安 房 小 湊 誕 生 寺 ・ 小 湊 妙 蓮 寺

小湊誕生寺三重塔

宝暦8年(1758)の大火以前の境内図として以下の数点が現存する。
「誕生寺絵図」(寛政3年・1791書写・原図の製作年代不明)
「房州長狭郡内浦之内市川村と小湊諍論ニ付裁許絵図」(元禄13年1700)
「市川村小湊村絵図」
「小湊山絵図」(扇型・版木・年代不詳)
「小湊山絵図」(大判・版木・年代不詳)・・・・・いずれも宝暦8年の大火以前の景観と推定される。

いずれの絵図も、境内左手の山際に三重塔が描かれている。
また「三重塔は参道左手の日蓮聖人ご幼像の前、枝を大きく広げる老松の辺りに建てられていた」との言い伝えもあるという。

2023/08/25追加;
○小湊誕生寺HP>小湊山史の散策>はしがき>45.江戸時代の伽藍 より
45.江戸時代の伽藍
 宝暦8年(1758)の大火によって、祖師堂を始めとする伽藍は焼失する。現在の伽藍はその後再建されたものである。
大火以前の境内については、寛政3年(1791書写・制作年代は不明)の『誕生寺絵図』が参考になる。本絵図では境内地左手の山際には三重塔がある。
 口伝では、三重塔は参道左手の日蓮聖人幼像の前、枝を大きく広げる老松の辺りに建てられていたという。
で、近年それを裏付ける新たな史料が発見される。
元禄13年(1700)十二月六日付の『房州長狭郡内浦之内市川村と小湊諍論ニ付裁許絵図』(口絵写真2)と『市川村小湊村絵図』である。
二枚の絵図を見ると、境内左手の山際に三重塔が描かれる。
 では、三重塔が建立されたのは何時なのか。
興津妙覚寺の記録である『上総国興津村広栄山妙覚寺継図写』では、「古湊(小湊)宝塔モ同時立中候、同(寛永十九年)五月ヨリ大工四十人居申候、同九月出来申候、正保元年甲申四月八日塔供養成サレ候、古湊十八代日遵聖人ノ御代ナリ」と記される。
宝塔すなわち三重塔の建立は寛永19年(1642)、十九世長遠(じょうおん)院日遵上人代のことであった。
さらに、最近、千葉県香取郡干潟町の平山高書氏から、三重塔の建立について大変貴重な史料が寄せられる。
それは、日遵上人が、備前岡山蓮昌寺とその末寺に宛てた書状である。八月十日付で、内容から寛永19年のものと判る。
「三重の宝塔」建設が中々はかどらないこと、今年は全国的な飢饉に見舞われ、申し入れるのも心苦しいことではあるが、秋にもなったので檀信徒への勧募をお願い申し上げる、そして「仏法のため、又は祖師御誕生の霊地にて候間、是非ご苦労ながらご奉加を希う所に候」と結ばれている。
当時、不受不施制をめぐる幕府、宗門内の対立の渦中にあった誕生寺を、日蓮聖人誕生の霊地として護持しようとする苦心の程が偲ばれる。

誕生寺絵図」(小湊誕生寺蔵)



