万石で入封。廃藩置県まで阿部氏が統治する。
2016/01/01撮影:
 最上稲荷福山支院全容     最上稲荷福山支院境内     最上稲荷福山支院本殿

備後福山最上教会
全く情報なし。
現在では身延山に属すると思われる。おそらく最上稲荷教に属する寺院であったが、平成21年最上稲荷教が身延山に復帰するに伴い、身延山に属するようになったのであろうと推測される。
2016/01/01撮影:
現在は本堂(本殿/経王殿か)と経王殿の扁額を掲げる鳥居と庫裡、その他の小詞・数基の題目碑が市街地の中に異質な空間を作って存在する。
 最上教会全容     最上教会鳥居・本堂・庫裡     最上教会本堂
 最上教会題目碑1     最上教会題目碑2     最上教会題目碑3     最上教会小詞

備後福山通安寺
桃林山と号する。備後熊野常国寺末。
○「備後叢書. 第3巻」得能正通 編、備後郷土史会、昭和3年
 通安寺:開山(記入欠く) 山田常國寺末
本堂 祖師堂 三十番神 七面 鐘楼門(毘沙門、廣目天を左右に安置す)
(以下大意)渡邊四郎左衛門景といへる人、毛利の幕下にて当國山田の城主なり。毛利輝元、石田三成の一味なりける故、・・・漂泊の身となりて濃州へ退去す。男子5人あり、・・三男日保上人・・。(四郎左衛門は隠居し)月毎に京都本法寺に詣で、日通上人の御教誨を聴聞・・する。
(慶長8年、日通上人は四郎左衛門の月毎の上洛を気遣い、美濃で本法寺の参篭と同一の効能を発揮するように、桃林山通安寺という寺号山号並びに曼荼羅などを授ける。)
元和5年水野勝成、備後に入府、四郎左衛門の男子をいずれも召し抱えられ、日保は水野家臣上田玄蕃の崇敬にて常國寺に院住す。四郎左衛門については、美濃に留まるとの意向を説得し、寺号山号があるならば、所望の地を与える由、寺を開くべしと仰せられる。四郎左衛門大いに喜びて、即ち今の地を申し受け、当寺を建立し暫く住居しけるが、後には日香を住せしむ。
開山上人については、俗人を開山とは致しがたく、鼻祖日通上人、二祖日香大徳と称するなり。また日保が常國寺にある故、おのずから常國寺の末となりたる。・・・
2016/01/01撮影:
 通安寺山門     通安寺山門・庫裡     通安寺本堂1     通安寺本堂2
 通安寺本堂内部     通安寺本堂七面天女像     通安寺鐘楼


備後水呑・草戸・田尻など

備後草戸中ノ丁四ツ堂(地蔵堂)
現地説明板などを要約すれば、以下のようである。
四ツ堂とは辻堂であり、ここ中ノ丁の四ツ堂は三叉路に建つ。この三叉路は鞆、瀬戸、府中に通ずる交差である。
この四ツ堂は地蔵菩薩を祀る。また四ツ堂に接して北側には観音堂があり、十一面観音菩薩を祀る。明治33年の修理棟札に文政12年(1829)の記録があるが、この堂の設立時期は不明である。
なを備後には今なお多くの辻堂(四ツ堂)が残るようである。備後の辻堂は初代福山藩主水野勝成が整備したという。
2016/01/01撮影:
ここから瀬戸に通ずる半坂に寄り道をして、鞆道を鞆方面に向かい、水呑の南端まで散策する。
 中ノ丁四ツ堂     中ノ丁観音堂

備後草戸半坂三十番神ノ社
半坂鳥越の北側の山麓にあり。
現地説明板によれば、もとは草戸内洲に祀ってあったが、寛文13年(1673)に現在地に再建という。常夜燈の年紀は文政2年(1819)とある。また番神の社の下側には日蓮宗信者の墓所であ って、多くの墓碑が建つ。
2016/01/01撮影:
拝殿内部には三十番神札、法華経曼荼羅、「妙宗三十番神 略縁起」額及び多くの絵馬が掲げられる。
法華経曼荼羅や日蓮宗信徒の多くの墓が取り囲むなどの状況から、本三十番神は法華経守護の三十番神であり、日蓮宗に属する番神堂と判断される。、
 半坂三十番神堂参道石階   半坂三十番神堂拝殿   半坂三十番神堂拝殿内部1   半坂三十番神堂拝殿内部2
なお、南側の丘の山頂に半坂妙見社がある。

備後草戸半坂妙見社
 →備後の妙見社の項

備後草戸下ノ丁題目碑
ここには下ノ丁地区の6点の石造物が集められている。
2016/01/01撮影:
 下ノ丁題目碑:享保4年(1719)年紀でかなり大型である。      地神1・金毘羅山常夜燈・題目碑:左端が題目碑
 下ノ丁道しるべ:「左みのみ ともつみち(左 水呑 鞆津道)」とある。
その他に、地神2、井戸傍の石碑が集められている。

備後水呑洗谷宝山妙見山(金鶏山妙見教会)
 →備後の妙見社の項

備後水呑洗谷法界題目碑
◇天保7年洗谷題目碑
洗谷松尾大明神に至る手前に題目碑と六字名号碑(南無阿弥陀仏)が並んである。
2016/01/01撮影:
 天保7年洗谷題目碑:天保7年(1836)年紀
なお、洗谷が芦田川に排水する附近にもう一基の題目碑<未見・文化9年/1812>がある。
◇文化9年洗谷題目碑
2017/12/10撮影:
上記の文化9年(壬申・1812) 年紀の洗谷講中建立の題目碑を実見。
 文化9年洗谷題目碑1
 文化9年洗谷題目碑2:年紀は「文化九壬申歳四月吉日」と刻み、反対側面には「洗谷講中」と刻む。

備後水呑洗谷松尾大明神(前夜祭)
心ならずもかあるいは自ら進んでかは微妙な問題なのであろうが、社頭鳥居の背後に今次大戦の修了まで猛威を振るい、そして戦後70年経過してもいまだに清算できない国家神道のスローガンが睥睨する、どの地の神社でもよく見られる光景がある。
それはさておき、この社の案内石板に「宝暦6年(1756)創建、前夜祭には信者相集い御題目を唱え、・・・」とある。
おそらく水呑に鎮座するこの松尾明神の信者は大部が法華宗信者でもあるという複合的な構造であるということを示すのであろう。
2016/01/01撮影:
 松尾社社頭     松尾社国家神道スローガン

備後小水呑荒神社境内題目碑
題目碑が一基ある。詳細は不明。
2016/01/01撮影:
 小水呑荒神社境内題目碑
この題目碑から街道を南東に2町程進めば、清水池に至り、その傍らに一基の題目碑<未見・延宝2年/1674年紀>がある。
なお、この荒神社に水呑薬師が合祀されている。但し、由来は不明。
現地説明板によれば、荒神ノ社に合祀する。背面には水呑妙顕寺23世日純上人<享保9年/1724寂>の銘がある。
2016/01/01撮影:
 小水呑荒神社:手前から題目碑、地神、荒神社拝殿、本殿
 小水呑荒神社拝殿内部     小水呑荒神社本殿内部:向かって左が水呑薬師如来像

備後水呑小水呑妙見
 →備後の妙見社の項

片山最上稲荷<未見>
小水呑妙見と水呑妙見の中間付近の山麓にある。
ページ「水呑町ー山之神」では
万延元年(1860)備中高松最上位経王菩薩を勧請、妙観大菩薩及び清正公を合わせ祀る。開眼は水呑妙顕寺36世日修上人。
明治の神仏分離の処置で神社に改竄される。
※掲載写真で見ると、五重小塔(相輪は見えない)ような構造物が見えるが、実際はどのような構造物であろうか。

