★天明年間刊「拾遺都名所圖會」の加茂東明寺から
江戸末期の伽藍図
★略 歴
「燈明寺縁起」元禄9年(1696)などでは以下のように云うという。
天平年中、聖武天皇の勅願で行基の開創と伝える。
貞観5年(873)清和天皇勅願で、真言僧真暁(弘法大師弟子)が再興する。
建武の兵乱で廃絶。
康正年間(1455-1456)、天台僧賢昌房忍禅が復興し、本堂・三重塔を建立する。
江戸初期には再び荒廃する。
寛文3年(1663)頃(万治3年/1660)、本國寺日弁(日便)上人によって日蓮宗として再興され、本堂・三重塔が修理される。
※この再興は藤堂家の援助を受けるという。 ※喜見院日便:山城大住法華寺の開山である。また大和奈良油阪町蓮長寺<大和の諸寺中>の中興開山である。
寛文12年(1672)庫裡を改築する。
寛保3年(1743)日賢が三重塔を修理。
明治34年川合芳太郎(実業家・日蓮宗徒)が燈明寺を買収。燈明寺は困窮していたようである。
大正3年原富太郎(三渓)が保存の為三重塔を横浜三渓園に移転。
大正10年本堂国宝に指定さる。 昭和6年三渓園三重塔国宝に指定さる。
昭和23年台風により本堂大破・解体される。
昭和57年横浜三渓園に本堂部材を移動.。昭和62年(987)三渓園で再建される。 本尊は観音像5躯、千手観音・十一面観音・如意輪観音・馬頭観音・聖観音という。
2013/06/24追加:
寛永9年(1632)「山城国浄瑠璃寺書上写」:「春日大社文書 巻5 1072」所収
※本文書は浄瑠璃寺のものであるが、末寺として東明寺が記載される。
「西小田原山 興福寺之末寺一乗院持 寺数16軒許 本堂、真言堂、塔、護摩堂、鎮守(両社 清瀧吟現・弁才天河 八社)、撞蔵、念仏堂、柎門 其他下末寺 東明寺(付本堂 塔 鎮守)、西明寺(付本堂 鎮守)」薬師院及び金剛院の在判
鎌倉期の什宝:
嘉禄元年(1225)の奥書のある「大般若経」(御霊神社蔵)
本尊木造千手観音立像、木造十一面観音立像、木造聖観音立像(伝如意輪観音)、木造聖観音立像、木造馬頭観音立像
石造十三重塔、燈明寺型石灯篭(いずれも鎌倉末)などが伝わる。
室町時代の什宝:
三重塔(重文)、本堂(重文・桁行5間、梁裄6間、入母屋造、本瓦葺き)
いずれも忍禅の建立とされる。
忍禅は別院法興院(加茂常念寺に合併)に住し、紙本着色仏涅槃図(重文)など多くの什宝を施入。
御霊神社本殿(室町・重文)は燈明寺鎮守と云われ、現在も旧地に鎮座する。
2011/03/31追加
○「四百年前社寺建物取調書」明治15年社寺調査 より
燈明寺調査書 燈明寺見取図 燈明寺三層塔立面図 燈明寺本堂立面図
○明治37年の境内図:
この当時は、三重塔・本堂・鐘楼などが健在である。
★燈明寺境内三重塔
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□山城燈明寺三重塔:左図拡大図
(明治42年年頃の撮影):燈明寺境内地に建つ。 □三重塔正面図
2007/09/10追加:
○「笠置山及附近写真帖」田中市之助編、東京:東陽堂、明42年 より
山城燈明寺三重塔2:左図と同一写真と推定される。
(こちらの写真の方が若干鮮明である。) |
2015/03/15追加:
○「古建築追懐」八戸成蟲楼<ヤットイナゴロウ/天沼俊一のPN>(史迹と美術 84号」昭和12年 所収) より
海住山寺への帰り、加茂駅で列車待ち合わせの間に、燈明寺の三重塔の見学に行く。
その時(明治40年12月29日)の写真が次の写真である。
明治42年燈明寺三重塔:蔵書がコピー製本であること及び軒下にハレーションが来ていることなどで写真は不鮮明
方三間三重塔婆、各面中央両開桟唐戸、両側の間連子窓、組物三手先、軒二重繁垂木、初重内部床拭板張、天井折上小組格天井、内陣同断、中央に須弥壇あり、木部内部素木造、屋根本瓦葺 とのメモが残る。 ★燈明寺境内本堂
