●出羽慈恩寺三重塔
●出羽慈恩寺塔雛形
慈恩寺には、三重塔雛型が二基(慶長雛型及び文政雛型)存在する。
◇出羽慈恩寺三重塔慶長雛形:
出羽慈恩寺慶長雛形1 同 2 :「X」氏ご提供画像
※仁王門(裏)に収めてあるもので、相当破損し、初重および二重のみが残ると思われる。
この雛形が慶長創建塔雛形と推定される。
◇出羽慈恩寺三重塔文政雛形:
出羽慈恩寺文政雛形1 出羽慈恩寺文政雛形2
※文政期(現塔婆)の雛形で、三重塔内に収めてられていると云う。こちらはほぼ完存する。
雛形は文政7年作成、建地割図は文政8年、三重塔完成は文政11年(1828)<棟札>とされる。
2007/04/18画像入換:
文政三重塔建地割図(慈恩寺蔵)
:文政8年の年紀がある。
2007/04/18追加:
出羽慈恩寺文政雛形3 出羽慈恩寺文政雛形4:
二重の貫に「文政7年甲申3月吉日」の墨書がある。
★本山慈恩寺:(葉山別当)
※参考資料:「山形県史 資料編14 慈恩寺史料」山形県、昭和49年 などによる
葉山の別当であった。
(中世まで、葉山が月山・羽黒山とともに出羽三山として認識され、湯殿山は総奥の院の認識であった。)
神亀元年(724)行基の開山、天平18年(746)婆羅門僧正の創建と伝える。(縁起による)八幡神を鎮守とする。
平安期にはこの地(寒河江荘)は摂関家(藤原氏)の荘園であり、摂関家との関係が深いと伝える。
天仁元年(1108)藤原(奥州)基衡が再興、仁平3年(1153)興福寺願西上人が再び再興。
保元元年(1156)高野山弘俊阿闍梨が入山し、教義は真言密教化し、修験も盛んになる。
※しかし、以上の古代の事蹟を史実とするには問題が多いと云う。
その後、中世には地頭大江広元の保護を受ける。<文治5年(1189)大江広元が寒河江莊地頭に補任>
室町初頭、時宗一向派宝徳寺※が寺領内に創建され、文明年中(1469-)には天童仏向寺17世の道場として山内に松蔵寺※が創建される。
永正元年(1504)大江氏(寒河江氏)と最上氏との戦乱で伽藍を焼失。大江氏の没落後は最上氏が大檀那に替わる。
慶長13年最上義光再興の三重塔落成、元和4年最上家親・義俊により本堂再興、寛永12年山門が再興・・。
慶長16年最上義光寺領2889石と記録、最上氏改易後、寛文5年(1665)2812石余の朱印を得る。
元和9年(1623)別当坊幸喜、比叡山南光坊直末を請願、南光院天海が許可、天台宗となる。寛永19年以降、別当坊は最上院と改称。
近世の一山組織は宝蔵院(高野山龍光院末)及び華蔵院(御室仁和寺末)が真言学頭として、最上院(東叡山寛永寺末)が天台別当として一山衆徒を支配する。宝蔵院は清僧7院坊・帯妻修験4坊、華蔵院は清僧6院坊・帯妻修験5坊、最上院は7院坊および寺司・宝前・与力・右京・常陸などの寺役人を支配
する。
文政6年(1823)三重塔焼失、同13年再建(大工棟梁布川文五郎)。
明治3年天台方最上院が配下29坊とともに、復飾神勤願を神祇官に願い出る。
最上院配下の寺司・宝前・右京などは復飾を拒否し、真言方華蔵院に転属する。
真言方宝蔵院・華蔵院の清僧は仏法護持を唱え、一山の対応は分裂する。
しかし、神仏分離の画策も一段落した明治8年頃、復飾した天台方も旧に復することとなる。但し各坊のうち復飾帰農した坊も多かったと云う。
また末寺の八鍬鹿嶋院などは神社(鹿嶋神社)に転じ、慈恩寺との関係を絶ったような事例もあったとも云う。
