巻之7:下総中山・法華経寺五重塔

中山法華経寺

江戸名所図會に見る中山法華経寺

新訂 江戸名所図会(ちくま学芸文庫版)市古夏生・鈴木健一校訂  より
2011/01/12追加:◆江戸名所圖會妙法華経寺:下図拡大・拡張図

五重塔

2000/11/22:中山法華経寺様 ご提供画像

2003/03/27撮影:中山五重塔

中山法華経寺五重塔1
  :左図拡大図
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7

中山法華経寺五重塔:
重文。
元和8年(1622)本阿弥光室の願(両親−前田利家・壽福院−の菩提のため)により、前田利光(利常)の寄進により建立される。
一辺約4.9m、高さ約30m。
基本的に和様の意匠からなるが、5重のみは唐様(明治45年の半解体修理で変更されたという)を用いる。
昭和54年修理で全面に弁柄を塗る。
心柱は初重から建ち、初重内部には唐様の須弥壇と荘厳があり、釈迦如来・多宝如来坐像を安置するという。

2013/12/23追加:
「O」氏撮影画像(平成初期から平成10年代の間に撮影と推測)

中山法華経寺五重塔31
中山法華経寺五重塔32:左図拡大図
中山法華経寺五重塔33
中山法華経寺五重塔34
中山法華経寺五重塔35

2011/01/05撮影:中山五重塔

中山法華経寺五重塔11:左図拡大図
中山法華経寺五重塔12
中山法華経寺五重塔13
中山法華経寺五重塔14
中山法華経寺五重塔15
中山法華経寺五重塔16
中山法華経寺五重塔17
中山法華経寺五重塔18
中山法華経寺五重塔19
中山法華経寺五重塔20
中山法華経寺五重塔21
中山法華経寺五重塔22
中山法華経寺五重塔23
中山法華経寺五重塔24

2010/05/28追加:
「身延山五重塔の復元」文化財建造物保存技術協会、身延山久遠寺、2009.3 より
 中山五重塔立面図     中山五重塔断面図

その他塔婆参考

2003/03/27撮影:
 中山法華経寺銅製多宝塔1
   同            2:文化6年(1809)再建。銅製小型多宝塔。

 中山法華経寺銅製方形宝塔1
   同              2:昭和6年日蓮上人650年遠忌として建立。銅製方形 小形宝塔で題目を刻む。

 中山法華経寺聖教殿:昭和6年完工。日蓮上人真筆「 観心本尊抄」「立正安国論」(ともに国宝)など重文64点を含む什宝が格納される。
 2011/01/05撮影:聖教殿

中山法華経寺概要

法華経寺は門流(中山門流)をなし、日蓮宗本山の地位にある。

日蓮聖人の高弟である日常(冨木常忍)が邸宅を寺院(法華寺=現在の奥の院の地)とし、 同じく日蓮聖人に帰依した大田乗明の館を寺院とし本妙寺(=現在の寺院地)とする。
後に両寺は統合し、妙法華経寺が成立する。
今なお多数の日蓮聖人の真蹟・著述を所有していることでも著名である。

