攝  津  能  勢  法  華  宗  寺  院

攝津能勢法華・日蓮宗諸寺

能勢氏・真如寺・能勢法華・能勢妙見

 能勢氏は長元年中(1028〜37)清和源氏・多田満仲の孫頼国が能勢 (能勢は多田源氏の本拠地である多田荘の北に隣接)に移住し、以来能勢氏を称したのを発生と伝える。
鎌倉期には鎌倉幕府御家人であった記録もあり、南北朝期には南朝に属し、能勢頼貞は最後には敗死するも、子の頼仲は尊氏に組すると云われる。
室町期には室町幕府奉公人であり、かつ細川氏被官となる。
戦国期には能勢を根拠とし、その領地を維持する。
天正8年(1580)多田満仲から22代目能勢頼通の代、畿内に侵攻した織田信長に組せず、そのため織田氏の命により、頼通は謀殺される。弟頼次が後継し、妙見山(当時は為楽山)に篭城する。
天正10年(1582)本能寺の変の後、明智光秀に与力し、秀吉方の攻撃を受け落城、頼次は備前岡山妙勝寺に落ちる。
  →備前二日市妙勝寺
後年、能勢頼次は家康に召抱えられ、家名を再興する。
これは、京洛実相寺住持が頼次の弟であった時、家康が実相寺に休息した縁であると云う。
 ※頼次の弟は東寺金剛院とする情報もある。
慶長5年(1600)関が原の戦では、家康与力である頼次は東軍に組し、その戦功で、旧地を安堵され、旧地を回復する。
 ※石高は能勢郡地黄3000石余を与えられ、のちに加増され石高は5300石余を数える。
 ※慶長7年頼次は丸山城南東に地に地黄城を構築する。この防御遺構は今も良く残る。
 その後、能勢氏は数家に別れ、旗本として存続する。能勢本家は4000石で地黄に陣屋を構え知行する。
この能勢氏再興を契機に、京都本満寺寂照院日乾上人(後に身延山21世)に帰依し、寺地を寄進し、真如寺が創建される。
慶長8年(1603)日乾上人は能勢氏の家鎮である「鎮宅霊符神」を法華経の守護神「妙見大菩薩」とし、武運長久の意味で武具甲冑を纏い剣を持つ妙見大菩薩像を刻み、為楽山の山頂に祀り、ここに能勢妙見山が始まると云う。
  →攝津能勢妙見
その後、備前松田氏、戸川氏などのように能勢一帯を日蓮宗に強制改宗し、能勢法華が成立する。
 ※但し、高山右近領(千提寺)に隣接した関係からであろうか、隠れキリシタンも存在したようで、多くの遺物も残ると云う。
2013/02/01追加:
○「能勢町史 第1巻」能勢町史編纂委員会、2001 より
慶長10年頼次は領内10ヶ村の寺院に対して日蓮宗への改宗を命ずる。慶長元和年中に約15ヶ寺が改宗し、寛永以降の改宗と元々日蓮宗であった寺院もあり、領内の寺院は皆法華となる。
能勢領内改宗寺院一覧は以下の通りである。
  「能勢町史 第1巻」能勢町史編纂委員会、2001 より転載
所在地 改宗前 改宗開基時期 改宗後・現状
地黄 真言宗真光寺 元和3年 日蓮宗覚樹庵・真如寺
真言宗神宮寺 慶長10年 日蓮宗神宮寺:今は廃寺
真言宗永持庵・智海坊 天正元年 法華宗真門流持経寺
日蓮宗開基恵照寺 - 日蓮宗恵照寺:今は廃寺
日蓮宗開基清普院(寺) 慶長6年 日蓮宗清普寺
野間中 真言宗龍渓寺 慶長6年 日蓮宗円珠寺
真言宗今川寺 享保20年 日蓮宗成就院
真言宗大空寺 慶長年中 妙見堂:能勢妙見「眞如寺境外仏堂能勢妙見山」である。
野間稲地 真言宗香法庵 慶長10年 日蓮宗法華寺
野間出野 真言宗示福庵 慶長年中 日蓮宗善福寺
野間大原 天台宗興学庵 慶長10年 日蓮宗興徳寺
野間西山 真言宗月光寺 慶長10年 日蓮宗今養寺:現在は単立
山内 真言宗法行寺 慶長10年 日蓮宗法善寺:今は廃寺か
倉垣 天台・真言観音寺 慶長10年 日蓮宗安穏寺
真言宗善谿寺 慶長10年 日蓮宗本縁寺
真言宗滝井寺 慶長年中 日蓮宗七寶寺
真言宗慈眼庵 寛永6年 日蓮宗正林寺
真言宗法真寺 天正元年 日蓮宗妙法寺
真言宗龍泉寺 寛永6年 日蓮宗湧泉寺
日蓮宗開基善徳寺 - 日蓮宗善徳寺:今は廃寺
吉野 真言宗真龍寺 慶長10年 日蓮宗妙華寺
上田尻 日蓮宗開基妙唱庵 元禄12年 日蓮宗妙唱寺
真言宗常示庵 慶長10年 日蓮宗示現寺
下田尻 真言宗印福寺 元和3年 日蓮宗長久寺
八幡社神宮寺 元禄年中 日蓮宗薬善寺
以下は能勢氏預り地
宿野 日蓮宗開基常照庵 元和年中 日蓮宗常照庵
今西 浄土宗光明寺 元和2年 日蓮宗蓮華寺
長谷 真言宗寺院 慶長2年 日蓮宗妙円寺

