津軽岩木山:下図拡大図:平賀津軽為信三重塔跡附近から望む
◇◇ 津軽岩木山その2:弘前大円寺(最勝院)から望む岩木山
★陸奥弘前大円寺(最勝院)五重塔
2008/04/02撮影
弘前大円寺五重塔51 弘前大円寺五重塔52 弘前大円寺五重塔53 弘前大円寺五重塔54 弘前大円寺五重塔55
弘前大円寺五重塔56 弘前大円寺五重塔57 弘前大円寺五重塔58 弘前大円寺五重塔59 弘前大円寺五重塔60
弘前大円寺五重塔61 弘前大円寺五重塔62 弘前大円寺五重塔63 弘前大円寺五重塔64 弘前大円寺五重塔65
弘前大円寺五重塔66 弘前大円寺五重塔67 弘前大円寺五重塔68
弘前大円寺五重塔69:牛頭天王鳥居、最勝院仁王門、五重塔
2007/11/03追加:
「青森県写真帖」青森県編、大正4年 より
○大正初頭最勝院五重塔
2010/04/25追加:
○昭和21年最勝院五重塔、毎日新聞掲載
2012/06/10追加:「Y」氏ご提供画像
○大円寺五重塔雪景:絵葉書、大正7年〜昭和7年頃(「Y」氏推定)
2012/07/02追加:絵葉書
弘前大圓寺五重塔絵葉書1:寛文年中より250有余年とあるので、寛文8年(1668)から250有余年は1918(大正7年)前後に相当する。
従って、この頃の印刷であろう。
弘前大圓寺五重塔絵葉書2:特物保護建造物(国宝)とあるので、明治30年(古社寺保存法制定)以降、昭和20年以前の印刷であろう。
弘前大圓寺五重塔絵葉書3:同上
弘前大圓寺五重塔絵葉書4:同上
弘前大圓寺五重塔絵葉書5:同上
弘前大圓寺五重塔絵葉書6:年代は不明、しかしながら戦前のものであろう。
2017/01/11追加:
絵葉書:s_minaga蔵:通信欄の罫線が3分の1:明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのもの、かつ「きかは便郵」とあるので、明治33年(1900)〜昭和8年(1933)2月までのもの、即ち明治40年4月〜大正7年(1918)3月までのものであろう。
弘前大圓寺五重塔絵葉書7
2010/04/25追加:「建物修理アーカイブ」 より
修理履歴:昭和2年(1927)半解体修理、
宝永4年(1707)、元文2年(1737)、明和2年(1765)、享和2年(1802)、萬延元年(1860) 以上屋根葺替及び部分修理
平成4年〜平成7年解体修理(災害復旧):平成3年9月に台風19号の災害の復旧。
「当初より変形して納まっていた心柱は、鋸目等は入れず在来のまま相輪部で垂直にして足元を振った納まりとし、新たに支柱を現柱盤上の中央に納め心柱に添わせて立ててボルト締めとする。
また、屋根は各重軒先と五重を瓦棒銅板葺とし、初重〜四重軒内部分をとち葺形銅板葺で施工する。」
最勝院平成竣工立面図
最勝院平成竣工断面図
最勝院平成竣工各重平面図 最勝院平成竣工初重内部
●陸奥最勝院:
金剛山光明寺最勝院と号す。真言宗智山派。
天文元年(1532)弘信僧都によって、堀越城外萩野の地に創建された。
慶長16年(1611)弘前田町(弘前城鬼門・弘前八幡宮門前であるが、今は全くその痕跡を留めないと思われる)へ移転、
弘前八幡宮別当となり、寺領300石を授かる。12ヶ寺の塔頭を有する。
また津軽領内僧録(寺社総取締)、津軽真言宗五山の筆頭でもあった。
さらに城下の熊野権現、白山権現も支配したとされる。(「最勝院支配堂社帳」)
(「神社微細社司由緒調書上帳」(重文・領内1133社の明細)を保有)
