★三聖寺愛染堂小宝塔
◇2011/03/23追加:
愛染堂について、東福寺サイトでは以下の様に解説する。
愛染堂:重文、室町:開山堂の西、南正面にして立つ丹塗りの八角小円堂である。
もと万寿寺愛染堂と呼ばれていたが、昭和9年の室戸台風で倒壊、その後現在の地に移される。
唐様を主とする、単層、杮葺、桟唐戸。内部は瓦敷、鏡天井とし、須弥壇上に宝塔形の厨子を置き、愛染明王を祀る。
→愛染堂須彌壇上に小宝塔を安置、この宝塔内に愛染明王を安置する。
2018/12/15撮影: 三聖寺愛染堂11 三聖寺愛染堂12 三聖寺愛染堂13 三聖寺愛染堂14 三聖寺愛染堂15
三聖寺愛染堂16 三聖寺愛染堂17 三聖寺愛染堂18 三聖寺愛染堂19
三聖寺小宝塔11 三聖寺小宝塔12 三聖寺小宝塔13 三聖寺小宝塔14 三聖寺小宝塔15
三聖寺小宝塔16
◎宝塔安置愛染明王坐像:提供:ゆんフリー写真素材集
◇2006/01/22追加:
旧三聖寺愛染堂:「古寺巡礼京都 東福寺」大岡信・福島俊翁、淡交社、昭和52年 より
元は本町通り東に入った本堂西にあった。
★中世の三聖寺
中世三聖寺には六角三重塔があったと思われる。<三聖寺伽藍図>
◇「社寺境内図資料集成 2巻」より
三聖寺伽藍図:南北朝期:東福寺蔵:中世には六角(と思われる)三重塔が存在した。
2006/07/03追加:
◇「建築指図を読む」川上貢、中央公論美術出版、昭和63年 より
三聖寺伽藍古図:紙本着色、1.5×1.25m。<上記の三聖寺伽藍図>
伽藍は南より総門・山門・仏殿・法堂・前方丈が直線上に配置され、山門左右から廻廊が出て前方丈に取り付き、仏殿・法堂にも取り付く。
仏殿東は庫堂、西は僧堂、法堂西は衆寮、僧堂南に東司、庫堂東南に大蔵殿、東に行堂、行堂南に石塔、庫堂東北に耆旧寮を置く。
仏殿南西は瓦葺き六角三重塔、南東は鐘楼を置く。前方丈北に方丈・附属堂宇、方丈東の塀外に独立して愛染堂(八角円堂)を配する。
西は大和大路、仏殿西の位置の大和大路に二橋が架かる。
山門東南の谷筋には塔頭直指庵がある。
2011/04/02追加:
◇「三聖寺伽藍について」坂口貢(「日本建築學會研究報告 (11)」1951 所収) より
三聖寺の創建については史料が少なくはっきりしないが、弘長元年(1261)頃に覚空、弟子湛照により創建されたと考えられる。
文永4年(1267)頃、堂舎の造営は大体終っている状態と推測される。寺地は東福寺山内である。
元弘元年(1331)木板葺の三重塔婆を陶瓦に葺き替える。(「海蔵紀年録」)
明徳2年(1391)全山焦土に化す。ただちに再建に着手す。この伽藍は応仁文明の乱にも事なきを得て近世に伝えられるため、江戸期の地誌類から再興時の伽藍は推測できる。
即ち仏殿、仁王門、二天門、鐘楼、客殿、庫裏などが再興され、法堂、僧堂、衆寮、方丈、塔婆は再建に至らず。
その後、天正年中万寿寺が三聖寺中に移され、
文化5年(1808)経蔵大破し取除き、明治31年仏殿、仁王門(ママ)が老朽化のため取毀される。
「三聖寺古図」は明徳大火以前の状態を描いたものと推測される。
<詳細な考証と描かれた伽藍堂舎の様子が述べられるが、これは割愛する。
伽藍堂舎の様子は上述の「建築指図を読む」と同一であり、この坂口論文の方が先鞭であろう。
なお、六角三重塔が瓦葺であるので、元弘元年(1331)以降-明徳2年(1391)以前の状態の描画であろう。>
★近世およびそれ以降の三聖寺・万寿寺
◇「都林泉名勝図会. 巻之三」
三聖寺:(東福寺)北門の内にあり。古天台宗。釈迦阿難迦葉を仏殿に安ず、唐仏なり。両金剛は運慶の作。明徳年中足利義満公建立、宝覚禅師を開基とす
愛染明王:八角堂に安ず
◇「拾遺都名所図会」
・三聖寺:東福寺北門の内左にあり。第一門に金剛力士の像を安ず、長八尺許、運慶の作。此像霊験の事大友興廃記に載す、初めは筑紫にありしなり。此門の中央に石あり、元とは獅子の形なり、・・・
仏殿の額、修正。本尊、釈迦仏。左、迦葉阿難開山宝覚師像。
