武 蔵 ・ 相 模 の 日 蓮 宗 諸 寺

武蔵・相模の日蓮宗諸寺

武蔵の諸寺

武蔵柴又帝釈天

 →柴又題経寺

武蔵谷中感應寺

 →谷中感応寺(現天台宗)

武蔵雑司谷法明寺

 →雑司ヶ谷法明寺

武蔵長徳山妙行寺

法華宗陣門流、東京都豊島区西巣鴨4-8-28 多宝塔を有する。
 → 明治以降の多宝塔722

武蔵池上本門寺

 →池上本門寺

江戸土冨店長遠寺

台東区元浅草2-2-3
長遠院日樹上人の開創と伝える。
 → 江戸土冨店長遠寺

江戸市野倉長勝寺

大田区中央6-6-5
日樹上人供養塔がある。
 → 江戸市野倉長勝寺
2019/07/28追加:
覺應山と号する。正保3年(1646)創立。開山陽善院日繕。開基檀越田中長勝。
寛文元年(1661)下総大野法蓮寺日完の開眼銘のある日蓮上人坐像がある。
 →日完については「備前法華の系譜」中にあり、「日完」のワードで検索<ctl + F>を乞う。
銘によれば、この像は正永山了性寺の祖師像として開眼するという。おそらく、了性寺も寛文の法難に連座して、祖師像が長勝寺に遷されたのであろう。
さらに長勝寺は池上本門寺末から小湊誕生寺末に転じ、日樹上人の供養塔もある。
 ※不受不施派から悲田派に転じ、その後受派に接取されたものと推測される。

原宿妙圓寺

2019/09/03追加:
サイト:猫の足あと>蓮光山妙円寺|安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の信仰 に詳しい情報がある。
以下上記ページの要約
「渋谷区史」による妙円寺の縁起 では
妙圓寺(原宿一丁目六四番地):小湊誕生寺末、蓮光山と号する。
寛永4年(1627)円成院日光が四ツ谷千日谷(今の鮫河橋八軒町)に草菴を営なみ、それが妙圓寺となる。
その後荒廃するも、立正院日寛が、小湊誕生寺26世日孝の依頼を受けて入寺、整理する所あり、宝永3(1706)年穏田村の檀家百姓又兵衛の寄進地(現在地)に移る。
なお、熊野権現の別当であつた。熊野権現も穏田村にあり。日光の勧請する所で、その後安芸広島藩主浅野光晟の室前田氏の再建にかかる。
前田氏は、本寺の造営にも力を添えたものと見えて、現存の寺門の瓦には、前田氏の梅鉢の家紋がある。
寺宝に、浅野光晟の室前田氏が自写せる法華経八巻を蔵し、萬治二年(1659)二月の奥書がある。熊野権現に奉納したのを神仏分離の際、本寺の有に帰す。前田氏、名は満、利常の女、法名を自昌院英心日妙という、元禄13年(1700)7月27日に歿す。
2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収)
 この当時、小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺を創設する。
すると養珠院は徳川頼宣の42厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院↓)を建て千駄谷に移す。
開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。
妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永3年(1708)に移る。
 東都青山絵図:安永年中(1772-81)/妙圓寺が描かれる。

千駄谷仙壽院

2019/09/03追加:
サイト:猫の足あと>法雲山仙寿院|紀伊藩徳川頼宣の生母お萬の方の発願、新日暮の郷 に詳しい情報がある。
以下上記ページの要約
「渋谷区史」による仙寿院の縁起 などでは
仙壽院
甲州巨摩郡本遠寺末。法雲山東漸寺仙寿院と号す。
はじめ寛永五年(1628)紀州家の山屋敷(赤坂喰違屋敷の一部)に草庵が設けられ、正保元年(1644)十一月現在の場所に移して寺としたことが、文政の書上にある。「江戸名所図会」によれば、當寺は紀州頼宣公御母堂養珠院日心大姉、正保紀元甲申草創あり。當寺の鬼子母神は、同大姉の延嶺(甲州身延山)にして、霊示を感じ。大野の邊の土中に得られて後、當寺開創、落成の日、安置ありしとなり。と記されている。
江戸期には、境内四千六百五十三坪を有する。
開山は里見日遥(一源院日遥・安房の太守里見義康の次子)、日遥は後に飯高檀林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村村田妙法寺へ瑞世した。日遥を祖とする千駄ヶ谷法類は、当山を縁頭寺とする。
2019/09/03追加:
○「寿福院ちよと自昌院満姫の人脈と功績」石川修道(「現代宗教研究 第43号」2009.3 所収)
 この当時、小湊誕生寺は、江戸の拠点として四谷千日谷に妙円寺↑を創設する。
すると養珠院は徳川頼宣の42厄年を満過した御礼に赤坂紀伊徳川邸内に久遠寺末・東漸寺(のち仙寿院↓)を建て千駄谷に移す。
開山の一源院日遙は養珠院の外甥である。不受不施派の寺院を監視する役目を帯びていたと考えられる。
妙円寺はのち現在地の原宿神宮前に宝永3年(1708)に移る。
 東都青山絵図:安永年中(1772-81)/仙壽院が描かれる。

------------------ 以下江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人 -----------------

   → 江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人

------------------ 江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人 終り -----------------

武蔵芝日本榎承教寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 長祐山と号す、大檀林、池上本門寺末。末寺2
正安元年(1299)一条院日圓によって西芝((現:港区虎ノ門)の地に開山、池上・芳師法縁。
承応3年(1654)現在地へ移転。池上門末触頭となる。
延享2年(1745)類焼、山門・仁王門・鐘楼は類焼を免れ現存する。現在の本堂は天明元年(1781)建立。
明治初頭大教院後の大檀林を当寺に設置、明治37年廃壇。
 大教院承教寺の図:法華諸国靈場記圖繪、明治15年
  →日蓮宗大檀林
○Wikipedia より
 英一蝶の墓:本堂脇にある。東京都指定旧跡。塔頭の顕乗院(退転・廃寺)から改葬される。
墓標は安政の大地震で破損し、明治6年六世孫の英一蜻が復刻。
二本榎の碑:山門脇にある。
上総木更津光明寺本堂は文政13年(1830)承教寺の客殿を移築する。昭和47年改築という。
旧末寺:
○長泉山妙福寺(東京都港区高輪) →直下に掲載。
朝日山安立寺(秋田県大館市花岡町猫鼻)
○現地説明板には次のようにある。
英一蝶:承応元年(1652)大坂に生まれ、幼少のころ江戸に移る。元禄11年(1698)「当世百人一首」や「朝妻舟」の図などが将軍綱吉を風刺したとして三宅島に配流となったが、在島12年ののち大赦により江戸に戻った。享保9年(1724)73歳で没する。
2022/12/26撮影:
 芝承教寺山門     芝承教寺仁王門
 承教寺日蓮石碑:安永9年(1780)の年紀     承教寺題目石:無縁法界塔
 承教寺大檀林跡石碑
 芝承教寺本堂1     芝承教寺本堂2     芝承教寺本堂3     芝承教寺客殿・庫裏
 芝承教寺鐘楼     英一蝶墓碑1     英一蝶墓碑2:「北窓翁一蝶墳」と刻する。
 山内の日本榎石碑


武蔵芝日本榎妙福寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長泉山と号す、芝承教寺末。
正安2年(1300)日宝により開山、池上・芳師法縁。
承応2年(1653)赤坂より現在地へ移転。
現在の本堂・庫裏は昭和9年建立。
2022/12/26撮影:
承教寺山門と仁王門の参道にある。境内は狭隘で本堂・庫裏のみが建つ。
 芝妙福寺全景     芝妙福寺入口     芝妙福寺本堂庫裡


武蔵白金覺林寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
最正山と号す、清正公、小湊誕生寺末、潮師法縁。
  →清正公信仰
寛永8年(1631)可観院日延(寛文5年寂)の開山。
 ※可観院日延:加藤清正によって召致された李氏朝鮮の王子という。小湊誕生寺18世。兄は熊本本妙寺3世本行院日遥。
 但し、現在では日遥と日延が兄弟であることは否定されている。
○「芝區誌」 より
覺林寺 白金今里町四番地
日蓮宗安房誕生寺末、寛永年間創建し、最正山と號する。開山は僧日延である。
門外電車通に大石標が立つて居り、其表面には「鎮守清正公大神儀」背面には「寛延四辛歳閏六月二十一日最正山日要」と鐫つてある。
 中略
正面は清正堂で、・・・
寺傳に依ると、文禄年間清正凱旋の時、朝鮮人を伴つて歸り、安房誕生寺の貫主とした。其貫主こそ日延で、寛永四年に江戸に来り、八年に當寺を開いたといふ。
 中略
なほ境内には祖師堂、妙法堂、稲荷祠がある。
○「御府内寺社備考」 より
安房国小湊誕生寺末 白金村
最正山覚林寺、境内古跡年貢地248坪外抱地360坪
起立之儀は本寺十八世可観院日延寛永年中 吋所に隠居仕其後承応(1652-1654)2年久成坊と申者借地に於開基仕候。寺号之儀を開山代○○○相分不申候元禄五壬申年五月寺社御奉行本多紀伊守様
厳有院様 御善古跡寺院に被仰付候。 ※厳有院:徳川家綱
開山可観院日延寛文五乙未年正月廿六日卒。
本堂、梁間三間桁行五間。内棟方二間。本尊三宝祖師。
鎮守清正神儀堂。内棟二間半二間。中之間、三間半に二間。拝殿一間半六間。
清正神儀、木坐像丈一尺一寸。右は開山日延代安座し来候。
釈迦牟尼佛、木立像丈五寸。右は清正神儀陣中当本額背小大光山日植と祀有之。細字法華経一部。
 以下、略
2022/12/26撮影:
覚林寺は弘化2年(1845)の大火で全焼する。
山門は安政3年(1856)、清正公堂は慶応元年(1865)に再建される。
清正公堂は拝殿・幣殿・本殿からなる権現造、拝殿は間口3間奥行3間、幣殿は間口1間奥行3間、何れも唐様を用いる。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建と云う。
 覚林寺清正公大神祇石碑     覚林寺山門     覚林寺境内1     覚林寺境内2
 覚林寺題目石     覚林寺題目石他3基     覚林寺本堂     覚林寺毘沙門堂     覚林寺稲荷社
 覚林寺清正公堂拝殿1     覚林寺清正公堂拝殿2     覚林寺清正公堂1     覚林寺清正公堂2