12ヶ塔頭:吉祥院、竜蔵院、觀喜院、西善院、東覺院、正覺院、教王院、神徳院(以上各15石を受く)、大善院、徳恩寺、寶成院、普門院
※大善院(高賀山と号す)は最勝院と共に銅屋町に移ると云うも、現在その消息は不明か。
明治3年(4年、5年とも云う)神仏分離により田町より大円寺跡(現在地)へ移転する。
大円寺の本堂、五重塔、六角堂、五智堂、青面金剛堂、太子堂、文殊堂、薬師堂、仁王門、庫裏、裏門などをそのまま引継ぐと云う。
また塔頭の大部は最勝院に合併と云う。
・仁王門金剛力士像は岩木山百澤寺山門に安置像と伝えられる。
弘前大円寺仁王門
・現護摩堂は旧大圓寺本堂で、本尊は大円寺本尊牛頭天王(明和9年(1772)に奉納)と云われる。
・弘前大円寺牛頭天王
牛頭天王社は明治の神仏分離で八坂神社と改号する。
この時、大円寺別当増田精一が社人として奉仕すると云う。
明治4年社殿を造営、昭和21年社務所番人の失火により全焼、 昭和24年本殿、 拝殿を再建。
弘前牛頭天王社頭:牛頭天王鳥居2基、背景は最勝院仁王門・五重塔
弘前牛頭天王社殿
●弘前八幡宮:
慶長17年(1612)津軽信枚、吉田村(中津軽郡岩木町賀田)鎮守の八幡宮を現在地(弘前城下田町・弘前城鬼門)に遷座という。
最勝院も同地に移転し、別当となる。神職は小野家(若狭守)が世襲し30石を領する。
弘前八幡宮本殿・唐門(重文・慶長17年造立)
本殿:三間社流造・厚板葺型銅板葺・四方に縁を廻す。腰組は二手先を用いる。身舎は素木造、向拝組物は彩色する。蟇股や扉などの彫刻には桃山時代の作風が残されている。
唐門:前後に軒唐破風付設、入母屋造屋根柿葺、四脚門。全体に弁柄を塗り、組物などは彩色する。
陸奥弘前八幡宮社殿
同 唐門1 同 唐門2 同 唐門3 同 唐門4 同 唐門5 同 唐門6
同 本殿1 同 本殿2 同 本殿3 同 本殿4
★弘前「藤陣」五重塔模型
◎Web情報(http://blog.goo.ne.jp/tom33aa/m/200609)として以下がある。
「弘前に日本料理店「藤陣」がある。
玄関脇に大円寺(最勝院)五重塔模型、宴会場の床の間に「三重塔」模型、玄関正面に大円寺山門の模型がある。
さらに、以下の藤先寺住職の談があると云う。
「『平賀大光寺にあった時には三重塔があった。後に、この三重塔が大円寺に移され、その上に2層を加えて五重塔に改築された。(解体修理で、その形跡は確認された。)』」
(※地元<本町か大光寺なのかは不明>にも、類似の言い伝えがあると云う。)
※津軽為信三重塔跡を参照
★陸奥蔵館大円寺二層塔
大円寺は弘前銅屋町牛頭天王別当であったが、明治の神仏分離で牛頭天王から分離し、大鰐蔵館の末寺高伯寺に移転する。
●陸奥弘前大円寺:高野山真言宗。
文亀年中(1501-04)大円坊によって開基されたと伝えられる。創建の場所は種里村一ッ森(現西津軽郡鯵ヶ沢町)という。(「津軽一統志」)
慶長19年(1614)津軽信枚(2代藩主)が弘前城の外郭防衛の為、南溜池をつくり、この南の台地(弘前銅屋町)に移転する。
寛文8年(1668)五重塔落慶、塔は大円寺六世京海が津軽統一の戦乱での戦死者供養のため発願。
明治4年(あるいは明治5年)神仏分離により境内の牛頭天王の別当を離れ、末寺の高伯寺(当時無住・現大鰐町)に移転する。
大円寺には津軽真言宗五山の筆頭・弘前八幡宮別当最勝院が移転する。
●陸奥高伯寺:
寺伝では聖武天皇が阿闍羅山に建立した国分寺の後身大安国寺という。大安国寺は鎌倉期に神岡山に移転と伝える。
あるいは建久2年(1191)円智の開山とも伝えられる。