能勢日蓮宗寺院一覧

 能勢日蓮宗寺院位置図:長谷妙圓寺と今西蓮華寺は本図の西方にあり、本図の外に位置する。
   (2013/02/01上図入替)

2013/02/01追加:△印は「能勢町史 第1巻」能勢町史編纂委員会、2001 より

○真如寺:無漏山:地黄606;京都本満寺末
 →上項を参照
能勢頼次を檀越とし、日乾上人により開山される。
慶長8年(1603)日乾上人は能勢氏の家鎮である「鎮宅霊符神」を法華経の守護神「妙見大菩薩」とし、武運長久の意味で武具甲冑を纏い剣を持つ妙見大菩薩像を刻み、為楽山の山頂に祀り、ここに能勢妙見山が始まると云う。
また日乾上人は身延山より日蓮上人真骨を当地に分骨し、当山に祀る。それ故関西身延と称される。
△能勢頼次は真言宗廃寺真光寺跡に東西5町南北6町を寄進し、法華寺院の基とする。元和3年(1617)身延を退山した日乾は、ここに隠棲し、隠居所覚樹庵を創立、法華宗布教の拠点とする。その後日乾は東隣に真如寺を創建する。
明和3年(1766)頃妙見大菩薩の京都出開帳を実施する。
天明年中(1781-)に本堂・客殿を焼失、本堂・客殿はその後の再建になる。七面堂本尊は元禄元年(1688)に開眼、日朝堂は元日蓮御真骨堂であったが、後に身延行学院日朝を祀るようになる。鐘楼は宝暦9年(1759)の建立。

○持経寺:宝林山:地黄618-1
天正元年(1573)能勢頼次の次男・能勢頼高によって開創と伝える。
現在法華宗真門流であり、他の能勢の法華寺院が基本的に能勢頼次による日乾の法灯による開山とは成立事情が違うようである。
△前身は永享8年(1486)開創と云う永持庵で、その後丸山山麓で智海坊と称していたが、南方約5町の字土居ノ内へ移転し、法華宗に改宗し、宝林山持経寺と号すると云う。その時期は諸説あるが、天正元年(1573)が妥当であろう。
天正11年には能勢頼之の葬儀が京都本隆寺日玩を招じて実施される。頼次以前に形態が整えられたのであろう。
延宝・元禄頃には本堂・鬼子母神堂・番神堂があったと云う。享保14年(1729)本堂再建。
京都本隆寺末である。

