大 和 元 興 寺 五 重 塔 跡 ・ 元 興 寺 極 楽 坊 五 重 小 塔 |
大和元興寺五重塔・元興寺極楽坊五重小塔・元興寺・極楽坊・小塔院・十輪院
★大和元興寺・元興寺極楽坊・元興寺小塔院 2013/03/29追加: 2022/05/20撮影: ◆創建以来約1200年奇跡的に存続してきた五重塔は安政6年(1859)焼失する。◆ ★大和元興寺五重塔 ◆大和名所圖會:寛政3年(1791)刊より
2006/06/03追加: ●和州奈良之繪圖:元治元年(1884) 2009/03/03追加 2003/7/18追加
2022/02/07追加:
附近からの出火のとき、塔の修理中であったため、可燃性の野地がむき出しであったことが不幸であったが、修理中の故に塔の詳細な明細が残されている。
○元興寺塔舎利:
●「日本仏教はじまりの寺 元興寺」元興寺文化財研究所、吉川弘文館、2020 より 幕末の奈良:奈良名所東山一覧之図 奈良名所東山一覧之図:岡田春燈斎、下方向かって右に猿沢の池を挟み、興福寺五重塔と元興寺五重塔が並び立つ様が描かれる。 :2023/03/10画像入替 2022/02/08追加: 2021/10/15「奈良まちづくりセンター」の清水和彦氏に奈良町などご案内頂頂く。 その折、元興寺五重塔の資料として、次の「論攷」の提供を受く。 下記に記して、謝意を表する。 ご提供文献: 安政6年の元興寺五重塔焼失の状況については次の論文に詳しい。 ○「元興寺塔婆の焼失に就いて」太田静六(「建築世界」大32號3号、昭和13年3月 所収) 元興寺塔婆復原を試みたのが次の論文である。 ○「元興寺塔婆復原考」太田静六(「建築学大会論文集」昭和14年4月 元興寺塔復元にあたって、根源とした資料は現在東京帝室博物館蔵に帰している「元興寺観音堂及塔積書」である。 この資料の年紀は不明であるが、江戸中期以降、元興寺塔修復は屡々企図され、現に安政6年の焼失の時も塔は修復中であったので、凡その年紀は推測できるであろう。 詳細は本論文を参照頂くとして、元興寺塔の総高については、従来24丈という説が主流であったが、16丈という事を結論づける。 総高を復原するにあたって、「元興寺観音堂及塔積書」では相輪長についての記載がないが、各重の詳細な復原および現存五重塔のとの比較検討から、元興寺塔は世に流布している24丈(73m) ではなく、16丈(48m)であると結論づける。 この16丈は興福寺創建塔の総高と近似した値である。 なお、本塔については24丈説のみ有名であったが、16丈説も存在したのである。 例えば、「東大寺伽藍略録」中の末寺元興寺の条に「塔一基五間四面十六丈」とあり、また、元興寺蔵の江戸期の図面にも「塔 高十六丈 五間四面」と書かれたものが少なくとも2通ある。 --------------------------------------------------------------- 2023/03/15追加; 元興寺および奈良町に関する「今まで語られなかった謎に迫る」斬新な研究を纏めた図書の寄贈を受けたので、要約を記す。 受贈した図書は 清水和彦氏の「元興寺とならまちの建築・美術―語られなかった謎に迫る」京阪奈情報教育出版、2023/01/15初版 である。 今般は元興寺五重塔(大塔)、五重小塔に関する「謎」の解明部分を要約させて頂く。 ●「元興寺とならまちの建築・美術―語られなかった謎に迫る」清水和彦著、京阪奈情報教育出版、2023/01/15初版 より 現在の奈良市に「ならまち」といわれる一郭がある。 そこは「南都元興寺」の旧伽藍地であり、そこには今に「南都元興寺」由来や関連の建築・遺構・美術品などが、ほんの片鱗ではあるが、伝えられている。 