※成形層塔は鋳造の層塔を云う。
木造塔婆とは膨大な数の部材を組立てて建立される建築であるとすれば、鋳造した部材を積み重ねることによって塔婆を形作る構造物は木造塔婆とは別の範疇
のものになるであろう。
伊勢金剛證寺銅製三重塔、武蔵葛飾熊野神社銅製五重塔、徳川綱吉寄進銅製五重塔、陸奥大徳寺銅製五重塔、高尾山薬王院銅製五重塔
(参考):武蔵法長寺銅製五重塔、釧路竹老園庭園銅製五重塔
★伊勢金剛證寺銅製三重塔
元禄4年(1691)武州江戸神明前幸田元精の発願により、建立と云う。
本尊大日如来を安置。朝熊山と号する。
伊勢朝熊山銅製三重塔:「佛教考古学講座第3巻」 より
参考:朝熊山金剛證寺
★武蔵葛飾熊野神社銅製五重塔:2010/09/19追加:東京都葛飾区立石8-44-31
元禄年中初期(1688〜)あるいは宝永6年(1709)頃の造立か
2009年5月、熊野神社宮司(大鳥居信史・神田明神宮司兼職)は京都市内のオークションに出品された銅造五重塔を私費で購入し、熊野神社に寄進する
と云う。これがこの銅造五重塔である。
※この五重塔は古裂会オークションの出品目録の以下
の目録に該当するものであろう。
「法量は172×172×500cm。
木造塔を模した鋳造五重塔。相輪から基壇までに5mに及ぶ。相輪を双龍で加飾し、垂木先にも龍頭を刻出するなど、龍の塔のごとくである。
初層四方は十二支獣、二層麒麟、三層鳳凰、四層、五層・・加飾する。
三井本家の江戸屋敷内(文京区第三中学)の庭園に建てられていたと伝わり、三井本家から住友家の別子銅山に発注し、明治期に三井本家を離れたという伝承を持つ。
同趣の塔には、五代将軍綱吉が法隆寺へ寄進し、現在は東京国立博物館に収蔵される宝永6年(1709)の年紀をもつ銅製五重塔がある。相輪部の双龍をはじめ細部も酷似しており、僅かな寸法の違い(国博の総高は5.7m)を除けば同代の同工房作とみてよいだろう。
口伝の別子銅山に言及すれば、その開発は元禄3年(1690)であり、後出の層塔二例を加えて掲出の作期を窺う傍証になろう。銅製層塔としては、元禄4年(1691)伊勢朝熊山金剛証寺の銅製三重塔、明和2年(1765)宮城県津山町の銅製五重塔(県文)があげられる。」
◎銅造五重塔目録写真
※三井家が別子銅山に発注したのは元禄年中初期(1688〜)とも云われる。また三井家を流出してからの行方は不明であったと云う。
★徳川綱吉寄進銅製五重塔(大和法隆寺旧蔵・東京国立博物館蔵):2010/09/19追加
宝永6年(1709)の年紀、徳川綱吉が法隆寺へ寄進したとの銘がある。高さ5.7m。
現在は東京国立博物館の庭園内に展示される。
最上部の相輪には龍が絡み付き、垂木、斗拱の細部まで造る。
基壇に「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」の銘がある。
なお寄進した元禄元年は綱吉が存命中のことであり、俗名のほかに院号が併記されているのは不自然ではあろう。
おそらくこれは、徳川綱吉が没した後に、奉納時の年号と施主の名前が追記されたことによるものであろうと思われる。
2012/06/06追加:
大和法隆寺旧蔵銅製五重塔
★陸奥大徳寺銅製五重塔
明和3年(1766)建立。塔の高さは3.5m、基壇を含めて5.3m。白魚山と号する。
屋根を別々に鋳造し組合わせる、塔身は中空
基座166.7cm四方、高さ(相輪上端まで)354.5cm 地上総高536.4cm。
★高尾山薬王院銅製五重塔:2010/09/19追加
文化8年(1811)奉納、15戦争の国家総動員法<金属供出>(昭和17年〜)で寺院から搬出し、今は存在しない。
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「Y」氏ご提供
武蔵高尾山絵図:左図拡大図
昭和戦前の絵図と思われるが、山門の左に「五重塔」が描かれる。
この五重塔が文化8年(1811)に奉納された銅製五重塔と推定される。 |
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「Y」氏ご提供
武蔵高尾山銅製五重塔:左図拡大図
明治40年〜大正6年の間の絵葉書と推定される。(「Y」氏見解)この銅製五重塔についての情報は多くのWebサイトにある。
要約すれば以下の様であろう。
八王子宿追分に「道標」がある。
この道標は平成15年に再興され、ここには以下の八王子教委の説明板があると云う。
【追分の道標について】
この道標は文化八年(1811)江戸の清八という職人(足袋屋)が、高野山に銅製五重塔を奉納した記念に、江戸から高尾山までの甲州道中の新宿、八王子追分、高尾山麓小名路の三ヶ所に立てた道標の一つです。
その後、昭和二十年八月二日の八王子空襲にで四つに折れ、一部は行方不明になってしまいました。基部は地元に置かれ、一部は郷土資料館の屋外に展示されていました。
このたび、地元要望を受け、この道標が復元され、当地に建設されました。二段目と四段目は当時のままのもので、それ以外は新しく石を補充して復元したものです。
平成15年5月 八王子市教育委員会
上記の3個の道標のうち、新宿と高尾山麓小名路の2箇所は既に無いと思われる。 |
○江戸の清八:
「眠い人の戯れ言垂れ流しブログ」に「ある韋駄天走りの肖像」の項があり、ここに江戸の清八の記事
(以下に要約)がある。
