相輪橖(トウ)・屋内小塔・模型塔・擬制塔婆(塔もどき)・参考事項
塔 婆 に 関 す る 参 考 |
名称・場所 | 国指定 | 画像 | 備 考 | |
相 輪 橖(トウ) | 配列:地域順 | |||
. | 常陸西蓮寺 | 重文 |
橖1 橖2 橖3 橖4 橖5 橖6 橖7 橖8 橖9 実測図 |
弘安10年(1287)建立。弘安の役(元寇)の戦勝記念
に建立と云う。 高さ9.16m。心柱は木製で、周囲に10枚の鍛造銅板を巻き、繋目には7.6cmの帯輪で継ぐ。 頭部は五輪塔形式で、宝珠に火焔をつけ、それを取り巻く太い大輪及び大輪に懸かる12個の小輪からなる。大輪には卍字が飾られている。全体では錫杖の形をなす。 慶長9年(1604)修理、貞享5年(1688)解体修理、天保12年(1841)再建、明治36年大風により倒壊・再興、昭和53年 完全解体修理・基礎積み直し・腐蝕した心柱を檜材に取替え。 西蓮寺は延暦元年(782)最澄の弟子である最仙上人の開山と伝える。 明治16年本堂・薬師堂などを焼失するも、仁王門・相輪橖は焼失を免れる。 仁王門、薬師堂、常行堂、法華堂、中堂、鐘楼が現存する。 ※仁王門:重文、天文12年(1543)建立、当初は三間一戸の楼門であった。寛政年中(1789-1801)楼門上重を撤去する。安政7年(1860)現在地に移築、仁王門に改造する。特異な形の蟇股と蓑束がある 。 2012/08//20追加:「日本仏塔の研究 図版篇.」石田茂作、講談社、昭和45年 より 常陸西蓮寺相輪橖 2013/05/08撮影: 西蓮寺仁王門1 西蓮寺仁王門2 西蓮寺仁王門3 西蓮寺仁王門4 西蓮寺仁王門5 西蓮寺仁王門6 西蓮寺仁王門7 西蓮寺仁王門8 西蓮寺本堂 西蓮寺常行三昧堂 西蓮寺鐘楼 |
. | 日光山相輪橖 | 重文 |
日光山・本宮(四本竜寺)・輪王寺・中禅寺(中宮祠) 寛永20年(1643)家光の発願、天海大僧正の建立と伝える。 |
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. | 上野緑野寺 | . | 上野緑野寺跡、六所宝塔・安東:上野:宝塔院と伝える。 寛文12年(1672)再建橖。 | |
. | 下野大慈寺 | . | 下野大慈寺、六所宝塔・安北:下野;宝塔院と伝える。 寛文12年(1672)再建橖。 | |
. | 甲斐身延山 | . | 身延山 天明元年(1781)日蓮上人500年遠忌を記念して建立。 | |
. | 阿波太竜寺 | . | 阿波太竜寺 文化13年(1816)建立。 | |
. | 筑紫安楽寺天満宮 | . | 大宰府安楽寺天満宮 弘化4年(1847)延寿王院により再興される。 | |
. | 比叡山西塔 | 重文 | . | → 比叡山山城西塔中:六所宝塔・安中:山城:宝塔院と伝える。 明治28年改修橖。 |
. | 相模妙長寺 | . | 鎌倉材木座 昭和8年建立。 | |
. | 桃巌寺奥の院延寿山 | . | . | 昭和46年建立、青銅製、総高約30m、比叡山西塔相輪橖を模すと云う。 桃巌寺は曹洞宗、天文年中織田信行の建立、織田秀信廟所、名古屋大仏。 |
. | 備前脇田山安養寺 | . | 備前脇田山安養寺 平成9年建立か。 | |
. | 下野慈雲寺 | . |
橖1 橖2 橖3 橖4 |
日光含満ヶ淵にある。相輪橖の情報は皆無、詳細は一切不明。感触では鉄製と思われる。 そもそも東照大権現を創建した時、別当大楽院の地には一山僧侶の墓地があり、天海は弟子晃海(公海)に墓地の移転を委嘱する。承応3年(1654) 晃海大僧正は、この地を開き、慈雲寺を創建、阿弥陀如来・師の慈眼大師天海を祀ると云う。 明治35年台風に伴う大洪水により、全てが流失する。 昭和48年本堂が再建される。相輪橖は慈雲寺山門前にある。 |
. | 八瀬公園相輪橖 (平安遷都千百年記念相輪橖) |
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橖1 橖2 橖3 橖4 橖5 橖説明板 |
2012/08//20追加:「日本仏塔の研究 図版篇.」石田茂作、講談社、昭和45年 より 八瀬公園相輪橖:未見、所在場所未確認。 2015/05/10追加:「X」氏情報 所在:ケーブル八瀬駅の右手の「八瀬もみじの小径」にある。 おそらくここが八瀬遊園だったのであろうか。相輪橖は平安遷都千百年紀念祭に関わり建立されたようである。 Web情報:「平安遷都千百年記念橖」と称する。明治28年の「平安遷都千百年記念祭」の成功記念として、平安神宮境内の北側に建立される。昭和4年に八瀬に移築され る。 2015/06/28撮影; 塔の高さ18.48mと云う。 |
. | 摂津四天王寺 | . | 摂津四天王寺 | |
屋 内 小 塔 | , | |||
. | 大和海龍王寺(五重小塔)【国宝】 西金堂に安置。高さ4.6m。造作は天平初期とされる。 但し本格建築ではなくて、箱物に組物を貼付している構造と云う。それゆえ、建築というより工芸品の要素が強いと云う。 (大和元興寺五重小塔にやや先行する様式とされるが、元興寺小塔は本格建築に準じて造作されているとされる。) とは云っても、少しもこの小塔の価値が減ずるものではなく、天平期の五重塔遺構はこの小塔しか現存せず、天平期の唯一の五重塔遺構として稀有の価値のものとされる。 海龍王寺自体元々屋外の塔を持たず、(代替として?)西金堂安置の小塔を造ったとの説もある。(鎌倉期と推定される伽藍指図には西金堂内に五重小塔の書き込みがあるという。) また、基壇上段台座裏に、永仁5年(1297)の墨書があるという。基壇の作成と同時に塔の修理も行われたとされる。 2007/02/18 ○「日本建築史基礎資料集成・塔婆T」: 小塔は明治39・40年大修理を受ける。修理前は相輪は無く、台座は崩れ、初重・二重の組物の大部、屋根木瓦、隅棟の多くが欠落している惨状であった。 五重小塔明治修理前全景 五重小塔明治修理前断面図 海龍王寺五重小塔立面図 海龍王寺五重小塔断面図 ○「大和の古塔」黒田f義、天理時報社、昭和18年 下檀一辺8尺、高さ1尺1寸、上段一辺5尺5寸、高さ9寸7分 初重全3間2尺5寸7分、中央間9寸5分、両脇間8寸1分 二重全3間2尺2寸2分、中央間7寸5分、両脇間7寸3分5厘 三重全3間1尺8寸6分、中央間6寸3分、両脇間6寸1分5厘 四重全3間1尺4寸7分、中央間5寸、両脇間4寸7分5厘 五重全3間1尺1寸5分、中央間3寸9分、両脇間3寸8分 相輪長9尺6寸5分、全高13尺6寸5分 ○海龍王寺は隅寺(平城宮の隅にある)とも通称される。 天平3年(731)光明皇后(聖武天皇皇后、藤原不比等娘)の御願により創建と伝える。その後、玄ム僧正が住し、海龍王寺と号したという。鎌倉期西大寺叡尊が中興。叡尊中興時の経蔵<正応元年(1288)>を残す。 和銅3年(710)平城京に遷都、それに従い藤原不比等がここに邸宅を構える。この地は土師氏から譲り受けたものであるが、この地に在った土師氏建立の寺院はそのまま残し、それ故邸宅の北東隅に寺院が残る。 養老4年(720)不比等が逝去し、娘の光明皇后が邸宅を相続し、邸宅は皇后宮となり、北東隅の寺院は「皇后宮内寺院」となる。 天平3年(731)遣唐僧・玄坊が帰朝するにあたり、光明皇后は「皇后宮内寺院」の整備を行う。これが隅寺の歴史の始りである。 発掘調査により、奈良期の海龍王寺には、小規模な中金堂、東金堂、西金堂の3つの金堂があったことが判明している。 現存する西金堂は、位置、規模等は奈良期のままであるが、鎌倉期に再建に近い修理を受る。中金堂の旧地には本堂が建ち、東金堂は明治初期に失われる。 西金堂(重文)は奈良期の建立で鎌倉期に大修理が行われる。内部に五重小塔を安置する。切妻造、本瓦葺き、正面3間、側面2間。 本堂は寛文6年(1666)の再建。 経蔵(重文)は鎌倉期叡尊により造立されたと伝わる。 山門及び築地塀は室町期に建立と推定される。 東金堂は明治初年に廃絶し現在は土壇を残す。 創建当初は西金堂に相対し、内部に五重小塔が建っていた。 2015/02/16追加: ○「国宝五重塔 その意匠に見る日本美」小田原敏之、かもがわ出版、2013 より 本塔は天平時代の建築技法を今に伝え、この期の建造物としての五重塔はこれ一基しかないので、国宝に指定される。 元興寺五重小塔と違って、内部架構を省略するも、柱などの部材を丁寧に削り出し、台輪から上は4枚の板を枠に組み、肘木や斗を薄造にして貼り付け、実物そっくりに見えるように加工をしたものである。飛簷垂木と地垂木で1360本あり、この全ての小口に飾り金具が取り付けられている。但し現存するのは2個だけである。斗の数も約1600個が組み込まれるという。 2020/11/15追加: ○「大和古寺大觀 第五巻」秋篠寺・法華寺・海龍王寺・不退寺、岩波書店、1978 より 海龍王寺 平安期以降の伽藍の様子は延文元年(1356)の「南都海龍王寺寺中伽藍坊室之繪圖」及び14世紀と推定される「海龍王寺尼別受指図」(共に京都国立博物館蔵)によって知られる。 南都海龍王寺寺中伽藍坊室之繪圖 海龍王寺尼別受指図 「海龍王寺尼別受指図」では西金堂の中央に台座を置き、ここに五重小塔が安置されている。 ※但し、図版が悪くはっきりとは判断できない。 延文元年の繪圖によれば、寺地は東西68間、南北65間で、大門(現在の表門附近)、その内側に鐘楼門、金堂東金堂、西金堂、東金堂南に経蔵、金堂北に講堂、更にその北に食堂と思われる一宇、講堂の脇に東室・西室があり、西室の南端は太子殿となる。西北に地蔵院と一堂を描く。 近世末期の姿は「大和名所圖繪」に示されるが、講堂・食堂・西室・楼門などは既に失われている。 大和名所圖繪・海龍王寺 明治の神仏分離で鎮守春日明神は春日社として分離、東金堂は失われる。 現存する堂宇は次のようである。 西金堂:重文、天平期の建物であるが、平安期・鎌倉期に大修理を受ける。五重小塔は当初からこの堂に安置されていたかどうかは不明であるが、西金堂は薬師寺等の西塔に位置にあり、また西金堂と小塔との規模の調和を考えれば、当初からこの堂に安置されていた可能性が高い。西金堂は五重塔の覆屋として建立されたのかも知れない。 なお、東金堂には近世毘沙門天が祀られていた。東金堂には小塔ではなく、古くから毘沙門天を祀っていたかも知れないが、確証はない。 また、次の建物が現存する。 経蔵:重文、正應元年(1288)西大寺叡尊が新築する。 本堂:金堂の位置に建つ、寛文6年(1666)に建立と思われるが、頭貫・組物・桁・垂木等に古材が転用される。堂の造作は江戸期の建立であるが、古風な造りである。奈良市文。 海龍王寺鎮守:明治の神仏分離で海龍王寺から分離され、現在は春日社と称する。海龍王寺境内から直接は往来できなくなっている。また平素は鉄柵で閉じられ出入できない。 2007/08/23追加 「日本著名建築写真帖」斎藤兵次郎編、東京:信友堂、明治41年 より 海龍王寺五重小塔 2012/07/07追加: 「南都十大寺大鏡. 第23輯」東京美術学校編、大塚巧芸社、昭和8-9年 より 海龍王寺五重小塔2 2005/01/03撮影: 海龍王寺五重小塔1 海龍王寺五重小塔2 海龍王寺五重小塔3 海龍王寺五重小塔4 海龍王寺五重小塔5 海龍王寺五重小塔6 海龍王寺五重小塔7 海龍王寺五重小塔8 海龍王寺西金堂1 海龍王寺西金堂2 多宝小塔:銅製。特に取り立てて取り上げるものではないが、たまたま眼に留まる。 海龍王寺多宝小塔1 海龍王寺多宝小塔2:本堂に安置。 2020/09/28撮影: 本日は住職不在のため、臨時拝観停止であり、国宝・五重小塔の拝観などは出来ず。 海龍王寺表門:練塀とともに室町期のものと云う。 海龍王寺練塀 海龍王寺扁額:創建の奈良期「寺門勅額」(重文)は別途別途保存される。 海龍王寺客殿・庫裡 海龍王寺本堂門:推定 海龍王寺客殿門:推定 2020/10/03撮影: |
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大和西大寺 (五重小塔) |
. | 大和西大寺 奈良初期 | |
. | 大和元興寺 (五重小塔) |
国宝 | 大和元興寺 奈良期 | |
. | 周防阿弥陀寺鉄宝塔・水晶三角五輪塔 | 国宝 | . | 建久8年(1197)鋳造、俊乗坊重源の建立、総高(相輪とも) 301.3cm 相輪高 140.0cm 2022/12/28追加: 周防阿弥陀寺鉄宝塔・水晶三角五輪塔:柴田常恵社写真資料集 より 山口 阿弥陀寺 二二一 鉄製多宝塔 山口−43 とある。大正から昭和初頭の撮影か。 |
山城東山泉涌寺仏舎利宝塔/四条天皇陵宝塔 1:泉涌寺仏舎利宝塔(屋内小塔・金銅製) 鎌倉期と推定される仏舎利宝塔が現存し、その仏舎利宝塔は舎利殿に奉安される。 ○「泉涌寺」古寺巡礼 京都27、淡交社、平成20年 より 舎利殿 御所にあった御殿を寛永19年(1642)に移築する。寛文年中の再興の時、現在地に動かされる。舎利庫の宝塔内に仏牙舎利を安置する。 舎利殿内陣 中央に仏牙舎利を奉安する舎利宝塔があり月蓋長者(重文)と韋駄天像(重文)を侍する。舎利宝塔と韋駄天像は応仁の乱以前は善本院(舎利殿)2階に安置されていた。 泉涌寺舎利宝塔:鎌倉期、高さ6尺。舎利は湛海により宋の白蓮寺より請来されるが、その間もない時に宝塔は造られたと推定される。 ○「御寺 泉涌寺」総本山泉涌寺、発行年不明 より 舎利殿内陣・仏舎利宝塔 ○朝日新聞デジタル より 泉涌寺仏舎利宝塔 ○泉涌寺授与品 仏舎利宝塔朱印 なお別途、泉涌寺には梨子地舎利宝塔も現存する。 この宝塔は東福門院(徳川秀忠五女・後水尾天皇皇后)所持と伝え、そして近世霊明殿の本尊はこの舎利と観音であったという。 宝塔厨子の扉書では伊勢朝熊山金剛証寺の仏舎利を納入、観音(如意輪観音)は伊勢神宮の本地仏の性格が読み取れる。 泉涌寺梨子地舎利宝塔1 泉涌寺梨子地舎利宝塔2 2:泉涌寺四条天皇陵宝塔(四条天皇新御堂) 仁治2年(1242)四条天皇は12歳崩御。四条天皇は東山泉涌寺に葬られ、その山陵には宝塔が建立されたと思われる。 勿論、その宝塔は何時しか退転したのであろうか現存しない。そしてその退転の事情・時期も不明である。 宝塔は次に掲載する「東山泉涌律寺圖」によって偲ばれるだけである。 ※山陵に仏塔が建立された例は次が知られる。 →鳥羽安楽壽院 保元元年(1156)鳥羽上皇崩御、安楽壽院三重塔(本御塔)の下に埋葬される。 久寿2年(1155)近衛天皇(美福門院の子)崩御、遺骨は紫野知足院に安置される。 永暦元年(1160)美福門院崩御、しかし、美福門院の遺言により、美福門院の遺骸は安楽壽院新御塔に葬られる予定であったが、遺言により高野山に埋葬される。 長寛元年(1163)近衛天皇の遺骨を安楽壽院多宝塔(新御塔)に改葬する。 ○「泉涌寺」古寺巡礼 京都27、淡交社、平成20年 より 東山泉涌律寺圖:古伽藍図 ※本図に四条天皇陵宝塔とみられる宝塔が描かれる。おそらく四条天皇陵宝塔を描いた唯一の資料であろう。 本図は鎌倉〜南北朝期、創建時の伽藍を伝える古図である。東山を背に西から大門、三門、法雨堂(法堂)、三尊堂、善本院(舎利殿を等)を描き、それらの堂宇は回廊で囲われる。周囲に十六観堂や灌頂堂がある。なお塔頭雲龍院(応安5年/1372頃創建)は加筆であり、故に本図はそれ以前の作とされる。 東山泉涌律寺圖:善本院背後(東)に宝塔が描かれるが、これが四条天皇墓所(新御堂)である。 四条天皇は仁治2年(1242)12歳で俄かに歿する。四条天皇は後堀川天皇と中宮(九条道家娘)との子である。さらに、四条天皇女御は九条道家末娘である。 ○「特別展 聖域の美ー中世寺社境内の風景-」大和文華館、2019 より 本著では「東山泉涌律寺圖」は室町期(15世紀前半)とする。紙本着色、213×134mm。 東山泉涌律寺圖書き起し図:善本院背後に描かれる宝塔が四条天皇陵(新御堂)であろうが、本著では全く言及がない。 なお、本図を室町期とする根拠は本書の参照を乞う。 ○「皇室の御位牌所 泉涌寺『霊明殿』」心照殿第2展示室・展示品目録(ルーフレット)、2019/12〜2020/5 より 四条天皇(新御堂)の成立 仁治2年(1242)崩御、同年泉涌寺後山に埋葬される。三周忌に当たる寛元元年(1244)には今熊野観音寺で修された四条院國忌御八講が、寛元5年(1246)には泉涌寺に移置されているから、その頃までには四条天皇を祀る法華堂(新御堂・御影堂)が寛政したものと考えられる。 なお、展示品として「四条天皇御影」1躯(寛永18年/1641)、十一面感応立像1躯(平安後期)が展示される。 3:東山泉涌寺概略 ○「泉涌寺」古寺巡礼 京都27、淡交社、平成20年 より 泉涌寺 建久10(1199)年俊芿入宋、建暦元年(1211)帰朝する。 建保6年(1218)豊前守宇都宮信房が荒廃していた仙遊寺を俊芿に寄進、俊芿は多くの人々の結縁を得、この地に大伽藍を造営し、嘉禄2年(1226)に主要伽藍を完成させる。その際に霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺と改号という。 安貞2年(1228)湛海、宋より帰朝、その折仏牙舎利を携行する。 仁治3年(1242)四条天皇逝去、泉涌寺に埋葬。以降後光厳天皇から幕末孝明天皇まで歴代天皇の葬儀が当寺で執行され、多くが山内に埋葬される。 応仁2年(1468)兵火にて一山炎上。 寛文9年(1669)徳川家綱の当山再興なる。 明治9年、御所黒戸の念持仏を当山海会堂に遷座。 ※江戸期には皇室との関係が密接となり、後水尾天皇から孝明天皇に至る歴代天皇・皇后の葬儀を執行し、その陵墓までも全て境内にある月輪陵、後月輪陵、後月輪東山陵が築かれる。月輪陵と後月輪陵には25陵と9基の墓がある、後月輪東山陵は孝明天皇陵である。 しかし、明治の神仏分離で、時の維新政府は皇室の宗旨を佛教から復古神道に替え、陵墓は全て国家に没収、これらは宮内省管理下に置かれ、皇室と泉涌寺の関係は断ち切られることとなる。 2013/05/16撮影: 泉涌寺大門1 泉涌寺大門2:重文、桃山期、元は内裏の門であり、家康の慶長の内裏造営の時、旧門の材を拝領し建立と考えられる。 2010/04/01撮影: 大本山泉涌寺諸堂:右仏殿(重文)、左舎利殿 2020/10/28撮影: 泉涌寺総門 泉涌寺大門:大門は重文、慶長期造営の内裏の門を移築と云う。 泉涌寺山内1 泉涌寺山内2 泉涌寺仏殿・舎利殿1 泉涌寺仏殿・舎利殿2 泉涌寺仏殿1 泉涌寺仏殿2 泉涌寺仏殿3:重文、寛文8年(1668)徳川家綱によって再建、江戸期の唐様建築である。 泉涌寺舎利殿1 泉涌寺舎利殿2 泉涌寺舎利殿3 泉涌寺浴室 泉涌寺楊貴妃観音堂 泉涌寺鐘楼 泉涌寺勅使門 泉涌寺本坊門 泉涌寺本坊1 泉涌寺本坊2 泉涌寺御座所玄関 泉涌寺御座所1 泉涌寺御座所2 泉涌寺御座所3 泉涌寺霊明殿唐門 泉涌寺霊明殿1 泉涌寺霊明殿2 月輪陵拝所 月輪陵拝所唐門 泉涌寺泉涌水 泉涌寺経蔵1 泉涌寺経蔵2 なお、開山堂(重文)を有するも、拝観はできないものと思われる。 4:泉涌寺塔頭 現在次が知られる。 1)即成院(重文:木造阿弥陀如来・二十五菩薩像を安置)、2)法音院、3)戒光寺(丈六木造釈迦如来立像・重文を安置)、4)今熊野観音寺(西国三十三所15番札所。現代の多宝塔あり)、5)新善光寺、6)来迎院、7)善能寺、8)雲龍院(泉涌寺別院)、9)悲田院 1)即成院 泉涌寺塔頭、木造阿弥陀如来及び二十五菩薩像26躯(重文)を有する。 創建当初は伏見桃山にあった。近世の地誌には正暦3年(992)恵心僧都源信によって建立された光明院を始まりとするというも、実際は伏見長者橘俊綱(藤原頼通の三男)であろうという。 文禄3年(1549)伏見の即成院は秀吉の伏見城築城に伴い、強制的に大亀谷に移転させられる。 明治5年廃仏毀釈で即成院は廃寺となり、仏像は泉涌寺に移される。 明治20年泉涌寺大門付近に仮堂が建設されてようやく復興し、明治32年泉涌寺塔頭の法安寺に吸収合併され、明治35年には、大門前から総門近くの現在地に移される。明治45年には阿弥陀如来及び二十五菩薩像が「法安寺」の所有として旧国宝に指定される。 昭和16年法安寺は即成院と寺号を改号する。 2020/10/28撮影: 即成院山門 即成院山内 即成院本堂 即成院玄関・庫裡 即成院地蔵堂 2)法音院 泉山七福神巡り第7番(寿老人)札所。 嘉暦元年(1326)無人如導によって泉涌寺山内に創建されるが、応仁の乱により荒廃する。 寛文年中旗本本多正貫の外護を受け、覚雲西堂によって現在地に再建される。以降、本多正貫の子孫である駿河田中藩主本多家の京都の菩提寺となる。 2020/10/28撮影: 法音院山門 法音院本堂 法音院寿老人 法音院三社明神 法音院書院 法音院庫裡 3)戒光寺 泉山七福神巡り第2番(弁財天)札所。 安貞2年(1228)浄業曇照(南宋から帰朝)大宮八条の東堀川の西に戒光寺を創建、運慶・湛慶父子の合作である丈六の迦如来立像を本尊とし、後堀河天皇の勅願所となる。 応仁の乱によって堂宇を焼失、焼失を免れた丈六釈迦如来像は一条戻橋の東に遷し、更に三条川東に移動する。 