○清普寺(せいふうじ):正行山、地黄815:京都本満寺末
能勢頼次の創建、能勢氏の菩提寺と云い、能勢氏一族の墓所がある。
△慶長6年(1601)頼次、亡父頼幸の菩提のため、丸山城内にあった寺庵を地黄村に移し、清普寺(頼幸の法号「清普院殿源光日順居士」に由来)を建立する。 開基は能勢頼次、開山は日乾門弟日然。
元和2年(1616)本堂上棟、この本堂はその後再建、元禄年中庫裏建立、9世日豊は宝永6年(1709)梵鐘鋳造、唯心庵を建て隠居する。その後歴代によって祖師堂、山門、宝蔵、鐘楼が建立される。
京都本満寺末、能勢一円同門の触頭として、地黄恵照寺・神宮寺、山内法善寺、上田尻示現寺・妙唱庵などの末寺がある。
 ○唯心庵:清普寺境内:9世日豊が正徳年中(1711-)頃、能勢総家墓地下に隠居所として建立する。
 末寺として存続するも、何時しか退転と思われる。

○恵照寺:本林山:地黄
△開基妙法坊日玉(元和3年遷化)、京都本満寺末、境内31間21間、・・・延享2年(1745)現住は日普
現在恵照寺には六島家墓地がある。

○神宮寺:地黄
△「野間神社」の社務所の位置にあった。古くは真言宗神宮寺と云う。
境内は27間24間と云う。慶長10年に日乾の本尊を授与され、法華勧請されたと思われる。
元禄5年(1692)には社僧庵室(2間半×5間半・萱葺)があったと記録される。延宝年中(1744-)以降の社僧の記録は途絶えると云う。

○今養寺:高嶽山:野間西山
△承保3年(1076)源仲信が高嶽中腹の高尾に開基(本尊釈迦如来)したのが草創と伝える。
大治2年(1127)西山信勝が大日如来・千手観音を祀り、高嶽山月光寺とし、真言宗とする。
元亀2年(1571)兵火で焼亡、天正2年(1574)現在地に再興される。
慶長19年(1605)能勢頼次の法華改宗により法華宗となり、寺号を今養寺と改号する。
文化年中(1804-)釈迦堂再建。

○興徳寺:長栄山:野間大原305;京都本満寺末
天台宗から改宗と云う。
永仁4年(1296)鎌倉後期銘の宝篋印塔、天文24年(1555)銘の三尊石仏(地蔵・不動・毘沙門天)、永禄11年(1568)銘の阿弥陀三尊石仏、同じく永禄11年(1568)銘の五輪塔板碑が残る。天台時代の遺物であろう。
△元は天台宗と思われる興学庵であったが、慶長10年日乾の太曼荼羅が勧請され、開山日意のもとに改宗する。

○圓珠寺:龍淵山:野間中233:京都本満寺末
△元真言宗龍渓寺であったが、慶長6年日乾により改宗されると云う。

○成就院::野間中
△享保20年(1735)日領によって開基。京都本満寺末。今川寺跡の北方にある。真言宗今川寺(詳細不詳)が前身とされる。

○法華寺:宝林山:野間稲地426:京都本満寺末
△本寺は貞和3年(1347)平田家建立の真言宗香法庵を前身とすると伝える。
慶長10年開山日久が改宗し、宝林山法華寺と改号する。元和年中本堂兼庫裏が建立、天保6年(1835)番神堂再建。

○善福寺:受持山:野間出野122:京都本満寺末
△慶長年中、開山日空が真言宗示福庵を改宗し、善福庵とする。2世日相が善福寺と改号する。5世日慧は川向から現地に移転する。

○妙法寺:永昌山:倉垣1938:京都本満寺末
日乾上人弟子本行院日運上人の中興と云う。(この時他宗から転宗なのであろうか)
妙法寺二十世進得院日義、丸山清正公堂を開山する。
△元は荒廃した真言宗法真寺であったが、天正元年(1573)肥前小城万部寺僧神光院日賢が法真寺を再興して改宗したと伝える。日賢は不受不施僧であったと云う。
その後日賢は弟子日泉に譲り、万部寺に帰るが、日泉は法脈を伝える人なく引退する。暫くの空位があったものと思われるが、
日乾上人弟子である本行院日運が寺に入り、永昌山妙法寺として中興する。また日運上人は今西廣榮山蓮華寺も中興と云う。
明和8年(1771)現本堂を再建する。

