武 蔵 ・ 相 模 の 日 蓮 宗 諸 寺

武蔵・相模の日蓮宗諸寺

武蔵の諸寺

武蔵柴又帝釈天

 →柴又題経寺

武蔵谷中感應寺

 →谷中感応寺(現天台宗)

武蔵雑司谷法明寺

 →雑司ヶ谷法明寺

武蔵長徳山妙行寺

法華宗陣門流、東京都豊島区西巣鴨4-8-28 多宝塔を有する。
 → 明治以降の多宝塔722

武蔵池上本門寺

 →池上本門寺

江戸土冨店長遠寺

台東区元浅草2-2-3
長遠院日樹上人の開創と伝える。
 → 江戸土冨店長遠寺

江戸市野倉長勝寺

大田区中央6-6-5
日樹上人供養塔がある。
 → 江戸市野倉長勝寺
2019/07/28追加:
覺應山と号する。正保3年(1646)創立。開山陽善院日繕。開基檀越田中長勝。
寛文元年(1661)下総大野法蓮寺日完の開眼銘のある日蓮上人坐像がある。
 →日完については「備前法華の系譜」中にあり、「日完」のワードで検索<ctl + F>を乞う。
銘によれば、この像は正永山了性寺の祖師像として開眼するという。おそらく、了性寺も寛文の法難に連座して、祖師像が長勝寺に遷されたのであろう。
さらに長勝寺は池上本門寺末から小湊誕生寺末に転じ、日樹上人の供養塔もある。
 ※不受不施派から悲田派に転じ、その後受派に接取されたものと推測される。

原宿妙圓寺

2019/09/03追加:
サイト:猫の足あと>蓮光山妙円寺|安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の信仰 に詳しい情報がある。
以下上記ページの要約
「渋谷区史」による妙円寺の縁起 では
妙圓寺(原宿一丁目六四番地):小湊誕生寺末、蓮光山と号する。
寛永4年(1627)円成院日光が四ツ谷千日谷(今の鮫河橋八軒町)に草菴を営なみ、それが妙圓寺となる。
その後荒廃するも、立正院日寛が、小湊誕生寺26世日孝の依頼を受けて入寺、整理する所あり、宝永3(1706)年穏田村の檀家百姓又兵衛の寄進地(現在地)に移る。
なお、熊野権現の別当であつた。熊野権現も穏田村にあり。日光の勧請する所で、その後安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の再建にかかる。
前田氏は、本寺の造営にも力を添えたものと見えて、現存の寺門の瓦には、前田氏の梅鉢の家紋がある。
寺宝に、浅野光晟の室前田氏が自写せる法華経八巻を蔵し、萬治二年(1659)二月の奥書がある。熊野権現に奉納したのを神仏分離の際、本寺の有に帰す。前田氏、名は満、利常の女、法名を自昌院英心日妙という、元禄13年(1700)7月27日に歿す。
2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収)
 この当時、小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺を創設する。
すると養珠院は徳川頼宣の42厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院↓)を建て千駄谷に移す。
開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。
妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永3年(1708)に移る。
 東都青山絵図:安永年中(1772-81)/妙圓寺が描かれる。

千駄谷仙壽院

2019/09/03追加:
サイト:猫の足あと>法雲山仙寿院|紀伊藩徳川頼宣の生母お萬の方の発願、新日暮の郷 に詳しい情報がある。
以下上記ページの要約
「渋谷区史」による仙寿院の縁起 などでは
仙壽院
甲州巨摩郡本遠寺末。法雲山東漸寺仙寿院と号す。
はじめ寛永五年(1628)紀州家の山屋敷(赤坂喰違屋敷の一部)に草庵が設けられ、正保元年(1644)十一月現在の場所に移して寺としたことが、文政の書上にある。「江戸名所図会」によれば、當寺は紀州頼宣公御母堂養珠院日心大姉、正保紀元甲申草創あり。當寺の鬼子母神は、同大姉の延嶺(甲州身延山)にして、霊示を感じ。大野の邊の土中に得られて後、當寺開創、落成の日、安置ありしとなり。と記されている。
江戸期には、境内四千六百五十三坪を有する。
開山は里見日遥(一源院日遥・安房の太守里見義康の次子)、日遥は後に飯高檀林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村村田妙法寺へ瑞世した。日遥を祖とする千駄ヶ谷法類は、当山を縁頭寺とする。
2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収)
 この当時、小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺↑を創設する。
すると養珠院は徳川頼宣の42厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院↓)を建て千駄谷に移す。
開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。
妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永3年(1708)に移る。
 東都青山絵図:安永年中(1772-81)/仙壽院が描かれる。

