狭  山  山  不  動  寺

狭山不動寺

狭山山不動寺と称する寺院が、西武球場の道を隔てた北側の丘陵地にある。
 かつては西武ユネスコ村の一施設でもあったようである。(創建の経緯とかは未調査で実態は不明。)
 天台宗別格本山とも称する。多宝塔2基の他、各地の文化財が集められている。
2024/06/12追加:
 概要は次のようである。
昭和26年西武鉄道によりユネスコ村が開園。
戦後から昭和30年代にかけて、堤康次郎が収集した各地の歴史的建造物(私的コレクション)がユネスコ村に移築される。
これらの建造物はユネスコ村の施設として展示される。
昭和50年ユネスコ村の建造物が移築された地所付近が、狭山山不動寺として開山される。本堂は京都東本願寺から移築。
多宝塔は2基(旧播磨椅鹿寺多宝塔・旧摂津永福寺多宝塔)移建され、芝増上寺からは台徳院霊廟の諸門、増上寺徳川家霊廟などの燈籠類が大量に移築されている。

    ◆旧 播 磨 椅 鹿 寺 多 宝 塔    ◆旧 摂 津 永 福 寺 多 宝 塔    ◆江 戸 芝 増 上 寺

※狭山山不動寺は西武鉄道堤康次郎の手により建立と云う。
戦後、西武鉄道は罹災した芝増上寺徳川家霊廟敷地を、プリンスホテル建設などの目的で買収、
買収した土地は墳墓の改葬などで更地にする必要があり、敷地に残存する建築、文化財などを搬出・保存するために不動寺を建立した一理由と推測される。
2007/10/26追加:某ブログ※で以下の見解がある。
  ※http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-date-200702.html
  ※白雪姫と七人の小坊主達200702
「これ(ユネスコ村)は西武が大名や宮様の土地を買収して、その上にホテルなりなんなりをたてる時に、じゃまになった歴史的建造物をよせ集める場所であった。」・・・云い当てて妙と思われる。
「そもそも徳川家の霊廟とか、歴史的建造物とかは人類共通の遺産であり、その建造物を所有している一家族(徳川家とか)なり、一宗教法人なりにまかせておいていいものじゃない。その所有者が歴史的建造物を維持できなくなったなら、公共のものに移管してなんとかするのが真の文化国家というものではないか。」・・・同感。
問:「狭山不動尊て、西武が増上寺の墓をつぶした際、そこにあったものをうつすためにつくった寺ですよね。」
答:「あれは増上寺のためにつくったものじゃないよ。だって宗派天台宗だよ。戦後すぐの寛永寺座主が西武の堤康次郎氏と仲が良くてね」

 ※西武グループが狭山不動寺に芝増上寺の石灯篭などを廃棄したのと同様の愚挙は、弦巻実相寺境内(明治以降の多宝塔790にあり)においても見られる。
 また、隣接する武蔵金乗院にも移設された石灯篭が見られる。
蓋し、増上寺にあった文化財は、堤康次郎にとっては金儲けの邪魔でしかなかったであろう。
正直なものであり、逆に”潔よし”と思われる。

芝増上寺台徳院(二代将軍徳川秀忠)霊廟勅額門
  重文、寛永9年(1632)家光の建立になる。四脚門、屋根銅板葺。

2003/03/27撮影:
芝増上寺台徳院勅額門1:左図拡大図
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6
2023/05/26撮影:
芝増上寺台徳院勅額門11
芝増上寺台徳院勅額門12
芝増上寺台徳院勅額門13
芝増上寺台徳院勅額門14
芝増上寺台徳院勅額門15
芝増上寺台徳院勅額門16
芝増上寺台徳院勅額門17
芝増上寺台徳院勅額門18

芝増上寺台徳院(二代将軍徳川秀忠)霊廟御成門
  重文、寛永9年(1632)家光の建立になる。単層門、切妻造、妻入、屋根銅板葺。

2003/03/27撮影:
芝増上寺台徳院御成門1
  同           2
  同           3:左図拡大図
  同           4
  同           5
  同           6
2023/05/26撮影:
芝増上寺台徳院御成門11
芝増上寺台徳院御成門12
芝増上寺台徳院御成門13
芝増上寺台徳院御成門14
芝増上寺台徳院御成門15
芝増上寺台徳院御成門16
芝増上寺台徳院御成門17
芝増上寺台徳院御成門18
芝増上寺台徳院御成門19
芝増上寺台徳院御成門20
芝増上寺台徳院御成門21