正保2年(1645)後水尾天皇の発願により現在地に移転し、泉涌寺の塔頭となる。 2020/10/28撮影: 戒光寺山門 戒光寺本堂1 戒光寺本堂2 戒光寺本堂3 戒光寺客殿1 戒光寺客殿2 戒光寺弁財天 4)今熊野観音寺 (西国三十三所15番札所。現代の多宝塔あり) →今熊野観音寺多宝塔 5)新善光寺 寛元元年(1243)後嵯峨天皇の御願にて、値願念西が勧進し信濃善光寺本尊と同体の阿弥陀如来立像を鋳造して、一条大宮の地に創建され、新善光寺と命名される。 多くの信仰を集めるも、応仁の乱で灰燼に帰す。 文明5年(1473)に泉涌寺山内に移る。 寛文年中、孤雲正瑞により再興され、現在地に移転する。 2020/10/28撮影: 新善光寺俯瞰 新善光寺山門 新善光寺本堂1 新善光寺本堂2 新善光寺客殿 新善光寺庫裡 新善光寺愛染堂 新善光寺愛染明王像 6)来迎院:泉涌寺別當 寺伝では、大同元年(806)弘法大師が唐で感得した三宝荒神像を安置して来迎院を開創したという。 建保6年(1218)泉涌寺長老であった月翁智鏡律師が、藤原信房の帰依を受けて諸堂を整備し、泉涌寺の子院となる。 応仁2年(1468)応仁の乱の兵火により伽藍が焼失し、荒廃。 天正2年(1574)織田信長の援助により再興、慶長2年(1597)前田利家が諸堂の再建を行い、徳川家からも援助を得る。 元禄期には大石良雄が当寺に隠棲する。 2020/10/28撮影: 来迎院山門前 来迎院山門 来迎院山内1 来迎院山内2 来迎院本堂1 来迎院本堂2 来迎院本堂3 来迎院荒神堂1 来迎院荒神堂2 来迎院荒神堂3 来迎院庫裡 7)善能寺 一説によれば、元は西八条猪熊二階堂町にあった二階観音堂と呼ばれていた寺であったが、弘仁14年(823)弘法大がこの寺に稲荷大明神(荼枳尼天)を祀り、寺号を善能寺に改めたという。 天文24年(1555)後奈良天皇の命で泉涌寺の塔頭とされ、今熊野観音寺の西北に移される。 明治の廃仏毀釈で荒廃し、明治20年現在地に移される。稲荷大明神(荼枳尼天)を日本で最初に祀った寺ともいう。 現在の祥空殿(本堂)は昭和46年のばんだい号墜落事故の遺族の寄進により、完成したものである。 2010/04/01撮影: 泉涌寺寺中善能寺祥空殿:方3間の仏堂に相輪を載せる。昭和47年完工・伸和建設施工。 ※祥空殿は昭和46年北海道で遭難した航空機「ばんだい号」の遺族の一人である谷本氏の寄進により建立という。 2020/10/28撮影: 善能寺山門 善能寺祥空殿1 善能寺祥空殿2 善能寺荼枳尼天 8)雲龍院(泉涌寺別院) 南北朝後光厳天皇(北朝)の勅願により、応安5年(1372)に龍華院と共に創建される。 文明2年(1470)には応仁の乱の余波を受けて全焼する。 江戸初期、隣接する後円融天皇縁の龍華院を併合する。 龍華殿(本堂):重文、康応元年(1389)後円融天皇により建立されるも焼失、後土御門天皇の寄進により再建される。現在の堂は寛永年中の再建。寄棟、こけら葺き。 2020/10/28撮影: 雲龍院不明門(正門):推測するに旧龍華院の寺門であろう。 雲龍院山門 雲龍院山内 雲龍院本堂 雲龍院玄関客殿 雲龍院鎮守 雲龍院庫裡 雲龍院龍華堂 雲龍院鐘楼 なを次のような、建物・遺物がある。 霊明殿:皇族の位牌堂、明治元年再建 庭園: 庭石の2つは、東山七条にあった豊臣秀吉建立の方広寺大仏殿の礎石と伝わる。 9)悲田院 延慶元年(1308)無人如導が一条安居院に天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺を創建する。 そこにかつての福祉施設であった西悲田院の名跡を引き継いで寺院名を悲田院とする。 室町期には後花園天皇が悲田院を勅願寺とする。 明治18年泉涌寺塔頭寿命院と合併し、現在に至る。 悲田院山門 悲田院山内 悲田院本堂 悲田院本堂客殿 悲田院庫裡 悲田院よりの眺望 |
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教王護国寺 宣陽門院五重小塔 |
重文 | 山城教王護国寺 延応2年(1240) | |
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尾張性海寺 (宝塔) |
重文 | 弘安4年(1282)頃と推定。尾張性海寺 | |
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紀伊安楽寺 (多宝塔) |
重文 | 南北朝期の作と推定される。総高2m、基壇一辺0.9m。 紀伊安楽寺多宝小塔 |
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丹後興禅寺 (多宝小塔) |
○多宝小塔は南北朝期のものと推定される。 主要諸元は不明(採寸を失念する。拝見した感じではあるがおそらく総高は5尺程度と推定される。)木造、彩色。 相当程度破損が進行中である。住職の談では近い内に修理の計画があるとのことで、先日四国の方から修理大工あるいは技術者がこの小塔を見に来たとのこと。(なぜ四国なのかは不明。) 通常多宝小塔や重文毘沙門天立像を安置している毘沙門堂は非公開であるが、近年では、公開日以外にも、特に希望する者には事情の許す限り、開扉する方針で臨んでいるとのことである。 ○興禅寺:臨済宗天竜寺派護国山興禅寺と号し、余部(中舞鶴)雲門寺末。 開創は不詳であるが、天台宗として開創され、後に真言宗に轉宗し、寛永2年(1625)臨済宗として中興されるという。 興禅寺よりやや奥に上がり、山裾に毘沙門堂がある。この堂内に本尊木造毘沙門天立像(重文)・ 及び多宝小塔(市文)などを安置する。毘沙門天はおそらく天台宗時代の、多宝小塔は真言宗時代の遺物と推定される。 重文毘沙門天立像は藤原期のものと推定され、像高は97cm。 興禅寺毘沙門天立像 2017/12/23撮影: 本日は住職不在で多宝小塔の拝観ができず、日を改めることとする。 興禅寺全景1 興禅寺全景2 興禅寺山門 興禅寺本堂 興禅寺本堂背後:右に写る道は毘沙門堂に至る道である。 毘沙門堂参道:興禅寺山門前を過ぎ、山側に直進すれば毘沙門堂に至る。猪除けの門柵があるが、手で開くようになっている。石階の奥に写る屋根が毘沙門堂である。 毘沙門堂1 毘沙門堂2 毘沙門堂横小祠1:毘沙門堂横に石階があり、小さい段差を設け、そこに小祠(名称不明)がある。 毘沙門堂横小祠2 腐朽した木造狛犬:小祠の中に置かれる。 2018/01/07撮影: 興禅寺多宝小塔11 興禅寺多宝小塔12 興禅寺多宝小塔13 興禅寺多宝小塔14 興禅寺多宝小塔15 興禅寺多宝小塔16 興禅寺多宝小塔17 興禅寺多宝小塔18 興禅寺多宝小塔19 興禅寺多宝小塔20:飛檐垂木が多く剥落する。 興禅寺多宝小塔21 興禅寺多宝小塔22:長押など落ち、傷みが顕著である。 興禅寺多宝小塔23 興禅寺多宝小塔24 興禅寺多宝小塔25 興禅寺多宝小塔26 興禅寺多宝小塔27 興禅寺多宝小塔本尊1 興禅寺多宝小塔本尊2:異形の安置像であるが、正体は不明。(住職も不明という)像容は如来形の仏像であろうが、顔は人面爬虫類の様相を呈する。 本尊毘沙門天とは別に2躯の厨子入りの薬師如来(推定)坐像が安置される。 薬師如来坐像その1 薬師如来坐像その2 堂内安置人面爬虫類:石造、毘沙門堂横小祠にあったが、盗難などの防止のため堂内に移すという。(住職談)多宝小塔の安置像と似た異形の像である。 2022/01/04追加: ○「丹後文化の前提 -舞鶴地区の調査-」守田公夫<密教文化 Vol. 1964 No. 67 所収> より 多宝塔木製 一基;南北朝期 高さ (基壇から露盤下まで)91.5cm、九輪の長さ42.5cm、九輪は後補、興禅寺蔵 本塔は大壇上に安置する、いわゆる壇塔である。姿は軽快さを欠くが、禅宗様式の細部も使われ、当初の彩色も各部にとどめる。屋根は露盤以上を失うなど、欠損部も多い。 金銅製の宝塔、壇塔の遺品はわりと伝えられているが、木製の作品はまことに数少いものである。欠損欠失の部分の多い作品であるが貴重な資料といえよう。 興禅寺多宝小塔90 2022/01/04追加: ○「京都の寺社建築 与謝・丹後編」(財)京都府文化財保護基金、昭和59年 より 興禅寺は臨済宗天竜寺派に属す。天和2年(1682)丹後國寺社帳にその名が見える。 この多宝小塔はさらに高く上った熊野権現三社境内の毘沙門堂に安置する。但し、三社権現の社殿は失われ、その棟札のみが毘沙門堂内に安置される。其の棟札には寛延4年(1751)近在の田中村大工奥野喜兵衛が建立し、遷宮導師は金剛院法印が勤めたとある。また毘沙門堂(多聞天堂)の棟札にも遷仏は金剛院が勤めたとある。 なお、堂の本尊は平安期の作で厳重の厨子の中に安置される。重文指定である。 多宝小塔は高さ約3尺、細部に至るまで建築的手法になり、上重の扉・勾欄、下重の扉は失われるもその他は良く残る。上重扇垂木42枝は全面扇であるが、中央付近は平行に近い状態の配列で、斗栱の斗の成りが高めな点からみて、室町期の作と推定される。彩色や金具の跡があり、当初は美しかったことが分かる。 興禅寺多宝小塔全景 興禅寺多宝小塔上重 興禅寺多宝小塔下重斗栱 興禅寺多宝小塔屋根 興禅寺多宝小塔上重見上 興禅寺多宝小塔平面図 2022/01/31追加: ○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より 室町前期、全高:1.34m、下重平面:3間・組物は三手先、上重軒:扇垂木、禅宗様を用いる、本尊:毘沙門天(後補か) 興禅寺多宝小塔 |
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山城三聖寺 愛染堂内小宝塔 |
重文 ? |
室町期か。愛染堂は現在東福寺開山堂西にある。愛染堂は室町期の遺構とされ、重文である。但し小宝塔が附として重文指定かどうかは不明。 小宝塔の建築年代の情報はないが、おそらく愛染堂と同一時期の建築と思われる。 山城三聖寺・萬壽寺・東福寺 |
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三渓園 (多宝塔) |
重文 | 宝徳2年(1450)、「三渓園」を参照。 | |
. | 南都十輪院多宝小塔 | . | → | 室町期と推定、南都十輪院 |
. | 日光山 (鉄宝塔) |
重文 | 文明2年(1470)、日光山・本宮(四本竜寺)・輪王寺・中禅寺(中宮祠) | |
. | 周防山口厳島神社 (多宝小塔) 2023/02/17追加修正: ○「小塔巡拝の記(九)」吉田實(「史迹と美術 60巻10号」所収) より 応永13年(1406)大内盛見が安芸厳島を山口(現在の県庁の地)に勧請する。 その後幕末まで、厳島神社は現在の県庁の地にある。 文久3年(1863)毛利敬親は政庁を萩から山口の地に移し、それに伴い、厳島神社は現在地(山口市宮島町)に移転させられる。 この時移転させられたと思われるものは、宝永4年銘の明神鳥居、多宝小塔だけであろう。 多宝小塔は本殿内一杯に収納される。小塔内陣には御神体は安置されてはいないとされる。 現在は大破状態のようである。 初重の屋根はおそらく破壊され、初重の現状は屋根に替えて椽が設けられ、四隅に擬宝珠柱を建て蕨手勾欄を回す。 初重は方1間造で、芯々間は54cmを測る。頭貫の上には柱間2個所に三斗を置く。 そして、初重の椽の板上に亀腹が載る、つまりは1間造の椽板の上に多宝塔上重が載る奇妙な形態である。 亀腹は12個の木片を組み合わせ、外面上半を丸く削って形成したものである。 亀腹の上には12個の三斗を列べ、上重の廻り椽を受ける。廻り椽の上は12本の円筒形柱を並べ、柱間の4面は板扉、残り8面には上半を盲連子に造る。 そして、四手先組物で上重屋根を支える構造である。軒は二軒平行繁垂木。屋根は瓦葺き様に刻んだ板が微かに残るが。相輪は欠く。 初重の部材は新しく、取替修理されていることはあきらかであろう。 また、亀腹の隅45度の方向に隅棟が接続してあったようなシミ痕跡が見られることもあり、本来は、現状の構造ではなく、方形屋根を初重にも架けた多宝塔形式の造作ではなかったと思われる。 周防厳島神社多宝塔:出所は失念 ○「小塔巡拝の記(九)」吉田實(「史迹と美術 60巻10号」所収) より 周防厳島神社多宝塔立面図:2023/02/17画像入替、 周防厳島神社多宝小塔亀腹:2023/02/17追加 2008/02/27追加: 室町中期〜後期の製作と推定。高さ1.3m(相輪欠)。総檜造。本殿内宮殿。 下重は1間、上重は12本の丸柱で構造される円形建物で、多宝塔であれば一重屋根及び軒を架す部分に高欄付き廻縁を付設する。多宝塔の下重屋根・軒に替えて高欄付き廻縁を廻らす珍しい構造を採る。 ○周防厳島神社多宝小塔:山口市指定文化財のページより転載 2022/01/31追加: ○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より 室町中期〜後期頃の造作、棟高:1.18m(相輪欠)、下重平面は1間、上重:平行垂木、禅宗様を用いる、下重屋根が椽に改変、相輪欠失。 周防厳島神社多宝小塔2 2022/11/25撮影: 宮島町町内会会長・大内連合自治会理事山根氏などが厳島神社を開扉、多宝小塔の見学が叶う。 自治会会長談:多宝塔内には神体?があったというが、腐朽していた為処分したとの事(但し、処分とは俄かには信じられないが、本当であるならば、よほど腐朽したいたということであろう。) ○ページ:山口市に実は厳島神社があるよ宮島に…… より 「宝永4年5月13日建立 周防吉敷郡山口町役場」と刻銘する。 周防厳島神社鳥居 |
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. | 出羽立石寺 (三重塔) |
重文 | 出羽立石寺三重小塔 永正16年(1519) | |
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信濃高遠遠照寺 (多宝小塔) |
重文 | → |
多宝小塔は釈迦堂(重文・天文7年<1538>建立)須弥壇上に厨子を兼ねて安置される。釈迦堂と同一時期の造作とされる。 初重は3間で2個の厨子があり、釈迦・多宝の2尊が安置される。多宝塔を囲み須弥壇上には四天王も安置。初重は2手先、軒はニ重繁垂木、中備は3間とも蟇股。上重は4手先、ニ重繁垂木、亀腹は漆喰(白)。高さ約2m (あるいは総高295cm。)相輪は木製。 文明15年(1481)身延13世日朝によって開山。釈迦堂のほか本堂・朝影堂を備える。 →伊那法華道中>信濃高遠遠照寺にあり |
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信濃高遠玄立寺 (多宝小塔) |
. | → | 室町期の造立。 伊那市高遠、下重:一間、上重:平行垂木、細部は禅宗様、風鐸は改変、安置:多宝如来・釈迦如来 →伊那法華道中>信濃高遠玄立寺にあり |
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山城妙覚寺 (宝塔) |
. | → | 室町後期。 京都妙覚寺華芳宝塔 |
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美濃長蔵寺舎利塔 (宝塔) |
重文 | 画像 | 「小塔巡拝の記(五)中部地方の小塔(2)」吉田実、史迹と美術 第604号、1990 より 室町天文16年(1547)建立、総高168cm、塔身径52cm。 塔身は8本の方柱を建て、四面の中央間を広く取り、中央間には唐桟戸を構える。四隅は連子窓。 上重は12本の円柱を建て、柱間四方中央は板扉、残余の間は花頭窓とする。斗栱は四手先で、和様と唐様を織り交ぜる。初重柱は朱漆、他は黒漆、上重は柱・組物は朱漆、壁は白で、要所には飾金具を打つ。 延文3年(1356)の開山、正保年中(1644-)回禄に遭うも、復興し六角舎利堂が建立される。大正3年これを舎利殿に改築し、舎利塔(小宝塔)を安置する。 長蔵寺舎利塔2 長蔵寺舎利塔3 洞雲山と号す。臨済宗。 正平11年(1356)覚源禅師を開山とし創建される。 覚源は千葉氏の出、美濃国守護土岐頼忠の帰依を得、長蔵寺および揖斐郡禅蔵寺を開山する。 2015/03/06追加: ○長蔵寺宝塔4:美濃市HPより転載 ○長蔵寺宝塔5:文化遺産オンラインより転載 ----------------------------------------------------------------------- ◇長蔵寺金属製五重塔:昭和53年建立の有銘という。 長蔵寺金属製五重塔:舎利殿前には金属製五重塔を置く。詳細不詳。 2015/05/06追加: ○「Japanese Pagoda 日本の仏塔を訪ねて」 より転載 長蔵寺金属製五重塔2 |
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武蔵慈光寺開山塔 (宝塔) |
重文 | 慈光寺宝塔 → 宝塔の項にあり(武蔵慈光寺宝塔)、今は鞘堂内に収まるが、本来は屋外塔であった。 |
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. | 出羽慈恩寺 (三重塔慶長雛形) |
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慈恩寺には、三重塔雛型が二基(慶長雛形・文政雛形)ある。 出羽慈恩寺 |
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. | 竹生島 (三重塔) |
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図1 図2 |
金蒔絵小塔と称し、徳川家光寄進という。宝物館展示。高さ63.5cmで須弥檀上に乗る。初重は一辺12.5cmで23重は亀腹を造り円筒形軸部を載せる。全面黒漆塗で、須弥檀縁・匂欄、初重柱・斗・肘木は朱漆塗、須弥檀・軒・屋根・扉などは金蒔絵が施される、飾金具を多用する。初重内に仏像台座があるが安置仏
は(現在)無いようです。 江戸初頭か桃山期か? 竹生島宝厳寺 |
. | 美濃護国之寺 (三重塔) |
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図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 図8 図9 10 11 台石1 台石2 台石銘 |
「小塔巡拝の記(五)中部地方の小塔(2)」吉田実、史迹と美術 第604号、1990 より 三重小塔は貞享3年(1686)建立、総高242cm、初重一辺39cm・屋根96cm、二重一辺34cm屋根86cm、三重一辺29cm屋根76cm。杉材を使用・素木造。多少部材を失い破損する。 過去帳には「良運自彫刻」とあると云う。 美濃護国之寺三重塔雛形 雛形と呼ぶが、本塔の建立計画があったか否かは不明。 三重小塔台石: この雛形は元、楼門を上った中腹右手に三段の台石があり、この台石に据えられ、鞘堂を掛けてあったと云う。明治末年頃、保存の為、屋内に移す。 現在は客殿2階に安置。 この台石には「貞享三丙寅十一月吉日 良運建立之」の刻がある、また過去帳にも「良運小塔自彫刻」の記録があると云う。※良運は護国之寺住持・法印。 護国之寺三重塔雛形台石 三重塔雛形台石立面図 雄総山と号す、高野山真言宗。聖武天皇勅願、天平18年(746)行基菩薩の開基と伝える。 ※なお奈良期の塔心礎を残す。(参照:東海諸国の塔跡) 美濃護国之寺慈光霊廟:石製パコダ(ストゥーパ)、納骨永代供養廟と云う。 美濃護国之寺楼門:宝暦12年(1762)良運代建立(仁王門)。 大般若経600巻(久安3年(1147)より7年にかけて 十数人の写経師によって書かれたもの) 折本、10冊で一秩をなし、上下に5秩を納めた縦箱6個からなる。きわめてコンパクトな大般若経一式である。 |
. | 大和東大寺戒壇院 (多宝塔) |
. | 大和東大寺 享保17年(1732)造立 | |
. | 河内観心寺(法性塔) (宝塔) |
河内観心寺 弘法大師請来と伝えるも年代不詳? | ||
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信濃天正寺 (三重塔) |
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図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 |