○本縁寺:来成山:倉垣
△もとは真言宗善谿寺であり、若宮八幡の宮寺であったと推測される。
慶長3年(1598)日乾が初めて能勢を訪れ、能勢頼次に法義を説いたところと云う。「日乾上人遺跡」の碑が建ち、「乾師堂」と呼ばれる所以である。慶長10年日乾の曼荼羅が授与される。
宝暦2年(1753)本堂兼庫裏(2間×4間)と鐘楼(1間四方)があったと云う。神宮寺の故に檀家がなく、無住の時代が多く、すぐ東に位置する妙法寺の支配下にあった、

○正林寺:長渓山:倉垣1710:京都本満寺末
△寛永6年(1629)元真言宗慈眼庵を慈眼院日秀が開山となって日蓮宗に改宗する。
真言宗慈眼庵は字長谷にあり、承安2年(1173)の創建と伝える。
寛永7年に火災焼失、正保2年(1645)道を挟んだ現在地に再興と云う。文政4年(1821)本堂・庫裏を再建、天保14年(1843太修理と云う。

○涌泉寺:石用山;倉垣1773:京都本満寺末
もともとは真言宗龍泉寺であり、弘仁11年(820)空海の開創とされ、後方にある釈迦ヶ嶽の山頂に開かれると云う。
寛永6年(1629)3月15日真言宗龍泉寺は法性院日侃上人によって開山され、日蓮宗石用山(せきゆうざん)湧泉寺と改号する。
現在は本堂、明王堂、鐘楼、参籠堂などを有する。
本堂内陣には右に妙見大菩薩・左に大黒尊天・その左に七面大明神(大天女)・納牌納骨檀、正面には厨子入り釈迦坐像、日蓮聖人坐像、鬼子母神等々を安置する。
明王堂には本尊木造大威徳明王坐像(平安初期との推定もある)、木造多宝如来坐像(平安後期)、木造釈迦如来坐像(平安末期か鎌倉初期)を祀る。
2012/10/30撮影:
 攝津湧泉寺明王堂:左背後は本堂      攝津湧泉寺鐘楼:右は参籠堂
△真言宗龍泉寺が牛頭天王の神宮寺であった。
「当能勢惣門中溜記」では「祇園牛頭天王、宮寺石用山湧泉寺、寛永2年日乾上人勧請板本尊在之」とあると云う。
現在湧泉寺東に歌垣神社と称する社がある。主祭神はスサノウとあるので牛頭天王社が改竄されたものであろう。
社歴には寛永2年牛頭天王を勧請し玉性坊が捧持する、明治の神仏分離の処置で宮寺は廃寺、社は八坂神社と改号する、明治5年村社、明治40年付近の多くの社を合祀し、歌垣神社と再度改号する。なお旧善徳寺跡もあると云う。

○善徳寺:法秀山:倉垣
△湧泉寺の西にあり。開山日空は元和9年寂と記録されるため、おそらく慶長年中の創建であろう。
宝暦3年(1763)「上地引渡書」では、法花宗本満寺末、本堂(4間半×7間半、萱葺)、土蔵、三十番神社、木鳥居があったと云う。天保14年(1843)に移転することになり、大修理することになったと伝える。
 ※その後は分からないが廃寺となったものと思われる。現時点では位置も不明。