2008/08/03追加小湊誕生寺絵図:上図と同一(多少拡大図):「江戸時代図誌 巻9」より

2023/08/25修正:
○小湊誕生寺HP>小湊山史の散策>はしがき>50.江戸時代の境内 より
50.江戸時代の境内
現在の誕生寺の諸堂は、仁王門を除いて宝暦8年(1758)の大火以後に再建されたものである。
『小湊山絵図』によって、解説する。
即ち、
まず総門は、誕生寺から妙蓮寺へ向かい、妙蓮寺への参道入り口の先にある市川に架かる橋を渡った場所にある。
現在の総門の辺りには、黒門がある。
門の前には、下馬札と共に境内が朱印地であることを示す「御朱印」の札が立てられる。
参道の左手には、常題目堂、誕生堂、愛宕明神社、えいしん院、七面明神社が、また山手に稲荷社が見える。
えいしん院は不詳であるが、西之坊は、四院家として恵性院と称したというから、同院のことかも知れない。
現在は、誕生堂とその上段の山手に太田稲荷堂があります。
右手には、鐘楼、誕生水、子安明神社、えなの松がある。現在の誕生水は参道の左手である、移転したのであろうか。
参道をまっすぐ進み階段を上ると、仁王像を安置した三門(現在の仁王門)がある。
三門からの参道左手には、雨降り桜、常経堂、大仏、三重塔が並び、山手には天道松がある。
三門からまっすぐ進むと、現在の祖師堂がある辺りは一段高くなり、階段を上ると廊下でつながれたお堂が三棟並ぶ。
左側は一番大きく、祖師堂で、十八世日延上人の代に建立される。
中央は万仏堂で、二十六世日孝上人の代に建立される。
右側は一番小さく、牌堂で、正徳3年(1713)二十七世日裕上人代に建立された月牌(がっぱい)堂であろう。
左手の山際には鬼子母神堂があり、墓地の石塔も見える。
方丈や書院、客殿、対面所が建ち並ぶ本院は、現在と同じ場所である。
鎮守の番神社も、現在の小湊神社の場所である。

三重塔の退転時期は不詳、宝暦8年の大火で焼失などと思われる。

小湊誕生寺三重塔の建立時期

「上総国興津村広栄山妙覚寺継図写」(興津妙覚寺記録):
「古湊(小湊)宝塔モ同時立中候、同(寛永十九年)五月ヨリ大工四十人居申候、同九月出来申候、正保元年甲申四月八日塔供養成サレ候、古湊十八代日遵聖人ノ御代ナリ」とあるという。
<三重塔建立は寛永19年(1642)、落慶は正保元年(1644)19世長遠院日遵人代>。

「日遵上人書状」
(寛永19年8月10日付・備前蓮昌寺並びにその末寺宛、書状は千葉県香取郡干潟町平山高書氏所蔵):
「三重の宝塔の建設が中々はかどらないこと、今年は全国的な飢饉に見舞われ、申し入れるのも心苦しいことではあるが、秋にもなったので檀信徒への勧募をお願い申し上げる」そして「仏法のため、又は祖師御誕生の霊地にて候間、是非ご苦労ながらご奉加を希う所に候」とあると云う。


小湊誕生寺略歴

貞応元年(1222)日蓮聖人、小湊片海の地に生誕。
建治2年(1276)2世日家、聖人生家跡に一字を建立し 高光山日蓮誕生寺と称する。
3世日保。

明応7年(1498)大地震、大津波、土地陥没、伽藍壊滅のため妙の浦に移転と伝える。

寛永7年(1630)身池対論、小西能化日領(小湊14世)佐渡→陸奥相馬へ流罪。
   →小西檀林陸奥相馬中村仏立寺
小湊16世日延自ら九州下向(あるいは追放とも云われる)
   →筑前博多香正寺)。
身延の脅迫により、小湊は「起請文」を差出。
日樹上人等の流罪を聞き、小湊17世日税自刃。

寛永10年(1633)19世日遵(京洛頂妙寺住)小湊に下向。身延帰伏を停止。
日遵は不受不施の古制を堅持し、不受不施の重鎮となる。 →玉造檀林
慶安元年(1648)19世日遵代、家光の朱印・70石安堵。

