出 羽 慈 恩 寺

出羽慈恩寺

出羽慈恩寺三重塔

文政13年(1830)建立。一辺5.12m(16.9尺)、高さ26.7m(8丈8尺)。
和様を基調とする。
塔は慶長13年最上義光により建立。
文政6年(1823)焼失、文政13年塔再興(現存)。
本尊金剛界大日如来。

「X」氏ご提供画像:
 出羽慈恩寺三重塔1:左図拡大図
   同        2
2007/04/05撮影:
出羽慈恩寺三重塔1
  同        2
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  同       10

出羽慈恩寺塔雛形

慈恩寺には、三重塔雛型が二基(慶長雛型及び文政雛型)存在する。

◇出羽慈恩寺三重塔慶長雛形:
 出羽慈恩寺慶長雛形1     同         2 :「X」氏ご提供画像
  ※仁王門(裏)に収めてあるもので、相当破損し、初重および二重のみが残ると思われる。
  この雛形が慶長創建塔雛形と推定される。

◇出羽慈恩寺三重塔文政雛形:
 出羽慈恩寺文政雛形1  出羽慈恩寺文政雛形2
  ※文政期(現塔婆)の雛形で、三重塔内に収めてられていると云う。こちらはほぼ完存する。
  雛形は文政7年作成、建地割図は文政8年、三重塔完成は文政11年(1828)<棟札>とされる。
 2007/04/18画像入換:
  文政三重塔建地割図(慈恩寺蔵) :文政8年の年紀がある。
 2007/04/18追加:
  出羽慈恩寺文政雛形3  出羽慈恩寺文政雛形4: 二重の貫に「文政7年甲申3月吉日」の墨書がある。

本山慈恩寺:(葉山別当)
  ※参考資料:「山形県史 資料編14 慈恩寺史料」山形県、昭和49年 などによる

葉山の別当であった。
 (中世まで、葉山が月山・羽黒山とともに出羽三山として認識され、湯殿山は総奥の院の認識であった。)
神亀元年(724)行基の開山、天平18年(746)婆羅門僧正の創建と伝える。(縁起による)八幡神を鎮守とする。
平安期にはこの地(寒河江荘)は摂関家(藤原氏)の荘園であり、摂関家との関係が深いと伝える。
天仁元年(1108)藤原(奥州)基衡が再興、仁平3年(1153)興福寺願西上人が再び再興。
保元元年(1156)高野山弘俊阿闍梨が入山し、教義は真言密教化し、修験も盛んになる。
 ※しかし、以上の古代の事蹟を史実とするには問題が多いと云う。
その後、中世には地頭大江広元の保護を受ける。<文治5年(1189)大江広元が寒河江莊地頭に補任>
室町初頭、時宗一向派宝徳寺※が寺領内に創建され、文明年中(1469-)には天童仏向寺17世の道場として山内に松蔵寺※が創建される。
永正元年(1504)大江氏(寒河江氏)と最上氏との戦乱で伽藍を焼失。大江氏の没落後は最上氏が大檀那に替わる。
慶長13年最上義光再興の三重塔落成、元和4年最上家親・義俊により本堂再興、寛永12年山門が再興・・。
慶長16年最上義光寺領2889石と記録、最上氏改易後、寛文5年(1665)2812石余の朱印を得る。
元和9年(1623)別当坊幸喜、比叡山南光坊直末を請願、南光院天海が許可、天台宗となる。寛永19年以降、別当坊は最上院と改称。
近世の一山組織は宝蔵院(高野山龍光院末)及び華蔵院(御室仁和寺末)が真言学頭として、最上院(東叡山寛永寺末)が天台別当として一山衆徒を支配する。宝蔵院は清僧7院坊・帯妻修験4坊、華蔵院は清僧6院坊・帯妻修験5坊、最上院は7院坊および寺司・宝前・与力・右京・常陸などの寺役人を支配 する。
文政6年(1823)三重塔焼失、同13年再建(大工棟梁布川文五郎)。

明治3年天台方最上院が配下29坊とともに、復飾神勤願を神祇官に願い出る。
最上院配下の寺司・宝前・右京などは復飾を拒否し、真言方華蔵院に転属する。
真言方宝蔵院・華蔵院の清僧は仏法護持を唱え、一山の対応は分裂する。
しかし、神仏分離の画策も一段落した明治8年頃、復飾した天台方も旧に復することとなる。但し各坊のうち復飾帰農した坊も多かったと云う。
また末寺の八鍬鹿嶋院などは神社(鹿嶋神社)に転じ、慈恩寺との関係を絶ったような事例もあったとも云う。

近年、山内を統合、現在の一山の構成は以下と云う。この一山で慈恩宗本山と称する。
3院<最上院(天台宗別当)、華厳院(真言方学頭)、宝蔵院(真言方学頭)>とこれに属する17坊(盛時は48坊)で一山衆徒とする。
17坊:梅本坊、川口坊、證誠坊、頼蔵坊、善蔵坊、宝林坊、桜澤坊、善竹坊、禅林坊、普門坊、宝前坊、寺司坊、林泉坊、宮本坊、明覚坊、萱濃坊、松蔵坊 (坊の実態は不明で あるが、恐らく半農の修験の坊に近い存在と思われる。)

慈恩寺伽藍

慈恩寺本堂:参道正面にある。弥勒堂・重文・元和四年(1618)山形城主最上氏によって再建、桁行7間梁間5間単層入母屋造茅葺
  慈恩寺本堂1  慈恩寺本堂2  慈恩寺本堂3  慈恩寺本堂4

