四 国 ・ 九 州 の 日 蓮 宗 諸 寺

四国・九州の日蓮宗諸寺

讃岐の諸寺

高松城下寺町
○「讃岐國名勝圖繪・巻5香川郡」梶原/景紹 著、松岡/信正 画、嘉永七年刊 より
讃岐國名勝圖繪・寺町
 讃岐國名勝圖繪・寺町:本絵図中央付近、東から妙朝寺(日蓮宗)、本典寺(法華宗)、善昌寺(日蓮宗)、徳成寺(真宗大谷派)が並ぶ。しかし戦後いずれの寺院も移転して、現在ではこの地にはない。
 讃岐國名勝圖繪・寺町2:本絵図中央付近、東から正覚寺(浄土宗)、地蔵寺(高野山真言宗)、行徳院(御室派)が並ぶ。
現在、善昌寺は正覚院と地蔵院の間に移転している。
 正覚・地蔵・行徳院の南には東から慈恩寺(臨済宗妙心寺派)、大本寺(法華宗)が並ぶ。慈恩寺境内には高松市立四番丁尋常小学校が設置され、戦後、小学校は慈恩寺・大本寺境内全域に拡大し、現在は両寺とも現地にはない。
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○「高松城下町屋敷割図」幕末頃 より
高松城下町屋敷割図
 高松城下町屋敷割図:部分、日蓮宗関係の寺院では、中央部分向かってやや右(東)に本覺寺(法華宗、現在現地より移転)があり、やや左(西)に妙朝寺、本典寺、さらに西に大本寺がある。上述のように、何れも移転し、現在地には存在しない。
 なお、本典寺と徳成寺の間には善昌寺があるはずであるが、如何なる理由かは不明であるが、善昌寺は欠落している。
大本寺には「藤堂家家臣西嶋八兵衛某宅地趾」との注釈がある。
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○戦前の高松市街図
「高松市街明細全圖」香川県、明治28年 より
 明治28年高松市街明細全圖:中央やや下附近に寺町の寺院が並ぶ。が日蓮宗関係寺院である。しかし、上述のように、日蓮宗関係寺院は全て現地には存在せず、戦後、近隣の地に移転する。
圖中の妙聴寺は妙朝寺。慈恩寺及び大本寺境内には尋常小学校がすでに設置されているようである。
「高松市街全圖」香川県、明治45年 より
 明治45年高松市街全図:同上、但し、本図には本覺寺の記載がないがその理由は不明である。圖中の妙聴寺は妙朝寺、本興寺は本典寺の誤植であろう。
「高松市新地圖」香川県、大正12年 より
 大正12年高松市新地図:同上、圖中の妙聴寺は妙朝寺、本興寺は本典寺の誤植であろう。
「高松住宅明細地図」高松商工会議所、昭和8年 より
 昭和8年高松住宅明細地図:但し、本図は今までの図とは違って、南が上、西が向かって右の図である。寺町寺院の記述は明治・大正期の地図とほぼ同じであろう。
 ※高松寺町の日蓮宗・法華宗関係寺院は戦前には衰微しつつはあるものの、ほぼ近世の位置を踏襲してきたことが分かる。
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○現在の高松市街図
 2018年度高町市街図:原図はマピオン、善昌寺は中央西よりに再建されたものと思われる。その再建位置は近世からの位置を保つと思われる地蔵寺と正覚寺との間の狭い隙間である。
妙朝寺及び大本寺は中央東よりの築地町(琴電今橋駅西北西)に並んで移転し、本覺寺は琴電今橋駅北方向の松福町に移転している。

高松寺町善昌寺
 高松市番町1−2−12
○「四国日蓮宗のお寺」平成22年及び「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
理雲山と号す。京都妙覚寺末。
開基年代不詳。
天文11年(1542)再営。開山本寂院日遊。開基木村氏。
○2017/12/17撮影:
江戸後期の姿は上述の「讃岐國名勝圖繪・寺町」を参照、山門・破風付本堂・庫裡書院・三十番神堂・同拝殿などの堂宇があったようである。明治維新以降の位置、戦後の位置などについては、上述の「高松城下寺町」の項を参照。
 寺町善昌寺本堂1:向かって左は地蔵寺     寺町善昌寺本堂2     寺町善昌寺本堂3     寺町善昌寺本堂4
 寺町善昌寺庫裡:庫裡は本堂裏にひっそりと建つ。
上述のように、戦後、善昌寺は元地を離れ、地蔵寺と正覚寺間の地に移転したようである。したがって境内は狭く、本堂は仮堂のような建築であり、資金的な事情があるのであろうか、本格的な再興は果たされていない印象である。
 右隣の浄土宗正覚寺も堂宇は新築されるも、規模を減じ、境内は狭隘となる。

高松寺町妙朝寺
 高松市築地町4−3
○「四国日蓮宗のお寺」平成22年及び「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
壽徳山と号する。京都妙覚寺末。もと寺町にあり。
慶長元年(1596)高松城主生駒親正家臣小橋平左衛門の進言にて日然を迎え創建せり。
昭和20年高松空襲にて灰燼と帰す。
昭和27年都市計画にて現在地に移転、復興する。
○2017/12/17撮影:
江戸後期の姿は上述の「讃岐國名勝圖繪・寺町」を参照、楼門、錣葺本堂、庫裡・書院などがあったようである。明治維新以降の位置、戦後の位置などについては、上述の「高松城下寺町」の項を参照。
 寺町妙朝寺山門     寺町妙朝寺本堂1     寺町妙朝寺本堂2     寺町妙朝寺本堂扁額
 高松寺町妙朝寺庫裡     妙朝寺永代供養塔

高松寺町大本寺
  高松市築地町4−4(妙朝寺東隣)
法華宗(本門流)に属する、但し、江戸後期は京都妙蓮寺末寺。
 ※江戸後期の頃は京都妙蓮寺末であり、現在は京都本能寺・尼崎本興寺に属するということについて、江戸末期の高松八品講の勃興と関係があるのかどうかは、管見にして、不明である。不明ではあるが、頼該は高松寺町本覺寺日について法華経信仰に入るということ、高松寺町本典寺及び同本覺寺には高松八品講の資料が残るというので、八品講と寺町の法華宗本覚寺・本典寺は八品講の影響を受けたものと推定される。
 高松八品講については「京都宥清寺」中の「本門仏立宗開祖:長松清風(日扇)」の項を参照。
○現地説明板 より
衆妙山と号する。
寺伝では、伊勢津藩の土木技術者西嶋八兵衛の屋敷を当寺開基自乾院日省がもらい受け創建するという。その時の寺院建立には梶原久圓の助力があったという。
当時の寺域は四番丁小学校北西部に位置し、740坪余、本堂・一切経蔵・鐘楼・山門などがあった。
昭和20年高松空襲で焼失する。後に都市計画で現在の築地町に移転する。
釈尊本佛足跡:天明5年(1785)年紀
○「高松市史」高松市 編、昭和8年(1933)
衆妙山と号す。境域735坪余、本堂方7間、鎮守堂2×1間・三光天子。
此の地は生駒家功臣西嶋八兵衛の宅跡である、寛永15年御暇を請うて伊勢へ還るとき、寺に願ったのである。
開基日省は梶原久圓と別懇であり西嶋氏が寛永17年城請取の際御雇として来た時久圓方で逗留したというからその関係を察することができる。
○「讃岐國名勝圖繪巻5香川郡」梶原/景紹 著、松岡/信正 画、嘉永七年刊
法華宗京都妙蓮寺末寺。
当寺は生駒老臣西嶋八兵衛宅跡なり。寛永16年日省によりて・・・
 ※上掲の「讃岐國名勝圖繪・寺町2」にて江戸期の堂宇を見ることができる。山門・大本堂・庫裡・書院・鎮守・同拝殿・鐘楼・経堂などがあったようである。明治維新以降の位置、戦後の位置などについては、上述の「高松城下寺町」の項を参照。
○2017/12/17撮影:
 寺町大本寺入口     寺町大本寺本堂1     寺町大本寺本堂2     寺町大本寺本堂扁額
 寺町大本寺庫裡     寺町大本寺題目碑     釈尊本佛足跡      大本寺歴代墓碑

高松寺町本覚寺
  高松市松福町1−1−10
法華宗(本門流)
○「高松市史」高松市 編、昭和8年(1933)
真如山と号す。境域455坪、本堂方7間、鬼子母神堂。
慶長12年生駒家家臣佐藤掃部の建立である。
○「讃岐國名勝圖繪巻5香川郡」梶原/景紹 著、松岡/信正 画、嘉永七年刊
法華宗尼崎本興寺京都本能寺末寺
当寺は慶長7年生駒家臣佐藤掃部建立なり。鎮守社三十番神
○2017/12/17撮影:
江戸後期の姿は上述の「讃岐國名勝圖繪・本覺寺」を参照、山門、本堂、庫裡・書院など、鬼子母神堂、三十番神堂、同拝殿、鐘楼?があったようである。明治維新以降の位置、戦後の位置などについては、上述の「高松城下寺町」の項を参照。
なお、高松八品講開祖松平頼該は本覺寺日について法華経信仰に入るという。
 寺町本覺寺山門:山門脇に「本覺寺別院」との石柱が建つ。別院の意味は不明、本院は元地(寺町)に幻想としてあるという意味であろうか。
 寺町本覺寺全容1     寺町本覺寺全容2

高松寺町本典寺
 高松市番町4−2−13
法華宗(本門流)に属する、但し、江戸後期は京都妙蓮寺末寺。この齟齬については高松寺町大本寺を参照。
○「高松市史」高松市 編、昭和8年(1933)
薬王山と号する。境域234坪余、本堂方6間、鎮守堂・三光天子鬼子母神。
往古三豊郡にあって高瀬大坊の末院であったが、天正年中日慈今の地に移す。
○「讃岐國名勝圖繪巻5香川郡」梶原/景紹 著、松岡/信正 画、嘉永七年刊
法華宗京都妙蓮寺末寺。
○2017/12/17撮影:
江戸後期の姿は上述の「讃岐國名勝圖繪・寺町」を参照、山門、本堂、庫裡・書院、鎮守社・同拝殿などがあったようである。明治維新以降の位置などについては、上述の「高松城下寺町」の項を参照。
 本典寺門前題目碑     寺町本典寺山門     本典寺本堂・庫裡
 寺町本典寺本堂       寺町本典寺庫裡     開基日慈330遠忌題目碑

高松廣昌寺
 高松市中央町6−18
○「四国日蓮宗のお寺」平成22年及び「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
久栄山と号す。身延山末。奠師法縁。
寛文元年(1661)高松藩祖松平頼重生母高瀬局(靖定夫人・久子の方)逝去。
その菩提を弔うため、新寺建立を企図するも、新寺建立禁制のため、寛文2年那河郡金輪寺を当地に移し神智院と呼称する。
寛文3年諸堂整備、廣昌寺と改号する。同年水戸家の配慮で常州より日儀を迎え開基とする。
寛文5年藩祖生母の菩提寺として、七堂伽藍を整備。
昭和20年高松空襲にて焼失。
昭和35年本堂再興。
なお、宝暦4年(1754)高松妙見寺、高松廣昌寺の末寺となり、日蓮宗に改宗。<高松妙見寺は下に掲載>
2018/01/25追加:
○「讃岐名所圖會 巻之六上」  より
久榮山成道院、法花宗、甲州身延山久遠寺末寺
御霊屋(久昌院殿、本壽院殿。金碧彩画、楽器備わる)鎮守社(七面大明神)・・・・
 当寺は那珂郡三条村にありて金福寺と云ひしを、寛文元年国祖君この処に移して今の寺号に改めたまふ。この地は細川家当国の守護たりし時、香西伊賀守が陣営にて土居趾今なほ存せり。境内に紅葉多し、秋は見物人多し。
 石清尾八幡宮全図:本図中に当寺が描かれる。当寺は本図の左端下に描かれる。
2018/01/25追加:
○「高松城下町屋敷割図」幕末頃 より
「高松城下町屋敷割図」:石清尾八幡宮部分図および廣昌寺部分図
 石清尾八幡宮部分図:本図の右端上部に廣昌寺がある。
 廣昌寺部分図:さらに廣昌寺の部分図である。
廣昌寺部分の記載文:
中村城主藤井氏墟也 元文中英公御所生 谷左馬助藤重則女該久昌院君為御佛殿及樋口二位殿息本壽院殿同五女福壽院殿御菩提領百三十石 毎歳銀二枚賜フ 属身延山 廣昌寺
 ※英公:松平頼宣の諡号   ※ 久昌院生家の谷家の本姓は藤原氏という。
 ※樋口二位殿、本壽院殿、福壽院殿は不詳。
2017/12/17撮影:
生母高瀬局は法号久昌院靖定大姉、俗名谷久子、徳川頼房側室、長男徳川頼重及び三男徳川光圀生母。
墓所は初め水戸城下経王寺であったが、のち水戸徳川家墓所瑞龍山に移される。さらに、延宝5年(1677)徳川光圀、母・久昌院の菩提を弔うために建立した常陸久昌寺が落慶する。また、松平頼重も菩提を弔うために、讃岐高松城下に廣昌寺を建立する。
 門前題目碑:明治17年年紀     高松廣昌寺山門
 廣昌寺本堂庫裡     高松廣昌寺本堂     高松廣昌寺庫裡

