【まえがき】 2012/09/05加筆・修正:
但馬妙見三重塔は養父市八鹿町石原(妙見山八合目・海抜およそ760mと云う)に所在する。
明治37年に旧国宝に指定され、現在は国指定重要文化財である。
※明治37年2月18日、古社寺保存法(明治30年公布、法律第49號)により国宝建造物に指定される。(内務省告示第9号)
名称:名草神社塔婆(三重塔)、三間三層塔婆・屋根杮葺。
※昭和25年、文化財保護法により重要文化財となる。
現在、所有者は、明治の神仏分離の処置で国学及び復古神道に立脚する明治維新国家によって捏造・創建された「名草神社」(※)ということになっている。
そのため、この三重塔は地元以外では「名草神社三重塔」と無批判に呼称される。
(※)明治の神仏分離の処置で国学及び復古神道に立脚する明治維新国家によって捏造・創建された「名草神社」は以下「明治官立名草神社」と表記記載する。
その理由は「延喜式神名帳」には養父郡に「名草神社」の名の記載があり、このことにより古代には確実に「名草神社」が存在したのは間違いはない。
しかし、この古代「延喜式内名草神社」と「明治官立」の「復古神道神社」とは全く別の「神社」なのである。
そのため「延喜式内名草神社」と現在妙見山上にある「明治創建名草神社」とは截然と区別する必要があるからである。
上述のように、地元以外では、この三重塔を呼ぶ場合まず「名草神社三重塔」と呼ばれる。
これは、国が文化財に指定した時、「名草神社塔婆」(「官報告示」)の名称で指定したから、無理もないことではある。
しかしながら、官が「名草神社三重塔」と呼ぶから「名草神社三重塔」と無批判に呼んで良いのであろうか。
これを検証するために、少しこの三重塔の歴史を紐解いてみよう。すると、この三重塔は以下のような数奇な運命を辿ったことが分かる。
大永7年(1527)尼子経久、出雲杵築大社に三重塔を建立する。
寛文年中(1661-1673)、杵築大社の神仏分離により、杵築大社から帝釈寺(日光院)へ譲渡され、石原山帝釈寺に移築される。
その後、時代は降り明治の初頭、いわゆる神仏判然令による神仏分離の処置で、妙見社本殿を本堂とし妙見大菩薩を本尊とする帝釈寺は廃寺、現地に残る帝釈寺妙見本殿・同拝殿・三重塔は、延喜式にはその名を見るも、その後は茫として消息の知れない「延喜式内名草神社」とされ、復古神道・国家神道によって収奪されたのである。
つまり、現在の「名草神社」は帝釈寺妙見・三重塔を収奪し、明治国家や後に国家神道に変貌する復古神道によって「明治期に附会・捏造」された「名草神社」なのであり、そのため、現在も妙見三重塔は「
明治官立名草神社」にいわば「
収奪されたまま」となっていると云えるのである。
再度確認しよう。
現在「名草神社三重塔」と無批判に呼ばれる三重塔は寛文年中に出雲杵築大社から帝釈寺日光院に譲渡された塔である。
そもそも帝釈寺日光院とは妙見社本殿に妙見大菩薩を祀る寺院であり、従ってこの三重塔は帝釈寺日光院(妙見社)三重塔なのである。
この三重塔は帝釈寺日光院に移建されて以降、地元や広範な信仰圏では、親しみを込めて「妙見三重塔」と呼ばれるようになったのであろう。
その証拠は今も地元民はこの三重塔を「妙見三重塔」と呼ぶと云う事実があると云うだけで十分であろう。(※)
そして明治の神仏分離の処置で「明治官立名草神社」が捏造され、この三重塔は「明治官立名草神社」に収奪されたのである。
(※)京都の祇園感神院(祇園牛頭天王)は明治の神仏分離の処置(牛頭天王号の停止の達)により、八坂神社と改号される。
しかし昔からの京都人は、外部の人間が無批判に「八坂神社」と呼ぶにも係らず、今も八坂神社などとは呼ばず、親しみを込めて「祇園さん」と呼ぶと云うのと同じことなのである。
それ故、この三重塔を「名草神社三重塔」と呼ぶよりは、地元での呼称である「妙見三重塔」と呼ぶのが歴史的に見て正しいのである。
というより、高だか100年少し前に、国学者や復古神道が捏造した「名草神社」三重塔などと云う呼称はそろそろ「返上」して、出雲杵築大社から妙見社日光院が引継いだという歴史の経過を正しく示す「妙見三重塔」の名称を使用しようではないか。
そうすることが、この優れた先人の残した文化財である三重塔に対する畏敬・敬意であると思うのである。
思えば、今次大戦の敗戦つまりは国家神道の破産からもう70年近くが経過するのである。
(1)但馬妙見の概要
◆名草神社の由緒と祭神の典拠
名草神社の由緒及び祭神は、以下のように説かれる。
「祭神は名草彦命、敏達天皇14年、養父郡司高野直幡彦、紀伊国名草よりその祖神を勧請」と。
要するに、これは神話に類する物語なのである。
物語である以上、どのようにでも創作できるものであるという以上に論評することはない。
例えば、アマテラスの孫のニニギの曾孫のカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が日本の統治を始めたなどということも、物語なのである。
物語であるので、どのような荒唐無稽な話でも創作できるということと同一のことなのである。
由緒・祭神を平易に解説したものに、「式内社調査報告 第18巻 山陰道1」式内社研究會、皇學館大學出版部、昭和59年)がある。
要約すれば、以下である。
「敏達天皇14年(585)5月に養父郡司で紀伊国名草郡出身の高野直夫幡彦が、当時流行した悪疫に苦しむ民を憐んで、名草彦神など故郷の祖神を、当地の石原山(妙見山)に祀つたのを創建とする。
」
「平安末期より祭祀諸神中に星の神北辰とされる『天御中主神』のあることをもつて、妙見信仰の場となり、神仏習合の色をもつようになつた。さらに中世を通じて真言宗帝釈寺との関係を深め、両部神道の典型を構成した。その加持祈祷で明治維新まで出石藩主仙石氏や村岡藩主山名氏、因幡藩主池田氏、摂家一條氏などの祈願所となつた。
」
「維新後の神仏分離令により、社人と寺僧間で争いが生じ、明治2年『名草社』の名に復したものの係争は続いた。同9年豊岡県による帝釈寺の廃止通達を経て、同13年本社の東南6Kmの成就院に、帝釈寺は合併(現日光院)して一応の決着をみ
る。この間に社要記録や宝物は散逸し、明治6年10月の社格制定に際しても、紛糾時ゆえに村社にしか列せられられず、ようやく大正11年12月縣社に昇格した。」
一読して、国学や復古神道の附会やさもしい国家神道根性丸出しの「由緒」であることが分かる「調査報告」である。
※上段は物語であるが、この創建譚は「但馬故事記」の記事を引くものであろう。
→【2】「但馬名草神社」の創建(出自)について を参照。
※中段での「アメノミナカヌシ」を持ち出すあたりは復古神道の面目躍如たるものがある。
→【6-4】「但馬名草神社」を巡る「俗説」批判 を参照。
※下段の神仏分離の処置については
→【6-1】妙見山帝釈寺(日光院)に於ける神仏分離 を参照。
更に平易に解説したものに、平成11年八鹿町教育委員会発行のリーフレット「但馬・八鹿 名草神社」がある。
ここでは以下のように述べられるが、支離滅裂であり、故意なのかそれとも無意識なのかは不明であるが、ほとんど意味が分からない。
「名草神社は、五穀豊穣をつかさどる名草彦大神(なぐさひこのおおかみ)を主祭神とするお宮様です。巨大な杉木立にかこまれた神域は、澄みきった自然と一体となった霊場です。但馬地方で最も荘厳でしかも最も伝統のある農業を司る神様として多くの崇敬を集め、
『妙見さん』と呼ばれて親しまれています。」
自然環境の説明は別にして、「五穀豊穣をつかさどる名草彦大神・・・として多くの崇敬を集め、『妙見さん
』と呼ばれている」とは、どういう意味なのであろうか、ほとんど理解できない説明である。
要するに、名草大神と妙見とは何の関係もないのであるが、それを牽強附会するから、こういう表現にならざるをえないのであろう。
もっとも、それ以前に五穀豊穣をつかさどる名草彦大神とはどのような根拠で名草彦を五穀豊穣の神とするのであろうか、これも理解に苦しむところである。
なお、この項の冒頭に挙げた「祭神は名草彦命、敏達天皇14年、養父郡司高野直幡彦、紀伊国名草よりその祖神を勧請」の文言、あるいは続けて上に記載した「式内社調査報告