備後水呑妙見大菩薩
 →備後の妙見社の項

備後水呑妙顕寺
妙顕寺沿革:
  ※水呑妙顕寺以下水呑六ケ寺の寺歴はページ「水呑町の六ヶ寺」による。
 水呑妙顕寺は、延文元年(1356) 日像上人を開山、一乗妙性上人(刀匠・三原一乗)を開基として創建される。
そもそも、大覚大僧正は中国筋を弘教、鞆の津に「法華堂」(現在の法宣寺)を建立する。
当時、鍛冶・三原家の「妙性」「本性」の兄弟は水呑に住していたが、法華堂にて大覚大僧正に教化される。
大覚大僧正は他の地の弘教に旅立つが、妙性、本性兄弟はさらに教えを求め、妙顕寺日像上人に師事し、度々水呑から上洛する。そして、ついに一寺建立を誓願し、自からの持山に寺院を建立する。この寺院が水呑妙顕寺の基である。
 以上の経緯より、水呑妙顕寺は開山を日像上人・二祖を大覚大僧正・三祖を一乗妙性上人として開創される。さらに寺号も京都妙顕寺と同名の「妙顕寺」とすること及び「西龍華」の称号をも許可される。また山号は開基妙正を冠する「妙性山」とする。
なお弟の本性上人は「本性山妙法寺」を創建する。
爾来、本寺は西国筋の教化の中心となり、水呑では「水呑千軒皆法華」の中心寺院となる。
末寺は16ケ寺を有する。(水呑玉泉寺、水呑寿泉寺、水呑玄祥寺、水呑善住寺など、その他の名称は把握していない。)
歴代の内、18世本迹院日意上人は(水呑玉泉寺、水呑寿泉寺、水呑玄祥寺など新寺十ケ寺建立、 29世龍雄院日叡上人は新寺五ケ寺建立と伝える。
○「広島県沼隈郡誌」広島県沼隈郡編、先憂会、大正12年 より。
末寺八個を有する。
 水呑玉泉寺※、水呑寿泉寺※、水呑玄祥寺※、水呑善住寺※、山南本光寺、柳津妙蔵寺(松永)、郷分北辰庵(現在は麓に降り、北辰教会と称する)、水呑金鶴山※(金鶏山の誤であろう)之なり。
○備後水呑妙顕寺境内図
 備後水呑妙顕寺境内図:ページ「水呑町の六ヶ寺」から転載
2016/01/01撮影:
 妙顕寺門前題目碑:寛政10年(1798)年紀
 仁王門:延宝4年(1676)再建、明治12年本堂前より現在の地に移建。
 妙顕寺仁王門1     妙顕寺仁王門2     妙顕寺仁王門3     妙顕寺仁王門4
 妙顕寺黒門1:向かって右は玉泉寺、左は 寿泉寺     妙顕寺黒門2     妙顕寺黒門3
  参道題目碑:元禄9年(1696)年紀     参道五輪塔
 本堂:享保9年(1724)再建
 妙顕寺本堂1    妙顕寺本堂2    妙顕寺本堂扁額    本堂前三尊像:妙顕寺開創 650年記念、平成18年建立。
 本堂前堂宇:堂宇名不詳      妙顕寺位牌堂1     妙顕寺位牌堂2     妙顕寺客殿     妙顕寺庫裡
 妙顕寺鐘楼:寛永12年(1635)再建、昭和23年現在地に移建。
 妙顕寺鬼子母神堂1     妙顕寺鬼子母神堂2:中央鬼子母神、左本堂、右鐘楼
 妙顕寺七面堂:<未見>、写真中央左が七面堂

 ○玉泉寺・寿泉寺・玄祥寺俯瞰:大屋根が4ツ続くが、左から玉泉寺本堂・寿泉寺本堂・同庫裡・玄祥寺本堂である。

備後水呑玉泉寺
妙性山と号す。寛永2年(1625)水呑妙顕寺18世日意上人により創建される。水呑妙顕寺↑末あるいは妙顕寺寺中。
中古は観行院、観正簿王、卓肇坊等の名に変わるという。
2016/01/01撮影:
 玉泉寺山門     玉泉寺本堂1     玉泉寺本堂庫裡     玉泉寺本堂2     玉泉寺俯瞰

備後水呑寿泉寺
法雲山と号す。正保4年(1647)妙顕寺18世日意上人によって創建される。水呑妙顕寺↑末。
興善院、寿仙坊から現在の名称に至る。
2016/01/01撮影:
 寿泉寺見上げ     寿泉寺山門1     寿泉寺本堂1     寿泉寺本堂2     寿泉寺山門2
 寿泉寺俯瞰1       寿泉寺俯瞰2

備後水呑玄祥寺(玄祥坊)
妙性山と号す。元和7年(1621)妙顕寺18世日意上人によって創建される。水呑妙顕寺↑末あるいは妙顕寺寺中。
智閑坊、玄祥坊から現在の名称に至る。
2016/01/01撮影:
 玄祥寺寺門     玄祥寺本堂     玄祥寺本堂・庫裡     玄祥寺俯瞰

備後水呑善住寺
安立山と号する。永正9年(1512)水呑妙顕寺住職重兼律師によって創建される。水呑妙顕寺↑末。
本堂は慶応3年(1867)再建。
2016/01/01撮影:
 善住寺全容     善住寺題目碑     善住寺参道石階     善住寺山門1     善住寺山門2
 善住寺本堂:本堂は近年に造替か。      善住寺本堂・庫裡
 善住寺三十番神堂     善住寺三十番神像     三十番神堂脇題目碑

備後水呑重顕寺
清光山と号す。大本山四条妙顕寺末。
重顕寺はもともと真言宗であり、戒善院日行上人によって応長元年(1311)に創建されたという。
ところで、日行上人の師兄は実賢であり、この実賢は山城乙訓郡鶏冠井の真言宗真言寺の住持であった。徳治2年(1307)土佐幡多に流される日像上人は途中鶏冠井の真言宗真言寺に於いて実賢と法論に及び、実賢を論破、実賢は日蓮宗に改宗し、真言寺を真経寺と改号する。
おそらく、師兄の実賢の改宗に倣ったのであろうか、元徳2年(1330)重顕寺も日蓮宗に改宗する。
この故に重顕寺は備後に於ける最初の日蓮宗寺院となるという。
○「広島県沼隈郡誌」広島県沼隈郡編、先憂会、大正12年 では
応長元年(1311)日行の開基にして当時は真言宗なりしを、徳治元年(1606)日行京都に遊び、偶々日像菩薩と法論の結果法理心府に徹し遂に帰服す。
帰国の後、・・・徳治3年年旧宗を改め法華宗となる。応長元年(1311)現今の地に一宇を創立し重顯寺と称す。
2016/01/01撮影:
 重顕寺門前題目碑     重顕寺山門1     重顕寺山門2     重顕寺参道石階1     重顕寺参道石階2
 重顕寺本堂1     重顕寺本堂2
 重顕寺祖師堂?・庫裡     重顕寺祖師堂?:祖師堂かどうかは不明、客殿かも知れない。
 重顕寺鬼子母神     重顕寺宝蔵     重顕寺鐘楼     開基日行上人墓碑

備後水呑中村題目碑
安政3年(1856)年紀の題目碑が一基ある。
この題目碑に並んで、近年(平成20年か)まで大型の題目碑があったようで、「法界石塔跡」石碑が残る。この題目碑はこの地から西方100mほど離れた水呑西の井上記念館入口付近に移設と思われる。
2016/01/01撮影:
 水呑中村題目碑

水呑浜題目碑(大法界)
大法界と通称する大型題目碑が一基ある。天保4年(1833)年紀

題目石の大型化競争
〇サイト:備陽史探訪の会>福山地方の日蓮宗文化財>法界石の大型化競争 より
 江戸末期福山藩領(城下、水呑、鞆の浦、山田)では題目石の大型化競争が行われたという。
 寛政10年(1798)水呑妙顕寺仁王門下に角柱法界石(総高約3.8m)が建立される。
これは城下実相寺や妙法寺の法界石を抜き、福山藩領最大のものとなる。
  →城下実相寺・妙法寺は上に掲載。
 文化14年(1817)城下妙政寺が同じく角柱法界石(総高約4.6m)を仁王門前に建立し、大きさの首座となる。
しばらく、妙政寺の首座は揺るぎないものであった。
  →城下妙政寺は上に掲載。
 天保2年(1831)山田常國寺は山田三ヶ村の檀家の総力を結集して(総高4.7m、高さ3.2m)建立する。
この常國寺の題目石の大きさの首座は暫く続くものと思わた。
  →備後山田常國寺
 ところが、財力のある鞆の浦では40余名が中心となり、翌年である天保3年(1832)総高5m弱の題目石を建立し、大きさの順位で第1位となる。
  →この題目碑は「備後鞆の浦第二分岐題目碑(御幸町入口題目碑)」として下に掲載。
 しかしながら、今度は水呑の法華信者が、村高は山田三ヶ村の村高の半分くらいであったが、山田と鞆の浦の新造題目石を凌駕する法界石の建立を企図する。
 天保4年(1833)水呑の中心「浜の札場」横に自然石の題目石(総高約6m)を建立する。この後、これを凌駕する題目石は出現しなかった。(水呑浜題目碑<大法界>)

