顕本法華宗(日什門流)総本山妙満寺/寺町二条妙満寺
★日什門流総本山妙満寺概要
妙塔山と号する。現在は顕本法華宗(日什門流)総本山。本尊:釈迦多宝佛。
永徳3年(1383)日什上人、天王寺屋通妙の外護を得、六条坊門室町に法華堂を建立したことに始まる。
元中6年(1389)六条坊門室町の法華堂を整備、妙満寺が成立する。
※日什上人は元天台僧で、のち改宗、真間弘法寺で勉学、中山法華経寺で日尊上人に師従・口伝を受ける。
永徳元年に上洛。京都・関東をしばしば往復し、本迹勝劣の義を再興すると同時に、折伏活動を続ける。
(足利義満への度重なる折伏は不成就。)
この門流は日仁上人・日実上人等に受け継がれ、室町幕府に対する命懸けの折伏をしばしば行ったという。
陸奥会津若松妙法寺と遠江見付玄妙寺とは三所一寺である。
→日什上人(後述)、会津若松妙法寺(後述)。
応永2年(1395)焼亡、綾小路東洞院に移転。
応仁の乱で焼亡、四条綾小路に移転復興。
天文5年<1536>天文法華の法難で焼かれ、堺(照光寺)に逃れる。
天文11年(1542)帰洛が勅許され、旧地に再建。
天正11年秀吉の命で寺町二条下るに移転。
慶長5年(1600)常楽院日経上人、妙満寺27世に補任、慶長13年日経上人、尾張熱田で浄土宗を論破、浄土宗の上訴により江戸城中での宗論に於いて、弟子5人とともに耳鼻削ぎの刑に処せられる。
(慶長法難)
→ 常楽院日経上人
江戸期には
檀林として上総宮谷檀林を経営する。
触頭江戸三箇寺として品川妙国寺、品川本光寺、浅草慶印寺を組織する。
寛永5年(1628)類焼。その後再興。
寛文5年(1665)受派である身延日奠、池上日豐等は不受側を連訴、幕府は諸寺に対し寺領は国主の供養である旨の手形の提出を命ずる。
殆どの寺院は手形を提出すも、手形の提出を拒んだ妙満寺第38世日英、
京都上行寺2世日應は、 上総鷲山寺日乾・同日受、平賀本土寺日述、下総大野法蓮寺日完、上総興津妙覚寺日尭、雑司谷法明寺日了、
青山自証寺日庭等とともに流罪となる。 ※大野法蓮寺日完は不受不施派では後六聖人(平賀本土寺日述以下)から外される。
その事情は→江戸青山自證寺日庭を参照。 妙満寺日英、上行寺日應は伊東祐実の預かりとなり、現在の日南市北郷町郷之原に配流となる。
日英は、謫居の地に15年あり、その庵は妙満寺と称し、今は墓地である。 日應は京都上行寺2祖、配流の後2年ほどで寂すると云う。
その庵跡は伝えられないが、集落名「常明寺」ではないであろうか。
上行寺はむしろ常行寺と綴り、常行寺が常明寺と転訛したのではないだろうか。(http://やまみや.com/menu1008.html)
→研究書としては「寛文法難 京都妙満寺38世日英上人/妙法山上行寺2祖日應上人殉教」中村啓堂(柳川妙経寺住職) がある。
→38世日英は精進院と号する。下の※精進院日英を参照。
→上行寺は常楽院日経上人のページにあり。 宝永5年(1708)宝永の大火・天明8年(1788)天明の大火に類焼、その都度、再建される。
元治元年(1864)の兵火で焼亡、明治14年再建。
昭和20年強制疎開で塔頭4院の寺地と建物を失う。
昭和43年現在地(北区幡枝)に移転。寺中正行院・大慈院・法光院・成就院も本寺とともに移転・再興。
※精進院日英
〇「妙満寺日英と寛文法難」(「印度學佛教學研究 29(1)」1980 所収) より 日英、妙満寺38世、精進院と号す。
元和元年(1615)上総山邊郡東金新宿に生まれ、元和9年菩提寺である東金本漸寺6世自然院日信の弟子となる。
