祖 山 龍 華 山 妙 覚 寺

2014/01/04追加:
○「観光の岡山」岡山宣伝社、昭和10年 より転載
 備前金川妙覚寺俯瞰:南西に位置する山から撮影か。
2014/02/08追加:
○「A」氏(岡山模型店DAN)2007/09/12撮影・ご提供
 備前金川妙覚寺

日蓮宗不受不施派祖山妙覚寺歴代

○「日樹聖人傳」花田一重、昭和36年より転載
  「金川町史」にも掲載あり(但し院号は掲載なし、歴代は日正作という。)
  「御津町史」にも掲載あり。

31世久遠院日然聖人、32世応智院日縁聖人、33世本妙院日珠聖人の事蹟について、
「正之」氏サイト(我が家のご本尊について)に掲載がある。
 ※「三木正之」家は什宝とも云うべき「久遠院日然聖人と応智院日縁聖人の両聖人のご本尊」を受け継ぐ。
2024/09/22追加:
◆本妙院日珠略伝
 →備前赤坂郡矢原中に本妙院日珠略伝あり。

開基 日蓮大聖人蓮長 弘安2年(1282)入寂
2世 大国阿闍梨日朗 池上2世、元応2年(1320)年76。
3世 肥後阿闍梨日像 四条妙顕寺開基、京都妙覚寺開山、康応元年(1342)年74。
 → 日像菩薩略伝
4世 大覚大僧正妙実 京都妙覚寺2世、備前津島妙善寺開基、貞治3年(1364)年68。
 → 大覚大僧正と妙善寺あれこれ
 → 大覚大僧正略伝
5世 朗源 四条妙顕寺3世、京都妙覚寺3世、永和4年(1378) 年53。
6世 亀華院日実 永和4年四条妙顯寺より分立、京都妙覚寺4世(実質の開山)
7世 明珠院日成 応永22年(1415)、亀華院日実の弟。
8世 妙華院日遵 嘉吉2年(1441)
9世 大聖院日延 文安元年(1444)
10世 本性院日善 宝徳3年(1452)
11世 法心院日意 文明12年(1480)
12世 三光院日寮 文明17年(1485)
13世 真如院日住 文明18年(1486) 年81。
14世 寿量院日亨 明応7年(1498) 年75。
15世 本是院日護 天文元年(1532) 年97。
16世 一陽院日実 天文4年(1536)
17世 円頓院日兆 天文5年(1537)
18世 法蔵院日顒 天文11年(1542)
19世 観照院日饒 永禄4年(1561)
20世 実成院日典 教典 藻原妙光寺13世、塚原根本寺6世、天正20年(1592) 年55。野々口実成庵のある供養塔では文禄元年(1592)9月1日と刻む。(但し、9月1日は文禄元年というより天正20年とすべきであろう)
 → 實成院日典
21世 仏性院日奥 寛永7年(1630) 年66。
 → 日奥上人略伝
 → 日蓮宗不受不施派
 → 不受不施派『大阪城対論』
 → 佛性院日奥聖人の隠れ墓を訪ねて
22世 長遠院日樹 池上本門寺16世、寛永8年(1632)年58。
 → 不受不施派『身池対論』
 → 日樹上人供養塔・略伝・開基寺院
23世 長遠院日遵 了遠 小湊誕生寺19世頂妙寺除歴、自証寺(自證寺)2世、承応3年(1654) 年66。
24世 生知院日述 存琢 平賀本土寺17世、延宝9年(1681) 年70。
25世 長遠院日起 志賢 宝永5年(1708) 年61。
26世 善行院日清 友善 享保14年(1729) 年71。
