山  陰  山  陽  諸  国  の  塔  跡

山陰・山陽諸国(因幡・伯耆・出雲・石見・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門)の塔跡

因幡岩井廃寺塔跡(史蹟)

2010/07/31撮影:心礎の置かれる岩井小学校は既に廃校、校舎も無く更地となる。
 因幡岩井廃寺心礎11      同        12      同        13      同        14      同        15
   同        16      同        17      同        18      同        19      同        20
○奈良時代前期の様式の方形柱座と2重式円孔をもつ心礎を残す。心礎は3.64m×2.36m×1mの凝灰岩で、一辺1.4mの方形柱座が造り出され、中央に径77.5cm深さ32,7cmの孔とその底に径20cm深さ14.2cmの孔を穿つ。
土地の伝承では宇治長者が建立した弥勒寺跡と云う。基壇や礎石は残存しない。
白鳳−平安初期の瓦を採取すると云う。心礎は岩井小学校校庭にあり。
なお美濃岩井の岩井山延算寺本尊木造薬師如来立像(重文・平安初期)は平安期当寺から遷座したと伝えられる。
 ※薬師如来は、最澄が因幡国岩井郡の温泉(岩井温泉)の楠から彫り上げた三体の薬師如来像の一つであると伝える。つまりこの薬師は因幡岩井廃寺(弥勒寺)の薬師如来像であったと云う。
○「因幡岩井温泉誌」森永清畔編、岩井温泉組合事務所、明治45年 より
 弥勒寺の礎石:
御湯神社の華表の右側田圃中にあり、長さ1丈2尺横8尺の大石にして中央に直径2尺餘の深き穴あり、
口碑の伝ふる所に依れば上古此附近に弥勒寺と伝へる一大伽藍在りて法灯頗る灼然たりしも、何時の頃か頽敗して此の礎石を残すのみと土俗今此の石を指して鬼の碗と云ふ・・・
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは3.3×2.3×1,12mで、径77×30cmの円穴とその中央に径23×13cmの舎利孔がある。円穴の外側に一辺130cmの方形の造出しがあるが、装飾であろう。心礎は小学校校庭にあり、金堂は小学校運動場付近にあったとされる。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「岩井廃寺跡発掘調査報告書」岩美町教育委員会、1986 より
 岩井廃寺心礎実測図:心礎のみ検出、東西3.64m南北2.36m厚さ1mの凝灰岩の巨石の上に一辺1.4m正方形の柱座が造り出されその中心に心柱を据えた径77.5cm深さ32.7cm円孔とさらにその底に径20cm深さ14.2cmの仏舎利納入孔がある。
2012/06/06追加:「Y」氏ご提供画像
絵葉書:
 弥勒寺廃寺塔址:心礎写真の絵葉書とは珍しいものであろう。
「文部省指定天然記念物(俗称鬼の椀)」とある。
「Y」氏解説では、絵葉書は岩井温泉復興絵葉書の1枚と云う。岩井温泉は昭和9年の大火で大半を焼失と云う。その大火からの復興記念の絵葉書であろう。
同一アングルの写真の手持ちはないが、やや近いアングルの写真が下の写真である。
 因幡岩井廃寺心礎21:左上に写る石燈籠が上記絵葉書に写る石燈籠であろうか。なお絵葉書に鳥居が写らない理由は不明。
絵葉書の心礎手前右にコウヤマキと思われる若木の植樹があるが、現在まで生育したとすれば、相当な巨木になっているはずであるが、ほかの手持ち写真にはコウヤマキは写らないので、この若木はいつしか失われたものと推定される。

因幡栃本廃寺塔跡(史蹟) :鳥取市国府町栃本

2010/07/31撮影:廃寺遺構は整備されるも、このような遺跡整備の可否については賛否両論があろう。
 因幡栃本廃寺東塔心礎1   因幡栃本廃寺東塔心礎2   因幡栃本廃寺東塔心礎3   因幡栃本廃寺東塔心礎4
 因幡栃本廃寺東塔心礎5   因幡栃本廃寺東塔心礎6   因幡栃本廃寺東塔心礎7
 因幡栃本廃寺南塔心礎1   因幡栃本廃寺南塔心礎2   因幡栃本廃寺南塔心礎3   因幡栃本廃寺南塔心礎4
 因幡栃本廃寺南塔心礎5   因幡栃本廃寺南塔心礎6   因幡栃本廃寺南塔心礎7
 因幡栃本廃寺金堂跡1      因幡栃本廃寺金堂跡2
なお付近(東北)の山中に雨滝がある。落差40m、下流に布引滝(落差20m)、小滝(名称不明)その他がある。
 因幡雨滝     因幡布引滝     因幡雨滝の小滝
○金堂の南と東に塔が位置する特異な伽藍配置を採る。
東塔心礎:1.1m×0.9m、径35cm、深さ19cmの孔とその底に径13cm、深さ8cmの孔を穿つ。 発掘により基壇は一辺8.4mと判明。
南塔心礎:1.7m×1.4m×80cm、径70cmの円形柱座を持ち、径49cm、深さ20cmの孔とその底に径15cm、深さ10cmの孔を穿つ。
この心礎は従来西塔と云われていたものである。基壇は一辺約10mとされる。
伽藍配置:金堂を中心として、塔は東と南に2基あり、講堂は金堂北にあるが、金堂と南塔の中軸線から西にずれる。
X」氏2003/10/11撮影:
 因幡栃本廃寺東塔心礎1     因幡栃本廃寺東塔心礎2
 因幡栃本廃寺南塔心礎1     因幡栃本廃寺南塔心礎2
○「国府町教育委員会・2000年3月現地説明資料」:
・伽藍配置:今回の調査により南塔・東塔・金堂・講堂が南北に配されていることが確認された。
南塔と金堂の基壇はほぼ中軸線を揃えている。講堂は西へ約11mずれた位置にある。(地形の制約か?)
東塔は金堂東に基壇南辺を揃える位置にある。
同時期のものとすると金堂の南と東に2塔を配した類例のない伽藍配置となる。
・南塔跡:従来の西塔遺構で、心礎は僅かに原位置を動く。基壇は削平され、心礎以外の礎石・基壇外装は全て失われている。
基壇掘込地業と数pの盛土は残存。基壇は約10m四方、高さは約1m以上で、地上式の心礎と推定。
・東塔跡:心礎は、ほぼ原位置を保つ。基壇盛土を確認。基壇は約8.4m四方、高さは、約60〜70pと推定。
・金堂跡:南塔北で新たに基壇を発見。(明治期まで土壇状の高まりがあったと伝える。)上面は削平され、原位置の礎石及び礎石の抜取跡は残存しないが、穴に落込まれた礎石や乱石積の基壇外装を確認。基壇外装は、約1m前後の大型自然石を並べ、その上にやや小型の石を2〜3段に積み重ねているものと思われる。規模は、東西約14.8m、南北約12.4mを測る。
現存基壇高は、南辺で約1.0m。基壇の周囲は、人頭大の自然石を敷き並べた幅約1.0mの犬走り状の石敷を設ける。
5間×4間の金堂が想定される。
・講堂跡:金堂跡の北西で新たに乱石積基壇を発見。基壇外装は、約50p前後の自然石を立て並べて構築、基壇高は南辺で約30pを測る。北側・西側の基壇外装は遺存状態が不良であったが、基壇は東西約16.0m、南北約13.6m。基壇周りは、人頭大の自然石を敷き並べた幅約1.2mの犬走り状の敷石を設ける。礎石は4箇を確認。5間×4間の建物に裳階が取り付く構造と想定。
・瓦は全く出土せず、堂塔は非瓦葺と推定される。創建・廃絶時期は不明であるが、出土遺物から白鳳〜平安前期と推定される。
この寺院の特異性は法美郡の中心地から外れた山間部の大草郷に立地する。つまり古代の銅生産に関わる豪族の建立の可能性が推測される。
2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
 栃本廃寺伽藍配置図
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「史跡栃本廃寺跡発掘調査報告書」鳥取市教育委員会、2008 より
 栃本廃寺伽藍平面図
栃本廃寺東塔心礎:径1.2×1.05m。柱孔は径39cm深さ19cmで、さらに径13cm深さ8cmの舎利孔を穿つ。
 栃本廃寺東塔平面図     栃本廃寺東塔トレンチ図     栃本廃寺東塔心礎図
栃本廃寺南塔心礎:径1.8×1.48mで、柱孔を幅13cm高さ2.5cmの柱座で飾る。柱孔径49cm深さ18cmで、さらに径15cm深さ10cmの舎利孔を穿つ。
 栃本廃寺南塔トレンチ図     栃本廃寺南塔復元概念図     栃本廃寺南塔心礎図
2013/09/05追加:
○「史跡栃本廃寺跡の発掘調査」津川ひとみ(佛教藝術Vol.265、2002)より
 栃本廃寺は山間部に位置する。ここには往古、東福寺と云う伽藍があったと伝承し、塔心礎2個のみが顕在する。
郷土史家川上貞夫は南塔・東塔の2個の心礎を結んだ中間の地に明治34年頃まで土壇が残り、礎石と思われる12、3個の石があったが、切り崩されされて水田にされたことを知る。また地籍図には四角の土壇様なものが記載されていて、地番が残ることも知る。
 平成9〜15年の計画で発掘調査が実施され、その結果以下の知見が得られる。
発掘調査び結果、金堂、講堂、南塔、東塔などが確認される。遺跡は字塔の垣、下塔の垣に所在する。
 栃本廃寺主要伽藍全景
金堂は乱石積基壇を伴い、基壇の遺存状況は比較的良好で、基壇は東西14.8m(天平尺50尺)、南北12,4m(32尺)を測る。基壇化粧は70×50cm内外の自然石や加工石を積み重ねたもので、南側の畔の石積はそのまま金堂基壇で約1m四方の石を立て並べたものであった。
金堂上面は削平され、礎石は落とし込まれ、根石や据付穴は確認が出来なかったが、落とし込まれた石などから、5間×4間の建物が想定される。即ち、8間等間の身舎に7尺の廂を付け、基壇端までに6尺を残す建物が想定される。なお瓦の出土は皆無である。
 金堂建物復元想定図
南塔はほぼ削平された後に盛土された状態であるが、基壇の掘り込み地業などから約10m四方と確認される。
心礎はやや傾いているも、心礎据付時の掘り方を確認、ほぼ原位置であることが確認される。
心礎大きさは1.8×1.48m高さ1.43mで、上面に径49cm深さ18cmの孔を穿ち、更に径15cm深さ10cmの舎利孔を穿つ。孔の周囲は巾13cm高さ2.5cmの円形柱座が見られる。基壇の高さは約1mと想定される。なお瓦の出土はここでも皆無である。
 栃本廃寺南塔心礎
東塔は基壇の上部30cmほどが削平された状態であり、礎石や外装はほぼ失われているが、残存する土壇から一辺は8.4mと計測される。
基壇盛土は版築ではなく、硬い層で築かれる。瓦は全く出土せず。
心礎の大きさは1.2×1.05m高さ93cmで、上面に径39cm深さ19cmの孔とさらに径13cm深さ8cmの孔を穿つ。柱座はない。
 栃本廃寺東塔心礎
講堂金堂基壇に北西で検出。基壇は15.8×13m高さ約30cmほどの規模で、基壇化粧は乱石積であり、周囲には石敷の犬走がある。
基壇上面で6個の礎石を確認、5×4間の四面廂建物が復元可能である。瓦は出土せず。
 講堂建物復元想定図
伽藍配置は金堂、南塔、東塔は北から東に3度振れた方位であるが、講堂は5度振れた方位にあり、さらに講堂は変則的な位置にある。
即ち、南と東に塔を配置し、講堂位置がやや変則である特異な配置であると云えるであろう。つまり金堂と両塔は極めて計画的に配置されたものと推定されるが、講堂は地形的な制約で変則に配置されたのであろう。あるいは講堂の建立時期はやや遅れるものなのかも知れない。
また、門あるいは寺域を区画する明確な遺構は現在明らかではなく、寺域は不明である。
 栃本廃寺伽藍配置図2
この山間部に立地したこの寺院は銅の生産に携わった揚力豪族の存在が指摘され、その豪族によるものと推定される。しかし一方では付近には古くから信仰の対象であった雨滝(上述)などが存在し、山寺のような修行の場として建立された可能性もある。

因幡源門寺廃寺:鳥取市国府町中河原

2010/07/31撮影:中河原に源門寺(ゲンモジ)の寺名が残る。部落の東部に寺屋敷と称する一画が残り、ここに一基の石造「三界万霊塔」(高さ2m、文政13年<1830>当寺10世瀧本院了宥代・・・銘)が残る。 平成16年、寺屋敷背後すぐ上(北西)に妙見堂(寺屋敷にあったと云う)及び石造五重塔が建立され、寺屋敷にあったと云う宝篋印塔などが移される。
現在、心礎はこの妙見堂前にある。おそらく妙見堂再建によって堂前に再び移されたものと思われる。現在のところ心礎・源門寺・妙見堂・寺屋敷(瀧本院か)などの関係については一切が不明であり、この心礎についての由来も全く不明である。心礎は枘孔が整 美に彫られ、少なくとも古代寺院の塔心礎であることは間違いないであろう。
 因幡源門寺廃寺心礎1      同      心礎2      同      心礎3      同      心礎4      同      心礎5
 寺屋敷三界万霊塔       中河原妙見堂         中河原石造五重塔      寺屋敷残存推定礎石
○「鳥取県埋蔵文化財センター」(「国府町誌」昭和62年に記載)及び「X」氏情報を総合すると概要は以下の通り。
廃寺は岩美郡国府町中河原にある。現状は道路北側に心礎(元位置から動いていると云う)のみを残す。また現地は土地狭隘で大伽藍は想定し難いとされる。また瓦の出土はないと云う。
心礎は1.7m×短径1.2m×60cmの自然石で、径47cm、深さ15cmの円孔を穿つ、さらに写真で明瞭に分かるように円孔周囲には径72cm幅13cmの円形柱座が浮き彫りされている。
石質は花崗岩と思われる。
 「X」氏2003/10/11撮影:因幡源門寺廃寺心礎1       同         2
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「源門寺廃寺跡」(「国府町誌」国府町、1987 所収) より
心礎は径1.7mの自然石に径37cmm深さ15cmの柱孔が穿たれ、径72cmの円形柱座が浮刻される。舎利孔はなし。
塔心礎のみ検出、詳細不明。


因幡鳥取城三階櫓石垣築込推定心礎

鳥取城二ノ丸の三階櫓の石垣に「お左近(おさご)の手水鉢」と称する「石」が築きこまれている。
この「お左近の手水鉢」はその形状から、心礎である可能性が極めて高いものと推測する。

慶長5年(1600)池田長吉が6万石鳥取に入府、鳥取城は近世城郭に改造される。
元和3年(1617)池田光政が因幡・伯耆32万5000石の大封で入府、鳥取城も拡張される。
三階櫓の石垣はこの光政の整備によって、元和7年(1621)整備・構築されたと考えられる。

「鳥府志」には「お左近の手水鉢」について、次のように記載する。
△オサゴノ手水鉢
 此櫓台西の角石に、丸く彫窪めたる穴あり。さながら手水鉢を築こみたるが如し。
此石垣普請の時、毎々崩れけるに、於さごの手水鉢を築こみければ、早速に成就せしとの俗説なり。
全く此婦の名よに名高きゆへ、好事の附会の説なる可し。
  �△オサゴノ手水鉢之圖:「鳥府志」

 ※「鳥府志」では、この手水鉢が「お左近」の築き込みであるということは俗説であり、好事家の付会と断ずる。
同じく、「鳥府志」には「お左近」について、次のように記載する。
 「民談記」に彼おさごと云るは、池田備中守殿の息、次兵衛殿、作州の森美作守殿の方より室家を迎被けるに附き参らせて来たりし上揩ネり。
其此、年は三十余歳に相見え申けるが、容色艶美にして、智恵才覚常ならず。追々主君の心に叶ひ、後には内外の執達まで此人よりせしとかや。
當城普請の時も、髪を大吹綰(おおふきわげ)に結ひ上げ、紅粉を粧ひ、美々しき小袖を着て、花色鈍子(どんす)の立付をはき、金鍔のかかりたる長脇差を横たえ、竹杖をつき、毎日見分に出。彼此と指図を成しければ、普請に出ける人夫等これに心を奪われ、其日の苦労の気を転じけると也。
次第に主君の寵遇いやましに相成。その後次兵衛殿の室家卒去せられけるに、於さごの給仕宜しからぬ風聞ありて、森家へ呼びかえされ失れけると云へり。
 ※「お左近」は城の普請には関与したものと描かれる。

享保5年(1720)享保の大火により、二ノ丸三階櫓が焼失し石垣が崩落する。
享保11年(1729)この石垣は復旧する。
鳥府志(19世紀代に成立)には石垣に手水鉢が組み込まれた絵があり、手水鉢は三階櫓の石垣に組み込まれていたのは確実であろう。
但し、創建時の元和7年(1621)に込み込まれていたのかどうかは不明である。

昭和18年(1943)鳥取大地震により再び三階櫓石垣は崩落する。
昭和38年(1963)お左近の手水鉢と思われる石材が石材整理の折に発見され、三階櫓石垣修理の際に元の位置に復元される。
復元は古写真に基づき、概ね同位置に復元されるといい、その際の工事記録には「手水鉢」としてしか記載がないという。

鳥取城三階櫓石垣築込推定心礎
「お左近(おさご)の手水鉢」と称する心礎と推定される「石」が鳥取城三階櫓の石垣に築込まれている。
この推定心礎について知られていることは上記のみと思われ、詳細は全く分からない。
さらに、悪いことに、推定心礎は石垣の高所に築込まれ、とうてい一般人が近ずくことはできない。
できることは望遠レンズで覗き、写真に撮ることだけである。
ドローンを飛ばし、撮影する手もあるが、現実的にすぐには難しい。
従って、推定心礎の法量は不明で、またその記録も寡聞にして知らない。
●2021/06/07撮影:
望遠レンズあるいは写真でみる限り、限りなく形状は心礎であると思われる。
法量や岩質は全く不明である。また、孔の底の状態が見えなく、孔の底に舎利孔があるかどうかも不明である。
下に掲載のように、岩井隆次氏の分類では「知識寺式心礎」(穴が二段である心礎)に分類されるべきものと思われる。
鳥取城石垣築込推定心礎11
鳥取城石垣築込推定心礎12:左図拡大図
鳥取城石垣築込推定心礎13
鳥取城石垣築込推定心礎14
鳥取城石垣築込推定心礎15
鳥取城石垣築込推定心礎16
鳥取城石垣築込推定心礎17
鳥取城石垣築込推定心礎18
鳥取城石垣築込推定心礎19
鳥取城石垣築込推定心礎20
鳥取城石垣築込推定心礎21
鳥取城石垣築込推定心礎22
鳥取城石垣築込推定心礎23
 鳥取城石垣築込推定心礎31     鳥取城石垣築込推定心礎32     鳥取城石垣築込推定心礎33
 鳥取城石垣築込推定心礎34     鳥取城石垣築込推定心礎35     鳥取城石垣築込推定心礎36
 鳥取城石垣築込推定心礎37     鳥取城石垣築込推定心礎38     鳥取城石垣築込推定心礎39
 鳥取城石垣築込推定心礎40     鳥取城石垣築込推定心礎41     鳥取城石垣築込推定心礎42
 鳥取城石垣築込推定心礎43

○「日本の木造塔跡」岩井隆次、昭和57年
に記載される「心礎の研究」の心礎の分類に従って分類すれば、
この推定心礎は「穴が二段になっている心礎」に分類されるべきものであろう。
 即ち
11、知識寺式という名称で括られる心礎であろう。
なを、知識寺式は次の5項に細分される。
 23、穴が二段になっている
  下総龍角寺尾張寺本廃寺(法海寺)、近江普光寺河内知識寺(太平寺廃寺東塔)、播磨河合廃寺
  大和地光寺東塔(本地光寺)、地光寺西塔(地光寺)、伊勢薬師寺伊勢一志廃寺)筑前神興廃寺
 24、穴が二段になっていて、二段の穴の中央に舎利孔のあるもの
  美濃弥勒寺近江宮井廃寺
 25、穴が二段になっていて、二段の穴の中央に舎利孔及び蓋受孔のあるもの
  近江法堂寺
 26、穴が二段になっていて、二段の穴の外側に柱座を造りだす。
  筑前三宅廃寺
 27、穴が二段になっていて、孔の底に舎利孔のあるもの
  近江百済寺(穴が二段とは思えない)、播磨辻井廃寺(穴が二段かどうかは良く分からない)、
  伝天華寺(伊勢天花寺廃寺/現状心礎場所不明・実見できず)、因幡栃本廃寺東塔、因幡栃本廃寺西塔、
  備中赤茂廃寺(英賀廃寺/実見出来ず不詳)
 の何れかであろう。
(26には該当しない。)

○「塔の中心礎石の研究」石田茂作(「考古學雑誌」昭和7年2・3月 所収) より
第3類礎石
第2類(表面に径2、3尺の刳込を作り、更にその中央に小穴を穿つ)礎石の中央の穴がさらに拡大されて、外輪の刳込が浅くなったというような格好である。
この心礎と心柱との連結は外輪の刳込に柱を入れたと云って良いが、中央穴の用途については、理解に苦しむ。
類例として、次が挙げられる。
 ◆大和山村廃寺(ドドコロ廃寺)、◆大和朝妻廃寺、大和地光寺<大和地光寺東塔(本地光寺)、地光寺西塔(地光寺)>、
 河内太平寺(河内知識寺<太平寺廃寺東塔)>、伊勢薬師寺尾張寺本廃寺近江普光寺
 ◆播磨西條廃寺、◆讃岐始覚寺

因幡菖蒲廃寺:鳥取市菖蒲

2010/07/31撮影:塔心礎及び推定礎石1個、石塔類の残欠などの雑多な遺物が田中の只中に 雑然と残るのみである。なお心礎にたまる水は「イボ水」さんと呼ばれ信仰の対象であったと云う。
 因幡菖蒲廃寺心礎1       同        2       同        3       同        4
    同        5       同        6       同        7       同        8
○塔心礎が現存し、出土瓦から7世紀末、8世紀初頭のものとされる。
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは差し渡し2.5mの丸い石で、径40×14cmの円孔を持つ。なお側柱礎と見られる礎石が1個残存する。
最近発掘調査が行われたが心礎の他に遺構は見つからなかったという。この廃寺は座光寺と称したと伝える。
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円穴式、大きさは240×179×40/50cm、径40.6×11.5cmの円孔がある。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「菖蒲廃寺発掘調査概報」鳥取県教育委員会、1968 より
心礎:長径2.58m短径1.8mで、径40cm深さ12cmの枘穴を持つ。
塔心礎のみ検出。心礎は原位置から移動する。基壇等は検出できず。
 菖蒲廃寺心礎実測図他

因幡土師百井廃寺塔跡(史蹟)(慈住寺) :八頭郡八頭町土師百井

2010/07/31撮影:土地の人は慈住寺跡と呼ぶ。昭和53・54年に発掘調査され、中門・金堂・講堂・廻廊跡が確認され法起寺式伽藍を採ると確認される。塔跡には礎石を完存する。四天柱礎が巨大であり、そのため同一レベルに心礎を置くスペースがなく、心礎は一段下げて置かれたものと推定される。 (そのため心礎の全容は見えない。)
 因幡土師百井廃寺塔跡1     同       塔跡2     同       塔跡3     同       塔跡4     同       塔跡5
    同        心礎1     同       心礎2     同       心礎3     同       心礎4
    同       脇柱礎      同    伽藍配置図
○「日本の木造塔跡」:心礎の他、四天柱礎、側柱礎も完存する。心礎の大きさは 1.6×1,5mで径70×10cmの円穴がある。その他の礎石も心礎に匹敵するほどの大きさがある。塔の土壇は一辺12m、塔一辺は6.7m。慈住寺と称したと伝える。
X」氏2003/10/11撮影:因幡土師百井廃寺1    同        2    同        3
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)
心礎は他の礎石群より約64cmほど低く据えられ、柱座は径68cm深さ約9.6cmの枘穴を持つ。
心礎より南へ8mのところで東西の瓦・石列を検出したため、基壇規模は16m四方と想定されたが、南側中央のため階段の可能性が考えられ、おそらく基壇は推定 14m四方であろう。
「土師百井廃寺塔阯」上田三平(「史蹟調査報告」第七輯、文部省、1935 所収) より
 塔跡礎石配置図
「土師百井廃寺跡発掘調査報告書T」郡家町教育委員会、1979 より
 塔跡礎石実測図

因幡寺内廃寺:気高郡鹿野町寺内

2010/08/01撮影:薬師堂南の路傍に心礎が現存する。周辺では布目瓦を採取と云う。 薬師堂前には礎石と思われる石が置かれ、薬師堂礎石にはおそらく転用と思われる礎石が使用される。集落の中に心礎のみが剥き出しで置かれ、その傍らに薬師堂一宇のみがぽつんと建つ情景である。
 因幡寺内廃寺心礎1       同        2       同        3       同        4
   同        5       同        6
   同     薬師堂       同  薬師堂礎石       同  薬師堂内部
○「日本の木造塔跡」:心礎は農家の庭にある。大きさは1.6×1.3×0.7mで、径53/54×25cmの円孔を穿つ。廃寺は宝照寺と号したと伝承する。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「寺内廃寺発掘調査概報T」関西大学考古学研究室、鹿野町教育委員会、1979 より
心礎:一辺約84cm高さ約60〜70pの四角形心礎の中央に径約56cm深さ約28cmの枘穴をもつ。
塔心礎のみ検出。心礎は原位置をとどめておらず基壇規模等不明。
 寺内廃寺心礎実測図

伯耆野方廃寺 :野方弥陀ヶ平廃寺跡:東伯郡湯梨浜町野方

 伯耆野方弥陀ヶ平廃寺:心礎は破壊され、現存しない。

伯耆大御堂廃寺:倉吉市駄経寺大御堂

駄経寺廃寺。
2010/08/01撮影:奈良期。昭和26年工場建設に伴い、発掘調査が行われ、心礎が発掘された。
心礎は長径2.3mで、径87cm、深さ15cmの孔を穿つ。塔跡以外は不明で、中心部は工場敷地となってい たが、現在では工場は撤退し、地表はただの更地が展開する景色となる。
かっては駄経寺町隈巡に土壇状の高まりがあり、径約80cmの円形柱座を造り出した1.2m大の四天柱礎が表れていたという。現在心礎と四天柱礎1個は上灘小学校に移転し、下田中・勝宿禰神社石垣、駄経寺町・新宮神社鳥居台石に礎石が転用されていると云う。 (いずれも未見)
 伯耆大御堂廃寺心礎1       同         2       同         3       同         4
   同         5        同         6       同   四天柱礎      伯耆大御堂廃寺跡
○「日本の木造塔跡」:心礎は小学校校庭にある。大きさは2.22×2.0mで、径85×14/10cmの円穴を持つ。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「倉吉市文化財調査報告書 第107集」倉吉市教育委員会、2001 より
心礎は2.3×2.04mで中央に径87cm深さ14cmの円孔あり。
青銅製品の破片出土。上部は削平により不明。心礎抜取穴あり。礎石は上灘小学校敷地に一部あり。「倉吉市誌」(倉吉市、1956)によると、心礎円孔内に炭化した柱の一部があったとある。
 大御堂廃寺塔遺構図

伯耆大原廃寺(史蹟):倉吉市大原

2010/08/01撮影:土壇上に塔心礎を残す。昭和9年畑の開墾中に心礎が発見される。
心礎は2.9×2.8mで中央に枘穴(径65cm、深さ11.5cm)を穿つ。塔土壇の一部が残る。
土壇脇上に1個の推定礎石が残存する。
昭和60年からの発掘調査で、塔・金堂・講堂跡が検出され、金堂背後に講堂、金堂東に塔が配置される変則的な法起寺式と判明する。
 伯耆大原廃寺心礎1       同        2       同        3       同        4
    同        5       同        6       同  推定塔礎石
    同   伽藍配置:図中の礎石建物は伽藍廃絶後の中世の遺構
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは2.64×2.7m、径67×15cmの円穴を彫る。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「倉吉市文化財調査報告書 第100集 史跡大原廃寺発掘調査報告書」倉吉市教育委員会、1999 より
心礎:長径2.9m短径2.8m厚さ30cmの安山岩で、直径65cm深さ12cmの円形枘穴を設ける
基壇上面は削平されているため建物規模不明。基壇北・東辺で2列の川原石列を検出。内側石列は一辺約9.8m外側石列は一辺約11mとなり、二重基壇となった可能性が考えられる。北辺中央では3列目の石列の一部を検出しており、階段がとりつく可能性も考えられる。また、塔と講堂の間で、ガラス玉片が出土しており、舎利に関連する可能性がある。
 大原廃寺塔遺構図