承応年中(1652-55)宮谷檀林の能化となる。
承応3年(1654)から明暦4年(1658)迄、玄講4世、後に文抗議11世となり、宮谷本国寺佛職として檀林の堂宇(學室書院并庫裡建立)復興に尽力する。
寛文年中(1661-)日経の弟子日忠の後を継承して妙塔山妙満寺38世となる。
寛文5年(1665)「強守法義」を貫き、「印形」を断り、日向に配流される。 延宝4年(1676)日向にて寂する。
★古図に見る妙満寺
2007/10/11追加:
「近世京都日蓮宗立本寺、妙満寺、妙蓮寺の伽藍配置」丹羽博亨(「日本建築学会計画系論文報告集 424」1991 所収)より
●延宝6年伽藍
美濃守様御本陣妙満寺絵図:延宝6年(1678)
:宝永5年類焼前の伽藍
本堂(釈迦堂)は南面、釈迦堂東南に高祖堂(祖師堂)があり、釈迦堂西に番神社・同拝殿・鳥居を配置、鳥居西に三光堂を配す。本堂規模(正面5間、奥行7間、前拝3間、後拝1間)、高祖堂規模(正面3間、奥行4間、向拝1間)、番神社拝殿規模(正面3間、奥行3間)
●宝永5年(1708)伽藍
妙満寺伽藍配置図:宝永5年類焼後の再興伽藍
図が不鮮明であるが、基本的には類焼以前の伽藍が再興され、三方を多くの坊舎が囲む(不鮮明で坊舎名不詳)。
2011/04/29追加:
「洛中法華宗本山寺院の伽藍建築」丹羽博亨(「広島工業大学研究紀要 17 (21)」1983 所収) より
年紀不明の「妙満寺伽藍古図」:宝永5年類焼前の伽藍と推定される。
境内地は東西60間半、南北73間、塔頭15ヶ坊あり。本堂は10間×9間、入母屋造平入。祖師堂は7間×?間、入母屋造平入。本堂東に大方丈・小方丈・台所
などからなる一郭がある。また京都学林があったが、南側塔頭量長院がそれに充てられる。
◇京羽二重巻4(宝永版)から
妙満寺・役者
心誠院 本頂院 慈雲院 と記載あり
●天明年間刊「都名所圖會」巻1の妙満寺 より
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都名所圖會の妙満寺:左図拡大図:2013/01/30画像入替 寺地は京極通<寺町二条>東にあった。
(現在は洛北幡枝に移転)
※寺町二条本能寺北側の広大な旧伽藍地は整地され、
往時を偲ぶものは何もない。
但し、2016年妙満寺跡は発掘調査され、地下には明治再興の伽藍跡、天明の大火焼失後の再興伽藍跡などが眠ることが明らかにされる。
※祖師堂の基壇及び下部は石造と思われ、いわゆる土蔵造であるように描かれる。 |
2010/12/19追加:
「花洛羽津根」清水換書堂、文久3年(1863) より
妙塔山妙満寺塔中:
正行院、本覚院、延壽院、法光院、大乗院、中正院、法性院、学恩院、成就院、遠妙院、大慈院、量長院、常性院 13ヶ院
花洛の末寺:五条橋東上行寺などがある。
→ 末寺上行寺については、 →常楽院日経上人の下に掲載の★参考:日什門流の諸寺を参照
2014/08/15追加:
●寺地画図:
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寺地画図:明治3年5月、上地令の準備として、京都府が作成を命じたもので、この命は寺社地を管理すべきものという太政官達を受けたものである。
妙満寺寺地画圖
妙満寺寺地画圖(補正);左図拡大図
本図は明治3年頃の提出命令によるものであるが、恐らく幕末頃、それも元治の兵火の焼失前の寺観を描いたものと推定される。