七寳寺:七面山:釈迦ケ嶽七面山:倉垣1861:京都本満寺末
元々は真言の行場(霊場)(滝井寺)であったと推測される。
慶長5年(1600)頃から、能勢頼次の外護があり、寂照院日乾上人とその一門により、能勢領内が弘教・教化されるに至る。
明暦元年(1655)能勢頼次二男頼隆と涌泉寺第二世玉龍院日悦上人が、七面大明神を感得し、それにより頼隆子息頼春は、当地に七面堂を寄進する。 これが当寺の揺籃である。
明治維新ではやや衰微するも、昭和17年日蓮宗より釈迦ケ嶽七寶教会の認可を得る。
昭和21年「七寶寺」寺号公称の承認を得て、現在の隆盛を向かえる。
なお、諸堂は戦後の整備のように見えさらに今でも整備は続くようであり、さらには山内いたるところに巨大な諸仏諸天が勧請(祭祀)され 、多くの信者の姿が見える。また山内では修行者(尼僧)の姿を数多見かける。
以上寺勢は盛んなようであるが、雑多な仏の寄せ集めである感は否めず、少々辟易する。
2012/10/30撮影:
○七寶寺金属製五重塔:平成18年(2006)建立、金属製である。播磨金剛寺とほぼ同形同型であろうと思われる。
但し一辺230cm であり金剛寺よりやや小型である。金剛寺の施工と同じく三木市(株)平安美術の施工と云う。
塔正面扁額として妙・法・蓮・華・経と掲額する。
播磨金剛寺塔と同型と云う。
 七寶寺五重塔1     七寶寺五重塔2     七寶寺五重塔3     七寶寺五重塔4
 七寶寺五重塔5     七寶寺五重塔6     七寶寺五重塔7     七寶寺五重塔8
○七寶寺金属製宝塔:宝塔一辺230cm、上の基壇一辺300cm、金属製である。塔身は一見漆喰のように白く彩色されるが、これも金属製である。宝塔の建立時期、名称、本尊など一切不明。弁財天像の傍にある。「塔婆」サイトでは「釈迦牟尼仏宝塔」、建立時期は昭和とある。
 七寶寺宝塔1     七寶寺宝塔2     七寶寺宝塔3     七寶寺宝塔4     七寶寺宝塔5
○その他の堂宇
 七寶寺遠望1     七寶寺遠望2     七寶寺参道鳥居    七寶寺堂宇1     七寶寺堂宇2    七寶寺大黒堂

○安穏寺;普門山:倉垣1170:京都本満寺末
応和2年(962)7月15日、天台僧恵心僧都当地を訪れ、一宇を建立し、十一面観世音菩薩・不動明王・毘沙門天王の三体を安置すると云い、それ故、源信坊恵心僧都を開祖とする。 その後真言宗に転ずる。
慶長6年(1601)京都本満寺貫首、身延山久遠寺第21世寂照院日乾上人(開基)の当地弘通教化により、法華宗に改宗する。
△慶長19年弟子日徳、本堂を建立し開山する。

○倉垣清正公堂:妙林山本修院;倉垣
◇山号は妙休山と号し、院号はおそらく本修院と号すると思われる。
◇「妙休山清正公堂の由来」(「能勢町史」からの転載である。)
文化年中(1804〜1818年)、当地区に大旱魃(干ばつ)があって、雨乞いを祈請して大いに利益があり、その謝意として、肥後熊本の本妙寺加藤清正の分霊をここに勧請したと 云う。文化11年(1814)8月24日のことで、開山は、妙法寺二十世進得院日誠とし、日義が奥勧兵衛、西田久兵衛、西田三郎右衛門、西田四郎兵衛の協力を得て建立する。
△元治元年(1864)堂宇を再建し、妙林山清正公堂とする。
2012/10/30撮影:
 能勢丸山清正公堂:能勢清正公堂は丸山と云う小丘上にある。丸山は上田尻から山内と嘉村を分ける位置にあると云う。
 能勢清正公堂正面:南東に面する。鳥居と題目碑・石燈籠がある。
 清正公堂正面題目
 清正公堂正面石階: 正面鳥居から参道があるが、老人では上ることが困難と思われる一直線の急角度の石階が参道である。但し迂回する緩やかな参道と裏には普通の石階がある。
 清清正公堂正面石階:正面一直線の石階 を清正公堂から見下ろした写真。
 能勢清正公堂1     能勢清正公堂2:聞き取りでは尼僧が居住すると云うも不明。
堂前の手水石の年紀は文化12年亥の年紀、堂前の石燈籠の一つには天保(年号などは判読できず)と判読できる年紀がある。
 清正公堂清正公手形:裏参道にある。妙休山本修院と 陰刻され、能勢清正公堂の山号院号と思われる。年紀は不明。