27世 経行院日要 玄友 寛延3年(1750) 年69。
28世 立円院日信 楚全 享保16年(ママ) 年48。
29世 慈恩院日憶 覚教 明和2年(1765) 年74。
30世 慈念院日助 可真 明和7年(1770)
31世 久遠院日然 源清(玄清) 宝暦4年(1754)
 → 我が家のご本尊についてより転載。
行法院日観師の弟子。
宝暦3年(1753)8月18日「天下諫暁」のため備中出立、江戸下向。
同年11月23日、江戸寺社奉行所に出訴、揚屋入牢。宝暦4年2月26日揚屋牢で遷化。39歳。
「拙僧源清(日然)このたび言上いたし候意趣は、享保三年戊戌の年、友善日清(善行院日清)と申す僧、不受不施持法の者につき三宅へ流罪仰せつけられ候。その節、源清父清休 備前岡山に罷りあり、右友善に帰依し出家つかまつり候。享保十年乙巳年、父清休儀、江戸表にて入牢仰せつけられ、同年七月二十六日牢死仕り候。当年先師友善二十五回忌に罷りなり候間、師父の志を相継ぎ候いて別紙の趣、言上仕り候」
32世 応智院日縁 冠硯 寛政8年(1796) 年71。
 → 我が家のご本尊についてより転載。
享保11年(1726)備前宇甘東村下田に出生。
顕性院日幽に師事。のち久遠院日然に従う。大教庵先師。
宝暦3年(1753)8月18日「天下諫暁」のため備中出立、江戸下向。
同年11月23日、江戸寺社奉行所に出訴、揚屋入牢。御蔵島流罪。時に30歳。
「日縁聖人は流罪僧でありながら、幾度もの『(備前からの)内緒便』での物資を島の倉庫に保管し、各島の不受不施流罪僧の生活の援助をしたと云われ」
「日縁聖人の生地の岡山市御津下田には、内信時代の『真善庵』の建物が再建され、毎年2月29日(新暦)には、日縁聖人の命日の法要が行われ」る。
両聖人(日然、日縁)墓所は御蔵島山上にあり、墓石が並んであるという。
33世 本妙院日珠 弓本 文化14年(1817) 年56。
 → 我が家のご本尊についてより転載。
「本妙院日珠聖人は、三宅島在島中数々の教えを島から備前に送り、この教団統一を指向する考えは、のち宣妙院日正聖人に引き継がれ、のちの不受不施公許につながっていったのですが、この日珠聖人が寛政五(1793)年九月三宅島へ流されることを知った日縁聖人は、親しい御蔵島の船頭や船主などを三宅島へ派遣し、日珠聖人の島での暮らしについて周到な配慮をさせたのであります。」
2024/09/22追加:
◆本妙院日珠略伝:  →備前赤坂郡矢原中に本妙院日珠略伝あり。
34世 照光院日恵 智諦 文久4年(1864) 年74。
天保9年(1838)の天保法難で、強固に作られていた内信組織は壊滅する。
僧侶は導師派(堯了派・日指派)の日恵だた一人を残し全て捕らえられ、不導師派(講門派・津寺派)には一人も僧侶のいない状態となる。
日恵は天保法難のとき、内信組織から外れて他寺院へ遊学中(※修行のため比叡山に遊学)であったので難を逃れるという。
後に備前に帰った日恵は宣妙院日正と邂逅し、日正を弟子とし、日正を育成する。
35世 宣妙院日正 楽山 明治41年 年80。明治41年6月23日寂。
2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より