2019/10/26追加:
○「禁制不受不施派の研究」宮崎英修、平楽寺書店、1959(昭和34年) より
◇小湊の離反
 身池対論の後、身延はこれを勝利とし、寺領供養を以って公儀裁可の法理であるとし、国主除外の不受不施を以って諸山・諸門流の同意を得ようとし、小西中村の両檀林を手中に収め、これにより支配下の飯高檀林を加えて自派の檀林を三檀林となす。本寺は池上・京都妙覚寺に加え中山・小湊の本寺を進退し、余勢をかって碑文谷・平賀を収めようとするもこれは頓挫する。しかし、身延は関東においても屈指の大本寺を手中に収めたのである。
 しかし、間もなく、小湊は離反する。
対論の頃、小湊は日領の後を継いだ日税が退き、可観院日延が住していた。しかし対決の時、日延はその場に出席はせず、これは病中であったとも対決の煩わしさに拘わりたくなかったからとも云う。しかし、いよいよ採決の申し渡しのとき、日延はともに罰せられるように請うたのである。
この申出のことは、日樹の書状や小湊日雲の訴状にも触れられ、確かなことである。さらに身延の追放記録や身池対論記にも追放として記録されているので、追放も確かであろう。
とこらが、小湊では追放ではなく、隠居という。
 その日延であるが、自ら進んで追放されたが、それに先立ち後住を議し、衆議をもって日遵を後住とする。「追放」され、日遵は5月初めに小湊を出、伊勢の一柳監物の知行所に赴くという。しかしその後日遵は伊勢から博多に赴き、寛永8年黒田忠之の帰依を得て、香正寺を創す。日延は自由に国内を歩いていたのである。
 この点から見ると、日延の追放は追放された他の諸師とは違い、追放とは名ばかりで、小湊の云うように隠居したのであろうか。日雲は自信をもって、その訴状で隠居としている。
 ともあれ、日延は寛永7年5月の初め小湊を出、伊勢に赴くも、後住である日遵は、下関を目指すが、寛永10年(1633)3月13日まで京都頂妙寺に住していた。
日延追放後、小湊は支柱を失い、小湊長老・妙蓮寺や宿老成就院は身延の強圧的態度で動転し、身延帰伏の誓状を出したものであろう。
 日遵は、対論の裁定では京都に住していた理由で同じく追放を免れた日奥弟子住善院(日定)とともに京都の同志を率いていたが、関東の多くの重鎮を失ったあと嘱望されて、関東に赴くこととなる。
 寛永8年日遵は信州伊那に日樹を慰問しているが、日遵書状には、日樹から早く下関し子弟の教育にかかるように指示されたことが述べられている。
日遵は寛永8年にも下関する意向を示すが、下関は寛永10年にずれ込んだのである。
しかしともかく、日遵の下関により、身延は得ていたあるいは得たと思っていた小湊を失うこととなる。
さらに、得たと思っていたものが実は得ていなかったのに各本寺の末寺である。
 関東における法華宗一般つまりは各本寺の末寺一般は国主除外の不受不施を正統とはみなしていなかったのである。
日樹をはじめとする諸師が身を捨てて守った態度にこそ真の宗制が守られていると見るから、日樹等が身延派を以って受不施派と蔑称した名称をその通り名とし、自派をして不受不施派と誇るようになったのである。中山にしても池上にしても末寺は離れ、小西・中村を退檀した不受不施の学徒はじめ不受の諸師は身延の詐謀を暴き、しかも続々と新寺を建立し、弘教に力を尽くし、不受派の勢力は目覚ましいものがあった。
 身延は自身の力では如何ともしがたく、ついに幕府の権力を借りて不受派を押えようとの策謀に頼ることになる。
  ※長遠院日遵は祖山妙覚寺23世、自証寺(自證寺)2世、承応3年(1654)寂 年66。
  ※日遵の事績については、長遠院日遵上人 を参照

万治3年(1660)の末寺帳では直末寺128ヵ寺、孫末寺27ヵ寺という。
寛文5年(1665)寛文の法難。22世日明上人は悲田供養の手形を出す。
元禄4年(1691)幕府は悲田派を新義異流として禁止、住持は起請文を入れて、身延に帰伏。
谷中感応寺、碑文谷法華寺は天台宗に改宗の上、各々天王寺、円融寺と改号の処分となる。
幕府禁令は以下の様であった。
口上之覚:「・・・小湊誕生寺碑文谷法華寺谷中感応寺悲田宗と号不受不施の邪義を相立候ニ付今後悲田宗堅停止之旨被仰付・・・・」

元禄14年(1701)「小湊山山中掟」では四院家(西之坊、辻之坊、坂本坊、岸之坊)、浜之坊、奥之坊、橋之坊、脇之坊、清水坊、滝之坊の十坊の連判があるという。
元禄15年(1702)『小湊山二十四境』(詩文・26世貫首日孝上人題)には、千仏閣・多宝塔・万仏宝殿・鬼子母殿・祖師影堂・番神社などが詠まれているという。
また 「日孝上人の行業記」(日心上人著)には、多宝塔・刹女堂・千仏閣・七面社五年を満たずしてこれを葺く。また万仏宝殿落慶す。鐘鼓響きを増し、壮観嶷然たり」とあるという。
   →多宝塔記事があるが、実態は不明。