★燈明寺現状
〇印は2000/12/03撮影、◇は2002/03/09撮影
●燈明寺鐘楼跡 ◇燈明寺鐘楼跡(鐘楼跡石垣。この上方
の南側平坦地が三重塔跡) 2017/11/12撮影: 燈明寺鐘楼跡2 燈明寺鐘楼跡3
●燈明寺梵鐘 2017/11/12撮影:
燈明寺梵鐘:貞享5年(1688)4月日進と檀家が協力し鋳造した旨の銘があるという。
●燈明寺入口 2017/11/12撮影:
燈明寺入口:近世・近代の古図には山門は描かれないので、山門は早くから退転していたものと思われる。向かって右に石碑が写るがこの石碑の性格は未確認。その背後に右に入る通路が写るが、これは川合氏の新築された居宅入口と思われる。
●燈明寺庫裡
2017/11/12撮影:
燈明寺庫裡1 燈明寺庫裡2 燈明寺庫裡3 燈明寺庫裡4
●燈明寺収蔵庫 2017/11/12撮影:
燈明寺収蔵庫:本堂跡に建つ、仏像5躯を保存というから、本尊5躯を収蔵と思われる。 ●燈明寺型石灯篭
江戸中期のものと云う。もともとは鎌倉期のもので、三井家に売却され、その時に模作したものと云う。 〇燈明寺型石灯篭(背後は本堂跡に建立された収蔵庫・平成元年建立・鎌倉期の仏像5体を保存)
●燈明寺十三重石塔 2017/11/12撮影:
燈明寺十三重石塔:鎌倉末期。
●燈明寺日賢題目碑
2017/11/12撮影:
燈明寺日賢題目碑1:正面、日賢は第11代 燈明寺日賢題目碑2:側面、宝塔再興施主祈念
燈明寺日賢題目碑3:側面、本堂再興施主祈念 燈明寺日賢題目碑4:背面、年紀は寛延4辛未年(1751)を刻む。
◎横浜三渓園
2011/03/31追加:
○「三溪園に見る原富太郎(三溪)の思想・造園理念・意匠」小野 健吉(「造園雑誌 53(5)」 1990 所収) より
大正期の写真:入口付近から大池・三重塔・原家本宅を望む。
2012/09/28追加:
三渓園絵葉書三重塔1 三渓園絵葉書三重塔2 三渓園絵葉書三重塔3:何れも撮影時期不明
★横浜三渓園旧燈明寺三重塔
2022/12/25撮影:
天台宗の時代・康正3年(1457)建立、大正3年三渓園に移建、純和様の塔である。
★横浜三渓園旧燈明寺本堂
2022/12/25撮影: 燈明寺本堂11 燈明寺本堂12 燈明寺本堂13 燈明寺本堂14 燈明寺本堂15
燈明寺本堂16 燈明寺本堂17 燈明寺本堂18 燈明寺本堂19 燈明寺本堂20
燈明寺本堂21 燈明寺本堂22 燈明寺本堂23 燈明寺本堂24 燈明寺本堂25
燈明寺本堂26
2011/03/31追加:
○「旧燈明寺本堂:人工木材による古材保存の可能性」大野敏、春日井真記子(「建築雑誌 116(1471)」 2001 所収) より
燈明寺本堂は室町期建立と推定される密教(天台)5間堂建築である。
寛文年中日蓮宗に改宗の時、大改造される。
大正10年特別保護建造物に指定される。
昭和23年台風による破損もあり解体修理に着手。この時の様子は「屋根の形が大半なくなり、雨漏りで丸桁や組物も崩れ落ち、側廻りの壁や柱も倒壊箇所が見られ、外から内陣厨子が見通せるほどの惨状」と云う。この時再生可能木材はおよそ6割程度と見られる。
◆昭和23年燈明寺本堂惨状
しかし解体した時点で借地権などの問題で現地での組立が不可能となり、修復工事は中止される。
それ以来、解体材はトタン屋根の倉庫に格納され、30数年が経過し、材はさらに腐朽し、再生可能材はおよそ4割に劣化する。
昭和57年三渓園への移築が決定する。
これは三渓園には既に燈明寺三重塔が移築されていることと本堂所有者が横浜在住であったことによるという。
この本堂修復に当っての修理方針は材の腐朽が甚大であるため、極限に至るまで古材を修復・再利用することとなる。そのため、埋木・矧木を多用し、また合成樹脂を併用して形成・硬化するというものであった。