高松妙泉寺
 高松市栗林町2−10−22
本門佛立宗、特に情報はない。山城宥清寺末。
屋上に塔堂があり。 → 「塔婆に関する参考」>「塔婆参考」のページ中写真掲載。 

高松妙見寺
2017/12/17現地未訪問・未見。
 高松市栗林町3−11−19
下記の、かっての本寺「廣昌寺住職談」によれば、
妙見寺は廣昌寺に合併され、すでに本堂などは退転し、寺地は駐車場となっているという。
但し、妙見堂及び妙見菩薩は現地に残るという。2018年中に土地の整理あるいは妙見堂の整備などを実施する予定という。
 ※「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 では 妙見寺本堂写真の掲載がある。
  昭和62年直前の高松妙見寺
 ※高松妙見寺趾現況(2018年1月Yafoo地図<Web>より)
  2018年1月妙見寺跡
 ※高松妙見寺跡現況2(GoogleMap<Web>より)
  高松妙見寺跡航空写真:妙見堂が残るというも良く分からない。
   藤ノ木神社拝殿と称する堂宇があるいは妙見堂かも知れない。
  藤ノ木神社拝殿・本殿:サイト「香川県の神社」より
   拝殿、本殿の写真の掲載及び由緒の掲載がある。拝殿が妙見堂である可能性もある。
  藤ノ木神社本殿:2015年2月撮影StreetView:北から撮影、中央の青い屋根の小祠が本殿である。
  藤ノ木神社拝殿:2015年8月撮影StreetView、あるいは妙見堂か??
○廣昌寺住職談:
現在(2018年)晋山して1年にしかならないので、詳細は承知していないが、妙見寺は廣昌寺に合併と聞いている。
 ※昭和62年の「日蓮宗大図鑑」には妙見寺本堂の写真の掲載があるが、平成22年の「四国日蓮宗のお寺」では妙見寺自体の記載がない。このことは、この間の事情を物語るものであろう。
本尊(日蓮像・相当程度毀損していたので修理するという)は廣昌寺に遷座、妙見菩薩(住職が外から拝した感じではいわゆる能勢型妙見菩薩であったという)は現地の妙見堂に残る。
現地は空地となり、その空地が妙見寺の跡である。現在は駐車場等となり相当荒廃している。土地は廣昌寺の管理である。片隅に妙見堂が残る。
本年度(2018年)に、現地は荒れているので整理する予定である。妙見堂も荒れているので、修理をする予定である。
 ※以上から、妙見寺は妙見堂のみを残し退転し、本山である廣昌寺に合併したものと思われる。現地には土地と妙見堂のみ残り、土地及び妙見堂は廣昌寺の管理下にある。2018年中に現地は整備される予定であり、土地と妙見堂は維持される見込みであるということであろう。
○「高松城下町屋敷割図」幕末頃 より
 高松城下町屋敷割図・妙見宮:中央やや右下に「北辰妙見宮」と記載される。この北辰妙見宮が妙見寺の前身である。
西側の「御林御殿」は現在の栗林公園で、その御門の南東附近で金比羅本道と仏生山街道が分岐する。そしてその分岐附近から東に「北辰妙見宮」への参道がある。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
長久山と号する。高松廣昌寺末。・・・上に掲載。
享保7年(1722)創立、開山慈修院日謙、奠師法縁。
もと香川郡西山崎村本堯院所属の本門法華宗であった。(※本堯院は現高松市西山崎町849に現存)
水戸家の祈願所となり、享保19年寺社奉行より庵号御免の認可を得、是心庵または長久庵と称し、後に妙見庵と改称。
宝暦4年(1754)高松廣昌寺の末寺となり、日蓮宗に改宗。
明治41年火災焼失、昭和6年本堂拡張・書院新築。
昭和17年高松廣昌寺19世日謙が開山となり、寺号公称。

最上稲荷山高松教会
 高松市中野町25−22
最上稲荷教、2017/12/17現地は未見。
立正庵なる堂宇がある。高松教会は立正庵と号するのであろうか。日蓮宗ではなく最上稲荷教に属するものと思われる。
○GoogleMap より
2014年2月StreetView
 最上稲荷山高松教会:中央に鳥居及び教会が写る。
航空写真
 最上稲荷山高松教会・航空写真:この堂宇は「立正庵」という名称が付せられる。 

高松日妙寺
 高松市錦町2−4−5
○「四国日蓮宗のお寺」平成22年及び「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
廣榮山と号す。京都妙覚寺末。法縁に記載なし。
文明17年(1485)光壽院日英(文明17年寂)によって開山、日英は京都妙覚寺11世日意弟子。開基檀越小笠原民部太輔。
元は現在の引田町にあったが、天正13年宇多津に移転、さらに慶長7年丸亀に寺領を賜り、移転。
慶長15年(1610)生駒正俊の命により現在地に移転。
「大観」では文明17年光壽院日慧の開山という。
平成21年本堂耐震補強、庫裡新築なる。
 なお、清正公堂ありという。
○2017/12/17撮影:
 日妙寺参道寺号碑     日妙寺参道寺題目碑     高松日妙寺山門     高松日妙寺本堂・庫裡
 高松日妙寺本堂1     高松日妙寺本堂2     高松日妙寺庫裡その1     高松日妙寺庫裡その2
 石造三重塔         題目碑及び歴代墓碑

高松泉立寺
 高松市錦町2−6−29
○「四国日蓮宗のお寺」平成22年及び「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
高照山と号す。身延山末。奠師法縁。
承応3年(1654)創立。
開山は中道院日然、越前妙泰寺より招請する。中道院日然は身延22世日遠の弟子。
開基檀越は肥田和泉守政勝、政勝は高松藩初代松平頼重の城代家老であり、水戸より来たるという。
○「讃岐國名勝圖繪巻5香川郡」梶原/景紹 著、松岡/信正 画、嘉永七年刊 より
 高松泉立寺繪圖:山門、本堂、庫裡書院、七面社、三十番神堂などがある。
○2017/12/17撮影:
 高松泉立寺山門     高松泉立寺本堂     泉立寺本堂扁額     高松泉立寺庫裡1     高松泉立寺庫裡2
 泉立寺石造三重塔     泉立寺宝篋印塔1     泉立寺宝篋印塔2

高松妙覚教会
 高松市西宝町3−9−28
日蓮宗
○「四国日蓮宗のお寺」平成22年 より
昭和初期、小泉モト日蓮宗に帰依し、備中最上稲荷を信仰する。
昭和32年開基檀越佐々木平吉が現在地に堂宇を寄進建立す。
平成5年本堂などが老朽化し、新しく堂宇を建立す。
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
昭和22年創立。あとは「四国日蓮宗のお寺」と同様。
○2017/12/17撮影:
現地には「高松最上稲荷 宗教法人 日蓮宗 妙覚教会」なる「表示」を掲げる。「日蓮宗寺院大鑑」の経歴を見ると、妙覚教会は「最上稲荷教」として日蓮宗を離脱した経歴はないと思われる。 →備中高松最上稲荷妙教寺
 高松妙覚教会新堂宇:新しい本堂庫裡であろう。     高松妙覚教会旧堂宇:旧本堂・庫裡であろう。
 高松妙覚教会一の鳥居     高松妙覚教会二の鳥居
 高松妙覚教会旧本堂     高松妙覚教会旧庫裡     高松妙覚教会新堂宇
 石像日蓮立像・墓碑類     石像日蓮立像・題目碑
 墓碑・題目碑その1:中央銘「妙潤院日清法尼」とは一世森田妙潤の法号であろう。     墓碑・題目碑その2

高松妙本寺
 高松市松島町2−7−8
法華宗(本門流) 、標記住所に「本妙寺」が存在することになっている<大本山本能寺のページ>、そこは店舗(商業施設)であり、到底寺院が存在するとは思われない。
妙本寺についいては、不明とせざるを得ない。

平木妙徳寺

貞治<北朝>6年(1367)建立と云う。開基など未調査。妙雲山と号し、京洛妙覚寺末。
平木は当寺の門前町として発達したところと云う。
2009/12/26撮影:
 平木妙徳寺南方題目碑:妙徳寺表門の南方・長尾街道と交わるところに題目碑がある。
 ここが妙徳寺への参道の始まりであろう。背後は観音堂。
 平木妙徳寺参道:長尾街道・題目碑から参道・妙徳寺を見る。
 平木妙徳寺門前題目碑     平木妙徳寺表門:左から妙見堂・鬼子母神堂・本堂・鐘楼
 平木妙徳寺本堂
 平木妙徳寺妙見堂:右は鬼子母神堂、妙見菩薩の由来は未調査。

宇多津法華宗(本門流)本妙寺

鳳凰山と号する。京都本能寺尼崎本興寺末。
嘉吉2年(1442)日隆上人開山。日隆上人は西国弘教の一環として宇多津を訪れ、病気平癒の祈願あるいは清浄な水の乏しい宇多津の住民の為、祈祷をなし杖を以って井戸を掘り、清澄なる水を湧出させる奇瑞をなすという。 (鳳凰霊水)
本堂:宝暦7年(1757)再建、客殿:正徳2年(1702)再建。
番神堂:讃岐六番神の一つというも、そもそも讃岐六番神自体が不詳。
信行院:現存する唯一の寺中。RC造で造替されたようである。
鐘楼堂:安政6年(1859)再建。
2020/06/11追加:
備中山根本隆寺と本妙寺は両山一寺の制であったという。
 →備中新庄上山根本隆寺は「都宇郡津寺村・加茂村・惣爪村・新庄上村・新庄下村中」にあり、参照すべし。
2017/08/16追加:
○「讃岐国名勝図会」巻之10、江戸後期、松岡信正画(「日本名所風俗図会 14」角川書店、1979-1988 所収) より
本妙寺
 (鵜足津村にあり。・・・京都本能寺・尼崎本興寺、両末寺)
鎮守社
 (三光天子、秋山土佐守泰忠勧請する所なり。国中六カ所の一)
鳳凰水
 (并に境内にあり。名水なり。旱魃の年たりといへども、水かれず)
当寺は宝徳2年2月、本化正統本門八品門流再興、唱導師日隆大上人御建立なり。
 ※以下日隆上人の事績の記述があるが、省略する。 →日隆上人略伝に概要を記載。
絵図:
 宇足津全圖(宇多津全圖):其2の上方中ほどに本妙寺・信行院が描かれる。
 本妙寺・信行庵:ほぼ今と変わらない寺観が描かれる。
2017/08/16追加:
○「日本歴史地名大系 香川県の地名」平凡社、出版年1979〜2003 より
宝徳4年(1452)京都本能寺日隆が弘経院と称していた法華堂に寺号を付与して開山。
讃岐においては、高瀬本門寺に続く日蓮宗寺院である。
江戸末期高松藩松平頼該は度々本寺を訪れるという。
鎮守三十番神は本門寺開基檀越秋山泰忠の勧請という。
2017/08/16追加:
○「うたづ・新宇多津町誌」宇多津町、1982 より
本妙寺:境内建物:
 本堂(53坪)、庫裡(121.55坪)、番師堂(番神堂、12坪)、塔中信行院(木造本堂、14坪)、宝蔵(六角)、
 鐘楼、太鼓楼(木造二階)、経蔵(土蔵造)、土蔵(土蔵造)、納屋、渡廊、表門
 飛地境外仏堂として次が記載される。
  三光院(木造平屋建瓦葺・20坪)、庫裡(157坪):坂出市田尾
     →坂出市八幡町4丁目8、法華宗本妙寺塔頭田尾三光堂として存在する。
  三光堂(木造平屋建瓦葺・9坪)、庫裡(28坪):坂出市福江町
     →坂出市福江町3−189、法華宗本門流三光院として存在する。三光堂・庫裡はRC造で造替されたようである。
  三光堂(木造平屋建瓦葺・5.75坪)、庫裡(7坪):坂出市林田町
     →存在を確認できず。
  三光堂(木造平屋建瓦葺・1075坪):坂出市府中町
     →存在を確認できず。
2016/10/08撮影:
 山下題目碑     山下日蓮上人銅像     山下日隆上人銅像
 本妙寺山門     本妙寺本堂     本妙寺宝蔵:左は土蔵、右奥は信行院
 本妙寺経蔵     本妙寺鐘楼     本妙寺玄関・客殿か     本妙寺庫裡か
 本妙寺番神堂:本尊曼荼羅並三光天子     本妙寺寺中信行院     境内題目碑     日隆上人霊跡
 本妙寺景観1     本妙寺景観2