伯耆石塚廃寺:倉吉市石塚

2010/08/01撮影:径2m余の心礎(径69.5cmの円孔を持つ)が残る。 「日本の木造塔跡」で云う「孔の縁の底に7×4×3cmの孔があり、おそらく舎利孔であろう 。」という記述は確認が出来ず。なお、北方の金堂跡は未見。
 伯耆石塚廃寺心礎1       同        2       同        3       同        4
    同        5       同        6       同        7       同        8
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは約2.15m×1.94m、径70/69cm・深さ13/12cmの孔がある。孔の中央に少し掘った穴があるがこれは後世の加工であろう。孔の縁の底に7×4×3cmの孔があり、おそらく舎利孔であろう 。
心礎周囲は30−50cmの高まりになっている。心礎から北に25mのあたりに金堂址と推定される東西15m、南北13m、高さ1,2m位の基壇が遺存し、5.6個の自然石礎石を残す。
X」氏2003/10/11撮影:伯耆石塚廃寺心礎1      同        2
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「鳥取県立博物館所蔵 古代寺院関係資料集」鳥取県立博物館、2003 より
 石塚廃寺塔心礎図

伯耆藤井谷廃寺:倉吉市関金町松河原

2010/08/18撮影:土壇(塔土壇?)と土壇上に心礎を残す。伽藍配置は不明、出土瓦は8世紀前半とされる。なお土壇上には心礎のほか数個の礎石を残す。
土壇・心礎は関金を見下ろす広い台地上にあり、遺構は分かり難い場所にある。しかも寺院の実態が不明で謎に満ちた遺構である。心礎そのものは伯耆・因幡に残存する 他の優秀な心礎に比べ、やや雑な「造り」の心礎である印象は否めない。
 伯耆藤井谷廃寺塔土壇1       同      塔土壇2       同      塔礎石
    同       心礎1        同       心礎2        同       心礎3        同       心礎4
     同       心礎5        同       心礎6        同      布目瓦
○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、心礎の大きさは210×185cmで、表面に径42×13cmの円孔がある。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「千代川 第6号」鳥取大学歴史学研究会、1968 より
心礎:大きさは2.1×1.8mで中央に径42cm深さ13cmの柱孔あり。
心礎のみ遺存、未調査のため詳細不明。心礎は原位置ではない。

伯耆斎尾廃寺(特別史跡) :東伯郡琴浦町槻下2268-1

2010/08/18撮影:寺跡は南面し、東に金堂(5間×4間、礎石10個を残す)、西に塔、金堂の直背後に講堂 (7間×5間、礎石14個を残す)などの各跡を残す。瓦・磚仏・塑像など多くの出土品がある。
塔跡は東西16m、南北15m、高さ1mの土壇および、自然石(一辺6.3m)の礎石を残す。
そのほか中門跡土壇残欠、鐘楼礎石?、北方寺域区切などの遺構も残す。
 伯耆斎尾廃寺塔跡11      同        12      同        13      同        14      同        15
   同   四天柱礎        同    脇柱礎
   同     金堂跡1       同     金堂跡2
   同     講堂跡        同     中門跡        同     鐘楼跡        同     遺構図
○「日本の木造塔跡」:一辺12.4mの土壇上に四天柱礎3個、脇柱礎7個を残す。心礎は抜き取られて既に無い。塔一辺は6.1m。
白鳳期または奈良期の寺院とされる。
X」氏2003/10/11撮影:伯耆斉尾廃寺塔跡1        同        2
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「特別史跡 斎尾廃寺跡」(「鳥取県文化財調査報告書 第1集」)鳥取県教育委員会、1960 より
塔心礎は検出されておらず、1.6m土壇下に現存すると推定される。
 ※この文献では地下式心礎の存在を想定しているが、発掘調査はなされており、心礎は土壇に現存しない。
 斎尾廃寺塔跡概要図     斎尾廃寺寺域図

伯耆上淀廃寺

 伯耆上淀廃寺

伯耆大寺廃寺

伯耆大山を南東に望む位置に立地。
大正7年石製鴟尾(重文)を発見。1966-67年の発掘調査で東面する法起寺式伽藍配置と確認される。
白鳳から平安まで存続と推定。寺内を走る国道にてやや破壊されるが、塔以外に金堂・講堂・廻廊の遺構を検出すると云う。
塔基壇は一辺11.9mと推定される。心礎は2.4m×2mの楕円形で、中央に約径1mの柱座を造り出し、その中央に径70cm、深さ30cmの孔を彫り、さらに径16cm、深さ15cmの舎利孔を穿つ。舎利孔には径20cm、厚さ2,5cmの蓋受孔の加工がなされる。なお大孔の周りは荒っぽく欠き取られているがこれは後世の仕業であろうと思われる。
2017/08/05追加:
○「妙本寺意外之誌」宮原日鷲、本山妙本寺、平成12年 より
◆古仏
大寺は・・・塔礎石も民家の台所隅にあったと聞く。増築民家庭に基壇の瓦列が列をなすを土台工事掘り起こしに見る。
内密に庭や土中から当時の什物が出る、古物商に流れたこともしばしば耳にする。
○「X」氏ご提供画像:
 伯耆大寺廃寺心礎1    同        2

○石製鴟尾(重文)は講堂部分を境内に含む福樹寺境内に置かれる。(以前は福樹寺竹薮に放置されていたと云う)
赤色安山岩製、基部は45×77cm、高さ100cm。
また鴟尾の周囲には造出柱座を持つ礎石(下に掲載の写真・礎石)が少なくとも4箇ある。
 伯耆大寺廃寺心礎1     同       2     同       3     同       4     同       5     同       6
    同     鴟尾1     同       2     同       3     同       4
     同     礎石      同  伽藍配置図
 なおこの大寺は伯耆安国寺に充てられたと伝える。福樹寺にある宝篋印塔はその遺物と云う。
安国寺は戦国期に焼失し、その後米子城下建設で米子寺町に移転と云う。( この安国寺は現存する。) :「安国寺風土記」
  →西国諸国の日蓮宗寺院>米子寺町の項を参照。
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「大寺廃寺発掘調査略報」鳥取県教育委員会、1966 より
 大寺廃寺伽藍配置図:推定
○「大寺廃寺発掘調査報告書」鳥取県教育委員会、1967 より
心礎:大きさは2.4×2.0m、火成岩製、中央に径71cmの柱座を刳り、その中に径16cm、深さ15cmの舎利孔を穿つ。舎利孔には蓋受けが彫り込まれる三重孔。基壇上面は完全に削平される。
 大寺廃寺塔跡遺構実測図     大寺廃寺心礎実測図

伯耆坂中廃寺

伯耆大山を南東に望む高台に立地。大寺廃寺が低地であるのに比べ絶好の位置を占める。
伽藍配置などは不明、出枘式の心礎が現存する。
「日本の木造塔跡」:心礎は出枘式で、1.6×1,4mの大きさを測り、径36×10cmの出枘を持つ。さらに出枘上部に径15×5cmの孔を穿つ。この孔が舎利孔なのかどうかは不明。
出土瓦などから奈良後期の創建とされる。なお側柱礎(径50cmの柱座を持つ)2個を残す。
この塔は紀成盛長者の塔という伝承を残すという。
現地説明板では、平安初期の寺跡と推定、心礎は火成岩製で、原位置から移動する。
また残念ながら、中心附近で2つに割れる。
 伯耆坂中廃寺心礎1     同       2     同       3     同       4     同       5     同       6
    同        7     同       8      同    礎石1     同    礎石2     同    散乱瓦
○2010/07/11追加:(奈良文化財研究所>公開データベース)「鳥取県立博物館所蔵 古代寺院関係資料集」鳥取県立博物館、2003 より
心礎:径1.5m、径37cm高さ10cm円形の柱座で、中心に径15cm深さ7cmの舎利孔あり。
未調査のため詳細不明。「千代川 第6号 伯耆の古廃寺 研究への一考察、鳥取大学歴史学研究会、1968 にて礎石3石ありと記載。
 坂中廃寺心礎実測図

出雲千寿院多宝塔

 出雲千手院多宝塔
明治27.28年戦役記念に建立。
2012/10/13追加:2006年取壊し、一部の残材(組物)が美作玉泉寺本堂に転用されたものと思われる。

出雲安来雲樹寺

◇雲樹寺中興伽藍絵図
 雲樹寺中興伽藍絵図:瑞山中興図写:雲樹寺蔵、雲樹寺絵葉書より転載
本図の作成年代は不明であるが、中興図とあるので、おそらくは天文年中の中興図であり、その後、近世になってから写されたものであろう。本絵図の左下部に五重塔が描かれる。
五重塔の履歴は詳らかではないが、中興図にあり、創建の伽藍整備が行われた室町初期に建立されたものであろうと推定される。その後塔は退転するも天文年中の中興の時、再建されたものであろう。あるいはこの中興図が実際 に中興された図ではなく、中興予定図もしくは中興勧進図の性格を持つものであり古の伽藍の姿を写したものであるならば、再興はされなかったとも考えられる。
もし天文の中興で再興されたのであれば、文政3年までは存続した可能性は高いであろう。 再興されなかったとしても、中世には五重塔が存在したのは確かであろう。
実際、以下の雲樹寺の境内略図にも塔阯が示される。
 雲樹寺境内略図:雲樹寺絵葉書より転載 、図の中央付近に「塔阯」の案内がある。
◇雲樹寺五重塔跡
雲樹寺住職の談は以下のとおり。
 塔跡と伝える場所が残存する。「塔有」(あるいは「塔在」か)と伝える場所が残る。ただし現地は開墾などで削平された可能性があり、今地上には遺構は何も残らない。 また発掘調査が実施されたことはない。従って地下に何かが残るのかどうかも分からない。
 以上であるが、具体的な場所を教えることは躊躇する。なぜなら、基本的に寺院としては、跡地・寺宝などの所在については不明確なままにして置きたい希望である。それは防犯上の理由である。
 かって雲居寺南方一帯の田畑、西方の宇賀荘小学校などの敷地は背後の山林を含め寺領であり、学校付近には塔頭があったと伝える。しかしこれらの土地は明治維新及び戦後に寺を離れ、現在、寺院としては囲いもない状態である。塔阯にも現在の伽藍のある場所から行くことは可能であるが、それは外部の人間はご遠慮願いたい。塔跡付近はいわば「荒れた状態」のままにして置きたいのが希望である。(寺院の境目としての機能を持たせるということであろう。)
 どうしても塔跡を見たいという熱心な希望であれば、外から行く方法を教えよう。小学校グランドに立ち、太銀杏の樹を探し、グランドからその樹を見て、その背後すぐが塔阯である。云々。
 雲樹寺地図      雲樹寺航空写真
何れも塔阯推定地を明示、この地図・航空写真で判断すれば、薬師堂背後は墓地?と思われ、通路があるように見える。この通路を上り、ブッシュを抜ければ、塔阯に至るように思われる。
 雲樹寺五重塔跡1     雲樹寺五重塔跡2     雲樹寺五重塔跡3     雲樹寺五重塔跡4
◇雲樹寺は元亨2年(1322)弧峰覚明(三光国師)禅師が開山。山号は瑞塔山。臨済宗妙心寺派。
後醍醐天皇、船上山に師を招じ戒を受け、建武2年(1335)国済国師の号と「天長雲樹興聖禅寺」の勅額を下賜する。さらに正平2年(1347)後村上天皇より三光国師号を加賜される。その後北朝に 転ずる。中世には守護京極氏、尼子氏、毛利氏などの庇護を受け、往時は大伽藍と塔頭24ケ院を算する。塔頭は明白庵、雲竜庵、正宗庵、慈雲庵、竜淵庵、回光庵、宝珠庵、臥竜庵、霊通庵、聯芳庵、棲雲庵、雲芳庵、積翠庵、浄照庵、慶昭晏、慶雲庵、大成庵、向陽庵など の名称が伝えられる。
その後衰微するも、天文年中(1532-1554)善瑞和尚により中興、いにしえの伽藍を取り戻すと云う。
近世には松江藩より10石を受ける。
文政3年(1820)大門、山門、薬師堂、庭園を除き、大部の伽藍を焼失、江戸末期より仏殿、方丈、開山堂を再建し現在の姿になる。
四脚門(元亨2年建立、昭和9年に大改修・古材は保存される、重文)、銅鐘(朝鮮古鐘、応永7年銘、重文)、絹本著色三光国師画像(室町、重文)、紙本墨書孤峰覚明墨蹟(正平16年、重文)、紙本墨書後村上天皇宸翰御消息(重文)などの寺宝を有する。
 雲樹寺大門1     雲樹寺大門2     雲樹寺大門3:重文
 雲樹寺山門1     雲樹寺山門2     雲樹寺山門扁額
 雲樹寺薬師堂     雲樹寺観音堂     雲樹寺仏殿     雲樹寺勅使門     雲樹寺開山堂     雲樹寺方丈

出雲教昊寺跡(出雲野方廃寺)

出雲風土記でいう舎人郷の教昊寺と想定される遺構である。 → 出雲風土記・教昊寺/新造院
現在、小高い小丘の上に塔心礎を残す。心礎上には小祠(神蔵神社)が置かれる。
無慚にも、小祠据付のため、心礎上にセメントが打たれ、円孔部分には小石が載せられ、円孔などを見ることは出来ない。
大正15年後藤蔵四郎が野方の土居ゾネから瓦片が出たことなどから教昊寺と推定する。また付近から塼仏も出土する。
 (寺域は心礎のある小丘の東の田中と思われる。)
昭和28年山本清が心礎の確認をして、野方廃寺の存在を確かなものとする。
心礎は165×158×75cmの大きさで、径70×14cmの円穴と径28.5×6cmの小孔を持つ2重円孔式と云う。
○「幻の塔を求めて西東」:2重円孔式、175×165×75cmの大きさで、径72×12cmの円穴と径27×6cmの孔を持つ、白鳳。
○出雲風土記:「教昊寺。在舎人郷中。郡家正東廿五里一百二十歩。建立五層之塔也〈有僧〉。
教昊僧之所造也〈散位大初位下上腹首押猪之祖父也〉。」
読下し:教昊寺。舎人郷の中にあり。郡家の正東二十五里一百二十歩なり。五層の搭を建立(た)つ。僧(ほふし)有り。教昊僧が造りし所なり。散位(とね)大初位下上蝮首押猪(かみのたぢひのおびとおしゐ)が祖父(おほぢ)なり。
 出雲教昊寺跡心礎1        同        2       同        3       同        4
2011/10/28追加:
○「沢遺蹟発掘調査概報」安来市教育委員会、1980 より
心礎は田頼石(出雲田頼地方もしくは田頼山で産する石か?)。径70cmの柱穴の中に径28.5cm、深さ6cmの小孔あり。
 教昊寺心礎実測図
2012/10/19追加:
○「安来市誌」安来市誌編さん委員会編、安来市、1970 より
 教昊寺跡出土塼仏

出雲岡の原廃寺b :能義郡伯太町安田関

心礎は長台寺庭園にある。長台寺は行基の開基と伝え、本尊は行基作千手観音という。
元は現地の奥5丁の坊床にあったが、白鳳9年に流失し、 天平年中に聖武天皇によって現在地に再興されたと伝える。
(この時、三重塔も建立され、この心礎はこの時のものともとも云われる。)
以上の寺伝に見られるように、この地に古代寺院があったのは確かであろうが、長台寺と岡の原廃寺との関係は不詳。
心礎は小型であるが、かなり精美な心礎で、柱穴、蓋受孔、舎利孔を備え、古い様式の心礎と思われる。
「幻の塔を求めて西東」:三重円孔式、150×130×85(見える高さ)cm、径65×2/3cm、径15×1cm、径12.5×4.5cmの三段の円孔を持つ。白鳳前期。
現寺は母里藩主松平直員の建立と伝える。福寿山と号し、現在は比叡山延暦寺末。本尊は千手観音(行基作と伝承)。本堂 、護摩堂、阿弥陀堂などを備える。
 出雲岡の原廃寺心礎1      同        2      同        3      同        4
    同         5     同        6      同        7  

出雲来美廃寺:(松江市矢田町・史跡)

 出雲来美廃寺

出雲塔の村廃寺c:大原郡木次町

○「幻の塔を求めて西東」:出枘式、200×145×55(見える高さ)cm、径62cm×8cm、奈良後期。
木次廃寺とも称する。出雲風土記の在斐伊郷中新造院に比定される。
 → 出雲風土記・教昊寺/新造院
2012/12/15追加:2012/12/02撮影(早朝)
○現地の説明板:塔の石の由来:天平の頃(730年頃)大領勝部臣虫麻呂、この地に新造院を建立す。出雲で一番大きな寺院であった。塔が建立され、その礎石は地中に埋まっていたが、明治の初め、地区の人が掘り出しこの地に設置する。
塔の石の発掘誌:当時、付近は一面の水田で、この塔の石は今の木次駅のプラットフォーム付近の水田中に僅かに鍬先が触れる程度の深さに埋まっていた。明治初年より、塔の村の病気故障のあるたび、祈祷師や老婆が「埋没せる由緒ある石の祟」、「新造院塔の石を取上げれば、祟は止む」などのお告げや夢告があり、そこで部落民の総意で石を掘り出し、当地に設置する。時は明治6年3月であった。
○埋没・発掘状況や遺構の状況が必ずしも明確ではなく、伝承のとおり奈良期の礎石としても、出枘式と云うやや珍しいかつ多少形の崩れた(磨耗した)礎石であり、俄かに心礎とは断定し難い礎石ではある。
しかし、大きさや明らかに出枘を造作しているなどから心礎である可能性は高いものと思われる。
 出雲塔の村廃寺伝心礎1     出雲塔の村廃寺伝心礎2     出雲塔の村廃寺伝心礎3     出雲塔の村廃寺伝心礎4
 出雲塔の村廃寺伝心礎5     出雲塔の村廃寺伝心礎6     出雲塔の村廃寺伝心礎7
 木次駅俯瞰:写真中央が駅プラットフォーム、写真右下やや中央よりに白く 写るのが現地説明板であり、ここに伝心礎が置かれる。上述のように伝心礎を掘り出した場所と伝える。

出雲鰐淵寺三重塔

 出雲鰐淵寺

出雲日御碕社三重塔・多宝塔

 出雲日御碕社三重塔・多宝塔

出雲杵築大社:三重塔

○寛文の神仏分離が行われた前後の杵築大社については但馬妙見三重塔のページを参照。
○「出雲大社由来略記」出雲大社社務所、平成15年版(昭和3年初版)を入手。
 昭和3年の初版で、最近情報も掲載し、現在も杵築大社で販売をしている書籍である。これは国家神道(相も変らず戦前型の記紀神話の宣教とこれも相も変らない戦前型の皇室崇拝)を無批判に宣伝する荒唐無稽な書物であるが、【「<出雲>という思想」原武史、講談社学術文庫1518、2001】で云ういわば「出雲というプライド」は何処に捨て去ったのであろうかという代物である。
要するにこの神社そのものの体質は戦前と何も変っていないということなのであろう。
○現下の杵築大社では以下の宝物館の3点と本殿の「ちゃん塗り」以外に特に見るべきものはない。
宝物館に
「但馬妙見三重塔」の模型(屋内木造模型・特別精巧な模型ではない。)
「紙本著色杵築大社近郷絵図」の模写
「杵築大社并神郷図」(重文・鎌倉中期)の模写 の展示がある。
但し館内は撮影禁止であり、従って写真はない。
現在本殿は平成の改修中である。従って本殿は本殿区画外から屋根を望遠できるだけである。
さる解説によれば、この本殿屋根の鬼板・千木・勝男木などを覆う銅板には、松ヤニ・エゴマ油・鉛・石灰を混ぜた「ちゃん塗り」と云う特別な塗料が使われていたことが判明、今般の修造ではそれを復原し約130年前の大屋根が復原されると云う。
2012/12/01撮影:
 「ちゃん塗り」本殿大屋根1    「ちゃん塗り」本殿大屋根2    「ちゃん塗り」本殿大屋根3
 杵築大社参道1            杵築大社参道2            杵築大社拝殿
  パンフレット「出雲大社周辺町歩き」より
     「ちゃん塗り」       本殿大屋根
  ※「チャン塗り」の例としては、武蔵歓喜院 (妻沼聖天)聖天堂がある。
なお大屋根の面性は約180坪であり、これを約64万枚の檜皮で覆うとも云う。軒先の厚さは約1mに及ぶ。

出雲神門寺:出雲市塩冶町

本堂の東北裏手の庭に心礎がある。しかし現在寺院側では、表向きは「世情が物騒である」との理由で見学を謝絶する。
○神門廃寺心礎:(想像図)
 出雲神門寺心礎推定図:下記の心礎寸法、心礎の写真などから推定作成した図で、実測図ではない。
  この点ではあくまでイメージ図であり、それ以上のものではない。 →実測図を入手、下に掲載あり。
心礎は舞木廃寺式心礎(環状枘溝式)とされるが、かなり磨耗あるいは破壊されている可能性もあり、現状では「彫り」は明瞭ではないと思われる。
○神門廃寺心礎写真:
 出雲神門廃寺心礎1:写真中央の立ち木の奥 、右手に心礎がある。
 出雲神門廃寺心礎2     出雲神門廃寺心礎3     出雲神門廃寺心礎4     出雲神門廃寺心礎5
 心礎2〜5:やや離れた場所から、暗い木立の中を撮影したもので、いずれも不鮮明であり、形状を窺い知ることが出来る写真ではない。
以前行われた発掘調査では版築基壇の上に心礎はあり、原位置を保つとの結果であったという(寺院側の説明)。
○「日本の木造塔跡」:
心礎は舞木廃寺式心礎(環状枘溝式)で、大きさは1.4×1,27m。環状溝外径は78cm。内径は55/53cm、溝巾12cm、深さ3.9cm。心礎及び出土瓦形式から創建は奈良末期と推定される。
○神門寺開山は宋肇菩薩、二世は伝教大師、三世が弘法大師と伝える。弘法大師がこの神門寺から「いろは四十八文字」を弘めたとも伝え、この仮名文字の御真筆を収蔵すると云う。
本尊は阿弥陀如来(行基作)、第38良空上人が法然の専修念仏に帰依し密教より浄土宗に転宗する。
なお出雲風土記新造院の一つに比定される。しかし朝山郷新造院なのか古志郷新造院なのかは決定を見ない
  → 出雲風土記・教昊寺/新造院
2011/10/28追加:
○「神門寺境内廃寺」出雲市教育委員会、1985 より
心礎の上面に径80cm、幅10cm、深さ10cmの環状溝あり。版築層上面より20cmの深さで、版築層を掘り込んで心礎を据える。
 神門寺境内図      神門廃寺トレンチ実測図
○「日本考古学年報3」1955 より
 神門廃寺心礎実測図
2012/10/19追加:
○「神門寺境内廃寺 発掘調査概報 第1次, 第2次」出雲市教育委員会、1983-1984 より
本堂の北側と庫裏裏手の庭園には礎石と伝える大石が各1個ある。
 神門寺境内礎石実測図:左が心礎実測図
○2012/12/02撮影:
確かに少々磨耗するも、舞木寺式(環状枘溝式)心礎の特徴は十分見て取ることはできる。
 出雲神門廃寺心礎1     出雲神門廃寺心礎2     出雲神門廃寺心礎3     出雲神門廃寺心礎4
 出雲神門廃寺心礎5     出雲神門廃寺心礎6     出雲神門廃寺心礎7     出雲神門廃寺心礎8
 神門寺参道・仁王門      出雲神門寺参道       神門寺境内・仁王門     出雲神門寺本堂

出雲天寺平廃寺:斐川町下阿宮

○「X」氏情報:塔の土壇及び幾つかの礎石が残存すると云う。現況はかなりブッシュに覆われ分かり難い状況である。
 出雲天寺平廃寺塔跡:2008/10/17「X」氏撮影
2010/02/11追加:
○「出雲風土記」で云う「有河内郷中新造院」に比定される。 → 出雲風土記・教昊寺/新造院
標高200mの高さに位置する。大量の丸瓦・平瓦・軒丸瓦・軒平瓦・熨斗瓦・鴟尾などが出土する。
○「図説古代出雲と風土記世界」河出書房新社、1998 より
 天寺平廃寺地形測量図:塔及び金堂跡が示される。なお遺構を塔跡とする根拠は不明。
2012/09/29撮影:
阿宮公民館に「河内郷新造院」の案内標が建つ。
 「河内郷新造院」案内標
当日は下阿宮にあるとの情報だけで、廃寺跡を探す。
寺院住職(真言宗醍醐派延命寺)ほか数名に聞き取りを実施する。廃寺跡真南直下山麓の民家からは侵入道の教示を得る。異口同音に云うのは「近年は廃寺跡に行ったことはない。道はおそらく通れない状態であり、行けるかどうかは分からない・・・」というものであった。山中のブッシュ道には幾つかの分岐があり、位置の把握をしていなかったこともあり、当日は 途中で探索を断念する。
後日下記の位置情報を入手するので、後日を期す。
 天寺平廃寺位置図3:下記資料並びに「島根県遺跡地図」などを参照。
なお、地元では「天寺平」を「テンジンピラ」と発するようである。
2012/10/13追加:
○「島根県斐川町文化財所在地名一覧表(斐川町文化財調査報告:23)」 斐川町教育委員会、 2001 より
天寺平廃寺:基壇2、礎石、古瓦、塼 とある。
 天寺平廃寺位置図1:156番が天寺平廃寺である。
○「島根県斐川町遺跡分布調査報告書(斐川町文化財調査報告:10) 」斐川町教育委員会, 1992 より
「出雲風土記」で云う「河内郷新造院」は従来、出雲市上乗寺や同長者原廃寺が比定されていたが、昭和61年当廃寺が発見され、河内郷新造院は当廃寺であろうと俄かに注目された。
廃寺跡は標高200mの山頂に位置し65×45mの平坦部に2基の基壇と瓦溜りが確認できる。出土瓦は奈良後期から平安初期の年代を示す。
 天寺平廃寺位置図2:156番が天寺平廃寺である。
 天寺平廃寺遠望:↓部分に所在する。南から撮影。
2012/12/02撮影:
山中にて1時間半ほど廃寺を目指すも廃寺跡には到達できず、今回も途中で探索を断念する。
山中廃寺跡下150m付近までは倒木が多いが何とか踏み跡を辿れるも、此処から上は踏み跡も消え、幾筋かで登頂を目指すも、どの筋も全くのブッシュで登攀を断念する。やや降ったところに、ブッシュの少ない谷筋があるも、旧な崖で危険なため、ここからの登頂も断念する。
最後に、上に掲載の位置図1、2、3で分かるように廃寺の南西にピーク(城跡、近年電波塔が建てられる)があり、まずここに登り、ここから東北の廃寺跡を目指すも、ここから東北の廃寺跡に行く踏み跡は全くなく、荒れ放題のブッシュで、ここから廃寺跡を目指すことも断念する。
 天寺平廃寺遠望1: 写真の中央高所が城跡(電波塔)であり、廃寺はこの山頂の向かって右の背後(写真には写らない)にあると推定される。
 天寺平廃寺遠望2:麓 付近の山中から撮影、中央に写るピークに天寺平廃寺があるものと思われる。
 天寺平廃寺山中:天寺平廃寺があると思われる方向を撮影、この上方に廃寺跡があると思われる。

