重 須 ( 北 山 ) 本 門 寺 |
重須(北山)本門寺
★重須(北山)本門寺概要
○泉光山蓮華寺: 萬治元年(1658)重須本門寺14世日優上人により小石川関口台に開基される。 泉光院増山氏は、お楽の方の出産に際し、日優上人に祈願を願い、それによりお楽の方は無事お子(後の家綱)を得る。以来、お楽の方や泉光院増山氏は日優上人に帰依し、本寺を建立すると云う。 宝樹院の実弟は従五位下増山弾正少弼正利となり、万治2年(1659)には三河西尾二万石に移封され、明治維新まで大名として存続する。 正利の子孫の墓も基本的に蓮華寺に設けられる。なお、明治41年蓮華寺は小石川関口の地より現在地に移転する。 ○寛永寺勧善院: 宝樹院の霊廟所として創建される。昭和初期に廃寺となる。 ○宝樹院・泉光院の重須本門寺の崇敬: 寛永18年(1641)8月、14世日優上人は宝樹院の安産を祈願。宝樹院は緋紋白の五条袈裟、金入七条袈裟を寄進する。 泉光院増山氏は上述のように万治元年(1658)日優を開山に仰ぎ、小石川に泉光山蓮華寺を建立して重須本門寺末とする。 貞享元年(1648)12月2日には、本門寺五重塔の建立資金として金300両を寄進、その他山門や黒門などの造営を行う。 ※以上から、現段階では重須本門寺五重塔はいわば宝樹院と云う玉を担ぐ実母泉光院増山氏の寄進によるものなのであろう。 但し、寄進から1世紀近くの落慶とは少々不可思議ではあるが、何か事情があったのかあるいは真相は別にあるのであろうか。 ○異説: 泉光院とは徳川将軍家に係る増山氏ではなく尾張徳川家に係る林氏(俗名を和泉と云う)と云うWebサイトもある。 泉光院林氏(林金左衛門の娘、俗名和泉)とは尾張3代徳川綱誠の側室で、同じく尾張6代藩主の徳川継友の生母である。 墓所は尾張徳川家菩提寺建中寺であるが、現存するかどうかは不明。 泉光院林氏の生年、没年は不明であるが、 元禄5年(1692)継友を生む。 正徳3年(1713)継友、6代藩主となる。 享保15年(1731)継友逝去。 などから推測して、泉光院林氏の生存した時代は、やはり五重塔の落慶と云う元文5年(1740)とは少々かけ離れるようである。 現段階で得られた情報から判断すれば、重須本門寺との接点があり、また財力の観点からも泉光院増山氏の寄進とするのが妥当であろう。 とは云うものの、泉光院林氏の情報は殆どなく、五重塔の寄進は泉光院林氏ではないと否定する根拠を持ち合わせないのも事実である。 ★重須本門寺五重塔跡 2004/08/01追加:2002/05/24「X」氏撮影:
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五重塔石階15 五重塔四天柱礎14 五重塔脇柱礎19 五重塔脇柱礎20 五重塔脇柱礎21 五重塔脇柱礎22 五重塔束石18 ★重須本門寺現況 ◇重須本門寺道 重須本門寺道は本門寺仁王門から南やや西に一直線に南下し、三門・総門・冠木門・土手門を経て、その後やや東に緩やかにカーブしながら甲州街道に合流する参詣道である。 その様子は富士五山の項に掲載した1/50000地図:明治29年大宮(部分) や 1/50000地図:昭和19年富士宮(部分)の地図にその姿をくっきりと残している。因みに、その道の距離は約1600mを測る。(「明治29年大宮・地図) 直近の地理院地図では「地理院地図・富士宮・部分」のように示される。 まだまだ、本門寺道は地図上でトレースは可能である。 甲州街道は大宮から北上するが、現在は「ロ地点」から「イ地点」の間は県道414号の道路となっている。 これは戦後のバイパスで、県道414号「ロ地点」から「イ地点」の間は近世の甲州街道ではない。 近世の甲州街道は現在の県道より東にカーブしていたのである。その様子は掲載した地図に「旧道」として示す通りである。 ※明治29年及び昭和19年の地図には県道のバイパスはなく、昭和51年地図には県道バイパスが描かれる。 「旧道」は「ロ地点」から、北やや東に少し北上し、その後北西に向きを変えるが、その変換点の地点で「旧道」(甲州街道)と本門寺道が分岐する。 以上の様子は繰り返すが、直近の地理院地図でもトレースは可能である。 なお、本門寺道の道幅については、下に掲載の寺中・東陽坊に記載しているが、下に再録する。 「日恩(重須3世)は多年にわたり重須の経営に当るが、寺地を本門寺では「日恩買得の地」という。石川能忠が日興に寄進した土地とは別で、現在も残る表参道とその隣接地とを指すものであろう。