第18巻 山陰道1」の「上段」の平易な「創建譚」の典拠は「但馬故事記」であろうと注釈で述べた。
ではこの「但馬故事記」とは如何なる「古典」なのであろうか。
それは、偽書なのである。
現在では、この「但馬故事記」は江戸中期から明治後半までの間に書かれた「偽書」と云うのが一般的評価なのである。
では、なぜ名草神社の由緒・祭神は<偽書>「但馬故事記」に典拠を置くのであろうか。
それは以下の事情によるものと推測される。
「明治官立名草神社」は明治の神仏分離処置で「附会・捏造」されるが、その附会・捏造の時、当時は<偽書>と云う意識のなかった「但馬故事記」を真正な「古典」として位置づけ、記事を援用したものと推測される。
そもそも、その<偽書>「但馬故事記」を援用せざるを得ないと云うことこそ、少なくとも中世以降、「延喜式内名草神社」の存在を証明する確かな「文献」も拠るべき「古典」もないことの証明
なのであろう。
あるいは、「但馬故事記」が明治維新の理念「祭政一致」の「王政復古」が実現した後の成立であれば、「明治官立名草神社」を「附会・捏造」した神道家と「但馬故事記」を偽作した神道家は同一人物もしくは同一勢力に属するものであるのかも知れないと推測されるのである。
一方「明治官立名草神社」の由緒では「延喜式」にその名があることを盛んに誇示する。
しかし、「延喜式」にその名があると云うことと、「延喜式内社」が現在にまで連綿と続き、現に鎮座していると云うこととは全く別のことである。
これは子供にも分かる理屈である。
まず、「延喜式神名帳」の原本は伝わらないが、「延喜式神名帳」に名草神社の名前があることは間違いないであろう。
それは、原本は伝わらないが、近世の写本には間違いなく名草神社の名は記載されているため、「延喜式神名帳」にその名の記載があったことは事実であろうと推定される。(
名草神社は近世の写本に例外なく記載があり、その近世の写本に地域や社名などを追加・改竄する必然的な理由があるとは思えないため、原本は正確に写本されて
伝わるものと判断される。)
つまり、「延喜式」に名草神社の名があると云うことは、平安前期に名草神社の祭祀がなされていたのは確実と云える。
しかし、このことが、「延喜式内名草神社」が廃絶せず、中世・近世にも存続していたことと同義でないことは自明のことであろう。
古代後期・中世・近世にも「延喜式内名草神社」が存在していたことを証明するには、確実な同時代史料(たとえば、同時代の古文書に名前の記載がある等)が必要なのである。
残念ながら、名草神社は延喜式神名帳の記載以降、古代後期・中世・近世にも、確実な同時代史料が見出せないのである。
一般的に云って、近世及び近代末期の国学者や復古神道家は、その当時全く廃絶している「由緒ある」「延喜式内」社の復活を目論見、躍起となって由緒を改竄し、強引に式内社を「復古」させ
ることに躍起となった、その事例は数多ある。
即ち、身の回りには多くの神社があるが、ちょっとした構の「神社」であれば、その構からしていかにも国家神道を体現したか遭えなのであるが、まず「由緒ある」「延喜式内」社と称しているのである。
それこそ「犬もあるけば棒に当る」の状態であるが、しかし、その「由緒」と称するものは「本当かな」とまず疑ってみことが肝要である。
さすれば、ほぼ100%の確率で、その由緒とは、近世及び近代末期の国学者や復古神道家つまりは神道を国家の祭祀となし国民教化の手段としようとした神道家の「子供だまし」程度の強引な附会であることが分かる。
最後に、明治維新前後の神社改竄の実例を紹介しよう。
全国のどこであっても、ほぼ同じことが行われたのであるが、今般は山城国久世郡・綴喜郡における事例を見てみよう。
→山城国久世郡・綴喜郡における事例
(追加予定)
また、近世の神社の実態と明治の神仏分離以降の状況を佐渡国で見てみると、以下のようである。
→佐渡の社の概要
◆「延喜式内名草神社」の廃絶
それでは、石原山(妙見山)の「妙見さん」とはどのような「お宮」なのか。
それは帝釈寺なのである。もっと限定すれば、帝釈寺本堂妙見社なのである。
帝釈寺(日光院)は寺伝では6世紀、日光坊慶重が妙見大菩薩を感得したことに始まると云う。
これが事実であれば、時代的には「但馬故事記」のいう名草神社の創建と重なると思われるも、同時代史料でこれを証するものがないので、事実かどうかは分からない。
しかし、時代は下り、中世には日光院に残る多くの中世古文書によって、帝釈寺は「妙見社」「妙見大菩薩」と呼ばれ、山名氏を始め多くの武将の信仰を得たことが分かる。まさに、中世には
帝釈寺日光院、妙見社、妙見大菩薩などの存在は確実に証明できるのである。
ところが一方「延喜式内名草神社」はと云えば、その存在を証明する中世以降の古文書などは皆無なのである。
要するに、中世以降、式内社であったと云う名草神社の存在は全く確認できないのである。
換言すれば、式内社としての名草神社は中世以降廃絶していたと考えるのが自然なのである。
とは云いながら、中世・近世には神道家によって、名草神社の祭神の考証が行われる。
しかしこれ等の考証は鎮座地やその実在などの考証ではなく、文献上の考証であり、中世近世の名草神社の存在を証明するものではない。
また祭神の考証にしても、「偽書」とされる「旧事紀」(但し当時は真書と信じられていたのであろう)が典拠であり、この意味では、「延喜式内名草神社」の祭神は「旧事紀」の諸神を「適当に」
附会しただけのものであろうと推測される。
しかしながら、はっきりしていることは、中世以降は勿論、明治維新前まで、名草神社なる社は、例えば「日光院文書」や「寛文御造営日記」(杵築大社)のような信頼できる古文書などに、全く其の名を見ないと云うことなのである。
つまり、信頼できる同時代史料に全く「名草神社」の名を見ないということは、古代後期または中世以降、「延喜式内名草神社」は廃絶していたと考えるのが自然なのである。
◆近世の帝釈寺妙見社
寛永9年(1632)帝釈寺快遍は本拠(妙見本殿及び妙見大菩薩)を石原の地より奥の院(現名草神社地)に移すと云う。
即ち、中世末に荒廃した帝釈寺の近世初頭の復興において、帝釈寺は山上の現在「明治官立名草神社」のある地に移転をする。
一方、出雲杵築大社では、寛文年中、大造営が行われ、正本殿の造営と佛教の廃止(神仏分離)が行われる。
正本殿の柱に妙見山妙見杉を譲渡するのといわば交換に、取除かれる運命の杵築大社三重塔が但馬妙見日光院に譲渡・移築される。
では妙見社と帝釈寺の関係はどういうものであったのであろうか。
それは、明治維新前は普通のことであった神社と神宮寺(宮寺・別当)という関係でも、寺院と鎮守と云う関係でもない。
単純なことで、妙見社とは帝釈寺本殿(本堂)のことであったのである。
明治維新後の復古神道や国家神道に毒された思考では理解不能であろうが、妙見菩薩を本尊とし妙見社を本堂とする帝釈寺と号する寺院であったのである。
繰り返しになるが、帝釈寺あるいは妙見社とは、妙見社を本殿(本堂)とし本尊を妙見菩薩とする寺院であったのである。
なお、帝釈寺移転に際し、旧地石原には子院成就院を残すと云う。
※神(権現など)を本尊として祀るが事態は寺院であるとか国学者によって神と強弁される仏を祀る寺院で、それ故に明治の神仏分離の標的にされたこの妙見社帝釈寺日光院のような類例として著名な寺院を列挙すれば、出羽羽黒山(羽黒大権現)、下野日光山(東照大権現輪王寺)、常陸筑波山中禅寺、相模鎌倉鶴岡八幡宮、甲斐岩殿山円円通寺(七社権現)、能登赤蔵山(赤倉権現)、能登石動山(石動五社権現)、遠江秋葉山(三尺坊大権現)、近江竹生島弁才天、山城石清水八幡宮、大和多武峰妙楽寺、大和吉野山(蔵王権現金峯山寺)、備前五流熊野十二社権現、備前瑜伽太権現、讃岐金毘羅山金光寺(金毘羅大権現)、筑後高良山(玉垂宮高隆寺)、豊前求菩提山(護国寺)などがある。
無名中小の寺院に至れば、殆ど数え切れない数になると推測される。
→「神仏分離 あるいは 廃仏毀釈」のページを参照
◆明治の神仏分離