出雲天王平廃寺:大田市

精巧な加工の心礎を残す。
○「日本の木造塔跡」:昭和44年国道9号線工事中に発見。三段孔式心礎。
心礎は2.0×1,25×0.95mの大きさで、径93(底部径90cm)×6/5cmの円穴があり、底部縁に巾2cmのごく浅い溝がある。
円穴中央に一辺20cm高さ1cmの蓋受孔と一辺15cm(底部は一辺12cm)深さ10cmの舎利孔を穿つ。
塔基壇は一辺12m、高さ56/46cm・乱石積基壇。四方に階段の痕跡があった。心礎は基壇面より46cm下にあったというが、判然とはしないと云う。出土瓦などから白鳳期の心礎とされる。
心礎のある場所が塔跡で、西側に建物跡1棟が検出される。
 出雲天王平廃寺心礎1      同       2      同       3      同       4      同       5
    同         6      同       7      同       8      同       9
    同  四天柱礎?1      同  四天柱礎?2
2011/10/28追加:
○「天王平廃寺」(「島根県埋蔵文化財調査報告書」第U集、島根県教育委員会、1970 所収)より
塔跡は削平のため基壇北西部および心礎部分のみ検出する。掘込地業の上に、玉石を3〜4段積み上げた乱石積基壇で、階段は北・西にて検出するが、四方にあった可能性も考えられる。礎石は心礎のみで、柱間等 は不明である。
心礎の大きさは2m×1.25m×0.95mの玄武岩の上に直径93cm底面90cm深さ5cmの円形柱穴を掘り、底面の周囲は幅2cm浅い溝をつけている。中央には上段径 20cm深さ1cm、下段径15cm深さ10cmの方形舎利孔がもうけられている。舎利孔上段縁には鉄錆が付着しており、鉄の落とし蓋があったと考えられる。
 天王平廃寺地形図      天王平廃寺塔跡実測図     天王平廃寺心礎実測図

石見下府廃寺(史蹟):浜田市下府町

一辺約9mの塔土壇を残す。
心礎(花崗岩製)の大きさは2.48m×1.42m、中央部分を方形に削平し、その中央に径82cm、深さ7cmの円柱孔を持ち、さらにその中央に径20cm、深さ 12cmの舎利孔を穿つ。柱礎も2個残存する。
また塔跡西に金堂跡の高まりも残るが、その他の伽藍の様子は全く不明である。
 廃寺は下府川右岸の南向きの緩やかな傾斜地にあり、南面していたと思われるも、塔・金堂背後(北)には山塊が迫り、南も傾斜地であり、狭隘なこの地には大規模な伽藍の展開は無理と思われる。おそらくは、塔と金堂と門程度が並ぶだけの小規模なものであったと思われる。
○「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは1.3×1.23mで、石一杯に方1.2m高さ1.8cmの造出を造り、その中に径82×5cmの穴を彫り、その中央に径20×10cmの孔を穿つ。さらに穴の底に舎利孔と並んで径6×3.9cmの小孔を穿つ。浅い放射状排水溝2本がある。
 ※記載される心礎の大きさは何かの錯誤であろう、また穴の底に舎利孔と並んである小孔とは何を指すのかは不明、小孔があるとは思われない。
なお、この廃寺は泰林寺跡とも伝承する。
 石見泰林寺心礎実測図:「佛教考古學論攷 四 佛塔編」 より
2010/02/11追加:
○「いにしえの島根 第六巻◆神々と仏の風景」島根県教育委員会、1996 より
 石見下府廃寺発掘調査:1989年の発掘で塔跡西側から石積基壇が発見される。
塔の基壇の一辺は約10m、塔の西側に建物跡を発掘、この建物は一辺約15mの正方形で金堂跡と推定される。寺域も約100m四方であったと推定される。
2011/10/28追加:
○「下府廃寺跡 平成元年度〜平成4年度市内遺跡発掘調査概報」浜田市教育委員会、1993 より
下府廃寺塔跡の発掘調査で、塔柱間2.4m分を確認。左記により、塔一辺は等間と仮定した場合7.2mとなる。
塔跡の地業は基壇よりひとまわり広い範囲に施され、基壇は地山を16cm掘り下げてから地山上20cmまで版築をおこないその上に一括で土を盛る。基壇外装は人頭大の石と瓦片を使用とある。
階段の幅は2mを測り、1段目の高さは30cm。3段程度の石段と推定される。
 下府廃寺寺域想定図     下府廃寺伽藍配置図     下府廃寺塔跡実測図1     下府廃寺塔跡実測図2
2012/10/06追加:
○浜田市文化振興課情報:
塔は一辺13.2m四方の基壇上に一辺7.2mの塔初重面が復元でき、金堂は東西長15.2m、南北長推定13mの基壇の上に建てられる。指定地は壇状に削られた塔中心部であるが、上面には心礎と四天柱、側柱の礎石が各一個残される。花崗岩の心礎には方形の柱座が設けられ、その中央に直径86cm、深さ6cmの円柱孔があり、さらにその中央に直径21cm、深さ12cmの舎利孔を設ける。
2012/10/06追加:
○「文化遺産オンライン」のページ より
山麓ノ畑地ニアリ方約三十尺ノ土壇ノ上ニ心礎及四天柱礎、側柱礎各一個ヲ存ス。心礎ハ長徑七尺七寸、短徑四尺一寸ヲ有スル長方形ノ自然石ニシテ其表面一部分ヲ殘シテ略方形ニ削平シ中央ニ直徑二尺八寸深サ約三寸ノ圓柱孔アリ更ニ底面ノ中央ニ舍利奉安孔ヲ刻ス附近ニハ奈良朝ノ様式ヲ示セル遺瓦ヲ發見セリ 。
2012/09/30撮影:
 石見下府廃寺塔跡1     石見下府廃寺塔跡2     石見下府廃寺塔跡3     石見下府廃寺心礎1     石見下府廃寺心礎2
 石見下府廃寺心礎3     石見下府廃寺心礎4     石見下府廃寺心礎5
 石見下府廃寺塔金堂跡:向かって右が金堂跡        石見下府廃寺金堂跡
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◆参考:この廃寺の数町東(上府)に石見安国寺および上府八幡宮がある。
○石見安国寺:元々は和銅年中(708-)に創建された福園寺の系譜を継ぐ。永久年中(1113-)天台宗に改宗、その後衰微するも、正和年中(1312-)益田氏により臨済宗として再興される。
貞和2年(1346)足利直義により石見国安国寺に制定される。(「足利直義御教書」)
2012/09/30撮影:
 石見安国寺全景     石見安国寺正面     石見安国寺山門     石見安国寺本堂     石見安国寺堂宇
○上府八幡宮:近世までは国府八幡宮、府中八幡宮と号する。永久年中国司である藤原定道が鎌倉鶴岡八幡宮を勧請して成立と云う。近世(寛文年中)には別当教蔵院(京都聖護院末)が支配する。
明治の神仏分離の処置で本寺仏・太般若経・梵鐘。鰐口などを撤去、安国寺などに移す。
現状はいかにも国家神道で権威づけたような悪趣味の本殿・社務所があるのみで、別当教蔵院の位置など全く不明であるが、強いて推測すれば、現在の社務所の場所にあったのであろうか。 境内からは全く仏教的要素を窺うことはできない。
2012/09/30撮影:
 上府八幡宮1     上府八幡宮2

美作今岡廃寺:大原町:美作市今岡、宮本武蔵駅南西約300m。

2015/04/08追加:
「吉備の古代寺院」湊哲夫、亀田修一、2006 より
一帯の小字に塔の元、長代寺がある。中世に長代寺という寺院が存在したのであろう。
かっては礎石が存在したが、堤防工事に使用という。圃場整備に伴い、若干の発掘調査が行われるも、中心伽藍の検出には至らず。
出土瓦から、白鳳前期の創建で、白鳳後期に伽藍整備、平安前期も存続すると考えられる。
 ※「塔の元」の小字から、塔が存在したものと思われる。
 ※地表には見るべきものは何も無いと思われる。

美作大海廃寺:吉野寺址:美作市山手

塔心礎を残す。写真で見る限り、心礎は表面を削平し、中心に円孔を穿つ形式であろう。
心礎のすぐ北に薬師小堂を残す。塔西に金堂を検出。白鳳期の瓦を出土。
○2007/04/25追加:
「吉備の古代寺院」 より
1987年発掘調査:塔基壇は一辺10.8m。心礎は原位置を保つ。大きさは1.7×1.1×0.6m、上面に径21×深さ14cmの円孔を穿つ。砂岩製。
金堂(東西3間南北2間分の礎石が原位置で確認、それ以外は削平されていた)南門、築地なども発掘、法起寺式伽藍配置とされる。
附近に金堂ヤ、堂ノ下、茶堂ヤの小字を残し、中世の大海寺跡との伝承がある。
 (心礎大きさ:1.66×1.51m、径21×深さ12cmの枘孔を穿つ。)
○2008/02/20追加:
「岡山県史 第18巻 考古資料」昭和61年 より
心礎は原位置を保ち、基壇の北端を検出したため、塔一辺は10.8mと推定される。移動させられた四天柱礎石2個も発見された。
 大海廃寺伽藍配置推定図   大海廃寺塔跡概要図
○2008/12/25追加:
「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告026−大海廃寺」1978 より
昭和52〜53年圃場整備事業の具体化に伴い、発掘調査。
塔跡:心礎のすぐ北に薬師堂が建ち、その基壇下には2個の礎石が遺存し、四天柱礎と推定されるが、若干動いている。
心礎の大きさは1.7×1.1mで、厚さ約60cmで、上面に径21cm深さ13cmの円孔を穿つ。
北トレンチから動いている礎石1個を発見、さらに基壇端を発見し、これにより塔一辺は10.8mと確認された。基壇化粧は不明。なお畦に礎石4個が残る。
金堂跡:塔西に竹薮・荒神社があり、礎石の一部が露出(北東の池に傾いた礎石3個、西側に1個)していた。一部表土を取ると北側に4個の礎石が残存していた。以上などから身舎は3間×2間で四面に庇があある、5×4間の建物と推定される。
推定講堂跡は民家で未調査、かって柱穴の出土があり、また礎石の存在が知られず、掘立式の建物と推定される。
 大海廃寺トレンチ図
 大海廃寺塔基壇実測図     大海廃寺塔跡     大海廃寺塔心礎
 大海廃寺金堂実測図1     大海廃寺金堂実測図2     大海廃寺金堂基壇1:北東より      大海廃寺金堂基壇2:北西より
○2008/12/25追加:
「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告033−大海廃寺」1979 より
昭和53年10月第2次発掘調査実施 。南限施設と思われる塀、南門、築地などの遺構が発見される。南門は上記の前回調査での南門想定位置よりさらに南で発見された。
南門は梁行2間桁行3間の掘立式建物と推定される。
南門の発見によって、金堂を貫く伽藍中軸線が確定する。しかし塔はこの伽藍中軸から外れる現象がある。恐らくこれは金堂を中心とした構想で寺院が建立され、塔は金堂より遅れて建立されたと解釈可能であろう。
 大海廃寺伽藍復原案     大海廃寺南門跡実測図     大海廃寺塀跡実測図
○2011/07/10追加:
「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年 より
山手薬師堂付近一帯を大海と云う。薬師堂の西方1町半許のところに竹林・墓地があり付近には瓦片が散布する。
 吉野寺心礎実測図
○2015/04/18撮影:
この地は康安元年(1361)7月に焼失した寺院跡で、一の吉野寺とも称す。・・・現地説明板 より(この典拠は不明)
 大海廃寺塔跡遠望1     大海廃寺塔跡遠望2:土壇・心礎・薬師堂を残す。     大海廃寺薬師堂・心礎
 大海廃寺心礎1     大海廃寺心礎2     大海廃寺心礎3     大海廃寺心礎4     大海廃寺心礎5
 大海廃寺心礎6     大海廃寺心礎7     大海廃寺四天柱礎石1     大海廃寺四天柱礎石2:四天柱礎と推定される。
 大海廃寺薬師堂本尊
 大海廃寺金堂跡土壇1     大海廃寺金堂跡土壇2     大海廃寺金堂跡土壇3
 大海廃寺金堂跡礎石1     大海廃寺金堂跡礎石2
上述の「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告026−大海廃寺」1978で云う「竹薮・荒神社」は竹藪は全く存在せず、近所の聞取りでは2年ほど前に荒神社(小祠)は退転するという。今後どうするかは、この畠を管理していた家の主人が亡くなり、目算はない。

美作江見廃寺(閻武寺址)

2007/04/25追加:
○「吉備の古代寺院」 より
畑の一角に塔心礎と伝承する礎石を残す。大きさは約2×1,5mで、上面を粗く加工し、中心に径約50cmの柱座を作り出す。
 ※形状からは心礎と確定できない。建物等の遺構は未発見、白鳳期の瓦を出土する。なお出枘があったが亡失と云われる。
○「岡山縣通史」:
英田郡江見村大字藤生に在り。
○「作陽誌巻八」「英田郡江見荘、藤生村の條」:
「寺跡、地字、坪内と云う所に礎の跡あり、亙り五尺余なり古の寺址に藤原塔と云ひ伝ふ」
2011/07/10追加:
○「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年 より
「作陽誌」にも「礎の跡あり」とある如く現に表面突起著しく崩化を受けたる礎石1個あり。
 藤原塔礎石実測図
2015/04/18撮影:
塔跡の発掘はなされておらず、詳細は不明である。礎石は原位置を保つというも、その根拠は不明である。
表面は相当程度荒れ、柱座も半壊する。かってあったという出枘の痕跡は分からない。現在はグランドに剥き出しで置かれ、日光や人為的な力でいよいよ表面の荒廃が進行することが懸念される。
 美作江見廃寺伝心礎11     美作江見廃寺伝心礎12     美作江見廃寺伝心礎13     美作江見廃寺伝心礎14
 美作江見廃寺伝心礎15     美作江見廃寺伝心礎16     美作江見廃寺伝心礎17     美作江見廃寺伝心礎18
 美作江見廃寺伝心礎19     美作江見廃寺伝心礎20     美作江見廃寺伝心礎21

美作竹田寺跡

2011/07/10追加:
「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年 より
英田郡土居村竹田才の堂にあり。才の堂は今桑園となりて、尺加堂(サカ堂)、堂ノ元、堂ノ北などの地名を含む。
釈迦堂付近から古瓦を出土する。堂ノ元には近年まで手水鉢の台石あり、或は礎石の一にや。
才ノ堂の東隣は荒神元であり才ノ堂(小山。今は開墾して田となす。)と称する地点あり。最近まで2本の松の大木あり、その下に大石あり其中央に円孔あり。対岸の阿倍某家屋の改築に当り割り取りて石垣とす。其一片後庭に存す。高さ1尺8寸径1尺45寸許なり。
 (心礎があった可能性が高いと思われる。)
 ※安倍某家の後庭に心礎と思われる大石の一片が残る他は、地表には見るべきものは何も無いと思われる。

美作楢原廃寺:美作町楢原中

 「亡失心礎」の「美作楢原廃寺」の項

飯岡遺跡(ゆうかいせき):柳原町:美咲町飯岡

2015/04/08追加:
「吉備の古代寺院」湊哲夫、亀田修一、2006 より
旧飯岡小学校付近から若干の瓦の出土を見る。付近に塔石の元、国師カフラメン、多門の小字名を残すという。
遺構はまだ確認されていないが、立地から寺院跡と推定される。
塔石の元とは強く塔が存在したことを示唆する。
 ※地表には見るべきものは何も無いと思われる。

美作久米廃寺跡

2010/09/12撮影:
久米廃寺は中国道高架橋直下及びその南北にある。塔・金堂土壇は夏草が繁茂する。
 備中久米廃寺心礎11      同        12      同        13      同        14
   同        15      同        16       同     塔土壇      同    金堂土壇       同    講堂土壇
 久米廃寺記念五重塔
○唐臼にある。唐臼とは大きな円形刳りのある塔心礎を意味し、中国自動車道がこの心礎を掠めて建設される。
発掘調査により寺域は東西130m、南北110mで、塔跡と塔の東西に主要建物跡を発掘、白鳳期の寺院と推定される。
○2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
 美作久米廃寺遺構図:建物Tが塔、建物Xが金堂、Uが講堂と想定される。
1969年発掘調査が実施され、塔は一辺11.2mで、その中心に心礎が原位置で残存すると判明する。
心礎の大きさは2.1×1.5mで厚さは80cm超、径23×15cmの円孔を穿つ。
○2007/04/25追加:「岡山の宗教」から
 久米廃寺跡:中国道工事前の状況と思われる 。(写真背景は姫新線列車、今では考えられない長大な列車編成が写る。)
○2008/12/25追加:「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告004−久米廃寺」 1974 より
中国縦貫道が寺域の中心部を東西に縦貫する計画で策定される。日本道路公団に計画変更を求めるも、受け入れられず、やむなく昭和43年、発掘調査に着手する。
昭和44年3月第1次発掘調査:既に露出していた塔心礎は原位置を保つこと、及び版築の基壇の遺存が確認される。塔基壇の一辺は約10m、軒の出は約3mと推定される。 それ以外の遺構の遺存も推定される結果となるが、道路公団はこれだけの成果では遺跡の保存は不可との結論を示す。それに伴い遺跡の全面発掘に着手する。
昭和44年4月以降昭和47年7月まで第2次発掘調査:この発掘調査は基本的には中国縦貫道および山陽新幹線の計画・工事で少人数の体制で多くの発掘調査を行う必要に迫られ、また道路公団の場当たり的かつ無計画な工事工程により混乱を究めたものとなるも、継続して実施される。 その結果多くの遺構の遺存が明らかになり、昭和47年2月道路公団との協議を実施、協議により廃寺の大部は高架橋(173m)とすることに計画変更され、ようやく保存が図られることとなる。
発掘調査の主要な成果は以下の通りである。
 心礎は花崗岩製、大きさは2.1×1.5×0.8m以上、心礎上面やや東に平滑面があり、その中央に径22/23cm・深さ15cmの孔を穿つ。
塔基壇は版築で、一辺11.2m、高さ1.5mで、周囲には約1mの雨落溝がある。
建物Uの基壇は約15×21mの大きさで、礎石7個を遺存、及び礎石据付穴13個を検出。建物は5×4間。
塔跡周囲からは相輪破片を多数発掘、相輪は青銅製。
 美作久米廃寺心礎1     美作久米廃寺心礎:西側断面      美作久米廃寺心礎:北から撮影
 美作久米廃寺心礎     美作久米廃寺心礎:心礎土壇・東より撮影    美作久米廃寺心礎:塔心礎実測図
 美作久米廃寺塔基壇1:全景、北から撮影
 美作久米廃寺塔基壇2:塔基壇北西隅部、右側の中央より下の2個の礎石は建物Wの礎石。
 美作久米廃寺相輪破片
2011/07/10追加:
○「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年 より
心礎は現状のまま存し、長径7尺2寸短径5尺2寸高2尺4寸、孔穴直径8寸深4寸8分。
 美作久米廃寺心礎実測図     美作久米廃寺心礎写真

美作大庭廃寺(五反廃寺):真庭市大庭

2011/07/10追加:
○「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年 より
 金堂址:字観音堂、大正3年大庭寺址見取図の(イ)(ロ)(ハ)の3地点から礎石3個を発掘し破壊したと云う。この付近に金堂があったものと想定される。
 大塔阯:金堂址南50尺に墓地があり更に南50尺に字イボ水があり一宇の仏堂がある。付近には古瓦の破片が多く散布する。
また墓石及び台石に礎石らしきものが数個認められる。さらに仏堂の東南角に一基の供養塔(寛文9年の年紀)があり、その第2の台石は繰出がある礎石である。この仏堂のある区画は大塔の阯であろう。「イボ水」という字やその南の字「塔の鼻」と称することはそれを裏付ける。
 美作大庭廃寺見取図
 礎石:
伝云、薬王寺門内の大水盤は疣水の心礎を移して加工せしものなりと。
 ※この伝承は、薬王寺客殿を天保年中の再建した時、礎石の多くを運びさると云い、心礎もこの時に運ばれ、
 水盤に加工された可能性が高いと推測させるものであろう。(心礎は水盤として残る可能性が大きいであろう。)
 ※薬王寺は西北約4町にある。寺歴は不詳。
 大庭廃寺礎石実測図:大小8個の礎石が現存し、その内の5個は繰出を有する。
実測図中のAは白猪屯倉遺跡碑の下西南角にあり、金堂跡付近より出土と云う。 | Bは金堂跡東北角より出土する。
Hは寛文9年銘の供養塔第2台石となる。
残りの5個は薬王寺庭園及び境内に存する。天保年中の客殿の再建に際し伽藍址より搬て用いしものなり。
Cは客殿東庭園の踏み石で、椽から泉水への3番目踏み石である。 | Dは客殿北裏軒の踏み石となる。
Eは客殿西北隅の軒端の庭石となる。 | Fは客殿玄関の東南隅軒端にある。
Gは楼門の正面の堂祠の前にあり、客殿の東南隅から5尺を距る。
2015/04/19撮影:
「久世町埋蔵文化財発掘調査報告2 五反廃寺」久世町教育委員会、1997年3月 では
平成4年度から5カ年計画で発掘調査するも、遺構は確認できずという結果に終わるという。
◇推定塔跡(大塔跡)
上記の「岡山県通史」の記載によれば、字イボ水(心礎の存在を強く示唆する)の高まりが塔跡であろう。
ここに小宇(仏堂)があるが、この仏堂について、地元民に聞くも堂名は知らず、また堂内暗くまたガラスが汚れ内部の様子は分からない。
寛文9年供養碑台石や北側の墓地の墓碑にはいくつかの礎石と推定される石が散在する。
 推定大庭廃寺塔跡1     推定大庭廃寺塔跡2
 寛文9年供養塔及び台石:供養塔の彫は浅くかつ摩耗し、年紀を含め判読はできない。
 寛文9年供養塔台石:台石は柱座を造り出し、塔の礎石であろうか。礎石実測図のH。
 集積された無縁慕碑:無縁となった墓碑が積まれるが幾つかは礎石 であろう。写真左上は白猪屯倉跡碑、背後の墓地は金堂跡であろう。
 無縁慕碑推定礎石1     無縁慕碑推定礎石2     無縁慕碑推定礎石3
 墓碑台石・推定礎石1     墓碑台石・推定礎石2
◇白猪屯倉遺跡碑付近推定礎石
台形に土盛され、どの上に白猪屯倉遺跡碑が立つ。土盛に四隅に石が置かれ、西側2個と北東の1個は微かに柱座の痕跡があるように見え、礎石である可能性が高いと思われる。
 白猪屯倉遺跡碑・土盛
 大庭廃寺推定礎石1:東北角礎石、実測図B 。    大庭廃寺推定礎石2;西北角礎石    大庭廃寺推定礎石3:西南角、実測図A 。
 大庭廃寺推定礎石4
◇大庭廃寺推定心礎
「岡山県通史」でいう薬王寺大水盤である。
伝云、薬王寺門内の大水盤は疣水の心礎を移して加工せしものなりと。
大きさ(実測)はおよそ180×130cm×見える高さ76cmを測る。
大きさは心礎である条件を満たしているが、表面が削平され、そのうえ、表面は大きく楕円形に抉られ、心礎や礎石であること徴する柱座・柱穴・舎利孔・枘孔・出枘などの痕跡を 全く残さず、心礎と断定することはできず。
 推定大庭廃寺心礎1    推定大庭廃寺心礎2    推定大庭廃寺心礎3    推定大庭廃寺心礎4    推定大庭廃寺心礎5
 薬王寺堂祠横礎石1     薬王寺堂祠横礎石2
 薬王寺堂祠横礎石3:楼門の正面の堂祠の前にあるという礎石は今堂祠横にある。礎石実測図G
 玄関東南隅軒端の礎石:この石は実見せず、偶然に写真に収まっていたものである。おそらくこれが礎石 (見取り図F)と推定される。
 その他の客殿周囲の礎石は案内を請わねばならず、実見は断念する。
◇薬王寺
「おかやまの古寺巡礼」神野力、山陽新聞社、昭和59年 より
現在の伽藍は寛永以降の再建であり、本堂の建築年代は文政11年(1828)である。高野山真言宗。
創建は明らかでないが、江戸期の「作陽誌」では近郊の長光寺・天福寺・南房・持宝坊や塔の趾もあり、これらは寺内という。
また寺では大庭廃寺が薬王寺の前身で、2度の大火の後現在地に移転と云う。
 薬王寺全景1     薬王寺全景2     薬王寺山門1     薬王寺山門2
 薬王寺本堂1     薬王寺本堂2     薬王寺本堂3     薬王寺玄関     薬王寺客殿?
 薬王寺鐘楼      薬王寺堂祠:堂祠名は不明

美作神林寺:久世町草壁

神林寺は美作守護梶原景時とのかかわりがあったと云う。頼朝没後、その菩提のため三重塔を建立と伝える。
三重塔跡が残る。但し現地は未見のため、詳細は不明。
○「吾妻鏡」には以下のように記録される。
元久二年(1205)五月小十二日己巳。美作國神林寺内。奉爲故幕下將軍家追福欲建三重塔婆。仍寺僧等申材木事等。仍今日可採用當國杣山之由。所被仰下也。
(元久二年五月小十二日己巳。 美作國神林寺内に、故幕下將軍家の追福奉爲、三重の塔婆を建んと欲す。仍て寺僧等材木の事等を申す。仍て今日、當國の杣山から採り用いる可し之由、仰せ下被る所也。)
○神林寺略歴
サイト:村影弥太郎の集落紀行>ページ:神林寺補足(現地の「神村山神林寺沿革史」の全文) 及び
サイト:鴨ねぎ with Mini メイフェア blog>ページ:夏休み特別企画 その1〜その4 を参照して、以下を要約。
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神村山神林寺と号すは、当地に法霊権現を祀るが為である。
 ※法領山頂には法領権現社の跡があると云う。但し法霊権現とは不明であるため、上記の文意は分からない。
本寺の草創は以下の通り。
和銅2年(709)弥次と弥三という兄弟の猟師有り。山へ鹿を追って入り、千手観音菩薩像を発見して祀ったのを始まりとする。
 ※この草創譚は永禄9年(1566)「請令蒙十万檀那助勢造立美作国真島郡神林寺本堂状」<所謂「宝月坊勧進帳」>(元禄4年/1691成立の「作陽誌」所収)に基づくと云う。
平安末期、沙門円誉は唐より仏舎利を持ち帰り、神林寺に祀り、その後、堂宇を大いに建立すると伝える。
また、神林寺の隆盛は都に聞こえ、後白河法皇の祈願所ともなると云う。
 ※神林寺の周辺で表採された遺物(布目瓦・勝間田焼の破片等)は平安期末を示すと云う。(寺院の創建もこの頃と考えられる。)
 ※沙門円誉については、史料的裏づけが乏しく、実相は不明であると云う。
 ※仏舎利は現在に伝わるようで、長さ2cm余、径約1.5cmで淡茶色と云う、(「久世町史」)
源頼朝、美作守護梶原景時に命じて神林寺を改修。
源実朝代、頼朝供養のため三重塔を建立する。
 ※上掲「吾妻鏡」では元久2年(1205)に塔建立が企図される。
応仁の乱の余波で美作でも赤松・山名の守護大名の争乱がり、神林寺の伽藍は悉く焼失する。
その後、高田城三浦駿河守貞連が堂宇を再建する。
永禄7年(1564)本堂などの堂宇を焼失。
普善寺(現在の落合町木山寺)住僧宝月坊は「宝月坊勧進帳」(上術)を作成、再建の浄財を集める活動をする。
永禄12年(1569)頃はこの地方は毛利氏の支配するところとなり、「神林寺上人の斬殺事件」(「作陽誌」)などの発生を見る。
慶長9年(1610)津山藩主森忠政、田畑23石4升3合、山林東西21町、南北19町を寄進。
寛文5年(1665)全山焼失するも、寛文8年には堂宇の再建を見ると云う。
元禄14年(1701)神村は徳川綱豊領となり、寺領は5石2斗5升となる。
宝暦7年(1757)台風が襲い、本堂を大きく傾ける。宝暦13年には本堂修営される。
昭和36年神村は無人となり、ついに住職は下山し、落合町日名の善福寺に仮堂を立て本尊を安置する。
平成10年鐘楼堂(平成6年再建)、本堂(観音堂)及び仁王門の改築・改修の落慶法要が営まれる。
なお東に奥の院、瀧谷不動尊がある。
○サイト:村影弥太郎の集落紀行>ページ:神(こう):この項の写真は当ページから転載
昭和36年下山後、本堂は崩壊、観音堂を補修して仮本堂とする。
 神林寺三重塔跡:何らかの遺構が残るかどうかは不明(現地未見)である。写真で判断すれば、塔阯の伝承があるだけで何も地上には残らない雰囲気ではある。
 旧本堂・庫裏・客殿跡 その他、法霊権現社跡、仁王門、石階・鐘楼、本堂(観音堂)、伝閼伽池、歴代住職墓碑などの写真の掲載がある。
2015/08/13追加:
「久世町史」久世町史編集委員会、昭和53年 より
 神林寺:当寺は神(こう)にあり。古義真言宗、本尊は千手観音。
近年無住となり、荒廃が甚だしいため、南山麓の日名の善福寺に神林寺仮堂を建て、本尊を仮安置し、古文書類もここに保管する。
 善福寺保管文書のうち、当寺の由緒を記したもので一番古いものは、宝永6年(1709)の次の文書である。
「作州真島郡神村山神林寺由緒
 凡当山は・・元明天皇和銅2年(709)開基、山麓有猟師、号兄弥次、弟号弥三・・・・得求閻浮檀金(えんぶだごん)御長1寸8分千手観音尊・・・
爾後入唐沙門円誉・・・開一山之基焉、・・・・・
加之右大将源頼朝公西国政道之節、蒙尊像霊夢令梶原景時、造営若干堂塔■堂?室・・・・・惜哉應永年中罹兵火、余燼一時為焼土、文亀之比高田城主平朝臣三浦前駿河守貞連・・・以故堂社仏閣厳然復古乎・・・
 次而時永禄2年(1669)・・多年之浄業一朝成灰燼也・・・・善福寺沙門宝月坊・・・
  神林寺院景図
一、本堂 四間四面 本尊観世音菩薩 御長1寸8分閻浮檀金  一、鎮守社 二間四面  一、八社天王 ニ間二面
一、三重宝塔 礎石斗御座候  一、弁才天社 一間四面  一、地蔵  一、仁王門 礎石  一、閼伽井
一、竜仙寺趾 元当寺末、本郷二有之 ・・・  一、本堂ヨリ客殿釣屋 二間に三間
  本寺
一、客殿 五間八間  持仏堂 二間に二間半 千手観音、弘法大師御影、両界 弥陀、不動 右は明王院本尊、焼失の時残申候  客殿より厨屋 釣屋
一、厨屋 三間半三間  一、馬屋 牛屋 物置  一、土蔵
一、山本坊 善光院 明王院 浄土院 尼寺 近年迄在之候処、今は礎石迄御座候、此外古寺屋敷御座候
 ・・・・
以上が「作州真島郡神村山神林寺由緒」の大要である。
その後、寛文8年(1668)住職増fの勧進でやや旧観に復する。
本堂・鎮守・天王社・弁財天社・仁王門・客殿・厨屋などを具備していた様子がうかがえる。
明治28年の住職が記した由来書にはつぎのように述べられる。
天保2年庫裡建立、天保4年仁王門修理(仁王門は明和2年/1765再建)、安政4年仮殿であった牛頭天王社を再建。
近世の領主は代々寺領を寄進、森家は23石を、三浦家に代替わりした後は5石余を寄進。
 さらにその後は
昭和18年頃無住となり、昭和38年頃本堂が倒壊・観音堂を仮本堂とするも、猟師により天井裏の貂を捕るため天井は落されている状態である。本堂前の庭には散逸を防ぐため、南参道の丁石及び西参道の石地蔵が集められている。参道は相当程度に荒れている状態である。仁王門のみ明和の修理で現在も狂いはない