武蔵白金立行寺

大久保寺。智光山と号す、法華宗陣門流(越後三条本成寺派)。京都本禅寺末。
寛永7年(1630)日通(延宝5年/1677寂)によって開山、開基檀越は旗本大久保彦左衛門(大久保忠教)である。
寛文8年(1668)火災焼失、現在地に移転。
○「新編武蔵風土記稿」 より
(麻布領白金村)立行寺
境内除地1812坪6合、年貢地421坪。重秀寺の東にあり。法華宗京都本禅寺末、智光山と号す。
開山日通聖人、延宝5年9月8日寂す。本堂10間に6間、本尊三宝を安置す。
 以下略
○「芝區誌」 より
立行寺(以下大意)
法華宗京都本禅寺末、智光山と稱する。當寺の開祖は日通上人で、其初め麻布市兵衛町に小庵を結ぶ。・・・
しかし寺内の隆盛と共に、此地が狭隘となり・・・、大久保彦左衛門忠教、其他數百の信徒に謀り、寛永七年九月同地に一宇を建立する。これが智光山立行寺である。
後、寛文八年火災に逢つて焼失し、今の地に移る。延享二年再び灰燼に歸し、幾もなく新築の堂宇を落成する。
慶應四年の變亂に遭遇し、檀家が離散する。
2022/12/26撮影:
大久保彦左衛門忠教墓:
戒名;了眞院殿日清、没年齢 80歳、墓は宝篋印塔、高さ約350cm。
なお、大久保忠教の墓は以下にもある。
京都本禅寺:五輪塔(題目石)
・岡崎長福寺(岡崎市竜泉寺町):五輪塔(題目石)<未見>
 立行寺山門     立行寺本堂     立行寺客殿・庫裏     立行寺鐘楼     立行寺題目石
 立行寺大久保家墓所1     立行寺大久保家墓所2     立行寺大久保家墓所3     立行寺大久保家墓所4
 立行寺大久保家墓碑1     立行寺大久保家墓碑2     立行寺大久保家墓碑3
 大久保忠教廟

武蔵下高井戸覺蔵寺

2022年多宝塔竣工、池上本門寺末 →明治以降の多宝塔790

武蔵下高井戸宗源寺

2024/06/06追加:
○現地説明板
 叡昌山と号する、日蓮宗単立。
当寺檀家であった地理学者志賀重メが記した「宗源寺開基碑」によると、当寺開山光伯院日善の祖先は畠山重忠の一族江戸遠江守太郎判官重永の孫で甲斐国吉田郷に住した吉田宗利という。寺名は宗利が法華宗に帰依して法名「宗源」と称したのに因み、末孫の日善が慶長年中(1596年〜1615)初めに、この地に当寺を開いて寺名としたと伝える。
 ※明治42年四谷にあった栄林寺を合併す。
 不動堂は、この近くにあった修験本覚院(明治5年廃寺)のものでありしも、明治44年に現在地に移し、昭和42年に改築したものである。この不動堂はかつて高台にあったため、「高井堂」と呼ばれ、それが高井戸という地名の起源になったとする説もある。
2023/05/25撮影:
 宗源寺門前題目碑:寺号碑     宗源寺山門1     宗源寺山門2
 宗源寺本堂     宗源寺玄関・庫裡     宗源寺修験不動堂      宗源寺稲荷明神


江戸碑文谷法華寺

所在:目黒区碑文谷1-22-22:現天台宗圓融寺
2019/09/10追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
碑文谷法華寺
 縁起によれば嘉祥元年(848)慈覚大師の開基とされる。その建築は東京南部の最古のものとされ、特別保護建造物に指定される。
 ※その建築とは本堂釈迦堂で室町初期の建築とされる。現在は重文。また日源上人五重石塔がある。
 ※圓融寺のページでは「比叡山延暦寺の末寺、妙光山法服寺が開山されたのは、・・・平安前期の仁寿3年(853)」という。
 ※中世から近世にかけては吉良氏や徳川氏の外護を受け、寺中18、末寺75箇寺を数えるという。
弘安6年(1283)日源により日蓮宗に改宗、妙光山法華寺と改称する。
  ※日源については岩本実相寺を参照
寛永7年(1630)身池対論の時、第11世修禅院日進は日樹と同座し、信濃上田に流される。
  →上田妙光寺<信濃の日蓮宗諸寺中>に蟄居。
2019/10/26追加:
○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より
◇碑文谷法華寺・平賀本土寺の反撃
 碑文谷日進は信州上田仙谷政俊に預けられ、その帰依を得て、妙光寺を創し、平賀日弘は伊豆戸田に預けられ長谷寺を創す。
身池対論の遺跡たる両寺とも他の諸寺と同じく、身延の脅迫にあう。
 碑文谷法華寺は日進のあと守玄院日誠が稟(う)けるが、住職ではなく、看坊職(住職代理)として法華寺を薫する。
日誠は看坊職を長期にわたり、勤めていて、身延の圧力には屈することはなかったようである。
  ※日誠:野呂17世、谷中感應寺11世、碑文谷法華寺12世。
 平賀本土寺(碑文谷と同じく当時、不受を堅持し、不受派の中心の役割を果たしたのが平賀である)についても、身延は手を変え品を変えて支配下に入れようとするも、寺僧は本土寺が祖師在世の草創であることを楯に他門流の支配は受けぬと断固拒否する。
さらに、池上・京都妙覚寺と同じく本土寺にも公儀より御下知を蒙ったのであれば、その証拠(つまり朱印状)を示せと身延に反撃し、もしご朱印なくば、幾度督促されても、従うことは出来ないと通告する。身延としては打つ術がなく、引き下がるほかはなかった。
 ※寛永年中の身池対論から寛文年中までの日蓮宗の不受派と受派(身延派)との動向は
   備前法華の系譜>「身池対論直後の両派」に詳細があるので参照を請う。
  要は、受派身延の執拗な攻撃に対して、碑文谷法華寺は、不受派が池上及び京都妙覚寺を接収され、
 かつ中山及び真間弘法寺の4本寺と小西・中村の2檀林を失いながらも、平賀・小湊の本寺と共に不受派の中心として、
 地方の谷中感應寺・鎌倉妙隆寺・上総鷲山寺および新規開壇された松崎・野呂・山田の三檀林を加え、
 不受不施の宗是を堅持し、さらに高揚させ、むしろ関東では受派を圧倒するような勢いを持ったということである。
 碑文谷法華寺は当時の不受派の中心の一翼を担ったと本寺であったということである。
  池上本門寺   中村檀林小西檀林
  平賀本土寺小湊誕生寺  谷中感應寺鎌倉妙隆寺・日隆門流上総鷲山寺
  松崎談所(顯實寺)野呂談所(妙興寺)山田談所
 -end-
 寛文5年(1665)幕府から供養として寺領受領の手形を強要された時、14世日禪は慈悲として受領する手形を書く。(悲田派の成立)
元禄4年(1691)悲田派禁制が出され、元禄11年法華寺は天台宗改宗を命ぜられ、東叡山寛永寺末となる。
 ※寛文の法難、悲田派の成立、悲田派の禁制などについては、備前法華の系譜>【寛文法難】の項を参照を請う。
改宗にあたり、法華寺の什宝中、祖師像は堀ノ内妙法寺、三宝尊像は中根立源寺(下に掲載)、釈迦如来涅槃之図は常円寺、法華門は妙法寺、摩耶夫人像は摩耶寺など、所縁寺院に引取られていったという。

2024/06/17追加:
●江戸圖屏風:徳川幕府創成期の景観
江戸図屏風は江戸期初頭(徳川幕府創成期である家光の頃)の江戸を描いた貴重な江戸圖とされる。
国立歴史民俗博物館>江戸図屏風 より転載
 池上本門寺・碑文谷法華寺:右叟・右上に描かれる。
碑文谷法華寺は檜物屋法花寺と表記される。(碑文谷の地名発祥には諸説ある。)