明治維新の神仏分離および神道の国教化の過程で、帝釈寺日光院(妙見社)を「明治官立名草神社」とする措置が強行される。
※この処置の実体は官による帝釈寺の収奪であり、明治政府の国家祭祀体系の確立の一環として、「明治官立名草神社」が創建される。
そしてこの「明治官立名草神社」はその後着実に「国家神道名草神社」の道を歩むこととなる。
一般的にいって、
廃絶しているか否かに関係なく、延喜式に単に社名の記載があることや地主神の存在を根拠に、もしそれがなければ、根拠ともいえない怪しげな「附会」で強引に復古するのが、当時の神祇官及びその差配を受けた地方官の「手口」であった。
妙見社は既に廃絶していた「延喜式内名草神社」と附会され、帝釈寺本堂妙見社は「名草神社」と改号(「明治官立名草神社」)され、日光院は成就院(成就院は廃される)の地に下山し、現在に至る。
ところで「妙見信仰」とはどのようなものなのであろうか。
それは色々な系譜・信仰形態があり、容易にその本質を捉えることが出来ない。
しかし、基本的には経典に根拠を置く妙見菩薩であるとするのが最も妥当な見解であろう。
2012/09/05追加:
「密教占星法 上編」森田龍僊、臨川書店(昭和49年復刻)、昭和16年 では以下のように述べる。
「大蔵経のなか妙見尊の本経として見るべきは、ただ七佛八菩薩所説大陀羅尼神呪経四巻(晋代失譯)中、第二の妙見菩薩章あるのみである。」
「梵号を【ソジリシユタ】といひ、翻梵語集に『藪達梨舎タ(少冠に免の漢字)譯妙見と曰く』といへるが、これ即諸法の実相を知見し、衆生界に向かって難思の妙用を垂るるが故に妙見というのである。故に神呪経には、
我北辰菩薩名曰妙見、今、神呪を説き、護諸国土を擁し、所作甚奇特故名妙見と曰く」
と云う。
神呪経以外にも三種の経典が示される場合があるが、これは神呪経の別行か後世作と推定される。
要は妙見は神呪経に説くところの菩薩なのである。
2012/09/05追加:
※但し「名草神社建造物調査報告書」によれば以下のように云う。
山下に降りた現日光院の本堂薬師堂本尊薬師如来は妙見大菩薩の本地として50年の一度開扉されると云い、本像を納めた厨子の扉には次の墨書があると云う。(本堂薬師堂は江戸期の建築と云う。)
「但馬国石原山帝釈寺日光院妙見菩薩北斗七星垂迹本地薬師如来」
つまりは、本来は菩薩である妙見が、時代を経るに従って日本の神々と同じように、本地は薬師如来と考えられるに至るということであろう。
妙見菩薩は仏でありながら、神でもあるというような将に渾然とした仏であろう。
即ち、妙見菩薩は確かに仏であるとしても、その信仰は日本の神に近い認識であったことも事実なのである。
※上記に関連し、「密教占星法 上編」では以下のように述べる。
「但馬国石原山帝釈寺日光院妙見菩薩、北斗七星垂跡、本地薬師如来(「但馬舊記」)
といへるが、・・・「本地薬師如来」と云うことについては、薬師堂現存して等身大の尊像を奉安し、扉の裏面に妙見尊の本地佛なりたることを明記すると一致する。」
考えてみるに、明治維新前の人々にとっては、国学者や復古神道家の云うような神なのか仏なのかと云う追求は無意味であり、神であろうが仏であろうが、現世利益や来世などを約束してくれる「心のよりどころ」であれば、それが神であるとか仏であるとかは全く意味を持たないことなのである。
まさに日本の信仰は神仏が渾然と一体となって成立していた局面が多かったのである。
明治の「神仏分離」の処置とは、ある特定の思想を持った連中(国学者や復古神道家)が自らの勢力を拡大しようとし、それを維新政府が自らのイデオロギーとして上手に利用したと云う側面も持つ。
彼らは神仏渾然としていた信仰世界に踏み込み、神仏が判然としない場合、自らの勢力拡大のために、神仏の判然を命じた。
しかし、神仏を判然とするように命じたその意図は、字義通り「判然とし神仏を分離」することだけでは無く、その思想の根底には廃仏つまりは自らの勢力の拡大の意図があったことは明白であろう。
例えば、神仏の渾然とした「妙見」とは「仏」ではなく「神」であり、「神」であるから、寺院・仏堂・仏像・仏器・経典類は廃し、仏式祭礼は神式に改め、何が何でも神社にしなければならないという「強引さ」であったのである。
この「強引さ」は、明治維新で「祭政一致」の「王政復古」を夢見た国学者や復古神道家に起因するものであるが、この暴挙を許した背景には、一般的に云われるように「佛教者なかんずく権門寺院・僧侶の腐敗・堕落」や「閉塞した時代に佛教者はほとんど有効な救いの手を示すことができなかった」と云うような佛教の頽廃があったのも忘れてはならないことであろう。
◆なぜ「妙見三重塔」なのか
以上縷々と述べてきたことの結論は以下の通りである。
即ち、名草神社はその名を「延喜式神名帳」に見ると類推されるが、それ以降の存在は全く知られず、つまり廃絶したと推定される。
一方、中世・近世を通じて、妙見山は帝釈寺妙見社があり妙見大菩薩祀る信仰の山であったというのが歴史的な事実なのである。
「延喜式内名草神社」とは全く関係がないのである。
かくして、明治の神仏分離の処置で、帝釈寺日光院(妙見社)は「明治官立名草神社」と処置される。その実態は寺院の収奪であった。
帝釈寺は山を下ることを余儀なくされ、元の本拠地・石原の成就院に合流する。
帝釈寺本殿・拝殿・三重塔(不動産)は山上に残され、「名草神社」(「明治官立名草神社」)と改号される。
しかしながら
「妙見」三重塔は出雲杵築大社から妙見山帝釈寺日光院に譲渡された塔婆であるというのが歴史的事実である。
一方、明治の神仏分離で新しく「創建」された「明治官立名草神社」は「延喜式内名草神社」とは全く関連がなく、復古神道による附会であることもはっきりしている。
一般的にいえば、仏教的要素を徹底的に排除して政治的に創立させたのが明治以降の神社であり、擬似的に往古に復ると強弁し成立させたのが「明治官立名草神社」を含む明治維新で「復古」した神社の姿(実態)なのである。
地元では、今日でも、妙見山の三重塔を「妙見三重塔」と呼ぶと云う。
地元の人々は直感的に「名草神社三重塔」と云う呼称の「胡散臭さ」「まやかし」を感じ取っている故と思われる。
なるほど「名草神社三重塔」という「収まりの悪さ」より、「妙見三重塔」と呼ぶ方が「歴史的にしっくりくる」と思われるのである。
「名草神社三重塔」と云う呼称は、地元の呼称を無視し、歴史的事実を隠蔽し、また今後も隠蔽しようとする呼称であると断罪する。
それ故、「名草神社三重塔」の呼称は停止し、今後は「妙見三重塔」と呼称するのが、この数奇な運命を辿った塔婆に対する礼儀なのであろう。
以下のページは本ページの詳論や補足などである。(順次更新を予定)
(2)出雲杵築大社における現「妙見三重塔」 出雲杵築大社には寛文5年(1665)まで、大永7年(1527)尼子経久が建立した三重塔が存在した。
この大永7年(1527)尼子経久が建立した三重塔などは「紙本著色杵築大社近郷絵図」(慶長14年(1609)の御造営之図)、「杵築大社寛永社圖」(寛永年中:1624-1645年)に描かれ
、その片鱗に接することができる。
◆紙本著色杵築大社近郷絵図:北島国造家蔵
慶長14年の造営後の姿を描いたものである。
寛文の造営の折、松江狩野派絵師西山久三郎に命じて、解体前の慶長年中造営の社殿および周辺の風景を描かせたものと云う。
描く堂塔・社殿は次のように解説される。
本殿には向拝付設。本殿に向かって右側に御向社、天前社、左には筑紫社の社がある。
本殿は慶長年中豊臣秀頼の造営になるものである。
本殿正面には楼門があり、本殿及び付設社を柵で廻らす。また、本殿・楼門の正面に拝殿、その左に庁舎、その後ろに宝形造の三光堂があり、右に会所がある。
そして左手前隅には戦国期の造営と推定される三重塔や輪蔵もしくは鐘楼、池中の弁天堂、大日堂などの建物がある。
さらに本殿の背後に北島国造の屋敷があり、画面左には千家国造家の屋敷がならび、東側にはひと際大きな丹塗の入母屋造の大願寺、その北には上官佐草家が建ち、その他の神官などの屋敷群がある。千家国造館は現在と同じ位置にある。
なお、千家国造家にも「寛永御絵図」と称する同種の絵図が伝来すると云う。