本著は、これら「ならまち」の「文化財」について、鋭い論考で、自明とされていたことや見過ごされていたこと、つまり「謎」について切り込み、新しい視点を我々に提供してくれる著作である。 第1章 元興寺五重塔(大塔)の焼失 安政6年(1859)−幕末・明治維新の直前−修理中であった大塔は付近の民家の火事から飛火し、五重の屋根に着火し、丁度蝋燭が燃えるような有様で、為す術もなく焼け落ちる。 ※その様子は北室町の油屋嘉七の日記(田村藤司氏蔵)また鵲町の「御祝儀納帳」(町内金銭出納帳)に活写される。 これらの記録は黒田f義の「大和の古塔」昭和18年の「元興寺塔」の項に収録されている。 ◇忘れられた論争 昭和14年太田静六(東京帝室博物館研究員)は大塔の復原案を発表する。(「建築学会大会」) 復原案は「元興寺観音堂及塔積書」(つもりがき/江戸末期の実測史料)に基づき、塔の創建は奈良期でそれが幕末まで維持されたという前提で作成される。 ※元興寺観音堂及塔積書は元興寺塔寸尺覚(修理前実測図)と五重塔御修理仕様覚(修理仕様や用材の見積)の2冊からなる。 但し、太田は安政の実測図「大塔20分の1図(以下安政古図)」が存在することは発表時は知らなかったという。 復原案は「元興寺塔婆復原考」(「建築学会論文集 13」昭和14年 所収)として世に問われる。 □太田静六大塔復原案:孫引・・原図は「建築学会論文集 13」 これに対して、黒田f義(のりよし/奈良県古社寺修理室技手/昭和12年の山田寺仏塔の発見者の一人)が批判を加える。 批判の論点は次の4点である。 1)「安政古図」があるので復原案は意味がない。寸尺覚の値は杜撰で信用できない。 2)奈良期創建の大塔は平安末期と鎌倉期に造替され、「大塔20分の1図」の塔」は鎌倉期の姿を写したものであろう。 3)「安政古図」は斗栱などまさに中世の折衷様を示す。 4)太田の実測したという初重平面の1辺長には「疑義」がある。 □大塔20分の1図・書き起こし:孫引・・原図は黒田f義「『元興寺復原考黒田f義』私案」という。 □大塔20分の1図・安政古図:奈良県庁蔵 南都元興寺弐拾歩一図:上に掲載、南門太夫吉:「古図にみる日本の建築」 所収 南都五重大塔二十分之一図:上に掲載、「図説 元興寺の歴史と文化財」元興寺文化財研究所、2020 所収 元興寺五重小塔二十分之一図:上に掲載、 黒田の批判に対し、太田は「元興寺塔婆復原考私見」(「建築学会論文集 15」 所収)で反論するも、以降両者からの再批判などは無かった。 その頃は、戦時中であり、黒田は招集され、昭和19年31歳でフィリピンで戦死する。 黒田の戦死ということもあってか、以降、学界で太田の復原案や元興寺塔寸尺覚、大塔20分の1図(安政古図)が取り上げられることは無かった。 ●黒田は国家神道の云う「聖戦」の名のもと「徴兵」され、僅か31歳で大日本帝国によって殺害される。 戦前の国家神道による統治の復古を目指す勢力によって、再びあらゆる自由が奪われる時代のこないことを願う。 ◇史料を見直す ここで、著者は「安政古図」(大塔20分の1図)は果たして「実測図」なのであろうかという根本の疑問を呈する。 「実測図」であるかどうかについての著者の考証は厳密・精緻であるので、「著作」を手に取って頂きたいが、結論だけ示せば、「安政古図」は「実測図」とは云えないのではないかということである。 