水呑西題目碑
水呑中村に大型の題目碑があり(写真が残る)一基あり、近年(平成20年か)移転されたようである。法界石塔跡の石碑が設置されている。移転先は旧地(水呑中村)から西方100mほどの井上記念館入口付近であろうか。この題目碑の年紀は安政3年(1856)である。
水呑西水呑八幡宮
明治の神仏分離以前は水呑妙顕寺が別當であった。この時の神体は妙顕寺に勧請された三十番神の木像中の八幡大菩薩を祀ったものであったという。

水呑鍛冶屋題目碑
題目碑(三分坂附近か?)が一基ある。慶応4年/1868年紀、日朝上人
水呑鍛冶屋松尾神社
(位置不明)葛城駅東方にあった妙見大菩薩を合祀
水呑鍛冶屋大覚堂
旧鞆鉄葛城駅東にあり。元の鍛冶屋妙見大菩薩の跡で、この地に備中軽部大覚堂(→軽部大覚寺)」の信者が多く、明治16年に法塔を建て、大正10年新堂を建立する。境内に常夜燈(左右に日蓮大菩薩、妙見大菩薩と刻む)がある。また大覚大僧正碑(法塔のことか?)もある模様である。

水呑竹ヶ鼻最上稲荷社
(位置不明)
水呑竹ヶ鼻日蓮大菩薩碑
(上記の最上稲荷社の入り口にあり)
水呑竹ヶ鼻題目碑・日朝上人碑・常夜燈
(位置不明)
 題目碑:延享2年/1745、竹ヶ鼻題目講、日朝上人碑:宇多家に祀られていたが、現地に移設、常夜燈:左右に日蓮大菩薩、妙見大菩薩と刻む。

備後田尻顯應寺
「広島県沼隈郡誌」広島県沼隈郡編、先憂会、大正12年 より
四条妙顕寺末。元応2年(1320)日像の開山、日像上人備後弘通最初の寺なり。文安2年(1445)四条妙顕寺の弟子成道院源来、この地に来たりて再興す。
水呑重顯寺と同時代の建立にて誠に両寺一寺なりけるが、いずれかの住僧の時像師の曼荼羅を重顯寺に貸置けるが、時代移りて重顯寺の什宝となれり。云々。
 田尻村顯應寺
2016/01/01撮影:小松山と号する。
鞆街道沿題目碑は総高は約2.9mの自然石である。所謂「波振りの題目」で揮毫される。従来は福山と鞆を結ぶ往還脇にあったが区画整理で場所が少し変わったという。
 鞆街道沿題目碑     山門下題目碑     山門下石階     顯應寺山門
 顯應寺本堂・庫裡     顯應寺本堂     顯應寺庫裡
 顯應寺成徳殿:写真向かって石階の左が歴代墓所であり、歴代墓碑があるが、写真撮影をせず。
 顯應寺虚空蔵     三上人供養塔:向かって左から日像菩薩、日蓮大菩薩、本理院日照(不詳)
 2019/04/26追加:
 なお、本理院日照は顯應寺35世、安政2年(1855)齢51にて寂(「日蓮宗寺院大鑑」)


備後鞆の浦

備後鞆の浦第一分岐題目碑
 実際の住所は鞆町後地と思われるが、後地の範囲は狭い鞆の浦の街以外の東西南北の広大な地域を指すようである。
であるから「島後の題目碑」といっても位置は特定できない。ではどう呼ぶか、水呑・田尻から鞆の浦に入る道には分岐が2つあるが、水呑方面から見て、第一分岐の手前にこの題目碑はある。そこでこの題目碑は「鞆の浦第一分岐題目碑」と仮に呼ぶこととする。
台座を含めると3m超の大型の題目石である。鞆の浦では、下に掲載の「鞆の浦第二分岐題目碑」、平1丁目の題目碑に続く大きさという。昭和13年建立、施主は中山助次郎、妻ウタノと刻する。題目は日蓮が臨終の際に掲げられたと伝わる十界曼荼羅「臨滅度時本尊」(比企谷妙本寺蔵)の文字を模したものという。
2019/03/17撮影:
 鞆の浦第一分岐題目碑1    鞆の浦第一分岐題目碑2    鞆の浦第一分岐題目碑3    鞆の浦第一分岐題目碑4

備後鞆の浦第二分岐題目碑(御幸町入口題目碑)
 水呑・田尻から鞆の浦に入る道には分岐が2つあるが、第一の分岐を過ぎて、第二の分岐を右(西)に入り、すぐに御幸町入口の三叉路がある。その角にこの題目碑は立つ。
 この題目石は天保3年(1832)の建立で、江戸幕末頃福山藩領(城下、水呑、鞆の浦、山田)で題目石の大型化競争が行われ、鞆の浦もそれに参入したようで、建立した年には大きさでは第1位を獲得した由縁のある題目石である。しかしそれも1年限りで翌年には水呑にさらに大型の題目石が建立され、その座を滑り落ちることとなる。
 →以上の経緯は備後水呑浜題目碑(大法界)>題目石の大型化競争を参照。
2019/03/17撮影:
 鞆の浦第二分岐題目碑1:向かって左は御幸町・鞆の浦へ、右奥は山越えで山田常國寺へ、右手前は水呑へ至る。
 鞆の浦第二分岐題目碑2     鞆の浦第二分岐題目碑3     鞆の浦第二分岐題目碑4

参考資料:備後安国寺
文永10年(1273)無本覚心(法燈国師)を開山として金宝寺が創建、釈迦堂(仏殿)が建立される。金宝寺は安国寺の前身。
暦応2年(1339)足利尊氏によって再興され、後に備後安国寺となる。
戦国期、毛利輝元・安国寺恵瓊によって再興される。
釈迦堂は重文指定。
2019/03/17撮影:
 備後安国寺山門     備後安国寺山門内     備後安国寺釈迦堂:重文

備後鞆祇園社
 →備後鞆祇園社

備後鞆顕政寺
寿福山と号す、山田常国寺末、親師法縁
寛永年中(1624-44)の頃、正善院日實によって開創
本堂・山門は元禄年中(1688-1704)の創建という。
2019/03/17撮影:
 顕政寺門前題目碑:天保9年(1838)     顕政寺山門     顕政寺本堂     顕政寺庫裡
 顕政寺妙見堂1     顕政寺妙見堂2     顕政寺妙見堂3
 山内題目碑(法界)     山内日蓮大菩薩碑
 山内日親聖人碑:日親350遠忌、日親上人は長享2年(1488)寂、350遠忌は天保9年(1838)であろう。

備後鞆妙蓮寺
法昌山と号す。四条妙顕寺末、親師法縁
慶長10年(1605)の創立、開山実相院日玖、開基檀越胡屋九郎左右衛門
元は浄圓坊という律宗の寺であった。大覚大僧正が教化のため、鞆を訪れたとき、住持が弟子となる。
開山日玖は浄圓坊に参篭、のちに現在の地に寺を移し一寺を興す。寛永の頃、妙蓮寺の寺号を四条妙顕寺より授かる。
本堂は宝暦12年(1762)の再興、番神堂は元禄17年(1740)松屋の寄進により建立。
2019/03/17撮影:
 妙蓮寺門前題目碑:文政7年(1824)
 妙蓮寺山門:右の石柱の正面は「中山正撰 鬼形鬼子母神安置」と刻む。
 妙蓮寺本堂1     妙蓮寺本堂2     妙蓮寺玄関     妙蓮寺庫裡
 妙蓮寺鐘楼      妙蓮寺番神堂1     妙蓮寺番神堂2     妙蓮寺小祠
 日蓮・日像・日貫五輪塔:正面;日蓮大菩薩・左;日像菩薩・右;照道院日貫
  (照道院日貫については、墓地の歴代上人碑では14世、明治11年寂 とある。
  「日蓮宗寺院大鑑」では14世のみ全く違う止妙院日正とある。
  因みに下の説明にある「14世止妙院日正」とは辻褄は合うが、この違いについて、どういうことなのかは不明。)
 鬼子母尊講中題目碑:14世止妙院日正の代(天保年中)に建立
 山内題目碑(法界)     歴代上人宝塔     初祖日玖墓碑     妙蓮寺歴代墓碑