また、「古代出雲歴史博物館」には島根県教育委員会所蔵のレプリカが展示される。
2012/07/29画像入替:
サイト:「大いなる社 出雲大社 大国主大神」>出雲大社遷宮 より 転載:「古代出雲歴史博物館」展示レプリカ
「紙本著色杵築大社近郷絵図」の杵築大社部分が「杵築大社慶長14年造営宮之図」(部分図)として流布する。
慶長年中杵築大社絵図:「週間 神社紀行」 所収:「出雲大社境内図」として掲載
。
慶長年中杵築大社絵図2:「寺社古圖集」臨川書店、1942年刊 所収、北島貴孝氏蔵として掲載。 ◆杵築大社「寛永社圖」:推定「島根県立図書館」所蔵
|
2007/09/14追加:
杵築大社寛永社圖:左図拡大図、但し部分図で、一部改変
「出雲大社造營沿革社圖(山村氏蔵)」として「島根県立図書館」に
所蔵されると思われる。
寛永年中(1624-1645)に作成と云う。
従って、慶長年中の造営後、寛文年中の神仏分離前の姿を描く。
寛
永 社 圖;「出雲大社と妙見山三重塔」斉藤至 より転載
(上記と同一のものと思われる。) |
2013/04/02追加:
◆「出雲大社只今之宮立之図」:万治2年(1659)
2013/03/29以下の報道がなされる。
「島根県立古代出雲歴史博物館」28日報道発表:(各社報道の要約)
慶長の造営後の杵築大社の境内見取図が発見される。
表題は「出雲大社只今之宮立之図」で、万治2年(1659)の作成と云う。
出雲大社只今之宮立之図1:「島根県立古代出雲歴史博物館」提供資料と云う。
出雲大社只今之宮立之図2:朝日新聞朝刊より転載、上記の部分図であろう。
即ち、本図は徳川幕府の寛文(1661-67)の大造営の始まる前に幕府に提出された境内図の「写」と推定される。
この絵図により、今まで「杵築大社近郷絵図」などで推定するしかなかった建物の正確な位置が示された貴重な絵図と評価されるとも云う。
例えば、本図では三重塔と鐘楼は平行に並ぶ建物配置で描かれる。
法量は101.5cm×95.7cm。
このほか、設計仕様書「杵築大社御本社御造営算用帳」と他の1点、及び延享造営本殿(現在の本殿)の棟札1点も合わせて発見と云う。
同館で開かれる特別展「平成の大遷宮 出雲大社展」(期間:2013/04/12-06/16)で展示予定。
※各報道機関の報道で「出雲大社只今之宮立之図」が掲載されるも、その画像は上記の通りである。ご覧のように、小さく殆どその内容を読み取ることが出来ない代物である。
報道機関の取り扱いが悪いのか歴史博物館の提供資料が用を為さないのかは不明であるが、「慶長の造営の杵築大社の建物配置が分かる」と云う報道主旨からいって、これでは我々一般大衆には全く意味がない報道と評価されても仕方のない物であろう。
所謂、官(歴史博物館)もしくは所謂「マスコミ」の傲慢・思い上がりであろう。歴史的史料というなら、一般大衆に広くその詳細を提供すべきであろう。文化財の私物化は許されない。
※確かに、報道発表の云うように、上に掲載の「杵築大社近郷絵図」や「寛永社圖」は絵画であり、「出雲大社只今之宮立之図」の平面図とは「正確性に劣る」のであろう。しかし提供された「史料」の精度の悪さ(何が描かれているのかが殆ど分からない)では一般大衆には判断できないではないか。(一般大衆は知らなくて良いということなのか。)
◆寛文の神仏分離以前の杵築大社模型
古代文化センター蔵、「古代出雲歴史博物館」に展示。
寛文の大造営前のいわゆる神仏習合時代の杵築大社を直感できる有用な模型である。
◎杵築大社境内模型0:サイト:「大いなる社 出雲大社 大国主大神」>出雲大社遷宮 より 転載
出雲大社境内模型:古代文化センター蔵
、「週間 神社紀行」 所収
(3)杵築大社寛文の大造営
※出雲杵築大社の社号について
杵築大社は現在では一般的に出雲大社と呼称されるが、本稿では出雲大社とは記載せず、杵築大社と記載する。
その理由は以下の通りである。
国学者や復古神道家のいわば最大の拠り所である「延喜式神名帳」には「出雲国出雲郡杵築大社」と記載される
から、杵築大社と呼ぶのが礼儀と思われるからである。
一般的には、「古代より杵築大社と呼ばれてきたが、明治4年に出雲大社と改号する。明治4年は杵築大社が官幣大社に列格した年である。」と
云うことであり、乱暴な言い方をすれば、出雲大社の呼称は出雲の神学が国家神道の教義に発展した伊勢の神学に屈服したイメージがあるからである。
◆中世の杵築大社
(作成予定)
◆杵築大社寛文の神仏分離(寛文の大造営)
(後日整理予定)
寛文の大造営にあたり、宮司(千家尊光)は松平直政と図り、両部神道から唯一神道に変換する方針で臨むこととなる。
それに従い、大社の神仏習合は廃され、三重塔、経蔵、鐘楼は撤去する方向で造営は進行する。
ところで、肝心の神殿の用材の調達は、適材が容易に見つからず難渋するも、最終的に「妙見山の妙見杉」が適材と判断され、
大社側から用材調達要請が妙見山帝釈寺日光院になされる。帝釈寺はこれを受諾する。
日光院第38世快遍阿闍梨は、妙見杉譲渡の経過で、杵築大社三重塔撤去のことを聞き、三重塔の譲渡を懇願したところ杵築大社は快諾する。
2003/7/16:「出雲大社」千家尊統. 学生社, 1968 より
(寛文の大造営で)三重塔は撤去され帝釈寺日光院に移建。
鐘楼、梵鐘、護摩堂、大日如来、観音菩薩、弁財天、不動尊は松林寺に、三光国師像は西蓮寺に、釈迦・文殊・普賢像、経蔵、一切経は神光寺に、聖殿、六観音は神宮寺に移し、仏教色を一掃する。
なお梵鐘は西光寺(福岡市)に現存すると云う。
さらに西光寺には神宮寺であった松林寺とその末寺多福寺印のある文書を所有しているともいう。
当時の杵築大社社僧としては神宮寺、松林寺、松現寺、玉泉寺、海善寺、海蔵寺、法海寺、所讃寺、永徳寺があったとされる。
2003/11/15:「近世出雲大社の基礎的研究」西岡和彦、大明社、平成14年 より
寛文大造営以前の大社は尼子経久建立の輪蔵、三重塔、大日堂、鐘楼などの仏堂があり、本殿(慶長14年豊臣秀頼願主で造立)も朱塗であったと云う。
また年中行事は鰐淵寺衆徒が深く関わり、経所で大般若経の転読、さらには本殿での読経が執行されていた。
さらに本願(社僧)が大社の職制としてあり、大社の造営管理運営の全てを握っていた。
様々の確執の後、本願が大社から追放される事件が発生し、寛文の造営では神仏を分離する方向に動き出す。
寛文4年大日堂本尊の松林寺への遷座と大日堂の撤去からいわゆる寛文の神仏分離は始まり、寛文5年一切経蔵の破却を以て、大社での神仏分離は完結する。
しかしながら、寛文の本殿造営にあたり、本殿の柱に使用する9本の大木の手当てに難渋する。
檜材はあきらめ、杉材を求めるも、これも容易に手当出来ず、ようやく妙見山の大木(妙見杉)が見つかると云う。
この妙見杉の大社からの譲渡要請に対して、帝釈寺日光院は当初御神木の伐採に困惑はしたが、大社正殿に使用することと棄却予定の三重塔の譲渡を条件に大木の伐採に同意する。
なお鐘楼の梵鐘については、現在福岡市西光寺に現存し「国宝」に指定されていると云う。
銘によると承知6年(839)に伯耆金石寺の鐘として鋳造される。(有銘では国内5番目の古さと云う。)
永正7年(1510)尼子経久が杵築神社に寄進する。
永禄2年(1559)山中鹿之助によって多福寺(島根県神戸郡)に移されたと云う。
その後(おそらく明治維新の頃と思われるが)多福寺が大阪商人に売却(おそらく経済的困窮と思われる)する。
明治30年西光寺が購入したとされる。
◆寛文年中の東西の神仏分離
常陸水戸藩の神仏分離
徳川光圀の断行
(作成予定)
備前岡山藩の神仏分離
池田光政の断行
(作成予定)
(4)妙見三重塔
妙見三重塔は標高1139mの但馬国妙見山八合目と云う相当な高所・山中にある。
冬季には深い積雪もあるが、近世末までは帝釈寺であった「明治官立名草神社」(養父市八鹿町石原)境内に、今もその姿を留める。
|
2003/07/15日追加:「愚禿」様ご提供画像
2002/07月夕刻撮影:
但馬妙見三重塔21:左図拡大図
但馬妙見三重塔22 |