本堂、祖師堂、方丈などの伽藍に加えて、北西から時計回りに、(行者寮)、本覚院、正行院、延寿院、法光院、大乗院、中正院、法性院、学恩院、顕寿院、心性院、成就院、遠妙院、大慈院、量長院、常性院の15ヶ院の寺中が描かれる。
このうち、正行院、法光院、成就院、大慈院の4院は具体的な坊舎が描かれるので、この4院は明治初頭に坊舎が存在したものと思われる。しかしそれ以外は既に坊舎は退転していたか、元治の兵火からの復旧がなされていなかったものと推測される。 |
★明治維新以降の妙満寺
2010/06/25追加:
「大日本寺院総覧」寺院総覧編纂局/編、明治出版社、大正5年
■妙満寺伽藍2:出版年より少なくとも大正初頭の景観と思われる。
向かって左が本堂、右が祖師堂。
2005/04/0追加:
「日本社寺大観/寺院篇」京都日出新聞社編、昭和8年(1933)より
■妙満寺伽藍:出版年より昭和初頭の景観と思われる。向かって左が本堂、右が祖師堂。
■1960年頃の妙満寺(
向かって左が本堂、右が祖師堂。)
■1966年の妙満寺(移転直前の景観と推定):(2001/12/05)
、中央が祖師堂・その背後は庫裡など、向かって左は本堂。 2014/08/15追加:
●社寺境内外区別取調
本図は社寺上地令ならびに地租改正にともなう社寺境内外区別事業によって作成されたもので、境内地が官有地に編入された社寺に限り作成される。
明治4年1月現境内地を除く境外社寺領(朱印地、黒印地、除地等)の上地令(第一次上地令)を発し、同年府藩県に対して社寺の境内外区別の取調を命ずる。
明治8年6月地租改正事務局達乙第4号によって「社寺境内外区画取調規則」(第二次上地令)が発令、これによって境内地は社殿堂宇の敷地及祭典法要の広場に限定されることになり、さらに境内氏は縮小される。
本図は以上の措置の中で作成されたもので、明治8年から同18年頃までに作成されたものと考えられる。
妙満寺境内外区別取調1:基本的に赤点線が旧境内地であるが、赤実線に境内地が縮小されたことが見て取れる。
旧境内4069坪余が1800余坪に減じたことが分かる。本寺の伽藍と墓地以外、寺中は正行院と大慈・法光・成就院の4院のみとなり、境内は半減したことが分かる。
妙満寺境内外区別取調2:旧境内地4103坪余が最終的には1799坪余に減じている。
なお上に掲載の「妙満寺寺地画圖」と比較すると、法光院は成就院と大慈院の間の遠妙院に移転再興されたことが分かる。 2011/07/04追加:2011/08/21修正:
●京都市明細図NE08:昭和2年頃、「大日本聯合火災保険協会」が作成、昭和26年頃まで加筆・修正がなされる。
寺町二条妙満寺:境内南に塔頭4院(西から正行、大慈、法光、成就院)が並ぶ様が分かる。
正行院は明治初年には本堂北側に位置しているが、本堂南側大慈院西側に移転している。
本堂は南向、南東に祖師堂があり西面す、宝塔位置の明示はない。
なお、塔頭4院は色付けされてなく、「疎開」と書き入れがありさらに大きく×印が付けられるが、今次大戦で建物疎開と云う名の取壊があったことを示すのであろう。御池通りからは少し離れているも、市役所裏手に当るため、強制疎開となったのであろうか。 ◇大正5年「京都坊目誌」碓井小三郎編記事より(上京第ニ十六學區之部)
旧境内4,099坪、明治3年その半以上を上地し、今1,830坪。
塔中今4院、諸国に末寺550ヶ寺を有す。
本堂:南面す。本尊釈迦多宝佛。
祖師堂:本堂の東南にあり西面す。日蓮・日什・日泰の三像を安す。