さらに、「安政古図」が「実測図」とは云えない最大の理由は、これも結論だけ示せば、「安政古図」には「南都元興寺大塔弐拾歩一図」「南門太夫吉豊」と墨書があるが、その作者である「南門太夫吉豊」は「実測図」作成にあたり、明らかに実物とは乖離するのは承知で、おそらくは組物がそれらしく見えればよいという考えであろうか、パターン化された組物図を使い廻していた形跡があるということである。 ※吉豊は幕末の春日座(興福寺)16人大工の一人で元興寺大工を兼ねるという。 ※なお、パターンの使い回しは吉豊だけが行っていた訳ではない。 ◇「安政古図」から読み取れること 上記から、著者によって「安政古図」の実測図としての価値は限定されることが解明される。 では、以上の限界を踏まえ、この古図から読み取れることは何か、それは以下であるとする。 1.肘木の上端の「笹繰」が認められる。 黒田はこれを唐様の様式として鎌倉建替えの根拠の一つとしたが、これは和様の奈良期建築の特徴でもあり、逆に奈良期創建の証拠の一つとなり得る。 2.垂木先端の「鼻隠板」は大仏様の様式であり、これは中世に変更されたものと認められる。 3.各重に「小屋組」が無いことについては、平安後期からの小屋組と桔木の採用が一般化するが、無いことは奈良期建築の特徴でもある。 4.「安政古図」には通肘木が上下2段に入る。これは中世からの様式とされ、であるならば、大塔は中世以降の建立あるいは大改造ということになるが、「寸尺覚」の記述では、通肘木は1段と解釈され、これは、逆に大塔が古代に属するとの証明になるのではないか。 ◇史料から見た大塔と太田の復原案の評価 もう一つの問題は大塔が創建以来この地に建っていたのか、それとも黒田がいうように、大塔は平安末期や鎌倉寛元年中(1243-47)に建替えられたのであろうかという問題である。 著者は次のように評価する。 この問題では太田博太郎(東京大学工学部教授)の云うように平安末期に荒廃していた記録はあっても、塔の喪失という記録もないのも事実である。 太田博太郎の「足立康著作集 3 塔婆建築の研究」中央公論美術出版、1987 の解説 は説得力がある。 太田博太郎は黒田の云う寛元年中の造替は「安政古図が正しいなら、細部の様式から塔は鎌倉前期のものとするのが適当だろう」と云うも、しかし「五重と初重との平面比が0.71となっていて、これは奈良期のものとみて差し支えない比率である。もし鎌倉期の造替なら五重目がもう少し大きくなってもよさそうである」と指摘する。 加えて黒田の根拠とした文献解釈の疑問や強引さも指摘する。 さらに、保延6年(1140)大江親通の「七大寺巡礼私記」の初重内陣の荘厳についての記述や大乗院門跡尋尊の「大乗院寺社雑事記」・文明15年(1483)の條での初重荘厳さの記述から、大塔の鎌倉期の造替が否定できるのではないかと評価する。大江や尋尊の描写した初重の荘厳さは「古代的性格」そのものであるからである。 なお、黒田は太田静六の論文を激烈に批判したが、その著「大和の古塔」の元興寺の項で太田静六の論拠とした「元興寺塔寸尺覚」「五重塔御修理仕様覚」「塔木引覚」に言及し、その尺寸の一覧を揚げている。著者は「お互い研究者としての立場を認めていたのだろう」と論評する。 第2章 五重小塔は西塔の<象徴>として祀られた −大塔との相似から伝来の謎に迫る− 元興寺には五重小塔(国宝・奈良後期)が伝来する。 しかしその由緒や伝来は謎であった。江戸期には大塔の雛形とされていた。 ◇小塔とは 一辺267cm高さ30.3cmの置台の上に、一辺163cm高さ12.2cmの基壇を置き、その上に一辺97.8cm総高550.2cmの小塔を安置する。特徴的なことは、相輪長は222.1cmと長大であり、総高の40.3%となることと内部まで緻密に造られてことである。