近年、山内を統合、現在の一山の構成は以下と云う。この一山で慈恩宗本山と称する。
3院<最上院(天台宗別当)、華厳院(真言方学頭)、宝蔵院(真言方学頭)>とこれに属する17坊(盛時は48坊)で一山衆徒とする。
17坊:梅本坊、川口坊、證誠坊、頼蔵坊、善蔵坊、宝林坊、桜澤坊、善竹坊、禅林坊、普門坊、宝前坊、寺司坊、林泉坊、宮本坊、明覚坊、萱濃坊、松蔵坊 (坊の実態は不明で
あるが、恐らく半農の修験の坊に近い存在と思われる。)
○慈恩寺伽藍
慈恩寺本堂:参道正面にある。弥勒堂・重文・元和四年(1618)山形城主最上氏によって再建、桁行7間梁間5間単層入母屋造茅葺
慈恩寺本堂1 慈恩寺本堂2 慈恩寺本堂3 慈恩寺本堂4
慈恩寺仁王門:舞楽奉納の楽屋を兼ねる。元文元年(1736)棟札。
慈恩寺薬師堂:本堂東にある、元禄6年(1693)建立。
慈恩寺阿弥陀堂:本堂東にある、元禄6年(1693)建立。
慈恩寺天台智者大師堂:本堂西にある、延享3年(1746)建立
。
慈恩寺釈迦堂:本堂西にある、元禄6年(1693)建立。
慈恩寺鐘楼:天和3年(1683)建立?。
慈恩寺熊野権現:延宝
9年(1681)建立。
本堂左手山上に至る石畳の両側に弘法大師堂跡、経堂跡、天神跡、行者堂跡、婆羅門堂跡、白山堂、新山堂跡、大黒堂跡などを残す。
慈恩寺経堂跡 慈恩寺天神跡
なお以下のように、平安−鎌倉期の多くの仏像を伝える。
本尊:弥勒菩薩、不動明王(右奥)降三世明王(左奥)釈迦如来(右前)地蔵菩薩(左前)を脇侍とする。いずれも重文。
騎象普賢菩薩及び十羅刹女像(重文)、騎獅文珠菩薩及び脇侍像(重文)、薬師三尊および十二神将(薬師堂本尊・重文)
阿弥陀如来坐像(阿弥陀堂本尊・重文・藤原)
※享保6年(1721)一山組織(天台別当1院・真言学頭2院・42坊・6役人)
現 状:「坊名ピンク色」は坊存続、「○」印は復飾帰農?し現在も存続と思われる、「−」印は現在不明(おそらく廃絶)
天台真言両宗慈恩寺 高 2812石3斗余
内 当山蔵方 779石余(御祈祷供料堂塔修理料)
一山配分 2032石余・・・配分は以下の通り
別 当 |
享保6年衆徒 |
現 状 |
配当高 |
備考 |
学 頭 |
享保6年衆徒 |
現 状 |
配当高 |
備考 |
天台方最上院 <687石余> |
圓養坊 |
○ |
8石 |
妻帯修験 |
真言方宝蔵院
<109石余>
◆真言方宝蔵院 |
重蔵院 |
− |
14石余 |
清僧 |
◆禅林坊 |
禅林坊 |
52石余 |
々 |
蓮蔵院 |
− |
13石余 |
々 |
観乗坊 |
○ |
8石余 |
々 |
禅定院 |
− |
89石余 |
々 |
善竹坊 |
善竹坊 |
42石余 |
々 |
光重院 |
− |
10石余 |
々 |
東林坊 |
○ |
7石余 |
々 |
煙香坊 |
− |
16石余 |
々 |
金輪坊 |
○ |
15石余 |
々 |
梅林坊 |
− |
11石余 |
々 |
藤本坊 |
○ |
30石余 |
々 |
源乗坊 |
− |
14石 |
々 |
東光坊 |
○ |
14石余 |
々 |
證城(誠)坊 |
證城(誠)坊 |
37石余 |
妻帯修験 |
南泉坊 |
○ |
5石余 |
々 |
竹内坊 |
○ |
91石余 |
々 |
延命坊 |
○ |
12石余 |
々 |
川口坊 |
川口
坊 |
6石余 |
々 |
玉蔵坊 |
○ |
24石余 |
々 |
密蔵坊 |
○ |
26石余 |
々 |