愛染堂:同所の西、街道の東側にあり。本尊は康慶の作なり。同所に五大尊を安置す。当寺は東福寺より初めの建立にして、天台宗なり
・万寿寺:三聖寺の内にあり、九重山と号す。初めは樋口通万里小路にあり、永亨六年回禄の後此地にうつす、五山の一員なり。
開祖覚空禅師
以下は万寿寺略歴:
永長元年(1096)白河上皇が皇女の菩提を弔うために,六条内裏に六条御堂を建立。
万寿寺通高倉にあり、正嘉年中(1257〜59)に覚空(十地坊)、弟子湛照(慈一坊)が,円爾(東福寺開山)に帰依して禅寺万寿寺となす。
弘長元年(1261)湛照(道号東山)が開山となる。
暦応3年(1340)十刹に列し,至徳3年(1386)京都五山の五位に列す。
永享6年(1434)火災に罹り,再建するも衰微する。
天正年間(1573〜92)東福寺塔頭三聖寺が開山(東山湛照)を同じくすることから,東福寺山内に移転。
明治6年万寿寺、三聖寺を併合(三聖寺は廃寺)。
大正11年、旧三聖寺客殿を利用して三聖医院が開設される。
三聖寺愛染堂(室町・重文)は東福寺本坊前に移され現存。
本尊阿弥陀坐像(仏殿安置・藤原・重文)、ニ天門安置の金剛力士ニ躯(二天門安置・藤原・重文)は京都国立博物館に寄託。
三聖寺鐘楼(室町・重文)、仁王門(桃山・重文)などが残存する。
2011/03/31追加
「四百年前社寺建物取調書」明治15年社寺調査 より
万寿寺見取図:明治15年には愛染堂は本堂西にある。
仁王門・東福寺北総門は現存、二天門は不明、鐘楼門は現存、本図では本堂東側に描かれるのが鐘楼門であろうか。
◇2005/12/14撮影
東福寺塔頭万寿寺現況:東福寺山内最北端・九条通りを挟み、九条通り北にある。
写真右の鐘楼門内が現在の万寿寺、右が現在の三聖病院。
三聖寺鐘楼門:重文、室町中期以前の建築とされる。
鐘楼門の中世遺構として貴重な建築。元は三聖寺本堂西にあったとされる。この附近は昭和初期まで周りは畑で、里芋などの中にぽつんと立っていたという。
(旧三聖寺仁王門)
三聖寺仁王門1 三聖寺仁王門2:重文、明徳2年(1391)建立。
(旧三聖寺仁王門)
2012/06/21撮影:
三聖寺仁王門3 三聖寺仁王門4(旧三聖寺仁王門)
九条通り南、本町通り東にある。本来この辺りが三聖寺の伽藍が建っていたところと云う。
愛染堂:重文、室町。丹塗、八角小円堂。昭和9年室戸台風で倒壊、現在地に移転再興。単層、杮葺。土間は瓦敷、本尊愛染明王。
2011/03/31撮影:
三聖寺鐘楼門2 三聖寺鐘楼門3 三聖寺鐘楼門4
三聖寺仁王門3 三聖寺仁王門4(旧三聖寺鐘楼門仁王門)
2013/07/11撮影:
三聖寺鐘楼門11 三聖寺鐘楼門12 三聖寺鐘楼門13 三聖寺鐘楼門14
三聖寺鐘楼門15 三聖寺鐘楼門16 三聖寺鐘楼門17
三聖寺仁王門11 三聖寺仁王門12 三聖寺仁王門13 三聖寺仁王門14 三聖寺仁王門15
三聖寺仁王門16 三聖寺仁王門17 三聖寺仁王門18
2016/03/20撮影:下にも掲載
京都東福寺俯瞰6:中央
に三聖寺仁王門が写る。 2018/12/17撮影:
三聖寺鐘楼門21 三聖寺鐘楼門22 三聖寺鐘楼門23 三聖寺鐘楼門24
◇2006/07/03追加:
「建築指図を読む」:天正年中(1572〜)万寿寺を三聖寺山内に移す。
万寿寺は「今三聖寺内にあり、元洛中にあり・・・」(「山城名勝志」)
文化5年(1808)経蔵大破、取壊し。
明治6年万寿寺と合併。明治31年仏殿取壊し。
大正4年荒廃した仁王門(現地に現存)、八角堂、鐘楼(現地に現存)、客殿が存在。
○紀伊郡条理坪割図(東福寺附近)
(福山敏男、法性寺の位置について):近世近代の境内の概要が分かる。
◇「深草 稲荷」深草稲荷保勝会、平成10年
万寿寺:江戸期には三聖寺と万寿寺が並立した。明治6年三聖寺は廃され、万寿寺が残る。
昭和10年市電東山線開通で、寺域は南北に分断される。
※この時、旧三聖寺鐘楼門と客殿(江戸中期)は移建されるという。