一辺1尺3寸7分6厘(42cm)、高さ1間(180cm)。屋根とち葺。若一王子社三重塔の雛形(10/1)とされ、弾誓寺木食故真などが勧化に使用したと伝える。 ただし細部を見ると相違する点が多く若一王子社三重塔の雛形というのは疑わしいとされるようです。 製作年代ははっきりしないが、江戸中期と推定される。 明治4年廃仏毀釈により弾誓寺は廃され、三重小塔・薬師如来立像・聖徳太子立像とともに天正寺に遷座されたと言われる。 天正寺寺地は鎌倉中期に仁科氏が館を構えた場所でいわれ、その遺構が良く残されているようです。天正10年(1582)仁科氏滅亡後、その菩提のために館跡に天正寺が創建されたと云う。 三重小塔に並んで収蔵庫には木造薬師如来立像が収蔵されています。像高261cmの大きな仏像です。檜の寄木造。明治4年弾誓寺より遷座。胎内の背面下部木札の墨書銘によると、延宝5年(1677)の造立とされる。弾誓寺は近世大町地方の念仏中心道場として繁栄したようです。 |
. | 旧北野社舎利塔 (篋塔・金銅製?) |
. | 画像 | 現在常照皇寺蔵、 北野天満宮 舎利塔を収めていた木箱には「北野宮内陣舎利殿之箱、元禄14年(1701)辛巳年、3月12日造之、神事奉行法眼禅覚」とあったとされる。 |
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京洛智積院 (多宝小塔) |
〇「小塔巡拝の記(六)」吉田実〔「史迹と美術」60(6) 所収〕 より: (2023/02/28加筆) 豊臣秀吉は54歳にして、淀殿との間で初めて実子鶴松を得るも、天正19年(1591)僅か3歳で逝去。 その菩提の為、東山に壮大な祥雲禅寺を造営するも、家康は豊臣家滅亡の後、智積院玄宥に下賜する。 現在、多宝小塔は昭和50年竣工(落慶)の金堂に安置されるが、昭和22年寝殿が火災に遭ったとき搬出され、以来開山堂に安置されていた。 初重一辺40cm、総高約140cm。初重平面1間の変則な多宝塔である。 「智積院誌」大正4年では、口絵に”根来伝来舎利塔之図”として多宝小塔の写真が掲載されるが、誌を仔細にみれば、”根来伝来舎利塔”とは小塔の中に奉安する舎利容器塔のことと推量される。 「日本の仏舎利塔」光地英学、昭和61年にも多宝小塔を根来伝来とするが、天正13年(1585)秀吉の討伐を受け、根来を追われ、高野山から京都へと浪伯の10余年を無事持ち歩けたかどうかは甚だ疑問である。多宝小塔は根来伝来とも伝えるが、根来伝来の舎利塔とはこの多宝小塔のことではなくて、多宝小塔内に奉安する舎利容器小塔と推測される。 多宝小塔は1間四方正面造、四方とも5級階段上り勾欄付き、初重廻り椽に擬宝珠勾欄を廻し、亀腹の上に面取方柱を建て、扉は双折外面両開桟戸を取付、柱間が全開で出来るにしてある。四方で計16面の内側には一尊づつ、16尊の立像を描く。尊名は良く分からない。 上重は円筒状で径25cmで、通常の多宝塔を同じような造作である。屋根瓦棒板葺き、相輪は昭和50年の大法要の時、改鋳され、それを現在載せている。 全体の作風・印象から江戸後期頃の造作と推定されるが製作年代は不明。 あるいは根来伝来とは、「この小塔は根来塗(真偽は不明)の工芸品である<寺院関係者の説明>」と云う意味合いとも推測される。 智積院舎利塔 智積院舎利塔初重 ○智積院略歴:天正13年(1585)豊臣秀吉、根来山を攻略、根来山は灰燼に帰す。 学頭智積院玄宥は、京都に逃れる。 慶長6年(1601)徳川家康、玄宥に豊国大明神境内の坊舎と土地を下賜、智積院(五百佛山根来寺智積院と号す)が再興される。元和元年(1615)更に祥雲禅寺が施入され、境内伽藍が拡充さる。 (一方、根来小池坊専誉は高野山に逃れ、その後豊臣秀長の要請で豐山長谷寺に小池坊を再興する。) 現在、智積院は智山派総本山、大本山は成田山新勝寺・川崎大師平間寺 ・高尾山薬王院、別格本山は高幡山金剛寺・大須観音寶生院、末寺3000余 、特に東国に数多くの末寺があり、また塔婆を有する寺院も多い。末寺数は埼玉県が最大と云う。 金堂:昭和50年の新造(RC造)、弘法大師降誕1200年紀念事業にて建立。 2009/04/02撮影: 智積院多宝小塔1 智積院多宝小塔2 智積院多宝小塔3 智積院多宝小塔4 智積院多宝小塔5 智積院多宝小塔6 智積院多宝小塔7 智積院多宝小塔8 智積院多宝小塔9 智積院金堂 2016/10/26撮影:智積院遠望/京都タワー展望台より 智積院遠望:中央やや上の大屋根が金堂、下の長大な屋根は所謂三十三間堂。 2020/01/31撮影(無印)・2020/02/02撮影(◇印): 下衆の勘繰りをすれば、智積院が東山七条に再興されたということは、智積院は豊臣秀吉との間に根来以来の遺恨があり、一方豊臣から天下を簒奪した家康は豊臣家を徹底的に抹消したい願望があり、智積院玄宥は上手に家康に取り入り、家康もまた巧妙に玄宥を利用したという構図であろうか。 → 紀伊根来寺、 →山城豊国社を参照 明治15年本堂焼失。 昭和22年方丈殿(仮本堂)焼失。四条寺町浄土宗大雲院本堂を現在の講堂の場所に移築し本堂とする。 昭和50年金堂再建。 平成4年(1992)現講堂再建、現講堂にあった明王殿を現在地に移建。 智積院多宝小塔11 智積院多宝小塔12 智積院多宝小塔13 智積院多宝小塔14 智積院多宝小塔15 智積院総門 智積院北門 智積院金堂11 智積院金堂12 智積院金堂13 智積院金堂14 智積院金堂15 智積院金堂扁額 ◇智積院金堂16 明王殿(不動堂) 智積院明王殿1 智積院明王殿2 智積院明王殿3 智積院大師堂:弘法大師像を安置、寛政元年(1789)落慶 密厳堂:覚鑁像を安置、寛文7年(1667)建立 蜜厳堂への石階 ◇蜜厳堂境内諸堂 智積院蜜厳堂1 智積院蜜厳堂2 智積院求聞持堂:(文殊堂、護摩堂):嘉永4年(1844)建立、本尊虚空蔵菩薩、前立は不動明王 鎮守は三社壇と称し、右:春日大明神、中央:三部権現、左:九社明神を祀る。三部権現は根来寺大伝法院から続く智積院の総鎮守という。 鎮守社拝殿・鳥居:拝殿背後に智積院鎮守社がある。 ◇智積院鎮守社:写真中央奥の写る社が鎮守社である。 蜜厳堂鐘楼 智積院鐘楼 智積院講堂唐門 智積院本坊玄関1 智積院本坊玄関2 智積院本坊1 智積院本坊2 智積院本坊門 智積院収蔵庫 ◇智積院光明殿:納骨堂 ◇智積院岩窟? 2021/04/08撮影: 智積院多宝小塔21 智積院多宝小塔22 智積院多宝小塔23 智積院多宝小塔24 智積院多宝小塔25 智積院多宝小塔26 智積院多宝本堂本尊 智積院灌仏会 智積院明王堂 022/01/31追加: ○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より 江戸後期の造立か、全高:1.6m、初重平面:1間 |
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. | 紀伊岩出正覚寺 (多宝塔) |
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○「小塔巡拝の記(六)」吉田実〔「史迹と美術」60(6) 所収〕に次の1行記載あり。 江戸中期以降の造作と推定。京洛智積院小塔と酷似と云う。根来派。 2022/01/31追加: ○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より 和歌山県岩出市、宝暦5年(1755)建立、全高:1.56m、初重平面:1間、上重軒:平行垂木、禅宗様を用いる。本尊:釋迦・多宝如来、上重内部に法華経を納める。 岩出正覚寺多宝小塔 |
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. | 伊勢清光寺 (三重塔) |
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図1 図2 図4 図5 |
本堂外陣右奥に安置(ガラスケース入り)。開放していない本堂は基本的に暗く、詳細は良く分からない。全般的に唐様の仕様で、江戸期関東風の過剰装飾の施された塔婆である。 住職談:細目は不詳であるが、大壇家の長谷川家が江戸で商をして、長谷川家から清光寺に寄進されたと伝える。時代は徳川将軍家の「葵」(両脇間)の紋があるので、江戸期のものであろう。 浄土宗智恩院に属すると思われる。塔頭九品院を有する。 |
. | 大和信貴山 (三重塔) |
. | 大和信貴山 推定江戸期 | |
. | 教王護国寺 江戸期五重小塔 |
. | 山城教王護国寺 江戸期 | |
. | 周防防府天満宮 (五重塔雛型) |
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霊光院五重小塔 文政年中か。 周防松崎天神 |
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. | 出羽慈恩寺 (三重塔文政雛形) |
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慈恩寺には、三重塔雛型が二基(慶長雛形・文政雛形)ある。 出羽慈恩寺 |
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. | 池上本門寺 (宝塔内陣宝塔) |
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文政11年(1828)池上宝塔と同時期の建立か:池上宝塔内陣に宝塔を安置。 池上本門寺 |
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. | 阿波長谷寺 (三重塔) |
. | 文政年中と推測される。 阿波長谷寺三重塔初重・完成模型 | |
. | 大和十輪院 (多宝塔) |
. | 小塔 | 多宝小塔の情報はなし。作成時期など不明。 小塔:2012/08//20追加:「日本仏塔の研究 図版篇.」石田茂作、講談社、昭和45年 より 十輪院は、寺伝では、元正天皇の勅願寺で、元興寺の子院といわれ、朝野宿禰魚養(右大臣吉備真備長男)の開基と伝える。 本堂(国宝・鎌倉)、南門(重文・鎌倉)、御影堂、護摩堂などを有する。東京国立博物館内「旧十輪院宝蔵」(重文・鎌倉)は明治15年移築と云う。 |
. | 武蔵深大寺蔵 谷中天王寺五重小塔 |
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小塔11 小塔12 小塔13 小塔14 小塔15 小塔16 小塔17 |
○武蔵深大寺蔵谷中五重小塔; 福田吉一氏製作五重小塔 福田吉一氏製作五重小塔細部 スケールは約10/1。欅素木造。 昭和37年完成。工期約25年。 製作者;湯河原宮ノ下大工 松本好正氏、設計施工 世田谷 福田吉一氏(大工) 本格的な屋内建築でほぼ谷中五重塔を写すものと思われる。 ○2011/11/06追加:2011/10/29撮影: 現在、武蔵深大寺旧庫裏の土間に安置される。但し、旧庫裏土間への立入は禁止である。 屋内塔とはいえ、3mを越える堂々たる正式の建築である。 塔の前には世田谷用賀・金子貞吉氏寄贈との表示がある。 塔の所有者であった福田吉一氏の歿後、友人である金子貞吉氏(建具師と思われる)が預かるも、何分大作であり、氏は檀那寺である深大寺に寄贈したという。 完成時期及び工期と天王寺五重塔の焼失時期(昭和32年)との関係から、製作時期の大部は天王寺五重塔が健在であった時期と重なり合う。大筋では谷中天王寺塔を写すものと考えられる。 相輪は当初なく、深大寺にて後保したものと聞く。 天王寺五重小塔初重 天王寺五重小塔二重 天王寺五重小塔三重 天王寺五重小塔四重 天王寺五重小塔五重 天王寺五重小塔相輪 天王寺五重小塔組物1 天王寺五重小塔組物2 天王寺五重小塔組物3 武蔵深大寺旧庫裏 天平5年(733)法相宗満功上人が開創と伝える。貞観元年(859)天台宗に改宗と云う。 現在は山門、本堂、元三大師堂、新釈迦堂、深沙大生堂、鐘楼、開山堂などの堂宇を備える。 また、銅造釈迦如来倚像(白鳳期、重文、明治42年元三大師堂の檀下から発見と云う)を有する。 銅造釈迦如来倚像1 銅造釈迦如来倚像2 銅造釈迦如来倚像3 |
. | 信濃上諏訪神宮寺 五重塔 |
. | 信濃諏訪社神宮寺 昭和43年。 | |
. | 相模長勝寺本堂安置 多宝塔 |
. | 相模松葉谷長勝寺 昭和53年。 | |
. | 相模長勝寺本師堂安置 多宝塔 |
. | 相模松葉谷長勝寺 昭和61年。 | |
. | 尾張徳川家納骨堂崇徳廟(多宝塔) <在尾張定光寺境内> |
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昭和64年竣工か。詳細不詳。 |
. | 肥後蓮華院誕生寺五重塔模型 | . | . |
平成6年(1994)頃の製作か。肥後蓮華院誕生寺五重塔の雛形か。 http://www.ourashaji.com/ren-go-mokei488.jpg 大浦社寺建築社の設計施工。 |
. | 北海道法華寺 (宝塔) |
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平成8年完工。青森ヒバ使用・銅版一文字葺き、春光社寺設計。屋内塔と思われる。材質は不明、正規の宝塔建築様式を採ると思われる。 釈迦堂と称する、山号;大正山、日蓮宗。北海道帯広市東5条南7丁目12 |
. | 高岡山藤三重塔 | . |
11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 |
平成9年完成。 設計施工は富山県砺波市(株)白井大工(宮大工白井宏氏)。 その他の詳細は不詳。 三重小塔は越中高岡・山藤商会(銘木商・木材商・建築)事務所エントランス吹き抜けに置かれる。 (詳しい法量は不詳、初重一辺約60cm、屋内塔婆としてはかなりの大型塔である。) 完成後10数年を経年するも、屋内塔でかつ手入れが行き届いていると推定され、今も新築の雰囲気を残す。 全て欅材を使用して作られる。 但し内部は作られず、この意味では本建築ではなくて、塔の工芸品の要素が強いであろう。 軸部・組物など基本的に和様の手法を用いる。 屋根銅板葺。 相輪は地元高岡の銅鋳物であろう。 2009/11/12撮影: 山藤三重塔11〜29 ※(株)白井大工施工塔婆として 白井大工永明院五重塔(越中氷見永明院)、 越中高岡山藤三重塔、 加賀心蓮社多宝塔 がある。 |
. | 三河猿田彦五重塔 | . | 画像 |
平成9年大工大久保新太郎氏の奉納と云う。総檜造。高さ4m。 画像はサイト:「ぐだぐだ月記」>「幸田町 猿田彦三河神社 その2」 より転載 |
. | 武蔵成田山川越別院 三重塔 |
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塔1 塔2 塔3 塔4 塔5 塔6 |
三重小塔由緒(小塔付設の板書): 平成11年完成、設計施工は清野家七代目清四郎、練馬豊島山道場寺三重塔雛形とす。 但し、「道場寺三重塔雛形とす」とは意味が良く分からない。道場寺三重塔は昭和49年落慶であり、この小塔の完成年から雛形では有り得ないであろうからである。それとも道場寺三重塔を手本にしたと云う意味であろうか。 特異なことは、各重とも、軒反の始末が一風変っていることである。それは垂木の部分には全く軒反が見られず、あたかも著名な播磨浄土寺浄土堂の軒の垂木 及び屋根の始末を思わせる。その一方屋根には浄土寺浄土堂と違って、軒反を見せることである。即ち、茅負の垂木側つまり下面は直線に造り、屋根側つまり上面には反りを入れ て造ることで、屋根の軒反を実現しているように見える。 このような特異な軒反(垂木は直線、屋根のみ軒を反らす)は古建築では見られないものである。 屋根銅板葺。 なお、三重小塔は内仏殿(本尊大日如来)の三階に安置されるようである。 塔1〜6:「O」氏撮影画像 ○成田山川越別院は嘉永6年(1853)石川照温が廃寺になっていた川越久保町(川越喜多院のすぐ北に位置する)本行院を復興する。 明治10年、成田山川越別院本行院となる。 |
. | 武蔵醫王寺五重塔 | . | 浦和会津屋工務店三重小塔、武蔵白幡醫王寺五重小塔、同 多宝小塔 平成19年奉納。 | |
. | 武蔵醫王寺多宝塔 | . | 浦和会津屋工務店三重小塔、武蔵白幡醫王寺五重小塔、同 多宝小塔 平成20年奉納。 | |
. | 相模建長寺華厳塔塔 (五重小塔) |
. | 鎌倉建長寺 平成21年落慶 | |
. | 浦和会津屋工務店三重小塔 | . | 浦和会津屋工務店三重小塔、武蔵白幡醫王寺五重小塔、同 多宝小塔 時期不詳。 | |
. | 阿波隆禅寺 (円形二重塔) |
隆禅寺円形二重小塔・多宝小塔 時期不詳。 | ||
いわき市(有)福住 (五重小塔) |
小塔 |
(有)福住のサイト:http://123.sub.jp/2923/>http://123.sub.jp/2923/5jyutou.html に この五重小塔の製作過程が詳細に述べられている。 2008年1月製作開始、2015年5月竣工(平成27年)。総高は4.7m、初重屋根1.7m四方。 1/10のスケールで設計したので、実物では47mの五重塔になる。 総檜造、純和様を用いる。屋根は木瓦、平瓦は1枚々製作する(特に軒平瓦の区別はせず)、初重の平瓦は1000枚以上という、丸瓦は一枚々の製作ではなく「通し」で製作、瓦当は中を刳り抜いた板(径18mm)を「丸瓦」小口に取付する。 斗組は全て正規の建築の通り、部材(大斗・通し肘木・巻斗・方斗)を作成し、組み立てをする。 ○写真:小塔は某氏ご提供。 ○有)福住のサイから、次に若干の写真を転載する。 福住五重小塔斗組 五重小塔初重天井 五重小塔初重平瓦 五重小塔初重平瓦と丸瓦 五重小塔初重木瓦 |
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. | 阿波隆禅寺 (多宝塔) |
. | 隆禅寺円形二重小塔・多宝小塔 時期不詳。 | |
. | 下総大慈恩寺 (多宝小塔) |
. | 下総大慈恩寺 時期不詳。 | |
. | 加賀寺(五重塔) | . |
瑠璃光殿 小塔1 小塔2 小塔3 |
加賀寺瑠璃光殿内に金色八角五重塔が安置と云う。高さ17m。堂内人工池泉中に建つと説明がある。(屋内小塔)昭和62年以降に建立。 加賀寺は「三論宗別格本山豊星寺、大韓仏教三論宗観音院加賀寺」と称する。 昭和62年「ユートピア加賀の郷」と称する観光ランドとして着工、このランドは仏教寺院がメインテーマと思われる。総工費280億円と云う。 現在(2010/09)寺院やその他施設は営業を停止中(ほぼ確実に倒産状態)のようで、堂宇は施錠され立入は出来ず、従って八角五重小塔を見ることは出来ない。敷地内は自由に立入は可能。 尤も必見すべきものとは思われず。 ※瑠璃光殿:中央の堂宇が瑠璃光殿、小塔1:掲示写真を撮影、小塔2・3:他サイトの写真を転載。 ※他サイト:http://www41.tok2.com/home/kanihei5/kaganosato.html |
塔 模 型 | 配列:地域順 | |||
2006/08/26追加: |
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. | 階上町庁舎模型五重塔 | . | 「階上岳日向山五重の塔」と称する:陸奥應物寺五重塔・階上町庁舎模型五重塔 | |
. | 弘前「藤陣」三重塔模型 同 五重塔模型 |
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三重塔模型:陸奥津軽為信三重塔跡の該当項参照 五重塔模型:弘前大円寺(最勝院)五重塔の該当項参照 |
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. | 夢の家北原邸 五重塔雛形 |
. | 夢の家北原五重塔雛形 | |
. | 【東北大学大学院工学研究科 大和室生寺五重塔】 |
. | . | 【法隆寺中門、鳳凰堂中堂などは東京大学にあるものとほとんど同じもの。これらは教材として同時に複数製作され、工業専門学校に配布されたと推測される。本学にはこれらを保管した標本室が設置されている。】 |
. | 【さくら市ミュージアム 大和法隆寺五重塔】 |
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旧ミュージアム氏家(栃木県塩谷郡氏家町) 【小川三夫(西岡棟梁の後継者といわれる)棟梁の出身地。製作者:鵤工舎。 金堂と五重塔の1/20模型。】 |
. | 下野日光東照宮模型:
大規模、戦前、精巧な模型が少なくとも以下のように3基存在する。 サイト:「日本の建築 模型館」>「建築学術模型データベース」>「日光東照宮」を参考に纏めると以下の通りである。 その他、「とちぎ山車会館」に日光東照宮五重塔模型がある。 |
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【日光東照宮宝物館 (日光山内)】 |