天保5年(1834)経王山円融寺と改号する。(現存)
 ※なぜ、天保5年に改号した理由については、不明、後日を俟つ。

2024/06/06追加:
◆寺中及び歴代
○サイト:神殿大観>碑文谷・法華寺 より
 子院と歴代の項目があり、その内容が掲載されているので、転載する。
子院:
 本龍院  本成院  東照院  岸ノ坊  杉本坊  寒理院  行遠院  下ノ坊  上ノ坊
 藤ノ坊   安国坊  西ノ坊   昌樹坊   北ノ坊  東ノ坊   中ノ坊    (正教中正論)
  ※16坊が記載される、(正教中正論)とあるのでこれが典拠だろう。
  その「正教中正論」とは不明であるが、岡本柳之助著、村上書店、明治32.11刊行 なのであろうか。
歴代:
   (注)《》は当ページなどのから追加した情報を示す。
  初祖 日源(?-1315)<1283->:元は天台宗で実相寺学頭、実相寺を訪れた日蓮に帰依。
      岩本実相寺、碑文谷法華寺、雑司ヶ谷法明寺を日蓮宗寺院とする。谷中感應寺を創建。播磨法印。智海。
  2世 日善(1263-1332):身延4世。宝国寺開山。≪宝国寺は京都21本山中≫
  3世 日行(1269-1330):大妙寺開山。佐渡・本光寺開山。≪大妙寺は京都21本山中、本光寺は佐渡の日蓮宗諸寺中≫
  4世 日明
  5世
  6世 日耀(?-1474):谷中感応寺中興。文明6年(1474)寂。
  7世 日豪
  8世 日巌
  9世 《日楊》:《感応寺第九世日長は日楊について得度》
 10世 本妙院日瑞:《寺中18、末寺75に及ぶという。》
 11世 修禅院日進:不受不施門流の前六聖人の一人。寛永7年(1630)身池対論に列座。追放される。
      《板倉備前守の息、寛永7年(1630)信州上田仙石越前守政俊お預け、寛文3年(1663)寂、73歳。》
 12世 守玄院日誠:野呂17世。谷中11世。
      《日進のあと守玄院日誠が稟(う)けるが、住職ではなく、看坊職(住職代理)として法華寺を薫する。》
 13世 守眼院日晴(?-1664):寛文4年(1664)寂。
      《日晴は12世とも云う、但し日誠が12世とすれば日晴が13世となる、安養寺檀林開祖》
 14世 勧持院日禅:養安寺檀林2世。《松崎檀林能化、野呂檀林能化・野呂22世》
 15世 日渕(?-1674):村田妙法寺22世。野呂23世。碑文谷法華寺15世。日暮里経王寺に寂す。延宝2年(1674)6月1日寂。
 16世
 17世
 18世 日附:元禄11年(1698)《八丈島》配流。
     遠聲院日運:品川・本光寺3世。寛永元年(1624)在世。(妙満寺4世とは別人か)
     《日運は碑文谷北之坊住僧、勿論不受派であり、中根立源寺開山である。寛文8.8.1寂、下に掲載の中根立源寺を参照》
     《中根立源寺は碑文谷法華寺の西南西約2kmに位置する。》
2024/06/06加筆:
◆碑文谷黒仁王信仰への偽装
○「不受不施派殉教の歴史」 では
 法華寺には少なくとも江戸期以前とみられる「黒仁王」(丈3m余、黒塗り)があり、諸願成就の民間信仰で繁栄していた。
   碑文谷黒仁王御影
 悲田派禁制後、不受の信徒は寺を天台宗に奪われたが、仁王だけは日蓮宗法華寺時代からのものであれば、そこに公然と不受の信仰を仁王という民間信仰に偽装していたことは想像に難くない。
 碑文谷仁王は江戸中期(安永・天明・寛政の頃)に最も喧伝され、雑多な現世利益の流行に紛れて、不受の信徒の格好の隠れ信仰や秘密の連絡場所になっていたことは明らかであろう。
 喧伝し・流行を煽ったのは黄表紙の作者(山東京伝など)を初め洒落本や江戸名所圖繪、浮世絵、狂歌などである。
 雑多な現世利益とは「金持ちの痩せた腹は見苦しいと肥満腹になるようにとの願をかける」「めぐろひもんや仁王へだんじきして、かねをたんとおさずけ下さるか、又は色男にして下さるか、二つのうち一つをおかなえなされ下されまし」といったような類である。
 正に、民間信仰の大流行に裏には、隠れたあるいは潜行した不受信仰の偽装が行われていたものと推測される。
これらの偽装は備前などに見られる備前「矢田の北向き穴観音」や同じく「父井の浄妙様」や「備中高梁の日忍様」と通じるものがある。
2024/06/06追加:
○円融寺サイト>碑文谷黒仁王尊について より
◇黒仁王尊の作者は?
 昭和42年仁王像の解体修理中に「造立木札」が発見され、その銘によって、願主は法華寺第八世の日厳、永禄2年(1559)鎌倉扇谷住の権大僧都大蔵法眼の造形であることが判明する。
◇空前の黒仁王尊ブーム!
 江戸初期から中期にかけて法華寺あh最盛期を迎えるも、身延=幕府による不受不施派の弾圧で衰微し、元禄11年(1698)第19世日附上人が八丈島に流刑され、約450年続いた日蓮宗法華寺の歴史は幕を閉じる。
その後、天台宗法華寺は黒仁王尊信仰の大流行によって、再び繁栄の時期がおとずれる。
それは、『遊歴雑記』『過眼録』『新編武蔵風土記稿』『江戸名所図会』『武江年表』『飛鳥川』などの江戸期文献にその大流行振りが描かれていることでも知られる。
 ※これらの描写については、碑文谷円融寺のサイトに掲載されているので、参照を請う。
これらの文献によると、最盛期はおよそ天明年間末から寛政年間末にいたる12、3年間で、門前には茶店が立ち並び、境内では多くの人々が仁王尊にお線香を供えたり、背負わなければならないほどの大きな草鞋を奉納したりして、大変な賑わいであったことが記されている。
 おそらく、物見遊山といわれる郊外散策や旅行が当時の庶民の娯楽の一つとして盛んになったことが、仁王尊の参詣と深く関連していると思われるが、なかには宿願成就を願って夜を徹して断食修行するような熱心な信者も多く、仁王門の周囲にはお籠り堂が数箇所設けられていたようで、さらに、仁王尊の床下は、近年まで断食修行をする人が入れるようになっていたという。
 江戸から法華寺までは、二里半余りといわれ、参詣するために最もよく用いられていたのは品川宿からのルートで、通称「碑文谷道」と呼ばれる野道であった。この街道の武蔵の辻(品川区小山二丁目)には寛政元年(1789)の「右 不動尊 左 仁王尊」と刻まれた道標が残るという。(不動尊は目黒不動)
 また、碑文谷仁王を題材にした代表的な文学作品には、山東京伝『碑文谷利生四竹節』、芝全交『願解而下紐哉拝寿仁王参』、噺本では石部琴好『比文谷噺』(栄松斎長喜画)、振鷺亭『室の梅』(『乗合船』を改題補足した本)などがある。
 ※これらの作品中の描写については、これも”碑文谷円融寺”のサイトに掲載されているので、参照を請う。

2024/06/06追加
○円融寺サイト>圓融寺こぼれ話 より
◇双子の梵鐘 ―復興にかけた思い―<大意>
 現存する法華寺梵鐘の銘によると、寛永20年(1643)九月、山城国の飯田善兵衛宗次の作とあるが、実は同じ年の同じ月に同じ作者が造った鐘が、谷中感應寺にも存在した。谷中の鐘は失われたが、「東京都社寺備考」に「丈五尺五寸・指渡三尺一寸」とある。
 どういうことか、銘文には「寄附主 日長」とある。
 日長は感応寺第九世、その生涯については弟子の日純が伝記を残す。
伝記では、日長は天正13年(1585)武州荏原郡衾(ふすま)村の産、幼い頃に法華寺第九世日楊について得度。経済的に恵まれず苦学をするも、やがて飯高檀林に入檀、駿河の妙蔵寺(現妙像寺)に晋山、その時、養珠院(家康室)及び英勝院(同)の帰依を得、後にその二人の推挙により、元和7年(1621)谷中感応寺第九世となるという。
 その後は、公儀に阿る身延の画策で身池対論となり、碑文谷日進は信州上田にお預けとなり、更には悲田派の禁制により、信徒は離散し、伽藍は荒廃する。
 日長にとっては先師日楊の寺の荒廃は忍び難く、そこで徳川家光の外護のもと、境内の整備や植樹、さらには感応寺の末寺を法華寺に与えるなどして復興に力の限りを尽くすという。
寛永20年銘の二つの梵鐘も、まさに日長による復興事業の一環で鋳造されたものであり、一つは谷中の鐘となり、もう一つは碑文谷へ寄進されたものであった。
 ※梵鐘銘文
    大工山城住飯田善兵衛
    宗次
   武州荏原郡碑文谷村
  南無日蓮大聖人 妙光山
 南無妙法蓮華経
  南無日源聖人  法華寺 常住
   寛永代二十癸未歳九月十三日
    寄附主 日長
◇日源上人塔の地下から
 日源上人の供養塔は、釈迦堂の東側、庫裏の裏手(現在の区立碑小学校との境をなす塀の北端より約30m付近)にあった。昭和49年、新本堂および客殿の新築工事が行なわれ時現在の地に移されることになる。
移設工事中、石塔の真下の地中から、茶碗、湯呑、盃、陶器の破片とともに、黄瀬戸の四耳つきの壺(周囲65cm、高さ25cm)が発見され、その中には日源上人と思われる御遺灰が納められていることが確認される。それらはすべて現在の塔の下にそのまま安置される。