------------------ 以下江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人 -----------------

   → 江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人

------------------ 江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人 終り -----------------

武蔵芝日本榎承教寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長祐山と号す、大檀林、池上本門寺末。末寺2
正安元年(1299)一条院日圓によって西芝((現:港区虎ノ門)の地に開山、池上・芳師法縁。
承応3年(1654)現在地へ移転。池上門末触頭となる。
延享2年(1745)類焼、山門・仁王門・鐘楼は類焼を免れ現存する。現在の本堂は天明元年(1781)建立。
明治初頭大教院後の大檀林を当寺に設置、明治37年廃壇。
 大教院承教寺の図:法華諸国靈場記圖繪、明治15年
  →日蓮宗大檀林
○Wikipedia より
英一蝶の墓:本堂脇にある。東京都指定旧跡。塔頭の顕乗院(退転・廃寺)から改葬される。
墓標は安政の大地震で破損し、明治6年六世孫の英一蜻が復刻。
二本榎の碑:山門脇にある。
上総木更津光明寺本堂は文政13年(1830)承教寺の客殿を移築する。昭和47年改築という。
旧末寺:
○長泉山妙福寺(東京都港区高輪) →直下に掲載。
朝日山安立寺(秋田県大館市花岡町猫鼻)
○現地説明板には次のようにある。
英一蝶:承応元年(1652)大坂に生まれ、幼少のころ江戸に移る。元禄11年(1698)「当世百人一首」や「朝妻舟」の図などが将軍綱吉を風刺したとして三宅島に配流となったが、在島12年ののち大赦により江戸に戻った。享保9年(1724)73歳で没する。
2022/12/26撮影:
 芝承教寺山門     芝承教寺仁王門
 承教寺日蓮石碑:安永9年(1780)の年紀     承教寺題目石:無縁法界塔
 承教寺大檀林跡石碑
 芝承教寺本堂1     芝承教寺本堂2     芝承教寺本堂3     芝承教寺客殿・庫裏
 芝承教寺鐘楼     英一蝶墓碑1     英一蝶墓碑2:「北窓翁一蝶墳」と刻する。
 山内の日本榎石碑


武蔵芝日本榎妙福寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長泉山と号す、芝承教寺末。
正安2年(1300)日宝により開山、池上・芳師法縁。
承応2年(1653)赤坂より現在地へ移転。
現在の本堂・庫裏は昭和9年建立。
2022/12/26撮影:
承教寺山門と仁王門の参道にある。境内は狭隘で本堂・庫裏のみが建つ。
 芝妙福寺全景     芝妙福寺入口     芝妙福寺本堂庫裡