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【大正12年東照宮が全伽藍の正確な1/20模型を制作する。2年後この模型は宮司高松四郎氏より東京大学工学部に寄贈、専攻内の模型室に長く保管される。昭和30年ごろ、学生増などにより模型群の保管が困難になり大規模な東照宮模型は東照宮へ返納される。現在この模型群は東照宮宝物館の一室に保管され公開される。 (稲葉信子「帝国大学における『日本建築学』講義」にそれらの事情が述べられる。)】 |
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【日光だいや川公園体験館(今市市)】 | . | . |
○2013/06/07追加: 【大正12年から昭和3年にかけて、富山県高岡市の彫刻師初代十二町仁三吉氏が、宮城県石巻市の青沼紋之丞氏の依頼により製作。 製作にあたっては、写真や古文書のみならず、平均月1回は日光に1週間ほど滞在し、徹夜で仕事を続けたと伝えられる。昭和3年に開催された「名古屋博」に初登場し、世間の注目を集め、以後各地の博覧会に展示され、絶賛を博する。 昭和37年より、別府ラクテンチ内の「日光館」に展示され、昭和55年以降からは所有者を転々としながら東武鉄道株式会社の所有となり、平成9年日光東照宮ゆかりの栃木県に寄贈される。 平成17年4月より、日光だいや川公園内の展示室にて公開される。 (展示案内パンフレットより抜粋) 】 2013/06/18展示案内パンフレットより追加: 平成17年(2005)4月より本館にて常設展示する。 展示模型の堂塔は以下の通り。仁王門、神厩舎、五重塔、御水舎、上中下の三神庫、経蔵、皷楼、鐘楼、陽明門、神輿舎、神楽殿、本地堂、唐門・拝殿・石の間・本殿・透塀である。 なお、本地堂は昭和36年焼失し昭和43年再建というから、現在の本地堂より古いものと云うことになる。 ○2013/06/20追加:2011/10/10日光市在住某氏撮影画像 日光東照大権現五重塔模型 日光東照大権現模型 |
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【高山屋台会館附設桜山日光館(飛騨高山市)】 | . | . |
2013/06/07追加: 【大正期の名工長谷川喜十郎ほか33名によって15年かけて製作される。 この模型は、戦後アメリカに渡り巡回公開されると云う。その後長くホノルルに保管されていたが、1987年“葵博”出品のため家康ゆかりの岡崎市に里帰りし好評を博する。 現在は、飛騨高山「桜山八幡宮」にある「日光館」で展示公開される。 参考文献:「小さな建築―模型のトポロジー」西和夫監修、INAX BOOKLET Vol.7 No.2、1987年 「桜山屋台会館入館者パンフレット」】 飛騨高山は江戸期の左甚五郎の出生地と伝える。 なぜ飛騨高山かと云う理由については、高山は「高山城主であった金森氏をはじめ、代々の郡代、代官と、徳川家ならびに日光東照宮との深い縁がある」地であるとのことのようである。 (参考ページ:桜山日光館) |
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. | 下野国分寺七重塔 | 図1 図2 | しもつけ風土記の丘資料館 | |
. | とちぎ山車会館 日光東照宮五重塔模型 |
展示場所:栃木市役所玄関ロビー、スケール:15分の1、高さ2・3m、幅78cm。 製作者:栃木共同高等産業技術学校運営会長、山田長太氏(75)、作成時間:1年。欅製。部品数:約8000個。2002/01現在。 2013/06/07:現在この模型についてのWeb情報はなく、その所在・存在は明らかでない。 2013/06/18:栃木市教育委員会ご教示 東照宮五重塔模型は「とちぎ山車会館(栃木市万町3−23)」に所在(公開)する。 模型の原寸図面も併設される。平成12年、山田氏から栃木市へ寄贈される。 |
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. | ものつくり大学三重塔 「O」氏ご提供画像 |
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図1 図2 図3 |
2005年3月完成、工期2年半。総檜製(主要部は木曾檜を使用)。 モデルは近江西明寺三重塔、スケール約6/1、総高4.2m、初重屋根一辺1.18m(6尺)。 但し、西明寺塔の忠実な復元模型ではなくて、縮小後の最適化を計算して部材は調整と云う。 製作は「ものつくり大学」(埼玉県行田市)の学生の手になる。おそらく教育実習の一環と思われる。 画像・情報は「O」氏ご提供: 埼玉県小川町「道の駅おがわまち」に展示を2007/03/28に撮影 |
. | 東松山雨宮氏製作 大和薬師寺西塔 |
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◆第1作品 大和薬師寺西塔第1作品:スケール1/25 :雨宮氏ご提供画像 下掲載の第2作品と比べて、「基壇台部が大きく 内部構造を見る事が出来ない。また、軒風鐸を吊り下げなし。」である。 本作品は雨宮氏自宅(埼玉県東松山市)に置かれる。 ◆第2作品 大和薬師寺西塔第2作品:スケール1/25 :雨宮氏ご提供画像 製作過程はブログ「古代建築模型の製作」に詳細がある。 2010/12/28現在「埼玉伝統工芸会館」に展示中である。 ◆第3作品 大和薬師寺西塔第3作品:現在作成中 :雨宮氏ご提供画像 2010/12/28現在、二層尾垂木組立迄の状態である。 |
. | 埼玉県立博物館 慈光寺宝塔 |
. | 武蔵慈光寺 原寸大模型 | |
. | 【国立歴史民俗博物館 大和法隆寺五重塔 近江石山寺多宝塔 備後明王院五重塔 模型】 |
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【昭和39年(東京オリンピック)日本古美術展が開催(於:東京国立博物館)、古美術としての建造物展示は模型を製作して行われたと云う。 展示模型は以下のとおり。 大和法隆寺所蔵の五重塔模型(1/10)昭和22年解体修理の資料として製作。 裳階がなく最上層屋根の勾配が緩い創建時ものを復元した。 創建時大和唐招提寺金堂模型(1/10)、松本城天守閣模型(1/10)(昭和38年製作) 宇治平等院鳳凰堂模型(1/20)(昭和29年製作、同39年改造) 近江石山寺多宝塔模型(1/10)、大和興福寺北円堂模型(1/10)(昭和38年製作) 近江金剛輪寺本堂模型(1/10)(昭和38年製作) 備後明王院五重塔模型(1/10)(昭和35年、解体修理時) 昭和39年製作の吉村家住宅(1/10)、昭和25年製作の菅田庵模型(1/20)】 |
. | 上総国分寺七重塔 | . | 上総国分寺 市原市役所ロビーに展示。 | |
. | 武蔵国分寺七重塔1 | . | 武蔵国分寺 国分寺市民室内プール前所在(屋外) | |
. | 武蔵国分寺七重塔2 | . | 武蔵国分寺 国分寺市役所前所在(屋外) | |
.. | 武蔵国分寺塔3 | . | 武蔵国分寺 「武蔵天平の郷」所在 | |
. | 武蔵宝仙寺三重塔 | . |
図1 図2 図3 図4 図5 |
「山崎記念 中野区立歴史民俗資料館」の常設展示に旧宝仙寺三重塔模型がある。 |
. | 谷中感応寺五重塔 | . | 谷中天王寺 | |
. | 【清水建設株式会社 (東京都港区) 法輪寺三重塔】 |
. | . | 【-非公開- 製作者:西岡常一師、小川三夫師 昭和50年再興の大和法輪寺三重塔は清水建設請負、塔造作は宮大工西岡常一師、小川三夫師ほかで行われた。本模型は再建における学術的成果を後世に残すために1/20で製作されたもので、完成後清水建設が購入した。】 |
. | 東京芸術大学蔵 大和薬師寺東塔雛形 |
. | 東京芸術大学蔵 大和薬師寺 | |
. | 東京芸術大学蔵 大和法起寺三重塔 |
. | 東京芸術大学蔵 大和法起寺 | |
. | 相模国分寺七重塔 | . | 相模国分寺跡 | |
. | 【甲斐寺本廃寺三重塔】 | . |
図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 |
甲斐寺本廃寺三重塔復元模型は春日居町郷土館(山梨県東山梨郡春日居町)に展示する。 スケールは1/5。平成3年完成と思われる。 (総高の復元は24mと想定されているようであるので、模型の高さは4.8mほどと思われる。) 大和法起寺三重塔・大和薬師寺三重塔を参考にして復元と云う。 ※出土瓦から創建は白鳳期と推定される。 設計:(財)建築研究協会(京都)、請負:(株)磯村才治郎商店(京都東本願寺前)、棟梁:北村文彦(春日居町熊野堂)とある。 |
. | 上田市立信濃国分寺資料館 信濃安楽寺八角三重塔 |
. | → | 信濃安楽寺中にあり。 |
. | 遠江国分寺七重塔 | . | 国分寺のページを参照。磐田市役所内及びJR磐田駅の2箇所にある。 | |
. | 加賀末松廃寺塔 | . | 甲信越北陸諸国の塔跡(加賀末松廃寺)を参照 | |
. | 【県立若狭歴史民俗資料館 若狭明通寺三重塔】 |
. | 製作者:株式会社さんけい 昭和57年開製作。1/10模型。 「妙通寺三重塔」の項を参照 |
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. | 美濃厚見寺五重塔 | . |
図1 図2 図3 図4 図5 |
厚見寺復元塔模型:岐阜市歴史博物館展示 塔復元模型:岐阜市歴史博物館に展示。復元(模型製作)にあたっては、時代あるいは心礎の類似性(美濃弥勒寺)などを考慮して、各地の塔遺構・出土品を参考にした と云う。 因みに五重塔で復元した根拠は心礎の大孔の径が法隆寺五重塔の径と類似するため、当廃寺の塔も五重塔であろうと類推した結果であると云う。 ※心礎は美濃瑞龍寺に遺存する。(参照:東海諸国の塔跡) |
. | 伊勢縄生廃寺塔 | . | 「縄生廃寺」 | |
. | 近江高木師邸 山城清水寺三重小塔 近江高木師邸 近江高木師邸 |
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「宮大工・棟梁高木敏雄師」:2001年12月9日棟梁高木敏雄師邸を訪問
。 ○山城清水寺小塔:2001年8月に完工。 実物の三十分の一小塔。高さ約1m。約3000の部材で作成。木造・彩色なし。 ○山城教王護国寺小塔:1996年5月から3年4ヶ月をかけて完成。 1.初重柱間 31.6糎(cm) 2.基壇一辺 60.0 3.同上高さ 4.1 4.塔高さ 182.8(基檀高を含まず) 使用木材:尾州桧(最上木曽桧)、屋根:同左材(本瓦葺)、相輪:同左材 なお寛永18年(1641)に高木氏2代目作右衛門光喜氏が東寺の五重塔再興に参加。 ○近江新善光寺絵図:新善光寺は廃寺、塔は取り壊されて 今は無い。 この塔婆は高木敏雄師の曽祖父光義師が明治26年(1893)に手がけた塔婆と云う。 そのため関係の絵図面・資料が高木邸に残る。高木敏雄棟梁は新善光寺塔婆取壊の経緯に疑問を呈し、今後はこの新善光寺塔婆の復原模型に取りかかる意思があると云う。 |
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. | 京都府在住「Kenさん」製作 大和法隆寺五重塔 |
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2011/02/14追加:2011/02/12撮影 法隆寺五重塔塔婆構造モデル 製作者:「KEN」さん 「京都伝統工芸大学校・第15回卒業終了製作展及び京の伝統工芸新人作品展」に展示 於 :京都伝統工芸館(烏丸三条上ル) 期間:2011/02/11〜2011/02/20 陶芸、木彫刻、仏像彫刻、蒔絵、木工芸、金属工芸、竹工芸、石工芸、和紙工芸 卒業終了作品約190点、伝統工芸新人作品約80点、特別展示など 本作品は展示に合わせ急遽完成させたものである。 本作品の制作過程は拙サイト:「Kenさん」の五重塔製作 に掲載をしている。 |
. | 【京都大学 大塔(名称不明)】 |
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【模型群の中に「大塔」の模型があると思われる。紀伊高野山大塔か? その他、山城法界寺阿弥陀堂(大正11年納入)、紀伊長保寺大門(大正12年納入)、いずれも縮尺1/10。】 |
. | 京都法勝寺九重塔 | . |
京洛平安期を中心とした塔婆、京都歴史資料館所蔵、みやこめっせに展示。 また京都市生涯学習センター展示模型もあると云う。 |
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. | 樫原六角三重塔 復元模型 |
. | . | 昭和63年製作、京都文化博物館展示、スケール30/1。 |
. | 教王護国寺五重塔模型 | . | . | 場所:滋賀県今津町日置前、松本貢一氏(75)宅庭。スケール:20分の1、高さ3m。作成時間:1年余。基壇:高さ30センチのコンクリート製。最下層屋根:1・1m四方。銅板葺き。心柱:杉。他の部品:檜。2001/12現在。 |
. | 大和東大寺創建 復元模型 |
. | 大和東大寺 | |
. | 【なら奈良館 大和薬師寺西塔 大和妙楽寺十三重塔】 大和法隆寺五重塔 |
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【(旧近鉄奈良歴史教室) 薬師寺西塔 製作者:西岡常一師、和田安弘師、和田有功師ほか 談山神社十三重塔 製作者:未調査】 ○なら奈良館薬師寺西塔模型:2010/12/21撮影 昭和45年製作、大和薬師寺再興伽藍棟梁西岡常一氏の統括で製作。スケールは1/10。 製作関係者は西岡棟梁、和田安弘、和田有功ほかと云う。 翌年昭和46年から薬師寺伽藍再建が着工される。 薬師寺西塔模型01 薬師寺西塔模型02 薬師寺西塔模型03 薬師寺西塔模型04 薬師寺西塔模型05 薬師寺西塔模型06 薬師寺西塔模型07 薬師寺西塔模型08 薬師寺西塔模型09 薬師寺西塔模型10 薬師寺西塔模型11 薬師寺西塔模型12 ○なら奈良館大和妙楽寺十三塔:2010/12/21撮影:製作時期、作者、諸元など不詳 大和妙楽寺十三重塔模型1 大和妙楽寺十三重塔模型2 大和妙楽寺十三重塔模型3 大和妙楽寺十三重塔模型4 大和妙楽寺十三重塔模型5 ○なら奈良館大和法隆寺五重塔:2010/12/21撮影:製作時期、作者、諸元など不詳 大和法隆寺五重塔模型1 大和法隆寺五重塔模型2 大和法隆寺五重塔模型3 大和法隆寺五重塔模型4 大和法隆寺五重塔模型5 |
. | 【大和法隆寺大講堂、大宝蔵院 大和法隆寺五重塔】 |
. | . | 【修理前金堂模型、創建時の金堂、五重塔、修理前の金堂断面模型 製作者:調査中 】 |
. | 大和西大寺五重小塔 | . | 画像 | 平成元年中国より贈呈、西大寺聚宝館に陳列。現在は頓挫しているが、五重塔の再興計画があり、西大寺長老が中国を表敬訪問、その折陜陜西省文物事業管算局が設計を担当することになり、中国から送られたとされる。 |
. | 大和朝護孫子寺 多宝塔模型 |
. | 大和信貴山 | |
. | 摂津四天王寺 元和再興塔模型 |
. | 摂津四天王寺 | |
. | かむろ大師五重小塔 | . | 小塔 |
2010年の修復と思われる。修復は株式会社松谷佛具店による。 かむろ大師(橋本市学文路)は明治43年開創、高野山真言宗。 現本堂は昭和63年造替、平成22年(2010)旧本堂造替し現在は尽誠堂と称する。五重小塔はその時に造替する。木造、屋根銅板葺。 画像は松谷佛具店サイトから転載 |
. | 養父市設置妙見三重塔 | . |
塔1 塔2 塔3 塔4 |
八鹿町丸山川左岸国道沿にある。養父市教育委員会が妙見三重塔のモニュメントとして設置したものと思われる。 1/5程度のスケールと思われる。木造ではあるが、駄作である。妙見三重塔と銘打つも、三重塔の形式であるという以外には、妙見三重塔を模したと評価できるものではない。建築や模型とは程遠い代物で、簡略な構造物でしかない。 なお相変わらず、知っているにも係らず(知らないはずがない)、設置者は「名草神社三重塔」との標記をするが、「妙見三重塔」と標記すべきであろう。 |
. | 野崎邸妙見三重塔模型 | . | . |
朝来市野崎邸に但馬妙見三重塔模型がある。野崎邸は丸山川左岸和田山町枚田付近(赤渕明神のほぼ東300m付近)の県道沿(東側)にある。野崎氏はおそらく建築業を営むものと推定される。 一見した印象では妙見三重塔を忠実に再現したものと思われる。 塔模型は小屋の中にあるが、道路から見学が可能であるが、訪問時に家人が不在のため写真の掲載はなし。 ●株式会社建築のざき:朝来市和田山町枚田1257-1 |
. | 【竹中大工道具館 大和法隆寺五重塔】 |
. | . | 【製作者:小川三夫師:師が西岡棟梁に弟子入りした後、古代建築の構造や技術を理解するために建築部材のすべてを1/20で製作し、組み立てた模型。道具館開館に際し、竹中工務店が譲り受け、道具館常設展示の目玉のひとつになっている。 】 |
. | 【黒田庄町中央公民館 荘厳寺多宝塔】 |
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【(兵庫県黒田庄町) 製作者:大城戸一秀さん 若手宮大工の第一作目模型。1/5模型。前半分のみの製作 】 2011/05/26追加: 製作者:黒田庄町若手宮大工大城戸一秀氏の第一作目模型。 2003年完成。(2002年に大城戸氏は文化庁の「新進芸術家国内研修」を受け、その研修テーマにこの作品を選ぶと云う。) スケールは1/5(総高2.9m)。前半分のみを製作する。 部材は約3000個。屋根は檜皮葺を再現。 以前この作品は黒田庄町中央公民館展示であったが、黒田庄町は西脇市と合併、その結果であろうか現在は西脇市郷土資料館展示である。 |
. | 法華口三重塔 (北条鉄道法華口駅設置播磨一乗寺三重塔模型) |
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法華口三重塔と称する。北条鉄道法華口駅に設置される播磨一乗寺三重塔模型である。 平成25年10月末、大工棟梁・甲 光宏氏(加西市東横田町在住)から寄贈、加西市市役所のエントランスホールに展示。法華山一乗寺三重塔を模すという。 平成25年12月22日、市役所から北条鉄道法華口駅に移設する。 Webサイトに設置された三重塔模型写真が掲載されているのでピックアップ(転載)する。 法華口駅一乗寺三重塔模型1 法華口駅一乗寺三重塔模型2 ブログ:法華口駅に三重塔が来るまで 及び ブログ:法華口駅三重塔設置 に法華口駅に設置する写真の掲載があるのでピックアップ(転載)する。 三重塔模型寄贈 三重塔模型基礎1 三重塔模型基礎2 初重椽・柱間/軸部・屋根・二重柱間搬入 初重椽・柱間据付 椽束石など設置1 椽束石など設置2 初重椽・柱間据付完了 二重・三重部材搬入1 二重・三重部材搬入2:手前が三重軸部、奥が二重目軸部 心柱設置:心柱は角柱のように見え、かつ初重床下から建つように見えるがどうであろうか。 二重軸部・屋根・三重柱間据付 三重柱間まで据付 模型塔内部1 模型塔内部2 三重軸部・屋根 三重軸部・屋根吊上 三重軸部・屋根据付1 三重軸部・屋根据付2 三重軸部・屋根据付3 三重軸部・屋根据付4 三重軸部・屋根据付5 三重軸部・屋根据付6 三重軸部・屋根据付7 三重目屋根まで据付完了 相輪吊上・設置 三重塔模型設置完了 三重塔模型夜間証明1 三重塔模型夜間証明2 2018/01/04撮影: 法華山三重塔の模型と云うも、軸部の基本は合致しているとしても、全体のフォルムは印象が随分と違う。法華山三重塔にある重厚さや華やかさに欠ける印象である。 一つは屋根の出が少し足りないのではないか。それと屋根本瓦葺と本塔が屋根銅板葺であることの差があるのではないか。まだ建立されて日も浅く木造素木であるのも軽い印象を与えるのであろう。 初重・二重にある中備えが省略されているのはどうしたことだろうか。法華山にある華やいだ雰囲気を減殺する感じである。 斗栱も仔細に見れば、少々違うところもあるようである。 心柱も初重床下から建つのも、外から見えないにしろまた強度上の問題を解決したのであろうかとも思われるが、違和感があるのは否めない。 しかし、木造の塔婆が身近に設置され、触れ合うことができるには喜ばしいことである。 法華口三重塔11 法華口三重塔12 法華口三重塔13 法華口三重塔14 法華口三重塔15 法華口三重塔16 法華口三重塔17 法華口三重塔18 法華口三重塔初重1 法華口三重塔初重2 法華口三重塔初重3 法華口三重塔初重4 法華口三重塔初重5 法華口三重塔初重6 法華口三重塔二重1 法華口三重塔二重2 法華口三重塔二重3 法華口三重塔二重4 法華口三重塔二重5 法華口三重塔三重1 法華口三重塔三重2 法華口三重塔三重3 法華口三重塔三重4 法華口三重塔相輪 |