釈日正。津高郡九谷村赤木梅次郎の次男、天保7年8歳で津寺派臺山院日照の弟子となり、摂津衆妙院へ行く。天保9年備前に帰り、知己・親戚の間を転々とする。
安政3年大樹庵主となり、同5年大樹庵を和気郡益原村弥七宅の裏に建てる。
文久2年大覚大僧正500遠忌を執行。
同年から同3年、元治元年にかけて、不受不施派では数十回に及ぶ出訴を京、江戸、備前にて敢行する。日正は自ら訴願に打って出ようとするも、周囲から止められる。
明治元年上洛して新政府に不受不施の解禁を出訴、これが日正の陣頭に立っての行動の初めである。同年下総立正寺村妙昌庵に滞錫。
爾後、備前と東京の間を数度往復する。明治8年益原をたち、麻布の自証庵に入り、教部省に再興願書を提出する。しかし、政府要路が理解しなかったばかりでなく、再興が実現すると不都合な事情がある受派からの反対運動も活発化し、再興願書は却下される。
岡山県では権令石部誠中が明治8年不受不施派を厳しく弾圧する。
同年石部権令は解任、鬼県令と云われた高崎五六が着任、鬼県令も宗教については理解を示し、不受不施再興に対しては同情的取扱いをするという。
明治9年、日生と数度の教部省とのやり取りがあり、遂に不受不施派公許の布告を得ることとなる。
日正は益原に帰り、金川教院に入る。教院は龍華教院と公称、金川の地を祖山の地と定め、明治15年龍華教院を妙覚寺と改める。
平井村に接する妙覚寺墓地:不受不施派先師墓所(備前上道郡網浜村・湊村・平井村中)に墓碑あり。
2023/04/20追加:
明治6年日正は麻布本村町に自證庵(現若松寺)を再興する。若松寺に日正聖人石塔がある。<麻布自證寺中>
2023/03/15追加:下総不受不施は正覚寺水戸教会(五反田・林・水戸・石成・千田・船越・牛尾中)の石塔中に日正供養塔<東2)日正上人供養塔>がある。
36世 遠成院日解 寛孝 大正13年4月6日 年73。宣妙院日正弟子。
平井村に接する妙覚寺墓地:不受不施派先師墓所(備前上道郡網浜村・湊村・平井村中)に墓碑あり。
37世 詮量院日壽 了哲 昭和12年8月3日 年81。宣妙院日正弟子。
津島妙善寺24世。
明治36年備前妙善寺住職日寿は不受不施派祖山妙覚寺代理として伊那飯田の日樹上人墓に参拝、昭和5年5月飯田の日樹上人墓所に「日樹聖人之碑」を建立。
 →日樹聖人墓碑
2023/08/02追加;
○「伊那郷土文化10 日樹上人の研究」山田居麓、山村書院版、昭和16年 より
俗姓金光氏、安政4年備前和気に生まれる。文久3年7歳で釋日生に師事、明治5年得度、詮量院と号す。本山再興に参し、投獄の厄に遭う。明治35年妙善寺に住す。
大正13年本山法主・管長となり、対馬に日奥の遺蹟を展く。
38世 宣正院日学 春山 
2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
明治9年備前和気郡矢田部の岡崎家二男として生まれる。この岡崎家は寛文8年(1668)の矢田部六人衆殉教の時に追放にあった28人衆の一人岡崎善衛門の後裔である。
嬰児の時、祖山妙覚寺に参詣、36世日解より胖(ゆたか)と命名される。
13歳の時出家をし、益原法泉寺に入る。18歳の時日解により得度、春山日學となる。
なお、昭和16年3月軍部の干渉で不受不施派と講門派が合併、本化正宗(本山津島妙善寺)が発足、本化正宗初代管長となる。但し、この軍部の圧迫による合併の時期が一番苦しい時代であったと日學は述懐している。
生涯東奔西走し、殉教先師の顕彰や遺跡調査や古文献の蒐集による不受不施上の研究に打ち込む。
昭和51年正月13日寂。
39世 真正院日高 玄陽、
井村に接する妙覚寺墓地:不受不施派先師墓所(備前上道郡網浜村・湊村・平井村中)に墓碑あり。
40世 宣正院日学 再任
昭和51年正月13日寂。81歳。
41世 正行院日成 情報なし。
 ※「平成15年(2003)住職の寝タバコの不始末を原因とする火災により、妙覚寺の一部が焼失し住職は焼死する。」とあるが、この住職の日号の確認はとれていない。
42世 一樹院日行 2023/04/20追加:
明治6年日正に依って麻布本村町に自證庵(現若松寺)が再興されるが、若松寺に日行聖人石塔がある。<牛込市谷自證寺中>
一樹院日行聖人五輪塔には「祖山四十二世:一樹院日行聖人/平成二十年五月十三日遷化」と刻する。
43世 日量  