埴谷妙宣寺・真間弘法寺京頂妙寺堺妙国寺久遠成院日親上人京本法寺)・肥前小城光勝寺等が中山門流に属する。

2005/07/02:
○「千葉氏とその時代」、千葉氏フォーラム実行委員会、平成13年より:
法華経寺は千葉氏と深い関係にある。
1.富木常忍、太田乗明、曽谷教信、金原法橋らの日蓮上人の初期信者は千葉頼胤に仕える武士であった。
2.「三光瓔珞本尊」(京本満寺伝来・日蓮上人筆・建治2年・1276):この本尊は日蓮上人筆で、「亀若護也」との書き加えがあり、「亀若」とは若干8歳で千葉介を継いだ胤宗(千葉頼胤二男)とされ、弱年の当主を案じた富木常忍が身延の日蓮上人に授与を願ったものと推定される。
3.日蓮上人没後、富木常忍は出家し(日常)、八幡若宮の館を寺に改め法華寺とする。
4.太田乗明は同じく館を改め、本妙寺とする。中山は二寺一山制となる。
日常上人没後、中山2世は太田乗明子息日高上人が継ぐ。
5.文永11年(1274)、千葉頼胤は蒙古襲来のため九州出陣・陣没、長子宗胤は肥前(小城郡晴気城)に留まり、二子胤宗が下総千葉家を継ぐ。千葉氏は下総と肥前の2流に分かれる。
肥前千葉氏2代千葉胤貞(宗胤嫡男)は法華経寺のある八幡荘を所領している関係で、俗別当に就き、養子日祐を第3世とする。
胤貞は日祐に広大な所領(下総千田荘)を寄進する。日祐は50年に渡り、布教を続け、中山門流の基礎を築く。

2023/09/24追加:
初代は常修院日常(法花寺開山・富木常忍)、2世は帥阿闍梨日高(本妙寺開山・大田乗明の子)、3世は浄行院日祐(千葉胤貞猶子)と継承する。
下総香取郡多古地方への弘教、中山3世日祐などの事績に関しては
 →日蓮宗初期の寺々
 →多古妙光寺の成立と一円法華 を参照。

2023/08/21追加:
◇日常、日祐、千葉胤貞、高祐山東福寺
日常などの事蹟・事象については
 中村檀林>◆日常・日祐・千葉胤貞・芝徳成寺・日胤・高祐山東福寺・日貞 の項を参照

2024/05/31追加:
近世初頭(寛永7年身池対論から寛文の惣滅)の中山の動向については
 「禁制不受不施派の研究」 > 身池対論直後の両派を参照。
この頃、中山は不受不施を堅持するも、身延の容喙で院家・寺中は動揺する。しかし、末寺の大勢は中山に違背し、不受派を貫く。

 ≪文禄3年(1594)堺妙国寺日bは中山法華経寺住持を兼帯、以降中山住持は京頂妙寺・京本法寺・堺妙国寺の輪番制となる。≫
2023/08/21追加:
◇堺妙国寺日bについては
  →堺妙國寺日b略歴  →京頂妙寺 を参照
◇中山輪番については
  →中村檀林>◆中山法華経寺・中山日俒・日b の項を参照
 2024/05/31追加:「禁制不受不施派の研究」 > 身池対論直後の両派中にも言及する。

●寂静院日賢:不受不施を堅固する。
寛永7年(1630)「身池対論」、中山隠居寂静院日賢(飯高・松崎・中村三談林能化)は遠江横須賀へ追放となる。日賢は中山19世。
2019/09/19追加:
○「不受不施派殉教の歴史」相葉伸、大藏出版、昭和51年(1976) より
日賢ははじめ玉造檀林、飯高檀林の化主であったが、学徳に於いては池上日樹の上にあったように評価される。
 ※日賢は玉造檀林化主というより、中村檀林化主ということであろう。
しかしながら、その宗学は未だ天台学的影響にとどまることが多い。
追放の後、日賢は中山法華経寺から除歴される。
寛永21年8月24日寂。寿76。
 →遠江横須賀本源寺中村檀林

中山法華経寺現況

伽藍:中山法華経寺境内図:現状

現在、京都日蓮諸本山は零落するも、池上本門寺と同様、今なを隆盛である。

2011/01/05撮影:
 総 門:黒門     赤門1     赤門2     2003/03/27撮影:仁王門前題目碑
 ・中山祖師堂:重文。延宝6年(1678)再興上棟。桁行7間、梁間7間、比翼入母屋造。
  近年の修理で現在は比翼入母屋造に復元?される。以前は三層錣屋根入母屋造であった。
  建造時の形式は比翼入母屋形式とされるが、創建時から入母屋造であったという見解もある。
 祖師堂1     祖師堂2     祖師堂3
   2003/03/27撮影:中山法華経寺祖師堂1       同          2
 ・中山法華堂:室町後期の再建、重文。桁行5間、梁間4間。創建は富木常忍が若宮の館に建立したもので、後に中山に移される。
  元は祖師堂付近にあったが、祖師堂再建の時、現在地に移る。法華経寺本堂。四貫堂。
 法華堂1     法華堂2
 ・中山四足門:室町後期、重文。もとは鎌倉愛染堂にあったと伝える。唐様を用いる。
 明治になり現在地に移されるが、それまでは本院の玄関門であったと云う。
 四足門1     四足門2
 刹 堂       妙見堂       大荒行堂