※上述のリーフレット「但馬妙見 名草神社」は養父市教育委員会、名草神社発行であるも、発行年は不明である。
しかし、「平成22年6月29日に『名草神社1件』が国指定の重要文化財になる」との文言があるので、それを機に一新したものなのであろう。
◆妙見三重塔の概要
妙見山の8合目(標高760m)付近にあり、ここの上段に帝釈寺日光院妙見本殿・拝殿があり、その下段の平坦地・塔平に三重塔がある。
既に述べたように、この塔は大永7年(1527)尼子経久が杵築大社に建立した塔である。
しかしながら、杵築大社寛文の大造営で撤去されることになり、日光院が譲渡を申し入れ、これが受諾され出雲杵築大社から帝釈寺日光院に移建されたものである。
寛文5年(1665)1月に解体、4月に宇龍港を出航し、津居山港(豊岡)に陸揚げされ、5月に3500人によって妙見山に運ばれ、9月に完工したという。
大工は九鹿の池内与三左衛門、大奉行は八鹿の西村新右衛門と云う(宝珠銘)。
以来冬季には数mの積雪のある山中にも係わらずまた明治の廃仏毀釈も乗り越え、現在にその姿を伝える。
振り返るに、もし日光院に譲渡されなければ、この妙見三重塔は寛文年中に
確実に取り払われていたであろうと想うと、その分余計にその雄姿が際立つのである。
昭和59年積雪による屋根の落下があり、大修理がなされ、昭和62年大修理が竣工する。
積雪による落下とは以下のように云われる。
三重(最上階)の屋根に降り積もった約4mの雪が二重屋根に落ち、その衝撃で二重屋根が大破して一重屋根に落下し、一重屋根の垂木も折損して落ちるなどの大きな被害であった。
塔の初重一辺は4.6m、総高は23.9mを測り、屋根は杮葺。心柱は二重梁上から建つ。
初重内部は四天柱があり、来迎壁・須弥檀を造るが、現在は安置仏は無いとされる。
なお日光院では以下のように説く。
塔本尊は虚空蔵菩薩と伝える。明治9年帝釈寺<妙見社>が名草神社として収奪されたとき、信徒らが帝釈寺日光院の仏像仏具経典など一切を山下に運び、そのとき塔本尊も山下に移し、現存する と。
塔は丹塗で、周囲の樹木の中で良く映える。その姿はバランスが採れ、周囲を圧倒するように佇む。意匠は和様に唐様を少し混ぜるいわゆる折中様であり、中世の造詣力の確かさを感じさせる。
この塔は勿論出雲と云う地方に建てられた塔婆であるが、その地方色を全く感じさせない洗練された造詣力を秘めたものであろう。
なお、初層にやや稚拙ではあるが、四隅に隅垂木を担ぐ「力持ち」像を配し、その「一所懸命」は滑稽さを醸し出す。さらに三重の各々の尾垂木には猿の彫刻を載せ、これも人を食った趣がある。
このように、塔そのものは端正な姿を持ち優れた建築であるが、一方では「一所懸命」な諧謔や「人を喰った趣」を演出し、何とも魅力的な塔婆である。
※「人を喰った趣」と云えば、作成時代も建立の背景も違うが妙見本殿付設向拝の獅子頭の彫刻にも「人を喰った趣」があり、偶然の一致なのであろうか。
2010/11/01追加:「重要文化財名草神社三重塔保存修理工事報告書」昭和63年
但馬妙見三重塔立面図 但馬妙見三重塔断面図 但馬妙見三重塔平面図;各重 |
◆神仏分離で破壊された塔、移転された塔
(作成予定)
→神仏分離 あるいは 廃仏毀釈 インデックス
(5)帝釈寺日光院妙見社
平成22年妙見社本殿・拝殿が国指定重要文化財となる。
◆但馬帝釈寺日光院妙見社本殿
2012/07/21撮影:
帝釈寺妙見社正面彫刻:向拝に付設する獅子頭の彫刻の諧謔は三重塔の軒の力持ちや四猿の彫刻と相俟って何を意味するのであろうか。
帝釈寺妙見社本殿18 帝釈寺妙見社本殿19 帝釈寺妙見社本殿20
帝釈寺妙見社本殿21 帝釈寺妙見社本殿22 帝釈寺妙見社本殿23
帝釈寺妙見社庇組物:
帝釈寺妙見社本殿24 帝釈寺妙見社本殿25
帝釈寺妙見社身舎外見
帝釈寺妙見社本殿26 帝釈寺妙見社本殿27 帝釈寺妙見社本殿28 帝釈寺妙見社本殿29
帝釈寺妙見社本殿30
帝釈寺妙見社破損:2012年冬の大雪で、妙見社屋根などが破損、未だに何の応急処置もなされていないのはどうしたことであろうか。
帝釈寺妙見社本殿31 帝釈寺妙見社本殿32 帝釈寺妙見社本殿33 帝釈寺妙見社本殿34
妙見社向拝部の右側及び屋根の棟が破損する。棟から雨水が侵入・向拝も腐朽が進行するなど懸念されるが、如何なる理由で早急な応急措置が採れないのであろうか。
この帝釈寺妙見社本殿は現在「明治官立名草神社」本殿と称する。
繰り返しになるが、「明治官立名草神社」は、通説(「俗説」あるいは「国家神道の附会」)では、明治維新までは「妙見社」と呼ばれ、明治の神仏分離後は「延喜式内名草神社」に復古し、ナグサヒコやアメノミナカヌシなど7神を祀ると云う。
しかしながら、明治の神仏分離の処置で、妙見社本尊妙見大菩薩をはじめとする諸尊は山を下り、新に建立された現日光院妙見社に遷座する。
→現日光院妙見社
妙見大菩薩が下山・遷座した時点で、山上の妙見社は「空(カラ)」になったはずである。
しかし、奇妙なことに、「空(カラ)」になったはずの山上の妙見社には、ナグサヒコやアメノミナカヌシなど7神を祀ると云う。
これは一体どうしたことなのであろうか。
「明治官立名草神社」にはどのような神体を祀っているのであろうか。
勿論、我々一般人には山上の妙見本殿の内部を窺い知ることはできないが、明治の復古神道家が適当なものを宛がい、神体としていると推測はできるのである。
何れにせよ、ナグサヒコやアメノミナカヌシやタカミムスビなど復古神道丸出しのカミを祀り、おまけにその他の祭神が一定せず、いかにも明治の神仏分離で附会・捏造・収奪したことが推測でき、この意味では
「分かり易い神社」の一つというべきなのであろう。
2012/09/05追加:
平成20年、山上の本殿などの調査がなされ、「名草神社建造物調査報告書」が刊行され、これにより内部の状況を克明に知ることが出来るようになる。
※「名草神社建造物調査報告書」養父市教育委員会、平成20年
※調査は本殿・拝殿などについて、建築史上どのような評価をすべきなのかを主眼に養父市教育委員会の依頼に基ずきなされたものである。
※調査の指揮及び本文の編集・執筆は黒田龍二(神戸大学大学院工学研究科 准教授)による。
※調査・写真撮影などは神戸大学建築史研究室(院生・大学生)、養父市教育委員会(谷本進・岸田明美など)による。
本書には、諸建造物の所見・実測・図面などと豊富な写真図版が記され、さらに山上の「本殿形式の成立過程」に関する注目すべき見解が述べられる。
以下「名草神社建造物調査報告書」に従って概要を紹介する。
◇本殿平面:
ほぼ正確に南面する。中央部の円柱で構成される身舎(桁行7間、梁間3間)と四周1間の角柱で構成される庇からなる。
※庇というより、四周1間の部分は本来は椽であろう。これは雪深い地での建築である故であろう。
そのため、外観では本格的な寺社建築としては軒の出が著しく短く見え、その分、堂舎の構成美をやや欠く結果となる。
つまり、本来の軒の出は入側柱からの出と観るべきである。
平場の構成は、身舎の正面側1間通しを外陣とし、その奥2間の後方寄りに7間全てに扉を設け、前方を内陣、後方を内々陣とする。
四周の椽部分のうち、正面の7間(両端の各1間を除く)は床面が地面に近い「浜床」となり、浜床から階で外陣に昇ることとなる。
浜床を除く両側面と裏面の椽は正面外陣と連続し、外陣を構成する。
◇内々陣
身舎桁行7間の枝割(1枝4寸5分)は中央20枝、その両脇は中央から外側へ各々14枝、16枝、14枝となる。(庇<椽>は10枝)
内々陣には全て扉があり、七躯の尊像を安置したものと推測される。そして内々陣7間も以上の枝割で造作される。
つまり、中央間(一間)が20枝で一番広く、次いで広いのは中央間から一間おいた間(計二間)で16枝であり、この16枝の両脇間(計4間)は14枝で一番狭くなっている
。
帝釈寺妙見社本殿平面図
柱間の広さに3種類ある理由は前身建物の影響が考えられる。文和3年(1354)の「日光院文書5」に「妙見山所権現」、文明18年(1486)の「日光院文書52」に「三所権現」とあり、三所の信仰対象があったことが窺える。つまりこれが現在の本殿に反映されて、主権現が一番広い中央間に、次いで残りの二権現が1間おいた両脇のやや広い間に安置されたものと考えられる。
