不 受 不 施 白 川 門 流 日 題 派

不受不施白川門流日題派

不受不施白川門流日題派概要

○「不受不施派史料目録 2(岡山県緊急古文書調査報告書)」岡山県教育委員会、昭和51年 より
◆解説
 日題派:最も古い分派で、寛文法難で京都白川心性寺を出寺した僧日題を派祖とする。
身池対論(寛永7年(1630))の際、小湊誕生寺を出寺した可観院日延が京都小川受不施本法寺末寺である博多法性寺に寄住し、住持の謗法供養を受けるという事件が生ずる。
 →可観院日延は博多香正寺中にあり。
この事件に対して、日題らは、たとえ個人的には不受不施を支持しても受不施の組織下にある僧は謗法であり、その謗法の僧から布教供養を受けるのは謗法であると主張する。一方主流は惣滅の折、過去に遡って罪を追求すべきでないと主張する。
そのため、日題らは主流から袂を分かつ。
日題派は日奥の俗甥日慈を迎え、日奥の聖教多く結集し、先斗町・木屋町周辺に庵室を置いていたという。
享保頃までは上方国筋に多くの信徒を持っていたが、享保の法難以後、木屋町派の分裂があり、衰退し、天保の法難で壊滅する。
 ※日題:白川心性寺歴、蓮華院・信順と号する。寛文5、6年頃27歳であったという。

○「妙本寺意外之誌」宮原日鷲、本山妙本寺、平成12年 より →伯耆河岡妙本寺
◆当山教義不受不施の作法
◎不受不施日題派
昭和58年1月14日毎日新聞が特報「ひそかに三百年、幻の信徒、日蓮宗の一派 日題派」を報じる。
 <岡山県史編纂室中務克己主幹の調査による。>
日題派は寛文11年(1671)教義を巡って不受不施派本流と対立、日題上人(寛永10年/1633〜正徳4年/1714)が率いて分裂する。
分裂後は表にでることなく、備前・備中・備後を中心に信仰活動を続け、最後の上人・日養が天保9年(1838)に捕らえられて牢死してからは、各グループの長老が導師役を務め、「しきたり」を守り続けてきた。
今回存在が分かったのは大窪地区(岡山市北区、備前に属するも備中との境界付近である、備前西辛川の北に位置する。)の9世帯約40人。
9世帯に11枚の曼荼羅が残されていて、文禄3年(1594)から天保7年(1836)のものである。この曼荼羅を本尊にして月1回の「月並み」、年3回の「お日待ち」と呼ぶ法要を各家庭持ち回りで行い、みんなで法華経と題目を唱える。
また不受不施の教義を守るため、信徒の葬儀に他の僧侶は招かず、墓石にも戒名を刻まず、本名だけを刻む。
大窪地区の人が他地区に転出した場合、女性は嫁ぎ先の宗教に従い、男性は死ねば遺体を大窪に持ち帰り実家で日題派の儀式にのっとり葬儀を行うしきたりが今も続いている。

