2023/11/24追加: 本サイトの「日奧」表記を統一する。(検索する時の表記の「ゆらぎ」を回避する。)
本サイトでは「日奥」の「奥」は「奥」(略字・当用漢字)と「奧」(旧字・本字)とが混在したが、全て「奥」に統一した。(一括返還)
即ち、今後本サイトにおいては、「奥」の表示は、旧字の使用は中止し、略字を用いることとする。
★仏性院日奥上人(安國院):2013/01/17加筆・修正:2013/02/01加筆:
日奥は日蓮宗不受不施の祖である。 事蹟については「備前法華の系譜」の関係個所(「日奥」の検索語でページ内検索を乞う)を参照。
日奥は佛性院と号し、のちに安國院と改む。(「望月佛教大辭典 全10冊 増訂版」望月信亨、世界聖典刊行協会、昭49)
永禄8年(1565) - 寛永7年(1630)
永禄8年(1565)京都の町衆辻氏の生まれと云う。<京都の富商、辻藤兵衛の子息という。>
※山城嵯峨常寂光寺多宝塔棟札には大檀越辻藤兵衛尉直信の名があり、この辻氏は日奥の実家と云う。
天正2年(1574)10歳にして京都妙覚寺日典の門に投ずる。 日典は日奥の習性を愛し、精魂を傾けて養育し、日奥は日典を通して日蓮を見たと云われる。
日典:實成院日典:下に掲載 天正10年(1582)薙髪(ちはつ)し英教又は智雄と字し佛性院と号する。
この年織田信長が本能寺に斃れ、織田信忠が妙覚寺に斃れる。(「金川町史」2018/10/30) 文禄元年(1592)日典の事蹟を引継ぎ、日奥が19世妙覚寺住持となる。
日奥28歳であった。教蔵院日生らの先輩を抜き、師の日典に推挙される。
これは日典が日重の学師日bらが天台学に編重し諸宗に寛容なことに反発するところがあることを示す。
即ち、日典は日蓮の精神に忠実であることによって日蓮宗義の顕現を日奥に期待したところがあったのであろうと云う。
文禄4年(1595)豊臣秀吉による方広寺大仏殿千僧供養会への出仕をめぐり、不受不施の宗制護持を強く主張する。
文禄5年9月25日(この日は京都諸寺が秀吉方広寺大仏供養会に出仕した日である)夜半妙覚寺を退去する。
つまり、不受不施の宗制護持を身をもって貫くことを示すということであろう。
退去の後、「公儀に背く曲者」として滞在先をその都度追われ、嵯峨、栂尾の空房、栂尾門前小屋、鶏冠井を転々とし、最後には丹波小泉に隠棲する。
2013/01/15追加:「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和41年 より
丹波小泉好賢寺 :好堅寺番神堂 : 日奥が隠棲す、右に八重桜がある。【好堅寺:亀岡市東別院町大泉大道60】
※文禄4年及び5年の大仏殿千僧供養会をめぐる動きについての詳細は
正之氏サイト(拙サイトに組入):日蓮宗 不受不施派>3、豊臣秀吉の千僧供養
の項、及び
下に掲載の「◆大仏殿千僧供養会を廻る評価」
の項を参照。
2013/01/26追加:「京都府の歴史散歩 下」山川出版社、2011 より
好堅寺:日奥上人開基、小泉山と号する。 2018/11/15追加:
丹波小泉は前田玄以の領地であり、玄以は日奥に同情的であったと云われる。
慶長3年(1598)3月豊臣秀吉薨去。
慶長4年(1599)11月13日日奥と京都諸寺との和融を斡旋する動きは多々あったが、成就せず、
京都諸寺は日奥弾劾の訴状を内大臣家康に提出する。
同年同月20日家康は日奥・ 日モニ妙顕寺日紹らを大阪城内に召し、対論を成さしむ。
※大坂城対論に関する詳細は正之氏サイト(拙サイトに組入)>不受不施派『大阪城対論』にある。
事は受派(京都諸寺)と不受派との対決というより、家康と日奥との対決と云ってよい状況に変質する。
要するに日奥は権力側の硬柔織り交ぜた懐柔・恫喝に屈しなかったということである。
大坂城対論後、日奥は再び丹波に逼塞させられたが、12月には「守護正義論」を著す。
翌慶長5年5月30日対馬に流罪の通告を受け、小泉を出、同月30日対馬に着く。
※慶長17年の赦免まで11年半ほどを対馬で過ごす。 2018/11/15追加:「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
※蓮昌寺日韵(蓮昌寺21世、妙善寺8世)、日魏(蓮昌寺22世、妙善寺9世)は渡航して慰問する。
※当時、宇喜多氏の家臣に楢村監物宗理及び角南恕慶法印あり、深く日奥を渇仰し、
文禄4年から慶長17年に至る18年の間、小泉の蟄居を訪い、或は対馬の配所に音物(いんもつ)を送り、
又京関の間に奔走して日奥の帰洛の計をなす等の尽力をなす。
慶長17年(1612)正月4日家康、京都所司代板倉勝重に命じて日奥の赦免を下命する。
同4月対馬を出発、博多・備前牛窓(本蓮寺か)・有馬の湯に立ち寄り、6月4日入洛する。
途中博多の勝立寺唯心院日忠は日奥を歓待する。日忠は日奥と同学で、備前出身である。(「金川町史」2018/10/30)
妙覚寺住職不在のため、困惑との赦免理由であったが、寺内の謗法態度が払拭されないことを見て、勝重の斡旋にも関わらず、本坊破損を理由に日奥は本坊に環住せず、妙覚寺円蔵院に入る。
元和2年3月妙覚寺本坊に移る。これは勝重の勧めによる。
この時、妙覚寺全山の寺家衆は本堂にて不受不施の宗制を守ることを誓う。
※既に秀吉は逝去、元和元年には豊臣氏も滅亡し、従って文禄年中の受・不受をめぐる争論の直接原因である大仏供養会は消滅していたのである。
元和5年(1619)日奥、備前金川に巡錫する。(「金川町史」)「備前法華」は当時、ほぼ不受不施一色であった。
(平凡社「「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より) 同年、和気益原を巡錫し、法泉寺を改宗という。(「和気郡誌」)
しかし天神山城主浦上宗景の時代にすでに法泉寺は日蓮宗であったといい、宗景も当寺を菩提寺とするという。
また、法泉寺は大覚大僧正の改宗とも伝える。
※益原法泉寺が日奥の改宗というのは無理としても、元和の頃、日奥が益原で説法したともいうのは確かと思われる。