美作両山寺

かっては五重塔が存在するも、室町永禄年中に焼失と伝える。
塔はその後再建されることは無く、堂内に安置していた石造(石造は珍しい)の五智如来が塔婆の礎石上に安置される。
当寺は山上伽藍として相当栄えたと伝えるも、現在は上記五智如来・本堂・大師堂・仁王門を残すのみと云う。
○2014/03/02追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2008/05/14撮影・ご提供:
 美作両山寺景観

美作佛教寺

 美作仏教寺三重塔  昭和9年の台風で倒壊。

美作弓削廃寺心礎

現在は日蓮宗蓮久寺門脇にひっそりと置かれる。この付近の廃寺(弓削廃寺)の心礎と云う。
心礎の大きさは1.3×1.2×0.9mの四角形で、中央に径38cm、深さ15cmの円孔が穿たれる。
孔は半分が円、半分は六角形とされるが、それは注意して観察しないと判然とはしない。
2001/12/26撮影:
 美作弓削廃寺心礎1     美作弓削廃寺心礎2     美作弓削廃寺心礎3
 美作蓮休寺門前
○2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
心礎:花崗岩製、大きさは1.7×1.32×1.04m、径37.5×11cmの枘孔を穿つ。寺院遺構は未発見。
○「岡山縣通史」:
今久米郡弓削町千間山蓮久寺(日蓮宗)の門前に在り。
是はもと現位置の北方十六間を隔つる土塀の砌に在りしを去明治三十年頃之を今の場所に移転したるものなりと云ふ。
 2011/07/10追加:美作弓削廃寺心礎実測図
○2008/12/25追加:「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告013−楢原廃寺址」 1976 より
現在寺院址は弓削小学校などとなり、周囲に礎石と考えられる石が残る。戦後小学校体育館が建て直されたとき、大量の瓦類が出土と云う。

美作豊楽寺:山号は静謐山:高野山真言宗 :但し現在の行政区は岡山市北区である。

和銅2年(709)玄ムの開基、鑑真が堂塔を造立したという。
中世には大いに栄えるが、宇喜多直家(あるいは松田氏)の日蓮宗改宗を拒否したため焼亡。津山藩主森氏によりやや復興する。
寛文10年(1670)の豊楽寺由緒書では、五重塔ほか16堂宇、22坊を数えたという。 →下掲の寛文10年「豊楽寺由緒書」参照
現在この五重塔の詳細は不明。
 なお、仁王門(寛文6年<1666>)は貴惣門の形式である。
 ※貴惣門の遺構は、本寺の他には陸奥弘前誓願寺山門<陸奥弘前大円寺のページ中にあり。但し妻入りである>、武蔵妻沼聖天に残る。戦前には摂津四天王寺東大門(元和4年建立)があったが、戦災で焼失する。
○2014/03/16追加:「建部町史 通史編」平成7年 より
「豊楽寺由来書」では和銅2年(709)玄ムの開基とし、山号は当初静謐山、次いで伯村山と号し、慶安年中に薬王山となるという。但し「豊楽寺境内山林町間書上」では静謐山に復すとあるという。
「由来書」には本堂・五重塔ほか十六の堂宇があり、22の寺中、末寺4ヶ寺があったという。
 →五重塔が存在するような記述でああるが、実際は塔屋敷のみである。
○2014/03/16追加:「建部町史 地区史・史料編」平成3年 より
 「豊楽寺絵図」:美作国内社寺郷邑見取図転写(江戸中期)
   ※坊舎名などが判然としないものは加筆をしていない。
本堂(5間四面、貞享2年1685)、観音堂(3間半四面、寛保元年1741)、十王堂(2間四方、享保10年1725)、鐘楼(3間四方)、仁王門(2間半、寛文6年1666)の堂宇を有する。
○2014/03/16追加:「岡山縣古文書集 第一輯」藤井駿・水野恭一郎、昭和28年 より
寛文10年(1670)「豊楽寺由緒書」では
 本堂;本尊薬師尿来  鎮守;若一王子権現宮 拝殿
 五重之塔;本堂巽方60間去、本尊大日如来阿閦宝生弥陀釈迦也、此五重塔、其節之御公家歟、清河宰相殿御息女尼法阿御建立之由、
        唯今屋敷計也
  ※塔屋敷のみ残り、既に退転している。上述の「」には五重塔跡の記載はない。この図であえて位置を求めるとすれば、
  中之坊は本堂から巽方30間去、南之坊は本堂から巽方50間去の位置であるとの記載があり、塔屋敷は本堂巽方60間去ということで
  あるので、塔屋敷は南之坊の南東10間程の所にあったのであろう。
 鐘楼  講堂  一切経堂跡塚有  文殊堂;屋敷計  食堂;屋敷計  阿弥陀堂;屋敷計  惣坊;屋敷計  弁財天;屋敷計
 湯屋;屋敷計  龍王宮  荒神宮  仁王門  本坊
 寺中 : 西之坊 南之坊 東之坊 向井坊 石楽坊 新井坊 楽善坊(以上現存) 井上坊 梅本坊 西善坊 大門坊 楽蔵坊 蔵林坊
       常善坊 赤井坊 中之坊 新敷坊 尾崎坊 平岩坊 常林坊 北室坊 山之坊(以上屋敷計) という。
延享2年(1745)「豊楽寺由緒書」では
 本堂  観音堂  鎮守社  拝殿  十王堂  鐘楼堂  仁王門  不動堂
  本坊・西之坊・南之坊・東之坊・向井坊・石楽坊・新井坊・楽善坊 以上八箇寺御座候 という。
2014/03/24追加;「岡山の門」昭和63年 より転載
 豊楽寺仁王門:本堂より50mほど下ったところに建つ。正面6.7m、側面3.9m、通路幅2.8m。
2014/03/24追加:「A」氏(岡山模型店DAN)2008/05/14撮影/ご提供:
 豊楽寺仁王門2:近年改修が行われたようである。     豊楽寺伽藍     豊楽寺本堂     豊楽寺本坊門

備前八塔寺塔跡(中世の諸史料では八塔寺は美作国とある。近世には備前国に属する。)

 備前八塔寺三重塔跡・十三重塔跡

備前牛窓山観音院

多宝塔があったと思われる。
その根拠は「多宝塔本尊と伝える大日如来坐像」が今に伝わるからである。
しかし、繪圖などは勿論、多宝塔に関わる情報は皆無である。
 ※牛窓山観音院は寛文6年(1666)光政の廃仏で廃寺となるが、寛文6年まで多宝塔が健在であったどうかの情報はない。
 おそらく寛文6年以前に失われていたものと思われる。
 万一、寛文6年迄多宝塔が存在していたとしても、寛文6年の廃寺で姿を消したものと思われる。
  →備前牛窓山観音院

備前弘法寺多宝塔:(昭和42年焼失 )

多宝塔は昭和42年本堂・普賢堂・鐘楼・坊舎等の主要伽藍とともに焼失。
多宝塔は宝永8年(1711)の再建塔であった。一辺4.9m。なお、主要伽藍は未だに再建に至らず、跡地の荒廃が心配される。
  →備前弘法寺多宝塔

備前満楽寺:真言宗大覚寺派

上地山満楽寺(万楽寺)と号する。報恩大師開基と伝え、上地山の山上付近に創建されたとする。
寿永年間(1182-85)現在地へ移転したという。盛時は20数坊を数える。元禄年間(1688-)堂宇の修理。
東福坊、国蔵坊(円城坊)、明王院の3坊あり。文化年間には地蔵院、自性院、平等院、利益院あり。
西塔(多宝塔もしくは二重塔)は天正年中、東塔(五重塔)は文禄年中から取り壊し保存していたが、文化12年(1815)備前妙林寺に塔株を譲ったとされる。 (「同年・御内意窺」)
真言宗大覚寺派。10石。
なお妙林寺については現在のところ細目不詳。
 ※妙林寺とはおそらく日蓮宗津倉妙林寺と推測される。
2013/04/08追加:
かっての坊舎跡は殆ど桃畑となる。小型の本堂、大師堂、庫裏、仁王門などがある。
仁王門は享保年中(1716-)の建築。現在は地蔵院1坊のみと思われる。

備前西光寺

天平宝字4年(760)報恩大師の開山という。建久3年(192)持運上人によって再興。塔坂の東の山上に三重塔があったと伝える。江戸前期には本坊随縁院、安養院、真如院、地蔵院、本覚院があった。天保9年(1838)には随縁院と無住の安養院・地蔵院の3院になる。
庫裏(万治3年ー1660)、仁王門(天和3年ー1683)、本堂(安永3年ー1774)などがある。現在は随縁院1坊のみ。天台宗。20石。寛文年中遍照院訴状:菖蒲寺4坊、内1坊還俗。
2013/04/08追加:
現在、坂の下から旧参道に沿って「大門」の地名が残る。坂の東の山上には三重塔が建ち、安養院、真如院、地蔵院、本覚院、岩本坊、竹之坊などが山上まで立ち並んでいたと云う。
 ※三重塔についての典拠および細目は不詳。

備前地蔵院跡:岡山市東区鉄

2003/04/12「安国寺風土記」より:備前安国寺は高師直の家臣薬師寺公義の居城を利用して建立される。
明応年中(1492年頃)安国寺は焼失し、後廃絶する。
江戸初期眠室宗安禅師が安国寺跡より200mほど離れた山中に安国寺を再興する。
2世賢清が高野山真言宗に改め、地蔵院と改称した。地蔵院は明治に無住。大正9年に医光院の兼務。昭和51年医光院に吸収合併。
地蔵院跡には山門跡があり、山中に安国寺跡看板があり、三重塔があったと説明していると思われる。

備前吉岡廃寺心礎

 備前吉岡廃寺 心礎は万富公民館に移転現存

備前幡多廃寺(史蹟・備前赤田廃寺)

○住宅化している水田中に塔の土壇および心礎、その北方に堂名不明の土壇がある。
「日本の木造塔跡」では、心礎はおおむ六角形に加工された(対辺長2.6mから2,1m)の巨石に浅い柱穴(六角形とも丸とも見える微妙な六角形・径は 90-95cm)とその中心に枘孔(径44cm、深さ17cm)を穿つ。
 (ちなみに美作弓削廃寺心礎の柱穴も六角形のように加工されると云われる。)
昭和47-48年の発掘調査で寺域は方1町以上で、諸堂門などの遺構を検出したとされるが、正確な伽藍配置は不明と云う。
この寺院は地名から見て秦氏の氏寺と推定され、出土瓦から7世紀末(白鳳期末)の創建で平安後期に廃絶したと推定される。
なお北方土壇には4−5個の礎石と思われる石が残存する。
2002/06/16撮影
 備前幡多廃寺心礎1     備前幡多廃寺心礎2     備前幡多廃寺心礎3
 備前幡多廃寺心礎4     備前幡多廃寺心礎5
2008/06/28撮影:
 備前幡多廃寺心礎1     備前幡多廃寺心礎2     備前幡多廃寺心礎3
 備前幡多廃寺心礎4     備前幡多廃寺心礎5
 備前幡多廃寺礎石1     備前幡多廃寺礎石2     備前幡多廃寺礎石3
○2011/06/24追加:
「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年 より
上道郡幡多村大字赤田字塔ノ元に位置する。
心礎大きさ:長径面8尺3寸底9尺3寸、短径面6尺4寸底8尺、円孔大孔深さ1尺口径2尺8寸5分、
小孔深さ5寸中央6寸口径1尺4寸5分底径1尺3寸5分
 幡多寺心礎実測図
○2011/07/14追加:
「幡多廃寺発掘調査報告」岡山市教育委員会、昭和50年 より
 この報告書は、岡山市教育委員会の主催・幡多廃寺発据調査団が、昭和47〜48年に渡り実施した発掘調査報告である。
発掘前の知見は、心礎の存在する中土壇、その北方には稲荷社土壇があり、周辺の水田から瓦片の出土が見られるというものである。
また、地元の人の話によれば、塔心礎東側の水田地下に大きな石材が埋まっているとのことである。
 ※稲荷社には、比較的整った直方体の大きな割石が土壇側壁として並べられ、境内にも割り石が2・3個ある。これは礎石等の石材を
 この境内地へ集めたものかも知れない。
 ※稲荷小社境内地は東西10m、南北15m、高さ80cmの土壇であり、この土壇は何らかの寺院基壇の遺存物と推定され、
 基壇基礎地形は、過去にかなり内部まで削平された後に、稲荷小社境内地として現規模の土壇が造成されたものと判明する。
発掘調査の結果、塔基壇と金堂、講堂に比定される基壇基礎地形、北回廊、東回廊、東西南北各築地の基礎地形、南大門及び中門の基壇と推定される基礎地形などの遺構が検出される。
これらからみて、寺域は東西約68間、南北約71間であったと一応推定される。
 しかし、寺院址は、周辺一帯の水田化に伴ってかなりの地下げをされており、予想以上に寺院関係遺構の遺存状態が悪く、堂塔基壇等の遺構を明確な状態で検出しえなかった。このため、伽藍配置を適確に復原することができないが、幡多廃寺は、所謂「何々寺式伽藍配置」の図式に適合しない、独自的な伽藍配置であった可能性が強い。
但し、寺院址主要部分に比較的広範囲にわたって凝灰岩石材片が散布していたことから、主要堂塔が壇上積基壇であったと推定される。
そしてこの寺院の時代であるが、幡多廃寺は白鳳期後半に建立され、平安時代中頃まで存続していたことが判面する。
 塔心礎は、平面形が変形六角形(3頂角が鋭利な角で他が角落とし状に緩やかになった円匙先に近い形状)に加工され、上面対辺長径2.60m(対角長径2.86m)、同短径2.10m(対角短径2.56m)を測る花崗岩製で、北側約1/3を残して上面・側面とも淡赤桃色に変化した焼成痕が認められる。
心礎中央には南側の一部が判然としない緩純な(丸み)六角形の塔芯柱柱孔が彫られており、その測値は、深さ1-2cm、外郭東西対角径88sm、底面前同84.5cm・外郭南南東-北北西対角径95cm、底面前同92cm・外郭南南西-北北東対角径90cm、底面前同85cmを測る。
芯柱棟孔の中央に、外郭直径43-44.5cm、内径(上部)40cm、同(下部)39cm、深さ(柱孔底面下)15-19cmの底面の緩く丸みをもった仏舎利納入孔が穿たれており、この底部に後世に刻まれた彫痕が認められる。
 備前幡多廃寺心礎21     幡多廃寺心礎実測図22
2021/09/05撮影:
○現地案内板 より
 國指定史跡。塔心礎が現存する。岡山県下最大級の大きさで、中央の六角形の窪みは枘孔で、その中央の深い穴は舎利孔である。
寺跡は有力な豪族・上道氏の拠点に位置する。
昭和47・48年に発掘調査が行われ、回廊・築地・塔・講堂・南大門・中門・北門等の基礎と推定される遺構が検出され、伽藍配置が復元されているが、未確定である。
出土瓦等から白鳳後期から平安後期まで存立していたと想定され、賞田廃寺と同様凝灰岩製壇上積基壇の石材と想定される部材も出土する。
 備前幡多廃寺伽藍想定図
 備前幡多廃寺心礎21:備前幡多廃寺心礎現状:数年前も周辺は住宅化が進んでいたが、それでも心礎周囲は田畑であった。しかし現在は一変し、全て新し住宅で埋まり、心礎と北側の小祠のみとなる。中央に心礎が置かれる、中央奥に小祠が写る。
 備前幡多廃寺心礎22     備前幡多廃寺心礎23     備前幡多廃寺心礎24     備前幡多廃寺心礎25
 備前幡多廃寺心礎26     備前幡多廃寺心礎27     備前幡多廃寺心礎28     備前幡多廃寺心礎29
 備前赤田稲荷社:小祠である、稲荷社とは上述の「幡多廃寺発掘調査報告」による。
 幡多廃寺推定礎石11:心礎の傍らにある。
 幡多廃寺推定礎石12:以下は稲荷社にある。      幡多廃寺推定礎石13     幡多廃寺推定礎石14


○ページ:赤田町内会 より以下転載。
町内紹介:幡多廃寺跡
幡多廃寺跡
赤田には、創設が7世紀末と推定される幡多廃寺跡があります。寺跡は岡山市東岡山連絡所のある高屋から北へ約七百メートル、赤田百三十番地の田んぼの一隅に野道(九郎稲荷の参道)に添って一辺約七メートルばかりの正方形に近い塔跡を残し、その中央に岡山県下第一といわれる巨大な塔の心礎が露出している。心礎は原位置を動いていない模様で、この塔跡のある田地を塔元(とうのもと)と呼び、その南の田を塔の前(堂の前)と称しているので、寺が規則正しく南面していたことがわかる。また塔元の東の田が塔ノ東、北が黒元、その北に続いた田を大名地と呼ぶ。黒元は庫裡ノ元が転じたのであろうといわれている。塔元の西が久保田、その西にシモク田、コンガラ地、コンガラ畑など、仏教に関連した名前が残されている。塔跡から北へ約五十メートルばかりのところに稲荷社がある。一辺約十五メートルばかりの方形の屋敷で、寺の鎮守であったものか、堂の跡と思われるが、明瞭な遺跡は塔跡だけなので伽藍全体の配置がつかめないため、四天王寺式からみてここが金堂跡とも決めがたい。この寺が秦氏の氏寺だったとの説もあるが、心礎や出土瓦が奈良時代後期を示しているため、氏族の氏寺と決めてしまうことも出来がたいが、この平地に、五重塔、金堂、講堂、僧房その他を揃え、おそらく二百二十メートル四方の寺域をもった伽藍のあったことは事実で、存続期間も相当長かったものと想像される。(幡多学区連合町内会「幡多二千年の歩み」からの引用)

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(参考):但し塔跡などには全く関係はない。
  ※岡山「A」氏(岡山模型店DAN)から八幡村八幡社の写真提供を受けたので、ここに掲載する。
備前八幡村八幡宮
 八幡村八幡宮は幡多廃寺の北西徒歩で凡そ1.5kmの地点にある。
○八幡村八幡宮の社歴は「岡山県神社庁」のページ及び「現地案内板」などを要約すれば、次のようである。
 御祭神の社記によると、元和元年(1615)岡山藩主池田家2代忠雄が八幡村内の豊作と平安を祈念して造営し創建される。
その後次第に衰微するも、延宝4年(1676)岡山藩池田宗家2代綱政が再興する。綱政は山城国久世郡男山八幡宮を勧請し、社有地「6反8畝7歩外に竹林9反28歩」、社領「現米高60石」神饌料「5石」を寄進する。
明治42年社殿全焼、明治44年再建、更に平成6年社殿全焼、平成8年再建という。
 ※岡山藩池田宗家初代は光政で、綱政はその子である。
○「日本歴史地名大系 岡山」では以下のように記す。
 八幡村:
「寛永備前国絵図」では126石余、「正保郷帳」では水損中とあり、「備陽記」では田畑11町余家数29人数149、文化年中の「岡山藩領手鑑」では直高375石余、蔵入。田高156石余・8町3反余、畑高51石余・2町8反余、家数19、人数96・・・社方3軒(人数14)で、八幡宮・天神宮があった という。
八幡宮は池田忠雄が草創し、延宝年中(1673-81)池田綱政が社殿を造営(「備陽国誌」など)という。
池田家の崇敬は厚く社領60石を有する。
しかし「吉備温故秘録」では里人は8月15日の例祭は御上の祭といい、9月29日を里民の祭と称して祝うことから、古くから当地に八幡宮があり村名もこれによると記す。
 ※諸資料が示す八幡村は決して大邑ではなく、むしろ小さい村である。その村の構成は「岡山藩領手鑑」で分かり、そこには八幡宮・天満宮があり、その社方3軒のみであったというから、明治維新前には日常としてあった八幡宮などの佛教による支配はなかったものと推測される。つまり宮寺(神宮寺・本地堂)や別當などの寺院は併存しなかったものと思われる。
 ※上述の社有地「6反8畝7歩」は凡そ2000坪、外に「竹林9反28歩」は凡そ2700坪都合凡そ4700坪、竹林も社有地に隣接してあったとすれば、メーター換算で凡そ400m×400m四方の土地である。
 昭和39年八幡村地図:国土地理院1/5000地図、中央やや下に八幡村八幡神社がある。基本的に八幡村及び神社の周囲は純農村の風景であり、江戸期の様相をほぼ残すものと推定される。しかし明治維新の上地で八幡神社の社地は僅か東西80m×南北120mと東西100m×南北70m(台形)程度の大きさに縮小されたものと思われる。
 昭和46年八幡村地図:国土地理院1/5000地図、昭和39年から7年程度で八幡神社の周囲(北辺と南辺)は住宅化し、神社東辺の東西100m×南北70m(台形)の部分(現在は高島公園・運動場)ははっきりと別区画となり、神社境内は更に縮小され東西80m×南北120m程度の規模(4700坪の16分の1程度)になっていることが分かる。そしてこの構造は現在に引き継がれているものと思われる。
2015/09/21岡山「A」氏撮影画像:
 備前八幡宮随身門:写真の幡などでは八幡村八幡宮は備前八幡宮と称するようである。
 備前八幡宮拝殿     備前八幡宮本殿:但し建築としてはいずれの社殿も平成8年の再建で新しいものであろう。
なお、全国で祀られる祭神の数の第一位は八幡神であるが、特に山陽筋は八幡社の分布の多いことで知られる。
岡山県においては神社1631社のうち、八幡神社・八幡宮が277社を占め、次の荒神59社、その次の天神37社と比しても八幡神が圧倒する事が分かる。(「現代・神社の信仰分布」より)

備前賞田廃寺(史蹟)

 備前賞田廃寺

備前堂屋敷廃寺:備前西谷山妙塔寺

 備前堂屋敷廃寺は備前法界院の前身である報恩大師建立と伝える西谷山妙塔寺の故地であると推測される。
この西谷山妙塔寺を描いたと推測される「西谷千軒及西谷山古圖」によれば、本寺には三重塔が描かれる。
もとより、本図に描かれる伽藍の信憑性は、確実な文献がある訳ではなく、また発掘調査などで遺構が確認されている訳でもなく、現地にその伝承が残る訳でもなく、全く検証する術がないのが実態である。
しかしながら、妙にリアルな描写から、ある種の真実味をもって迫ってくる絵図であることも確かであろう。
なお、
 詳細な伝承は欠くが、堂屋敷廃寺に入る谷筋の入り口に近世初頭の再興と思われる西谷山法萬寺が現存する。
報恩の開基ということと西谷山と云う山号を継いでいることから、西谷山妙塔寺の後身の可能性が高いと推測される。
この法萬寺に関して、石田茂作の「佛教考古学論攷」には「法万寺多宝塔、御津郡牧石村原、真言、今なし」との記載がある。
 しかしながら、法万寺多宝塔とは如何なる文献を出典とするのかは不明 であり、また多宝塔は再興後の今の地にあったが今はなし、ということなのかどうかも不明であり、古には多宝塔があったと云う石田茂作の記述を確認することが不能であるのが現状である。
 備前堂屋敷廃寺(備前西谷山妙塔寺 )

備前蓮昌寺三重塔

 備前連昌寺  室町期の塔婆 (旧国宝)であった。昭和20年戦災で焼失。

備前吉備津彦神社神力寺塔2基

 備前吉備津彦神社:備前一宮神力寺の重塔(層塔)心礎は幕末・明治維新の頃は存在していた証言がある。

備前藤戸寺:児島郡藤戸

2015/02/27追加:
○「源平藤戸合戦大絵図」(藤戸寺蔵);江戸期のもので作者不詳。
本絵図の下中央に藤戸寺伽藍が描かれ、その中に多宝塔がある。多宝塔があったという情報には接しないが、古くには多宝塔があったのかに知れない。
 源平藤戸合戦大絵図:全図       源平藤戸合戦大絵図藤戸寺:部分図
○「おかやまの古寺巡礼」神野力、山陽新聞社、昭和59年 より
寺伝では慶雲2年(705)行基の開山あるいは報恩大師の開基とも云う。かっては12坊を備えるという。
戦国期の兵火で灰燼に帰すも、寛永8年(1631)厳島大聖院栄遍が再興を志い、岡山池田氏各代の援助を得て、伽藍を再興する。
この時の寺領は29石余。高い石垣の上に二段の平地があり、本堂・大師堂などは上段にある。、

備前高野山吉備別院二重塔

 備前吉備別院二重塔:昭和末期もしくは平成初頭に取壊。

備中赤茂廃寺(英賀廃寺):真庭市上水田

 「移転心礎」の「備中赤茂廃寺」の項

備中吉備津神社三重塔跡

 備中吉備津神社

備中惣爪廃寺塔心礎(史蹟・津寺跡)