2019/02/09追加:
○「岡山県史 第8巻 近世3」1987 より
 白川日題派:
内信不受不施派の最初の分派で、派祖は京都心性寺第2世蓮華院日題である。
この派は京都を中心とし、京都に庵室を持ち、中国筋の信者を統括してきたようである。
天保法難の時の庵室は京都大仏境内新北斗町丁子屋安五郎方が庵室であった。
天保法難で組織は壊滅し、本拠地は現在の苫田郡鏡野町瀬戸に移される。
同所には京都から移した先師の墓地もある。
 現在、同信は「ご宝前」と呼ばれる瀬戸の金田家を中心に、苫田・御津・都窪・浅口・倉敷・総社の各地域の約100軒ほどが分布する。
「ご宝前」の金田家の当主は、年1回「御経」を奉供して信者宅を巡回し、信者一人一人にお経を頂戴させ、信仰の結束をはかった。しかし信者相互の繋がりはなく、信者には金田家当主の巡回順は知らされていないという。
 この派の特質として、内信信仰は極めて固く、戒律も厳重であった。
彼らは神社仏閣への参詣は一切しない。家には神棚もお札もない。戦前までは、肉食も禁じられていた。神社へ行ったのも、肉を食べたのも軍隊に入って初めて経験したと地元の60〜70台の人が語ってくれた。
天保法難で僧侶を失ってからは、厳重な在家主義で葬儀も同信のものと親族のみで行い、死者への戒名は用いず俗名を以って供養する。
 ※2020/04/03:
 苫田・御津・都窪・浅口・倉敷・総社の各地域とあるが、本ページを要約すれば、
 苫田は苫田郡鏡野町瀬戸、御津(御野郡+津高郡)は津高郡大窪、
 都窪(都宇郡+窪屋郡)は都宇郡加茂、備中三因日題供養塔のある三因(清音)も都窪である、
 浅口・倉敷・総社については、現在不明。
 備中三因日題供養塔のある三因は旧清音村(現総社市)であるが、「岡山県史」は1987年の発行であり、当時は都窪郡であった。
 参考:明治22年窪屋郡黒田村・古地村・軽部村・上中島村・柿木村・三因村の6村が合併し清音村となる。
    2005年(平成17年)総社市、清音村、都窪郡山手村が対等合併、新・総社市となる。
2019/02/21追加:
○「岡山県史 第10巻 近代1」1986 より
 白川日題派は、京都白川心性寺が不受不施派禁制により廃寺となって以来、関西各地や中国筋で内信を続けていたが、天保法難で捕縛された孝善院日養ら僧侶全員が牢死し、僧侶のいない信徒だけの教団となる。
  ※2020/04/03:孝善院日養聖人は日題派八世で、日題派最後の聖人である。
 備前備中からは日題派の僧侶が多数輩出していて、かなり多くの信徒がいた。明治になり京都の信徒が減少したので、庵室に残された大量の什宝は京都に於ける世話人であった山崎芳兵衛・茂兵衛兄弟が岡山に移す。以来、この派は岡山県内の信徒だけで各地に孤立しながらも、内信を続けている。

2019/08/19追加:
○「聖 ―写真でつづる日蓮宗不受不施派抵抗の歴史―」高野澄・岡田明彦、国書刊行会、昭和52年 より
日題派日慎
隠岐島前碕に配流される。中良家(屋号)に預けられ、中良家の娘と恋に落ち、入水する。中良家には墓と遺品が残る。
(墓と遺品の写真の掲載あり。)
〇サイト:「隠岐海士町 歴史」>日慎上人 より(全文転載)
 徳川幕府の弾圧に屈せず、流された不受不施僧。渡辺家の娘と恋仲になったが勘当され、崎の海岸で心中したという俗説もあります。
墓は崎の中良家に、碑は延享元年(1744)に弟子が来島し建立、渡辺家の墓地の一隅にあります。当時総て朱塗られていた碑の文字は今も美しく、微かに残る朱塗りが歳月を偲ばせます。
 ※以上の他の情報はなく、従って詳細は不明。
 ※2020/04/03:加茂政所日題派供養塔の刻銘によれば、惣持院日慎聖人は白川門流三世(白川心性寺3世)である。