武蔵白金覺林寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
最正山と号す、清正公、小湊誕生寺末、潮師法縁。
  →清正公信仰
寛永8年(1631)可観院日延(寛文5年寂)の開山。
 ※可観院日延:加藤清正によって召致された李氏朝鮮の王子という。小湊誕生寺18世。兄は熊本本妙寺3世本行院日遥。
 但し、現在では日遥と日延が兄弟であることは否定されている。
○「芝區誌」 より
覺林寺 白金今里町四番地
日蓮宗安房誕生寺末、寛永年間創建し、最正山と號する。開山は僧日延である。
門外電車通に大石標が立つて居り、其表面には「鎮守清正公大神儀」背面には「寛延四辛歳閏六月二十一日最正山日要」と鐫つてある。
 中略
正面は清正堂で、・・・
寺傳に依ると、文禄年間清正凱旋の時、朝鮮人を伴つて歸り、安房誕生寺の貫主とした。其貫主こそ日延で、寛永四年に江戸に来り、八年に當寺を開いたといふ。
 中略
なほ境内には祖師堂、妙法堂、稲荷祠がある。
○「御府内寺社備考」 より
安房国小湊誕生寺末 白金村
最正山覚林寺、境内古跡年貢地248坪外抱地360坪
起立之儀は本寺十八世可観院日延寛永年中 吋所に隠居仕其後承応(1652-1654)2年久成坊と申者借地に於開基仕候。寺号之儀を開山代○○○相分不申候元禄五壬申年五月寺社御奉行本多紀伊守様
厳有院様 御善古跡寺院に被仰付候。 ※厳有院:徳川家綱
開山可観院日延寛文五乙未年正月廿六日卒。
本堂、梁間三間桁行五間。内棟方二間。本尊三宝祖師。
鎮守清正神儀堂。内棟二間半二間。中之間、三間半に二間。拝殿一間半六間。
清正神儀、木坐像丈一尺一寸。右は開山日延代安座し来候。
釈迦牟尼佛、木立像丈五寸。右は清正神儀陣中当本額背小大光山日植と祀有之。細字法華経一部。
 以下、略
2022/12/26撮影:
覚林寺は弘化2年(1845)の大火で全焼する。
山門は安政3年(1856)、清正公堂は慶応元年(1865)に再建される。
清正公堂は拝殿・幣殿・本殿からなる権現造、拝殿は間口3間奥行3間、幣殿は間口1間奥行3間、何れも唐様を用いる。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建と云う。
 覚林寺清正公大神祇石碑     覚林寺山門     覚林寺境内1     覚林寺境内2
 覚林寺題目石     覚林寺題目石他3基     覚林寺本堂     覚林寺毘沙門堂     覚林寺稲荷社
 覚林寺清正公堂拝殿1     覚林寺清正公堂拝殿2     覚林寺清正公堂1     覚林寺清正公堂2


武蔵白金立行寺

大久保寺。智光山と号す、法華宗陣門流(越後三条本成寺派)。京都本禅寺末。
寛永7年(1630)日通(延宝5年/1677寂)によって開山、開基檀越は旗本大久保彦左衛門(大久保忠教)である。
寛文8年(1668)火災焼失、現在地に移転。
○「新編武蔵風土記稿」 より
(麻布領白金村)立行寺
境内除地1812坪6合、年貢地421坪。重秀寺の東にあり。法華宗京都本禅寺末、智光山と号す。
開山日通聖人、延宝5年9月8日寂す。本堂10間に6間、本尊三宝を安置す。
 以下略
○「芝區誌」 より
立行寺(以下大意)
法華宗京都本禅寺末、智光山と稱する。當寺の開祖は日通上人で、其初め麻布市兵衛町に小庵を結ぶ。・・・
しかし寺内の隆盛と共に、此地が狭隘となり・・・、大久保彦左衛門忠教、其他數百の信徒に謀り、寛永七年九月同地に一宇を建立する。これが智光山立行寺である。
後、寛文八年火災に逢つて焼失し、今の地に移る。延享二年再び灰燼に歸し、幾もなく新築の堂宇を落成する。
慶應四年の變亂に遭遇し、檀家が離散する。
2022/12/26撮影:
大久保彦左衛門忠教墓:
戒名;了眞院殿日清、没年齢 80歳、墓は宝篋印塔、高さ約350cm。
なお、大久保忠教の墓は以下にもある。
京都本禅寺:五輪塔(題目石)
・岡崎長福寺(岡崎市竜泉寺町):五輪塔(題目石)<未見>
 立行寺山門     立行寺本堂     立行寺客殿・庫裏     立行寺鐘楼     立行寺題目石
 立行寺大久保家墓所1     立行寺大久保家墓所2     立行寺大久保家墓所3     立行寺大久保家墓所4
 立行寺大久保家墓碑1     立行寺大久保家墓碑2     立行寺大久保家墓碑3
 大久保忠教廟