→この件に関する詳細な考察はこの章の下の項「◆山上妙見社本殿形式の成立過程」にて再度取上げる。
なお、小屋裏には設計図と思われる大きな板図があるも、これを小屋裏から取り出し調査することは出来なかったと云う。
また蟇股、木鼻、頭貫などに数多くの華麗な彫刻が見られるのその詳述および写真図版については直接本書の参照を願う。
◆但馬帝釈寺妙見社拝殿など
割拝殿中央間は通路、右の2間四方の部屋(右間)は護摩堂と伝える。天井等が黒いのは護摩の煤と云う。
現在山下の現日光院にも拝殿と妙見社本殿が同じように配置され、拝殿では今も護摩を焚くと云う。
→現日光院拝殿
左の2間四方の部屋(左間)は現在「空」であり何も置かれてはいない。どのような機能を持つ「部屋(間)」であったかを推測させる遺構・遺物は何も残らない。
帝釈寺妙見社拝殿22:割拝殿中央間
帝釈寺妙見社拝殿23:拝殿右間
帝釈寺妙見社拝殿24:拝殿右間
2002/05/05撮影:
帝釈寺妙見社拝殿
○帝釈寺日光院遺構:現「明治官立名草神社」社務所
おそらくは明治の神仏分離の処置までは、帝釈寺日光院そのもの、あるいは帝釈寺日光院山内の庫裏兼用客殿であった建物と思われる。
棟札によれば、元禄8年(1695)の建築であり、拝殿の竣工(元禄2年)の後、起工し、元禄8年竣工と記される。
桁行13間、梁間7間の大建築である。入母屋造、屋根現状は鉄板葺。
「名草神社建造物調査報告書」に記載の古写真では、屋根は錣葺の入母屋造、中央には唐破風の向拝もしくは玄関が写る。
錣葺及び唐破風は昭和59の大雪の後の修理で撤去されたものと思われる。
帝釈寺日光院遺構1 帝釈寺日光院遺構2 帝釈寺日光院遺構3
帝釈寺日光院遺構4 帝釈寺日光院遺構5
○帝釈寺廻廊
帝釈寺日光院廻廊跡1:帝釈寺日光院
庫裏(現社務所)から発し、途中拝殿に分岐し、妙見社本殿に至る廻廊がかっては存在した。
この様子は古写真(「名草神社建造物調査報告書」に所収)で確認できると同時に跡地には若干の礎石が残る。
廻廊は日光院庫裏(現社務所)から一段上の石垣で造成された拝殿・本殿のある平坦地に昇り、拝殿側面に至って├の字状に分岐し、それは拝殿側面に取り付く。一方廻廊はさらに奥に直進し妙見社拝殿側面で直角に折れ、妙見宮本殿に取り付く構造であった。
写真石垣左端に一段高く3個の石が置かれるが、その上に廻廊は昇っていたようである。
帝釈寺日光院廻廊跡2:本殿・拝殿間に残る廻廊礎石と石列である。
「名草神社建造物調査報告書」では建立年代もそう古くはなく、昭和59年の大雪で崩壊と云う。
○帝釈寺当屋跡
帝釈寺日光院当屋跡:頭屋・祷屋跡である
「名草神社建造物調査報告書」では廻廊と同じく建立年代もそう古くはなく、昭和59年の大雪で崩壊と云う。
また本書には古写真の掲載がある。
2012/09/05追加:
◆山上妙見社本殿形式の成立過程
以下も「名草神社建造物調査報告書」に準拠して概要を紹介する。
本殿の内々陣は以下のような構造であることは、山上の妙見本殿の項で既に述べた通りである。
即ち、内々陣には全て扉があり、七躯の尊像を安置したものと推測される。そして内々陣7間も以上の枝割で造作される。
つまり、中央間が20枝で一番広く、次いで広いのは中央間から一間おいた左右の脇間で16枝であり、中央間左右の副間及び左右の端間は14枝で一番狭い構造である。(※1枝は4寸5分)
柱間の広さに3種類ある理由は前身建物の影響が考えられる。
文和3年(1354)の「日光院文書5」に「妙見三所権現」、文明18年(1486)の「日光院文書52」に「三所権現」とあり、三所の信仰対象があったことが窺える。つまりこれが現在の本殿に反映されて、主権現が一番広い中央間に、次いで残りの二権現が1間おいた
左右の脇間のやや広い間に安置されたものと考えられる。
一方「石原山縁起」・・元禄8年(1695)奥書・・には
「・・・菩薩乗現の始は三所の三所の社を構へ、日の星の三神を崇む。其後当寺24代の先師・・・・三社をこぼち玉堂一宇を新め造り七仏の本地と崇敬し奉る。」とある。
以上によれば、少なくとも室町初期(文和3年)には、帝釈寺には「三所の社」が構えられていたが、24世の時、三社は壊され一宇の本堂に造替されたことになる。
山上に妙見菩薩を奉持して登り、妙見社を山上に復興させたのは第36世快遍であり、それは寛永9年(1632)と伝える。24世と云えば快遍から数え12代前であり、おそらくは室町初期あるいは中期の頃であろうかと推定される。
内々陣にはこの7つの柱間があるが、この柱間の蟇股には、各々の尊像を表すと思われる種子と推定される梵字があるが、塗り潰されている。明治の神仏分離の折に塗られたものであろうが、ほぼ見える種子は1個
(左脇間の「カ」)で、ある程度見えるものは3個である。
これを整理すると以下である。
この内々陣の安置されていた尊像については、上記の「蟇股種子」が通常は安置仏を表すものであると解釈すべきであろう。
幸いなことに元禄8年奥書「石原山縁起」に下記のような安置仏の記載がある。
「抑妙見大菩薩は元来大日如来と同体、一字金輪の異名なり、・・・大日即金輪、金輪即妙見、妙見即北斗七星、北斗七星即一切衆生、・・・人天を利益せんが為に北斗七星尊星王と現ず。・・・是即天に有りては七星とあらわれ、地に降りては七仏と号す。
所謂中台は医王薬師右は勢至、普賢、観音大士、左は文殊、地藏、虚空蔵と現。」
まず、妙見即北斗七星とあり、本尊妙見菩薩は北斗七星を体現しているものと考えられる。
以上を上記の梵字(種子)と合わせて見ると以下のようになる。
以上を踏まえ、実際の安置仏を推定してみよう。
これについては、ほぼ、内々陣に残る安置仏を示す種子(梵字)や「石原山縁起」でほぼ答えが出ているであるが、再度中世文書にある「妙見三所」
立ち返り考察してみよう。
中世文書で云う「三所」は一つに纏められた現在の本殿に引継がれているはずであるから、当然中台(中尊)には妙見菩薩が祀られ、その他の二仏は中台から1間置いた左右のやや広い脇間に安置されたはずであろうと推定される。
だとすれば、梵字(種子)の示すように右脇間勢至、左脇間地藏と云うことになる。
以上で、「三所」とされる諸尊はほぼ断定されるが、では「三所」に由来する仏以外の残りの4仏とはどのような由来であるのか。
4仏のうちの普賢、文殊、虚空蔵は三重塔に関係する仏像であり、これ等が本殿に安置されたものと考えられる。
その根拠は以下と推測される。
出雲杵築大社に伝わる寛文の「御造営日記」(佐草自清)には以下のように記録される。
→妙見三重塔寛文の移転・・・寛文4年閏5月19日、寛文6年6月22日の条を参照
寛文4年閏5月19日の条では三重塔「本尊は釈迦文殊普賢幸(これ?)禅宗の本尊」
寛文6年6月22日の条では「元の塔ハ昔多宝塔ニて本尊虚空ニ候」とある。
三重塔本尊の譲渡は宗旨が違う故に杵築大社側では難色が示されたが、結果としては、三重塔とともに帝釈寺日光院に譲渡される。
日光院に普賢、文殊、虚空蔵が存在したのである。
杵築大社からもたらされた諸仏のうち、釈迦はおそらく三重塔本尊として残され、普賢・文殊と旧多宝塔本尊虚空蔵は妙見社本殿に納められたと考えるのが順当であろう。
最後に残る1体の観音は残念ながら現在のところでは由緒不明である。
以上の結論を更に表に追加すると以下のようになる。
以上のように、内々陣の安置仏は黒田氏が推察する「安置仏」でほぼ異論はない。
それは、内々陣に残る判読できる種子(梵字)と「石原山縁起」の記載がほぼ一致するからである。
この際、勢至と普賢の位置が逆になり不一致であるが、これは「縁起」のある種の錯誤とするしかないであろう。
普賢、文殊は杵築大社三重塔由来の仏であり、虚空蔵は帝釈寺多宝塔及び移建後の塔本尊との伝承もあり、何れも実在が示唆され、これも妥当性をもつものと思われる。
しかし、この場合三棟の三社が廃され、一棟の本殿(「玉堂一宇」)に纏められたのは近世以前の室町前期中期と推測されるが、普賢、文殊が杵築大社三重塔由来の仏であるならば、これは寛文年中にもたらされた仏であり、一棟の本殿に纏められた時には未だ存在しないはずである。