【兵庫県立博物館 播磨一乗寺三重塔】 |
. | . | 【(兵庫県姫路市) 製作者:和田安弘氏、和田有功氏】 | |
. | 播磨北条町古坂塔模型 「X」氏ご提供画像 |
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図1 図2 |
詳細は不詳、兵庫県北条町古坂公民館敷地に塔模型がある。 古坂公民館:加西市北条町古坂1203、大歳社が隣接する。 この模型は屋外に設置するように設計されていると思われる。写真での印象ではあるが、本格的な建築の手法ではなく、模型的なものと思われる。また本職の大工の手になるものではなく、個人の趣味の範囲のものとも思われる。全体の印象は塔身と屋根のバランスをやや欠き、その分粗雑な印象を受ける。初重一辺は目測で約60cm位であろうとのことで ある。しかしかなり手の込んだ造作とも思われ、「趣味」の範疇であれば、その努力には敬意を表するものである。 |
. | 播磨広渡廃寺 東西塔模型 |
. | 播磨の塔跡 広渡廃寺 | |
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出雲杵築大社宝物館 但馬妙見三重塔 |
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屋内木造模型・特別精巧な模型ではない。 館内は撮影禁止のため、写真はなし。 |
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【岡山県立博物館 美作長福寺三重塔】 |
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【(岡山市後楽園) 製作者:株式会社さんけい 】 |
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【県立津山工業高校 大和薬師寺東塔】 |
. | . | 【製作者:佐々恵氏、佐々氏は宮大工30年の経験を生かして、同校の実習助手として勤務、当時の大島歳雄校長の勧めもあり東塔の製作に着手、6年がかりで完成させた。縮尺は1/15、建築科実習室に保管、秋の文化祭のおりには一般に公開される。】 |
. | 備後明王院五重塔 | . | 備後明王院五重小塔 詳細不詳。 | |
. | 備後浄土寺多宝塔 | . | 備後尾道浄土寺/多宝塔模型 尾道浄土寺子安堂内に安置、詳細は不詳。 | |
. | 讃岐国分寺模型 | . | 讃岐国分寺 ※但し、木造ではなく花崗岩製で ある。 | |
. | 豊後国分寺七重塔模型 | . | 豊後国分寺跡 大分市歴史資料館に展示。 | |
擬 製 塔 婆 | 配列:地域順 | |||
. | 東本願寺札幌別院北海霊廟 | . | . | 東本願寺札幌別院北海霊廟 昭和9年建立。 |
. | 洞爺湖弁天島三重塔 | . | . | 昭和16年 |
. | 洞爺湖三重塔(浮見堂) | . | . | 昭和34年 |
. | 瑞法寺宝塔 | . | . | 平成、網走郡美幌町西一条北2 詳細不詳:大型の箱型(二階建てと思われる)建物の一面を半円形に造り、その延長線上に(つまりは大型箱型建物の屋上に)宝塔の上重を載せる形式を採るようである。宝塔は独立棟ではなく、箱型建物と一体となっていると思われる。 |
. | 八戸塩入観音? 三層建物 |
. | . | 八戸市塩入附近に三層の三重塔様の建物がある。しかしその実態は全く不明。 ○塩入観音・三層建物1 塩入観音・三層建物2: 国道切通の上に塩入観音像(東)とその西の崖下のビリヤード(店舗)の屋上に三層建物が建つ。 ○塩入観音・三層建物3:塩入観音から西を撮影。 塩入観音への階段途中から西に通路と簡単な門があり(施錠されている)、塩入観音と地続きとも思われる。しかし、塩入観音の関係建物かどうかは不明。 中央建物は仏堂風?。 ○塩入観音・三層建物4 塩入観音・三層建物5: この建物は仏塔それも簡略な三重塔を意図した建物なのかどうかについても不明。 塔であるとしても、おそらく鉄骨構造の新建材のバラック建築と思われ、特に価値があるものではない。形は六角三層で、相輪に代えて棒を建てる。 塩入観音:日向義孝なる人物(全く不明)の建立で平成5年建立とある。国家昌平・万民富楽・家内安全・身体健全・交通安全・海衆安穏の願文がある。また日向熊五郎・リエ(全く不明)なる人物によって石燈籠が平成16年に建立されている。 |
. | 陸奥八森茂浦観音五重塔 | . | . | 山本郡八峰町八森茂浦18:茂浦観音地図(緯度・経度:40.373931,
140.014422に所在) 一辺 2.64m。 情報がほぼ皆無であるので、以下写真で判断する。 建築年代は不明、両部鳥居があり、その脇に五重塔が建つ。両部鳥居すぐに石階があり、それを上った所に堂宇があるので、その堂宇が茂浦観音であろう。 初重は方3間の建築で、正面は丸柱が使われるが他の面は四角柱が使われている場合もある。 斗栱は唐様が混ざるが、出組で、中備には蟇股を配置する。軒は一軒繁垂木、軒下は軒支輪を立ち上げる。初重内部の中央に板囲いがあり、その中には心柱が通るものと推測される。 以上のように初重は辛うじて塔建築の体裁をとるが、2重から5重まではバラック建築の様相を呈し、柱も角柱で枘孔と思われる穴もあり、古材を転用したものと思われる。壁や軒下は全て板で覆われる。但し、各重とも出幅の無い勾欄が意匠されている。 屋根は銅板葺き。 ※本塔及び茂浦観音について、茂浦自治会長および付近の商店に電話にて聞取りを試みるも、由来などについてまったく何も知らない様子で、これ以上の聞取りは断念する。 2020/07/23「X」氏撮影画像: 茂浦観音五重塔11 茂浦観音五重塔12 茂浦観音五重塔13 茂浦観音五重塔14 茂浦観音五重塔15 茂浦観音五重塔16 茂浦観音五重塔17 茂浦観音五重塔18 茂浦観音五重塔19 茂浦観音五重塔20 茂浦観音五重塔21 茂浦観音五重塔22 茂浦観音五重塔23 |
. | 横手市後三年合戦金沢資料館:三重塔もどき | . | . | 横手市金沢中野字根小屋102-4 資料館自体が三重塔の形式を採る。但し、塔婆ではなく、三重塔をデフォルメした(推定)RC建築である。一応、層塔の相輪を載せるも、塔婆として評価できるものではない。 2020/07/26「X」氏撮影画像: 後三年合戦金沢資料館1 後三年合戦金沢資料館2 |
. | 石岡市渡邊板金三重塔 | . | . | 茨城県石岡市小幡1648−1(筑波山東に位置する)に所在。 某ブログによれば、『4年前、板金や塗装の会社を経営する渡邉さんがお孫さんのために特大の鯉のぼりを設置したものの、高すぎて強風で飛ばされる事もしばしばだったという。集落には「鯉のぼりの竿を切ると子どもの成長が止まる」という言い伝えがあるため小さくするわけにもいかず、強風に飛ばされないように敷地面積約5000坪のご自宅に鯉のぼりのためだけの三重塔を作って囲ってしまったという。ちなみに巨大な仏像などは趣味で置いているそう。』とある。 4年前とは、2016年頃のことであるから、2016年頃完成と思われる。 ご覧のように、外観も建立目的からも本格的な塔建築でもなく仏塔でもない。 外観は本業の板金屋さんらしい造りとなる。かなり大型の建築である。 2021/02/14「X」氏撮影: 渡邊板金三重塔1 渡邊板金三重塔2 渡邊板金三重塔3 渡邊板金三重塔4 渡邊板金三重塔5 渡邊板金三重塔6 |
. | 群馬牧野工務店五重塔 | . | . | 建造時期、実態は不明。情報ご提供:金さんの塔を訪ねて 沼田市岡谷町 |
. | 群馬一峰公園忠霊塔 | . | 画像 | . |
. | 上野東雲寺 三重塔形式鐘楼 |
. | . | 太田市(新田町) 写真では鉄骨造で、円形の四本柱を建て、高い位置に床を構え、初重に梵鐘を吊り、2重・3重は壁にし、相輪を立てた代物のようです。 |
. | 明治40年東京勧業博覧会銅製五重塔 | . | . | 於:東京上野公園 絵葉書: 東京勧業博覧会銅製五重塔:明治40年に東京上野公園で東京勧業博覧会が開催されるが、そのときにこの銅製の五重塔が作成展示されたもの(推測)と思われるも、詳細は不明。 この銅製五重塔のその後消息は不明、銅製の故にどこかに保存されていることも考えられる。 なお、同じ上野の東京国立博物館庭園に徳川綱吉寄進・大和法隆寺旧蔵の銅製五重塔がある。相輪の九輪に替えて昇龍で代用する意匠は、この綱吉寄進の銅製五重塔をモデルとするものであろうか。 |
. | 東京電気博覧会模型塔 | . | 図1 | (大正7年3月開催電気博覧会)三橋塔とある。 大正7年(1918)3月21日:5月31日まで、電気博覧会開会(東京上野忍池畔)が開催されると云う。 それ以外に、この塔の目的・構造などについては全く不明。継続調査予定。 タイトル:電気博覧会案内 著者名:田多井 祐作/編 出版者:日本電気協会 出版年月:1918 タイトル:電気博覧会報告 著者名:堀江 長吉/著 出版者:電気博覧会事務所 出版年月:1919 の一般図書があると云うも未見。 |
. | 武蔵金乗院五重塔 | 五重塔は平成11年落慶、RC製と思われる。 八角五重塔と称する。実態は不明。正規の塔建築とはかけ離れた建造物である。 当院は関東で盛んな例の新義真言宗のようであり、山口観音と称する。 「X」氏ご提供画像: 武蔵金乗院五重塔 2003/3/27撮影: 武蔵金乗院五重塔1 2007/11/06追加:「O」氏ご提供(1998/01/03撮影) 武蔵金乗院五重塔2 武蔵金乗院五重塔3 2023/05/26撮影: 真言宗豊山派、吾庵山と号し、寺号は放光寺という。本尊は千手観音で山口観音と通称する。寺伝では弘仁年中(810−824)行基の開山という。鎌倉期には新田義貞が鎌倉を攻めたとき、この寺で戦勝祈願をするという。 ※行基云々は別として、古寺ではあるようで、新義真言宗の首都圏の流行に時流に乗ろうとしている雰囲気はある。 旧芝増上寺徳川氏霊廟石灯篭: 東に隣接する佐山不動寺と同じく、この寺は、芝増上寺の徳川氏霊廟にあった石灯篭が西武の堤康次郎によって打ち棄てられた場所の一つであり、多くの旧芝増上寺徳川氏霊廟の石灯篭が散在する。 これに関しては、○サイト:増上寺の石灯籠 に伊藤友己氏による詳しい調査がある。 上記によれば、 金乗院には「有章院8・台徳院2・惇信院6・文昭院7、合計23基の増上寺の石灯籠が移築されていることになっている。 金乗院八角五重塔11 金乗院八角五重塔12 金乗院八角五重塔13 金乗院八角五重塔15 金乗院八角五重塔15 金乗院八角五重塔16:塔内には千体の寄進者の名を刻した観音像を祀るという。 金乗院北門もしくは裏門 金乗院仁王門 金乗院辨天 金乗院本堂1 金乗院本堂2 金乗院本堂3 金乗院本堂4 金乗院本坊1 金乗院本坊2 金乗院開山堂・七福神堂 金乗院開山堂1 金乗院開山堂2 金乗院七福神堂1 金乗院七福神堂2 金乗院七福神堂3 金乗院七福神堂4 金乗院閻魔堂 金乗院西向釈迦堂 金乗院大日堂1 金乗院大日堂2 金乗院玉佛堂1 金乗院玉佛堂2 有章院は7代徳川家継・台徳院は2代徳川秀忠・惇信院は9代徳川家重・文昭院は6代徳川家宣 辨天堂前文昭院殿石灯篭 辨天堂前文昭院殿石灯篭その1 辨天堂前文昭院殿石灯篭その2 仁王門前文昭院殿石灯篭 仁王門前文昭院殿石灯篭その1 仁王門前文昭院殿石灯篭その2 本堂前有章院殿石灯篭銘 本堂前有章院殿石灯篭 西向釈迦堂横惇信院石灯篭 西向釈迦堂横惇信院石灯篭その1 西向釈迦堂横惇信院石灯篭その2 五重塔前台徳院殿石灯篭 五重塔前台徳院殿石灯篭その1 五重塔前台徳院殿石灯篭その2 |
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. | 武蔵薬研堀不動院 | . | 画像 | 上重が八角の平面と思われる塔風の堂宇であろう。写真でみる限り、RCと思われる。 不動院は真言宗智山派(川崎大師東京別院と称する)であり、この堂宇もいかにも関東新義真言の典型の造りと思われる。本尊は覚鑁上人の自刻の尊像 (俄かには信じ難いが)といい、天正13年、豊臣秀吉の根来寺攻めにより、根来大印僧都によってこの地にもたらされたものと伝える。(当院の創建)また順天堂始祖・佐藤泰然が和蘭医学塾を開いた地でもあり、順天堂発祥の地と云う。 現在はビルの谷間に埋もれているようであるが、かつては広大な寺域を持つと云う。 「X」氏ご提供画像 |
. | 池上本門寺山内 常仙院変形三層堂 |
. | 画像 | 本堂は変形三重塔風の様式を採る。RC。あるいは屋上に一重塔を置く形式。 池上常仙院:天文18年(1549)日純上人の隠棲所として開創、旧は「玉蔵坊」と称す。 詳細は池上本門寺常仙院参照 |
. | 武蔵瀬田慈眼寺二層塔(釈迦堂) | 画像 | ●「Hayami」氏ご提供画像 喜楽山と号する。真言宗智山派。世田谷区瀬田四丁目 「慈眼寺HP」 より 徳治元年(1306)法印定音が小堂を建てたのを始まりとし、天文2年(1533)長崎四郎左衝門が、この小堂を崖上の当地に移し真言宗慈眼寺と称する。法印定音は修験であった。 昭和50年現本堂に造替。 昭和54年釈迦堂(二層塔)再営。 同じく慈眼寺のHPに次の記載がある。 「昭和54年7月、『新編武蔵風土記稿』慈眼寺の項に 「釈迦堂本堂ニ向テ左ニアリ、二問ニ二問半、本尊木像ニテ長 一尺アマリ」と所載され、今日絶えて久しくその片鱗もない姿に鑑み、重層釈迦塔を発願建立。大仏師・松久宗琳師彫刀、 釈迦、文殊、普賢三尊像を開眼奉安し、表額「釈迦牟尼」を、真言宗長者芙蓉良順大僧正猊下に御染筆戴き、抜苦與楽六根清浄を祈念し、永久の聖域として決定した処である。」と。 釈迦堂を重層釈迦塔として再営したようである。 釈迦堂(二層塔)は、写真で見る限り、RC造、基壇はおそらく納骨堂で、それを基壇に見立て、1間の重層の塔を載せたものである。勿論、正規の塔建築ではない。 なお、隣接して、現在は瀬田玉川神社と称する神社がある。元は御嶽社と称し、大山道(矢倉沢往還)に面しており、永禄年中(1558〜70)に、この村の下屋敷に創建されるも、寛永3年(1626)長崎四郎左衛門嘉国が寄進して現在地に移転するという。慈眼寺はこの御嶽社の社僧でもあったようである。 この後、国家神道の犯罪が始まる。明治7年御嶽社は村社と格付けされる。 明治39年神社合祀の令により、八幡社、熊野権現、大神宮(天祖社)、六所宮などを合祀して玉川神社に成り上がり、さらに後に瀬田玉川両地区の氏神として国家神道の先兵となり、ついには瀬田玉川神社と堕落したという。 |
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. | 武蔵中野慈眼寺パゴダ | . | . | 福王山と号す、真言宗豊山派、中野宝仙寺末。天文13年(1544)の創建と伝える。 本堂脇にパゴダがある。 |
. | 甲斐円通院六角三重塔 | . |
図1 図2 図3 図4 図5 図6 図7 本堂 |
報恩塔と称する。外観は六角三重塔の形式を採る。しかし組物などなど正規の塔建築ではなく、
略式塔婆である。(三層堂に相輪を載せたイメージ) 以下の説明がある:昭和43年秋着工、染色工場の古材・建具などで建築する。内部には六角厨子があり十六羅漢が祀られる。 曹洞宗、大慈山と号する。秋元泰朝が谷村藩主として移封、寛永10年頃谷村城下町整備に伴い、竹の鼻(都留市駅前付近)現在地に移転すると伝える。山門、鐘楼、本堂、薬師堂、閻魔堂などがある。また「元坂の石橋 」「梵鐘」(貞享3年1686寄進)「涅槃図」(寛文13年1673銘)などを有する。 甲斐円通院六角三重塔1 同 2:左図は「X」氏ご提供画像 |
. | 甲斐身延山本地堂 | . | 身延山 | |
. | 越後魚沼圓福寺二層堂(自称多宝塔) | . | . | 延命山と号す。真言宗智山派。新潟県魚沼市佐梨433 草創は奈良期聖武天皇の勅命によるという。当初は華厳宗、幾度か移転し、天台宗に転宗、現在地には室町期に移転する。現在は智山派となる。 往時は三重塔も建立され12坊を擁していたという。 ※寺伝では三重塔があったという。 本尊の阿弥陀如来座像(建保2年/1214)は重文。 平成25年(2013)は本尊800年祭で、住職は昔焼失した如来像5躯の寄進を申出、それに合わせて多宝塔建立が企図される。 多宝塔(実際は多宝塔ではなく二層堂)は方3m、高さ8m、平成25年落慶。 二層堂(自称多宝塔)は下重は方3間、上重は方2間、檜(推定)を使用した折衷様を採り入れた和様木造建築である。屋根は銅板葺、頂上には宝珠を載せる。 2020/07/26「X」氏撮影画像: 魚沼圓福寺二層堂1 魚沼圓福寺二層堂2 魚沼圓福寺二層堂3 魚沼圓福寺二層堂4 魚沼圓福寺二層堂5 魚沼圓福寺二層堂6 |
. | 信濃三光寺納経塔 | . | . | 2011/05/11追加: 八角一重塔の形式を採る。木造と思われる。寺社建築の下倉設計施工。富士見町落合2614−1 写真はhttps://www.shimokura-sekkei.com/case_temple にあり。 |
. | 信濃福寿院三層塔 | . |
図1 図2 |
曹洞宗・齢松山と号する。この三層塔は研修道場と称すると思われる。 1階は雲聚堂(坐禅・研修道場)、2階は聯芳堂(福壽院歴代の位牌及び福壽院全檀徒の先祖の位牌を祭祀)、3階は不詳。何れにしろ塔建築ではない。 2011/05/11追加:寺社建築の下倉設計施工。 |
. | 信濃大安楽寺本堂 | . | . | 2011/05/11追加: ニ層塔の形を採るも変形ニ層塔と思われる。宝形造の本堂に3間の一重塔を載せた印象である。木造と思われる。寺社建築の下倉設計施工。松本市女鳥羽町二丁目5番8号 写真はhttps://www.shimokura-sekkei.com/case_temple にあり。 |
. | 越中石動観音寺一間三重塔 | . | . |
平成10年(1998)建立。
一辺は辺9尺(270cm)・・・実測。高さは不明。 |
. | 加賀金沢来教寺金属造型多宝小塔 2017/05/13撮影: 金属造型多宝小塔1 金属造型多宝小塔2 金属造型多宝小塔3 金属造型多宝小塔4 |
. | ○金属造型多宝塔は蓮田修吾郎作・寄贈。製造年は不明、その他の詳細も不明。 蓮田修吾郎は金沢出身で、日本芸術院会員/文化勲章受章者である。 この多宝塔は金沢来教寺本堂の左壇(本尊阿弥陀如来安置)と右壇(金比羅大権現安置)との中間つまりは本堂のほぼ中央付近に安置される。 ○来教寺に関しての情報 現地案内板(駒札)には次にようにある。 「毘沙門山または卯辰山と号する。天台眞盛宗。開山は寛永9年(1632)毘沙門天を祀ったことには始まる。 本堂内陣は珍しく神社形式を採り、右壇内陣は金比羅大権現を祀り、左壇内陣は阿弥陀如来を祀る。」 ※神社形式とは不明であるが、本堂内を内陣・外陣に区画し、その内陣を単純に僧侶が祭祀を行う場と仏像を安置する須弥壇とで構成するのではなく、僧侶の祭祀の場と仏像安置の場との間に、階段を設置しその階段の先を仏像安置の場所とするような形式と解される。の多宝塔写真の後におそらくは漆塗りと思われる階段が写るが、これが端的に神社形式を示すものであろうと推測する。 ※現地案内板には金比羅大権現がどのようにして勧請されたのかの記載がなく、来教寺と金比羅大権現との関係は不明である。 従って、本寺と金比羅大権現との関係をWebで収集すると、次の一文が散見される。 「寺伝では、永禄7年(1564)正林和尚が卯辰山の一本松に草庵を建てたのを開基とし、近江より金比羅大権現を、山城国鞍馬山から毘沙門天を勧請。宝永5年(1708)現在地に移転して、寺号を公称したと伝えられています。しかし、「貞享2年寺社由緒書上」では寛永9年(1632)の創立と書かれているそうです。宝永7年(1710)3月の大火で火元になり、明治の初めにも火災に遭い、古い文書が残っていないと聞きます。」 ※来教寺は近江西教寺の末寺であるから近江とはこの点で関係があるのであろうが、しかし金比羅大権現が近江から勧請されたとは、これも良く分からない。 さらに 「金沢に於ける明治の神仏分離を探る」安井史郎(「伝統と現代が交差する『金沢文化』の発信と多文化共生の推進」2012年9B研究報告書 所収)では次のように述べる。 「卯辰山山麓にある宇多須神社は地元の人達は「毘沙門さん」と言って敬っていて、子供時代にはその祭礼に出かけた記憶がある。拝殿の左右にはムカデの描かれた大型の提灯がさげられていて、「ムカデのお宮さん」と呼んでいたものである。数年前に自費出版された氏家栄太郎著『温知叢誌』によれば、『維新、神仏混淆禁ニ際シ、毘沙門天ハ卯辰来教寺ニ移シ、現時ノ祭神ハ高皇産霊神外六座トス。』とあり、以前祀られていた毘沙門天は来教寺に移された事が解った。又、提灯に描かれたムカデは毘沙門天の神使とも知ったのである。」 「来教寺は毘沙門山と号し、天台真盛宗に属する寺院で、旧町名下小川町に在る寺院である。 寺記によれば、延宝4年(1676)西養寺7代真運の弟子王林の創立とされるが、皇国地誌には、建立を寛永7年(1632)とも伝えている。同寺本殿の仏具の中には、室内の灯籠に毘沙門天の神使とされるムカデが描かれている。又、廊下の長押には天満宮の掲額があり、江戸期に天神様が祀られていた痕跡が認められる。 肝心の天神の掛軸は、明治維新の神仏分離令により当局に提出したままとの話を現住職河合智證氏より説明を受けた。又内陳(陣)左側には金比羅大権現が祀られている。」 ※来教寺の毘沙門天は明治の神仏分離で現在の宇多須神社から遷されたもので、では宇多須神社の毘沙門天は山城鞍馬のそれが勧請されたものということなのであろうか。 2017/05/13撮影: 来教寺山門 来教寺金比羅大権現碑1 来教寺金比羅大権現碑2 来教寺本堂:向かって左の拝廊・向拝が金比羅大権現の拝廊・向拝である。 来教寺本堂金比羅大権現須弥壇 |