◆成田山名所圖會(嘉永7年(1854)序、安政5年(1858)刊 中路定俊著、長谷川雪堤等画 )
  「巻2」に見る「正中山本妙法華経寺」
「子院24あり(浄光院、法宣院、本行院、安世院、智泉院、遠寿院、玄授院、久城院、陽雲院、福寿院、本光院、正善房、山本房、氏本房、蓮経房、本妙房、善心房、玉樹房、善蔵房、玄養房、延寿房、恵雲房、清水房、常経房等なり)」

 寺中智泉院     寺中池本寺     寺中陽雲院     寺中遠壽院1     寺中遠壽院2     寺中本光寺
 院家安世院1     院家安世院2     寺中高見寺     院家浄光院     寺中浄鏡寺     寺中清水寺
 寺中蓮行寺      院家法宣院
 奥之院:若宮館跡、法華寺の旧跡で、日常上人廟所、本堂などの堂宇を残す。      日常上人廟
   2003/03/27撮影:奥の院本堂      日常上人廟所
 以上のほか次の寺中がある。
 院家本行院(什師屋敷)、寺中日英寺、寺中妙円寺:黒門外にある。
2012/10/24追加:
○寺中の消息(移転):K.G氏調査作成「日蓮宗移転寺院一覧(Excel)」2012/10/20版 より
 明治25年、寺中久成坊移転、平沼山久成寺として神奈川県横浜市西区平沼1−20−26に現存、明治21年に開創した教会が、明治25年久成坊の寺号を移転し平沼山久成寺と改称。
 明治2年、寺中善進坊移転、開道山善進寺として愛知県名古屋市瑞穂区陽明町2−15に現存。

中山法華経寺末寺

2016/03/06追加:K.G氏情報
「日蓮宗寺院大鑑」昭和56年などの資料から判明している、現存する末寺(孫末寺なども含む)数は次の通りである。
身延山 915寺、京都六条本圀寺 559寺、京都四条妙顕寺 320寺、中山法華経寺 316寺、池上本門寺 273寺、小湊誕生寺 174寺
2024/02/12追加:「八日市場市史 下巻」
全容は天明6年(1786)「寺院本末帳(法華宗正中山法華経寺派下寺院牒)」によって知れる。