2023/05/25撮影:2024/06/06追加:
 日蓮上人入寂の翌弘安6年(1283)天台宗法服寺は日源上人によって日蓮宗に改宗され、寺号も妙光山吉祥院法華寺と改号される。このことは、日源上人五重石塔に記されるという。
改宗の後、寺運は本寺として隆盛となり、室町期10世日瑞のとき、寺中18、末寺75に及ぶという。
その後、受派(身延)の画策による法難が起るも、江戸初期には不受派の中心的な本寺として不受不施義を堅持する。
寛文法難では所謂悲田派に転び、次いで悲田派も禁制とされ、ついに法華宗としての法華寺は終焉する。
 ◇現在次のような残影及び伽藍がある。
・日源上人五重石塔:寛永13年(1636)日源追善供養の為建立、文化11年(1814)に再興される。
昭和49年境内北東から現在地に遷される。総高約4.4m。
・山門:天保4年(1833)建立、播磨美嚢郡三木和田の某寺の山門であったが、明治33年原氏邸に遷され、更に昭和26年原邸から当寺に移築される。
・仁王門:中世末期の建築と推定、江戸初期・中期に大改築される。永禄2年(1559)銘の黒仁王尊が祀られる。
・釈迦堂:重文、室町初期の建築、桁行三間、梁間四間、入母屋造、屋根銅板葺、東京都区内最古の建物という。
因みに都内で最古の建築は東村山の正福寺地蔵堂(国宝)という。
・阿弥陀堂(本堂):昭和50年建立
○「江戸名所圖繪」(天保年中)の碑文谷法華寺(巻3 第8冊) より
 碑文谷法華寺:
  碑文谷法華寺:この繪圖のタイトルは法華寺とあるが、当然天台宗である。この直後に円融寺と改号と思われる。左手にある八マンは碑文谷八幡で法華寺が別當であった。
現在と違い、当時碑文谷は江戸の郊外であり、田畑や山野の風景である。大正の頃まで、法華寺周辺はこのような田園風景が取り囲んでいたという。(円融寺のサイトにそのような写真の掲載がある。)
 法華寺開山日源供養塔1:五重石塔     法華寺開山日源供養塔2     法華寺開山日源供養塔3
 碑文谷山門     碑文谷東門
 碑文谷仁王門1    碑文谷仁王門2    碑文谷仁王門3    碑文谷仁王門4    碑文谷仁王門5    碑文谷仁王門6
 碑文谷仁王尊1    碑文谷仁王尊2
 碑文谷釈迦堂1     碑文谷釈迦堂2     碑文谷釈迦堂3     碑文谷釈迦堂4     碑文谷釈迦堂5
 碑文谷釈迦堂6     碑文谷釈迦堂7     碑文谷釈迦堂8     碑文谷釈迦堂9:扁額     碑文谷釈迦堂10
 碑文谷釈迦堂11     碑文谷釈迦堂12     碑文谷釈迦堂13     碑文谷釈迦堂14
 碑文谷鐘楼       碑文谷阿弥陀堂1     碑文谷阿弥陀堂2     碑文谷阿弥陀堂3
 碑文谷示真殿(斎場)     毘沙門堂・眞公稲荷0:向かって左が毘沙門堂

2019/09/10追加:
碑文谷11世修禪院日進が信州上田にて寺号初祖、中興開山となる修禪山妙光寺については上田妙光寺を参照。
2023/08/11追加:
 寛永8年10月、江戸の信者が日蓮聖人の尊像(現在は北山本門寺片山日幹蔵)を造り、配所を訪れ日進に奉げる。
妙光寺には、安藝国大守奥御殿が上田に配流された日進を励ますために出した書簡が残される。
 日進が信者に授与した曼荼羅は、現在上田市妙光寺・本陽寺、小諸市実大寺・尊立寺、諏訪市高国寺、千葉県夷隅町光福寺、東京都豊島区法明寺、佐世保市延寿寺、北山本門寺片山師等、諸方に伝えられる。
なお「日進聖人像」(妙光寺二世日通の造立であろう)は上田妙光寺に現存する。


武蔵中根立源寺

所在地:目黒区中根2丁目21−17:碑文谷法華寺の西南西約2kmに位置する。
○サイト:長昌山立源寺>縁起 より引用(大意)
 寛永元年(1624)碑文谷法華寺住僧遠聲院日運の開基により建立される。
「新編武蔵風土記稿」では
『この寺も古くは、法華寺の末なりしが、後本寺を改めらる 本尊三宝は長二尺の像なり 是はもと法華寺にありしを当山起立の時より此処にすえたり云々』
とあるが、実際は本尊三宝は元禄11年11月不受不施悲田派禁制の折、法華寺改宗の時立源寺に遷座したものである。
 ところで、立源寺が開基された寛永元年は碑文谷11世日進の代である。
日運は碑文谷北之坊に住して、不受不施派の学頭若しくは別当的立場にあったが、この地に隠居所として小庵を結んだことが始まりである。当時、新地(新寺)建立は規制されていたが、おそらく日運は小庵を転換して新地建立を企図していたものと推定される。
 斯くして当山が不受不施の寺として、その教線を張って来た事は勿論であるが、時恰も元禄11年(1698)11月、不受不施悲田派禁制に依って、翌同12年1月25日身延山直末寺となる。
○「日蓮宗寺院大鑑」 より
通称は碑文谷三宝殿、長昌山と号す、身延末。元は碑文谷末であったが、不受不施の為身延末に元禄年中転宗する。
寛永元年創立、開山遠声院日運。日運は寛文8.8.1寂。

 

弦巻常在寺

世田谷区弦巻1-34-17
宝樹山と号す。身延山末。木造五重小塔を有する。
 → 武蔵弦巻常在寺

 

江戸堀ノ内界隈

堀ノ内妙法寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
日圓山と号す、身延山
元和年中(1615-24)妙仙院日圓の開山、開基覺仙院日逕、開基檀越相沢喜兵衛・大高家、元が真言宗の尼寺であったが、日圓尼の法華信仰により、改宗、寺号も改号する。
この時は碑文谷法華寺末であったが、元禄12年身延山末となる。(※悲田宗禁制による転宗であろう。)
この時碑文谷法華寺に奉安の祖師像(厄除祖師像)を安置する。昭和6年全山焼失、その後再建。
山門は天明7年(1787)建立、本堂は文政2年(1819)建立、本堂、客殿、庫裡、祖師堂、三夜堂、朝師堂、額堂などあり。
※鉄門(重文)は明治11年の竣工、英国人技師の設計に成る。
2023/05/26撮影:
 門前題目塔4基     題目塔・厄除日蓮大菩薩     題目塔・日蓮大菩薩     厄除日蓮大菩薩塔     堀ノ内題目塔
 妙法寺仁王門1     妙法寺仁王門2
 妙法寺祖師堂1     妙法寺祖師堂2     妙法寺祖師堂3     妙法寺祖師堂4     妙法寺祖師堂5
 妙法寺祖師堂前     妙法寺手水舎     妙法寺鐘楼     妙法寺本堂     妙法寺廻廊     妙法寺日朝堂
 妙法寺五重石塔     妙法寺千部講石塔     妙法寺両国(東西)講石塔
 妙法寺鉄門2     妙法寺鉄門2     妙法寺玄関     妙法寺書院など1     妙法寺書院など2

梅里本佛寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
安楽山と号す、身延山末、堀ノ内妙法寺通師法縁。
寛永12年(1635)修行院日通開山、谷中三崎に建立、元禄2年焼失、翌3年本所出村に移転。
13世日盛の時鬼子母神堂建立、中山・雑司ヶ谷と合わせ関東三鬼子母神の一つ。
関東大震災で焼失、昭和17年に現在地へ移転。
平賀本土寺に隠居寺であったので、歴代墓塔がある。また犬山城主7代成瀬の墓がある。
大観には延元2年創立、もと北豊島郡大泉村にあり、同所妙福寺末法光山本應院と称せしも、近年本土寺末東京牛込市ヶ谷冨久町修行寺と併せ現地に移転、修行寺と改称、本土寺へ転末とある。
2023/05/26追加:
 本佛寺入口・本堂     本佛寺玄関・庫裏     本佛寺通用門


梅里妙祝寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
日榮山と号す、小湊誕生寺末、脱師法縁。
開山は小湊20世興善院日為、初め播州高木城主一柳監物の奥方が麻布桜田町の邸内に堂を建立、寛永10年(1633)日為が妙祝寺として開山する。
○「現地説明板」では
開創は「文政寺社書上」によれば、寛永5年(1628)江戸麻布桜田町とされているが、古記録を焼失していて、不明である。
開山は興善院日為で、日為は千葉の産で、諸所に寺院を起立しているが、当寺開創の後は寺を弟子に譲り、寛永10年元麻布の妙善寺を起立し、本山小湊20世となる。
開基日榮大姉は伊予西条藩主一柳監物の室で、桜田町の邸内に御堂を開創する。生前、大姉は日為と親子の縁を結び、大姉の死後、日為は大姉の法名に因み山号とp日榮山、寺号を妙祝寺と革む。以来一柳家の菩提寺となる。
2023/05/26追加:
 妙祝寺入口題目塔:不動明王とあるが不明。     妙祝寺入口     妙祝寺本堂・庫裏
 妙祝寺萬靈題目塔     一柳一族墓塔1     一柳一族墓塔2     一柳一族墓塔3     一柳一族墓塔4
 一柳一族墓塔5


堀ノ内宗延寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
杉並区、報新山と号す、身延山末、通師・堀ノ内法縁。
天正9年(1581)山光院日精の開山、徳川家康から下谷車坂に3000余坪を授与され伽藍を建立、身延の触頭となる。
明治8年焼失し、再建、大正2年区画整理で現在地へ移転。
○「現地説明板」では
 天正初年頃相模小田原城下の郷士報新宗延が居宅を道場とするのが始まりという。
天正19年(1591)開基2世日浣が宗勢高揚の為、祖師像を背負い江戸に移り、下谷車坂に寺地を賜り、寺地を固める。
これより、身延触頭となり、江戸中期には寺中5坊を抱える。明治維新後火災焼失、再建されるが、大正8年現在地へ移転する。
2023/05/26撮影:
 入口寺号題目石     宗祖500遠忌預修供養塔:預修は逆修と同義
 宗延寺本堂     宗延寺玄関     宗延寺庫裡     宗延寺稲荷明神     宗延寺石塔2基


