★身延山塔婆概要
◇身延山の塔婆は、次の3基が知られる。
(1)身延山多宝塔(日朝建立)・・・・・文明10年(1478)創建、本堂・二天門の間の西に建立、(文政7年まで東谷に存続)、
文政7年(1824)火災焼失、弘化3年(1846)再興、明治8年火災焼失、以降再興されず。
(2)身延山五重塔(寿福院建立)・・・・・元和5年(1619)位牌堂の前に建立<元和創建塔>
→寛文3年(1666)上ノ山に移建<寛文移建塔>、文政12年(1829)9月火災焼失、
→万延元年(1860)完成<万延再興塔>慶應元年(1865)五重塔落慶、明治8年火災焼失、
→平成再興塔(2008年竣工、2009年落慶(本堂西南に再興・・・日朝建立多宝塔の位置附近)
(3)現存多宝塔(一乗宝塔、伊予松平氏建立)
・・・・・開基堂(南部実長を祀る)と称する、現存する。
寛文10年(1670)上の山に新造、明治14年老朽化のため?解体。
※伊予松山松平定長が母養仙院(京極高広の娘)の菩提のため建立する。
明治15年(或は明治24年とも)本堂西傍らに移建、さらに昭和54年現在地に移建・現存。
2008/06/17追加:
◆「近世中期における身延山信仰と信仰圏」望月真澄(「印度學佛教學研究 Vol.54, No.1」日本印度学仏教学会、2005 所収) より
近世中期の身延山では奥の院や七面山に至る参詣道が開発された。
七面山に至る道は大きく2つの道があるが、上の山や妙砂坊は参詣者が立ち寄る途中の参詣場所であった。
「上の山」の概観は以下の資料では次のように示される。
・「身延山絵図」では本堂→
上の山(番神宮→五重塔→稚児文殊→一乗塔→経蔵→丈六堂→大黒堂→三光堂)→鉄仏→常題目堂→水尾→東照宮→奥の院
・「身延山図経」では本堂→
上の山(八幡宮→五重塔→鬼子母神堂→文殊水・稚児文殊→一乗塔→丈六堂→大黒堂→三光堂→鉄仏)→・・東照宮・・→奥の院
「身延鑑」では本堂
→天照・八幡宮→五重塔→羅刹堂→一切経蔵→稚児宮→丈六釈迦堂→大黒堂→三光堂→東照権現宮→題目堂→・・・奥の院
上の山に移転した堂宇(移転年代・元場所)は以下のとおり。
刹堂(寛文2年・祖師堂の上)、五重塔(寛文3年・位牌堂前)、丈六釈迦堂(寛文4年・二天門側)、三光堂(寛文5年・祖師堂と位牌堂間)、一切経蔵(寛文7年・本堂)、大黒堂(寛文年中・祖師堂上の山)、番神社(寛文年中・祈祷堂前)、二重宝塔(寛文10年・新造)、常経堂(寛文12年・新造)
※上記の二重宝塔とは一乗塔のことであり、これは現存する(一乗宝塔、伊予松平氏建立)多宝塔である。
この塔は寛文10年新造とされる。その後、この塔は明治初頭に山の上から祖師堂西に移建、さらに昭和54年現在地に移建される。
※「身延山絵図」及び「身延山図経」の部分図は以下に各種掲載する。
2009/08/20追加:
◆「身延山久遠寺伽藍について」井上博文(「大崎学報 141」立正大学仏教学会、1986-06-30 所収) より
11世日朝<寛正3年(1461)〜明応8年(1500)在暦>の代、寺地を西谷から東谷に移し、諸堂の整備をしたと伝える。
二重宝塔は日朝の構想で、弟子日用・日徳の勧進によって建立される。
※この宝塔は日蓮上人の御真骨堂である。(「諸堂記」に記載の宝塔銘文)
この二重宝塔は東谷に建立され、文政期まで存続する。
※御真骨は後に22世日遠によって御真骨土蔵が建立され、それに納められる。
※康永元年(1342)六浦妙法によって多宝塔(御真骨塔)が建立されるとの記事がある。(中山3世日祐の「善根記録」)
この記録によれば、日朝建立の多宝塔は再興と云うことになる。
元和4年(1618)24世日要は五重塔建立に着手、
諸堂記では「高さ21間(38.22m)但し九輪共 1丈8尺6寸(5.63m)四面。池上五重塔は19間に1丈6尺四方、滝谷妙成寺の塔は高さ18間なり」と云う。施主は加賀
寿福院日栄(前田利常生母)で当時は滝谷妙成寺五重塔を建立中で、元和4年の完成し、身延山五重塔は元和5年に落慶する。
●伽藍図・日奠以前:延宝9年(1681)刊「日蓮上人御伝記」挿入図より
五重塔は位牌堂の前にある。二重宝塔(多宝塔)は本堂前西にある。
→下掲載:日蓮上人御伝記絵図1
寛文2年(1662)28世日奠代、位牌堂対面にあった五重塔を上の山に引移す。その他多数の堂宇を手狭になった本院の拡張と山の上・奥の院開拓のため、移建する。
●伽藍図・日奠以降:日通まで
五重塔は上の山に引き移される、また上の山には多くの堂宇が整備・建立される。
寛文10年(1670)29世日莚代、上の山に二重宝塔(1丈6尺、四方外縁)を建立。
正徳2年(1712)33世日亨代、祖師堂後方上手に本地塔(堂、また上行堂)を新建立。
●伽藍図・江戸後期:
五重塔は上の山にあり、その北東すぐに宝塔がある。本地塔は祖師堂背後にある。二重宝塔(多宝塔)は原位置のまま。
天明元年(1781)47世日豐代、上の山に相輪塔を建立。(日蓮聖人五百遠忌報恩記念と云う。)
文政7年(1824)祖師堂より出火、本堂・祖師堂・二重宝塔・位牌堂・二天門など主要伽藍の殆どを焼失。
文政12年(1829)五重塔より出火、その下の本院部の全て28棟を焼失。
天保15年(1844)61世日心代、二重宝塔(3間1尺四方)再建。
嘉永2年(1849)66世日薪代、本地塔(2間四方)五重塔(3間四方12丈3尺)再建。
安政元年(1854)大地震により諸堂破損、同7年(1860)五重塔など再建、二重塔など屋根葺替。
明治8年大火、丈六堂・刹堂を残し灰燼に帰す。
★(1)身延山多宝塔(日朝建立)
文明7年(1475)身延山第11世日朝上人、伽藍整備を行う。(西谷から現在地・東谷へ主要伽藍を移転)
文明10年(1478)多宝塔建立(伽藍整備の一環として建立)
(祖師堂東に位牌堂、西に本堂、本堂南に二天門を配し、本堂と二天門の間の西に多宝塔が建立される。)
文政7年(1824)火災焼失
弘化3年(1846)再興
明治8年、火災焼失。 (以降再興されず)
□甲斐叢記:巻之4に見る多宝塔・五重塔(甲斐叢記は嘉永4年・1851刊行)
身延会式:本堂左手(前方西)に多宝塔がある。(五重塔は祖師堂背後にある。)
身
延 会 式 同 多宝塔部分図
□その他の絵図
※「身延山図経」については、「『身延山図経』の研究」北澤光昭著で以下のように結論付けられると云う。
「身延山図経」の刊行年代:第一次の刊行は身延山36世日潮上人の入山五年後の寛保元年(1741)で、その後、嘉永7年(1854)以降、明治3年以前までで、六次の刊行がなされる。
また図の堂宇の名称では異称が使われる(例:多宝塔=宝浄龕)が、この異称は「甲斐国史」(文化11年)の「身延山久遠寺」の項で使用される名称と同一と云う。
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2008/01/04追加:
□「身延山図経」より
身延山図経多宝塔:
本堂手前西に多宝塔(寶浄龕)が描かれている。
※左図は「身延山図経」の日朝建立多宝塔部分2008/05/20追加:
□甲州身延山久遠寺總繪圖:釋禪妙撰、延宝2(1674)年刊本(彩色)
本堂西南に多宝塔、山ノ上に五重塔、
五重塔東に推定「現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔」がある。
□「身延山絵図」宝永(1704-1711)復刊 より
身延山絵図宝永(全図)
身延山絵図宝永(伽藍地):
本堂西南に多宝塔、山ノ上に五重塔、
五重塔東に推定「現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔」がある。
□「身延山絵図」宝暦(1751-1764)復刊 より
身延山絵図宝暦(全図)
身延山絵図宝暦(伽藍地):
本堂西南に多宝塔、山ノ上に五重塔、
五重塔東に推定「現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔」がある。
□身延山全圖:時期不詳(江戸期と推定)
に見る多宝塔・五重塔
身延山全圖:中央の部分図
本堂手前左(図左下)に多宝塔、奥の院に至る途中(図右上・上ノ山)に五重塔、五重塔東奥にある宝塔?が現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔と推定される。
2005/12/05追加:
□「社寺境内図資料集成 1巻」より
身延山絵図:久遠寺蔵:江戸期と思われる
身延山絵図:久遠寺蔵:江戸期と思われる
上2図はほぼ同一の絵図と思われ、いずれも、
本堂左前に多宝塔、裏山(上ノ山)に五重塔、
五重塔すぐ東奥に現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔と
推定される塔婆が描かれる。 |
★(2)身延山五重塔
元和4年(1618)4月、五重塔釿始め、翌5年10月に完工、11月落慶。
施主:前田利常生母寿福院
(高さ21間(38.22m)、初重一遍18尺6寸(5.64m)。大工は鈴木近江守長次と伝えられる。)
※元和創建の棟札が現存 →下掲載元和5年年紀棟札
(当初の建立位置は位牌堂の前と云う。)
※「身延鑑」(貞享2年(1685))の挿図では位牌堂前方東に五重らしき塔があると云う。
但し「身延鑑」が刊行された貞享2年には五重塔はすでに山ノ上に移建されている。
→下掲載日蓮上人御伝記絵図1 日蓮上人御伝記絵図2:五重塔部分図
寛文3年(1666)6月、境内整備、五重塔を上ノ山に移建。
※五重宝塔移転修補成就棟札現存、加賀前田綱利が八百両を寄進し五重塔が移転。 →下掲載寛文3年年紀棟札
文政12年(1829)9月火災焼失。
※この火災は五重塔に落雷出火、28棟を焼失と云う。
嘉永6年(1853)4月、五重塔釿始め、安政3年4月立柱、万延元年(1853)11月上棟。
慶應元年(1865)五重塔落慶。
(高さ12丈3尺(37.3m)、屋根銅瓦葺と云う。
棟梁は中町池上伊織宗治、下町池上頼母宗武、鋳物師は駿州江尻宿山田六郎左エ衛門種秀。)
明治8年火災焼失。
●和漢三才図会・記事・・・坊舎40余軒、・・・五重塔・・・とある。
◆元和創建五重塔
2010/05/28追加:「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
●身延山五重塔現存棟札
○元和5年年紀棟札:
元和5年の年紀がある。檜材、高さ約70cm。
(表)施主は加能越太守前田利常母寿福院と記す。
「・・・信心願主加能越太守諌議太夫朝臣母公寿福院日榮抽於浄信建霊廟・・・」