(大鰐町蔵舘字神岡の神岡山の寺地は今も礎石を残すという。)
慶安2年(1650)3代津軽信義が本尊大日如来を修復し、現在地(大鰐町蔵館村岡)に移転、慶海を別当とする。
延宝年中(1673-)出羽注蓮寺末となる。貞享4年(1687)の検地帳では高伯寺屋敷と三明院抱えの大日堂地が記載される。
本尊大日如来(実際は阿弥陀如来という、平安末〜鎌倉期)は重文。
明治4年(明治5年)弘前大円寺が末寺高伯寺の地に移転する。(高伯寺は大円寺となる。)
●蔵館大円寺二層塔
大円寺には近年の珍妙な二層塔がある。
建築年代および詳細不詳。RC製で粗略な建築。この二層堂には「大日如来」の扁額を掲げる。(本尊は重文・大日如来坐像)
陸奥大円寺二層塔:「X」氏ご提供画像
陸奥蔵館大円寺二層塔1
陸奥蔵館大円寺二層塔2
陸奥蔵館大円寺二層塔3
同 下重内部:本尊は大日如来(実際は阿弥陀如来と云う・重文)
同 楼門
弘前「藤陣」に蔵館大円寺の山門(楼門)模型がある。
弘前「藤陣」楼門模型1 同 2
2007/11/03追加:2008/04/16追加更新:
★附:若干の弘前の寺社(法立寺舎利塔、本行寺護国堂、長勝寺、誓願寺、弘前東照大権現、弘前熊野権現)
◆宝幢山法立寺仏舎利塔
→ 陸奥の日蓮宗諸寺中
◆妙法山本行寺護国堂
→ 陸奥の日蓮宗諸寺中
◆長 勝 寺:
太平山と号する。曹洞宗。
享禄元年(1528)大浦盛信、父光信の追善のために菊仙梵寿を開山に招き、現西津軽郡鯵ヶ沢町に創建する。
その後、津軽為信が大浦(現中津軽郡岩木町)に移転する。
慶長15年(1610)2代信枚、現在地に移す。同時に領内の曹洞宗寺院32ヶ寺(計33寺)も同地に集め、この一帯を長勝寺構えとする。
寛永6年(1629)為信御影堂、三門を建立、為信御影堂、三門、本堂(慶長年中)、庫裏(慶長年中)、津軽家霊屋、銅鐘等が重文指定。
◇長勝寺津軽家霊屋:
環月臺、碧巌臺、明鏡臺、白雲臺、凌雲臺の5棟が現存し、初代為信御影堂より南へほぼ等間隔で直線上に5棟並ぶ。
長勝寺津軽家霊屋:南東より撮影
※◎印は「O」氏1999/08/19撮影:
環月臺:初代為信室霊屋、寛永5年(1628)建立、寛文12年(1672)再建。 ◎長勝寺環月臺
環月臺11 環月臺12 環月臺13
碧巌臺:2代信枚霊屋、寛永8年(1631)建立。 ◎長勝寺碧巌臺1 ◎長勝寺碧巌臺2
碧巌臺11 碧巌臺12 碧巌臺13 碧巌臺14 碧巌臺15
明鏡臺:2代信枚室霊屋、寛永15年(1638)建立。◎長勝寺明鏡臺1 ◎長勝寺明鏡臺2
明鏡臺11 明鏡臺12 明鏡臺13 明鏡臺14 明鏡臺15 明鏡臺16
白雲臺:3代信義霊屋、明暦2年(1656)建立。 ◎長勝寺白雲臺1 ◎長勝寺白雲臺2
白雲臺11 白雲臺12 白雲臺13 白雲臺14 白雲臺15 白雲臺16
凌雲臺:6代信著霊屋、宝暦3年(1753)建立。 ◎長勝寺凌雲臺
凌雲臺11 凌雲臺12 凌雲臺13 凌雲臺14
5棟とも正面1間・側面2間・背面3間、入母屋造・妻入、素木造、屋根杮葺。
内部は板床、天井は鏡天井、周囲の壁には板卒塔婆を巡らし、中央に石造無縫塔を安置すると云う。
◇長勝寺蒼龍窟:
実態が不明ですが、概ね以下の概要と思われる。
・この堂に岩木山三所大権現(百沢寺)本地仏(天正8年)を祀る、脇侍は安寿姫と厨子王丸と云う。
・明治8年神仏分離により、厨子及び五百羅漢とともに(百沢寺から?)移されて、禅堂として使用された。
・花御堂(桃山期・実態不明ですが正面厨子か)を安置?