 →不受不施派の分裂と動向 及び 不受不施禁制後の動向 を参照



2024/04/11撮影:
 明治15年宣妙院日正、医師難波抱節の宅跡を入手、本堂などを建立、妙覚寺が創建される。
平成15年住職の寝タバコの不始末を原因とする火災により、本堂などが焼失、住職は焼死する。本堂などはその後の再建。
「岡山県の地名」では,本堂・鐘楼・講堂・客殿・書院・庫裡・長屋門・宝蔵などを具備する。書院は難波抱節が思誠塾講堂として建立したもので、文政5年の建築という。
 備前金川祖山妙覚寺11     備前金川祖山妙覚寺12     備前金川祖山妙覚寺13
 備前金川祖山妙覚寺14     備前金川祖山妙覚寺15     備前金川祖山妙覚寺16
 備前金川祖山妙覚寺17     備前金川祖山妙覚寺18     備前金川祖山妙覚寺19
 祖山妙覚寺鐘楼1     祖山妙覚寺鐘楼2
梵鐘
 祖山妙覚寺梵鐘:県文、由来は下に掲載の通りであるが、現在鐘楼に架かるのは昭和46年鋳造のものであろう。
梵鐘の変遷
 京都法勝寺末寺備前金剛寺梵鐘(建長4年鋳造)→応永34年(1427)備前肩背郷徳王寺に移る→天正10年豊臣秀吉高松城水攻めに使用→高松城跡の田から耕作中に発見される→備中高松妙玄寺に納められる→領主花房氏が保有→明治38年妙覺寺の所有となる。
 祖山妙覚寺慈恩堂     慈恩堂横題目塔
金川妙國寺関係墓塔
 金川妙國寺関係供養塔:下記の2基が並ぶ。
 妙國寺開基日精・十世日航供養塔
  妙法/妙國寺開基日精聖人/十世華光院日航聖人
     →備前金川妙國寺跡
 妙法■■院日■供養塔:おそらく妙國寺関係の聖人と思われるも、判読できない。
  祖山妙覺寺ご見解:法号についてであるが、刻銘は摩耗して読み取れず、不明である。
 おそらくこの墓塔は妙國寺跡から遷されたもので、つまり直接的には現在の妙覺寺とは無関係のもので、妙覺寺掃苔録にも記載がない。
 従って、妙覺寺では今となってはお答えすることが出来ない。
 ただし、妙覺寺としては、妙國寺関係の墓塔としてお祀し、大切に管理をさせて頂いている。
 
祖山妙覺寺先師墓塔・供養塔は向かって左から次のように並ぶ。
不受不施派法中供養塔(覺位/法師)、不受不施派法中供養塔(徳位)、不受不施派法中供養塔(聖人)、十妙院日徳聖人墓塔、殉教先聖五輪塔、前六後六聖人五輪塔、日蓮大士五輪塔、日奥大聖人五輪塔、日正大聖人五輪塔、日解聖人五輪塔、日壽聖人五輪塔、日高聖人五輪塔、日學聖人五輪塔、日成聖人五輪塔、日行聖人五輪塔
 祖山妙覚寺先師供養塔1:ほぼ全容である。     祖山妙覚寺先師供養塔2     祖山妙覚寺先師供養塔3
 祖山妙覚寺先師供養塔4     祖山妙覚寺先師供養塔5     祖山妙覚寺先師供養塔6