(裏)棟梁の名前を記す。筆頭は鈴木近江守長次の名が記される。
「天下工匠遠州住人 鈴木近江守長次 ・・・・ 元和萬々歳第五龍集己未九月如意吉辰」
○寛文3年年紀棟札:
寛文3年の年紀があり、元和創建塔の寛文3年移建時の棟札である。杉材、高さ約65cm。
(表)五重塔規模は高さ12丈6尺、四方1丈8尺6寸で、位牌堂前から上之山へ移し、補修すると記す。
「当山五重宝塔高拾弐丈六尺四方一丈八尺六寸初雖建位牌堂前今般地所移上之山修補成就之・・・・
維時寛文第三太歳・・・・・」
(裏)加越能太守前田綱利が800両を寄附して補修をなす。
※その他に「身延山諸堂記」「五重塔由緒」の資料があるが、基本的に棟札の内容を写したものと思われる。
※棟梁・鈴木近江守長次
鈴木長次の略歴およびその作品などの詳細な解説が「身延山五重塔の復元」にある。
例えば、池上本門寺五重塔、日御碕社三重塔・多宝塔など近世初期に幕府が関わった多くの著名寺社の造営に名を連ねる。
2010/05/28追加:「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
●「日蓮上人御伝記」延宝9年(1681)京都書肆・中村五兵衛開版
日蓮上人御伝記絵図1 日蓮上人御伝記絵図2:五重塔部分図
寛文3年移転以前を描くものと思われる。※位牌堂前に五重塔を描き、棟札の史料と一致する。
□壽福院略歴
寿福院は前田利家室・前田利常生母
慶長8年(1603)能登滝谷妙成寺を菩提所と定める。
滝谷妙成寺五重塔は寿福院の発願。
身延山に利家の菩提のために五重塔、奥の院祖師堂及び拝殿などを寄進。
京都妙顕寺に本堂及び五重塔を建立。
寛永8年(1631)逝去。61歳。池上本門寺で荼毘に付す。 後、国元金沢小立野経王寺にて再び葬儀が行われ、遺骨は能登瀧谷妙成寺に納めらる。
2010/10/12撮影:
壽福院殿墓11 壽福院殿墓12
◆寛文移建五重塔
●甲斐叢記:巻之4に見る五重塔・多宝塔(甲斐叢記は嘉永4(1851)刊行)
身延山妙法華院久遠寺・・・身延山:層塔が描かれる。(五重塔と思われる。)
身延会式:祖師堂背後に五重塔がある(多宝塔は本堂左手にある。)
身
延 会 式:・・・・・前出 同 層塔部分図
●その他の絵図
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2008/01/04追加:
□「身延山図経」寛保元年(1741)より
身延山図経五重塔:
山ノ上に五重塔がある。
東の一乗塔は推定「現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔」
※左図は「身延山図経」の山ノ上五重塔部分2008/05/20追加:
□甲州身延山久遠寺總繪圖:釋禪妙撰、延宝2(1674)年刊本(彩色)
・・・前出
本堂西南に多宝塔、山ノ上に五重塔、
五重塔東に推定「現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔」がある。
□「身延山絵図」宝永(1704-1711)復刊 より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前出
身延山絵図宝永(全図)
身延山絵図宝永(伽藍地):
本堂西南に多宝塔、山ノ上に五重塔、
五重塔東に推定「現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔」がある。
□「身延山絵図」宝暦(1751-1764)復刊 より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前出
身延山絵図宝暦(全図)
身延山絵図宝暦(伽藍地):
本堂西南に多宝塔、山ノ上に五重塔、
五重塔東に推定「現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔」がある。
□身延山全圖:時期不詳(江戸期と思われる。)
に見る多宝塔・五重塔・・・前出
身延山全圖:中央の部分図
本堂手前左(図左下)に多宝塔、奥の院に至る途中(図の右上)に五重塔、
五重塔すぐ東奥にある宝塔?が現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔と推定。
2005/12/05追加:
□「社寺境内図資料集成 1巻」より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前出
身延山絵図:久遠寺蔵:江戸期と思われる
身延山絵図:久遠寺蔵:江戸期と思われる
上2図はほぼ同一の絵図と思われ、いずれも、
本堂左前に多宝塔、裏山に五重塔、
五重塔すぐ東奥に現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔と推定される塔がある。 |
2021/09/13追加: ○岡山大学池田家文庫蔵
身延山之圖1:全図:年代不詳 身延山之圖2:部分図
---------------------以下 身延山五重塔再興計画
●身延山五重塔再興計画
・・・・・この項も基本的に寛文移建塔の内容を示す。
身延山久遠寺五重塔建立趣意 から
現在、身延山久遠寺五重塔再興工事中。
五重塔建立趣意:「身延山五重塔建立について
」(身延山久遠寺 井上瑞雄総務ご挨拶)を参照。・・・・・動画配信
また2006年より工事が進行し、進行状況については身延山久遠寺公式サイトに掲載があり、その情報を参照。 ※2004/4/15:身延山久遠寺に下記の使用許諾を求めるも、現在に至るまで
回答なし。
身延山絵図屏風(江戸期・身延山宝物館蔵)、身延山絵図(江戸期・身延山宝物館蔵)、身延山五重塔跡、
五重塔建造予定地の画像ならびに五重塔略歴(いずれも、上記配信動画より抽出)
□身延山絵図屏風(江戸期・身延山宝物館蔵)に見る五重塔(部分図)
身延山絵図屏風
2・・・主要部分図(中央やや右の上よりの山腹に五重塔がある)
□身延山絵図(江戸期・身延山宝物館蔵)に見る五重塔
身延山絵図2・・・五重塔周辺
部分図
身延山絵図2・・・ほぼ全図と思わ
れる
※身延山絵図屏風:作者未詳、六曲一隻、紙本着色:日奠上人在山中の身延山の景観(寛文年中)と推定される。
日奠上人は後方の山を開き、東の谷を埋めて真骨土蔵を移築、五重塔、刹如堂、一切経蔵、丈六堂、大黒堂、千仏堂を移転、新たに東照宮、霊宝蔵、同拝殿、総門を新築して堂塔の整備を行う。
---------------------以上 身延山五重塔再興計画
◆万延再興五重塔
---------------------以下 身延山五重塔再興計画
●身延山五重塔図(望月真澄所蔵) :身延山五重塔再興計画 より
万延元年(1853)9月の年紀があると云う。
身延山五重塔60分1図1 身延山五重塔60分1図
2:万延再興五重塔絵図 →下掲載:万延再興五重塔木版画
●身延山五重塔跡 :身延山五重塔再興計画
より
日蓮上人御真骨堂奥手山腹に塔跡は残ると云う。写真で見る限り土壇を残すと推定される。
※しかし、2004年8月、想定場所を探訪するも、遺構に辿り着くことができず未見。
身延山五重塔跡2
---------------------以上 身延山五重塔再興計画
2010/05/28追加:「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
●五重塔跡推定位置図
身延山現伽藍図:身延山の現在の本堂周囲の伽藍配置図
身延山五重塔跡推定地:2010/06/06画像入替
寛文の移築塔婆跡は推定
万延再興塔跡は本堂裏から山の上に至る道を辿れば、本地堂・八幡社石階を過ぎた付近に仮道(建設機械による整地)があり、
この仮道を少し下れば、五重塔跡に至る。
なお、八幡社石階下から分岐するもう1本の同じような仮道があるが、これは永守稲荷に至る道である。
●寛文移転五重塔跡(推定):2010/05/29撮影:
寛文移転五重塔跡1 同 2
推定地の現状は山林であり地表は潅木が繁茂する。そのため明確な塔の遺構を見ることはできない。
●万延再興五重塔遺構
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万延再興五重塔跡実測図:左図拡大図
(塔南の遺構を含む)
土壇様の高まりに礎石14個が残る。内12個は原位置を保つと思われる。
礎石は安産岩で表面には火災を受けた亀裂が入る。大きさは42.5〜75cm程度。
塔一辺は東西5.77m、南北5.66mを測る。束石は殆ど残存しない。
なお塔南には4×2間の礎石建物跡が残る。(何の建物かは不明)
●万延再興五重塔跡
万延再興五重塔遺構:北東から撮影
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2010/05/29撮影:万延再興五重塔跡
※塔跡は土壇と思われる高まりを残す。地表には塔礎石が散在するも、伐採した枝などに覆われ、遺構の全体を見ることは出来ない。
※礎石の大きさは42.5〜75cm程度(上掲)の自然石であり、標準的な五重塔の礎石としては意外に小振りな礎石である。
●万延再興塔写真
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◆万延再興五重塔古写真:「大日本全国名所一覧」平凡社、2001 所収
甘露門背後左に万延再興塔の四重・五重目が写る。
近世の身延山五重塔の現在知られている唯一の写真であろうと思われる。2010/05/29撮影:
身延山甘露門:現在の甘露門である。 |
●万延再興五重塔板絵
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万延再興五重塔板絵1:
左図拡大図
平成19年、門前の山田屋旅館の倉庫から発見される。杉板の五枚矧ぎ。911×262×3cmを測る。
右側:「五重塔再建拾分一之図」「施主国中大題目構中」、左側「嘉永五年壬子二月吉辰」「当所棟梁池上伊織宗治 池上頼母宗武」とある。
各重脇間は火燈窓を配し、尾垂木には鎬を入れ、かなり唐様の様式を取り入れる。初重中央間は桟唐戸、床下は亀腹を設け、切れ目縁を廻す。2重以上は勾欄を設ける。
万延再興五重塔板絵2:「中外日報社」報道
新聞報道での大きさは天地約4m、横幅約1.5mと報じる。
※この法量が正しいと思われる。(上記の911×262×3cmは何かの錯誤であろう。)