備中加茂政所不受不施白川門流日題派供養塔
 ※備中加茂は現岡山市北区、供養塔の建立されている場所は小字政所かどうかは不明であるが、いずれにしろ政所の近隣である。
 緯度・経度:34.677086, 133.828314 に所在。
○2007/06/23付「山陽新聞」記事
 江戸時代前期に不受不施派の主流から分派した日題派は天保9年(1838)の大弾圧で寺も僧も絶え、信徒のみで信仰を守ってきた。
明治になり信仰の自由が保証されても、信徒らは信仰を積極的には口外せず、近年まで存在自体が知られていなかった。現在でも僧がいないため、葬儀や法要は信徒の代表の「導師」が執り行い、戒名もない。
 信徒の殆どは岡山県県内在住で、判明しているのは約100世帯という。その内の約25世帯が集まる加茂(談所?政所?)には江戸期の曼荼羅・僧の日記・僧と信徒との書簡などが残る。これらは昨秋県立資料館に寄託される。
これを機に、先祖を供養し歴史を後世に伝えるため、加茂に供養塔を建立する。供養塔は平成19年(2007)年除幕が行われる。
◎日題派供養塔:
 正面は題目と日蓮大菩薩、日朗菩薩、日像菩薩と刻む。南側面には「不受不施白川門流日題派由緒」と題し、由緒を刻む。北側面と背面は不明。供養塔側面には墓誌が建てられる。
 ※備中加茂村は近世、大部が旗本備中高松花房領であった。
 ※備中加茂には蓮休寺がある。しかも蓮休寺は物集女石塔寺末である。
 ※備中加茂の西は津寺である。津寺には宗蓮寺があり、この寺院も物集女石塔寺末である。津寺の更に西南は日指である。
2018/09/30追加:
白川門流供養塔の位置(GoogleMap)及び写真(GoogleStreetView)を掲載する。
 白川門流加茂供養塔位置:中央付近が供養塔設置位置     白川門流加茂供養塔1     白川門流加茂供養塔2
2020/04/03撮影:
白川門流日題派供養塔には次のように刻む。
(正面)
 題目/日蓮大菩薩/日朗菩薩/日像菩薩
(左面)
 代々御先師
  開基心性院日悟大徳 二世蓮華院日題聖人 三世惣持院日慎聖人
  四世覺樹院日源大徳 五世成就院日勇大徳 六世義精院日鏡大徳
  七世白慶院日幸大徳 八世孝善院日養聖人 代々御先師先徳報恩謝徳
(右面)
 日蓮宗不受不施白川門流日題派由緒
  当門流は日蓮大菩薩御入滅の地武州池上本門寺第十一世仏寿院日現聖人の御弟子先の蓮華院日題聖人は武州忍に蓮華寺を開く。
  心性院日悟大徳は帝都布教の拠点として白川心性寺を建立す。
  以後代々の御先師先徳よく祖師日蓮大菩薩の金言不受不施の宗規を厳守し妙覚寺日奥門流と共に日題聖人は内信布教を展開す。
  天保九年の大法難により中京の拠点は壊滅し御本尊経典類は山崎茂兵衛により備中妹尾村啓運講中瀬川林平らに伝えられ
  後に加茂政所講中が護持するに至る。
(裏面)
 日蓮宗不受不施白川門流日題派 政所講中
  導師  中山實
  岩佐 敦 (他23名)
   平成十九年六月吉日建立
 政所日題派供養塔1     政所日題派供養塔2     日題派供養塔左面1     日題派供養塔左面2
 日題派供養塔右面1     日題派供養塔右面2     日題派供養塔背面
 日題派供養塔墓碑:墓誌(大意は次のとおり。
平成18年政所講中所蔵のお宝を岡山県立記録資料館に寄託し維持管理を依頼する。これは不受不施派中務日量の指導による。
その後の調査により孝善院日養の弟子21名余の遺歯等を発見する。
そもそも江戸期不受不施派は禁制とされ、苛酷な弾圧を受けるが、その中で法灯を堅固し継承した代々の先師先徳の供養のために石塔を建立し、講中が護持していた先師の遺歯仏像七体及び日養の弟子21名余の遺歯を奉安するものである。

2025/01/16追加:
○「報恩大師伝承の浸透と日蓮宗不受不施派の信仰」平松典晃 より
◆岡山市北区加茂の政所講中にみる白川門流日題派の信仰(2017年初稿)