※◎印は「O」氏1999/08/19撮影:
◎長勝寺蒼龍窟 ◎長勝寺蒼龍窟内部:安置仏は不明、正面が岩木山三所大権現本地?
◇長勝寺三門(重文、寛永6年1629建立・その後数回改造、重層門)
弘前長勝寺三門1 同 2 同 3
◇長勝寺本堂(重文、慶長15年1610造営、11間×8間・入母屋造)
弘前長勝寺本堂:修理がほぼ終るようです。解体かどうかは不明、屋根葺替・壁塗直)
◇長勝寺庫裏(重文、文亀2年1502建立の大浦城台所を移築と伝える、屋根切妻・茅葺)
弘前長勝寺庫裏
◆長勝寺蘭庭院栄螺堂:
三匝堂・栄螺堂のページに掲載
◆誓 願 寺 山 門:
重文、江戸中期の建立とされる。
誓願寺は津軽為信によって旧大光寺村に建立される。弘前城築城の時に現地(弘前市新町)に移転すると伝える。浄土宗。
数次の火災で多くの建物を焼失するも、山門は現在に伝わる。
※◎印は「O」氏1999/08/19撮影:
◎陸奥誓願寺山門1 ◎ 同 2
◎ 同 3
◎ 同 4
◎ 同 5
※貴惣門の遺構は、武蔵妻沼聖天、美作豊楽寺仁王門に残る。戦前には摂津四天王寺東大門(元和4年建立)があったが、戦災で焼失する。
◆弘前東照大権現
元和3年(1617)津軽信枚は正室満天姫(まて姫・徳川家康養女)の願いにより、天海を通じ東照大権現の勧請を幕府に願い出、弘前城内に勧請する。
寛永元年(1624)城内より現在地に遷座。天台宗薬王院を別当に任じ、社僧6院(千寿院・成就院・寿福院・教王院・延命院・観行院)と
神職2家を配する。寺領は200石・社僧神職は各々15石を給付す。
薬王院は初め東照院と称するも、やがて岩鬼山叡平寺薬王院と改号する。また社僧は6院から12院に増加する。
明治3年東照大権現は薬王院から分離、東照宮と称し、薬王院は廃寺。
明治10年薬王院再興。
弘前東照権現別当薬王院
本殿(重文・寛永5年(1628)造立):
桁行3間・梁間3間、妻入入母屋造、屋根柿葺、素木造。四周に縁を廻し、軒唐破風付きの1間の向拝を付設。
鬼板や妻飾の蟇股には葵紋を彫ると云う(未見)。
※2007年本殿を除く境内地・建物が多額の債務の担保であり、競売にかけられたという報道がある。
弘前東照権現本殿1 同 本殿2 同 本殿3 同 本殿4 同 本殿5
◆最勝院支配弘前八幡宮
上に既出
◆弘前熊野奥照神社
扇野庄熊野権現は奥尾崎(小泊付近)に創設され、延歴7年(788)扇野庄(現弘前市付近)に遷座すると伝える。
現在の本殿は慶長18年(1613)津軽信枚が再建する。・・本殿棟札による。
本殿(重文・慶長18年〉 :
三間社流造、素木造とし、屋根柿葺。柱はすべて角柱、向拝柱には出三斗、身舎の組物は舟肘木。
弘前熊野権現本殿1 同 2 同 3
2006年以前作成:2017/01/11更新:ホームページ、日本の塔婆
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