宇多津安養寺跡題目碑

本妙寺の西方に一基の題目碑(題目塔・法界碑)が建つ。(安養寺跡と判明したので、安養寺跡題目碑と名称を改める。)
  題目碑位置図: 図の中央にその位置を示す。
銘文に判読できない部分があり、由緒などが判明せず。
2016/10/08撮影:
 宇多津題目碑
 宇多津題目碑銘文:本■寺■■/安■寺舊跡とある。
 おそらく安■寺と号する寺院がここにあり、その旧跡を顕彰するものであろうか。
2017/08/10追加:
●宇多津教育委員会様のお骨折りで題目碑銘文が判明する。

○宇多津町教育委員会様に、この題目碑(題目塔・法界碑)について由緒などを問い合わせ、
次の通りの回答を得る。

◆石碑内容
 正面: 南無妙法蓮華経 法界萬霊 本妙寺末寺/安養寺舊跡
  ※他の三面には文字があるのかないのかさえ不明である。
  ※解読は「宇多津町文化財保護協会」様のお手を煩わしたものと思われる。

◆「讃岐国名勝図会」江戸後期 の記載
 同所南にあり
 東川津安養寺旧跡
 今、井戸存せり
 名水なり
  ※本文内「同所」とは、この前に神石神社にかかる記載があるため、神石神社をいう。
  ※神石神社は宇夫階神社の北300mほどの所にある。
  ※「讃岐国名勝図会」は前編、後編、続編の3部作で、前編の刊行本はあるが、
  後編、続編は原稿のままであるという。おそらく、上記の記載は後編もしくは続編に記載
  されているものと思われるも、後編・続編の所蔵が不明であり、直接確認ができない。

◆夘辰町教育委員会の解説
 かつて宇多津の町は海の中に出来た町であり、昭和30年前後では塩の生産量が日本一であると称された、製塩業の町であった。
 そのため、飲料水は塩気が強く、町に水道施設が整備されるまでは、町の「水売りさん」はその井戸の水を売り歩いていた。
 なお、「宇多津町文化財保護協会」様からは本題目碑の前の道は四国88ヶ所巡礼道<郷照寺-道隆寺間>であり、お遍路さんに水の接待が行われたのではないかとの解説を頂く。

○本題目碑の性格(管理人s_minagaの見解)

本題目碑は法界萬霊に見られるように、供養碑である。
そして、同時に「安養寺舊跡」とあるように、安養寺の顕彰碑でもあろう。
わざわざ、本妙寺末寺とあることから推測すれば、宇多津本妙寺が建立した可能性が高いと思われる。
年紀については、刻銘がなく、原状では推定するしかないが、材料が不足し、良く分からない。
本妙寺末寺安養寺とは全く不詳であり、当面この点の解明を要するであろう。

上記の「解説」では宇多津特有の水事情から「井戸」の持つ意味が語られ、
また、宇多津本妙寺の日隆上人手掘りという「鳳凰霊水」<宇多津本妙寺参照>も同じ文脈であり、本題目碑は脇にある「井戸」と関係するのかも知れない。
 ※写真撮影時、井戸には注意が行かず、井戸を撮影した写真はない。
そのため、GoogleStreetViewから写真を転用する。
 題目碑と井戸1     題目碑と井戸2
いずれも左手が題目碑と第1井戸、右手に第2井戸が写る。(写真で見ると井戸は2基あると思われるが、2基あるというのは錯誤かも知れない。)

2017/08/16追加:
○「讃岐国名勝図会」巻之10、江戸後期、松岡信正画(「日本名所風俗図会 14」角川書店、1979-1988 所収) より
 ※上で、後編・続編の所蔵が不詳で、直接確認が不可と記述するも、
 実際は「日本名所風俗図会 14」で刊行されていたので、本書を参照する。
絵図:
 宇足津全圖(宇多津全圖)
 圖の右上に宇夫階社とその丘があり、その左手に秋葉社がある。宇夫階社と秋葉社との間は小さな谷筋で、そこには丸亀街道の旧道が通る。その旧道沿いに安養寺跡と刻む題目碑がある。
記事:
 安養寺(川津村にあり。)
  ・・・・・・中略・・・・・・
 若宮(同所裏町にあり、社人宮本氏。云々)
 御霊魂八幡宮(同所本町にあり。社僧同上。云々)
 八大荒神(同所、蔵前裏にあり。社人同上。云々)
 蛭子社(同所浜町にあり。云々)
 塩竈社(同所塩浜にあり。云々)
 蛭子社(同所にあり。云々)
 神石大明神(同所海辺にあり。云々)
 安養寺跡(同所南にあり、東川津安養寺旧跡。今、井戸存せり。名水なり。)
  ※安養寺は川津(現坂出市)に現存する。近世中葉から明治初頭まで、東川津村は存在し、現在は川津となる。
 十王堂(同所にあり、浄土宗那珂郡真福寺末)
 如来荒神(同所にあり、云々)
 釈迦堂(同所、道の傍らにあり。)
 秋葉社(同所にあり、社人宮本氏、云々)
 宇夫階大明神(同所にあり、社人宮本氏・高国氏・多田氏、云々
  本地堂 末社(荒神、申御前、金毘羅、寅御前)
   ・・・由緒など省略・・・
  神宮寺(同所にあり、東瑞山蓮華院、真言宗、聖通寺末)
   本尊十一面観音、大師堂、当寺は文和年中沙門宥賢創建なり。
   明治二年御一新となりて、神仏混淆御乱れ正し、唯一となりて帰俗なし、宮本司馬と改称なして廃寺とはなりぬ。
 ※ここで云う「同所」とは基本的に「鵜足津村」(うたづ村)を指すものと思われる。
 安養寺跡題目碑位置図2:Mapionより転載
北側より、蛭子神社(塩浜)、神石大明神、塩竈神社(塩浜にあり、昭和9年宇夫階社に合祀・移転)、宇夫階大明神、氏子会館附近が神宮寺、秋葉神社、安養寺跡などを示す。
 宇夫階社・神宮寺・秋庭社・神石社
中央が宇夫階社、西に秋葉社がある。神宮寺背後に谷筋があり、この道筋また秋葉社の背後に安養寺跡題目碑がある。安養寺跡背後(南側)は青の山であり、安養寺跡に名水という井戸がある立地を見て取ることができる。宇夫階社の東北方面神石社の附近に十王堂・釈迦堂が描かれるが今は退転したのであろうか、その位置は不明である。
2017/08/16追加:
○「うたづ・新宇多津町誌」宇多津町、1982 より
◇移転した寺院
安養寺:中世の頃、本妙寺の末寺として宇夫階神社東南に建立され、後に坂出市川津に遷される。今神社東南に「本妙寺末寺安養寺舊跡」と記された石碑が立っている。
2017/08/16追加:
○「日本歴史地名大系 香川県の地名」平凡社、出版年1979〜2003 より
◇宇多津村:
東は聖通寺の参道下から、西は宇夫階社の脇を通り、海岸線を丸亀に抜ける丸亀街道が通る。この道は古くは本妙寺の横を丘越えして抜けていたという。
 ※この旧道が古くは丸亀道(巡礼道)であり、安養寺跡題目碑と名水の井戸の側を通る道を指すのであろう。
◇川津村:
鵜足(うた)郡に属する。東川津村と西川津村からなる。
近世には真言宗ほうしょう院があった。現在は高野山真言宗安養寺ほか真宗寺院3ヶ寺がある。
2017/08/16追加:
○「角川日本地名大辞典 香川県」角川書店、出版年1978〜1990 より
◇東川津村(近世)
東川津・西川津の両村民を氏子(檀家であろう)とする寺院は白暦山竜音寺宝珠院・津摩山安養寺浄通院があり、ともに真言宗である。宝珠院は明治4年廃寺となる。

以上、安養寺跡題目碑銘文、「讃岐国名勝図会」記事、「うたづ・新宇多津町誌」記事、地名辞典(2種類)の記事
を総合すると次のように粗い概要が知れる。
題目碑は安養寺旧跡に建立される。そこには名水の井戸が残る。
安養寺の創建は中世で、本妙寺末として建立される。(具体的な年紀、開基などは不明)
安養寺は近世の前期あるいは中期には東川津村移転され、高野山真言宗として現存する。(移転の事情、年紀、転宗の事情などは不明)
題目碑の建立年代、本願などは不明、唯一「うたづ・新宇多津町誌」に石碑の存在に触れるだけである。しかし、石碑には題目を刻み、安養寺をわざわざ本妙寺末寺と明示することから、おそらくは本妙寺もしくは本妙寺信徒の手によって建立されたことは間違いないであろう。
 ※安養寺及び石碑に関する更なる情報収集を要する。
 

讃岐丸亀日堯・日了・日述廟所(墓所)