備後鞆法宣寺

〇「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
大覚山と号す、四条妙顕寺末、大法華堂と称する。
延文3年(1358)の創立、開山大覚大僧正、大覚西国発軫の道場という。
〇「加藤清正『妻子』の研究」水野勝之・福田正秀、2007 より
 当寺には、総高40cmの「清正公大神祗の腹こもり坐像」及び総高14cmの「清正公大神祗坐像」2躯が伝わる。
「腹こもり坐像」は江戸後期の作であるが「清正公大神祗坐像」は清正の自作という。
この2躯は元熊本城にあったと伝え、2代福山藩主水野勝俊が、肥後熊本加藤家改易に際し、熊本から伯母・清浄院(加藤清正正室・父水野勝成の妹)を引き取った時に、熊本城から福山に持ち帰り、法宣寺日宥に願って境内に清正公堂を建立し祀ったものという。
 寛永9年(1632)熊本加藤家改易、清正正室清浄院は熊本城請取の役儀で熊本に下った兄である水野勝成(初代備後福山藩主)、甥の水野勝俊(勝成嫡子、2代福山藩主、藩主になる前は鞆の鞆城に居住)に引取られ、その領国福山に移る。
 清正は勿論、正室清浄院も深く日蓮宗に帰依したことで知られる。2代藩主水野勝俊は息女萬壽姫の病気を法宣寺日宥の祈祷で平癒させたことにより、萬壽姫夭折のあと、日宥をを開山として姫と自身の菩提寺として、福山妙政寺の大檀越となる。
勝俊は歴代禅宗である水野家で唯一日蓮宗に改宗した「一代法華」といわれる。これは福山に引取られた清浄院の影響といわれている。加藤家改易と同じ年に勝俊の子・多門が夭折するが、その菩提寺禅照寺は臨済宗であった、つまり日蓮宗ではなかったのである。清浄院福山移住のあと、清浄院の影響で、勝俊は日蓮宗に帰依したものと思われるのである。
 なお、当寺に伝わる清正公像は上記の衣冠姿の他に武人姿の清正公像も伝わるという。
※法宣寺については、歴代を記した資料が入手できず、上記の法宣寺日宥と福山妙政寺の開山恕正院日宥とが同一の上人かどうかは確認がとれないが、下に掲載する写真のように、法宣寺墓地の歴代上人墓碑に「17世/恕正院日宥聖人」と刻する墓碑があるので、日宥は法宣寺の17世であったことは確認できる。
法宣寺に墓碑があり、また寛永5年(1628)恕正院日宥が寺町に妙政寺を三河より移転ともいうので、年代的にも同一の上人であることは確かであろう。
2023/05/08追加:
 参考:→清正公信仰
〇各種Web情報 より
天蓋松:大覚大僧正の手植えと伝わる、推定樹齢約630年の黒松であり、天然記念物の松であったが、平成3年あるいは4年(1992)に枯れ死する。今は写真でしか偲ぶことができない。
幹周りは3.2m、高さ5.5m、枝張・東西34m、枝葉の広がった総面積は約600平方mに及ぶという。
 戦前の天蓋松:手前向かって右は本堂で、左に今は無い堂宇が写る。確認資料はないが、清正公堂であろうか。
 枯れ死少し前の天蓋松:「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より転載
 現地案内板の天蓋松:2019/03/17撮影
2019/03/17撮影:
 法宣寺大法華堂碑     法宣寺門前題目碑:年紀未確認     法宣寺山門1     法宣寺山門2
 法宣寺本堂1     法宣寺本堂2:本堂には大法華堂の扁額を掲げる。     法宣寺客殿     法宣寺庫裡
 法宣寺天蓋松跡1:天蓋松跡は整備され、「天蓋廟」と称され、題目塔と二佛が置かれる。
 法宣寺天蓋松跡2:天蓋廟回りの石柱は天蓋松の枝幹を支えた支柱であろう。
 大覚大僧正・五輪塔・石灯篭
 推定大覚大僧正碑:殆ど判別できないが、中央に「覚大〇正」とあると推定可能である。
  但し、覚は覚の字の下の儿が判読できる程度である。
  以上のように大覺大僧正と刻むものと思われることと石階下に「大覚大僧正650遠忌報恩」の石柱が建てられている
  ことからこの石塔は大覚大僧正碑であろう。
  また、Webサイトには「【法界石塔】寛永十(1633)年二月建之」との記事があるが、どの法界塔を指すのかは不明である。
  しかし、この石塔を指しているのだとすると、寛永10年とは相当に古いものであるが、相応しいのかも知れない。
 五 輪 塔:妙法蓮華経と刻むが、其の外の文字は判読できず。
 石 灯 篭:棹の正面は「南無日蓮大菩薩」と刻む。側面の文字はある程度判別できるが、判読でききない。
 山内題目碑1     山内題目碑2:年紀は文久元年(1861)である。
  総高は2.75m、「題目を三千万辺唱えた」事を契機に、台座の下には法華経を一石に一字写経して埋納する。
 法宣寺歴代墓碑:向かって左から11世持玄院日悦、17世恕正院日宥、2世覚明院日實、右から2番目は
  3世正覚院日〇と刻む。
 恕正院日宥墓碑:向かって左「17世/恕正院日宥聖人」とある。

備後平村題目碑
現在は平1丁目の街中の道路沿いにある。
〇「地域政治における空間の刷新と存続」森久聡(「社会学評論 59(2)」日本社会学会、2008 所収)より
 近世以前に時代を遡ると,鞆の浦は原村と平村と鞆町に分かれた集落として、それぞれ原港、平港、鞆港を中心に生活圏を形成していた。また、鞆町と合併した平村と原村という集落は、それぞれ独自の港を持ち、漁村として生活が営まれていた。現在でも沖合から両地域を眺めると、各港を中心に建物が建ち並んで集落が形成されている姿が確認できる。
 ※近代には、原村と平村は鞆と合併し、鞆町となるも、各々生活文化が異なる生活をしていたということである。各々の大まかな位置関係は原村(原港)の南やや西寄りに鞆町(鞆港)あり、さらにその南西に平村(平港)があるという関係である。
なお、附近には淀姫神社(與杼明神)があり、平村の守護神であるという。
2019/03/17撮影:
由緒など全く不明、年紀は「天保第二龍集辛卯・・・」と刻む、天保2年は1831年、幕末に建立されたことが知れるだけである。
題目碑(法界)は自然石であるが、前に2個と後に1個の石製の「噛まし」があり、これで題目石を屹立・安定させる。この「噛まし」には柑橘類と思われる植物図案が浮き彫りにされている。このような例には出会ったことがない。
 平村題目碑1     平村題目碑2     平村題目碑3     平村題目碑4     平村題目碑5
 平村題目碑「噛まし」

備後平港題目碑
平村平港の防波堤の先端付近に、高さ約3mで、中ほどが折損した角柱題目碑がある。
年紀は元治元年(1864)11月である。
通常は寺院、街中、街道筋沿い、村中や祖師堂内に建てられる題目碑が、港のそれも半海中に建てられた例を見ない場所にある題目碑である。しかも書体はいわゆる「波振りの題目」である。
〇Googleマップより転載
 玉津島神社より遠望:矢印で示した所にある。因みに奥に見える山地の向うが常國寺などのある山田村である。
 平港題目碑01     平港題目碑02
〇某Yuetubeより転載
 干潮時の題目碑:干潮時には台石も姿を現すようである。
3019/03/17撮影:
正面は「題目」、側面には「汐みちて この磯近く ゆく舟は ここ路にとめる じるべなりけり」と和歌を刻み、もう一方の側面にも同じく草書・変体仮名で和歌らしきものが刻まれるが、これは良く分からない。
背面は「元治元甲子歳(1864)十一月/鞆津何某建之」と刻む。しかし、何某とはなぜ匿名なのかは不可思議である。
 平港題目碑11     平港題目碑12     平港題目碑13     平港題目碑14     平港題目碑15
 平港題目碑16:和歌を刻む。     平港題目碑17     平港題目碑18     平港題目碑19