2018/11/15追加:「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より 日奥の備前行脚は前後3度を数える。
最初は慶長4年8月で岡山蓮昌寺の開堂供養に招請されて下向する。
つぎは慶長17年で、赦免になって対馬から京に帰る時、牛窓に寄港、蓮昌寺日韵、日魏及び角南恕慶などが 出向き、ねぎらう。
三度目は元和5年の巡教で、各寺院に高祖本尊の型木を授与する。
「御土産曼荼羅」といわれるもので、二日市妙勝寺、津高郡今保宗善寺に寺宝として伝えられる。
元和7年〜9年、日奥は妙覚寺本坊・客殿を造営、 同年には板倉勝重書名在判の「不受不施公許」(不受不施義は日蓮以来の伝統であること)を得る。
※この時日奥の日蓮に倣った不受不施遵守の諫暁の精神および行動は報われたというべきで、「この時」がいわば「至福」の時であったのかも知れない。しかし「この時」は暗転する。
受派の動きは以下である。
天正7年の安土宗論の当事者でもあった仏心院日b(堺妙国寺)は中山法華経寺住持となる。
(以降、中山は堺妙国寺、京都頂妙寺、京都本法寺の輪番管理される。日bの関東への進出の象徴であろう。)
慶長4年、日bの弟子日重は飯高檀林に招請されるも、日重弟子日遠を遣わしめる。
慶長7年、日重は身延山住持に招請されるも、これも日重弟子日乾を遣わしめる。
慶長8年、日乾は退位、身延山は日遠が継ぐ。
元和元年(1615)日奥と三浦為春(養珠院お万の方の実兄、のち紀州徳川家附家老家祖、紀伊貴志領1万5,000石)とが接触。
日奥は書簡などで身延山日乾の摂受の態度を批判、この批判は日奥→為春→お万→日乾に伝わる。
その結果、日乾は日遠と議し「破奥記」と呼ばれる一巻を作り、日奥批判を加える。
これをいわば契機として再び受派と不受派の対立が激化する。
関東では、寺院で云えば、身延と池上との対立となって顕現する。
(受派身延日暹らは不受派池上日樹を度々上意背反として寺社奉行に訴状を提出する。)
寛永7年(1630)身池対論が画策され、不受側の負けとされる。
日奥は首謀者とされ、日奥は既に遷化していた為、遺骨が再び対馬に流される。 ※不受不施派の系譜については備前法華の系譜に記述する。
※「身池対論」についての詳細は正之氏サイト(拙サイトに組入)>不受不施派『身池対論』にある。
※参考:正之氏サイト(拙サイトに組入)>佛性院日奥聖人の隠れ墓を訪ねて
2019/08/19追加: ○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
丹波小泉は当時京都所司代であった板倉勝重の領地であった。ここに落ち着いたのはあるいは板倉勝重の好意であったのかも知れない。
好堅寺日奥の庵の横に日奥碑が建つ。道を隔て少し山道になった所に日蓮・日奥合祀の供養塔が作られている。
慶長5年(1600)6月26日日奥、流人船にて対馬厳原に着船、厳原久田の竜女院(今廃寺・日奥の石碑あり)という寺院に入る。
「波の音が耳につき眠れぬ」という理由で藩主宗家に転居を要求したという。100日ほどで長田掃部の家に移り、約1年を過ごす。
その後、厳原の北方の宮谷の藩主の父の隠居所に移り、対馬讁居の生活は大部分ここで過ごすという。
厳原に国昌寺がある。開基は日奥。題目石塔・日蓮大菩薩石塔・日奥大上人石塔の3基がある。また日奥開眼の紺紙金泥の曼荼羅本尊が残る。
日奥の遺骨の所在は今も不明である。 死の直後、再度対馬への流罪が下されるが、遺骸が対馬まで運ばれたのかどうかは明らかでない。
国昌寺でも、明治9年不受不施派が公許されてから、必死で探したようである。国昌寺過去帳の欄外には「奧師御真骨京都紫竹常徳寺に埋葬、当寺は墓印のみ、但し御歯骨三個安置す。」とある。この過去帳は明治の中頃整備されたようである。
紫竹常徳寺には日奥像はあるが、墓は発見されていない。 ---「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」終--- ※ →日奥上人供養塔・祖山妙覚寺歴世墓碑(備前上道郡網浜村・湊村・平井村中)
※ →丹波小泉好堅寺日奥上人供養塔
※ →紫竹常徳寺(下に掲載)
備忘:後日を期す。 2019/09/10追加: ○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
日奥とその思想 1)給仕と行法
給仕と行法と学問は像門の三訓であり、13年間日奥は師日典に対して、毎朝手水を給仕することを怠らなかったといわれる。
日奥の思想は、ひとえにその師日典の影響による。 日奥は日典を通して祖師を見た。
日奥は師日典の暖かい温籠を満身に受けつつ、心静かな給仕と行法の18年を送り迎えて、28歳、日典の死に遭い、遺志によって師の山(妙覚寺)を嗣ぐ。
2)日奥の謗施否定論
日奥の思想は一言にしていえば、他宗の供養を受けずまた他宗に施さないことを「宗義肝心の制法」とするのであり、またこれが日奥の「宗門相続の根本概念」であった。
日奥のこの考えは、末法の世においては、折伏を第一とする祖師の行跡に従うものであるが、その折伏の手段として謗法の施を否定する理論的根拠を祖師の「立正安国論」引くところの「涅槃経」にこれを求めここに祖師の本懐があるとしたのによる。
その根拠とした涅槃経の数句の要約(大意)は次の通りである。
一闡提(いつせんだん・極悪人)を除いて、その他一切に施すならば皆賛嘆してよい。一闡提とは麤悪(そあく)の言を以って正法を罵り、永く改悔の心を持たぬものを云う。
以下、略、後日を俟つ。
不受派(日奥)と受派(日乾)との差はなんだろうか。迷いの衆生を仏椽に結びつけるのが宗教の一つの役目ならば、その手段は折伏を主とするか摂受を主とするかということになる。
以下、略、後日を俟つ。 3)日奥の本尊論 略、後日を俟つ。 4)日奥の国土感 略、後日を俟つ。
2023/06/09追加:
○「不受不施派流僧の祈りと行法」宮崎英修(「印度學佛ヘ學硏究 通号 58」1981-03-31 所収)