 日堯・日了聖人墓塔及び日述聖人墓塔は現在丸亀市土器町「青の山」南麓に移転して在る。
日堯・日了墓塔は昭和58年(1983)丸亀西汐入川左岸の墓地から、日述墓塔は平成30年(2018)伊予吉田聖人山から移転改葬される。
 丸亀市土器町東1丁目 34.28854612866395, 133.82196064845905 に所在
2024/04/11撮影:
 讃岐丸亀城     飯野山(讃岐富士)
○「日堯、日了聖人御墓所」倉本興(「京極 婆娑羅文化の風薫る 第7号」NPO法人讃岐京極会、2016/01 所収) より
 日堯・日了聖人の墓所は「青の山」の南麓にあり、「第三百遠忌建之」の文字が刻まれている。
寛文5年(1665)の法難で、両聖人は京極藩(2代京極高豊)にお預けとなり、日堯は19年間、日了は23年間幽閉の後、寂し、「西汐入川」のほとり(あるいは河原)へ葬られると伝えられる。
  日堯は上総興津妙覚寺歴代、謫居19年、貞享元年(1684)示寂、65歳
  日了は武蔵雑司谷法明寺15世、謫居23年、貞享5年(1688)示寂、55歳
 法難は天正7年(1579)織田信長による「安土宗論(法難)」に遡る。この宗論は信長の日蓮宗弾圧の意図で画策されたものとされる。
日蓮宗は浄土宗との宗論で敗者とされ、日蓮宗関係者は「他宗との宗論はしない」との起請文をとられ、過酷な成敗を受ける。
 →頂妙寺>安土宗論      →山城の日蓮宗諸寺>山城八幡本妙寺/普傳院日門       →日樹上人伝>安土宗論
 次いで、文禄4年(1595)豊臣秀吉は京都東山に方広寺(大仏殿)を建立し、先祖供養のため千僧供養を催す。秀吉は、日蓮宗からみれば、謗法者である。ここに千僧供養への参列を巡り、関西諸山間で深刻な対立が生まれる。日奥(妙覚寺)は不受不施義を強く主張するも、他山は自己保身の受不施に堕する。
 慶長4年(1599)徳川家康は日奥を大阪城に召喚し、受不施派と対論させる(「大阪城対論」)。日奥はあくまで不受不施義を枉げず、家康により対馬流罪に処せられる。
 寛永7年(1630)不受と受派との対立は関東に飛び火、守勢に立った身延は公儀に訴え、公儀は池上本門寺を代表とする不受派と身延一統の受派との対論(「身池対論」)を命ず。予定のとおり、採決は受派身延の勝利とし、日樹などの不樹派は首魁として追放される。
 それでも、不受派の勢いは衰えず、いよいよ押し込まれた身延は幕府の権力を頼り、
寛文5年(1665)幕府はついに「寺領は三宝への供養である旨」手形の提出を命ずる。実質的には不受不施を禁制とする命令であった。かくして、多くの僧俗が斬首・入牢・入水・自刃・断食あるいは流罪となり、殉教する。
寛文6年さらに、幕府は「飲水行路」も「国主の供養」とし、手形の提出を強制、拒否した寺院は寺請を禁止し、不受不施派は完全に禁制となる。
この時、手形を拒否した六僧は流罪となり、日堯・日了は丸亀にお預けとなる。
  →備前法華の系譜        →日奥上人伝       →日樹上人伝
 墓碑には「幕府の飲水行路も国主の供養との暴令に対し宗制を盾に抗して寛文5年12月3日丸亀京極家に預けられる。両聖人は配所にて示寂される・・・」とある。
 明治9年不受不施派の公許に成功した日正上人は、幕府の弾圧により殉教した各地の僧侶の墓を建て、供養した。日堯・日了の墓塔もその一つである。
両聖人の墓はしるしの石を置いただけの悲惨な姿であったが、日正ほか信徒の手で新たな墓塔が建てられ回向された。
墓塔には「明治12年2月9日」の日付があるい、墓誌は沙門日正が文字は弟子妙行日學と記される。
 その後、JRの高架工事に伴い、塩屋町の共同墓地より、現在地(旧陸軍所有地から後に私有地となる)に改築される。
  ●2024/04/11撮影:陸軍省用地標石
   丸亀には帝国陸軍第12歩兵連隊などが置かれた。幾多の人々が徴兵され、戦地に狩り出され、殺された。
 今、御墓地は宅間町のMさんたち少数の信徒によって守られ、「年に2回は岡山から信徒がバスを連ねて香華を田向けに訪れる」という。
○「教えに殉じた聖僧 日堯と日了」(「丸亀 郷土の歴史を彩った人々」白川悟、丸亀市、平成10年3月 所収) より
 かつて、塩屋町新浜の西汐入川のほとりに「南無妙法蓮華経」と刻まれた大きなお墓があった。これは日堯・日了の墓塔である。
この墓塔は列車の窓超しに良く眼についたものであったが、先年、鉄道の高架化によって、土器町青ノ山墓地公園入口南方面の場所に移転する。
 寛文5年(1665)両僧は不受不施の義を枉げなかったため、丸亀藩にお預けとなり、丸亀に流される。
  日了聖人曼荼羅本尊
丸亀では城下二番丁(三番丁であろう)の武家・中山氏邸に幽閉されると伝える。今の裁判所から丸亀郵便局付近という。
幽閉された部屋は10帖程の小さな居間であったという。
両僧はこの幽閉先で示寂し、遺体は捨てられるように西汐入川のほとりに埋められ、ほんの標の置いた程度の墓であったという。
明治9年不受不施派が公許され、その後全国の信者の手によって、現在の立派な墓塔が建てられる。
○「日堯・日了の墓」(「丸亀の歴史散歩」直井 武久、1983/09 所収) より
 ※日堯・日了の墓は国鉄高架化の伴い、昭和58年春、吉岡神社西麓土器町掛樋に移転。※
 塩屋町新浜にある藤井高等学校の南に塩屋変電所があり、その南に墓地がある。
(GoogleMapで確認すると、現在も墓地の痕跡が残り、地蔵堂、無縁墓と思われる多くの墓塔が残り、大型の南無阿弥陀仏と刻む傘塔婆1基と大型の駒形石碑1基も残る区画があり、おそらくここが新浜の墓地であろう。)
 この墓地の中央に両上人の墓塔がある。東面に「南無妙法蓮華経 日堯聖人 日了聖人」と刻み、他の3面には両聖人の業績を書いた2m余りの墓塔である。列車が墓の直ぐ南を走る。
 両上人が丸亀に到着したのは、流罪を言い渡された寛文5年の翌年の正月元旦であり、三番丁中山右膳宅に幽閉される。
 花房清香著の小冊子には「聖人の日記によれば、東西2間・南北2間半の十帖の居間で南向き、北に1間の床がある、東の半間に棚板をつくろいて御寶前とし、西の半間に聖教類三重を置く」と記され、狭い8帖の居室で僧2名が起居するという。ここで日堯は19年間、日了は23年間起居し、亡くなり、その遺体はともに西汐入川のほとりに葬られたという。
 明治9年不受不施派は公許、日正上人は幕府の弾圧によって各地で不遇の死を遂げた多くの僧侶の墓を建て、その供養をして霊を慰めようとした。
その一つが丸亀の日堯・日了の墓塔である。日正は明治10年頃から再三この地を訪れ、西汐入川の川原にあった両上人の墓石を調べ、信者の協力も得て、明治12年2月に現在の墓塔を建立する。三面にある墓誌は日正、文字は日正の直弟子・福井県出身の日學の筆になる。
 日堯・日了両聖人墓塔:丸亀塩屋町新浜の西汐入川ほとりの墓地にあった墓塔、この墓塔が現在地に移設される。
   ○「聖」昭和52年 より
    丸亀西汐入川畔の堯・了両師墓塔:この墓塔が現在地に移設されるのは上記のとおり。
 丸亀城郭図(文政11年):「三」とあるのが「三番丁」で、「中山」とあるのが「中山右膳宅」と思われる。文政11年は1828年。
   ○「丸亀城郭及び城下町古絵図」:享和2年(1802)
      丸亀城郭及び城下町古絵図:図の向かって左上部に「中山右■」とある。
                       ただし、上掲の文政11年図と比べて中山邸は1軒ずれている。
○「丸亀の石造遺品」(収録図書を失念) より
  日堯・日了両上人墓:塩屋町汐入川畔(現在は土器町に移転)、墓塔の左右面・裏面の銘の翻刻である。
2024/04/11撮影:
 丸亀日堯日了日述廟所1
 日堯日了聖人墓所石柱
 日述聖人墓所石柱:本石柱の3面には、日堯・日了の業績と墓塔は塩屋の墓地から改葬の旨、及び日述の業績と平成30年10月堯・了師の眠るこの地丸亀を三聖人の霊地となす旨の刻銘がある。
 丸亀日堯日了日述廟所2     丸亀日堯日了日述墓塔1     丸亀日堯日了日述墓塔2
 日堯日了聖人墓塔正面
 日堯日了聖人墓塔側面1     日堯日了聖人墓塔側面2     日堯日了聖人墓塔側面3
  側面の翻刻は上の「丸亀の石造遺品」の項に掲載。
 日述聖人墓塔正面:生智院日述聖人(生智院はママ)     日述聖人墓塔斜正面
 日述聖人墓塔背面:南無妙法蓮華経 生智院■■日述聖人/左右の刻銘は判読出来ず。(■■は存琢であろうか)
墓塔の左右には石灯籠がある。明治12年3月、東京信徒中 の刻銘がある。
 

讃岐丸亀本行寺:法華宗真門流

妙正山と号す。法華宗真門流、京都本隆寺末。開山は了玄院日運。
山門・本堂・客殿・庫裡・鐘楼堂(昭和56年建立)
〇「丸亀の歴史散歩」1983 より
 京極高知が播磨龍野城主であった頃、竜野本行寺5世了玄院日運が藩主高知の知遇を得て、囲碁の教授をしていたが、高知が丸亀に移封されたので、日運もこれに従い、丸亀本行寺開山となる。伽藍整備の時、三十番神堂の建立もなされる。
 ※蛮神堂については、訪問時気がつかず、現存すsるかどうかは不明。
  →竜野本行寺(播磨の日蓮宗諸寺中)
2024/04/11撮影:
 丸亀本行寺山門      丸亀本行寺本堂      丸亀本行寺客殿庫裡      丸亀本行寺鐘楼
 丸亀本行寺歴代墓所:開山了玄院日運、2世顯壽院日詮、3世隆行院日圓、4世専隆院日寛、5世寶林院日通 ・・・と継ぐ。
 

讃岐丸亀宗泉寺

圓亀山と号する。推測するに四条妙顕寺末であろう。
 ----「四国日蓮宗のお寺」では以下のように云う。
万治元年(1660)詮量院日雄上人が開基する。圓亀山詮量院と号する。
延宝4年(1676)京極丸亀藩初代京極高和生母(玉泉院殿)が逝去、その遺命により、この地に埋葬し、稔持仏を納め、宗泉寺と号する。
宗泉寺の寺号はもともと京極家領国松江にあったが、国替に伴い、播州龍野へ、更に丸亀へと移る。
 ----以上「四国日蓮宗のお寺」より
 ※京極氏:
寛永11年(1634)京極忠高が若狭小浜より出雲松江に入封、寛永14年忠高が、跡継がないまま病没して除封され、一門の高和が播州龍野(6万石)で家名を継ぐ。
万治元年(1658)高和は丸亀に転封、西讃に5万石余、播磨揖保郡に30ヶ村1万石、計6万石余を領する。
次の高豊は近江蒲生郡に2ヶ村1400石を加増され、しかも幕命で播磨所領の内の2ヶ村を近江坂田郡の2ヶ村と交換し、京極氏代々の墓所の地を領することとなる。
3代高或(たかもち)は3歳で襲封するが、高豊の遺命により、元禄7年(1694)庶長子高通に1万石を割き、多度津藩が成立する。
京極氏歴代墓所は近江坂田郡(現米原市)清瀧徳源院(清瀧寺)に現存する。高和・高豊・高或墓碑も清瀧徳源院(清瀧寺)に現存する。
 ※Web情報では
多度津藩京極家初代藩主高通生母芳泉院(塩津嘉知女)の墓があるという。
〇「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 萬治3年(1660)創建開基開山詮量院日雄、開基壇越玉泉院殿、京都四条妙顯寺末。達師法縁。
2016/10/08撮影:
 門前題目碑     宗泉寺参道     宗泉寺山門     山内題目碑
 宗泉寺本堂     宗泉寺本化上行菩薩     宗泉寺清正公堂     宗泉寺鐘楼     宗泉寺庫裡
2024/04/11撮影:
 丸亀宗泉寺門前題目塔     讃岐丸亀宗泉寺山門      讃岐丸亀宗泉寺本堂     讃岐丸亀宗泉寺鐘楼
 丸亀宗泉寺清正公堂     宗泉寺清正公堂・内部:清正公・妙見菩薩・摩利支天を祀る。
 

讃岐丸亀本照寺:法華宗(本門流)

陽面山と号する。京都本能寺末。
2016/10/08撮影:
 本照寺山門・題目碑     本照寺本堂     本照寺石造多宝塔など     本照寺庫裡
2024/04/11撮影:
 丸亀本照寺山門・門前     日蓮大士650遠忌報恩塔     日隆500遠忌報恩塔
 本照寺五輪塔:古いものと思われるが、詳細は不明
 丸亀本照寺本堂1     丸亀本照寺本堂2
 

讃岐岡本正行寺:日蓮宗不受不施派

香川県三豊市豊中町岡本2331に所在
無量山と号す。
 

讃岐高瀬本門寺:法華宗久遠院:富士門流(日蓮正宗)

2024/11/02追加:
○「丸亀の歴史散歩」 より
日興上人:
 寛元4年3月8日(1246)ー元弘3年2月7日(1333)
六老僧の一人、白蓮阿闍梨と称する。
日興門流(富士門流)、興門派の祖。
日蓮滅後、身延山を下山して富士上野の地に大石寺を開く、後に重須に移り、重須本門寺を開く。
ところで、富士門流の現状はどうか、いわゆる興門の八大本山は四分五裂の状態である。
 即ち、
重須本門寺小泉久遠寺、伊豆実成寺は日蓮宗に留まる。(興統法縁)
上條大石寺下條妙蓮寺は日蓮正宗として別立、京都要法寺は日蓮本宗を別立し、西山本門寺、安房保田妙本寺は各々単立である。
これらの寺院では、日蓮に次ぐ第二祖として定められ、開山上人とされる。
 日興が富士山麓に在世のころ、甲斐には甲斐源氏の子孫秋山氏がいた。弘安年中(1278-88)秋山光季は一族を率い、讃岐に移る。
光季の孫泰忠は甲斐にいた時から日興に深く帰依し、讃岐に移ってからも日蓮宗を讃岐に広め、菩提寺の建立も願い、日興に教導師の発見を願う。
日興は弟子日華を讃岐に派遣する。
 正應2年(1289)頃、日華は田村に八町四方の伽藍を建立する。これが高永山久遠院本門寺である。場所は番神堂及びその南東付近であろう。
日華はその後病をえて、大石寺に帰ったため、泰忠は再び教導師の派遣を請う。日興は百貫坊日仙を讃岐に派遣する。
なお、日華は富士に帰った後、下条妙蓮寺を開山する。
   ※日華:下條妙蓮寺を参照
 日仙が讃岐に着任した直ぐに南海に兵乱があり、田村の本門寺は焼失する。
 そこで、日仙は秋山氏の本拠地である高瀬の地を選び、再建を図り、正中2年(1325)高永山久遠院本門寺が再興される。これが現在の高瀬大坊である。日興は東国には日目、西国は日仙、北陸は日満を派遣し、日蓮正宗の布教を図ったのである。
 現在、田村に残る番神堂は日仙の勧請したものであり、日仙は田村の他、引田・高松・宇多津・金刀比羅・高瀬の6箇所に番神堂を建てたと伝える。なお、高瀬大坊の開山堂は日仙を祀ったものである。