★東福寺伽藍
2013/04/06追加:
慧日山東福寺は法性寺寺地に九条道家が大伽藍の造営を発願したことに始まる。
造営は嘉禎2年(1236)に着手、建長7年(1255)まで続けられる。
途中、寛元元年(1243)聖一国師を開山とし、当初は天台・真言・禅の兼学の寺院とする。
しかし、元応元年(1319)、建武元年(1334)、延元元年(1336)と大部を火災焼失するも、藤原氏、幕府などの庇護で再建し、その過程で禅宗寺院の寺観を整えたものと推測される。
明治14年仏殿・法堂・方丈・庫裡を焼失、昭和9年本堂(仏殿兼法堂)落慶、明治23年方丈再建、明治43年庫裏を再建する。
2016/03/20撮影:
東福寺俯瞰:京都第一日赤から撮影:
京都東福寺俯瞰1:中央向かって右の大屋根は仏殿(本堂)・三門、左の宝形造・檜皮葺は開山堂。
京都東福寺俯瞰2:中央向かって左の大屋根は仏殿(本堂)・三門、右は同聚院などの塔頭寺院
京都東福寺俯瞰3:中央下は同聚院などの塔頭寺院
京都東福寺俯瞰4:同聚院などの塔頭寺院
京都東福寺俯瞰5:中央大屋根は仏殿(本堂)、その奥は三門、手前大屋根は方丈。
京都東福寺俯瞰6:中央は三聖寺仁王門
△印は2011/03/31撮影、無印は2013/03/14撮影、▽は2013/07/11撮影、◇は2018/12/14撮影、□は2018/12/15撮影:
禅宗の大伽藍を今なお有する。また現在善慧院(明暗寺の寺号を称する)など多くの著名なものを含む25ヶ院の塔頭を有する。
山門:応永32年(1425)・国宝
△東福寺三門1 △東福寺三門2 △東福寺三門3 △東福寺三門4 △東福寺三門5
東福寺三門11 東福寺三門12 東福寺三門13 東福寺三門14 東福寺三門15
東福寺三門16 東福寺三門17 東福寺三門18
▽東福寺三門21 ▽東福寺三門22
◇東福寺三門31 ◇東福寺三門32 ◇東福寺三門33 ◇東福寺三門34 ◇東福寺三門35 ◇東福寺三門36
本堂及び大涅槃図;本堂は明治14年焼失、昭和9年再建、大涅槃図:12×6m、室町期明兆の作、涅槃会において本堂にて開帳
東福寺本堂
東福寺大涅槃図1 東福寺大涅槃図2 東福寺大涅槃図3
◇東福寺本堂2 ◇東福寺本堂諸仏
禅堂:貞和3年(1347)・重文
△東福寺禅堂1 △東福寺禅堂2 △東福寺禅堂3
東福寺禅堂11 東福寺禅堂12 東福寺禅堂13
◇東福寺禅堂14 ◇東福寺禅堂15
東司:室町期・重文
△東福寺東司1 △東福寺東司2 東福寺東司11
◇東福寺東司12 ◇東福寺東司13
浴室:長禄3年(1459)・重文
△東福寺浴室1 △東福寺浴室2 東福寺浴室11 東福寺浴室12
経蔵:寛政5年(1793)建立
△東福寺経蔵
東福寺経蔵11 東福寺経蔵12 東福寺経蔵13
◇東福寺経蔵14 ◇東福寺経蔵15:輪蔵
開山堂(常楽庵開山堂):重文、臥雲橋、通天橋、偃月橋:何れも重文などを有する。
△東福寺開山堂
□東福寺開山堂2 □東福寺開山堂3 □東福寺開山堂庭園
△東福寺通天橋1 △東福寺通天橋2
東福寺殿鐘楼:室町後期、経蔵前に位置する。
東福寺大鐘楼:寛文11年(1672)建立、五社大明神北に位置する。
東福寺五社大明神:東福寺鎮守、石清水・賀茂・稲荷・春日・日吉の五社神を祀ると云う。
東福寺五社大明神11 東福寺五社大明神12 東福寺五社大明神13 東福寺五社大明神14
▽東福寺五社大明神21 ▽東福寺五社大明神22 ▽東福寺五社大明神23 ▽東福寺五社大明神24
月下門:重文、鎌倉期:写真なし □東福寺月下門
日下門:桃山期
2013/10/03撮影:東福寺日下門1 東福寺日下門2
六波羅門:重文、鎌倉期、北条氏六波羅政庁にあった門を移建したものと伝える。
▽東福寺六波羅門1 ▽東福寺六波羅門2 ▽東福寺六波羅門3 ▽東福寺六波羅門4 ▽東福寺六波羅門5
勅使門:桃山期
2013/10/03撮影:東福寺勅使門1 東福寺勅使門2
南門:桃山期