江戸碑文谷法華寺

目黒区碑文谷1-22-22
2019/09/10追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
碑文谷法華寺
 縁起によれば嘉祥元年(848)慈覚大師の開基とされる。その建築は東京南部の最古のものとされ、特別保護建造物に指定される。
 ※その建築とは本堂釈迦堂で室町初期の建築とされる。現在は重文。また日源五重石塔がある。
 ※圓融寺のページでは「比叡山延暦寺の末寺、妙光山法服寺が開山されたのは、・・・平安前期の仁寿3年(853)」という。
 ※中世から近世にかけては吉良氏や徳川氏の外護を受け、寺中18、末寺75箇寺を数えるという。
弘安6年(1283)日源により日蓮宗に改宗、妙光山法華寺と改称する。
  ※日源については岩本実相寺を参照
寛永7年(1630)身池対論の時、第11世修禅院日進は日樹と同座し、信濃上田に流される。
  →上田妙光寺<信濃の日蓮宗諸寺中>に蟄居。
2019/10/26追加:
○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より
◇碑文谷法華寺・平賀本土寺の反撃
 碑文谷日進は信州上田仙谷政俊に預けられ、その帰依を得て、妙光寺を創し、平賀日弘は伊豆戸田に預けられ長谷寺を創す。
身池対論の遺跡たる両寺とも他の諸寺と同じく、身延の脅迫にあう。
 碑文谷法華寺は日進のあと守玄院日誠が稟(う)けるが、住職ではなく、看坊職(住職代理)として法華寺を薫する。
日誠は看坊職を長期にわたり、勤めていて、身延の圧力には屈することはなかったようである。
  ※日誠:野呂17世、谷中感應寺11世、碑文谷法華寺12世。
 平賀本土寺についても、身延は手を変え品を変えて支配下に入れようとするも、寺僧は本土寺が祖師在世の草創であることを楯に他門流の支配は受けぬと断固拒否する。
さらに、池上・妙覚寺と同じく本土寺にも公儀より御下知を蒙ったのであれば、その証拠(つまり朱印状)を示せと身延に反撃し、もしご朱印なくば、幾度督促されても、従うことは出来ないと通告する。身延としては打つ術がなく、引き下がるほかはなかった。
 -end-
寛文5年(1665)幕府から供養として寺領受領の手形を強要された時、14世日禪は慈悲として受領する手形を書く。(悲田派の成立)
元禄4年(1691)悲田派禁制が出され、元禄11年法華寺は天台宗改宗を命ぜられ、東叡山寛永寺末となる。
法華寺には少なくとも江戸期以前とみられる「黒仁王」(丈3m余、黒塗り)があり、諸願成就の民間信仰で繁栄していた。
悲田派禁制後、不受の信徒は寺を天台宗に奪われたが、仁王だけは日蓮宗法華寺寺代からのものであれば、そこに公然と不受の信仰を仁王という民間信仰に偽装していたことは想像に難くない。碑文谷仁王は江戸中期に最も喧伝され、雑多な現世利益の流行に紛れて、不受の信徒の格好の隠れ信仰や秘密の連絡場所になっていたことは明らかだろう。
 ※天保5年(1834)経王山円融寺と改称する。(現存)
2019/09/10追加:
○サイト:妙光寺の歴史 より
妙光寺の歴史>妙光寺沿革:
 天文元年(1532)井上長大夫居士の発願により、法泉院日雲を開山とし、一堂を創建し、法泉院と称するに始まる。
以降、四世まで法泉院代である。
修禅院日進:
 寛永7年(1630)2月の身池対論の判決で、碑文谷妙光山法華寺11世修禅院日進は、池上方として信濃上田に追放、上田城主仙石政俊預となる。
日進、当地にあること34年、弘教伝道す。上田城主仙石政俊は、自らが開基となり、住庵法泉院を改めて修禅山妙光寺を開創する。
日進は寺号初祖、中興開山となる。
寛文3年(1663)寂。
2023/08/11追加:
寛永8年10月、江戸の信者が日蓮聖人の尊像(現在、北山本門寺片山日幹蔵)を造り、配所を訪れ日進に奉げる。
妙光寺には、安藝国大守奥御殿が上田に配流された日進を励ますために出した書簡が残される。
日進が信者に授与した曼荼羅は、現在上田市妙光寺・本陽寺、小諸市実大寺・尊立寺、諏訪市高国寺、千葉県夷隅町光福寺、東京都豊島区法明寺、佐世保市延寿寺、北山本門寺片山師等、諸方に伝えられる。
なお「日進聖人像」(妙光寺二世日通の造立であろう)は上田妙光寺に現存する。

