叡 昌 山 本 法 寺( 扁
額 ):京都小川頭本法寺
★概 要
叡昌山と号する。現在は日蓮宗一致派本山。本尊:十界大曼荼羅。
開基は久遠成院日親上人(応永14年(1407) - 長享2年(1488)。
日親上人は上総國の埴谷重継の子として生まれ、父の実弟である日英上人に師事し、中山法華経寺で修行する。
応永34年(1427)上洛、鎌倉・京都などで弘教す。
永享5年(1433)には中山門流の総導師として肥前松尾光勝寺へ赴任、厳格な折伏は檀越の千葉氏と対立する。
永享8年(1436)本法寺を綾小路東洞院に開創する。
(2018/07/03追加:「京都の社寺文化」) はじめ、日親は狩野叡昌の娘・理哲尼(りてつに)の外護によって四条高倉に弘通所を持っていた。
これが、叡昌山本法寺であり、やがて寺地は一条堀川に移される。
永享9年(1437)中山法華経寺日有を批判、中山門流から破門、再び上洛する。
日親上人は将軍足利義教への諌暁を度々行い、投獄される。(永享12年(1440)「立正治国論」を著す。)
上人は不受不施・専持法華・雑多信仰淘汰を主張し、折伏伝道を推し進め、本法寺は京洛不受不施の中心となる。
寛正元年(1460)日親上人は再度投獄、寺は破却される。
同4年三条万里小路に再建される。
この頃、本法寺などを中心として、不受不施の折伏伝道は京洛での主流的立場となる。 →久遠成院日親上人
天文5年(1536)、天文法華の法難で焼失、他の諸本山と同じく、堺に避難する。
天文11年洛内遷住が勅許され、一条堀川戻り橋に再建される。
※中世から近世初頭には、本阿弥家(本光、光悦,、妙秀など)一門の外護をうける。
天正18年(1590)秀吉の命(聚楽第造営)で現在地に移転。
文禄3年(1594)堺妙国寺日bは中山法華経寺住持を兼帯し、
以降京頂妙寺・京本法寺・堺妙国寺による中山法華経寺輪番制が始まる。(京両本山住持は日b弟子であることに由来する。)
豊臣・徳川政権下では権力を慮り、受不施の立場に転じ、徳川政権下の宗教政策に組み込まれる。
天明8年(1788)の大火に類焼(経蔵・宝蔵を除く)し、現伽藍はその後の再建による。
近世は紀州徳川家及び多くの檀信徒で維持されると云う。
★都名所図會
2003/8/3追加:
★伽藍図
本法寺伽藍図(江戸後期)・・板絵・奉納額と思われる。かなり剥落する。
叡昌山諸堂宇境内の図(明治20年)
本山本法寺境内並建坪大絵図(明治20年) ★本法寺多宝塔
寛政年中(1789-1801)再建塔。伽藍は天明8年(1788)の大火で類焼する。
本堂は寛政9年(1796)の再建と伝え、多宝塔もその頃の再建と推定される。 2018/07/02追加;
「京都の社寺文化」(財)京都府文化財保護基金、昭和46年 より 多宝塔東側正面に「北辰殿」の額を掲げる。(※現状はこの扁額はないと思われる。
初重前後(東西)のみ火頭窓付き。内部は釈迦多宝仏を安置、外陣は格天井。 相輪には層塔の如く水煙を用いる。
○1972年撮影:
本法寺多宝塔1(多宝塔と鬼子母神堂) 本法寺多宝塔
○2006/04/01追加:
多宝塔初重の垂下:
多宝塔初重北側屋根の垂下状況:積雪あるいは暴風あるいは重量物の落下などの物理的な力ではなくて、おそらく桔木の腐朽・劣化があり、そのため桔木が荷重により損傷したものと思われる。
山城本法寺多宝塔1 山城本法寺多宝塔2 山城本法寺多宝塔3 山城本法寺多宝塔4
山城本法寺多宝塔5 山城本法寺多宝塔6