▽東福寺南門1 ▽東福寺南門2 ▽東福寺南門3 ▽東福寺南門4
中門:桃山期
▽東福寺中門1 ▽東福寺中門2 ▽東福寺中門3 ▽東福寺中門4
北門:桃山期
▽東福寺北門1 ▽東福寺北門2 ▽東福寺北門3 ▽東福寺北門4
→ 東福寺の前身である法性寺、光明峯寺、最勝金剛院などは「京洛平安期の塔婆/法性寺」を参照。
◆東福寺塔頭勝林寺(東福寺毘沙門堂)
○勝林寺は天文19年(1550)の創建と云う。海蔵院の鬼門に位置し、その鎮守とされ、やがて東福寺一山の鎮守となる。
大壇那は近衛家。現在の本堂は近衛家の大玄関を移築する。本尊毘沙門天立像は長く東福寺仏殿の天井裏に秘蔵されていたが、江戸期に当寺の本尊とされる。
勝林寺本堂
○東福寺勝林寺石塔(石製宝塔)
近衛家の寄進と云い、一切経を埋納すると云う。いつの時代に作成されたのかは不明であるが、おそらくは江戸期のものであろうか。
この石塔の特筆すべきことは、基壇・屋根・相輪は特別な形状ではないが、塔身はかなり特異な形状を持つと云うことである。
即ち塔身は、木造塔に見られるような上部を球面状に始末する円筒系ではなく、卵を縦に立て、その上下を切り取った(下部の切取りが上部より大きい)ような形状を呈する。その立面はあたかも下脹れの楕円形に見える。
さらに塔身の中央には方形の穴を彫り、それは裏まで貫通させるので、裏を見通すことができる。
東福寺勝林寺石塔1 東福寺勝林寺石塔2
※以前の写真では二重の基壇を含む石塔は、大きな乱石積(かなり大きな石を3段程度積んだ高さ)の土壇上に設置されていたもの
と思われるが、2012/05に作庭が行われ、土壇は一段程度の高さになった模様である。(どのような作庭なのかは不明)
○雪舟「天橋立図」の「宝塔」
ところで、この特異な形状に似た宝塔が、著名な絵画に描かれる。
その絵画とは雪舟「天橋立図」(国宝)であり、描かれた「宝塔」とは智恩寺「宝塔」である。
※おそらくこの図に描かれる「宝塔」は現存する明応9年建立銘のある「多宝塔」とは違う可能性が大きいものと思われる。
※また同じ図に描かれる「大谷寺薬師の塔」も類似性が高いと思われる。
→ 雪舟「天橋立図」、天橋立智恩寺「宝塔」、薦大明神別当大谷寺薬師の塔については
丹後天橋立・智恩寺・丹後成相寺・丹後国分寺跡・丹後「薬師の塔」中の雪舟「天橋立図」関係の記載を参照
さらに、
こういった形状の宝塔は余り類例を見ないが、現存する「宝塔」の類例を強いて上げれば、以下の石塔がある。
○上諏訪社御鉄塔:
上宮のご神体であった。寛永八年(1631)諏訪忠恒(高島藩主)が2度目の再興をしたとき、現状の石製多宝塔に改められたと伝える。明治の神仏分離で現在は諏訪温泉寺多宝塔内に安置される。塔身中央には貫通している思われる方形の穴が彫られる。
→ 信濃諏訪大明神神宮寺の上社及び温泉寺の項を参照
○京都妙覚寺華芳塔(石製宝塔);
笠と胴の間に一穴を穿ち、日蓮上人自筆の経を納めると伝える。(叡山に修行中の上人が法華経を写経、宝塔に納める。)
元亀2年(1571)信長の叡山焼き討ちで、他所に移され、その後、当寺に移されたと伝える。
※山本修理亮なるものが叡山で見つけ、妙覚寺に納めるとも云う。(寺伝)
なお、この宝塔は焼損を残し、形はかなり崩れていると云う。
日蓮上人存命中の製作なら、鎌倉期のものとなる。
→ 京都妙覚寺の華芳塔の項を参照
○近江園城寺別院世喜寺
未見に付き写真はないが、関寺牛塔もやや似た形状を持つ。鎌倉初期、高さ3.3m、重文。石造宝塔としては最古最大といわれる。
→ 近江三井寺
2013/01/26追加:「雍州府志」黒川道祐、享保3年(1686)
安国寺:
禅宗十刹、第4位也。今寺は絶ゆ。始め、万壽寺の傍らにあり。今東福寺の中、永安院、斯の寺のことに知たり。
※永安院も今廃寺と思われる。
2011/04/02作成:2019日/01/12更新:ホームページ、日本の塔婆
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