山田屋旅館は明治期から参詣者に宿泊の場を提供してきたが、元々は代々身延山大工棟梁池上家の住居で、池上棟梁と職人たちが居住していた。山田屋旅館の蔵は、身延山大火の前年(明治7年)に完成、棟梁の所持品がそのまま残されたものとみられる。
なお三門・鐘楼の図も見つかると云う。 |
●万延再興五重塔木版画
万延再興五重塔木版画
身延五重宝塔60/1之図、年紀は万延元年、年紀のないもの、68世日実の花押のあるものもあると云う。
※上掲<身延山五重塔図(望月真澄所蔵)>と同一の木版画であろう。
------------------------------------------
◇身延山久遠寺真景:明治13年以降、明治36年までの景観と推定
1)五重塔は「五重塔跡」と上ノ山に表示
2)祖師堂(明治13年再興、本堂は明治8年焼失のままと思われる)
祖師堂前西に多宝塔があるが、現存(一乗宝塔・伊予松平氏)多宝塔と推定される。
2010/05/28追加:
「身延山五重塔の復元」では「大日本甲斐国日蓮宗総本山身延久遠寺全図」明治36年印刷発行(但し絵図の掲載はなし)とあり、この絵図とには「五重塔跡」と記される
、とある。「真景」と「全図」は同一の絵図と思われる。
◆平成再興五重塔
◆五重塔建造予定地
五重塔建造予定地・・・
菩提梯を登ると正面に本堂があるが、その本堂前西側に五重塔が建立される予定。
(日朝建立多宝塔があった位置と概ね同じ位置になると思われる。)
2006年03月24日毎日新聞朝刊:
完成予定2008年10月、総工費20億円。3月17日地鎮祭。
元和の塔は鈴木近江守長次が手掛けたとされる。一辺は18尺6寸(5.6m)高さ39m。
2008/06/17追加:
□身延山五重塔工事 (画像は身延山サイトより抽出)
2008年10月竣工予定、大成建設施工、木工作は金剛組。
身延山五重塔立断面図 五重塔設置礎石 五重塔使用礎石 五重塔礎石平面図
五重塔初重組物
五重塔初重組物2
五重塔初重軒支輪
五重塔初重茅負設置
五重塔初重上部四天柱組立 初重垂木・初重上部四天柱 五重塔初重上部側柱
五重塔初重軒・飛檐垂木
五重塔初重軒
五重塔初重軒隅
五重塔初重(?)桔木
五重塔三重地垂木
五重塔三重茅負
五重塔五重小屋組
五重塔心柱三番柱組立
五重塔蟇股彫刻(子)
身延山五重塔立面図:大成建設サイトより
2008/11/28追加:身延山五重塔工事 (画像は身延山サイトより抽出)
身延山五重塔初重蟇股:初重各間に十二支を彫刻・彩色した蟇股を配置する。子を北とし時計回りに配置。
五重塔屋根・瓦棒銅板葺 五重塔四天柱塗装前 五重塔須弥檀塗装前
五重塔四天柱塗装彩色 五重塔四天柱斗栱 五重塔組物弁柄上塗
◎平成20年再興身延山五重塔:元和・慶応再興に次ぐ平成再興塔婆
2008/11/28追加:
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2008/11/05竣工式。 「X」氏ご提供画像:2008/11/15撮影
甲斐身延山五重塔11
同 五重塔12:左図拡大図
同 五重塔13
山梨日日新聞:発行日不明 平成20年11月5日身延山五重塔竣工式特集 より
甲斐身延山五重塔14
同 五重塔15:五重目と相輪部分
・総高38.20m(基壇上から)、地表からの総高は39m。
初重一辺は5.26m。
初重は32支(中央間12支、両脇間10支)
一重上るごとに各間1支(総間で3支)づつ減ずる。
従って、五重目は20支(中央間8支、両脇間6支)
※1支は5寸8分(17.6cm)
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2010/05/28追加:「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
身延山五重塔立面図 身延山五重塔断面図 身延山五重塔初重平面図
山城教王護国寺塔婆を別にして、近世初頭の(あるいはその系譜の)現存するあるいは写真などが残る主要な塔婆は以下が知れる。
池上本門寺塔婆:慶長12年(1607)、高さ29.5m(あるいは31.8m)
能登妙成寺塔婆:元和4年(1618)、総高34.27m
中山法華経寺塔婆:元和8年(1622)、高さ約30m
上野寛永寺塔婆:寛永16年(1639)、高さ約32m
富士大石寺塔婆:寛延2年(1749)、高さ33m。
浅草浅草寺塔婆:慶安元年(1648)、高さ111尺(33m余)・・・但しこの塔は焼失。
芝増上寺塔婆:
谷中感応寺塔婆:寛政3年(1791)再建、総高112尺8寸(約34.12m)・・・但し焼失。
※写真での判断ではあるが、再興塔婆はこれ等近世初頭の塔婆の雰囲気を醸し出すと思われる。
★(3)現存多宝塔(一乗宝塔、伊予松平氏建立)
2007/01/05追加:「身延町史」(昭和45年刊):
文明4年(1493)11月、日徳上人勧請により建立、明治24年(1891)第七十五世日修上人代、祖師堂西へ上之山から移転建築したものを更に昭和9年(1934)2月宝物殿の西に移し、丹塗りの古雅な九輪露盤が中央に聳えている。
※町史では、文明4年の建立とする。しかしこれは「日朝建立多宝塔」との混同と思われる。この塔は寛文10年の新造である。
寛文10年(1670)11月、上ノ山に多宝塔建立、施主は伊予松山(第3代)城主松平定長、母養仙院(京極高広の女)菩提の為建立。
※京極家は篤く日蓮宗を信奉する。養仙院墓所は谷中瑞輪寺、霊牌所は伊予松山法華寺と云う。
天保15年(1844)、屋根桧皮の葺替。(文政12年の火災は遁れると思われる。)
明治14年、老朽化のため?解体。明治15年(或は明治24年とも)本堂西傍らに移建される。
2007/01/05追加:「日本の塔総覧 下」(昭和44年):
「多宝塔は三門から286段の石段を上った伽藍地の西端、即ち向かって左方に宝物館と並んで建つ。この塔はもと西山にあって明治24年日修上人によって移建されたと伝えるが・・・・昭和9年少し位置が動いた。」
※明治初期に「上之山から祖師堂西に移建され、昭和9年宝物殿西に、少し位置が動いた」とされる。
以上のように「日本の塔総覧 下」が完工された昭和44年・45年当時は本堂西にあったことが分かる。
2007/06/06追加:
「写真で見る 100年前の日本(2)風景」マール社編集部編、マール社、1996
身延山久遠寺:
この写真では、多宝塔が本堂西傍らにある、
現存(伊予松平氏)多宝塔が山ノ上から本堂西傍らに移転し、本堂傍らにあった時代の写真と思われる。
写真では、下重は漆喰塗であったように見える。またこの時代は向拝を付設していた様に見える。
2010/05/28追加:
「日蓮宗の本山めぐり」昭和48年刊 より
身延山久遠寺多宝塔:総和48年刊行本、本堂傍らに多宝塔がある。下重は既に土蔵造のように見える。
◇身延山久遠寺真景:明治13年以降、明治36年までの景観と推定・・・・・・・・・・・・・・・・・・前出
1)五重塔は「五重塔跡」と上ノ山に表示
2)祖師堂(明治13年再興、本堂は明治8年焼失のままと推定される)前西に多宝塔があるが、
現存多宝塔(一乗宝塔、伊予松平氏)と推定される。
2013/11/08追加:
「七面大明神縁起」岩間湛良ほか3名、七面大明神奉賛会、昭和35年 より
◇身延山参詣の栞:昭和26年描画、向かって右が久遠寺伽藍であるが、
昭和26年の描画であるので、当然久遠寺伽藍左に多宝塔が描かれる。
昭和54年2月本堂建設に伴い、御真骨前(現在地)に移転する。
現在は下階を土蔵造りに改造、開基堂と称する。
□その他の絵図
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2008/01/04追加:
□「身延山図経」寛保元(1741)より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前出
身延山図経宝塔:図の一乗塔は推定「現存多宝塔
(一乗宝塔、・伊予松平氏)」。
宝塔の東に五重塔がある。
※左図は「身延山図経」の山ノ上「現存多宝塔(一乗宝塔、伊予松平氏)」部分
□「身延山絵図」宝永(1704-1711)復刊 より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前出
身延山絵図宝永(全図)
身延山絵図宝永(伽藍地):本堂西南に多宝塔、山ノ上に五重塔、
五重塔東に推定「現存多宝塔(一乗宝塔、伊予松平氏)」がある。
□「身延山絵図」宝暦(1751-1764)復刊 より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前出
身延山絵図宝暦(全図)
身延山絵図宝暦(伽藍地):本堂西南に多宝塔、山ノ上に五重塔、
五重塔東に推定「現存多宝塔(一乗宝塔、伊予松平氏)」がある。 |
□身延山全圖:時期不詳(江戸期と思われる。)
に見る多宝塔・五重塔・・・・・・・・前出
身延山全圖:中央の部分図
本堂手前左(図左下)に多宝塔、奥の院に至る途中(図の右上)に五重塔、五重塔すぐ東奥にある宝塔?が現存多宝塔
(一乗宝塔、伊予松平氏建立)と推定される。
2005/12/05追加:
□「社寺境内図資料集成 1巻」より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前出
身延山絵図:久遠寺蔵:江戸期と思われる
身延山絵図:久遠寺蔵:江戸期と思われる
上2図はほぼ同一の絵図、いずれも、本堂左前に多宝塔、裏山に五重塔、五重塔すぐ東奥に現存多宝塔(一乗宝塔、伊予松平氏建立)と推定される塔婆がある。 |
2004/08/01追加:
□身延山現存多宝塔(一乗宝塔、伊予松平氏建立)
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開基堂と称する。身延山大檀越南部実長(日円上人)を祀る。
山ノ上にあった多宝塔(一乗宝塔、伊予松平氏建立)を本堂西に移建、さらに現在地に移建と云う。
しかし原形が不明であり、従って、建築年代も不明とするしかないとされる。
建築的に優れたものではない。初重は壁土漆喰で塗られる。
身延山多宝塔1:左図拡大図
同
2
同
3
同
4
同
5
同 多宝塔内部:南部実長像
を祀る。
2007/01/05追加:「身延町史」(昭和45年刊)
一辺5.45m、高さ約9.1m。 |
2010/05/29撮影:
身延山多宝塔11 同 12 同 13 同 14 同 15
★身延山相輪橖:参考文献「御宝物で知る 身延山の歴史」望月真澄、日蓮宗新聞社、平成18年
天明元年(1781)日蓮上人500年遠忌を記念して建立。