これは海龍王寺五重小塔(国宝・奈良前期)が中空構造(箱の積み重ね)とあるのと対称的である。 小塔の由緒や由来を記した史料は一切なく、心柱にある天和3年(1683)再造(修理)銘が最初である。また元禄14年(1701)の「宝物略記」では聖徳太子の勅旨で試しに造った本朝層塔の最初」との記載がある。 ※この銘の「再造」の意味の重大性は後で触れられる。 奈良町奉行であった川路聖謨は弘化4年(1847)の記録で、小塔は試し(雛形)の塔である意味のことを書き留めている。 昭和43年の「国宝元興寺極楽坊五重小塔修理工事報告書」ではかっては本堂に安置し、第2間の床板と天井板を外しても収納できず、高さ61cmの代用相輪(天井裏で発見)を据えて収納したという。なお相輪は明治40年今の奈良博に寄託するとき、相輪が元に戻され、昭和40年収納庫が完成したので寺に戻される。 そして、解体修理は昭和43〜43年に行われる。 ◇小塔の研究史 「元興寺大塔の高さについて」安達康、昭和6年では、大塔の塔身は10.8丈、相輪高さは5.5丈、総高は16.3丈とした。(「興福寺諸堂縁起」と「興福寺流記」の記述) 一方小塔は初重一辺3.25尺が大塔の一辺32.5尺の1/10、小塔の塔身の高さも10尺8寸2分で大塔の1/10となるので、「両塔の寸尺は良く一致している」と結論づける。 戦後、上記の安達の雛形説は見直される。 「大和古寺大観 第3巻 元興寺極楽坊他」岩波書店、昭和52年 の小塔解説で鈴木嘉吉は次のように述べ、雛形説は見直され、これが定説化する。 1.小塔は平面等間であるが、大塔の平面(礎石の実測)は中央間11.5尺、両脇間10.5尺で等間ではない。 2.大塔は安政古図によれば肘木に笹繰があり、笹繰のない小塔より古い。 更に 1、小塔は内部まで実際の塔の1/10で造作されるが、相輪を平均的な高さに抑えると総高は160尺前後のこの時代の標準形になる。 2、組物等の部彩は全て同じ寸法である。 3、各重とも等間である。 4、逓減は三柱間とも3.1尺(天平尺)づつ逓減する簡単な比例を持つ。 つまり、規格が単純であり、部材の寸法や工法をそのまま10倍すれば塔が造れることとなる。国分寺の塔は平面等間の例が多いので、天平末期の塔の普及と深い繋がりがあったと言及する。 「元興寺五重小塔の設計思想」桜井敏雄、1989 では国分寺塔関連を認める。 「古代寺院の塔遺構」箱崎和久(「奈文研文化財論叢 W」2012)は 1.小塔は内部まで精巧に造られているので雛形とされるが、平城京の官寺では総間や柱間の一致する例はない。 2.国分寺塔との関係において、上手く適合する例はない。 3.総間の1/10に合致する元興寺塔との関係を重視すれば、小塔は元興寺に由来するとするのが妥当である。 箱崎は大塔の造営は先に総間33尺(天平尺)が決定され、初重柱間を等間としたときの「納まり」を検討するために小塔が製作されたたと推定し、雛形説に同意する。 小塔のように柱間を等間にするのはむしろ古いやり方で、安政古図とはかけ離れているので、結局は大塔建築に当たっては小塔は雛形として採用されなかったと結論づける。 なお、狭川真一(「元興寺五重小塔相輪考」2018)は相輪が長大な点を除けば、小塔は雛形と認められる。また小塔は分解可能で、実際国分寺塔の造立現場に運ばれ、10倍に拡大して国分寺塔が建築されたとする。 第2章 五重小塔は西塔の<象徴>として祀られた −大塔との相似から伝来の謎に迫る− T.五重小塔と解体修理の成果、その研究史 ◇小塔と大塔は逓減原理が同じであった。 まず、寸尺覚や安政古図に関する研究は戦前の太田・黒田の論争以来、絶えて久しい。 