塔中今4院:正行院・大慈院・法光院・成就院。
本覚院・延壽院・大乗院・中正院・法性院・覚恩院・遠妙院・量長院・常性院はこれ皆明治初年廃す。 2001年5月25日:旧伽藍地
旧伽藍地(寺町二条)は京都市役所裏(北)の駐車場として使用され、往事を偲ぶものは何も残らず。
移転前は本堂・祖師堂・庫裏と頭塔4院があった。
旧伽藍があった市役所駐車場入り口から北方を撮影。:画像は2001年5月25日撮影。
2016/02/27妙満寺跡発掘調査現地説明会の「説明会資料」を入手:
資料:「妙満寺跡発掘調査現地説明会資料」京都市埋蔵文化財研究所 より
●天明類焼后元治兵燹前ノ古図:「妙満寺志稿」より
黒太枠は調査区 |
本調査は京都市新庁舎整備に伴う埋蔵文化財発掘調査である。
発掘調査は1〜5区に分割して実施予定。
今回は1区(本堂の北西部分)を説明対象とする。
2区:昨年末までに2区の調査を終える。この2区の調査では江戸末期から明治の放生池、方丈建物の基壇地業などを確認した。
1区:今回1区の調査では本堂跡を確認。本堂跡は東西4間、南北3間以上を検出する。柱間は13尺(約4m)であった。
そして、建物中央には本尊を置いた「須弥壇」を示す柱穴があり、堂内の「内陣」と「外陣」を分ける柱穴も残存していた。また建物基壇化粧石を埋め込んだ痕跡も確認された。
建物北辺中央には東西約5m分の後拝も確認され、建物外周には椽(6尺巾)が廻っていたことも判明する。
天明類焼后元治兵燹前ノ古図:左図拡大図:発掘調査により本堂の規模や構造が絵図とほぼ同じであることがはっきりと示される。
以下の遺構は元治兵燹前の遺構なのか元治兵燹後つまり明治再建の遺構なのかの言及はないが、おそらく明治再建遺構の下にある元治兵燹前の遺構と思われる。
調査区平面図:元治兵燹前の遺構の平面図であろう。
調査区全景:北西から撮影
、左やや下の石列遺構は後拝の遺構。これも元治兵燹前の遺構であろうと思われる。 |
現地説明会写真:参加できず、自前の写真はなし。
従って、現地説明会:妙満寺跡のページより
写真を転載する。
妙満寺本堂跡
2016/03/01撮影:
●寺町時代の妙満寺の唯一の残影
上に掲載の「2001年5月25日:旧伽藍地
」では往時を偲ぶものは何も残らずと書いたが、それは南側や現在の駐車場の話であって、実際は唯一北側に、その残影が残る。
それは、ちびっこ広場と称する小公園でそれに至る通路である。その通路は旧妙満寺の北側参道であったと推定される。
その通路あるいは参道は上に掲載の「妙満寺寺地画圖(補正)」に示される寺中延寿院と法光院との間の通路の残影であろう。
○ちびっこ広場入口1 ○ちびっこ広場入口2:
ここは「妙満寺寺地画圖(補正)」
に示される「裏門」あるいは「天明類焼后元治兵燹前ノ古図」で示される「高麗門」のあった場所であろう。
○ちびっこ広場への通路:寺中延寿院と法光院との間の通路の残影であろう。
但し、写真撮影時は妙満寺跡の発掘調査中で、ちびっこ広場やその通路が閉鎖されているのは極めて残念である。
そして、ちびっこ広場の入り口に掲示されている公示の文面によれば、京都市新庁舎整備によって、
遊具などがある広場自体は閉鎖されるということになるようである。これは妙満寺の残影の一部が消えることになり、残念なことである。
もっとも、ちびっこ広場への通路は残されるようであるので、旧妙満寺の北側参道の残影は残るものと思われる。
2016/11/05撮影:
2016/11/05調査4区南の現地説明会がある。