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. | 越前永平寺納経塔 | . | . | 裳階付六角宝塔、平成8年11月18日落慶。 平成14年は道元禅師750回大遠忌であるが、その準備期間に「般若心経」を写経奉納を発願して建立と云う。心柱は相輪頂部迄47尺二寸六分(14.3m)と云う。 設計は中部大学名誉教授・工学博士伊藤平左エ門氏(堂宮大工12世)。 伊藤氏「塔の設計方針と特色」には、「納経塔の形態は、永平寺貫首の希望である多宝塔形式で、中世禅宗様式を取り入れた六角単層裳階付の塔にした。」とある。 以上の文面から、塔は平面六角の一重塔で、裳階付きの塔であろうと思われる。一重塔で平面六角であるならば、「裳階付六角宝塔」とでも云うべきであろう。 ※六角二層塔には高野山六角(荒川)経蔵があるが、この構造が裳階付一重塔なのか二層塔であるのかは不明。 |
. | 三河世尊寺三重塔 | . |
図1 図2 図3 |
簡易変形塔婆、建立年代不詳。初重・2重は平面方形、3重は八角。粗雑。 世尊寺のサイトより:東天竺山世尊寺は志賀重昂 (岡崎市出身) の発願により、昭和4年創建。 釈迦堂と呼ばれる。また八方除方位守護神を祭る八角三重の塔瑞雲閣には、大黒天・毘沙門天・弁財天が奉安され、交通安全・商売繁昌などの祈祷霊場として知られる。 |
. | 京都巣林寺三層堂 | . |
図1 図2 |
当寺は禅刹のようであるが、実態は怪しげでよく分からない。正規の塔建築というより塔風三層堂というべきもので あろう。四隅の柱は鉄筋コンクリート製で壁・軒は漆喰(もしくはモルタルで白彩色か?)、柱間の造作は木製とも思われる。組物はなし。相輪の変わりに「昇竜」を乗せる。地蔵塔の扁額 を掲げる。 |
. | 山科本圀寺納骨堂 | . | 京都本圀寺の山科本圀寺納骨堂を参照 | |
. | 大和極楽寺三層堂 | . |
図1 図2 図3 図4 |
浄土宗仏現山極楽寺と称し、門・本堂・庫裏などがある形どうりの町中の寺院である。沿革などは未調査。山門右に三重塔風の鉄筋コンクリート造と思われる三層堂があり相輪を載せる。 なおこの三層堂西には用途不明の細長い三層堂も並んで建立されている。(三層堂1の写真を参照)。境内は狭く、人家の中にあるので写真は前の道路から撮るしかない 。 |
. | 大和金峯山寺 仏舎利宝殿 |
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図1 図2 |
昭和49年建立。昭和42年印度ガンジー首相より、仏舎利の贈呈を受ける。役行者の天竺飛行・釈迦への帰一という伝説の所以とされる。その仏舎利奉安のため建立される。 RC造と思われる。 → 大和金峯山寺 2012/03/29撮影; 吉野山仏舎利宝殿1 吉野山仏舎利宝殿2 吉野山仏舎利宝殿3 |
. | 高槻(株)千寿院三重塔 | . |
図1 図2 図3 |
簡易な三重塔がある。詳細は不詳。かなりの小型塔と思われる。建築としては函を三重に積んだような構造及び外観であり、正規の塔建築ではない。建築としても粗末なものと思われ、「擬製塔婆」とするしか無いであろう。 なお、千寿院は株式会社であり、名称は高槻動物霊園と称し、その業種は動物を対象とした霊園業であり、宗教法人ではない。 図1〜3:「X」氏ご提供画像 |
. | 攝津太融寺三層塔 | . | 「攝津・河内・和泉の塔跡」の攝津太融寺の項を参照。 | |
. | 摂津長柄国分寺 (真言宗国分寺派大本山 護国山 国分寺) |
. |
図1 図2 |
鐘楼堂・慰霊堂を兼用したニ層塔がある。この塔堂はニ層の堂に相輪を載せる。RC、建築的には簡略なものと思われる。弘法大師生誕1200年紀念として建立。下重は「天六ガス爆発
(昭和45年地下鉄工事中)事故の慰霊堂」、上重は「鐘楼」。図1〜2はGoogle StreetView から採取。 なお本尊脇左右に2基の七重小塔があると思われる。 長柄国分寺については「国分寺の塔跡」の摂津国分寺の項を参照。 |
. | 河内一乗寺二層堂 | . |
図1 図2 図3 図4 |
多宝塔と称するも、崖を利用した二層と解釈できる方形堂に相輪を載せた鉄筋コンクリート製の建築である。 おそらく半崖造りの初重が納骨堂と思われる。平成12年完成。浄土宗。その他は不詳。 |
. | 大阪金剛寺九角如意塔 | . | . |
昭和42年建立。一辺3.5m。差渡し約7.5m。鉄筋コンクリート製。平面は九角(変形と思われる。)一応三重塔の型を採り、九輪まがい(三輪しかない)のものを立てる。また二重目屋根は三重目屋根より小さいデザインを採る。写真で見るかぎり、細部は伝統時な層塔に忠実である部分が多いと思われるも、その平面・全体デザイン・相輪の珍妙さを考慮して
擬製塔婆(塔もどき)に分類すべきであろう。また戦後のRC製であること(建立目的は不明)なども考慮すれば、特に価値ある建築ではないであろう。 金剛寺は念法真教総本山と称する。念法真教は大正14年立教された天台系の新興宗派と思われる。教義は不明であるが、政治的には古典的なあるいは復古的な国家主義と思われ る。 ※信者以外の境内立ち入りは不可(守衛所)、境内には相当数の高い建築があり、かといって境外では周囲に高い場所もなく、如意塔自体を周囲から窺うことは困難 であろう。ただし相輪および三重目屋根を垣間見ることは可能ではある。 |
. | 紀伊高野山六角経蔵 | . | 高野山 | |
. | 紀伊高野山 成福院六角三層塔 |
. | 高野山 | |
. | 紀伊土産店層塔風建物 | . |
図1 図2 |
紀三井寺門前近くの土産店の屋上に、それぞれに相輪を載せた方形堂形の造作が2基ある。 勿論、仏堂ではなく、単に土産店の「宣伝効果」を狙ったものと思われるが、出来栄えは一商店のものとしては良いものと思われる。なお図1の背景は紀三井寺。 |
. | 淡路平和観音寺十重塔 | . |
図1 図2 図3 |
実態は不詳、豊清山平和観音寺と称し、世界平和大観音像<高さ約100m(台座の20mを含む)>と称する仏像がある。 ここに十重塔がある。昭和57年建立?。高さ40m強。おそらく鉄骨で組上げ、新建材で壁を作った?という類の構造物と思われる。地元出身の奥内豊吉が事業で財を成し、造立すると云う。一応相輪は上がるも、正規の塔婆 と云うにはほど遠い代物であろう。 2009/10/07追加: 奥内豊吉:オクウチグループ(大阪などのホテルチェーン・貸しビルなどを営む)の創設者。昭和63年奥内氏他界。観音像及び土地は妻が相続。2006年2月26日施設は閉鎖、競売に付されるも不調とされる。観音像は劣化が進み、このままでは例えば顔面のコンクリートの崩落などの惧れがあると伝えられる。 現在では塔・観音像などは特大のゴミと化す。 |
. | 安芸徳應寺五層塔 | . |
図1 図2 図3 |
昭和30年完工。本堂屋上に五層塔婆を置く。RC製。(この用途は不明、仏舎利塔かどうかも不明) 徳應寺は立蔵坊と号し、仏護寺龍原12坊の一つ。 長録3年(1459)武田義信は、甲斐の僧正信(武田一族)招聘を迎え龍原(現祇園8丁目・武田山下)に天台宗龍原山仏護寺を創建する。仏護寺は甲斐6坊(甲斐から移転)及び地6坊と称する12坊を配置する。明応5年(1496)浄土真宗に改宗。天正18年(1590)毛利輝元の広島築城により現西区打越町移転。慶長14年(1615)福島正則により、現在地の寺町に移転。寺町には仏護寺とその10坊が今も現存する。(龍原12坊は後14坊となり、原地近隣に4坊・寺町に10坊が残る。) 現在は本願寺広島別院と称する。昭和20年爆心地に近く、壊滅する。 龍原12坊は塔頭とはいえ、各寺とも今なお広大な境内を有する。 原地近隣の4坊:蓮光寺(松陰坊)、正伝寺(相田坊)、品窮寺(正明坊)、光禅寺(坊号なし) 寺町10坊:報専坊、善正寺(慶蔵坊、圓龍寺、正善坊、元成寺(香林坊)、超専寺、光福寺、徳應寺(立蔵坊)、光圓寺(東林坊)、真行寺(東前坊)を云う。 |
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安芸緑井毘沙門天多宝塔 (三層塔) |
. | 図1 |
昭和59年、原爆犠牲者慰霊のため建立、本尊大日如来(三階)・四天王(ニ階)を安置。 多宝塔と称するも、RC造の三層塔。岩谷権現山毘沙門天堂に属する。 治暦年中(1065-)教尊が毘沙門天を安置し開山と云う。中世には安芸武田氏の崇敬を受け、正安元年(1299)願成寺(元成寺とも?)ほか7ケ寺の建立を見る。後毛利氏の広島築城で、願成寺は広島に移転し、毘沙門堂・仁王門・東ま明寺・西明寺が当地に残ると云う。但し今の堂宇は近年の建築と思われる。 安芸毘沙門天三層塔内部:2階に毘沙門天他四天王、3階に本尊大日如来を安置 毘沙門天三層塔大日如来 毘沙門天三層塔毘沙門天像 図1:「X」氏ご提供画像 |
. | 讃岐多度津少林寺 | . | 画像 |
昭和60年頃完成。画像はJR多度津駅の陸橋から撮影したもの。 中国大慈恩寺塔を写したとされる六重塔と云う。 なお「拳士でなければ、境内には入れない」と云う。現地は未訪問。 画像は2001/12/27撮影。 2016/10/09撮影:JR多度津駅の陸橋から撮影 六重塔は大雁塔と称する。内部は少林寺拳法の資料館である。開祖(宗道臣)の遺品や少林寺拳法の歴史を知ることができるという。最上階には開祖の遺骨(分骨 )が祀られる。開祖が若年の頃訪れた西安大慈恩寺大雁塔をモデルにするという。 多度津少林寺大雁塔1 多度津少林寺大雁塔2 多度津少林寺大雁塔3 |
. | 九州諸国の塔婆形式に擬する納骨堂は九州諸国の擬塔婆形式納骨堂のページに集約する。 | |||
. | 天空会館鉄閣寺二層塔 | . | . | 2004年建立、糟屋郡篠栗町篠栗、篠栗町の葬祭場施設、屋上に層塔?・RCか? |
. | 九州沖縄八県聯合共進会展展望閣 | . | . |
明治43年の第13回九州沖縄八県聯合共進会展では五重塔様の展望閣が設けられたようである。会場閉鎖後の展望閣の消息は不明であるが、おそらくは取壊されたものと思われる。 2012/06/06追加:「Y」氏ご提供画像: 絵葉書 九州沖縄八県聯合共進会展展望閣 サイト:古絵葉書にみる第13回九州沖縄八県連合共進会では以下のように解説する。 「第13回九州沖縄八県連合共進会は、旧肥前堀を埋め立てた広大な敷地で明治43年3月11日から5月9日まで開催された。現在のアクロス福岡から天神中央公園、福岡市役所、天神イムズなど天神の中心地一帯である。同共進会の開催に合わせて、福博電気軌道が開幕直前に開通。のち西鉄市内電車の通称「貫線(正式名称は貫通線)」。現在の明治通りはこの電車路線建設のために造られた大通り。共進会の迎賓館として建設されたのが西中洲の公会堂だ。また、筥崎宮参道の浜側に付帯施設として潮湯「抱洋閣」や「箱崎水族館」が建設された。現在は国道3号線となっている一帯である。同共進会は九州の一地方都市に過ぎなかった福岡市が、本格的に九州の中心都市へと歩み始めたきっかけとなった。」 なおここには幾つかの展望閣絵葉書の掲載がある。 さらに、別のサイトには以下の絵葉書の掲載がある。 九州沖縄八県聯合共進会展展望閣2 九州沖縄八県聯合共進会展展望閣3 |
. | 筑後長円寺 | . | . | →九州諸国の擬塔婆形式納骨堂 |
. | 薩摩高善寺三層塔 | . | 画像 | ご覧のように、伝統とする仏堂あるいは塔婆建築ではない。 納骨堂に相輪を載せたものと思われる。昭和48年建立。 「X」氏ご提供画像 |
. | JAPAN PAVILION 1939 SAN FRANCISCO WORLD'S FAIR 三層塔 |
. | . | 2012/06/06追加:「Y」氏ご提供画像: Postcard: Full view, Japan Pavilion, Treasure Island 1939年にSAN FRANCISCOのTreasure Islandで開催された万博の日本館の絵葉書であろう。ここには三層塔に似せたパビリオンがあった。(その後の消息は不明ながら、おそらく取壊されていると思われる。) Webサイトには以下のような絵葉書の掲載がある。 SAN FRANCISCO WORLD'S FAIR日本館 SAN FRANCISCO WORLD'S FAIR日本館擬似三層塔 |
. |
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塔 婆 参 考 | 配列:地域順 | |||
. | 陸奥白河関川寺 | . | . |
納骨堂と思われる相輪を架した堂宇を有する。詳しい構造は不明であるが、下重は平面の広い納骨堂でその上に1間の宝形造の上重を載せ、さらに相輪を架した構造と思われる。いわゆる二重塔のような構造では無いと思われる。 白河関川寺塔風堂宇1 白河関川寺塔風堂宇2 白河関川寺塔風堂宇3 白河関川寺塔風堂宇4 塔風堂宇内部 結城家菩提寺で結城宗広の開基と伝える。曹洞宗。関川寺古くは関川窪にあったが、天正9年(1581)に現在地に移転する。また現在関川寺が立地するこの地は結城氏館の跡で今も堀や土塁を残す。 結城宗広墓所 結城氏館土塁 |
. | 下総馬込遺跡瓦塔 | . | . |
馬込遺跡(印西市平岡)は9世紀初めの集落跡で、ここから1997年に出土した破片を復元した結果、奈良期末から平安期に造られたとみられる七重塔の瓦塔2基(双塔)であることが判明した。 かなり精巧なものとされる。 馬込遺跡瓦塔:「発掘された日本列島2005」パンフレットより |
. | 武蔵大聖寺 石造法華経供養塔 (六面幢) 「O」氏ご提供 |
重文 |
図1 図2 |
6枚の板碑(緑泥石片岩)六角筒型に組合せ、笠石を乗せる(宝珠は欠)、背面には康永3年(1344)年の紀年がある。大聖寺開山希融以下50人が菩提のため法華経一千部読誦を行う(主旨)と刻む。塔身は高さ1.07m、板碑は巾30cm 画像は「O」氏ご提供:撮影時期不詳。 |
. | 狭山山不動寺 | . | 狭山山不動寺 | |
. | 中山法華経寺 銅製多宝塔、銅製方形宝塔、聖教殿 |
. | 中山法華経寺 | |
. | 上野大仏山パゴダ | . | 旧東叡山寛永寺境内にあり、昭和42年建立。 東叡山寛永寺 | |
. | 音羽護国寺銅製宝塔 (音羽護国寺忠霊塔) |
. | 昭和14年毎日新聞報道写真「武蔵護国寺宝塔」 明治維新の神仏分離で筑波山中禅寺から遷されたと云う。 戦前の宝塔位置 戦後の宝塔位置 →武蔵護国寺:陸軍墓地中の現存する。 |
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. | 武蔵永泉寺パゴダ | . |
図1 図2 |
曹洞宗。RC造本堂の上にパゴタを載せる。詳細は不詳。 山崎富栄(昭和23年玉川上水で太宰治と入水心中)が当寺の山崎家代々の墓所に眠ると云う。 |
. | 武蔵蓮華寺(寺島大師)仏塔 | . | . |
◆寺島大師:清瀧山と号す。現在は真言宗智山派。寺島大師と云われる。 弘安3年(1280)北条頼助(北条時頼甥・北条経時息)が鎌倉に建立、同年時頼が当地へ遷したと伝える。本尊は空海自筆の弘法大師画像と伝え、川崎大師 (平間寺)、西新井大師(総持寺)とともに江戸三大師と称される。 ◆蓮華寺太子堂: ○2006/01/14追加:太子堂については以下の知見がある。 「重要文化財法隆寺羅漢堂(旧富貴寺)復原工事報告書」東京/安田工務店、1973 より 大和富貴寺羅漢堂再興にあたり、画期的な樹脂加工による保存再用が図られた結果、多くの旧材の再用が可能となる。その結果、部材の傷み具合から相当の部材の廃棄が予想され、そのため予め準備していた新材の斗栱類は不要とな る。幸いにもこの不要となった斗栱類は寺島大師(蓮華寺・東京向島)の太子堂の再建工事に充当される。 昭和48年蓮華寺太子堂落慶。 蓮華寺太子堂:羅漢堂の新生児というべきものであろうか。 ○2011/11/06追加:2011/10/29撮影 「江戸名所圖會 巻之7」に詳述あり。 太子堂は本堂の右にあり、本尊聖徳太子像は16歳の真影にして、・・北条経時の念持仏にて、・・・ ・・以下縷々上に示した縁起が語られる。 江戸名所圖會・蓮華寺:本堂手前東に太子堂が描かれる。山門や本堂の位置が現在の位置と同じならば、再興された現太子堂位置も当時のままであると思われる。 ○現太子堂は組物は当然ながら富貴寺塔残欠と瓜二つである。ただし正面は3間に造り、その他の面は2間に造るのは不自然であろう。さらに各辺の中間柱上に大枓が載らないのも違和感があろう。 武蔵蓮華寺太子堂11 武蔵蓮華寺太子堂12 武蔵蓮華寺太子堂13 武蔵蓮華寺太子堂14 武蔵蓮華寺太子堂15 武蔵蓮華寺太子堂16 武蔵蓮華寺太子堂17 武蔵蓮華寺太子堂18 武蔵蓮華寺太子堂19 武蔵蓮華寺太子堂20 太子堂聖徳太子立像 ◆蓮華寺仏塔:昭和60年竣工。RC造。 印度佛陀伽耶の大塔を擬す。弘法大師1150年御遠忌紀念として建立。 中央には最初説法の釈迦像を安置し、四方には十三仏を配する。塔内には写経を納めると云う。 武蔵蓮華寺仏塔1 武蔵蓮華寺仏塔2 武蔵蓮華寺仏塔3 武蔵蓮華寺仏塔4 武蔵蓮華寺仏塔5 ◆蓮華寺仏舎利塔 弘法大師1100年御遠忌の建立とあるから、昭和9年頃の建立であろう。 ただし、仏舎利塔と称するも、形態はRC造の単なる六角円堂である。堂名称の由来は内部に仏舎利塔を奉安するなどの為であろうか。 武蔵蓮華寺仏舎利塔 |
. | 武蔵真成院擬宝塔 | . |
図1 図2 図3 |
昭和46年に現在の寺院の姿になると云うので、おそらくこの擬宝塔は昭和46年頃の建立と推定される。本堂などの複合的な機能を持つビルの屋上に建つ。 RC製と思われる。おそらく宝塔に似せて建立された建物と推定されるも宝塔とは程遠い代物である。(詳細は不明) 真成院は高野山真言宗、金鶏山と号する。慶長3年(1598)清心法印により開山。 その後、江戸城外濠工事のため、替地として四谷に移転する。 昭和20年東京空襲により焼失、昭和46年現在の姿に再建される。 なお青森青龍寺(明治以降の五重塔のページの565)は真成院の布教拠点の1つと云う。 |
. | 池上常仙院三層堂 | . | → | 池上常仙院三層堂 |
. | よみうりランドパゴダ | . | → | よみうりランドパゴダ |
. | 鶴見花月園擬似五重塔 | . | . |
2007/04/27追加:JIT(日本画像行脚)様
、鶴見花月園 より 「花月園擬似五重塔」 :「花月園名所八景絵はがき」(3)の「つり橋」に「擬似五重塔」が写る。 ※「鶴見花月園名所」(2)の「釣橋」には微妙に写っている可能性があるが、不明。 この「擬似五重塔」については、この1枚の絵でしか知ることができない。従って、仕様・目的・年代など全く不詳であるが、本格的塔建築ではないことは確かと思われる。またこの塔の現存の有無は不明ながら、閉園ということと本格建築ではないため、おそらく取壊されたものと思われる。 ※花月園概要は以下、詳細は標記の鶴見花月園を参照。 大正3年(1914)平岡広高(新橋の料亭花月の経営者)が欧州から帰朝、鶴見の東福寺から,境内3万坪を借りて,児童遊園地「花月園」を開園 する。当初は寺院周囲の動物園・噴水・花壇・大滝・ブランコ,本家茶屋などから始め、順次大山すべり・豆汽車・少女歌劇(第2の宝塚を目指す)・つり橋・電気自動車・観覧車・飛行船塔・ボート池・野外音楽堂・アイススケートリンク・登山電車・たぬきの洞窟など の施設を増強させる。ダンスホール、弁天池・弁天堂などもあったと云う。 昭和8年、競争激化などで、負債600万円を抱え、花月園の経営は京浜急行に移る。 昭和21年、閉園、昭和25年花月園競輪場となる。 ※参考:相模東福寺概要 「江戸名所図会 巻5」:子生山観音堂 子安観世音:子安村、子生山東福寺と号す、新義の真言宗、神奈川金蔵院に属す、開基は勝覚僧正(理源大師法孫)、本尊如意輪観世音云々 平安期に開山、堀河天皇が祈願して一子(鳥羽天皇)を得ることから東福寺の寺号を賜ると伝える。 子育観音として信仰を集めたとされる。 |