備後山田(熊野)の諸寺/題目碑

○備後山田の事
 備後熊野(山田)は古くは山方・山田庄・山田郷と称されていたが、近世初頭福島正則の時代には山田村となり、元和6年(1620)には福山に入部した水野勝成によって、上・中・下の三つの山田村となる。
明治8年上・中・下の三つの山田村は合併し熊野村と改称し、昭和31年福山市と合併し福山市熊野町となる。
熊野町の東部は水呑に接し、南東は鞆津に接する。周囲は低い山に囲まれ、熊野自体は小盆地をなす。
 参考資料:「福山市熊野町誌」熊野文化保存会編、昭和59年
  ※特に断りのない場合、備後山田の諸寺・題目碑などに関する記事は「福山市熊野町誌」による。
2018/02/04追加:
○日親の山田庄弘教
 また、山田庄は日親の弘教があったと伝える。
「日親-その行動と思想-」中尾堯、評論社、昭和45年 では、次のように述べる。
日親はかれの行化の跡を「埴谷抄」で次の如く述べる。
「日親のことは幼若の比より若樹・若石・若里の金言に任せて、在々所々往返遊行して弘通仕り候事、当年まで44年にて候、取り分けこの30余年の間は、華洛と柳営との間を上下仕候事往復15箇度也、帝都より鎮西へ下向仕候事6箇度、北国は佐渡国まで罷り下り、建寺興法仕り候、其の外近江・加賀・備後・備中・雲州等に至るまで寺院を造作し、僧坊を建立せしめ、周旋往返の利益を本とし、身軽法重の修行を専とするに依って、多分に在処幽遠の地を棲家と致し候」
備後山田の宮近門民部左衛門藤原信定という武士は、日親に改宗し、寺院建立を発願する。ところが、彼は将軍の命により出陣するはめになる。そこで、彼は備後草戸の渡辺兼に後事を託して出陣する。後に渡辺兼が帰国して山田の地に建立したのが常国寺であったという。
 寛永10年(1633)本法寺末寺之記(本法寺日窓書上、幕府に提出)
34ヶ寺の書上げがあるが、備後国には「備後 山田 常園寺(常国寺の誤植であろう)」とある。
 巻末;日親霊跡一覧
  常国寺 福山市熊野町     渡辺兼教化の故地
  時見堂 福山市熊野町下山田 日親辻説法の跡

山田カンカン石:山田入口題目碑
自然石、高さ220cm、全高255cm、宝暦13癸未(1763)7月吉日 村中 と刻む。
瀬戸村と山田村(近代の熊野村)との村界として建てられたといわれ、その後道路改修で1、2回移動する。
題目碑の正面を石で打つとカンカンと音がするため、カンカン石と云われる。自然石では山田一の大きさという。
2017/12/10撮影:
 熊野カンカン石1     熊野カンカン石2
カンカン石下の題目碑
角柱石、高さ82cm、全高92cm、髭題目下に惣村中、左右に如是畜生、発心菩提と刻む、側面に文化14(1817)と刻す。
牛馬供養のため建立されたのであろう。道路改修前は崖下の松の根元に建っていた。
2017/12/10撮影:
 熊野カンカン石下題目碑1      熊野カンカン石下題目碑2

山田高下谷長通の題目碑(未見)
角柱石、高さ117cm、全高160cm、左右に享保第4歴(1719)、己亥四月上浣、裏面に願主高下六兵衛と彫る。
有年紀では山田最古の題目碑である。
以前は高下観音堂前にあったが石段を作る際に現在地に遷す。
カンカン石から先の三叉路を右に取り、高下の十字交差点を直進、どこまでも行けば、おそらく高下観音の石段下に出る。
 高下谷長通の題目碑:「福山市熊野町誌」に掲載あり、転載する。

山田鴨尾三十番神社
鴨尾の東方山塊の中腹に番神社(三十番神社)が鎮座する。由緒は、「福山市熊野町誌」に記載がなく、分からない。
2017/12/10撮影:
 三十番神社参道:中央に写る屋根が番神社     三十番神社境内:向かって左は題目碑
 三十番神社社殿:手前は題目碑          三十番神社内部:正面の宮殿は三十番神を祀る、右の厨子の尊像は不明
 三十番神社正面宮殿
山田鴨尾番神社境内題目碑
自然石、高さ115cm、全高175cm、正面は髭題目と實盛尊霊、左に明治廿三年5月5日、裏面に下組郷信徒中とある。
實盛尊霊とは齋藤別當實盛の霊が祟って田の害虫になったという伝説が西日本に流布するので、虫除け祈願として刻んだものであろう。三十番神も田の守護する神々である。
 ※實盛が北陸にて木曾義仲に討たれる際、乗っていた馬が稲の切り株につまずいたところを討ち取られたという。そのために、実盛が稲を食い荒らす害虫(稲虫)になったとの言い伝えが流布する。そのため、稲虫(特にウンカ)は実盛虫とも呼ばれる。
2017/12/10撮影:
 三十番神社境内題目碑

備後山田時見堂:備後下山田村田鴨尾字田之尻
大正の初め頃まで「日中山時見堂」と称する2間×1間半の堂があったが、今堂はない。
現在は時見堂趾地には下組郷公民館が建ち、館内に仏壇を設けて時見堂を記念してある。仏壇内厨子の坐像は常国寺から受けた日親上人像という。仏壇の上には「成親閣 時見堂什」と書いた大額を掲げる。
 なお時見堂の由来は、日親上人当地巡錫の折、辻堂で説法をし、時の過ぎるのを忘れ、今何時かと村民に尋ねたという。それ以来辻堂を時見堂と称するという。
 また、公民館横には「日親上人辻説法霊跡」の石碑と2基の題目碑が建つ。
2017/12/10撮影:
 鴨尾時見堂看板     日親上人辻説法霊蹟碑
時見堂横自然石題目碑
高さ125cm、台石はなし、表面に髭題目と蓮弁、右側に「二月時正八日山墅(田に又を書き下に土を書く漢字)、左下に「■■三牛」と彫られる。
この題目碑はもとここより約50mほど上の畑の中に建っていたのを、大正の初め頃現在地に移設という。そして日親の辻説法を記念した建てた熊野で一番古い法界さんと云われている。しかし年紀は風化して判読できない。
 推測するに、建立者山野とは、明徳の乱にて敗死した山名氏清の孫山名市之亟清房は備後山野村に逃れて山野と改名する、さらにその孫の山野市左衛門清矩は山田村一乗山城主の知遇を得て山田村へ移住する。応仁2年(1468)逝去する。
碑の山墅とはこの山野清矩の可能性があり、没年の応仁2年の少し前の3年牛年を調べると、寛正3年(1462)が壬牛であった。
しかし、日親来村と云われるのは文明末年(1486頃)といわれるので、年代が少々合わない。
よって、刻銘から、熊野最古の題目碑である証明をすることは出来ないのが実情であろう。 
2017/12/10撮影:
 霊蹟碑と題目碑2基     時見堂横自然石題目碑
時見堂横角柱石題目碑
高さ160cm、台座は高さ33cm、下の基壇を加えた全高は333cm、表面は髭題目と南無日親大聖人、左面に嘉吉元年壬申年二月廿八日(1441)、備後諸々信者講中、しも山田邑惣講中、願主木村氏と刻む。
この年紀・嘉吉元年(干支は辛酉が正しい)が建立年を示すとすれば、約540年前の建立ということになるが、それにしては風化が進んでいない。通常刻まれた年紀は建立時期であるが、この題目碑に刻まれた年紀・嘉吉元年(しかも干支は違っている)とは何を意味するかは不明である。
2017/12/10撮影:
 時見堂横角柱石題目碑1     時見堂横角柱石題目碑2

山田熊ケ峰旧登山道の題目碑:未見
自然石、高さ160cm、全高210cm、表面に髭題目と法界、側面に明治43年の年紀を彫る。
現在、この碑は宇田場から北熊ヶ峰8合目にある葛城神社の参道の途中に建っている。
位置が特定できず。(未見)
 ※位置:GoogleMap上葛城神社の位置は確認できるが、山道などの表示がなく、どのような経路で登るのかまったく分からない。

山田小林鬼子母神:位置不詳:未見
字奥谷の山腹にありというも位置特定できず。(未見)
2間×3間の社殿がある。昭和28年再建、石階途中に石柱があり、「明治14年11月建立」「明治42年9月小林高田両講中信徒トナリ」とあり、この石柱によれば、鬼子母神は明治14年の創建で、奥谷のみが信徒であったが、明治42年小林・高田の講中も信徒に加わったものと推定される。
 ※位置:2017/12/10以降に、GoogleMap上に鬼子母神神社の表記があることを確認する。