1.不受不施義公認の誓願
「不受不施派僧俗の祈り、願望は、不受不施義を公認し再興して不受不施義を根幹とする法華信仰、法華宗化儀を樹立せんとするにあつた。
すなわち、不受不施義の完全実施によつてのみ真の法華経精神の発輝があり、これによつて通一仏土、四海帰妙の仏国土の建設があると確信したのである。」
日蓮の没後、「不受不施義の展開を見ると、はじめは王候除外制による不受不施義であつたが」、豊臣秀吉の時代に至り「方広寺の大仏供養千僧会が催されるに及び、更び一宗浮沈の瀬戸際に追い込まれる。
いわゆる供養会の出仕・不出仕とは、いいかえれば諺法供養を受くるや否やの問題で、文禄4年(1595)9月この千僧供養会に不出仕を唱えた妙覚寺日奥・本国寺日ン凾ニ、当時京都法華宗長老本満寺日重・日乾・本法寺の日通等の供養会出仕論者の両者が対立したことにより王候除外の不受不施義が法華宗を二派に分立せしめる。」
慶長3年(1598)秀吉没し、徳川家康が天下を制する。
その宗教政策は「厳重の御成敗」を持って臨んだ故、日奥らの不受不施義は国主権力の前には全く無力となる。
一方日重らの一党は「固辞し難き厳命の旨ある故」と弁じ、謗施受容を合理化し、家康没後の幕府権力の中で不受不施義を規制するに至る。
2.仏性院日奥の行業について
慶長4年(1599)家康は日重等の訴えをいれ、大阪城の対論を為さしめ、日奥に出仕を求めるも、日奥は旧の如くあくまで拒んだので、翌慶長5年(1900)これを対馬に遠流する。
「日奥は対馬国主宗智義に預けられたが、在住中は不受義の公許、法華正法の流布を祈る生活にあけくらしたようである。
日奥の祈りは道心の堅固なることをのみ祈つたのであり、この道心をもととしてすべての祈願は直結するものであるとしている。 日奥は誓願する
果報の目出度も拙きも只心操の高下による事なれば神仏にも余の事をば祈るべからず、 唯慈悲道心の深き事を祈るべしという事也。
ただ心操優しく末代までの語り伝へにもなる程の心持を持たせ給へと祈るべし。 万の願満この中に在るべし。
縦ひ祈ると錐も宿因のなき果報は更に来るべからず。
心操優しき振舞は貧賎の人の中に猶骨髄に徹する事あつて長き世語とも成り末代の人の鏡と成る事も有り然れば宿種あるは有につけ、
無きは無に付て唯心操おたしく持たば宿福の無きは出で来り、有るは弥ヒ増長すべし。
皆人本を祈らずして末を願ひ祈る事愚擬の至り仏神の御照覧も恥しき事なり、然ればせはせはと余の祈請無益なり。
只心操世に比類なき事を祈るべし。争か仏神も哀憐納受を垂れ玉はざらんや 慶長十二年丁未盛夏廿三日
新しくこの年の3月28日を結願として17日の祈願をこめる。 一心敬礼 南無上行大菩薩。
3月22日より同28日まで17日の祈念、所詮大慈大悲の大道念に住し妙法不思議の大神力に依り堅強の大勢力を出し、
天下の諺法を止めて日紹、日重、日乾等の大邪見を擢破し、宗旨の立義を前々の如く立直し、
諸天善神の御加被力を蒙つて国主を正法に引入し、一天四海、皆帰妙法の弘願を成就せしめ給へ、
呉々日奥に大正心の道念を与へ給ひて柳かも人情を起さしめ給ふべからず。 是れ深く愚をかけ奉る処なり
慶長十二年丁未三月廿八日午刻(奥聖鑑抜粋万代亀鏡録P760)
※日紹は四条妙顕寺13世龍華院、岡山蓮昌寺19世、元和8年(1622)寂、
備前金川の産、下総飯塚檀林に学ぶ、備前に帰り文禄元年蓮昌寺19世、文禄2年(1593)四条妙顕寺13世、
日奥帰洛し妙覚寺帰山した時、諸寺の総名代として日奥に改悔。 →日紹は「備前法華の系譜」中にあり(「日紹」の検索語でページ内検索を乞う)。
翌14年夏法華経百万部真俗に助力を求める(御縁起 万亀P500)。
日奥は早くより法華経読諦行をつむが、元和9年(1623)4月の日典33回忌の颯諦文によれば文禄元年(1592)日典寂年の11月28日、先師菩提の為に十万部読諦の願を起し、文禄3年先師3回忌には四千部を読諦納経する。
その後、法難乃至遠島となり思うように進渉せずも、17回忌(慶長13年)に当り諸国真俗の助を得て対馬において十万部読諦の大願を成就させる。
かくて14年再び万部の大願をおこしたのである。
そののち元和9年(1623)10月、不受不施公許の折紙を得たが日奥は当時三百十三万九千六百七十三部以上の納経を成満するが「誠に以て加様の功力、当宗制法の趣板倉伊賀守殿、公方様御耳に立てられ候処に能々聞し召し分けられ即ち御下知を成し下され当宗不受不施諺法供養両重の法度前々の如く立つべき旨仰せ下さる。信力の労大慶これに過ぎず候」(万亀500)と感悦する。
3.日奥赦免の祈りと抑制
日奥は対馬に流されて13年の在島生活をおくるが、流罪の時に随身した録内・録外御書を操り返し操り返し読んで自身の感情の動き、宗教的理性の高
揚、明闇悟冥の起伏を御書の余白に書きつけており、日奥の人間的感懐が余すところなくのべられている。 即ち
(1)日重の一党日乾・日紹及び流罪に処した家康に対する怨嵯の念、諸仏諸天は何故に彼等を罰したまわぬのかという不信の声、そして自分がまことに正義をふみ行つているのであれば彼等は必ず罰をうけ自分は赦免されるに相違ない。
(2)またこの身が諸難にあい流罪にあつたことは仏の制戒・金言の如説の行者たることの証左であると法悦にひたり。
(3)自身の日々の信行、行動を反省し、繊悔して宗祖の声を親たりに聴き、またこれを聴こうとしている と。
さて、日奥の赦免運動は早くから多くの人々の間で起され、慶長7年2月池上本門寺(13世)蓮成院日尊が日奥に送つた書状によれば、
後藤徳乗・亀屋栄仁などと一諸に家康に働きかけ、慶長11年頃、常楽院日経は実力者角南恕慶と共に諸方に赦免運動を行ない、同15年8月ごろ、対馬宗氏の家老で当時韓・明国の外交官として最も著名な柳川豊前守調信、この人はまた熱心な日奥信者で、この人が駿河の有力者と共ハに家康に赦免の訴願を働きかけ、また同16年前後、清水紹務が後藤徳乗等と運動したようである。
日奥は宗祖日蓮に信伏随従し造次顛沛(ぞうじてんばい:わずかの時)にも違うことなからんを期した人であるが、赦免に対するこの対応は日蓮の「真言諸宗違目」の制誠に符を合わすもので人々に感銘を起こさしめる。