. | 建長寺震災供養塔 | . | → | 鎌倉建長寺 昭和初頭に建立、関東大震災の犠牲者を供養する 趣旨なのであろう。RC造二重塔。 |
. | 鎌倉寸松堂塔風建築 | . |
図1 図2 図3 図4 |
昭和11年建築。鎌倉市笹目町5-1。 鎌倉彫り彫師佐藤宗岳氏の店舗兼住宅として建立、現在も営業。 店舗兼住宅の一部は三層塔に擬せて造られる。三層頂に相輪を載せる。 二・三重の軒は二軒繁垂木、三重の組物は出組を用い、中央には蟇股を置く。 屋根は銅板桟葺き、壁は漆喰か。 |
. | 片瀬龍口寺仏舎利塔 (ストゥーパ) |
. | 片瀬龍口寺・片瀬本蓮寺・輪番八ヶ寺 | |
. | 駿河成安寺 (ストゥーパ) 及び (石製三重小塔) |
. |
図1 図2 図3 図4 図5 |
JR富士駅北線路沿い東200mにある。 団信徒会館屋上に、白・黄・赤・黒・金の5色の石造三重小塔(RC造と推定)を安置し、団信徒会館の裏に、石造堂宇が建ち、その屋上にストゥーパ(パゴダ)を設置する。(何れもRC造と推定) 興法山と号する。曹洞宗。弘仁10年(819)空海の創建と云う。中世末期に改宗する。開基は吉川駿河守元春と伝える。近世には20石余の朱印地を受ける。 また末寺22ヶ寺を有する。(現在は8ヶ寺の末寺となる) 寛文4年(1664)現在地へ移転、明和6年(1769)・文化2年(1805)に焼失、安政元年(1854)に地震壊倒。 昭和47〜49年、本堂(RC)・書院・開山堂・位牌堂・客殿を新造、平成13年、檀信徒会館・子安堂・水屋・東屋を新築。 |
. | 駿河攝取寺二層堂 | . | 画像 | 臨済宗妙心寺派。二重堂に三輪を載せた堂(本堂と思われる)がある。粗雑。 |
. | 甲斐大野本遠寺宝蔵 | . |
甲斐大野本遠寺 ストゥーパ風あるいは篋塔風の宝蔵がある。RC造と推定、下総茂原藻原寺山門と同じ施主が寄進と云う。 |
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. | 能登釜屋町三重小塔 | . |
図1 図2 図3 |
羽咋市柳田釜屋町付近にある。勿論近年の粗末なもので建築としての価値はない。個人の墓地(と思われる)に三重小塔が設置される。但し相輪はなく宝珠を載せる。高さは1.5m位と
推定。一応は木造で、腐朽防止を目的として、全面をトタン板で覆う。 なお写真2の左側道路の右側舗道は北陸鉄道能登線の廃線跡。 |
. | 福井平和塔(ストゥーパ) | . | 画像 |
昭和34年建立。足羽山頂にある。仏舎利六粒を納めると云う。 なおこの地には稲荷山古墳があったが、古墳を破壊して建立と云う。 |
. | 本願寺福井別院鐘楼塔堂 | . |
図1 図2 |
本願寺福井別院(福井西別院・・・福井西本願寺掛所西別院)、詳細は不詳。 西別院庫裏あるいは門徒会館に類すると思われるビル建築屋上に相輪を載せた鐘楼(RC)がある。 |
. | 越前照護寺屋上塔堂 | . | 画像 |
照護寺、本願寺派福井教区の有力寺院と思われるも不詳。 本堂背後の庫裏に類すると思われるビル建築屋上に相輪を載せた一重塔(RC)がある。詳細不詳。 |
. | 越前千福寺塔堂 | . | 画像 |
千福寺塔堂、本願寺派と思われるも不詳。筯生田山と号する。 宝蔵とも思われる方形堂上に相輪を載せる。RC製。詳細不明。 |
. | 越前府中太子堂(塔堂) 2017/11/28撮影: 越前府中太子堂1 越前府中太子堂2 越前府中太子堂3 越前府中太子堂扁額 越前府中太子堂相輪 |
. | . | 現在の太子堂は嘉永5年(1852)の建立(棟札)である。 「南条郡誌」には天保10年再建とあり、これによれば、現在の建物は少なくとも三代目の建物と推定される。 太子堂は正面1間、側面2間の宝形造の建築で、背面はおそらく須弥壇設置のため、1間を付け足している。正面には向拝を設ける。屋上には多宝塔風の相輪を建てる。ただし九輪は五輪に省略される。相輪の材質はおそらく瓦製と思われる。 堂内中央には聖徳太子立像(十六歳像)を祀り、両脇には阿弥陀三尊立像、天神坐像を祀る。 聖徳太子立像は大宝寺檀家で上村伊兵衛という回国行者(六部)が携行したもので、天保10年御堂再建の折、大宝寺に収められていた本像を譲り受けたという。阿弥陀三尊・天神の由来は不明である。 |
. | 若狭永賞寺塔堂(RC) | . | 画像 |
永賞寺墓地にある。RC製、釈迦如来石像を祀る。その他は不詳。塔堂(写真)背後の屋根は真禅寺本堂のもの。曹洞宗。 「指掌録」(寛文年中〜天保11年の記載):塔頭4ヶ寺(大昌院、傅昌庵、慶幸庵、松月庵)末寺に幸臨山幸臨寺などがある。また大谷吉継供養塔(石塔)がある と云う(未見)。 |
. | 若狭真禅寺六角宝塔 | . |
図1 図2 |
昭和48年建立、RC製、簡素な建造物である。塔の名称・建立目的など不詳。 真禅寺は天台宗真盛派。 |
. | 美濃護国之寺 (ストゥーパ) |
. | . | このページ中の屋内小塔の項:美濃護国之寺三重小塔の項に掲載。 |
. | 伊勢多度三重石塔 | . |
図1 図2 図3 図4 |
桑名市「ふるさと多度文学館」ご提供情報:本体は御影石製、高さは約8.5mほどを測る。 多度神宮寺に建立されたと云う三重塔を、町の歴史文化を示す道標の一つたらんとして、大和の実在の三重塔をモデルに再現(スケール1/3)したものである。 石製のため軒廻りは「布団重ね」の様式を採る。 |
. | 伊賀萬福寺小宝塔 | . | 画像 | 伊賀上野寺町、青銅製小宝塔。特に古いものでは無いと思われる。高さは目測1.5m位。納骨塔の機能を持つと思われる。 |
. | 東舞鶴日宗寺 (屋上相輪) |
. | 丹後の日蓮宗諸寺中、幼稚園を併設、3階部分が寺院本堂で本堂屋上に相輪を建てる。 | |
. | 丹後西舞鶴浄土寺 (屋上相輪) |
. | . | 浄土宗随心山浄土寺と号す。 京白川華頂山智恩教院大谷寺末、当寺境内七百五拾六坪、末寺 二ヶ寺 当寺開基永禄十辰年開山尊誉上人 本尊 阿弥陀 并地蔵 観音菩薩 此内地蔵後年相願勢至菩薩に改る 客殿 十間ニ八間、 庫裏 六間ニ四間、 門 楼門也 鐘楼ヲ兼 二間ニ一間 観音堂 二間四方 土蔵造リ 堂中に三十三所之観音像安置、 弁財天 ※当寺は西舞鶴円隆寺東方数町にある。本堂はRCに造替され、上に相輪を載せる。 2010/04/06撮影: 丹後舞鶴浄土寺本堂 2017/12/23撮影: 舞鶴浄土寺本堂2 舞鶴浄土寺本堂相輪 |
. | 山城妙満寺仏舎利塔 | . | 山城妙満寺 | |
. | 山城教王護国寺青銅製宝塔 | . | 山城教王護国寺 | |
. | 山城龍安寺パゴダ (ストゥーパ) |
. | 画像 | 昭和45年発願、同年もしくは昭和46年竣工。ビルマ方面戦没者慰霊仏塔。先々代住職(松倉紹英)と戦友会の募金で建立。2013/01/29「朝日新聞」掲載。 |
. | 京都伏見妙見寺 陶製五重小塔 |
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2017/04/29撮影: 海寶山と号する。単立。(写真をみると題目の幟があるので日蓮系であることは間違いないと思われる。) 平素は日中は境内解放とあるが、当日は日中にも関わらず固く閉門し参拝は叶わず。 また、境内に五重小塔(材質などは良く分からない)があるが、当然未見。 外観では現代に創建されたように見えるが、その寺歴などは全く不明。 伏見妙見寺外観1 伏見妙見寺外観2 伏見妙見寺外観3 2017/06/08追加:「KG氏」ご提供情報: 現在は単立であるが、元々は妙見宗の寺院であった。離脱年は不明。当初は伏見妙見教会と称していたという。 2017/06/08追加: 以上の情報から、妙見宗を検索すると、次のような情報がある。 ○ウィキペディアの「妙見宗」では次のように云う。 妙見宗とは、昭和21年に天台宗より独立した宗派。開祖は野間日照上人、宗祖は野間秀泉上人。総本山は本瀧寺。 本瀧寺内にある滝で修行した修験者を中心に構成されている。本尊は本瀧寺は蔵王権現、末寺は法華曼荼羅。脇本尊として妙見大菩薩と常富大菩薩(を配する)。経典は妙法蓮華経。 総本山本瀧寺では日蓮宗の法要形式に台密と修験道を組み合わせた法要を行う。 妙見宗僧侶の服装は日蓮宗を模しお題目を唱えてはいるが、本山である本瀧寺には法華曼荼羅が存在しないこと、日蓮教学が存在しないこと、釈迦牟尼仏や日蓮聖人に関する記念行事が無いこと、荒行が無く日蓮宗と同等の法華祈祷の相承が無いこと、独自に日蓮宗の木剱相承を簡略化した祈祷を行うことなどから、日蓮宗の法要形式を修験道に取り入れた新宗教であるといえる。 一部末寺のみ日蓮宗の荒行成満者が存在する。 ※基本的には伝統宗教としての日蓮各教団とは無関係の新宗教であると思われる。 ○同じくウィキペディアの「本瀧寺」では次のように云う。 本瀧寺は妙見山の中腹にあり僧侶の服装や法要形式が日蓮宗を参考にしており、寺の紋章も酷似しているため、山頂にある日蓮宗寺院である能勢妙見堂(無漏山真如寺境外仏堂能勢妙見山)の関連寺院と思われることも多いが、天台宗系修験道の妙見宗総本山の寺院であり、日蓮宗とは基本的には無関係である。 ※日蓮宗各教団とは無関係で、天台系修験道というべき寺院である。 ○「全国各地に百カ所以上の妙見宗所属の寺院・教会・布教所を有する」(「妙見宗総本山本瀧寺」のサイト)ということであるので、本寺もかっては妙見宗の教会であったのであろう。しかし、いつしか、妙見宗を離脱することとなったのであろう。 ○五重小塔については、まったく不明。 2018/12/14撮影: 陶製である。高さは6尺ほどと思われる。製作年代は不詳であるが、新しいもので特に風情があるとは思われず、必見であるとは言い難いものである。 陶製の塔婆は備中不動院陶製五重塔、讃岐宇多津南隆寺焼物製五重小塔が知られる。 伏見妙見寺陶製五重小塔1 伏見妙見寺陶製五重小塔2:向かって左は伝教大師像、右は妙海像とあるも妙海とは不詳。 伏見妙見寺陶製五重小塔3 伏見妙見寺陶製五重小塔4 伏見妙見寺陶製五重小塔5 伏見妙見寺陶製五重小塔6 伏見妙顕寺山門 伏見妙見寺鐘楼 伏見妙見寺本堂 伏見妙見寺客殿庫裏 |
. | 城陽市寺田/植田邸 法隆寺五重塔模型 |
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11 12 13 14 15 16 17 18 |
2012年完成。 スケールは約1/20。初重一辺37cm、総高135cm。(読売新聞記事では高さ約1.5m、屋根約50cmとある。おそらく総高は土台<基壇>込みであろう。) 4年前に企図し、Webや写真情報を元にした設計図を作成、2012/03より組立に入ると云う。 使用材料は主として杉材・竹(屋根丸瓦)・竹ひご(釘の代用)である。 出来る限り法隆寺塔婆を忠実に模すように作成される。 植田邸法隆寺五重塔19 植田邸法隆寺五重塔20 植田邸法隆寺五重塔21 植田邸法隆寺五重塔22 植田邸法隆寺五重塔23 |
. | 奈良県ビルマの塔 (ストゥーパ) |
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塔1 塔2 |
昭和56年建立。ストゥーパ。RC造。歩兵第153連隊有志並びに篤志家が建立。奈良市古市町国家神道奈良護国神社社前にある。護国神社は古市古墳群の中に作られ、戦国期の油山城址にある。 第153連隊は昭和16年朝鮮・京城で編成、ビルマ方面を転戦と云う。 |
. | 唐招提寺戒壇 (ストゥーパ) |
. | 大和唐招提寺:戒壇 | |
. | 大和長岳寺五智堂 | 重文 |
図1 図2 図3 図4 図5 図6 |
真面堂、傘堂もしくはマメ堂と通称する。 方一間、単層宝形造本瓦葺。鎌倉期の建築とされ重文指定。心礎が大日如来で、四方の凡字を刻んだ額を掲げ、五智如来を表現したものとされる。 五智堂は勿論塔建築ではないが、礎石の上に心柱が建ち、層塔の心礎及び心柱の擬似的な関係を間近に観察できる建築であろう。擬似的という意味は層塔の心柱は相輪を支えるだけのものであるが、五智堂心柱は堂の構造材そのものとなっているためである。尤も心柱が大日如来を表すという意味では構造材と割り切る訳にもいかないとも思われる。心柱は欅材。 ともあれ、心柱が心礎に載り心礎の構造は全く不明ではあるが、また現実の層塔とは状況が違うが、心礎と心柱との関係が視覚的に観察ができる。 ○図1〜5は2005/01/03撮影。 境内図(図6)は大和名所圖會より:右下に傘塔として五智堂が描かれる。 (図6は大和名所圖繪・釜口長岳寺:2023/01/13画像入替) 長岳寺:天長元年(824)淳和天皇勅願により、弘法大師が釜口氏廟所に精舎を建て、創建したという。鎌倉期には興福寺大乗院末。 中世には隆盛を極め、本堂、五重塔、十羅刹堂、真言堂、経蔵、宝蔵、客殿、浴室、宿堂、坊舎 42坊を有したと伝える。応仁の乱・文亀3年(1503)の兵乱にて炎上。 慶長7年(1602)徳川家康100石を安堵。 明治の廃仏毀釈で全ての坊舎が廃絶し、今参道脇にその跡を留める。普賢院、霊山院、自性院などの名称が伝わる。 楼門(鐘楼門・重文)創建時のままと伝えられるも、下層部は鎌倉・室町期の改装とされる。 旧地蔵院本堂(寛永8年棟札・重文)及び庫裡(寛永7年・重文) 2014/07/追加: ○「改訂天理市史(本編・上巻)」1976 より 江戸期は寺領100石を有するも、明治維新により逓減し、明治6年に廃止され、急速に衰える。 しかし、境内は4〜5町の地があり、明治24年頃になると、檀徒75人・信徒850人ができ、内山永久寺のような全滅は免れる。 幕末頃、有住坊舎12、無住坊舎29を数えるも、現在は本堂・楼門・五智堂・御影堂・坊舎普賢院(棟札では地蔵院)のみとなる。 2023/01/13追加: 京都北村美術館・四君子苑庭園に長岳寺の愛染堂礎石が蒐集されている。 →京都北村美術館・四君子苑 ○「四君子苑の庭と石」 より 解説文:釜口大師と呼ばれ、焼失した愛染堂の礎石17個を野点用の台地に据え、廃寺跡の気分を出す。鎌倉中期。 四君子苑・大和釜口長岳寺愛染堂礎石 愛染堂については現在は退転と思われる。 大和名所圖繪・釜口長岳寺の絵図では中央の池(寶池・現在の放生池か)の東に「愛染」堂が描かれる。絵図で見る限り、堂宇の規模からいえば、向かって左の本堂・大師堂や不動堂より愛染堂の規模が大きく主要伽藍であったと思われる。 なお、右下には傘塔が描かれる。ついでに云えば、左上に牛頭天王も描かれる。 また、. 内容が参照できなく故に内容確認ができないが、「新日本古典籍データベース」には 釜口山長岳寺愛染明王大会式修行開発の意趣(著作ID:4370187)、 釜口山長岳寺愛染明王略縁起(著作ID:4370188)の文献が上げられるている。これから判断しても、長岳寺には愛染明王(愛染堂)が祀られていたことは確かであろう。 大和名所圖繪・長岳寺本文:・・・・寶池ありそのかたわらに愛染堂・・・・とある。 2023/06/15追加: 伝長岳寺五重石塔及び伝長岳寺石橋 いずれも、小田原の松永記念館に収集・展示されている。 |
. | 大和上市宝塔寺仏舎利塔 | . | → | 大和の日蓮宗中 パゴダ式の仏舎利塔である。昭和41年竣工、RC造と思われる。 |
. | 大和吉野/日本山妙法寺吉野中僧伽 | . | . | 詳細不詳、遠望。RC造の宝塔が建立されていると思われる。 2017/03/09撮影: 日本山妙法寺吉野中僧伽宝塔1 日本山妙法寺吉野中僧伽宝塔2 日本山妙法寺吉野中僧伽宝塔3 |
. | 摂津和光寺 (阿弥陀池) |
. |
図6 図7 図8 図9 図0 |
「放光閣」と称する堂宇を「宝塔」と称しているあるいは「宝塔」と呼ばれている。 しかし、戦前の堂宇も現存の堂宇も宝塔形式ではなく、方3間の堂に相輪を載せた形式である。 昭和20年空襲により焼失。昭和22年再建。塔は木造建築でペイント系塗料で保護・彩色する。 元禄7年(1694)四天王寺で善光寺が出開帳を行う。 元禄11年堀江新地が開発され、幕府の命で和光寺が創建される。 境内1800坪、智善上人が善光寺如来出現の地として伽藍を整備する。往時は本堂・阿弥陀池放光閣・観音堂・薬師堂・普門堂・愛染堂・閻魔堂・地蔵堂・金毘羅権現・金銅地蔵尊・鐘撞堂などを有する。「摂津名所図絵」 蓮池山智善院和光寺と号するも、阿弥陀池と通称される。 ※「日本書記」に云う、「百済伝来の阿弥陀如来は排仏派物部氏が難波の堀江に棄てたが、推古天皇代、信濃の本多善光が堀江で拾った阿弥陀如来を、善光寺の本尊にした。」 この伝説と阿弥陀池との関係は近世の「こじ付け」の類とされる。 2022/11/14追加: 大和向原寺(豊浦寺跡)に「難波池」があり、この池が「日本書紀」に云う「難波の堀江」と云う。 ○「大阪名所独案内」森琴石、明治15年 より 摂津阿弥陀池「宝塔」5:銅版画と思われる。 ○「写真集 明治大正昭和 大阪 下巻」1986より 摂津阿弥陀池「宝塔」4:昭和戦前の「放光閣」で、戦後も同一形式で再興される。 ○2007/04/27追加:JIT(日本画像行脚)様より: 「日本写真帖」明治45年、ともゑ商会 より : 摂津阿弥陀池「宝塔」1 「日本名所図絵」明治23年 より : 摂津阿弥陀池「宝塔」2:明治中期の姿と思われる。 ○2008/12/31追加:「続近畿名勝写真帖」明治34年 より 堀江阿弥陀池和光寺1:全景 堀江阿弥陀池和光寺2:放光閣部分図 ○2010/10/26追加 阿弥陀池法光閣:昭和29年撮影:新聞写真 |
. | 攝津天鷲寺根本堂 | . | 図1 |
天台宗聖龍山天鷲寺。総本道根本堂と思われ、屋上に三間堂を載せ、さらに相輪を載せる。建立年代などの詳細不明。 なお『大言海』秘事門徒の条には、「天台宗より分立せし仏教の一派、近江国坂本の三明院より起る。煩悩即菩提等の文を僻解し、密々流布せし宗旨なりと云ふ。摂津国天鷲寺も此流派なり。徳川幕府より禁断せらる。享保以前なり」とあると云う。 |
. | 参考: 攝津満願寺 |
. |
図1 図2 図3 |
旧白毫寺多宝塔(井植山荘)近くに満願寺があり、ご住職には多くの焼失
した旧白毫寺多宝塔情報を頂 く。 →百毫寺多宝塔 →井植山荘 当寺の詳細は満願寺様ホームページを参照。(2023/06/29リンク替え) 九重石塔は鎌倉正応6年(1293)建立で重文。花崗岩製。高さ3m53cm。 仁王門に安置する仁王像(高さ約3m40cm)は元多田院山門安置仏で、明治の神仏分離で多田三山の一院である満願寺に移されたという。 2002/12/23撮影: 図1:九重石塔、図2:伽藍、図3:仁王門 |
. | 摂津中山寺万霊塔 (ストゥーパ) |
→ | . | →摂津中山寺の万霊塔(ストゥーパ)の項を参照 |
. | 普門山妙法寺(太平寺)仏舎利塔<摂津> | . |
塔1 塔2 塔3 |
普門山妙法寺仏舎利塔(太平寺仏舎利塔)、仏舎利塔の形式の納骨堂と思われる。 地名太平寺にある故に大平寺仏舎利塔と称する。普門山妙法寺とは情報がなく不詳。 |
. | 攝津須磨寺亜細亜万神殿ストゥーパ | . | . | 平成28年(2016)攝津須磨寺に亜細亜万神殿が落慶する。その亜細亜万神殿にストゥーパが建立される。 →摂津須磨寺中 |
. | 播磨河合西廃寺 | . |
図1 図2 |
参考項目(塔跡とか文献上塔婆があったということではない)。大寺廃寺・河合廃寺の近くにこの廃寺がある。現在の八王子社と薬師堂境内が寺域中心と推定される と云う。出土瓦より平安後期の寺院とされる。前面に池跡があり。浄土伽藍と推定。写真は八王子社と薬師堂境内と案内石碑。 |
. | 姫路名古山仏舎利塔 名古山仏舎利塔1 名古山仏舎利塔2 名古山仏舎利塔3 名古山仏舎利塔4 名古山仏舎利塔内部 名古山西南隅塔 名古山東南隅塔1 名古山東南隅塔2 名古山西北隅塔 名古山西北隅塔内部 名古山東北隅塔 名古山石仏堂 名古山宗教美術館 |