●天明類焼后元治兵燹前ノ古図・その2、「妙満寺志稿」より
天明類焼后元治兵燹前ノ古図・その2:2016/02の同図とは「黒太枠」(調査区)の表示が違うものである。
今回の説明会の対象調査区(黒太枠)は4区南の遺構である。
なお、本古図は朱を用い、元治兵燹で焼失した建物の外周には朱が入れられる。
ところで、各寺中にある土蔵は朱がなく、これは土蔵造の故に焼失を免れたのであろうと思われる。
●明治再興祖師堂跡
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明治再興祖師堂跡:西から撮影:左図拡大図
地表下すぐからは明治再興(禁門の変<1864>で焼失し明治再興祖師堂の遺構が発掘される。
本ページで明治維新後の妙満寺の項で掲載する写真や絵図に見られる祖師堂である。
そして、この下から天明8年(1788)焼失後の祖師堂遺構が発掘される。 |
●天明8年(1788)焼失後の祖師堂跡
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天明8年焼失後祖師堂跡:西から撮影:左図拡大図
調査区平面図
明治再興祖師堂遺構の下から、天明8年焼失後祖師堂跡が発掘される。
祖師堂基壇は、東西約14m、南北約12m、当時の地表から約40cmの高さが残る。基壇外周には幅約1mの化粧石の抜取跡が廻る。祖師堂は周囲に石を巡らし、壁に漆喰を塗り込めたいわゆる土蔵造の構造を示す。
祖師堂は西面し、西面中央には前拝があり、その大きさは南北約3.6m、東西約3.6mを測る。
祖師堂西側からは鐘楼跡、燈籠台跡、井戸跡(中川の井)、植栽跡(鶴亀松)などが発掘される。 |
さらに、断面の観察から、この下層にそれ以前(寛永期、寺町二条での創建期)の基壇が重層的に残ることも判明する。つまり、本堂も同様であるが、同じ位置で祖師堂は再建を繰り返したことが分かる。
2016/11/05撮影:
●妙満寺発掘区(4区南)写真:
祖師堂跡及び祖師堂西側遺構写真
祖師堂跡:
祖師堂跡01:西から
祖師堂跡02:西から
祖師堂跡03基壇石積:西から
祖師堂跡04:北東から 祖師堂跡05基壇石積:北東から
祖師堂跡06:北から
祖師堂跡07:北から
祖師堂跡08基壇石積:北から
祖師堂跡09:北から
祖師堂跡10:前拝:北から
祖師堂跡11:西から:祖師堂西側遺構と奥が祖師堂跡:上図拡大図
以下は土蔵造という祖師堂の遺構で、いずれも溝は基壇石積抜取跡で溝外側には焼けた漆喰の堆積がある。
上掲の「都名所圖會の妙満寺」での祖師堂は土蔵造のように描かれる。
祖師堂跡12土蔵造:南側と東側
祖師堂跡13土蔵造:南側
祖師堂跡14土蔵造:東側
祖師堂跡15土蔵造:東側
祖師堂西側の遺構:
祖師堂西側遺構:祖師堂の西側からは燈籠跡、井戸跡3ヶ所、鐘楼跡、植栽跡などが出土する。
植栽跡(鶴亀松) 中川の井及鐘楼跡 中川の井(井戸跡) 妙満寺鐘楼跡
妙満寺燈籠跡1 妙満寺燈籠跡2
★妙満寺宝塔
妙満寺移転まで、旧地には昭和の建立ながら、宝塔があったと云う。
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「宝塔史考」中西亨、史迹と美術、64(9)、1994.11より転載
京都妙満寺宝塔:左図拡大図
(昭和35年撮影)
昭和6年建立、鉄筋コンクリート製・無彩色。
昭和43年の移転に際し、移転困難により、取り壊される。
かなりの大きさの宝塔であったと云う。