崇源院殿霊廟丁子門
  崇源院(お江与の方・二代将軍秀忠正室)霊廟・霊牌所丁子門(重文)も移築されている。・・・未見。
2024/06/13追加:
芝増上寺崇源院霊廟丁子門
 重文、平唐門、屋根銅板葺。崇源院殿は徳川秀忠室、豊臣秀吉側室淀君の妹・江。徳川家光の建立になる。
不動寺本堂の背後にある。見落としているので自前の写真なし、写真は他サイトから転載。
 芝増上寺崇源院丁字門1:狭山不動寺サイトから転載
 芝増上寺崇源院丁字門2:GoogleMapより転載

 2011/02/27追加:
 参考:以下は芝増上寺の拙ページに掲載している写真であるが・・・・・
  芝増上寺台徳院宝塔・・・戦災で焼失。
  なお、元地である芝増上寺には台徳院霊廟惣門(重文・西武所有か)、有章院霊廟二天門(重文・西武所有か)、
 芝増上寺鋳抜門(旧文昭院殿霊廟<徳川家宣>宝塔前中門・増上寺所有)、清揚院殿霊廟(徳川綱重)水盤舎しか残らない。
  2011/02/19撮影:
  増上寺台徳院霊廟惣門1     増上寺台徳院霊廟惣門2     増上寺台徳院霊廟惣門3
  増上寺台徳院霊廟惣門4     増上寺台徳院霊廟惣門5     増上寺台徳院霊廟惣門6
  有章院霊廟二天門は未見
  芝増上寺鋳抜門:旧文昭院殿霊廟(徳川家宣)の宝塔前の中門であった。
  芝増上寺水盤舎1     芝増上寺水盤舎2     芝増上寺水盤舎3
   :清揚院殿霊廟(徳川綱重)の水盤舎であり、明治の解体・昭和の空襲を逃れる。現在地に移築されたものである。


芝増上寺桂昌院宝塔
 旧摂津梶原永福寺多宝塔の西には、芝増上寺の徳川家霊廟から移築した桂昌院宝塔が打ち捨てられたようにある。
3代将軍徳川家光の側室、5代将軍綱吉の生母。通称は玉。墓所は芝増上寺。
宝塔正面扉及び相輪は失われていると思われる。
※宝塔扉は四面にあったと思われるが、正面以外の3扉は塔身と一体の造り出しであり、正面扉のみ塔身とは別の鋳造で塔身に嵌め込みの構造と思われ、それ故正面扉は失われたと思われる。(現在は扉の替りに鋼板?が嵌められていると思われる。)
 なお、桂昌院廟所は京都西山善峯寺にもある。桂昌院は京都堀川あるいは西陣の町人層の出身といわれ、綱吉生母である権勢から西山善峯寺の中興大檀越となる。そのような事情から善峯寺にも廟所は設けられたのであろう。
2023/05/26撮影:
 芝増上寺桂昌院宝塔1    芝増上寺桂昌院宝塔2     芝増上寺桂昌院宝塔3    芝増上寺桂昌院宝塔4