全くの平野部の田中の畦に、塔心礎がポツンと1個だけ残る。
周囲は水田として耕作され、そのため削平され、詳細は全く不明。心礎の位置が原位置を保つかどうかも不明。
心礎は長径2.48m、短径1.64mの花崗岩に径70cm、深さ17cmの孔が穿孔され、さらにその底に径15cm、深さ8cmの孔の穿孔がある。瓦は奈良期のものが出土すると云う。
2002/12/30撮影:
 備中惣爪廃寺心礎1   備中惣爪廃寺心礎2   備中惣爪廃寺心礎3   備中惣爪廃寺心礎4
 備中惣爪廃寺心礎5   備中惣爪廃寺心礎6
2008/02/10追加:「月間 歴史と旅」昭和49年4月号、秋田書店 より
 備中惣爪廃寺心礎11
2011/06/24追加:
「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年 より
津寺址、俗称・石の釜、僧都免(惣爪)と称する。
大正12年の記録であるが、惣爪の土肥治平(当年78歳)の現地の案内及び言は「石の釜の西方33間及び北方33間は石の釜を下ること4・5寸なる一面の畑地であった。18歳の頃(元治元年)石の釜を3尺許地下げし、今日のような水田となす。東面は幕末頃は8戸ばかりの集落であり、先祖代々税金の軽微な畑免であった。」 というものである。
要はこの地は早くから開墾され、伽藍跡は荒廃していたことが知れる。
また現在堤防を具備する足守川が西方を流れるが、近世の古記録などから、中世までは北方の板倉川に合流し、現在の足守川河道は無かったことが分かる。(その論証は省略)
 津寺心礎大小円孔寸法:円穴径は2尺3寸深さ5寸7分内外、円孔口径5寸1分底径4寸1分深さ2寸7分
2015/09/07追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
上記「岡山県通史」と同一の記載である。
2014/11/23撮影:
 惣爪廃寺心礎11     惣爪廃寺心礎12     惣爪廃寺心礎13     惣爪廃寺心礎14     惣爪廃寺心礎15
 惣爪廃寺心礎16     惣爪廃寺心礎17     惣爪廃寺心礎18     惣爪廃寺心礎19     惣爪廃寺心礎20
2020/04/03撮影:
 惣爪廃寺心礎21     惣爪廃寺心礎22     惣爪廃寺心礎23

備中大崎廃寺

2011/10/28追加:
2つの土壇が残る。但し発掘調査は未実施であり、詳細は不詳。
採集瓦のなかには「水切り」を持つものがあり、また飛鳥期の軒丸瓦も採取されると云う。
 ※水切り瓦は備後寺町廃寺、上山手廃寺、寺戸廃寺などで出土し、備後との関係があったと推定される。
「『水切り瓦』の起源と伝播の意義−飛鳥・白鳳寺院出土の古瓦をめぐって−」岡本寛久(「吉備の考古学的研究 下」山陽新聞社、1992 所収)
 大崎廃寺推定伽藍図
2014/02/08追加:岡山「A」氏(岡山模型店DAN)2013/06/18撮影・ご提供 :
 備中大崎廃寺1:手前の土壇が塔跡、背後の土壇が金堂跡と思われる。
 備中大崎廃寺2:大崎廃寺跡にある文英地蔵石仏、左土壇が大崎廃寺土壇と思われる。
2014/02/16撮影:
本廃寺は発掘調査が未実施であり、また地表には明確な礎石などが残らないため、詳細は全く不明。南北に基壇と思われる2つの土壇が残るので、出土瓦の年代(飛鳥期) も加味して、四天王寺式伽藍配置を採る寺院跡と推定される。
通常、耕作などで土壇などは削平されるケースが多いが、本廃寺は珍らしく、土壇を良く残す。
 大崎廃寺推定塔・金堂土壇1:手前が推定塔土壇      大崎廃寺推定塔・金堂土壇2:向かって左 が推定塔土壇
 大崎廃寺推定塔土壇1:北から撮影      大崎廃寺推定塔土壇2:北やや西から      大崎廃寺推定塔土壇3:東南から
 大崎廃寺推定塔土壇4:東から         大崎廃寺推定塔土壇5:東から
 大崎廃寺推定金堂土壇1     大崎廃寺推定金堂土壇2     大崎廃寺推定金堂土壇3     推定金堂土壇上の推定礎石
文英地蔵石仏:推定塔土壇に接して、文英地蔵石仏がある。
この石仏には「念佛講 文英筆」「天文四年(1535)乙未五月□日」の刻銘があると云う。<刻銘未見>
 大崎廃寺文英地蔵石仏
○「岡山の石仏」岡山文庫、巌津政右衛門、昭和58年では「文英石仏」について、次のように解説する。(大意)
文英石仏は昭和12年の「吉備郡史」永山卯三郎で取り上げられるたのが嚆矢となる。その後次々に探し出され、備中高松・足守川流域で数十基が存在するほか、備前築地山常楽寺の寺山からも集団で発見され、さらに備前赤坂町にも点在することが分かる。今では100基を超えるものと推定される。但し、文英銘を刻むものは 「天文」に限られるようで、次の年紀である文禄銘は文英以外の別人の銘となる。また無銘のものも多い。
 文英については石仏の銘以外に、資料はなく、人物像は不明である。唯一、備中立田辻持宝院の十一面観音石仏には「天文十四年三月」「福成寺 文英誌 」と銘があり、文英は福成寺住僧と知れる。福成寺は備中平山にその跡を残すと云う。
2014/04/26撮影:
備中高松資料館内文英石仏:○資料館内文英石仏
 「備中高松城水攻めの史跡を歩く」では以下のように述べる。
平山福成寺の文英が戦による死者の供養のために建立したもので、高松地区では73体を数える。ほとんどは発掘調査や工事等の時に地下から発見される。

備中栢寺廃寺(賀陽廃寺、賀夜廃寺、加夜廃寺、南溝手廃寺)

○「幻の塔を求めて西東」:
賀陽山門満寺、心礎の大きさは220×220cm。
2007/04/25追加:
○「吉備の古代寺院」より
 栢寺廃寺心礎実測図
五重石塔の下に移動した心礎があり、その周囲に礎石がある。心礎は2段式で、舎利孔は長方形の形を呈する。
現在心礎表面を観察することは不可であるが、上図では、径50cm内外の深さ25cm程度のやや上面に比べて底径の小さい円孔とその底に長方形の舎利孔を穿つ 様が示される。
2007/04/25追加:
○「岡山の宗教」より
 備中門満寺:通称「加夜寺」と呼ばれる、浄土宗、境内に巨大な礎石が散在、附近に賀陽氏の館跡があり、また寺伝で加夜寺と云う。現在無住で荒廃が著しい。
2007/04/25追加:
○「岡山の遺跡めぐり」より
 南から見た門満寺:現在荒廃の激しい加陽山門満寺を望む。
 門 満 寺 礎 石:荒れた境内には円形造り出しのある4個の礎石が五層の石塔を囲む、周囲および寺の裏には多くの瓦片が見られる。
2008/02/18追加:
○「岡山県史 第18巻 考古資料」昭和61年より
昭和52・53年に発掘調査、塔の位置と規模が判明する。塔跡は削平を受けるも、堀込地業と地覆石が残存し、基壇化粧・階段位置などは不明ながら、塔の規模は一辺43尺(12.9m)と判明する。但し金堂・講堂などの遺構は不明。
基壇中央には3.5×4.8mの心礎抜取穴があった。台座となる心礎の大きさは2.3×2.4×高さ2.4m強を測る。
礎石は全て動かされ、塔心礎及び四天柱礎石と推定される礎石は塔基壇西にある。
近年塔基壇の復元がなされ、四天柱礎石及び南東及び南西隅の礎石は境内に残存していた礎石が充当され、残余の礎石は複製され復元が図られる。
出土瓦から白鳳期の寺院とされ、この地は賀夜郡に属し、また字が「栢寺元」と称するため、吉備の古代豪族賀夜の氏寺であろうと推定される。
後世、この寺跡には浄土宗門満寺が建立され、近年まで本堂・開山堂・鐘楼などが存在したが、無住となりそれらは取壊され、現在は山門といくつかの石碑・石造五重塔・塔心礎のみが残る。
 栢寺廃寺塔基壇発掘図
○2008/02/05撮影:
 備中栢寺廃寺五重石塔   同     心礎1   同     心礎2   同     心礎3   同     心礎4   同     心礎5
  ※心礎の円孔・舎利孔以外に長方形の穴が彫られているがこれは台石に転用した時などの加工であろう。
   同   復元塔跡     同   復元塔跡2
   同    塔礎石1   同    塔礎石2   同    塔礎石3   同    塔礎石4
   同  門満寺山門   同   復元塔跡3   同  復元塔跡図   同 塔基壇地覆石(北東部)
 ※復元塔跡図:近年塔跡はこの図のように復元され、復元礎石を含め19個の礎石が置かれる。
2008/12/25追加:
○「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告034−栢寺廃寺」1979 より
昭和52・53年に発掘調査。この地は字「栢寺元」と称し、明治初期の行政区は茅村であり、地元民も多くは「カヤてら」跡と呼ぶことから、古くからこの寺院はカヤ寺と伝承されていたと思われる。
廃寺跡は後世の寺院建立などで著しく削平を受け、伽藍配置などを明らかにする遺構は検出できず、辛うじて塔跡の概要のみが判明する。その概要は上記の「岡山県史」の記述のとおりである。
 門満寺全景:南西より     門満寺全景:西より     門満寺境内:北より
 栢寺塔心礎:北東より:心礎上の石製五重塔は 明和6年(1769)建立と云う。
 栢寺塔基壇実測図:中央は心礎抜取り穴、四辺に地覆石が確認できる。
 心礎抜取穴:南より     心礎抜取穴:東より     栢寺残存礎石:現心礎の四隅に配置されていた礎石と思われる。
 栢寺塔基壇:北より     栢寺塔基壇:西より     栢寺塔基壇北端延石
 塔基壇東端延石:北より     塔基壇東端延石:左は南より、右は北より     第1トレンチ延石:東より
 塔基壇南端延石:南より
2009/04/04追加:
○「賀陽山門満寺縁起」難波聖爾、1982<復刻の掲載がある> より
 ※「備之中州賀陽郡賀陽山門満寺縁起」運誉謙道写本、宝暦11年(1761)巻子本 が残存すると思われる。
(上記の復刻の文字が小さく)判然とはしないが、凡そ以下の縁起と思われる。
宇多天皇代(仁和3年887〜寛平9年897)賀陽良藤、宮中警固のため宮中に詰めている間に、良藤の妻が逐電する。・・・(左記に関して様々な奇譚があると思われる)・・・
良藤の一族は皆長者であり・・・榧の木で十一面観音像を刻み本尊とし、七堂伽藍の大寺となった。
 門満寺縁起伽藍図:ここでは金堂・層塔・山門などの七堂伽藍が描かれる。 賀陽氏氏寺時代の伽藍であろう。
後醍醐天皇代、建武年中備中福山の合戦で・・・軍兵は寺社に乱入、所構わず放火し、当山の金堂・講堂・山門・五重塔も灰燼に帰す。
近世、蒙光上人が当寺を再興、備前太守池田少将家老伊木将監の寄進により伽藍がなり、不断念仏の道場となる。
 門満寺縁起蒙光上人:塔礎(心礎)が描かれる。 当時は現在ある石造五重塔の設置は未だ無かったものと思われる。
 門満寺縁起復興伽藍:東向の惣門を入り、正面 に本堂があり、本堂左手前に塔礎がある。
※縁起の記載内容の真偽は不明ながら、古には金堂・五重塔・講堂などの伽藍があり、その伽藍退転の後、心礎は境内に残る様が窺える。
2011/07/10追加:
◎近年の遺跡整備により、往年の姿は失われる。よって往年の姿の縁(よすが)として以下の記録を掲載する。
○「岡山県通史」上下巻、永山卯三郎、昭和5年 より
寺門を入れば向て左方に一大供養石塔を見ん。その礎石の四隅に各繰出ある礎石4個(図中BCDE)を見るべし。就中BC2個は原形のままにて相距る10尺3寸。蓋し大塔礎石の残存するものならん。
Aは水盤の台石となり、・・・。Fは・・・石塔石の台石となる。Gは大正12年北方の用水路中より拾上げたるものなりといふ。
 賀夜寺礎石分布     賀夜寺礎石図
2015/09/07追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
上に掲載の「岡山県通史」と全く同一の記事の記載がある。
 賀夜寺礎石      賀夜寺全景
 「備中誌」賀陽山賀陽寺の条:
 元弘中、足利直義福山を攻める時、宮方の輩を亡し賀陽寺灰燼に帰する。
 賀陽山門満寺の条:
 賀陽寺建武3年焼亡より345年の後、延宝8年(1680)浄土宗僧蒙光頽廃せし伽藍石の址にて念仏を唱え金を集めて小庵を造りて
 天和2年(1682)本堂を建て賀陽山門満寺と名付け・・・念仏寺となす。
2012/04/03追加:
○「栢寺廃寺」(「総社市史 考古資料編」総社市、1987 所収) より
基壇中央で検出された心礎土壙は3.5×4.5mを図り、現状の心礎の大きさは2.3×2.5m高さ2,4mを測る。
 備中栢寺廃寺心礎10     栢寺廃寺心礎実測図     西から見た門満寺

備中新山廃寺:岩屋山/岩屋寺及び新山/新山寺

2011/10/28追加;
寺伝では善通大師(文武天皇皇子と伝えるも良く分からない)の開基とする。
 ※旧延寿院墓地に善通大師供養塔(皇の墓・・花崗岩製無縫塔、無銘、総高170cm、中世中頃の作であろう)が残る。
 善通大師は天平勝宝8年(756)この地で入寂と云う。
平安中期には成尋阿闍梨が修行した地とも伝える。
 ※成尋:寛弘8年(1011)- 永保元年(1081)、天台僧。長久2年(1041)京都岩倉大雲寺別当に就任、延暦寺総持院阿闍梨となる。
 延久3年(1071)新山にて修行、延久4年(1072)北宋へ渡り、天台山や五台山などを巡礼、北宗にて寂する。(「成尋阿闍梨母集」)
また、念仏聖定秀上人(不詳)が修行しこの地で往生を遂げると伝承するなど、平安期には浄土信仰の山として栄える。
 ※承保3年(1076)定秀上人極楽往生と云う。(三善為康「拾遺往生伝」)
平安末期には36坊を数えると伝え、阿弥陀院、弥勒院、能満寺(山麓に下山し現存)などの寺坊の名称が伝わるも、現在は岩屋寺一宇が残るのみとなる。
鎌倉期東大寺大勧進俊乗坊重源が備中別所に浄土堂一宇を建立する(「南無阿弥陀仏作善集」)が、この備中別所とは新山寺であるとの論証も試みられている。
  ※岩屋山16坊、新山菩堤守屋敷14坊、嶽寺塔坂8坊などの38坊があった。(サイト:そうじゃおいたち物語の平安時代)
新山部落付近には大量の平安期の瓦の出土を見るところがあり、また中世の径160cm深さ約130cm(底は抜ける)の鉄釜(鬼の釜)が残る。
 ※この釜は「温羅が使用した」釜との伝説があるが、実際は鎌倉期の治療用湯釜であろうと云う。
 東大寺再建大勧進重源の備中における布教拠点として新山を選び、重源が設置した湯釜であろうとの推測もある。
 また、もとは湯釜谷にあったが、享保7年(1722)地元民が現在の場所に運び、その時底が壊れたとも伝わる。
  新山廃寺鬼ノ釜1:2012/04/03追加:「総社市の歴史と文化財」総社市教育委員会、2007 より
  新山廃寺鬼ノ釜2:2012/04/03追加:リーフレット「総社市まちかど郷土館」 より
以上の参考文献:
「岡山県の歴史散歩」昭和51年、以下岡山文庫本「岡山の遺跡めぐり」昭和45年、「岡山の宗教」昭和48年、「吉備路」昭和42年
○「岡山県の地名」
現在は、大門跡(礎石が露出)の他、菩提寺、金堂、戒善坊、行道坊、遍照院、大光院、能満寺、薬師院が付近の地名などから推察できる。
2012/04/03追加修正:
○「新山廃寺」(「総社市史 考古資料編」総社市、1987 所収) より
大門より210mの地点でトーダニの地名あり。永山卯三郎氏の記録では礎石を確認出来るとあり。
但し、現状は竹藪で詳細不明。
塔一辺8.10m、柱間は2.7mの等間とあるが、どのような資料に基づくのかは不詳。
なお大門の礎石が現存し、その規模は正面8.7m、側面5.4mであり、八脚門である。
 新山廃寺遺構配置図
新山への登山道を北上すると猫股(猫股石と云う方形の大石がある)に至る。ここで車道は左折するが、古道は細い谷川沿に直進する。
猫股から350mほど山際に沿って登りつめると整然と自然石を並べた字「山門」に至る。永山卯一郎の記録では南面した三間一戸の構造を持つ。山門をさらに昇ると車道に出、そこに「鬼の釜」がある。鬼ノ釜は菩提坊跡と思われる一画にある。鬼ノ釜は享保7年に「釜の檀」から掘り出され、菩提坊旧地境内に移された と記録される。付近の田畑・宅地は南面に高石垣を築き、坊舎跡を思わせる佇まいである。
鬼ノ釜の北に進むと東の谷に所ゝに高石垣が散見されるがこれが阿弥陀院跡である。
鬼ノ釜西の谷を石塔谷と呼び、現に室町期の五輪塔一基がある。
阿弥陀院の北が「トーダニ」であり、現状は竹薮となり潅木が繁り到底分け入ることはできないが、永山氏の調査では、方3間、心ゝ距離が3尺(90cm)の等間の礎石が確認できると云う。
塔ノ檀の西59mの尾根の鞍部が本堂跡で、平な頂部には礎石が散見できる。本堂西の小谷には「本堂池」がある。さらに西に尾根が北から張り出しその頂部には「北斗神社跡」の石碑が建ち、一帯を「林屋敷」と云う。この北西の南斜面を「宝堂」と呼ぶ。(宝蔵があったのであろうか)
宝堂の西の谷が湯釜谷で、ここには文禄3年(1564)の宇喜田氏の廃寺調査では経蔵坊・大光院の2坊が記録される。鬼ノ釜を掘り出した場所は谷の北の谷頭にあたり、ここは文字通り檀をなし、木炭粒が散乱する。
釜ノ檀の東100mほどが地元で云う重源ゆかりの浄土堂の跡である。浄土堂跡の北に山王21社権現があり、弘法大師が叡山より勧請と伝える。その南東50mに閼伽井がある。
この付近から南西に「紫の山」が遠望できるが、山頂には礎石群と古瓦の散布が知られる。「紫の辻に寺10軒」の記事(「備中集成志」)も荒唐無稽ではないと思われる。さらに南の山頂「清水平」や経山にも人工的な平坦地が見られる。
 備中新山廃寺大門跡     大門跡礎石配置図     新山廃寺阿弥陀院跡
なお出土瓦の詳述があるが割愛。
○「総社市埋蔵文化財調査年報5」総社市教育委員会、1995 より
 新山廃寺地形図
なお、岩屋寺・皇の墓は本図の本堂跡の北方の山塊を越えた岩屋、奥坂にある。
2012/04/03追加:
○岩屋寺:「岡山県の地名」より
創建については諸説ある。
「岩屋寺記」岩屋寺東塔院宥心、寛正3年・1462(「備中志」所収)では道教が開山し、往時114坊を数えると云う。東塔院は善通大師の開基といい、本堂・鎮守・五重塔・経堂・釈迦堂・毘沙門堂・大門・中門などを備えると云う。
戦国の戦乱で衰微し、東塔院は僅かに毘沙門堂のみを残し慶長12年(1607)では山上に9坊、延宝8年(1680)では5坊に減じ、この年御室仁和寺末となる。(「岩屋山縁起」足守藩主木下公定(公は正確には「八」の下に「白」)、享保6年)
現在は山上に坊舎はなく、無住。旧延寿院墓地に善通大師供養塔(皇の墓)が残る。
なお「岩屋寺常行堂 享徳三甲戌 院主来迎院祐金」と刻する古瓦が採取される。
 ※新山寺と岩屋寺との関係ははっきりしないが、地理的な近さから、おそらくは新山寺の有力な寺院であったものと推測される。
2015/09/25追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
◎新山
大規模な山上伽藍地であったが、近古以来頽廃甚だしく文献の徴すべきもの甚だ乏しく僅かに次の三種の縁起を存するにすぎず。
 (1)備中國賀陽郡生石庄鬼城縁起、延長元年(923)菩提寺沙門圓會僧正撰
 (2)岩屋寺記、寛正3年(1462)東塔院宥心法印撰
 (3)岩屋山縁起、享保6年(1721)木下公定撰
「吉備乃志多道」では「窟山奥坂村にあり、此山善導大師開基にて大伽藍たりと云ふ。・・・」
 【区画】延長元年(923)圓會僧正の記すところによれば、山上を別ちて蛇嶽及び鬼城、新山嶽寺の三区とす。
新山を中央とし蛇嶽は新山の北方約20町に在りてやや東に偏し、嶽寺は新山の南方約20町に在りてやや西に偏す。
或云、蛇嶽即岩屋山16坊。新山、菩提寺屋敷14坊。嶽寺、塔坂8坊。総て38坊ありと。
1.蛇嶽又云う岩屋山、東塔院
開基年代は善導大師開基の他数説あり。
(1)備中國賀陽郡生石庄鬼城縁起
 ・・・<鬼城温羅伝説などが詳しいが割愛する>・・・
(2)岩屋寺記
 ・・・岩屋山は沙門道教の草創とする。・・・
岩屋山、岩屋寺東塔院
 ・・・善導大師東塔院を造り・・舊坊荒廃して畑又山と成る其名は
蓮乗坊、成福坊、中坊、閼伽井坊、寶積坊、智泉坊、岩本坊、東ノ坊、西ノ坊、浄戒坊、行観坊、辻ノ坊、喜泉坊、浄福坊、善心坊、願成坊、妙法坊、その他数坊あり。
東塔院は善導大師の開基にて本堂、鎮守堂、五重塔、経堂、鐘楼堂、御供所、釈迦堂、大門、中門等を創立し一山輪番にて東塔院岩屋寺と呼ぶ。
 (蓮乗坊は延宝8年/1680足守町上土田に再興す<現在上土田に岩屋寺と称する寺院がありこれであろう。>)
その後、乱世となりて本坊、東塔院悉く破滅し、僅かに毘沙門堂のみ残れり。慶長12年9坊を山上に営み、毘沙門堂再興。
吉備国誌では「蓮乗坊、成福坊、中ノ坊、岩本坊、西ノ坊、右は今あり」という。<近世には5坊が残る>
(3)岩屋山縁起
 ・・・・慶長12年僅かな堂宇を造り今に見る多聞天堂是なり。時に9院是あり。東辺東坊(後成福坊近代再改慈尊院)浄戒坊、寶積坊、中央中之坊(即今観音院是なり)、蓮乗坊、岩本坊、西辺西坊あり(即今延壽院是なり)、智泉坊、閼伽井坊。
今山上5院あり、余の4院別村に移建、足守村慈尊院、阿曽村岩本坊(延壽院、金福院)、上土田村蓮乗坊是なり。・・・
岩屋山衆徒
 中ノ坊観音院:本尊十一面観音坐像、文化年中今に地に移す、五坊の本堂を横領か。<岩屋山に今残る岩屋寺のことと思われる。>
 岩本坊:金福院、本尊阿弥陀、天正年中下山、享保の頃は草葺2間×5間半の住坊と閂門あり。<阿曾に金福院現存>
 西ノ坊:延壽院、西阿曽村にあり、天正年中下山、薬師堂あり、住坊1間×3間。<西阿曾に延壽院現存>
 慈尊院:上足守の岩屋山成福坊延壽院。正徳2年現在地に移す。<「岡山備前地区の寺」では足守148番地にあることになっているも、現存するかどうかの確認がとれない、御室派>
 弥勒院:上土田の弥勒院。正徳2年現在地に移す。<現在上土田に岩屋寺と称する寺院がある、「岡山備前地区の寺」では上土田480番地に岩屋寺/御室派と弥勒院/御室派があることになっていて、岩屋寺の由緒は「吉備郡史」「備中誌」とも記載なしとし、岩屋山蓮花坊弥勒院は「備中誌」では天正年中岩屋山よりこの地に移るとあり。)
2.新山
新山、能萬寺、薬師院、菩提坊
或記云、当山開基は弘法大師の草創なり。・・・叡山より山王21社を勧請・・・
本堂:その跡今堂屋敷という。  塔ノ檀:その跡草山。
 新山寺層塔礎石     新山寺層塔礎石配置図:方2間であり周囲には束石が廻るという復原であり、また柱間が9尺であり、およそ層塔の遺構とは思えないものであろう。
仁王堂:その跡仁王ノ後。  講堂、  寶堂(西の谷)、  求聞持堂
大門:礎石3個露出す。  金堂:その跡草山、  鐘楼堂
 新山寺大門礎石     新山寺大門礎石配置図
廃寺の名、田畑に存する所。
 戒善坊:田畑1町2反2歩、高10石1斗9升余
 龍雲坊:畠6反1畝10歩、高6石4斗余
 皆善坊:古帳屋敷1反1畝5歩、高1石1斗余
 弥勒院:西谷に名有
 智正院:能満寺智正院とあり
 阿弥陀院:畠4反6畝、高3石2斗6升
 妙乗坊:屋敷5畝15歩
 菩提寺:屋敷2畝
 経蔵坊:湯釜谷に名有
 遍照院:上ノ寺と云
 西仙坊:高7石5斗余、寛永15年改帳に出
 行道坊:東谷に名有
 南臺坊:南の字に在
 大光院:湯釜谷に名有
或記云
阿弥陀院 寺中30軒、行道坊観音寺 寺中20軒、南大坊 寺中5軒、弥勒院 寺中30軒、戒善坊 寺中30軒、菩提坊 寺中30軒、能満寺 寺中30軒、又柴ヶ辻に寺10軒、嶽寺8坊尼寺也。凡そ200余ヶ寺建立すという。
・・・・新山本堂屋敷の下に今菩提寺屋敷という地広き畑あり、これ新山本坊菩提寺の旧跡なるべし。またこれより百間下りて大門畠あり礎石等田の畔に残れり。その側に六地蔵の石刻あり。
・・・寛永又慶長年中に亡ぶ阿弥陀院破却し、戒善坊は寛文3年に絶し、菩提坊も尋に亡びぬ。その後宝暦年中菩提坊が中興され再び能満寺と号され今に至る。
鬼の釜:もと釜谷いうところに在りしが・・享保7年今菩提坊旧地境内の堂内に移す。・・・・
・・・いずれにせよ宇喜多直家の時、寺領没収して新山寺は焼き払われ、阿弥陀院・菩提院・戒善坊の3ヶ寺のみ残りしが、慶長より寛文の間これも泯びしが、三流を合して智性院という寺を黒尾湯持山へ移し能満寺と改め称し・・・・・
 【江戸時代の新山】
新山能満寺、真言宗。貞享録には能満寺正智院と見ゆ、宝暦8年新山正智院に戒善坊竝諸坊の古亡跡を合わせ黒尾村湯持山に移す。国分寺末なり。住坊草葺3間に6間、厨4間半四方・・・・
3.嶽寺八坊
弥勒院、経堂坊、南臺坊、福善坊、降善坊、大善坊、尾崎坊、南ノ坊
此嶽寺の内いずれの寺や井尻野に移りて井山宝福寺となる・・・
 嶽寺今呼で塔坂と云、古黒尾村塔坂の上に在りしを後井山に移して今に存せり。
 塔坂。黒尾より宍粟村に至る峠を云、この北の峯、新山寺二十餘坊の内なる寺有りて此坂の上に三重の塔有ける故に塔坂とは云ける。此塔後井山寶福寺に移すと云う。
  (以上新山の記事は主として「備中誌」による。)
※岩屋山/岩屋寺/東塔院には五重塔の存在が語られるが、その具体的なことは全く分からない。
※新山/新山寺には「塔の檀」があり、塔の礎石が残るという。(塔跡実測図、礎石写真があるが、判然とはしない。)
 なお、「総社市史 考古資料編」等では永山氏の記録のある「トーダニ」の記録があるが、この「トーダニ」と「塔の檀」とは別の存在であろう。
※嶽寺/塔坂の坂の上には三重塔があったといい、これは井山宝福寺に移建されるという。現在の宝福寺三重塔がそれと云う。

備中国分尼寺塔婆跡?(疑問):(史蹟)