かくして、慶長17年(1612)正月五日赦兎・・・六月四日に京に着き、板倉伊賀守に対面しぬ。
ただ、当時の人々は何人も日奥の赦免はあるまいと考えていたというも、ついに日奥は赦免される。
帰洛した日奥は妙覚寺脇坊延寿坊に入り4ヵ年止住、元和2年(1616)諸寺上人が日奥に改悔し不受不施義通用の約定を入れたのを機に本坊に入る。
ついで同山修復、本坊、客殿を再興し、同元和9年3月千余僧を請じて万部会をいとなみ、同28日成満したが、その年10月13日、不受不施義公許状を得る。
4.不受流人僧の祈りと期待 →本項「4.不受流人僧の祈りと期待」は「備前法華の系譜」に同文を掲載する。
しかしながら、不受派と受派の対立は溶解した訳ではなく、身延山を根拠とする日重の系譜をつぐ関西諸山と、江戸の池上本門寺を中心とする関東諸山の間に再び不受不施論が起り、幕府は寛永7年(1630)2月21日両者を江戸城に対論させたが、その裁決は家康の不受不施義を断ぜられた政治対決の先例を正面に出して法義内容に触れず、池上本門寺を中心とする関東諸山を敗論とし、これに出席した池上方同心の諸師を流罪、また同年3月10日、京都妙覚寺で66歳をもつて入寂していた日奥も、彼等の首魁であるとし、再犯の故をもつて再度対馬に配流と決する。
対論出席者と流罪地を次の通りである。 池上本門寺日樹 信州飯田脇坂淡路守安元 →長遠院日樹>長遠院日樹上人伝>4)文禄の受と不受の対立
中山法華経寺日賢 遠州横須賀井上河内守正利 平賀本土寺日弘 豆州戸田 上総小西談所日領 州中村相馬大膳亮義胤
下総中村談所日充 奥州岩城平内藤帯刀忠興 碑文谷法華寺日進 信州上田仙石越前守政俊
この他、対論に連坐し、出席しなかつた小湊誕生寺日延は自から進んで追放されんことを願い、はじめ伊勢神戸に預けられのち九州博多の地に赴く。
→博多香正寺/可観院日延
池上本門寺長遠院日樹は飯田の配所にあつたが病を得て翌寛永8年5月19日、58歳をもつて寂する。
このころ不受不施義を立て公儀に違犯した諸師が、法華の正義を死守し幕府権力に拮抗して毫も屈しなかつた反骨精神は当時の士庶に高く評価され、京都においても江戸においても人々の崇敬は並々でなかつた。
例えば京都妙覚寺は身延山の支配となり日乾が住持となつたが、百余の末寺は殆んど本山を捨て、僅か七力寺が本山につき、武蔵においても池上本門寺、中山法華経寺等身延支配となつた諸寺の末寺は本山を離脱し、信徒はこれらの末寺について本寺を忘れ、これによつて本寺は衰微し伽藍は雰落して法灯挑げがたい様態となり、身延山もまた諸国の参詣、運志激減するに至つている。
しかるに一方なおも不受不施義を主張する小湊誕生寺・碑文谷法華寺.平賀本土寺はいよいよ繁昌し、不受不施義を立てる新寺は厳重な新寺建立停止令にもかかわらず明暦のころ(1655)には江戸府内にさえ二百余の新寺をたてその勢威旧に倍するものがあつた。
流人となつた諸師は、当然ながら、その土地でまた深い帰敬を受ける。 寂静院日賢 領主本源寺を横須賀に建つ
→ 遠江横須賀本源寺
了心院日弘 村民長谷寺を戸田に建つ → 伊豆戸田長谷寺 守玄院日領 相馬藩家老池田直介仏立寺を相馬に建つ
→ 陸奥相馬中村仏立寺 遠寿院日充 領主庵を窪田に建つ
→ 岩城平窪田の寺地庵室(日充の庵)
修禅院日進 領主妙光寺を上田に建つ → 信濃上田妙光寺 さらに、人々は再び不受不施義再興を願い、流罪赦免を請うて祈願をこらし、好機をうかがつては赦免運動をくりひろげる。
中妙院日観(池上本門寺大坊13世)は、身池対論の裁決に服せず貫首日樹に随順して大坊を退出し、→下総野呂妙興寺に入り、ここに学室を設ける。野呂談林がこれであり、後に→安国院日講この化主となつて不受不施義を高揚する。
次いで、中妙院日観及び三浦大明寺十七世(除歴)日淳は、寛永13年4月は日光東照宮廟が竣工して大祭が行われるのを機として不受公許と流僧の宥免を訴願し
「今流罪一等の名を宥恕せられば、日樹也、生前の大望を死後に達するものか……今年東照大権現の大祭礼の佳節にあいあたる。定んで知る非常の大赦を蒙らんことを」と懇請している。
→三浦大明寺(相模衣笠大明寺)
◇寂静院日賢は遠州横須賀に井上正利の帰依を得100石の寺領を付された本源寺に住持したが、寛永15年が秀忠七回忌に当るので赦免が行われるであろうと期待し、江戸の慈淵老なる人に
「高祖・十羅刹女.妙見へ御法楽頼存候、来年は台徳院様御年忌に候条、自然は赦免の事もあるべく候欺、御くじを三返取り候て下さるべく候」
といいやつている。
日賢はこうした中で、舜統院真辺の「破邪顕正記五巻」(寛永14年閏3月刊行)の日蓮悪罵の言に対し、同年と翌15年にかけ「諭迷復宗決一巻、同別記一巻」を製し往時の弟子であつた真遣の謬義を諭す。
日賢はかく大赦を望むも、寛永21年8月24日62歳をもつて本源寺に入寂す。
◇中村檀林能化遠寿院日充は岩城平の内藤帯刀忠興に預けられ、その地の窪田に寺地庵室をたまい、藩の子弟に学問を教授する。
その生活は相当自由であつたらしく玄抽老という篤信の人が平の窪田庵に参詣訪問したとき湯治に出かけ留守であつたことを詑びているが
「尚々先度は高駕なられ候所他行故閑談をとげず御残多存候以上先日は御尋ねの処折節湯治を致し候故面上能はず御残多存候。」
岩城平は岩城温泉の温治場のそばである。
寛永9年4月21日の書状に信州伊奈の日樹より不受公許、赦免の祈念をするようにとの通知のあつたことよろこび、自分も懸命の祈念を捧げること誓い、この功験によつてこの4月の末−恐らく4月28日立教開宗会の佳日をあてたものか−には中村檀林にかえり面談できるであろうと確信しているのである。
「此元仕合せ能候間心安かるべく候、明日より一七日之御祈念相始候、池上様へも御隠密之御祈念われらに仰せ付けられ候御事、身にあまり悉存ずる事に候、当月の末へには帰談候と万々物語候べく候、すこしもきつかい有間敷候。」