芝増上寺御霊屋石灯篭
 今もおそらく20基を超える石灯篭が残存する。
2003/03/27撮影:
  狭山不動寺石灯篭1:清揚院殿     狭山不動寺石灯篭2
2023/05/26撮影:
○サイト:増上寺の石灯籠 に伊藤友己氏による芝増上寺石燈籠についての詳しい調査がある。
 上記によれば、
現在、狭山不動寺には「桂昌院11・惇信院1・清揚院28・台徳院5・文昭院7・不明1 計53基の旧増上寺由来の石灯篭が残るという。
(2023年12月3日現在、増上寺由来の石燈籠は総数688基(内増上寺内37基)が確認され、関東一円を主としてバラまかれている。狭山不動寺の53基は場所別では第1位の数である、また、他に棹のみも約54基確認されている。)
 同じく上記のサイト中の「文昭院銅燈籠を発見 千曲市 生蓮寺」という項目では「唐金燈籠」(銅灯篭)について、次のように云う。
「戦災で焼失した増上寺から所沢の不動寺に移された銅燈籠は80基。うち76基は不動寺に残り、平成20年に所沢市教育委員会により刊行された『狭山山不動寺所在徳川霊廟奉献銅燈籠調査報告書』で詳細な報告がなされた。
 残る4基のうち1基は大磯の吉田茂邸が西武鉄道の管理下に入った後に、七賢堂前に移された。残り3基の内2基は堤康次郎氏の生前に、日米安保条約の成立に尽力した御礼として岸、佐藤両氏に贈られたことが早稲田大学大学史資料センターの資料により明らかになっている。岸氏に贈られた燈籠は既にyanohiro様より頂いた情報を元に個人宅で確認されている。
 私も佐藤邸関連の情報を調べていたが、今回惇信院石灯籠を調査した千曲市の生蓮寺で偶然にも佐藤氏に贈られた銅燈籠を発見した。」
 ※戦争犯罪人や戦後犯罪人の岸や佐藤が登場するので、敢えて、全文を転載する。
2023/05/26撮影:
石灯篭の探索が目的ではないので、眼にとまった燈籠だけを取り上げる。
 芝増上寺台徳院殿石灯篭:摂津梶原永福寺多宝塔前に2基
 芝増上寺文昭院殿石灯篭:本堂周囲に少なくとも4基ある。6代将軍徳川家宣。
 芝増上寺清揚院殿石灯篭:本堂周囲に少なくとも4基ある。
  さらに、桜井門南側参道両脇にはおそらく20基前後の石灯篭があり、それは大部あるいは全部が清揚院殿の銘とも思われる。
  清揚院殿は将軍には就位できなかったが、
   甲府藩主松平綱重、6代将軍徳川家宣父、3代将軍徳川家光三男、4代将軍徳川家綱弟、5代将軍徳川綱吉兄である。
 芝増上寺桂昌院殿石燈籠:少なくとも本堂横に1基、辨天堂前附近に1基ある。


 不動寺の本堂廻り石灯篭1     本堂廻り石灯篭2
本堂廻りにはおそらく17基ほどの石灯篭があると思われる。
次はその内の幾つかの石灯篭である。(全容ではない)
 芝増上寺台徳院殿石灯篭銘   芝増上寺台徳院殿石灯篭1   芝増上寺台徳院殿石灯篭2
 芝増上寺文昭院殿石灯篭銘   芝増上寺文昭院殿石灯篭4基
 芝増上寺桂昌院殿石灯篭銘・1基
 芝増上寺清揚院殿石灯篭銘   芝増上寺清揚院殿石灯篭4基
辨天堂前附近に1基の桂昌院殿石燈籠がある。
 芝増上寺桂昌院殿石灯篭銘   芝増上寺桂昌院殿石灯篭1基
桜井門南側参道両脇にはおそらく20基前後の石灯篭があると思われる。
次はその内の幾つかの石灯篭である。(全容ではない)
 桜井門内参道両側石灯篭1   桜井門内参道両側石灯篭2
 芝増上寺清揚院殿石灯篭銘2
 芝増上寺清揚院殿石灯篭2   芝増上寺清揚院殿石灯篭3:背後は大黒堂   芝増上寺清揚院殿石灯篭4
 芝増上寺清揚院殿石灯篭5   芝増上寺清揚院殿石灯篭6
 芝増上寺清揚院殿石灯篭7:背後は羅漢堂境内   芝増上寺清揚院殿石灯篭8:同左
羅漢堂境内には下に掲載のように大量の唐金燈籠(銅燈籠)がある。

唐金燈籠(銅燈籠)及び羅漢堂
 唐金燈籠は上述の通りであるが、実態は良く分からない。おそらくほぼ全部が文昭院殿に奉納された灯篭と思われる。
芝増上寺台徳院霊廟に全国の諸大名が寄進したもので、おそらく増上寺霊廟の石燈籠と同じ運命を辿り、ここに移設されたものと思われる。
  羅漢堂表門は 昭和29年生糸商で財をなした虎ノ門田中平八郎邸より移築。
  羅漢堂は井上馨が明治28年自邸に建立、昭和20年の空襲でこの堂だけ焼け残り、戦後遺族が堂を寄贈、後にこの地に移建される。
2023/05/26撮影:
 狭山不動寺羅漢堂表門
 狭山不動寺羅漢堂・唐金灯籠1     狭山不動寺羅漢堂・唐金灯籠2     狭山不動寺羅漢堂・唐金灯籠3