表参道は本堂から外神で旧甲州街道に接するが、その巾は本門寺地先で6間巾、外神地先で4間巾となっている。その隣地は戦後の農地解放で失う。」 地図よりもっと明瞭に本門寺道の痕跡を辿ることができるのが航空写真である。 本門寺道・航空写真:Yahoo地図の航空写真から転載する。 南から辿って行こう。 2020/05/21撮影: 甲州街道・ハ地点:GoogleStreetView:甲州街道旧道と甲州街道パイパスの分岐地点である。写真中央の道が甲州街道旧道、向かって左が現在の甲州街道(県道414号)である。この地点から旧道に入る。 甲州街道・ニ地点:GoogleStreetView:上のハ地点から旧道は北上するも、すぐに広い道路で寸断される。しかし道路北側に旧道は姿を現し、北に続く。写真中央の道が旧道である。 甲州街道・題目宝塔:GoogleStreetView:上のニ地点からすぐに題目宝塔のある辻に至る。写真中央の道が甲州街道(旧道)である。辻には題目宝塔が写る。 甲州街道・題目宝塔1 甲州街道・題目宝塔2 題目宝塔から更に北上すれば、甲州街道から本門寺道が分岐する。 甲州街道・本門寺道分岐:GoogleStreetView:向かって左が甲州街道(旧道)、右は本門寺道で、この分岐から始まる。 本門寺道・道標:分岐からすぐにある。「従是十五町五十間」とあり、凡そ1700mの距離である。 更に坂を登っていくと、題目石がある。 本門寺道題目石1:手前に小さい石塔があるが未確認。 本門寺道題目石2 本門寺道題目石3:年紀は明治18年 題目石すぐ上に東西道路が横切り、その道路から上はほぼ廃道とある。 廃れた本門寺道入口:GoogleStreetView:ここからイ地点まで、ほぼ廃道の様相を呈する。 廃れた本門寺道 イ地点附近:この付近には何等かの門があったかも知れない。 ※「本門寺略図」によれば、「参道途中に土手門跡、冠木門跡、総門跡、三門跡があり、さらに参道を進めば仁王門に至る」とある。 イ地点を抜けた附近:生活道路として使われ、これより上(北)ははっきりした道となり、三門跡に至る。 本門寺三門前石階 山門前題目宝塔1 山門前題目宝塔2:享保13年(1728)の年紀。 ◆重須本門寺三門跡 参道巾一杯に礎石が12個残る。その状況から礎石は完存するものと思われる。 残存する礎石から、間口は3間・奥行は2間の門と知れる。 間口中央間は465cm(15尺3寸)、間口両脇間は310cm(10尺2寸)、奥行の各間は間口両脇間と同一である。 従って間口は10.85m、奥行6.2mとなる。 この付近の本門寺道の巾は間口から推して知るべしであろう。 ※但し実数は礎石の芯-芯間の値である。 因みに大石寺三門は楼門で、間口5間・奥行2間の大きさで、実数では間口24m、奥行11m、高さ22mと云う。従って、大石寺三門は重須三門を遙かに凌ぐものであると云える。 2004/08/01撮影: 重須本門寺三門跡 重須本門寺三門跡礎石 2020/05/21撮影: 重須本門寺三門跡11 重須本門寺三門跡12 重須本門寺三門跡13 重須本門寺三門跡14 三門跡より仁王門方面を望む 2020/05/22撮影: 重須本門寺三門跡15 重須本門寺三門跡16 重須本門寺三門跡17 重須本門寺三門跡18 重須本門寺三門跡19 重須本門寺三門跡20 本門寺三門跡礎石1 本門寺三門跡礎石2 本門寺三門跡礎石3 2020/05/21撮影: 本門寺道の終点附近である。 本門寺仁王門下1:現存の塔頭が並ぶ。 本門寺仁王門下2 本門寺仁王門下3 ◆重須本門寺伽藍 2004/08/01撮影: 重須本門寺日興上人正廟 重須本門寺本堂:御影堂 2020/05/22撮影: 重須仁王門1:これのみ21日撮影 重須仁王門2 重須二天門1 重須二天門2 重須二天門3 重須本門寺鐘楼 重須日蓮上人立像 重須日尊腰掛石:日尊は京都上行院(後の京洛要法寺)開基、一時期日興に破門された状態であった。 重須本堂・開山堂 重須本堂1 重須本堂2 重須本堂3 重須開山堂 なを本堂裏手に重須大神、本化垂迹堂なる醜悪な建物があり、未見であるので写真で判断すると、重須大神はRCのゴテゴテした神社建築で本化垂迹堂は伊勢神宮を模したものというセンスの悪さである。 重須大神とはオオモノヌシとかニギハヤヒとか云うサイトがあり、それにしてもなぜ記紀の物語を語る必要性があるのであろうか。一方では本化垂迹堂にはアマテラスを祀るようで、一体どういった理論なのであろうか、不幸にして、日興門流の理論は門外漢なのでまったく分からない。 