日充の中村帰檀の確信は見られる如く不動のものがある。しかも寛永9年4月末の期待はおろか、年の末に日樹の計を聞くのであるが、日充は赦免を確信し、寛永16年は上様の父母の年回、即ち秀忠七回忌、母崇源院十三回忌に当るから「尤も御慈悲可有之かと頼母敷候て待入」るがこれまたむなしく、ついに慶安3年(1650)6月、57歳をもつて同地に寂した。
流僧は日奥の赦免の先例により祈願をささげたのであるが爾来多くの流僧は配処に雄志を埋めたのである。
●日奥上人曼荼羅 2023/08/29追加:
◇玉造龍華寺本尊 日奥筆曼荼羅という。 玉造龍華寺の前身は玉造庵(玉作庵)・玉造教会所である。
龍華寺本尊は玉造得城寺の隠し庵≪得城寺書院が隠れ庵であった≫にあったもので、得城寺が明治12年火災焼失で再興不能となった時、玉造教会に遷されたものと推測される。
→下総常盤村>南玉造得城寺址(玉造城址)
→下総玉造>南玉造>村の起源>玉造城址 を参照。
○「令和元年度特別展 岡山の日蓮法華」岡山県立博物館、2019 より ◇寛永2年日奥守本尊;寛永2年(1625)、佐伯本久寺蔵
川合長左衛門なる人物に授与、この時期は妙覚寺にて健在であった。24×8cm 寛永2年日奥守本尊
◇寛永3年日奥曼荼羅本尊:寛永3年(1626)、菅野幸福寺蔵(→備前48ヶ寺菅野山(正保山幸福寺))
鉄砲屋勝左衛門子息清五郎に授与、55×31cm 寛永3年日奥曼荼羅本尊 ○ヤフオクに出品 ◇
文禄2年日奥曼荼羅:文禄2年(1593)
文禄2年日奥曼荼羅1 文禄2年日奥曼荼羅2 文禄2年日奥曼荼羅3
文禄2年は方廣寺大仏殿が上棟の年で、その2年後秀吉が千僧供出仕を命ずる。 作州倉敷住情坊日■に授与
◇慶長9年日奥曼荼羅;慶長9年(1604)
慶長9年日奥曼荼羅1 慶長9年日奥曼荼羅2 慶長9年日奥曼荼羅3
慶長9年は対馬に謫居中、戸川又左衛門尉内■辰蔵(不詳)に授与する。 寸法:総寸約 86×25cm、本紙約 39×16cm
○某古美術商がネット販売
◇寛永2年日奥曼荼
寛永2年日奥曼荼羅1 寛永2年日奥曼荼羅2 寛永2年日奥曼荼羅3 寛永2年日奥曼荼羅4 津山教藏院日暎(不詳)に授与、美作津山地方にも不受不施の教線は伸びていたものの傍証であろう。 画寸:150(W)× 340(H)
[mm] 軸装:280(W)× 900(H) [mm] ○推定慶長7年日奥「髭題目(曼荼羅)」 備前野々口實成寺跡の「髭題目(曼荼羅)」に掲載
2024/08/03追加: ○「栗源町文化財資料目録」栗源町教育委員会、1993 より 日奥曼荼羅 日奥曼荼羅:寛永7年3月、澤2848 工藤安彦氏蔵
所伝などの説明なし。画像は小さい。
◆日奥供養塔 多くの供養塔がある。 ◇丹波小泉好堅寺 → 丹波小泉好堅寺に日奥上人供養塔あり。
◇備前和気郡益原日奥上人供養塔:益原法泉寺遥か南方にあり。
日奥の文字を隠し意図で、「中興開山佛性院日奥上人」を略して「中開佛奥上」と刻す。 → M佛性院日奥聖人の隠れ墓を訪ねて中
◇備前津島妙善寺 → 備前津島妙善寺に日奥上人墓碑あり。
◇備前鹿瀬講門派本山本覺寺
◇備前金川祖山妙覚寺
◇備前金川妙國寺>備前金川見谷妙國寺跡>第3石塔・日奥銘:正面:南無妙法蓮華経 日奥・・にあり。
この石塔は古いものと思われ、禁制の時代密かに守られてきたものと思われる。
◇◇ 以下は「山陽諸国の日蓮宗諸寺」中にあり。 基本的に検索窓(Ctrl
+ F)で、検索語を入力して、参照を乞う。
△の次が検索文字列。 △備前野々口實成庵
日典・日奥供養塔あり →備前野々口實成庵
△日奥上人供養塔・祖山妙覚寺歴世墓碑 備前平井祖山妙覚寺墓所に日奥聖人供養塔及び日奥聖人300遠忌報恩塔あり。
岡山市野々口である。 △御野郡濱村三十番神堂
日奥と刻むと思われる題目石があるが、摩耗して日奥と断定することはできない。 備前濱村である。祖師堂は退転か。
△福居祖師堂跡 日蓮大覚日奥題目石がある。 備前御野郡福居である。祖師堂は退転か。
△備前下正野田講門派祖師堂・・・・・・・・2)講門派祖師堂 ○「大野学区六十年のあゆみ」平成25年(2013) では
「3間に2間半の瓦葺きの堂であったが、昭和41(1966)年1月、祖師堂公会堂として建て直す。
祭祀:題目、題目石(恵運院日心)、題目石(日蓮大士)、三方題目石
三方題目石には、三法に題目を刻み、東面に大覺和尚・日典聖人・日船聖人・日奥聖人・日相聖人、
南面に日朗菩薩・日蓮大菩薩・日像菩薩、西面に日賢聖人・日弘聖人・日進聖人・日頌聖人・日充聖人の名を刻む。」という
しかし、題目石の配置に余裕がなく、日奥聖人は現認できず。 △日蓮講門宗備前大安寺 日奥300遠忌報恩塔 あり。
備前岡山講門派大安寺山内にあり。 △備前北長瀬不受不施派祖師堂(北長瀬御先師堂)
日典日奥日船題目碑:少々判別し難いが、題目と日典日奥日船三聖人と刻む。 祖師堂内に安置。
△備中山田のお塚:山田の隠し墓:山田(小字金場、2080-1番地)に所在
宝塔4・題目碑・北側面:題目、日典聖人、日奥聖人、日船聖人 と刻む。 その他多くの不受不施派先師の宝塔類あり。
◇◇ 以下は「関東諸国の日蓮宗諸寺」中にあり。
△下総沢日講万部石塔中;日奧・日樹・日述石塔あり。
△下総玉造妙見台墓地に日奥・日進の供養塔あり。
△下総玉造前野墓地:玉造前野墓地中
「日奥日樹日賢日弘日領日進日充先師碑」 がある。 △下総中村谷津妙観寺
「日蓮上人正系先師題目角塔」 があり、日奥の奥は削られるも、微かな形跡が残る。 △下総坂ガケラントウ墓地:日蓮・日奥・日樹・日述・日遣供養塔がある。 △下総中村飯倉台遠忌碑
多古飯倉台墓地に「日樹・日奥の百五十遠忌、日述百遠忌碑」というも、墓地の位置が不明で未見である。 △下総島正覚寺中・・・2基あり。
東1)東・日奥上人供養塔
東・日奥上人供養塔1:南無妙法蓮華経 日奧大聖人、 東・日奥上人供養塔2:寛永七庚牛三月十日
東・日奥上人供養塔3:擬二百五十御遠忌報恩謝徳/嶋村信徒中
西1)西・日奥上人供養塔
◇西・日奥上人供養塔1 西・日奥上人供養塔2
この供養塔は石塔所西側にあり東面する。東側にも日奧石塔あり。 側面:奉[?]■■[以下不明]