その一端を示す。

○下総飯塚光福寺(字小見門)
 末寺;
  飯塚妙福寺(字湊)
   末寺:
    飯塚妙経寺(消息不明)
    飯塚圓浄寺(消息不明)
  飯塚妙朝寺(字古屋)
  飯塚妙徳寺(廃寺・字紺屋)
  飯塚光明寺(廃寺・字古屋)
  飯塚仙光寺(廃寺・字御手洗)
  飯塚長徳寺(廃寺・字御手洗)
  飯塚妙見寺(廃寺・所在地不明)
  飯塚長慶寺(廃寺・所在地不明)
  椿村常福寺
下総大寺長福寺
○下総金原妙大寺 →下総金原・金原新田
○総安久山圓静寺 →下総安久山
下総飯高妙福寺
○下総飯高法華寺:ほぼ退転 →下総飯高
○下総小高妙長寺 →下総小高
○下総公崎法界寺 →下総公崎
○下総片子妙印寺 →下総片子
○下総大堀賢徳寺       →下総大堀村
 ○賢徳寺末:大堀村妙正寺 → 同 上
  賢徳寺末:飯高村法福寺
○下総吉田顯妙寺 →下総吉田
下総入山崎金蓮寺
下総内山妙典寺
下総内山妙光寺
 末寺;
  内山慶安寺
  内山観行寺
  内山東光寺
○法王山顕実寺(千葉県香取郡多古町東松崎) →下総松崎檀林(法王山顕実寺)、但し現在は平賀本土寺末である。
 顕実寺末:妙解山妙行寺(千葉県香取郡多古町坂) →下総常盤村>川島・方田・坂
 顕実寺末:宝成山妙高寺(千葉県香取郡多古町坂) →  同  上
 顕実寺末:延命山法光寺(千葉県香取郡多古町方田) →  同  上
 顕実寺末:川島山妙蔵寺(千葉県香取郡多古町川島) →  同  上
 蓮常寺(廃寺・川島字谷153番地に所在した):明治末に無住となり顕実寺に合併。  →  同  上
 常用山常顕寺(廃寺) →下総中村>北中
○下総玉造(常慶山)妙頂寺 →下総玉造
○下総玉造(妙法山)正岳寺 → 同 上
○下総中村北中浄妙寺  →中村北中浄妙寺
 ○浄妙寺末下総北中妙観寺     →下総中村>北中
 ○浄妙寺末下総北中宮妙浄寺(廃寺) → 同 上
 ○浄妙寺末下総北中仙静院(廃寺)  → 同 上  :六所大神別當で明治の神仏分離で廃寺
○下総中村南中妙興寺  →下総中村南中妙興寺
 末寺8。かって本寺として塔頭1、末寺13、支配下寺院27を有したという。
 末寺:
  ○下総吉田圓充寺:下総吉田
  下総山崎東興寺
  下総神崎常教寺
  下総八辺妙福寺
  ○下総飯高法華寺
  下総小積七面別當本住院:現在の圓實寺
  下総八日市場法花堂別當本覚院;現在の本立寺
  ○借当山妙蓮寺:妙興寺第四世日法によって改宗。(峰)妙興寺の末頭であり、また妙興寺鑰役(かぎやく)であった。
○下総中村竹林山妙光寺(唐竹) →竹林山妙光寺(唐竹)
 ○北中妙栄山佛光寺跡 →下総中村>北中
○下総中村巨栄山徳成寺 →下総中村>南中
○下総中村南和田和田山福現寺 →中村南和田・南借当・南並木
○下総多古高祐山東福寺 →中村檀林>◆日常、日祐、千葉胤貞、芝徳成寺、日胤、高祐山東福寺、日貞 の項を参照
○下総多古妙印山妙光寺 →妙印山妙光寺
○下総多古古昌山法福寺:昭和3年廃寺           →下総◆多古
 ○下総多古長栄山正圓寺(廃寺):古昌山法福寺の下寺 → 同 上
○下総多古立印山妙薬寺:中山日祐により改宗。大正初年廃寺 → 同 上
○下総多古高峯山真弘寺:(廃寺)中山法宣寺末とある(法宣院末?) → 同 上
○下総船越正円山妙立寺 →下総五反田・林・水戸・石成・千田・船越・牛尾
○下総原木山妙行寺 →原木山妙行寺
小田原千代蓮華寺 →小田原千代蓮華寺:法華経寺上席25等内に位し、小田原(相模)18ヶ寺の触頭、
  江戸初期には本寺(身延)に違背し、不受不施を堅持し当地方の不受派の中心となるという。
○小田原御塔妙福寺 →相模小田原の諸寺
○小田原御塔生福寺 → 同 上
○相模風祭妙覚寺   → 同 上
○加賀金澤卯辰南麓少玄寺 →金沢卯辰山麓(東山)の諸寺
○山城清水前大漸寺 →山城の日蓮宗諸寺中にあり。
○因幡鳥取常忍寺:日常(冨木常忍)の生誕地に建立された寺院 →因幡の諸寺
◇長崎市鳴滝七面山妙光寺 →下総島妙光寺が移転(島妙光寺は島正覚寺となる、島正覚寺の次項にあり>


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