○2006/09/17撮影:
2006/7〜2007/3まで、多宝塔・経蔵・鐘楼の修理保存工事予定。
本法寺多宝塔工事1:解体修理かどうかは不明であるが、工期や現状から見て、全面解体修理ではないと思われる。
本法寺多宝塔工事2:現在、勾欄のみ、解体されている様子である。
○2006/07/03撮影:
○2014/12/18撮影: 降雪
★現伽藍(本法寺伽藍概要図)
・写真:無印は2001/05/25撮影、▽印は2006/04/01撮影、△印は2010/12/02撮影、●印は2014/12/18撮影:降雪
・参考文献:2018/07/03追加:「京都の社寺文化」
境内は、他の大半の京洛諸山が荒廃するなかで、駐車場化を免れ、良く整備されている印象である。
仁王門
仁
王 門 ▽本法寺仁王門 ●本法寺仁王門3 ●本法寺仁王門4
本堂;
寛政9年(1796)の再建。桁行7間梁間5間、前後に向拝を付し東面し、東側正面に7間深さ2間分の広椽を付ける。 周囲に軒支えの柱を廻らす、単層、入母屋造、屋根本瓦葺、正面4間の向拝を付設する。
正面5間は蔀戸、その他は桟唐戸を吊込んだところが多い。
内部は左右(南北)入側1間通しを列柱でくぐり、この部分は棹縁天井、その内部5間4間は格天井でひろびろとし、方1間を円柱で区切り、須弥壇を築く。須弥壇上は厨子入り本尊曼荼羅、その前に開山日親坐像を安置、周りに釈迦多宝如来などを祀る。
本 堂 △本法寺本堂21 △本法寺本堂22
●本法寺本堂31 ●本法寺本堂32 ●本法寺本堂33 ●本法寺本堂34
●本法寺本堂35 ●本法寺本堂36 ●本堂本阿弥光悦筆扁額
開山堂:寛政8年(1795)の再建、南面し、凸字型平面で、前の礼堂に後の祀堂が連なる。
礼堂は身舎桁行3間(中央間は殊に広し)梁間4間、前に3間1間の広椽及び回椽、1間の向拝を付ける。そして礼堂は二簷、入母屋造、祀堂は寄木造である。
礼堂外装は正面両開桟唐戸、そのほかは舞良戸を用いる。内部は一室で、祠堂(内陣)正面は網入格子戸4枚建。祠堂は奥に約3間にわたり須弥壇を持ち、その上に3間1間の宮殿を置く。宮殿には日親像・舎利・随身佛を安置する。
開
山 堂 ▽本法寺開山堂 ●本法寺開山堂3
鬼子母神堂・摩利支天堂
妙見大菩薩:
摩利支天堂(写真摩利支天堂拝殿)の向かって右に北辰殿と称する小宇があり、ここに妙見大菩薩、鬼子母神、七面大天女、大黒天の4体が祀られる。
鬼子母神については、戦後の昭和時代には仁王門横に鬼子母神堂があり、現在この堂が退転しているならば(未確認)、この鬼子母神はかっての鬼子母神堂に祀られていた像とも思われる。
▽本法寺摩利支天堂 ▽本法寺北辰殿 ▽本法寺妙見菩薩1 ▽本法寺妙見菩薩2 ▽本法寺妙見菩薩3
●本法寺摩利支天堂
経蔵・鐘楼
●本法寺経蔵/鐘楼
本坊内に客殿(寛政6年建立)・庫裏・書院(寛政3年建立)・宝蔵等を有する。
なお客殿は近年方形の堂を乗せた形に改築?される。
△本法寺庫裏 △本法寺玄関 ●本法寺唐門
2006/09/17撮影:日親上人説法石
寺中:
境内は盛時に比べやや縮小されるも、
現塔頭は教蔵院(現在は堀川通を正面とする。つまり本寺に背を向けた形になる)・教行院・尊陽院の3院となる。
20数年前には裏
門 近 辺には崩れかけた頭塔の堂舎が存在
したような記憶があるが、記憶違いであろうか。
◎大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第二學區之部)