(実際の修復作業の様子は割愛する。)
昭和61年工事完了、総費用4億8000万円と云う。
★三渓園その他の建築
◆山城二条川東西方寺薬医門:市文 宝暦5年(1708)頃建立、大正初期に三渓園に移築される。
西方寺は文治5年(1189)の開創で、開基は法然によって得度した左大臣大炊御門経宗と伝える。経宗の死後、居所であった一条新町の館を西方寺とするという。
浄土宗、願海山と号する。藤原氏一門の大炊御門家、宇多天皇の一門である綾小路家、五辻家の菩提寺である。
その後、両替町竹屋町上る西方寺町に移転する。
さらに豊臣秀吉の命により寺町椹木町東に移転するも、宝永5年(1708)の宝永の大火で類焼し、現在地(二条川東の寺町)に移転する。
※薬医門は宝永の大火で二条川東に移転した時に建立された寺門と思われる。 2022/12/25撮影: 京都西方寺薬医門
◆巌出御殿(現・臨春閣):【重文】 慶安2年(1649年)に建立された紀州徳川家の別荘「巌出御殿」(現在の岩出市・紀ノ川沿い)と考えられるという。 その後、大阪市此花区春日出新田に移されていたが、明治39年原三溪が譲り受け、11年をかけて念入りに配置を吟味し、大正6年に移築が完了する。 移築の際には、屋根の形と3棟からなる建物の配置が変更されるも、内部は元の状態が残され、狩野派を中心とする障壁画と繊細・優美な数寄屋風書院造りの意匠を各所に見ることができるという。
古くから小山があり、そこには妙見堂が建てられていたが、慶安2年(1649)徳川頼宣が和歌浦に移した後、別邸を創建巌出御殿と名付けられて歴代藩主が参勤交代などで宿泊したという。
宝暦14年(1764)取り壊された後、大阪を経て、現在は三渓園臨春閣として移築されたのは上述の通りである。
小山は御殿山と称されていたが紀ノ川の水害を解消させるために昭和初期に山ごと切り崩されて紀ノ川の一部となるという。
※確認が取れないが、元あった妙見は養珠寺妙見堂は慶安2年頼宣が和歌浦に移した妙見と推測されるが如何であろうか。 →紀伊養珠寺・妙見堂
2022/12/25撮影: 紀伊巌出御殿1 紀伊巌出御殿2
◆紫野大徳寺寺中天瑞寺壽塔覆堂:【重文】
天正19年(1591)豊臣秀吉が母・大政所の病気平癒・長寿を祈願して建立した寿塔(石造)の覆屋である。
明治38年原三渓が三渓園の移築する。
天瑞寺は天正16年(1588)豊臣秀吉が大徳寺山内に創建する。天正19年には大政所(天瑞院)の寿塔が建立される。
明治7年天瑞寺は衰微し廃寺となる。 大正年中天瑞寺跡には、廃絶していた京十刹の一であった龍翔寺が再興され、専門道場として現在に至る。
寿塔覆屋は三渓園に移建されるが、寿塔は廃寺の時、大徳寺境外塔頭であった瑞光院に移され、その後、龍翔寺に戻され、現存という。
「京羽二重織留 巻之五」孤松子、元禄2年(1689) より ※「京羽二重織留」は序:孤松子、「京羽二重」の補遺 である。
天瑞寺墓:大徳寺天瑞寺にあり豊臣秀吉公の母君にして世に云へる大政所也此外豊臣一家の墓此寺にあり
※瑞光院は昭和37年紫野の地から山科に移転する。 2022/12/25撮影:
大徳寺寺中天瑞寺壽塔覆堂1 大徳寺寺中天瑞寺壽塔覆堂2 大徳寺寺中天瑞寺壽塔覆堂3
大徳寺寺中天瑞寺壽塔覆堂4 大徳寺寺中天瑞寺壽塔覆堂5 大徳寺寺中天瑞寺壽塔覆堂6
大徳寺寺中天瑞寺壽塔覆堂7
◆山城三室戸寺寺中金藏院客殿(現・月華殿):【重文】 この建物は宇治三室戸寺金蔵院の客殿で、大正7年三渓園へ移築される。
→播磨高蔵寺・山城三室戸寺三重塔中の三室戸寺を参照。 元々は徳川家康が再建した伏見城の大名伺侯の際の控え所であったという。伏見城取り壊しの際に宇治の茶匠上林家へ下賜し、それが金蔵院へ寄贈されたという由来があるが確証はないとも云う。
入母屋造、屋根檜皮葺。内部は海北友松筆とされる障壁画や菊の透かし彫りの欄間などがある。慶長8年(1603)の建造と云う。