山田小林松山の題目石:未見
位置不詳:まったくわからない。
高さ122cm、全高175cm台座、基壇・台座がある。表面は髭題目と法界、左面に寛延四辛未(1751)十月立之、右面に施主山田三ヶ村 本願人中山田村村藤十郎とある。、右山南道とある。
台座は高さ21cmで、正面に「左常国寺 右山南道」とある。また碑には線香立石が置かれ、その正面に3行縦書きで「左常国寺 右さんな 中山田本願人」とある。

九曜堂南登山口の題目碑:未見
位置不詳(未見)
高さ135cm、全高155cm、表面に髭題目が彫られるも、風化甚だしく、判読困難、裏面も判読不能。

山田井之向の題目碑:未見
位置不詳(未見)
自然石、高さ180cm、台石35cm、石積基壇があり、全高360cm、表面に髭題目、右面に九曜山・明治17年年紀を刻す。ここから九曜堂への登り道が分岐していたので、道標として建てられたという。

備後山田後東九曜堂:備後中山田村九曜ヶ端
2016/05/11追加:
○「福山市熊野町史」熊野文化保存会編、昭和59年 より
「社寺明細帳」沼隈郡熊野村 では
本尊日蓮大菩薩、堂は3間半×4間、民有地475坪。
現在は、堂は3間半×4間、内陣の左右と後は庫裡となり、居住が可能である。堂の横には水場もあり風呂もある。以前は堂守の僧が居た。堂は昭和3年全焼し、同年に再建される。堂の前に1間半角の鐘楼がある。明治13年鋳造の梵鐘は昭和17年供出され、現在の鐘は昭和25年鋳造されたものである。石階は安政3年築造、嘉永3年銘の常夜燈や同年の手洗鉢がある。
土地の人はこの堂を清正公と呼ぶ。文化年中原之曽根の住人が肥後熊本本妙寺へ参詣し、清正公の分霊をここに勧請したことによるという。
2017/12/10撮影:
 九曜堂参道:桜並木    九曜堂全容     九曜堂本堂1     九曜堂本堂2     九曜堂鐘楼
参道の始めには題目碑があり、その周囲に4基の九曜堂住僧の墓碑がある。
 九曜堂住僧墓碑その1     九曜堂住僧墓碑その2     九曜堂住僧墓碑その3
九曜堂前題目碑
題目碑の高さ120cm、台石の高さ60cm、基壇石積の高さ100cm、表面に髭題目、裏面に明治24年の年紀、一字一石書写、発願人恵運日光・・・とある。
2017/12/10撮影:
 九曜堂前題目碑1:題目碑横の墓碑は住僧の墓碑     九曜堂前題目碑2

熊野保育所横の題目碑
高さ143cm、全高222cm、表面に髭題目・日蓮大聖師、右面に大正12年年紀、左面には聖訓彫られる。
裏面には建立の理由が刻まれ、大意は小山清十郎は熱心な信者で還暦を記念して先祖供養のため建立すると。
台座正面には小山家先祖代々と戒名4名が記される。
 熊野保育所横題目碑

後西最上稲荷社
明治31年地元の住人が備中最上稲荷に参拝し、最上位経王大菩薩の分霊を請けて帰り、奉斎して信仰道場を作る。
土地の人々は最上さんと称し、毎月25日は集まって祭をしていた。
社殿は1間角の本殿、1間半の相ノ間、3間×2間半の拝殿がある。東側に接して3間×3間の住居があり、一時日蓮宗の行者が住居して祈祷をしていたが、今は無住である。
2017/12/10撮影:
以前は本殿・相ノ間・拝殿と住居の建物があったようであるが、現状は全てが退転したものと思われる。
おそらく、境内は整地されそして本殿跡と思われる場所に小宇一宇が再建され、辛うじて最上位経王菩薩を祀るものと思われる。
現状は整地された境内と山の中腹を切り開いて境内を造成したので石垣と小宇一宇と手洗石とが残るのみである。
境内の更地は殆ど雑草もなく、この状況から、つい最近に境内を整地したのかあるいは定期的に手入れが行われているのであろうと推測するのみである。
毎月25日の祭は継続されているのであろうか気になるところである。
2017/12/10撮影:
 後西最上稲荷社     後西最上稲荷社社殿1     後西最上稲荷社社殿2
 :現在の社殿(写真に写る社殿)の形状から見て、社殿は退転したのではなく、本殿・相ノ間は現在の社殿に転用・改装され、
 拝殿は取り壊されたた可能性が高いかも知れない。
 後西最上稲荷社手洗石
 後西最上稲荷社社石垣:西からの参道だけではなく、南にはつづら折りの参道があるようである。

法縁寺山門下自然石題目碑
高さ210cm、その下の自然石台石の高さ50cm、その下の石積基壇の高さ60cm、表面に髭題目と下に蓮弁を彫る。左面に明治17年の年紀、世話方當村信者中、一字一石供養塔、右面に後五百歳広宣流布閻浮提無令、トモ藤原文藏作と刻む。
この題目碑は現在地より約150mほど南の中山田村と山南村との村境近くに建っていたのを移設したという。村境碑として建立されたのか、あるいは元の場所は南之坊という寺院があったというので、供養塔であるのかも知れない。
法縁寺山門下角柱石題目碑
この角柱石題目碑は法縁寺山門下にあるはずであるが、2017/12/10では現地で見つけることができなかった。(未見)
見落としなのであろうと思われるも、まさか亡失ということはないであろう。(希望)
高さ100cm、全高125cm、表面は箱形に彫られ、髭題目と法界、左面に安永4年(1775)の年紀、右面に本願人常寂日性、中山田中と彫られる。
2017/12/10撮影:
 山門下自然石題目碑1     山門下自然石題目碑2     山門下自然石題目碑3

備後山田法縁寺:備後中山田村(現熊野町)
四大山と号する。山田常国寺末。
○ページ「福山市熊野町の昔風景」 より転載
 山田法縁寺:大正12年の写真と解説にある。
天文年中(1532〜1555)渡辺信濃守常菩提所として創立される。
由来については2説ある。
一つは背後の宇根山上に真言宗大富山山中寺(あるいは山中山大富寺)があり、渡邊越中守兼が常国寺をを創建したとき、この寺も改宗して、日蓮宗となり常国寺の末寺となる。天文年中渡邊常が山上から今の地に伽藍を下し、日祇上人を開基として常の菩提寺とする。その後寛文年中(1661-73)に常国寺八栖日感上人が四大山法縁寺と改号する。
別の一説は次のとおり。
大富に2寺あり、その内大富寺は改宗を拒んだので、兼によって村外に追放される。もう一つの南之坊は改宗して法縁寺となり、現在地に移るという。
本堂:明治31年焼失、明治32年再建されたもの。
鐘楼:明治21年建立。しかし昭和55年大風にて倒壊し再建に至らず。
2016/05/11追加:
○「福山市熊野町史」熊野文化保存会編、昭和59年 より
「社寺明細帳」(明治12年)では
常国寺末寺、本尊は釈迦如来、天文年中渡邊信濃守常菩提所に創立す。
本堂は3間×3間半、庫裡2間半×6間、玄関1間×2間、鐘楼1間半角(明治21年築)、表門4尺×1間、裏門3尺×1間、境内官有地126坪・民有地231坪。
現在、本堂は3間×3間半本瓦葺き、庫裡は2間半×6間で「明細帳」と同規模であるが、明治31年全焼、明治32年再建。梵鐘は戦時供出でなく、鐘楼も昭和55年大風で倒壊し今はない。なお境内の大忠魂碑は戦後熊野小学校から移されたものという。
2017/12/10撮影:
 法縁寺山容     山門横題目碑     法縁寺山門     法縁寺本堂
 山門内題目碑     法縁寺庫裡1     法縁寺庫裡2