元禄16年(1703)大地震・大津波で倒壊、現在地に移転すると伝える。(移転はなかったともされる。)
26代日孝上人は水戸光圀公の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称す。

宝暦8年(1758)大火、仁王門を残し全山を焼失。
寛政2年(1790)「誕生寺僧職者書上」では、岸之坊、西之坊、浜之坊、辻之坊、脇之坊、坂本坊、清水坊の7坊が有住との記録がある。奥之坊は19世貰首長遠院日遵上人が、慶安5年(1652)両親の菩提のために開基する。浜之坊は払川の川端にあつた。
享保11年(1726)「新屋敷割帳」追加加記事。安政4年(1857)辻之坊日上人が朝尊堂を再建。
安政6年(1859)辻之坊日住上人が蘇生願満の日蓮聖人像修復に尽力。

天保13年(1842)49世代目闡上人、現祖師堂を再建。(天保3年(1832)起工、弘化3年(1846)落慶。
昭和から平成にかけて、50万人講を発願し諸堂を復興し、平成4年5月落慶式を行う。

補足:2004/06/12:
2004/05/15:「誕生寺絵図」について、日蓮宗大本山小湊誕生寺様 に使用許諾のお願いをするも、回答なし。
また当ページの「三重塔記事」及び「小湊誕生寺略歴」については、上記サイトの「小湊山史の散策」のページを要約。

本師殿宝塔

昭和63年5月完成。誕生寺復興50万人講の事業の一環として完工。総高約26メートル、径5.7m、塔体印度砂岩切石貼。
おそらく鉄筋コンクリート製で外装として淡色(茶色)の砂岩を貼る構造と思われる。
建築としての塔で、形式は宝塔の形を採る。
本尊釈尊像を安置。内部壁面には華麗な装飾があると云う。また内部には輪蔵があり、写経等が納められているとも云う。
2006/09/02撮影:
  小湊誕生寺宝塔1    同      2    同      3    同      4    同      5
その他伽藍
 祖師堂:弘化3年(1846)再興。桁行梁間の数を当るのを失念、しかしながら有数の大堂であろう。
  小湊誕生寺祖師堂1    同        2    同        3
 仁王門:宝永3年(1706)建立。平成3年大改修。間口8間。
  小湊誕生寺仁王門
 小湊誕生寺仏舎利塔:詳細は不明ですが、誕生寺西南方向に仏舎利塔がある。
  小湊誕生寺仏舎利塔(誕生寺の塔かどうかは不明)

25023/05/08追加:
清正公三百年祭紀念碑
総門を入り、仁王門の前に誕生堂があるが、その左奥手にこの碑がある。発願人は妙栄尼で、当時誕生寺には、間口二間奥行き二間半の清正公堂があり、竹本妙栄尼が堂守をしていた。

○2006/12/16追加:「敷島美観」小泉墨城編、東京 帝国地史編纂所、明治38年10月 より
  小湊誕生寺(M38年本敷島美観)

小湊誕生寺末寺

万治3年(1660)の末寺帳では、直末寺が128ヵ寺、孫末寺が 27ヵ寺、合計155ヵ寺が記されるという。
 ※万治3年は寛文5年(1665)の法難(不受不施の禁制)、元禄4年(1691)の法難(悲田派の禁制)前である。
延享2年(1745)の末寺帳では直末寺121ヶ寺、孫末寺37ヶ寺という。
 ※延享2年は寛文5年(1665)の法難(不受不施の禁制)、元禄4年(1691)の法難(悲田派の禁制)後である。
国別の内訳(武蔵44ヶ寺、下総23ヶ寺、上総18ヶ寺、安房15ヶ寺、備中13ヶ寺、尾張11ヶ寺、備前9ヶ寺、摂津5ヶ寺など。
 ※備前、備中では次の末寺が知られる。
 備前福岡妙興寺(寺中真浄坊、本住坊)、備前津倉妙林寺(寺中授法院、観明院、延寿院、清凉院)、備中妹尾盛隆寺(寺中浄園院、智應院、安詳院、善立院、観行院)