建立位置は本堂に向かって左前にあったと云う、
現在、情報としては以上のみ。
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2016/11/05妙満寺跡現地説明会2 にて
妙満寺宝塔跡:
本堂前は既に埋め戻されているが、調査員に昭和建立の宝塔跡が出土したかと尋ねると次のような回答があった。
本堂前は激しく攪乱され明確な遺構の確認はできなかった。したがって、お尋ねの昭和建立宝塔跡も遺構として確認はできなかった。
●幡枝新伽藍地現況
2001年6月10日:
(本堂扁額)
新伽藍地(概要図)
:概要図は目測をメモしたもので必ずしも正確ではない。
幡枝の市街地化していない広大な環境の中にある。
本
堂(正規の堂の造りとは外れてはいるが、木造のかなりの大堂である。移築されたものかどうかは不明)。
本
坊(木造大建築群)・大書院・仏舎利塔(ブッダガヤの大塔を型どり・昭和48年の建立・一階には釈迦如来坐像を安置・道成寺鐘を安置)・信行道場(鉄筋コンクリート)・鐘楼・表
門等を有する。塔頭もおそらく寺域を拡張して再興。
塔頭成就院の「雪の庭」は昭和20年の強制疎開で取り壊されたが、現在は本坊庭に再現されていると云う。
日什上人霊廟(本堂北すぐにあり)
画像は2001年6月10日撮影。(本堂扁額含む)
本堂など建物は基本的に旧地から移建されたと思われるも、これは良く分からない。
2011/06/23撮影:
妙満寺山門:石碑は刻まれる年紀から旧地から移建と思われる。
妙満寺山内1 妙満寺山内2
妙満寺本堂 妙満寺仏舎利塔1 妙満寺仏舎利塔2 妙満寺方丈 妙満寺玄関
妙満寺書院 妙満寺鐘楼
妙満寺成就院 妙満寺正行院 妙満寺法光院 妙満寺大慈院
2011/10/15追加:
★参考:日什門流の現状
明治5年一宗一管長制により、日什門流は日蓮門下の諸門流と連合する。 明治7年日什門流は日蓮宗勝劣派に属する。
明治9年管長設置により、日什門流は妙満寺派と公称し、日蓮宗勝劣派は解体する。 明治31年妙満寺派は顕本法華宗と公称する。
※顕本法華宗の宗名の由来は児玉日容(第一義院)が美作津山本蓮寺(→美作の諸寺中)で開創した顕本講による。
※本多日生(聖応院)は児玉日容の直弟子であり、日容の宗門改革を継承する。 本多日生は東舞鶴法光寺開山(→丹後の諸寺中)である。 昭和16年国策により、日蓮宗、顕本法華宗(日什門流)、本門宗(日興門流)の三派が合同し、日蓮宗が発足する。
京都妙満寺は大本山、会津妙法寺、会津妙国寺、品川妙國寺、品川本光寺、飯田本興寺、見付玄妙寺、吉美妙立寺、京都寂光寺が本山に列する。
戦後間もなく、三派合同日蓮宗は再分裂するが、この折、顕本法華宗(日什門流)は結果として三分する状態となる。
三分した主要寺院は以下の通り。
1)顕本法華宗として再度独立(約200ヶ寺)
総本山:
妙塔山妙満寺
別格山:
妙泉山(空中山)寂光寺、宝塔山会津若松妙法寺
<下に掲載>、鳳凰山品川天妙国寺
上総十ヶ寺:
宝珠山土気善勝寺、如意宝珠山本壽寺、成就山茂原本納蓮福寺、鳳凰山東金本漸寺、常在山東金北之幸谷妙徳寺、松岸山東金松之郷本松寺
2)日蓮宗離脱単立
経王山品川本光寺
上総十ヶ寺
安国山東金最福寺
3)離脱せず(日蓮宗什師会)(約180ヶ寺)
日蓮宗本山:
宝光山会津若松妙國寺<下に掲載>、法華山飯田本興寺、本立山見付玄妙寺、延兼山吉美妙立寺
上総十ヶ寺:
宝珠山大網白里蓮照寺、法流山宮谷本國寺(宮谷檀林)、宝珠山東金田中法光寺(昭和36年日蓮宗から離脱単立寺院となるも、平成23年再び日蓮宗に復帰する。
2014/04/20追加:
◆日什上人:正和3年(1314)〜明徳3年(1392)
生地は陸奥会津郡黒川(現在の会津若松城下)。<会津郡滝沢(現在の妙国寺付近)とも云う。・・黒川は広義か?>
正慶2年(1333)19歳にして比叡山に登り、出家し名を玄妙と改める。文和元年(1352)比叡山延暦寺の学頭となる。
応安5年(1372)会津領主蘆名真盛に招聘され、会津若松羽黒山東光寺(今は羽黒神社と改竄される)の山主となる。
天授5年(1379)68歳にして、日蓮上人の「開目抄・如説修行抄」の両部を感得、名を「日什」と改める。
翌67歳の時下総真間弘法寺に帰伏する。
康暦3年(1381)上洛し足利義満へ諌暁する。この間、遠江見付玄妙寺、遠江吉美妙立寺を建立する。
康応元年(1389)妙満寺を建立。
明徳2年(1391)会津へ帰り、翌年入寂する。弟子日仁上人は荼毘に付し廟所を設け、妙国寺<次項>を建立する。
2014/04/09撮影:
◆会津若松宝光山妙国寺:什門流本山:日蓮宗什師会
明徳3年(1392)日什上人会津にて入寂する。弟子日仁上人は当所にて荼毘に付し廟所を設け、妙国寺を建立する。
会津若松妙國寺山門 会津若松妙國寺境内 会津若松妙國寺本堂
妙國寺日什上人廟1 妙國寺日什上人廟2 会津若松妙國寺鐘楼
2014/04/09撮影:
◆会津若松宝塔山妙法寺:什門流本山:顯本法華宗
明徳2年(1391)葦名盛政の創建、日什上人が開山。あるいは正和3年(1314)蘆名氏一族石塚氏が創建ともいう。
天正17年(1589)伊達正宗により破壊されるも、蒲生氏郷が現在地に再建する。
明治元年、戊辰の役で堂宇12宇が灰燼に帰す。
明治44年本堂再建、大正期に庫裡、山門、土塀などを再建。
会津若松妙法寺山門 妙法寺山門扁額 妙法寺題目碑1 妙法寺題目碑2
会津若松妙法寺本堂
●顕本法華宗末寺(京妙満寺末寺)・・・判明分のみ
○加賀金澤泉野寺町本長寺 →金沢寺町の諸寺中
○加賀金澤泉野寺町本覺寺 →常楽院日經上人>加賀泉野寺町本覺寺
○丹波綾部了圓寺 →丹波の諸寺中
○山城二条川端西寺町本正寺 →山城の日蓮宗諸寺中
山城本正寺末寺:
加賀金澤泉野寺町寶塔山妙法寺【退転】 →金澤寺町の諸寺中
加賀小松東町鳳凰山本成寺【消息不明】 →加賀小松の諸寺中
山城上京末廣町壽量寺【廃寺】
山城下京匂天神町久遠寺【廃寺】 →常楽院日経上人中
:大正3年上行寺と合併、妙祐久遠寺と改称して嵯峨に現存。
京都上行寺:現在は右京区嵯峨に移転し、現存する。 →常楽院日経上人中
山城上行寺末寺: ○越前高木信行寺:常楽院日経・境地院日秀・上行寺日體等の曼荼羅本尊を有する。
○山城相楽郡■■■(木津村か)小寺村妙楽寺【廃寺】
・・・「日蓮宗本末一覧」京都府社寺掛、明治3年では廃寺扱いであるが、山城木津に現存(→山城木津妙楽寺)
○丹後東舞鶴法光寺 →丹後の諸寺中
〇因幡鳥取法泉寺 →因幡の諸寺中
○美作津山林田本蓮寺 →西国諸国の諸寺>美作の諸寺中
○備前岡山本行寺 →備前旧岡山市内の諸寺
備前岡山寶仙寺:寛永18年草創、明治44年岡山本行寺に合併、今は存在しない。 →上記の岡山本行寺の項を参照。
2006年以前作成:2019/07/12更新:ホームページ、日本の塔婆、日蓮上人の正系
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