付属していた茶室(現・春草廬:【重文】)とともに購入・移建される。 2022/12/25撮影: 三室戸寺寺中金蔵院客殿1 三室戸寺寺中金蔵院客殿2 三室戸寺寺中金蔵院客殿3
三室戸寺寺中金蔵院客殿4
◆鎌倉心平寺地蔵堂(現・天授院):【重文】 鎌倉の建長寺近くにあった心平寺の地蔵堂の建物と考えられているという。
修理の際に慶安4年(1651)墨書銘が確認される。全体的に唐様の建築で室町期の様式が見られる。
大正5年に三溪園に移築され、原家の持仏堂として用いられる。因みに天授院とは三溪の先代、原家初代・善三郎の法号でという。
鎌倉心平寺地蔵堂1 鎌倉心平寺地蔵堂2 鎌倉心平寺地蔵堂3
◆聴秋閣:【重文】 聴秋閣は「徳川家光の上洛に際し、元和9年(1623)に二条城内に建てられ、のちに家光乳母春日局に与えられた」と嫁ぎ先の稲葉家の江戸屋敷に伝えられてきた。大正11年に三溪園に移築される際に原三溪はその名を「聴秋閣」と改める。
2022/12/25撮影:
三渓園聴秋閣1 三渓園聴秋閣2
◆間門(まかど)天神 本牧間門の高梨氏が江戸期に同地の丘の中腹に祀るという。昭和51年に三渓園に移建される。
2022/12/25撮影: 間門(まかど)天神1 間門(まかど)天神2
◆鎌倉東慶寺仏殿 鎌倉・東慶寺にあった禅宗様の仏殿で、江戸初期の建立と推定される。
東慶寺は明治以降衰微し、維持困難となる。明治40年原三渓は三渓園に移築する。 仏殿は桁行三間、梁間三間、寄棟造、屋根茅葺、一重杮葺裳階付設。天樹院千姫によって寛永11年(1634)建立。
※現在工事中で覆屋に覆われ実見できず、写真は「三渓園のサイト」から転載。
鎌倉東慶寺仏殿1 鎌倉東慶寺仏殿2
★三渓園多宝小塔
○「三渓園 日本名建築写真選集13」田畑みなお撮影、新潮社、平成5年 より
三渓園多宝小塔:重文・宝徳2年(1450)
明治38年、原富太郎(原三渓)が入手とされるが、由来は不明と云う。
天井裏銘がある。銘によると、この塔は舎利容器を納める舎利塔として建立。宝徳2年(1450)製作。大工・絵師は奈良大乗院に関わる者、奉行は大和興福寺に関わる僧であったと記録される。
高さは約70cm?を測るという。
2012/08//20追加:
○「日本仏塔の研究 図版篇.」石田茂作、講談社、昭和45年 より
原家木造多宝小塔 原家木造多宝小塔墨書 2022/01/31追加: ○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より
三渓園多宝小塔、宝徳2年(1450)建立、全高:87cm、下重:3間で中央間が広い、上重:扇垂木、元は奈良に所在。
三渓園多宝小塔2
○サイト:三渓園 より
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木造多宝小塔:重文、室町前期、宝徳2年(1450)銘 建造物としての多宝塔を細部にわたるまで忠実に縮小して舎利安置塔として造作する。
下重観音開きの戸の内部に方形板を据えて基壇とし、その中央には舎利容器を留めた痕跡がある。
下重天井にはめ込まれた板には墨書銘があり、それによると南都住の大工により宝徳2年(1450)に造立されたこと、また安置の舎利容器は蓮台火焔水晶宝珠の容器であったことなどが記される。
大工・絵師は奈良の大乗院に関わるもの、奉行は興福寺に関わるものであったことが分かっている。
記録によると、この多宝塔は明治36年ころ、奈良法隆寺門前の古美術商である今村甚吉によって三溪のもとに届けられたと考えらる。
三渓園多宝小塔3:左図拡大図 |
2006年以前作成:2023/03/31更新:ホームページ、日本の塔婆
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