伊予の諸寺

松前妙寛寺

 → 伊予松前妙寛寺(「伊予松前城発掘塔礎石」中にあり)
 

伊予吉田日述上人墓所・謫居跡

伊予北宇和郡吉田町に所在する。(吉田町は平成17年<2005>宇和島市と合併する。)
それぞれ、僧日述の墓【吉田町立間尻】及び僧日述謫居跡【吉田町東小路】として町指定史跡である。
 ただし、日述上人墓は平成30年(2018)に丸亀市へ移転したため、指定は解除される。
  → 讃岐丸亀日堯・日了・日述廟所

◆日述上人墓所
 吉田町立間尻の聖人山にある。
  ◎伊予吉田日述上人墓所:この写真は丸亀へ移転前の墓所である。
                  上述のように墓塔は丸亀の堯了墓所に移転したので、現在墓塔は存在しない。
 聖人山は峰住神社に上り、更に神社裏から北に上ると到達するようである。(距離などは不明)
○宇和島市サイト>新宇和島の自然と文化>市指定 僧日述謫居跡 では 次のようにいう。
 寛文5年(1665)日述は同派の日完と共に吉田藩にお預けとなり、翌6年1月吉田に到着する。
日完はその後罪を犯して死罪となったが、日述は庵室に入る。
  →日述:寛文の法難(後六聖人)
  →日完:備前法華の系譜中<日完で検索を請う> →江戸牛込市谷自證寺/若松寺/日庭上人
吉田藩はこれに番人一人をつけて、六人扶持を供する。
 日述は閑居で風月を友とすること十有六年、延宝9年(1681)年9月1日、七二歳で病没し、聖人山に葬られる。
 配流中の日述は、藩の陰ながらの厚意もあってか、ある程度の自由が与えられていたらしく、一乗寺にはたびたび参詣をし、同寺住職や檀徒の油屋などと、親しく交際したという。
 聖人山は、そのむかし、罪人を埋葬したところと伝えられ、無縁仏がいくつか残っている。
日述は一乗寺への往復には、聖人山を越えていたが、途中かならず山上で一服し、さまざまの感懐にひたるのをつねとしていたといわれ、かねてよりここに葬られることをのぞんでいたと伝えられる。
 ※平成30年(2018)日蓮宗不受不施派の意向であろうが、聖人山の墓塔は丸亀の日堯・日述の新しい墓所に改葬され、墓塔も丸亀に運ばれたと推定される。

◆日述上人謫居跡
  吉田病院の東側、通称「御弓の丁」から立間川に掛かる橋(聖人寺橋)がある。
その橋を渡り、踏切を渡れば、吉田斎場がある。
その駐車場の奥に日述上人の庵室跡の石碑がある。
さらに、石榴の木の下にも石碑があり、聖人井戸と刻される。
 吉田藩は番人一人をつけて、六人扶持(1人扶持は一日米5合)を給する。
  ※6人扶持は10.8石に相当する。
  丸亀藩における日堯・日了の扱いはほぼ押し込めであったに等しいが、
  吉田藩での日述の扱いは、六人扶持を給され、どの程度の庵室であったのかは不明であるが、
  庵室も給されて、また行動も自由であったようで、厚遇されたものであったと思われる。
○宇和島市サイト>新宇和島の自然と文化>市指定 僧日述謫居跡 では 次のようにいう。
 不受不施派は、明治9年再興の認可がおり、同13年9月、下総国和気郡正妙院の住職日寂などが吉田を訪れ、日述の分骨を持ち帰る。
昭和6年の250年忌には、同派の管長、岡山県御津郡金川の妙覚寺住職日寿師ほか僧侶6名、信徒170余名が、特船を仕立てて吉田港に入り、墓参礼拝して、墓前に石灯籠一対を寄進する。
 ※「下総国和気郡正妙院の住職日寂」とは不審であるが、その典拠は『吉田町誌』昭和46年 及び 『宇和島吉田旧藩誌』大正6年刊行・昭和47年復刻 という。(宇和島市教委)
 ※典拠という2著は未見であるが、「下総国和気郡」は「備前国和気郡」、「正妙院の住職日寂」は「正妙院日寂」を意味すると思われる。
 因みに、正妙院日寂(大正5年10月16日寂)は備前福田村福田教会(現在は備前福田詮量寺)の開基である。
  備前福田詮量寺は備前赤坂郡福田村中にあり。


阿波の諸寺

阿波徳島寺町
徳島眉山山中・山麓には多くの各宗寺院が密集し、寺町を形成する。
山中・山麓には持明院、瑞巌寺、観音寺、竹林院、春日寺(春日神社)、八坂神社、天神社、諏訪神社などがあり、また山下には遷国寺、浄智寺、東宗院、法華宗(敬台寺、本行寺、妙永寺、善学寺、妙典寺、本覚寺、寿量寺、妙長寺)、来福寺、源久寺、安住寺、善福寺、願成寺、般若院、・・・などがある。
これは蜂須賀家政の阿波入国に伴い、勝瑞や旧領地から多くの寺院が移転されたことによる。
昭和20年の空襲で、殆ど全部焼失したものと推定されるが、多くは再興されているとも思われる。

 徳島市西新町航空写真の日蓮宗寺院部分図:下図拡大図:徳島県立文書館:「幻の城下町徳島」 より転載
    ・・・・撮影年代は不明、昭和20年空襲前写真:焼失前の各寺院の堂宇の様子を概ね窺うことができる。


 なお、敬台寺はこの写真のかなり右手の寺町最北端にあり、写真には写らない。
 また大滝山持明院は本行寺の右手上方に位置し、これも写真には写らない。

 2010/11/01追加:昭和11年徳島市街全圖:眉山山麓には寺町が形成されている様が窺える。

徳島寺町敬台寺:寺町北にある。

心蓮山知玄院と号す。
正保2年(1645)、徳島藩初代蜂須賀至鎮正室敬台院(徳川家康養女、織田信長・徳川家康の直系の曾孫である)は、信仰していた江戸敬台山法詔寺と相模鎌倉廃鏡台寺とを合わせ、徳島城下に移転 、建立する。
開山は日重。 開基は富士大石寺第17世日精。現在は日蓮正宗。
 (なお富士大石寺御影堂は敬台院の寄進により建立され、現存する。)
創建時は大滝山持明院寺地の一部を召し上げ、方1町の寺地があり、本堂・書院・方丈・台所・大玄関・小玄関・御魂屋・表門・垂迹堂・鐘楼などの伽藍があったと云う。寛文6年(1666)敬台院は没し、墓所となる。
慶安元年(1648)寺領200石を寄進され、幕末まで維持される。
昭和20年の空襲で焼失し、現在は規模を縮小する。
 2010/01/19撮影:阿波敬台寺
2012/07/10追加:
敬台院の詳細については → 冨士門流三鳥派(三超派)・細草檀林 を参照

徳島寺町本行寺:寺町西の北側にある。

高雲山法住院と号す。板野郡勝瑞に建立され、開山は日永、日永は三好氏一族と云う。
天正3年(1575)三好長治の菩提所となる。三好氏は阿波一国を日蓮宗に強制改宗させる政策を進める。
之に関して真言宗持明院との宗論・訴訟となる。宗論は堺妙国寺・経王寺などが下向し行われる。京洛妙覚寺末。
天正13年(1585)蜂須賀氏入国後間もなく、勝瑞から寺町に移される。
寛政6年1794)本堂焼失、昭和20年の空襲によって本堂、山門、和霊堂、清正堂、稲荷堂などを焼失。
 ※山門は延享元年(1752)起工の大建築であった。寛政6年焼失本堂はその後藩主の寄進で再興され、その本堂も焼失。
現在は仮堂(ではなく近年造替の堂宇)と思われる堂宇がある。
門前に金竜水が残る。
 2010/01/19撮影:阿波本行寺1     阿波本行寺2

徳島寺町妙永寺:寺町西の本行寺南側にある。

古くは勝瑞にあったが、文禄年中(1592-)八万村法華谷に移った後、寺町に移ると云う。
昭和20年の空襲で焼失、堂宇は近年の再興と思われる。身延山久遠寺末と思われる。
 2010/01/19撮影:阿波妙永寺

徳島寺町善学寺:寺町西の妙永寺南側にある。京洛立本寺末。

長久山と号す。勝瑞から文禄年中に寺町に移転と云う。
昭和20年の空襲で焼失、堂宇は近年の再興と思われる。
本堂はRC造、ニ層堂形式を採り、ニ層屋根上に方形の小宇を載せ、さらにその屋根上に相輪を載せる。
 2003/07/24撮影:阿波善学寺ニ層堂1
 2010/01/19撮影:阿波善学寺     阿波善学寺ニ層堂2     阿波善学寺ニ層堂3

徳島寺町妙典寺:寺町西の善学寺南側にある。

高井山龍光院と号す。法華宗本門流。
明応6年(1497)の創建で、開山は日相と伝える。創建の地は勝瑞で、その後高崎村に移り、寛永年中(1624-)脇町本覚寺日正によって寺町に移る。
庚申堂には勝どき橋にあった青木庵帝釈天を祀る。昭和32年に移安されると云う。
昭和20年の空襲で焼失、堂宇は近年の再興と思われる。
 2010/01/19撮影:阿波妙典寺1     阿波妙典寺2:帝釈天堂
2012/07/15追加:
戦後の仮本堂を造替。総円柱、軒支輪付出組、本繁垂木割二軒仕上、本瓦葺、向拝入母屋造、中世の和様を基調とした完全な木造伝統工法による堂を計画。平成22年12月着工、平成25年11月完工予定。

徳島寺町本覚寺:寺町西の妙典寺南側にある。

光輝山と号す。身延久遠寺末。(京洛妙覚寺末)現在は寺町妙長寺兼帯。
かっては勝瑞にあったが、承応年中(1652-)寺町に移ると云う。
阿波千家(千利休長子道安の家系)一族及び高良斎(シーボルト高弟・眼科医)の墓所がある。
昭和20年の空襲で焼失と思われるも、未だ堂宇の再興はならず、バラック様の堂宇があるのみである。
 2010/01/19撮影:阿波本覚寺1:中央二階建てバラックが仮本堂     阿波本覚寺2:高良斎墓所

徳島寺町寿量寺:寺町のほぼ中央にある。妙長寺の西。

伊勢桑名寿量寺僧によって開かれたと伝える。
(未訪問)

徳島寺町妙長寺;寺町東のほぼ中央にある。

真光山と号す。正保年中(1644-)の建立と伝える。
昭和20年の空襲で焼失と推定され、寺域は縮小され、現在は民家風の堂宇1棟と堂宇名不詳の小宇のみを構える。
 2010/01/19撮影:阿波妙長寺


土佐の諸寺

田村細勝寺

 文亀元年(1501)細川勝益、京都頂妙寺を開山した妙國院日祝上人を請じ、土佐国田村桂昌寺を創建する。これが高知妙國寺の草創である。
  ※田村桂昌寺は細川勝益が父頼益(法号桂昌院常陸居士)菩提のため居城・田村城の南西の一隅に建立する。
  開山は妙國院日祝上人。
 文亀2年(1502)細川勝益逝去。
 天正19年(1591)長曽我部元親、浦戸に居城を作り、鬼門鎮静の為に田村桂昌寺5世即妙院日順上人を請じて、浦戸の対岸である種崎に一宇を建立する。そのため、桂昌寺は一山に二宇となり別当が置かれる。
 慶長6年(1601)山内一豊、掛川より土佐に移封となり、浦戸に入城する。 同時に高知城及び城下の建設にも着手する。その一環として、種崎桂昌寺も高知城下の國澤城跡(現はりまや橋交差点の西南付近)に移るという。
 寛永19年(1642)桂昌寺別当宝珠院日秀上人の寂後、円立院日学上人は田村桂昌寺10世となり田村桂昌寺専任の住持となる。つまり、この時をもって、高知城下桂昌寺と田村桂昌寺は分立することとなる。
 平成14年田村細勝寺、高知空港建設のため、現住所(南国市田村乙1223-1)に移転し、本堂などが新築されるという。