 慈恩寺仁王門:舞楽奉納の楽屋を兼ねる。元文元年(1736)棟札。
 慈恩寺薬師堂:本堂東にある、元禄6年(1693)建立。
 慈恩寺阿弥陀堂:本堂東にある、元禄6年(1693)建立。
 慈恩寺天台智者大師堂:本堂西にある、延享3年(1746)建立 。
 慈恩寺釈迦堂:本堂西にある、元禄6年(1693)建立。
 慈恩寺鐘楼:天和3年(1683)建立?。
 慈恩寺熊野権現:延宝 9年(1681)建立。

本堂左手山上に至る石畳の両側に弘法大師堂跡、経堂跡、天神跡、行者堂跡、婆羅門堂跡、白山堂、新山堂跡、大黒堂跡などを残す。
  慈恩寺経堂跡  慈恩寺天神跡

 なお以下のように、平安−鎌倉期の多くの仏像を伝える。
本尊:弥勒菩薩、不動明王(右奥)降三世明王(左奥)釈迦如来(右前)地蔵菩薩(左前)を脇侍とする。いずれも重文。
騎象普賢菩薩及び十羅刹女像(重文)、騎獅文珠菩薩及び脇侍像(重文)、薬師三尊および十二神将(薬師堂本尊・重文)
阿弥陀如来坐像(阿弥陀堂本尊・重文・藤原)

※享保6年(1721)一山組織(天台別当1院・真言学頭2院・42坊・6役人)
  現 状:「坊名ピンク色」は坊存続、「」印は復飾帰農?し現在も存続と思われる、「−」印は現在不明(おそらく廃絶)

 天台真言両宗慈恩寺 高 2812石3斗余
    内   当山蔵方 779石余(御祈祷供料堂塔修理料)
        一山配分 2032石余・・・配分は以下の通り

別 当 享保6年衆徒 現 状 配当高 備考

学 頭

享保6年衆徒 現 状 配当高 備考
天台方最上院

<687石余>

圓養坊 8石  妻帯修験 真言方宝蔵院

<109石余>

真言方宝蔵院

重蔵院 14石余 清僧
禅林坊 禅林坊 52石余 蓮蔵院 13石余
観乗坊 8石余 禅定院 89石余
善竹坊 善竹坊 42石余 光重院 10石余
東林坊 7石余 煙香坊 16石余
金輪坊 15石余 梅林坊 11石余
藤本坊 30石余 源乗坊 14石
東光坊 14石余 證城(誠)坊 證城(誠)坊 37石余 妻帯修験
南泉坊 5石余 竹内坊 91石余
延命坊 12石余 川口坊 川口 坊 6石余
玉蔵坊 24石余 密蔵坊 26石余
杉本坊 12石余 真言方華蔵院

<219石余>

真言方華蔵院1
真言方華蔵院2

 

 

 

 

 

宝城坊 27石 清僧
萱濃坊 16石余 玄定院 28石
大乗坊 2石余 正寿院 9石余
金蔵坊 0.9石 松本坊 34石余
砂作坊 21石 定林坊 30石余
普門坊 普門坊 8石余 東漸院 67石余
松蔵坊 松蔵坊 16石余 桜澤坊 桜澤 坊 25石余 妻帯修験
林泉坊 松蔵坊 0.8石 善蔵坊 善蔵 坊 9石余
橋本坊 4石余 宝林坊宝林 坊 52石余
寺司 寺司坊 25石余 役人 頼蔵坊 頼蔵 坊 8石余
宝前 宝前坊 6石余 梅本坊 梅本 坊 15石余
月蔵 16石

現在、明覚坊宮本坊 も衆徒として一山組織を為す。
但し、享保6年の上記一山組織には明覚坊宮本坊は記録がない。

与力 9石余
右京 6石余
常睦 4石余

  小坂地蔵堂:坊舎に関係ある堂と推測
  慈恩寺坊舎:坊舎名は失念
  真言方学頭宝蔵院         真言方学頭華蔵院1          真言方学頭華蔵院2          禅林坊
    (2010/03/10:寳蔵院と華蔵院の写真が逆のため入替、華蔵院檀信徒様ご指摘)

※近世山内には以下の一向宗(時宗天童仏向寺派)があった。
 宝徳寺:山内に現存、浄土宗、近世には時宗天童仏向寺末・最上院支配。6石。山号時用山。
   慈恩寺山内宝徳寺
 松蔵寺:明治初年廃寺、時宗天童仏向寺16世法阿の開山、最上院支配。18石。天保14年境内1050坪、当時無住。

本山慈恩寺:(葉山別当)

慈恩寺は葉山の別当であったと伝える。
 (中世まで、葉山が月山・羽黒山とともに出羽三山として認識され、湯殿山は総奥の院の認識であったと云う。)
葉山は、大宝2年(702)行玄(役行者弟子)によって開山、慈覚大師が中興したと云う。
要するに、葉山は古くからの「山・霊地」で、修験の道場であった。
近世には葉山中腹に大円院があり、宝暦10年(1760)には川口坊、鳥居崎坊、萱野坊、聖坊、橋本坊、善蔵坊、掛作坊、円乗坊、林泉坊、桜沢坊、田沢坊、大乗坊(掛作坊以下6院は無住)の12坊があったという。
なお、これらの坊は葉山から慈恩寺に移住し、中には移ってからも大円院の配下の坊や慈恩・大円の両山に坊を置いたものもあったと云う。
以上のように、近世初期には葉山修験は一定の勢力を保つも、近世後期には急速に勢力を減ずる。
明治維新から昭和20年頃までは、本堂や坊舎跡・堂宇跡が存在したと云うが、戦後、山は米軍の演習場の着弾地となり、登山禁止の処置が取られる。そのため、昭和29年本堂は修理が困難となり、本堂を解体し、昭和30年麓の岩野に移転・縮小して再建されたと云う。
 


2006年以前作成:2010/03/10更新:ホームページ日本の塔婆