山田西山の題目碑:未見
位置特定できず未見。
角柱石、高さ129cm、台石の高さ30cm、約5段に積んだ基壇200cmであり、真東を向いて建てられる。表面は箱形に彫られ、髭題目と村内安全と五穀成就、右面に明治14年の年紀、左面に天下泰平国家安穏萬民快楽広宣流布、台座正面に一字一石、世話方信者中と彫る。中山田村と下山田村との村境を示すものだといわれるも、実は明治12年に赤痢・コレラが流行する。人心安泰祈願のため、村民有志が村民の協力を得て建立したものである。
 山田西山題目碑:「福山市熊野町誌」に掲載あり、転載する。

山田皿谷家門前の題目碑:未見
位置特定できず未見。
角柱石、高さ135cm、全高190cm、表面は箱形に彫られ、髭題目と法界萬霊、右側に嘉永3年(1850)の年紀、功徳主皿谷膳左衛門、左面に天下泰平国土安穏子孫長久と刻む。

山田上之原竹添妙見大菩薩
山田上之原竹添観音堂
妙見大菩薩の境内には南から、観音堂題目碑、竹宮明神社、妙見大菩薩、観音堂、小庫裡が並ぶ。
2017/12/10撮影:
 竹添妙見大菩薩境内:手前より竹宮明神、妙見拝殿、観音堂、小庫裡が並ぶ。
 ※竹宮明神社:「稗田家文書」では、同家祖先の緒方左近太夫惟綱が妙見大菩薩境内に竹宮明神を産神に奉請し、代々神主として奉仕すとある。
 ※なお、妙見社を高木神社と記載する場合もあるが、これは明治の神仏分離の際、福山地方では妙見社は高木神社と改号すべき達がでたということによるものである。
●竹添妙見大菩薩:
竹宮明神の北横にある。「明細帳」では、文明14年(1482)小三郎創立という。現在本殿は1間×1間半、拝殿は2間×1間半である。本殿中央須弥壇に厨子があり木造妙見大菩薩を祀る。右檀は鬼子母神掛け軸、左檀は最上稲荷を祀る。
2017/12/10撮影:
 竹添妙見拝殿1     竹添妙見拝殿2:中央向かって左に題目碑が写る。     妙見大菩薩掲額;妙見拝殿
 竹添妙見本殿1     竹添妙見本殿2
 竹添竹宮明神
●上之原観音堂:
妙見堂の北横にある。3間×4間・屋根草葺をトタンで覆う。本尊正観音というも、厨子内の仏像は如意輪観音坐像である。
古老の談による由来は次の通りである。
明治の廃仏毀釈のとき、岡山県某寺の仏像を松之坊に持ち帰った。ところが仏像を松之坊で祀るべきか本寺の常国寺で祀るべきかの争いが生じた。この時高橋六三郎が仲裁し、竹添にお堂を建てて祀ることで決着したという。観音堂は明治20年に建立されるという。
2017/12/10撮影:
 上之原観音堂
上之原観音堂の題目碑
自然石、高さ150cm、全高230cm、台座は蓮華座(円形)で高さ40cm、その下の基壇は半円形の大きな自然石である。
表面は髭題目、左側面に明治20年の年紀、裏面に奉一字一石などとある。
明治20年とは上記観音堂の建立の年であり、観音堂建立にあたり多くの信者が寄進したものと推測される。
2017/12/10撮影:
 上之原観音堂題目碑1     上之原観音堂題目碑2

西の平墓地題目碑:未見
位置が特定できず、未見。
2基あり
西の平墓地題目碑その1:
角柱石、高さ180cm、全高280cm、台座には二重蓮弁と蓮弁が掘られる。
正面は髭題目、左右面には後五百歳廣宣流布、於閻浮提無令断絶、裏面に一字一石供養塔、明治十四年九月十四日 當處信者中 と刻む。
西の平墓地題目碑その2:
その1のすぐ北横にある。
角柱石、高さ49cm、高さ20cmほどの自然石台石に乗る。表面に寂霊法界と彫る以外の文字はない。 

備後山田常国寺:備後上山田村(現熊野町)

 →備後山田常国寺 

佐藤家の題目碑:未見
位置特定できず、未見。
自然石、高さ110cm、全高160cm、自然石の台石が2個重ねられる。
表面は髭題目と明治20年3月の年紀と造立主佐藤万造とあり、裏面にも髭題目と明治19年10月 願主佐藤万造とある。
なぜ両面に刻まれたのかは家人にも分からないという。

山田寺迫題目碑(旧寺迫分校前の題目碑)
角柱石、高さ150cm、全高230cm、表面は髭題目のみ、裏面に慶応元年(1865)の年紀、左面に一天四海皆帰妙法風雨時順五穀成就・願主山田山ヶ村寺迫中、右面に右ハ松永尾道・左ハ日親上人御旧跡参詣道と刻む。
この題目碑は鞆津方面から常国寺へ参詣に来た人への道しるべとして建てられた。但し、水道水源地ができるまでは更に西側の下方に地蔵尊と並んで建っていたという。
2017/12/10撮影:
 寺迫題目碑1     寺迫題目碑2     寺迫題目碑3

山田寺迫中組の題目碑
角柱石、高さ125cm、全高170cm、表面は髭題目と法界、左面に文化7年(1810)の年紀、右側に本願人門田助五郎・榮(楽か)・宗女とある。
2017/12/10撮影:
 寺迫中組題目碑1     寺迫中組題目碑2

寺迫上寺迫峠題目碑
角柱石、高さ192cm、全高280cm、表面に髭題目、左面に安政2年(1855)の年紀、右面に願文(天下泰平国土静謐五穀豊穣村中安全)、裏面に奉納一字一石 功徳主山田三ヶ村 世話人寺迫講中、台座正面に寿量寺と刻む。
おそらく、山田村と鞆津との境である寺迫峠に建立され、天下・国土・村中の平安と豊作を祈願したのであろう。
今は壽量寺の鐘楼跡に移されている。
2017/12/10撮影:
 寺迫峠題目碑1     寺迫峠題目碑2     寺迫峠題目碑3

備後山田寿量寺:(現熊野町)
薬王山と号する。山田常国寺末。
上山田常国寺から南東の山中に入り、一里ほど進めば寺迫峠の頂上に至るが、そこに壽量寺はある。上山田村が鞆の原村と境を接する所にある。
壽量寺は俗に峯の薬師ともいう。本尊は釈迦牟尼仏であるが、安置する石像薬師如来は鞆の海中より出現と云う。
当寺の始まりは常国寺7世日保上人(渡邊四郎左衛門景の三男である)藩主水野勝俊より領地を賜い隠居所として一宇を建立、壽量庵と号したことによる。(日保上人、薬師堂を壽量庵と改称して庵を結び隠居所とするとも云う。)
本山常国寺8世日感上人隠居に付、寛文10年(1670)壽量寺と改号し、日感上人を開山とす。
文政12年(1829)本堂再建、庫裡は大正6年焼失し、大正8年再建、後改築される。
本堂東に鐘楼跡があり、題目碑が移設されている。梵鐘は昭和17年戦争資材として供出される。
昭和50年頃無住となり、常国寺兼帯となる。
2016/05/11追加:
○「福山市熊野町史」熊野文化保存会編、昭和59年 より
「社寺明細帳」沼隈郡熊野村 では
常国寺末、本尊釈迦如来、本堂3間角、庫裡3間×4間半・大正6年焼失・大正8年再建、鐘楼は1間半角、薬師堂(本尊薬師如来)1間角、官有地325坪、鞆顕政寺兼帯。  とある。
現在、本堂は3間×3間半3尺の廻椽付、向拝には石階がある。本堂は文政12年(1829)の再建。庫裡は大正8年再建後、3間半×5間に改築、本堂東に石囲いの鐘楼跡あり、薬師堂は退転し今はない。
2017/12/10撮影:
 壽量寺本堂1     壽量寺本堂2     壽量寺本堂3     壽量寺本堂4     壽量寺本堂5
 壽量寺本堂内部1     壽量寺本堂内部2:中央の石仏が「峰の薬師」であろう。
 壽量寺庫裡1     壽量寺庫裡2:惜しいかな、退転するのは時間の問題と思われる。
 壽量寺からの景観:写真に写る瀬戸内の島は鞆の仙酔島と思われる。