後免藤榮寺

高知要法寺末(2016/03/06、K.G氏ご提供情報)
○「四国日蓮宗のお寺」日蓮宗教化センター四国、平成22年 より
吉祥山と号する。嘉永5年(1852)創立、開山休運院日輝上人。
 ※無住と推測される、田村細勝寺管理。

五台山法華経塔:柏島法蓮寺日教願作法華経塔

○「法華経塔三基」横川末吉(「高知県文化財調査報告書(第24集)」高知県教育委員会、昭和55年 所収)
同形同寸の法華経塔が3基存在する。
一基は宿毛市市山の一里塚に所在し、昭和50年県に文化財申請がなされる。
もう一基は昭和52年にそれと認識され、それは東洋町甲浦の萬福寺参道入口(銘文には甲浦船越設置とあるが後世に萬福寺に遷されたものと推定される)にあることが判明する。
残る五台山の法華経塔も吸江寺側参道の六合目付近から発見される。発見時は塔の頂上部は落下していたが、市山や萬福寺のものと寸分違わないものという。
 法華経塔は砂岩製で、高さ299cm、基壇の最下の正方形は一辺95cmを測る。
塔身は正長方形であり、写真のように、各面の中央部分は大きく彫り窪められその底は平滑に削平される。
銘文は中央部分の凹面と周辺の縁面に刻まれ、銘文は正面から左に順次その全側面に刻まれ、総字数は約400、すべて漢文である。
五台山の銘文の概要は次の通りである。
 正面中央:太きく「南無妙法蓮華経」
 正面左右の縁:畑郡柏島廣布山法蓮寺本法院日教願作/旹(時)貞享元甲子十月十三日
          ※畑郡は幡多郡、旹(時)は「これとき」、貞享元年は1684年
 第二面左右の縁:外一基有于安喜郡内甲浦船越/亦一基在于幡多郡内宿毛市山
 正面(第1面)から第3面の凹面には経塔建立の由来を記す。
  難解な漢文であるが、大意は次のようである。
  日教は法華経三部を書写し、経塔建立の浄財を集め、法華経と寄進者の名簿を各1部づつ埋め、その上に経塔を建てる。
 第4面の縁:「石匠乾茂助運斤之」(石匠乾茂助、斤を之に運す)
 第4面の凹面は法華経の功徳を記す。
  法蓮寺は「南路志」柏村島の項で
   廣布山円明院法蓮寺 法華宗京都妙顕寺末
    本尊三寶、開基元和己未年(元和5年/1619)不二院日奉聖人、願主祖父江志摩 とあるという。
 しかし「大内町史」によれば、開基は天文年中(1540頃)柏原丹助行成であり、元和5年には祖父江志摩がこれを整備拡張したと云う。法華経塔を建立した本法院日教は法蓮寺第5世という。
 ※柏原丹助行成は柏原丹後という情報もあり、不明。柏原丹後は京都から来島するという。
 宿毛法華経塔1     宿毛法華経塔2
 甲浦法華経塔1     甲浦法華経塔2
2016/02/18撮影:
 五台山法華経塔1     五台山法華経塔2     五台山法華経塔3     五台山法華経塔4
 法華経塔正面1       法華経塔正面2       法華経塔第2面      法華経塔第4面
五台山の現地説明板では日蓮上人400遠忌を意識して建立したものであろうとの解説がある。

高知要法寺

神力山と号する。
身延山久遠寺末、潮師法縁(2016/03/06、K.G氏ご提供情報)
長禄2年(1458)神通院日仁上人を開山として尾張國苅安賀(下掲参考)に要法寺が開山される。
天正13年(1585)山内一豊近江長浜城主となり、要法寺第4世常宣院日遠上人の代、要法寺を苅安賀村から長浜城下に移転させ、菩提寺となす。
天正18年(1590)山内一豊遠江掛川に転封、掛川城下に要法寺を遷す。
慶長6年(1601)山内一豊土佐に入封、要法寺を土佐浦戸城下に遷し、さらに同8年高知城下要法寺町に移転する。
貞享4年(1687)要法寺焼亡、その翌年の元禄元年(1688)現在地の筆山北麓に再興される。
山内一豊の弟・康豊等の墓所である。
(参考)
 ※苅安賀の概要は次のようである。
○「愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第93集 苅安賀遺跡」2001 では苅安賀について、次のような論考がある。
古代から中世にかけては自然堤防上に集落が発達し、苅安賀はその中心であった。
室町期から戦国期には日蓮宗要法寺(現高知市)、浄土真宗聖徳寺(現名古屋市)などの寺院が建立され、寺内町的な性格をもち、町が大きく発展する。
永禄元年(1558)岩倉城が織田信長によって落城、岩倉城下の寺院が次第に苅安賀に移される。
天正12年(1584)岩倉城下にあった蓮照寺・国照寺・妙栄寺(いずれも天台宗賢林寺末)は苅安賀城主より東端の地を与えられ、日蓮宗の苅安賀蓮照寺・国照寺・妙栄寺として開山される。天台宗から日蓮宗への改宗は苅安賀村に要法寺があったからであろうと推測される。(この項は「日蓮宗蓮照寺」のサイトによる。)
戦国期から織豊期にかけては苅安賀城が作られ、城下町となり最も発展した時期であった。苅安賀城は小牧長久手の戦で徳川家康方に攻められ落城する。
 その後、江戸期には苅安賀城も廃城となるも、市場町として生き延びる。
『寛文村々覚書』(1666)によれば苅安賀に13ヶ寺が確認できる。
また「尾張名所図絵」(天保年間)「苅安賀村絵図」(弘化年間)からは以下のことがわかる。
「巡見街道」が村の中央を東西に通り、街道沿いに民家が並び、東から観音寺・鎮西寺・誓願寺・専養寺・(日)妙栄寺・(日)蓮照寺・(日)国照寺・(日)心証寺・常清寺・正福寺・専徳寺と西に広がっている。
 ※日蓮宗心証寺は寛文元年(1661)の創建。
  以上が苅安賀の概要である。
    → 尾張苅安賀
2016/02/18撮影:
山門:承応元年(1652)に修復造営、貞享4年(1687)の焼失を免れ、現在地に移建される。
 門前題目碑     要法寺山門1     要法寺山門2     要法寺山門3
 要法寺本堂1     要法寺本堂2     要法寺本尊1     要法寺本尊2
 要法寺鬼子母神堂1     要法寺鬼子母神堂2
 要法寺玄関客殿1     要法寺玄関客殿2     要法寺会館     要法寺お籠り堂
要法寺宝物:日蓮聖人曼荼羅本尊を有する。弘安4年(1281)年紀。
 日蓮聖人曼荼羅本尊:リーフレット「日蓮宗要法寺」より転載
2016/03/06追加:K.G氏ご提供:
◆要法寺末寺
 大正山養運寺 広島県呉市西中央5-8-33 元要法寺塔頭養運坊
 △吉祥山藤榮寺 高知県南国市後免町2-8-4  → 上に掲載
 圓徳山淨眼寺 高知県安芸市西浜2254
 △一乗山妙修寺 高知県高知市筆山町9    → 下に掲載
 ○泰照山寶蔵寺 高知県高知市北高見町231 → 下に掲載
 △鷲頭山壽仙院 高知県高知市種崎中区610 → 下に掲載
 華園山善法寺 高知県吾川郡仁淀川町土居甲1023 2016/03/06:高知妙國寺副住職が善法寺住職を兼務する。

高知妙修寺:一要山と号する。

高知要法寺末(2016/03/06、K.G氏ご提供情報)
○「四国日蓮宗のお寺」日蓮宗教化センター四国、平成22年 より
宝永2年(1705)創立。開山皆常院日惣上人。開基檀越一要院妙修日行尼。
戦火により焼失し、高知要法寺お籠り堂に仮住居。
○高知要法寺様談:
要法寺に隣接(要法寺西)してあった。要法寺の塔頭のような存在であったのかも知れない。
宗教法人格は残るも、現在建物(堂宇)はない。本尊は要法寺お籠り堂に安置している。
2017/11/06追加:
〇「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 及び 「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
上記「四国日蓮宗のお寺」の記載と同一内容である。

高知妙國寺

山号は天高山。旧本山は京都頂妙寺
文亀元年(1501)細川勝益、京洛頂妙寺を開山した妙國院日祝上人を請じ、土佐国田村桂昌寺を創建する。これが高知妙國寺の草創である。
  ※田村桂昌寺(現細勝寺)は細川勝益が父頼益(法号桂昌院常陸居士)菩提のため居城・田村城の南西の一隅に建立。
  開山は妙國院日祝上人。
文亀2年(1502)細川勝益逝去。
天正19年(1591)長曽我部元親、浦戸に居城を作り、鬼門鎮静の為に田村桂昌寺5世即妙院日順上人を請じて、浦戸の対岸である種崎に一宇を建立する。そのため、桂昌寺は一山に二宇となり別当が置かれる。
慶長6年(1601)山内一豊、掛川より土佐に移封となり、浦戸に入城する。 同時に高知城及び城下の建設にも着手する。その一環として、種崎桂昌寺も高知城下の國澤城跡(現はりまや橋交差点の西南付近)に移るという。
寛永19年(1642)桂昌寺別当宝珠院日秀上人の寂後、円立院日学上人は田村桂昌寺10世となり田村桂昌寺専任の住持となる。つまり、この時をもって、高知城下桂昌寺と田村桂昌寺は分立することとなる。
慶安3年(1650)高知城下桂昌寺、朝倉町に移る。(「四国日蓮宗のお寺」)
貞享2年(1685)将軍綱吉の生母桂昌院の名に触れるので、高知城下桂昌寺は妙国山大乗院と改号し、田村桂昌寺は細勝寺と改号する。
  ※田村桂昌寺が細勝寺と改号した理由は綱吉生母桂昌院の名と被り故障があるとのことであるが、
  高知城下桂昌寺の改号理由についても同様の理由と推測される。
貞享4年(1687)妙国山大乗院火災延焼、翌年現在地に再建される。
享保11年(1726)妙国山大乗院焼失、同年再建し、現在の寺号の天高山妙国寺と改号する。
昭和初期に本堂・書院・庫裡を改修、昭和20年の空襲で焼失、昭和41年再建する。
◆妙國寺現況
2016/02/18撮影:
 妙國寺門前題目碑     妙國寺山門1     妙國寺山門2     妙國寺山内題目碑
 妙國寺本堂     妙國寺庫裡等     妙國寺鐘楼
◆妙國寺梵鐘:鎌倉期の古鐘を有する。
○ページ「文化財情報 有形文化財 工芸品 梵鐘 - 高知市公式ホームページ」では 次のように云う。
妙國寺梵鐘:総高1m、身の高さ77.5cm、口径は57.4cm。
各区に銘文がある。ただし各区の銘文は、それぞれ刻した年代を異にしている。つまり各々の時代に追刻されたものである。
その内容は以下のようである。
正安元年(1299)但馬国東楽寺の梵鐘として鋳造され、鍛治大工は河内の大春日重守である。
延徳2年(1490)丹後三重の長壽寺に移る。
室町末期以後(推定)京都の頂妙寺へ移る。
延宝6年(1678)日純上人、頂妙寺からもらい受けて高知妙国寺(妙國山大乗院)へ移る。
慶応4年(1868)閏4月の太政官達によって取除かれようとした本梵鐘は、妙国寺住職日住上人の努力で難を逃れる。
○「大日本金石史 第2巻」木崎愛吉編、好尚会出版部、大正10年(1921) より
土佐郡潮江村妙国寺梵鐘は最初正安元年(1299)の鋳造に係り、但馬国気多郡(今城崎郡)東楽寺の物であったが、190年を経て、延徳2年(1490)に至り、丹後三重(今中郡三重村)長壽寺に移り、それからまた京都二条河原町頂妙寺に移る。
刻文及び追刻文は次のとおりである。
 妙國寺梵鐘刻文1     妙國寺梵鐘刻文2: この追刻文の2行目の「・・・日純代」と3行目「梵鐘・・・」は別の刻文である。
即ち、前2行は「延宝6年・・高知妙國山桂昌寺常住・・日純・・」とあるとおり、延宝9年の追刻であり、3行目以降は「梵鐘仰留記」(「仰留」は「抑留」の誤刻)として明治元年日住の追刻であろう。しかし 本人(s_minaga)に漢文の素養がなく、文意不明の個所が多し。
2016/02/18撮影:
 妙國寺梵鐘1:正安元年の年紀が刻される。     妙國寺梵鐘2:延徳2年年紀が刻される。
 妙國寺梵鐘3: 「延宝6年・・妙國山桂昌寺・・日純」の刻銘がある。
(補足)
 ※但馬東楽寺:兵庫県豊岡市清冷寺1665に現存する。高野山真言宗。
 ※丹後長壽寺:既に廃寺。京丹後市大宮町森本の森本北端に長上寺跡と称する所がある。この地には真言宗長上寺と称する寺院があったが、文禄2年(1593)細川忠興の「 丹後の真言倒し」の災難に逢って廃滅し、今は長上寺という字名のみが残る。
「大宮町誌」曰く、「三重郷土志」は「大日本金石史」を引用し三重の里に長寿寺のあったことを述べ、長上寺はあるいは長寿寺ではないかという。
「土佐国潮江妙国寺の鐘は正安元年鋳造のものであるが」、「三重の里の榎並梅公の妻が亡父追善のため但馬国気多郡東楽寺からこの鏡を買い求め、延徳二年(1490)その菩提寺長寿寺に寄進した」と鐘の刻銘にある。
「榎並は『丹後田数帳』にも見え、『丹後御檀家帳』にも『榎並殿大ない城主也』とある三重谷の城主であった。したがってその菩提寺として長寿寺のあったことは確かであろう。」
◆妙国寺末寺:
 宮地山中道寺(室戸市浮津)
 天高山細勝寺(南国市田村乙)
 若一山本正寺(南国市田村甲)
 天王山蔵福寺(南国市田村乙)