相輪橖上部の五輪塔には妙法蓮華経と刻み、その下には曼荼羅本尊を刻す。また「祖師堂宝前にて三萬部の誦経成就供養の宝塔」などとの建立主旨が記され、さらに周囲には寄進者が詳細に記される。
元は本堂裏から奥の院に至る参詣道の20丁と21丁の間にあったが現在は三光堂境内にある。(三光堂手前が25丁の位置にある。)2010/05/29撮影:
身延山相輪橖1 同
2 同
3 同
4 同
5
2011/06/01追加:
「新編若葉の梢」海老澤了之介著、新編若葉の梢刊行会、昭和33年(1958) より
「金子直徳法華信仰の業蹟」の項に身延山相輪橖の記事がある。
相輪橖の高さは25尺、基壇石垣の高さは5尺で基壇一辺は約5間である。
以下の銘文のほぼ全部が収録されている。
橖正面銘文、橖背面銘文(寛政2年の年紀、下段には、宝塔本願主として江戸雑司ヶ谷金子小平治家昌・同妻・金子理平次直徳・同妻とある。天明元年建の年紀がある。)、
橖左側面銘文(本願は金子家昌・直徳とある。)、橖身背面銘文(宝塔施入面々として多くの人名がある。)、四方の控柱にも多くの宝塔施入面々の人名が刻まれる。また昭和11年修理銘もあり。)
「身延経報」29巻11号、昭和11年 には
表紙写真として相輪橖写真が載り、注記に「嘉永6年大震災後、・・・移転、再建成就、安政3年修理・・・、昭和11年大修理・・」とあると云う。
また銘文から、この相輪橖は当初身延山奥の院に建立する企図があったようである。
2012/08//20追加:「日本仏塔の研究 図版篇.」石田茂作、講談社、昭和45年 より
身延山相輪橖9
★塔 婆 参 考
◆身延山二重堂:
納牌堂と称する。昭和6年日蓮上人650年遠忌を記念して昭和9年建立。信徒の納骨・納牌・追善法要を修する。
身延山二重堂1
同 2:
仏殿の両袖に二重堂が対にある。簡単な相輪(九輪ならぬ三輪)を載せる。
2010/05/29撮影:
身延山納牌堂11 同 12
◆身延山本地堂
;現状は二重楼閣であるが、近世には相輪を載せた堂(塔)であったと思われる。
身延山本地堂1:上行菩薩を祀る。
現状は二重楼閣の外観である。
同 2:
嘉永5年(1852)建立。
日蓮上人は上行菩薩の権現とする考えがあり、それゆえ上行菩薩を祀る。
法華経では上行菩薩など四菩薩は大地より湧出した本化地湧の菩薩と云う。本地とはこの本化地湧に由来するのであろうか。
2010/05/29撮影:
身延山本地堂11 同 12 同 13
同 内部1 同 内部2
2008/01/04追加:□「身延山図経」寛保元(1741)より
身延山図経般若薹:祖師堂裏手にある、二重楼閣に相輪を載せる、扁額に本地閣とある。
※この絵は本地堂を描いたものと推定される。但し本地堂の沿革など不詳。
※本地塔とも記録され、また相輪を載せた絵図が残り、これ等から判断すると本地塔はニ層塔の形式であったと推測される。
2009/08/20追加:
正徳2年(1712)33世日亨代、祖師堂後方上手に本地塔(堂、また上行堂)を新建立。
(文政年中の火災で焼失と思われる。)
嘉永2年(1849)66世日薪代、本地塔(2間四方)五重塔(3間四方12丈3尺)再建と云う。
2008/01/04追加:□「身延山絵図」宝暦(1751-1764)復刊 より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前出
身延山絵図宝暦(全図)
身延山絵図宝暦(伽藍地):祖師堂裏手に二重の楼閣に相輪を載せた形式で本地堂とある。
※宝永復刊の図には、本地堂は描かれていない。
◆而實不滅塔:沿革など全く不詳。
2008/01/04追加:□「身延山図経」寛保元(1741)より
身延山図経而實不滅塔:篋塔もしくは宝塔の形式と思われる堂宇が描かれる。
2008/01/04追加:□「身延山絵図」宝暦(1751-1764)復刊 より・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前出
身延山絵図宝暦(全図)
身延山絵図宝暦(伽藍地):伽藍地の東端近くに御宝蔵があり、この宝蔵が而實不滅塔と推定される。
※宝永復刊の図には、篋塔もしくは宝塔の形式ではなく、宝形の一重土蔵の形式で宝蔵とある。
◆駿河奥津附近の塔婆:
2008/01/04追加:□「身延山図経」寛保元(1741)より
身延山図経奥津附近:三重塔と推定される塔婆が描かれる。
この塔婆については、全く不明であるが、以下とも推測される。(乞う、ご教示)
興津清見寺の利生塔の興亡は全く不明で、見当違いの恐れはあるが、以下と推測。
富士川を渡り、岩淵に至る。富士川西岸から分岐する身延道が松野(次の図に描画されている)の東を通り北方へ向かう。
さらに、東海道が蒲原から奥津に入り、奥津から別の見延道が分岐し完原(次の図に描画されている)を経由して北方へ向かう。
(※完原とは駿河国庵原郡宍原と解釈される。)
その奥津背後(北か西方向)に三重塔がある。
奥津からの見延道の分岐は完原(次の図に描画されている)を経由しているため、この分岐は奥津清見寺の西南にあると考えられる。
※一般的には奥津から分岐する身延道は奥津中町(清見寺の東北・ここには題目石が残存)から分岐するようであるが、
完原(駿河国庵原郡宍原)経由ということであれば、庵原川附近(清見寺の西南)から分岐すると思われる。
以上の位置関係から、この三重塔は、奥津清見寺塔婆と推定される。(と云うより、奥津に塔婆のある寺院は寡聞にして知らず。)
参考:
「東海道名所記」の清見寺:万治3年(1660)刊行
★身 延 山 伽 藍
2010/05/28追加:「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
◇身延山現伽藍図:身延山の現在の本堂周囲の伽藍配置図
・・・・前出
○身延山諸堂:2004/08/01撮影;
身延山本堂・祖師堂:
関東近世風建築の典型堂宇と思われる。本堂は昭和60年、祖師堂は明治14年再建。
身延山祖師堂01(2011/05/02追加)
:新義真言や身延派に限らず大寺の流行佛の堂宇は、このような悪趣味な形態を採る傾向がある。
身延山御真骨堂・拝殿:拝殿も上記と同様な建築である。
:なお御真骨堂には精緻かつ善美な五重塔があるという。その中央に水晶容器が置かれ日蓮上人の御真骨を収めるという。
御真骨堂は明治14年建立。
近世の建築としては辛うじて以下が残る。
総門:寛文5年(1665)建立、法界堂:小宇、御草庵の古材を用いて建立と云う、八幡宮:慶長2年(1598)建立・鞘堂内、
丈六堂:寛永20年(1643)建立、鬼子母神堂:寛文2年(1662)建立
2010/05/29撮影:
身延山三門
身延山本堂
身延山祖師堂1
同
2
(以下2011/05/02追加)
身延山祖師堂02 身延山祖師堂03 身延山祖師堂04 身延山祖師堂05 身延山祖師堂06
※明治8年身延山大火、明治14年身延山祖師堂再興。
再建に当り、身延75世日鑑は比企ヶ谷妙本寺に懇請し、雑司ヶ谷感應寺から引き取っていた木材を譲り受け祖師堂を再建と云う。
その折、木材は由比ヶ浜から海路波木井川へ運搬されたと云う記録が比企谷妙本寺に残ると云う。 →雑司ヶ谷鼠山感應寺
(以上2011/05/02追加)
身延山御真骨堂 同 拝殿
身延山大鐘楼 身延山甘露門
身延山仏殿:左右に納牌堂(二層堂)2基を配する。
身延山大客殿 身延山法喜堂
身延山八幡大菩薩:鞘堂に収まり内部を窺うことは不可。身延山での古堂に属する。僧形八幡大菩薩像を安置。
身延山十如坊鬼子母神:山之上十如坊が鬼子母神堂を守る。
身延山日筵上人廟:隆源院日筵上人。慶長14年京都の商家に生まれる。紀伊養珠寺日護上人のもとで出家、
小西檀林11世化主、玉沢19世、京都妙顕寺17世、身延27世となる。後年は京都紫野に隠棲、秋田藩に流罪・秋田安楽寺で遷化。
なお紫竹常徳寺の項を参照。
身延山釈迦堂:丈六堂、一丈六尺の釈尊像(養珠院寄進・中正院日護上人が彫刻)を安置。
身延山大光坊三光堂:寛文5年(1665)甲府宰相徳川重郷の建立。三光天子(大日天子、大月天子、大明星天子)を祀る。
身延山大光坊大黒堂:寛文2年(1662)建立し、大黒天は日蓮上人の自刻と伝える。
身延山御草庵跡 身延山法界堂 日蓮上人廟所
身延山篤信廟:右奥養珠院、右手前久昌院、手前中央寿光院、左端浄光院の各供養塔
身延山養珠院供養塔 →養珠院略歴は紀伊海禪院を参照
養珠院・久昌院供養塔:手前久昌院供養塔。 →久昌寺を参照
2007/06/06追加:
「日蓮宗各本山名所図絵」石倉重継、博文館、明治36年(1903)
◇身延山久遠寺真景:明治13年以降、明治36年までの景観と推定
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・前出
1)五重塔は「五重塔跡」と上ノ山に表示
2)祖師堂(明治13年再興、本堂は明治8年焼失のままと思われる)前西に多宝塔があるが、現存(伊予松平氏)多宝塔と推定。
※なお、上図には以下の坊舎がある。
東谷:逕泉院、蓮盛院、智寂坊、瑞場坊、武井坊、延壽坊、大林坊、大乗坊、大善坊、覚林坊
南谷:窪ノ坊、志摩坊、岸ノ坊、積蒼坊、山ノ坊、花ノ坊
中谷:山本坊、松井坊、壽量院、円薹?坊
西谷:竹ノ坊、上妙坊、法雲坊、妙福坊、北ノ坊、林蔵坊、妙石坊、麓房、清水房、定林房、本行房
山ノ上:十如坊、円光庵、法久庵、大光坊
七面山道:松樹庵、感井坊、十万部寺、宗説坊
七面山:神力坊、肝心坊↓、中適坊↓、晴雲坊、安住坊↓、神通坊
◇子院の興廃:
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文字色茶:現存坊舎、◎:宿院20ヶ坊跡、○:行司坊の跡(28)、×:祈祷堂結衆36坊跡、●:六老僧坊跡 |
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◆ |
南 谷 |
計32坊 |
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円柳坊 |
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× |
実道坊 |
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盍簪坊 |
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普賢坊 |
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能生坊 |