武蔵品川妙國寺・本光寺

 →品川妙国寺/本光寺

弦巻常在寺

世田谷区弦巻1-34-17
宝樹山と号す。身延山末。木造五重小塔を有する。
 → 武蔵弦巻常在寺

下高井戸覺蔵寺

杉並区下高井戸3−4−7
清月山と号す、池上本門寺末。多宝塔建立中。
 → 武蔵下高井戸覺蔵寺<明治以降の多宝塔中799にあり>


相模の諸寺

横浜戸塚日蓮宗妙現寺
横浜市戸塚区舞岡町860に所在する。榮光山と号する。
 (横浜市戸塚区は相模に属する。)
○K.G氏情報:
平成31年2月28日日蓮宗横浜結社が榮光山妙現寺と寺号公称する。(日蓮宗宗務院認証)
榮光山妙現寺はもともと島根県大田市祖式町祖式2081第2にあった京都要法寺末で、移転復興という名目で横浜に移る。
○Webでは次の情報がある。
妙現寺は身延山を総本山とし、池上本門寺に宗務院を構える日蓮宗の寺院である。
元来、寺院は島根県中部、世界遺産石見銀山の近くに存在し、銀山の隆盛とともに栄えたが、銀山廃坑後の過疎化に伴い衰退し、現住職が平成元年に就任した時には既に伽藍は朽ち果てて消失していた。
平成21年11月に戸塚区舞岡町に本堂、庫裡を再建新築する。
 ※元来は京都要法寺(興門派)に属したのであろうが、横浜での移転復興の過程で一致派の日蓮宗に帰属したようである。

相模比企谷妙本寺及び鎌倉の諸寺
 → 比企谷妙本寺及び鎌倉日蓮諸寺にあり。

相模片瀬龍口寺/片瀬本蓮寺多/片瀬龍口寺輪番八ヶ寺
 → 片瀬龍口寺(附片瀬本蓮寺多宝塔・片瀬龍口寺輪番八ヶ寺)にあり。
片瀬龍口寺輪番8ヶ寺:
片瀬龍口山常立寺(身延山久遠寺末)
片瀬龍口山本蓮寺
腰越龍口山本成寺
腰越龍口山勧行寺
腰越龍口山法源寺
腰越龍口山東漸寺
腰越龍口山妙典寺
腰越龍口山本龍寺

相模小田原の諸寺

相模酒匂法船寺
済度山と号する。比企谷妙本寺末。木造三重小塔を有する。
 → 相模酒匂法船寺

法善寺(日蓮宗):小田原市酒匂2-38-33

本典寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-1-17

妙善寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-1-22

妙蓮寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-6-29

小田原城山大久寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
寶聚山と号す、越後三条本成寺末(但し、昭和32年日蓮宗に転宗という)
天正18年(1590)の創建、開山は自得院日英、開基檀越小田原藩初代大久保忠世、忠世が小田原城初代として封じられた時、現在の地に遠州二股より日英を招き、大久山保聚寺を建立したのが始まりである。
天正19年堂宇落慶、忠世の命により寶聚山大久寺と改号する。
2代城主忠隣の改易により、寺運衰退、寛永10年に桑名藩主石川忠総(忠隣二男・石川日向守家成養子)が江戸下谷に遷し菩提寺とする。(法華宗陣門流教風山大久寺)
当所には小田原妙覚寺日春が了徳寺を建立、中山法華経寺末となる。
翌寛永11年大久保新八郎が大久寺の再興を発願、了得寺を廃し、再興する。中興は6世覺生院日歓。
昭和32年法華宗陣門流から改宗。
2023/05/21撮影:
本久寺には前期大久保氏一族の墓所がある。(未見)
なお、大久保氏の墓所は、法華宗陣門流大本山京都本禅寺、尾張岡崎長福寺、江戸青山教学院にもあるという。
 城山大久寺山門     城山大久寺本堂     城山大久寺本堂扁額     大久寺玄関客殿庫裏

小田原板橋本應寺
 法華宗陣門流・越後三条本成寺末、法雨山と号す。開基は羽原新右衛門忠次夫妻、開山は是真院日雄(寛文11年寂)。
羽原忠次は稲葉美濃守正則の家臣、法名は法雨院道樹日行であり、婦人の法名は本成院妙感日壽と号す。
往時は本乗寺と号するも、本寺本成寺と同音の為、本応寺と改号するという。
○「新編相模国風土記稿」 より
 (板橋宿)本応寺
法雨山と號す、法華宗、越後国三條本成寺末、寛永13年建、其頃は本乗寺と稱せしが、本寺と國読相似ければとて、宝暦11年今の寺號に改む。開山日雄、是真院と號す、寛文11年7月27日卒。開基羽原新右衛門忠次夫婦なり、忠次法名法雨院道樹日行、明暦元年5月18日死す、稲葉美濃守正則の臣なり、其妻法名本成院妙感日壽、寛文5年12月3日死、嘗て正則の乳母たりしを以て、一寺建立のことを許可せしと云。
本尊三寳諸佛を安ず。番神堂。寛保3年回録し、未再建ならず。
2023/05/21撮影:
境内には数基の自然石の題目塔がある。(未見)
 板橋本応寺入口    板橋本応寺本堂     板橋本応寺庫裡