 不受不施派法中供養塔:2基あるが、向かって左が覺位/法師、右は徳位の供養塔である。
 不受不施派法中供養塔(覺位/法師):刻銘は下に掲載
 不受不施派法中供養塔(徳位):刻銘は下に掲載
 不受不施派法中供養塔(聖人)1     不受不施派法中供養塔(聖人)2:刻銘は下に掲載
 十妙院日徳聖人墓塔1     十妙院日徳聖人墓塔2
  十妙院日徳:宣妙院日正弟子、唯紫庵12世、祖山妙覺寺21世。 文久3年(1863)江戸(老中板倉勝静)に出訴するも、
  取り上げられず、しかし直ちに入牢とはならず、時代の変換点を象徴する出訴となる。
   →備前法華の系譜>不受不施派の再興中に記事あり。
 ※拙「備前津島妙善寺のページ」から転載
  唯紫庵12世 十妙院日徳 明治31年(1898)化/妙善寺21世/北長瀬不受不施派祖師堂に日正・日徳題目碑あり
        ※北長瀬不受不施派祖師堂は<備前御野郡高柳・野田・北長瀬村中>にあり
        ※平井村に接する妙覚寺墓地:不受不施派先師墓所(備前上道郡網浜村・湊村・平井村中)に日徳の墓碑あり。
 殉教先聖五輪塔
 前六後六聖人五輪塔1     前六後六聖人五輪塔2:正面上段に前六、下段に後六聖人、両側面には示寂年月を刻す。
 日蓮大士五輪塔
 日奥大聖人五輪塔
 日正大聖人五輪塔
 日解聖人五輪塔:祖山妙覺寺36世、遠成院日解、寛孝 大正13年4月6日 年73。
 日壽聖人五輪塔:祖山妙覺寺37世、詮量院日壽 了哲 昭和12年8月3日 年81。津島妙善寺24世。
 日高聖人五輪塔:祖山妙覺寺39世、真正院日高
 日學・日成・日行聖人五輪塔
 宣正院日学は祖山妙覺寺40世、正行院日成は祖山妙覺寺41世、一樹院日行、祖山妙覺寺42世、平成二十年五月十三日遷化
 妙覺寺歴代墓所石灯籠

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◆金川妙覚寺梵鐘:
〇「御津町史」 より
建長4年(1152)高さ93cm
初銘:敬白法勝寺御備州金剛寺鐘一口/右志者為御本家並法界衆/生平等利益/建長二二年歳次/壬子十二月日沙弥蓮佛
追銘には応永34年(1427)十月八日備州肩背郷徳王寺に移った時のものもある。
この鐘は天正10年(1582)秀吉方の高松城攻めの陣鐘として使用された事は有名である。
その後、備中高松妙玄寺に納められるも、領主花房氏の所有する所になり、明治38年妙覺寺に納められる。
以上のことから「六遷の鐘」と云われる。
〇「岡山県教育庁文化財課」文章: より
 梵鐘は和気金剛寺(下注)の鐘として建長4年(1252)に鋳造され、後に肩背郷徳王寺(下注)に移り、さらに天正10年(1582)備中高松城水攻めの陣鐘に使用されたという。合戦後、備中高松の妙玄寺から領主花房家の所有となり、明治38年(1905)に妙覚寺に納められた。別に「六遷の鐘」と呼ばれる。総高93.9cm、口径50.0cm、青銅製。
(下注)
備州金剛寺
和気郡藤野村神ノ上山にあったという。現在は廃寺。
(下注)
肩背郷徳王寺
〇「日本歴史地名大系」 より
肩背郷:岡山県赤磐郡瀬戸町肩背郷、現瀬戸町肩背を遺称地とし、一帯に比定される。
応永34年10月もと備州金剛寺にあった建長4年12月鋳造の梵鐘が、当郷徳王寺の所有に帰している(「徳王寺古鐘銘」妙覚寺蔵)。
○国文学研究資料館>国書データベース より
 備前州肩脊郷コ王寺鐘銘
〇「岡山市電子町内会」>旭ヶ丘沿革 より
 ※旭ヶ丘は瀬戸町肩背(旧肩背郷の想定地)にあり、次に紹介する「陣場山」を造成して造られた新興住宅地である。
陣場山の名称由来:
羽柴秀吉が、天正10年(1582)、備中高松城攻略の為西下した時、ここに一時陣を布いたという伝承がある。
秀吉の行動は次のように伝わる。秀吉二万を引き連れ天正10年3月15日姫路出発、同日三石泊、16日に福岡(現瀬戸内市福岡)泊、19日に沼城(岡山市沼)に入り、4月4日岡山城に入るという。
福岡から岡山城に入るまで約2週間以上を要しているから、その間沼城が望めるこの陣場山や築地山常楽寺に布陣したであろうし、沼城(亀山城)
到着後は沼城を中心に周辺一帯で逗留したはずと思われる。
この間、秀吉軍は東隣の肩脊徳王寺から小ぶりの梵鐘(備前州肩背郷徳王寺鐘と刻印してある)を徴発して行き陣鐘として使用、その後高松城跡の田から耕作中に発見され御津町金川の妙覚寺の所蔵となったが、現在は県立博物館にある。
○肩背徳王寺 縁起 より
西方山徳王寺(赤磐郡瀬戸町肩背53)の縁起では次のようにいう。
一度廃寺となるも、土人によって小宇として再興される。そして近年のことと思われるが、寺主である僧侶によって本堂が改築されたようである。
徳王寺縁起:
高野山真言宗、本尊 薬師如来
 西方山徳王寺本堂は元山頂にあり。(中略)
羽柴秀吉中国征伐の折此の寺も戦火に合いて荒廃しそのまま廃寺となったのであるが、土地の人々かかる由諸ある廃寺となるを惜しんで小堂一宇を建立し、本尊薬師如来を安置して護持する事今日に及べり。
しかるに此の寺今だ小堂の一間で参詣者の方々にも不便なる事此の上なし。・・・茲に寺主上原光俊弘園発願して新に改築工事の架設を企一。