備後西部の諸寺

大法寺(福山市本郷町761)
 本門法華宗、京都妙蓮寺末。 →大覚大僧正開基寺院

妙皇寺(福山市本郷町513)
 本門法華宗、京都妙蓮寺末。 →大覚大僧正開基寺院

妙得寺(尾道市原田町梶山田4291)
 本門法華宗、京都妙蓮寺末。

備後尾道妙宣寺
「日蓮宗寺院大鑑」
山号は(本覚山)と称す。
※山号が()付きで記される理由は「昔は長息山と号した」という理由と思われる。但し改号の理由は不明。
京都妙顕寺末。
(正平14年(1359)の創立)、開山大覚大僧正。
大覚、西国最終の道場として、文和3年(1353)法華堂を建立、翌4年に堂裏の巨巌に「妙」の一字を大書。
天明2年(1782)現本堂を建立。
○「大覚大僧正と三備開基寺院」
大正8年、覚師報恩塔を建立する。
2022/07/31撮影:
 尾道妙宣寺入口     尾道妙宣寺山門     尾道妙宣寺寺号碑     尾道妙宣寺題目石
 尾道妙宣寺本堂1    尾道妙宣寺本堂2    妙宣寺玄関・庫裏    尾道妙宣寺玄関    尾道妙宣寺庫裏
 妙宣寺稲荷堂:最上位經王大菩薩を祀る。
 妙宣寺清正公堂1    妙宣寺清正公堂2:清正公像は肥後本妙寺の清正公像と同作という。
 妙宣寺■瑩堂1
 妙宣寺■瑩堂2:「■瑩」の扁額を掲げるも、■部分の漢字が読めず、それ故、堂名称は不明。
 石造宝塔・石碑群:次の「十界群衆霊」宝塔から大覚大僧正板碑までが並ぶ。
 十界群衆霊宝塔:正徳年中(1711-16)の年紀とも思われるが、明瞭に判読できない。
 石造大曼荼羅本尊:弘化2歳次乙巳(1845)の年紀
 唱首題五千部石塔:年紀は不明
 日蓮・大覚・妙經宝塔:次の宝塔2基と板碑1基が並ぶ。
 妙經千五百部宝塔     日蓮大聖人宝塔     大覚大僧正板碑:長息山妙宣寺開基と刻する。
 なお、上記に「大正8年、覚師報恩塔を建立」とあるが、「大覚大僧正板碑」とある

備後三原妙正寺
無量山と号する。京都妙顕寺末。
延宝2年(1674)三原城主三代浅野忠真の創建になる。開山は日忠上人。三原浅野家の菩提寺である。
初め東町米田山の麓に創建されたが、4代忠義によって現在地に移転される。
享保9年(1724)本堂と鎮守が移転し、次いで庫裡、書院、鐘楼、山門が建立される。
2018/09/25追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
親師法縁。
広島浅野藩の筆頭家老で三原城を預り、知行1万石を領した三原浅野家の菩提寺である。
三原浅野家の祖浅野忠吉は尾張出身で法華衆の一人であった。浅野氏が身延山の修復の命を受けた時、忠吉は奉行として従事し、その功により、身延より高祖の珠数が与えられ、今それは当寺の寺宝として伝わる。
やがて、主家浅野家の広島移封に伴い安芸に移動、広島の頂妙寺を菩提寺とする。ところが2代忠長は三原の曹洞宗宗光寺を菩提寺にする、3代忠實は日蓮宗の菩提寺が三原にないので、米田山山麓に寺を建て法華道場とする。
享保8年(1723)4代忠義はこの法華道場を現在地に移し、新たに菩提寺に相応しい伽藍を建立する。
よって、当寺には3代から12代の三原浅野家墓碑がある。
創建は延宝2年(1674)、養雲院日忠が開山である。
現本堂が享保9年(1724)、庫裡は10年、山門・鐘楼等は享保14年の建立である。
2015/03/21撮影:
 妙正寺遠望:山門・本堂・庫裡・鐘楼などが写る。
 妙正寺山門     妙正寺題目碑
 2022/09/15追加:
 妙正寺門前の題目石については、米田山山麓の旧地から平成25年に移建したものという。
 寺院そのものは享保8年に移転するも、題目石は旧地の民家に残っていたものという。
  妙正寺門前題目石:・・・・・ 「みはら玉手箱」 より
 妙正寺本堂1     妙正寺本堂2:左端の赤い堂は最上稲荷本殿
 妙正寺本堂3     妙正寺本堂4     妙正寺本堂5     妙正寺本堂扁額
 妙正寺本堂内陣     妙正寺本堂本尊
 妙正寺玄関・庫裡     妙正寺庫裡     妙正寺鐘楼1     妙正寺鐘楼2
 妙正寺梵鐘:天正4年(1576)<天正8年?>鋳造銘がある。
 妙正寺鎮守最上稲荷(番神社)
2018/05/19追加:
 妙正寺坂案内碑:妙正寺山門に至るには山下よりかなり長い南北の妙正寺坂を登る必要があるが、その妙正寺坂の始りの地点にこの案内碑は建つ。「法華宗妙正寺 三原城主浅野家/累代の墓所」と刻む。
2023/06/19撮影:
 妙正寺遠望2     妙正寺遠望3
参考:
 三原城天守台遺構1     三原城天守台遺構2     三原城天守台遺構3     三原城天守台遺構4
 三原城船入櫓遺構1     三原城船入櫓遺構2     三原城船入櫓遺構3

備後三原壽徳寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
妙榮山と号する。京都本法寺末。寺は奠師法縁、住職は潮師法縁。
長禄元年(1457)の創立、開山は久遠成院日親、開基は玉蔵院日演、開基檀越宗徳入道と妙徳信女。
日親が九州往復の途中、瀬戸内の寄港地本郷(豊田郡本郷村、高山城の麓という。)に壽徳寺を建立、天正年中(1573-92)本郷城主小早川隆景が三原に城を築き、本拠地を移す。この時、当寺も移転する。移転は2世玉蔵院日演の時である。
本堂は貞享元年(1684)の建立で、他の伽藍の概ね同じ時期のものと云う。
2018/08/12追加:
 三原壽徳寺遠望     壽徳寺門前題目碑:享保7壬寅年(1722)年紀     壽徳寺門前寺号碑
 三原壽徳寺山門1     三原壽徳寺山門2     三原壽徳寺鐘楼
 三原壽徳寺山内      三原壽徳寺本堂1     三原壽徳寺本堂2     壽徳寺玄関庫裡
 日蓮・日親上人供養塔:日蓮上人供養塔は享保16年(1731)年紀        日親上人供養塔:年紀は不明
 堂宇名称不明小宇

備後三原本成寺(三原市西町)
山号などや由来など全く不明。
本門法華宗、京都妙蓮寺末。
かなり急な山裾を切り開いた大きな墓地の入口にある。堂舎は墓地の法面に崖造り風に建つというより、相当無理な建て方あるいは工夫をした建て方である。
2018/08/12追加:
 備後三原本成寺1     備後三原本成寺2     備後三原本成寺3     備後三原本成寺4

三原西町(川西)題目碑
2018/08/12追加:
情報皆無で由来など不明、本成寺東側にある。年紀も判読できず不明。
 三原西町題目碑

参考:正明寺及び浄念寺
何れも浄土真宗西派である。本堂の屋根上に相輪を建てる。三原西寺町にある。
2018/08/12追加:
 正明寺及び浄念寺:手前が正明寺

安芸の諸寺

安芸竹原立正寺:法華宗本門流
 →現存三重塔(明治以降)452

安芸安浦宣修寺:法華宗本門流
 →現存多宝塔(明治以降)789

安芸圀前寺
 → 安芸国前寺

周防の諸寺

周防山口常妙寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
大法山と号す。京都立本寺末。
観応元年(1350)足利尊氏再起を図って下向の折、古寺を廃し拡張整備し、自ら開基檀越となり真言宗到池山妙蓮寺を開創する。
天正年中日什(不明?)の時、問答に破れ改宗し、京都立本寺末となる。
明治3年明治維新で廃寺となった町内の妙泉寺と合併し、常妙寺と改号する。
明治40年廃寺法性山円満寺の土地(3反2畝32歩)が境内飛地となる。
2022/11/25撮影:
 常妙寺山門前題目石:「妙泉の庭」という、題目石は合併した妙泉寺最後の住職が残したものという。
 常妙寺山門     常妙寺本堂     常妙寺庫裏     常妙寺観音堂     常妙寺観音堂内部
 常妙寺最上稲荷     常妙寺常蓮の庭:足利尊氏腰掛け石などがある。

 

2022/10/06作成:2025/01/03更新:ホームページ日本の塔婆