堀ノ内福相寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
正住山と号す、身延山末、通師法縁。
寛永年中(1624-)正住院日協の開山、昭和12年小石川白山前町から移転。
○「現地説明板」では
天正17年(1589)一如院日重(身延20世)により下谷に開創、寛永年中寺地が寛永寺の境内地となり、小石川白山前に移転。さらに当地には昭和12年に移転する。
 また一説によれば、寛永5年(1628)正住院日協により谷中三崎に開創、元禄16年(1703)火災焼失し、小石川白山前に移転とも云う。
 当寺には「満願大黒天」を安置、江戸後期には多くの参詣者を集め、その人々の奉納した石塔が今も境内に残る。
2023/05/26追加:
 福相寺山門     福相寺本堂     福相寺玄関


堀ノ内修行寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
如説山と号す、平賀本土寺末、奠師法縁。
寛永3年(1626)修行院日城の開山、寛永8年麹町より牛込上市ヶ谷移転、大正元年現在地へ再移転、昭和20年戦災で焼失。
○「現地説明板」では
「文政寺社書上」によれば、寛永3年平賀末寺として、修行院日城により麹町に開創される。
寛永11年江戸市街整理の為赤坂一ツ木に移転、さらに明暦の大火の後、防火対策の為萬治元年(1658)1500坪の拝領地をもらい市ヶ谷谷町(現冨久町)に移転。
貞享元年(1684)平賀21世日信、本土寺貫主の江戸滞在時の常泊院を修行寺に定め、明治初期まで院代を置き、法務をなす。
また平賀貫主の多くは隠居すると修行寺山内智光庵に隠棲し、墓塔は修行寺にも残されている。
元禄8年(1695)出雲広瀬藩松平近榮の室・満姫が本土に奉納した七面大明神の坐像が修行寺本堂に安置され、享保16年(1731)には七面堂が完成する。
また文化9年(1812)尾張藩家老成瀬正典が逆修塔を建て、一族の墓も十数基建てられる。
大正元年都市計画で現在地に移転する。
2023/05/26追加:
 修行寺山門     修行寺境内     門前題目石(日朗):日朗700回忌報恩塔
 修行寺本堂     修行寺庫裡
 成瀬家墓所:向かって左から7代成瀬正壽室、6代成瀬正典、8代成瀬正住室の墓塔
 7代成瀬正壽室墓塔:教操院殿妙貞日誠大姉と刻む。(正壽室の法名を伝えるネットの情報はない)
 6代成瀬正典墓塔:一珠院殿自得日慶大禅定門

下高井戸覺蔵寺

杉並区下高井戸3−4−7
清月山と号す、池上本門寺末。多宝塔建立中。
 → 武蔵下高井戸覺蔵寺<明治以降の多宝塔中799にあり>

武蔵品川妙國寺・本光寺

 →品川妙国寺/本光寺


相模の諸寺

横浜戸塚日蓮宗妙現寺
横浜市戸塚区舞岡町860に所在する。榮光山と号する。
 (横浜市戸塚区は相模に属する。)
○K.G氏情報:
平成31年2月28日日蓮宗横浜結社が榮光山妙現寺と寺号公称する。(日蓮宗宗務院認証)
榮光山妙現寺はもともと島根県大田市祖式町祖式2081第2にあった京都要法寺末で、移転復興という名目で横浜に移る。
○Webでは次の情報がある。
妙現寺は身延山を総本山とし、池上本門寺に宗務院を構える日蓮宗の寺院である。
元来、寺院は島根県中部、世界遺産石見銀山の近くに存在し、銀山の隆盛とともに栄えたが、銀山廃坑後の過疎化に伴い衰退し、現住職が平成元年に就任した時には既に伽藍は朽ち果てて消失していた。
平成21年11月に戸塚区舞岡町に本堂、庫裡を再建新築する。
 ※元来は京都要法寺(興門派)に属したのであろうが、横浜での移転復興の過程で一致派の日蓮宗に帰属したようである。

相模比企谷妙本寺及び鎌倉の諸寺
 → 比企谷妙本寺及び鎌倉日蓮諸寺にあり。

相模片瀬龍口寺/片瀬本蓮寺多/片瀬龍口寺輪番八ヶ寺
片瀬龍口寺輪番8ヶ寺:
 片瀬龍口山常立寺(身延山久遠寺末)
 片瀬龍口山本蓮寺
 腰越龍口山本成寺
 腰越龍口山勧行寺
 腰越龍口山法源寺
 腰越龍口山東漸寺
 腰越龍口山妙典寺
 腰越龍口山本龍寺
   → 片瀬龍口寺(附片瀬本蓮寺多宝塔・片瀬龍口寺輪番八ヶ寺)に掲載。

相模小田原の諸寺

相模酒匂法船寺
済度山と号する。比企谷妙本寺末。木造三重小塔を有する。
 → 相模酒匂法船寺

法善寺(日蓮宗):小田原市酒匂2-38-33

本典寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-1-17

妙善寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-1-22

妙蓮寺(日蓮宗):小田原市酒匂3-6-29

小田原千代蓮華寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
千葉山と号す。中山法華経寺末、池上・感応寺法縁。
開山中老僧越後阿闍梨日弁。東大友に天台宗蓮華院があり、文永11年(1274)に宗祖が身延に入山のとき改宗。日弁を初祖とし千葉山蓮華寺と改称する。
現在地の千代に武家屋敷あり寺に寄進、文禄年間に移転する。
慶長14年に小田原藩主より黒印、徳川家光より9石3斗の朱印を受領。中山法華経寺上席25等内に位し、小田原(相模)18ヶ寺の触頭となる。
 ※歴代の掲載があるが省略する。
○「新編相模国風土記稿」天保12年(1841)成立 より
(千代村)蓮華寺
千葉山(按ずるに、當村古千葉郷と唱へし遺名なり、)と號す、法華宗、(下總國中山法華經寺末、)文永十一年中老日辨、(慶長元年六月二十六日卒、※応長元年の誤り)起立す、本尊釋迦多寶、其餘宗法の諸尊を置、慶安二年寺領九石三斗餘の御朱印を賜ふ、(其地は村内に在、)
△番神堂
△鐘樓 鐘は元禄元年の鑄造なり、(此鐘板橋村妙福寺の物なりしを、元禄十年買得して當寺に掛く、序銘は舊に仍て改めず、)
  ◎「新編相模風土記稿」>村里部>足柄下郡巻13>新編相模風土記稿・蓮華寺:原本
 ※梵鐘は元板橋村妙福寺のもので買い入れしたとあり、妙福寺との関係性がうかがえる。
○サイト:小田原市>古文書・蓮華寺文書 より
◇蓮華寺文書 196点(市指定 平成10年8月1日)
 (概要)
 千葉山蓮華寺は江戸期、下総国中山法華経寺末寺で、相模国の日蓮宗寺院の触頭を勤める。
板橋にある妙福寺、東町にある弘経寺など宗門の触下寺院に関わる触書・願書が多数ある。
また、将軍家光から家茂まで歴代将軍の寺領朱印状の写し、大久保氏による寺領安堵状、足柄平野開発の基盤を築いた大久保相模守忠隣関連の文書、文禄2年(1593)以来の酒匂川の治水や雨乞い祈願関係の文書は注目に値する。
さらに、中興開基である松平十郎左衛門忠勝所縁の文書もある。忠勝は、徳川家康の小姓となった後、大久保忠世の家臣となった人物である。
 ※板橋妙福寺などが触下であり、同じ中山末で関係性は深いことを示唆する。
○「禁制不受不施派の研究」○「禁制不受不施派の研究」 > 身池対論直後の両派 > ◇10.中山の動揺 では
 「中山においては、不受論の伸長の過程で、関西の3山(=受派身延派)の輪番制を破棄しようとしていたが、その後、身池対論で身延派が勝利、当時の輪番であった妙國寺日現が入寺し、輪番が復活し、不受派を押え、院家を制圧する。
しかし不受派はすばやく対論の打撃から立ち直り、中山の院家・寺中は押えられたが、末寺は不受派のままで、本寺の支配から離脱し、本寺に違背した。
その主導者は下総峯妙興寺・多古妙興(ママ)寺[多古妙光寺のこと]・島妙興(ママ)寺〔島妙光寺のこと<島正覚寺中>〕・武蔵島根安穏寺・古呉妙福寺・鎌倉妙隆寺小田原蓮華寺であった。」とある。
 中山末小田原千代蓮華寺は本寺(=受派身延派)に違背した主導者という。
 このことは、「江戸時代の小田原(小田原市立図書館叢書2)」(下に掲載) で云うように
「小田原でも不受不施派の中山法華経寺につながる日蓮宗寺院はいくつかあった。板橋の妙福寺・妙安寺、茶畑町の蓮昌寺など・・・(である)」という状況であり、千代蓮華寺も寛永年中〜寛文年中における不受派の小田原での拠点であったと推定されるが、その後に禁制となった故に、当時の事跡・事象は何も伝えられていないようである。
 但し、板橋妙福寺跡(象ヶ鼻御塔坂聖跡)に承応4年(1655)の銘を持つ「寛永7年身池対論先師供養搭」(題目石)が残るが、これが現在に伝えられる当時の唯一の事跡であるのかも知れない。
 この供養石は、詳細は下に掲載しているが、日樹上人25回忌供養、日賢上人19回忌供養、それと微かに「日領 日弘 日充上人」、「日進 ■■上人」と読み取れる銘が刻まれている。
 おそらくは、身池対論直後に、この地小田原で高揚したと思われる中山末寺系の僧侶・信徒の不受不施派の手になる決意の題目石であったと推定される。