そこで、著者は、大塔と小塔との関係を探るため、安政の実測図「大塔20分の1図(以下安政古図)」及び大塔修理の際の実測史料「元興寺塔寸尺覚」と小塔各部の数値を比較する。 詳細は精密なので省略するが、著作「元興寺とならまちの建築・美術―語られなかった謎に迫る」の参照を願う。 概要は以下の通り。 1.「安政古図の各部の実測寸法」(表2)がメートル法で表に纏められる。これは安政古図を実測したものである。 おそらく初めての実測値での報告と云う。 計測部位は総高から始まり、各重の軒高、一辺、柱間、柱長、柱径、軒の出などの実測値である。 2.小塔・大塔(寸尺覚)・安政古図・海龍王寺五重小塔・醍醐寺五重塔の逓減比較表(表3)を作成・比較する。 醍醐寺を採り入れたのは奈良期の五重塔が現存しないので、平安前期の醍醐寺塔を比較対象とする。 結果は醍醐寺塔を含め、海龍王寺小塔を除き、◎逓減率は下から、ほぼ0.9、0.8、0.7、0.6に収束することが分かる。 3.天平尺に換算した小塔・大塔(寸尺覚)・安政古図・海龍王寺五重小塔・醍醐寺五重塔の逓減パターン(表4)を作成 結果、◎小塔(10倍換算)は各重3尺逓減、大塔は多少の誤差があるものの各重3尺逓減と云える。安政古図は古図自体の問題も含まれ、逓減パターンは乱れる。 4.興福寺五重塔(天平塔)・小塔・安政古図・海龍王寺五重小塔・醍醐寺五重塔の総高・塔身・相輪長比較(表5) ◎小塔(10倍)と安政古図(20倍)の塔身高はほぼ同じ結果となる。 5.小塔・寸尺覚・安政古図の各重一辺の比較(表6) 勿論、倍率で復元した値であるが、◎3者の一辺の値はほぼ同じである。 6.寸尺覚の大塔垂木割(表7) 一見では乱れがひどいが、一辺で3本づつ減少する垂木割を適用すると、寸尺覚・天平尺換算とも1尺もしくはその近似値の逓減となる。 安政古図は垂木先端に鼻隠板があり垂木割は分からない、小塔は垂木が3本づつ逓減する原理であるが実際には工作を容易にする為、垂木間隔を約1.5倍として造られているので除外。 ●上の小塔の部分の記述は小生にはよく理解できない。 2023/05/10追加: 理解できないとしたのは清水氏の論旨ではなく「小塔は垂木が一辺で3本ずつ逓減する原理だが、 実際には工作を容易にするため垂木の間隔を約1.5倍に広げて造られている・・」という「一文」だけである。 端的にいえば、「工作を容易にするため垂木の間隔を約1.5倍に広げて」造るとはどういう意味か分からない ということだけであった。 以上について、清水氏から次の解説及び主旨のご教示があったので、掲載させて頂く。 鈴木嘉吉によると、すでに法隆寺塔は各間1支落ち、つまり各重の各間で垂木が1本ずつ減っていく簡単な比例となる。 天平時代には1支は1尺となるのが通常の垂木割であるから、各間0.1尺ずつ減少する小塔は 当代の典型的な立面計画として差支えない。 ところが実際の垂木割は0.15尺前後と5割方荒く、本瓦形の割付もこれに合わせている。 垂木割と瓦割だけを除くと他は10倍すれば実際の塔が造れる――ということです。 各間1支=1尺落ちがこの時代のありかた →各間 01.尺落ちの小塔の基本計画はこれに即している(10倍を前提にして) → しかし実際の垂木割は5割増しの1支0.15尺(前後)落ち、というわけです。 あくまで10倍すれば実際の塔が造れるという前提のもとで、垂木割だけはこれに合わないので5割増しと記述したのでしょう。 「工作を容易にするため」というのは私の解釈でした。以上の鈴木説は古寺大観の小塔解説に拠ります。 修理報告書では小塔の垂木割を初重から順に16、14、13,12、12支と復原しています。 