潮江寶蔵寺

高知要法寺末(2016/03/06、K.G氏ご提供情報)
○「四国日蓮宗のお寺」日蓮宗教化センター四国、平成22年 より
泰照山と号する。文化13年(1816)創立、開山中道院日稱上人、開基檀越川崎源右衛門。
元高知要法寺19世日善上人が潮江山に小庵を結び常住庵と号する。
のち文久元年(1861)高岡郡久礼にあった禪宗寶蔵寺を一樹院日治上人が改宗移転した。
 ※潮江山:現在では筆山という、山内一豊の入部によって潮江山北麓に山内家菩提寺である真如寺が開かれ真如寺山とも呼ばれる。
 ※上記の「由来」では3系統の由来が語られる。一つは文化年中の創建で、開基檀越川崎源右衛門であること、もう一つは要法寺日善上人が潮江山に常住庵を結ぶということ、最後は江戸末期に禪宗寶蔵寺を改宗移転するということ。
これらの事績は脈略を欠き、その因果が良く分からない。あるいは単に時系列的に発生した事象を羅列しただけのことなのか。
 ※妙國寺様の談によれば、寳藏寺は「カワサキ寺」と通称されていた、それは高知の川崎財閥の寺であるという意味である。
 ※数十年前までは堂守(女人?)が管理をしていたが、亡くなった後は、次第に荒廃した。
2017/11/06追加:
〇「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 及び 「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
上記「四国日蓮宗のお寺」の記載と同一内容である。
なお、「日蓮宗大図鑑」に宝蔵寺の写真掲載はなし。
2016/02/18撮影:
現在、宝蔵寺は無住、入口には題目碑が一基残り、秋山自雲の祠は修造されるものの、唯一残る堂宇は破れ崩壊寸前の状態である。また、近年まで堂宇があった雰囲気を残す石階を持つ基壇があるが、すでに堂宇は退転し、その堂宇の名称すら分からない状態である。東側は高い石垣を築く墓地であるが、これは宝蔵寺の墓地なのかどうかは不明。
現在は要法寺が管理と思われる。
 土佐寶蔵寺入口:向かって左が寶蔵寺で右は墓地である。
 寶蔵寺入口題目碑:大正12年関東大地震横死者供養塔であるので、近代のものである。
宝形造廃堂:堂の名称は不明、但し宝形造であっても、正面は3間側面は2間の変形である。1間の向拝を付設。
 宝形造廃堂1     宝形造廃堂2     宝形造廃堂3     宝形造廃堂4
寶蔵寺堂跡:堂の名称は不明、基壇を設け7段の石階がある。 規模は大きくはないが、しっかりとした構えなので、それなりの堂宇があったものと推定される。近世・近代の瓦が散布するので瓦葺き建物であったのであろう。
 寶蔵寺堂跡1     寶蔵寺堂跡2     寶蔵寺堂跡3     寶蔵寺堂跡4
 寶蔵寺堂跡前石灯篭:寛文10年庚戌(1670)の年紀が刻まれる。それ以外の文字は判読できない。
  寛文10年とは江戸前期であり、文化13年創建という由来とは相当な齟齬があるが、その齟齬は何を意味するのであろうか。
 秋山自雲祠:ごく最近に造替されたものと思われる。向かって左に写る廃材が旧祠のものと思われる。
 秋山自雲霊神:左右には延享元年(1774)甲子/九月二十一日と自雲の命日を刻む。
 整理された題目碑など
 寶蔵寺東側石垣:石垣の造成地は墓地である。石垣が一部崩落し復旧工事中である。

種崎壽仙院

高知要法寺末(2016/03/06、K.G氏ご提供情報)
○「四国日蓮宗のお寺」日蓮宗教化センター四国、平成22年 より
慶長6〜15年(1601-10)の創建、開山は壽仙院日等上人、日等上人は高知要法寺4世日遠上人の縁故者と伝える。
明治28年寺宝や建造物が他に渡るという不祥事があり、有名無実化するが、31世元良院日珠上人が再興。
昭和21年南海大地震で本堂・庫裡が崩壊、昭和22年再興、昭和40年白蟻大被害で再々建する。
 ※現在、堂宇の存在が確認できず、実態が不明。
2017/11/06追加:
〇「日蓮宗大図鑑」日蓮宗大図鑑刊行会編、昭和62年 より
高知市種崎中区610
略歴は上記「四国日蓮宗のお寺」の記載と同一内容である。
 土佐種崎壽仙院:簡素・質素な堂宇であることが見てとれる。



筑前の日蓮宗諸寺

博多妙典寺(備前法華の系譜)

博多区中呉服町9-12
2019/09/10追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
松林山と号する。京都本法寺末。親師法縁。
永正7年(1510)創立、開山本成院日圓、開基18世戒光院日秀、開基檀越立花三河守増時、筑後柳河に創立、寺内6坊を数える、柳河興亡の後衰微。
慶長年中筑前粕屋郡立花村に移転、更に朝倉郡秋月に再移転。
18世戒光院日秀代の慶長8年立花三河守増時の尽力で現在地に移転。開堂供養の当日「石城問答」(下に掲載)が行われる。
寺宝:久遠成院日親本尊、池上長遠院日樹本尊 など
 →池上長遠院日樹本尊(日樹主筆曼荼羅本尊)の詳細については、備前法華の系譜身池対論の項中にあり。
 →日樹上人略伝>日樹聖人真筆十界勧請曼荼羅>▶寛永7年5月16日年紀の曼荼羅


博多勝立寺

福岡市中央区天神4丁目1−5
正興山と号す。京都妙覚寺末、親師法縁。開山は唯心院日忠、開基檀越鳥居数馬亮吉生。
「石城問答」;
慶長8年(1603)京都妙覚寺唯心院日忠、九州布教の時、諸堂移転・新築・落慶を迎えた博多妙典寺(上に掲載)にて、キリスト教の神父イルマン(修道士)旧沢・イルマン安都と問答、彼党200余名の環視の中、日忠はイルマンを論破する。
藩主黒田長政はこれを誉し、イルマンの所有地に問答山勝立寺と称する一寺を建立し日忠に与えるのが始まりという。
昭和20年福岡大空襲により焼失、伽藍はその後再建である。
蒙古塚<志賀島>・勝立寺分院(礼拝堂)<糸島市>の祭祀は当寺が執行する。
「日本一大きい坐像の日蓮聖人像(木造)」を安置という。
2023/08/02追加:
○「日奥−家康の宗教政策」理崎啓、哲山堂、2021 より
  P.169〜
 慶長17年日奥は対馬流罪を放免、九州に上陸し、当時博多の法華宗寺院で最も大きい寺院であり、日忠のいた勝立寺に立ち寄る。
日忠は備前の産で、父の仇討のため、19歳で関東に下向し、武芸に励む。とある法華僧に出会い、「仇討ちは真の孝行ではない、因業を増すだけだ、出家し、親の菩提を弔うことが真の孝養となる。」と諭される。日忠は深く感銘し、出家し法華弘通を誓う。
 日忠は諸国を弘通し、博多に来り。博多の前藩主黒田如水は切支丹の大檀越であり、切支丹との問答は困難であったが、城下で切支丹と問答し、イルマンを論破する。これを聞いた黒田長政は日忠を称賛し、広大な寺地を与え、ここに檀越が寄進したのが勝立寺である。
世情は切支丹禁圧の時代に入り、長政はあえて法華宗を称賛し、切支丹を遠ざける目算であったのかも知れない、あるいは黒田氏も備前出身であり、日忠に親近感を覚えたのかも知れない。
 日忠らに歓待された日奥は瀬戸内を通り、備前蓮昌寺に止宿する。以前に連昌寺僧2名が対馬を訪れているので、その縁であろう。
  (※蓮昌寺日韵(蓮昌寺21世、妙善寺8世)、日魏(蓮昌寺22世、妙善寺9世)は渡航して慰問する。)
 さて、京都の状況であるが、京都の諸寺の大部は日奥側であったが、本満寺・妙顕寺の圧力も強く、大仏殿は焼失するも再建され大仏供養は未だ健在であった。
元和2年豊臣氏は滅亡、大仏供養も消滅、妙覚寺一山も「不受の堅固」を誓約し、日奥は脇坊より妙覚寺本坊に移る。
この年、日忠は上洛、5年振りに再会、日忠は妙顕寺日紹が備前蓮昌寺住職だった頃、小僧として仕え、その縁でしばしば妙顯寺に行き、日紹を諌暁し、京の法華宗寺院の融和を促す動きをする。
日紹は大坂対論での後悔の念が激しかったので、日忠の諌暁を受け入れ、再び不受施に転ずる。さらに、本満寺日重・日深、頂妙寺日閑などを説得したので、日紹は名代として妙覚寺に赴き懺悔する。日奥も妙顯寺に答礼し、諸寺も妙顯寺に集合し和議が成る。
 この頃、不受施は黙認されていたが、諸寺は幕府に公許を依頼し、元和9年秀忠承認の公許状(折紙)が板倉勝重によって発出される。
これに基づき、「盟約」書が作成され、京の15本寺が連署する。
  長遠院日樹上人伝>4)文禄の受と不受の対立

◇末寺:
正乗山妙運寺(北九州市八幡西区木屋瀬)
青松山蓮正寺(糸島市志摩芥屋)
如意輪山妙立寺(糸島市高祖)
法輪山円満寺(飯塚市天道)