 現・岡山市北区加茂は、江戸期には備中国都宇郡加茂村であり、旗本花房氏が知行した村であった。
その中の政所(まどころ)と呼ばれる集落には、日蓮宗不受不施派の一派である白川門流日題派の信仰を続ける政所講中がある。
同派には僧侶が不在で、信者のみで信仰を守り続けている。
また政所講中には京都中京組長栄講中からもたらされたオタカラと呼ばれる史料が伝えられている。その中には曼荼羅本尊や遺歯・遺髪・遺骨などが含まれている。
 ◆白川門流日題派と政所講中の信仰
 白川門流日題派は寛文7年(1667)蓮華院日題が不受不施派の主流から分派した流派である。
その後、天保法難により京都で孝善院日養が捕えられて獄死したことで法灯が途絶え、僧侶不在の状態となった。
 その後は京都中京組長栄講中(以下京都長栄講中)を中心に各地の信徒によって僧侶不在のまま信仰が維持されたと考えられる。
しかし、京都長栄講中は次第に衰退し、明治18年には途絶えることになる。
そのとき山崎茂兵衛、芳兵衛兄弟は、同講中の什宝を信者の多い備中妹尾に運んだが、その妹尾でも信者が減ったため、昭和17年に政所へ什宝を移すという。
これが現在政所講中に伝えられているオタカラである。
 政所には現在50数戸あり、その内政所講中を構成する白川門流日題派の家が24戸ある。政所講中は東と西に分かれ、平成27年8月現在で、東が13戸、西が11戸ある。かつて政所講中の檀那寺であったと言われる日蓮宗津寺宗蓮寺の檀家は現在政所には一軒もない。
政所講中では、内信当時の伝承を現在も聞くことができる。
講中の話者によると戦後になっても夜遅い時間に講中の人が集まってオカンキを行っていたほか、話者が幼いころに祖母から聞かされた話では、魚取りなど殺生をしてはならない、講中の信仰に関することは他言してはならないなど、厳しく言い聞かされたという。
この地域の氏神としては政所の北東2〜300mのところに加茂神社があるが、講中のものは参拝せず、尻を向けて通れと言われたという。
時代の流れと共にこのような意識は徐々に薄れ、オカンキも早い時間に行われるようになっているが、講中の結束は強く信仰を守っていこうという意識は大変強い。
 ◆政所講中における信仰の変遷と石塔調査
 政所で白川門流日題派の教えが信仰されるようになった経緯は不明であるが、ムラの周辺にある津寺宗蓮寺や加茂蓮休寺はもともと天台宗で、近世初期にこの地域を統治することになった花房氏が日蓮宗に改宗したと伝える。
 政所講中の伝承によると、同講中は本来宗蓮寺の檀家であったが、同寺が受布施派に転向したため、政所講中の人々は信仰を維持するため檀那寺から離れ、石塔も同寺の墓地にあったものを、現在の墓地に移転したと伝える。
政所講中の石塔をみるとおおよそ江戸期のものには法号が刻まれ、明治以後のものには法号が刻まれず、正面にも俗名などが刻まれたものがみられる。前者の石塔に刻まれた法号は檀那寺の僧によるもので、後者は僧侶不在であるために法号を付けることができないためであるという。
つまり後者は檀那寺から離脱後のものである。
その時期を知るために、政所講中の墓地で石塔調査を実施したところ、法号が刻まれた石塔では明治15年の没年が刻まれたものが最も新しく、法号が刻まれていない石塔では、明治12年の没年が刻まれたものが最も古いことが明らかになった。
弾圧の脅威が無くなった明治10年代前半に離脱が進んだようである。
現在政所講中の墓地(※墓地の写真は2020/04/03撮影として本ページに掲載)として使用されている土地は、宗蓮寺の墓地から石塔を移転する際に、この地域の地主から田を分けてもらい墓地にしたと伝える。
 ◆京都長栄講中からもたらされたオタカラ
 政所講中には京都中京組長栄講中の史料が伝えられ、これを「オタカラ」と称している。
講中の方々がその管理を岡山県記録資料館に依頼したところ、大量の文書や曼荼羅本尊の他、遺歯、遺髪、遺骨などが多数含まれていることが明らかになった。
同史料に含まれる遺歯、遺髪、遺骨は、あらたに建立された供養塔内に納められた。
現在実物をみることはできないが、講中の小山實氏が写真などの記録に残されているので、その記録に頼りながらこれらの史料について検討を行いたい。
 ◇御先師様遺歯二六本
この遺歯はガラスのビンに入れられ、ホルマリン漬けにされていたという。
それを覆う袋に「御先師様」と書かれており、日養上人と言い伝えられている。
納められている歯の数は26本である。
 ◇山崎國弘木箱入り遺歯三二本
木箱には山崎國弘とありその下には花押が記されている。
この山崎國弘は僧侶に準ずる立場にあったのではないだろうか。