2016/03/06追加:K.G氏情報
「日蓮宗寺院大鑑」昭和56年などの資料から判明している、現存する末寺(孫末寺なども含む)数は次の通りである。
身延山 915寺、京都六条本圀寺 559寺、京都四条妙顕寺 320寺、中山法華経寺 316寺、池上本門寺 273寺、小湊誕生寺 174寺

その判明分を示す。

下総岩部大乗寺
○下総松崎勝栄山能満寺 →下総常盤村>東松崎
○下総多古林>林法林寺(池栄山)
○下総多古林>林妙法寺(廃寺) →同 上(林法林寺)
○下総多古林>林法光寺(廃寺) →同 上(林法林寺)
○下総水戸法眼寺 →下総五反田・林・水戸・石成・千田・船越・牛尾
○下総船越法性山大立寺 → 同  上
○下総染井妙福寺(廃寺) →大原・東台・中佐野・東佐野・染井>染井中、明治30年同じ染井妙暹寺と合併する。
下総染井妙暹寺 → 明治30年同じ染井妙福寺を合併する。
江戸白金覺林寺
江戸飯倉一乗寺(江戸麻布一乗寺) →大乗院日達開山:廣栄山と号す、港区麻布台2-3-22
江戸市野倉長勝寺:大田区中央6-6-5:日樹聖人33回忌供養塔がある。
○江戸梅里妙祝寺 →江戸堀ノ内界隈
○山城鶴林山真福寺 →山城の諸寺
○備前福岡妙興寺 →備前の諸寺
○備前菅野幸福寺 →報恩大師開基備前48ヶ寺菅野山(正保山幸福寺)
○備前黄門山瑞雲寺 →備前旧岡山市内の諸寺
○備前津倉妙林寺 →備前津倉妙林寺
○備中庭瀬大坊不変院 →備中庭瀬近辺諸寺
 ○不変院寺中本了院   →同上
 ○不変院寺中正善院   →同上
 ○不変院寺中中正院   →同上
 ○不変院寺中大乗院   →同上
 ○不変院末:備中東花尻妙傳寺 →備中庭瀬近辺諸寺
 ○不変院末:備中東花尻立成寺 →同上
 ○不変院末:備中西花尻正法寺 →同上
 ○不変院末:備中庭瀬信城寺   →同上
 ○不変院末:備中平野了性寺   →同上
 ○不変院末:備中山田浄泉寺   →同上
 ○不変院末:備中山地受法寺 →備中の諸寺
 ○不変院末:備中日畑浄安寺 →同上
○備中妹尾盛隆寺 →備中妹尾近辺諸寺
 ○盛隆寺塔中智應院 →同上
 ○盛隆寺塔中善立院 →同上
 ○盛隆寺塔中浄園院 →同上
 ○盛隆寺塔中安詳院 →同上


安房両親閣妙蓮寺

妙日山妙蓮寺と号する。日蓮上人両親の廟所。父は妙日、母は妙蓮の法名を持つ。両親閣御廟の意。

おそらく両親閣御廟の関連で「宝塔」に似せた塔が建立されている。
その形状は基礎とも思われる平面方形の台(実は基礎ではなくて、内部はおそらく何らかの仏堂の機能を持つものと思われる)の上に、平面円筒形の塔身(宝塔に見られる卵形ではない)を建て、方形屋根を載せ、相輪を上げる。
一重形式の塔建築(鉄筋コンクリート構造)ではあるも、宝塔でも「篋塔」でもなく、「簡略篋宝塔」とでも称するほかない形式と思われる。 (宝塔では無いので、便宜上「篋塔」に分類する。)
2006/09/02撮影:
  両親閣妙蓮寺篋塔1:通常では全体を眺めることは困難で、上半分位が拝見可能、一見宝塔に見える。
    同        2:宝塔の塔身ではなくて、円筒形の塔身であると思われる。組物なども省略されている。
    同        3:廊下のガラス越しに見ると、下は平面方形と思われる。


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