15、14、13、12、11支となるところを初重と5重だけ1支増しにしたという解釈です。 この垂木割を現実の塔にあてはめると垂木配りは少々荒いと思われ(垂木をごく太くすれば話は別でしょうが)、 1支=1尺というのはやはり妥当なのかなと思います。 「工作を容易にするため」というのは清水氏の解釈でした。という訳で、古代に垂木の間隔を約1.5倍に広げて造れば、 工作が容易になるような技術が古代にあったのかと、私が曲解しただけの話でした。 7.小塔・寸尺覚・安政古図の柱高・柱径の比較(表8) ◎柱高は初重でほぼ等しい、二重以上は寸尺覚と安政古図との間で親縁性がある、柱径は寸尺覚と安政古図はほぼ等しい。 以上の分析から、著者は次のように結論づける。 小塔と大塔は塔の外観を決める最大要素である上重への逓減率、天平尺でみた逓減原理、(換算値である)各重一辺長がほぼ同じで、塔身部は相似形という結果を得る。 このデータは何を意味するか。 元興寺に伝世する五重小塔は、奈良期元興寺で、東の大塔と対称的な位置にあった西の小塔院に奉安されていたことを強烈に示すということではないか。 U.安政古図を測る−寸尺覚や小塔との比較− ◇寸尺覚・安政古図は別々の史料ではなく一連の史料ではないか、そしてその上で安政古図には限界がある。 寸尺覚・仕様覚には作者の記名はないが、安政古図には、上述のとおり、「南門大夫吉豊」との墨書がある。 前節では小塔・寸尺覚・安政古図の強い親縁性を論考した。寸尺覚と安政古図は幕末の大塔修理の際に作成された一連の史料で、寸尺覚の実測値を基に安政古図が作成されたと認めてよいだろう。両者の書体が似通っているとの証言(黒田)もあり、南門大夫は寸尺覚の作成にも関った可能性が高い。 さらに安政古図について、著者は、今までは古図の性格を確かめないまま、大塔の実測図としてきたが、寸尺覚の数値と対照できた寸法を除いて、細部の表現には問題があることを重ねて指摘したいという。 ◇小塔と大塔との関係性 著者は次のように云う。 大塔と小塔の塔身部は分析の結果、相似形であり、小塔は小塔院に奉安されたいたと結論づけられる。元興寺では西塔は建立されず、そのため小塔を西塔に代る<象徴>として安置し、周囲は百万塔に囲まれていたと推定する。 勿論、小塔=小塔院という文脈で考えられるのは自然であるが、しかし、それを裏付ける史料もなく、そんなに事情は単純ではない。そのため、小塔=小塔院という説を否定する説も存在する。(鈴木嘉吉「五重小塔解説」) 一方では、移動可能であり、国分寺塔などの雛形説をも生み出す。しかし、この説でのいう小塔を塔の建築現場に運び、雛形としたというのは想像にしか過ぎない。各国の国分寺建築技術の伝播は工匠と付随する技の交流によるもので、単に雛形だけで済むものではない。 V.小塔の伝来の謎を廻る試論 ◇小塔院・新堂・吉祥堂 称徳天皇は百万塔の造立を発願、宝亀元年(770)頃、諸大寺に分置される。元興寺には小塔院に安置とされるが、小塔院の創建に関する確かな史料はない。 平安期には元興寺小塔院の記事(「堂舎損色検録帳」長元8年/1035)があり、小塔院が見えるが、破損が著しい様が描かれる。更に、「新院堂 瓦葺7間2面堂」と性格不詳な「新堂」が見える。この堂も破損もしくは未完の態であったと記載される。そのあった位置は不明であるが、元興寺伽藍のバランスから、小塔院の北側にあったと考えるのが合理的であろう。 だとするならば、「新堂」の位置は今は退転している吉祥堂の位置に相当する。 なお、吉祥堂の位置及び性格(吉祥天を祀る)は近世の地誌に多く出てくる。 さらに、著者は「新堂」が吉祥堂であったと多彩な論を展開する。 