遺歯は32本で一本ずつ紙に包まれている。この内19本の包み紙には年・月・日・時間・歯の名称などが記されている。
最も古いものは「天保5年(1835)6月5日前は(歯)左り」と書かれ、一番新しいものには「元治2年(1865)2月9日八つ時下奥は上下三十弐枚納」とある。
これらの歯は生前に歯槽膿漏などで抜け落ちたものと思われ、虫歯のように齲蝕したものも含まれている。
また包み紙の多くに「芳兵衛」と書かれ、箱の墨書に山崎國弘とある。同一人物であるとみられる。
 ◇山崎茂兵衛の遺髪
包み紙に明治5年申6月11日山ア茂兵衛六十九才と書かれている他には情報はない。
しかし明治18年に京都長栄講中が活動を停止し、当時その代表者であった山崎芳兵衛と山崎茂兵衛の兄弟が、信者の多い備中妹尾に京都長栄講中の什宝を運んだといい、両名が僧侶不在となった京都長栄講中のなかで高い地位にあったことが推定される。
両名が自らの歯・髪も備中へと運んでいることがわかる。
 ◇妙蓮尼の遺骨、遺髪、遺歯
妙蓮尼については「一妙蓮尼骨辰〇十六日」と墨書のある曲げ物に入れられた遺骨(内容物の写真は無い)、「妙法妙蓮尼」などと書かれた紙に包まれていた白髪混じりの遺髪、「みつえ」と書かれた紙に包まれていた遺歯(写真で見る限り20本程度か)がそれぞれ伝えられている。
この遺歯については、遺髪と一緒に包まれていたようである。「みつえ」という俗名の女性とみられる。
歯と髪については、生前に保存した可能性があるが、遺骨は明らかに死後のものである。その時期は不明である。
 ◇陶磁器に入った遺歯多数記入無し
 ◇陶磁器に入った遺骨記入無し
上2ツについては記録がなく、誰のものかはわからない。
これらの遺歯・遺髪・遺骨が政所講中に伝えられ理由は伝えられておらず、保管し続けている目的も不明である。
死後に遺骨を霊場などに納骨する例は、高野山奥の院や奈良の元興
寺などがよく知られており、多所多祭による死者供養である。
政所講中に伝えられた長栄講中の遺歯・遺髪・遺骨も同様の目的が考えられる。
 白川門流日題派の場合は、他の不受不施諸派と同様に寺を失い、公に信仰を継続することが不可能となったこと、天保法難で日養を失い以後僧侶不在になったことなど、同派の事情が関係していると考えられる。
長栄講中からもたらされた遺歯・遺髪・遺骨は不受不施僧である日養のものとされる遺歯と、以後は講中のなかで高い地位にあった俗人のものとみられる。京都での信仰が維持できなくなったため、信仰が行われる地域で供養されることを望み、オタカラとともに伝えられたものと推察する。
 ◆おわりに
白川門流日題派は天保法難以来僧侶不在となり、以来今日に至るまで信者のみで信仰が維持されている。
政所講中が檀那寺から離脱した後の石塔に法号が刻まれていないのはそのためで、近現代における政所講中の特徴ということができるだろう。
また、日題派の中心組織である京都中京組長栄講中からもたらされた遺歯・遺髪・遺骨は同派最後の僧である日養のものと、日養亡き後に日題派のなかで中心的な役割を務めた人物のものである。
つまり法脈を伝える僧と、僧にかわって信者を指導した人々のものであり、信仰の拠り所になり得るものである。
僧を失い法脈の断絶に追い込まれながらも、同派の信仰を維持する望みを託して保存され、政所講中に伝えられたものと推察する。
また遺歯・遺骨・遺髪をオタカラのなかに納めるのは、死者供養であり、日題派を信仰する人々のもとで供養してもらう目的があったものと考える。
 不受不施諸派の内信は、いずれも幕府によって不受不施派が禁じられる以前に形成されていた不受不施派寺院との関係を引き継ぐものであると考えられる。
それらの寺院は基本的にはムラの先祖信仰を担っていたとみられる。
寛文5年の幕府による弾圧の際に廃寺、または受不施派寺院に転向した場合に、人々は表向きには新たな檀那寺に属するものの、実際には不受不施派の教えを信仰する内信者となり、従来の信仰を続けた。
つまり不受不施派信仰の基底には先祖信仰があり、弾圧下においても先祖信仰が行われている。
約200年にわたって弾圧に耐えながら信仰を継続した根底には、先祖が信仰した宗派による先祖信仰を守り続けたいという強い思いがあったものと考えられる。
 ※天保法難後の変転、備中妹尾の講中から加茂の講中への移動、さらに平成18年加茂政所講中所蔵のお宝を岡山県立記録資料館に寄託し維持管理を依頼したことなどから、日題派は信仰堅持が困難になりつつあると推測される。
さらに、その後も、時代の変転に伴い純粋な信仰を貫徹する精神や共同体と取り巻く環境も変化し、ますます日題派護持は困難になっているものと懸念される。