一棟に纏められた時に安置された仏は、旧三所のままの妙見、勢至、地藏の3体であったのであろう。
しかしながら、事情は不明ながら、宝暦年中の現在の本殿が造立された時には、観音の由緒は分からないが、塔婆に関係する普賢、文殊、虚空蔵を加えて、さらに由緒は詳らかではないが観音も加えて、帝釈寺妙見社としての七仏が成立したものと思われる。
ではこれ等の安置仏の妥当性を補強する意味で現在、山下の日光院に伝わる仏像を見て見よう。
まず、日光院には、妙見、薬師、十二神将、日天、月天、毘沙門天、不動、弥勒、虚空蔵、雨宝童子、訶利帝母(鬼子母神)、弁財天、聖観音、阿弥陀、弘法大師、地藏の16種の仏像が伝わると云う。(昭和31年「但馬妙見、日光院の概略」)
このうち、妙見は山上本殿中台(中央間・中尊)に安置されていた妙見大菩薩であろう。この像は秘仏であり、住職以外に拝することはない。
中国風の服装で、亀の上に立ち、切っ先を下にした劒を持つ尊像と云う。(秩父大宮妙見、相馬妙見と同様の像容と云う。)
薬師、十二神将、日天、月天、毘沙門天、不動(立像)は現在山下の日光院薬師堂にあるものであろう。
弥勒は庫裏にあり、鎌倉期のものといわれるが由緒は不明。
虚空蔵、雨宝童子、訶利帝母、弁財天(かっては拝殿に安置、今は別所に遷す)、聖観音、不動(坐像)は現在山下拝殿に安置する。
阿弥陀、弘法大師、地藏は現在確認できない。
一方現在、拝殿には、上記で挙げた虚空蔵、雨宝童子、訶利帝母、弁財天(かっては拝殿に安置、今は別所に遷す)、聖観音、不動(坐像)の他に薬師、千手観音がある。これ等は主として、神仏分離の処置で山上から移座したものと推定される。
では、本殿7仏の中で、妙見大菩薩は現在の山下妙見社の本尊であることは別にして、右端間の観音は山下拝殿安置の聖観音、左端間の虚空蔵も同じく拝殿に安置の虚空蔵と推定される。
言い換えると、残念ながら、文殊、勢至、普賢は確認が出来ず、地藏は安置場所が不明である。
2012/07/31撮影:
山下拝殿安置
妙見三重塔本造虚空蔵菩薩坐像:三重塔本尊と伝える。あるいは多宝塔本尊から山上本殿7仏に転用された像なのであろうか。
山下拝殿左間安置諸像;山下拝殿左端須彌壇に安置。左から雨宝童子立像、千手観音立像、虚空蔵菩薩坐像、不動明王坐像
※山下拝殿に安置と云う訶利帝母、聖観音、薬師如来は右間に安置と推察されるも未見。
なお、拝殿の薬師(小像)は中台に安置されていた仏であろう。内閣文庫に「釘付け厨子の薬師および厨子外の観音勢至がある」との記録があると云い、この薬師はこれに該当し、
この文書を信用すれば勢至も存在していたのであろう。
おそらくこの薬師は妙見と共にあったか御前立として中台前に安置されていたのであろうと推測できる。
また拝殿の虚空蔵は塔本尊との伝承を持ち、内々陣左端間にあったものであろう。
雨宝童子、訶利帝母、弁財天、千手観音は由緒不明、不動(坐像)は山上拝殿西の間の護摩供養本尊であった可能性が高い。
三重塔本尊については以下のように考察される。
繰り返しになるが、寛文の「御造営日記」(佐草自清)では
帝釈寺には元々多宝塔があり、これは中世末期に退転するが、本尊は虚空蔵であった。
寛文年中に多宝塔の代わりに、杵築大社から三重塔を受けるが、この時塔本尊釈迦・文殊・普賢であり、この像も受贈する。
このうち、三重塔の文殊・普賢の2仏は、上の推察のとおり、本殿7仏として、左右の副間に安置され、さらに多宝塔本尊虚空蔵と由緒の不明な観音も本殿7仏の1ツとして、左右の端間に安置されたものと推定される。以上が事実とするならば、妙見本殿の7仏の成立は寛文年中以降「石原山縁起」の書かれた元禄8年の間ということになる。また理由な不明ながら、移座した三重塔本尊の釈迦だけは7仏を構成しないので、三重塔本尊とされた可能性が高いと思われる。
そして現在三重塔の釈迦、本殿7仏の普賢、勢至、同じく地藏は所在不明であるが、おそらくは明治維新の神仏分離の処置の時亡失したのであろうか。
さらに、もともとの多宝塔本尊という虚空蔵がこの本殿左端間の虚空蔵である可能性は高いが、虚空蔵は典拠不明ながら昭和63年の三重塔「保存修理工事報告書」に三重塔本尊として記載されていて、何らかの伝承などがあった可能性はある。
虚空蔵については、三重塔に安置されていたのであれば、山上の本殿に安置の虚空蔵は別の像と云うことになる。
つまり2体の虚空蔵が存在していたのであれば、現在山下の拝殿に安置の虚空蔵は三重塔安置のものなのか山上本殿安置のものなのか、は不明とするしかない。
2012/09/05追加:
◆山上妙見社本殿の先行事例
前項のように「名草神社建造物調査報告書」において、三社(三所・三所権現・三棟)が一堂(一棟)に統合され、やがて7仏を祀る極めて特異な発展を遂げ、それ故に特殊な内々陣構造を持つ本堂(本殿)が成立することが解明される。
さらに本報告書では、日光院妙見社本殿の類似として 播磨廣峯牛頭天王(廣峯山)の本殿の例が紹介される。
廣峯牛頭天王社本殿は重文、文安元年(1444)の再興、桁行11間、梁間3間、正面1間通り庇付き、一重入母屋造、屋根桧皮葺の大建築である。
平面は内陣(内々陣)、外陣 (内陣)及び庇(外陣)からなる。内陣は桁行2間を一室として三社が並列する。
→播磨廣峯牛頭天王、拝殿本殿平面図
三社の各社とも一間社流造見世棚付きの宮殿を置き、他の一間を仏間(納殿)とする。さらに三社を囲って横に仏座をつくり、外陣と庇を付け、脇に附属室(供物所、神饌所)及び詰所を付設した複雑な構造を持つ。
昭和39-41年の本殿修理で地下の発掘調査も行われ、その結果掘立柱の跡が出土すると云う。
この遺構の性格につては三間社程度の小祠が想定されると云う見解と一間社が三棟建っていたという見解に分かれるようである。
このどちらであるのかは、部分調査でありはっきりしないが、仮に三間社としても、それは中央部と東端部ということであり、この場合も三棟の社であった可能性が高いと思われる。
何れにせよ、いにしえは三棟であった廣峯山本殿は中世末期には大建築の一棟に統合されたということであり、この意味では、但馬帝釈寺日光院妙見社本殿の先行形態であると評価できる。
もっとも、廣峯山本殿内々陣には一間社流造の宮殿が置かれ、三社時代の祀り方を色濃く残すが、帝釈寺妙見社本殿の内々陣は扉付き厨子の設置で、三社時代の祀り方を引継いでいる構造である違いはある。
なお、三社を、大規模な堂宇に造替し一社に統合するこの形式の現存する最古の例では、山城宇治上神社本殿(国宝・平安後期)とその覆屋(国宝・鎌倉)がある。
この本殿内部は平安後期の一間社流造(国宝)が三棟並びその三棟は鎌倉期と云われる覆屋(国宝)に覆われる。しかしこの覆屋は通常の覆屋が別棟を建てて建築されるのとは違い、左右の本殿の軒を伸ばして覆屋(5×3間、切妻造)とする。なお、中央の中殿は左右の二殿より少し小さく覆屋の中で独立する。要するに外観ではこの覆屋が本殿と見えるのであるが、内部は三社と覆屋が混然一体となった社殿なのである。
※拝殿は鎌倉期の建築で国宝、寝殿造の遺構とされる。
※宇治上神社・宇治神社とは国家神道による改号で気持ち悪いが、近世は両者を合わせ宇治明神、離宮明神、八幡社と云われた。
宇治明神下社・若宮は宇治神社として分離・改号され、宇治明神上社・本宮は宇治上神社として分離・改号されたのである。
→・・・本殿平面図・本殿写真などあり。
大まかに概括すれば、現存する最古の神社建築と云われる宇治上神社本殿の形式が三社を統合した初原の本殿形式と思われる。
次いで廣峯牛頭天王本殿が現れ、これは先行する三社を完全に統合した独立した大規模堂宇であるが、その内々陣には三社時代の名残りのような独立した三社を残し、この本殿の由来を示すかのような過渡的な形態なのであろうと思われる。
一方日光院妙見社本殿は上述のように「三社をこぼち玉堂一宇を新め造」ると云う訳であるが、この本殿では先行する三社の名残りは僅かに内々陣に扉を付設した7個の厨子のうち3個がやや広く採られることに残るのみとなり、これがかっては三社の社殿があったことを示す唯一の構造上の特徴となる。