小田原茶畑町蓮昌寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
妙珍山と号す、圓成院、比企谷妙本寺末、池上神楽坂法縁。小田原市本町4-5-19
元亨元年(1321)創立、開山九老僧大乗阿闍梨日澄、開基妙音阿闍梨日行、開基檀越浜名一族、文永111年宗祖酒匂法船寺に宿泊、翌日浜名豊後守時成の屋敷に立ち寄るが、その邸宅を後日寺院に改めたという。
 ※歴代の名称の記載あるが、省略。
 ※周囲には円福寺、正恩寺、妙経寺、妙泉寺などがあり、寺町を形成する。
○「江戸時代の小田原(小田原市立図書館叢書2)」 では
「小田原でも不受不施派の中山法華経寺につながる日蓮宗寺院はいくつかあった。板橋の妙福寺・妙安寺、茶畑町の蓮昌寺など・・・(である)」とあり、寛永年中〜寛文年中における不受派の小田原での拠点であったと推定されるが、その後に禁制となった故に、当時の事跡・事象は何も伝えられていないようである。
○「新編相模風土記稿」>村里部>足柄下郡巻13>新編相模風土記稿・蓮昌寺:原本

小田原城山大久寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 寶聚山と号す、越後三条本成寺末(但し、昭和32年日蓮宗に転宗という)
天正18年(1590)の創建、開山は自得院日英、開基檀越小田原藩初代大久保忠世、忠世が小田原城初代として封じられた時、現在の地に遠州二股より日英を招き、大久山保聚寺を建立したのが始まりである。
天正19年堂宇落慶、忠世の命により寶聚山大久寺と改号する。
2代城主忠隣の改易により、寺運衰退、寛永10年に桑名藩主石川忠総(忠隣二男・石川日向守家成養子)が江戸下谷に遷し菩提寺とする。(法華宗陣門流教風山大久寺)
当所には小田原妙覚寺日春が了徳寺を建立、中山法華経寺末となる。
翌寛永11年大久保新八郎が大久寺の再興を発願、了得寺を廃し、再興する。中興は6世覺生院日歓。
昭和32年法華宗陣門流から改宗。
2023/05/21撮影:
本久寺には前期大久保氏一族の墓所がある。(未見)
なお、大久保氏の墓所は、法華宗陣門流大本山京都本禅寺、尾張岡崎長福寺、江戸青山教学院にもあるという。
 城山大久寺山門     城山大久寺本堂     城山大久寺本堂扁額     大久寺玄関客殿庫裏

小田原板橋本應寺

 法華宗陣門流・越後三条本成寺末、法雨山と号す。開基は羽原新右衛門忠次夫妻、開山は是真院日雄(寛文11年寂)。
羽原忠次は稲葉美濃守正則の家臣、法名は法雨院道樹日行であり、婦人の法名は本成院妙感日壽と号す。
往時は本乗寺と号するも、本寺本成寺と同音の為、本応寺と改号するという。
○「新編相模国風土記稿」 より
 (板橋宿)本応寺
法雨山と號す、法華宗、越後国三條本成寺末、寛永13年建、其頃は本乗寺と稱せしが、本寺と國読相似ければとて、宝暦11年今の寺號に改む。開山日雄、是真院と號す、寛文11年7月27日卒。開基羽原新右衛門忠次夫婦なり、忠次法名法雨院道樹日行、明暦元年5月18日死す、稲葉美濃守正則の臣なり、其妻法名本成院妙感日壽、寛文5年12月3日死、嘗て正則の乳母たりしを以て、一寺建立のことを許可せしと云。
本尊三寳諸佛を安ず。番神堂。寛保3年回録し、未再建ならず。
2023/05/21撮影:
境内には数基の自然石の題目塔がある。(未見)
 板橋本応寺入口    板橋本応寺本堂     板橋本応寺庫裡

小田原象ヶ鼻御塔坂聖跡
  :寛永7年身池対論先師供養搭


 象ヶ鼻日蓮堂参道(御塔坂)途中に日樹25年忌・日賢13回忌・日領・日弘・日充・日進(以上4師は推定)・「■■上人」と刻まれた供養石(題目石)がある。年紀は承応4年(1655)である。
つまりこの題目石は寛永7年(1630)身池対論(寛永法難)で陥れられた先師の供養塔であり、しかもその年紀は不受不施派が禁制となる前の承応4年(1655)である。
 現段階ではこの供養塔(題目石)に関する情報が皆無で、何の由来も分からないのであるが、仔細に身池対論直後の不受派及び受派の動向を整理すると、もし上記が事実であるならば、身池対論直後に、この地小田原で高揚したと思われる中山末寺系の僧侶・信徒の手による不受不施派の決意の題目石であったと推定される。
 管理人(s_minaga)にとっても予想外のことで、「象ヶ鼻日蓮上人霊跡」を訪れたときに、題目石があったので写真に収めた訳であるが、ほぼ11ヶ月後に本霊跡の写真の整理を行い、この題目石の銘を判読し初めて気が付いたと」いう次第である。
2023/05/21撮影:
 象ヶ鼻日蓮堂参道途中、道が二手に分かれ、川側に分岐する短い道がある、その道先に題目石がある。
寛永・身池対論先師供養搭1

寛永・身池対論先師供養搭2:左図拡大図

寛永・身池対論先師供養搭3:詳細1

寛永・身池対論先師供養搭4:詳細2

風神勧請題目石:寛永・身池対論先師供養搭の傍らにある。「南無妙法蓮華経 勧請風神之攸」と刻む。

 銘文は次のように判読できる。

        ■応四年乙未五月十■日             ※承応4年は1655年
     ■■■妙経一千■■■(部首題ヵ)・・・        ※誦唱妙経一千部成就のような意味合いと思われる。
   為二十五年忌之                        ※日樹25年忌
    日樹上人 日■(領ヵ) 日■(弘ヵ) 日■(充ヵ)■■(上人ヵ)
 南無妙法蓮華経
   為十三年忌之                         ※日賢13年忌
    日賢上人 日■(進ヵ) ■■■■(■■上人ヵ)

なお、日樹上人以下は「日領 日弘 日充上人」、日賢上人以下は「日進 ■■上人」と微かに読み取れると思われる。「■■上人」は見当がつかない。
また、補足であるが、
日樹は寛永8年(1631)5月19日示寂で、正当は(+24=1655年)承応4年(1655)である。
日賢は寛永21年(1644)8月24日示寂で、正当は(+12=1656年)明暦2年<承応4年に明暦と改元>であり、1年の齟齬がある。
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2024/05/31追加:
○「蓮生寺・妙福寺合寺百年記念 象鼻山御塔生福寺誌」御塔生福寺記念誌発行委員会、象鼻山御塔生福寺、2013.3(平成25年) より
 過日、板橋御塔妙福寺の後継寺院である生福寺ご住職から標記の図書「象鼻山御塔生福寺誌」の寄贈を受ける。
  ※表紙は「受贈図書」中にあり。
よって、「象鼻山御塔生福寺誌」から関連する資料を次に転載する。
◇御塔坂の聖跡(妙福寺開基の跡)
 宗祖文永6年(1269)富士埋経の旅の帰路、相州足柄郡板橋に至り、像の鼻に似た岩の上に立ち、房総の諸岳を遠望し、望郷の念にかられ、妙日妙蓮へ追福の題目を唱え、石の宝塔を建て、題目・多宝如来・釋迦世尊日蓮などと手刻すると伝える。
 別説もあり、文永11年甲州游化の後箱根路を経ての帰鎌の際とも、同年鎌倉への身延山への旅の途中ともいう。
何れにせよ、以降里人はこの地を「御塔さん」と呼び、信仰する。
 50年余を経て、永仁元年(弘安5年、元亨2年ともいう)越中阿闍梨朗慶当地を訪れ、ここに一宇を創建し「象鼻山御塔妙福寺」と名付けるという。なを、朗慶は八幡太郎義家の後裔と伝え、日朗の九鳳の一人である。
 御塔坂に残る苔むした巨石:手前の石が「日蓮550遠忌報恩石」で奥の巨石が「寛永7年身池対論先師供養搭」である。
 なお、上に掲載の2023/05/21撮影「寛永・身池対論先師供養搭1」が同じ構図の写真であるが、手前の石は全く苔に覆われ、それが「日蓮550遠忌報恩石」であるとは気が付かず、生福寺ご住職の談や寄贈頂いた「象鼻山御塔生福寺誌」の写真で初めて知ることが出来たという次第である。(訪問より約1年後のことである。)
 日蓮550遠忌報恩石:南無高祖日蓮大菩薩/南無妙法蓮華経/五百五十遠忌御報恩 と刻す。
 前述のように、「寛永7年身池対論先師供養搭」の前にある題目石である。
 なお、「生福寺誌」では、43世日現大徳、境内の岩盤を利用し、日蓮550遠忌記念に題目を刻す という。
 (半分は土中にあり移転不可なので、現地に残存するのが上記の報恩石である。)