2025/01/20追加:
○「日蓮宗不受不施派讀史年表」 より
日題派の系譜と歴代

【系譜】
 池上本門寺10世 佛l壽院日現、永禄4.7.21、66歳、字但馬
 武蔵忍蓮華寺開基 蓮華院日題(池上日現弟子)、慶長13.12.1    ※武蔵忍蓮華寺の概要は下に掲載
 武蔵忍蓮華寺2世 龍華院日教(開基日題弟子)、慶長13.12.20
 白川心性寺開基  心性院日悟(2世日教弟子)、萬治2.6.16、72歳、字残育
        妙覚寺21世 佛性院日奥
               鷲山院日慈(日奥弟子・日奥甥)、寛文9.7.22、66歳、白川日題に合流
 白川心性寺2世
    日題派々祖 蓮華院日題(白川心性寺開基心性院日悟弟子、鷲山院日慈合流)、のち出寺

【歴代】
 派祖:蓮華院日題(白川心性寺2世)、正徳4.6.24、82歳、1714
 2世:惣持院日慎(派祖日題弟子)、寛保元.9.16、61歳
 (徐歴)如法院日如(惣持院日慎弟子):《徐歴》、孝順
           享保10年;日題派で日如と玉運・浩然が対立し事実上分裂す、1725
           享保16年;5月下旬、日如(孝順)備中の受教宅にて不導師派の恵教・義應と面談、両派和睦を論ず
                その後7月まで、日如、美作に赴く、
                7月26日:日如、不導師派恵定院日新と日新の庵で両派和合を話し合う、
                      この時の日題派庵室は京伏見開道七条上る西側5・6軒目井筒屋平左衛門宅
                7月27日、恵定院日新「対面記并御評定・孝順え遣状草」著す、
                7月、恵定院日新「石上物語」を著す、
                10月20日、恵教・恵定院日新ら両派の和合決裂を孝順(日如)に伝う、
           享保17年;木屋町庵主・浩然」寂、1732
           享保20年;日如、貫主職となる、1735
           寛保3年;日題派觀順、日如を諫めて勘気を蒙る、1743
           宝暦4年;如法院日如寂(「遺滴新目録」)
            ※以上の事象を辿ると、日如は不導師派(津寺派)との和合を画するも、それが決裂し、
             おそらくはこのことが、日如徐歴の主たる理由であると推測する。
         日長:宝暦元年;日題派日長「日如法義断絶由来」を著し、日題派再分裂(「遺滴新目録」)
 3世:成就院日勇、寛政6.9.25
 4世:覺樹院日源、安政6.2.19
 5世:義清院日鏡、文政8.3.6
 6世:自慶院日幸、天保3.8.13
 3世:孝善院日養、(不明).4、天保法難で捕縛され、牢死する、日養の死により日題派の法中(僧侶)は途絶する。
    ※歴代は「當門流由緒書」による。但し、日如・日長は「遺滴新目録」による。