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敬神坊 |
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文殊坊 |
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○ |
山之坊 |
|
○ |
東之坊 |
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|
積善坊 |
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× |
観松坊 |
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慶成坊 |
|
× |
浄蓮坊 |
|
× |
花之坊 |
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教泉坊 |
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忠光坊 |
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玉蔵坊 |
|
|
蓮秀坊 |
|
◎● |
林蔵坊 |
今は西谷 |
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隅之坊 |
日意開山 |
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了雲坊 |
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○ |
下之坊 |
|
◎ |
岸之坊 |
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|
仁宗庵 |
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秀悦坊 |
養泉坊 |
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◎ |
高雲坊 |
蓮妙/光玄 |
◎ |
志摩坊 |
|
◎● |
窪之坊 |
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|
知恩坊 |
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|
妙仙坊 |
樹下庵 |
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教円坊 |
|
× |
常栄坊 |
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◆ |
東 谷 |
計29坊1堂 |
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信行坊 |
心達坊 |
○ |
大善坊 |
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◎ |
覚林坊 |
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○ |
大乗坊 |
|
|
大林坊 |
東蔵/禅定 |
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|
逕泉坊 |
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大縁坊 |
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浄隆坊 |
|
|
了円坊 |
|
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妙音坊 |
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証明坊 |
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|
大円坊 |
|
|
林行坊 |
|
× |
忍脱坊 |
|
|
成道坊 |
|
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|
延壽坊 |
|
|
了慶坊 |
|
× |
願成坊 |
|
○ |
杉之坊 |
|
× |
春窓坊 |
|
|
○ |
福泉坊 |
十行/南林 |
|
南延坊 |
|
○ |
蓮盛坊 |
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|
学立坊 |
|
○ |
真浄坊 |
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|
|
智寂坊 |
本住 |
◎ |
端場坊 |
|
◎ |
武井坊 |
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|
善綱坊 |
隆源/覚樹 |
|
妙法堂 |
裏門 |
|
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◆ |
中 谷 |
計6坊 |
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|
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|
|
|
|
|
|
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◎● |
山本坊 |
|
◎ |
松井坊 |
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○ |
円台坊 |
|
× |
仙台坊 |
|
|
松壽庵 |
|
|
○ |
慶林坊 |
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|
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|
|
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|
|
◆ |
西 谷 |
計67坊1堂、檀林 |
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|
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|
|
|
|
◎● |
竹之坊 |
|
|
常唱堂 |
|
|
恵善坊 |
|
|
一円坊 |
庵 |
|
本応坊 |
|
|
◎● |
南之坊 |
|
× |
清閑坊 |
|
◎ |
法雲坊 |
|
|
仙応坊 |
|
× |
松玄坊 |
|
|
|
正運坊 |
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|
凉池坊 |
|
× |
本学坊 |
|
|
常経坊 |
|
|
浄心坊 |
|
|
|
感応坊 |
|
× |
真善坊 |
|
× |
宗幸坊 |
|
◎ |
定林坊 |
|
|
寂光坊 |
|
|
|
至言坊 |
|
|
樋沢坊 |
|
◎ |
清兮坊 |
|
|
了源坊 |
信了 |
|
上妙坊 |
|
|
|
渋谷坊 |
|
|
円応坊 |
|
|
円正坊 |
|
|
吉祥坊 |
|
|
福聚坊 |
|
|
|
玉泉坊 |
|
× |
芳春坊 |
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|
妙福坊 |
|
|
浄安坊 |
|
|
了閑坊 |
|
|
|
長松坊 |
|
|
長壽坊 |
|
|
清輝坊 |
|
× |
中山坊 |
|
|
宗林坊 |
|
|
× |
宗賢坊 |
|
× |
見塔坊 |
|
|
妙石坊 |
|
|
一行坊 |
|
|
大運坊 |
|
|
|
大心坊 |
|
× |
仁浄坊 |
|
|
松林坊 |
|
○ |
南向坊 |
|
◎ |
北之坊 |
|
|
|
円教坊 |
日意開山 |
○ |
戒善坊 |
|
|
中之坊 |
|
○ |
佐倉坊 |
|
× |
妙善坊 |
|
|
○ |
蓮信坊 |
|
|
光精坊 |
|
◎ |
清水坊 |
|
◎ |
麓 坊 |
|
|
本種坊 |
|
|
○ |
西之坊 |
|
|
通感坊 |
|
|
寂照坊 |
|
◎ |
本行坊 |
|
|
常住坊 |
|
|
|
円理坊 |
|
|
実円坊 |
|
|
大蓮坊 |
|
|
善学院 |
檀林 |
|
学寮 |
|
|
|
◆ |
上ノ山 |
計17坊、奥之院 |
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× |
長安坊 |
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十如坊 |
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本妙坊 |
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× |
円光坊 |
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顕盛坊 |
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× |
法薗坊 |
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× |
瑞光坊 |
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芳心坊 |
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× |
清玉坊 |
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× |