この著者の推論は多岐に渡る故に、著作「元興寺とならまちの建築・美術―語られなかった謎に迫る」で直接に確認を願う。 大江親通の「七大寺日記」(嘉吉元年/1106)と「巡礼私記」(保延6年/1140)間との記述の異同の解釈、諸記録に見える吉祥堂(新堂)の平面規模の変遷の解釈など独自の視点で推論が進展するので興味深い。 ※平面規模:「堂舎損色検録帳」の新堂・7間二面堂、「七大寺日記」の吉祥堂・3間四面堂、「巡礼私記」の吉祥堂・5間四面堂という。 なお、「巡礼私記」には「吉祥堂・・・此堂亦小塔院と名づく」とあり、これが吉祥堂=小塔院との認識が流布する元となる。 しかし、この認識は次の項で否定される。 ◇吉祥堂と小塔院は全く別という証拠 吉祥堂と小塔院は全く別の堂であったことを示す決定的な史料がある。 それは「小五月郷指図写」(伝尋尊筆)である。 □小五月郷指図写:興福寺蔵「肝要図会類聚抄」所収 小五月郷指図写:上に掲載 小五月郷指図写2:北が上になるように回転、文字入れ 金堂(堂は退転)の東に東塔と観音堂、西側に小塔院と吉祥(堂)、北東に極楽坊が描かれる。つまり、小塔院と吉祥堂は別の堂宇だったのである。 その他、同時代史料での説の補強、また反証等の紹介もある。 W.小塔は鎌倉期以降、元興寺にあった 小塔は平安期にはどこに安置されていたのかは考える材料がない。 しかし、多少の異論(鈴木嘉吉「大和古寺大観」の小塔解説)はあるものの、鎌倉期以降元興寺極楽坊にあったことは確実とされる。 本堂の解体修理で、天和年中だけでなく、鎌倉期修理を含む大量の取替部材が発見され、このことが、それを証明する。 そして、小塔は、確かに江戸期には律宗化し大衆を動員した大規模念仏講が行われなくなった本堂に安置されていたことは確認されている。 だが、それ以前に本堂に安置されていたとは考え難い。 では、本堂でないとすれば、どこに安置されていたのか、それは禅室以外に考えられない。 五重小塔という長大な建物を安置できる建物は極楽坊では禅室以外に考えられないからだ。 著者は禅室の構造の歴史的な遷移また小塔自体の過去の修理(改造)から解き明かす。 著者は更に1歩踏み出す。 1)禅室は室町期改造されたのではないか。(僧坊機能が不要となり、時代に合わせて改造される) 2)改造に伴い、禅室での小塔の安置場所が無くなり、小塔は解体され本堂の天井裏に収納されたのではないか。 雑事記などの記録や近世以前の地誌に小塔が登場しないのは、解体され、天井裏に収納されていたからではないか。 昭和37年の収蔵庫建設に伴う発掘調査で発掘された土壙から発見された鎌倉修理の小塔部材が出土したことも傍証となる。 3)加えて、天和年中の修理銘の「再造」の文言は、小塔が解体・収納されたことを決定的に裏付けるのではないか。 即ち、修理銘では「天和3癸亥年(1683)再造五重塔為与法利証祓苦楽意成成就祈所乃至普利 極楽院住持尊覚 合掌」とあるが。 この「再造」とはなにか。 それは、修理でも修造でもない「再造」とは解体して天井裏に収蔵されていた小塔を発見し、組立、再び塔の形にし、安置したことを強く示すのではないか。 かくして、小塔は塔の形に「再造」され、解体された小塔が収蔵されていた本堂に安置され、さらに本堂の昭和修理では、解体された小塔と一緒に収蔵されていた鎌倉期の取替部材が大量の民俗信仰資料とともに発見されるということではないか。 ●まさに「新説」と思われる。 さらに他の論考 ・極楽坊本堂の「設計」意図の解明(第3章) ・今西家書院の考察(第4章) ・奈良町の会所のかたち(第5章) ・奈良町の辻子・突抜(第6章) ・極楽坊板絵智光曼荼羅(第7章) ・興福寺板彫十二神将像の伝来(第8章) については、後日を俟つこととし、当面は省略する。 ★元興寺五重塔跡 現在市街地の中に巨大な塔跡が現存する。日本の五重塔の中で最大の平面を持つとされる。 ○「日本の木造塔跡」:塔跡は後世の壇上積基壇と心礎と四天柱礎の1ヶを除く全礎石が完存する。