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■不受不施派法中供養塔(覺位/法師)刻銘
 是觀院日全覺位
 圓教院日然覺位
 幽玄院日就覺位:大樹庵、宣妙院日正弟子、明治5.9.1
 眞如院日是覺位:大樹庵、宣妙院日正弟子、元治元.10.2
 法眞院日遥覺位
 智境院日合覺位
 智妙院日暢覺位:大樹庵、宣妙院日正弟子、文久3.7.3
 智誠院日悟覺位:明治12年建部教会を再興か、建部市場浄源寺に墓塔あり。
 智勝院日運覺位
 恵光院日乗覺位
 是好院日良覺位
 是眞院日禧覺位
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 智觀院日悦覺位
 慈圓院日榮覺位
 智運院日啓覺位
 智賢院日教覺位
 可迎院日光覺位
 英音院日事覺位
 常眼院日玄覺位
 休周院日詮覺位
 慈航院日完覺位
 智明院日具覺位
 慈光 日照法師
 玄眞 日實法師
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 玄詮 日晃法師
 恵暁 日忍法師
 恵三院日省法師
 恵光院日明法師
 自性院日圓法師
 微妙院日浄法師:大樹庵、宣妙院日正弟子、安政7.2.4
 随聞院日淵法師:大樹庵、宣妙院日正弟子、慶應2.8.28
 本立院日廣法師:大樹庵、宣妙院日正弟子、慶應2.9.16
 智因院日縁法師
 智寛院日等法師:大樹庵、宣妙院日正弟子、安政3.8.23
 慈念院日久法師
 体達 日到法師
 眞静 日良法師
 可善 日實法師
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■不受不施派法中供養塔(徳位)刻銘
 智勝院日意徳位
 妙覺院日事徳位
 圓妙院日亮徳位:大樹庵、宣妙院日正弟子、慶應3.8.11
 寶乗院日勇徳位
 圓満院日深大徳位
 清淳院日圓徳位
 善妙院日眞徳位:大樹庵25世、宣妙院日正弟子、明治4.10.8
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 智光院日慈徳位
 智順院日随徳位
 随順院日念徳位
 順理院日孝徳位
 覺玄院日如徳位:生前庵14世、文久3.7.26。大樹庵24世・生前庵13世宣妙院日正弟子、松壽庵13世・生前庵12世・唯紫庵11世晃光院日恵弟子でもある。
 本城院日理徳位
 自覺院日量徳位
 是勝院日輝徳位
 正覺院日源徳位
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 玄實院日随徳位
 智憲院日賀徳位
 智照院日従徳位
 好堅院日孝徳位
 鷲山院日晃徳位
 順徳院日普徳位
 玄了院日須徳位
 恵光院妙教日操徳位
 要眞院日仁徳位
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■不受不施派法中供養塔(聖人)刻銘
 學行院日秀聖人:備前津島妙善寺25世
 正妙院日寂聖人:備前福田詮量寺(→備前福田村中:)開基、大正五年十月十六日寂
 教妙院日耀聖人
 妙行院日淳聖人
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 本浄院日香聖人
 本覺院日暉聖人
 顯正院日眞聖人
 壽量院日義聖人
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大黒日奥
大黒日奥像(日奥を大黒に偽装した像)が3体現存する。
一つは祖山妙覚寺、二つは丹波小泉好堅寺、三つは下総香取郡栗源町の石橋家に秘蔵される。
  →祖山妙覚寺大黒日奥:「岡山の宗教」岡山文庫51、昭和48年 より
  →光純好堅寺像は未見
  →石橋家所蔵大黒日奥
    →石橋家(矢田部28人衆の後裔か)については「備前法華の系譜」に記載、
      「備前法華の系譜」のページを検索語=大黒日奥で検索ください。