慶雲坊 |
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× |
貞俊坊 |
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× |
妙応坊 |
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春光坊 |
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観道坊 |
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大光坊 |
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法久庵 |
常唱堂 |
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法明坊 |
水屋 |
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孝東院 |
奥の院 |
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◆ |
七面山道 |
10坊 |
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松樹庵 |
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感井坊 |
交接/妙泉 |
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十万部寺 |
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宗説坊 |
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神力坊 |
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神通坊 |
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蓮花坊↓ |
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肝心坊↓ |
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中適坊↓ |
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妙福寺 |
赤沢 |
2010/05/29撮影:
2010/06/17情報追加:「身延町史」身延町史編集委員会、見延町役場、昭和45年 より
東谷端場坊:四条金吾頼基(収玄院日頼上人)草庵の旧跡
、明治7年真浄坊を合併
東谷大林坊1 東谷大林坊2:正和元年(1312)中老日源上人開創。明治初年西谷至言坊、明治7年感応坊と合併
明治初年西谷至言坊を、同7年感応坊を合併
東谷大乗坊:開基は日定上人(不詳)。
日脱上人の像を安置。
東谷覚林坊:第11世行学院日朝上人開基
、明治7年(円応坊、信行坊を合併
東谷覚林坊日朝上人廟 東谷覚林坊日朝堂
東谷蓮盛坊:元和2年(1616)元南谷に創立、文政2年(1818)普門院日憲上人、祈祷所再興のために、
この地に在った積善坊を南谷へ移転建立せしめ、その跡へ蓮盛坊を移し、摩利支天を奉祀す。明治7年南延坊を合併
東谷大善坊:開基は大善院日辺上人(長禄2年・1458遷化)
南谷窪ノ坊:六老僧日持上人開基
、明治7年下之坊を合併
南谷志摩坊:中老僧日伝上人開基
、明治7年秀悦坊を合併
南谷岸ノ坊:宝徳2年(1450)日親上人開基
南谷花之坊:開基は蓮華院日応上人、創立は長録元年(1457)、明治7年普賢坊を合併
南谷積善坊:今は元町にある。開基は本山13世宝聚院日伝上人、創立は天文17年(1548)、初め東谷に在り、
文政2年(1819)南谷に移転。明治7年文珠坊を合併、南谷より元町に移転
南谷山之坊:元亀3年(1572)創立。開基は日徳上人。明治7年円柳坊を合併、明治10年東之坊を合併
西谷竹之坊1 西谷竹之坊2:六老僧日朗上人開基
、創立は弘安3年(1280)
西谷北ノ坊1 西谷北ノ坊2:日円上人開基
、開創は永仁5年(1297)、明治7年南向坊・松林坊・一行坊を合併
西谷林蔵坊:六老僧日興上人開基
、創立は正慶元年(1332)。元は醍醐谷に在ったが、明治初年西谷に移転、
明治7年隈之坊を合併、明治10年円教坊を合併。別途、円教坊は明治7年西谷の戒善坊・慶林坊・佐倉坊を合併。
※開創は正應元年(1288)ともいう。 ※判明した末寺として駿河大宮常泉寺<駿河の諸寺中>がある。
西谷清水坊1 西谷清水坊2:日像上人開基
、天保年中円里坊を、明治7年光精坊を合併
西谷樋澤坊1 西谷樋澤坊2:六老僧日向上人開基
慶応元年(1865)樋沢坊焼失、法雲坊(身延山19世日道上人閑居所)に合併、明治43年法雲坊を改め樋沢坊とする。
昭和14年現在地へ移転、明治7年了源坊を合併、後円坊・玉泉坊・芳春坊を合併。法雲坊も樋沢坊へ合併。
西谷定林坊:15世日叙上人開基
慶応元年(1865)類焼、西谷本行坊下の通感坊の地に移転。明治7年通閑坊を合併、明治8年の大火・焼失、現在地に移転。
西谷本行坊1 西谷本行坊2:比企大学三郎能本(京の儒教者)の開基、帝釈天を祀る。
明治初年本種坊・西之坊・常住坊・大蓮坊等を合併
西谷南之坊:六老僧日昭上人の開基
、正安2年(1300)創建、明治7年上(浄)妙坊を合併
西谷恵善坊;元々は三門の供御所としての別当であったが、寛政10年恵善坊と改号する。
西谷妙石坊:開基は学禅院日逢上人。七面大明神示現の処と伝える。
西谷智寂坊:開基は身延山32世智寂院日省上人、創立宝永3年(1706)、元東谷に在ったが、昭和7年現地に移転、妙音坊を合併
西谷武井坊:開基は正行院日勢上人、創立延享2年(1745)、元東谷にあったが昭和11年回禄後現地に移転。明治7年杉之坊、善を合併
西谷麓坊:開基は本山12世円教院日意上人、明治7年蓮信坊を合併
西谷清兮寺:樋澤坊(日向上人開基)は慶応元年の大火で焼失、明治10年法雲坊に合併、明治18年身延74世日鑑上人が
現地に当寺を建立。日鑑上人は堀の内妙法寺院代であり、寺2世が堀の内出身という関係から、当寺は堀の内妙法寺の配下にある。
上ノ山延寿坊: ○「身延町誌」身延町誌編集委員会、昭和45年 より 10 延寿坊 上の山
開基 本山第15世日叙上人。穴山梅雪が息女「延寿院妙正日厳大姉」菩提のため天正4年(1576)創立した。疱瘡(ほうそう)の守護神として信仰される。昭和14年(1939)6月、円光庵と合併して現在地に移転した。円光庵は永見家菩提所として本山29世日筵上人代創立されたものである。
○「身延町観光協会」サイト より 延寿坊 天正2年(1575)15世日叙が穴山梅雪の息女延寿院殿の菩提のために建立。
後に福泉坊と合併し、さらに昭和15年に上の山円光庵と合併。
信玄は日叙に、川中島の合戦で勝利をおさめたのは身延山のお陰であったという感謝の手紙を出している。日叙と信玄は信仰を介した交流があった。
2020/04/15追加:
穴山梅雪の息女「延寿院妙正日厳」を神格化したのであろう「妙正大善神」が駿河村松本能寺に祀られ、疱瘡の神・子供の守護神として祀られる。 → 駿河村松本能寺<駿河清水附近の諸寺中>
中谷松井坊:開基は日長上人(波木井氏第3代長氏)。創立は貞治3年(1364)、妙見大菩薩を祀る。明治7年西谷寂光坊を合併
中谷円台坊:開基は中老僧日源上人、創立は正和元年(1312)。明治7年仙台坊を合併
中谷山本坊:開基は六老僧日頂上人、創立は弘安6年(1283)。明治初年に妙仙坊を合併
梅平鏡円坊:本山5世日台上人開基、日台上人は波木井長氏の2男、実長の館邸を改め、鏡円坊と称する、初祖は実長とする
先年長円坊を合併
塩沢了円坊:了円院日清大徳の建立、詳細不明、日清大徳は文政6年(1823)遷化。
追分感井坊;身延山31世日脱上人代創立、帝釈天王を祀る
身延山西谷檀林跡1:現在は信行道場(身延山の僧侶となる行と学の修練道場)となる。
身延山西谷檀林跡2:長い石階が続き、その左右には学寮跡と思われる地形を残す。
身延山西谷檀林跡3
→近世関東檀林・京都檀林
2010/06/17追加:
身延山本師堂:「日蓮宗の本山めぐり」より転載:西谷檀林講堂の遺構
明治8年、西谷檀林講堂を、本山大火の応急復旧のため、今の仏殿納牌堂の地に移築。間口18.18m、奥行14.54m。
昭和3年、納牌堂建設のため鶯谷のほとりに移され、昭和13年現在の地に移転。
昭和13年、一大改修、堂内の規模旧観を一新、更に昭和14年、別に荘厳の奥殿が新築される。
※以上から大規模改修があったとはいえ、西谷檀林講堂を偲ばせる遺構の写真であろう。
昭和54年2月久遠寺本堂建設に伴い解体される。
※残念ながら、西谷檀林の遺構は消滅したと云うことであろう。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
昭和15年、寺中(所在地不詳)玄妙庵移転、文殊山本国寺として宮城県仙台市青葉区八幡6−13−26に現存、昭和10年設立の妙昌講が、昭和15年玄妙庵の寺号を移転し文殊山本国寺と改称。
大正8年、寺中(所在地不詳)了傳坊移転、顕正山妙傳寺tpして岡山県新見市哲西町大竹206 に現存。
大正2年、寺中七面山参道中適坊移転、一乗山妙繁寺として山口県阿武郡阿東町大字嘉年下3238−1に現存、また七面山表参道に坊舎現存。
大正5年、寺中七面山参道安住坊移転、門司山本正寺として福岡県北九州市門司区谷町1−9−7に現存、明治38年創立の教会が、大正5年8月安住坊の寺号を移転し門司山本正寺と改称。また七面山裏参道に坊舎現存。
昭和9年、寺中七面山参道蓮華坊移転、妙見山徳栄寺として福岡県福岡市早良区大字野芥2に現存、
妙安寺教会が、昭和9年蓮華坊の寺号を移転し妙見山徳栄寺と改称。
大正2年、寺中七面山参道肝心坊移転、慈雲山長遠寺として長崎県平戸市西中山町493に現存、また七面山表参道に坊舎現存。
2013/11/08追加:
「七面大明神縁起」岩間湛良ほか3名、七面大明神奉賛会、昭和35年 より
身延山参詣の栞:昭和26年描画、向かって左が七面山、表参道中適坊・肝心坊の位置が分かる。但し裏参道の坊舎は描かれていない。