◆承応4年(1655)の「身池対論不受派先師供養搭」に関する若干の考察
 本供養塔の由来については、全く資料があにのであるが、若干の考察をする。
 まず手掛かりとして、寛永7年(1630)〜寛文年中に至る間の関東における不受派と受派(身延)・幕府とのせめぎ合いについて概括して見る。
この概括については「備前法華の系譜>身池対論直後の両派」のページで概括する。
 ここで浮かび上ってくいるのは、身池対論で不受派先師は追放され、さらに池上・京都妙覺寺は受派に接収され、さらに加えて中山・小湊の両本寺及び中村・小西の両談所も帰伏するなど不受派は大きな打撃を受けるも、関東一円には身延方の受不施の思想は受け入れがたい気分が溢れ、不受派はすぐさま立ち直りを見せる。
 即ち、身延に接収された池上・京都妙覺寺の殆どの末寺・信徒は本山に従わず、本山(つまり身延)を孤立させ、中山・小湊も大部の末寺が本山に違背し、本山たる機能を失うこととなる。つまり身延の得たはずの池上・京都妙覺寺はもとより、中山も実質身延の手には落ちなかったのである。
一度身延の影響をうけた小湊は身延の干渉を跳ね除け不受を堅持する立場に復帰する。平賀は初めから身延の干渉を断固拒否する。
さらに追放された先師の後を継いだ不受派の諸師は教育にも注力し、松崎(顯實寺)、野呂(妙興寺)、安養寺(蔵王寺)、玉作(蓮華寺)の4談林を新たに開檀する。
 かくして不受派は小湊・碑文谷・平賀の3本寺と上記の4壇林の体制に中山・池上の違背した末寺などを加え、さらに公儀とつながった自證寺の勢力なども手中にあり、身延の執拗な訴訟にもかかわらず、身延の干渉を排除し、関東でどちらかといえば、身延の勢力を凌ぐ勢いであったのである。それは、新地(新寺)建立においても、身延を圧倒したのである。

 次いで、以上のような、不受派の、幕府権力と結託した身延(受派)への反逆はこの地小田原にもあったようである。
つまり、小田原には中山の有力な末寺が存在したのである。それらの僧俗を中心に不受が少なくとも当時は堅持・主張されていたのである。

「江戸時代の小田原(小田原市立図書館叢書2)」では、小田原における不受派と身延とのせめぎ合いは中山に繋がる寺院で不受不施が堅持・主張されたという。
○「江戸時代の小田原(小田原市立図書館叢書2)」岩崎宗純・内田清・内田哲夫、小田原市立図書館、1980 より
 第1章 近世初期の小田原−城下町と宿場町−>5 阿弥陀寺と紹太寺>異端の人々(p.75〜) では:
 この時代は、徳川幕府が実施し始めた強力な宗教統制が次第に進み、各宗寺院法度の制定、本末制度の確立と、既成仏教は、体制秩序の中に組み込まれ、仏教者の多くは、寺院法度のみを尊重し、伽藍に安住する傾向が生まれつつあった。
  (中略)
 江戸幕府の権力による宗教支配に抵抗し、自らの宗教信条を守り通そうとする人々は外にも(木食行者・弾誓や乞食禅僧・風外慧薫の外にも)多くいた。
 九州を中心に全国各地のキリスト教徒、支配者からの布施を拒む日蓮宗不受不施派である。幕府の宗教統制は、これらの人々に対する宗教弾圧という姿で表れてくる。
  (中略)
 日蓮宗不受不施派に対する弾圧も(キリスト教徒に対する弾圧と同様に)厳しいものであった。
  (中略)
京都妙覺寺の日奧らが元禄4年(1595)豊臣秀吉の千僧供養を欠席した時から支配者との対立の様相を深めていった。
 その後不受不施派は慶長4年(1599)徳川家康が大阪城で催した千僧供養にも欠席、江戸幕府とも対立していった。幕府は不受不施派の指導者を追放刑に処し、これらの動きを禁圧しようと図ったが、不受派の関東諸山は屈せず、盛んに不受不施を主張した。
 小田原でも不受不施派の中山法華経寺につながる日蓮宗寺院はいくつかあった。
板橋の妙福寺・妙安寺、茶畑町の蓮昌寺などで、これらの寺院では不受不施を主張し寺から追放された住職は、寺の歴代から削除されている。
 寺院追放・寺領安堵の朱印状授与の際、その条件として受施派への転向の強制、さらに寛文9年(1669)4月3日には不受不施の寺院は寺請を禁ずるなどの幕府の一連の禁圧策の前に不受不施派は次第に衰退していった。
 とある。
 以上では、
ここ小田原にても、中山法華経寺につながる板橋の妙福寺・妙安寺、茶畑町の蓮昌寺などが不受派を堅持していたとある。
まさに、ここ「象ヶ鼻御塔坂聖跡」は次項の「小田原象ヶ鼻日蓮上人霊跡:御塔妙福寺跡」、「小田原御塔生福寺」で述べるように「板橋妙福寺跡」なのである。
 妙福寺あるいはこの周辺では、承応年中まだ盛んに不受不施が信仰され、その信仰の強い表明として、日樹25年忌・日賢13回忌報恩を機に、上記の「身池対論先師供養搭」が建立されたものと思われる。
 もとより、今となっては、寛文年中以降不受不施派が禁制となり厳しく弾圧された故に、その建立者などは不明である。
けれども、おそらくは妙福寺・妙安寺・蓮昌寺あるいは千代蓮華寺などの僧・信徒が不受不施堅持の高揚で以って、建立したものと推定する。
よくぞ、200余年におよぶ禁制の時代「身池対論先師供養搭」が破壊されず生き延び、この地に残されたことは稀有のこと感ずる。

小田原象ヶ鼻日蓮上人霊跡:御塔妙福寺跡

 ○「現地説明板」 より
文永11年(1274)高祖、鎌倉から身延山に赴く途中、当所を通り、当所の巨石・象ヶ鼻の上に登り房総の諸山を望み、両親を偲び回向して、曼荼羅本尊を揮毫し、宝塔を建て、首題・二佛・四菩薩を刻し、衆生済度・病則消滅を祈願する。
その後、当所は「お塔のふた親さん」と呼ばれ里人の信仰を集める。
永仁元年(1293)朗慶(日朗弟子)がこの地に来錫し、象鼻山妙福寺を建立する。本寺は中山法華経寺であった。
大正2年象鼻山は廃寺となり、蓮正寺と合併、現在は小田原板橋に移り、御塔山生福寺(上に掲載)となる。
2024/05/31追加:
○「新編相模風土記稿」>村里部>足柄下郡巻13>新編相模風土記稿・妙福寺:原本
  ※文中の日清については「象鼻山御塔生福寺誌」に詳しい。
2023/05/21撮影:
御塔妙福寺の詳細については、上掲の「小田原御塔生福寺」の参照を乞う。
 象鼻参道入口題目塔ほか:題目塔正面は「南無妙法蓮華経」左右側面には「象鼻」「御塔」とある。向かって右の石塔は「馬頭観音」
 象鼻御塔入口門柱     象鼻御塔参道石階
 象鼻御塔日蓮堂     象鼻日蓮堂内部     象鼻日蓮堂曼陀羅     象鼻日蓮堂下札
2024/05/31追加:
○「蓮生寺・妙福寺合寺百年記念 象鼻山御塔生福寺誌」御塔生福寺記念誌発行委員会、象鼻山御塔生福寺、2013.3(平成25年) より
 何れも、遷座・合寺する前の妙福寺の姿が分かる貴重なものである。
 東海道分間延繪圖・妙福寺部分:第三巻、江戸後期:江戸期の妙福寺がイメージできる。
 明治13年妙福寺境内建物圖:像ヶ鼻の巨石に接して、本堂・庫裏・題目堂の伽藍が覗われる。東海道分間延繪圖にある稲荷は退転か。
 大正2年6月遷座直前の妙福寺:本堂で背後は庫裡、堂前の1基の石造常夜燈・対の石灯篭・右端下に写る山内蓮真顕彰碑は現在の生福寺に遷され現存するという。