○「日蓮宗寺院大鑑」池上本門寺、昭和56年 より
◆武蔵忍蓮華寺
文永11年(1274)創立、開山は大国阿闍梨日朗。池上本門寺末。
元は埼玉郡小見村にあり、真言宗如意珠山薬王寺であった。
文永11年日朗、宗祖の赦免状を携え、薬王寺に宿泊、当時の住僧が日朗に帰伏、法華宗に改宗、2世日教となり、寺号を妙法山蓮華寺と改号する。
元亀年中忍城主成田長泰が現在地に移転。
 ※開基蓮華院院日題については、全く言及はない。代わりにといっては問題があるかも知れないが、開山は日朗という。
 ※そのほか、開基蓮華院日題に触れたようなWeb情報は皆無であった。よって、蓮華寺開基日題については全く不詳である。
 ※なお「新編武蔵風土記稿」では、「昔は小見村にあり、文禄年中左中将忠吉卿の命によりて、ここに移せしと云。本尊釈迦を安置す。
鬼子母神堂。三十番神堂。」というようである。なお、左中将忠吉は徳川家康四男・松平忠吉。

2025/01/20追加:
○「日蓮宗不受不施派讀史年表」 より
祖・白川心性寺2世蓮華院日題事績

寛永8年 (1631) 日題、「樹師年紀諷誦文」著す
寛永20年(1643) 日題、京都白川心性寺日悟について薙染(ちせん:剃髪)す
明暦3年 (1657) 日題、京都白川心性寺に入院
寛文元年 (1661) 可觀院日延、「日延返答抄」を著し、日題を破す
寛文2年 (1662) 大崎安之丞、筑紫より上洛、白川心生性寺日題へ日延法理のこと語る
 同年       日題、「奥師三十三年七言絶」を作る
寛文7年 (1667) 3.3 (全學院日高、日延謗法の採決を宗中の督促)
 同年       3.8 (全學院日高、「英然状ニ付不審ノ条々覚」を著し、了聖院日性・鷲山院日慈へ送付)
 同年       3.13 日題、鷲山院日慈へ書状を送付
 同年       3.晦 (全學院日高、妙覚寺出寺僧仲間より分派)
 同年       4.2 (受不施派、京都白川心性寺を訴える)
 同年       4.8 日題、「日延謗法目前抄」を著す、
              この時日題・鷲山院日慈等は日延の法理につき日精ら妙覚寺出寺仲間と意見を異にし分派す
              日題らは日延を謗法と決定したが、日精らは未制以前として許す
 同年       4.13 日題、鷲山院日慈に書状を送り、日延の法理につき日講・日浣と意見を異にすることを告ぐ
 同年       4.22 (全學院日高「筑紫物語」を著す)
 同年       5.1  (安国院日講、全學院日高・可観院日延のことに関し大阪光長寺慈眼へ書状を送付)
 同年       6.8  (全學院日高、日延法理につき日講に書状を送付)
 同年       8.15 (安国院日講、白川日題を批判す)
 同年       8.下 (鷲山院日慈、「就テ筑前香正寺日延ノ法理、鷲山院之事」を著す)
 同年       11.下 (全學院日高「筑紫物語追加」を著す)
 同年          日題「精党破制論」を著す
寛文8年 (1668)    (肥後流人日浣、日延法理につき小西六右衛門に書状を送付)
寛文9年 (1669) 5.4 (日延謗法を未制以前とした妙覚寺出寺僧仲間は寶樹院・雲月を除き悲田不受不施派に改宗す)
 同年       5.11 日題、京都町奉行所へ手形拒絶訴訟を提訴
 同年       6.11 日題、江戸へ訴状提出の為、京都を出立、11.24江戸着
 同年       6.29 日題、寺社奉行加々爪甲斐守・小笠原山城守に出訴、当日より7.9まで3度取り調べ