◇中世・近世における武将の信仰した著名な妙見社本殿の特徴
○常陸相馬妙見:千葉氏一族相馬氏
本殿は寛永20年(1643)の一間社流造(重文)である。拝殿幣殿本殿を結合した権現造に似た形式である。
○武蔵大宮妙見大菩薩:武士団丹党
本殿は天正20年(1592)徳川家康の寄進により天和2年(1682)の改修と云う。本殿は三間社流造であり、拝殿幣殿を結合した権現造に似た形式である。
○肥後八代妙見、白木山妙見大菩薩
本殿は元禄12年、寛延2年の改築であり、近年にも改造が行われる。本殿は桁行3間梁間2間の入母屋造である。拝殿幣殿を繋ぎ権現造に類似する。
以上に述べた近世の代表的な妙見社の3例の建築は所謂神社建築もしくはそれに近い建築であり、日光院妙見社本殿とは異質の建築である。
しかし、日光院妙見社本殿は正面屋根の千鳥破風や唐破風の向拝及び過剰な近世風な彫刻を除けば、外観は仏堂であり、また内部に安置する7仏がなにより仏堂あること
を示し、もっと云えば寺院本堂であることを物語っていると云える。
換言すると、内部に祀っているのは妙見菩薩以下の7仏であり、そうである以上仏堂なのである。
しかし、一方では妙見の本地は薬師如来とも説かれ、妙見は薬師如来の垂迹即ち神としての要素も合わせ持つ複雑な仏であったのであろう。その意味でこの帝釈寺本堂は妙見社本殿と呼ばれ、本殿の前には拝殿・護摩殿が造営されたのであろう。
(6)妙見山帝釈寺略伝・伽藍
◆帝釈寺日光院略伝 本項はサイト「高野山真言宗 但馬妙見 日光院」>「但馬妙見 日光院縁起」及び「但馬妙見における廃仏毀釈」を要約する。
(2003/07/17:要約および転載の許諾済)
寺伝では飛鳥・敏達天皇の時代、日光慶重の創建と伝える。
第4世の代に、妙見堂(本尊妙見大菩薩)並びに薬師堂(本地仏薬師如来)が石原に建立されたと云う。
平安末から鎌倉期以降、武将の妙見大菩薩に対する信仰が盛んになり、山名宗全などの祈願状・寄進状が多く残され(日光院文書)、着実にその地歩を固めたものと推測される。
以上のように中世には寺勢は盛んであり、求聞持堂、護摩堂、仁王門、奥の院(西50丁の山上・現名草神社の地)、坊舎は成就院、薬師院、蓮光院、地蔵院、宝持院、弥勒院、明王院、歓喜院、宝光院、岡之坊があったと
云う。
※山上の奥の院には秋葉神社を奉祀という。(「但馬妙見、日光院の概畧」 日光院51世森田祐親)
天正5年(1577)羽柴秀吉の山陰侵攻により、妙見大菩薩本殿、薬師堂のみを残し灰燼に帰す。
その後高野山釈迦文院朝遍阿闍梨は、第35世を兼務し復興に尽力、其の弟子快遍阿闍梨を第三十六世とする。
寛永9年(1632)奥の院に妙見大菩薩を奉持して登り、日光院を妙見山の山腹に移転復興する。
成就院のみは旧地に復興し、子院とする。
慶安元年(1648年)徳川家光の朱印30石を受く。
寛文5年(1665)三重塔移建。
宝暦4年(1754)第40世宝潤代、帝釈寺日光院本殿(現名草神社本殿)を建立(再興)する。
慶応4年所謂「神仏分離令」、明治5年所謂「上地令」が発せられる。
明治9年、豊岡懸は、帝釈寺の抗弁の正当性や「妙見大菩薩は仏尊である」との認識にも関わらず以下を布達する。
「寺号を廃し、同寺が所有してきた不動産のみを神社に明け渡すこと」(明治9年7月8日豊岡懸布達)
以上により、理不尽にも「奥の院妙見社」は名草神社として収奪されるに至る。
「この時、但馬妙見信仰を守るため、九鹿村から奥の小佐谷中の人々や諸国信者、数百人が午前5時に山上に集まり、妙見七尊体尊像を始め全ての仏像、教典、法具、蔵書等、寺宝を護持し、鐘楼以外の日光院の建物のみを山上に残し、元の日光院が寛永年間まであった山麓の石原に降り、末寺成就院と合流」する。
「その後、下げ戻し法が発布されると同時に、日光院は但馬妙見信仰を護るため、直ちに政府に対し行政訴訟を起こし」、「妙見社とは日光院」そのものであることを根拠に、明治39年全面勝訴し、名草神社所属とされていた山林は全て寺有に復帰する。
◆山下・現日光院伽藍概要
2012/07/21撮影:
○但馬妙見日光院山門1 但馬妙見日光院山門2
○日光院
妙見社拝殿1 日光院
妙見社拝殿2 日光院
妙見社拝殿3 日光院
妙見社拝殿4
妙見社拝殿内部1:拝殿中央間に護摩壇を
置く。
妙見社拝殿内部2:護摩壇正面は壁が空き、拝殿背後の
妙見社本殿を拝する構造である。写真中央には妙見社本殿が写る。
妙見社拝殿扁額:妙見宮とある。山上から遷座した扁額であろうか。(向かって左の文字
は解読できず。)
○妙見三重塔本尊:明治の神仏分離の処置で山上より遷座し、妙見宮拝殿に安置される。
山下拝殿安置:上に掲載
妙見三重塔本造虚空蔵菩薩坐像:三重塔本尊と伝える。あるいは多宝塔本尊から山上本殿7仏に転用された像なのであろうか。
山下拝殿左間安置諸像;山下拝殿左端須彌壇に安置。左から雨宝童子立像、千手観音立像、虚空蔵菩薩坐像、不動明王坐像
※雨宝童子立像の由緒は不明、不動明王坐像は山上拝殿の右室が護摩堂と推定され、此処に安置されていた可能性が高い。
※山下拝殿に安置と云う訶利帝母、聖観音、薬師如来は右間に安置と推察されるも未見。
○日光院妙見宮本殿1 日光院妙見宮本殿2 日光院妙見宮本殿3:山上妙見大菩薩は山下日光院妙見宮本殿に遷座する。
○日光院本堂
日光院本堂(薬師堂)1 日光院本堂(薬師堂)2
2012/09/05追加:「名草神社建造物調査報告書」によれば以下のように云う。
本薬師堂は江戸期の建築と云う。(であるならば、この堂が成就院本堂であったと推測される。)
本尊薬師如来は妙見大菩薩の本地として50年の一度開扉される。本像を納めた厨子の扉には次の墨書があると云う。
「但馬国石原山帝釈寺日光院妙見菩薩北斗七星垂迹本地薬師如来」
即ち、本来は菩薩である妙見が日本の神々と同じように垂迹したものであり、本地は薬師如来と考えられているということである。
つまりは、妙見菩薩は仏でありながら、神でもあるというようなまさに渾然とした思想であったということであろう。
○日光院鐘楼1 日光院鐘楼2
○日光院庫裏・客殿
○帝釈寺妙見社丁石地蔵1 帝釈寺妙見社丁石地蔵2
この丁石地蔵は、現日光院から山上妙見社に至る参道に置かれていたものと云う。さらに山上妙見社まで五十丁と云われ五十体の地藏菩薩が祀られていたと云う。
明治の神仏分離の処置で妙見大菩薩は山下に下り、地藏菩薩は「国家神道の神社」に不相応と云うことであろうか、信者・檀家によって現日光院境内に集められたと云う。
なお妙見山山中には名残りの地蔵菩薩が残るとも云う。
更に、車道(林道)脇には磨崖仏も残る。
○石原磨崖仏(不動明王):高さ約3m幅約6mの岩に彫る。天文14年(1545)銘。
○石原十王堂 石原十王堂安置仏
現日光院のある付近は石原字十坊と云う。いかにも、古には帝釈寺の10坊があったことを偲ばせる字名であろう。
しかし現在では、現日光院付近は日光院を最上段にしてその中段・下段には民家や田畑が点在するだけで、古の遺構を偲ばせるものはない。
そんな中で、日光院よりやや離れた下の段に十王堂(閻魔堂)一宇が唯一残る。詳細は不明であるが、古には、あるいは帝釈寺と関係があったのかも知れない。
○妙見資料宝物館:日光院に付設される。
妙見三重塔の模型などが展示される。但し、この模型は木造建築模型ではなく、工芸品に属するものである。
材料は金属であり、おそらく汎用品を加工し、接着したものであろう。例えば屋根の表面は小さい薄茶色のカラー釘をびっしりと接着したもので製作される。
八鹿祭の伝統である「つくりもの」の作品であり、昭和44年旭町の製作である。その後「資料館」に寄贈されるとある。
妙見資料宝物館妙見三重塔模型1 妙見資料宝物館妙見三重塔模型2
妙見資料宝物館妙見三重塔模型3 妙見資料宝物館妙見三重塔模型4
なお、妙見三重塔模型は養父市設置模型と和田山野崎邸模型がある。
但し養父市設置模型は駄作、野崎邸模型は忠実な模型と推定される。
2006年以前作成:2012/09/15更新:ホームページ、日本の塔婆
|