小田原御塔生福寺:御塔妙福寺後継

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 象鼻山と号す、中山法華経寺末。
文永6年(1269)宗祖が甲州遊化の帰路、象鼻に似た巨石の上に立って房州の地を望み宝塔を建て、両親の菩提を弔う。里人は「お塔のふた親さん」と呼んで尊崇。その地に元享2(1322)4月、九老僧朗慶が一宇を建てて御塔妙福寺と称する。
2世日法は3年在住し、聖像を彫刻し安置、今にこれを伝える。48世本時院日儀の代、明治45年4月、富士山363番地(象ヶ鼻日蓮上人霊跡)より大窪村蓮生寺(現在地・開山蓮生院日周・平賀本土寺末)を合併移転し、御塔御塔生福寺と改称する。
 参考の為、歴代譜を記す。明らかに寛永前後の歴代は一切不明である。
象鼻山妙福寺歴代
  開祖 九老越中阿闍梨朗慶 正中元年(1324)2.28寂 
  二世 中老和泉阿闍梨日法 暦応4年(1341)1.5寂
  三世 師阿闍梨日祐    文正元年(1466)3.19寂
  (この間、詳らかにならず、不詳)
 一六世 本妙院日久     天文8年(1539)9.12寂
  (中略)
 二三世 心浄院日清     天正18年(1590)3.5寂
 二四世 通心院日悟     慶安3年(1650)6.3寂
 二五世 通徳院日要     慶安4年(1651)3.20寂
 二六世 正運院日通     明暦2年(1656)1.22寂
 二七世 法泉院日理     萬治3年(1660)6.3寂
 二八世 中興・心量院蓮真日清 寛文13年(1673)8.15寂
  (中略)
 四三世 事本院日現     弘化2年(1845)3.9寂、日蓮550遠忌報恩題目石造立。
  (以下略)
○「新編相模国風土記稿」天保12年(1841)成立 より
 板橋宿蓮生寺
浄水山と號す、同宗(法華宗)、下総國平賀本土寺末、慶安二年(1649)起。開山日周、蓮生院と號す、慶安元年二月廿九日卒と云、按ずるに草創以前の示寂なり、盡請待開山にや。
本尊三寳諸尊を安ず。
○「御塔生福寺HP」 より
 小田原板橋富士山の中腹にあった象鼻山妙福寺と現在地にあった浄水山蓮生寺が大正の初めに合寺して象鼻山御塔生福寺となる。
 象鼻山妙福寺は、日蓮上人が文永六年(1269)甲州遊化富士山埋経の後、箱根路を経て帰倉する際、湯本を過ぎ小田原に入る手前の富士山(小田原市板橋字富士山363番地)の象鼻に似た巨石の上に立ち、相模灘の彼方の房州を望み、両親の菩提を弔い、石の宝塔を建てられたと伝えらている場所に、53年後の元亨二年(1322)四月、九老僧越中阿闍梨朗慶上人が象鼻山妙福寺を開山、中山法華経寺末となる。
 一方、浄水山蓮生寺は蓮生院日周上人が開山、下総国葛飾郡平賀村本土寺の末派となる。
開創の年代は、『神奈川県皇国地誌残稿』によると永正二年(1505)、『新編相模風土記』によると慶安二年(1649)と、二説ある。開山日周の没年も夫々慶長元年(1596)二月二九日と慶安元年(1648)二月二九日と異なり定かではない。
境内は東西四間五分、南北六間、面積二七坪、明治八年(一八七五)二月三日の火災により焼失したが同年仮堂が再建された。
 箱根登山鉄道の開通により敷道が妙福寺境内地と重なった為、蓮生寺へ移転合併し現存の本堂を建立、象鼻山御塔生福寺の開山となる。
2024/05/31追加:
○「蓮生寺・妙福寺合寺百年記念 象鼻山御塔生福寺誌」御塔生福寺記念誌発行委員会、象鼻山御塔生福寺、2013.3(平成25年) より
 本書には多くの図版・文化財が掲載されるが、その内で仏像のみを以下に記す。
本尊日蓮聖人坐像(江戸中期)、木造釈迦如来坐像(元禄13年)、木像日蓮聖人坐像、木像七面大明神坐像(江戸)、
木造妙見菩薩坐像(江戸)、木像妙見菩薩立像(昭和)、木像鬼子母神立像(慈悲相・江戸)、木像鬼子母神立像(鬼神相・江戸)、
木像日天子・月天子立像(江戸末から明治)、木像清正公坐像(江戸)、木像大黒天立像、木像毘沙門天立像(天保13年)、
十羅刹女立像10躯、木像稲荷大明神立像(江戸)、木像稲荷大明神(明治37年)
2023/05/21撮影:
 御塔生福寺入口題目石     御塔生福寺境内
 御塔生福寺本堂1     御塔生福寺本堂2     御塔生福寺庫裡     御生福寺境内題目塔
 御塔生福寺墓塔
  中央は28世(中興)心量院蓮真日清(寛文13年寂)墓塔、向かって右は46世(中興)浄心院日精(明治27年寂)墓塔、左は不詳。
 御塔生福寺歴代廟:石造宝塔はおそらく歴代廟塔、十三重石塔は日蓮700遠忌報恩塔
 御塔生福寺歴代墓誌:初祖朗慶、二祖日法、三祖日祐 とある。

小田原板橋妙安寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
了勝山と号す、六条本圀寺末。
開山厳誉阿闍梨日源(正和4年(1315)9月13日寂)、開基竜臻院然、開基檀越神保半助。
明治19年小田原板橋より移転。
関白太政大臣近衛尚道(ママ)・同父君・同夫人の墓がある。
 ※歴代の記載なし。
○ブログ:京本國寺の末寺「了勝山妙安寺」では
 妙安寺:
二宮町二宮に六条本國寺の末寺、「了勝山妙安寺」はある。
開山は中老日源(正和四年卒)、中興は本受院日東である。
参道右手にある「題目石」によれば板橋(小田原市)に妙安寺は現存しないが、明治18年成稿とされる『皇国地誌』残稿が板橋村に妙安寺の記述ありおそらく同年までの存在していたとなる。
妙安寺は「六条本國寺末」で本満寺の天皇勅願寺同様、政家の子「近衛關白尚通」と法華宗との由縁が窺える。
境内には「本堂」と「庫裡」があり、その前に「近衛家墓」が三基ある。
 ※「近衛家」墓3基及びその銘については、
 下掲の「郷土士の歴史探究記事 その61」に掲載するが、その内の1基は近衛殿の墓という。
○wikipwdia より
 近衛殿:
 近衛殿は、近衛尚通の娘で北条氏綱の後妻。
近衛稙家の姉にあたり、北の藤とも呼ばれていたという(『為和集』)。
生年は不詳であるが、氏綱の最初の妻である養珠院殿が没した大永7年(1527)時点で、近衛稙家は26歳であるため、その姉であればそれよりも年長になる。しかも、実際の婚姻は尚通と氏綱の関係が密接になる享禄4年(1531)もしくは翌天文元年(1532)と推測されるため、氏綱に嫁いだのは30歳を過ぎてからと考えられる。
そのため、後北条氏が摂関家との関係を構築するために行った政略結婚で、名目的要素が強かったとされているが、それでも氏綱の死後に先妻の子である北条氏康が家督を継いだ後も、「御大方様」として遇されていた。
 記録上では天文19年(1550)まで動向が知られるので、亡くなったのはそれ以降と考えられるが、詳細は不詳。ただし、板橋妙安寺にある天文23年(1554)7月24日没の「勝光院殿妙安尊尼」の墓を近衛殿の墓とする説がある。
 ※板橋妙安寺の天文23年の供養塔の銘は下に掲載の「郷土士の歴史探究記事 その61」に掲載する。
○「郷土士の歴史探究記事 その61」 より
 2、氏綱継室・勝光院(北の藤・近衛殿)について
 北條氏綱の継室勝光院は、前関白近衛尚通息女で「近衛殿」とも称されているが、「北の藤」とも呼ばれていた。(『後法成寺関白記』、『実隆公記』、冷泉為和の歌集『為和集』)
  (中略)
 氏綱他界後の天文19年(1550)三月二十四付『北條家朱印状写』に、「御大方様」とある(黒田基樹)。氏綱他界後も北の藤が、氏綱後室として小田原在住も確認できる。
 天保12年(1841)刊『風土記稿』第二巻は、板橋村の妙安寺に「近衛家墓」三基を記しているが、寺傳に勝光院殿を「氏政内室の母儀」とあり「寺傳疑ふべし」としており、既に近世中期には、氏綱継室の墓所であることは分からなくなっていた。
(「東海道分間延絵図」)
 文化4年(1807)成立の『東海道分間延絵図』の板橋村入口付近を示したが、「題目石」の石柱角を入ると妙安寺とある。
  東海道分間延繪圖・板橋妙安寺
同寺は明治17年に二宮町二宮に移転し、本堂前に「近衛家」墓碑も移される。向かって左から後法成寺殿(尚通)、中央が勝光院殿(北の藤)、五輪塔を挟んだ右端が後法興院殿(政家)である。
 墓銘は次の通り。
 1.後法成寺殿
       天文十三暦
  妙法 後法成寺殿准三宮(尊義)
       八年廿六日
 2.大檀勝光院殿妙安尊尼
     天文廿三年甲寅七月二十四日
  妙法 當寺大檀勝光院殿妙安尊尼
       近衛殿御前様也
 3.後法興院殿
         永正二年
  南無妙法蓮華経 法眞院(法興院)殿三宮禅定尊義
         六月十九日
 勝光院殿の「近衛殿御前様也」は後年の加筆(追記)で、「氏綱御前様」の間違えが法名「勝光院殿」で分かり、忌日も天文二十三年(1554)七月二十四日と判明する。
 勝光院殿の小田原での氏綱との結婚生活は、22年前後で享年も50歳過ぎとなろう。
おそらくは「北の藤」は妙安寺にとって中興開基的存在であったと推定可能であろうか。
それには、氏綱はもとより近衛家の祖父政家と、父尚通の尽力も大きかったものと思われる。
 因みに、尚通・政家の墓は他には現存しないという。「北の藤」墓もこれのみで大変貴重である。ただ、いずれも近世の供養墓であろう。
○ブログ:妙安寺のお参りの記録(1回目) では
 【妙安寺縁起】<神奈川県第三部寺院ぶっく>よりとして、
 天文13年(1554)近衛関白家尚通の逝去に伴い、奥方・勝光院殿は出家し、妙安尼と称して尚通卿の供養の精舎を、小田原の板橋村に建立する、これが始まりである。
 明治19年(1886)に現在地の二宮に移転され、爾来、「浜のお寺」として親しまれている。
○「新編相模風土記稿」>村里部>足柄下郡巻13>新編相模風土記稿・妙安寺:原本
○「江戸時代の小田原(小田原市立図書館叢書2)」 では
「小田原でも不受不施派の中山法華経寺につながる日蓮宗寺院はいくつかあった。板橋の妙福寺・妙安寺、茶畑町の蓮昌寺など・・・(である)」とあり、寛永年中〜寛文年中における不受派の小田原での拠点であったと推定されるが、その後に禁制となった故に、当時の事跡・事象は何も伝えられていないようである。

小田原風祭妙覚寺

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 玉正山と号す、中山法華経寺末。連師法縁。文永11年(1274)創立、中老僧日辨開山、開基檀越大野三河守。この地に在った寺名不詳の真言宗寺院住僧順學が文永5年日忍により改宗、日順となる。
文永11年改築し、寺号を妙覚寺と改む。開山は日忍の師日辨、2祖は日忍、3祖は日順とす。
現本堂は昭和40年築造のRC造。
2023/05/21撮影:
 風祭妙覚寺入口:入口は旧東海道に直面する。     妙覚寺入口題目塔     風祭妙覚寺山門
 風祭妙覚寺本堂:近年木造にて造替されたと思われる。     風祭妙覚寺庫裡
 妙覚寺玉正稲荷      妙覚寺玉正稲荷本殿


2016/04/06作成:2024/06/17更新:ホームページ日本の塔婆日蓮上人の正系8