表参道の神力坊より、13丁目の肝心坊まで11丁。右に本堂と庫裏があり、左に休息所がある。お萬の方が三度参詣の間、中適坊・晴雲坊とともに休息所として建てられたという。宝暦年中に開創されたものと云う。
肝心坊よtり、23丁目の中適坊まで10丁。中の茶屋ともいう。
裏参道を下れば、明浄坊があり、次は19丁目の安住坊で明浄坊より11丁である。
2023/09/02追加:
◆身延46世妙乗院日唱復暦事件
◆事の発端
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 に次の記事がある。 三宅島
◇西谷檀林日遵の墓:
身延46世(後に除歴)妙乗院日唱は寺社奉行に日遵が不受不施僧であると提訴、対論となり、その結果日遵は三宅島へ流罪とされ、日唱は入牢後牢死する。
西谷檀林日遵の墓;この写真掲載とともに上記の文章がある。但し、墓碑の判読はほぼ不能で良く分からない。
※文章は原著のママであるが、提訴した日唱が入牢し牢死したという意味が不明。
※身延46世(後に除歴)妙乗院日唱とは不詳、日遵の院号また日遵が不受不施僧などとの事実関係なども不明。
※西谷檀林日遵とは中村・玉造・松崎檀林の不受不施僧・長遠院日遵とは全く別人である。
※「御宝物で知る 身延山の歴史」2008では
除歴・46世妙乗院日唱 入山安永3年(1774)在職4年 遷化安永6年(1777)5月29日 日暮里善性寺18世 とある。
※2016年妙乗院日唱身延46世に復暦する。
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◆次の論文で日唱の除歴についての事情が判明したので、ほぼ全文を転載する。
○「日唱の身延除歴事件について」林是晋(「棲神:研究紀要 49号」身延山短期大学学会、1977 所収) より
妙乗院日唱は字を守慎と号し、生年月日は不詳、18世紀初頭に下総飯高檀林の近くに生まれ、幼少より飯高檀林にて学び、明和元年(1764)飯高檀林の128代の文句能化となる。
安永3年(1774)五月十二日に日暮里善性寺18世より、身延46世に晋む。
安永5年七面山の堂宇悉く焼失し、参寵者が多数焼死する災厄に端を発した騒動により、西谷檀林方と争い、その結果、身延の歴世を除かれて、今に屈辱の除歴唱師と称されている。
今日まで復暦がされていないのは、日唱の事件も関して、日唱方の記録がまったくなく、史料は西谷檀林方のものに限られ、事の性質上、当然自分達をもって正しいとする叙述の仕方であるから、その内容は一方にぱかりに偏し、それに依る限り結局、事の真相が把握できないということであろう。
さて、
いままで除歴日唱に言及したのは、僅かに『身延貫主日唱聖人の不受不施事件』岡教逮(『大崎学報』第26号所収)があるが、その結語は
「実に然り(日唱)聖人は当時所謂御禁制の不受不施主義者には非ず、当時延山の中古天台的雑乱祭祀に傾き賽財の多きを以て祖山の為と思考し一宗門の祖山たる事に於て忘却せられ居るを警覚せしに外ならず。・・・偶々七面社炎上の災厄に遇ふて一山の輿望を失し、感情の衝突より終に不受不施邪流の汚名を負ひ、拘くも身は祖山の貫主一宗の棟梁にして終に獄裡の露と化す。」とあるが、おそらくその通りであろう。
「安永六年三月十九日身延西谷檀林某於武江旅舎為鎮守尊神威光増益慎而誌之者也」と奥書された『倍増威神録』は事件の発生を次のように述べている。
「安永五年十月十一日夜亥の刻、身延七面山一時に焼亡し通夜之輩焼死せる者多し。(中略)隣国の諸人驚騒して山に登るに往来せる者蟻の如し。
同行の貴賎親り死骸を見て悲歎の声雷の如し。
然も三門において莚張りの狂言鼓笛之音は未だ止まず。児童の舞楽・法要・説法恒の如く執行す。
剰へ焼亡の回向なく、喜で会式の障碍なしと言う。
公儀の制誠を恐れず、世上の機嫌を伸らず、山主の心地人皆疑へり。十四日に至って化主首座を招て曰く、山主余に対して宣わく、七面の焼亡は日唱が不徳にあらず、全く邪神なるが故なりと。余聴て驚心す、汝等如何。吾等甚だ驚く。
是において衆議一統して其の義を聴聞せんことを欲し、しばしば院内に登りて、奏を役僧に求む。
然りと錐も事を他に廻らせて一どもこれを告げず、後には偽って山主無言の病床に臥せりと云う。
是の如くする時の間十月十六日より十一月二日に至る。
然るに翌日三日役者、学徒を招いて云く、今朝公処に訴うと云う。瞳是れ何と云うことか、一ども対面せず、衆義判に及ばず、推て公処に訴う、未だその例を聞かず。責るにその理をもってするも唖の如くにしてこたへざれぱいかんともすることなし、謹んで公裁を待つの象。(以下略)」
これによれば、七面山焼亡の混乱について、日唱は非を認めず、かえって、日唱から公儀に訴えるという。
即ち七面山焼失の災厄に対する日唱のとった態度主張が西谷檀林方の怒りをかい、それが騒動の発端となっていつたことが窺われるのである。
安永六年四月二十七日に奉行所より身延山貫主への召状が発せられ、翌二十八日には今度は西谷植林の上座五人が連署して、日唱は不受不施の疑いある旨を寺社奉行所へ訴え出る。西谷檀林側が虐訴した訳である。
その要旨は以下のようである。 一 日唱は七面明神を邪神と称する。
一 七面宮焼失し、参詣者数十人が焼死したが、日唱は悲しむ様子もなくいつものように行事も勤め、かえって焼失を悦ぶかに見える。
一 我等に対面せず、自ら御公儀に訴えることは無法・無慈悲の致し方である。 一 日唱は入山已来三年の間、一向修復もしない。
一 七面は日遠が諂うて養珠院を祭るという。
一 七面明神を曼茶羅に勧請せず、たとえ勧請しても最極下座に細字にのせるだけである。 一 曼茶羅の書様が異なる。
(1)身延歴代はいずれも「日向日進等歴代聖人」と記するのに、日唱は「歴代如法弘経先徳」と記して相違する。
これは歴代の中に如法(=不受不施)と不如法(=受不施)を簡(えら)ぶ考えと見える。
(2)一幅の本尊に「南無日向日進日叡日朝聖人」と認める。
これは亀鏡録(日奥著)に、特に日叡・日朝を高く評価するに依て、書き入れたものに違いない。
以上の訴状を奉行所へ提出する。
これより先に奉行所より発せられていた召状が身延へ届き、日唱並に随身達は出発して、五月四日に江戸に到着する。
直ちに出頭命令があり、翌五日から六日にわたって、日唱方と化主日遵をはじめとする西谷檀林方とが奉行所において対決する。
西谷檀林上座五老博瑞の手になる『邪正対決録』によれば、 日唱弁明するに、
一 日唱は飯高修学者にして不受悲田の徒に非ず。 一 七面社焼失は日唱これを悲しむ。
一 日唱入山已来金百両を費やして堂社を修復し、これからも修復を加えんとしている。
一 曼茶羅に日叡・日朝を載せたのは不受不施なるが故に非ず、高徳なる故である。
などと弁じたが、時に曼茶羅書式の異例については弁解に苦しみ、遂に口を閉ざしてしまったとある。
が、『邪正対決録』はまったく西谷植林側にたっての記述であり、正確なところは知り得ない。
もともとはまず最初に日唱の方から訴えたはずなのに、『邪正対決録』によれば、はじめから一方的に日唱ばかりが吟味されているのである。
しかし結果から承れば、このような経過の中で、日唱は禁制の不受不施派として、断罪される。
そこには当時の幕府行政のあり方も深くかかわっていたことであろう。
あるいは本末制度の強化からその抑制へと、幕府の姿勢が動いていったことのひとつの顕れでもあろうか。
とにかくまだ審査中のその月の二十九日、心労・落胆の上からか日唱は牢死してしまったのである。
明けて翌安永七年正月二十七日、身延山関係者連名のもとに、寺社奉行所へ次のような請証文が提出された。 差上申一札之事
身延山西谷檀林所化之者共去申十月中大勢申合本院江押寄貫首久遠寺日唱江難題申掛結衆一同及不法候趣久遠
寺代遠光院井弟子惣代本高院御訴申上右御吟味中日唱法義疑敷由檀林上座之者共申立候付日唱御呼出之上是亦
被遂御糺明候上銘盈左之通被仰付候
一脇座満山之内五拾六人之者共儀諸堂之普請等閑いたし置貫首其取計如何之旨山之坊東之坊発言いたし普請之願
書指出貫首尤聞請有之候所玄浄院二而寄合観了院亨盛院誠寿院等発言二而再願書指出し老僧結衆江任候旨貫首申
聞既四拾九人者請印いたし候所不致得心強而相願候段山之坊東之坊玄浄院観了院輪行院亨盛院誠寿院最初発言
いたし候所之儀不埒至極付七人共逼塞被仰付其外者致同意候段一同不埒付急度御叱被置候
一順妙院日運定林坊日稽窪之坊日暹儀貫首日唱法意不受悲田相当候処其心付無之且脇座満山並再往差出候普請願
書取次貫主之叱厳敷候迎自分者禁足いたし候段我侭成いたし方貫主江対し不敬之至其上老僧方利害心入等申聞
候節不都束成存寄之ヶ条を以難題ヶ間敷義申之等不届付三人共役義御取放し逼塞被仰付候
一檀林能化日遵義縦七面を邪神之由貫主申聞候共隠便承糺候欺又者法義拘不相済筋与心得候灸御訴申上御吟味可
受処一同意趣を尋貫主之挨拶可承旨上座五人江発言いたし大勢之所化を連日乾登山貫主之居間近く詰寄騒立候
始末徒党之頭取相当不届候付遠島被仰付候
ー泰学義忍潮瑞良向博瑞義縦七面を邪神之由貫主申聞候共隠便承糺候欺又此義拘不済義与心得候〈、御訴申上御吟
味可受処能化日遵差続中座已下申通大勢日々登山貫主之居間近く詰寄騒立候段不届付五人共中追放被仰付候 但御構場所俳個仕間敷旨被仰渡
一中座已下之者共義同様不届付銘々押込被仰付候
一老僧結衆弐十七人之者共義檀林能化上中座已下貫主江対し不審之義相尋候由而大勢騒立候〈、取鎮貫首平日之行
跡如何存候〈、触頭江も申談取計方も可有之処住持之居間江参り答を承り候段神妙無之いたし方不届至極二付弐十 七人共逼塞被仰付候
一久遠寺日唱義貫主致具階候上者宗門之正道を持一宗之僧俗を可致教化処諸堂之修復を等閑いたし置入山已来疑
を請不受悲田与人被指諸人疎帰依之輩無之故邪義弘侯者無之候得共致授与候曼茶羅之内七面明神を細く末座認
殊先年不受不施宗門を弘御仕置成候日奥万代亀鏡録記し致尊敬候身延山代々之内日叡日朝斗二世三世統世代を
飛越令勧請其上奇怪成義を認候も有之貫主代を之曼茶羅突合似寄候も無之剰七面参拝之節自筆之神号を掛拝し
候も宗義制法論之意叶ひ不受悲田相当異流無紛不届付存命候〈、遠島可被仰付処致病死候付其旨可存段被仰付候
一遠光院日寿義身分疑敷義相聞不申貫主日唱法意不受悲田相当候処其心附無之致随心役僧相勤罷有候段不埒付役 僧御取放被仰付候
一寿光院日理義同様不埒付院代弟子共取放被仰付候 一本高院日勝並二弟子附弟共義身分疑敷義相聞不レ申候得共銘を弟子附弟取放被仰付候
一自分方致禁足候高明院義者一件御吟味不相成已前病死仕候ニ付其旨可存段被仰渡候 一脇座満山之内四十七人之者共者無御構旨被仰渡候