松林の中に金堂礎石・築地塀跡等が良好に残存する。中門と金堂跡東方に一辺12mの土壇があり、塔跡との見解が示される。
しかし、一般的には国分尼寺に塔婆の建立はなく、その土壇跡の規模(小規模)から塔跡ではなく経蔵・鐘楼等の可能性が高いと思われる。
 塔跡とされる土壇:備中国分尼寺金堂東南基壇
2011/06/24追加:
○「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年の「国分尼寺平面図」ではこの土壇は「塔址?」と記される。
○2014/05/18撮影;
現在、「塔跡とされる土壇」について現地説明板は「一辺12m許の方形土壇が遺存し、塔跡ではないかと考えれれてきた。しかし土壇が小規模であり、礎石小さく、経蔵か鐘楼などの別の建物が立っていた可能性もある。」と記す。
 備中国分尼寺金堂東南基壇2     備中国分尼寺金堂東南基壇3     国分尼寺金堂東南基壇礎石
 備中国分尼寺遠望:中央松林が尼寺跡
 備中国分尼寺中門跡     備中国分尼寺築地塀跡
 備中国分尼寺金堂跡1     備中国分尼寺金堂跡2     国分尼寺金堂跡礎石
 備中国分尼寺講堂跡      国分尼寺講堂跡礎石      国分尼寺北方建物跡
2015/09/07追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
次のような記載があり、おそらく、金堂址東南の土壇を「塔跡」とする見解は本書などによるものと思われる。
即ち
大門を南辺正面中央に開き、此に土塁の内外2個の礎石を存す。門を入り正北直指196尺にして金堂南應の礎石に達す。
更に金堂西北角の礎石より北すること128尺にして講堂の礎石に至る。
又金堂の東南角より東南方90尺を隔てて平地より高きこと3尺許方450尺の土壇あり。蓋し層塔跡ならん。
 備中国分尼寺址図
金堂址の礎石は24個の内、移動せるもの1個、運び去られしもの5個を除き原状のままのもの18個を存す。
 備中国分尼寺金堂址図
講堂址には完全な礎石は2個存するも、原状を保つものは1個である。
大門址にも2個存する。

備中惣持院伽藍

2012/02/15追加:
○「総社市史 考古資料編」総社市史編さん委員会、1987 より
惣持院旧跡:伽藍地は清水の地であった。
当寺「旧記」では、北朝年号・貞治年中(1362-1367)讃岐與田虚空蔵寺増吽僧正が三重塔・金堂・経堂・山門・僧坊を造立すると云う。
 ※中世には三重塔があったと想定されるも、現状では塔遺構の発見など望むべくもない。
また萬勝寺、戒光寺、南坊、観音坊、萬福寺など8坊(山号は何れも日照山と号す)を擁すると云う。
「総社御造営帳」正長元年(1428)には惣持院は総社造営の社僧であり、増忍僧正が導師を務めるという記録が残ると云う。
中世末に2度焼亡するも、天正年中清水山惣持院として再興され、備中高松城主清水氏の菩提寺となり、清水氏により護持される。しかし 、漸次衰微したのであろうか、今は田圃化し、往時の伽藍を偲ぶべくもないが、伽藍のあったと思われる付近には、僅かに南ノ坊、萬福寺および南の丘の戒光寺(未見)などの堂宇を残す。
 ※清水山惣持院万勝寺増鉄は領主蒔田氏などの援助で享保年中(1716-)備中国分寺本堂・客殿・鐘楼などを整備すると云う。
 ※山号日照山は備中国分寺の山号と同一である。上記8坊を備中国分寺塔頭と云う見解もあるが、むしろその逆で近世では国分寺が惣持院の寺中もしくは末寺であったのではないだろうか。(未確認)
 ※日照山萬福寺:本堂(本尊地藏菩薩)、薬師堂、鎮守堂、清水家墓所がある。また「惣持院萬勝寺」銘の大般若経を蔵し、薬師堂薬師如来は明治初年萬勝寺から遷されたものと伝える。
 ※清水聖天は南ノ坊背後(北)にあるが、惣持院との関係は情報がなく不明。(無関係かも知れない。)
 備中惣持院南ノ坊全容     備中惣持院南ノ坊山門     備中惣持院南ノ坊本堂    備中惣持院南ノ坊庫裏    備中清水聖天
 備中惣持院萬福寺本堂     惣持院萬福寺薬師堂      萬福寺薬師堂内部
2015/09/25追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
惣持院
総社宮社僧惣持院並末院八坊
往古より総社宮社僧、正長元年総社宮御造営帳にも遷宮導師惣持院僧正増忍御坊衆徒60人警固200人を引連たる事を載す。
当寺旧記云「讃岐與田虚空蔵寺増吽僧正、貞治年中来住し三重塔、金銅、経堂、山門、僧坊を造立す末坊八院有り云々」
寶永年中住持増鐵惣持院を棄て国分寺旧趾に移し国分寺と改称する。旧趾は悉く田圃と化し宗治の墓のみ存す。
日照山南坊:惣持院八坊の内、古義真言宗、国分寺末。本尊愛染明王、住坊2間に6間、本堂1間半四方、境内東西10間南北9間。
日照山萬福寺:惣持院八坊の内、古義真言宗、国分寺末。本尊地蔵尊、住坊3間に8間、境内4畝20歩。
 (「備中誌」による。)

備中福山寺/法積坊趾

2015/09/25追加:
 福山寺には三重塔があったと伝えられるようであるが、これが事実かどうかは確認の術がない。
中世福山寺が焼失し、その後復興はするも、維持は困難となり近世初頭多くの坊舎が下山する。
福山寺本坊も軽部に下山し三重塔などの堂塔は法積坊として移建されるという。
しかし法積坊も寛文年中に還俗というから、そのころ三重塔も退転したものと推定される。
なお、法積院跡は為貞宝篋印塔の敷地となり、特定が可能である。
2018/10/30追加:
○「備中誌 窪屋郡巻之三」江戸末期頃の編纂(推定)
福山 福山寺 の記事あり(但し本ページへの掲載は省略)
2015/09/25追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
福山福山寺
福山は標高300m。福山の頂上に寺あり福山寺と云ふ。元弘の亂に福山城陥り福山寺焼けしが、その後元和の頃までは伽藍の趾を継ぎしが寛文に至りて終に廃寺となりぬ。
「備中誌」云「福山寺、福山の絶頂にありしが今廃し軽部村に移す云々」開山不詳、或云報恩大師、金堂、経堂、山門、僧坊、鎮守、帝釈堂、三重塔、其外巍々として建並らべしが戦乱相続き(殊に元弘の亂)・・・足利直義火を放ち福山寺焼失す。
中古一山12坊と称す。福山寺焼亡の後やがて再興ありしも漸く維持困難となり元和年中、小池坊、乾坊、玉蔵坊、西之坊は帯江村に移転し後、奥ノ坊は西部に鍛冶屋坊は三和村に移りて真言宗に改め、尋で諸坊追々山を下り本坊も破壊され、福山寺は軽部に移りて法積院と改む、三重塔其他の佛宇も法積院へ引き取られたり。
 ※本書では
福山小池坊・乾坊・東坊・西坊・玉蔵坊については元文/宝暦年中帯江に移転し正智院駕龍寺となるとし、その福山の遺跡及び帯江での遺跡について詳述がある。
   2015/09/30追加:
   正和元年(1312)小池坊及び他の四坊は倉敷市五日市の山地(今の観音団地の西、上水道配水池あたり)に移ったという。
   このとき「正智院」と称するという(「帯江村史」)。
   慶長3年(1698)二日市の北東の端、六間川沿い(元の小字松ノ木)に移る。その後に「駕竜寺」と改号する。
   昭和○○年現在の場所(二日市元の小字岩崎)に移る。なお隣接の一王子社は駕竜寺鎮守という。
 さらに山手村西郡奥ノ坊趾、三輪村天神坊趾、常盤村三和鍛冶屋坊趾(福井産般若寺)、清音村軽部萬福坊趾(不断堂、不断山萬福寺)、山手村西郡寺坂真如坊趾、山手村大字岡谷字東谷惣持坊趾について詳述があるも、本ページではこれは省略する。
 法積坊については、福山寺三重塔を引き取るという。、
法積坊址
清音村大字柿木、塔ノ元457番地宅地44坪村有地なり。
撮要録廿九、廃寺社ノ部に「柿木軽部山寶積院、真言宗、寛文6年(1666)住僧還俗」
備中誌軽部村録に「廃寺、寶積院、柿本村に在り寛文年中佛寺破却せられし時還俗す」又云「廃寺、法積院、軽部村、元来福山、・・衰微して坊中諸方に移り、建武3年(1336)・・合戦の時諸堂煙滅し後は草堂にして後軽部村に遷し法積院を改め三重塔其外佛堂悉く引取と云ふ。
元和の頃小堀遠州公より寺領三石を免除す。廃寺と成りて大日堂一宇残れり。寺の在りし跡今塔の元と云ふ。免除高の内一石余今村内に残れり。」と見ゆ。
 今塔の元は大日堂と称し爲貞塔の敷地となる。此所に一間四方の堂及び平家門ありしが大正7年7月暴風雨のために倒潰し、其跡にその瓦を用ひて方一間の堂を建つ。
爲貞塔はモト宇津輪(うつわ)と称する墳墓地にありて四方に玉垣を繞らせしが維新前に今のところに移す。
塔の元は古来の地名にして福山寺より遷せし三重の大塔に因めるか。北隣を塔の後、南隣を寺の前と称し、其の舊規頗る宏大なりしものの如く。
 参考;藤原為貞宝篋印塔
藤原為貞が施主となって造られた塔で、粒状石灰岩を使用という。嘉暦三年(1328)の銘を有する。
○「吉備郡史 巻中」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
 爲貞塔実測図
○GoogleStreetView より
 法積院跡1:大日堂及び爲貞塔      法積院跡2;大日堂及び薬医門は健在のようである。
 ※清音小学校北西の道路(山陽道)を隔てた北側にある。
2016/06/26撮影:
柿木村が、近世、岡山藩領であったのかどうかは確認が取れてはいないが、おそらく岡山藩領であったと思われる。だとすれば、寛文6年の岡山藩池田光政の廃仏・寺院整理 によって、法積院は還俗・廃寺に追い込まれたのであろうと推測される。
 柿木法積坊跡3     柿木法積坊跡4     法積坊跡大日堂1     法積坊跡大日堂2     大日堂内部: 向かって右上にある「御尊像」と墨書した粗末な厨子中に大日尊が安置されているのであろうか。しかしこの厨子は極端に狭いが、どうなのであろうか。
 藤原為貞宝篋印塔1     藤原為貞宝篋印塔2
2018/10/31追加:
○「備中誌 窪屋郡巻之四」江戸末期頃の編纂(推定) より
廃寺 法積院 軽部村
元来福山山福山寺大伽藍成しか衰微して、坊中諸方へ移り、建武3年足利直義福山城合戦之時、諸堂烟滅せし、後は草堂にて後軽部村に遷し法積院と改め、三重塔其外仏堂悉く引取と云、元和の頃、小堀遠州公より寺領高3石を免除す。
廃寺と成りて大日堂一宇残れり、塔の有し跡、今塔の元と云。免除高之内一石餘今村内に残れり。
○「日本歴史地名大系34 岡山県の地名」 より
近世、柿木村は軽部村の枝村であった。
軽部村は元和元年(1615)より岡山藩池田忠雄領、寛永9年(1632)以降も岡山藩領。
柿木村は寛文12年(1672)以降岡山藩生坂領となるが、しかし宝永5年(1706)には生坂領には含まれていない。
明治3年生坂藩立藩の時は軽部村は生坂藩領となっている。
○備前寺院淘汰関係資料(「岡山県通史 下巻」永山卯三郎、昭和5年 所収)
寛文6年廃寺(撮要録二十九、廢寺社之部抄録)
寛文6年に池田光政によって廃寺とされた備中都窪郡(岡山藩領であった備中都窪郡の村)の寺院は次の通りである。
 真壁村、常光寺中之坊、真言宗、住職還俗し神職となる、本尊薬師如来預山伏往来寺
 西部村、福山加良寺奥之坊、真言宗、住職還俗し神職となる
 岡 谷、東谷山惣持坊、真言宗、住職還俗、本尊毘沙門助左衛門屋敷へ
 岡 谷、大谷山観音寺、真言宗、住職還俗、本尊助左衛門屋敷毘沙門堂へ
 岡 谷、虎谷山高山寺、宗旨?、天正の頃退転、本尊毘沙門助左衛門屋敷へ
 宿  、清傳坊、真言宗、住職還俗
 軽部村、萬福寺、真言宗、住職立退、堂本尊阿弥陀如来共其儘
 柿 木、軽部山寶積院、真言宗、住職還俗、堂本尊地蔵塔本尊大日、二佛共可入屋敷へ、法積寺とも綴る
 柿 木、皆藏坊、真言宗、住職還俗
 三輪村、大願坊、真言宗、住職還俗し神職となる
 小 屋、福山山天神坊、真言宗、住職還俗
 小 屋、妙高山法花寺、日蓮宗、住職還俗、本尊釈迦・十羅刹・高祖彌兵衛屋敷へ
※寛文6年法積坊(寶積院)廃寺となる。

備中朝原安養寺

 備中朝原安養寺宝塔/塔跡

備中西岡山西安寺

2012/04/19追加:
○「観光案内/総集編・前編 倉敷」倉敷市観光協会、昭和52年 より
行願院古絵図:「行願院古地図」(行願院所有)と題する絵図の掲載がある。画像が粗く、また年代など不詳であるが、12坊のあった盛時の西岡山を描いたものと思われる。 なお、向かって右後方の高山が福山寺のあった福山(このページの前々項)である。
 行願院古絵図:絵図は小さく不鮮明ではあるが、左中央付近に多宝塔らしき塔が描かれる。
 この絵図で判断すれば、おそらく多宝塔は今の龍昌院附近に在ったものと推定される。そして多宝院と称する寺中があるので、この多宝院は多宝塔の傍らにあったので、多宝院と称したのかも知れない。
なお、前面(南)は海のように描かれ、舟が往来するように見える。この前面の地は今では倉敷市街地であるが、近世以前は瀬戸内の水島灘/松山川(高梁川)河口/干潟などであり、近世初頭から新田開発で陸地化したものであると云う。近世以前には海/干潟だったのである。
◇略歴
西岡山西安寺は天平勝宝6年(754)鑑真の開創と云う。
往時は、本坊慈照院の他、来迎院、義燈院、大智院、宝積院(今の倉敷観龍寺)、善勝院、長福寺、多宝院、福樹院、十乗院、持国院、財善院(今の行願院・現存)、龍昌院(現存)の12坊があったと伝える。
慶長12年(1607)財善院、竜昌院及び仁王門を残し、焼失する。
延宝6年(1678)本坊慈照院にあった本堂を財善院寺内に移し、元禄12年(1699)本坊を財善院に引いて、行願院と改称する。
現在は仁王門及び行願院、竜昌院が残存する。仁王門は室町期の建築といわれるも、肘木から慶安年中の墨書が発見される。
2018/10/30追加:
○「備中誌 窪屋郡巻之五」江戸末期頃の編纂(推定) より
西岡山西安寺慈照院 廃寺
 本尊 安阿茂田 脇立 弘法大師作と云/ 開山鑑真和尚 天平勝寶六年之建立也云々
 本堂(2間四面) 金堂 経堂 寶塔 力士門 三重塔 山頂に六所権現社(別に出す本堂塔の段旧跡古瓦散在せり)
 往古数坊有中にも 来迎院 義燈院 大智院 宝積院 善勝院 長福寺 多寶院 龍樹坊 十乗院 持國院 財善院 龍昌院
 右12院の内10坊は文亀3年より永正5年までの間に泯滅して田畑にその名を残せり 財善院(今行願院)龍昌院今に相続す(中略)
 慈照院を始め12坊慶長年中悉焼失して行願院龍昌院2坊のみこの災を免れると云(以下略)
○2015/09/14撮影:
龍昌院現本堂などは昭和54年の落慶。
仁王門は三間一戸の八脚門、切妻造、屋根本瓦葺。昭和52年に保存修理、この時墨書が発見される。
 昭和52年に行われた保存修理の際に慶安元年〜4年(1648〜51) にかけての墨書が発見される。
またこの時に、仁王門は現在の位置に移築される。
 ※上に掲載の行願院古絵図で判断すると、仁王門は龍昌院のある岡と行願院のある岡の中央谷の下にあったものと思われる。此処から仁王門は行願院前に移建されたようで、移建先 (現位置)は参道でもない孤立した場所であり、この意味でこの仁王門は死んだも同然であろう。西岡山の歴史を毀す処置であると思われる。残念なことである。
 西岡山仁王門1     西岡山仁王門2     西岡山仁王門3     西岡山仁王門4
 西岡山行願院     西岡山行願院山門     西岡山行願院本堂1     西岡山行願院本堂2     西岡山行願院庫裡
 行願院西側堂宇を望む     行願院西側堂宇鐘楼門     行願院西側堂宇東門
 行願院西側堂宇:この堂宇の名称は分からない、護摩堂、大師堂、祀られる本尊によって地蔵度、観音堂などと言われるのであろう。
 西岡山龍昌院     西岡山龍昌院本堂     西岡山龍昌院鐘楼     西岡山龍昌院客殿
龍昌院納骨堂(ストゥーパ):詳細は不詳、おそらく戦後昭和のものであろう。
 龍昌院納骨堂1:ストゥーパ      龍昌院納骨堂2


備中秦廃寺跡(備中秦原廃寺)

現在、原位置とされる心礎及び礎石(1個?)を残す。
心礎は精巧な加工がなされ、今なお精美な形状を保つ。大きさは2,2m×1.7m×約30cmで、
上部に一辺1.25m、高さ約4〜5cmの方形の造出しを彫り、その中央に径48cm深さ32cmの孔を穿つ。
寺域、伽藍配置等はかならずしも明確ではないが、寺域は、東西一町、南北一町または一町半と想定されると云う。
配置については、かつて柱根を出土した付近が南門、その北東に塔、その西側に金堂、北側に講堂が存在したものと推測される。
(柱根は昭和38年頃発見され、大きさは直径65cm、残存長1,2mで、加工痕があり、現在は吉備路郷土館に展示されていると云う。)
出土軒瓦は、岡山県内で最古の飛鳥様式の単弁八弁蓮華文軒丸瓦、および吉備式と呼ばれる瓦の2種類が出土するとされる。
 
備中秦廃寺1   同       2    同       3   同       4   同       5   同       6   同       7
○「飛鳥時代寺院址の研究」:
心礎以外の塔礎石16個は全て移動してるが、所在がはっきりしていると云う。
塔礎石は次の2種類( a:径2尺1寸の円形柱座を持つ、b:径1尺7寸の円形柱座を持つ)がある、心礎付近にaが3個、bが2個、藪中にaが1個、不明3個、池中に不明:1個、早島町溝手保三氏(塔址にあった完全 な礎石を売却したとのこと)は売却6個(不明)という。bの礎石は四天柱礎石と思われる。
○2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
 備中秦廃寺心礎・礎石図
○2008/07/21追加:
「岡山県史蹟名勝天然記念物調査報告 第1」岡山県史蹟名勝天然記念物調査会編、大正10年 より
秦原寺礎石(通称寺藪の礎石):
原状のまま存する礎石は3個ある。この礎石は厚さ2尺3寸許の覆土より掘り出す。
礎石面、柱底円形突起直径2尺、その中心小突起なく、円孔を穿てり。(円孔は口径4寸、底径3寸、深さ3尺4寸、柱底突起・高1寸5分、直径2尺あり。)
さらに、この礎石の南方18間に隣接する石仏4基を安置するが、その台石は皆礎石なり。
1.文政2年建立大乗妙典日本廻国塔(径2尺・厚2尺)
2.明治15年建立不動尊石仏(径2尺・厚2尺1寸)
3.年代不詳観音菩薩(径1尺6寸・厚1尺4寸)
4.年代不詳大師堂台石(径2尺1寸5分・厚1尺4寸)
5.年代不詳地蔵尊(径1尺6寸)
その他、寺池の内に1個、平城池堤上2個、城山山頂2個、八幡宮境内2個、塔跡に3箇、西原氏納屋礎石4個、疫神の東竹薮に6個合計25個の礎石あり。
さらに3個の礎石の南100尺に心礎がある。
心礎の大きさ7尺4寸×6尺2寸、方形部4尺1寸5分×4尺1寸、円孔部直径1尺4寸7分5厘・深さ1尺3寸
これを台石として石碑が建つ。石碑:寛文3年 興禅中興開山實岩慶権■老禅師 八月廿四日(※■:サンズイに塵?の文字)
土俗之を「ケイゴン」様と称し疫神として之を祀る。
 秦原廃寺礎石(寺藪)     同  礎石の概説     同       心礎     同   心礎実測図
○2011/06/24追加:
「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年 より
川島山興禅寺址の境内にある。心礎1個その他無慮24個の礎石を現存す。
その他の多くの記述があるが、上の「「岡山県史蹟名勝天然記念物調査報告 第1」とほぼ同一の内容となる。

備中岡田廃寺

金剛寺(字名)跡とも云う。通常は岡田廃寺の塔跡と云われる。しかし塔跡とする根拠は何であるのかは良く分からない。
平野を見下ろす谷筋の丘陵に一つの基壇があり、その上に荒神社の小祠の台石(礎石の転用と思われる)や現位置と考えられる円形造り出し(径60cm強)を持つ礎石が点在する。吉備寺(箭田廃寺)で出土する瓦と類似した蓮華文の軒先丸瓦が発見され、白鳳期創建とされる。

大字岡田字山ノ谷金剛寺に所在する。
発掘調査はなされていなく、伽藍配置は不明という。現地の荒神の小詞付近に金堂もしくは講堂と推定される土壇があり、移動していない礎石4個(原状4個)を残す。 塔ということも考えられるが、それは分からない。
白鳳期の瓦が採取されている。(備中箭田廃寺及び備中八高廃寺からも同一の瓦が採取されるという。)
2002/12/29撮影:
 金剛寺趾遠望     金剛寺趾推定心礎
 原状4個の礎石     原状4個の礎石中1     原状4個の礎石中2     移動せし礎石等
○2011/06/24追加:「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年 より
 金剛寺址礎石図
礎石12個を現存す。内4個は原位置を保つ。(礎石図A〜d)(3尺内外×2.5尺内外の大きさで柱座を造り出す。)移動するもの8個で礎石図1〜8である。 なお礎石6は礎石1の下にある。
礎石4は18寸5分×18寸5分で、口径9寸5分深さ4寸5分の円孔を有す。是層塔の心礎なりしを切落して恰形の手水鉢とせし為に著しく原形を損ぜり。
 金剛寺心礎(礎石4):2002/12/29撮影:上記で云う礎石4であろう。
※礎石4が心礎かどうかの論証はない。いずれにせよこれを層塔の心礎とするには確たる証が無ければ無理な話であろう。
2015/09/07追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
 金剛寺礎石遺存図     金剛寺礎石
礎石:12個を現存す。内原状のままのもの4個、移動せしもの8個あり。
原状のままのもの:長径×短径×高
A:29寸×?×?  B:31寸×26寸×?  C:29寸×25寸×?  D:29寸×25寸×15寸
その配置;東西7尺6寸、南北8尺4寸相距る。 突起;円形操出、その大きさ皆殆ど相同じ。頂径2尺底径2尺3寸高1寸。
移動せしもの:
1:26寸×22寸×14寸  2:24寸×23寸×15寸  3:31寸×30寸×10寸  4:18寸5分×同左×10寸
5:31寸×24寸×12寸  6:是は1の下敷となれる為不明なし  7:30寸×24寸×20寸  8:29寸×24寸×23寸
上の内、4は口径9寸5分、深4寸5分の円孔を有す。是層塔中心柱の礎石なりしを切断して蛤形の手水鉢とせし為著しく現状を損せり
 ※4の礎石(金剛寺趾推定心礎)はあくまで推測であり、本廃寺に塔があったことなどを徴する確実な遺構・遺物は皆無である。
○2016/06/26撮影:
 岡田廃寺跡にある荒神社が近年造替されたようである。即ち上掲の「移動せし礎石等」の写真では礎石と思われる石を台石にして石造の祠が2基あったが、それらの2基は撤去され、新たに石積の高い基壇が作られ、その上に木造の一間社流造の祠が新築(おそらく再建であろう)され、さらにその前に拝殿が再建される。( 拝殿については、上掲の「金剛寺礎石」には拝殿が写り、少なくとも戦前には拝殿があった。)
 ※新築された社殿及び再建された拝殿は下に写真を掲載。
 礎石に関しては上掲の「吉備郡史」では「原状のままのもの4個、移動せしもの8個、合計12個が残存」というも、「金剛寺礎石遺存図」の内、2002年の写真撮影時点では、 礎石7及び8は既に不明、礎石1、2、3は上掲の「移動せし礎石等」の写真でみるように、石造祠の台石に転用されたようで、不明確になっていると思われる。 但し、礎石4は円孔を有する礎石で、これは現在も健在である。
 今般の写真撮影時点では、現状のままの4個(A〜D)と礎石5と4及び2、3、6の内のいずれかの1個、合わせて7個の礎石のみが残るようである。 とすれば、「吉備郡史」の時から、移動せし礎石8個の内、残存が確認できるのは3個であり、5個が忘失ということになる。
「2、3、6の内のいずれかの1個」の礎石は石造祠の台石となっていたもので、それはその表面にセメント(モルタル)を残していることから、そのように判断ができる。 特に、近年の荒神社の造替の時、礎石が亡失したとすれば、遺憾である。
 なお、瓦については、隣で耕作している人に聞けば、現在も少し掘れば、瓦の破片が出土するといい、現に多くの古瓦片が「現状4個」の周囲に置かれている。
 岡田廃寺現状:再建された拝殿が写る。写真中央の石灯篭の向かって右に写るのが礎石4、その背後に白い説明板があり、そのさらに奥に現状のままの礎石4個が残る。
 岡田廃寺荒神社社殿:木造に造替された社殿が写るが、上掲の「移動せし礎石等」に写る礎石は、不明となる。但し「1〜3の内のいずれかの1個」の礎石は、社殿の向かって左に放置される。
 現状4個(A〜D)の礎石1    現状4個(A〜D)の礎石2
 現状4個の礎石の内のA    現状4個の礎石の内のB    現状4個の礎石の内のC    現状4個の礎石の内のD
 移動せし礎石4・その1     移動せし礎石4・その2     移動せし礎石5     「2、3、6の内のいずれかの1個」の礎石
2018/08/22追加:
○「真備町(倉敷市)歩けば」岡山文庫301、小野克正・加藤満宏・中山薫、日本文教出版、平成28年(2016) より
 (2018年7月小田川が氾濫、特定地点だけの安否を気にするのは不謹慎の誹りを免れないが、岡田廃寺跡は無事だったであろうか。推測するにここは山麓の小高い所に位置し、浸水とは無縁の所ではないかと推測する。)
 礎石4個は創建時の位置にあり、周囲に3個が確認できる。出枘のある礎石1個は少し南の道路脇の石仏の台座に転用されている。
岡田廃寺から発見される軒丸瓦の文様は箭田廃寺・八高廃寺・栢廃寺・日畑廃寺・英賀廃寺でも発見され吉備式瓦(備中式)と称される。

備中吉備寺(箭田廃寺)