狭山不動寺諸堂

2023/05/26撮影:
狭山不動寺入口

狭山不動寺総門
 長州藩江戸藩邸の門という、屋根銅板葺。

不動寺総門
2023/05/26撮影:
 狭山不動寺総門1     狭山不動寺総門2     狭山不動寺総門3     狭山不動寺総門4

狭山不動寺本堂(護摩堂)
 当初の本堂は京都東本願寺から移築した七間堂というも、2001年不審火により焼失、その後、RC造で再建される。
2023/05/26撮影:
 狭山不動寺本堂(護摩堂)

不動寺鐘楼
2023/05/26撮影:
 狭山不動寺鐘楼

不動寺弁天堂(六角円堂)
 近江彦根清涼寺(井伊家菩提寺)から昭和23年に移建した六角堂である。万治2年〜元禄6年の建築とされる。
 その後、この六角堂に上野寛永寺現龍院安置の弁財天を祀り、辨天堂と称する。
2003/03/27撮影:
  狭山不動寺弁天堂
2023/05/26撮影:
 狭山不動寺辨天堂1     狭山不動寺辨天堂2

不動寺大黒堂
 大和極楽寺歌塚堂(柿本人麻呂ゆかりの堂という)を昭和38年移建する。櫟本柿本寺は明治の神仏分離で廃寺、極楽寺がその由緒を継ぐという。 本尊大黒天は上野寛永寺見明院から遷座した仏像という。
2003/03/27撮影:
  狭山不動寺大黒堂
2023/05/26撮影:
 狭山不動寺大黒堂2

不動寺桜井門(切妻・四脚門)
 大和桜井寺(十津川)山門を移建。桜井寺は幕末天誅組の本陣であった。
2003/03/27撮影:
  狭山不動寺桜井門1     狭山不動寺桜井門2
2023/05/26撮影:
 狭山不動寺桜井門3     狭山不動寺桜井門4


康信寺
2023/05/26撮影:
 西武の総帥堤康次郎の戒名は「清浄院釈康信」という、その戒名「康信」から康信寺と称するという。
確証はないが、おそらく堤康次郎の違背あるいは像に類するものを安置しているのであろうか。
不動寺との関係は不明であるが、不動寺の開山堂あるいは寺中の位置付けなのであろうか。
 狭山康信寺1     狭山康信寺2     狭山康信寺3


堂塔の凡その移築履歴。
昭和23年:現弁天堂(彦根清涼寺経蔵)を移築。
年代不明:現不動寺総門(長州藩毛利家屋敷門)を移築。
昭和28年:現羅漢堂(港区麻布井上馨邸より)を移築。
昭和29年:現羅漢堂山門(虎ノ門田中平八郎邸の門)移築。
昭和31年:京都府高田寺鐘楼(高田寺とは不詳)移築。
 元は大和興福寺から京都府高田寺鐘楼として移築され、それを再移築したと云われる。
 この鐘楼はまず興福寺本寺の鐘楼ではありえず、明治維新の興福寺廃寺の過程で何れかの寺中の鐘楼が流出したものと思われる。
 また、高田寺とはどこか、京都府高田寺ということだけで寺院を特定することは困難であるが、高田寺で高名なのは木津川市加茂町高田奥畑に奈良期の創建と伝える古寺があり、この古寺が該当するのかもしれないがもとより確証もないし、確認した訳ではない。なお、ここには平安期の仏像や鎌倉期の石造物などが現存する。
但し、高田寺が既に廃寺であるとすれば、あるいは「高名」ではない寺院であるとすれば、思い当たる節はない。
昭和35年:摂津永福寺(畑山神社)多宝塔を移築。
       芝増上寺の台徳院関係の勅額門、丁子門、御成門(重文)を移築。
       あわせて芝増上寺徳川将軍家霊廟の灯篭など約1000基がユネスコ村や周辺寺院に移築される。
昭和38年:現大黒堂(大和極楽寺歌塚堂−柿本人麿のゆかりの地)を移築。
昭和39年:播磨掎鹿寺多宝塔を移築。
昭和50年:天台宗別格本山狭山山不動寺開山、落慶大法要、本堂は京都東本願寺から移築。
2001年:本堂(京都東本願寺から移築・七間堂)が焼失(不審火)。すぐに再興されたと云う。


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