一右之外御吟味付罷出候者共一同御構無御座且日唱方授与之曼茶羅御吟味中差上候分御取上相成候旨被仰渡候
間其旨相心得都而一件被仰渡候趣不罷出もの共江者其旨可申通段被仰渡候
右之通今日御内寄合於御列席被仰渡一同承知奉畏候ハ、若相背候重科可被仰付候価而御請証文差上申処如件 安永七成年正月廿七日
( 以下略)
これによれば、日唱が諸堂の普請に積極的でないということについても、以前から山内において、批判の声があがっていたようである。
要するに、日唱は不受不施邪流として死後重刑に処せられ、『身延山歴代略譜』に『日唱認ノ本尊授与之分麓坊不残取上火失致也、日遵日豊両尊師書改夫盈遣本尊』とあるように、身延貫主から除歴されたのである。
加えて、西谷檀林化主日遵は一山騒動・徒党の罪により三宅島へ遠島、その他の関係者もそれぞれに処罰されて事件は落着した。
以上が事の顛末であるが、当時江戸幕府は幕藩体制維持の為に、諸宗法度を制定して新義異義を禁じ、檀家制度を整えていた。
これは仏教をして外に向う力を失わしめ、ために各宗は発展を抑えられて形式化し、外に競争者がないために目が宗内に向けられて、その結果内証が起りやすくなっていた。
身延においてもしばしば後住問題等で紛糾する。 即ち 三十世日通寂後に遺状派と反対派が争い。
三十五世日寛寂後に松和田谷出身の滝谷妙成寺日皎と中台谷出身の仙台孝勝寺日潮が争い。
三十七世の座を廻っては城下谷の池上の抗議があり。 四十二世については松和田谷・中台谷と城下谷とが争っている。
このような飯高檀林の各谷における身延貫主職の争奪の過程を通して、四十二世以後は、松和田谷と中台谷の両谷から順次、学徳法臨次第に晋む例となり、これは明治期まで及んでいくのである。
日唱除歴事件の場合もやはりこの系譜に連なるものと推察される。が、確かな証拠があるわけではない。
日唱の後を襲った松和田谷出身の日遁が、日唱を歴世に数えて、自身を身延四十七世として本尊を認めているのに反して、その次の日唱と同じ中台谷出身である日豊が、日唱を除いて、自分もまた四十七世と本尊に自署していること。即ち日唱を除歴したのは日豊であること。日豊はまた盛んに七面山を復興していて、伝えられる日唱のとった態度とはあまりに対照的であること。
事件の際、日唱の随身役僧を勤めていた遠光院日寿は、安永八年六月に日豊が入山するとすぐに、「安永八己亥十一月円師堂修復付杉木三本伐取追放申付処不請依之当番役智門院出府阿部備中守江伺御吟味安永九庚子七月六日申渡」と、わずか杉木三本、それも円師堂修復のために伐取したであるにもかかわらず、あるいは本人が納得していないのに追放され、竹之坊を除歴されていること。
やはり日豊代の天明四年の、西谷檀林の記録には「修理集銭事件仕合故日唱一件料容捨」とあって、日唱一件料、即ち訴訟費用が容捨されている。これは恐らく誰か
が肩代りしたと思われ、それが可能で、また許されるのは時の身延山貫主=日豊と考えるのが、もっとも自然と思われること。等々から、数代前に谷の間における争いは一応の決着がつき秩序が確立していることから、それは中台谷の中における争いではなかったのかと考えられるのである。
また西谷檀林方は何故に、日唱の七面山に対してとった態度・主張に怒りを発したのであろうか。
西谷檀林においては、寛文年間から元禄年間にかけて鎮守社が建立せられている。鎮守社とは三光と妙見と七面の三社である。更に天明四年には七面天女像が納められている。かように七面明神は、西谷檀林における修行僧の信仰を集めていたのである。
また西谷檀林化主は、初代の日遠より十四世の日孝まではいずれも飯高または中村檀林出身者であるが、貞享四(1687)年に十五世となった日城以降、廃檀までの約二百年間の二百余人の化主は、ほとんど西谷檀林出身者で占められていくのである。しかるに本院の久遠寺は飯高檀林の出世寺であった。
また宝暦年間には、四十世日輪が西谷檀林所化に紅衣を着用することを禁じたことから、今日のいわゆる同盟休校事件も起こっている。
このような本院と西谷檀林との関係も、事件の背後に潜在していたものと考えられる。 三宅島へ流された日遵は、
(漢文省略) と記されているように、
天明七年八月二十一日、檀林と弟子とに見守られながらの十年間の流罪生活の後に、その生涯を終え、現在の山梨県北巨摩郡武川村山高の実相寺へ手厚く葬られた。
そして 文政十癸亥六月上旬本院江江戸表元能化日遵法血御尋依之三老慈弁四老智慶登院当日了玄院其法枢中頭有博瑞申下
山常福寺住僧法舎弟完序申而由比本光寺住時貫主舜師門弟有故此人出江申付六月十一日延出立由比江行廿二日江
戸着御月番善立寺尤添物本院井植林方出同閏六月廿一日赦面七月廿日着八月廿一日廿二日壱部宛満山出会寮頭迄七
条冗讃役所一飯供養満山是公儀出出江路用拾七両尤モ内七両者法縁中御箱納山高実相寺江公儀使僧中席泰瑞遣遵師
御廟所普請是公儀(以下略) とあるように、四十年後の文政十(1827)年閏六月二十一日に死後赦免せられたのである。
翌十一年四月二十六日には時の上座の人々も、西谷樋林化主の歴代にそれぞれ加歴せられた。
しかるに日唱は、不受不施邪流として、身延及び飯高等を除歴されたままで、今に至るのである。 2023/11/20追加:
妙乗院日唱は公儀によって不受不施僧として処断されかつ下総飯高付近の産であるが故であろうか、 玉造小玉妙見台墓地(→玉造妙見台墓地)に供養塔がある。
なお、日唱については不受不施僧ではないと評価するが、加川治良の「房総禁制宗門史」では、不受不施僧として評価する。
この評価(見解)は上記の「玉造妙見台墓地」中の日唱墓碑の項に記載する。
◆身延山末寺
2016/03/06追加:K.G氏情報
「日蓮宗寺院大鑑」昭和56年などの資料から判明している現存する末寺(孫末寺なども含む)数は次の通りである。
身延山 915寺、京都六条本圀寺 559寺、京都四条妙顕寺 320寺、中山法華経寺 316寺、池上本門寺 273寺、小湊誕生寺 174寺
●末寺の一端 ○下総飯高寺(飯高檀林) →下総飯高檀林
武蔵本覚真如山大教寺:目黒区青葉台4-7-7 →大乗院日達開山
○武蔵堀ノ内妙法寺 →江戸堀ノ内界隈中、本山(由緒寺院)とも称するが、末寺である。
○武蔵梅里本佛寺 → 同 上 ○武蔵堀ノ内宗延寺 → 同 上 ○武蔵堀ノ内福相寺 → 同 上
○武蔵弦巻常在寺:宝樹山と号す。世田谷区。 → 弦巻常在寺 武蔵中根立源寺 →碑文谷法華寺直下にあり。元々は碑文谷法華寺末、
元禄11年(1698)11月、不受不施悲田派禁制に依って、翌同12年1月25日身延山直末となる。
○相模片瀬龍口山常立寺 → 片瀬龍口寺(附片瀬本蓮寺多宝塔・片瀬龍口寺輪番八ヶ寺)
○鎌倉小町東身延本覚寺(妙厳山) → 鎌倉小町東身延本覚寺
甲斐鏡中条長遠寺 →甲斐の諸寺中
中条長遠寺末:功徳山蓮生寺(山梨県甲斐市玉川)
中条長遠寺末:○光明山妙善寺(山梨県南アルプス市飯野) →上に掲載。 中条長遠寺末:長慶山福王寺(山梨県南アルプス市飯野)
中条長遠寺末:弘經山法源寺(山梨県南アルプス市十五所)
中条長遠寺末:法忍山妙蓮寺(山梨県南アルプス市鏡中條) 中条長遠寺末:意光山常教寺(山梨県南アルプス市鏡中條)
中条長遠寺末:遠秀山泉能寺(山梨県南アルプス市藤田)
中条長遠寺末:法勝山妙遠寺(山梨県南アルプス市寺部) 中条長遠寺末:江原山法音寺(山梨県南アルプス市江原)
中条長遠寺末:金光山本乗寺(山梨県南アルプス市西南湖)
中条長遠寺末:泉光山妙善寺(山梨県南アルプス市和泉) 中条長遠寺末:恵命山蓮華寺(山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢)
中条長遠寺末:鬼島山妙現寺(山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢)
中条長遠寺末:修瑞山大蓮寺(山梨県韮崎市本町) 中条長遠寺末:法岸山淨蓮寺(山梨県韮崎市旭町上条南割)
中条長遠寺末:法榮山妙蓮寺(山梨県西八代郡市川三郷町落居)
中条長遠寺末:依田山常慶寺(山梨県西八代郡市川三郷町落居) 中条長遠寺末:淨味山蓮性寺(山梨県中央市臼井阿原西花輪)
中条長遠寺末:延壽山妙圓寺(長崎県平戸市宝亀町) ○信濃上田妙光寺:開基は不受不施僧碑文谷法華寺11世修禅院日進 →信濃上田妙光寺
○駿河大宮常泉寺 →駿河の諸寺中
○駿河興津理源寺 →駿河興津附近の諸寺中
○駿河興津耀海寺 → 同 上 耀海寺末:興津石塔寺寺 → 同 上 耀海寺末:本立寺
○駿河清水妙蓮寺 →駿河清水附近の諸寺中
清水妙蓮寺末:○駿河清水本要寺 → 同 上 ○駿河江尻妙泉寺 → 同 上
江尻妙泉寺末:○駿河江尻浄春寺 → 同 上
○遠江横須賀本源寺:開山は不受不施僧中山20世寂静院日賢 →遠江横須賀本源寺
遠江端場妙恩寺/橋羽妙恩寺 →(遠江の日蓮宗諸寺中)
○尾張一宮法蓮寺 →尾張の諸寺中
○尾張津島妙延寺 → 同 上
○山城深草墨染寺 → 日蓮宗檀林>求法院檀林中
○紀伊常住山感應寺 → 紀伊感應寺
紀伊感應寺末:本法山隆昌寺(紀の川市貴志川町長山)
紀伊感應寺末:萬部山本久寺(和歌山市毛見)
伯耆米子常住山感應寺 → 米子感應寺
米子感應寺末:日浄山吉祥寺(鳥取市細見)
米子感應寺末:龍感山浄蓮寺(米子市大崎)
米子感應寺末:妙覚山法輪寺(鳥取県東伯郡琴浦町八橋)
米子感應寺末:長隆山正法寺(鳥取県日野郡日野町黒坂) ○備中立田常昌院 →備中高松近辺諸寺中
備中高梁巨福寺(大覚大僧正開基):素南山と号す。 → 備中の日蓮宗諸寺中
○備中清音山大覚寺 → 備中軽部大覚寺
○備中羽島妙忍寺 →備中妹尾近辺の諸寺中
○讃岐高松廣昌寺 → 讃岐の諸寺中
○讃岐高松泉立寺 → 同 上
○土佐高知要法寺:神力山と号する。 → 土佐の日蓮宗諸寺中
高知要法寺末:大正山養運寺 広島県呉市西中央5-8-33 元要法寺塔頭養運坊
高知要法寺末:△吉祥山藤榮寺 高知県南国市後免町2-8-4 → 土佐の日蓮宗諸寺中
高知要法寺末:圓徳山淨眼寺 高知県安芸市西浜2254
高知要法寺末:△一乗山妙修寺 高知県高知市筆山町9 → 土佐の日蓮宗諸寺中
高知要法寺末:○泰照山寶蔵寺 高知県高知市北高見町231 → 土佐の日蓮宗諸寺中
高知要法寺末:△鷲頭山壽仙院 高知県高知市種崎中区610 → 土佐の日蓮宗諸寺中
高知要法寺末:華園山善法寺 高知県吾川郡仁淀川町土居甲1023 2016/03/06:高知妙國寺副住職が善法寺住職を兼務する。
2006年以前作成:2023/11/20更新:ホームページ、日本の塔婆
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