現在の吉備寺は江戸期には真蔵寺と称するも、元禄の頃岡田藩主伊東長貞が吉備真備の墳墓をあばき、吉備真備の真廟( 「長身伝承」<下に掲載>による)と決定し、真蔵寺に縁起・除地を与え、吉備寺と改称したとされる。
心礎および礎石(円形柱座を持つ)は寺の庭石として転用され、もともとは近くにあったであろう吉備氏の氏寺(吉備寺あるいは箭田寺)のものと推測される。近くで白鳳期の瓦が出土すると云う。
心礎は1.36m×1,18mで上部は平に削平され、中央に径27cm深さ10cmの孔を穿つ。
回廊:庫裏と本堂?とを繋ぐ廊下の奥が庭園で心礎・礎石が庭石に転用される。
礎石:庫裏玄関左前にも礎石(長方形の孔は後世の加工であろう)が放置される。
 備中吉備寺回廊      同       心礎1      同          2:心礎の前に写るのは円形造出を持つ礎石
  同        3      同          4      同          5       同        礎石
吉備寺門前南方丘上尾根に吉備真備廟及び墳墓がある。ここに吉備寺の鐘楼がある。
 吉備真備廟所鐘楼
2007/04/25追加:
○「吉備の古代寺院」から
 備中箭田廃寺心礎・礎石:境内に心礎と5個の礎石を残す。
2010/09/12撮影:
 備中吉備寺心礎11       同       12      同       13
   同     山門        同     本堂       同  吉備真備廟
2011/06/24追加:
○「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年 より
寺の庭園に4個、本堂の下に2個を有す。
心礎は長径5尺、短径4尺4寸、高2尺。中心円孔は上直径9寸2分、底直径6寸、深5寸2分。
 吉備寺心礎実測図
「長身伝承 」:古川古松軒「吉備之志多道」に「大僊院殿(伊東長貞)、元禄年中に此墳を発き見給ふに御棺ありて内に御骨あり。御脛骨甚だ長し伝え聞く吉備公御長高かりしと是に由りて御眞廟なりとて縁起除地を寄附し給ひ、眞蔵寺といひし寺を吉備寺と改称して・・・」とある。
2015/09/07追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年
「岡山県通史」と同一の記事あり。
2016/06/26撮影:
今回は庭園にある心礎などを撮影することは叶わず。
 吉備寺遠景     吉備寺山門2     吉備寺本堂2     箭田廃寺礎石2
 吉備真備廟所鐘楼2     吉備真備墳墓拝殿     吉備真備墳墓
2018/08/22追加:
○「真備町(倉敷市)歩けば」岡山文庫301、小野克正・加藤満宏・中山薫、日本文教出版、平成28年(2016) より
 (2018年7月小田川が氾濫、特定地点だけの安否を気にするのは不謹慎の誹りを免れないが、吉備寺(箭田廃寺)を含むまきび公園は無事だったであろうか。推測するにここは多少の微高地であり、ぎりぎり浸水を逃れられたのでないかと推測する。)
 吉備寺は元は真蔵寺と称するも、元禄の初め(1690年頃)岡田藩4代藩主伊藤長貞が次のようないきさつから、真蔵寺を吉備寺と改称し、吉備真備の霊を永代祀るべしと命ずる。
 真蔵寺の南の台地には吉備真備の墓と伝える宝篋印塔の墳墓があった。しかしそこはぽつんと墓が一基あるだけで、荒れるに任せる状態であった。是を憂いた藩主長貞はこの墳墓が真備の真廟であることを証明し、先賢を大いに復活させる企図で、墳墓の発掘を試みる。
 「元禄年中に此墳を発き見給ふに御棺ありて内に御骨あり。御脛骨甚だ長し伝え聞く吉備公御長高かりしと是に由りて御眞廟なり・・」(古川古松軒「吉備之志多道」)と結論づけるという。
 この発掘については、もう一つ別の報告がある。「永久要保存墳墓調査書」岡山県下道郡役所、明治32年 の公文書には次にように記述する。「長貞公が自ら望んで発掘せしに・・・石棺あり、従臣を退け、一人進んで蓋を開き、一見した後、ただちに元の如く埋める。御棺内の形状は従臣にも告げたまわず、吉備公の墳墓たるは確実」と告げたという。
 墳墓が真備公の「真廟」と決まったことから、長貞は近くの真蔵寺を吉備寺と改め、永代供養の資として田地1枚を同寺に寄進する。
 吉備公墓所:拝殿は明治39年保廟会が寄付を募って建立、左手に鐘楼がある。宝篋印塔は鎌倉期の特徴を持つ。玉垣の右側には「吉備公碑」が建つ。岡田藩8代長寛(ながとも)の発案で、二男長之が文を、書は四男長生(ながなり)が担当して、弘化4年(1847)に建立という。
なお旧山陽道沿いに「吉備公墳」の石碑が建つが、これは寛政2年(1790)のものである。

備中鷲峰山棒澤寺
2015/09/07追加:
 棒澤寺には多宝塔が存在したものと思われる。その塔は中世のものか近世のものかは分からないが近世中期には既に焼失し礎のみが残る状態であったようである。
また、棒澤寺中ノ院の支配する堂社寺跡の一つに「初向山二親寺跡」があり、ここに「塔一宇礎斗」があったという。元よりこの情報はこれ1行であり、果たして木造塔であったのかどうかも含めて一切は不明である。
 ※「初向山二親寺跡」の所在地は明確には分からないが、前後の中之院末派の社・堂・祠などから吉備郡妹村(鷲峰山の東及び東南麓)であるものと推定される。
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
鷲峰山棒澤寺中之院
真言宗御室派、本堂以下5棟を有し、規模頗る壮麗を極む。本尊:正観音、往時は一山8坊あり、本坊、照寂坊、禅光坊、戒善坊、寶幡坊、東光坊、寂静坊、教泉坊なりしが、中之院(本坊)以外は幕末までにはすべて退転する。但し照寂坊のみは檀家があるため、東山麓の呉妹に下山し、現存する。
明治28年には以下の建物の記載がある。
 本堂:5間3尺×5間、延宝4年の再建、住坊:13間×6間3尺、土蔵、土蔵、納屋、鐘楼堂
  棒澤寺全景     棒澤寺石門
寛文10年(1670)「備中州鷲峰山棒澤寺山諸」では伽藍として観音堂、鎮守社、御影堂、釈迦堂、密塔(胎大日如来金自舎利)、求聞持堂、経蔵文殊堂、荒神堂、山門の力士、鐘楼を挙げる。
 ※密塔とは良く分からないが、密教の塔即ち多宝塔の意であろうか。本尊は胎蔵界大日如来であろうか。
天保11年(1840)「備中州小田郡鷲峰山棒澤寺記」では「本堂多寶塔鎮守祠伴神社大師堂十王堂仁王門等莫不備具焉」とある。
寛延3年(1750)「備中國鷲峰山[本末寺格帳] 中之院
一、大内山仁和寺御直末小田郡東三成村古義真言宗鷲峰山棒澤寺
聖徳太子之開基弘法大師修練之旧跡・・・本尊観音堂(3間半×5間)、護摩堂(3間四面)、鎮守祇園牛頭天王宮(6尺×8尺)、拝殿(1間×2間)、貴布禰社(今は8寸四方小社)、荒神社(2尺×1尺5寸)、毘沙門堂(5間四方・柱計残候)、辨才天堂(同断)
一、多寶塔(2間半四方・焼失礎計残候)、求聞持堂(3間四面・礎計残候)、十王堂(2間四面・同断)、経堂(2間半四面・同断)、仁王門(1間半×3間)
中之院末派・・・※多くの事績が挙げられるが、そのうちの一つ「荒神社」では以下のように記載する。
初向山二親寺ト申寺跡
一、荒神社  塔一宇礎斗御座候 薬師堂一宇 寺跡只今年貢地也堂社之山林領主支配
国宝に指定されたるものとして以下がある。
絹本着色 愛染明王像2幅、絹本着色 四所明神像1幅、絹本着色 地蔵菩薩造像1幅、絹本着色 五大尊像1幅
 ※重文の画像3点は災害から逃れ、現在は岡山県立博物館に寄託されているというも、どの画像かは不明。
 ※「日本古美術小事典」福音館、昭和27年 では「中ノ院といい、寺歴不詳。四所明神とは丹生・高野・気比・厳島の4明神を描いたもので室町期、五大尊像も室町期、愛染明王及び地蔵菩薩像は鎌倉期の作。」という。
2018/08/22追加:
鷲峯山照寂院:
○「真備町(倉敷市)歩けば」岡山文庫301、小野克正・加藤満宏・中山薫、日本文教出版、平成28年(2016) より
 (2018年7月小田川が氾濫、特定地点だけの安否を気にするのは不謹慎の誹りを免れないが、吉照寂院は無事だったであろうか。推測するにここは小丘の麓のやや高い所に位置し、浸水とは無縁の場所ではないかと推測する。)
鷲峰山棒澤寺八坊の一つ照寂坊が前身。明治13年妹村の村民が照寂坊を妹に迎えたいと願い出、妹・大武の旧観音寺跡に移すという。昭和3年棒澤寺からも分離。寺内の観音堂は旧観音寺のお堂という。

備中八高廃寺(八高寺址)

弥高山の北側の山裾に、つまり南面する伽藍を建立するには不自然と思われる地に、心礎はある。
畑もしくはブッシュの中に基壇らきしものがあり、基壇中央に心礎のみポツンとある。
心礎は189cm×141cm×90cmの大きさで、中央をやや外れたと思われる位置に径24cm深さ15.3cmの孔を穿つ。
明治期には数個の礎石が残存したとの伝承もあるが、伽藍配置は不明。
現状、基壇上及び心礎の廻りには砂利様の石が大量に積まれているが、これは近代の仕業であろう。
また塔基壇西側付近に堂基壇と思われる高まりがある。
出土瓦から白鳳期の創建で奈良期まで続いたとされる。また安永9年(1780)の八高寺の記載がある文書が残っているとも云う。
 備中八高廃寺塔基壇      同     心礎1      同        2      同        3
  同    西方基壇?:薬師堂及び荒神小詞
2011/06/24追加:
○「岡山県通史」上下巻、永山 卯三郎、昭和5年 より
心礎:長径6尺3寸、短径4尺7寸、高さ2尺乃至3尺。中央の孔:直径8寸、深さ5寸1分。
この礎石付近はもと四方百間許の平地をなし、中に東西25間南北40間許の荒蕪地を含み、その中には数個の礎石が露出せしが明治初年の頃大字妹小字井ノ口の武本寳作が之を割取りて自家邸宅の建築の材にしたりと云う。
然るに、数年前土地所有者山下栄三郎、桑園の開拓に方り地下1尺5寸許のところに埋没せるを発見したのがこの心礎である。
安永9年(1780)吉備乃志多道では「八高寺(今の八高堂)と云ひし寺近世までありし云々・・・・」と云う。
 八高堂礎石実測図
2015/09/07追加:
○「吉備郡史 巻上」永山卯三郎編、岡山県吉備郡教育会、昭和13年 より
上記の「岡山県通史」と全く同一の記載である。
「吉備乃志多道」古川古松軒著、安永9年に云「服部村ノ弥高ハ古書ニハ八高トアリ。又云八高寺ト云ヒシ寺近世マデアリシ云々」又云
「弥高仙坊称シテ陰陽ニ二ヶ寺アリ。服部村ニテハ弥高山八高寺。陶村ニテハ弥高山城連寺ト云シト也云々」
址の北西隅に当たりて今薬師堂及び荒神の小詞を存す。
2016/06/26撮影:
 備中八高廃寺:向かって左が塔基壇、北方より撮影、南方には山塊が迫る。      備中八高廃寺塔基壇2
 備中八高廃寺心礎11     備中八高廃寺心礎12     備中八高廃寺心礎13     備中八高廃寺心礎14
 八高廃寺薬師堂     薬師堂薬師如来立像
2018/08/22追加:
○「真備町(倉敷市)歩けば」岡山文庫301、小野克正・加藤満宏・中山薫、日本文教出版、平成28年(2016) より
 (2018年7月小田川が氾濫、特定地点だけの安否を気にするのは不謹慎の誹りを免れないが、八高廃寺跡は無事だったであろうか。推測するにここは小田川右岸であり、基本的に出水のなかった側である。加えて川よりやや高い所に位置し、浸水とは無縁の所ではないかと推測する。)
八高廃寺は服部の八高ではなく正確には妹の八高に所在する。八高地区は服部と妹に跨るが、廃寺は妹の側にある。
 八高廃寺からは箭田廃寺や岡田廃寺と同様の白鳳期の蓮華文瓦が多数見つかっている。

備中関戸廃寺

関戸唐臼にある。塔心礎が昭和37年の調査で発掘される。心礎は花崗岩の自然石で、大きさは1.8×2.6m、高さ60cmで、中央に径30×13cmの枘孔を穿ち、その外の東半分を半径0.5cmばかり僅かに彫り窪める。(柱孔と枘穴を穿孔する。)
塔基壇は一辺11mとされる。白鳳末か天平前期のものと推定される。
2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
瓦のほか相輪残欠、風招、瓦塔などの出土を見る。
 関戸廃寺伽藍配置・心礎図
寺域は一辺約130mの方形であるが、南東部は丘陵が迫り出し欠落する。伽藍配置は塔金堂が南北に並ぶと思われるも、講堂など不明。
2007/04/25追加:「岡山の建築」から
 関戸廃寺心礎    関戸廃寺塔基壇平面図
2011/12/11撮影:
大きさ:230×190cm、高さは計測不能。半分に満たない柱座と思われる浅い掘り込みがある。その径は凡そ95cmを測る。中央には径30cm×12cmの円形孔を穿つ。(実測)
 備中関戸廃寺心礎1     備中関戸廃寺心礎2     備中関戸廃寺心礎3     備中関戸廃寺心礎4
 備中関戸廃寺心礎5     備中関戸廃寺心礎6     備中関戸廃寺心礎7     備中関戸廃寺心礎8
 関戸廃寺全景:東から撮影、中央 に写るカイズカイブキの向かって左が塔跡、右は金堂跡、手前は講堂跡((想定)。
 関戸廃寺塔跡1     関戸廃寺塔跡2     関戸廃寺塔基壇: 塔基壇北辺、現地案内板より
礎石2個以上が残る。何れも後世に割られている。
 関戸廃寺礎石1:周囲と表面は著しく破壊される。柱座は欠き取られたと思われ、微かな円形柱座と思われる痕跡(輪郭)を残す。その痕跡は径凡そ60cmほどであろうか。中央には径18cmの小孔を穿つ。
 関戸廃寺礎石2:半裁され、さらに周囲・表面が破壊される。彫りくぼめられた半円は円形柱座であろうか。

備中後月寺塔礎石

 「亡失心礎」の備中後月寺塔礎石」の項

備後宮の前廃寺(史蹟)

生土八幡宮境内が寺域で、「備陽六郡志」(江戸後期)では「往古、海蔵寺 といふ寺有。当村の生土八幡は海蔵寺の鎮守なりしとぞ、即海蔵寺の廃跡、八幡の境内にありて、礎、今に残れり」とあると云う。
発掘調査で西に塔、東に金堂跡を検出。
塔基壇は一辺12.6m・高さ約1mを測り、基壇化粧は塼積で、基壇の残存状況は良好と云う。塼の大きさは約30cm×30cm×11cm。
塔一辺は6.60m。
現在は古の基壇の前面に古の遺構を囲む形で、新しく基壇が見学用に整備される。
金堂基壇は25.3m×15.5m。礎石などは未発掘のため明確でないと云うが、小規模伽藍とされる。
白鳳−平安初の瓦を出土。
 備後宮の前廃寺塔跡1      同          2      同          3      同          4
   同      心礎5       同          6      同          7
   同   発掘時基壇       同     塔跡礎石図      同       金堂跡
○2011/10/28追加:「史跡宮の前廃寺跡−調査と整備−」福山市教育委員会、1977 より
 宮の前廃寺塔跡平面図

備後小山池廃寺

備後国分寺西方数百mにある。小山池北東に八幡社(小祠)があり、この西に塔跡がある。
現状は、全て埋め戻され、その上は畑として耕作され、地上には見るべきものは何もない。わずかに塔位置の表示(標)があるのみである。
発掘調査により、寺域は東西約1町で、塔跡とその東西に建物跡を検出したと云う。
塔跡トレンチで心礎・四天柱礎・北脇柱礎石2個を発掘。基壇の一辺は13.2mを測る。
心礎は2,1m×1.7mの花崗岩製で、中央に小孔(径20×10cm)を穿つと云う。
西方建物跡は東西32,4m、南北14.4mの基壇で礎石を検出する。
八幡宮のある場所の東方建物は西方建物より一回り小さいものとされる。池底および周辺から礎石・瓦が古くから出土し、出土瓦から白鳳期から平安期まで存続したと推定される。
 備後小山池廃寺遠望         同 塔跡(東から)         同      (北から)
    同      塔跡1:四天柱礎4個の中央に心礎が写る。
    同      塔跡2:上方の礎石列は講堂跡の礎石列とされる。
○2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
 小山池廃寺伽藍配置図
○2011/10/28追加:「小山池廃寺発掘調査概報-第1次・2次-」広島県教育委員会、1977 より
南を古代山陽道が通る。後に国分尼寺として転用された可能性が高いとされる。
塔一辺は6.6m、両脇間は2.1m、中央間は2.4mを測る。基壇は人頭大の花崗岩を二段に積む。
 小山池廃寺塔跡実測図

備後和光寺

○「日本の木造塔跡」:古の和光寺心礎は現在の田辺寺本堂の横にある。
田辺寺(真言宗)は奈良期創建の和光寺跡に毛利家武将田辺氏が再興した寺という。
心礎の大きさは106×87×70cmで、径38×20cmの円孔を持つ。なお、2条の放射状排水溝を刻むも実効性があるかどうかは疑問。
○「幻の塔を求めて西東」心礎は一重円孔式、大きさは115×95×70cm、径38×21cmの円孔を穿つ、奈良期もしくは平安期。
○出土瓦から創建は奈良期もしくは平安期とされる。昭和9、10年の調査で和光寺門前から九輪片・風鐸片数点が出土と云う。心礎は残存するも、他の礎石が原位置で残存せず、伽藍配置は全く不明。
和光寺は養老5年(721)行基創建と伝える。永禄5年(1562)津之郷串山城主田辺光吉、和光寺を再興、田辺寺と称する。天正15年(1587)豊臣秀吉(島津征伐途中)、当寺で足利義昭と対面すと云う。
 備後廃和光寺心礎1       同        2       同        3       同        4
    同        5       同        6     備後田邊寺景・門前
2011/12/17追加:
出土風鐸・九輪は福山城博物館に寄託され、常設展示と云う。

備後吉備津神社三重塔

 備後吉備津神社

備後中谷廃寺:深安郡神辺町道上

2011/12/23追加:
○「吉備の古代寺院」から
道上小学校(神辺町道上字中谷)校庭に位置する。
昭和53年校舎の増築に伴い、発掘調査される。塔、講堂(瓦積基壇)と推定される遺構を検出する。
第一建物跡(規模・位置として塔と想定)の北辺と北辺に直交する東面辺・西面辺の一部、及び第一建物北東の位置に第二建物(規模・位置として講堂と想定)の南辺と南辺に直交する東面辺・西面辺の一部を検出する。金堂跡は未確認であるが、法隆寺式伽藍配置が想定される。
出土瓦などから、7世紀中後半に創建され、8世紀には再建(修理)され、平安後期まで存続したと推定される。
 中谷廃寺伽藍配置:下に掲載の「備後中谷廃寺」より
 ※校舎や校庭の敷地であることや本図の状況から、遺跡は埋め戻され、地上には何も見るべきものは残らないと思われる。
○「備後中谷廃寺」神辺町教委、昭和56年 より
暮待寺跡と口承あり。
第1建物:基壇鑿遺存、基壇上面は削平され不明。根石の一部のみ遺存。建物の配置から塔跡と推定される。建物総長(11.7m)は復原値であるが、基壇上の建物は中央間は3.3m、両脇間は2.7mの三間建物と推定される。(三間の建物であり、中央間が広いと云うことであれば、塔跡の蓋然性は高いであろう。)
第3建物:礎石(上面を削平)残存し、6間×4間(推定)の建物で、廂は三面分確認し北側にも付く可能性が高いと推定される。おそらく講堂跡であろう。基壇は木口積の瓦積であることが確認される。
 中谷廃寺実測図

備後慶徳寺跡

艮神社境内にある金刀比羅宮の石碑の台石(心礎は石碑の裏面にある)に転用される。
心礎は凡そ115×70×40cmの大きさで、径60cm高さ約1cmの造出しを彫り出し、その中央に約20×3.5cmの孔を穿つ。(実測)
現地の説明板によると、艮神社境内地の小字は慶徳寺といい、「いにしへ大寺なりし由、このあたりの地名に呼べり」(「西備名氏」)とあると云う。(この一文が唯一慶徳寺を確認できる文献と云う。)
 ※「西備名氏」とはおそらく地誌「「西備名区」のことと推定する。
出土瓦などから、奈良後期の創建とされるが、未発掘のため伽藍配置などは不明とする。なお台石以外にも境内地にはいくつか礎石と推定される石が散在する。
2003/12/28撮影;
 備後慶徳寺心礎1       同       2      同       3      同       4      同       5
2014/01/01撮影:
心礎は凡そ110×75cm高さ35cmの大きさで、径60cm高さ約1cmの柱座を造出し、その中央に径20cm深さ4cmの円孔を穿つ。(実測)
「吉備の古代寺院」 より
艮神社から福塩線にかけてに地域が寺域と考えられる。大正2年の両備軽便鉄道敷設工事で土壇の一部などが壊され、礎石や瓦が出土する。
 備後景徳寺跡心礎21     備後景徳寺跡心礎22     備後景徳寺跡心礎23     備後景徳寺跡心礎24
 備後景徳寺跡心礎25     備後景徳寺跡心礎26     備後景徳寺跡心礎27     備後景徳寺跡心礎28

備後町廃寺(伝吉田寺)

現金竜寺(浄土宗知恩院末)境内にある。伝吉田寺の心礎と伝える。心礎は明治期に発見されたと云う。
吉田寺は白鳳期の創建で、現金竜寺の前面が伽藍地であったとされる。後には天台の大寺であったと伝える。
「日本の木造塔跡」:心礎は1.35×1mで、中央に径12×9cmの孔を穿つ。昭和42年の発掘調査で観世音寺式の伽藍配置が確認される。 塔基壇と想定される1段の石列を出土。一辺は14.5m。
「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさは130×95cm、径12×10cmの円孔がある。白鳳。
「吉備の古代寺院」:伝吉田寺跡:現金龍寺本堂前に塔心礎を残す。1968年の発掘調査で、塔跡(一辺14.5m)、講堂跡などが検出された。
「日本の古代遺跡26・広島」:1968年の発掘調査で塔跡には住宅が建てられていたが、基壇をしめす一段の石列が検出され、一辺14.5mの基壇規模が明らかになる。但し削平のため詳細は不詳。
 備後伝吉田寺心礎1      同        2     同        3     同         4

備後本郷平廃寺

発掘調査で一辺 9.55mの塔跡、北に金堂跡が検出されるも、その他の遺構は未確認で全容は不明。奈良前期から平安期の寺跡とされる。
心礎が残るも埋め戻され実見できない。また石造露盤も残る。 → 備後本郷平廃寺石造露盤
◆心礎発掘(発見)以前
○「日本の木造塔跡」岩井隆次、昭和57年:
観音堂を挟んで北側に10個の礎石群があるが金堂などの礎石であろう。
堂の南にT字形の枘孔の中心に舎利孔様の小孔のある礎石及び径20cmの孔のある礎石がある。
一方、北側の礎石群のうち西側北から3番目の礎石の上に心礎と思われる大石があり荒神大石の台石となる。この礎石は(荒神大石を取り除くと)一辺1.4mの正方形で 、高さ37cm、中央に径38cmの円孔が底まで貫通する。
南側のT字形の枘孔のある礎石は100×92×45cmと小さく、中央の小孔も扉の軸摺孔とも思われ、門礎であろう。(荒神大石の台石が心礎であろう。)なお円孔が貫通する例は甲斐国分寺心礎、伊予長隆寺心礎 (来住廃寺)と共通のものが見られる。
 ※心礎発見前の論述であるが、岩井氏が心礎とする石はその大きさ及び形状(一辺1.4mの正方形、厚さ37cm、径38cmの円孔の貫通)から見て、心礎ではなく塔の露盤であろう 。
 また、岩井氏は円孔が貫通する例として甲斐国分寺・伊予長隆寺「心礎」をあげるが、両方とも心礎ではなく、石製露盤である。
◆昭和60からの発掘調査で塔の基壇の地下から心礎が発掘(発見)される。
○「幻の塔を求めて西東」(平成元年/1989):
地下式、大きさは最近出土で調査中、円柱径44cm(深さ?)、2重目孔は長方形(34×25× cm)、3重目の舎利孔(4× cm)は不規則な配置。
なお「幻の塔を求めて西東」の「塔心礎の追加表」では以下のように記載される。
大きさ150×115cm、円孔径44×4cm、2段目孔・長方形(34×8.5×深さ2cm)、3段目・舎利孔(6×3cm・長方形の北よりに舎利孔)
○2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
 本郷平廃寺塔跡実測図:1985-88 年に発掘調査:原典は「本郷平廃寺」潮見浩、御調郡御調町教育委員会、1989
 本郷平廃寺遺構図:「本郷平廃寺」潮見浩、御調郡御調町教育委員会、1989 より・・・2011/08/02追加
○2011/08/02追加:サイト:「御調のむかしばなし」(URL:http://dokohaku.jp/pc/minwa/mitsugi/kawachi/)に心礎写真の掲載がある。
 本郷平廃寺心礎:上記サイトより転載
○2011/08/02追加:2011/10/09修正:
「本郷平廃寺」、潮見浩、御調郡御調町教育委員会、平成元年(1989) より
基壇一辺は9.55m・高さ90cm、版築で造られ、基壇化粧は残存しないが基壇周囲から20〜30cmの花崗岩礫が多量に出土し、乱石積基壇であったと推定できる。
塔基壇には心礎を含む13個の礎石が現存し、何れも花崗岩製である。
心礎は他の礎石より45cm低い基壇版築内の位置にある。心礎上面の大きさは150×115cmで、心礎中央に径44cm深さ4cmの円孔があり、その中に34.5×8.5cm深さ7cmの長方形の穴がある。長方形の穴の北側底面はさらに3cmほど掘り窪められる。
 備後本郷平廃寺心礎1     備後本郷平廃寺心礎2     本郷平廃寺心礎実測図     備後本郷平廃寺塔礎石
遊離した礎石群:
石製露盤:荒神の台石に転用、花崗岩製、大きさは一辺約1,4m厚さ約35cmで中央に径約40cmの貫通孔がある。孔の縁は緩やかな曲面をもつように加工される。また外側には一重の浅い線状の窪みがめぐっているように見える。(実測図の3)
 本郷平廃寺石製露盤     本郷平廃寺礎石実測図
その他の礎石:観音堂の手前にある。
礎石bは130×90×51cmの大きさで塔阯のものより小さ目である。
礎石c(実測図の2)は120×90×43cmの大きさで、中央に長さ32cmと20cm・巾20cm・深さ16cmの彫込があり、交点には一辺20cm深さ4cmの一段深い彫込がある。門の唐居敷と思われる。
礎石d(実測図の1)は64×60×30cmの大きさで、中央に径20cm深さ10cmの円孔がある。礎石cと対の門礎であろう。
 本郷平廃寺礎石bcd     本郷平廃寺礎石c1     本郷平廃寺礎石c2     本郷平廃寺礎石d
○2011/12/17追加:2011/12/10撮影:
現地は埋め戻され、荒廃した小宇(観音堂とは思えないが)、「本郷平守護荒神社」石碑とその台石(石製露盤)、台石の廻りに散布する数個の礎石と思われる石が地上には残るだけで、心礎は勿論、その他の遺構・遺物などは見ることが出来ない。
現地に立っても、どれが塔跡でどれが金堂跡かは容易に窺い知ることはできない。
石製露盤も石碑の台石であり、現状ではその孔の貫通を視認することはできない。  → 備後本郷平廃寺石造露盤
 本郷平廃寺跡小宇     本郷平廃寺荒神社石碑
 本郷平廃寺石製露盤1     本郷平廃寺石製露盤2     本郷平廃寺石製露盤3     本郷平廃寺石製露盤4
 本郷平廃寺石製露盤5     本郷平廃寺石製露盤6     本郷平廃寺石製露盤7     本郷平廃寺石製露盤8
 本郷平廃寺石製露盤9
 本郷平廃寺台石付近礎石     本郷平廃寺小宇前礎石:3個ある
 本郷平廃寺円孔礎石1     本郷平廃寺円孔礎石2     本郷平廃寺円孔礎石3
 本郷平廃寺枘孔礎石1     本郷平廃寺枘孔礎石2     本郷平廃寺枘孔礎石3     本郷平廃寺枘孔礎石4

備後利生塔(浄土寺)

浄土寺五重塔が備後利生塔に充てられたとされる。浄土寺の現伽藍は東から多宝塔、本堂、阿弥陀堂がならび、阿弥陀堂背後が住坊であると思われる。浄土寺伽藍古図によると、五重塔はその住坊の北西にあるように描かれる。
五重塔は貞和3年(1347)建立、17世紀に焼失したとされる。それ故中世には五重塔と多宝塔が並存していたのであろう。
 →備後浄土寺