明■■八年乙未四月十三日■■[以下不明]
※乙未は明治28年であるので、明治28年つまり不受不施派再興の後の造塔と知れる。
△下総正覚寺水戸教会に
南1)日奧供養塔 南3)日蓮・日奧・日樹・日述供養塔:日蓮500遠忌、日奥150遠忌、日樹150遠忌、日述100遠忌供養塔
南4)日蓮上人正系先師供養塔: 正面には日蓮・日朗・日像三菩薩、 側面には日親・日奧・日講・日述・日浣、
逆側面には日樹・日賢・日進・日領・日弘・日充 裏面には判読不能な僧侶6名の各先師を刻する。 の石塔がある。
2023/10/15追加:
◆日奥上人書簡等 ○下総大原大谷家 下総大原・大谷家は、不受不施派史料として重要な日奥の『諫暁神明記』やその書簡などを所蔵する。
→大原観音堂跡(成就院跡)<大原・東台・中佐野・東佐野・染井中>に「書簡」などを掲載。
参考文献:
「不受不施の信仰」渡辺宝陽(「日蓮信仰の歴史」講座日蓮3、昭和47年 所収)
「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和51年
「日蓮とその弟子」宮崎英修、平楽寺書店、平成9年
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●實成院日典:備前野々口村に生れる。
日典を出した大村氏は松田氏の重臣で、松田氏が滅んだ後、野々口に土着する。(日典は備前宇垣村の出という。)
直江山城守兼継の帰依により佐渡塚原根本寺<根本寺8世>を再興、
永禄6年(1563)下総藻原妙光寺13世、池上本門寺を住職を経て永禄9年京都具足山妙覚寺18世となる。
※具足山妙覚寺20世とする場合が多い。 祖山妙覚寺・京都具足山妙覚寺とも
開基 日蓮大聖人蓮長 2世 大国阿闍梨日朗 池上2世 3世 肥後阿闍梨日像 四条妙顕寺開基、京都妙覚寺開山
4世 大覚大僧正妙実 ↓ 20世 実成院日典 21世 仏性院日奥
が公式見解であるが、日像を妙顯寺・妙覚寺開山とする立場からは、日典18世、日奥19世ということであろう。
天正20年(1592)遷化。壽72。・・天正20年は文禄と改元。
備前には時折巡錫し、曼荼羅にそのように記される。
野々口には御典師様と称する小宇があり、日典上人が祀られる。
2018/11/15追加:
○「岡山市史 宗教教育編」岡山市史編集委員会、昭和43年 より
日典は備前の人、14歳で妙覚寺で得度、17歳で関東に下向、池上の日現・平賀の日隆について宗学を修むる。
36歳で茂原妙光寺貫主、次いで39歳で妙覚寺に登り第18世を継ぐ。
故に日典の教学は旧関東系で、それを受けた日奥の教学も旧関東系であったと云える。
これに対し、日奥と対立した本満寺日重の学風は教学中心というより天台学中心の立場に立つ堺妙国寺日bの学風を継承したものであった。この日bの学風はややもすれば偏狭になりがちな伝統宗学への批判であり、かつ日蓮主義に対する当時の他宗門からの攻撃を躱(かわ)すには都合の良いものであったとも言える。 従って、この日bの学風はやがて関東関西を風靡するに至る。
ここにおいても、宗学の復興を説く日典日奥と台学中心の日b日重の系統が激しく対立する萌芽となる。
日典の時代、受と不受の対立は顕在化しなかったけれども、日典は将来その対立を見通していたのであろうか
弟子日奥に対して、種々の敵が現れるであろう、しかし強固な意志を持て排撃すべしと励ますという。
(「仏教学より見たる奧師の思想」坂本幸雄(「日蓮宗不受不施派の研究」所収) より) 2019/02/27追加:
○「御津町史」御津町史編纂委員会、昭和60年 より 實成院日典 享禄元年(1528)吉尾村小坂に生まれる。
※本著に吉尾の題目石の写真があり、天正廿壬辰年(1592)との記載があるが、これは寂年である。 9歳で野々口駒井山實成寺に入門、24再で得度、日典と名乗る。
天文13年(1544)17歳で関東で修行、池上の佛壽院日現に師事する。 永禄6年(1563)36歳にて下総藻原妙光寺13世貫主、
永禄9年には39歳にて京都妙覚寺貫主となる。妙覚寺の復興に務め七堂伽藍を整備する。 天正14年(1586)焼失していた駒井山實成寺を再興、 天正18年佐渡塚原根本寺を復興、8世となる。 天正19年紀伊宇治村法性山本光寺(紀伊日蓮宗諸寺中、現・吸上本光寺)を創建、など 再興及び創建した寺院は10余ヶ寺に及ぶという。 (備前西河原大林寺開山 → 備前御野郡竹田村・西河原村中) 天正20年(1592)7月25日妙覚寺で遷化、65歳。
→備前吉尾日典上人産湯の井戸:生誕地
→備前野々口實成庵に日典供養塔あり。
◆日典開基寺院 ○京都妙覚寺寺中實成院 →山城妙覚寺 ○山城久我満願寺 →山城久我村中
○山城久我妙昌寺 → 同 上 ○備前野々口實成寺:寛文6年廃寺 →備前野々口實成寺跡
○備前岡山西河原大林寺 ほか、本項に記載。
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2013/01/17追加:2023/09/03修正:
◆究竟院日(大仏殿千僧供養会を廻る評価):
六条本國寺16世・山城嵯峨常寂光寺開山日ワ辮lについて以下のような評価がある。また日モヘ備前浦伊部妙圀寺12世でもある。
○山城嵯峨常寂光寺のサイトでは以下のように云う。
文禄四年
(1595)、豊臣秀吉が建立した東山方広寺大仏殿の千僧供養への出仕・不出仕をめぐって、京都の本山が二派に分裂したとき、上人は、不受不施の宗制を守って、出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出て小倉山の地に隠栖し、常寂光寺を開創した。
さらに
○常寂光寺発行リーフレットでは以下のように述べる。
「日ワ辮lは不受不施の宗制を守って出仕に応ぜず、やがて本圀寺を出て、この地に隠棲」
※日ワ辮lが宗制(不受不施)を貫徹したという評価は必ずしも他の文献ではなされていないのが実情であろうと思われる。
つまり、一般的には日奥上人一人が千僧供への出仕に宗制に背くとして反対し、その志を貫くとされる。