杉本坊 |
○ |
12石余 |
々 |
真言方華蔵院
<219石余>
◆真言方華蔵院1
◆真言方華蔵院2
|
宝城坊 |
− |
27石 |
清僧 |
萱濃坊 |
○ |
16石余 |
々 |
玄定院 |
− |
28石 |
々 |
大乗坊 |
○ |
2石余 |
々 |
正寿院 |
− |
9石余 |
々 |
金蔵坊 |
− |
0.9石 |
々 |
松本坊 |
− |
34石余 |
々 |
砂作坊 |
○ |
21石 |
々 |
定林坊 |
− |
30石余 |
々 |
普門坊 |
普門坊 |
8石余 |
々 |
東漸院 |
− |
67石余 |
々 |
松蔵坊 |
松蔵坊 |
16石余 |
々 |
桜澤坊 |
桜澤
坊 |
25石余 |
妻帯修験 |
林泉坊 |
松蔵坊 |
0.8石 |
々 |
善蔵坊 |
善蔵
坊 |
9石余 |
々 |
橋本坊 |
− |
4石余 |
々 |
宝林坊 | 宝林
坊 |
52石余 |
々 |
寺司 |
寺司坊 |
25石余 |
役人 |
頼蔵坊 |
頼蔵
坊 |
8石余 |
々 |
宝前 |
宝前坊 |
6石余 |
々 |
梅本坊 |
梅本
坊 |
15石余 |
々 |
月蔵 |
− |
16石 |
々 |
現在、明覚坊、宮本坊 も衆徒として一山組織を為す。
但し、享保6年の上記一山組織には明覚坊、宮本坊は記録がない。 |
与力 |
○ |
9石余 |
々 |
右京 |
− |
6石余 |
々 |
常睦 |
○ |
4石余 |
々 |
小坂地蔵堂:坊舎に関係ある堂と推測
慈恩寺坊舎:坊舎名は失念
◆真言方学頭宝蔵院
◆真言方学頭華蔵院1
◆真言方学頭華蔵院2
◆禅林坊
(2010/03/10:寳蔵院と華蔵院の写真が逆のため入替、華蔵院檀信徒様ご指摘)
※近世山内には以下の一向宗(時宗天童仏向寺派)があった。
宝徳寺:山内に現存、浄土宗、近世には時宗天童仏向寺末・最上院支配。6石。山号時用山。
慈恩寺山内宝徳寺
松蔵寺:明治初年廃寺、時宗天童仏向寺16世法阿の開山、最上院支配。18石。天保14年境内1050坪、当時無住。
★本山慈恩寺:(葉山別当)
慈恩寺は葉山の別当であったと伝える。
(中世まで、葉山が月山・羽黒山とともに出羽三山として認識され、湯殿山は総奥の院の認識であったと云う。)
葉山は、大宝2年(702)行玄(役行者弟子)によって開山、慈覚大師が中興したと云う。
要するに、葉山は古くからの「山・霊地」で、修験の道場であった。
近世には葉山中腹に大円院があり、宝暦10年(1760)には川口坊、鳥居崎坊、萱野坊、聖坊、橋本坊、善蔵坊、掛作坊、円乗坊、林泉坊、桜沢坊、田沢坊、大乗坊(掛作坊以下6院は無住)の12坊があったという。
なお、これらの坊は葉山から慈恩寺に移住し、中には移ってからも大円院の配下の坊や慈恩・大円の両山に坊を置いたものもあったと云う。
以上のように、近世初期には葉山修験は一定の勢力を保つも、近世後期には急速に勢力を減ずる。
明治維新から昭和20年頃までは、本堂や坊舎跡・堂宇跡が存在したと云うが、戦後、山は米軍の演習場の着弾地となり、登山禁止の処置が取られる。そのため、昭和29年本堂は修理が困難となり、本堂を解体し、昭和30年麓の岩野に移転・縮小して再建されたと云う。
2006年以前作成:2010/03/10更新:ホームページ、日本の塔婆
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