◇元興寺現況 ★元興寺極楽坊五重小塔(天平・国宝) 元興寺西小塔院に安置として伝来し、現在は元興寺極楽坊(本堂・禅室は国宝)に伝えられる。(注1) この小塔は奈良期の造作とされる。
2022/01/24追加:
2022/02/07追加: ★元興寺小塔院:2007/03/12作成:元興寺小塔院跡は「史跡」 2022/02/07追加: 2009/03/03追加(五重塔の項に掲載画像を再掲載) ○2013/02/21撮影: ★十輪院 参考文献: ○「南都 十輪院」南都十輪院、飛鳥園、刊行年記載なし ○「大和 地蔵十福」飛鳥園、平成28年(重版) 十輪院は元興寺子院というも、確かなことは不明という。 寺伝では元正天皇(715-724)の勅願で元興寺の一院という。 また、朝野魚養(右大臣吉備真備長男)の開基という。 2021/10/11撮影: 十輪院南門:重文、切妻造・本瓦葺四脚門、鎌倉中期の建築という。 十輪院南門1 十輪院南門2 十輪院南門3 2021/10/15撮影: 本堂:国宝、本堂後方の石仏龕安置の本尊地蔵菩薩を拝する為の礼堂である。鎌倉前期の建築であり、極めて住宅風な要素を持つ。 軒は南門と同じく垂木を用いず、板軒とする珍しものである。 なお、石仏龕の覆屋(地蔵堂)は慶長18年(1613)の造替と云う。 十輪院本堂11 十輪院本堂12 十輪院本堂13 十輪院本堂14 十輪院本堂15 十輪院本堂16 十輪院本堂17 十輪院本堂18 十輪院本堂19 十輪院本堂20 十輪院本堂21 十輪院客殿 十輪院十三重石塔1 十輪院十三重石塔2 石仏龕(重文) 本堂は本尊地蔵菩薩立像(石仏)の礼堂に相当し、本堂(礼堂)の奥に覆屋(地蔵堂)が建ち、花崗岩製の石仏龕がある。 撮影写真はなし。 旧十輪院宝蔵(重文):東京国立博物館蔵、方1間、宝形造、本瓦葺。鎌倉初期の建築か。 なお、この宝蔵は明治維新の時寺外に流失し、明治15年東博の所有に帰す。 旧十輪院宝蔵 ●十輪院多宝小塔 多宝小塔は十輪院本堂東室に多くの寺宝と共に展示され、いつでも拝観可能である。 2022/01/24追加: ○「南都 十輪院」南都十輪院、飛鳥園、刊行年記載なし より 多宝小塔:木造、高81.3cm。室町期。 当初は初重内部に舎利容器を安置していたものと推定される。屋根は本瓦葺きに擬し、軒組や斗を精工に造る。 初重は3間で、中央間は観音開の板扉である。板扉の内側には梵天・帝釈天・四天王などを描く。 この宝塔と形式や機能面で酷似した三渓園多宝小塔には、宝徳2年(1450)に南都の番匠・絵師・金物師によって造立された旨の銘文があり、おそらく本塔もそうした南都の巧匠によって造立されたものと思われる。 なお、引き出し内部には、奥書に弘安3年(1280)の年紀を有する「後七日供養法次第」が納められているが、この文書と本塔の関係は詳らかではない。 ◎十輪院多宝小塔 多宝小塔納入聖経 2022/01/31追加: ○「修復トピックス 重要文化財安楽寺多宝小塔の保存修理より判明した建築的特徴」結城啓司 より 十輪院多宝小塔、室町期、全高:81.3cm、下重:3間で中央間が広し、上重:平行垂木、内部に舎利容器を安置したもの 十輪院多宝小塔2 2006年以前作成:2024/07/22更新:ホームページ、日本の塔婆 |