一方
日ワ辮lの評価については、日奥上人と並ぶ関西の急先鋒という評価がある反面、その正反対の本満寺日重上人などと同志であるとの評価もあり、さらには、慶長4年(1599)大阪城対論では、日ワ辮lは潮時と判断し出仕を約束したとも云
う。
以下、諸文献における「千僧供養会を廻る評価」を見ることとする。
まず
○「日蓮宗教団史概説」影山尭雄、昭和34年 より
文禄4年(1595)大仏千僧供養会の出仕に関して「京中諸寺僧は本國寺に集合・・・出仕と決したが、日奥一人反対した。・・・本満寺日重をはじめ諸寺はついに出仕した。」
慶長4年(1599)家康は大阪城中に日奥を召し、京都妙顕寺日紹と対論をせしめ、結果日奥は公儀背反の罪により対馬に遠島となる。この後受・不受の対立は次第に先鋭化し、「本國寺日メE池上日惺は不受側の東西両雄であり・・・・本満寺日重やその弟子日乾・日遠・・・は受派の中心人物となった。」
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、昭和51年 より 、文禄4年9月22日の宗門会議について以下のように記述する。
文禄4年(1595)9月12日、秀吉の千僧供養会の布達が奉行前田玄以より京都16本山に届く。
22日京都本圀寺にて宗門会議が開かれる。
その結果、会議の決定は宗門護持が肝要で、一度は宗制(不受不施)を枉げるのも止む無しと云うものであった。
日奥は「少しく遅参」したが、宗門会議の決定に対し、宗制があっての宗門であって、宗制を枉げて権力に屈するのは単なる妥協論でしかなく、あくまで宗制を護持しその結果が宗門の瓦解であってもその道を選ぶべきものと強く主張する。
これに対し、本圀寺日モヘ日奥の所論にほぼ賛同の気色があったが、その他の衆僧は沈思黙考し、本満寺日重のみ罵倒すると云う。
「日蓮とその弟子」では本国寺日メA妙顕寺日紹、日重弟子日乾は日奥に賛意を表す。
日奥及び3人は再度言葉を励まし不出仕を主張するも、大勢は一度出仕することに決する。
かく決した以上、日メE日紹・日乾も出寺を決意して帰寺したのである。
しかし、日紹・日乾は日重の説得に屈し出仕することになり、日モヘ本国寺を出て嵯峨小倉山に隠棲する。
再度の議論の結果、妙顕寺、本法寺、本能寺、立本寺、妙蓮寺、本満寺、本國寺、要法寺、頂妙寺、妙伝寺、妙満寺、本禅寺、など14本寺が一度出仕することに賛意を示す。
文禄4年9月25日、日奥を除く京都諸本山の諸師は京都方広寺大仏開眼供養に出仕する。
日奥はその日の夜半、妙覚寺を出寺し、最終的には丹波小泉(好賢寺・好堅寺)に潜伏する。
○「不受不施の信仰」渡辺宝陽(「日蓮信仰の歴史」講座日蓮3、昭和47年 所収) より
文禄4年9月10日「千僧供養会」の招請上が発せられ、12日に法華宗諸寺に届く。
京都諸寺では貫主・住持、僧侶、太檀越の間で議論を重ねる。
9月22日本國寺日メA立本寺日抽、頂妙寺日暁、本法寺日通、本國寺学道求法院講主日乾等が本國寺に会合する。
この席で長老的な存在であった本満寺日重は、出仕は宗制を破ることになるが、出仕を断れば国主の怒りをかい、宗門がどのような災難を蒙るかは図り難く、よって宗門護持の観点から、一日だけ出仕して、翌日から出仕御面を願う行動に出ると云うことで会議を纏めようとする。
日奥は遅参するつもりであったが、会議が出仕する方向に傾斜するのを察した妙覚寺太檀越志水右甫の知らせで、日奥は会議に駆けつける。日重から出仕の方向に決すると告げられるも、日奥は出仕は祖師以来の伝統を破ることになると強く異を唱え、諸師に反意を促す。
確かに日奥の論は正論であり、本国寺日メA妙顕寺日紹、求法院講主日乾らは一応日奥に賛意を表する。しかし日重の訴えは宗門の置かれている困難な立場を訴えるものであり、結局は一日だけは出仕することに決する。
(しかし一日だけ出仕し翌日からは宗制を訴えるということは実行されず、秀吉の没するまで出仕は毎年続けられることとなる。)
日奥のほか、日メA日紹、日乾らは、なをも反対するも、日奥以外は翌日の説得で出仕することを確認したと云う。
日奥は妙覚寺に帰り、不出仕を説くも、妙覚寺の多くの僧俗は弾圧を恐れ、出仕を主張し、日奥に対する不満が充満したと云う。
太檀越後藤光乗・徳乗父子は来りて、日奥に反意するように忠告があったと云う。
同日夜半、日奥は「法華宗諌状」を書上げ、翌25日には伏見城に赴き呈上するつもりであったが、檀越らの強い制止に遭う。
翌25日衆徒大衆は妙覚寺に禍をもたらすから、霊宝等を携え退去するように要求する。日奥は先師日典より譲られた霊符・財宝などを後藤徳乗に預け、その夜妙覚寺に決別する。
日奥が処々を転々とし最終的には丹波小泉に隠棲したことは上述のとおりであるが、これは丹波小泉の領主前田玄以の好意であった。 玄以は日奥の高潔な行動に心を動かされたことと玄以と親しい豪商辻氏、後藤氏、清水氏などの斡旋があったものと推測される。
翌25日からの千僧供養会には最初反対した日乾は師である日重に意見され出仕し、妙顕寺日紹へ出仕を勧誘することとなる。 本国寺日モヘ秀吉と親しい小出秀正と相談しつつ不
出仕を貫き、翌文禄5年4月本國寺を日桓に譲り、嵯峨に隠棲(後の常寂光寺)し、日奥とともに出仕者を攻撃したのである。
なお、日モヘ文禄5年4月に本國寺を発ち、佐渡の日蓮霊跡を巡拝し、同年、京に戻ると小倉山に常寂光寺を開山して隠棲するという。
要法寺の対応:
なお日尊門流要法寺21世日性は自らは本國寺の会合には参加せず、日賙(にちしゅう)を以って不出仕を主張させ、自身は一度も出仕しなかったが、要法寺としては出仕したらしいと云う。
○出所忘失 究竟院日ワ辮l:永禄4年(1561)-元和3年(1617)
権大納言広橋国光の子。幼少の時、本國寺15世日栖上人に師事、18歳にして本國寺16世を継ぐ。
多くの帰依者があるが、著名人には瑞竜院日秀(豊臣秀吉実姉・村雲瑞龍寺門跡開基)、日秀夫の三好吉房、木下勝俊(長嘯子)、その実弟小早川秀秋、加藤清正、小出秀政などがいる。