旧地5,677坪・今4,455坪
維新前31院・今3院 教行院・教蔵院・尊陽院
2010/12/19追加:
◎「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863)
叡昌山本法寺寺中:
蓮光院、興徳院、教蔵院、真蔵院、本養院、十乗院、尊陽院、興造院、執行院、大雲院、興雲院、玉樹院、寿量院、法昌院、玉昌院、信教院、教学院 17ヶ院
花洛の末寺として、鳥部山本壽寺(当ページの後段に掲載)、鷹峯光悦寺、伏見本教寺(洛陽十二支妙見・妙見信仰中)などがある。
2012/02/12追加:
◎寺中真蔵院は、明治初期綴喜郡の民家を買い取り、移転する。綴喜郡井手町多賀小字西北河原10に現存する。
2012/10/24追加:
◎寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
明治23年、眞蔵院移転、眞整山眞蔵院として京都府綴喜郡井手町大字多賀小字西北河原10に現存。
尊陽院
△本法寺寺中尊陽院
教行院
△本法寺寺中教行院
教蔵院
△本法寺寺中教蔵院:背後大屋根は本法寺本堂屋根
●寺中教蔵院2
2006/03/11追加:
★金剛宝塔
本法寺金剛宝塔:覚性作 本法寺蔵:「大日蓮展 立教開宗750年記念」東京国立博物館、日蓮聖人門下連合会
基壇および勾欄・四階付設の壇:木製黒漆塗、宝塔:銅製鍍金。
総高52.4cm、応安3年(1370)の作。
銘文:六角氏頼の造営、近江慈恩寺に施入、銅塔大工覚性作とある。
慶長2年の「金宝塔縁起」:文禄4年(1575)本法寺開基日親上人遺骨を鳥辺野墓地より取り出したところ、この宝塔が偶然洛中で売りに出されていた。檀衆が買い求め、日親上人遺骨を納めたと伝える。
◆2007/08/23追加:
「本法寺蔵金銅多宝塔」川勝政太郎(「史迹と美術 Vol.110」所収)
総高3尺3寸。宝塔は台座に安置される。
台座は1尺9寸5分角、高さ2寸9分、側面は3間に各格狭間に金銅の対向孔雀を打ち付ける黒漆塗製。
宝塔基壇の四方中央に宝珠柱付昇勾欄を付設し、縁には組勾欄を設ける。
上層組物は四手先斗栱を用いる。
・基壇上に塔身の当る周辺部分に以下の陰刻がある。
「施入 江州慈恩寺舎利塔 供養7月11日 応安3年戊庚6月2日大檀那当国太守雪江崇水 住持興算大徳 銅塔大工覚性」
※応安3年(1370)に雪江崇水(六角氏頼の法名)が近江慈恩寺に施入したものとされる。
・台座裏板に下記の修理銘がある。
「永禄2年(1559)3月6日 修補之 奉行衆老僧5人 吉祥陰、最勝陰、十輪院、地蔵院、大龍院」
※近江慈恩寺は現在の蒲生郡安土浄厳院の地にあり、文和年中(1353-)六角氏頼によって六角家菩提寺とされると云う。
しかし、後に織田信長が観音寺城に六角氏を倒し、この地の北東に安土城を造営する。造営の頃、六角氏菩提寺慈恩寺は破却され、この地には金勝山麓の阿弥陀寺が移
され、浄厳院が建立される。
以上の信長の慈恩寺破却によって、この宝塔が市中に流布したと推測される。
そしてこの宝塔が、慶長2年本法寺に帰する事情は、上掲の「金宝塔縁起」の通りであろう。
★本法寺末寺
常親山安立寺(台東区谷中)
石岡山妙福寺(台東区谷中)
○遠寿山本延寺(七尾市小島町) →能登の日蓮宗諸寺中
○頂滝山妙高寺(越前市本町) →越前武生の諸寺中
一翁山妙感寺(犬山市大字犬山字山寺)
龍運山妙海寺(犬山市大字犬山字東古券)