「江戸町奉行を勤めた根岸鎮衛が書いた随筆に、『耳嚢』と言う作品がある。・・・その中に、「鍛冶屋清八が事」と言う題の話がある。
鍛冶屋清八と言う人物、本業は鍛冶屋だか足袋屋だか定かではないが、紀州徳川家から2人扶持を貰っていた。
何故、2人扶持かと云えば、恐ろしいほどの健脚で、江戸から堺まで僅か3日で走破すると言う能力であったと云う。
・・・
清八は後に堺から江戸へ出て、高尾山信仰の信者となり、清八講の先達として、後に高尾山に宝篋印塔(引用者注:銅製五重塔)を建立する。この高尾山の宝篋印塔は、元々は後北条氏の3代氏康が元亀元年(1570)に寄贈したものであったが、享保2年(1717)に大嵐に遭い破壊されると云う。
清八はそれを寛政8年(1796)から浄財を募り、文化8年(1811)に再建する。これは青銅製の五重塔で、先代のものより若干小振りであった。
尤も、これは現在では残っていない。戦時中に金属供出に遭って、跡形もなく消えてしまうことになる。」
○戦時中の五重塔供出:
【八王子を元気に!】八王子の散策と魅力発見のブログに以下の記事がある。
高尾ビジターセンタには以下の展示があると云う。
◎銅製五重塔の金属供出
※この写真の傍らに大人の人物が写るが、それと比較すれば、塔の高さは15、6尺(4.5〜4.8m)、台座は7、8尺(2.1〜2.4m)の見当であろうか。
2012/07/20追加:絵葉書
武州高尾山五重塔 高尾山名勝五重塔
「高尾山写真帖」中村成文、文華堂、大正4年 より
高尾山銅製五重塔2
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(参考):2010/09/23追加:
★武蔵法長寺青銅製五重塔
青銅製五重塔は山門を入り本堂に至る石敷のほとりにあると思われる。大きさは良く分からないが6尺前後くらいか。
(上記以外の情報は皆無)
武蔵法長寺青銅製五重塔:写真は「O」氏ご提供、おそらく2009/04撮影と思われる。
同 五重塔2:上記と同一の写真
法長寺は青苔山と号する。曹洞宗。秩父第7番札所、本尊:十一面観世音菩薩。牛伏堂と称する。
牛伏堂はもと根古屋(牛伏)にあったが、江戸期の札所再編で、法長寺に移されると云う。
移建された観音堂は天明2年(1782)焼失し、以降本堂内に安置される。
本堂は平賀源内の原図により建立されたと云われ、10×9間の大堂と云う。
※青銅製五重塔についての情報は皆無であるが、見当違いであることは覚悟で、敢えて以下のように推測する。
(誤謬であれば、ご指摘を乞う。)
この銅製五重塔は高岡で作成された青銅製五重塔を寺院もしくは檀信徒などが近年に購入し、寺院に設置したものではないだろうか。
Webサイトには以下の画像がある。
これ等の五重塔は法長寺にある青銅製五重塔と同一のものではないが、極めて酷似していると(写真の比較ではあるが)思われる。
◇高岡伝統工芸五重塔:サイズ80号(8尺/2500mm)横幅最大約800mm、材質
青銅
○リサイクルショップ「iStation」に掲載
◇高岡青銅製五重塔:写真は80号
○高岡銅器展示館・カタログに掲載
このカタログによれば、以下のような各種大きさがある。
・五重の塔 15号 青銅色(92,400円)、28号、30号、40号、50号、60号、80号(2,946,300〜4,200,000円)、160号(中止)
(参考):2010/09/24追加:「O」氏よりの転送
★釧路竹老園庭園銅製五重塔
この青銅製五重塔の詳細は全く不詳ながら、写真で見る限り、上に掲載の越中高岡製青銅製五重塔のある号の一つと思われる。
おそらく、高岡製青銅五重塔はある程度の数が全国に流布しているものとも推測される。
釧路竹老園庭園銅製五重塔 法長寺&竹老園庭園塔対比
※上記画像はDaily
Oregraph: 2010-04-11 竹老園あたり(サイト:「薄氷堂
Smoking Room」) より転載
※なお上記画像はサイト:「薄氷堂 Smoking Room」に記載のもので、上記サイトから「O」氏へ転送、さらに「O]氏から拙サイトに転送されたものである。
(参考)2011/12/24撮影:
★鍛冶金大師堂青銅製五重塔
鋳造(成形)五重塔がある。三河岡崎随念寺参道の西側(少し離れた位置)にある。
サイト:日本すきま漫遊記の「鍛冶金大師堂」のページでは、鋳造五重塔のほか、鋳造多宝塔、重層堂(大師堂か)、宝塔と推定される未完金属加工物などがあると云うも、気づかず未見。
さらに、「どうやらこの大師堂は、鍛冶金という鍛冶屋さんの先代が、個人で建てたものらしい。」
「ちなみに中京地方では弘法大師の日に、辻堂や個人の家で接待をするという風習があり、一部ではいまも残っている。」「先代の存命中は、弘法さんの日には盛大に摂待などが行われた」と云う。
因みに、鍛冶屋はこの地で今も営業が続けられているようである。
五重塔2の写真左に写る三重塔は岡崎随念寺である。
鍛冶金大師鋳造五重塔1 鍛冶金大師鋳造五重塔2 鍛冶金大師鋳造五重塔3
なお、寿司屋「古都鮨」は鍛冶屋の近く(南)にある。ガラス越で画像は悪い。
古都鮨鋳造五重塔
(参考)2012/10/30撮影:
★攝津能勢妙見山青銅製五重塔
→攝津能勢妙見山
2010/09/19作成:2012/11/06更新:ホームページ、日本の塔婆
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