小田原象ヶ鼻御塔坂聖跡
  :寛永7年身池対論先師供養搭


 象ヶ鼻日蓮堂参道(御塔坂)途中に日樹25年忌・日賢13回忌・日領・日弘・日充・日進(以上4師は推定)・「■■上人」と刻まれた供養石(題目石)がある。年紀は承応4年(1655)である。
つまりこの題目石は寛永7年(1630)身池対論(寛永法難)で陥れられた先師の供養塔であり、しかもその年紀は不受不施派が禁制となる前の承応4年(1655)なのである。
現段階ではこの供養塔(題目石)に関する情報が皆無で、何の由来も分からないのであるが、もし上記が事実であるならば、驚くべきことと思われる。
 s_minagaにとっても予想外のことで、「象ヶ鼻日蓮上人霊跡」を訪れたときに、題目石があったので写真に収め、ほぼ11ヶ月後に本霊跡の写真の整理を行い、この題目石の銘を判読し初めて気が付いたことである。御塔坂聖跡
2023/05/21撮影:
 象ヶ鼻日蓮堂参道途中、道が二手に分かれ、川側に分岐する短い道がある、その道先に題目石がある。
寛永・身池対論先師供養搭1

寛永・身池対論先師供養搭2:左図拡大図

寛永・身池対論先師供養搭3:詳細1

寛永・身池対論先師供養搭4:詳細2

風神勧請題目石:寛永・身池対論先師供養搭の傍らにある。「南無妙法蓮華経 勧請風神之攸」と刻む。

 銘文は次のように判読できる。

        ■応四年乙未五月十■日             ※承応4年は1655年
     ■■■妙経一千■■■(部首題ヵ)・・・        ※誦唱妙経一千部成就のような意味合いと思われる。
   為二十五年忌之                        ※日樹25年忌
    日樹上人 日■(領ヵ) 日■(弘ヵ) 日■(充ヵ)■■(上人ヵ)
 南無妙法蓮華経
   為十三年忌之                         ※日賢13年忌
    日賢上人 日■(進ヵ) ■■■■(■■上人ヵ)

なお、日樹上人以下は「日領 日弘 日充上人」、日賢上人以下は「日進 ■■上人」と微かに読み取れると思われる。「■■上人」は見当がつかない。
また、補足であるが、
日樹は寛永8年(1631)5月19日示寂で、正当は(+25=1656年)承応4年(1655)である。
日賢は寛永21年(1644)8月24日示寂で、正当は(+13=1657年)明暦2年<承応4年に明暦と改元>であり、1年の齟齬がある。

小田原象ヶ鼻日蓮上人霊跡:御塔妙福寺跡
 ○「現地説明板」 より
文永11年(1274)高祖、鎌倉から身延山に赴く途中、当所を通り、当所の巨石・象ヶ鼻の上に登り房総の諸山を望み、両親を偲び回向して、曼荼羅本尊を揮毫し、宝塔を建て、首題・二佛・四菩薩を刻し、衆生済度・病則消滅を祈願する。
その後、当所は「お塔のふた親さん」と呼ばれ里人の信仰を集める。
永仁元年(1293)朗慶(日朗弟子)がこの地に来錫し、象鼻山妙福寺を建立する。本寺は中山法華経寺であった。
大正2年象鼻山は廃寺となり、蓮正寺と合併、現在は小田原板橋に移り、御塔山生福寺(上に掲載)となる。
2023/05/21撮影:
御塔妙福寺の詳細については、上掲の「小田原御塔生福寺」の参照を乞う。
 象鼻参道入口題目塔ほか:題目塔正面は「南無妙法蓮華経」左右側面には「象鼻」「御塔」とある。向かって右の石塔は「馬頭観音」
 象鼻御塔入口門柱     象鼻御塔参道石階
 象鼻御塔日蓮堂     象鼻日蓮堂内部     象鼻日蓮堂曼陀羅     象鼻日蓮堂下札