祖山妙覚寺所属寺院

上総一乗山妙松寺(千葉県いすみ市正立寺、旧妙昌庵)
〇下総成等山正覚寺(千葉県香取郡多古町島) →下総島正覚寺
○下総龍華寺(千葉県香取郡多古町南玉造) →総常盤村>南玉造(玉宝山)龍華寺
〇下総佐野教会(千葉県香取郡多古町佐野)
          →下総大原・東台・中佐野・東佐野・染井東台妙見前墓地>「中佐野喜多教会の設立」中にあり
〇下総水戸教会(千葉県香取郡多古町水戸) →下総正覚寺水戸教会
〇下総沢教会(千葉県香取市沢) →下総沢真浄寺 の下に掲載
○武蔵龍華山若松寺(東京都港区南麻布、旧自証庵) →武蔵麻布自證寺中にあり
摂津龍華山妙蓮寺(大阪市生野区林寺2-12-5)
〇備前大樹山法泉寺(岡山県和気郡和気町益原、旧大樹庵) →和気大樹山法泉寺
〇備前富榮山妙泉寺(岡山県和気郡和気町佐伯、旧妙泉庵)
〇備前福田山詮量寺(岡山県赤磐市福田) →備前福田村
〇備前龍華山正妙寺(岡山県赤磐市稗田) →備前稗田村
〇備前清涼山浄源寺(岡山県岡山市北区建部町市場) →備前建部市場浄源寺
〇備前鷲峰山常在寺(岡山県岡山市北区御津紙工、旧常在庵) →備前紙工常在寺
○備前鷲林山妙善寺(岡山県岡山市北区津島本町、旧唯紫庵) →備前津島妙善寺
○備前春雄山宣妙寺(岡山県岡山市北区西古松) →備前大供村・内田村・岡村・東古松村・西古松村
○奥聖寺(岡山県岡山市中区平井、旧松寿庵) →備前上道郡網浜村・湊村・平井村
讃岐無量山正行寺(香川県三豊市豊中町岡本2331)
肥前龍華山妙高寺(長崎県島原市広馬場町)

2010/09/21作成:2024/10/15更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系