備後千光寺

2015/05/11追加;
広島県尾道市 尾道 のページに以下の記事がある。
尾道千光寺護摩堂
 三百余年前(江戸中期)までは、境内に当山城主杉原公の守本尊・多聞天を祀った三重の宝塔があったが、山上から大石が落下して倒壊し、その跡に建立された。
 当山城主杉原公とあるが、当山とは千光寺山をいい、千光寺山には山城が築かれていた。現在では遺構は殆ど失われているが、山頂周辺に残る平坦地は城の「曲輪」の跡と見て良いし、山頂から東北に伸びた尾根上は段々に削平され、城郭の遺構をよく残す。東北の稲荷神社から東に一段下がった曲輪には「八畳岩」と呼ばれる巨石があり、櫓の柱穴と考えられる人工的な窪みが残る。
この城は永禄年中(1558〜70)杉原元清が築城したという説と、天正12年(1584)杉原元恒(元清の子)が築城した説とがあるというが、いずれにしろ杉浦公とはこの杉浦氏をさすのであろう。
天正19年(1591)は豊臣秀吉の山城停止令が出て、廃城になったという。

備後徳雲寺c;比婆郡東城町菅

「幻の塔を求めて西東」<塔心礎の追加表(手書資料)>:
心礎は一段円孔式、大きさは150×150cm(高さの記載なし)、径40×20cmの孔を持つ、地下式、原位置を保つ、白鳳
2011/12/17追加:
心礎の有無について問い合わせるも、以下の回答であり、存在する確証は得られず。
徳雲寺談:心礎がある認識は全くない。そもそも徳雲寺の開基は長禄元年(1457)であり、古代の塔心礎などあるはずもない。
庄原市教委談:「東城町史」などを参照するも、全く心礎の記載はない。

備後寺町廃寺(史蹟)

白鳳−平安期の寺院とされる。発掘調査で寺域は方 80m、法起寺式伽藍の塔、金堂、講堂、廻廊などの塼積基壇を発掘。
塔跡は削平されているが、一辺11.14mとされる。以前から露出していた心礎は原位置を保つとされる。
なお「日本霊異記」に記載される三谷寺の可能性が高いと云われる。
 →初期神宮寺:三谷寺の項参照。
○「日本の木造塔跡」:心礎は1.9×1,1mで、径44×22/21cmの孔を穿つ。なお穴の底に長さ36×幅8/6cm×深さ7cmの細長い溝が穿たれているが、これは宝篋印塔を建てたときに穿ったものであろう。(心礎上に宝篋印塔が積上げられている。)
 ※側柱礎2個があると云うが、宝篋印塔に組み込まれている2個の石は柱座を造り出し、この2個の石が礎石と思われる。(2011/12/11)
○「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、大きさは203×86cm、径45×24cmの円孔、その底に31.8×7.8×7.5cmの長方形の溝穴を穿つ。
 寺町廃寺伽藍配置図  寺町廃寺心礎図
○「吉備の古代寺院」:「芸藩通志」(文政年中編纂)では中世の江田氏の興法寺跡とする。更に現在では「日本霊異記」の三谷寺の可能性が高いとされる。発掘結果は平安初期まで存続し、室町期の遺物も出土するため、中世には興法寺として法灯を継いだものと考えられる。
○「史迹と美術 巻117」所収「備後町廃寺址の塔中心礎石」猪原薫一、昭和15年:
現状は心礎と礎石1個が残存するだけで、耕地と化している。市街地とはほど遠い場所で、従って寺町なる地名は古くからもので、町とは田区を意味する古語であろう。
心礎は長径6尺7寸(203cm)短径2尺9寸(88cm)、ほぼ長方形の自然石で、厚さは地中にあり不明。中央に径1尺5寸、深約3寸の円孔があり、孔底に長1尺、幅2寸5分、深7分の横溝が穿たれる。溝の一端に少しの凹がある。孔底に横溝のある心礎はその例を見ない。塔の心礎から少し離れた笹薮の端に礎石が1個ある。
この地は奈良期では三谿郡であり、三谷郡に建立された寺院として三谷寺(日本霊異記)が文献上知られる。
 昭和15年心礎等実測図:下段は笹薮の端にある礎石図と思われる。
○2011/10/28追加:「備後寺町廃寺−推定三谷寺跡第1次発掘調査概報−」広島県草戸千軒町遺跡調査研究所、1980 より
階段幅などより、塔は8尺等間、軒の出7尺と推定される。
心礎の上にある2石の礎石は方形柱座を持ち、塔心礎南側で出土した礎石は円形柱座を持つ。心礎・礎石の石材は角閃・黒雲母花崗岩で三次・庄原では見られない石質である。塔基壇・階段に使用の石は近辺で産出の石材である。
心礎は花崗岩製、1.9m×1.1mの大きさで、中央に径44cm、深さ21cmの円孔があり、その円孔の底面中央に長さ32cm、幅6〜8cm、深さ7cmの溝状孔を心礎長軸に平行して穿つ。
 寺町廃寺塔跡実測図     寺町廃寺心礎・礎石実測図
○2011/12/11撮影:
現地は埋め戻されるも、ほぼ伽藍配置の推測が可能な程度には地形・地割が残る。
心礎及びその上に礎石2個(もう1個の礎石は未見)が残る。「史迹と美術 巻117」では「孔底に横溝のある心礎はその例を見ない。」と云うも、
近年備後本郷平廃寺で、円孔の底に棒状の孔がある心礎が発見される。
 備後寺町廃寺全景1:南から撮影、伽藍は南面する、中央やや右に塔心礎・石積(塔跡)が写る。
 備後寺町廃寺全景2:北から撮影、中央やや左に塔心礎・石積(塔跡)が写る。手前中央は講堂、塔跡右は金堂跡。
 備後寺町廃寺塔跡1:心礎は原位置を保つと云う。      備後寺町廃寺金堂跡     備後寺町廃寺塔跡2
 備後寺町廃寺心礎11:心礎上に2個の礎石を重ね、その上に宝篋印塔残欠を載せる。
 備後寺町廃寺心礎12     備後寺町廃寺心礎13     備後寺町廃寺心礎14     備後寺町廃寺心礎15
 備後寺町廃寺心礎16     備後寺町廃寺心礎17     備後寺町廃寺心礎18     備後寺町廃寺心礎19
 備後寺町廃寺心礎20     備後寺町廃寺心礎21     備後寺町廃寺心礎22
 備後寺町廃寺礎石2個:各々方形の造出を持つ。     備後寺町廃寺礎石上     備後寺町廃寺礎石下
 備後寺町廃寺模型:現地説明板より転載、広島県立博物館蔵のものであろう。
 備後寺松廃寺塔基壇:発掘調査時、現地説明板より転載

備後寺戸廃寺c:三次市三次町寺戸

○「幻の塔を求めて西東」:一重円孔式、大きさは121×121×60cm、径30×6cmの円孔、白鳳、後世円孔に扇面を彫る。
○2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
大師堂周辺が寺跡と推定され、大師堂近くに塔心礎と推定される手水鉢がある。昭和44-45年に発掘調査されるも、明確な主要伽藍遺構の出土がなく、伽藍配置ははっきりとはしない。
○2011/12/11撮影:
心礎と推定される手水鉢の大きさは、心礎とすれば、超小型であり、さらに表面が扇形に彫られ、これまた心礎とすれば、通常は穿られるであろう円孔などの有無が確認できない。そもそも当廃寺に塔の遺構が確認された訳ではなく、以上の意味でこの手水鉢を心礎とするには躊躇せざるを得ない。
「幻の塔を求めて西東」で云う「径30×6cmの円孔」とは単なる推定であろう。(円孔の形跡がある訳ではない。)
現地には大師堂と庫裏があるのみで、一心寺なる扁額を掲げるも「庵室」の雰囲気である。表面を扇形に加工した手水鉢は大師堂の前に置かれる。
 備後寺町廃寺推定心礎1     備後寺町廃寺推定心礎2     備後寺町廃寺推定心礎3     備後寺町廃寺推定心礎4
 備後寺町廃寺大師堂前:南から撮影      備後寺町廃寺景観:手水鉢は大師堂と庫裏のやや庫裏寄に写る。
 備後寺町廃寺大師堂

安芸明官地廃寺跡:吉田町中馬明官地

○この廃寺は出土瓦から寺院は奈良前期の創建とされる 。また「高宮郡内了(部)寺」とヘラ書きされた平瓦が出土する。
発掘後、心礎(推定)は埋め戻され、実見することは出来ないと思われる。
 明官地廃寺塔心礎・版築・・・出典不明 ・・・「明官地廃寺跡−第3次発掘調査概報−」の図版
○2008/08/14追加:「天武・持統朝の寺院経営」:
 明官地廃寺伽藍配置・・・「明官地廃寺跡−第3次発掘調査概報−」の図版
○2011/10/28追加:「明官地廃寺跡−第3次発掘調査概報−」広島県立埋蔵文化財センター、1989 より
 2012/08/27追加修正:
「萩藩閥閲録」(天正年中):中馬妙勘寺・・とあると云う。
また文政年中には「めうかん寺」「明観寺跡」「廃明元寺」などと文献に見え、寺跡として認識されていたようである。
昭和61年度の第1次発掘調査では、5×4間の礎石建物跡が発掘される。(この時点では堂名称は不明であった。)
昭和62年度の第2次発掘調査では、発掘された軒丸瓦から当廃寺は平安初期まで存続すると推定されるに至る。
昭和63年の第3次調査では、5×4間の礎石建物跡の南にトレンチを設定。上掲載の明官地廃寺伽藍配置のS2・S3区。
その結果、塔心礎と推定される大石と版築土と推定される土層、溝などが発掘される。残念ながら削平が激しく基壇化粧及び正確な基壇や塔一辺は明らかに出来ず。但し版築の状況から、塔基壇の大きさは一辺12m程度と推定はされる。
基壇中央付近には破壊されてはいたが、塔心礎と推定される大石が発掘され、この遺構は塔跡と推定される。
この結果、5×4間の礎石建物跡は東面する金堂跡と推定され、この伽藍は東面する法隆寺式に似た伽藍であると結論付けられる。
推定塔心礎の現状の大きさは1.5m×1.0m、厚さは0.5m以上を測る。材質は花崗岩であるが、心礎の上面・側面は後世に打ち割られている。上面はほぼ水平に割られ、その上面は水田の床下直下にあたるため、水田開墾の時割られたものであろう。
なお基壇の版築土層は心礎の据付後の構築と見られるため、地下式心礎の可能性が考えられる。
 明官地廃寺伽藍配置想定図
 明官地廃寺塔心礎: 心礎は右上に写る。     明官地廃寺塔全景: 心礎は下中央に写る。
 明官地廃寺塔跡実測図: 心礎は右下に描かれる。

安芸横見廃寺(史蹟):三原市本郷町下北方(本郷中学校の東隣)

発掘調査で,講堂,塔,築地などの遺構が検出される。寺域は東西約100m、南北約80mと推定される。
講堂跡は寺域の東寄りにあり、西面し、南に廻廊が取り付く。基壇は南北28.8m、東西19.2mの規模を持つ。基壇は平瓦を立てた状態の化粧であった。
講堂西北に塔(もしくは北金堂?)の遺構が検出され、西向の特異な伽藍配置の寺院とされる。
 ※但し、塔の遺構とする根拠は良く分からない。
出土軒丸瓦には単弁蓮華文(山田寺式の火炎文、檜隈寺跡出土例と類似)・忍冬唐草文(若草伽藍・中宮寺出土例と類似)があり、畿内からの影響が認められる。
なお付近(南西)に楽音寺がある。
2011/12/10撮影:
各基壇跡は埋め戻され、更地で保存される。
 安芸横見廃寺石標:よこみ寺址とある。
 安芸横見廃寺全貌:東から撮影、手前は東方基壇跡、中央右手の檀は北方基壇跡、中央やや右の植栽が西方基壇跡
 安芸横見廃寺発掘図     横見廃寺西方基壇跡1: 塔跡か、南から撮影     横見廃寺西方基壇跡2:植栽で基壇を示す
 横見廃寺北方基壇跡:手前が北方基壇跡、奥は東方基壇跡              横見廃寺東方基壇跡:東から撮影

安芸楽音寺

○歓喜山と号する。真言宗。楽音寺縁起絵巻では、天慶年中(938-947)藤原純友追討のため安芸の国に下行し、追討を薬師如来に祈願した と云う藤原倫実の創建という。往時は2院18坊を有する。
また、「楽音寺伽藍絵図」(江戸期)を蔵し、ここには多宝塔(宝塔)と思われる塔婆が描かれる。
 楽音寺伽藍絵図:「社寺境内図資料集成」より:2011/12/17画像入替
本堂(戦国期の建築とされる)、仁王門はこの図に描かれたものが現存するとされる。 鐘楼もこの図のものが残ると思われる。本堂東の稲荷・大師両堂も今もこの「伽藍図」のままである。
2011/12/10撮影:
○現在伽藍は本堂・仁王門のみを残し、その他、正一位稲荷大明神、大師堂、鐘楼、庫裏がある。
本堂・仁王門の配置から今も大寺の雰囲気を残し、付近には坊舎跡に相応しい地形も見られる。
現在、宝塔およびその痕跡などは地上に残らない。 本堂西に護摩を焚く場があり、その付近(写真)かあるいは本堂西南の一段下付近が「伽藍絵図」から塔跡と推定される。
なお理由は不明ながら、境内の撮影は不可とする。(本堂掲示及び住職談)
 楽音寺仁王門1     楽音寺仁王門2     楽音寺本堂1     楽音寺本堂2
 楽音寺推定塔跡     楽音寺鐘楼       稲荷大明神・大師堂

安芸竹林寺三重塔跡

  →安芸竹林寺三重塔跡

周防濡田廃寺心礎・・・破壊

  →「亡失心礎」の周防濡田廃寺」の項

周防降松妙見宮鷲頭山

中世末期には五重塔が存在した。
応永元年(1394)大内義弘、中宮に五重塔を建立。
慶長13年(1608)五重塔ほか焼失し、以降再興されることはなかったようである。
五重塔跡は明治中期までは残っていたが、中宮の公園整備で整理され、現今は明確ではない。
 →降松妙見宮鷲頭山

周防乗福寺

大内重弘の建立。後醍醐天皇の勅願寺となる。足利幕府が利生塔制定の折に、当寺塔婆が利生塔に充られるという。
 →周防乗福寺(利生塔)

周防仁平寺

山口市大内御堀(34.1337270104161, 131.49591310899308)に所在する。
「防長風土注進案」(江戸後期か?):「仁平寺古跡・・・当寺は近衛院仁平元年(1151)の草創にして・・・寺跡の南に小高き所に五重塔の礎存せり。・・・土人云、ことし天保13年(1842)よりおよそ百年ばかりも前のかたまでは、五重塔朽ちながら立りしが、いつしか前なる池に倒れつるをまのあたりに見たりしと古老の語り伝えありとぞ、その池より塔の朽木を拾ひたりとて器材に造りたる人多しといへり」
さらに礎石を縦横に4個ずつ(計16個)配置した図があり、縦横の長さはおよそ2歩(約4m)の記載があると云う。
ただしこの礎石・池の痕跡は消滅して、現在では確認ができないとも云う。
観応3年(1352)「仁平寺本堂供養日記」:「十地坊、大円坊、常行坊、宝持坊、常楽坊、蓮池坊、竹林坊、宝樹坊、南陽坊、妙光坊、東蔵坊、報恩坊」などの坊舎があったとされる。
2023/03/04追加:
現地説明板には次のように云う。
 「山号を菅内山といい、仁平元年(1151)の創建で、年号をもって寺号とした仁平寺の跡である。
注進案によれば、当時は五重の塔があり、本堂にいたる道の左右には本坊、東蔵坊、蓮池坊等があったので、その地名があったという。
このことは、本堂供養日記にもその記事があり、これによると、供養は舞楽舞踊が行われる等、頗る盛大であったことがうかがえる。
また、五重の塔の礎石が残っていたといわれるが、溜池築造のため取り除かれてしまっている。」
 開山・開基などは不明という。
また、現在、約500メートル東に場所を移して曹洞宗・仁平寺(山口市大内御堀4201)があるという。

周防引接寺

下関市中之町11-9に所在。
永禄3年(1560)一徳和尚、豊前国黒田村より移創したと伝える。
慶長3年(1598)小早川秀秋、小早川隆景の菩提のため、現在の地に再興したという。関亀山と号する。
以降、朝鮮使節使等、度々使節の宿所となると云う。
明治28年日清講和条約(下関条約)の際、清国全権大使李鴻章一行の宿所となる。
昭和20年空襲で本堂を焼失。三門は、明和6年(1769)毛利匡満により再建されたものが現存する。
 [周防引接寺図](江戸後期) :二重塔が描かれる。

長門大井大寺廃寺c:萩市大井領家

心礎は一重円孔式、大きさは330×260×60cm、径97×孔底径83×8/14cmの円穴を穿つ、心礎は移動されている、奈良後期。
古瓦などから創建は白期とされ、平安期初頭に大洪水のため大井川底に埋没したとされる。
礎石や塔心礎は発掘(時期は未掌握)されたと云う。
永観元年(983)似光法師が大井大寺の地に真言宗随流山大応寺を建立する。中世には曹洞宗に転宗し、江戸期には大井市場に移転する。
2011/10/28追加:
○「長門國大井村に於ける一廃寺址に就いて」山本博(「考古学雑誌」第27巻第5号、1937 所収) より
川底より心礎のみ現在地へ移転する。伽藍中心は現大井川流路内となる。
心礎は玄武岩製。心礎の大きさは3.0×2.73m、中央に径1m、深さ14cmの円形刳込みを持つ。
 大井大寺廃寺心礎実測図
2023/02/26追加:
○「山口県埋蔵文化財調査報告第84集 大井大寺廃寺」山口県教育委員会、1984 より
大井大寺廃寺は大井川の沖積平野の東端部、海岸から東へ2.7kmに位置する。
大井川は古くから氾濫を繰り返し、遺跡の中心部は大井川の河床を含む氾濫原に埋没し、一帯は田畑・果樹園となる。
当地域では早くから開け、多くの古墳がしられるが、やがてこの古墳築造のエネルギーは寺院造営へと転化し、大井大寺廃寺が出現する。
大井大寺廃寺に関する史料は全く現存しないが、大井川河床に礎石が露出し古瓦が出土することから、ここに寺院が存在したことが知られ、右岸一帯には大寺の字を残す。
近世の資料であるが「地下上申」の「徳山領阿武郡大井村石高付由緒書」には
 一薬師堂  上寺大寺と申、川端ニあり
  右往古は此所伽羅寺有之由申伝候、于今突き石かわら之われ御座候、此所を夫故か大寺と申伝候、
  往古より大寺の薬師と申習ハし、大應寺之抱えにて御座候、由緒寺より可被申出候事
とある。
 塔心礎ほかの礎石は、昭和7年まで原位置に存在したと見られ、初和8年に心礎のみが川底から引き揚げられ、現在の大應寺山門前に移された。
 ※現在はほかの礎石とともに、山門下西よりの民家横の更地に移されている。
昭和11年心礎引き上げ附近の堤防改修工事が行われ、心礎のあった東側の堤防から大量の瓦の出土と礎石数個が確認される。
この時、山本博(当時萩中学教員、後大阪学院大教授)によって小規模な発掘調査が行われる。
 大井大寺廃寺礎石分布図:昭和11年の遺蹟概略図(原図は山本博)
そして、出土瓦からこの廃寺は奈良後期の創建と判断される。
 さて、その後も大井川は幾度も氾濫し、昭和45年堤防補強工事などが行われ、河床約1.2mの深さから柱座を造り出す礎石3個が新たに発見される。
これらはかって確認された礎石と共に現在萩市博物館・図書館にある。
 長門大井大寺心礎     長門大井大寺礎石:左図は2023/02/26追加
 ※現在、これらは大應寺山門下西よりの民家横の更地に移されていると思われる。
昭和59年発掘調査が実施される。
塔心礎の出土地は河床で発掘困難であるので、心礎出土地に接する東側の現在も大應寺所有地となっている畑で実施された。
この地点からは整然とした石積基壇が発掘される。但しこの石積基壇は出土遺物から中世~近世のものと判断される。(寛永通宝も出土)
基壇は西辺10m、南辺2.4mを発掘するも、ボーリング探査で西辺は少なくとも14mと確認され、東西も同規模か若干長いものと確認される。
この遺構からは中世・近世の瓦は出土せず、瓦葺の建物が伴ったことはないと思われる。
ただ、基壇規模や螺髪状土製品の出土から仏堂と考えられる。
 上に掲載の「大應寺之抱え」の薬師堂は「奈古代官所日記」によれば、文政4年(1821)に焼失している。薬師堂は大應寺抱えであり、この遺構のある畑が大應寺の所有であることも加味すれば、この遺構は薬師堂のそれと判断すべきと思われる。
 ※大應寺は直下に掲載
2022/11/26撮影:
 長門大井大寺心礎1    長門大井大寺心礎2    長門大井大寺心礎3    長門大井大寺心礎4
 長門大井大寺心礎5    長門大井大寺心礎6    長門大井大寺心礎7    長門大井大寺心礎8
 長門大井大寺心礎9
 長門大井大寺礎石1    長門大井大寺礎石2    長門大井大寺礎石3    長門大井大寺礎石4
 大井大寺礎石現況1    大井大寺礎石現況2    大井大寺礎石現況3

参考
長門大井大應寺:曹洞宗
ページ「随流山 大応寺」 より
 当寺古文書によれば、永観元年(983)似光法師が大井大寺の地に真言宗随流山大応寺を建立する。
翌永観2年、似光法師は宿井殿立石に神殿を建立し、宇佐八幡宮を勧請する。
その後大内氏24代弘世の弟師弘の子である痴鈍が、古曽前に寺を再興して禅宗(曹洞宗)の保寿寺と改める。
天文年中(1532〜54)戦火のため寺社共に焼失したが、天正年中(1573〜91)吉見家の庇護をうけて再建される。
慶長年中(1596〜1614)亨徳寺第2世守宝を迎え、亨徳寺末となり、大応寺に復号する。
第2世宗愚代に坂本に移り、享保年中(1716〜35)に今の地に移転する。
「大井大寺の礎石の一つ、心礎が境内に移されている。」とある。
本堂(享保年間)/山門(寛政六年)
2022/11/26撮影:
 長門大井大應寺1    長門大井大應寺2    長門大井大應寺3    長門大井大應寺4    長門大井大應寺5

参考
長門大井八幡宮
 鎌倉期、阿武郡司として下向した北条時実が、鶴岡八幡を勧請して大井八幡宮を造営する。
室町期には大内氏や吉見氏の庇護を受ける。
近世には、大井川をはさんで萩藩と徳山藩とに支配が分かれるも、藩領を越えて信仰圏を持つという。
2022/11/26撮影:
 長門大井八幡宮1    長門大井八幡宮2    長門大井八幡宮3    長門大井八幡宮4
 

長門深川廃寺c:長門市西深川

心礎が残存する。
心礎は一段円孔式、145×130×45cm、円孔:径40×深さ5cm、奈良後期。
○「天武・持統朝の寺院経営」:
 長門深川廃寺伽藍配置図:北方の遺構は安楽寺跡か
2011/10/28追加:
○「山口県埋蔵文化財調査報告集 第34集 長門深川廃寺」山口県教育委員会、1977 より
 心礎の根石遺構の東西に細い溝が南北に検出され、溝間の距離は約11mを測ることから、塔一辺は約9mと推定される。
基壇は削平され遺存しない。
 深川廃寺心礎実測図
○「長門深川廃寺」長門市教育委員会、1984 から
 深川廃寺遺構図:北方の遺構は安楽寺跡か
2023/02/17追加;
○ルーフレット「ながとの歴史と文化財 Vol.16」長門市教育委員会、2008 より
 深川廃寺は深川湾が一望できる板持の丘陵地帯に立地する。
往古はこの扇状台地は松林であったらしい。以前から古瓦が散乱し寺屋敷の状態であったという。
その後、この地も順次開作され田畑となる。
この廃寺も昭和50・51年及び59年の発掘調査でほぼ全容が判明する。
 当時は一辺がほぼ50mの方形の築地塀に囲われた境内を擁し、深川湾を背に、伽藍は南面し、正門・塔・仏堂(金堂)が建立されていた。
現在、その跡は埋め戻され、心礎のみが田の畦畔に置かれている。
この寺院が白鳳期の建立とした根拠は塔のものと推定される瓦から「単弁蓮華文軒丸瓦」の出土を見たからである。
金堂の建立はやや遅れ、出土瓦から奈良期と推定される。
○現地説明板 から
 白鳳期に塔が、奈良中期に金堂が建立された当廃寺は9世紀初め(平安初期)に退転する。
12世紀末(平安後期)には当廃寺の北側に新しい寺が建立される。これが語り継がれている安楽寺であると考えられ、14世紀(鎌倉~室町初期)まで続いたようである。
2022/11/25撮影:
 長門深川廃寺心礎1     長門深川廃寺心礎2     長門深川廃寺心礎3     長門深川廃寺心礎4
 長門深川廃寺心礎5
 長門深川廃寺立地:南より撮影、中央に入り込む海が深川湾、その手前やや右寄りの椀を伏せた形状の丘が妙見山(妙見山については下の妙見山を参照)。さらにその手前に白と水色の現地案内板が建つ附近が深川廃寺跡である。
 長門深川廃寺全容     長門深川廃寺現状     長門深川廃寺概要図
 板持安楽寺跡石碑:安楽寺については下に掲載。
○平成元年1月15日「広報ながと」 より
 「ながと歴史散歩 第20回」では次のように云う。
西宝寺の北西部に広がる築地の丘には礎石や瓦が発見されていた。
土地の人は飯山八幡社に伝わる写経(南北朝期)の中の「安楽寺」跡と伝えてきた。
しかし昭和51・52年の発掘調査で、廃寺跡は古代寺院であることが判明し、安楽寺跡ではないと判断される。
ところが、この廃寺の北側に別の寺跡が発見され、58・59年の発掘調査で、この寺は鎌倉〜室町の寺跡と判断される。
これこそ、安楽寺跡とされたのである。
○中央公民館だより「そうぞうながと」2022/02号 より
「伝えたい「ふるさと深川」シリーズ130 安楽寺跡碑
 ここ築地の丘には古くから、手洗石(長径1.5m)といわれる石や瓦片などが遺り、安楽寺跡と伝えられてきた。
それは、飯山八幡宮所蔵の『大般若写経』( 康応元年・1389年納経。市指定文化財)の主「安楽寺住持・氏曇(しどん)」によるものであった。
土地所有者の伊達家父子は「史跡を後世に」とこの碑を建てた。
ところが、その後の調査で発掘されたのは、納経の時代よりはるかに古い7世紀後半(白鳳期)の寺院跡であった。
 深川廃寺と命名される。
しかし、続く調査で、この廃寺跡の北側に納経とほぼ同時代(平安後期―室町初期)の寺跡が発見された。
これこそ安楽寺跡と考えられている。
 現在の農地は、長門深川廃寺の築地塀跡に沿って畦を造成。
南西の角に心礎、そばにこの碑が移されている。
 安楽寺跡石碑
  昭和40年建立、総高111cm
  碑文正面:安楽寺之史跡
    背面:昭和40年8月建設者伊達常吉・萬一
○長門市ホームページ より
飯山八幡宮大般若波羅蜜多写経附納箱(市文)
 解説:この写経の奥書によれば、西深川板持築地丘にあった「蟠竜山安楽寺」の住職氏曇が大願主となり飯山八幡宮に施入したもの。
永徳元年(1381)から書写され康応元年(1389)に完成。
全600巻のうち現存するものは296帖。1巻の寸法は縦約27cm、横9.5cm、厚さ1.5cmの折本仕立である。
 古くから語り継がれていた安楽寺の存在を実証する史料として、また飯山八幡宮と安楽寺をめぐる南北朝時代の当地方の歴史を解明する根本史料としても重要である。出典『長門市史 歴史編』)
◇妙見山
深川妙見社がある。
深川の妙見社は1410年〜1430年頃、鷲頭弘忠が長門の守護代の時、下松の妙見社から勧請されたものである。(「妙見さま」杉原孝俊、妙見宮鷲頭寺、昭和60年 より)


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