 同年       7.9  日題、小笠原山城守より脱衣追却に処される、日題、関東より退去
 同年          (鷲山院日慈、「自諫心要素」を著す)
 同年       7.22 (鷲山院日慈、備中片島で寂(66)、日奥の甥)
 同年       8.  日題、「三根問答」著す
 同年          日題、「悲田十個条過失」「二十八品之詩」を著す
寛文10年(1670)    日題、「悲田破十六箇条」著す
延寶4年 (1676) 2.16 日題、京都木屋町で「中性論」著し、眞迢・眞陽の「護持正法鉚」を破す
延寶7年 (1679) 3.10 日題、「日奥聖人第五十年忌斎風誦文」を著し、日奥50回忌を白川心性寺で行う
 同年           日題、「奥師徳行記」「勧信之法語」を著す
天和3年 (1683)    日題、「御消息感得記」を著す
貞享元年 (1684)    日題、「受不受法語」を著す
元禄元年 (1688)    日題、「閑邪論」を著す
元禄2年 (1689)    日題等16人京都から追放、その後元禄4年頃、大阪に居住
元禄3年 (1690)    日題、「添略中正」「値擯出之難砌詠歌」を著す
元禄4年 (1691)    日題、「認置訴状」を著す
元禄5年 (1692) 11. 日題、「閑邪陳善記」を著す
元禄6年 (1693)    日題、「門弟制儀六個」を著す
元禄7年 (1694) 6.7 日題、「法華女人成佛論」を著す
元禄12年(1699)    日題、「中正論或問」を著す
元禄13年(1700) 2.  日題、「中正論或問」が刊行さる
元禄13年(1701)    日題、「録内啓蒙評」を著す
宝永2年 (1705)    日題、「法華初心要學論」を著す
宝永3年 (1706) 3.16 日題、「亨尋抄之評」を著す
宝永5年 (1708) 11.  日題、「陳善記」を著す
宝永7年 (1710)    日題、「答日深之疑問」を著す
正徳2年 (1712) 6.  日題、「断邪顯正論」を著し、浄土宗了海の「摧驤再難抄」を破す
正徳4年 (1714) 6.24 日題寂、京白川心性寺2世のち出寺、日題派祖

蓮華院日題200遠忌報恩供養塔:備中三因法華経題目石塔
2018/11/07追加:2022/09/28追加;
○「清音村誌」昭和54年 より
  (横):一天四海皆帰妙法
 正面 :南無妙法蓮華経 蓮華院日題聖人
  (横):第二百報恩忌供養塔
     :大正2年8月24日
上天神にある。
不受不施日題派祖日題の200回忌に盛大に祭をして供養塔を建立したものである。
とあるが、
銘文は
   左横:第二百報恩忌供養塔
  正面 :南無妙法蓮華経 蓮華院日題聖人
   右横:大正2年8月24日
である。(※「一天四海皆帰妙法」の銘はなし。)
2022/05/05撮影:
聞取りは一切しておらず、従って、この付近に日題派信徒がいるのかどうかなどは不明。
 蓮華院日題報恩塔11    蓮華院日題報恩塔12    蓮華院日題報恩塔13    蓮華院日題報恩塔14
 蓮華院日題報恩塔15    蓮華院日題報恩塔16    蓮華院日題報恩塔17    蓮華院日題報恩塔18
 蓮華院日題報恩塔19
 平成3年にはおそらく信徒であろう、石灯篭が寄進されている。
 寄進石燈籠1     寄進石灯篭2
 報恩塔境内地神     報恩塔境内石碑:奉修呪(以下の4、5文字判読できず)と刻むも不明、年紀は昭和18年と思われる。


2017/08/07作成:2025/01/20更新:ホームページ日本の塔婆日蓮の正系