小田原御塔生福寺:御塔妙福寺後継
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 象鼻山と号す、中山法華経寺末。
文永6年(1269)宗祖が甲州遊化の帰路、象鼻に似た巨石の上に立って房州の地を望み宝塔を建て、両親の菩提を弔う。里人は「お塔のふた親さん」と呼んで尊崇。その地に元享2(1322)4月、九老僧朗慶が一宇を建てて御塔妙福寺と称する。
2世日法は3年在住し、聖像を彫刻し安置、今にこれを伝える。48世本時院日儀の代、明治45年4月、富士山363番地(象ヶ鼻日蓮上人霊跡)より大窪村蓮生寺(現在地・開山蓮生院日周・平賀本土寺末)を合併移転し、御塔御塔生福寺と改称する。
○「新編相模国風土記稿」天保12年(1841)成立 より
 板橋宿蓮生寺
浄水山と號す、同宗(法華宗)、下総國平賀本土寺末、慶安二年(1649)起。開山日周、蓮生院と號す、慶安元年二月廿九日卒と云、按ずるに草創以前の示寂なり、盡請待開山にや。
本尊三寳諸尊を安ず。
○「御塔生福寺HP」 より
 小田原板橋富士山の中腹にあった象鼻山妙福寺と現在地にあった浄水山蓮生寺が大正の初めに合寺して象鼻山御塔生福寺となる。
 象鼻山妙福寺は、日蓮上人が文永六年(1269)甲州遊化富士山埋経の後、箱根路を経て帰倉する際、湯本を過ぎ小田原に入る手前の富士山(小田原市板橋字富士山363番地)の象鼻に似た巨石の上に立ち、相模灘の彼方の房州を望み、両親の菩提を弔い、石の宝塔を建てられたと伝えらている場所に、53年後の元亨二年(1322)四月、九老僧越中阿闍梨朗慶上人が象鼻山妙福寺を開山、中山法華経寺末となる。
 一方、浄水山蓮生寺は蓮生院日周上人が開山、下総国葛飾郡平賀村本土寺の末派となる。
開創の年代は、『神奈川県皇国地誌残稿』によると永正二年(1505)、『新編相模風土記』によると慶安二年(1649)と、二説ある。開山日周の没年も夫々慶長元年(1596)二月二九日と慶安元年(1648)二月二九日と異なり定かではない。
境内は東西四間五分、南北六間、面積二七坪、明治八年(一八七五)二月三日の火災により焼失したが同年仮堂が再建された。
 箱根登山鉄道の開通により敷道が妙福寺境内地と重なった為、蓮生寺へ移転合併し現存の本堂を建立、象鼻山御塔生福寺の開山となる。
2023/05/21撮影:
 御塔生福寺入口題目石     御塔生福寺境内
 御塔生福寺本堂1     御塔生福寺本堂2     御塔生福寺庫裡     御生福寺境内題目塔
 御塔生福寺墓塔
  中央は28世(中興)心量院蓮真日清(寛文13年寂)墓塔、向かって右は46世(中興)浄心院日精(明治27年寂)墓塔、左は不詳。
 御塔生福寺歴代廟:石造宝塔はおそらく歴代廟塔、十三重石塔は日蓮700遠忌報恩塔
 御塔生福寺歴代墓誌:初祖朗慶、二祖日法、三祖日祐 とある。

小田原象ヶ鼻日蓮上人霊跡:御塔妙福寺跡

小田原風祭妙覚寺
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 玉正山と号す、中山法華経寺末。連師法縁。文永11年(1274)創立、中老僧日辨開山、開基檀越大野三河守。この地に在った寺名不詳の真言宗寺院住僧順學が文永5年日忍により改宗、日順となる。
文永11年改築し、寺号を妙覚寺と改む。開山は日忍の師日辨、2祖は日忍、3祖は日順とす。
現本堂は昭和40年築造のRC造。
2023/05/21撮影:
 風祭妙覚寺入口:入口は旧東海道に直面する。     妙覚寺入口題目塔     風祭妙覚寺山門
 風祭妙覚寺本堂:近年木造にて造替されたと思われる。     風祭妙覚寺庫裡
 妙覚寺玉正稲荷      妙覚寺玉正稲荷本殿


2016/04/06作成:2024/05/01更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系8