○法善寺:神刀山:山内
△字田島にあり、前方にある山王権現社の宮寺である。この宮寺は文明5年(1473)開創の真言宗法行寺と伝える。
慶長10年(1605)法華宗に改宗、慶安2年(1649)この宮寺を法善坊と名付ける。
宝暦2年(1752)日性が当寺を再興し、神刀山法善寺と改号し、開山となる。宝暦11年(1761)地黄清普寺末となる。
宝暦から明和年中(1764-)にかけて山王権現社の鳥居・石燈籠・石階などの整備が行われ境内が荘厳になる。
 ※現在廃寺か。本寺及び山王権現の位置が特定できない。東から逢坂峠に至る取り付き付近の集落に長い石階があり、これが山王権現社の跡であろうか。

○妙唱寺:首題山:上田尻232
△妙唱庵:元老12年(1699)頃、立野妙唱尼が仏門を志して出家し、現在地に一庵を結び、妙唱庵と称したのが始りと伝える。
元禄12年年紀の清晋寺6世日侃の授与した太曼荼羅が現存する。
天保12年(1841)全山焼失するも、鬼子母神像のみ焼失を免れる。このことにより「立野の鬼子母神」として知られる。
 ※正行山清普寺(地黄)末である。:京都本満寺孫末

○示現寺:稲玉山:稲玉山:田尻
△上田尻口山内にある稲荷社の神宮寺で、開山は蓮乗坊(前身の真言寺院の時か)、八世円信の時、京都本満寺24世日昌のもとで、中本寺清晋寺の末寺となり、稲玉山示現寺と改号すると云う。
天保15年(1844)半鐘が再鋳されたことが知れる。
 ※現在は廃寺であろうか、口山内の口山内公民館横に稲荷社遺跡と称するところがある。

○長久寺:善養山:下田尻353:京都本満寺末
△元和3年(1617)真言宗印福寺住持善長坊、改宗し日久と改名、自ら善養山長久寺を開山する。
嘉永3年(1850)現本堂竣工。

○薬善寺:木筋山:下田尻
△当寺は西隣の八幡社神宮寺として古くからあったと云う。
元禄年中(1688-)下田尻長久寺5世日応が中興開基とする。

○妙華寺:永昌山:吉野475-1:京都本満寺末
△建仁2年(1220)横山永昌によって建立された真言宗永昌寺がその始めと云う。
元和7年(1621)法華改宗が行われ、日乾弟子日言を開祖として、永昌山妙華寺が創建される。
しかし慶長10年の日乾板曼荼羅が現存し、すでに慶長期には転宗していたものと推定される。
山門・庫裏は元和の創建時の建築であり、本堂(5間半×6間)は天保11年(1840)、鐘楼は寛政2年(1790)の建立と云う。番神堂も鐘楼と同じ頃の建築と思われる。

○常照庵(野木庵):宿野
△当庵は野木家一門の庵であるので野木庵とも称する。
元和年中(1615-)常照院永春尼が開山開創したと伝える。

○蓮華寺:廣榮山:今西203-5:今西は能勢氏の所領外の預り地である。:京都本満寺末
浄土宗光明寺から転宗し、寺号を蓮華寺と改号する。寂照院日乾上人法弟妙寂院日深上人の開創とする。
倉垣妙法寺中興本行院日運上人(日乾上人弟子)が妙法寺中興の後、今西に蓮華寺を開創(浄土宗光明寺を改宗)すると云う。
現在、楼門・本堂・庫裡・番神堂・檀信徒会館(※旧児童館)を具備すると云う。
△浄土宗光明寺の改宗・日蓮宗蓮華寺の開創は預かり領である当地を日蓮宗に改宗するという能勢頼次の企図による。
文化13年(1816)庫裏再建、文化14年楼門建立、文政4子ン(1821)番神堂再建。

○妙圓寺:法性山:長谷675:長谷は能勢氏の所領外の預り地である。
△もと真言宗寺院の僧朝慶が法華に帰依し、慶長2年(1897)法華宗に改宗、日慶と戒名して開山と伝える。元和2年(1617)の開創というのは、日乾が覚樹庵を開いた時期であり、今村村法華寺との開創年(元和2年)にあわせたものであろう。
寛永10年(1633)京都本満寺末寺となる。
本堂・土蔵は宝暦年中(1751-)の建立か、ほかに鬼子母神堂があると思われる。


2012/11/06作成:2015/07/20更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系