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名古山中央仏舎利塔群:昭和35年竣工。中央大塔は高さ38m。昭和29年インドのネール首相から贈られた仏舎利を安置。仏舎利塔は名古山霊園内の施設である。 ○中央大塔(仏舎利塔)の周囲には6基の小塔を配置する。さらに、その中央大塔と小塔群の四隅に4基の隅塔(納骨堂)と中央大塔の背後に石仏堂を配置する。そして東方の一段下には宗教美術館がある。 中央大塔・6基の小塔・4基の隅塔・石仏堂・宗教美術館の様式はいずれもパゴダであるから、パゴダが13基林立する。 なお、仏舎利塔は姫路市の発注、他の仏舎利塔はすべて日本山妙法寺の発注であると云う。 また、名古山霊園には「名古山霊園平面図」で示すように、上記13基のパゴダの他に以下の施設がある。 ○東宝塔跡・西宝塔跡:この由来は調査するもまったく情報がなく、その由来などは全く不明である。 さらに須弥山と称する構造物がある。 名古山東宝塔跡1 名古山東宝塔跡2 名古山須弥山 名古山西宝塔跡1 名古山西宝塔跡2 2014/01/22追加: 東宝塔跡・西宝塔跡: 姫路市教育委員会文化財課様に問い合わせた結果、以下の回答を得る。 東塔は昭和39年に起工され、昭和42年に工事が中断し、未成のまま昭和60年に撤去。 西塔は計画のみで、起工はされず。 この回答は文化財課が名古山関係者へ問い合わせた結果、得た情報と云う。 ※推測するに、名古山の仏舎利塔は、中央にある12〜13基のパゴダを中心にして、さらに東と西にも仏舎利塔を建立する構想であったものと思われる。そしてこの構想に基づき、昭和35年に中央のパゴダが竣工した後、東塔は起工されるも途中で中断・撤去、西塔は築山のみ整備(この築山は「西宝塔跡」として現存するものであろう)するも、パゴダの工事には至らなかったもの推測される。 以上であるとするならば、「宝塔跡」とは正確な表現ではなく、「宝塔(仏舎利塔)建立予定地で現在は建立計画を放棄した地」と云うべきものであろう。 ○播磨辻井廃寺礎石:霊園の東斜面から「弥生式住居跡」が出土するが、その隣に「播磨辻井廃寺礎石」が移され、展示される。 (「辻井廃寺礎石」の展示位置については、姫路市教育委員会文化財課様にご教示をいただく。) |
. | 雁金山平和祈念塔 | . | . | 鳥取県鳥取市湯所町 昭和34年(1959)建立、総高15.5m 昭和27年の鳥取大火の参事を繰り返さないようにとの願いを込めた平和安寧を願う塔のようである。円形の十三重塔と云うべき宝塔上に相輪を載せる形式である。 |
. | 備中西岡山龍昌院納骨堂(ストゥーパ) | → | . | → 備中西岡山龍昌院納骨堂(ストゥーパ)参照 |
. | 備中玉島圓乗院 三重石塔 |
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図1 図2 |
平成14年竣工、近江石塔寺三重石塔(重文)をモデルとする。総高6.2m。花崗岩製。大型石塔。 ※石塔寺三重石塔(阿育王塔):奈良前期建立、総高7.6m。 近江石塔寺三重石塔は近江の塔跡のページに収録。 圓乗院は天台宗、玉島山と号する。寺伝では貞観4年(862)慈覚大師の開創、文保2年(1318)火災焼失、貞治3年(1364)小幡入道祐本が再建と云う。 ○「玉島要覧」安藤嘉助、玉島町玉島商工會、昭和12年 より 玉島山、寺号は安福寺と号す。 貞観4年(862)慈覚大師の創建と伝える。その後の沿革は明確ではないが、寺伝では文保2年(1318)火災焼失、貞治3年(1364)小幡大和守入道祐本友義が本堂を再建、これは今の本堂である。 伽藍は本堂・観音堂・位牌堂・毘沙門堂・客殿・庫裡・山門などである。寺庭にある玉藻松は名木である。 2013/01/01撮影: 備中圓乗院三重石塔 備中圓乗院参道 備中圓乗院山門:大正9年建立 備中圓乗院境内:左手前から観音堂、本堂、客殿 備中圓乗院鐘楼 備中圓乗院大仙院毘沙門堂:2010年落慶、太仙院毘沙門堂とは不詳。 備中圓乗院観音堂:旧本堂、現本堂建立の折現在地に移築。江戸後期の建物と云う。 備中圓乗院本堂:昭和末期に新造と思われる。 備中圓乗院客殿(推定) 備中圓乗院庫裏(推定) 下の古写真に見られるように、客殿・庫裏前には玉谷松があった。 玉谷山待雲寺:圓乗院参道北にある、天台宗、尼寺と思われる、本尊阿弥陀如来。 ○「倉敷今昔写真展」 より 備中圓乗院古写真:撮影時期は明治末期〜大正中期と云う。 なお、南東方向数町離れて、金毘羅権現が鎮座する。(未見)明治維新まで別当は圓乗院であったと伝える。本権現は寛永年中讃岐より勧請と伝え、玉島港が隆盛の頃は多くの信仰を集めると云う。 2014/02/15撮影: 円乗院三重石塔遠望 |
. | 備中円珠院変形二層塔 | . | . |
鴨方町。写真で推測すれば、妻入入母屋造の堂の上に、一重方形塔を載せた建築がある模様である。 桜見山長徳寺円珠院と号す。 承和五年(838)慈覚大師の創建と伝える。当時は閼伽井坊と称する。 本堂:寛文5年(1665)、庫裡:元禄12年(1699)、鐘楼:安永5年(1776)、法華塔・地蔵堂・供養塔・護堂:何れも文化4年(1807)の再建と云う。 |
. | 備中不動院陶製五重塔 | . |
遠望 図1 図2 図3 図4 |
不動院五重塔:大原焼陶製、高さ約3m、明治4年建立。妹尾石平・俊男の両名の作。 塔石積基壇の前に「安原房吉夫婦供養塔」との碑がある。 ※大原焼は奈良期より続くこの地の伝統的な焼物で基本的には土師器系の軟質の焼物。 里庄町新庄。 不動院:高野山真言宗、寛文5年備前藩の寺院整理で、里見霊山寺が廃寺、同寺智算和尚は当地に移住、元禄6年不動院を開基建立。本尊は不空羂索観音、文政7年備前瑜伽山より瑜伽大権現を勧請、現存する。 陶製の塔婆は京都伏見妙見寺陶製五重小塔、讃岐宇多津南隆寺焼物製五重小塔が知られる。 |
. | 備後福山光善寺本堂屋上相輪 | . | . | 真宗本願寺派。RC造本堂にパゴダ風な塔婆を載せる。 2016/01/01撮影: 備後福山光善寺本堂相輪1 備後福山光善寺本堂相輪2 備後福山光善寺本堂相輪3 |
. | 備後福山洞林寺本堂屋上相輪 | . | . | 浄土宗。RC造本堂に相輪を載せる。 2016/01/01撮影: 備後福山洞林寺本堂相輪1 備後福山洞林寺本堂相輪2 |
. | 備後福山賢忠寺かなりや幼稚園屋上塔堂 | . | . | 賢忠寺:曹洞宗 水野勝成が父・忠重の菩提の為、元和8年(1622)建立あるいは寛永3年(1626)建立ともいう。 福山城と城下町建設に伴い現在地に移転する。勝成没後、水野家墓所となる。 墓所には、初代水野勝成とその近臣の殉死者、勝成の父水野忠重、三代藩主勝貞、四代勝種、五代勝岑の墓が現存する。ただし、当初の墓所はJR山陽本線敷地内にあったが、山陽鉄道建設時に現在地に移転する。かなりや幼稚園は賢忠寺の経営。 2016/01/01撮影: 備後福山賢忠寺山門 かなりや幼稚園屋上塔堂1 かなりや幼稚園屋上塔堂2 かなりや幼稚園屋上塔堂3 水野勝成墓碑 水野忠重墓碑:法名賢忠 |
. | 備後福山一心寺本堂屋上相輪 | . | . | 一心寺は浄土宗。本堂はRC造で屋根上にパゴダ風な塔婆を載せる。 2016/01/01撮影: 備後福山一心寺本堂1 備後福山一心寺本堂2 備後福山一心寺本堂3 |
. | 備後福山妙法寺本堂屋上相輪 | . | . | →備後の日蓮宗諸寺中、RC造本堂が前後に分かれ、前部は二層堂で後部は三層堂となり、各々に相輪を載せる。 |
. | 備後鞆の浦弁天堂 (二層堂) |
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図1 図2 図3 図4 |
鞆の浦弁天島(百貫島)にある。通常は対岸の鞆の浦及び仙酔島への渡船からしか見ることが出来ない。従って、建築の詳細は不詳、また情報もなく、二層堂なのか二層塔に相当する建築かどうかは不明。しかしながら、遠望すると少なくとも上層は三間の建築であり、組物も三手先などの複雑なものと思われ、また勾欄を廻らせるなど層塔としての建築である
可能性は多少はるるとも思われる。 堂は正保元年(1644)鞆町奉行萩野新右衛門により再建と云う。 なを、弁天堂附近に「百貫島物語」として語られる「石造弁天島塔婆」があると云う。元は十一重石塔であったが、五重と六重は欠失し、現在は九重石塔となる。文永8年(1271)の銘があると云う。 図1〜4:2008/10/09撮影。 2013/05/19撮影: 備後鞆弁天堂5 備後鞆弁天堂6:十三重石塔(現在は決失があり九重となる)が写る。 |
. | 沼田本郷 天然水感謝の塔 |
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塔1 塔2 塔3 塔4 塔5 塔6 城跡 |
沼田本郷天然水感謝の塔(三重小塔) 平成23年3月天然水の地権者森崎氏寄贈。沼田本郷天然水供与開始10周年を紀念して寄贈される。宮大工による本格的塔建築ではなく、地元大工の造作である。(基壇に嵌めこみの銘による) 広島県旧本郷町南方にある。急峻な新高山城(小早川隆景居城)跡東麓下と沼田川の間にある。 法量は目測で高さ5m前後であろうか。木造塔であるが、木割(設計)は杜撰であり、使用材料も高級材ではなく一般材を使用し、一部新建材も使用される。整った塔の造作とは程遠いものである。この意味でわざわざ時間を割いて見学するほど建築としての価値があるものではない。 各重平面2間に造るのは納得し難い、屋根銅板葺、二手先もどきの斗栱を用いる、などなど随所にいい加減さが目につく造作である。ペイント系塗料で彩色する。 |
. | 広島二葉山平和塔 (ストゥーパ) |
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仏舎利塔(日本山妙法寺慰霊塔)
、昭和41年落慶。日本山妙法寺が建立し、広島市に寄贈と云う。内部には仏舎利3粒(インド・ネール首相寄贈、セイロン国寄贈、モンゴル仏教徒寄贈)を奉安
。 画像:2009/08/08撮影 2014/07/26撮影:マツダスタジアムから遠望 広島二葉山平和塔2 広島二葉山平和塔3 2015/08/22撮影 広島二葉山平和塔4;国前寺から撮影、下に写る入母屋造の堂は日本山妙法寺の堂宇の一部 広島二葉山平和塔5:マツダスタジアムから遠望 2016/07/30撮影:マツダスタジアムから遠望 広島二葉山平和塔6 広島二葉山平和塔7 2023/06/19撮影: 広島駅付近から遠望: 広島二葉山平和塔8 広島二葉山平和塔9 広島二葉山平和塔10 國前寺境内から遠望 広島二葉山平和塔11 広島二葉山平和塔12 何れも、下に写る入母屋造の堂は日本山妙法寺の堂宇の一部である。 |
. | 讃岐高松妙泉寺屋上塔堂 | . | 画像 |
現地は未訪門、おそらくRC造の本堂などの上にRC造の塔堂を載せたものと思われる。塔堂の名称など全く不明。 妙泉寺は本門仏立宗で京都清風寺末寺とある。 画像:琴電車中より2015/06/21撮影 高松妙泉寺屋上塔堂2:GoogleMap 高松妙泉寺屋上塔堂3:GoogleStreetView 高松妙泉寺屋上塔堂4:GoogleStreetView 2017/12/17撮影: 高松妙泉寺入口 高松妙泉寺堂宇 高松妙泉寺塔堂5 高松妙泉寺塔堂6 高松妙泉寺塔堂7 高松妙泉寺塔堂8 |
. | 讃岐宇多津南隆寺 焼物製五重小塔 |
. | 小塔 |
焼物製とは陶製か。全く情報なし。中空の構造と思われる。 写真で見ると、恐らく本堂脇の庭園に設置のように見える 小塔写真は「Hayami]氏撮影 南隆寺は恵日山と号す。曹洞宗。 2016/10/08撮影: 座禅堂前に五重小塔はある。高さは、目測ではあるが、塔身はおよそ6尺、相輪を入れれば9尺ほどと思われる。作成年、由緒などは全く不明。 南隆寺は曹洞宗、寺歴は以下という。 寛正2年(1461)細川勝元が大川郡福栄村(現東かがわ市白鳥町)にあった寶光寺(今も同所に有り)を宇多津に移し南隆寺としたのが始まりである。 文正元年(1466)丸亀に移され東福寺と改められる。 天正16年(1588)生駒一正は高松築城にあたり、この寺を浜ノ町に移し見性寺とする。 現在の南隆寺は、見性寺八世照山桃旭和尚により中興されたものという。 南隆寺焼物製五重小塔1 南隆寺焼物製五重小塔2 南隆寺焼物製五重小塔3 南隆寺焼物製五重小塔4 南隆寺焼物製五重小塔5 陶製の塔婆は京都伏見妙見寺陶製五重小塔、備中不動院陶製五重塔が知られる。 |
. | 讃岐善通寺平和記念塔 (パゴダ) |
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讃岐善通寺山内にあり。 → 讃岐善通寺 |
. | 阿波眉山平和記念塔 (パゴダ) |
. | 画像 | 仏舎利塔、平和記念塔。眉山山上にある。昭和33年建立。 |
. | 阿波徳島寺町善学寺 ニ層堂 |
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建立年代など詳細不詳。 ニ層堂に相輪を載せた塔堂がある。 西国諸国の日蓮宗寺院中の阿波善学寺の項を参照 |
. | 伊予石手寺地蔵院二層堂 | . | . |
石手寺山内寺僧院にあり。建立年代不詳。長尺な堂宇(初層)に六角形の上層を載せ、相輪を上げた二層堂である。 → 伊予石手寺 |
. | 伊予石手寺平和記念塔 (パゴダ) |
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仏舎利塔、平和記念塔、伊予石手寺山内にあり。昭和54年頃建立されたものと思われる。 → 伊予石手寺 |
. | 伊予龍光院位牌堂 (屋上塔堂) |
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堂1 堂2 堂3 堂4 本堂 |
本堂背後に位牌堂龍照殿が建ち、屋根上に白壁宝形堂を載せ、さらに宝形堂に相輪を載せる。 建築年代を始め一切が不明。 龍光院案内板:未見 龍光院案内板部分 龍光院は高野山真言宗、臨海山と号する。 元和元年(1615)伊達秀宗が宇和島に入部、宇和島城の鬼門であるこの地に寺院が建立される。以降宇和島藩伊達家の祈願所となり、100石の寄進がある。現在は四国88所40番札所(伊予観自在寺)奥之院という。 宇和島城天守遠望 |
. | 伊予觀自在寺 石造多宝塔 |
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塔1 塔2 塔3 塔4 塔5 塔6 |
2014/11/15撮影; 昭和53年建立、高さ約4m。心経宝塔と称する。内部には般若菩薩を奉安し、地下室には順拝者の写経が奉納される。 「塔をゆく 第3巻 多宝塔」では高さは凡そ4mほどという。 平城山と号する。四国40番札所。南宇和郡愛南町御荘平城2253−1 観自在寺仁王門 観自在寺本堂 観自在寺大師堂 |
. | 高知高野寺本堂 (八角塔堂) |
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塔堂1 塔堂2 塔堂3 塔堂4 |
本堂が二層であり、上重が八角塔堂の形式である。RC造であるが、垂木・軒裏・組物などは木造と思われる。 高野山真言宗。本尊は弘法大師。明治初年、高野山金剛三昧院塔中上蔵院全焼し、院主・原信頂和尚再興すべく巡錫の折り、明治2年廃仏毀釈による土佐の仏閣の惨状を見、この地に寺院建立を発願し、明治16年 、板垣退助邸を譲り受け、高野山出張所として開創する。その後、多くの堂宇が建立されるも、昭和20年空襲により灰燼に帰す。 昭和39年、本堂(遍照殿)が竣工。 昭和59年、金剛殿(会館)を建立。平成3年、寺務所庫裡を建立。 平成16年、夜須町手結山に分院、納骨堂として金剛界五智如来パゴダを建立した。 ※このパゴダは5基のパゴダからなる。<未見> なお、この地は板垣退助の邸であり、板垣退助生誕地である。 高知高野寺本堂1;「日本の塔総観(中)西日本篇」より、昭和42年6月撮影 高知高野寺本堂2:「四国33観音」のページより転載 2016/02/18撮影:以下と塔堂1〜4 高野寺本堂内部 板垣退助生誕出地碑 |
. | 高知平和パゴダ | . |
塔1 塔2 塔3 塔4 |
昭和52年高知パコダ会(高知県ビルマ英霊顕彰会)結成。 相和55年パゴダ建設地を吸江寺と決定。 昭和57年高知平和パゴダ落成。 2016/02/18撮影:以下と塔1〜4 吸江庵跡碑:吸江庵跡に吸江寺が再興されている。 臨済宗吸江寺:この吸江寺背後にパゴダがある。 |
. | 旧中村市香山寺公園 三重塔展望台 |
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2014/11/15撮影; ○三重塔を擬した展望台がある。 建築年代は不明、しかしそんなに古くはなく平成に入ってからの建立か。 なぜ展望台を三重塔に擬したかという理由は、思うに、ここは香山寺と称する古寺があった所であり、この古寺に塔婆があったかどうかは不詳なれど、この香山寺に因んだ展望台という趣旨で三重塔を擬したものであろう。勿論仏塔ではなく三重塔を擬した展望台である。 ○香山寺: 弘法大師の開山と伝え、七堂伽藍を具備したとも伝える。 鎌倉後期足摺山金剛福寺別當南仏上人(金剛福寺を中興)が住する。 近世初頭山内忠義・忠豊によって再興されるも、天和年中(1681〜1684)に退転、中村大円寺の兼帯となる。その後寺勢は振るわず明治4年廃寺となるという。現在は小宇1宇のみがあるが、これは昭和30年台に地区民によって建立かあるいは中興開山妙覺の建立されたものであろう。 麓からの参道左右には推定堂舎跡、石階、石仏、丁石などを残す。 香山寺推定堂舎跡1 香山寺推定堂舎跡2:民家の営まれるような環境ではないから、確信はないが、堂坊の跡であろうと推定される。 坂中大権現祠横の丁石・石仏 香山寺参道石階 石仏・石塔残欠 参道石仏 丁石(1町) 香山寺本堂 香山寺本堂俯瞰 ○三重塔形展望台からの眺望;中村の町・四万十川などを俯瞰できる。 中村の眺望1 中村の眺望2 中村の眺望3 中村の眺望4 中村の眺望5 ○土佐中村・不破八幡宮: 鎌倉期、土佐幡多郡は九条家領荘園として立荘される。建長2年(1250)幡多荘は九条道家より四男の一条実経に伝領され、以後一条家領幡多荘として存続する。 中央では応仁の乱(1467-)が勃発し、京都は荒廃、一乗邸も焼失、年貢も途絶し、一乗家当主教房は弟である大和興福寺大乗院院主尋尊(→大和興福寺)を頼り疎開する。しかし荘園からの当知行(年貢収納)を維持するため、応仁2年(1468)一乗教房は自ら土佐幡多荘へ下向する。 教房の没後、その子房家は中村に城を構え土佐一乗家として土着する。 土佐一条家は中村において、房家―房冬―房基―兼定と4代にわたり存続し、所領の支配を行うも、遂に天正2年(1574)長宗我部元親の策略によって事実上滅亡する。 中村の町は領主一条家によって京都に倣った町作りが行われると伝える。その中の一つの遺物として不破八幡宮本殿が残る。 ●不破八幡宮: 本八幡宮は文明年中(1469-1487)一乗教房、幡多郡総鎮守として山城石清水八幡宮を勧請 し、創建されるという。 本殿(棟札9枚と共に重文、三間社流造)は永禄2年(1559)の建立という。 不破八幡宮本殿11 不破八幡宮本殿12 不破八幡宮本殿13 不破八幡宮本殿14 不破八幡宮本殿15 不破八幡宮本殿16 不破八幡宮本殿17 不破八幡宮本殿18 不破八幡宮本殿19 不破八幡宮本殿20 不破八幡宮本殿21 |
. | 熊本花岡山仏舎利塔 (ストゥーパ) |
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塔1 塔2 |
昭和28年落慶。日本山妙法寺仏舎利塔。藤井日達の建立。 なお花岡山は平安期から近世初期まで祇園社が鎮座し、祇園山と呼ばれたと云う。 この祇園社は承平4年(934)肥後国司藤原保昌が京都祇園社(牛頭天王)を飽託郡湯原(現二本木5丁目)に勧請したことに始まると云う。 承平7年(937)湯原から車屋敷(現二本木二丁目)に遷座する。 天元7年(979)朝日山(岡見山)に遷座、これに因み朝日山は祇園山と呼ばれるようになる。 (祇園山は明治になり招魂社建立に伴い花岡山と改称される。) 慶長10年(1605)加藤清正により復興、寛永9年(1632)細川氏により社殿造営がなされる。 正保4年(1647)二代藩主細川光尚により北岡(現在地)に遷される。 明治元年神仏分離の処置で北岡宮と改称、さらに同4年北岡神社と改称し、同5年には県社となり国家神道の下僕に成り下がる。 |
. | 豊前妙覚寺三重小塔 (模型塔・鞘堂に納まる) |
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小塔1 塔2 塔3 塔4 塔5 塔6 塔7 塔8 塔9 |
木造三重小塔であるが、製作年代などの詳細は一切不明。高さは2mほどと思われる。 相輪は別にして、スタイル及び意匠は近隣の豊前国分寺三重塔をモデルにしたものであることは確実であろう。 塔に「三重塔/別府良雄(87歳)」の紙が貼ってあるので、別府氏の設計工作と推定される。但し、別府氏は本職の大工などでは、仕上げ・出来具合などから判断すると、全くの素人と思われる。従って、正式な仏塔ではなく、趣味の工作に分類できる塔であろう。 本塔は真宗大谷派神護山妙覚寺(京都郡みやこ町勝山黒田)本堂前横の鞘堂に納められる。 妙覚寺自体のWeb情報も皆無で由緒はこれまた不明。 妙覚寺山門 妙覚寺本堂 妙覚寺鐘楼にも相輪もどきを架する。 |
. | 大分臼杵仏舎利塔 (ストゥーパ) |
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塔1 塔2 |
昭和49年竣工と思われる。日本山妙法寺仏舎利塔とも思われる。 臼杵市末広付近から撮影。 |