博多香正寺

福岡市中央区警固1-5-32
2019/09/10追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
 長光山と号す。小湊誕生寺末。
寛永9年(1632)可観院日延によって、開山、開基檀越毛利秀包息女長光院殿。
日延は高麗王の孫といわれ、文禄の役の時、加藤清正に拾われて来朝、博多法性寺で得度、六条本圀寺求法院檀林から飯高檀林に学び、若くして小湊誕生寺18世に晋む。しかし寛永の不受法難に連座して追放となり博多に帰る。
藩主黒田忠之は日延に寺地を与え、長政の養女(毛利/小早川秀包息女)長光院殿を開基檀越とし、宗像郡の廃寺禅宗国山香正寺を改宗移転し、長光山香正寺と改む。
日延は後に海福山妙安寺を建てて、遷化(寛文5年・1665、77歳)する。
2023/05/08追加:
○「清正公信仰の研究−近世・近代の「人を神に祀る習俗」−」福西大輔、熊本大学博士論文、平成21年 より
 清正により連行されてきた日延は寛永7年(1631)「身池対論」の後、小湊を追放される。
日延は誕生寺を出た後、江戸白金覺林寺を開き、九州に下向し、寛永9年(1632)博多法性寺に身を寄せ、福岡藩主黒田忠之の帰依を得て薬院(現・警固)に9000坪の寺地を賜り、香正寺を開く。
萬治3年(1660)日延は「故国朝鮮の見える地に居住せん」と藩主に願い出、伊勢の濱(現・唐人町)に3000坪の3000坪の寺地を賜り、妙安寺を開く。
寛文5年(1660)示寂す。
2019/08/25追加:2023/04/23加筆修正:
〇「備中領主戸川の時代 庭瀬・撫川・早島・帯江・妹尾の歴史」戸川時代研究会、平成14年(2002) より
◆日延上人:可観院と号する。
 「きびのさと」宇垣武治著では次のように云う。
 文禄の役の時、加藤清正は李朝の李昭大王の王子順和居と弟の臨海君琤(くんそう)の2王子と弟王子の3名を捕虜にして帰国する。
2王子はその後、朝鮮に送り返すが、弟王子の子の2男子は清正が育て、仏門にいれ、博多の法性寺(久遠成院日親開山)で修行し、兄の本行院日遥は肥後熊本本妙寺第3世となり、弟の可観院日延は博多に香正寺と妙案寺を開く。
この兄弟の姉が妙慶で戸川逵安の室となる。
 博多香正寺の過去帳に戸川逵安の側室の記載がある。
「朝鮮人日延上人の姉は備中庭瀬藩主戸川逵安公の室となり、万治元年(1656)卒す。戒名本樹院妙慶日法大姉」と載る。
   →備中妹尾盛隆寺を参照
 ※日延に関する上記の文章はやや意味が不明であるがそのまま掲載。
 ※本行院日遥及び可観院日延の経歴については諸説ある。
 しかし日遥が朝鮮国王の皇子であるとか、日遥と日延は兄弟であるとかの諸説は現在ではほぼ否定されている。
  日遥:肥後熊本本妙寺中に記載。
2019/08/25追加:
〇「文禄・慶長役における被擄人の研究」内藤雋輔、東京大学出版会、1977(未見)では次のように云う。
 日延は、文禄慶長の役の際、日本に連れてこられた被擄人であり、姉は戸川逵安の側室となった。
姉弟は宣祖の庶王子・臨海君の子という縁起が伝わるが、真偽不明である。
日延が、本妙寺を創立した日遙と兄弟と伝える史料もあるが、その信憑性は低い。
 日延は博多の法性寺で得度、六条本国寺壇林に学び、19歳の時、下総飯高壇林に入檀、39歳で小湊誕生寺18世として晋山。
この頃、安房龍潜寺、江戸円真寺・江戸白金覚林寺などを創立する。
寛永7年(1630)、不受不施論争の影響をうけ、誕生寺から退き、法性寺に4年間在住する。
福岡藩主 黒田忠之の帰依を受け、香正寺を再興。
寛文5年(1665)77歳で隠居所として創立した妙安寺で寂、77歳。
現在、日延の墓は、香正寺と妙安寺の2箇所に残る。
2019/09/10追加:
日延による博多法性寺謗法事件があり、白川門流日題派分派の契機となる。
本件については→白川門流日題派中に記載しているので、参照を乞う。
また
信濃上諏訪高国寺開山日長(不受不施僧)は筑前博多香正寺に日延を訪ね本末寺院の契約を結ぶという。
  →本件についても→信濃上諏訪高国寺中に記載しているので、参照を乞う。
さらに、
サイト:長光山香正寺では
 「日延、小湊誕生寺18世の折、徳川二代将軍秀忠の正室お江の方(淀殿の妹)葬儀出座の席にて、「不受不施」の宗儀を堅持、将軍の命に背くこととなり九州へ下る。」とある。
委細は不明だが、崇源院(お江の方)葬儀は寛永3年(1626)であるので、日延はこの頃、出寺あるいは追放されたことになる。
「寛永7年(1630)、不受不施論争の影響をうけ、誕生寺から退き」との記述もあり、年代や経緯は不明である。
さらに
「(日延は)福岡にて時の藩主・黒田忠之公の厚遇を得、その義姉・長光院殿の帰依により、立正安国並びに毛利・大友家供養発願のもと、当地に九千八百坪の寺地を賜る。
寺格も高く、五重塔等、多くの堂宇を有し、上級藩士の菩提寺として、寺門 大いに隆盛、今日に至る。」
 ※五重塔も建立されていたようであるが、その情報が皆無で、五重塔については不明。
2023/04/23追加:
○古蹟写真帳>福岡県>「香正寺 日延上人墓」 より
 日延は、文禄慶長の役の際、日本に連れてこられた被擄人であり、姉は戸川逵安の側室となる。
姉弟は宣祖の庶王子・臨海君の子という縁起が伝わるが、真偽不明である。
日延が、本妙寺を創立した日遙と兄弟と伝える史料もあるが、その信憑性は低い。
 博多の法性寺で得度、京都の本国寺壇林に学び、19歳のとき、下総の飯高壇林に入って修行、39歳で小湊の誕生寺第18世として入山する。
この頃、安房の龍潜寺、江戸の円真寺・覚林寺などを創立する。
寛永7年(1630)不受不施論争の影響をうけ、誕生寺から退き、法性寺に4年間在住する。
福岡藩主黒田忠之の帰依を受け、香正寺を再興することもあった。
寛文5年(1665)77歳で隠居所として創立した妙安寺で没する。
現在、日延の墓は、香正寺と妙安寺の2箇所に残る。
〔内藤雋輔『文禄・慶長役における被擄人の研究』東京大学出版会・1977年参照〕
2023/04/23追加:
○紀行歴史遊学>「日本の武将と朝鮮の少年(2010/12/25)」 より
 江戸白金覺林寺の『参詣のしおり』の紹介がある。
それは日延のくだりである。
即ち
加藤清正は、朝鮮半島における文禄・慶長の役で活躍し、帰朝の折、朝鮮国王子の子(姉と弟)をお連れになり大切に養育した。
やがて成長した弟は、清正の熱心な信仰心を受け継いで博多の寺にて出家をし、日延と号して、安房小湊の誕生寺18代の住職となる。
来日当時、弟は四歳、姉は六歳といわれている。
この日延上人(一五八九‐一六六五)は、花の栽培が大変得意であったことから、晩年、白金村の当地をお花畑として幕府より下賜される。
日頃、清正公に育てられた恩義を感じ、また、公の遺徳を偲んでいた上人は、この土地に当寺を開創し、清正公の守護仏である釈迦牟尼仏を本尊とし、さらに清正公をも一緒にお祀りしたのである。
さらに、日遥についての紹介と教唆がある。
『加藤清正のすべて』(新人物往来社)の武田鏡村「清正と法華経信仰」には、次のような指摘がある。
即ち
(清正は)朝鮮から帰国した折、朝鮮人少年を連れてきた。
そのうちの一人が本妙寺三世となる日遙上人である。高麗上人、高麗遥師ともいわれた。
清正は彼の非凡な才能を看破し、法華経の行学を積ませた。
日遙は本妙寺日真、寂照院日乾の教えをうけ、さらに身延山や下総飯高の大檀林に学び、十余年の行学ののち、熊本に戻り、日真、日繞のあとを継いで本妙寺三世となる。
日遙は清正を深く敬愛し、清正逝去の後も追善供養をおこたらず、法華経を清正霊像の胎内におさめ、まるで生きる清正に仕えるように霊像に奉仕したという。
 同じように江戸でも清正に育てられた朝鮮人少年が出家して、日延と号し、房州小湊の誕生寺第18世となったという。
この日延上人は清正の遺徳をしのんで、寛永八年(1631)に芝白金に覚林寺を開いた。そこには「清正公大尊儀」が祀られたことから、「清正公様」の名で江戸庶民に親しまれた。ちなみに『江戸名所図会』には、
「昔、加藤主計頭清正、朝鮮出兵の時、かの国の王子連枝二人を日本に連れられ沙門となし、兄をば高麗日遙上人と号し、肥後国本妙寺の開山とす。弟はすなわち日延上人なり」
と、日遙と日延は兄弟で、しかも高麗国の王子連枝と記しているが、これは清正が会寧府で臨海・順和のニ王子を捕らえ、手厚く保護し、のちに丁重に返還したという武勇伝から伝承されたものであろう。
ともあれ、清正は法華経を行じる者において、人種や身分を超えた理解と愛情をもって接していたのである。
 なお、
文禄元年(1592)7月、加藤清正は朝鮮の北辺、会寧で臨海君、順和君を捕虜とする。
二人とも第14代国王宣祖の子で特に臨海君は庶出ながらも長男である。王子を生け捕りにするとはさすが清正公という感じだが、実は朝鮮の反乱分子が捕らえて清正に差し出したのだった。このニ王子は秀吉の返還命令によって翌年には解放される。
 ※つまり、日遥と日延が兄弟であるという説は「会寧で臨海君、順和君を捕虜と」したということと混同ではないかと示唆するものであろう。



肥前の日蓮宗諸寺

肥前小城光勝寺・肥前日蓮宗諸寺

肥前功徳山妙善寺

肥前杵島郡江北町八丁3113
明治20年教会所創立、開山は智琢院日輝上人で、開基は壇越淵上市次郎。
明治26年大和奈良林小路町妙善寺<奈良の日蓮宗諸寺中>の寺号を移し、功徳山妙善寺と改号すると同時に四条妙顕寺末となる。
明治33年本堂建立。
平成14年(2002)本堂・庫裡を新築(立教開宗750年記念事業)。

肥前島原護国寺

長久山と号す。肥後熊本本妙寺末、親師法縁。島原市寺町に所在。
慶安四年(1651)島原藩主高力忠信によって創建される。
開山は肥後本妙寺第三世本行院日遥、開基檀越は島原に入封した高力忠房。
 <本行院日遥は熊本本妙寺中にあり>
蘇生三十番神(よみがえりの三十番神)を番神堂に祀る。
末寺に法華山永昌寺(南島原市有家町久保)がある。

肥前島原妙高寺

明治10年創建、日蓮宗不受不施派。島原市広馬場町7743
 →詳細は「備前法華の系譜」中「島原妙高寺」の項にあり。
  (”Ctrl”+”F”キーの押下で検索窓を出し”島原妙高寺”の検索語で検索を願う)

肥前島原廣宣寺

2024/03/23追加:
○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
有馬山と号す、神奈川妙香寺末。
 (「大観」には元下総多古にありて「令法山」と号す。明治42年5月6日現在地に移転し、有馬山と改む。寺寶に印度鋳造の宝石荘厳たる釈迦銅像(1尺3寸)を安置す。)
 ※島原廣宣寺は上述のように下総千田廣宣寺<五反田・林・水戸・石成・千田・船越・牛尾中>を明治42年に遷したものである。
所在地:長崎県南島原市南有馬町丁278、緯度・経度:32.637735888021766, 130.25361357010908に現存する。
島原原城跡のすぐ北に位置する。
GoogleMap より転載
 島原廣宣寺空撮:近年旧本堂後に新本堂が建築されたようである。
 島原廣宣寺旧本堂     島原廣宣寺題目石


肥後の日蓮宗諸寺

肥後熊本本妙寺/肥後日蓮宗諸寺を参照。
 肥後本妙寺(加藤清正廟所)
 ●玉名常楽山妙性寺
 ●高麗門妙永寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一
 ●高麗門本覚寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一:妙永寺寺中3ヶ寺の一
 ●高麗門覚円寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一:妙永寺寺中3ヶ寺の一
 ●高麗門実成寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一:妙永寺寺中3ヶ寺の一
 ●高麗門正立寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一
 ●高麗門長国寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一
 ●高麗門瑞光寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一
 ●高麗門妙立寺:高麗門日蓮宗八ヶ寺の一
 ●川尻法宣寺
 ●川尻本立寺
 ●宇土法華寺
 ●八代宗覚寺(加藤忠正廟所)
  あり。


豊前本立寺:京都郡みやこ町豊津722
○本立寺は小笠原氏の移封及び移転の都度、小笠原氏と行動を共にする。
信濃松本に創建されるが、小笠原氏の明石転封で明石に移転、さらに豊前小倉に移封され、小倉に移転、最後は幕末の第ニ次長州征討で小笠原氏は小倉を失地、藩庁を豊前豊津に移転、それに伴い本立寺も豊津に移転し、現在は豊津に現存する。
 →播磨明石本立寺(播磨の日蓮宗諸寺中)


豊後臼杵法音寺
臼杵藩3代稲葉一通は細川忠興(三斎)の三女「たら」を正室とす。
慶長7年(1602)
稲葉一通はその細川忠興息女のため、法音寺を建立し、忠興息女の菩提寺とする。
臼杵城の鬼門にあたるため、山門には
持国天、毘沙門天を安置する。
本寺の建立にあたり、竹林を切り開いたので、山号は竹林山と号すると云う。
なお、明治36年、後に日本山妙法寺を開く藤井日達は本寺で出家すると云う。
2013/10/28撮影:
 臼杵法音寺石階    臼杵法音寺題目碑    臼杵法音寺二天門
 臼杵法音寺本堂    臼杵法音寺三光堂    法音寺鐘楼庫裏玄関
2014/05/10追加:京都中山門流頂妙寺末 である。


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