日蓮大聖人供養塔1 日蓮大聖人供養塔2 日興上人は元弘三年(1333)二月七日遷化、翌八日荼毘に付され、当地に正廟が建立される。 日興上人廟所1 日興上人廟所2 重須歴代上人廟 重須談所歴代大学頭廟 宝樹院一族供養塔 傍らの説明板には次のように記す(大意) 宝樹院(お楽の方、徳川家綱生母、蓮華院姉)重須五重塔建立成し下し置く。 泉光院(宝樹院母、紫・むらさき)江戸白金台蓮華寺建立。蓮華寺は蓮華院菩提寺。重須三門・黒門等建立。 蓮華院(宝樹院妹、毛利刑部輔元室)菩提寺は江戸蓮華寺、墓所は重須本門寺。 家綱誕生にあたり、重須本門寺の祈祷があり、泉光院・宝樹院母子は生涯にわたり本門寺に帰依する。 重須法喜門 重須客殿・大庫裡 重須本門寺客殿 重須本門寺大庫裡 2013/06/28追加: ◎重須本門寺寺中 現存寺中: 養運坊・西之坊・養仙坊・蓮行坊・東陽坊・行泉坊の6ヶ坊が残る。 2016/12/12追加: KG氏ご提供情報:近年寺中に大乗坊が加わる。おそらくはかっての大乗坊が復興したようである。(現在は7ヶ坊となる。) 静岡県宗教法人名簿(web版)に「大乗坊 富士宮市北山4958番地5」とある。 Google等で確認すると、西之坊の南、東陽坊の西に占地する。 天明6年(1786)「重須本門寺本末帳」では寺中28ヶ坊と云う。 安政3年(1856)「諸末寺書上扣」では以下の25ヶ坊の書上があると云う。 大学頭寮、行泉坊、西之坊、養運坊、東陽坊、養仙坊、蓮行坊 寛政8年(1796)焼失後、畳置の坊は以下の通り。 慈雲坊、元成坊、本行坊、證明坊、開善坊、円覚坊 文化5年(1808)退転の坊は以下の通り。 法善坊、本因坊、正雲坊、玄立坊、実相坊、大乗坊 文化10年(1813)退転の坊は以下の通り。 大泉坊、清水坊、法蔵坊、円行坊、倫雄坊、林正坊 2020/05/22撮影: 養仙坊 開山は日華、日華は甲斐鰍沢の領主秋山信綱の三男として生まれる。日興の6人の本弟子の上位にある。 永仁6年(1298)重須本門寺が成ると、支院を起し養仙坊と名付ける。 秋山泰忠が讃岐に移封されると、招きに応じ讃岐に来錫し、讃岐大坊法華寺(現在の日蓮正宗本門寺)を創す。 元亨4年重須に帰り、当坊で遷化する。滅後、建武元年(1334)弟子南条日相が上野の自宅を改め妙蓮寺を創し、日華を請じて開山とする。 養仙坊山門 養仙坊本堂 蓮行坊・養運坊・東陽坊(2020/05/22撮影) 2020/05/21撮影: ◇蓮行坊 日國(天文5年/1536寂)の開基。 寺中蓮行坊 蓮行坊山門 蓮行坊本堂 蓮行坊客殿庫裏 寺中蓮行坊2 ◇養運坊 永仁6年(1298)日代の草創。建武年中今の百貫坊にて日仙と問答後、康永2年重須を離れ、西山本門寺を開創する。 以降、養運坊は十数度の火災にあい、その都度再建を繰り返す。 寺中養運坊 養運坊山門 養運坊本堂1 養運坊本堂2 養運坊庫裡客殿 養運坊書院 寺中養運坊2 ◇空坊 養運坊南には更地があり、無縁墓碑が集められている。坊名は不明であるが、廃坊址であろう。 その他、付近の地割から見て、この空坊の東の区画、東陽坊の南の2区画は明らかに坊舎跡であったと思われる様相を呈する。 重須空坊跡 ◇東陽坊 開山は日恩、重須本門寺2世日妙の弟子である。日妙の後、日恩は重須3世を継ぐ。応永9年(1402)寂。 なお、日恩は多年にわたり重須の経営に当るが、寺地を本門寺では「日恩買得の地」という。石川能忠が日興に寄進した土地とは別で、現在も残る表参道とその隣接地とを指すものであろう。表参道は本堂から外神で旧甲州街道に接するが、その巾は本門寺地先で6間巾、外神地先で4間巾となっている。その隣地は戦後の農地解放で失う。 東陽坊山門 東陽坊本堂1 東陽坊本堂2 東陽坊庫裡 行泉坊西之坊(2020/05/22撮影) ◇行泉坊 日興を開山とし、大石寺3世日道を開基とする。但し、現状は堂一宇のみである。 寺中行泉坊 行泉坊本堂 行泉坊庭園? ◇西之坊 開基は日助(至徳4年/1387寂) 西之坊山門 西之坊本堂 西之坊庫裡 西之坊事務所など 大乗坊 上記の記録によれば、文化5年(1808)に退転するも近年(2013年以前)復興する。但し、堂一宇のみ。 寺中大乗坊 大乗坊本堂1 大乗坊本堂2
2016/12/12追加:
2013/06/28追加: 2006年以前作成:2020/08/15更新:ホームページ、日本の塔婆、日蓮の正系
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