妙海寺末:一雨山久昌寺(各務原市前渡西町)
○大虚山光悦寺(京都市北区鷹峰光悦町) →京都の日蓮宗諸寺中
○妙秀寺(今なし):明治17年(1884)妙秀寺は光悦寺に合併され、現存しない。 →京都鷹峯
○鳥辺山本寿寺(京都市東山区五条橋東) →京都の日蓮宗諸寺中/鳥辺野本壽寺
真整山真蔵院(京都府綴喜郡井手町大字多賀小字西北河原)
○福昌山本教寺(京都市伏見区東大手町) →洛陽十二支妙見中本教寺
広宣山妙本寺(大阪府三島郡島本町広瀬)
○昌林山一乗寺(高槻市梶原) →摂津の日蓮宗諸寺中
一乗寺末:昌験山報恩寺(加西市玉丘町)
昌信山経王寺(高槻市塚原)
大法山広宣寺(高槻市氷室町)
本覚山正法寺(大阪市中央区中寺)
正法寺末:妙見山知足寺(茨木市宿久庄)
宝樹山宗林寺(大阪市天王寺区上本町)
遥宝山本成寺(堺市堺区寺地町東)
法光山本泉寺(神戸市灘区王子町)
○真如山久遠成寺(加東市掎鹿谷)・・・未見 →播磨の日蓮宗諸寺中
護法山浄光寺(加東市永福)
長照山妙典寺(井原市井原町)
○広昌山常国寺(福山市熊野町甲) → 備後山田常国寺
常国寺末:○四大山法縁寺(福山市熊野町乙) →備後山田の諸寺中
常国寺末:○薬王山寿量寺(福山市熊野町) → 同 上
常国寺末:○桃林山通安寺(福山市西桜町) →備後の日蓮宗諸寺中
常国寺末:○寿福山顕政寺(福山市鞆町後地) →備後鞆の浦中
常国寺末:城本山本照寺(尾道市御調町市)
常国寺末:立本山常行寺(観音寺市八幡町)
見塔山蓮瑞寺(福山市大門町野々浜)
○妙栄山寿徳寺(三原市西町) →備後西部の諸寺中
広布山本覚寺(広島市中区十日市町)
本覚寺末:広栄山本覚院(廿日市市林が原)
本覚寺末:広昌山法華寺(大竹市玖波)
松原山法華寺(萩市恵美須町)
月芳山松岳寺(徳島市伊賀町)
妙立山大法寺(松山市本町)
寿福山長久寺(松山市御幸)
長久寺末:大乗山正念寺(松山市神田町)
正念寺末:一乗山正法寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町久万)
小倉山光明照院(大洲市大洲)
普妙山法眼寺(大洲市新谷乙)
妙光山法眼院(八幡浜市保内町須川)
久成山本妙寺(西条市国安)
本妙寺末:松栄山妙本寺(西条市河原津)
顕本山上行寺(伊予市灘町)
武運山長久寺(大洲市長浜甲)
常賢山萬福寺(高知県安芸郡東洋町甲浦)
龍王山啓運寺(北九州市門司区柳町)
海宝山妙乗寺(北九州市小倉北区大門)
妙乗寺末:法照山普門寺(行橋市中央)
妙乗寺末:霜田寺(長崎県壱岐市郷ノ浦町渡良東触)
啓運山妙法寺(福岡市中央区唐人町)
松林山妙典寺(福岡市博多区中呉服町)
妙典寺末:発星山妙円寺(福津市西福間)
起雲山本興寺(福岡市博多区中呉服町)
本興寺末:徳永山宝寳寺(福岡市西区徳永)
松隣山本長寺(福岡市博多区中呉服町)
西昌山本岳寺(福岡市博多区上呉服町)
修昌山法性寺(福岡市博多区千代)
法性寺末:龍祥山法華寺(福岡県糟屋郡須惠町旅石)
弘行山宗玖寺(福岡市東区馬出)
石岡山妙福寺(佐賀市嘉瀬町大字荻野)
妙福寺末:天拝山妙圓寺(小城市三日月町金田)
妙福寺末:竹原山妙覚寺(佐賀市伊勢町)
妙福寺末:昌永山龍光寺(佐賀市久保田町徳万)
瑞相山本光寺(大分市上野丘)
昌光山妙瑞寺(大分市大字下宗方)
一乗山親蓮寺(大分市木上)
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