2018/07/04追加; ○「京都の社寺文化」(財)京都府文化財保護基金、昭和46年 より 日ワ辮l:
天正6年(1578)わずか18歳にして六条本国寺16世の法灯を継ぐ。
宗学の造詣が深く、歌人としても当代一流で、三好吉房(秀吉の姉婿)、瑞龍院日秀(秀吉の実姉)、加藤清正、小早川秀秋、小出秀政など多くの帰依者を得る。
文禄4年(1595)権僧正に昇叙する。この年東山方広寺大仏の開眼千僧供養が行われ、これに出仕を要請された洛内日蓮宗は、これの諾否をめぐって、受不施と不受不施の二派に割れて分立する。
日モヘ妙覚寺日奥とともに不受不施を主張し、秀吉の命に背いて出仕せず。秀吉からの追及はなかったが、本国寺住職を弟子の日桓に譲り、隠棲の地を小倉山山麓に定める。これが常寂光寺の開創である。
この当時、小倉山山麓一帯は角倉栄可(了以の岳父)の土地であったが、日モフ懇請によって榮可はこれに土地を寄せ、小早川秀秋などの帰依者が堂宇の建立を授ける。
一方了以は大堰川浚渫工事を慶長11年(1606)に完成させたが、日モヘ了以の要請によって舟夫の斡旋に当たったという。 即ち六条本国寺の備前における末寺法蔵寺の檀家であった舟夫の一群を嵯峨に呼び寄せ、当寺に寄宿させ高瀬舟の運航に当たらせたという。
2022/10/16追加; ○「撮要録二十九」 より
邑久郡牛窓村 法蔵寺乗蓮坊 本寺日蓮宗浦伊部妙圀寺 住僧還俗 寺田畑薮賜同人 ○「岡山県の地名」 より 日蓮宗法蔵寺乗蓮坊(浦伊部妙圀寺末)寛文年中廃寺
慶長11年(1606)角倉了以によって大堰川の水運が開かれるが、この時六条本圀寺16世日モフ仲介により、浦伊部妙圀寺の檀徒である豪商来住法悦が浦伊部の船頭・船大工を京都に派遣したとされる。日リJ基の常寂光寺の檀家には法蔵寺の檀家であったという檀家が多い。
2023/09/04追加: ○「令和元年度特別展 岡山の日蓮法華」2019 より ・日ラ鞫 日ラ鞫
絹本着色、文禄5年(1556)、京都国立博物館蔵、91×48cm。
慶長7年(1602)再興された浦伊部妙圀寺に赴き、千部経読誦會をを修して50日滞在する。この時、日モヘ妙圀寺末寺である法蔵寺の檀徒に舟夫が多いことを知る。
・本國寺日ン刪齦ユ首題寄書 本國寺日ン刪齦ユ首題寄書
絹本墨書、天正18年(1590)、個人蔵
上段中央に日モフ一遍首題が青地に金字で描かれる。日モェ首席である。願主は法悦日住とあり、法悦日住の依頼により京都を中心に首題を集めたものである。法悦日住の信仰心・経済力に応えたものであろう。法悦日住と日モフ交流は長く続き、書状・法名補任状・十界勧請諸尊厨子などの史料が残されている。
→六条本國寺 →山城嵯峨常寂光寺 →備前浦伊部妙圀寺
★紫竹常徳寺
当寺は知足院(園城寺別院、関白藤原忠実が別邸とする)の寺跡を継ぐと云うも、詳細は不詳。
知足山と号する。
寛永5年(1628)日奥上人を開基とし、常徳寺が開山される。
寛永7年(1630)身池対論、日奥は死後流罪とされ、おそらく常徳寺もその余波で衰微すると思われる。
その後、観性院日猷(延宝2年(1674)寂)、金工後藤氏の帰依を受け、中興す。
※観性院日猷:下掲の「梅花鶯囀記」では不受不施僧で後に悲田派に転ずる。悲田派禁制の後の消息は不明。
2016/02/10追加:
明治3年「日蓮宗本末一覧」より
紫竹常徳寺末寺
本要寺(本法寺前町)
◆備前大安寺Webサイト:この当時の記録がある。
本サイトの
「資料集」には多くの情報がある。
○「梅花鶯囀記」(日念上人):
・・・・その後身延山日筵この悲田の悪儀を公儀へ申し上げて悲田派を滅亡せり。
この時日明、日禅、日純等或いは身延山の下になり、或いは天台宗になり。
備前蓮昌寺の先住日精聖人、京都紫竹常徳寺住持日猷聖人、上鳥羽実相寺住持了性院日性等皆悲田におちおわんぬ。・・・・
※日明は小湊誕生寺、日禅は碑文谷法華寺、日純は谷中感応寺
※上鳥羽実相寺は大覚大僧正開基寺院中にあり
○「説黙日課」(日講上人)元禄3年(1690)〜元禄4年:
・・・・誕生の一寺ただ身延の末寺と称せず、一本寺と為さんと欲する趣き愁訴す。住持は身延の支配なり。云云 また京大坂公儀より触状の写し到来す。その中小湊等の三寺身延の末寺と成る文言有り。かつ京都の紫竹常徳寺及び鶏冠井石塔寺妙顕寺の末寺と成る。紫竹兼ねて無住の由を称す。・・・・
※元禄4年(1691)幕府は悲田派を新義異流として禁止する。
※以上の記録から、日奥以降の常徳寺・日猷上人は悲田派に転じた様子であり、しかしそれも叶わず悲田派は禁教となり、京都受派妙顕寺に摂取された様子が分かる。以降四条妙顕寺末のままと思われる。
※以上の経緯があるためと思われるが、現在、日奥上人などの旧跡であることは一般にはほとんど知られない。
※悲田宗については、谷中感応寺、小湊誕生寺 などを参照。
2012/04/03追加:昭和51年朝日新聞記事 より
日奥上人坐像:紫竹常徳寺にて:近世不受不施派の始祖と云われる日奥上人
2010/02/25撮影:
現在、山門、本堂、書院、庫裏、鬼子母神などの堂宇を有し、後藤氏一族の墓がある。
紫竹常徳寺山門 紫竹常徳寺本堂
2016/05/26撮影:
紫竹常徳寺山門2 門前題目碑側面:大覚大僧正作日蓮像があると思われるも不詳。
旧山号寺号碑:旧寺号碑と推定。
紫竹常徳寺本堂2 紫竹常徳寺本堂3 紫竹常徳寺客殿 常徳寺妙法大二神
後藤家墓碑?
後藤長乗ほか、演乗、達乗、真乗、実乗、玄乗、可乗、東乗、源乗など歴代(1代-6代を除く)、後藤一族の墓があるという。
2023/08/17追加: 14世は「定慧院日堅 宝暦8年12月1日寂」である。 日厳は、中村檀林92世・松ケ崎檀林66世・京北常徳寺14世・和歌山感応寺15世などを歴任、下総多古浄妙寺21世でもある。
2019/09/19追加: ◆紫竹常徳寺末寺 ※判明分 下総佐倉昌柏寺 →下総佐倉昌柏寺
2010/03/06作成:2024/10/06更新:ホームページ、日本の塔婆、日蓮の正系
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